大山倍達の嘘


大山倍とはある意味最も朝鮮人らしい朝鮮人である

大山倍達にみる知られざる在日特権「重婚」

力道山にみる朝鮮人による戸籍捏造

大山倍達「極真の歴史」にみる捏造

大山倍達 身延山・清澄山 山籠り伝説の嘘

大山倍達「眉剃り」逸話の嘘

大山倍達が隠す空手、人生の師であるツ寧柱氏

統一教会と極真会館との関係

全日本空手道選手権大会優勝という嘘


文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


複数の戸籍と名前を使い分ける在日朝鮮人

大山倍達にみる知られざる在日特権「重婚」

平成22年6月23日水曜日晴れのち雨 △

 「大山倍達正伝」(小島一志 新潮社)という本には、大山氏の死後に南朝鮮に「正妻」と三人の息子が残されていて、我が国に残された「正妻」と二人の娘との存在が問題になった事が書かれているそうです。

 この事を例に但馬オサム氏が、「知られざる帰化在日特権『重婚』」という文を「民主党政権崩壊」(撃論ムック オークラ出版 平成二十二年刊)に書かれています。

 (以下の引用ページはこの本よりのものです。)

 この但馬氏の文は私にとって非常に驚きでした。

 それによると、大山倍達氏は我が国に大山智弥子、南朝鮮に洪順浩という二人の、共に「正式」の婚姻手続きを踏んだ合法的な、共に大山氏にとって「初婚となる」妻がいたそうである。

 

 大山氏は昭和二十六年に智弥子夫人と入籍しているが、この時は大山氏の朝鮮籍に夫人が入籍している。

 その後、昭和四十三年に家族揃って日本に帰化し、通名「大山倍達」を本名としている。

 洪順浩夫人とはそのたった五年後の昭和四十九年に南朝鮮で「崔永宣」として入籍している。

 つまり、道場生に対してクソ偉そうに人生を説き、少年誌少年マガジンでは人生相談コーナーまであり、「財産を残していたら、私の墓に唾を吐きかけろ」とまで書いた「人格者」のはずの大山倍達氏は、その生涯にわたり大正十二年(一九二三年)生まれの日本人「大山倍達」と大正十一年生まれの南朝鮮人「崔永宣」と生年が一年違う二つの国籍を使い分けていたことになる。

 ちなみに、我が国も南朝鮮も二重国籍は認めていない。

 これはどういうことか。

 我々は、外国人が日本国籍を取得した場合、元の国籍が自動的に消滅するものと考えがちだが、実は戸籍抹消の手続きは帰化した本人にゆだねられ、抹消の有無は自己申告であり、それに関して国家間での照会もないという。

 つまり、本人が元の国籍を抹消せずに放置しておけば事実上の二重国籍となってしまうのである。

 そして、「大山倍達正伝」に掲載されている事として、但馬氏は民団中央本部顧問・金致淳氏の証言を書いている。

「韓国国籍から日本に帰化した多くの人達は、意図的か無意識かにかかわらず結果的に二重国籍です」

 そして、但馬氏は戦後、朝鮮人がどのようにして「正式」な戸籍を獲得したかを書いている。

<昭和二十年の我が国の大東亜戦争の敗戦により、朝鮮人、台湾人は我が国の国籍を喪失する。

 そこで、彼等を指して、戦勝国民でも敗戦国民でもないという意味の「第三国人」という言葉が創造されるわけだ。

 第三国人は敗戦国民である日本人の及ばない数々の特権を有していた。

 略)

 彼等もいつまでも無国籍のままでいたわけではない。>

として、但馬氏は下記のように「大山倍達正伝」よりの引用として書く。

<日本政府の行政機関が麻痺状態に陥っていた終戦直後、在日朝鮮人は日本国内で簡単に「朝鮮国籍」を作る事が出来たという。

 故国・朝鮮と日本との行き来がままならなかった時代、多くの在日朝鮮人には戸籍謄本(抄本)を取得するためだけに故国に帰省する経済的余裕はなかった。

 そのため、便宜的に朝鮮の役所を代行し、戸籍謄本を発行してくれる機関が存在した>

 この機関は金致淳氏によれば、韓国大使館の前身の韓国代表部で、本部は銀座の服部ビルにあったそうだ。

 そして、但馬氏は下記のように書く

 <日本国内で制作する「朝鮮国籍」は総て自己申告で行われ、やはり本国との照会作業などなかったという。つまり、口先三寸でどうにでもなったのだ。

 戦前戦中に徴用や出稼ぎで内地にいた朝鮮人も戦後のドサクサにまぎれて密入国してきた朝鮮人(実はこちらが大多数)も一律に「在日韓国・朝鮮人」という枠で呼ばれることに疑問を覚える人も少なくないだろうが、このような戸籍ロンダリングとも言うべきシステムが存在した事を知れば、なるほどと思うのではないか。

 おたずね者であろうが、朝鮮動乱の脱走兵であろうが、国を追われた共産主義者であろうが、日本に密入国し新しい朝鮮戸籍を作ればアラ不思議、「差別と貧困と闘いながら律儀に生きる在日同胞」様の一丁出来上がりなのだ。

 問題はそれだけではない。当時はまだGHQ統治下であり、日本人も朝鮮人も配給制度で日々の食糧を得ていた時代である。当然ながら、より多くの食糧を得ようと不正の戸籍申請をする者も後を絶たなかった。姓名の一文字や生年月日を変えることによって複数の戸籍を取得するのである。

 日本人が竹の子生活で飢えを凌いでいた時代、朝鮮人の中にはかなり羽振りのいい者たち(大山もそうだった)がいたというが、その秘密の一端にはこういった種々の不正行為にあったことだろう。

 また、在日韓国・朝鮮人の多くが通名の他に複数の韓国名を持つ理由もこのあたりに起因しているのかもしれない。

 ちなみに、大山は生涯に渡って、本名の崔永宣を筆頭に、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男、大山信達、それに大山倍達の名を使い分けていた。

 大山の生年の一年違う日本製「朝鮮籍」はこのような過程で作られた偽造戸籍であると正伝は断言する。

 帰化申請の際には、この偽造戸籍をもとに新たな日本国籍が作られたのだ。そして、祖国・韓国にもまた崔永宣名義のまっさらな戸籍が残っていることを確認した上で大山は帰化に踏み切ったという。

 これが大山の「重婚」を可能たらしめたカラクリであると正伝は明かしている。>

P百二十四〜P百二十五

 これらの事実は、在日朝鮮人がどのようにして我が国で生きてきたか、そして、今の生きているかをよく現しているとおもいます。

 ただ、但馬氏がここに書かれているような

 <昭和二十年の我が国の大東亜戦争の敗戦により、朝鮮人、台湾人は我が国の国籍を喪失する。

 略)

彼等もいつまでも無国籍のままでいたわけではない。>

と敗戦度同時に朝鮮人らが我が国の国籍を失ったかのように書くのは間違いであり、多くの誤解を招く。

 すでに当ホームページにて浅川晃広名古屋大学専任講師の論文を引用させていただいて書いたように、終戦前から我が国に引続き在留する朝鮮人は対日講和条約発効と同時に日本国籍を失ったわけであり、国籍喪失の「通達」は昭和二十七年四月に出されている。つまり、朝鮮人、台湾人は我が国が敗戦したと同時に日本国籍を失ったわけではない。

 それと、但馬氏が引用して指摘している朝鮮人の戦後の混乱期における朝鮮籍の獲得の仕方については別の事である。

 日本国籍を持ったままでも朝鮮国籍を取得した方が数々の「特権」を得られた時代であるから、朝鮮人は当然のごとく、その特権のために朝鮮名を取得したことは想像が容易に出来ることである。

 それを現在も、在日朝鮮人は銀行口座、身分証明書などに悪用している。

 それは在日朝鮮人の脱税などの犯罪をみれば明らかである。

 犯罪の温床である在日朝鮮人の通名という偽名を一日も早く禁止する必要がある。

 続く

 今日、七時過ぎに小川と名乗る輩から電話(0×0-1605-2038)にて四名の予約があったが、来店せず。

 三名様来店。

 Mさん来店。

 小胡子さん来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 今日は一通り飲む。

 記憶はあり。サルよりマシ。


日名子暁の書く在日朝鮮人

本当にいわれなき偏見か

7月12日追月曜日晴れのちくもり一時雨 ○

 下記は日名子暁氏の文章です。

<戦後、焼け跡・闇市の中から誕生したパチンコ(正確には戦前から存在していたが、一挙に花が開いたのは戦後)

 娯楽の乏しい時代、手軽に遊べるゲームとして、瞬く間に全国規模でブームを呼んだ。

 略)

パチンコ業界を支えていたのは、いわれなき偏見と差別のもとに職業選択の自由のなかった在日朝鮮・韓国人たちであり、

 その七割を彼らが占めていたのだ。>

(「別冊宝島 北朝鮮利権の真相」平成十五年刊 宝島社)

「パチンコ利権アンダーグラウンド 二〇兆円民族産業に群がった魑魅魍魎」日名子暁P一五六〜一五七

日名子暁氏は「別冊宝島 占領日本」においても「在日」について下記のように書いている。

 <変見と差別を加えたのは誰だ

 終戦後のドタバタ始末記

 現在まで続くいわれなき偏見と差別

 それは日本人が生み出したものだ>

 

 このように大きく見出しで書いている。

 そして、内容は下記のようなものです。

<いまだに出自を隠すものも多く存在する。

 それには「第三国人」と呼ばれた日本の敗戦直後から彼らが職業選択、結婚など人間の基本的人権にかかわる問題で、いわれなき偏見と差別を受け、現在でもそれが続いている歴史が存在するからだ>

(「別冊宝島 占領日本」宝島社 平成十八年刊)

「在日」P七十六

 その理由として、田中宏の著書「在日外国人」(岩波新書 平成三年刊)よりの引用として当時の吉田茂首相よりマッカーサー司令官への英文の手紙の翻訳を掲載している。

以下引用

<「朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは、総数一〇〇万に近く、その約半数は不法入国であります。

 これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。

 その理由は、次の通りであります。

 現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。

 米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。

 略)一

 朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。

 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。

 略)二

 朝鮮人の中に犯罪分子が大きな割合を占めております。

 彼らの多くは共産主義社およびそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時七千名以上が獄中にいるという状態であります。

 略)三

 さて、朝鮮人の本国送還に関する私の意見は次のとおりです。

 略)四 」

  「在日外国人」より>

 そして続いて日名子氏は下記のように書く

 <この書簡は、四十九年前の八月のものと思われる。

 この吉田茂首相が事実誤認と朝鮮民族に対する偏見、朝鮮半島、中国本土に浸透する「共産主義」への異常な警戒などを基にしていることが、今日では簡単に読み取れる。

 しかし、吉田首相を支持する当時の国民の多くも首相と同じ朝鮮民族に対する考えを持っていたのではあるまいか。

 その結果、戦後長く続き、今日でも残っている「在日朝鮮人」に対する偏見と差別を生み出したのだ。

 五十二年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約の発効により、朝鮮人、台湾人ら旧植民地の人々に対する処遇は正式に決定した。それは正式に日本国籍を彼らに失わせるものであった。

 しかも、選択権(本国か日本か)も与えない一方的な内容であった。

 加えて、もし、日本国籍を希望するならば「帰化」申請すべきだ、として朝鮮、台湾と日本の歴史や在日朝鮮人たちの意見をまったく考慮しなかった。

 その後、外国人登録、指紋押捺問題と「在日」をめぐって混乱は続いていく。>

引用終わり

(「別冊宝島 占領日本」宝島社 平成十八年刊)

「在日」P七十七

 日名子氏の引用先の著者である田中氏もこの書簡について

<多くの事実誤認と民族的偏見に満ちていることは、あきらかである>

 と書いている。

田中宏の著書「在日外国人」(岩波新書 平成三年刊)p七十一

田中氏の著書には日名子氏が略している箇所には下記のように書かれている。

略)一

このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。

略)二

さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。

略)三

戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次のとおりです。

(詳細省略、一九四八年五月末までで、九万一二三五名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている)

略)四

上述のような見解を、原則的に閣下が御承認下さるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的処置を提出するものです。

敬具 

                        吉田茂

連合国最高司令官 

 ダグラス・マッカーサー元帥

 いわれなき差別というが、日名子氏も

<吉田首相を支持する当時の国民の多くも首相と同じ朝鮮民族に対する考えを持っていたのではあるまいか。>

と書くようにこの時代に我が国国民がどうしてこのような考えを持っていたか考えがおよばないのであろうか。

 朝鮮人の戦後の闇市その他での醜い行状は多くの人に語られている事実であり、ましてや、戦後わずか四年しか経っていないこの時期であるなら、我が国国民はリアルタイムで朝鮮人の醜さを体験している時である。

 吉田元首相のこの書簡は今現在読んでもその内容に間違いが無い事が何よりも証明している。

 アホな民主党政権にはこの吉田首相の書簡にある

 <このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。>

という箇所を読んでほしいものである。

 続く

 朝起きると、あっちこっちが筋肉痛。

 やっぱ、最低週二回はスポーツセンターに行きたいもの。

 今日はちょっとドジり、ネット接続が部屋でできず、テレビも何もないのでニュースが入ってこなかったが、Oさんよりの電話で、売国奴である千葉景子氏と松岡徹氏の落選を知る。

 慶事なり。

 「大山倍達正伝」を読み終える。

  酒は飲まず。


日名子暁の書く在日朝鮮人

本当にいわれなき偏見か2

7月13日火曜日曇り一時雨 △

 日名子氏が「別冊宝島 占領日本」で略し(隠し?)、書かなかった吉田元首相書簡の中の

<朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。>

とはどういうことか。

 先に、日記で大山倍達の「複数の戸籍と名前を使い分ける在日朝鮮人」という題名で重婚という犯罪を例に挙げたが、このことを書いている但馬オサム氏は、戦後GHQ統治下における複数の戸籍を取得した在日朝鮮人の犯罪について書いています。

 <当時はまだGHQ統治下であり、日本人も朝鮮人も配給制度で日々の食糧を得ていた時代である。

 当然ながら、より多くの食糧を得ようと不正の戸籍申請をする者も後を絶たなかった。

 姓名の一文字や生年月日を変えることによって複数の戸籍を取得するのである。

 日本人が竹の子生活で飢えを凌いでいた時代、朝鮮人の中にはかなり羽振りのいい者たち(大山もそうだった)がいたというが、その秘密の一端はこういった種々の不正行為にあったことだろう。

 また、在日韓国・朝鮮人の多くが通名の他に複数の韓国名を持つ理由もこの辺りに起因しているのかもしれない。

 ちなみに、大山は生涯にわたって、本名の崔永宣を筆頭に、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男、大山信達、それに大山倍達の名を使い分けていた。

 大山の生年の一年違う日本製「朝鮮籍」はこのような過程で作られた偽造戸籍であると正伝は断言する。

 帰化申請の際には、この偽造戸籍をもとに新たな日本国籍が作られたのだ。そして、祖国・韓国にもまた崔永宣名義のまっさらな戸籍が残っていることを確認した上で大山は帰化に踏み切ったという。

 これが大山の「重婚」を可能たらしめたカラクリであると正伝は明かしている。>

「民主党政権崩壊」(撃論ムック オークラ出版 平成二十二年刊)

「知られざる帰化在日特権『重婚』」 但馬オサム P百二十四〜百二十五

そして、但馬氏の引用元となった「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社)には下記のような記述がある。

(ちなみに、塚本氏は非常に多くの参考文献よりの引用および多くの方にインタビューされております。

 参考文献がたった一冊!という日名子氏とはえらい違いです。)

<「終戦直後、日本国民や在日朝鮮人はGHQの指揮のもと、配給制度によって日々の食糧を割り当てられました。

 戸籍に準じて食糧の量が決定されるため、配給をたくさんもらおうと偽造の戸籍を作った在日朝鮮人がいました。

 戸籍は簡単に作れました。名前の一字を変えるとか、生年月日を変えるだけで、まったく別人の戸籍が出来上がります。」

(金致淳談)

「戸籍の作成が自己申請だったことで、結果的に複数の戸籍を持っていた朝鮮人も少なくなりませんでした。

 戦後、一旦は朝鮮に帰ったものの生活苦のため再び日本に密航で戻って来る人も多く、渡日後、名前や生年月日を変えて戸籍を申請した人もいたと言います。

略)」

(羅基台談)>

「大山倍達正伝」P二百六十七

 これが、当時の吉田首相が

<彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。>

 とマッカーサー宛の書簡に書いた朝鮮人の姿です。

 

  そして、それは敗戦国日本でも日名子氏が「戦勝国になった」と朝鮮人同様に勝手にアホ脳内変換して書く「三国人」になった朝鮮人の日常的な醜い行為でもあります。

 (当時、併合し日本であった朝鮮は日本として戦って敗戦したのであり、決して「戦勝国」ではない。アホ丸出し)

<「大山倍達伝説」における有名な逸話、「白昼堂々、日本女性を暴行する米兵たちが後を絶たず、正義感に駆られた私は彼ら米兵たちを連日のように叩き歩いた」という武勇伝の客観的な真偽を問いたいと思ったからである。

 私が調べた限りでは、少なくとも大山が言うようなアメリカ兵による性犯罪は決して日常的なものではなかった。GHQによる日本統治は、容易に女性を襲えるほど秩序の乱れたものではなかったのである。もちろん、すべての兵士が品行方正だったとは言わない。なかにはMPの監視の目を盗んで犯罪行為を行なう兵士もいただろう。

 長い戦争における緊張からの解放に、羽目を外す兵士がいたとしてもなんら不思議ではない。

 GHQがどれだけの罰則規定を設けようとも、いつの時代にも厳罰など者ともしない犯罪者は存在する。それはアメリカ人も日本人も同様だ。

 むしろ、大山が書くような日本女性に対する暴力を公然と行なったのは、田岡一雄が「山口組三代目 田岡一雄自伝(電撃編)」で描いたように、不良「三国人」であり、前述したソ連軍兵士たちであった。>

「大山倍達正伝」P百五十八〜百五十九

<一九四六年に入っても、「三国人」たちによる列車の無賃乗車や公共施設の不法占拠、旧日本軍基地からの物資の掠奪などの不法行為は減るどころかむしろ増え続けていた。

 ちなみに、建青や建同が事務所として使用していた旧海外同胞訓練所や旧陸軍大学校も日本政府の許可なしに不法占拠したものだ。

 日本政府および日本国民にとって、「三国人」たちによる暴力的行為は、もはや見逃せる限界を超えつつあった。そこで日本政府は、日本警察に取締りの権限を与えるようGHQに要請を出す。

 そして、GHQは、日本政府の要請に応える形で新たな指令を発表した。

 一九四六年四月四日、GHQは「鉄道利用の台湾人および朝鮮人の取締りに関する総司令部覚書」を」発令。

 鉄道を不正に利用する朝鮮人や台湾人を取り締まる完全な権限が日本警察に与えられた。

 さらに、四月三十日には「朝鮮人の不法行為に関する総司令部覚書」が発表される。

 本発令によって鉄道に関してだけでなく、不法行為を働く朝鮮人全般を取り締まる権限を日本警察は得たことになる。

 ただすぃ、日本警察は捜査・逮捕の権限は手にしたものの、それらを現実に実行した場合、その旨を直ちに最寄りの進駐軍部隊またはMPに連絡する義務を負わされた。これはすべての掲示・民事事件に対する裁判権はGHQが有することを意味した。>

「大山倍達正伝」P百八十七

 <この吉田茂首相が事実誤認と朝鮮民族に対する偏見、朝鮮半島、中国本土に浸透する「共産主義」への異常な警戒などを基にしていることが、今日では簡単に読み取れる。>

という日名子氏の文章は、戦後長期間にわたった朝連と民団・健青という朝鮮人団体の抗争が続き、それはGHQの命令により昭和二十三年九月八日(一九四八年)共産主義者の集まりである朝連ならびに民青が解散させられた(我が国政府はどちらも解散を訴えたが、GHQは友好関係にあった民団を守った)後も抗争が続いた事を無視している文章である。

 

 歴史、歴史というのであれば、朝鮮人こそどのように我が国に来たのか、そしてどのように生きてきたのか。自らの歴史を偽らずに見て語る事が大切である。

いくら国技だからといっても。

 

 そして、この本はいわゆる「大山倍達伝説」の一つについても下記のように書いている。

 <大山が厚木航空隊の決起に参加したと書かれているものが少なくない。しかし、厚木航空隊の決起は計画的かつ組織的であり、参加者のほとんどは下士官以上の海軍飛行兵だった。軍隊にも入隊していない大山に、参加出来る余地がないのは明白だ。

 暴動が終息し、マッカーサーをはじめとする連合国軍が厚木飛行場を去った後、人の絶えた厚木飛行場には朝鮮人や台湾人が蟻のように群がり、掠奪の限りを尽くしたと多くの記録に記されている。

 戦中・戦後の大山を知るある朝鮮出身者は匿名を条件に、

「大山さんは厚木飛行場の物資強奪に参加した首謀者の一人だった。その証拠に大山さんが着ていた飛行服には厚木航空隊の紋章が入っていた」と語っている。>

「大山倍達正伝」P百五十

 私は大山倍達という人の人間性ついては、彼の本部道場の建設の時に多くの人の世話になりながらそれを隠匿している下記のこの著書の文章に尽きると思う。

 

 <だが、後に創作された「大山倍達伝説」では、ほとんどの協力者が隠匿され、毛利松平と佐藤栄作だけが資金援助をしてくれた人物として際立った紹介をされている。大山は曹寧柱や同胞はもちろん、柳川次郎の名前すら表に出すことを嫌った。

 言い換えるならば、大山は極真会館総本部を建設する際に協力してくれた人物を毛利松平(さらに佐藤栄作)に集約することで自らの出自である朝鮮・韓国の影や、ヤクザ、右翼といった立場の人々の存在すら闇に葬ろうとしたのである>

P二百三十七

続く

 今日は天候のせいで河岸に魚が薄いので活けの烏賊は仕入れせずというより、仕入れ出来ず。タケ〜

  

 営業前に「一笑」の板長さんが送ってきたばかりだというホタルイカの沖漬けと活け締めの石鰈を持って来てくださる。

 

ororesama777さん来店。

 小胡子さん来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 Wさん御夫妻来店。

 今日は売国奴どもが一部落ちたということでドンチャン。

 ついでに、一応私の誕生日つうことでもドンチャン。

 今日は飲んだわりには記憶あり。

 サルよりマシ。

 


 

力道山にみる朝鮮人による戸籍捏造

8月2日月曜日晴れ 暑い ○

 故大山倍達氏の戸籍偽造については既に書いたが、同様なことが元プロレスラー力道山にもある。

 

 <本籍・長崎県大村市から東京都中央区日本橋浜町に転籍。

 父・百田巳之助

 母・たつ

 の長男として出生>

 これが大相撲を廃業した関脇力道山・故百田光浩氏が廃業した昭和二十五年十一月二十一日に就籍届けとして提出した時のものである。

 養子でもなく、実子として届けられている。

どこにも

<本籍:咸鏡南道浜京郡龍源面新豊里三七番地 

父亡金錫泰

母巳

三男 金村光浩>

という朝鮮がわかる文字が無い。

何処にも記されていないのである。

養子でなく、実子として昭和二十五年に届けられているのであるから当然と言えば当然であるが、その偽造戸籍が受理されているのである。

 どのような経過を経てこんな偽造戸籍が認められたのかは不明であるが、同様の朝鮮人がいないとも限らない。

 いや、戦後の混乱期を経て、他にはいないと考える方がおかしいだろう。

 我が国には、そんな朝鮮人がい〜〜〜〜〜っぱいいそうである。

 

 今日は何もせず、何もする気になれず、ゴロゴロと部屋で過ごす。

 朝起きてすぐにシャワーを浴びて、夕方も風呂に入り、寝る前にもシャワーを浴びる。

 今年もまだ一度もエアコンの電源を入れていない。

 今日は酒は飲まず。


 

大山倍達「極真の歴史」にみる捏造

8月3日火曜日晴れ ○ 8月4日一部追記

 国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページには「極真の歴史」として下記のように書かれている。

 

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/about/history/1920-1989.html

魚拓

http://megalodon.jp/2011-0831-1022-04/www.kyokushinkaikan.org/ja/about/history/1920-1989.html

1923年7月大山倍達誕生

 1943年日本航空隊に入隊

 1946年4月 早稲田大学体育学科入学。

      10月 同校を中退して身延山に入山、武道精進に励む。

 1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。

 1948年4月 生涯を空手にかける決意をし、清澄山入山。18ヶ月の修行を行う。>

 

 同じくホームページには用語集「大山倍達」として下記のように書かれている。

 

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/glossary/a/post-43.html

魚拓

http://megalodon.jp/2011-0831-1031-41/www.kyokushinkaikan.org/ja/glossary/a/post-43.html

 

 

 <国際空手道連盟極真会館創始者。

  1923年6月4日生まれ。

 幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。

その後、拓殖大学、早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。

1948年4月より清澄山にて1年8ヵ月の山籠り修行を敢行し>

 

 これらにはすでに書いた生まれた年をはじめ多くの嘘が書かれている。

 しかし、同じ国際空手道連盟極真会館のホームページで<1923年7月大山倍達誕生><1923年6月4日生まれ。>と違っているのも珍しい。

 新暦、旧暦としても、ちょっと問題なんじゃない?

 

 昭和十八年(一九四三年)日本航空隊入隊というのは大嘘である。

 日本人だったら自分の軍歴について「日本航空隊入隊」などと書く者はいない。

 そもそも「日本航空隊」などというものは無いからである。

 あるのは海軍および陸軍であり、それぞれに航空隊があるだけである。普通だったら海軍航空隊、陸軍航空隊と書くと思う。

 当然、海軍、陸軍とも航空兵の養成過程は異なる。

 

 大山氏の著書には

<山梨少年航空学校>

<山梨の少年航空学校>

(「ダイナミック空手」「一〇〇万人の空手」「闘魂」など)

 <山梨少年航空技術学校>

(「極真カラテ 二十一世紀への道」)

<そうした戦況下で、学徒出陣が決まり、私も短い間であったが、あこがれの山梨少年航空隊に入隊した>

(「わが空手修行」)

 入学時期

<中学二年の時>

「ダイナミック空手」

その他の著書

<一九三八年もしくは一九三九年>

私は「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十六〜九十七より引用

 「バラ雲会」(山梨航空技術学校・卒業生の会)による平成十四年に出された「学校法人日本航空学園健学七十周年記念誌」には

<昭和十七年九月 山梨航空機関学校 二期生 繰り上げ卒業>

<昭和十七年当時 左から宮井、松岡格、大山倍達>

というキャプションの写真が二枚あるそうです。

 平成十四年に出されたものであるから、「大山倍達」という名前になっているそうです。

 「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十八

 つまり、大山氏は昭和十五年四月に「山梨航空技術学校」に入学し、昭和十七年九月に繰り上げ卒業している。

 そして、大山氏(当時は崔永宣)は卒業後の昭和十八年度の追加募集として陸軍士官学校を昭和十八年春に受験するが合格出来なかった。

 これについて、「大山倍達正伝」の小島一志氏との共同執筆者である塚本佳子氏は

 <確かに永宣は小学校時代から勉強嫌いで成績も悪かった。山梨航空技術学校では、小・中学校時代よりは真面目に授業を受けたとはいえ、学んだのはあくまでも飛行機の整備技術が中心だった。

 陸軍士官学校の試験は一般科目である国語、数学、理科、歴史、地理、外国語の六科目にわたって行われた。

 永宣の堅強な体格と人並みはずれた運動能力から考えて、彼が身体検査で落とされたとは考えにくい。

 ならば試験の得点が合格基準に届かなかったと理解するのが妥当だろう。>

p百四

と書きながら、

<ただ、私達は永宣が不合格になった理由として、もうひとつの可能性を推測している。

 略)

 仮に永宣が東亜連盟運動に深く関与していなかったとしても、以上の事実だけで彼が「危険思想の持ち主」として特高にマークされても何ら不思議ではなかった。>

p一〇五

と、思想的な理由により陸士を受からなかった可能性を書いているが、勉強嫌いで成績が悪かった者が、当時、「一高、海兵、陸士」といわれ、ましてや最難関の一高よりある意味入学するのが難しいといわれた海軍兵学校と並び称せられた陸軍士官学校が受かる筈がありません。

 ましてや

 <陸軍士官学校に対して海軍には海軍兵学校があった。ともに士官を養成するための高等教育機関である。だが、予科練は下士官養成所でありながらも飛行兵の育成を目的としていたため、軍人を目指す若者たちに絶大な人気があった。入学試験のレベルも陸軍士官学校や海軍兵学校以上の難関だった。>

p百四

 とは、ワザとボケているのかわかりませんが、多くの著書を参考文献として引用しこの本を書いている塚本氏らしくない余りにも醜い間違いです。

 下士官の方が難関で、士官が簡単であれば誰でも士官の養成学校を目指すでしょう。そうなると、下士官より士官が多い頭でっかちな軍隊ができてしまいます。

 

 蛇足ながら、私の父は「予科練」ならぬ乗る飛行機もない土方仕事ばかりで「ドカレン」と言われた終戦末期の甲種飛行予科練習生十六期だったが、「兄弟で飛び抜けて頭が良かったのは、江田島(海軍兵学校)に行くことができた一番上の兄貴だった」とよく言っていました。

 ちなみに私の父が属していた宝塚海軍航空隊は、予科練の教育訓練隊であり、航空機がなく、昭和二十年六月末に解隊後に淡路島・阿那賀に練習艦となっていた戦艦「春日」の二十センチ砲を流用した要塞構築のために従事していた隊員は、昭和二十年八月二日、鳴門海峡において飛来した艦載機(グラマンといわれているが不明)による攻撃により機帆船に乗船していた百名の隊員のうち八十二名が戦死されている。

 父はその機帆船には乗船していなかったが、父のお世話なった上官の御一人が乗船して戦死されたと生前に聞いた事があります。

 戦死された隊員八十二名の墓は、鳴門海峡を望む淡路島の鎧崎の桜ヶ丘英霊墓地にあります。

 この英霊墓地は淡路島出身の三洋電機創立者である井植歳男氏など多くの方々のお力により健立されたものです。

 昭和四十年の開眼供養には父も参列させていただいたそうです。

 

 今日の毎日新聞で昨日、菩提所である淡路島の春日寺において法要が営まれた事を報道していました。

 

 いわゆる「大山倍達伝説」では軍隊に入隊し、特攻隊に志願した事になっている。

 「大山倍達正伝」でも、小島一志氏に語った大山氏のエピソードとして下記のような事が書かれている。

「グライダーの操縦は戦闘機乗りの基本なんです。

 私は飛行機の整備も技術も一番だったが、グライダーの操縦も誰にも負けないくらいうまかった。

 終戦間際、「桜花」という名の戦闘機があってね。グライダーのように飛ぶという新型戦闘機でした。沖縄では、この「桜花」に乗って特攻隊として敵艦にぶつかっていく計画があったんです。

 上官に申し出て「桜花」の特攻隊入りが決まりかけたところで終戦になってしまったのよ」 

「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十七

 一式陸攻に抱かれていき、敵上空にて放たれロケット推進で飛ぶという純粋な特攻兵器として開発された桜花が、敵機を撃墜することを主任務とする戦闘機というジャンルに入るかなどという議論以前に、嘘を平気でつける人間としての醜さをさらけ出しているように思えてならない。

<学徒出陣が決まり、私があれほど苦労した航空兵に、こんどは航空隊のほうからお出迎えがくるくらいに、難なく入隊する事が決まった。千葉県の陸軍航空隊である。>

<山梨少年航空学校の前歴を買われて、またここでも整備兵に回されてしまった>

<館山の航空隊からは、飛行機の都合がつきしだい、連日のように、敵艦と刺しちがえに行く神風特別攻撃隊が出陣していた>

<私が、特別攻撃隊員に編成されたのは、七月に入ってからであったが、八月十五日ごろが、私の出番であったと思うのだ>

「闘魂」より

 私は「大山倍達正伝」p百二十三よりの引用。

 国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページの「極真の歴史」には書かれておりませんが、用語集に書かれている拓殖大学についても、

<私は木村政彦に憧れて拓殖大学に入った>

<木村との出会いは拓殖大学の空手部道場だった>

<山梨航空技術学校(卒業時点では「山梨航空機関学校」と改称)を卒業した翌年、拓殖大学に入学し、そこで木村と出会った>

と多くの大山氏の著書に書かれている木村政彦氏との出会いの場として必ず出てくる「拓殖大学入学」も嘘であると「大山倍達正伝」は断定しています。

 ましてや、仮に大山氏が拓殖大学に入学したとしても、木村氏と出会う事は不可能であったのです。

 なぜなら、昭和十六年に拓殖大学を卒業した木村政彦氏は大山氏と「違って」昭和十七年に召集され終戦まで兵役についていたからです。

 それだけでなく、

<拓殖大学側が下した最終的な回答は次のようなものだった。

「卒業名簿には大山倍達の名前はありません。崔永宣、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男などの登録もありません。

 生徒名簿には本科、予科(旧制大学制度における本科に入る為の予備課程)、留学生を含め、入学した生徒はすべて記録されています。それは中途退学した生徒も同様です。

 名簿に記載されていない以上、大山氏が拓殖大学に在籍していた事実はないと答えざるを得ません」>

「大山倍達正伝」p百十六

 拓殖大学に入学していない以上、学徒出陣はあり得ず、まして、海軍基地である館山より陸軍による特攻等あり得ないだけでなく、神風特攻隊は海軍であり陸軍で用いる事は無い。

「大山倍達正伝」に平成十六年八月二十六日号の「週刊新潮」掲載の「戦後六十年『特攻体験』を騙った男たち」の中で大山倍達氏も掲載されていた事をあげ、この日高恒太郎氏の記事の最後に海軍兵学校最後の卒業生(七十四期)で「神風特別攻撃隊古鷹隊」三十六名の一人として特攻指名された元日航機長、信太正道氏(当時七十七歳)の言葉を掲載している。

<「特攻体験は利用価値大なんです。右翼の会に行くと上座に座らされる。特攻は時代の流れの中で利用されて来たと思います。

 彼等は本当の戦争を知らない。現実に特攻体験を持つ者は特攻を勇ましく語ったりしないものです」と断じる。死の淵を覗いたトラウマはそれほど深いのだ。>

「大山倍達正伝」p百二十七

 平気で「特攻隊の生き残り」と吹聴し、自分の経歴を嘘で塗り固める事ができる人間性が問題だろう。

 普通は軍歴とはだれでもスラスラと言えるものであり、大山氏のようにコロコロ変わるものではない。

 大山氏は特攻隊の生き残りなどでないどころか、軍隊経験も無い「徴用工」として千葉県館山に配属されていたのであることを「大山倍達正伝」p百二十一に書いている。

「1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。」

 一九四七年とは戦後まだ二年しか経過していない時であり、GHQが発令した「武道禁止令」により禁止されておった時代です。

 試合空手が試合化されたのが、一九五〇年代半ばであり、公開された試合として最も古いのが、昭和二十九年(一九五四年)十一月、当時「全日本空手道連盟」を名乗っていた練武会が行ったもので、全空連が認める史上初の大会は、昭和三十二年一〇月に東京体育館で開催された日本空手協会主催の全国空手道選手権大会である。

 そして、大山氏自身が小島氏に語ったエピソードとして

「戦後初の全日本選手権優勝というのは間違いなんです。あれは梶原一騎のつくり話です」

 と書いている。

「大山倍達正伝」p三百九十七

 

1948年4月 生涯を空手にかける決意をし、清澄山入山。18ヶ月の修行を行う。」

 

 大山氏自身が生前「清澄山の山籠りによって空手に開眼した」と語っていたらしいが、これも嘘であることが「大山倍達正伝」に書かれている。

 <大山がは千葉健青の大幹部であり、自ら直系の部下である建設隊を率いる立場にあった。そんな大山が一年半もの間、建青の活動を離れることが不可能なのは言うまでもない。

 略)

 ここでなによりも重要なことは、「大山倍達伝説」で一年半におよぶ山籠りを行ったという逸話は、大山が民族運動に関わった「過去」を隠滅するための方便であったという点である。>

「大山倍達正伝」p百二十一

 許永中のボディガードをしていたという話もある文章圭氏(通名松井章圭氏)が代表を務めるところだけの事はあって、この程度の嘘は嘘のうちに入らないと平気なのだろうか。

 それとも、「大山倍達正伝」に小島氏に語った大山氏の言葉として書かれている

「伝説というのはね、いかに大きな嘘をついたかに価値があるんだよ」

「大山倍達正伝」p三百四十五

とでもいうことなのだろうか。

 ちなみに、文氏こと松井氏は極真の空手の大会で、日本人として日本代表選手団の主将を務めていた。

 

 

 今日、朝鮮学校無償化の方向というニュースがあったが、とんでもないことである。

 北朝鮮の在日犯罪組織である朝鮮総聯の支配下にありその指示に従っている。

(衆議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 平成二十二年三月十五日)

 今回も朝鮮総連が指示を出し、金正日が支那に言った時の映像を流し、個人崇拝を強めるようにしている。

(平成二十二年六月六日産経新聞)

 

 そのような学校の無償化をするなど、お笑いである。

 まあ、我が国はわざわざ銭を払ってまで支那の脅威を高めているのだが・・・・

 メチャヒマ。

 初めてのお客様二名様来店。

 Iさん来店。

 酒はちょっとだけ飲んでサッサと寝る。


大山倍達の嘘 追記

空手、人生の師であるツ寧柱

8月10日火曜日晴れ一時大雨のち晴れ △

 極真会館大石道場オフィシャルホームページには創始者である大山倍達氏について下記のように書かれている。

http://www.kyokushin.ne.jp/index_sousai.html

 

大山 倍達(おおやま ますたつ)

 1923年6月4日生まれ。

 幼少の頃より拳法を学び、13歳のとき山梨少年航空学校に入学。  1938年3月、松濤館空手の創始者・船越義珍に初めて空手を学ぶ。

   拓殖大学、早稲田大学に学び、1947年全日本空手道選手権大会で優勝。

 

 同様に、極真館城南大井町支部のホームページには下記のように書かれている。

創始者大山倍達の軌跡

http://www.kyokushinkan-jyonan.com/sokuseki.htm

魚拓

http://megalodon.jp/2011-0831-1018-26/www.kyokushinkan-jyonan.com/sokuseki.htm

このページは極真空手の創始者であられる故・大山倍達が命がけで、実戦空手を世界に普及させてきた歴史である。

鍛え抜かれた鋼の肉体を持ち、己の身一つで世界を渡り歩き、極真の名を世界中に広めた偉大な足跡が書かれている。

その神秘的と言える神技でゴットハンドと唱われ世界中に1200万人を越える弟子を育てた業績は計り知れない。

現在、空前の格闘技ブームと言われているが、その基となったのが、故・大山倍達であることは誰もが認める事実であ

り、故・大山倍達なくして現在の格闘技ブームを語ることができないのである。

1923年7月27日、東京出身。9歳の頃から拳法を学び、38年3月、松濤館空手の創始者・船越義珍に初めて空手を学ぶ。

47年、戦後初の全日本空手道選手権優勝。以後、プロレスラー、ボクサー空手家を

相手に無敵を誇り遂には猛牛をも倒した。54年5月、大山道場設立。国際空手道連

盟極真会館総裁。十段。 1994年4月26日永眠

1923.07 大山倍達  大正12年7月27日東京市に生まれる

1925.03 満州へ渡り、姉の家へあずけられる。

ソウルの小学校入学。この頃より十八手の中国拳法を学び中学2年の時に初段を取得。

1939.03山梨少年航空学校入学。

1939.09日本に始めて空手を紹介した船越義珍先生の門をたたく。

1941.04拓殖大学に入学し、在学中に空手2段を取得。太平洋戦争。

1945.09終戦により復員。東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創立し空手の研究に従事。

1946.04早稲田大学体育科入学

1946.09吉川英治著の「宮本武蔵」に感銘を受け、吉川英治と知遇を得る。

1946.10身延山に入山し空手の修行に精進する。

1947.09京都円山公会堂で開催された、戦後初めての全日本空手道選手権大会に出場し優勝。

1948.04生涯を空手道に捧げる事を決意し、千葉県清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。

 

 極真館城南大井町支部は朝鮮生まれを隠し、東京出身と醜い嘘を平気で書いている。

 そして、一九三八年三月、一九三九年九月と日付は違うが、いずれも、日本に始めて空手を紹介した船越義珍先生の門をたたく。

となっている。

 船越先生は昭和十四年に東京都豊島区雑司が谷に松濤館道場が完成して移るまで、同じく東京本郷区(現文京区)真砂町道場にて活動されていたはずだが、山梨の航空学校に入って半年でいったい何処の「船越先生」の空手道場に入門したのだろう。

不思議だな〜

(しかし、せめて、同じ道場の同じページのホームページなんだからウソでも日付ぐらい合わせろよな。アホ過ぎる!!!!)

 また、

 <一九三八年九月、松濤館、船越義珍の門下生となる>

 <一九四〇年四月、拓殖大学司政科に入学>

 極真会館による大山倍達死亡時発表の公式履歴

「大山倍達正伝」p三百七十二

 と、公式略歴もなっている。

 大山氏が密航し日本本土に渡って来たのは昭和十四年(一九三九年冬)である。

 すぐに、船越先生に師事出来る筈もないのは明らかである。ましてや、一九三八年だとまだ朝鮮にいるときである。

 大山氏が船越先生とのかかわりはごく僅かである。

 現実には、先に書いたように大山氏は一九三九年冬に釜山より下関まで密航し我が国に渡ってきたのである。

 そして、大山氏は船越先生の松濤会には

 昭和十八年(一九四三年)六月入門

 一九四四年二月十八日に行われた第十六回昇段審査会で初段位を船越義珍氏より允許。

 松濤館の記録では「大山猛虎」と記されている。

 その後、大山は、同年九月、朝鮮人徴用令によって召集されるまで松濤館道場で稽古に励んだ。

 その間一年三ヶ月である。

「大山倍達正伝」P三百七十八

 これが大山氏と船越先生との関わりの総てである。

 船越先生よりも大山氏は恩に感じ、その名前を明らかにしておくべき方がいる。

 その方の名前はツ寧柱(そうねいちゅう)氏である。

 大山氏は朝鮮半島より密航し昭和十四年(一九三九年冬)に来日してから昭和十五年三月までその時は三ヶ月であったが、空手を一番最初に習い、その後も昭和三十年代極真会館を設立まで師弟関係が続いていたツ寧柱氏との関わりを一切隠している。

 ツ寧柱氏は千九百八年(戸籍上は一九一一年)朝鮮慶尚北道に生まれ、一九三二年京都帝国大学法学部に入学する。

 日本共産党の外郭団体「日本赤色救援会」に加入し、街頭運動の実戦部隊として活動する。

 一九三三年秋に自主退学し、一九三四年立命館大学予科に再入学する。その後、立命館大学法経学部に移る。 

 その頃、ツ寧柱氏は共産主義運動の限界に直面する。

 空手は「義勇会」空手部として立命館大学入学後に始める。

「義方会」は大日本武徳会傘下の武道専門学校および「満州建国大学」で柔道の師範を務めていた福島清三郎氏が創立したもので、福島氏が立命館でも柔道を教えていた縁で、空手部主将の山口剛玄氏と知遇を得て、義勇会に空手部門が創設される。

 義方会は創立者の福島氏が東亜連盟協会(石原莞爾が主宰者)の幹部であった関係より、東亜連盟京都支部の役割も担っていた。

 これを切っ掛けに、ツ氏は熱烈な石原信奉者、そして東亜連盟運動家へと変貌していく。

 「大山倍達正伝」P八十三〜四

 大山氏がツ寧柱氏に初めてあったのは、釜山で行われた東亜連盟の講習会においてであり、その時ツ氏は「民族協和」について熱く語っていたそうである。

 この時、ツ氏は義方会の空手の師範代でもあった。

 一九三九年冬に大山氏は釜山より下関まで蜜航し我が国に渡る。

 大山氏は我が国に密航後、すぐに世話になったのがツ氏である。

 義方会に併設されていた協和塾という東亜運動を行う外国人留学生寮より義方会に通い剛柔流空手を学ぶことになる。

 

 当時、大山氏の兄・永範氏は「朝鮮人留学生御三家大学」のひとつである日本大学で学んでいた。

 ちなみに、後の二つは明治大学、中央大学である。

「大山倍達正伝」P九十一

 

 昭和十五年四月(一九四〇年)にツ氏は大山氏が「山梨航空技術専門学校」に入るときも身元保証人となっている。

 大山氏は拓殖大学には入学していないのも先に書いた通りである。

<1945.09終戦により復員。東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創立し空手の研究に従事。>

 これも嘘である。復員という意味を調べればわかることだが、復員とは戦時編制の軍隊を平時体制に戻し、兵員の召集を解除すること。また、兵役を解かれて帰省することであり、軍隊に入隊していないのに復員もクソも無い。

 それより

 永和空手道研究所は「在日朝鮮建国促進青年同盟」(建青)中央本部が置かれていた杉並区天沼にある建物は、戦後、朝鮮人が元移民訓練所(海外同胞訓練所とも呼ばれた)を不法占拠し、そこにあった武道場を「永和空手道研究所」としたものである。

 杉並区天沼町に永和空手道研究所を取り仕切っていたのはツ寧柱氏であり、決して、大山氏が創立したものではない。

 このように、大山氏の姿勢は、恩人であるツ寧柱氏の存在を隠すことにより、戦後の健青の幹部としての活動を隠している。

 それは、同じ東亜連盟を通じて石原莞爾陸軍中将を終生師と仰ぎ、元民団中央本部長でありながら後に石原莞爾平和思想研究会の顧問となったツ寧柱氏の姿勢とは大きく異なるものである。

 

 このように国際空手道連盟極真会館極真会館大石道場、極真館城南大井町支部のホームページは、大山氏の経歴で一番大きな嘘は大山倍達氏が生まれたところを隠しているばかりでなく、極真館城南大井町支部においては東京出身などと嘘を書いている。

つまり、大山氏が昭和四十三年に帰化するまで朝鮮人だった事を隠している事である。

 あと、武道家として大山氏という人間というものがよく現されているのは、武道家が自分の師を隠している事である。大山氏が空手を最初に学んだのも、一番お世話になったのも船越義珍先生ではない。

 同じ朝鮮人であるツ寧柱氏である。

 大山氏、そして、その弟子の人たちは日本に最初に空手を紹介したという船越先生の御高名を利用しているだけである。

 大山氏の一番の醜いところは恩人であり、師であるツ寧柱氏の存在を平気で隠す事のできるというそのどうしようもなく腐った性根である。

 大山氏の経歴にはその他にも多くの嘘がある。

 今日、アホの管総理がアホ談話を発表したそうです。

 我が国を何処まで貶めれば気が済むのであろうか。

 

 

 河岸にて大雨に遭遇。

 Yさん二名様で来店。

 二名さま来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 Mさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。サルよりマシ。


大山倍達

山籠り伝説の嘘 清澄山

9月21日火曜日晴れ 暑い △

 大山倍達氏の身延山における長期の山籠りが嘘であることが当時の状況より証明されているが、「生涯を空手に捧げる事を決意」して山籠りをしたという清澄山の場合はどうか。

<千葉県の清澄山に一人こもって一年八ヶ月の間、修行をし、麓の猟師や子供から「あっ、天狗がいた」と言われた」>

「ダイナミック空手」

<空手の限界を試すべく、ふたたび山にこもり、修行に専念する事にした。千葉県清澄山に草庵をあみ、

 略)

 厳しい修行を二年間続けた>

「一〇〇万の空手」

<上京してGHQや暴力団との私闘によって追われる身になった大山は清澄山に籠り、一年半の修行を行った。(身延山の記述は無し)>

「わが空手修行」

<1948年4月 生涯を空手に捧げる事を決意し、清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。>

国際空手道連盟極真会のホームページより

<1948.04 生涯を空手道に捧げる事を決意し、千葉県清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。>

 極真館城南大井町支部ホームページより

 清澄山のこのような一年半に渡る長期の山籠りについてもウソであると「大山倍達正伝」には記されています。

<改めて清澄山の山籠りについて考察する。

 金致淳は「大山さんが山に籠ったのは、ツ先生の勧めで山梨の山に入った時だけだったと思います。それ以後、大山さんが山に籠ったという話はツ先生からも聞いたことはありません」と言う。

 KPI通信相談役で、当時の大山と交流があった千原徳士も「私が大山さんと知り合ったのは大山さんがアメリカに行く前ですが、大山さんの口から山に籠ったという話は聞いたことがありません。もし一九五〇年直前に清澄山に籠っていたというならば、大山さんがそのことを言わないはずないと思いますが・・・・・・」と語る。

 元極真会館の重鎮である黒崎健時(黒崎格闘技スクール会長)は、大山の山籠りについて次のように言う。

「私が大山道場に入門したのは昭和二十八年(一九五三年)頃です。田園コロシアムでの牛との格闘の前の年だったと思いますが、私は大山先生と合宿という形で清澄山に入りました。私を含め数名の弟子が一緒でした。大山先生が言う清澄山の山籠りというのはこのことをさしているんじゃないでしょうか」

 大山が田園コロシアムで牛との戦いを披露したのは一九五六年十一月十一日である。黒崎の記憶が正しいならば、大山が黒崎を伴って清澄山で合宿を行ったのは一九五五年ということになる。

 この時の合宿に同行した人物として共田徳龍(在日本大韓体育会常任理事)がいる。一九八六年一月号の「月刊パワー空手」において共田は証言する。

「清澄山の修行に加えていただいたのはこの(注・大山と出会った)一ヶ月ほど後です。

中略)

大学(法政大学)を休んで参加したわけですが、先生のそばで一緒に稽古していたのが岩村(博文)さん(注・極真会館大阪道場責任者)と黒崎さんの二人でした。この人たちに出会った事も、十八歳の私には大きな衝撃でした」

 略)

 黒崎、共田が大山とともに行った清澄山の「山籠り」は映画「世界最強のカラテ キョクシン」の中でも紹介され、合宿時のスナップ写真も現存している。

略)

共田の語る稽古は、後に大山が著書などで紹介した清澄山での稽古と酷使している。

ところで、清澄山の山籠りの詳細について、後の「大山倍達伝説」に近い内容の逸話を大山が初めてメディアに語ったのは、黒崎たちと清澄山で合宿を行った翌一九五六年四月三十日付けの「東京毎夕新聞」においてである。

 大山とスポーツ評論家・郡司信夫との対談が「神速果敢」という囲みのコラム欄に掲載されている。

 前半部分では「初めて山に入ったのは昭和二十二年七月です」と年代に一年のずれがあるものの、前述した金致淳の証言とほぼ同様の事を大山は語っている。ただ、ここでは身延山が「天城山」となっている。

 後半部分では、大山は清澄山の山籠りについて自らの思い出話を披露する。以下引用する。

「その後、どうせ空手をやるなら、日本一になってやろうと決心して、日蓮上人が悟りを開いた千葉県の清澄山に入ったんです。その時は、裾から二キロぐらい山の中に小屋を作りまして、八代という弟子と二人で入ったんです。

略)

山に入るときは丸坊主になって、髪と修行する競争をするつもりだったんですが、やはり町に行きたくて、どうしようもなかった。なにくそと思うんですが駄目なんです。そこでツ先生に苦痛を訴えたんです。その時の先生の返事が、「先天的天才はあり得ない。後天的努力によってのみ天才となり得るのだ。武道を究める者で酷寒炎暑、煩悩に耐えなかったものがあろうか!眉を剃れ!」と、切々たる文章で綴ってあったんです。それで、また心を奮い立たせて眉毛を片方ずつ剃って、町へ出られないようにしたんです。眉毛は伸びが遅いですからね・・・・。一日五時間ぐらい稽古をしたんです。そのうち、町の子供達が「天狗がいる」といって見に来ましたよ。清澄山には三年入っている予定でしたが、月々仕送りしてくれた小沢伝七郎氏が昭電事件で芦田均氏と一緒に入ってしまったので、生活費がなくなって、一年半で下ってしまいました」

略)

以上の経過から考えて、「大山倍達伝説」における清澄山の山籠りに関する逸話は、一九五五年の黒崎たちとの合宿の体験を翌年の「東京毎夕新聞」さらには「月刊空手道」の中で、「一九四八年から一年半(時には二年)に行った清澄山での山籠り」とすり替えて語られた「虚構の物語」が原点だと私達は推測する。

略)

「もし大山先生が戦後の一時期に清澄山に籠ったとするならば、それは山籠りではなく合宿のような短期のものだったのではないか」(黒崎健時談)

 私達には黒崎の言葉こそが真実を突いているように思える。また、戦中、戦後の大山をよく知る鄭達鉉(元「韓国新聞」論説委員)が「時折、館山の山に籠って数日間、瞑想したりしていたようです」と語っていることからも、大山が暇を見つけては清澄山に限らず、近所の山などに数日間籠り、精神修養を行っていた可能性も否定出来ない。>

「大山倍達正伝」P四百八〜四百十一

 つまり、大山氏は身延山でも清澄山でも長期の山籠りはしていないのである。しているのは合宿であり、短期の精神修養的なものである。

 

 あほらし

 今日は飲んべえの会について、醴泉の蔵元である山田社長、磯自慢の寺岡社長に電話で相談をさせていただく。

 醴泉は十一月二十日土曜日。磯自慢は十二月十二日日曜日と決定。

 Wさん御夫妻来店。

 初めてのお客様来店。

 Kくん、Mさん、Mさんと来店。

 Tさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


大山倍達

山籠り伝説の嘘 身延山

9月20日月曜日晴れ

 大山氏は下記のように自分の山籠りによる空手修行について書いています。

<暴力団にも狙われていたので身延山に籠り一年間の修行をし、人恋しさを眉を剃って耐えた>

戦後初めての全日本空手道選手権で優勝した後、

「ダイナミック空手」

<終戦を迎え、

 中略

 人間と空手との関係についてもっていた自分の考えを確かめる為に、身延山の寺に入って修行をした>

「一〇〇万の空手」

「闘魂」および「続ケンカ空手」では、どちらも清澄山の山籠りについて多くの紙面が割かれている。山での稽古の様子が詳細に描かれ、ともに修行の辛さに耐える為に自らの眉を剃ったと記されているが、だが両著とも身延山の記述は無い。

「大山倍達正伝」P四百六

<上京してGHQや暴力団との私闘によって追われる身になった大山は清澄山に籠り、一年半の修行を行った。(身延山の記述は無し)>

「わが空手修行」

<私は山に籠っての修行を三度経験している。一度目は、山梨県身延山に。二度目は千葉県清澄山に。そして三度目は、同じく千葉県の青堀山にである。>

身延山への山籠りは<MPに追われて、この追っての目をかわすために山に籠ったというのが真相に近い>

清澄山には<生涯を空手の道に捧げるべく決意をして二年間籠った><清澄山で眉を剃った>

「極真空手 二十一世紀への道」

(大山氏の著書に掲載されていたとされる文章については、私は「大山倍達正伝」P四百六より引用)

<1946年10月 同校(木下注 早稲田大学)を中退して身延山に入山武道精進に励む。>

国際空手道連盟極真会のホームページより

 

<1946.10身延山に入山し空手の修行に精進する。>

 極真館城南大井町支部ホームページより

 このように、大山氏の著書だけでなく、極真会のホームページに現在でも書かれているように戦後、昭和二十五年までの間に山籠りをして空手修行をした事になっていますが、著書により書いてある事に統一性が無い。そして、少なくとも空手修行の為の一年以上に及ぶ長期の山ごもり自体が嘘であることが「大山倍達正伝」に書かれている。

 <大山がは千葉健青の大幹部であり、自ら直系の部下である建設隊を率いる立場にあった。そんな大山が一年半もの間、建青の活動を離れることが不可能なのは言うまでもない。

 略)

 ここでなによりも重要なことは、「大山倍達伝説」で一年半におよぶ山籠りを行ったという逸話は、大山が民族運動に関わった「過去」を隠滅するための方便であったという点である。>

「大山倍達正伝」p百二十一


 大山氏は戦後昭和二十五年前半まで、生活基盤は徴用され、終戦まで千葉県の房総で役務についていたので、千葉県館山市にありました。

 終戦後、在日朝鮮建国促進青年同盟(健青)本部では「訓練部長」「建設隊隊長」の肩書きを持ち、千葉と東京を行き来していた。

 健青の武闘派集団「安房支部」のリーダー格であり、戦後七年間を剛柔流空手の修行と朝連との抗争に費やした。

(「大山倍達正伝」P三百八十六より木下が抜粋)

 少なくとも昭和二十五年までのこのような時に、長期の山ごもり修行などできる筈はありません。

 そして、下記のように一時期の山籠りが記されています。

<「それでも後に、清澄山の山籠りだけは時期も一九四八年四月からの約一年半から二年間とほとんど「定説化」されている。しかし、清澄山の山籠り以前の話になると、大山の言葉は一転して不安定になる。だが、この曖昧な言葉や記述でしか表現されていない初期の山籠りは、内容が不安定であるがゆえに、逆に一面の真実が存在するとも言える。例として、初期に行われた山籠りについての大山の言葉を紹介する。以下は、一九八九年九月号の「月刊武道空手」に掲載された大山の回想談である。

「私が初めて山籠りを行ったのは確か昭和二十二年、身延山のさらに一つ奥にある七面山と呼ばれている山であった。そこの寺に入り、寺の雑用をさせてもらいながら空手の稽古を行ったのである。それでは、なぜ山籠りなど行ったのか。事実を言うならば、当時私は警察、MPから指名手配になっており、世間から身を隠すために山に入ったのだ。

中略」

身延に入ったのは確か秋だったと思う。落葉が舞い出した頃、寒かったのを覚えている。決して意気揚々としていた訳ではなく、どこか寂寥感に包まれながら、世間から逃げる形で山に入ったのである。これが、そもそもの山籠りのきっかけであり、真実である」

 

 健青と朝連との抗争に祭し、尖兵として前線で活躍していた大山は、同時に敵対する朝連の刺客からから追われる身でもあった。大山によれば、「月刊武道空手」のインタビューがそうであるように、GHQ兵士たちとの私闘の末、MP(米軍憲兵)や警察から逃げる方便として身延山(ときに七面山や天城山だったりする)に籠ったのが「山籠り」のきっかけだったという。だが大山が朝連の刺客をMPや警察にすり替えているのは明白である。

 終戦直後の大山をよく知る金致淳が「天沼時代、ツ(寧柱)先生と剣道の中村藤吉先生の勧めで山梨の山に籠った」と語り、身延山久遠寺直末寺の住職である泉和彦の証言からも、たしかに大山は一九四六年の一時期、身延山久遠寺に籠っている。>

「大山倍達正伝」P四百七〜四百八

 このように身延山には行っているが、長期の山籠りはしていないというより当時の大山氏はそれができる状況ではない。

 今日も朝起きるとあちこちが筋肉痛。

 シャワーを浴びてゆっくりしてから、午後より買い物に出かける。

 古本屋さんではあまり欲しいものが見つからず、何も買わなかった。

 「アミノバイタルプロ 120p」が無く、注文して帰宅。

 今日は酒は飲まず。


大山倍達

「眉剃り」逸話の嘘

9月23日木曜日雨 ○

 大山倍達氏の著書には身延山及び清澄山においての山籠りにおいて眉を剃って耐えたという話が出てきます。

<暴力団にも狙われていたので身延山に籠り一年間の修行をし、人恋しさを眉を剃って耐えた>

「ダイナミック空手」

<「闘魂」および「続ケンカ空手」では、どちらも清澄山の山籠りについて多くの紙面が割かれている。山での稽古の様子が詳細に描かれ、ともに修行の辛さに耐える為に自らの眉を剃ったと記されているが、だが両著とも身延山の記述は無い。>

大山倍達正伝」P四百六

<生涯を空手の道に捧げるべく決意をして二年間籠った><清澄山で眉を剃った>

「極真空手 二十一世紀への道」

 この「眉剃り」ついても大山氏が得意の嘘であることが大山倍達正伝に記されています。

<「山中での荒行を度重ねるにつれて好きだった酒、煙草、一切の媚薬を止めてしまった。苦しくなり里が恋しくなっても帰る気がおこらないように眉毛を剃り落として山中に入ったことがあったが、予定の日数を経て帰る時になっても眉毛は中々生えず閉口したこともあった」

 これは大山の著書の記述ではない。大山にとって剛柔流の師とも言える山口剛玄が自著「剛柔の息吹」(栄光出版社)の中で記した文章である。また一九七八年二月、沖縄剛柔流の重鎮であり宮城長順の直弟子である八木明徳(沖縄空手剛柔会会長)と酒井節雄(宮城長順先生顕彰会顧問)を交えた座談会において、山口は自らが行った鞍馬山での山籠りについて以下のように語っている。

「私はね、学生時代鞍馬山に入っちゃったんです。学生時代に滝に打たれたり、禅を組んだりして、鞍馬山にこもったのが、私の山籠りなんです。そういうことから剛柔流をやるんだったら、剛と柔と、それを会得しなければならないと、眉毛を剃って行に入りました」

 ちなみに、「剛柔の息吹」が発売されたのは一九六六年であり、大山が「ダイナミック空手」の発売の直前に当たる。だが、剛柔流を学ぶ山口の門下生にとって、山口が一九三〇年代の初期に鞍馬山に籠ったという話は有名な逸話となっている。

 立命館大学で山口と同時代を過ごした岡村光康、岩上長興たち剛柔流の長老は、山口の山籠りの証言者である。山口が山籠りに臨んで自分の眉を剃り落したという話も古くから剛柔流空手の門下生の間で語り継がれてきた。山口の三男で、現在の剛柔会を率いる山口剛史も次のように言う。

「父が鞍馬山に籠り、眉を剃って修行したという話は、私が生まれる以前、父が学生時代の話です。でも、父は折に触れて、このような話を私達息子に語って聞かせてくれました。眉を剃った話は、当然修行は辛いわけですから、眉毛を剃ってしまえば恥ずかしくて山から下りられなくなるだろうと思ってやったと聞いています。

 でも眉を剃ったのはいいけれどもなかなか生えてこなくて後悔したという話も、子供の頃何度も聞かされました。父は生涯を通じて山籠りの修行をしていました。

 鞍馬山の山籠りは京都時代の話ですが、東京に出てきてからは毎年、木曾の御岳山に籠って修行をしていました」

 大山の清澄山(ときには身延山)の山籠りの「伝説」に欠かせない「眉を剃った」逸話は明らかに山口剛玄の体験談の借用である。

 大山は、この逸話を山口自身またはツ寧柱から聞かされたと思われる。実際、大山の著書にはツ寧柱(またはツと思われる先輩)の勧めで眉を剃ったと記したものもある。ならば山口の体験に倣って大山も眉を剃って修行に励んだ可能性も皆無とは言えない。

 だが、清澄山はもちろん、初期の身延山での修行が決して長期間にわたるものではない以上、大山が実際に自らの眉を剃って修行をしたというエピソードの信憑性は限りなく低いと言わざるを得ないだろう。少なくとも、この逸話は大山のオリジナルではない。>

「大山倍達正伝」P四百十三〜四百十四

 そして、切り抜き、手紙など多くの資料を取リ置きしている大山氏だが、この何度も登場する逸話のもとになったツ寧柱氏の手紙について、小島一志氏は

<ところで、「神速果敢」の中で大山が触れている「ツ寧柱からの励ましの手紙」について、後年の大山の著書でも何度か紹介されている。だが少なくとも私は大山が保管していたファイルの中から、それに相当する書簡を見付ける事は出来なかった。>

「大山倍達正伝」P四百十一

としている。

あほらし

今日はお彼岸、「秋季皇霊祭」だが、秋分の日とわけのわからない日になっている。

 祝日のうえ雨だし、どうせどなたもいらっしゃらないだろうと思って、店をいろいろと片付けていたら、初めてのお客様来店。Oさん来店。

 いや〜オチャピーでなくてよかった。

 飲まず。

 当然、サルではない。

 頭の程度はそうかもしれんが。


 

大山倍達という人間の精神構造

8月12日木曜日雨のち晴れ○

 既に書いたように、大山倍達氏は昭和四十三年(一九六八年)に我が国に帰化して朝鮮系日本人となったが、それには、その前年の昭和四十二年に二十八年ぶりになる南朝鮮への帰国が大きな切っ掛けになっている。

 その帰国により、大山氏は自分の南朝鮮での戸籍が健在であり、帰化してもそのまま朝鮮人としても生きられる事を知ったのである。

 南朝鮮における大山氏は本名・崔永宣として一九二二年六月四日に生まれたものとして戸籍が存在し、そのために重婚が可能で、日本で知り合った二十七歳(一応)年下の朝鮮人女性と昭和四十九年(一九七四年)結婚し、南朝鮮に家庭を持ち三人の子供を作った。

 この大山氏の姿勢は、南朝鮮における彼自身の著書「世界ケンカ旅行」の翻訳版であり、空手がすべてテコンドーとされている「風のファイター」への巻頭へ掲載された

<今回私の祖国でこの本を発行し、たくさんの人に読んでいただけると聞いてこれ程嬉しいことはない。私の人生の中でも忘れられない栄光だ。

 略)

 特にテコンドー人たちに希望と意欲を抱いてもらえるならば、これ以上望むことはない。

 1973年 崔永宣>

「大山倍達正伝」p二百七十三

 という大山氏の言葉がよく物語っている。

 それは、「KPI通信」(一九八三年三月一日付け)においても同様です。

 日本国籍を取得したことについて

<私は日本国籍を方法論的に取得しただけである。

 中略)

 日本で事業をやる以上、日本の国籍を持たなければ困る>

<全ての点でよかったと思います>

 と言いながらも

<しかし、三十何年間日本に住んでいても日本人に馴染めないということです。ボクシングでは日本人が負けると良く寝られる。日本の飯を食い、水を飲み、日本の空気の中で生活しているというのに、日本人の味方になれないんです。その底辺に何かがあるんですね。私はそれは解らない。日本人が勝つとクソーと思う。死ぬまで直らないでしょう。>

「大山倍達正伝」p二百五十一およびp二百八十四

<大山自身、伝統流派を学び、その第一人者として一九五〇年代に名声を得た。現在のように「全空連」と「極真会館」、「伝統派空手」と「実戦空手」、さらに「寸止め制」と「直接打撃制」といった対照的な図式が成立するのは一九六〇年代以降のことである。

 一九七〇年代に入ると、梶原一騎原作による「空手バカ一代」を中心に、大山倍達の空手はその修業時代から伝統流派の異端児として「邪道空手」「ケンカ空手」と呼ばれていたという「大山倍達伝説」が喧伝されることになる。

 大山自身もこれを好んで吹聴した。

 だが、それは大山による潤色に過ぎない。一九四〇年代から一九五〇年代後半までの間、大山は常に伝統流派の中心にいた。剛柔流、松濤館のみならず、沖縄空手の研究にも勤しんだ。

 更に大山は空手以外の格闘技の修練にも精力的に臨んだ。柔道、古流柔術、合気道、中国武術>

「大山倍達正伝」p三百五十六

 

 空手の世界に生きながら、自分自身がやっていたのはテコンドーとして描かれた「風のファイター」という朝鮮で出版された著書ではそれを否定する事も無く、巻頭での文章を掲載している。

 大山氏の醜い人間性、それは、寸止め空手と他流派の空手を軽蔑しながらも、その伝統派空手の世界に自分を置き、自分が一番お世話になった剛柔流重鎮であったツ寧柱氏の存在を隠し、松濤会の船越義珍先生に師事した事だけを大きく押し出している姿勢にも良く現れている。

 めちゃヒマというより、今年初めてのオチャピー。

 飲みに行く気にもなれずにサッサと寝る。


大山倍達追記

9月3日金曜日晴れ △

 大山倍達氏について帰化した事を書いてある「国際空手道連盟極真会館総本部」というところのホームページを見つけました。

http://www.mas-oyama.com/bin/mas-oyama/siteup.cgi?category=1&page=0

<1923.6.4(新暦7月27日)父・崔承玄、母・芙蓉の4男として、この世に生を受ける。

1931  満州の姉の家が経営している牧場に預けられる、

ここで働いていた武術の達人「李相志」から「借力」という拳法を習う。

1937.4山梨航空技術学校に入学。

1946.4早稲田大学体育学科に入学。

1946.10早稲田大学を中退して身延山に入山

1947.9京都丸山公会堂で開かれた戦後初の全日本空手道選手権に

出場して優勝。

1962この年に日本国籍に帰化する。>

 相変わらず、嘘の羅列ですが、今まで調べた極真関係で唯一帰化について書いてありました。まあ、どこにも朝鮮から我が国に帰化とは書いてないのですけど

 <ここで働いていた武術の達人「李相志」から「借力」という拳法を習う。>

 「借力」という拳法を習った事はない。

 <1937.4山梨航空技術学校に入学。>

 大山氏は同校に入学したのは昭和十五年(一九四〇年)四月であり、昭和十七年九月に繰り上げ卒業している。

 <1947.9 京都丸山公会堂で開かれた戦後初の全日本空手道選手権に

出場して優勝。>

 すでに書いたが、戦後二年しか過ぎないGHQの占領下にある我が国で全日本空手道選手権など開かれていない。

 <1962この年に日本国籍に帰化する。>

 大山氏が家族そろって帰化したのは昭和四十三年(一九六八年)であり、其の五年後に南朝鮮でも洪順浩夫人とそのたった五年後の昭和四十九年に南朝鮮で「崔永宣」として入籍し平気で重婚をしている。

 どうしてこう嘘を書く必要があるのでしょうか?

 あほらし

 

 今年も、店先に置いてある柑橘類の鉢に蝶の幼虫がいるのを見つけました。

  

 ヤモリは東京都レッドリストに掲載され、絶滅危惧種になったというニュースが七月頃ありましたが、当店でも毎年見たガマガエルとヤモリは今年は一度も見ていません。

 やっぱ、いなくなっちゃったのでしょか。

 IさんEさんと来店。

 Oさん二名様で来店。

 Tさん来店。

 Nさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 Kさん来店。

 ドンチャン。記憶あり。サルよりマシ。


統一教会と極真会館との関係

9月7日火曜日晴れ ××××

 私の部屋の近所に朝鮮の気違い宗教「統一教会」の拠点の一つがあります。

 

 

 この統一教会は極真会館とも密接な繋がりがありました。

<大山ひいては極真会館と友好関係にあることは極真会館関係者ならば周知の事実だった。

 実際、「月刊パワー空手」には統一教会の関係紙「世界日報」の広告が常時掲載されており、全日本選手権でも「世界日報」は「大会後援」に名前を連ねていた。> 

「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P五八〇

<統一教会に関する噂

 大山倍達が統一協会の信者であるという噂は、ずいぶん前に耳にしたことがある。

 実際、統一協金とは不可分の存在である世界日報は、古くからの全日本大会のスポンサーであるし、一九八四年に行なわれた第三回世界大会には、日本統一協全会長の久保木脩己が、大全特別相談役として副委貝長の席に座り、顔写真入りでパンフレットにメッセージを寄せたこともある。

 その後の大会では役員から久保木の名前こそ消えたものの、世界日報は現在でも極真会館の有力なスポンサーの一つとして名前を連ねている。

 極真全館、大山倍達と統一協会の繁がりは古く、時期的には第一回全日本大会が行なわれた一九六九年より少し前から付き合いが始まったようだ。両者の橋渡し役となったのは、現在は極真を離れアメリカで他流派を興しているO兄弟である。O兄弟の父親は当時の日本統一協会にあって、金銭の出入りをかなり自由に任されるほどの大物で、日本におけるコネクションが欲しかった統一協会と、スポンサー不足に悩んでいた極真全館との利害が一致し、ある種の協力関係が生まれた。

 では実際に大山倍達が信者だったのかという問いに対しては、智弥子未亡人は言下に否定した。

「確かに主人は統一協全に何人か友人がいました。久保木さんがよくうちに訪ねてきた時期もあります。まあ、どっちが呼んでたのかは知りませんけどね。最初はおだてられて協力してたんじゃないですかね。

 でも、主人が信者でなかったことは断言できますね。もし本当に主人が信者だったのなら、協会からお金を借りるなりして、新しい本部の建物だってもっと早く建っていたはずですよ。それに主人がお世話になっていて、こんなことを言うのも何ですが、うちは私も娘もみんな統一協会が嫌いでしたから」

 智弥子未亡人はこんなエピソードも語ってくれた。

「何年か前に協会の方が会館に来て、主人に壷を持たせて写真を撮っていったことがあったんですよ。そしたらその写真が霊感商法みたいなことをやっている会社の広告に使われてしまって。『大山総裁は統一協会の信者なんですか』という電話が会館に何本もかかってきて。あの時は本当に怒ってらっしゃいましたよ。そんなこともあって、ここ最近はあまり協会の方とのお付き合いも少なくなっていたようてすね」

 しかし、昨年十月に行なわれた全日本大会のパンフレットを見る限りでは、極真会館と統一協会の関係はいまだに現在進行形である。後援には世界日報の名前があり、相談役の中にも日本統一協全の実力者である、梶栗玄太郎の名前が見える。

 ある意味ではこれまで付かず離れずの関係を続けてきた極真会館と統一協会だが、大山倍達の死によってそのパワーバランスに狂いが生じつつあるという説もある。これをきっかけに関係は薄れていくのか、それとも大山倍達存命中には考えられなかったような介入を許すのか。取材を行なった何人かの関係者からは、後者の事態を危惧する声が圧倒的に多かった。>

「大山倍達未亡人・独占取材! 極真会館の跡目争いとゴッドハンドの生涯」 (宝島30 94年9月号)

 O兄弟とは大山茂氏、泰彦氏の兄弟であろう事は間違いない。

 そして、この久保木修己氏に関しては、下記のような記述がある。

<久保木修己(くぼき・おさみ)略歴

1931年、中国丹東市(旧満州安東市)生まれ。終戦とともに引き揚げ、13歳で帰国。慶応中等部では野球部に所属、甲子園にも出場。慶応大に在学中、立正佼成会に入会、会長秘書を務める。

1962年世界基督教統一神霊協会(統一教会)に入会。1964年、会長就任。1970年、朴正煕大統領と会見。同年、日本武道館でWACL(世界反共連盟)世界大会を開催し、議長を務めた。1971年、蒋介石総統と会談。同年、ローマ法王(パウロ6世)と会談した。

国際勝共連合会長、国際文化財団理事長、アジアサファリクラブ会長、国際友好釣連盟会長、北米極真空手会長、世界日報社会長、世界平和連合会長等を歴任。中華民国中華学術院名誉哲学博士。1998年、逝去。67歳。

著書に、『愛天愛国愛人』(世界日報社)、『愛こそすべて』(光言社)、『久保木修己講演集』(光言社)、監修として『文鮮明師と新ソ連革命』(光言社)、『文鮮明師とダンベリーの真実』(光言社)等、遺稿集として『美しい国・日本の使命』(世界日報社)がある。>

 何も関係ない人間が北米極真空手会長を務める・・・・・・

 Wさん御夫妻来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 Aさん来店。

 Aさんから頂いた空軍五十周年記念バッジ

 

 

 営業終了後、Aさんと久々に歌舞伎町ゴールデン街へ。

 何軒ハシゴしたか覚えていない。

 ドンチャン。

 記憶無し。

 気が付いたら当店の床で寝ていました。なんで、床なんだろう・・・・・

 サル以下


大山倍達空手修行の嘘

支那での修行

10月11日月曜日晴れ ○

 「空手バカ一代」に描かれた大山倍達氏がただの一度だけ敗北したという陳老人について、大山氏の南朝鮮の息子さんたちが筆者であるという「我が父チェ・ペダル」には下記のように書かれている。

<真相を語ろう

 父は中国での修行行脚の中で、太極拳の達人とされる陳老人の噂を耳にした。

 これを聞いた父は、すぐさま情報を求めて探しまわり、なんとかその老人に会う事ができた。しかし実際に会った陳老人は体も小さく、既に動くのもままならぬほど老いていた。父は失望を禁じえなかった。

 だが実際に対戦は叶わなくとも、二人でお茶を飲み互いの武術を論じ合う仮装対練はできる。父は陳老人にこれを申し入れ、二人で仮装対練を行ったという。すると父の目には、老人の小さな体が次第に大きく映り始め、その武術世界に頭を垂れざるを得なくなったというのだ。

 「陳老人の太極拳には、しなやかではあるがとてつもない破壊力が宿っていた。相手の攻撃を巧妙に利用してケガを負わせる武術こそ、まさに太極拳の極意だ。そこで私はハッとしたんだ。実戦空手家としての自分は、それまで強く、早く、直線的なものを至上としていた。ところがこの老人は柔らかで滑らかな動きによって、力を入れずとも相手を倒してします。これはかなわないと思ったよ」

 その後、父は陳老人と何週間かをともに過ごし、太極拳の柔軟性と強靱性との調和を学んだという。

 これを話作りの好きな人が「倍達の敗北」と表現したのだろう。>

「我が父チェ・ペダル」(ボム・ス・ファ 金至子訳 アドニス書房 平成十八年刊)P三十六

 

 親子というものはこういうものなのでしょうか。

 それとも、「息をするように嘘をつく」という朝鮮人の血なのでしょうか。

 戦前に大山氏は支那において空手修行業行脚をやってはいませんし、戦後まだ国交回復もしていない支那において、何週間も滞在し空手修行などできる筈がありません。

  だいたい、支那語がわからん大山倍達氏がどうやって「お茶を飲み互いの武術を論じ合う仮装対練」とやらをやったんだ!

 

 他にも

<日本に着いた父は、姓を「大山」と改めた。来日した頃、何かと世話を焼いてくれた同じ職場の女性の姓が大山だったというのが理由のようだ。また後に、名も変えた。遠く離れても祖国と倍達民族を忘れまいと「ヨンウィ」から「倍達」に改めたのだ。

 大山倍達の名を得た父は、一九四三年、日本航空隊に入隊。しかしそこでの生活は、父が当初思い描いていたような平穏なものではなかったようだ。理由は、彼が「朝鮮人である」というただ一点による。つまり差別だ。

 同期生をはじめとする日本人から何かと言いがかりをつけられる。またどこかで喧嘩が起れば、たとえ無関係であれ濡れ衣を着せられ罰せられる。だが、当時の日本では往々にして見られたこのような差別は、周囲の者が父の腕っぷしを知るにつけ、徐々に収まっていったという。当時のこうした状況を指して父は「日本人には、力のある者に対し畏れの念を抱くようなところがある。自分より強い者には意外と簡単に頭を垂れるのだ」と語っていた。>

「我が父チェ・ペダル」P九十〜九十一

 ここまで嘘を連ねると、もう呆れるより朝鮮人というものに対して哀れみさへ覚えます。

 名を奪われたをほざいているアホ朝鮮人の逆のパターンですが、戦前に日本に一人で渡ってきた大山「少年」が勝手に名前を変えられる筈もなく、通名として名乗っただけである。ましてや、ありもしない日本航空隊などというものに入隊できるはずもありません。

 何度も書いているように、大山氏は徴用工であり軍隊に入隊してません。

 それだけでなく、お約束の差別、差別と騒ぐアホ。 

 そして、「力のある者に対し畏れの念を抱くようなところがある。自分より強い者には意外と簡単に頭を垂れるのだ」とは、支那に対して奴隷国家として朝鮮民族がやってきたことです。

 <一九四一年に拓殖大学に入学した父は、それから二年間、船越義珍の私設道場に通い詰めた。船越義珍とは、近代空手の祖と呼ばれる、松濤館の創始者だ。ここで空手の奥深さを知り、ますます空手に没頭したという父はまた、同時期に宮城長順の弟子でもあった朝鮮人チョ・ヒョンジュンと出会い、剛柔流空手道にも接したという。>

「我が父チェ・ペダル」P九十一

 

すでに書いたように大山氏は、拓殖大学には入学していない。そして、これも書いたように、船越先生の松濤会には昭和十八年(一九四三年)六月入門一九四四年二月十八日に行われた第十六回昇段審査会で初段位を船越義珍氏より允許。松濤館の記録では「大山猛虎」と記されている。

 その後、大山は、同年九月、朝鮮人徴用令によって召集されるまで松濤館道場で稽古に励んだ。その間一年三ヶ月である。

「大山倍達正伝」P三百七十八

 ましてや、大山氏は「剛柔流空手道にも接したという。」のではなく、剛柔流空手をやっていたのであり、それは極真会館を名乗るまで続いた。

 昨日、スポーツセンターに行った時に、よく一緒になる方から教えていただいたチューブを使ったトレーニングメニューを新しく加えてやったせいもあり、いつもと違った箇所が筋肉痛。

 秋晴れの気持ちのいい一日であったが、午後より食事に出かけただけで、後は部屋でゴロゴロしていた。

 酒は飲まず。


「我が父チェ・ペダル」に見る空手修行の嘘

10月14日木曜日くもり ×××× 

大山倍達氏の南朝鮮の御子息が書いたとされる「我が父チェ・ペダル」には、大山氏はいわゆる「全国空手道選手権大会」にて優勝したのち、自分の道場の看板を掲げたが、数日もしないうちに周辺の空手道場から続々と挑戦状が舞い込んだ。それも、大山氏が朝鮮人だからとタカをくくっての事だと書いています。

(「我が父チェ・ペダル」P一〇六)

 あまりにもその挑戦者の数が多く面倒になって全国行脚し道場破りをした事になっている。

 最初の犠牲者として、京都の名門、「二条道場」というところがでてきます。この道場には「二条十傑」と呼ばれる辣腕の弟子が十人もおり、いずれも空手界では名の知られた強者だそうです。

 その強者十人を十分余で倒し、副館長もたった一発で病院行きにしたそうです。

 そして、その一件は、目撃者たちの口によって瞬く間に世間に知られるようになり、翌日の新聞各紙は、出航の錨を上げた大山氏の全国行脚を次のような見出しで伝えたそうです。

<「空手界の宮本武蔵!二条道場を焦土化する。」

 「悪夢の巡礼者、日本中の空手界に挑戦。」

 「実戦空手の野獣、大山倍達。誰が彼を阻むのか?」>

 残念ながら、これらの「全国紙」の見出しはネットでの検索では見付ける事はできませんでした。

 もちろん「大山倍達正伝」にも掲載されておりません。ハイ!

 その後、二本貫手で電話帳だけでなく防具まで突き抜くことができる達人などを撃破後、最後は横浜に住む「空手の神仙」と呼ばれ、日本中の空手家から尊敬されている七十歳の空手家に試合を挑みますが、何度申し込んでも受けてもらえず、全国行脚は終わるそうです。

 この間、不意の襲撃に備えて日に何度も宿替えをしてさへ、毎晩のように石が投げられるという四面楚歌の中、全国を回ったそうです。

(あまりにもアホらしいので「我が父チェ・ペダル」P百八〜百十三をハッショリました)

全国行脚を終えた後、牛との格闘をやり、「猛」牛を倒します。

これにより、大山氏は人気者になるそうです。

以下引用

<素手で牛を殺した男。その評は、一気に父を日本中の人気者とした。ある年には、日本の青少年たちが尊敬する人物十人に父の名が挙がるほどだったというし、若者たちの中には父のヘヤースタイルやラフな服装を真似る者が続出したと聞く。>

(「我が父チェ・ペダル」P百十六そのままです)

(別にお笑いの為に書いてるとは思わないのですが、朝鮮人はともかく、大山氏のあのヘヤースタイルをまねるアホな日本人はいないと思います。・・・・)

下記のように続きます。

<だが、こうして大山倍達のカリスマ化が進む中、慌てた日本の武道界から声明が発せられた。

 彼等は、極真空手をあくまで邪道として非難したのだ。

 剣道界と柔道協会は父の牛との苦闘を評価せず、彼を武道界の邪悪な者と酷評した。空手界は、父が朝鮮国籍の人間であると御丁寧にも触れ回り、その実戦空手はチンピラのケンカとかわらないとまで罵倒した。>

「我が父チェ・ペダル」P百十六

 なんで、剣道界と柔道界が非難声明を出す必要があるのでしょう。

 もうアホかと。

そして、柔道家を「実戦勝負」で半身不随に追い込んだ大山氏はついに、天覧試合にて六連覇を成し遂げた柔道家からの挑戦を受けます。

会場は東京の「国技館」です。

<柔道チャンピオンの日本人と空手チャンピヨンの朝鮮人の対決は、人々の大きな関心を呼んだ。この話題性は、会場が東京の国技館に決定すると、さらに大きなものとなった。

 当日、国技館いっぱいに柔道チャンピオンへの声援がこだまする中、父は冷静に戦況を予測していた。

「相手は、自分より四十キロは重い巨漢。そしてサンボと柔道を得意としている。その利を活かすため、俺を掴まえてから極め技を仕掛けてくるに違いない」

 略)

 相手の足の指に全体重をかけ、力一杯踏みつけたのだ。

「ぐきっ!」

 なにかの折れる音が、大観衆が詰め掛けた国技館にこだました。

 柔道の達人の足の親指が折れたのだ。実戦では、胴や頭部などの急所を狙う以外に、手や足の指を骨折させただけでも相手は抵抗出来なくなる。

 足の指をやられた相手は、もはや重心を保てなくなっている。父は続けて、肘の強烈な一撃を相手のあごに入れた。あごがくるりと回り、大の字になってた俺、男はもう起き上がらなかった>

「我が父チェ・ペダル」P百二十二〜百二十三

 残念ながら、「国技館」で行われたというこのものすごい試合の記録も私の拙い力では発見する事はできませんでした。

 ただ、柔道の天覧試合としては

 御大礼記念天覧柔道大会(昭和四年五月) 

 皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会(四回戦進出者のみ)を対象とした(昭和九年五月四日〜五日)。 

 皇紀二千六百年奉祝天覧武道大会(四回戦進出者のみ)を対象とした(昭和十五年六月十八日〜二十日)

 ぐらいしか見付ける事ができませんでした。

 天覧試合六連覇とはどこの柔道家のお話なのでしょう。

 柔道家はこの「我が父チェ・ペダル」にも登場する、大山氏も柔道界最強の柔道家と認めている木村政彦氏ではなかったのでしょう?

 もうアホかと。

 

 その後、柔道チャンピオンとの対決から間もおかず、またもや挑戦状が送られてきます。

 今度は剣道高段者だったそうですが、それを真剣白刃取りで受け止めた後、相手のあごに二段蹴りを炸裂させ、悲鳴と共に二.三メートル吹っ飛ばします。

 これも、もう引用もアホらしいのではっしょりました。「我が父チェ・ペダル」P百二十五あたり

 暴力団から送り込まれたナイフを持った男を渾身の一撃で、殺してしまいます。

 その他にも、今まで戦った柔道家、剣道家などは障害者として生きていくしかなかったそうです。

 「我が父チェ・ペダル」P百二十六〜百二十七あたり。

 私闘や正当防衛で相手を殺したり片輪者にしても、不思議とどういうわけか警察のお世話にもなっていません。

 三十対一 武蔵野大決戦

 え〜と、なんと、「三十人対一人」という日本の武道界が揺れた決戦だそうです。

 もうすでに、今まででも随分揺れていると思いますが、まだ、揺らしたらなかったようです。

 <そして、ある日、日本の武道界が揺れた。

 空手の加藤七段を代表とした武道界の連合勢力が、父を断罪するとの声明を発表したのだ。断罪の名目として挙げられていたのは、日本各地の道場破壊行為や先の男(木下注 殺してしまった暴力団から送り込まれた刺客)の遺族との不適切な関係などなど。彼等は男の遺族との噂を非難する声を追い風に、目の上の瘤である父を葬り去ろうと画策したのだろう。

 父は怒った。

略)

 父は箱根山から戻るとすぐに加藤七段の道場を訪ね、武道界との連合勢力との対決を宣言した。

 決戦の場として定められたのは、武蔵野の荒野。父に対して、日本の武道界から最先鋭クラスの者たちが三十人以上選ばれたという。「武蔵野大決戦」の始まりだ。

 対決に先立って、父は決闘場所となる武蔵野の荒野を下見した。地勢や障害物を調べ、戦いのイメージトレーニングをするためだ。

 そして数日後、決戦の場に立った父の前には、実戦派の沖縄空手の修練生十余人と、剣道のある一門の上位弟子八人、天覧試合で優勝した柔道家ら七人の顔があった。>

 「我が父チェ・ペダル」P百三十二〜百三十四あたり。

 アホらしいからめちゃはっしょりまして、大山氏はすべてノックアウトして勝ちます。

 まるで、宮本武蔵と吉岡一門です。数も同じぐらいだし。

もうどうでもええです。

 アホらしくなってきましたので、このアホ本からの引用は止めます。

 このアホな本は「我が父チェ・ペダル」という大山氏の子息たちのよって書かれたとして朝鮮で出版され、我が国でも翻訳出版され、大山氏の後継者と「された」松井章圭氏が推薦文を書いている。

<本書は、傑出した武道家であり、教育者である大山倍達と韓国の息子が紡ぐ、すべての親と子へ捧げる愛の記録である>

と、

 もうアホかと。

 Oさんお二人様で来店。

 Sくん来店。

 営業終了後、「アンブラ」さん、「エムズバー」さんとハシゴ。

 記憶なし。

 サル以下


 

大山倍達の嘘

全日本空手道選手権大会優勝という嘘

10月13日水曜日曇りのち一時雨

大山倍達氏が優勝したと「いわれている」戦後初の昭和二十二年に開催された「はず」の全日本空手道選手権大会については

<一九四七年、春。京都の丸山公会堂で、それまでにない規模の空手大会が催された。大会には、当時いくつにも分派していた空手流派のほとんどが参加し、自派の優位性を示そうとそれぞれが代表選手を送り込んでいたため、空手の大会としては珍しく、多くの人々の関心を集めていた。

 また、普段は無視されがちな空手大会に人々の耳目が集まった理由の一つには、一人のスター選手の存在も挙げられる。その選手とは、優勝候補筆頭であり「首切りの達人」との異名を持つ、南波だ。首切りとは、南波の得意技である回し首蹴りが、囚人の首切りを彷彿とさせるために着けられた呼称だという。

 前年、南波はこの首回し蹴りで中国から来た詠春拳(至近距離で敵の攻撃を処理しながら相手の急所を攻撃するのが特徴)の拳士を破り、半身不随に追い込む攻撃を見せた。敗戦により息消沈していた当時の日本人にとって、これは非常に痛快な出来事だった。そのためこの大会でも、多くの観衆が南波の勝利を見ようと丸山公会堂に押し寄せたのだ。

 では一方で、我々の父である大山倍達はどうであったか。実は父は、大会があると聞いても、自分が参加することなど考えもしなかったらしい。それでも父が会場に足を運んだのは、他の空手家たちがどうやって優勝者に選ばれるのかを単純にその目で確かめたかったからだという。

 

 大会では、相手に触れる直前で攻撃を止める寸止めルールによって勝敗が決められていた。結果、優勝者となったのは、やはり首回し蹴りの達人、南波。

略)

優勝者である南波の前に進み出て、大声で挑戦状を叩き付けたのだ。

略)

この時点で、観衆のほとんどは父をせせら笑っていたという。

略)

そして、父への反感は、彼が朝鮮出身者であることが伝えられると、さらにヒートアップした。

「朝鮮野郎が、優勝カップが欲しくて強がるんじゃあねえ。ここは町内道場じゃあねえんだぞ」

略)

 観衆には、父が今にも南波の攻撃を受けて倒れるとしか思えなかったし、誰もがそう願っているような会場の雰囲気だった。

 だがこの時、南波の蹴りをかわす父の目には、南波の弱点が映っていた。寸止め試合ばかりで勝負してきたためか、南波は顔のガードが甘かったのだ。父はローキックで南波の重心を崩して懐に入るや、素早く左のジャブから右のストレートへとつなげるワンツーを浴びせた。そして慌てた南波が繰り出す手刀をかわしてコンビネーションブローを華血、そのまま一気に攻め落としたのだ。

その光景は、会場に居合わせた全空手家にとって信じられないものだったはずだ。>

「我が父チェ・ペダル」P一〇二〜一〇八

 朝鮮人は息をするようにウソを言うというがまさにそのとおりです。

 そして、大山氏の著書だけでなく、現在も多くの極真会道場のホームページには此の事が記されています。

国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページには「極真の歴史」として。

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/about/history/1920-1989.html

<1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。>

極真会館大石道場オフィシャルホームページには下記のように書かれている。

http://www.kyokushin.ne.jp/index_sousai.html

<1947年全日本空手道選手権大会で優勝。>

極真館城南大井町支部のホームページには、創始者大山倍達の軌跡 として下記のように書かれている。

http://www.kyokushinkan-jyonan.com/sokuseki.htm

<47年、戦後初の全日本空手道選手権優勝。>

 これについてもすでに書きましたが、大山氏が優勝したという京都丸山公会堂で行われたという昭和二十二年全日本空手道選手権大会そのものがありません。

 

 <大山が戦ったという「全日本空手道選手権大会」は単に記録として残っていないだけでなく、時代的に考えても大きな矛盾を秘めている事がわかる。当時、試合ルールが存在しなかったことは明白なのだ。大山は「試合は寸止めだった」と公言してきたが、そもそもこの時代「寸止め制」は存在しなかった。更に言うならば、一九四六年にGHQが発令した「武道禁止令」により、武道は試合は勿論稽古そのものが禁じられていた。このような背景の中、一九四七年に空手の大会が開かれた事自体、極めて非現実的な話である>

「大山倍達正伝」P三百九十六

 <大山との関係が親密になった一九九〇年頃、私は機会を見計らって大山に大会の件を質した。

略)

 私(木下注 小島一志氏)の質問に大山はあっけらかんと答えた。

「全日本大会なんていうものはないんだよ」

 私は言葉に詰まった。大山は続けた。

「私の武勇伝は数知れずありますが、みんな真実なんてことはないんです。

略)

戦後初の全日本選手権優勝というのは間違いなんです。あれは梶原一騎のつくり話です」

 いまとなれば、「そういう伝説を本で書いたのは総裁自身ではないか」と憎まれ口のひとつでも返したくなるが、当時の私は大山の言葉を疑わなかった。

「あれは正式に言えば空手の選手権ではなくて、言わば武道大会のようなものだった。だから空手だけでなく柔道や剣道も参加していたかな。重量挙げもやっていた。戦後の復興期に国民に勇気づけようとして開かれた武道大会でした」>

「大山倍達正伝」p三百九十七

ではその大山氏が出場し優勝したという極真会館関係者に信じられている「いわゆる」全日本空手道選手権とはどういう大会だったのか。

 <大山倍達が語る通り、確かに大山が「武道大会」に出場したのは事実である。

 しかし、厳密に言うならば、それは「武道大会」と呼ぶには余りにも違和感を伴うイベントであった。

 一九四七年夏、日本中に大被害をもたらしたキャスリン台風が関東を襲った数日後であったという。

 <<九月二十六日、八日京都大阪で体育奨励会主催で体育大会(柔道、空手、重量挙げ、器械体操)があり、主催側も是非との要望がある故、三、四人出場させたい。私も行くから君も同伴されたい>>

「先輩からこんな手紙をもらったので、腕試し程度の気持ちで私も京都に行きました。会場は丸山公会堂だった」と大山は言った。手紙の送り主については大山は名言を避けたが、私はツ寧柱であると確信している。

 では、大山が参加した「体育大会」とはいったいどのようなものだったのか?

 次に紹介する「京都新聞」の記事が唯一現存する記録である。長年、伝説となってきた大山が優勝したという「全日本大会」の真実を伝える証拠としてメディア初公開と言ってもいいだろう。

 これは、一九四七年九月二十八日付けの日曜日版、第二面(社会スポーツ欄)の左下に小さなベタ記事として掲載された。全文を引用する。

「京都座の体育大会圓心楽部並に京都文化協会共催京都府、市後援の体育大会は二十七日午後一時と6時の二回にわたり京都座で挙行。まず器械体操で元オリンピック選手が金棒、平行棒に神技に近い美しいフォームをみせる。重量挙げでは斯界の第一人者井口選手がオリンピック種目を紹介すれば古技空手道もまた真剣かつ壮絶な妙技を公開。続いてスポーツ柔道の新路打開に努力を続ける柔道界の人々が警棒の型、護身の方

型、極の型等を公開した後、呼物日本体育奨励会(関東)対京都軍の対抗戦に意義のある体育大会の幕を閉じた。

 柔道対抗戦=日本体育奨励会二対一京都軍 

 先鋒 徳永四 引分  溝水四

    坂本四 引分  渋谷四

    牧野四 引分  中井四

 中堅 三輪四 膝車  多田四 ×

    篠原五 内股  今井五 ×

 副将 山森五 引分  堀部五

 大将 野口五 大外返 広川五 ○

 審判 西六段

 (氏名下の数字は段位)」

 

 大山に送られた手紙の内容とほぼ同様の種目が行われたことが、この記事から理解出来る。

 さて、ここで第一に問題となるのが会場である。「京都新聞」の記事からもわかるように、この「体育大会」は「京都座」が会場として使われた。しかし、大山の著書をはじめとするあらゆる資料や大山の言葉は、一貫して「京都丸山公会堂」となっている。だが、私達が調べた限りでは、京都には現在も昔も「丸山公会堂」という名称の体育館も公会堂も、また劇場も存在しない。>

「大山倍達正伝」P三百九十八〜四百

つまり、大山倍達氏自身が数多くの著書に書いてきた、戦後初めておこなわれたという「全日本空手道選手権大会」だけでなく、その会場であったという「丸山公会堂」等と言うものは存在しないのである。

 では、大山氏が出場し「優勝」したという大会はなんであったのか。

 これについて小島氏は下記のように記しています。

<新京極の歴史に詳しい井上恭宏(株式会社左り馬代表取締役社長)は

「京都座は、戦後三軒あった劇場のうち二番目の規模でしたが、最も明治時代の建物らしく京都の人達に人気がありました。舞台の前は広い畳になっており、後方にせり上がる形で椅子席もありました、

 演目は芝居と映画の上映がほとんどでした。」

 大山が出場した「体育大会」について記憶がないのはもちろん、京都座でスポーツや武道の試合が開催された記録はない筈だと井上は言う。

「娯楽施設ですから、いろいろな見世物も行われていました。でも現在、公共の施設で開かれるようなスポーツの大会や試合が行われる事はないと思います。もし柔道や空手の試合が行われたとしても、それはあくまで見世物で、いわゆる慰安興行のようなものだったのではないでしょうか」

 大山が出場したという「全日本空手道選手権大会」もしくは「武道大会」の実体は、「体育大会」と銘打たれた見世物興行だったのである。午後一時の六時の二部制で行われていたという事実が、芝居等と同じショーであったことの傍証と言える。>

「大山倍達正伝」P四百〜四百一

そして、大山氏が出場したという「全日本空手道選手権大会」というこの見世物興行を主催した「圓心倶楽部」については小島氏は次のように書いています。

<この「体育大会」を主催した「圓心倶楽部」とはいかなる団体なのか?大山の言葉によれば「旧大日本武徳会のOBたちが作った団体」ということになる。

 格闘技研究家の宮田玲欧は「ツ寧柱氏が関係した事から、旧義方会または東亜連盟関係の組織ではないか」という。残艶な事に、私達はあらゆる手段を使っても圓心楽部に関する資料を見付ける事はできなかった。

 ただ、ツが「私の知人が関わった組織」と雑誌の質問に答え、私にも「京都の私の仲間が作った」と語った事から考えて、ツが実質的な黒幕であり大山が幹部として活動していた在日朝鮮建国促進青年同盟(健青)が便宜的に名乗った団体名ではないかと私は推測する。

 第一部・第四章でも言及したように、戦後、健青は活動資金の調達を目的に多くの興行を行っている。ボクシング興行に始まり歌謡ショーやサーカス紛いの見世物まで、健青は積極的にスポーツ芸能の興行を行っていた。また当時、「対共産主義活動」を通して健青はGHQと友好関係にあった。興行と言う名目ならば、武道禁止令によって禁じられていた柔道の試合も許可された可能性は高い。

 ちなみに、GHQによる武道禁止令が正式に解除されたのは一九五〇年である。ただ、実質的には一九四八年頃から制限が緩やかになったと言われている。

 木村政彦が優勝した戦後初の全日本柔道選手権大会も一九四九年に行われた。だが、一九四七年に柔道や剣道、弓道の大会が開かれた公式記録はない。

 いずれにせよ。圓心倶楽部心という組織の名前が大山が出場した「体育大会」以外、一切記録として残されていないのは極めて不自然である。

 京都では名門中の名門と言われた京都座を会場として採用する為に健青が圓心楽部を名乗ったとするならば、総ての疑問は解決する。大山に送られたツの手紙に書かれていたように、大山は健青幹部として空手の演武を披露する目的で、ツと京都に(同伴)した。そして大山の見事な演武を顕彰して記念のトロフィーが贈られた。

 これが、「大山倍達伝説」のなかで伝えられてきた京都丸山公会堂で開催された第一回全日本空手道選手権大会の真相である>

「大山倍達正伝」P四百二〜四百三

つまり、大山氏のいう「全日本空手道選手権大会」とは、身内の朝鮮人関係団体がやった銭集めの見せ物興行だったわけです。

あほらし

営業時間前に初めてのお客様がいらしてくださる。

其の後、これまた初めてのお客様二名様来店。

そして、ず〜とご来店はなし。

営業終了前にSさん来店。

ドンチャン。

記憶は少しはあったと思う。

猿よりマシ。


大山倍達正伝に見る創氏改名の真実

平成23年2月10日木曜日晴れ △

 売国新聞である変態新聞(毎日新聞ともいう)は、朝鮮人の肩を持ち、嘘を平気で書いている。

 昨年の記事だが下記のように書いていた。

 <日本語や神社参拝強要 ごう慢さを後悔−−杉山とみさん(89)

 日本の植民地時代の韓国・大邱(テグ)。1921年夏、帽子店を営む両親のもとに生まれた。現地の女子師範学校を卒業し、太平洋戦争が始まった41年、今の小学校にあたる達城国民学校で初めて教壇に立った。

 現地ではこのころ、朝鮮語教育が禁じられ、日本名に改名させられていた。杉山さんも子どもたちに軍歌を教え、神社に参拝させた。日本語が分からない子どもと朝鮮語が分からない教師。出席もとれず、悪戦苦闘した。>

平成22年8月12日毎日新聞 平和の糧に:背負ってきた65年/2 韓国の国民学校で教員、杉山とみさん 

 ハングル文字を普及させたのは、日本統治時代の政策であり、ましてや、朝鮮語の禁止と言うが、朝鮮語は一九三七年(昭和一二年)まで必修であり、非常時にさいしての「国語(日本語)」の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はない。

 京城帝国大学法文学部に、朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の二講座があった。大東亜戦争中にいわゆる皇民化教育がなされたときでも、この二講座には何らの制限も加えられなかった。

 

 

それだけでなく、日本名を名乗っていたと言うが、それは法的にはほとんどが通名であった事実を隠している。

 日記に何度も書いているが、洪思翊中将、金貞烈大尉など日本軍の将校として朝鮮名のまま活躍した朝鮮人も多く存在する。

 

「創氏」が個人事に行われたものではなく、「家族」を代表する家長の名前で行われた事実である。

 つまり「設定創氏」であれ「法定創氏」であれ、家長が朝鮮名を「氏」とすれば、その家族は自動的に同じ朝鮮名のまま戸籍に登録された。

 また、「設定創氏」によって家長が日本式の「氏」を名乗れば、家族も皆同じ日本式の「氏」となった。結果的に「法定創氏」によって、それまで使っていた朝鮮式の「氏」を名乗り続ける朝鮮人も少なくなかった。

 一方、「改名令」は強制でなく、あくまでも「任意」だった。「改名」を行う場合、まず裁判所の許可を得る必要があった。

 その後に、役所に手数料を払い届け出をした。「改名」が強制でなかった事は事実だが、「改名」の際に日本式の名前が推薦された事も事実である。

 資料によれば、朝鮮在住の朝鮮人のうち、「改名」を行ったのは最終的に九・八%に過ぎず、在日朝鮮人で「設定創氏」の手続きをした人達も十四・二%でしかなかった。

 つまり八十五・八%の人達の名前は「創氏改名」の手続きを経たものではなく、いわゆる通名でしかなかった。

 ちなみに、創氏改名によって夫婦は同じ苗字を名乗る事が義務付けられた。>

「大山倍達正伝」P百十一

 <大山氏が山梨航空技術学校に提出した書類に記された「崔永宣」ではなく、その時代に名乗った「大山虎雄」は創氏改名でなくあくまで通名である。大山氏の実家は戦中・戦後を通じて「崔」を氏姓にしていたからである。

 大山氏が個人で「創氏」の手続きをするのは不可能だったのだ。>

p百十一〜百十二

 

 言葉を奪ったと言いながら、人口の二十%しか日本語がわからなかった。

 勝手に我が国に来ておきながら、「強制連行された」と嘘をいい、

 名前を奪われたと言いながら、今でも偽名を平気で名乗る朝鮮人。

 いくら偽証が国技だと言っても、いい加減にして欲しいものです。

 

 

 今日は遅い時間から忙しくなりました。

 Oさん来店。

 バンブーさん来店。

 小胡子さん来店。

 Sさん二名様で来店。

 Kさん来店。

 わ。さん来店。

 Sくん来店。

 Kさん二名様で来店。

 めぐ蔵さん来店。

 フィリッポさん、イタリアワイン醸造家のルカさん三名様で来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 

 

 営業終了後めぐ蔵さんと蔵元さんに伺う予習ということで、ドンチャン。

 いろいろと空きました。

 

 電車が動いていた・・・・・・・

 記憶はあり。

 サルよりマシ。


 


 

 

 


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