オーストラリア軍の捕虜虐殺
文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます。
平成19年1月20日土曜日雨 △
オーストラリア軍の不法行為について
「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなった時の話を覚えているかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ 捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」(リンドバーグ日記八月六日)
ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によって、日本軍捕虜に「死の行進」が課せられた。
ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇名がトロキナの仮収容所に移送されることとなったが、栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、気温三五〜三八度の中を一〇マイル行進させられた。翌日、到着の一二五〇人も同様であった。豪州軍の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。
体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、川の両側に並んだ豪州軍将校たちが水を飲ませまいと、足で水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。一〇月八日に着いたナウルからの七〇〇人とオーシャンからの五一三人も同じ扱いを受けた。
くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、マラリヤに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。捕虜のほとんど全員が感染、約七〇〇名が死亡したとみられる。
以上「日本の反論」米田健三著 p一六五およびp一七一〜一七二よりの引用ですが、米田氏はリンドバーグ日記および「軍事史学 第三五巻第二号」喜多義人論文より引用されています)
我が国における捕虜の待遇
平成23年1月7日金曜日晴れ 寒い ××××××
| 品目 | 捕虜 g | 兵士 g | 重労働 g | 軽労働 g | 一般 g |
| 主食 | 705 | 705 | 570 | 390 | 330 |
| 肉 | 5 | 10 | ー | ー | ー |
| 魚 | 30 | 30 | 10 | 10 | 10 |
| 野菜 | 400 | 400 | 200 | 200 | 200 |
| 味噌 | 50 | 50 | 50 | 50 | 50 |
| 油 | 15 | 10 | ー | ー | ー |
| 砂糖 | 5 | 7 | ー | ー | ー |
| 牛骨 | 100 | ー | ー | ー | ー |
| 熱量(kcal) | 3000 | 3000 | 2200 | 1800 | 1400 |
捕虜給与規則(昭和十七年二月二十日陸軍大臣通達第八号)
捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金まで規定。署名は陸軍大臣東條英機。
表は昭和二十年、大阪俘虜収容所における比較表。
「戦争プロパガンダの嘘を暴く」(三好誠 展伝社 平成十七年刊)p百十八〜百十九
多くの国民が飢えている時に、主食その他で皇軍兵士と同量だったのです。
米国、英国、オランダ、ロシア、支那、オーストラリアなどは、多くの文献にあるように、我が国の軍人捕虜をどのように扱ったか。自国の軍人と同じ量の食事を捕虜である我が国軍人に与えたのか。
私もこの三好誠氏の著書により初めて知る事が出来ましたが、なぜ、このような事実が今まで報道されてこなかったのか。
我が国の戦後に行なわれたウオーギルトインフォメーションプログラムによる傷はまだまだ深いと思います。
バンブーさん来店。
Sさん二名様で来店。
Nさん、真理子さんと来店。
Kくん来店。
ギリギリブラザース三名様で来店。
今回が初めてギリギリブラザース勢揃い。
Kさん、Sさんと来店。
博子さん、幹子さん四名様で来店。
アンコウ鍋。
酔狂師さん来店。
今日は早い時間から大忙し。
どうしたんでしょう・・・・
料理、洗い物その他に追われ、飲めなかった。
でっ、遅い時間からドンチャン。
結果、記憶なし。
やっぱ、サル、猿、SARU、申・・・・・・