「この先生なかりしば」宋定國氏と恩師・小松原雄二郎先生

「台湾人生」より

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

「この先生なかりしば」 (「台湾人生」より)

平成22年4月30日金曜日晴れ ×

「留日台湾高座同学会聰誼会」とは台湾高座会の正式名称で、これは大東亜戦争時、台湾少年工として選抜試験に合格し、神奈川県高座海軍工廠で学生として学びながら、海軍局地戦闘機「雷電」の製造、整備に従事し、今もその海軍工廠のあった大和市を、「我が第二の故郷」と誇りを持って語る台湾の人達の集まりである。

 この台湾高座会の集まりで成田に着き、大和に向うバスの一行と別れ、タクシーでお孫さんと千葉県鎌ケ谷に向うのは宋定國氏。

 宋定國氏は毎年、千葉県鎌ケ谷市に来ている。

 恩師、小松原雄二郎先生の墓参りのためである。

 

 宋定國氏は大正十四年(一九二五年)台湾に生まれ、母親と別れ父親も公学校四年生の時に亡くし、その後、兄夫婦と同居していた。

 学校を辞めて働く様に兄嫁から言われたが、担任だった小松原雄二郎先生は「がんばって公学校だけは卒業しなさい」と、当時必要だった授業代を肩代わりしてくれたほか、修学旅行にも「宋君、心配するな」とだけ言い、連れて行ってくれた。

 公学校卒業後、テント屋の丁稚小僧として雑役をやっていたが向学心を押さえきれず、成淵学校予科二年の試験を受ける。

 この学校は台湾最初の夜間中学として明治三十年(一八九七年)に台北に「民生部研修会」として開校し、後藤新平により明治三十八年に成淵学校と名付けられた。

 

 

 

 仕事と勉学の両立は大変で、身体を壊してしまい、学校を辞めようと思っていた。そんな宋さんの事を小松原先生に話したのだろう。

 ある日、友人から「小松原先生のところへ行け」と言われて小松原先生の御自宅に伺うと、先生は「宋くん、今が大切だ」と何も言わずに五円札をポケットに入れて「がんばんなさい」と言ってくれたそうです。

 当時の五円は大金です。

 宋氏は涙を流しながら「先生、私は必ず成功します。どんなことがあっても成功します」と誓ったそうです。

 その後、小松原先生の紹介で住み込みで働ける台湾食品工業の事務の仕事につき、昭和十九年、成淵学校を卒業すると志願し、選ばれて神奈川県の高座海軍工廠へ台湾少年工として来日する。

 

 

 終戦後、宋氏は台湾に帰ったが小松原先生と連絡が取れずに三十年が過ぎる。

 三十年間教師をやったのち、ホテルのマネージャー(総経理)となり、日本からのお客様に小松原先生の事を尋ねる毎日を送る。

 ある時、千葉県鎌ヶ谷から来ていた教育委員会の方が小松原先生を知っていて、その方が帰国後すぐに小松原先生の連絡先を教えてくれたおかげで三十数年ぶりの再会がかなう。

 昭和五十三年(一九七八年)、小松原先生を同級生で台湾に招待する。

 三十数年ぶりに宋氏が小松原先生を空港で迎えた時は、なにも言えず、ただ、ただ笑顔と涙でいっぱいだった。

 「あー、そうていこく」「せんせい」と。

 そのわずか二年あまりで、小松原雄二郎先生は病に倒れる。

 その時、宋定國氏は日本に飛び、小松原先生が目を閉じるまで一週間以上入院先の病院で看病する。

 そして、

 「宋君、もういいよ」

 が小松原先生の最後の言葉となった。

 

 その後、宋定國氏は毎年来日し、千葉県鎌ケ谷にある小松原雄二郎先生の墓参りを欠かさなかった。

 宋定國氏は下記のように語っている。

 「こんにち、こうして生活していかれる。

 人並みに。

 まあ、社会的においても人並みに。

 誰の影響ですか。

 先生の影響です。

 忘れません。

 絶対に、忘れません。

 殺されたって忘れません。

 でも、この年になって、行けるかな〜

 墓参りに。

 それだけです。」

  

「この先生なかりしば」

 これは、恩師、小松原雄二郎先生を語る時の宋定國氏の言葉である。

 参考、引用

「台湾人生」(酒井充子監督作品)DVD

「台湾人生」(酒井充子 文藝春秋 平成二十二年刊)

 我が国が統治したのは台湾が約五十年間、朝鮮半島は三十五年弱。

 同じような事が朝鮮半島においてもあったはずであろうに語られる事があまりにも少ない。

 この差はなんなのだろう。

 今日は暖かく、河岸に行くのにTシャツ一枚でした。

 Sくん来店。一名様来店。当店から一番近いところに御住まいのフランス人の方。Kさん二名様で来店。ホロン部員Yさん来店。Aさん来店。Wさん御夫妻来店。

 ドンチャン。でも、めずらしく記憶はそれなりにあり。

 サルよりはまし。



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