人を食う 支那における食人の歴史2 人肉加工場

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成20年11月27日木曜日雨 ×
 黄文雄氏の著書「戦争の歴史 日本と中国」(WAC)の巻末には、BC五九四年の楚の時代から一九五〇年の蒋介石の国府軍と毛沢東の共産党軍による戦いまでの「中国籠城食人史年表」なるものまで掲載されています。まさに、支那の食人の歴史です。
 支那の兵糧メニューとして、人肉加工場によるものまであったことが歴史書に書かれているそうです。
 八七五年から八八四年まで一〇年間にわたり、唐王朝の国家土台を揺るがした黄巣の乱は八〇〇万人もの犠牲を出したといわれている。黄巣軍が長安城を占領したときの様子を『資治通鑑』唐紀には
「(八八一年に)民衆は乱をさけ、ことごとく山奥に逃げ込み、戦柵を築いて自衛をはかった。農工商は荒廃し、長安城中の米は一斗三〇貫にも値上がりした。官軍は山寨にとじこもっている民衆を捕らえて、賊軍に売り渡した。一体は数百貫にも達した。その値段は肥痩に応じて決められた」
八八二年四月「このとき民間には貯えがほとんどなくなった。賊衆(黄巣)は人々を捕獲して食糧にした。生きているまま巨大な石臼に投げ込まれ、骨とともに砕かれて、一緒に食べられた。その食糧供給場を『舂磨寨』(しょうまさい)という」
翌年八八三年五月、『唐書』黄巣伝には「黄巣は兵を率いて陳州を攻めて百日経った。関東地方は農地が荒廃し、餓えた人々が壁や垣根にもたれているのがみえる。賊は人々を捕らえて食用に供した。一日ごとに数千人をも食べてしまった。賊は『舂磨寨』という巨大な石臼数百基を備えていた。人々を臼に入れて、骨と一緒に細かく砕いて食用に供した。」
 『唐書』昭宗本紀、『資治通鑑』唐紀にも「この年(八八三年9は大飢饉なので、飢民には貯えがほとんどなかった。賊衆は人々を捕らえて食糧に供した。その炊事場を『舂磨寨』という。白骨が山積みし、これ以上乱れたことはなかった)とある。
 「戦争の歴史 日本と中国」(黄文雄 WAC 二〇〇七年)P二四五〜二四六

 流石です。人肉加工場。スケールが違います。こんな食文化を持つ人たちを一〇〇〇万人受け入れようとしている売国奴政治家ども。

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