流石は腐れ放送局NHK
2月28日火曜日曇のち雨 ○
私はテレビが無いので見ていなかったのですが、あの競走馬の尻を国歌斉唱のときにず〜と写しているNHKは今度は荒川静香選手の国旗を持ってのウイニングランをいっさい放送しなかったと今、インターネットでお祭りになっています。
(ただ、荒川選手の持っている日の丸の白地と赤い丸が凄くアンバランスのように思うのですが・・・・・)
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海外では流された上の写真にあるウイニングランが、下の写真にあるようにNHKの放送ではその場面は一切流されませんでした。
http://f.flvmaker.com/mc.php?id=hHrFdggS2olEKcM8_4XfDOR8jt7q4yj7p4Fo.D_ATHLWL_bOqEQGqpg7dI/zcfk/JpicYSMkmulicYtQlFQs
ここを見ればわかるのですが、ウイニングランについては生放送をしているアナウンサーも解説者もいっさい放送ではしゃべっていません。ず〜と壁を写す不自然な映像が続きます。
日本の事を大嫌いなNHKはばれないだろうと思ってやっていたのでしょうが、今の時代は海外での情報もリアルタイムで入ります。
ちなみに、南朝鮮がワンツーフィニッシュしたショートトラックでは、 南朝鮮国旗を持ってウイニングランしてる姿を完全放送していたそうです。
また、NHKの五輪ダイジェストでは加藤選手について、前走選手の転倒は取り上げたものの、それが南朝鮮選手だったことは言及せず、他国コーチ(南朝鮮人という話もあり)にぶつけられスケートの刃を傷つけられたことにも、一切触れず。しかし、シャニー・デイビスについては、「黒人であるがゆえにいわれなき差別を受けた」と放送しているそうです。
国旗、国歌という言葉も使わず、自国選手のウイニングランも放送で流さないNHKとはいったい何処のテレビ局でしょう。
こんな腐れ放送局に血税が使われるのはたまりません。早く潰れて欲しいものです。
今日はメチャヒマ。二名様開店前に来店いただいたが、残念ながら開店準備が間に合わず、お帰りいただく。Kさん三名様女性ばかりで来店。
阿波屋さん
2月27日月曜日曇り ×
今日は部屋でゴロゴロしていて、午後に長谷川さんを通じておつき合いいただいている大宮の酒屋さん「阿波屋」の今野さんにお店が終わったら飲みましょうとお誘いの電話。今野さんが懇意にしている「あい彩」さんというお酒が充実しているお店にてドンチャン。「陸奥八仙」「惣邑」「根知男山」「松の司 斗瓶10BY」などなど御馳走になる。その後、もう一件ドンチャンで大ヨッパライにて帰宅。誘っておきながらすっかり御馳走になってしまった・・・・・・
池田大作と支那
2月26日日曜日雨 ○
〈名誉会長中国の王毅大使と永遠の日中友好へ会談〉〈友好の「金の橋」を未来へ〉〈平和の悲願を後継の友に〉
築地でただで配られているキチガイ新聞(聖教新聞ともいう)の二月一七日付一面の見出しです。池田大作名誉会長と支那の王毅駐日大使が、歓談している写真が掲載されています。内容は
以下引用
万代に光る日中友好の金の橋を!池田名誉会長は16日午後2時、中国の王毅駐日大使一行を東京タ濃町の聖教新聞本杜に歓迎
略)
鋭い頭脳と端麗な容姿。「中国外交界のスター」「若き工ース」と称される。
略)
2003年からスタートした朝鮮半島の核問題をめぐる「6カ国協議」の議長役を務め、優れた外交手腕が高く評価された。
略)
席上、王大使は、「池田名誉会長は、中国人民が尊敬する、私たちの古い友人です」と語り、1968年の「日中国交正常化提言」など、両国関係の正常化に果たした名誉会長の功績を高く評価。
大使は「名誉会長は『井戸を掘った功労者』です。その素晴らしい貢献は、日中交流の歴史のなかで、大変重要な一ぺージとなっています。
国交正常化の後も、周恩来総理との出会いをきっかけに、日中間に友情の『金の橋』をかけ、教育・文化の面で両国民の相互理解のために多くの有意義な仕事をしてこられました。さらに、アジアと世界の平和のために奔走してこられました。名誉会長は、まさに『友好の使者』であるだけでなく、『平和の使者』です」と共感を寄せた。
名誉会長は、大使の厚情に深く感謝し、周総理が「平和友好の正義の事業は断じて壊さない」と述べたように、変わらぬ信念で両国の友好に進んできた思いを伝えた。
さらに名誉会長は、「私どもが信奉する仏法をはじめ、日本の多くの文化は貴国から学んだものです。貴国は、日本にとって文化大恩の『師匠の国』です」と強調。
その意味で、中国を心から敬愛し、大切にし、その恩義に報いていくところに、日本の正しき軌道がある。その上に立ってこそ、真実の日中友好があり、アジアと世界の平和にも寄与していくことができるとの一貫した信条を語った。
引用終わり 聖教新聞二〇〇六年二月一七日
宗教人からもっとも遠い存在の権力欲、名誉欲など俗物の権化である池田大作という老人が、支那の嘘つき大使にヨイショされて喜んでいるアホな内容だけの記事です。
池田大作ダイセンセイが井戸を掘った功労者(確か、支那は田中角栄元首相にも同じ事を言っていたと記憶しています)というウソについては、今発売中の週刊新潮(二〇〇六年三月二日特大号)の記事の中にジャーナリストの舟木洋介氏が書いています。それによると、支那は当時の田中角栄首相と竹入義勝公明党委員長が仲がよい事なども知っていたからこそ、竹入をパイプ役に選び、七二年の田中角栄、周恩来の会談があり、国交正常化がなったが、池田大作氏が支那にいったのは、国交正常化になったあとの七四年五月で、周恩来との会談は一二月です。しかも三〇分だけ通訳をはさんでの会談がおこなわれただけだそうです。だから、創価学会が言いふらしている池田大作が国交正常化の先鞭をつけたなどということは完全な間違いだと書いています。
まあ、確かに当時の創価学会・公明党は、日米安保反対を唱え、北京政権承認を主張していたし、一九六八年九月八日の東京日大講堂において開催された創価学会「第一一回学生部総会」にて池田大作ダイセンセイは
支那と我が国のとるべき道として、
「吉田書簡(吉田茂首相が蒋介石総統にあてた支那との貿易に日本輸出入銀行を使わないことを約した書簡)の破棄
支那との国交を正常化する
日米安保条約が支那の警戒心をあおっているので、同条約を段階的に解消する」
などの内容の講演をしていたので、そういう風に都合よく解釈できるのだろうが、国内で吠えているだけで、井戸をほったというならば、他の当時の共産党、社会党などの左翼政党も同じでしょう。
また、池田ダイセンセイが支那に対して「文化大恩の『師匠の国』です」といっていますが、朝鮮にも同じ事をイヤになるほどいっています。
参考→池田大作語録南朝鮮編
同じく、インドに対しても
「貴国は日本にとって『大恩』ある国です。貴国には『慈悲』と・・・」
(一九九二年一月七日インド大使館にてアスラニ駐日大使との会談で)
オーストリアに対して
「オーストリアは日本にとって大恩ある国です。一八六九年、貴国の最初の使節が来日した際、我が国に多くの貴重な学術書及び医療機器を贈っていただきました。私は貴国から受けた大恩を、後生のために語り継いでおきたいのです」
(オーストリア芸術教会会長、ハンス・マイヤー氏との会談にて一九九三年八月二六日聖教新聞より)
池田大作ダイセンセイの要人との会談とは、つまり相手にとって歯が浮くようなお世辞、心地よい美辞麗句を用い褒めちぎるだけの内容に終始しているだけなのです。
支那と我が国との現在の状況に触れるでも無し、支那に対して法輪講、チベット、東トルキスタンに対しての虐殺、弾圧、などの人道問題を話し合うことはありません。
だれとでもお世辞の言い合いしかなく、いかにも池田大作のひとなりと、彼が言っている「世界平和」などというもののそこの浅さが見えてきます。
この項続く
店を片付けてから、スポーツセンターにいく。結局今月は六回だけに終わりました。今日は2・26事件の日か・・・・・というわけじゃあないのだが、飲まず。部屋に帰って、長い風呂に入ってから布団にもぐりこんだら、部屋の灯りも暖房もつけっぱなしで寝てしまいました。
達筆
2月25日土曜日くもり×
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転載
2月24日金曜日雨 ××
国際派日本人の情報ファイルよりの転載です。
………………………………………………………………………………
■■■■■■■■■ JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■
有識者会議・吉川座長はスターリン教徒だった!
中山善照
■転送歓迎■ No.1099 ■ H18.02.24 ■ 8,272部 ■■■■■■■
(伊勢雅臣)皇室典範の改正については、秋篠宮妃のご懐妊に
よって先送りとなりましたが、気をつけねばならないのは、内
閣法制局の中に、皇室廃止を狙う一派が巣くっている事です。
そのあたりの真相が、明らかになってきました。
………………………………………………………………………………
★「有識者」は、内閣法制局の「赤旗グループ」が選任した!
………………………………………………………………………………
★吉川座長はぱきぱきの皇室廃止論者である!
………………………………………………………………………………
★小泉純一郎はコミュニストv皓にはまった!
………………………………………………………………………………
『致知』2006年2月号p.62−p.71
特別対談:中川八洋&渡部昇一
「なぜ女性・女系天皇ではいけないのか」
●中川八洋氏:筑波大教授。
2005年4月『皇統断絶―女性天皇は、皇室の終焉』
(ビジネス社)を刊行。
●渡部昇一:上智大学名誉教授
(以下、中川氏の発言を中心に抄録する:)
┃日本共産党の皇室廃止戦略とその経過┃
★━━━━━━━━━━━━━━━━━★
●女性・女系天皇制度導入とは、天皇・皇室制度廃絶の新し
い共産主義革命である。日本の皇統においては、女性・女系天
皇を容認すれば、皇統断絶に至る。
●天皇制はヨーロッパの相続家産(相続財産:王家に苗字が
あることからも明らか)としての王位とは性格を異にしている。
★「有識者会議」の真の狙いと経過は以下である。
■天皇制転覆を狙う彼らのこの結論は、有識者会議が議論し
てまとめたものではない。皇統断絶による天皇制自然消滅のシ
ナリオは、共産党が1970年初頭から、30年かけて準備し、
狢智に構成してきたものである。
■1927年、1932年のコミンテルン・テーゼ以来共産
主義者によって唱えられてきた天皇制廃止は、1950年代末
までは「天皇退位→裁判→絞首刑」というものであった。
■彼らは1970年代以降、皇族ゼロ/即位希望の皇位継承
者ゼロにする戦術に転換した。日共は、女性天皇を立てること
で皇統を断絶し、自然に天皇制を廃止できると確信したようで
ある。
■この天皇制度自然消滅の革命シナリオは、1993年の皇
太子殿下ご成婚の頃から具体化されたようだ。小和田家の家系
からして、内親王の誕生しか期待できないと踏んだ。
■そして妃殿下ご懐妊報道のあった2001年4月に、内閣
法制局が前面に出て、女性・女系天皇制度導入という革命の決
行が本格化した。
■皇室典範の改悪は内閣提出法案でしかできないため、改悪
を起草するのは、内閣府ではなく、内閣法制局にならざるを得
ない。共産党はここに目をつけ、内閣法制局の共産党系法律事
務官に命じた。
┃内閣法制局アカハタ派の陰謀┃
★━━━━━━━━━━━━━★
■「有識者会議」メンバーも、
この内閣法制局の「赤旗グループ」が選任した。
■内閣法制局は、2001年12月の愛子内親王ご誕生と同
時に、『赴綺春秋』2002年3月号に、「女性天皇容認!内
閣法制局が極秘に進める これが『皇室典範』改正草案」とい
う題の論文を載せ狼煙を上げた。
■2002年4月に園部逸夫氏(有識者会議座長代理)が『皇
室法概論』という大冊を出版した。実際の著者ではなく、名義
貸しとも言われる。有識者会議の『報告書』は、この『皇室法
概論』そのままである。
(園部逸夫氏:京大法学部卒、最高裁調査官、筑波大・炊蕈
大教授を経て、最高裁判事(1989-1999)、皇室会議(1995-1999)
にも連なった)
専門は、共産党系のオンブズマン運動や住民訴訟を拡大合法
化する法制度づくり。原告適格性の拡大に努めた。自衛隊・米
軍基地反対闘争などに尽力した。
┃吉川座長の正体は学生時代からのコミュニスト!┃
★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★
●吉川弘之氏(「有識者会議」座長):元東大学長
学生時代(昭和27−31)に学生運動をやった。その頃の学生運
動は共産党の学生部組織(民主青年同盟)しかなかった。
ゴリゴリの共産党系の天皇制廃止信奉者だから「新しい歴史
をつくる(=天皇・皇室制度を消滅させる)」とか、「新しい皇
室制度の<制度設計>をする(=伝統はすべて破壊・女系天皇を
導入する)」とか平然と言ってきた。
●佐々木毅氏:前東大学長。
社会主義協会系の天皇制廃止論者。
民間臨調などで90年代初頭から今日まで自民党の追い落
としをやってきた強烈な社会主義者。
┃有識者会議は内閣法制局共産党系による選任┃
★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★
●これらの「有識者会議」メンバー選びは、内閣法制局の共
産党系の連中がやった。「有識者会議」とは天皇制廃止のプロ
集団である。
●それを、男系男子による皇位継承の堅持を主張する民族派
は「素人集団」と見誤った。取り返しのつかない大ミステーク
である。
●その代表格は八木秀次氏と小堀桂一郎氏である。素人集団
だから、『報告書』は両論併記になるはずだなどと甘く見た。
国民に広く「油断せよ」と逆宣伝したようなものであり、この
罪は重い。
●非常に厳しい状況である。小泉首相は内閣法制局と共鳴し
ている節があるから、『報告書』どおりの法案が提出されるは
ずである。
┃真っ赤なウソの憲法解釈!┃
★━━━━━━━━━━━━★
●吉川座長は、「憲法が女性・女系天皇を認めている」「報
告書は憲法に従った」のだという、真赤な嘘の憲法解釈(憲法歪
曲) までしている。園部氏の『皇室法概論』の援用である。
●しかも「憲法の解釈権は『有識者会議』が持っている」と
まで主張(する許すべからざる傲慢な発言)は、法律の制定権と
解釈権は共産党にしかないというレーニンやスターリンと同じ
思考であることを示している。
●「皇位継承が男系である定めは日本の伝統に依拠する」と
してきた、これまでの多数説の憲法学説を最初から切り捨てて
いる。
●国会に提出された場合、天皇制堅持派が憲法学上の土俵の
議論で理論的に突き崩すことが出来なければ、敗北は必至であ
る。
●これからの3ヶ月間が勝負である。これに失敗して女性・
女系天皇が容認されると、皇統は断絶し、天皇制廃止に行き着
くのは、火を見るよりも明らかである。
┃皇位がなぜ男系男子でなければならないか?┃
★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★
●(渡部氏:稲の種子はどんな畠に播いても稲が生えてくる。
畠は播く種子によって生えてくるものが違う。
種子には連続性のイメージがあるが、畠にはそれがない。Y
染色体のことを古来日本人は直感的に知っていたことになる。
●男系による皇位の継承は日本という国の根本的な精神性と
結びついている。男系による皇位継承は日本そのものである。
●男系男子のみ神武天皇以来のY染色体がまったく変化を受
けることなく受け継がれるという科学上の真理を広めたのは八
木秀次氏の功績である。
●男系による皇位継承が万世一系のための唯一の方策である
理由がすごく分りやすくなった。2千年間、遺伝子もY染色体
も知らない国民が直感的に天皇の正統性の重要な柱をそこに見
たのである。
┃女性・女系天皇ではなぜ皇統が断絶するのか?┃
★━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★
●史上八人の女性天皇のうち、四方は寡后・寡妃、四方は生
涯独身を通された。愛子内親王は(皇太子)に決まったら、結婚
し、お子をもうけるのは、伝統に反する。
●女性天皇の夫君を何とお呼びするのか、日本語には言葉が
ない。女性天皇に配偶者のない伝統を裏付ける証拠の一つであ
る。
●女性天皇と結婚する男性は果たしているか。結婚相手とな
るような皇族男子はいない。
●宮家とは、男系男子が当主であるものをいい、予備の男系
男子の皇胤を保存するフェール・セーフ制度である。
●養子を迎えるというのも論外。皇室を、姓のある武家や商
家の「家」制度と混同してはならない。皇統125代で養子の
例は皆無である。
●「愛子天皇陛下」が崩御されるのは、2098年前後であ
ろう。おそらく生涯独身であらせられるだろうから、そのとき
の皇族はゼロ。「愛子天皇陛下」は“最後の天皇”になると推
定しておかねばならない。女性宮家はとっくに絶滅しているだ
ろう。
●以上のように「女性・女系天皇容認とは、皇統断絶による
天皇制廃止である」ことは明白である。
「有識者会議」の第一子優先という『報告書』は、女性天皇
を立てることによって天皇制廃止にもっていく共産党のシナリ
オを、法律的な表現に直したものである。
┃日本共産党の深謀遠慮がいま現実に┃
★━━━━━━━━━━━━━━━━★
●渡部氏:日本の近現代史を見ると、悪いこと、困難なこと
はすべて共産主義イデオロギーに由来している。そして今、共
産党の天皇制廃止のシナリオに操られて、日本の根底を覆すよ
うなことが行われようとしている。断固許してはならない。
●1946年、GHQが創った憲法の第1条、第2条に便乗
したのが、我妻栄、宮澤俊義、中川善之助の共産党員やシンパ
で、女性天皇や女性宮家を強く主張した(臨時法制調査会)。
他の日本人委員によって辛うじて男系男子天皇と男系男子宮
家は護持された。
●このとき少数派であった宮澤らの天皇制自然消滅策を、今
般の「有識者会議」が完全に復活させた。絵に描いたように、
「宮澤俊義→横田耕一/園田逸夫→『報告書』」となっている。
●渡部氏:共産主義者の一掃なしには、日本の皇統ばかりか日
本自身が危ない)
●吉川弘之座長は、皇室の意見を聞く必要はないと一切取り
合わない。挙句の果てに天皇・皇族のご意向を聞くことは憲法
違反だとまでうそぶく。
●三笠宮寛仁殿下のエッセイに対して「どうってことない」
と言っている。
●皇室の意見を聞かないのは、男系男子による皇位継承の意
向が強く出るのを承知しているからだ。
スターリン教徒が座長をつとめる「有識者会議」は男系男子
を潰すためなら、常識や法に反しようが、あらゆょ綿曚皹海
ためらわず天皇・皇族のご意向排除に躍起になっている。
■〈愛子内親王の世代に男系男子がゼロになるという現実問
題への対応〉
┃唯一の方法は、旧皇族の皇籍復帰である┃
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●現実には皇統を継続する方法はこれ以外にはない。194
7年に臣籍降下された11宮家(家、家、閑院宮、東久邇家、朝
香家、家、北白川家、竹田家、東伏見宮、華頂宮、小松宮)はす
べて、北朝三代天皇の皇長子を初代とする、持明院の嫡流であ
る伏見宮系の“祖系”である。
●伏見宮系とは、皇統に難が生じた時には大統(天皇位)を次
ぐというのが6百年前から定まっている皇位継承法である。光
格天皇(第119代)から今上陛下(第125代)に至る閑院宮系
は伏見宮系の支流である。
●60年間一般庶民としての生活を送ってきた人々が皇族に
復してもどうか、という意見があるが、それは歴史を知らない
手合いの暴論である。
┃臣籍から皇籍復帰の例┃
★━━━━━━━━━━★
●臣籍から皇籍復帰の例は数十名を超える。
そのうち天皇の位につかれたのが、宇多天皇(第59代)と醍
醐天皇(第60 代)
●2045年頃の「徳仁天皇陛下」の崩御まであと40年も
ある。40年間皇族として生活されれば旧皇族の方々であるか
ら立派な皇族になられる。
●皇籍に復帰する候補としては、2005年 1月1日現在で
45歳以下の男系男子に限れば、久邇家、賀陽家、朝香家、東
久邇家、竹田家の5家の、合計14名である。
●実際に天皇の位につかれる可能性があるのは、この14名
中の3名で、東久邇宮昭彦殿下の御男子1名(2歳) と賀陽宮正
憲殿下の御男子2名(小学生)の、合わせて3名である(括弧内は
1月8日付け産経記事による。
●皇位は「今上陛下→徳仁皇太子殿下→(秋篠宮殿下)→X」
のXのところである。その頃工期三方とも45歳前後である。
┃愛子様は皇后になっていただく┃
★━━━━━━━━━━━━━━★
●愛子内親王にはその皇后になっていただく。ふさわしい方
が3人もおられる。うれしいことである。
●現・皇室典範は一旦臣籍に降下した者の皇籍復帰を禁じて
いるので、この皇籍復帰を実現するためには、皇室典範の改正
が必要である。
┃皇室典範の改正点は┃
★━━━━━━━━━★
●第十五条に「第十五条の二 臣籍に入った皇族のまたはそ
の嫡男系嫡出の男子子孫の、皇族に復するに当たっては、皇室
会議の議を経るを要する」を追加する。
●皇位継承の最核心部分なので、繰り返す:
徳仁皇太子殿下のあと、秋篠宮殿下への継承が短期間あって
も、皇位の世継ぎの問題発生がこれから約40年先の2045
年頃には必ず起きるが、いま旧皇族が皇籍に復帰すれば40年
という時間的余裕が出来る。御三方を儲君に治定し即位するま
での40年である。
これは天皇となるための教育を受けるには充分の時間である。
┃有識者会議案のウソと真の狙いは?┃
★━━━━━━━━━━━━━━━━★
■渡部氏:これまでの議論をまとめると、「有識者会議」の
言う「世襲による天皇制を安定的に維持する」と称して、女性
・女系天皇を導入するのは全くの虚構である。
●女性・女系天皇容認を打ち出した「有識者会議」の『報告
書』を潰すには、こちらもしっかりとした論理と現実的方策で
対抗する必要がある。それには旧皇族の皇籍復帰の一点しかな
い。
●これが実現すれば、男系男子の継続は何の不安もなくなり、
問題は一挙に解決する。
●「有識者会議」は旧皇族の皇籍復帰を事実上排除した。
彼らの狙いは明確で、天皇制廃止しかないからだ。
皇統が安定的に護持されるような事態を排除することに努め、
旧皇族の皇籍復帰には一切触れていない。
┃この3ヶ月が勝負である┃
★━━━━━━━━━━━★
●この3ヶ月が勝負である。この3ヶ月で日本の運命が決ま
る。法案提出阻止に失敗したら、今世紀末には日本そのものの
存立が危うい状態になるのは間違いない。
●皇統が断絶し、天皇が日本にいなくなったら、日本は崩壊
していく以外にない。単に日本が日本でなくなるだけではなく、
どんな形の日本もなくなる。
●渡部氏:日本とギリシャの神話の構造は似てはいるが、ギ
リシャのそれは遺跡と化して死んでいる。だが日本では生きて
いる。神代以来の伝統が今に生きている。現代に生きている神々
の中心にいるのが天皇で、国民に敬われ、親しまれている。こ
れこそ日本である。
●渡部氏:日本人としてよって立つ根源は何かが分かり、そ
こに恩と恵みを感じたら、その恩に感謝し、報いなければ、正
しい日本国民ではない。すべての人が1240年前の和気清麻
呂公にならなければならない時だ。
……………………………………………………………………
(解説:中山)
小泉純一郎はコミュニストが牛耳る内閣法制局に完全に
はめられた!「皇位継承を安定的にさせる」という甘言で
騙されたのである。コミュニストの策謀と詐術おそるべし!
良識ある自民党員よ、コミュニストの策謀を見破れ!さ
もなくば保守なる名称を返上せよ。これはネット上ならぬ、
ポリティカルな「フィッシング」である。これに易々と食
いつくのは誰だ?そういう議員は自民党からたたき出せ!
………………………………………………………………………
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Japan on the Globe 国際派日本人養成講座
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………………………………………………………………………………
今日は世間一般ではお給料日の金曜日。こういう日は当店では鬼門・・・・のはずが、Wさん来店。Hさん来店。Sさん、マルガリータさん、Hさん御夫妻、Mさん、初めてのお客様Sさんなど大勢様でテーブル席でドンチャン。初めてのお客様Mさん御夫妻?来店。Yさん来店。
今日も飲むが、スタートが遅かったせいもあり、記憶あり。珍しい・・・・・・・
またまた
2月23日木曜日晴れ △
またまた、お土産ネタですが、昨日来店のYさんよりいただいたお酒です。
「越乃い寒梅」・・・・・「こしのいかんばい」
「こしの い かんばい」
お後がよろしいようで・・・・
残念ながら純米、本醸造の違い、精米など明細は不明ですが、「赤坂有薫」さんのオリジナルのようです。
当店も「酒かもねぎや」オリジナル銘酒をだそうかな・・・・・
今日もどういうわけか大忙し。川頭さんジョバンナさん御夫妻、Eさんなど大勢様アンコウ鍋でドンチャン。Kさん2名様で来店。バンブーさん来店。へべれけさん来店。大台さん来店。
今日も飲む。ただ、記憶はあり。
美和先生来店。
2月22日水曜日晴れ ××
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おもわず
2月21日火曜日くもり ××
先日、茅場町駅で乗り換えの時に「R25」というフリーペーパーが置いてあり、ちょっとその表紙を見た時に思わず反応してしまいそのフリーペーパーに手が伸びていました。
何に反応してしまったかというと
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これ→ |
「プロジェクトK」
電車に乗り、早速そのプロジェクトKのページを見てみると、
<若手官僚たちの霞が関改革 「プロジェクトK」とは?>
という内容・・・・・・・
なんじゃこりゃ〜!!!!!
違う。違う。ちがう!
ちゃうやろうが!!!!!
こんなのは私が思っていたプロジェクトKではない。
私が知っているプロジェクトKとは
↓
プロジェクトK
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Apricot/3495/projectk/
今日はメチャ忙しい。明日がこわい。仙台のIさん2名様で来店。Iさんは学生結婚されたそうな。羨ましい。Tさん御夫妻お父様と来店。Aさん来店。大台さん来店。Yさん御夫妻、Aさん御夫妻来店。飲む。ドンチャン。
廣枝音右衛門(広枝音右衛門)
2月20日月曜日雨 ○
今日はあいにくの雨でしたが、午後より取手に行く。取手の弘経寺にURAホームページに書いた事のある廣枝音右衛門海軍巡査隊長の遺徳顕彰碑があるからです。取手駅にある交番で「弘経寺(ぐぎょうじ)」と尋ねても年輩のお巡りさんも若いお巡りさんもすぐにはわからずに住所を言ってはじめて教えてもらう事ができました。駅からは歩いて一五分ほどでしょうか。
大きな敷地のお寺さんです。廣枝家の墓域に「ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門」と書かれたその顕彰碑は建てられていました。
廣枝音右衛門は明治38年12月23日、神奈川県足柄下郡片浦村(現在の小田原市)で生まれ、逗子の開成中学、日本大学予科と進み、昭和3年4月23才のときに幹部候補生として佐倉歩兵第57連隊に入隊、軍曹となり満期で除隊後、湯河原の小学校教員などをへて、昭和五年台湾にわたり競争率100倍という難関の台湾総督府巡査となる。
ついで、警察官及び司獄官教習所に入所、乙科生として学び、新竹州巡査として竹南郡勤務となる。同郡では主に警察課勤務をしている。
此の時代は台湾における警察官の任務として、治安維持は当然として、内地の日本人と同等の教育・文化水準に引き上げるということで、行政面でも重要な役割を託されていた。
昭和十七年五月警部に昇進。新竹州竹南郡政主任勤務(新竹州警部)の時に大東亜戦争による戦線拡大にともない台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊の総指揮官に海軍巡査として任命される。
昭和18年12月8日朝、廣枝隊長に率いられた海軍巡査隊は、高雄港より特務艦「武昌丸」に乗り込み、フィリピンはマニラ・ガビデ港へと向かう。廣枝隊長は家族四人を残しての離台であった。マニラでは厳しい訓練に次ぐ訓練のなか、廣枝隊長は常に部下の先頭に立って、励ました。そんな廣枝隊長を部下もとても慕ったそうです。巡査隊の任務は主に物資の運搬、補給など後方支援であったが、戦況は刻々と悪化する。昭和20年2月、マニラ市近郊に上陸した米軍に対峙する事3週間、海軍巡査隊にも棒地雷が渡され、「これで敵戦車に体当たりしてその場で全員玉砕せよ」と総攻撃の命令を受けた廣枝隊長は、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)氏を伴い、台湾人の命を保証するよう密かに米軍と交渉する。
その結果
「諸君(台湾人海軍巡査隊)はよく国の為に戦ってくれた。だが、もうよい。戦闘の続行は不可能である。そうはいっても、今ここで軍の命令どおり玉砕する事は犬死に等しい。祖国台湾には、諸君らの生還を心から願っている家族が待っているのだ。全員、米軍の捕虜となろうとも生きて帰ってくれ。責任はすべて私がとる。私は日本人だからね」
そう言い遺して廣枝隊長は、壕に入り拳銃で2発頭部を撃ち自決した。
昭和20年2月23日午後3時頃のことであった。享年40才。
この一死をもって代えた廣枝隊長の決断により、海軍巡査隊の台湾青年たち二千名は故郷の台湾に無事帰る事ができた。
その時の恩を忘れぬ台湾の部下の方々により台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に廣枝音右衛門隊長をd濳りして供養する式典が昭和五十一年九月二十六日におこなわれました。
これは、廣枝音右衛門隊長の戦死の実情を根気強く調査した台湾新竹州警友会の人々の成果です。この台湾における慰霊顕彰の動きは日本にも伝播し、廣枝隊長の義挙を末永く語り継ぐべく「顕彰碑」の健立となって実現する。
顕彰碑の後半にはその時のことが彫られている。
「泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す 時に二月二十四日なり その最後たる克く凡人の為し得さる所
宣なるかな戦後台湾は外国となりたるも この義挙に因り生還するを得た数百の部下達は 吾等の今日あるは彼の時隊長の殺身成仁の義挙にありたればこそと 斉しく称讃し此の大恩は孫々に至るも忘却する事無く 報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと 昭和五十一年九月二十六日隊長縁りの地 霊峰獅子頭山権化堂にてその御霊り濳り 盛大なる英魂安置式を行う この事を知り得て吾等日本在住の警友痛く感動し相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝えその遺徳を顕彰せんとしてこの碑を健立す
元台湾新竹州警友会」
と記されています。
昭和58年5月、小隊長をつとめた劉維添氏はかつての隊長の自決の地であるフィリピンを訪れ、隊長終焉の地の土を集め、茨城県取手市に住むふみ未亡人の手渡されたそうです。
(ふみ未亡人は平成元年2月10日、76才で死去)
こうして広枝隊長は獅頭山の権化堂に神様として祭られ、鬼籍の人となったふみ夫人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人たちの手によって権化堂に祭られたそうです。
下記の著作より参考及び引用させていただきました。
「台湾と日本 交流秘話」 許國雄監修名越二荒之助・草開省三編著
「捏造された日本史」黄文雄
しかし、何度も書くようにどうして台湾の人たちと朝鮮の人とはこんなに違うのでしょうか。たった、十五年の差なのですが、大きな差となっているようです。まあ、親日的といわれている台湾も我国の統治時代とその後の統治時代では大きく差があります。そのおかげで、親日、反日入り乱れているようです。台湾のマスコミは戦後に支那から逃げて来た外省人の影響力が強く、その多くが反日というか、親支が多いそうです。これからは、支那の甘い言葉にだまされた台湾の人々が増えてきそうです。
西日暮里で山手線に乗り換えて高田馬場のスポーツセンターにいく。今日もまた少しベンチプレスが上がるようになった。帰りに店により資源ゴミを出す。店にいる時にKさんが二名様でいらしてくださるが、お断りさせていただく。
スポーツセンターにいった日に酒を飲んだ時はどうもまわりが早く感じる事もあり、約束もなかったので、今日も酒を飲まなかった。う〜む三日間も飲まなかったのは久しぶり。
「天皇の軍隊」にみるお笑い
2月19日日曜日くもり ○
「天皇の軍隊」第一〇章 一八魯西作戦=コレラ作戦
以下引用
「それは非常に簡単で、五、六人がかりで、一〇分ほどで終わってしまいました」と小島氏は言う。
それは次のような方法だった。まず、土手の上に川と直角になるように一本の線を引く。次に土手の外側に向けて深さ三〇センチほどの溝を掘る。溝の幅はスコップの幅と同じでよい。つまり三〇センチほどだ。雨にうたれ続けた赤土だけに、掘り進むのにさほどの力はいらなかった。そして掘り進んで最後の数センチ幅の残った部分にちょっとだけスコップで傷を入れた。チョロチョロと最初の水が溝を伝い始めると、あとは何の手を下す必要がない。溝の幅は見る見るうちに五〇センチ、一メートル、二メートルと広がってゆく。大水がおどり狂ったように左岸の地面に下っていった。
略)
平原のかなたに建てられている農家の塀が、一瞬土ぼこりを上げて舞い上がり、あるいは土塀や農家が砂糖菓子に水を注いだ時のように足元からひざを屈する形で倒れていくのが見えるのでー(後略)p236〜7
引用終わり(図はその堤防の構造図)
小島氏はこの作業が小雨の降る中行われたことを記していますが、よく、建物の解体作業で、ホースで水を散布しながらやっているのは埃をたてないためですが、<「土ぼこり」が舞い上がり>・・・・どういうわけなのでしょう。
また、赤土でできた堤防をわずか一〇分で幅三〇センチ、深さ三〇センチの溝を八メートルの幅の堤防に掘るだけで、その堤防が決壊するのであれば、過去にもう何度も雨の度に決壊しているでしょう。
ところが、そうでないらしく、この本では小島氏は次のように述べたそうです。
以下引用
小島氏が再びこの堤防決壊の現場を見たのは、それから一二年後の一九五五(昭和三〇)年のことである。それは皇軍兵士としてではなく、戦犯としてであった。撫順の収容所で小島氏は、このときの様子を「自分の罪状」として中国側にスラスラと述べた。
略)
中国側の先生は『そうですか。小島さん、よく言ってくれました』と握手してくれるんです」
しかし、小島氏はこのときまで、この事件が一二年後のいまもなおこれほど大きな傷あとを残しているとは考えたこともなかった。中国側は小島氏に、堤防が切られて大洪水がこちらへ向かって来る瞬間の写真を見せた。その場にいた解放軍側の記者が撮ったものだという。もう一枚の写真は、石ころや岩がいっぱいの河原の写真だった。いや、よく見ると、それこそ一二年後に自分たちの手で現出させた大洪水地域の、現在の姿だった。中国人民も石を整理し、少しずつ畑を復旧しているが、まだ作物がほとんど作れない、という説明だ。略)
被害地区は臨清北方九〇キロ余りの鉄道石徳線(石門ー徳県間)を含めて、山東省から河北省に至る部分まで広がっていたとのことである。
引用終わり p238〜9
すごいです。どうみてもそのような堤防の構造からすると、毎年のように決壊していても不思議ではないのですが、一二年後までその影響が残っている。それも、九〇キロに及ぶ広範囲・・・ちなみに、九〇キロといえば、狭いわが国でも結構な距離です。幅四〇メートルの河川の堤防の決壊でそこまで影響させるとはさすがは日本軍です。すばらしい。ましてや、たった一〇分ほどの工作によってです。
あほらし・・・・
ところで、私の手許にある「私の従軍中国戦線」という写真集があります。村瀬守保という本多氏、長沼氏が絶賛する<中国での収容所生活で、「皇軍」兵士たちは次第に目覚めていき、この世の中で何が本当に不正であり、何が正しいかを、はっきりと悟る。そして侵略の阻止と日中人民の友好運動に、第二の人生をささげたいと決意するに至った人たち>の集まりである中帰連のひとりであり、中帰連関係の本を多く刊行している日本機関紙出版センターより出された本ですが、この本の中におもしろい記述と写真があります。
その写真のキャプションには「黄河の堤防を切ったために、一瞬のうちにに大洪水に見舞われた農民」
そして、「大洪水と農民たち」として
以下引用
臨准関から二〇〇キロばかり西の、寿県付近にさしかかると、あたり一面の大洪水です。見渡すかぎり一面の湖の中に道路だけが続いていて、道端にはようやく非難した農民たちが、わずかばかりの家財をおいて、途方にくれていました。
蒋介石が、日本軍の侵攻を妨げるために、黄河の堤防を切ったのだという情報が流れてきましたが、何百万という農民を犠牲にしてそんなことがありうるだろうかと思いました。
引用終わり p77
その他にいろいろな写真が掲載されています。
そして、その後のページにはコレラ発生という写真も掲載されています。
「天皇の軍隊」では石井部隊が飛行機よりばらまいたコレラ菌入りの缶詰めが中国農民にどんな影響を及ぼすかを調べるのが目的として、「衣」師団はこの地方にいっています。ずいぶん、荒っぽいやり方で、なおかつ意味があるとは思えませんが・・・・
私等素人はコレラ菌などばらまかなくとも自然に発生するように思うのですが、どうなのでしょう。現実にソウルあたりでは今の時代でも発生しているし・・・
そんなコレラ菌をばらまいた地域に医者だけが防毒マスクに白衣という格好で、他の大勢の無防備の兵隊がいって何を調査するのでしょう。わけわからん。
「天皇の軍隊」の時代背景は一九四二年から。「私の従軍中国戦線」は一九三七年から二年半ですので、オーバーラップはしていませんが、片や、十二年後までその被害の爪痕が残る川幅四十メートル位の黄河の支川の堤防決壊です。片や正確な年は書いてませんが黄河の堤防決壊による大洪水。きっと、醜い爪痕がの残っていそうですが、どうなんでしょう。でも、よく自分のやったことを人のせいにする人っているんですよね。
まあ、本多氏は<私もそうですが、この記録の共著者たる長沼節夫氏も旧日本軍の体験はない世代ですから、あるいは誤りもあるかもしれません。事実の誤りはどんどんただすべきですが、その場合、批判や訂正は「揚げ足とり」による破壊行為的にではなく、建設的な態度で貫きたいものです。>というスタンスのようですから、大した問題ではないのかもしれません。
今日はスポーツセンターも行かずに店の片付けと生ゴミを出した後はおとなしく帰る。昨日、今日と酒を飲まず。う〜ん、どうなんでしょう。
「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その5
2月18日土曜日晴れ ○
しかし、ここまでアホなこと書くかというぐらいなことを本多氏は書いています。
以下引用
これはまた実に不覚なことですが、私は、「日中戦争」の日本軍は、蒋介石の中国と戦うのが主な仕事だと、子供のときから思いこまされたままでした。ところが事実はまるっきりそうではない。いや、ほとんど正反対とさえいえます。本書のいたるところに出てくるように、日本軍は蒋介石軍としばしば手を結びます。ときには同盟軍として、ときには傀儡軍として。蒋介石軍というもの本質が、あのころから明確に出ているわけです(岸信介氏らの自民党政権が台湾の蒋介石氏と今かなお「親交」保ちたがるのは、あまりにも当然といえましよう)。結局は八路軍(人民解放軍)こそ、終始正面の敵として現われます、これは当時の日本国民にほとんど知らされなかった恐るべきことといえましょう。
巨視的な間題としては、こんなことも本書から理解されます。日本は合州国に負けたと思っている人が、今なお多い。これはドイツが米軍を中心とする英ナなど西欧軍に負けたと考えるのと同質の大きな過ちです。ドイツがソ連にこそ本質的に負けたことは、独ソ戦争を少しこまかく調べればわかります。米英軍などそれに便乗したていどで、とくに合州国ときたら自分ではほとんど損しないで、戦場で漁夫の利をしめ、戦後の世界支配への道を大きく開きました。 全く同様に同様に、日本軍は米軍など来なくても、原爆や沖縄戦がなくても、単に中国とだけと戦争していても、必ず敗北していた。その具体的な状況は、本書にみられる通りです。日本は中国(とくに八路軍)にこそ敗北したのであって、米軍はドイツにおけると同様、漁夫の利をしめにやって来ただけだと極論しても、基本的には間違いないでしょう。敗戦直前に対日参戦したスターリンのソ連軍にいたっては、漁夫の利のところへ現われたスリみたいなものかもしれません。
引用終わりp433〜p434
さすがは支那共産党が大好きで
<もっとも、解放戦線や八路軍は、蒋介石軍のような女子供の無差別虐殺はまずやりませんが>p427
と書くだけの事はあります。
でも、支那共産党が本多氏のいうとおり強いとしたら、それは支那共産党に人権というものがないからです。人の命がタダ、あるいは極めてタダにちかいとと考えているから、強いのです。
本多勝一氏もそうであるが、この手の方々はわが国についてはこの様に多くの事をいうが、どうして、本多氏がいう「やる側、殺す側」と「やられる側、殺される側」が逆転することもある事をかんがえないのであろうか。現実には、支那政府は侵略、虐殺を繰り返して来ている。こういた支
「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その4
2月17日金曜日 晴れ ××
下記の文章にはこの本多勝一という男のへたれぶりがよく表れていて笑ってしまいます。
<私もそうですが、この記録の共著者たる長沼節夫氏も旧日本軍の体験はない世代ですから、あるいは誤りもあるかもしれません。事実の誤りはどんどんただすべきですが、その場合、批判や訂正は「揚げ足とり」による破壊行為的にではなく、建設的な態度で貫きたいものです。>p431
この意味わかりますか?
わたしには間違いを指摘された時の単なる予防線にしか思えません。
だいたい、
<旧日本軍の体験はない世代ですから、あるいは誤りもあるかもしれません>
って、それじゃあ、その時の歴史についての検証とはなんなのでしょう。聞いたのをそのまま、なんの検証もなく、書いただけ・・・
そして、
<事実の誤りはどんどんただすべきですが>
といいながら、
<批判や訂正は「揚げ足とり」による破壊行為的ではなく>
Tさん四名様来店。作家のM先生、Sさん、マルガリータさん来店。Tさん二名様で来店。Oさん福岡の友人の方と来店。Eさん来店。香港土産のお酒をいただく。Iさん二名様で来店。今日は大忙し。営業終了後、M先生、Sさん、マルガリータさんが飲んでいる中野の「森の石松」さんへ伺う。みなさん、酒が強い。今日もドンチャン。また、タクシーから降りた後は記憶無し・・・・・
「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その3
2月16日木曜日曇り一時雨 ×
この「天皇の軍隊」ででも「殺す側」と「殺される側」として下記のように持論を展開しています。
以下引用
<果たして「中国人だってやった」のでしょうか。正確に見ると、「殺した側」と.「殺された側」は、決してそのまま「日本人」と「中国人」の対立の結果にはなっていません。たとえば南京虐殺で、流れ作業の集団銃殺をやった日本軍には、「治安維持会」という一部申国人の組織が協力しています。…、(拙書『中国の旅』参照)。南京事件に限らず、中国人を殺すのに中国人の一部が加わっている例はごくありふれたことでした。
その殺す側にまわった中国人が、地主だの高級官僚だのといった金持階級とその傭兵であリます。その頂点に蒋介石がおりました。反対に、いつも殺される側にいた厖大な貧乏中国人たちの頂点が、いうまでもなく毛沢東や周恩来を代表とする中国共産党であり、その軍隊がのちの人民解牧軍でした。
略)
、岸信介の本当の敵は毛沢東だったのです。毛沢東に代表される中国の無産階級、これこそが岸信介や蒋介石、さらにはトルーマンやアイゼンハワーたちの共通の敵でした。
問題の本質は、決して「中国人対日本人」とか「アメリカ人対日本人」というようなものではないことが明らかになったと存じます。
略)
「それでも日本人か」といった発想の仕方、実はこれこそが、真に「殺す側」の連中によって好都合な利用されやすい反応なのてす。本当の敵が何なのかをごまかし、すべてを民族的対立や人種的対立であるかのようにさせ、国境を越えて理解しあうべき人々を分断していきます。
引用終わり p430
つまり、本多氏は長沼氏とおなじく、支那共産党は悪くなく、悪いのは自由主義陣営だ。わが国の天皇制と愛国心も靖國神社も支那共産党にとり
写真は江上さんが送ってくださった立派なイチゴ。大田区馬込産らしい・・・・・すみません、大ウソです。福島で奥様の弟さんが作られているそうな。ごちそうさまでした。
Sさん来店。大台さん二名様で来店。お祖父様がお亡くなりになったそうです。そのお祖父様が四十年ほども前に海外で買い求められたというジョニ黒をごちそうになる。旨い。Yさん来店。営業終了後、Yさんとエムズバーにお邪魔する。写真は御馳走になった、ジュース。今日も大ヨッパライ・・・・
「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その2
2月15日水曜日はれのち雨 あったか △
本多勝一
一九三二年信州・伊那谷生まれ。朝日新聞記者としてある意味大活躍。
「週刊金曜日」主筆としてまだまだ現役売国奴として活躍中
本多氏も長沼氏と同じく、公平な報道について本書に下記のように持論を書いています。
以下引用
よくいわれる通州での蒋介石軍による日本人虐殺事件。これは廬溝橋事件からまもない混乱の時点で、二百数十人の在留邦人が殺された事件ですが、もちろんこのことは非道であり、許されないことです。しかしより本質的な問題は、通州は日本の町ではないことにあります。戦乱のベトナムで、たとえばクアンチやファンランにいたアメリカ民間人が虐殺されたといって、現在の全ベトナムに対する凶暴な侵略が「従って正しい」といえるでしょうか。
もっとも、解放戦線や八路軍は、蒋介石軍のような女子供の無差別虐殺はまずやりませんが、これについてはあとで触れます。
また「公平な報道」という要求に対しては、逆にこんな事実はどうでしょうか。事件当時の事件当時の日本の新聞をみて下さい。「比類なき鬼畜行動」「恨み深し!通州暴虐」といった記事が、各紙とも一面にデカデカと、連日報ぜられています。ところが反対に、いたるところで展開された日本軍による虐殺は、ついに全く報道されませんでした。どうか率直に考えてみて下さい。日清戦争以来何十年間も、常に、必ず、このように一方的だったのです。戦後二十数年して、ようやく中国側からの視点で報道をするとき、どうしてまたまた、中国のことを「比類なき鬼畜行動」と並列して書かなければ「公平な報道」にならないのでしょうか。p427
もうメチャメチャです。
どうして「支那での日本人虐殺事件」「ベトナムでアメリカ民間人が虐殺される事(例え話として)」と、「アメリカがベトナムに侵略したことが正しいといえるか」と結び付けるのでしょう。
ましてや、「日本が当時公正な報道をしてこなかった」として、<戦後二十数年して、ようやく中国側からの視点で報道をするとき、どうしてまたまた、中国のことを「比類なき鬼畜行動」と並列して書かなければ「公平な報道」にならないのでしょうか。>と開き直れるのでしょうか。
開き直りといえば、下記の文章もそうです。
以下引用
中国側から取材した証言について、これを疑う類の拒否反応もあります。いうまでもなく、絶対的証拠のある例などはむしろ少ないのが当然ですから、死人に口なし、体験者の証言以外に頼れない場合が多いでしょう。これについては、広島ツ杭蠅慮暁による無差別大虐殺に関する日米の見方の違いを考えるのがよろしいかと存じます。広島の死者を、日本側のさまざまな資料は二十万以上と数えていますが、アメリカ側は七万余としか認めていません。今となっては、正確な数字をつかむことなど不可能ですが、仮りに(そんなことはありえないけれども)アメリカ側か正しかったとします。そうすれぱ、日本側がまちがっ.ており、従って原爆による無差別虐殺は、正しいのでしょうか。
問題の本質は、数字や個々の事実の揚げ足とりではなく、日中戦争が日本の帝国主義による侵略だったという事実にあります。ところが侵略者の側がこういうとき熱中する常套手段は、まず「数字」や「目にみえる証拠」を求め、それと侵略された側の主張との食いちがいをあげへつらい、最後に「だから事実はなかった」「すべてマポロシだった」「結局は侵略軍も悪くはなかった」とすょ綿杤僂任后H親安Δ砲詫蠅蠅砲覆"論理"がこれ以外にないので、大衆をだますために右翼文化人たちがよく使っています。p428
引用終わり
<絶対的証拠のある例などはむしろ少ないのが当然ですから、死人に口なし、体験者の証言以外に頼れない場合が多い>
こんなこと言ってしまえばなんでもありになってしまいます。当たり前の事ですが、少しでも客観的な立場から状況証拠を集め、いろいろな角度から事実を追求していく努力をしていかなければならないわけです。それを、原爆といっしょにする・・・あまりにもアホすぎます。
しかし、本多氏はこの後もエスカレートして、シンポジュウムなどで南京事件と原爆を一緒に論じています。
以下引用
<長崎に原爆が落ちたという話があります。でもあれは、丸ごとデマだそうです。町のどこに行っても今は長崎のどこにも痕跡は全くありません。それから証拠写真がありますがあれは広島からの合成写真だそうです。記録の本や雑誌もみんな捏造なのだそうです。作文なのだそうです。残された遺跡もありません。以前浦上天守堂というのがありましたけれども、あれはのちに製作された建造物だそうです。遺族たちの証言はたくさんありますが、あれは全部日本政府に強制されて口裏合わせた偽証なのです。というようなことを、アメリカの右翼か誰かが言ったら、皆さんどう思いますか? こういう話を先日長崎で講演したときに言ったら、会場は笑ったりあきれたりでした。
しかし、全く同じように、南京大虐殺はなかったといっている人がいるんですね。これは長崎の原爆が全部ウソというのと全く同じことだと思うのです。今はこういう無茶苦茶なことが通るようになっている。>
引用終わり 「歴史と真実」(筑摩書房 一九九八年刊 もとになったのは一九九八年五月二三日に千葉大学歴史系教員集団主催のシンポジュウム「いま日本の歴史を考える」)本多勝一氏の「南京大虐殺」をめぐってp151
あきれるのは、あんたの頭の中・・・・この様な人が新聞記者をやっていたのです。
まあ、本多氏は下記のようにもいっていますので、元々客観的で公正な報道などするつもりはないのでしょう。
以下引用
<いわゆる『公正な報道』とか、『かたよらない報道』とか、こういうものは絶対にーーぼくは絶対ということばはあまり使わないようにしているんだけどね、しかし、あえていうんだけれども、絶対にありえないということがよくわかったことですね。あるのは、もう、やる側とやられる側。それしかない。その中間てないんですよ。中間のやつはみんなやるほうに吸収されてしまう。(中略)公平なんてこといったら、あ、こいつは権力側の状況づくりだな、と断言していい>
引用終わり
(「悪魔払いの戦後史」稲垣武著 赴綺春秋一九九四年刊 P269に収録された小田実との対談わがベトナム戦争の総決算「朝日ジャーナル」七三年二月九日号)
ちなみに小田実氏もそれに対して「おれもそう思うね。それは賛成だ」と同調しています。
さすがは売国奴同士でお話も合うみたいです。
今日は河岸が休み(来週の水曜日も)なので、別にすることもなくゆっくりとしていたら、気がついたら三時過ぎになっていて、大慌てで新宿スポーツセンターにいく。バタバタとメニューの一部を形だけ消化。あれもやってない、これもやってない。まあ、所詮自己満足。ただ、間隔が一日しかあいて無いので、前回の筋肉痛があっちこっちに残ったままいりろいろな種目を消化することになる。
今日は電話もならず、ヒマ。一名様来店。Sさん来店。バンブーさん来店。ヒマだったのですが、いつも通りに飲み、いつも通りに・・・・・・
「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その1
2月14日火曜日 晴れ △
「天皇の軍隊」(本多勝一・長沼節夫著 朝日新聞社刊)
この本の本文について書くより、まずそれぞれの著者の後書きを読んでいただくとこの二人の思想というか人なりがよく理解していただけるものと思います。
以下引用
重要なのは「学ぶ」こと自体ではなく、「どちらの歴史を」学ぶかにある。皇国史観を「学ぶ」くらいなら何も知らぬ方がよろしい。人民の側の歴史をこそ、学ぶべきであろう。反動政権による文部省教育や、それに忠実なマスコミの氾濫の中にあって私たちにできることは、人民の側の歴史を掘りだし、それを敵に負けぬしつこさで、繰り返し繰り返し語りつづけることだと思う。そうすることによって、侵略戦争を阻止するための、人民の側の有力な武器のひとつにもなりうるであろう。p410
本書には、中国帰還者連絡会(正統)の掘越氏そのほか多くの証言者が登場して、すすんでみずからの罪状を暴露してくれた。p410
無力な私たちに終始協力し、むしろ力づけてくれたその希有な旧「皇軍」兵士たちに、まず深い感謝をささげたい。またそのように協力すべく彼らを目覚めさせた根源的な原動力が、新中国をもたらした革命勢力とその人民にあることはいうまでもない。(この点、蒋介石政権につかまったB・C級の日本人戦犯が、どのような扱いをされたかを比べてみると参考になろう。蒋介石が敗戦に寛大だった、などという正反対の妄言が一部に流布されている。)P411
本書は日本敗戦の一九四五年八月一五日をもって一応終わっているが、「衣」師団はその後ソ連に抑留され、さらに革命後の中国に逆送されて、撫順に滞在することになる。五年間の中国での収容所生活で、「皇軍」兵士たちは次第に目覚めていき、この世の中で何が本当に不正であり、何が正しいかを、はっきりと悟る。そして侵略の阻止と日中人民の友好運動に、第二の人生をささげたいと決意するに至り、やがて日本に生還するまでの経過は、本書以上に重要な意味を持つので、いずれ時を改めて続編を報告したい。P412
引用終わり 引用ページは「天皇の軍隊」(本多勝一・長沼節夫著 朝日新聞社刊)の初版後書き 長沼節夫より
長沼節夫
一九四二年長野県飯田市生まれ。 ジャーナリスト。京都大学文学部卒 同大学院・予備校講師などを経て時事通信入社、アフリカ支局、社会部など。
このアホな内容の引用文に出てくる「中国帰還者連絡会」については、今年二月五日付けの産経新聞に第二次大戦末期に作成された米戦時情報局(OWI)による「延安レポート」全訳出版へという非常に興味深いニュースが掲載されていました。
以下引用
略)
延安リポートは、中国共産党(中共)による対日プロパガンダや日本捕虜に対する"洗脳的教化”の実態を調査したものだが、戦後の米国の対楠B价羸策にも影響を与えたとみられており、貴重な一次資料といえそうだ。
略)
リポートの「捕虜の扱い方」では、中共は「一般的に日本人の自尊心は非常に強い」と洞察し、日本人捕虜を質間するさいには「優しく、穏やかに」と指導。また、負傷した捕虜には手当てを施し、戦場の日本兵の死体を「一時的な感情」から損傷することを戒め、逆に大事に葬り、墓標を立てるべきだ、と説く。
こうした指示は一見、人道的だが、その根底には一般の日本兵や日本人が戦争を遂行する指導部を憎悪し、「否定的な厭戦気分から積極的な反戦意識」を持つように教化するための中共の冷徹な計算があった。後に中共側の九十八人の日本兵捕虜に対し米側が行った「意識調査」では戦争や天皇制を否定する声が九割を超した。意識調査を担当した主要執筆者の一人、外交官ジョンゥ┘沺璽愁鵑蓮嵎振囘な日本人兵士の信念と態度がシステマチックな教化によって変えられることの一つの証明である」とコメントしている。
略)
引用終わり 産経新聞平成一八年二月五日
支那の
<その根底には一般の日本兵や日本人が戦争を遂行する指導部を憎悪し、「否定的な厭戦気分から積極的な反戦意識」を持つように教化するための中共の冷徹な計算があった>
<「平均的な日本人兵士の信念と態度がシステマチックな教化によって変えられることの一つの証明である」>
という洗脳により
<協力すべく彼らを目覚めさせた根源的な原動力が、新中国をもたらした革命勢力とその人民にある>
<五年間の中国での収容所生活で、「皇軍」兵士たちは次第に目覚めていき、この世の中で何が本当に不正であり、何が正しいかを、はっきりと悟る。そして侵略の阻止と日中人民の友好運動に、第二の人生をささげたいと決意するに至り、やがて日本に生還するまでの経過は、本書以上に重要な意味を持つ>
とされてしまったわけです。
「中国帰還者連絡会」という連中は支那により洗脳された売国奴の阿呆連中だということです。その連中の言う事を何の疑いもなく嬉しがって書くのもまた阿呆ということです。
だいたい、
<重要なのは「学ぶ」こと自体ではなく、「どちらの歴史を」学ぶかにある。皇国史観を「学ぶ」くらいなら何も知らぬ方がよろしい。人民の側の歴史をこそ、学ぶべきであろう。>
って、なんざんしょ。
普通は、結論を出すためにはいろいろ調べて当たり前なのに、知らない方がいい・・
これって、こういった連中がよく言う偏向した教育とかいうことにはならないのでしょうか。
まあ、それに続いて書いてある
<人民の側の歴史を掘りだし、それを敵に負けぬしつこさで、繰り返し繰り返し語りつづけることだと思う。>
というのがこの長沼氏という人間の生き方をよく表しているとおもいます。
この長沼氏の考え方は本多氏にも共通するものです。
この本に掲載されている「中帰連」という売国奴の証言!と称する内容については後日、掲載させていただきます。
朝、河岸に行く時の体調は最低。
酔狂師さん来店。Nさん二名様で来店。Hさん三名様で来店。アメリカに行かれる方の送別会だそうな。お連れさんは偶然、酔狂師さんのお知り合い。中野さん初めての来店。珍しくこんなホームページを見てくださりの来店だそう。Kさん二名様で来店。三件めだそうで、相変わらず強い。一九五四年生まれの同い年・・・・
そういえば、昨日、おつき合いいただいた皆様、長谷川さん、ケイザブロウさん、ヨシヨシはそれぞれ一九五六、六〇、六八と私の五四とおなじくボルドーワインは最低の出来となった人たちばかり・・・(リュウセイさんは聞き逃した)つまり、カス年生まれが集まってヨッパラッテた・・・・だからどうだといわれても何もないのですが、所詮、酒飲みは何でも話題にして、その場の酒の肴になればいいので・・・
ドンチャン
2月13日月曜日 晴れ ×
朝起きて、店に行き生ゴミを出したあと、店の近所にある「エビス亭」さんで昼食を食べてから、久しぶりにスポーツセンターにいく。今月はまだ二回。月八回の目標達成はすでに不可能・・・・・スポーツセンターは平日の昼間だけあってガラガラ。ベンチもひとりじめ?約三時間近くそれなりにメニューを消化。
表参道ヒルズの出店祝いを持っていくつもりで、長谷川さんに電話をかけて確認すると、腰痛のために体調不良で本店にいるとのこと。祝いのワインを取りに店に寄ってから、亀戸の本店へ伺う。久しぶりなので、迷ってしまった・・・電話をかけて場所を聞く。
長谷川さん、ケイザブロウさんと錦糸町にあるしゃれた焼き鳥屋さんでワインでドンチャン。後でヨシヨシとリュウセイさんも合流。その後、みなさんで久しぶりに「弥次郎」さんにおじゃまする。その後、ケイザブロウさんと二人で高田馬場にある「カヴェルナ」さんに伺う。
結局、ビール、ワイン、酒、カクテルなんでもありで大ヨッパライ。珍しく、タクシーに乗って帰るまでの記憶はあるのだが、タクシーを降りてドアを開けたあとの記憶は全然ない・・・・サル・・・・
モンテンルパに祈る
2月12日日曜日晴れ ○
今日は、飯を食いに出かけた以外はどこにも行かずに部屋にいた。
図書刊行会が「戦争と平和」としてシリーズで出している内の「戦犯叢書」全七巻のうち古本市にて新刊のままの括涵稙本として六冊を入手できたことを以前に日記に書きましたが、今日は、それをず〜と読んでいました。これらは戦後、戦犯として、あるいは着の身着のまま外地より引き上げた方たちが書き残したものを昭和二〇年代から三〇年代にかけていろいろな出版社より発刊された貴重な記録が年月とともに埋もれて、忘れ去られるのを残念に思った図書刊行会の佐藤今朝夫氏が昭和五七年に再刊されたものです。
「モンテンルパに祈る」加賀尾秀忍著 図書刊行会五七年刊 初刊は昭和二八年 富士書苑刊行)
著者の加賀尾秀忍師は高野山僧侶で、連合軍最高司令官命により昭和二四年一〇月三〇日に日本を出て、糾匯佞箸靴謄侫リピン モンテンルパにあるニュー・ビリビット刑務所に六ヶ月間という派遣期間を過ぎても心臓病の持病に苦しみながらも現地にとどまり、同じ収容所内に寝起きし、囚人の残飯を食べながら、死刑囚の処刑に立ち会い、戦犯者の減刑、祖国への移管にと献身的に尽くされました。結局、戦犯とされた方々が全員の帰国がかなった昭和二八年七月一五日まで現地に留まられた「モンテルンパの聖者」といわれている方です。(写真はキリノ大統領に減刑と釈放を嘆願する加賀尾師。「モンテルンパの夜はふけて」のオルゴールを贈呈。大統領はそのメロディに感銘したと伝えられる)
師も書いておられるが、中村ケースとされた十三名、三原ケースとされた一名の計一四名もの日本人が昭和二六年一月十九日に処刑される場面はたまりません。
三原ケース
三原菊市陸軍軍曹の場合は北部ルソンのカガヤン州バイバヨク橋梁の守備兵時代に住民を虐殺したという罪状であった。制空権もない大東亜戦争末期に橋梁を守るために攻めてくるフィリピンゲリラと必死に戦闘の結果として殺したとしてもそれがゲリラと良民と区別等つくわけもなく、また、だれが殺したかなども判るはずが無い。
中村ケース
これらの十三名の方々は二五〇〇名あまりの戦犯とされた中より、セブ島の北端にあるメデリンという小島で起こったという事件で、残虐行為があったとされていますが、問題はこの事件がおこったかどうかではなく、証人となったたった一人のフィリピン女性の指差しだけで曵き出された人たちです。収容所にいた日本人に対して、その女性はあれもいた、これもいたと片っ端から指差して歩いたそうです。その結果、戦犯とされてしまったという酷いケースです。よって、事件のあったセブ島にはいなかった人や、死刑執行のその日の死刑囚の手続きの書類に記されていた所属が間違えていたなどというデタラメも通った復讐裁判です。十三名のうち少なくとも六名はミンダナオ島、パナイ島にいたり、セブ島にいても別の部隊にいてその事件とは無関係だったわけです。
下記の皆様はそんな経過で処刑されてしまった方々です。(写真はその処刑台)
三原菊市
陸軍軍曹 香川県木田郡 四六歳
中村秀一
陸軍大尉 山口県吉敷郡 五一歳
伊東益夫
陸軍兵長 大分県大野郡 三四歳
小野安夫
陸軍伍長 小倉市 三五歳
金田貞雄
陸軍軍曹 大分県佐伯市 三三歳
上野勝四郎
陸軍曹長 長崎県北高来郡 三二歳
衛藤利武
陸軍曹長 大分県大分郡 三一歳
安部末雄
陸軍中尉 大分県速見郡 四十六歳
斉藤助
陸軍伍長 大分県国東郡 三十二歳
志賀富士男
陸軍兵長 大分県直入郡 三十五歳
関森儀道
陸軍憲兵曹長 長野県東筑摩郡 三十五歳
三木巌
陸軍獣医中尉 北海道雨竜郡 三十五歳
鈴木光忠
海軍主計大尉 栃木県那須郡 三十五歳
陣内起也
陸軍少尉 長崎市 三十五歳
(掲載写真は「東京裁判」新人物往来社 二〇〇三年刊より)
橋本龍太郎
2月11日土曜日晴れ
一月二十八日の産経新聞に小さな記事が掲載されました。
以下引用
◆橋本氏、日本の右傾化に警鐘
自民党の橋本龍太郎元首相は26日、米カリフォルニア州のスタソフォード大で講演し、「日本全体が右に振れており、あまりいい傾向でない。昨年の衆議院戦での自民勝利は、日本が国際的に大きなやけどを負うきっかけをつくったのかもしれない」と警鐘を鳴らした。日中関係については、「(好転は)可能だ。中国の胡錦濤主席にお誘いを受け、3月は忙しいので、4月に経済人を連れて訪中する」と説明した。(シリコソバ1ノー時事)
引用終わり
まあ、支那いのち、媚中派橋龍と言ってしまえばそれまでですが、この橋本龍太郎がいっている「胡錦濤主席にお誘いを受け」というのは産経新聞が一月二一日に掲載した下記の記事です。
以下引用
日中関係筋が20日語ったところによると、中国の胡錦濤国家主席が3月に訪中予定の日本国際貿易促進協会会長の橋本龍太郎元首相ら日中友好団体の代表らと会談する意思を固めた。受け入れ側の中日友好協会がこのほど日本側に伝達、日程調整を打診した。
胡主席が日本人と会談するのは、昨年9月末、日本経団連の奥田碩会長らと秘密会談して以来。日中の政治関係が停滞する中で、日本の民間団体との交流を拡大、経済関係などへの悪影響を食い止める狙いとみられている。
胡主席が会談を予定している団体は、日本国貿促のほか、日中友好協会(平山郁夫会長)、日中協会(野田毅会長)、日中友好議員連盟(高村正彦会長)など。胡主席は3月20日前後に各団体幹部とまとめて会談する予定で、各団体にはそれ以前の訪中が要請されている。
略)
≪橋本氏、3月は否定 親中派「北京詣で」加速?≫
橋本龍太郎元首相(日本国際貿易促進協会会長)や、野田毅元自治相(日中協会会長)ら日中友好団体幹部を務める自民党議員らによる3月の訪中計画について、橋本氏サイドは20日、産経新聞の取材に対して、同時期の訪中を否定した。野田氏の事務所も、「訪中の計画はあるが、中国側から正式な要請はない」と、現段階で日程は固まっていないとの立場を示した。しかし、中国側から与野党議員に対する「招待攻勢」は激しく、日本の議員の“北京詣で”が今後、活発化する可能性もある。
略)
引用終わり
そして、二月一〇日の産経新聞にも日中関係筋による話として、橋本元首相が日中友好七団体のトップとともに三月末に訪中という記事が掲載されていました。
いつ行こうが勝手でしょうが、もう政治家でもないこの橋本龍太郎という人間は何をしに支那にいくのでしょう。この人は過去に「朝鮮半島における植民地支配を日本が実施した事実、中国に対して侵略的行動をとったという事実は否定できない。日本によって植民地支配を受けたという思い、あるいは侵略を受けたという思い、これは事実として否定し去ることのできるものではない」と首相在任時の平成十年三月に国会で答弁したような歴史観を持ち、また、その前には自民党幹事長代理という要職にありながら、支那の女性工作員との肉体関係がもとで、二六億円ものODAを搾り取られたと「諸君」平成一〇年六月号に掲載され、*1それだけではなく、首相在任中にこの公安にいたと自ら東京地検で証言した女性工作員のわが国への帰化に一役買ったとまでいわれています。*2
このような男が逮捕もされずにいるわが国が異常なのです。
*1「橋本首相『中国人女性』とODA二十六億円の闇」
「彼女が単なる通訳という表現はあたりません。彼女は実際、衛生部外事処内の決定によって、中日間で合意された無償援助プロジェクトの項目責任者に指名されています。担当したプロジェクトは二つです。
一つは北京市の中日友好病院のための日本からの無償援助。もう一つは長春市の白求恩医科大学付属病院に対する無償援助。いずれも大規模かつ重要な建設事業でした」
「そこが中国の行政システムの独特のところで、簡単に言えば、無償援助を受ける国の言葉を話せる人間、たとえば相手国が日本なら日本語を理解できる人間が、対象プロジェクトの担当者、すなわち項目責任者と通訳を兼任しているという、極めて合理的なシステムなのです。従って、表向き彼女は橋本先生の通訳として行動するのですが、実際はできる限り先生に随行する機会を増やし、自分に与えられた項目責任者としての任務を促進させるべく先生に働きかけるのがその役割なのです。
こうした役割を担った通訳のことを中国では『陪同翻イー』(ベイトンファンイー)と呼んでいます。橋本先生が彼女の身分をどう解釈していたはともかく、彼女にとって先生は間違いなく陪同翻イーの対象としての存在だったと思います」(元同僚申光女史)
「私が知る限り、二人が『男女の仲』であることは疑う余地はない。そんなことはすでに周知の事実だ。だが、彼らが親密な間柄だからといって、一体何が問題なのか。彼らが肉体関係を持っていたからといって、中日両国の法律に抵触したわけではないし、両国関係の悪化を招いたわけではない。合理合法なのだ」駐日中国大使館元参事官、当時、文化部中国対外文化連絡委員会(現・文化部対外文化連絡局)の司長(次官)にあった元中国政府高官談
(「諸君」平成一〇年六月号 赴綺春秋)
*2
この支那元女性工作員は離婚後、平成三年に国際協力事業団の日本人男性と結婚。その後、この元女性工作員のわが国への帰化申請時に職権乱用について平成十年六月四日の参院法務委員会で平野貞夫議員(当時自由党)より当時の橋本首相に対して質問をされている。内容は、埼玉県狭山市在住の元女性工作員は浦和地方法務局の所沢支局で平成八年の橋本政権発足後の一月一九日に帰化申請し、その後十二月一六日に帰化が許可されている。つまり、この女性工作員が申請後わずか十一ヶ月で日本への帰化が認められた疑惑について追及されたというものです。
これに対して、政府側は個人のプライバシーを盾に具体的な答弁を拒否。通常帰化申請が法務局に受理され法務省民事局第五課によって帰化が許可され官報に記載されるまで観察期間として通常2年を要し、その観察期間中に法務局から警察と公安調査庁に案件が回され身元照会がなされるそうですが、その作業がすっぽり欠落しているそうな。
なを、平成九年十二月三日、東京地裁で「公安当局にいた」と、この女性工作員が自ら証言。
店を片付けてから部屋に帰る。今日から三連休・・・・・
とりあえず、今日は酒も飲まずに帰る。部屋で「モンテンルパに祈る」を読んでいて、著者の加賀尾師が戦犯とされた皆様を糾匯佞箸靴峠莊座罎砲送りする別れの場面と渡辺はま子さんが困難な時代に慰問にフィリピンの収容所を訪れた場面を読み、涙がでてきた。
似たような風景
2月10日金曜日 晴れ △
インターネットで拾った記事です。
以下引用
街路樹を切って作った彫刻...「異常行政」に呆れる
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=72601&servcode=400§code=410
略)
木浦環境運動連合などが10日伝えたところによると、同市は先月下旬、北港洞(ブクハンドン)の
市保健所正門から西部(ソブ)小学校前通りまでにわたって植えられた高さ5メートル以上・
30年もののメタセコイア30株を、3メートルずつ切り出した。切った木には、1株当たり約20万ウォン
(約2万円)をかけて、市を象徴するマークや地域特産物の形を刻んだ後、赤と黄などの色を塗った。(写真)
略)
抗議が殺到すると、木浦市は10日午後、木の根元まで全部切ってしまった。市関係者は
「都市の美観のため作った彫刻だったが、残忍だという非難が殺到し、切ってしまった」とし
「木の彫刻は、きちんと手入れして、北港緩衝緑地の遊歩道に展示する考え」と話した。
引用終わり
そして、当然インターネットでは下記のようなお祭り状態・・・・・
141 :マンセー名無しさん :2006/02/10(金) 17:51:30 ID:WRVNsyG1
これはすごいセンスですね。脱帽。
142 :マンセー名無しさん :2006/02/10(金) 18:02:44 ID:L6tCgO4K
>>141
> 都市の美観のため作った彫刻
わかってはいたが、あほすぎる。
143 :マンセー名無しさん :2006/02/10(金) 18:06:04 ID:Cw121OVZ
>>141
彫刻というからもっと芸術的なかんじかと思ったら、小学生の工作レベルじゃないのさ
144 :マンセー名無しさん :2006/02/10(金) 18:07:43 ID:lR1yK5wc
>>141
根元から切り倒してもう木は死んだから残忍じゃないニダ。ってか?
すっげーwww
145 :何だ :2006/02/10(金)
18:15:43 ID:iFsGcWmM
>>141
さすが、「残酷に殺した方が、犬はうまい」と実践する民辱だ。
そして、下記のような記事を探してくる人もいる・・・・・
街路樹バッサリ
http://mytown.asahi.com/shiga/news.php?k_id=26000000602080003
以下引用
大津市のJR西大津駅前にあるパチンコ店を建てた市内の建設会社が昨年12月、下請けの造園業者に指示し、店の前にある市管理の街路樹4本を無断で伐採していたことがわかった。建設会社側は「見た目が悪かったので(伐採を)指示した」と説明。パチンコ店経営者は「市が植え直すなら全面的に協力したい」としている。市は大津署に被害届を出しており、同署は近く関係者から事情を聴く方針。
【パチンコ店の建築業者指示 大津署が聴取へ】
街路樹は約30年前に植えられたヤナギで、歩道沿いに15本あった。このうちパチンコ店の駐車場の看板前に並ぶ4本がオープン前の12月上旬に根元から1〜3メートルを残して伐採された。
略)
その後、朝日新聞の取材で、京都府内の造園業者が伐採したことが判明。この業者は「建設会社から依頼されて切った。許可を取っていると思っていた」と話した。建設会社の現場責任者は「見た目が悪いと思い、『きれいにしてくれ』と指示した。市の管理と知っていたが、その程度なら大丈夫と思った」と説明している。
パチンコ店経営者は「4本のうち2本は台風で枝が折れていた。『危ないから市に切ってもらわないと』と現場責任者に話したことはあるが、具体的な指示はしていない」とした上で、「木に申し訳ないことをした」と話している。
市道路管理課は「街路樹は市民の財産。警察に相談し、元に戻すよう求めることを検討する」としている。
引用終わり
旗山
2月9日木曜日晴れ △
築地中央市場の場内には水神社があり、そこに「旗山」と刻まれた永野海軍大臣の筆による昭和一二年に建てられた大きな碑があります。
「日本海軍発祥の地」だそうで、旧松平定信の別邸・浴恩園内があったところだそうで、海軍卿旗を立てたことから「旗山」と呼ばれていたのだそうです。
今日は、昨日というか今朝までの酒がたたり、河岸からの電話で起こされるが、また寝てしまい、気がつくと十時五十分・・・・・
大慌てで、河岸に電話して、電話で頼んであった品物を作業も午後一時ごろまでやっているマグロ屋の慎吾ちゃんところに持って行っておいてもらうようにお願いする。代金は明日・・・・・
河岸に着いたのが十一時四十分・・・・最低・・・
またまた皆様から、「ヨッ、ヨッパライ」「アル中」とあたたかいお言葉を頂戴する。
Yさん御夫妻来店。理事長就任・・・・・Kさん、静岡からOさんと来店。場長就任で毎日の送別会疲れのSさん来店。Hさん来店。
今日は軽く飲む。
売国奴 売国
2月8日水曜日晴れ ×
| 画面を↑クリックするとでっかくなります。 |
著作権?
2月7日火曜日晴れ ×××
フランスで流れているSAMSUNGのコマーシャルに富士山が写っていたりするそうですが、その南朝鮮が自国の著作権保護に乗り出すそうです。
以下引用
海外での韓国著作権保護、文化観光部が本腰
2006/02/06 17:15
【ソウル6日聯合】韓流ブームの拡散などに伴う海外での韓国著作権保護や著作権分野の国際交流の活性化に向け、文化観光部傘下の著作権審議調整委員会が積極的に乗り出す構えだ。
同委員会v澹太燮(ノ・テソプ)委員長によると、海外での韓国の著作権侵害情報を統合管理する目的で、上半期までにサイトを開設する。海外在住韓国人や留学生などから情報提供を受け、優秀な通報者には褒賞も与える考えだ。
同委員会はまた、中国の海賊版製造網の調査を政府当局に依頼し、韓国著作物の流通現況と実態把握に努める方針。5月には中国と東南アジア地域に「海外著作権センター」を設置し、現地での法律・訴訟問題の支援や、コンテンツの輸出活性化、現地主要機関とのネットワーク構築などを積極的に進める計画だ。
http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=052006020604500&FirstCd=03
これって、受け狙いでしょうか。
これは何処の国なんだろう。↓
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Y岡さん来店。一名様来店。中島さん、長野の岸さんと来店。運転手はいつもの酒井さん。お酒を飲めずに可哀想。呼び出されて矢ケ部さん来店。Kさん来店。ホロン部員Yさん来店。Kさん来店。今日も飲む。記憶は・・・・
三・一独立運動に関連して
三・一独立宣言文
2月6日月曜日くもりのち小雨のち雪 ○
<略)
有史以来幾千年、初めて異民族による抑圧の苦痛を嘗めて以来、ここ十年の歳月が過ぎた。わが生存権の略奪、思想の自由な発展に対する障碍、民族の尊厳と栄光を毀損したること、新鋭と独創とを以て世界文化の大潮流に寄与すべき機会を失ったことなど、およそ幾ばくか知れない。
略)
何を書いても勝手でしょうが、このような文章だけで独立できるものでしたら、独立なんて簡単でしょう。では、どうして初代総監であった伊藤博文公の度重なる言行に何もしなかったのでしょう。
あと、やっぱり受けるところは「有史以来初めて異民族による抑圧の苦痛」というところでしょうか。
朝鮮のみなさまには下関条約の第一条を思い出してほしいものです。
独立国だったら「清国からの朝鮮独立」が明記されていなければいけないのでしょう。朝鮮人の偉い人、ぜひ教えてほしいものです。
しかし、いくらなんでもわずか十年ほどまえのことをきれいさっぱりと都合よく忘れられるものです。感心します。
まあ、戦後もわが国で在日朝鮮人の人たちは同じ事をやってますけど・・・・少し前のことを、自分に都合の悪い事はきれいさっぱりと忘れて、謝罪しろだとか当然の権利だとかわけの解らん事を言いまくっています。
今日は飯を食いに出た以外はず〜と部屋にいて、ごろごろして一日が終わる。風呂など二回も入ってしまった。それも本を持ち込んでの長い風呂。
講談社にみる三・一運動の描き方3
2月5日日曜日晴れ○
<「三・一運動」「捲四運動」という名もな民衆の闘いが、それから長く続くアジアの救国運動の第一歩となり、時の政府の外交政策を揺り動かしたのだ。>
まあ、お笑いをとるために乗っけたのじゃあないでしょうけれども、まるで、南朝鮮の小学生向け歴史教科書に書かれている文章をまねたのじゃないかと思える文章です。到底、日本人が書くような文章には思えません。
その南朝鮮の歴史教科書からの引用
<他民族の支配に抵抗して独立しようとする運動は、われわれのような状況にあった、中国、インドなどのアジア諸民族にも大きな感銘と勇気を与えた。そして、世界諸国家がわが国の独立運動に関心を持つようになり、日本の侵略と非人間的な行為を批判しはじめたのである。>
(世界の教科書シリーズ「韓国のわかりやすい歴史」国定韓国小学校社会科教科書 明石書店 2005刊 p118)
今でもこんなアホなニュースをやっています。
朝鮮日報 2006/02/0117:25
東南アジアで独立運動史跡地確認 新たな歴史の1ページに
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/02/01/20060201000061.html
独立運動と関連した東南アジア地域の史跡地50か所余が初めて確認された。
略)
独立記念館の関係者は「今回の調査により、韓国の独立運動は漢人が居住していた場所であればどこでも展開されていたという普遍的な事実を立証できた」とし、「今後もまだ調査が行われていないマレーシア、インドネシア、ボルネオ地域で調査を行い、韓国独立運動の世界性を究明することに努力する」と話した。
【独立運動】明かされる東南アジアの韓人抗日運動
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/02/04/20060204000021.html
▲シンガポールの洪命喜、台湾の申采浩
碧初(ビョクチョ)洪命喜は1916年4月、シンガポールを拠点に韓人同志3人とともにマレーシアのゴム農場を買い上げた。独立運動資金を調達するためだ。
関連文献は、洪命喜が当時2200ウォンあまりの大金を支払ったと記している。しかし、事業がうまくいかなかったのか、1917年10月には農場を売り払い、事業をたたんでいる。
1928年4月、中国天津で「東方無政府主義者連盟」に加入した丹斎(タンジェ)申采浩は、独立運動資金を調達するため当時6万4000ウォンの外貨を偽造した。
一部を中国で現金に替えることに成功した申采浩は、残りを売りさばくため5月に台湾の基隆港に到着、現地警察に逮捕されている。
1928年5月12日付の台湾日日新報は「数十個の仮名で活動してきたアナーキスト申采浩が激しく抵抗した」と事件の内容を詳しく報じた。
独立記念館は今回の調査で1913年、香港で白巌朴殷植(ペクアム・パク・ウンシク)先生が中国革命政府の援助を受けて発刊した独立運動誌「香江」の創刊号を見つけ出し、1928年に台湾で日本天皇の義父、久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)を暗殺しo簗晴蓮淵船隋Ε潺腑鵐蓮卜士の義挙場所を正確に確認する成果も上げた。
略)
まあ、普通にみれば、当時の朝鮮人のくされヤクザ者があっちこっちで事業に失敗したり悪さしているだけの記事です。どこでどうなれば独立運動になるのでしょう。まあ、偽札造りは今でもやってますけど・・・・
あと、下記の箇所については
<農地とすべてを収奪されてきた>
いままで、何度も否定してきておりますので、改めて書きません。
なんにしても、朝鮮人の言っている嘘の歴史をそのまま書いた醜い編集の本です。
昨日、あれだけ飲み、店でそのまま寝てしまった割には元気。店を片付けてから、高田馬場にあるスポーツセンターに行く途中に古本市に寄る。今日は探していた朝鮮人の嘘本のバイブル「朝鮮人強制連行の記録」(三〇〇円也)など十冊ほど購入。スポーツセンターではベンチプレスはあまり上がらず。二時間ほどメニューを消化してから、一度店に寄り、生ゴミを出してから帰宅。
部屋の郵便受けにNHKからの紙っぺらが入っていた。内容として<留守だったので、在宅中に早い時間や遅い時間に伺うかも知れません。よろしく>みたいなことを書いてある。六、七年前にテレビが壊れてから買ってないからどうせいまは部屋にテレビないし、見たいとも思わないので関係ないけど、来たら、来たで暇つぶしに面白そう。
講談社にみる三・一運動の描き方2
2月4日土曜日晴れ ×
この「三・一運動」について手許にある他の著書を見てみますと
「騒動は次第に地方に広がり、三月下旬になると、全道に及んだ。人心険悪で、警備の欠乏に乗じ、棍棒、鎌、鍬、竹槍または稀に拳銃を使って軍隊、警察に抵抗した。さらに官公署や学校を襲い、放火、破壊を行ない、内地人の家産あるいは巡査補、憲兵補助員(朝鮮人が担当)の居宅を犯し、警察官を殺した例さえも起こった」
(陸軍省公表として日韓共鳴二千年史p348より)
「同年三月一日、京城のパゴダ公園では独立宣言書が読み上げられた。その運動方針として、非暴力・無抵抗主義を標榜した。しかしながら商人・労働者が参加した独立運動の第二段階では、万歳を連呼しながらデモ行進すると共に、ストライキ・電車打ち壊し・鉱区破壊等の暴力的行為が出現した。この運動では、民衆が万歳を連呼しながら、デモ行進したので、「万歳事件」とも呼ばれる。
同運動が第三段階に入り、主要都市から地方へ広がると共に、農民達は武装して面事務所(日本の村役場に相当)、憲兵事務所、親日派地主などを襲撃する迄に変質して行ったのである。かくして、当初の旗印は忘れ去られ、同運動は迷走して暴力化の道をたどる事になった。*1
警察署や村役場の打ち壊しのみならず、学校への焼き討ちに加え、在鮮日本人に「日本に帰れ」と投石を以て脅迫行為を行なった事実は、テロそのものであり、朝鮮半島全域で反復されたのであるから、これを暴動と形容しても過言ではない」
(「植民地朝鮮の研究」杉本幹雄著 展転社刊 p61〜62より)*1は著者が引用した文献「李王垠伝記刊行会編『英親王李垠伝』共栄書房二〇〇一年)
つまり、運動というより暴動だったわけです。
この事件の背景として、杉本氏はキリスト教宣教師が民衆の支持を得るためにアメリカのウィルソンの唱えた民族自決思想を教徒に煽ったことがあると書き、また、このウィルソンの唱えた民族自決思想とは所詮白人のためのものであり、他の有色人種は含まれていないのは、大東亜戦争後にアメリカ、イギリスが我国が既に独立を与えていたビルマ、フィリピンだけでなく、オランダ、フランスが旧植民地であるベトナム、インドネシアに舞い戻り、植民地統治を始めようとした事実をみれば納得するであろうと書いています。
支那においてもキリスト教は独立運動、反日運動を煽りました。そして天道教教徒が大多数を占めていた一進会は日韓併合後に他の政治勢力とともに解散させられ、満州の間島に新天地を築く夢の画餅終わり、そのために、縱を分っていた第三代教主のもとに帰り、運動の主力となった。その他として、我国は土地調査により奪わなかったとはいえ、貧しかった多くの農民が参加しました。
ではこの暴動における裁判の結果はどうだったのでしょう。
首班とされた天道教第三代教祖糟淳罎覆蛭人に僅か懲役三年、その他懲役二年六ヶ月が六人、有罪三七人に過ぎない。これは内乱罪の適用が高等法院で却下され、保安法及び出版法違反という微罪となったためである。
まあ、何と申しましょうか・・・・・
この項続く
今日は当店のような親父ひとりの小さな店にとって予約の段階でちょっとパニック状態。
Tさん二名様で来店。初めてのお客さまYさん二名様で来店。アンコウ鍋。三名様で来店。アンコウ鍋。ホロン部員Yさん三名様で来店。アンコウ鍋。KAZUMIさん、MIKIKOさん来店。へべれけさん来店。今回もパソコンの事でいろいろとお世話になる。洗い物がドッチャリ。でもおっぽっといて、途中で飲み出す。営業終了後?へべれけさん、舞い戻ってきたホロン部員Yさんとともに飲む。ドンチャン。記憶は一応ありのつもりだったが、やはりサル・・・・
講談社にみる三・一運動の描き方
2月3日金曜日晴れ ×
先日の日記で(1月14日)綿引弘というバカ歴史教師がひどい内容の本を出していると書きましたが、そういったことについては講談社も負けてはいません。
手許に、「目録20世紀 1919」(平成10年刊)という写真集があります。この号は「三・一」「五・四」抗日の叫び!という題がついております。
以下に内容の一部を引用します。
以下引用
”李太王毒殺疑惑”に怒り爆発
「独立万歳」の声が京城に、そして北京でも・・・・
「三・一」「五・四」運動と”抗日”の叫び
一九一九年(大正八)、日本統治下の朝鮮と、日本の大陸政策に悩まされてきた中国で、抗日運動が起きた。「三・一運動」「捲四運動」という名もなき民衆の闘いが、それから長く続くアジアの救国運動の第一歩となり、時の政府の外交政策を揺り動かしたのだ。
抗日独立運動の波が京城から朝鮮全土へ
略)
起爆剤となったのは、李太王の毒殺疑惑だった。一九〇七年、ハーグでの万国平和会議に密使を送り、日本支配の不当性を訴えて退位させられた李太王の急死に関して「毒を盛られた」という噂が、乱れ飛んでいた。
日韓併合(一九一〇年)後、立法や行政、農地とすべてを収奪されてきた民衆の鬱積した怒りが、この元国王の毒殺疑惑で爆発したのだ。
朝鮮人の金山は「アリランの歌」の中で、当日の様子をこう語っている。
「私たちは彼(先生)に率いられて街に出、何千という他の学校の生徒や街の人人と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町を行進した。私はうれしさで心臓が破裂しそうだったし、誰もが歓びにあふれていた。(中略)一人の白髪の老人が段の上まで出てきてしゃがれ声で叫んだ『見ろ、わしが死ぬ前に朝鮮の独立にあえるのだぞ!』」
ところが日本は、「三グ豈親亜廚鯆丹気垢襪燭瓠軍隊を増派(六個大隊と憲兵四〇〇人)、徹底弾圧を試み。
中でも最も過酷な弾圧を受けたのは、天道教徒やプロテスタントだった。日本は朝鮮人の同化政策にキリスト教を利用していたが、こうした宗教が全国で抵抗活動を組織していた。四月十五日には、堤岩里という村で、キリスト教徒を教会に集め、封鎖したまま焼き殺すという「水源郡堤岩里事件」(二九人死亡)が起こる。
こうして迫害と抵抗運動が各地で繰り返された結果・・・朝鮮のジャンヌ・ダルクと呼ばれる柳寛順(十六歳で獄死)などの英雄が生まれた裏で・・・・一説によると七五〇九人が死亡し、一万五九六一人が負傷したのである。
略)
一方、日本国内には、事件の真相が伝わることなく、第二時世界大戦の終結まで、ただの"暴動"ととらえられていた。
結果的に、朝鮮では、「三・一運動」後、独運動が恒常化。文化政治の名のもと、原敬内閑は、懐柔と威圧を使い分けた同化政策を進めることになる。
以上引用終わり 「目録20世紀 1919」(平成10年刊)p2〜5
多くの嘘を列記した酷い内容です。まるで朝鮮の歴史教科書なみです。まず、綿引弘と同じように三・一運動における死者を七五〇九人という数字を「一例として」という言葉を使っていますが、当時上海にいて、本人自ら「今回の独立運動は、日本の厳密な秘匿のため、運動の詳細、確実な実態調査を得ることは難しい。いわんや、海外にあって、ただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるものだけであってみれば、その実態調査の困難さは、おして知るべきであろう」とその著書に書いている、朝鮮人朴殷植が書いた「朝鮮独立運動の血史」に書かれている数値を無批判にそのまま使用しています。普通はこういった数値はせずに幾つかある中で少しでも確度の高い方を使用すべきでしょう。
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参加者 |
死者 |
負傷者 |
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| 朝鮮独立運動の血史 | 二百三万名 | 七五〇九名 | 一五九六一名 |
| 朝鮮総督府発表 憲兵、警察官 |
一〇六万名 八名 |
五五三名 一五八名 |
一四〇九名 |
| 朝鮮軍司令部 (宇都宮太郎報告・九月二十九日) (ただし、軍隊関係のみの調査で、 数は朝鮮総督府の調査の中に含まれる) |
軍隊 |
四〇五名 二名 |
九〇三名 三十三名 |
ましてや、この「目録20世紀 1919」では「処刑された人々。総督府は運動を徹底的に弾圧するため正規軍を投入、デモ隊に無差別発砲する事件が相次いだ」というキャプションで左記のような写真を掲載しているが、このキャプションからは朝鮮総督府が行った処刑のようにしかとれないが、果たしてそうなのか。そして、無差別に発砲したのか。また、どうして軍隊が出動することになったか。それは、これに書かれているような平和的な運動ではなく、暴動といえるものだったためです。
この項続く
金曜日だというのにヒマ・・・・・酔狂師さん来店。大野さん来店。大台さん来店。Yさん来店。
ワインがバンバン空く。大ヨッパライ。ドンチャン。築地の新聞社からサルが来ていたせいもあり今日もサル・・・・
ナベツネ
2月2日木曜日晴れ △
今日、発売の週刊新潮2月9日号に下記のような記事が掲載されていました。
以下引用
「東條はヒトラーと同じ」と言い放った「渡辺会長」
「一人の人間(小泉首相のこと)の、1日1分以内のパフォーマンスで国が動く状態というのは、僕は戦争中、近衡(文麿)さん、東條(英機)さん、それ以降の政治を見てますから、あれに似てくるという危険性を感じるんですよ」
1月23,24日に放送された、TBS「NEWS23」の渡辺恒雄読売新聞社主筆(79)インタビュー。最近、ライバル.朝日新聞発行の月刊誌『論座」にまで登場し、小泉政治に苦言を呈している渡辺氏だが、更にこう続けた。
「東條っていうのは、ヒトラーと同じなんですよ」
なぜ小泉首相の靖国神社参拝に反村するのかを説明した際の発言である。ユダヤ人を大量虐殺したヒトラーと東條元首相が「同じ」とは、いかにも乱暴。昨年、公明党の福本潤一参院議員が予算委員会で同趣旨の発言をし、不遭切だったと自ら議事録からの削除を求める騒動も起きている。渡辺氏に改めて真意を尋ねると、「東条は、ヒトラーのような、人種抹殺のガス室殺人のようなことはしなかったが・・・・との趣旨を、私は別の場所で発言している」
しかし、一方で、
「外国から見れば、ヒトラーも東条も同じ狂気の独裁者とされても仕方のないものがある」
「東条は、ヒトラーとは違う独裁者だとして、彼を弁明する必要はあまりない」とも。東條元首相の孫である由布子さんが嘆く。
「世界で最大の発行部数を誇ると威張っている新聞杜のトップにして、こういう認識というのは本当に残念です。最近の渡辺さんは、TBSや朝日など左翼的なメディアに利用さ札ているようにも感じます」
引用終わり 週刊新潮2006年2月9日号p36
(引用文中に東條と東条と二つの漢字が使われておりますが、そのまま引用させていただきました)
あまりにも醜い発言です。
東條英機元首相に関して、同じ週刊新潮に下記のような記事があります。
以下引用
「東條英機」に感謝状を贈る「ボース記念館」
東條英機元首相に、インドのチャンドラ・ボース記念館から感謝状が贈られる。
「以前からボース記念館に来てくれとお誘いを受けていました。」
と言うのは元首相の孫娘の東條由布子さん。3月に記念館のあるカルカッタを訪れ、故人に代わって感謝状を受け取るそうだ。
「昨年末に記念館から、大東亜会議へのボース氏招請を大変光栄に思う。結果的にインドが独立できた。東條英機氏に感謝状を贈りたいとの申し出がありましたので、招待を受けることにしたのです。こんなに嬉しいことはありません。祖父があの世でどんなにか喜んでいるでしょう。」
チャンドラ・ボースは第二次大戦中、急進的な反英活動を展開したインド独立の志士。記念館はボースの邸宅を改装して作り、遺品などを展示している。
「館内に東條のコーナーを作りたいというので、ウチから祖父の写真やドイツ武官時代に父に送った手紙などを提供しました。インドの留学生がCD−ROMに記録して持ち帰ったのです。ネットでも見られるようにするということでした。」
引用終わり 週刊新潮2006年1月19日号p141
なんと対照的な記事でしょう。
ナベツネのように老醜は曝したくはないものです。
ITGさん、カレラさん四名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。Yさん二名様で来店。
今日は少しだけ飲む。
ベトナム戦争時における南朝鮮兵の暴虐
2月1日水曜日雨
我が国の進歩派とか言われる人々は、支那、ソ連の暴虐を責めないように、ベトナム戦争時にベトナムを侵略したアメリカを非難することはあってもそのアメリカの傭兵として、アメリカ以外では一番多くの将兵を派遣しベトナムを侵略し、ベトナムの人々を虐殺し、強姦などでベトナムで大勢の孤児を作った南朝鮮を非難することは少ない。南朝鮮はベトナムに常時五万人、十年間で延べ三一万人の兵を派遣しました。この時勇猛をもってなった「白馬師団」「猛虎師団」というのがありますが、白馬師団の連隊長はのちの大統領である全斗煥、猛虎師団の大隊長はおなじく後の大統領である廬泰愚でした。
当時派遣された南朝鮮軍の給料はアメリカが持ちました。つまりアメリカの傭兵としてベトナムにいったのです。このことで、「六・二十五(朝鮮戦争)は同じ民族同士の殺し合いだったが、ベトナム戦争はアメリカの傭兵として参加したもので、大義名分の弱い戦争だった」という趣旨の発言をした文教部長官(文部大臣)が金泳三大統領によって平成七年五月十二日に解任されました。この発言の背景には、ベトナム派兵に対して当時の南朝鮮国内の平均給与の二倍がアメリカにより支払われ、派兵しはじめた一九六五年十二月に発効した日韓基本条約に基づく日本の請求権支払い(十年間にわたり有償無償あわせて八億ドル)とベトナム特需ともいえるこの派兵で、南朝鮮は派兵した十年間は年十%近い経済成長(当時世界一位)を続け、輸出も外貨も三十倍近くにふくれあがった現実がありました。
この発言に対して国軍、在郷軍人会などが「ベトナムに派遣された韓国軍は平和軍の十字軍であった」「ベトナム戦争は自由と平和を守るための聖戦であった」などと抗議の意見を発表したために金泳三大統領は長官更迭という処置をとりました。我国とは逆の対応です。
ベトナムでの南朝鮮軍の残虐極まりない行為は、まだその戦争の爪痕が消え去らないベトナムにおいて生々しく伝えられています。
この項の参考文献の一つである「日韓共鳴2000年史」の編者である名越二荒之助氏が平成八年ベトナム訪問時に直接ベトナムの方から伺った話として
「第二次世界大戦後、我々はフランスとの戦争を含めて合計三十年間にわたって侵略者と戦ってきた。そのため国土は破壊され、経済成長は遅れてしまった。その中で特に残虐で野蛮なのは韓国軍であった。村を丸ごと焼き払い、死者の耳までそいでいった。アメリカの捕虜になった方が待遇が良かった。韓国の捕虜になったら殺されるのである。韓国兵はベトナム人を蔑み、人前で平気でビンタをとる。ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。韓国との混血児は名乗りでないので、はっきりとした数は判らないが、一万人以上はいるはずだ」
「現在韓国企業(現代自動車、大字ホテル、その他建設業等)がどんどんベトナムに進出してきているが、彼らはベトナム人を見下げ、傲慢ですぐ暴力を振るう。ベトナム女性を妻にして混血児を作っても、サッサと帰国して責任をとらない」
名越氏が聞いたこれらの証言とは別に下記のような報道もあります。
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
子供も妊婦も容赦なく…
“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました. 続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました.
そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する.
略)
"女性たちを強姦した後、殺害"
韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる.
前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索, 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた.
筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが,
その一部をここに紹介する.
1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して,
きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた.
彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性, 3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む,
50余名を超える良民を虐殺した.
"… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました. 彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました.
妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり, 子宮が外に出ていました. 韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して,
子供の頭を切り取って地面に放り投げ, あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.
彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し, ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました.
そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"
略)
生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射, 大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害,
家屋への放火などだ. 生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる.
-住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.
-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.
-子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.
-女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.
-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.
韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた.
老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった. 恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.
ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員
ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号 .
この朝鮮人の醜い行為は支那人が日本人がやったとよくいう醜い行為にそっくりです。
南朝鮮軍はベトナムに慰安婦を連れていったことも報道されている。
そして、朝鮮人の外国人差別については下記のような多くの報道があります。
http://www.han.org/oldboard/hanboard3/msg/5479.html
すさまじい就職差別ですって?。働く権利が与えられているだけまだ、<マシ>ではないですか。
アムネスティ「韓国、外国人労働者を差別」
http://japanese.joins.com/html/2003/0529/20030529164334200.html
30万人に上る韓国の外国人労働者も、劣悪な労働条件や人種差別などの反人権的環境下にあるとしている。
我々は「奴隷」だった
韓国で働いている外国人労働者に対する人権侵害が
http://japan.chosun.com/site/data/html_dir/2000/05/23/20000523000021.html
朝鮮日報 社説 2000.05.23(火)19:32
あるネパール人の女性労働者は飲食代問題で争ったため警察に連行された後、精神病患者扱いされ精神病院に6年間あまり閉じ込めら
略)
スリランカの労働相は先月、労働部を訪問した際、自国の労働者に対する虐待禁止や低賃金解消などを要請した。駐韓フィリピン大使も1月、労働部に同じような要求をした。バングラデッシュの労働者は帰国後、韓国で経験した人権侵害の例を告発する本を出したりもした。
略)
我々が外国人労働者を差別しているにもかかわらず、海外の同胞に対する差別待遇を問題視することはできない。このふたつの問題を同一線上に置いて考えれば、我々がどのように対処すべきかはっきりするだろう。
http://www.khan.co.kr/news/artview.html?artid=200311161831231&code=99
現地ガイドドルマ(35)も時を逃さないで「韓国に帰れば『社長たち』に外国人労動者たちをなにとぞ『人間』で対しなさいと伝えてくれ」と本音を打ち明けた。1993年に移民を来た海外同胞オソンフィシ(37・女)は「韓国から帰って来たモンゴル人たちが増えるほど反韓国感情の谷も深くなっている」と「こちらでは『韓国人たちは白人にはぺこぺこして他の人種たちはぞんざいに取り扱う』と言う認識が広く敷かれている」と伝えた。
“女は 小間使い? 私たちご主人 悪いです”
韓国で 私の3世界 外国人 女性たちは どんな 悩みを 抱いて 暮そうか.
http://j2k.naver.com/j2k_frame.php/japan/www.chosun.com/w21data/html/news/200409/200409130301.html
“赤んぼう 生んで から 1週間も 中 になったが お正月 節日 準備すると すると お義母様が
夜明けから 覚ましてください.いらっしゃる お客さんたちごとに お膳 調えて上げて 皿洗いしながら
体が 痛くて たくさん 泣いたんです.” “婚家 家族たちは 私が 生んだ 娘たちを かわいがるのも,
面倒を見てくださるのも ないです. 私は 死んでも 良いが うちの 娘たちは住むと するんじゃないか.”
“花道 出してみたんです. 声も 上げて 報告. それでは ご主人が 拳を 目の前に 持つ 大要.‘君逹
国で すぐ 帰りなさい’と.” 対話が つながれば ‘講座’は すぐ 涙海で 変わること 常だ.2002年
光州女性発展センターが 調査した 資料に よれば 韓国人と 結婚した 移住 女性 中 30%街
ご主人の 暴力に 苦しむので 現われた.
結婚情報会社を 経る 場合 男 の方が 数千万ウォンの お金を 出すこと から 女性たちは
婚家の 無給 家政婦や 従業員 取り扱いを 受ける 仕事が 多い”と 説明した.
「呆れる人種差別」 恥ずかしい韓国人
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/10/29/20031029000091.html
ナイジェリア出身のウケブ(33)さんと妊娠7カ月になるフィリピン人のロウェナ(女性/29)さん夫婦は先日、地下鉄で数人の韓国人青年の隣に立っていた。
韓国人青年たちは、ウケブさん夫婦に向かって「いったいどんな色の子供が生まれるんだ」とからかった。ウケブさんは妻のロウェナさんに「気にすることはない」と言ったものの、地下鉄から降りた2人は道端で泣き崩れたという。
韓国は外国人が住みにくい国No.2
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=soci&cont=soci0&aid=20011130214853400
「外国人にストレス」韓国、アジアで2番目
韓国がアジア国家のうち「外国人が住みにくい国」の2番目にランクされた。
黒人新聞報道にみる朝鮮人の黒人差別
黒人新聞「マネー・トークス・ニューズ」は「記者は生まれてこのかた、韓国人ほど冷酷で愚劣で無分別で、しかも侮辱的で傲慢な人間に会ったことはない」とまで書き、同じく黒人新聞の「ザ・ロサンゼルス・センチネル」は韓国人v菘欲さ、働き過ぎ、社会的貢献ゼロ、黒人蔑視を手厳しく批判。また黒人学生を対象に行ったある世論調査では、「韓国人は最も距離を置いた人種」との結果が出ている。
一見したところ日本人だか、韓国人だか見分けがつくと思えないのに、黒人社会でははっきりと日本人と韓国人を区別し、対応を変えていたという黒人側の証言もある。
かつてカーター政権下で厚生教育長官の特別補佐官を努め、また米国進出の韓国企業を顧客に法律事務を担当した経験もあるM・カルフーン博士(現在日本で日本社会について研究中)は、「日本人と韓国人はまったく似て非なる人種。韓国人は妥協するとか、相手の意見を聞こうとかしない点で日本人とは大違いだった」と指摘している。
『THIS IS 読売』(1992年8月号)
「コリアンはなぜ嫌われたのか ロス暴動と核疑惑の狭間」
高浜 賛(読売新聞調査研究本部主任研究員)
韓国での企業経営、日本より難しい
http://japanese.joins.com/html/2003/0512/20030512163750300.html
特に企業部門では敵対的な労使関係(30位)、外国人に閉鎖的な文化(30位)などが「落第点」を受けた。
タイ・マスコミ「韓国に絶対行くな」と報道
http://japanese.joins.com/php/article.php?sv=jnews&src=soci&cont=soci0&aid=20020419174232400
タイのテレビ放送局の報道局幹部と家族が韓国旅行のため仁川(インチョン)空港で入国審査を受ける途中、違法入国者と疑いをかけられ、入国を拒否されて戻ってきた事件が、タイ新聞に大々的に報道され、韓国のイメージが大きなダメージを受けている。
中略)
ナパ氏は出入国管理事務所の職員に外国人観光客に無礼な行動をする理由を尋ねたが、職員の英語が下手で通じず、職員がほっぺたを殴ろうとするふりまでしたと主張した。
河岸に行った時はたいした雨じゃあなかっったが、午後になってだんだん強くなり、営業が始まる頃にはめちゃ降り。福岡よりFさんが新潟出身の方と来店。Sさん来店。転勤が決まり、忙しそう。十二時過ぎに店の営業を終え、外の灯りを消し、ブラインドを降ろしてカウンターで飲んでいると二時前に「もう終わりました?」と数人でいらした人がいたが、お断りする。