トルコと日本

1890年(明治23年)9月16日、トルコ皇帝ハミル2世(サルタン・ムハメッド5世?)の勅命を受けて明治天皇にトルコ最高の名誉栄誉勲章奉呈のため派遣した特使オスマン・パジャ海軍少将一行を乗せたエルトゥール(エルトグロル)号が、帰路、暴風雨に遭い、和歌山県串本町沖合で岩礁に衝突し午後10時半ごろ沈没するという事故が起きた。
 この事故で、乗員650名のうち特使を含む581名は死亡したが、死を免れた士官ハイダール以下69名は、波濤の中、艦の破片にすがって約3時間ほど漂流し、樫野崎灯台下の俗称鷹浦にはい上がった。
そして灯台に助けを求めたのである。69名は、言葉が通じない上に混乱状態の中で、地元民の手厚い救護により、一命を取り留めた。乏しい大島の食料は遭難者のために一夜にして底をついてしまった。この時台風により漁ができなく、自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、大島村民は各戸に蓄えている甘藷と、飼っている鶏までをよろこんで提供し、トルコ人に食べさせ介護したのだった。衣類もありったけの浴衣を出し合い急場をしのいだ。

その後一週間にわたり人夫百数十人により、遭難者の捜索につとめアリーベ艦長ほか219名の遺体を引き上げ、ハイダール士官など生存者立ち会いのもと、遭難した船が真下に見える樫野崎の丘に埋葬。

 翌明治24年(1891年)、県知事ほか有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられた。同年3月7日に追悼祭を行い、遭難した人々の霊を弔った。


 この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられた。その後遭難者たちは明治天皇の命により
生き残った69人は軍艦「金剛」「比叡」の2隻でトルコに送り届けられた。このことは、日本中に大きな衝撃を与えた。
 この話に同情した「山田寅次郎」なる人物が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。 1892年4月4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。山田寅次郎はトルコ側の要請で、そのままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くした。この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ(アタチュルク)がいた。

イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イラクの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。期限は日本時間の3月20日午後2時。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。外国航空の特別便が一部運航することにはなったものの、自国民優先のため日本人ははじき出されてしまい、19日の朝刊トップは邦人一行の不安におののくさまを伝えた。
世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかった。外務省は救援機派遣を日本航空に依頼したが、 「帰る際の安全が保障されない」として日本航空側はイラン乗り入れを断念したという。事態はますます深刻度を増した。同日タ刊には「テへラン 邦人300人以上待機」という見出しを掲げ、現地に釘付けとなった邦人の孤立状況が続報された。空港にいた日本人は、パニックに陥った。
 そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名(215名?)全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。

 翌日の朝刊に掲載された写真は、間一髪無事脱出できた子供たちを含む邦人家族の喜びの顔が写っている。
 なぜトルコが危険を 冒してまで邦人を助けたのかという、この疑問に対して朝日新聞の記事は
「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していること」などが影響しているのではないかと、当て推量を書いておしまいなのである。

この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

■3.駐日トルコ大使のコラム■

 その証左として、平成9年一月の産経新聞に載った駐日トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏のコラム

  勤勉な国民、原爆被爆国。若いころ、私はこんなイメージを
日本に対して持っていた。中でも一番先に思い浮かべるのは軍
艦エルトゥルル号だ。1887年に皇族がオスマン帝国(現ト
ルコ)を訪問したのを受け1890年6月、エルトゥルル号は初の
トルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友
好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭
い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。

 悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関
係の始まりでもあった。この時、乗組員中600人近くが死亡
した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を
受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日
本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近
の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。
エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も
幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど
歴史上重要な出来事だ。

ここに挙げられたエルトゥールル号遭難に際して、台風直撃を受けながらも約70人のトルコ人を救助した地元民とは、和歌山県沖に浮かぶ大島の村民である。



以下のコラム、ホームページを引用、参考にさせていただきました。ぜひ御覧下さい。

国際派日本人養成講座 地球史探訪:エルトゥールル号事件のこと国民同胞平成10年3月号より転載)占部賢志(福岡県、高校教諭)

日本・トルコ友好秘話 エルトゥール号遭難事件

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