中帰連 小島隆男と延安レポート

平成18年5月21日日曜日晴れ ○
 中帰連
(中国帰還者連連絡会)という売国奴の連中の団体がある。これは米戦時情報局(OWI)による「延安レポート」にも書かれている中国共産党(中共)による対日プロパガンダや日本捕虜に対する"洗脳的教化”により売国奴に成り下がった連中です。
延安レポート
以下引用
 第二次大戦末期に作成された。米戦時情報局(OWI)による「延安レポート」が初めて一つにまとめられ、邦訳が出版される。延安リポートは、中国共産党(中共)による対日プロパガンダや日本捕虜に対する"洗脳的教化”の実態を調査したものだが、戦後の米国の対日・対中政策にも影響を与えたとみられており、貴重な一次資料といえそうだ。
 一九三〇年代、中国紅軍(中共軍)と党中央は長征後、延安に移り、抗日・革命運動拠点とした。米国は、国民党政府の蒋介石の反対を押し切る格好で四四年七月から約十一カ月問、軍やOWIなどの情報将校を軍事視察団として派遣、中共の全面的な協力という異例の蜜月状態の下、「延安リーポート」を作成した。
 リポートの「捕虜の扱い方」では、中共は「一般的に日本人の自尊心は非常に強い」と洞察し、日本人捕虜を質間するさいには「優しく、穏やかに」と指導。また、負傷した捕虜には手当てを施し、戦場の日本兵の死体を「一時的な感情」から損傷することを戒め、逆に大事に葬り、墓標を立てるべきだ、と説く。
こうした指示は一見、人道的だが、その根底には一般の日本兵や日本人が戦争を遂行する指導部を憎悪し、「否定的な厭戦気分から積極的な反戦意識」を持つように教化するための中共の冷徹な計算があった。後に中共側の九十八人の日本兵捕虜に対し米側が行った「意識調査」では戦争や天皇制を否定する声が九割を超した。意識調査を担当した主要執筆者の一人、外交官ジョン・エマーソンは「平均的な日本人兵士の信念と態度がシステマチックな教化によって変えられることの一つの証明である」とコメントしている。
 エマーソンは後に連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官の政治顧問付補佐官を務めた。編訳者の山本武利・早大政経学部教授は「リポートは全体として、米国の戦後の対日・対中政策、さらにいえば、台湾を含む現在の東アジア情勢の原点を考える格好の資料となるのではないか」と話している。七十一回にのぼる延安リポートは米国立公文書館に分散して保存されており、山本教授が十年がかりでまとめ、神田外語大外国語学部の高杉忠明教授とともに全訳した。翻訳は二十四日、岩波書店から発売される。(関厚夫)
引用終わり
産経新聞平成十八年二月五日朝刊より

 このように洗脳された売国奴の集まりである中帰連連中のいい加減さについては「証言がコロコロ変わる」「非現実的」など数々の指摘があります。私の手許にある数冊の本に掲載された連中の発言などからもそれがわかります。

小島隆男氏の例からみてみます。
以下西野留美子著「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」明石書店刊1992年より
 <日本に帰ってきてから遅い結婚をし、自分の子どもを育てるなかで、自分たちが犯した罪の大きさを知ることがたびたびありました>
p154
 <彼が命令した衛河の堤防決壊事件の事である。山東省西北端の臨清に機関銃中隊長として駐屯していたときのことであった>
p156
 <わたしは一九三九年十二月に入隊し、下旬には、第三二師団歩兵第二一二連隊に配属になり、中国の北支山東省に行きました。四一年には少尉になり小隊長に、四三年には中尉になり中隊長として、二百人の兵隊の指揮にあたっていました>
p159
 対談の終わりにある参加者の紹介では
 一九三九年歩兵第五七連隊入隊(佐倉)、第三二師団歩兵二一二連隊(北支・山東省)
 一九四三年中尉
 一九四五年ソ連抑留
 一九五〇年中国撫順戦犯管理所に移される
 一九五六年帰国


 その同じ小島氏の証言が「天皇の軍隊」ではどのようになっているか。
以下 本多勝一・長沼節夫著「天皇の軍隊」朝日文庫一九九一刊(単行本の初版は一九七四年)
<「衣」第四四大隊機関銃中隊(隊長・久保川助作中尉)の小島隆男少尉らも、その日の午前中に非情呼集がかかったために、衛河のほとりにかけつけた>
P224
 <広瀬利善大隊長や久保川中隊長ら数人の将校たちは、満水の運河を眺めつつ、先ほどから堤防の上を行きつつ戻りつつしていた。
略)
 大隊長の命令は久保川中隊長が受けた。作業の実質的な指導は小島小隊長の任務だ>
P225
 <大隊長・中隊長や小島少尉(小隊長)らの将校は、そこに堤防決壊後二時間ほどいた>
P227
<一九四四(昭和十九年)年の秋、機関銃中隊(久保川助作中隊長=中尉)の小島隆男小隊長(少尉)以下三〇人は、河北省南端に近い武城県の部落に一時分屯していた>
p311
<「衣」第五三旅団第四四大隊の小島隆男中尉が一時帰国したのは、一九四四年(昭和十九年)の一一月である。
略)
彼は結婚式と新婚旅行を理由に上部に願い出てこの機会を得る事ができた>
p356

 注)本多氏の著書では「衣」師団とは、工作隊、通信隊、輜重隊、野戦病院と二個旅団(独立歩兵四一大隊、四二大隊、四三大隊、四四大隊によって構成された歩兵五三旅団と独立歩兵第一〇九大隊(甲府)・第一一〇大隊(麻布)・第一一一大隊(佐倉)・第四五大隊(現地編成)によって構成された五四旅団によって「北支那(華北)方面軍第一二軍第五九師団」として編成されたものとなっています。

「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」

「天皇の軍隊」

所属

第三二師団歩兵二一二連隊

第五九師団独立歩兵第四四大隊

一九四三年時の階級

中尉

少尉

結婚

一九五六年以降

一九四四年十一月

 西野女史の著書では小島氏は第三二師団歩兵二一二連隊中隊長であり、一九四三年の小島氏のいう堤防決壊の時には中尉として二百人もの部下を持っていた事になっています。それが、本多氏の著書では小島氏は第五九師団独立歩兵第四四大隊機関銃中隊小隊長(少尉)として一九四三年の堤防決壊の時には「大隊長の命令は久保川中隊長が受けた。作業の実質的な指導は小島小隊長の任務だ」とまで書いています。本多氏の著書「天皇の軍隊」でみると一九四四年秋の河北省の作戦時までは小島氏は少尉であり、一一月の一時帰国したときには中尉になっていたことになり、少なくとも中尉に昇進したのは一九四四年秋以降となっているばかりでなく、結婚も「日本に帰ってから」「一九四四年に結婚式と新婚旅行を兼ねた帰国」と結婚の時も違うし、もっとすごいのは、軍人としてのその所属師団、連隊まで違う事でしょうか。つまり、小島氏は同じ時代に二つの人生を歩んで証言している事になります。

 まるで、嘘つきばかりの朝鮮人慰安婦の証言なみです。

 こんなアホを同じアホの西野留美子氏や本多勝一氏がその著書で取りあげて大騒ぎしています。売国奴つながりというべきでしょうか。活字になるということはそれが残ることだということを考えなかったのでしょうか。西野留美子女史もそれらの発言の矛盾点を調べなかったのでしょうか。まあ、その程度の頭だからアホな事を平気でやっているのでしょう。
こういったアホは他にも多くいて、それを朝日新聞などは重用しています。さすがというべきでしょう。

裏表紙