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大東亜戦争におけるバカども

平成18年4月26日水曜日晴れ
 大東亜戦争におけるバカども。
 
その一 寺内寿一元帥

 日本陸軍には西郷隆盛から始まって一三四人の陸軍大将を輩出しているそうですが、この元帥ににまでなった寺内寿一は、南方軍総司令官として昭和十九年(一九四四年)十月のフィリピン決戦の時に、自分はマニラを逃げ出し、サイゴンの旧フランス提督の大豪邸に日本本土から軍用機で軍属扱いで呼び寄せた愛人の赤坂芸者を侍らせて、悠々と飲み食いしていた。それだけでなく、フィリピン方面司令官の山下泰文大将の作戦にいらぬ口出しをし、三七万人という犠牲者をだした。
結果は何もおとがめなし。
 
その二 富永恭次中将
 第四航空軍司令官の時に、レイテ攻防戦(昭和十九年十〜十二月)において六二回、約四〇〇機の特攻を敢行。
「君らだけを行かせはしない。最後の一機で本官も特攻する・・・諸君はすでに神である・・・・」などと特攻隊が飛び立つ時に訓辞。
さて、いよいよ・・・・・部下を置き去りに台湾に逃亡。
結果はお咎めも何もなし・・・・満州軍司令官(第一方面軍 直轄部隊 第百三十九師団)として復活

 
その三 福留繁中将
 昭和十九年三月二八日、連合艦隊参謀長の時に古賀峯一長官などと二機の二式大艇に分乗し、パラオよりミンダナオ島ダバオに向かう途中、荒天により、長官機は行方不明。そして、福留参謀長はセブ島東海岸に不時着し、米比軍ゲリラの捕虜となる。その後、我が軍の現地陸軍部隊とゲリラとの交渉により釈放され四月十八日帰国。このバカは敵地不時着時に連合艦隊の全大平洋方面における決戦配備と作戦要項とを定めた「Z作戦計画」(機密連合艦隊作戦命令七十三号)という最高機密書類を破棄せずに、ゲリラに無傷で奪われるという大失策をやらかします。
 でも、その後も作戦の根本的修正も何らしなかった連合艦隊首脳部の無能さにも呆れ返ります。
でっ、結局、このバカ中将に対してのお咎めは何にもなし・・・・第二航空隊司令長官にめでたく栄転・・・
一緒にとッ捕まった山本裕二作戦参謀もおとがめなしで、その後、第二艦隊先任参謀に栄転・・・・・


 なんか、今の害務省などの腐れ役人連中と同じですな。
あっ、その腐れ害務省は昭和十六年十二月八日の大東亜戦争開戦の時に、前日に寺崎英成書記官の転勤送別パーティでドンチャンやり、ヘベレケになり、結局、宣戦布告が一時間以上も遅れ、我が国は卑劣だという烙印を押されました。
その後、この無能な腐れ役人どもは銃殺になることもなく、野村吉三郎駐米大使、来栖三郎特命全権大使、井口貞夫参事官、奥村勝蔵書記官はのうのうと生きています。井口貞夫、奥村勝蔵は戦後も害務省に居座り栄転しただけでなく、そんな売国奴に対して勲一等の勲章が授与されました。我が国の歪みをよく現しています。

(参考「これでも国家と呼べるのか」小室直樹著 クレスト社平成八年
   「日本帝国の最後」人物往来社 平成十五年刊)

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