工藤俊作6
佐久間艇長
10月31日火曜日晴れ ○

 昭和三十一年、「ニューヨーク・タイムズ」記者で、ピュリッツアー賞受賞作家、米国海軍兵学校出身の軍事評論家ハリソン・ボールド・ウィン氏による、その著書「海戦と海難」の中に「日本六号潜水艇の沈没」として章を設けて佐久間艇長の遺書を紹介し、「佐久間の死は、旧い日本の厳粛なる道徳、サムライの道、または武士道を代表したもの」と強調したのである。
 このことによって、カリフォルニアの高校教科書「リーダーシップ」の項にこの佐久間艇長の行為が引用された。

下記はその佐久間艇長の遺言です。
『佐久間艇長遺言』
 小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す,誠に申し訳なし。されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着にことを処せり。我等は国家のため職に斃れしs罩も唯々遺憾とする所は天下の士はこれを誤り以って将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるやを憂ふるにあり。希くば諸君ますます勉励以ってこの誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされんことを。さすれば我れ等一も遺憾とするところなし。

   沈没の原因
 瓦素林潜航の際過度深入せしため「スルイスバルブ」をしめんとせしも途中「チェン」きれ依って手にて之れをしめたるも後れ後部に満水せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり。
   沈据後の状況
 一,傾斜約仰角十三度位
 一,配電盤つかりたるため電灯消え,電纜燃え悪瓦斯を発生呼吸に困難を感ぜり。十五日午前十時沈没す。この悪瓦斯の下に手動ポンプにて排水に力む。
 一,沈下と共に「メンタンク」を排水せり,灯消えゲージ見えざれども「メンタンク」は排水し終われるものと認む。電流は全く使用する能わず,電液は溢るも少々,海水は入らず「クロリン」ガス発生せず唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。
  (后十一時四十五分司令塔の明りにて記す)
 溢入の水に浸され乗員大部謂[ふ。寒冷を感ず。
 余は常に潜水艇員は沈置細心の注意を要すると共に大胆に行動せざればその発展を望む可からず,細心の余り萎縮せざらんことを戒めたり。世の人はこの失敗を以って或いは嘲笑するものあらん。されど我れは前言の誤りなきを確信す。
 一,司令塔の深度計は五十二を示し排水に勉めども十二時迄は底止して動かず,この辺深度は十尋位なれば正しきものならん。
 一,潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す,かかるときに困る故。幸ひに本艇員は皆よく其職を尽せり,満足に思ふ。
 我れは常に家を出づれば死を期す。されば遺言状は既に「カラサキ」引出の中にあり(之れ但私事に関すること,いふ必要なし,田口,浅見兄よ之れを愚父に致されよ)
   公遺言
 謹んで
 陛下に白す 我部下の遺族をして窮するものなからしめ給はらんことを,我が念頭に懸るもの之あるのみ。
左の諸君に宜敷(順序不順)
斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将
(気圧高まり鼓膜を破らるる如き感あり)
小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜) 松村少佐(菊)
                           (小生の兄なり)
 船越大佐
 成田鋼太郎先生 生田小金次先生
 十二時三十分呼吸非常にクルシイ
 瓦素林ヲブローアウトセシシ積モリナレドモ,ガソリンニヨウタ
 中野大佐
 十二時四十分なり

 英国海軍はこの佐久間大尉の遺書を英訳し、現在も潜水艦乗組員の精神教育のテキストとして使用している。
 恵氏自身も、一米海軍大佐より「私は幼少の頃から、軍人だった父親から、日本海軍について敬意をもって教わった。ところが、海上自衛隊士官に戦史を尋ねてみると、まったく知らない、いったいどういう将校教育をしているのだ」と質問された事があったそうである。
つづく

 今日は昨日の酒が残りまくリで、河岸に行く。夕方まで残っていましたように思う・・・・・
 Kさん来店。Nさん二名様で来店。Yさん御夫妻来店。
 今日は飲む気にもなれず、営業終了後はさっさと寝る。


ドンチャン
10月30日月曜日晴れ ×××××

 先週、ケイザブロウさんが来店してくださった時に「今度、『文ちゃん』という神楽坂にある焼き鳥屋さんに飲みに行きましょう」と話しをすると「じゃあ、具体的に」ということになり、早速、その場で「文ちゃん」に電話をして今日の予約をお願いする。
 夕方、神楽坂の駅で待ち合わせて、交番で「文ちゃん」場所を教えてもらって六時ごろ開店早々にお邪魔する。生ビールを飲みながらおまかせで焼いてもらう。おまかせは八品。砂肝、皮、手羽、軟骨、つくねなど出してくれたものはみんな美味しい。しいたけ、鴨筧荷(鴨肉u━荷をはさんで焼いたもの)を追加。あと、お母さんが二十年前の開店の時に作って持ってきてくれたという糠床でつけたきゅうり、茄子、かぶの糠漬けが旨かった。

 もう一件ということで、ぶらぶらして初めてのお店に入ったが、入った瞬間に「・・・・・」となりじゃあ、ビールお代りだけして出ましょうとなる。その後、「エムズバー」さんに伺う。途中、早稲田棒術会の師範代の中島さんから電話があり、結局、店を開けることになり、ケイザブロウさんと「酒たまねぎや」に移動。中島さん、師範の江上さんとFILIPPOさんの三名様来店。休みと知らずにYASUKOさんも来店。そして、夜中に関わらず、呼び出されて、YさんSさんなど弟子三名様来店。いくら、好きで入った道とはいえ、大変だな〜。
 何時か記憶ないが、YASUKOさんとまたエムズバーに舞い戻り飲む。最後は、エムズバーの前でYASUKOさんをタクシーに乗せたぐらいまでは記憶になるのだが・・・・結局、六時から飲み始めて、午前四時過ぎまで飲んでいたようです。

有色人種蔑視
10月29日日曜日晴れ

 「ドイツ兵が頭蓋骨を手に記念撮影 首相謝罪」という以下のようなニュースがありました。
 以下引用
 アフガニスタンでドイツ軍の兵士が頭蓋骨を手にして記念撮影をした写真が報道され、ドイツの首相が謝罪する事態となっている。
 問題の写真は25日、ドイツの大衆紙「ビルト」が報じたもので、アフガニスタンで活動する国際治安支援部隊に所属するドイツ軍兵士が頭蓋骨を手に記念撮影をしたり、笑いながらポーズを取ったりしている。ビルト紙によると、写真は03年に撮影され、頭蓋骨は遺体が大量に埋まっている砂利採取場から持ち出されたとみられている。
 イラクでアメリカ兵が行ったイラク人虐待の再来と非難する声も上がり、この報道を受けて、ドイツ・メルケル首相が「政府として徹底調査し、厳正な処分を行う。兵士の行動に弁解の余地はない」と謝罪した。
 ドイツ国防省は関係した兵士から事情聴取を行い、検察当局は死体損壊の疑いで捜査を始めた。
[読売 27日14時3分更新]
引用終わり

 アフガニスタンにおいてのドイツ軍兵の死者への冒涜についての記事ですが、そもそも多くのアメリカ人、オーストラリア人などの白人は有色人種に対して人間扱いをしていなかった。
これはあの大西洋横断単独飛行の英雄、チャールズ・リンドバーグの日記にも記されていることです。(新潮社、一九七四年刊)
 以下チャールズ・リンドバーグの日記については「日本の反論 戦勝国の犯罪を検証する」(米田健三著、並木書房)よりの引用。
「小屋の壁のひとつに、絹地の日本の国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品として一〇ポンド(三三ドル)の値打ちがあると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は二五〇ポンドなら譲ってもよいといった」(リンドバーグ日記六月二一日)
 「将校の話によれば、穴の中の遺体をブルドーザーにかける前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、耳や鼻を切り落とされている日本兵の遺体を幾つも見たとも言った。『兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取りあげねばなりませんでした』。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ」(同九月九日)

 この米田氏の著書には他の例も多く書かれています。

 雑誌「ライフ」一九四四年五月二日付には、恋人の海軍大尉から送られてきた日本兵の頭蓋骨を眺めながら、その海軍大尉に手紙を書いているアリゾナのナタリ−というバカの写真が普通に掲載されていたぐらいに、アメリカという国の有色人種に対しての偏見があったのです。

 「敗北を抱きしめて」などの著書で有名なジョン・ダワーもその著書「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」(平凡社ライブラリー)に書いています。
 「大平洋地域担当の従軍記者エドガー・ジョーンズが、四六年の『アトランティック・マンスリー』誌に書いている『われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機関銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ』。ジョーンズはさらに、標的の日本兵がすぐに死ぬことがないように、火炎放射機の炎を調整するというような行為にまで言及している」
「一九四二年の末に出版されベストセラーとなった『ガダルカナル日記』のなかで、ジャーナリストのリチャード・トレガスキスは、日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士たちの会話を挿入している。『ジャップは金歯をたくさん入れてるんだってな。それをいただいてネックレスでも作るかな』と一人がいう。『おれは奴らの耳を持って帰るよ』ともう一人が宣言する」
「リンドバーグがついに大平洋諸島を離れ、ハワイで税関検査を受けたときには、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。それは決まりきった質問だと言われたという」
 
 沖縄戦でも、南太平洋戦線と同様の米兵による悪行が繰り広げられた。アメリカの作家、ジョージ・ファイファーが、取材開始から出版まで八年の歳月を費やした労作、『天王山 沖縄戦と原子爆弾』(早川書房)で、「アメリカ軍の残虐行為」という項目を設けて明らかにしている。 
 「野蛮な人間もいた。日本人の歯で作った腕輪は、彼らの歯を抜き取らなくては作れない」
 「ある機関銃分隊は急造の小さなパイプを持って歩き回っていたが、それは日本兵の死体の口に彼らの尿を流し込むのに使われた」
以上米田健三氏の著書「日本の反論 戦勝国の犯罪を検証する」より(p一六六〜一六九)

 このような事例は、私の手元にあるその他の本にも掲載されている。
「キッド(駆逐艦)は日本機を一機撃墜した。パイロットは落下傘で機内から脱出したが、キッドがそのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時にはすでに死亡していた。血気にはやる数人の乗組員たちは日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首をはねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品をつくった者もいた。
 バーンハウスは艦長とともにこの非道な行為を止めた。後日、このパイロットの遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた」P六七
 著者が米国国立公文書保管所で、大東亜戦争時の米軍書類より、資料を探していた時の事を書いています。
以下引用
 当時、アメリカ軍は、日本とだけではなく、またナチスドイツとも交戦していた。ドイツ降伏一ヶ月前の事である。ドイツ海軍とは北大西洋で、特にドイツ潜水艦s淺眸戦いを行った。書類の中にドイツ海軍の話も時折でてきた。ドイツ軍の呼称は、そのままGermansであるが、日本軍の総称はほとんどJapsであった。稀ではあるが、JapaneseとかJapanとか記述してあるものもあった。これは、その当時のアメリカの一般的な感情、意向、傾向を表していた。アメリカ政府、軍部は一貫したポリシーとして当時、日本、日本人を人間以下の動物として蔑視し、それを事実として国民に植え付けていった。反対に自分たちの多くがドイツから移民してきた仲間であることも手伝って、ドイツに対してのそのような政策はなかった。この違いが、報告書などの書き方にも現れている。単に敵に対する増悪だったと言えば、そうとも考えられないことはないが、戦争が終わって六十年近くにもなっていまだに、Japsという呼び方が正式なものだと信じている老人もいる。p192〜3
駆逐艦キッドの戦友会にて
 「頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。
 戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。
その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。
略)
 日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。
実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。
ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。」
 p251〜2「特攻パイロットを探せ」平義克己著 扶桑社 平成一六年刊) 

 これが人道的とされてきたアメリカの姿です。アメリカ国内においては大東亜戦争中も人種差別が合法でした。公立の学校においてさえ、人種差別が憲法違反とされたのは一九五三年のことです。軍隊においては別々に従事させていました。

  店を片付けた後にスポーツセンターへ行く。今日は下半身と有酸素運動のメニューを消化。さっさと部屋に帰る。



工藤俊作5
恵氏の指摘「現在の自衛隊教育に対しての懸念」
10月28日土曜日晴れ ○

 恵氏は著書で、指揮官の判断の対照として、工藤俊作海軍中佐の行動と平成七年一月一七日の阪神・淡路大震災の時に、現地の惨状の把握しようともせずに、あろうことか東京で財界関係者と朝食をとっていた陸上自衛隊最高指揮官である歴代最低のボケ首相の村山冨市とともに、自衛隊法を墨守し部隊行動を即座に起こさず、多くの住民の方々が犠牲になったとして陸上自衛隊中部方面総監松島悠佐陸将(防大五期)をあげています。
 そして、恵氏は現在の自衛隊幹部教育が術科教育(実務教育)偏重に陥っている事をも指摘し、有事に際し工藤艦長のようなリーダーシップが的確に発揮されるかどうか疑問視されていると書いています。
 その象徴的な出来事として、海上自衛隊幹部候補生学校で、校長が帝国海軍出身者から防衛大学出身者に引き継がれて以来の出来事として、各自習室に掲示されていた三人の写真の撤去をあげています。その三人とは東郷平八郎元帥、広瀬武夫中佐、佐久間勉大尉であり、いずれも帝国海軍の象徴的人物であるだけでなく、我国だけでなく列強海軍軍人より今でも敬意を払われている人物なのです。

 佐久間勉大尉(三十一歳、海兵二十九期)は、明治四三年四月十五日、広島湾で潜水訓練中の第六号潜水艇(五七トン)が事故で沈没した時の艇長であった。
 酸素が消耗していく艇内で遺書をしたため、天皇に対し、潜水艇を沈めた責任を詫びた後、「部下の遺族をして窮するものなからしめ給わらんことを」と結び、さらに事故の原因、改良すべき点について呼吸が停止するまで記録していたのである。これを読んだ明治天皇は、感泣されたという。
 当初海軍は、事故後、艇を引き揚げハッチをあける際、凄惨な状況が呈されているものと恐れていた。ところが、艇内には、艇長以下十四名全員が各配置についたまま従容と最後を遂げていたのである。
 英国海軍でも同様な事故が起きていたが、水明かりの洩れる窓の下に士官兵が折り重なって死んでいた。
 佐久間艇の船体は、海軍潜水学校に運ばれたが、関係者は、御神体に触れるかのように船体を神妙に扱った。
 この模様は全国に伝えられ、公開された佐久間艇長の遺書は我国国民の胸をうった。また、日本帝国海軍は、海軍礼装を着用した佐久間大尉生前の写真を公表した。
 このことは昭和二年以降終戦直後まで、「尋常小学校終身教科書六」の「第八科・沈勇」に掲載されていた。
 ところが、日本が再起できないように、日本人の精神面よりの破壊をするために、戦後進駐軍により削除され、潜水学校に展示保存されていた佐久間艇は解体された。
 つづく


今日も河岸から帰ってきてから仕込みを終えた後、短時間スポーツセンターにいく。背中、肩、二頭筋などのメニューを消化。
 Oさん来店。横浜のTさん二名様で来店。来春から青森に移られるそうです。Oさん二名様で来店。Yさん来店。最近、御自宅のマンションが空き巣に入られたそうな。巧妙な手口だそうで、支那人の窃盗団だろうということです。
 飲む。


工藤俊作4
10月27日金曜日曇り ×××

 フォール卿の工藤俊作海軍中尉についてのエピソードとして、平成四年、スラバヤ沖海戦五〇周年記念式典がジャカルタで行われ、インドネシア海軍将官および同盟国各国武官が参列した。
 また、翌日は同地で英国関係者二〇〇人が集まって「トラファルガー・デイ」(戦前日本の「海軍記念日」に相当)が催された。
 二つの式典で、フォール卿は記念講演を行い、ここでも工藤中佐の功績を称え、「日本武士道の実践」と強調した。いづれの会でも、万雷の拍手とスタンディングオベーションが起こったという。
 とくにインドネシア国民は、日本海軍軍人に対し特別敬慕の情をもっている。
 インドネシア政府は、独立の最高功労者として、昭和五一年八月一二日、元海軍ジャカルタ武官府長官前田精中将(鹿児島県出身、海兵四六期)に対して最高位のナラリア勲章を贈っている。
 昭和二〇年九月一九日、スカルノが初代大統領として独立宣言を発した際に、警備を受け持った日本陸軍代一六軍は、独立を阻止しようとする連合軍から「発泡しても集会をさせるな」と命じられていたが、それを無視し、独立宣言を行わせた。当たり前である。「われわれインドネシア民族は、ここにインドネシアの独立を宣言する。権力の移行、その他に関する事項は適当、かつ迅速に処理される 17・8・05 」という独立宣言文を作る現場には 前田精海軍中将だけでなく、吉住留五郎氏(新聞記者)、三好俊吉郎氏(陸軍司令官通訳)、西嶋茂忠氏(海軍嘱託)の四氏がいたのである。
 当時、第十六軍の参謀をしていた 前田精海軍中将と同郷の宮元静雄陸軍中佐は、独断で演説を許可したばかりでなく、スカルノを護衛するために彼の隣に座った。
 大東亜戦争後、オランダとの間で戦われたインドネシアの独立戦争に元日本兵約二〇〇〇名が加わり、多大な犠牲をだし、そのご遺骨は、インドネシア英雄記念墓地に埋葬されている。
 そのような国情にあって、フォール卿によって語られた工藤艦長の行為は、大きな感動をインドネシア国民にもたらした。

つづく

  河岸から帰ってきて、仕込みを終えた後に時間は余りなかったがスポーツセンターへ行く。ベンチプレスは四五×八、八〇×二、九〇×二、一一0×三、一〇七・五×三、一〇五×六、一〇〇×八、九五×六、九〇×一〇、八五×八。胸部と三頭筋のみのメニューを消化。
 ケイザブロウさん来店。大阪よりのお客様Mさん二名様で来店。Yさん、Oさん四名様で来店。Kさん、Oさん来店。
途中から飲み始めて、ドンチャン。営業終了後、四川料理のお店でまたドンチャン・・・・・・

工藤俊作3
10月26日木曜日 晴れ ×

元海軍中尉サムエル・フォール卿が英タイムズ紙に投稿し掲載された一九九八年四月二九日とは、翌月に予定されている天皇の英国訪問が公表され、それに対してかつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちが中心となり反対運動が起きていた。捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。

 しかし、「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったこのフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。
 米海軍機関紙「プロシーデングス」昭和六二年新年号にも、フォール卿は「騎士道(Chiv-alry)として工藤艦長の行動を執筆した論文を七ページにわたって掲載し、米海軍軍人をも驚嘆させている。

 どうして、国際法上昭和二七年四月二八日の講和条約成立によって解決済みのこのような事が英国などにてぶり返されるようになったかというと、アホ首相のひとりである細川梧洸皖謝罪をした以降、バカ売国奴村山冨市が平成七年八月一五日にいわゆる村山談話を出し、平成八年一月に、これまた支那のハニートラップに引っ掛かった色気違い売国奴の橋本龍太郎が、英国大衆紙「サン」に、大東亜戦争の英国人捕虜の扱いに関する謝罪文を寄稿するなど、アホがアホなことをなんどもやったからである。
 では、この腐れ売国奴どもはつぎの言葉をどう聞くのであろうか。
「アジアの国々における脱植民地運動は、日本のお陰で勢いづいた」と断じ、「東南アジアで日本軍がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの植民地を素早く撃破したことこそ、戦後に欧米列強が再びアジア(植民地支配)に戻ることを困難にしたのである」
 平成一七年五月、インド国防省元次官で国際政治学者K・サプラーマンヤム氏がインドの有力紙「ヒンドゥスタン・タイムズ」に、小泉首相がバンドン会議で胡錦濤首相に謝罪したことについて。P一一
つづく
 
 河岸の場内の店はカレー屋さんのように「早い」「安い」といういわゆるファーストフード的な店が多い。吉野屋の創業も河岸です。でも、最近は河岸は観光客、サラリーマンの人たちなどで混んでいて昼飯などは場内では食べれない。今日も帰ってきてから店で作って食べる。

 今日は初めてのお客様Nさん二名様で来店。AYAさん、Mさんの女性お二人で来店。大台さん来店。マロさん来店。Kさん来店。
 九時過ぎから飲み始め、ドンチャン。

工藤俊作2
10月25日水曜日晴れ ×

 昨日からの続きです。
 フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚部は、観艦式に卿を招いた。それも海上自衛隊最精鋭の艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」にである。
 フォール卿を迎える「いかづち」では、一行のため、へり格納庫上に設置されている搭乗員待機室を休憩室として提供し、海上幕僚部から士官二名を世話係に配置するなど万端の準備にて迎える。
 平成一五年一〇月二六日午前九時五〇分、横須賀より出港し、観閲艦隊随伴艦の二番艦として観艦式に参加。
 「いかづち」艦長は高草洋一二佐(四九歳)、フォール卿のエスコートは外務省欧州局西欧第二課長市川とみ子。
 フォール卿は迎えいられた「いかずち」の士官室にて、同席した方々に戦時中を振り返り、そして、「自分や、戦友の命を救ってくれた『雷』艦長御遺族を始め、関係者に会ってお礼が言いたい。できれば工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語っている。

 観艦式航海中のフォール卿は、海上自衛隊の指揮統率能力の高さに感嘆し、また後部の飛行甲板で音楽隊が演奏の初めに英国国歌を演奏した時、不自由な身体を押して直立不動の姿勢をとり、その後姿に何度も同行した者たちを「英国紳士とはかくなるものか」と感嘆させたそうです。
 
 フォール卿は「いかづち」が帰港し、岸壁から外務省が手配した車に乗り込むまでの間に要所に配置された自衛隊の下士官にたいしても、不自由な身体でありながら、いちいち立ち止まり、彼らに、「ありがとうございました」とたどたどしい日本語でお礼を言い、丁寧にお辞儀をされたそうである。

 フォール卿の来日の目的は、かなうことなら艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げることであった。ところが、来日してみたもののその願いはかなえられず、フォール卿は恵氏に艦長の墓と遺族を探し出すことを依頼して帰国する。
 どうして、工藤俊作中佐をフォール卿は探し出せなかったのであろうか。どうして堀内豊秋海軍大佐のように世に知られなかったのであろうか。
 じつは昭和五四年八月一四日には、遠洋航海で英国ポーツマスに寄港した海上自衛隊の練習艦隊司令官植田一雄海将補(海軍少将相当、海兵七四期)は、英海軍連絡士官から工藤中佐の消息を探してくれるよう正式な要請を受けていた。
 ところが、植田海将補は帰国後、諸般の事情より「調査は無理」と断念していた。その事情とは
 一、工藤元艦長は戦後、海軍兵学校のクラス会にほとんど出席していない。このため、クラスもその消息を掌握していなかった。
 二、「雷」は、昭和一九年四月一四日、ウォレア近海で、米潜水艦「ハーダ−」(一五二五トン)の雷撃を受けて轟沈しており、艦長生永邦夫少佐(海兵六〇期)以下全員が散華している。
 三、「雷」に乗艦していた元士官二名が存命しているが、先任で「雷」元航海長だった谷川清澄少佐(海兵六六期)に対しては、どうしても尋ねる雰囲気になれなかった。谷川は終戦直後、自決する覚悟であったが、寸前に思い止まっていた。同時に、戦前戦中の思い出と決別するつもりで、すべての写真、資料を焼却してしまっていたのである。
 もう一人、田上俊三大尉(海兵六七期)はこの美談を都合よく解釈し、ともすれば自分自身の存在を誇示するかのような言動を繰り返し、協力する気配が見られなかった(階級はいずれも終戦時)
 田上氏はフォール卿が来日時にもゲストで観観式に招かれているが見苦しい話題を残している。
まだまだ、このネタで続きます・・・・・

 今日は河岸も休みなので、スポーツセンターに行こうと思いながら、昨日遅くまで飲んでいたせいもあり、11時過ぎに起きてグダグダしているうちに行き損ねる。
 今日もヒマかなと思っていたら、九時過ぎに美丈夫の元杜氏の相原さんが奥様とともに来店。今期の造りより「玉の井」「南」などの銘柄を出している南酒造さんに杜氏として入るそうです。今後の活躍を祈るばかりです。「イデアル」の村上社長がスタッフのみなさんと来店。Tさん来店。Nさん高校時代の友人の方と来店。
 遅い時間から飲み始め、いつもと同じでドンチャン。

工藤俊作1
10月24日火曜日雨 △
 現在の我国には軍人を必要以上に悪くいったり、蔑視する人が多くいます。しかし、世界の方々に尊敬されている我国のりっぱな軍人も多くいらっしゃったのです。
 当店のホームページを御覧になってくださり、東京にお仕事でいらした時に御来店いただいた事もある「学習者」さんがメールでお教えくださった「敵兵を救助せよ」という本に書かれている工藤俊作海軍中佐もそうです。
 著者の恵氏は一九五四年沖縄コザ市生まれ。七八年防衛大を卒業した後、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校を経て護衛艦勤務のち退官(二等海尉)された方です。
以下、手元にある恵氏の著書「敵兵を救助せよ」より

 平成十五年十月十九日、一人の元英国海軍士官が日本の土を初めて踏んだ。元海軍中尉サムエル・フォール卿である。
フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、その功績によってサーの称号を受けている。外交官を定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓しているが、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と銘記し、顕彰した。
 英国海軍士官がこれほど敬服した工藤俊作海軍中佐とは。

大東亜戦争が始まってまもなくの一九四二年二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊一五隻との間で行われた海戦で、日本艦隊は三月一日までに、十五隻中一一隻を撃沈(四隻は逃走)した。三月一日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名は漂流を続け、翌二日彼らは生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していた日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。
この時英国海軍中尉だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。
 ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
(一九九八年四月二九日付「英タイムズ紙」フォール卿投稿文より)

 戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。もちろん艦長の英断であった。
略)
 フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきた。そして、昭和六二年、工藤中佐が八年前に他界していた事を知った。
 しかし、自身の齢も八十四歳を数えるようになってきたため、ついに意を決し、「人生の締めくくり」として来日したのである。
P七〜一〇
つづく


 今日は凄い雨。チヒロさん来店。HさんBさん来店。
 今日も飲む。土曜日に開けた開運15BY出品酒などドンチャン。記憶はあったと思う・・・・



部落解放同盟
10月23日月曜日雨 ○
 奈良県の市役所職員が病気を理由に五年半でわずか八日しか出勤しないのに、ほぼ満額の二七〇〇万円もの給料を得ていたというニュースがあった。病気のはずのこの職員その休職中も部落解放同盟の折衝などで、市役所を訪れていたそうである。
 部落解放同盟とは、自分達で「差別、差別」と騒ぐことによりその利権を確保している在日朝鮮人と全く同じである。部落差別などというものは自分達が何も騒がなければ差別など自然に無くなるものである。
ところが無くなれば困る輩がいるから「差別、差別」と騒ぐのである。

 しかし、市長が述べていたこの職員が懲戒免職になった理由とは、そのアホ勤務についてではなく、その妻の関係する建設会社にて兼職していたからだという。ちょっと、違うだろう。民間会社だったら、こんなアホな勤務だったら普通は即クビだろう。
どうして、実名を公表しないだろう。

 今日は何処へも行かずに一日中部屋にいた。

植物の能力
10月22日日曜日曇りのち晴れ ○

 先週号の週刊文春に掲載されていた竹内久美子さんという動物行動学研究家という肩書きの方が、質問に答えるコーナーで、「植物は言葉を聞き分ける能力があるか」という質問に答えていました。竹内さんの書いたものではありませんが、私も随分以前に「サボテンは人の言葉を理解する」???みたいな記事を読んだことがあります。サボテンに微弱な電流を流して、その変化を測定するといった記事だったように思います。
サボテンの側で別のサボテンを燃やし、その人間が再びサボテンに近付くとサボテンが反応するとか、やさしい言葉をかけるのと、しかって育てるのでは違いがあるみたいな内容だったように思うのですが、なにしろ随分前なので記憶があやふやです。
 この竹内さんの記事では、人間の言葉は聞き分けていないはず。聞き分ける必要がないからだそうです。でも、植物にも地球上で生きていく以上は、外で何が起きているか知る能力を欠かすことは出来ないというより、動くことが出来ないので、ある意味、動物以上に察知、回避の能力が発達しているはずと書かれています。
 竹内さんによると、優しい言葉をかけてやると植物がよく育つというのは下記の理由とは。
 優しい声をかけるような人は、植物の世話も甲斐甲斐しく行う。だからよく育つ。もう一つは植物本来の生活を考えてみると、わかってくるそうですが、植物というのは本来、人間に育てられるのではなく、自力で育つものだから、周囲の環境の中で人間の優しい言葉(破裂音、摩擦音を含まないもの)と同じようなものとして鳥の鳴き声だと。天敵の虫を退治してくれる鳥の鳴き声がよく聞こえるのは、植物にとっては育ちやすい環境だから、よく育つのではないでしょうかと書いています。
音楽を聞かせると成長をが違うという研究もあるそうですが、その音楽の種類によっても成長が違うそうで、植物が一番嫌いなのはロックだそうです。
なんとなく分かるような気がします。
そういえば、クラシックを流して醸造する蔵元さんや、酪農家がありました。きっと、ロックじゃあ、ダメなんでしょうね。

 午後よりスポーツセンターにいく。ベンチプレスは六〇×八、八〇×二、九〇×二、一〇七・五×四、一〇二・五×六、一〇〇×八、九五×六、九〇×六、八五×八、八〇×八。

日露宇くんTシャツ
10月21日土曜日晴れ ×

 美丈夫の蔵元であょ_川社長が送ってくださったTシャツ。美丈夫の宇宙酵母を使ったお酒のキャラクターである「日露宇くん(にちろーくん)」がプリントされています。


 Tさん四名様で来店。Tさん四名様で来店。
う〜ん、八名様なのに七名様??????





根三葉
10月20日金曜日晴れ ×××

 写真はアンコウ鍋の時に使った根三葉の根っこの部分をコップに水を入れてさしておいたもの。さして約二週間ですが、鑑賞としても、また、味噌汁ぐらいだったら十分使えます。何といっても完全無農薬。

 ケイザブロウさん来店。Sさん五名様で来店。金ちゃん二名様で来店。セッキ−三名様で来店。Kさん三名様で来店。Kさん来店。
ドンチャン。記憶は曖昧・・・・・







朝鮮の身分差別
10月19日木曜日晴れ ×

 朝鮮の社会構造として、国王、王族、両班、常民(良民ともいわれて、農工商の階級とされていた。租税、労役、兵役、貢物の義務を負っている。しかし、職業選択の自由はなかった。)そして、翹民があった。
 これには奴婢、皮工、官妓(役所所属)、辺妓(軍人所属)、牛馬を引く人足、猟師、水尺(漁師)、駅卒、僧侶、俳優、医者、巫女など多くの階級があり、その最下級として白丁があった。
 朝鮮では一八九四年の甲申改革によって、「四民平等」を宣言した。このとき戸籍法が改正され、婦女子だけでなく、奴婢なども両班、良民と同じように戸籍を持つようになった。しかし、この改革もすぐに潰されてしまう。「甲申政網」は、国王の命により回収されてしまい、現在ではその正確な原案を知る事はできない。
 その後、朝鮮に近代国家としての本格的な社会改革が訪れるのは、日本による朝鮮総監府から総督府時代であった。この時に、法律の施行により、万民平等の原則に基づく階級差別廃止が断行された。これは朝鮮史上はじめての階級差別廃止政策であった。李朝朝鮮における各階級の比率としては一六九〇年の大邸における例としては、両班七・四%、良民(常民)四九・五%、奴婢四三%。つまり人口の半数近くが奴婢であったのである。
一八五八年には両班の比率が四八・八%と増加しているが、奴婢は人口の約半数を占めているままである。(京城大学教授であった四方博氏の統計による)
 李朝末期には、奴婢の中にさらに誤萢と私翹の区別が生じた。私翹になるのは婦女子がほとんどで、個人が囲う奴隷として使役された。日韓併合当時に至っても、一人三〇円で売り買いされており、その価格はアメリカの奴隷よりも安かったといわれている。
 婦女子の奴婢は、特定の夫をも持たず主人に属していた。また、主人も一人ではなく何人かの間を渡り歩くのが風習であった。彼女たちが子供を生んだ場合は、主人の所有物とされ子供も奴婢として転売される。
 子供が女子であれば、私翹として売買されやすいため、その家系は永遠に奴婢の身分から抜け出すことはできなかった。(『朝鮮農業発達史』小早川九郎編著、友邦協会P一九)
 李朝時代の奴婢たちは、翹民というより家畜といったほうが近いほどの扱いを受けていた。
 現在でもそのころからの差別意識が根強く残っているために、「両班」だの「白丁」だのと騒ぐ。
大久保通りにある朝鮮料理の店が店名に「両班」などと、日本人だったら到底考えられないアホな名前をつけるのはそのためです。
 つまり現在の朝鮮人の少なくとも半分の人々は、我が国の朝鮮半島統治により歴史上初めて奴隷の身分より救われたのです。まあ、そんなこという朝鮮人はいないでしょうけど。なにしろほとんどが「両班」・・・もちろん
自称ですけど。だいたい、人口の半分が遊んで暮らしている貴族階級、そして残りのほとんどが奴隷の国がまともなはずがない。だから、世界最貧国だったのです。その世界最貧国より抜けだせたのは日本の統治によってです。自らの歴史を偽って生きている朝鮮民族。
 あほらし。

 ITGさん四名様で来店。初めてのお客様Hさん二名様で来店。Kさん三名様で来店。S@名古屋さん三名様で来店。Hさん二名様で来店。
 今日は大忙し。どうしたのでしょう。でも、途中から飲み始めていつもどおりドンチャン。記憶は珍しくあった・・・・と思う。

石坂啓
10月18日水曜日くもり △ 
 古本屋で買ってきた石坂啓の「私ははずかしい」(赴綺春秋)を読む。
石坂啓
 一九五六年名古屋市生まれ。漫画家。七八年上京、手塚治虫氏に師事する。翌年独立。
(同書より)
 もうネットではある意味有名な女性。この本にもバカ全開。
以下引用
従軍慰安婦
 あなたに十四、五歳の娘がいたとしよう。
彼女が家の近所で何者かに連れ去られたとする。あるいは脅されて、無理やりトラックに乗せられたとする。そのままどこかわからない異国の地に連れていかれ、ことばも通じない兵隊たちに犯されたとしたら。入れかわりたちかわり、連日十人以上、ときには二、三十人もの男たちの相手をさせられたとしたら。
 生理のときも食塩水をガブ飲みして男をとらされる。やがて生理も止まってしまう。性病になってもろくな手当ても受けられず、休めない。腹の上には精液がたまってこびりついたままの状態だ。いつになったら解放されるのか。家族に会えるのかわからないまま、毎日泣いてくらしてたとしたら。泣くたびに殴られていたとしたら・・・・・・。
「従軍慰安婦」ということばをはじめて知ったのは、二〇歳のころ読んだ本の中でだった。ショックだった。
 世界広しといえども、慰安婦たちを連れて行軍した軍隊なんて、ほかにきかないんじゃないか。兵隊たちの駐留している街に娼家が店を開くことはあっても、女たちを丸がかえで連れて歩きながら「侵略」していった軍隊。しかも女たちは「現地調達」。何の話もきかされず徴用されたり、脅されたりさらわれてきた少女たちだった。そしてそれを管理し奨励していたのは民間業者でも何でもなく、「国家」の名のもとであった・・・・・。
 戦争だったからみんながたいへんだった−−−なんて慰めが通じるのは日本の国の中だけである。国がこの事実を認めるまでに五十年もかかった。証言者たちがいなくなるまでしらっとぼけていれば、ごまかしきれるとでも思っていたのだろうか。 
 恥ずかしい話だ。八月になると浮上してくる話題が、多くある。もっと早く教わっておきたかったという話も、たくさんある。
引用終わり 
 石坂啓著「私は恥ずかしい」赴綺春秋 一九九四年 p一九〇〜一九一

 あの売国奴の河野洋平の犯した罪の重さがよくわかる。しかし、この石坂啓という女性は、いったい誰の本を読んだかは知らないが、どうすればここまでバカになれるのでしょう。
ちなみに、同書には北朝鮮については下記のような記述があります。
 以下引用
 日本がついこの間の戦争をきっちり精算してこなかったせいで、そのツケがまだそこはかとなく人々にのしかかっているように、私は思う。潔く謝罪して日本との関係をゼロから始めらてたとしたら、私は何の負い目もなく、
「平壌ってちょっとヘンテコな街だったよ〜」
と、あちこちで楽しく旅行談義をしていたはずだ。
「日本人」であることを深く意識するのは、こういうときだ。
引用終わり
 p一五八

 平壌の街が異様なのがどうして日本のせいなのでしょう。この女性の頭の中の構造はどうなっているのでしょう。まるで、あのバカ在日朝鮮人女性の辛淑玉女史なみです。

 今日は河岸が休み。午後よりスポーツセンターに行く。ベンチプレスは六〇×八、八〇×二、九〇×二、一〇二・五×六、一〇〇×7、九七・五×六、九五×六、九〇×六、八五×八、八〇×一〇。二頭筋のメニューを消化。最近始めたチューブを使用したメニューは面白い。

 今日はメチャヒマ。二名様来店。だけ・・・・
まあ、しょうがないということで、いつも通りに飲む。


特別貢献賞
10月17日火曜日晴れ ×××

 随分前のニュースですが、あの本多勝一氏が支那のプロバガンダ施設「南京大虐殺?記念館」から栄誉ある「特別貢献賞」なるものをいただいたそうです。
http://j.peopledaily.com.cn/2006/09/25/jp20060925_63358.html
 9月24日に授賞式があったそうで、同賞を受賞した八人には売国奴仲間の故洞富雄氏も含まれていたそうです。
 
 このような反日日本人とは支那からは「良識的日本人」ともてはやされています。それはつまり、支那にとって我国の属国化の先兵。
流石は筋金入りの売国奴の本多勝一氏だけあって、喜んで貰ったのでしょうが、普通の日本人なら、こんなもののためにホイホイと貰いに南京まで行かんでしょう。

 今日は河岸は魚が薄いので高め。
 初めてのお客様Yさん三名様で来店。Iさん御夫妻来店。大台さん来店。調子悪そう。二名様来店。
 営業終了後、お客様と高田馬場にある「カヴェルナ」さんにお邪魔する。お客様と別れてから中野の「石松」さんへ。相変わらず満席。その後、御寿司屋さんへ。最後の方は記憶が曖昧。


久しぶりに2
10月16日月曜日晴れ ○

 朝、起きると三頭筋、胸部など筋肉痛。昼過ぎにスポーツセンターに行って、背中、肩、二頭筋などのメニューを消化。
 久しぶりに新宿に映画を観に行く。題名は「ザ・センチネル」
 自民党の中川昭一政調会長の日本の核保有について「議論はあっていい」という発言のどこが問題なのであろうか。タブーとしてそういう議論さえ許さないという方が問題であろう。

あほらしい。


久しぶりに
10月15日日曜日晴れ △

 午後よりスポーツセンターに行く。一週間ぶりのベンチプレス。六〇×八、八〇×二、九〇×二、一〇〇×六、一〇〇×六、一〇〇×六、九五×六、九〇×六、八五×八、八〇×一〇と目標安定(一〇〇×八)には程遠い。

 今日は風呂に入った後は、さっさと寝る。

飲んべえの会
10月14日土曜日晴れ ×

 今日は美丈夫の蔵元であょ_川社長にも参加していただき、飲んべえの会。
 出品酒
 NO.1平成  6年 美丈夫 純米大吟醸40% 12年古酒
 NO.2 平成 9年 美丈夫 夢許 斗びん取り 純米大吟醸30% 9年古酒
 NO.3 平成14年 美丈夫 夢許 斗びん取り 純米大吟醸30% 4年古酒
 NO.4 平成15年 美丈夫 夢許 斗びん取り 純米大吟醸30% 3年古酒
 NO.5 平成17年 美丈夫 夢許 斗びん取り 純米大吟醸30%
 NO.6 平成18年 美丈夫 夢許 純米大吟醸30%   
 NO.7 平成18年 美丈夫 薫  斗びん取り 純米大吟醸40%
 NO.8 平成18年 美丈夫 鑑評会出品酒 大吟醸40% 
 NO.9 平成18年 美丈夫 舞 うすにごり 山田錦50% 

 平成6年の時点で40%が美丈夫さんの最高酒です。
Sさん@名古屋、Aさん、わ。さん、Sさん、マルガリータさん、
ふじなみさん、Y@横浜さん、きんチャン、マロさん、Yさん、ソニアさん、Hさん御夫妻プラス一名様、Y岡さん
御参加頂きありがとうございました。

結局、いつもどおりにドンチャン。

やはり腐れ害務省
10月13日金曜日くもり ×

 今日の産経新聞に『検証・日中首脳会談「予定調和外交」から脱皮』と題された安部首相の支那訪問についての記事が掲載されていた。それには今までの我が国の害務省の歪んだ醜い実態が書かれています。
以下引用
 ▼幻のあいさつ
 8日夕、温家宝首相主催の晩餐(ばんさん)会の直前。胡錦濤国家主席らとの一連の会談を終え、人民大会堂内の一室でひと息ついていた首相の表情がサッと険しくなった。
 外務省高官が「中国側の意向」として、あいさつの修正を求めてきたのだ。
 「なぜ私のあいさつの内容を中国側が知っているんだ?」。首相の問いに高官は押し黙った。「こちらは温首相のあいさつを把握しているのか?」。答えはなかった。相手の機嫌を損なわないことを最重視してきた外務省の「外交術」がかいま見えた瞬間だった。
 「それではあいさつはできないな…」。首相の一言に高官らは狼狽(ろうばい)したが、首相は頑として譲らず、あいさつはキャンセルとなった。この夜、安倍、温両首相らが和やかに談笑する晩餐会の様子が世界に報じられたが、両国高官にとっては居心地の悪い席だったようだ。
 
 ▼会談の心得 
 首相の訪中を2日後に控えた6日、麻生太郎外相は衆院予算委員会の最中、首相にそっと手書きのメモを差し入れた。「首脳会談の心得」。要点は(1)両手で握手をしない(2)お辞儀をしない(3)政府専用機のタラップは夫人と並んで降りる−の3つ。首相はニヤリと笑って軽く会釈し、メモを胸ポケットにしまった。
 
 首相と麻生氏がもっとも懸念したのは、歴代政権のように「日中友好」の甘言につられ、中国側に「朝貢外交」を演出されることだった。首相は握手の際、笑顔を見せたものの、視線は相手から一瞬も離さなかった。
 
 さらに首相は一計を案じた。相手より長く話すこと。中国は古来官僚国家であり、文書をもっとも重視する。聞き役に回れば、書面上は「負け」ということになるからだ。 
 温首相は会談の冒頭から漢詩などを引用し、とうとうと話し始めた。首相はそれ以上に長い時間をかけて話を続け、特に歴史認識や靖国神社参拝に対する中国側の婉曲(えんきょく)な批判への反論にはたっぷりと時間をかけた。
 外務省が作った想定問答はほとんど無視され、会談時間は予定の1時間から30分もオーバーした。中国側が「日本人は聞き役で、うなずくだけだ」と考えて会談に臨んだならば、大きな計算ミスだったといえる。 
 首相は最後に、練りに練った「殺し文句」を放った。「過去の歴史の問題では、わが国60年の平和国家としての歩みに正当な評価を求めたい」。温首相から「評価している」、胡主席から「信じている」という言質を引き出したことは大きな成果だろう。
 
 ▼共同プレス発表
 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」
 首相は訪中前、周囲にこうつぶやいた。訪中を指すのかどうかは分からないが、首相にとって、訪中は今後の政権運営をにらんだ大きな賭けだった。 それだけに首相は慎重姿勢を貫いた。中国側による招請は先月30日だったが、首相が決断したのは3日。しかし、正式発表の土壇場でもギリギリの攻防があった。 
 中国側が急膀(きゅうきょ)、正式発表の際に「政治的障害を除去し」という言葉を使うよう求めてきたのだ。首相は会談延期をにおわせて拒否し、最後は中国側が「除去」を「克服」に変えることで折れた。発表が4日午後にもつれ込んだのはこのためだ。 
 会談の文書化をめぐっても暗闘が続いた。中国側は文書に固執したが、首相は難色を示した。平成10年の小渕恵三首相と江沢民国家主席による「共同宣言」では、過去の責任と反省を示す「村山談話」が盛り込まれ、その後の対日批判に利用されたからだ。
 中国側は訪中前日になって大幅に譲歩してきた。「歴史を鑑に」という常套(じょうとう)句は「双方は歴史を直視し」に変わった。日本側が主張する「未来志向」「東シナ海問題の協議」「北朝鮮への憂慮」も加えられた 
 それでも首相は慎重だった。外務省側は会談前に「共同プレス発表」を交わすことを公表する考えだったが、中国へ向かう政府専用機内でその意向を聞かされた首相は「会談が終わるまでは絶対にダメだ」と譲らなかった。会談次第では、文書の破棄も念頭においていたようだ。 
 結果として、首脳会談は日中両国とも成果を強調できる形で終わった。だが、もしギリギリの攻防を回避していたら日本側に果実はあっただろうか。
 会談後、中国の武大偉外務次官は日本の高官にこうささやいた。
 「安倍首相が手ごわい相手だということは前々から分かっていましたよ」
引用終わり
<産経新聞> 平成18年10月13日朝刊
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/23108/

 戦後の我が国の対支那外交においては、支那に媚びるだけの外交でした。支那を怒らさないように、御機嫌伺いをするだけの外交でした。それは、害務省がやってきたことのすべてです。朝日新聞などもそんな害務省の姿勢を支持してきました。
 今回のこの記事に書かれているのはそんな害務省の歪んだ姿勢です。
我が国の首相の挨拶の内容についてまで、事前に支那示して、その内容について支那の許可を取ろうとするバカ害務省。この腐れ役人の名前も書いてほしかったです。
現在、北朝鮮の核実験で騒いでいますが、支那は核を持ち、我が国に対してミサイルの照準をあわせています。北朝鮮より支那の方が我が国にとり脅威であることは明らかです。そんな支那に尻尾を振ってきた腐れ害務省。

 初めてのお客様Iさんお二人で来店。カトリーヌさんお二人で来店。金ちゃん、マロさん、友人の方三名で来店。大台さんお二人で来店。
 ドンチャン。営業終了後、李さんと四川料理のお店で飯。いつにもまして遅い時間に伺う。もう営業時間のが終わっていたのにエライ迷惑な客・・・・



バカテロリスト安重根3
10月12日木曜日 晴れ

伊藤公暗殺に対する世界の評価

「伊藤公暗殺」に対する大韓帝国皇帝の論調
<伊藤を失ったことで、東洋の人傑がいなくなった。公はわが国に忠実正義 をもって臨み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言してい た。日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の 平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国の慈父である。その慈父に危害 を加える者があるとすれば、物事の理事を解さないこと甚だしく、おそらく海外流浪人であろう。>
                      一〇月二七日   

<伊藤を失ったことは、わが国といわず、日本のみならず、東洋の不幸である。その凶漢が韓国人とあっては、赤面のほかない。日本天皇は唯一の重臣にして大師の伊藤をなくされた。それなのに伊藤を害した凶徒を出した国の皇太子を、あくまでも輔育する誠意をみせた。山よりも高く海より深い恩義ある日本皇室にどう感謝の意を表すべきだろうか。
(明治天皇が、韓国皇太子の輔育の後任に、岩倉侯爵を命ずる勅語を出された報を聞いて)>
                十月二十八日   太皇帝(高宗)

 <韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえ ば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を 以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが 公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本 統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。>
  ドイツの新聞に載ったエルウィン・ベルツ博士 「伊藤公の追懐」

  「伊藤公暗殺」に対するロシア人の論調
<思えば思うほど情けない限りである。最後の大戦争(日露戦争)以前に
伊藤公爵が言われたことを、もし、ロシアが聞いていたら、あの悲惨な戦争 も、ロシアの敗戦という不名誉もなかったのである。伊藤公爵のハルピン来訪目的は、わが大蔵大臣との外交上の空しい儀礼的なものでなかったことは、 誰もが知っていた。伊藤公は「ロシアは満州から去れ」などという、一点張りの主張をする人ではない。尊敬すべき老大偉人の逝去は、日本の損失であるばかりで なく、わがロシアの損失であり、韓国が大損失をこうむることは必至である。>
     東清鉄道長官 ホルワット少将 ロシアの新聞
「ハルピン・ウェストニツク紙」

 <公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマークの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストーンに類するところである。 財政の知識が豊富であったことはビールにも比すべく、策略を行うに機敏かつ大胆であったことは、ビーコンスフィールドに似ている。公はすべての 大政治家の特徴を秤篦して一身に集めた観がある。殊に公は驚くべき先見の 明を有し・・・要するに四十余年の永きにわたって終始一貫、国家の指導者たる 地位を占めたのは、実に千古の偉観というべきである。>
「伊藤公暗殺」に対してのイギリスの新聞「ジャパン・メール」に」載ったブリンクリ−主筆の「伊藤公の性格」の一節

 下記は深谷博治著「明治日本の対韓政策」(友邦協会)よりの引用の伊藤公の言葉である。
「けれども、日本は非文明的、非人道的な働きをしてまでも韓国を滅ぼさんと欲するものではない。韓国の進歩は多いに日本の望むところであって、韓国はその国力を発展せしむるため、自由の行動をしてよろしいけれども、ただ、ここにただ一つの条件がある。すなわち、韓国は日本と提携すべしということ、これである。日章旗と巴字旗(韓国旗)とが並び立てば日本は満足である。日本は何を苦しんで韓国を亡ぼすであろうか。自分は実に日韓の親睦を厚くするについては、自分の赤誠を貢献しようとしている。しかも、日清・日露の両大戦役の間、韓国は一体何をしたか。陰謀の外に何をしたか。戦争中は傍観しただけではないか。諸君は、日本が、にわかに来たって、韓国を亡ぼすならんと思うのは、果たして何に基づくのか聞きたいものである。
 日本は韓国の陰謀を杜絶するため、韓国の外交権を日本に譲れというた。だが、日本は韓国を合併する必要はない。合併は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い。これが今回の新協約を結んだ所以なのである」
 また、大韓帝国朝廷の官吏に対して、
「韓国人の何びとが自らその独立を主張したであろうか。かつまた、韓国人の何びとが自ら韓国の独立を承認したであろうか。あるならば聞きたい。韓国人は、三、四〇〇〇年来、固有の独立を有するように言っているが、自分はこれを承認できない」

 これらの言葉を安重根そして朝鮮の人々はどう聞くのであろうか。

以上引用及び参考文献
「日韓二千年史」名越二荒之助編著 明成社
「韓国は日本人がつくった」黄文雄 徳間書店

 今日は秋晴れのイイ天気。今日は河岸に行くのがいつも遅いのに、もっと遅くなる。う〜ん、いい加減にしないと・・・
 仕込みを終えてからスポーツセンターに行くつもりが、ついつい雑用に時間をとられて、つもりだけでおわる。
 初めてのお客様Uさん二名様で来店。大阪から遅い夏休みということで、Kさん来店。Tさん、Sさん来店。
営業中からいつも通りに一通り飲む。昨日よりは味が判るというか普通に酒が旨い。てっ、ことでドンチャン。記憶はあり。



バカテロリスト安重根2
10月11日水曜日 くもり △

 「日韓二千年史」名越二荒之助編著 明成社より
 裁判所(旅順の関東州都府督裁判所)では検察官・清渕孝雄の訊問に対して「伊藤博文公を敵視するようになったか」と問われて一五項目のオバカな理由を挙げています。

^譟伺ほど前に、伊藤さんが指揮して大韓帝国王妃を殺害した。
 (十四年前の明治二八年v諚妃殺害事件のことを言っている。当時、公使であった三浦悟楼以下多くの日本人が処罰されました。もちろん、朝鮮人もです。この時には李周會は全責任を負い、「自分e諚妃を殺害した」と供述し、他の二人(伊錫濟、朴鉄)とともに処刑された。しかし、伊藤博文及び我国政府の直接関与したという資料は無い)

五年前に伊藤さんは、大韓帝国に不利な三ヶ条を締結させた。
 実際にはロシアとの講和条約であるポーツマス条約の「日本は朝鮮を指導、保護、監督する権利を有する」という条項に基づいて結ばれた四年前(一九〇五年)の日韓保護条約の事。
 朝鮮は一八九五年に日清戦争により結ばれた下関条約にて初めて「大韓帝国」としての独立を果たすことが出来ました。しかし、その後も朝鮮は事大主義を捨てきれず、ロシアに擦り寄り高宗はロシア大使館に逃げ込み(俄館播遷 一八九五〜一八九六年)、そこで政務を行いました。
 明治三七年(一九〇四年)よりの日露戦争に勝利した日本は特命全権大使として伊藤博文が朝鮮に派遣し、日韓保護条約が結ばれます。
 しかし、当時としては東洋の治安と朝鮮の保全のために、この保護条約はやむを得ぬものであったのです。

三年前に伊藤さんは一二ヶ条条約の締結で我国を不利にした。
 二年前に結ばれた七ヶ条の第三次日韓協約の事と思われるが、これは高宗が保護条約を無視し、明治四〇年六月、オランダのハーグにて開かれた万国平和会議に三名の密使を送り、日韓保護条約の無効を訴えました。
 これに対して、伊藤総監は、高宗に謁見し電報の写しを見せながら「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」とせまりました。
 つまり、国家間で結んだ条約の意味も知らない高宗と安重根です。
 
ぐ貌さんは大韓帝国皇帝の廃立を計った。
 優柔不断、虚言多用、責任転嫁という高宗に対して面罵してまで退陣を最も強く迫ったのは、朝鮮の農商工部大臣である宋秉シュンでした。

グ貌さんは大韓帝国軍隊を解散した。
 解散の詔書を出したのは、高宗より譲位された純宗です。そもそも、軍隊内に両班制度がそのまま生きているような志願制の朝鮮兵八〇〇〇は役に立たず、朝鮮の財政を圧迫するだけでした。そのため徴兵制を他日実施するためにいったん解散をきめました。

Ψ莎した義兵たちを、伊藤さんが殺した。
 正規の条約に基づいた朝鮮駐留の日本軍を、自らを「義兵」と称して襲う者に対して自衛権を発動するのは当然のことです。そもそも、「義兵」と称する輩には強盗としか言えない輩が多く、朝鮮民衆、日本人、支那人を襲うために、それを討伐したにすぎない。

О貌さんは大韓帝国の政治と権利を奪った。
 せっかく独立しても、宮廷内部wイ乱し機能しなくなった事を知っていればこのような恥ずかしい事はいえないでしょう。

良好なる教科書を焼却した。
 安重根にとり良好なる教科書とは「反日的排他的教科書」である。

朝鮮人民に新聞の購読の自由を禁じた。
 同じく反日煽動新聞を取り締まるのは当然。

不良の大韓帝国朝鮮人官吏に食を与え、第一銀行券を発行している。
 李朝の官僚すべてを辞めさせる事などできるはずはない。ましてや、第一銀行券は伊藤総監の来朝以前に発行している。
安重根は国債の意味を理解していない。朝鮮官吏のために、日本でも緊急に国債を発行して支援していた。

国債二三〇〇万円を募り、官吏の間で分配したと聞いた。土地も奪ったと聞いた。
 どちらもいい加減な反日煽動新聞の受け売りでしかありません。

東洋平和と称しながら、大韓帝国皇帝を廃立するなど当初の宣言と異なる。
 大韓帝国皇帝の高宗は、日露戦争中はロシアに通じ、外国人記者を買収し、日本軍の鉄道・電信の破壊を内密に命じました。明確な日本に対しての背信行為であり、当時のイギリス、フランスなど列強による支配国国王に対する処置を知っていればこのような事は言えまい。

大韓帝国保護に名をかりて大韓帝国政府の一部と意見を通じ、大韓帝国にとって不利な施策を行っている。
 大韓帝国内閣に親日派といわれる人が入閣した事を指すものと思われる。

伊藤さんは現天皇(明治天皇)の御父君に当たられるお方(孝明天皇)を殺した。
 考明天皇の崩御は一八六六年一二月二五日で、その頃は、伊藤博文は長州の三田尻にいて、宮中に入れる身分ではありません。

世界各国に対し、「大韓帝国は無事なり」と宣伝し、事実を欺いている。
 世界最貧国で、支那の属国であった朝鮮。李朝末期においては悪政による両班の横暴、賄賂、人身売り買い、盗賊の横行など国ではありませんでした。我国が保護国とすることにより、治安が確立し、朝鮮人の生活は見違えるように改善されました。

 この思い込みしかない、自分勝手な安重根の法廷における言い訳はこの安重根という男のバカっぷりを充分に現しています。
 伊藤公は朝鮮併合には反対でした。それは明治四〇年五月二八日、総督府の日本人幹部に対しておこなった訓示よりも明らかです。
「笋くも数千年の歴史と文明を有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものではなく、また支配できるものでもない。日本の識者は決してこのような暴論に賛成せず、またわが陛下の御思召も決してそうではない」
そのような伊藤公をバカ朝鮮人テロリスト安重根は浅い知識、思慮の足りない自分勝手な思い込みにより暗殺したのです。
 間違い無く世界で一番バカな朝鮮人テロリストです。そんなバカテロリストを朝鮮の人々は英雄として祭り上げているのです。そんなバカテロリストしか英雄がいない朝鮮の人々に対して哀れささえ感じるのは私だけではないと思います。
あっ、でも我国併合により間違いなく朝鮮は近代化されました。併合を速めたとも言えるかもしれない意味では安重根は朝鮮人にとり英雄であるかもしれません。

 今日はめちゃヒマ。このままかなと思っていたら酔狂師さん来店。
途中、酔狂師さんとお話させていただきながら、もうイイ時間だからと今日もビールから始めていろいろ飲むが、体調のせいかイマイチ味がわかりにくい。でも、それなりにちょっという酒を発見。こりゃ煮酒いき。



朝鮮統一を朝鮮人は望んでいるのであろうか。
10月10日火曜日晴れ めちゃ気持ちのいい天候 ×

 北朝鮮の核実験について、昨日のテレビで、北朝鮮が核保有国になって朝鮮統一を目指すのではといっていたコメンテーターがいたが、本当に果たして朝鮮の人々は統一を望んでいるのであろうか。統一したら、仲良く一つの民族として国家を形成できるのであろうか。このままの方が国家として安定している可能性もあるのではないでしょうか。
 なぜならば、朝鮮には醜い身分差別だけでなく地域差別までもがあるからです。朝鮮人による差別意識は階級差別とともに地域差別も現在も根強く残っている。
 朝鮮の東北、西北地方は両班にとっては、婚姻の禁止はもちろん、付き合うことすら避けていた。これは朝鮮の『経国大典』に「北方の 咸鏡道、平安道、黄海道の者は官憲への登用はもちろん、鷹師への起用さえ禁止する」との条例まであったそうです。東北、西北地方は重罪人流刑の地という忌わしい地域であった。つまり、現在の南朝鮮は北朝鮮への歴史的差別があるのです。
 北朝鮮を差別している南朝鮮においても激しい地域差別はあります。慶尚道の出身者は全羅道出身者を差別し、朝鮮半島の人間は済州島の人間を差別する。済州島は李朝時代は流人の島であった。現実に、現在でも「血が汚れる」とか言って済州島の出身者との結婚に反対する朝鮮人は多い。済州島の住人を朝鮮では最下層の人間として扱っていたのである。人口五〇万人の済州島なのに、十万二千人あまりと在日朝鮮人の一六・八%を占めるほど、我が国の在日朝鮮人の済州島出身者が多いのは朝鮮での差別と無関係ではないと考えるのが普通でしょう。そして、現実に在日朝鮮人の間にもこの差別は現在もある。南北朝鮮人とも在日朝鮮人に対しての差別もある。(これを、どうして在日朝鮮人の人たちは大きく問題にしないのだろう)

 昨年、南朝鮮で最も就職したい企業として米国IBM。外国系企業が良い理由として「能力にともなう待遇および昇進」(二七・一%)とともに「出身背景による差別が少ない」(二〇・九%)をあげた求職者が多かったということが、現在の朝鮮においてもある差別の酷さをよく現しています
。(中央日報二〇〇五年三月一〇日の記事)http://japanese.joins.com/html/2005/0310/20050310164820300.html(現在はリンク切れ)
 
 非正社員と正社員というだけで、ここまで差別するかというぐらいやるのが朝鮮人です。
500万人非正社員の叫び「人間らしく働きたい」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/03/23/20050323000058.html

 朝鮮人は地域差別だけでなく、階級差別もするし、外国人に対しても醜い差別をしている。「差別だ、差別だ」と五月蝿く騒ぐ朝鮮人が一番差別している。

 昭和三九年の今日、東京オリンピックの開会式。晴れる可能性が高いということでこの日が選ばれたそうだが、今日はまさにすばらしい秋晴れ。そんな秋の気持ちのイイ朝を、向こうの方に思いっきりぶっ飛ばしてくれたのは途中から乗ってきたオバハン二人とガキひとり。「こんなに空いてる。空いてる」「座ろ、座ろ」「オシッコは?」と大騒ぎ。検札にきた係の人にグリーン券の提示を求められて「どうして、そんなの必要なの」「こんなに空いているんだからいいんじゃあない」と難くせ。結局、なんだかんだで、次の駅までそのまま居座る。降りる時もぶつぶつ文句を言いながら降りる。う〜ん、久しぶりに見たコユイ感じのおばはん。デジカメ持っときゃあよかった。

 今日、初めてというお客様来店。社費でワイオミング、サウスダコタ、ケンタッキーと飲みまくって、いや写真を取りまくってきたという大野さん。今日、帰国したとかで、新人さんを連れて来店。Iさん来店。
 営業終了後、李さんと飯。



10月9日月曜日晴れ
 北朝鮮が核実験をやったというニュースが一日中流れていた。
しかし、北朝鮮の国連大使がテレビで言っていた「朝鮮半島の安定と平和に寄与するものだ」という事が本当であれば、当然、我国の核武装化についてもそう思っていなければおかしくなるのだが・・・・・・・・
 我国でも少しは核保有論議が高まるのであろうか。当然ながら、国防というものについては核保有をタブー視するのではなく、我が国の国益に適うようにあらゆる論議がされるべきであると思う。


10月8日日曜日晴れ △
 店を片付けたあと、午後よりスポーツセンターに行く。今日は時間がたっぷりあるので、背中、肩、二頭筋、下半身などのメニューを消化。帰りにスポーツセンターに併設しているマッサージ室でクールダウンを兼ねたマッサージをお願いする。
 阿佐ヶ谷にある「ひげ」さんにおじゃまする。じつは、先日伺った時に携帯電話をヨッパラッテ忘れてきてしまい、それもあっておじゃましたのだが、一〇時までとついつい長居をしてしまう。スポーツセンターに行った後だったせいか、酒の回りが早い。


どういうわけか
10月7日土曜日晴れ ×
 仕込みを終えてからスポーツセンターに行く。今月初めてのスポーツセンター。時間がないのでベンチプレス、三頭筋のみ。今回も調子がイマイチ。
 今日は御予約いただいていたのは二名様のみと思ってのんびり構えていたら、初めてのお客様Yさん二名様で来店。副店長二名様で来店。インチキラクターさん来店。初めてのお客様Sさん二名様で来店。当店のすぐ前にお住いのカトリーヌさんがフランス人のお友達四名様で来店。二名様来店。Nさん四名様で来店。初めてのお客様Hさん二名様で来店。理科大ラグビー部OBでかなべさん、ジェリーさん、おもちゃやさん、本間さん来店。
 今日は最後まで飲む時間がありませんでした。う〜ん、どうしてこうなるのでしょう。
 営業終了後、李さんと久しぶりに御寿司屋さんで飯。



流石は南朝鮮外相。期待大
10月5日金曜日雨(風強し)○

 国連負担金滞納額約80億円を堂々とバッくれている南朝鮮の外相である、次期国連事務総長確定といわれょN基文氏は「歴史介烽」「反日」などしっかりと南朝鮮の伝統を守っているようです。

以下引用
【ソウル1日聯合】外交通商部vN基文(パン・ギムン)長官は1日、最近の韓日関係について、
靖国神社参拝や歴史教科書問題、独島領有権問題は韓国側が扱うものではないとの考えを強調した。これらの問題は日本政府と日本国民の心にかかっており、結果的に問題を起こしているのは日本との考えを示した上で、「日本が黙っていれば解決できるものではないのか。問題のカギは結果的に日本が握っているが、心を決めればきょうあすにでも解決できるもの。現実的に問題を解消できる方法を取るよう申し上げたい」と述べた。
 自身が立候補している国連事務総長選での日本の支持を問う質問では、「個人的な希望としては日本が最後まで支持してくれることを期待している」と日本の支持を求めた。潘長官は、韓日関係が悪化しているとはいえ、長期的に見れば長くは続かないし続けてはいけないとの考えを示すとともに、
韓日間の伝統的な友好関係、日本が今後国際社会で取るべき役割などを考慮するならば、どのような人物が事務総長になるのが日本にとってよいのか考えないだろうかと反問した
後略)
総合ニュース二〇〇六年九月一日
http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=432006090100900

<インタビュー>国連事務総長確実vN基文長官
2006/10/03 09:31
【ソウル3日聯合】次期国連事務総長当選をほぼ確実にした外交通商部vN基文(パン・ギムン)長官は3日、聯合ニュースとの電話インタビューで「期待に沿えるよう最大限努力し、
わが国の国益拡大と外交のすそ野を広げていけるようにしたい」と抱負を語った。
略)

 ただ、インタビューの中にはこの「わが国の国益拡大」という言葉はどこにもありません。
総合ニュース二〇〇六年一〇月三日
http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=432006100300200
 
 そして、タイムとのインタビューにもN基文氏の歪んだ朝鮮人らしい歴史観が語られている翻訳文がインターネット上にあります。
以下引用
【インタビュアー (Jennifer Veale記者)】
あなたの外相任期中に、日本・米国・北朝鮮・中国と韓国との関係がいずいう批判にどう答えられますか?
【潘基文外相】
<中略>
日本との関係に関して言えば、これは主として、過去史問題に対する日本 の不誠実な態度のせいなのです。日本は朝鮮半島を35年にわたって占領しました。
韓国人、いや、すべてのコリアンは、けっしてこれを忘れることは出来ません。
かつて両首脳は、過去にとらわれず未来志向の関係を築くべきだと合意したことがあります。なのに日本の小泉首相は、A級戦犯14人e濳られている靖国神社に再三にわたり参拝しました。これは、日本帝国主義によって抑圧・圧迫された韓国や他の東アジア諸国を愚弄するものです。彼らは周辺諸国にもっと配慮し思いやるべきだったのです。
周辺諸国の信頼を勝ち得るようにすべきだったのです。
これが、韓日関係がギクシャクしていることについて韓国側に何らかの責任を負わせようとするのはアンフェアだ、ということの主たる理由です。我が方には、韓日関係を深化・改善しようとする準備があるのです。来週月曜日に行なわれる首脳会談を楽しみにしています。<後略>
 〜 インタビュー日:2006年10月5日
タイム誌(英語)(日韓関係に関する箇所のみ訳出)
<Could North Korea's Nuke Test Threaten the U.N. Front-runner?>
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1542813-1,00.html

 こんな程度の人間が次期国連事務総長になるのです。まあ、きっと朝鮮らしい斜め上の発言と行動をしてくれるものと期待いたします。

「周辺諸国の信頼を勝ち得るようにすべき」とは南北朝鮮とその(精神的)宗主国である支那にこそお願いしたい言葉です。

 昨日の酒が久しぶりに午後まで残る。
 ケイザブロウさん来店。Kさん御夫妻来店。大台さん二名様で来店。




阿佐ヶ谷「ひげ」
10月5日木曜日雨 ×××

 今日は犯罪国家北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお誕生日だそうな。都内のホテルで当時の先生などが、めぐみさんの御両親を囲んでの誕生会をひらいたそうです。

 I本さん御夫妻来店。Y岡さん二名様で来店。マルガリータさん来店。台風の時は元気いっぱい。Kさん来店。彼女とめでたく入籍されたそうで、お祝ということでドンチャン。
 営業終了後、マルガリータさんと久しぶりに阿佐ヶ谷にある「ひげ」さんにおじゃまする。マルガリータさんは昨日も来そうな。

早速、伝統披露
10月4日水曜日晴れ ×
 朝鮮での英雄というと東郷元帥によってやっとその名が知られるようになった可哀想な李舜臣将軍、テロリスト安重根、キチガイ女柳寛順などです。ハングル文字を創出したとされる世宗大王以外の王族の名前はあがってきません。
 反日により、亡国の張本人であょ榿泙髻峭駟譟廚判颪い椴藥召靴討い訥鮮の新聞などをみると朝鮮人に哀れみさへ覚えます。李朝朝鮮の王族である李王一族の評判は最悪です。
新羅朝では歴代王朝の半数近い二十名以上が非業の死を遂げています。高麗朝、そして李朝においてもこの「伝統」は脈々と受け継がれています。
 李朝朝鮮の建国の祖である李成桂は、高麗王朝の最後の王である恭愍王父子を絞殺し、王と血縁関係にある者はすべて殺害しました。そのようにして成立した李朝は大祖となった李成桂の王子による殺し合いがあり、その後も李朝五〇〇年の歴史は残虐な抗争のたえない時代です。

 先日、日記に書きました皇帝復活につきましても早速この「伝統芸」が演じられているようです。
以下引用
◆「大韓帝国の女性皇帝」をめぐって雑音
 先月29日に開かれた李ヘウォン(88・女性)皇孫の大韓帝国30代皇位承継式に対して、「わが皇室愛の集まり」「大韓皇室再建会」「全州李氏大同宗約院」など皇室関連3団体が反対した。
 皇位承継式の直後、インターネットのポータルサイト「ダウム(daum)」に開設されたインターネットカフェ「わが皇室愛の集まり」には戴冠式が行われた後「皇室は国民からさらに遠のいた」「勝手に行われた戴冠式などとんでもない」という内容が続いた。

 わが皇室愛の集まりは2001年、大韓皇室の象徴的な復元を希望する人々が作った集まり。
抗議文が相次ぐと、わが皇室愛の集まりは先月30日に公式声明を出し「29日に行われた戴冠式は『皇族会』という正体不明の団体が李ヘウォン皇孫を口車に乗せ、皇族の意見収集なしに行った」とし「正体不明の『大韓帝国皇族会』は皇室を笑いものに転落させた責任を負い、組職を解体せよ」と主張した。

大韓皇室再建会も「大韓帝国皇族会は皇族全体の立場をとりまとめず、李ヘウォン皇孫の推戴を強行した」とし「皇族の分裂を助長する特定人物中心の皇室運動は避けなければならない」と明らかにした。
 運営者の李ジョンヨプ(32)氏は「昨年7月、李ウォン皇嗣孫(皇室を引き継ぐ子孫)を皇位承継者に推戴したことに反対する勢力が中心となり、大韓帝国皇族会を作ったものと聞いている」と話した。

 一方、全州(チョンジュ)李氏大同宗約院も2日に声明を通じ、嫡統が李ウォン皇嗣孫に移った状況で、李ヘウォン皇孫を再び推戴した大韓帝国皇族会を批判した。
これについて、大韓帝国皇族会の李ソンジュ・スポークスマンは「今回の戴冠式は乱れた皇孫の秩序を正そうとする李ヘウォン皇孫の意思で進められただけ」とし「皇位継承は堂号を受けた皇孫の同意さえあれば、大同種薬院など他の団体の意見は求めなくても良い」と反論した。
引用終わり
東亞日報
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2006100396248
 
 すばらしい伝統芸です。さすが、李朝五〇〇年の歴史です。戦後、どうしてすぐに李朝国王が復活しなかったか、その歴史的背景も考えずに復活、復活と騒ぐバカさ加減。
死ぬまでやってろという感じです。
あほらし。

 名古屋よりSさん来店。会議で東京出ていらして、寄ってくださったSそうな。平日、珍しくOさん来店。大台さん二名様で来店。名古屋の「まほらま」さんのお客様であるMさん、Wさん来店。
ドンチャン。記憶は一応あったと思う。


世界で一番間抜けな朝鮮人テロリスト安重根
10月3日火曜日晴れ ×

 南朝鮮で英雄というより切手にまでなっている偉人のひとりという「安重根」。我国の名宰相であった伊藤博文公を暗殺した卑劣なテロリストです。
朝鮮は英雄のほとんどがテロリストしかいないという数少ない国です。でっ、その最大の英雄のひとり「安重根」とはどんな間抜けなテロリストであったのでしょう。

 一八七九年、朝鮮、黄海道の海州で朝鮮堕落の元凶のひとつである両班の長男として誕生。幼少の頃からせっかちで軽率な行動が目立つので、父親は戒めとして「重根」と命名しました。でも、これは役に立たなかったみたいです。
 
 一九〇八年三月、大韓帝国の外交顧問であったド−ハム・スチーブンスが帰米した時、サンフランシスコで記者会見し、「韓国の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑固党は人民の財産を略奪している。そして人民は愚味すぎる。これでは独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされたであろう。伊藤総監の施策は、朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない」と発言している。
 これを三月二二日の新聞でしったサンフランシスコ在住の朝鮮人・張仁煥らは激昂して、スチーブンスのところに押しかけたが、本当の事を言っているのだから当然撤回はしません。翌日スチーブンスはワシントンに出発するため、駅に出かけたところを、このバカな朝鮮人に射殺されます。
 それを知った安は、スチーブンスは日本の傀儡でしかない。彼を操っているのは伊藤総監である。伊藤こそ撃つべきだと決意するようになった。
 一〇月二六日、ハルピンにおいて伊藤公を暗殺します。

 このような朝鮮人テロリストに対して、我国は正式の裁判を受けさせるために、弁護士を二人、監獄ではさっぱりした衣服を支給し、入浴、布団四枚、食事に上等の白米で、果物、茶までつけました。
この項続く

 早稲田のSさん来店。Mさん大勢様で来店。
ドンチャン。


朝鮮皇帝2
10月2日月曜日雨 ○

 朝鮮人が無理矢理信じたいと思っていることは、「日本が朝鮮の皇帝を奪った」という大ウソを真実にしたいのでしょうが、歴史を直視できない愚かさです。
 一八九七年二月二〇日に一年間もこもっていたロシア公使館より、宝座を慶雲宮に移しました。そこで国号を「大韓帝国」に変え、自らの称号を国王から皇帝に、王后より皇后、王世子は皇太子に改め、同年八月に元号を支那の暦「建陽」から「光武」に変え一〇月一二日に皇帝即位式を行いました。
 つまり一〇〇〇年属国であった朝鮮には皇帝はいませんでした。一八九五年の日清戦争による下関条約の第一条にて清朝の朝鮮に対する「宗主権」放棄、つまり朝鮮独立の承認り苣っています。なぜ、「朝鮮独立」が明記されているか。それはそれまで朝鮮が独立国でなかったからです。支那の属国だったのです。それが、我が国により独立でき大韓帝国となりました。それが、我国にとって最大の目的のひとつであったからです。
 ところが、大韓帝国とは名ばかりで、実際には旧態依然としており、朝鮮民族の名物である骨肉の争い、内部抗争により政府はロシアにより操られ、英国は巨文島を再占領し、朝鮮はの列強の利権競争などにより混迷を極めます。その時期に内部抗争に明け暮れた愚かな朝鮮王朝は独立国家と呼べるものではありませんでした。大韓帝国は朝鮮民族の自らの愚かさにより我国に併合されたのです。
 日本に対して背信行為を行った朝鮮の王族でしたが我国は絶やしてはいません。
それは当時の列強による植民地における国王の処置と比べても明らかです。
 イギリスは一八五七年、セボイの反乱で王族を皆殺しにし、帝はビルマに流刑。同じく一八八五年、ビルマ国王はどのような目にあったか。帝京大学の高山正之教授はその著書「異見自在」で、英国人はさまざまな手口でビルマ人のアイデンティティーを奪った。十九世紀末には国王以下の王族をボンベイに流刑にして、国民の求心力を奪ったと書き、 国王の娘、皮篆のファヤ王女の消息をほぼ一世紀ぶりにインドの英字新聞ヒンドスタン・タイムズ紙が報じた王家の悲劇にもふれています。
それによると、「王女は英植民地軍兵士の愛人にされて貧困の中で死に、その娘、つまり国王の孫娘ツツは「最貧困層に身を落とし、造花を売って生計を立てている」というひどい状況だそうです。
 フランスは一八八七年、ベトナム最後の帝はサハラ砂漠に幽囚。一八九六年、マダガスカル王は流刑に処しました。
 アメリカは一八九八年にハワイを武力弾圧で併合し、一九〇〇年、ハワイ王家を廃絶し、一市民に格下げしました。
 当然、我国の朝鮮併合そのものについては是非はあってしかるべきですが、ただ、我国は 大韓帝国の王政を武力にて打倒し、武力弾圧して併合したのではありません。併合条約は、王政、閣僚ともそのままで、一九一〇年八月一八日に李完用を首相とする内閣に上程。二二日、閣僚が昌徳宮に閣僚が参内し、午後一時より王族代表、元老代表を交えて午前会議が開かれました。この時病気欠席した学部大臣の李容稙を除いて全員の賛成をもって併合が決定され、それを純宗皇帝が裁可しました。

 明治天皇は朝鮮国王の地位と処遇に非常に御心痛を示された。国王と王室がその宗祀を奉じることのできるよう、毎年、一五〇万円の歳費を李王家に計上し、その親族「公家」に対しては恩賜公債を交付してその歳費の基金に充てられるようにしたのは、すべて明治天皇の御指示であった。
 国王と王室には莫大な朝鮮においての財産もそのままにし、皇室典範を与え、李完用総理をはじめ、侯爵六名、伯爵三名、男爵四五名など七六名に貴族の爵位を与えた。
 そして、明治天皇は当時わずか一〇歳であった垠皇太子(王子)に接するに、何事も我国皇太子いや国家元首に対する礼遇をもってするという破格なものであった。
 垠皇太子が総監で「太子大師」(養育係)でもある伊藤博文を伴って来日(一九〇七年一二月一五日東京着)、最初に皇居に参内したとき(一二月一八日)、明治天皇は垠皇太子を「鳳凰の間」の入口に出迎えている。さらに、入京五日目の一二月二〇日、明治天皇は皇后を伴って、垠皇太子を芝離宮に答訪されている。元首と同等と見なされたのである。
 明治天皇と皇后が、垠皇太子を愛されたのは尋常ではなかった。『明治天皇紀』に記録されている、(新たに購入した)贈り物だけでも次のように、前例のない頻度である。手元にある品々を下賜されたものは記録されていないので不明ですから、それを含めれば大変な数となろう。
 一九〇七年一二月二〇日、御紋付金時計
 一九〇八年二月九日、  蒔絵文硯箱、革製手提文房具入、紫檀書棚
      五月九日、  御紋付銀花瓶、銀香炉、果物亥狷
      五月一一日、 クリケット用具、書架
      九月一日、  クリケット用具、活動写真器
      一〇月二〇日、銀製インク台、呼鈴、御紋付蔵六形銀瓶
 一九〇九年四月三〇日、 銀製花瓶、望遠鏡
      七月三〇日、 洋服地、時計鎖、菓子タンス、双眼鏡、旅行用化粧品入れ鞄
      九月二日、  象牙彫刻箱、銀製襟針入箱、銀製桃形香炉、銀錘蔀飾
      一一月二七日 墨画雪中中山水の額
      一二月二三日 西洋菓子入玩具七種
      一二月二七日 飾箱入り西洋菓子、鴨亥狷
 一九一〇年一月一日   銀製文房具一揃い、仙舟筆掛物、西洋玩具三種
      二月四日   小鴨五〇羽、野菜亥狷
      四月二五日  日本絵具一組、西洋絵具一組、墨絵蒔絵書棚
      七月一二日  膝掛、旅行用鞄、旅行用文具、金鎖付金時計
 一九一一年一月七日   制服地、ランドセル、文房具一式
      二月一日   鳥居坂御用邸の土地・建物の一切
      四月二日   文房具各種、ランドセル、茶褐絨軍服地
      五月九日   果物亥狷
      七月一七日  文具入れ鞄、膝掛、ハンカチーフ、双眼鏡、茶褐絨軍服地
      一〇月二一日 洋服地、文房具、テニス用具
 一九一二年一月一三日  果物馴て
      四月二八日  果物馴て
      七月一四日  洋菓子一折(英親王李垠伝より)

 明治天皇からこのような贈物をふんだんに下賜された皇族は一人としていない。皇孫であるのちの昭和天皇ですら想像だにできない。
 垠皇太子は我国において立憲君主としての世界最高レベルの教育を受けられて成長された。そして、梨本宮正王の第一王女である方子女王と御結婚された。
イギリス、フランス、アメリカなど他国と比べてあまりにも違う。ましてや、ロシアであればどうであったであろう。
これらの事を朝鮮の人々はどう思うであろう。

 参考、引用文献 
 「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助著 明成社
 「歴史を偽造する韓国」 中川八洋著 徳間書店
 「韓国は日本人がつくった」黄文雄著 徳間書店

 今日もスポーツセンターも行かずに部屋でごろごろして一日が終わる。


皇室?復活?
10月1日日曜日曇りのち雨 ○

 先日あった「ある意味ビックリ」するようなニュースです。まあ、朝鮮ということを考えれば当たり前でしょうか。インターネット上では既にお祭りのところもあります。当店のURAホームページの掲示板もプチ祭りです。

 まず最初に下記のようなニュースがありました。
以下引用
 リアルメートル 世論調査, " イギリスと 日本 のように 我が国も 皇室 あると" 54.4% 50 台 以上 年齢 層序 賛成 意見 62.8%, 男性 見る 女性が 賛成 多くて 我が国 ' 皇室 復元' を 賛成する 国民が 半分を 過ぎる ので 現われた.
SBS ラジオ ニュースエンジョイが リアルメートルに 依頼して 調査した 結果 応答者の 54.4% 街 皇室復元に ' 賛成' すると 返事したし, ' 反対' するという 意見は 30.5% に 止んだ.
性別では 男性 57.3% 路 女性 51.4% 見る 多かったし, 年令別では 50 台 以上から賛成意見が 62.8% 路 仮装(家長) 高い 割合を 見えた.
20 つける 56.8% 街, 40 つける 54.1% 街, 30 つける 42.7% 街 賛成するという意見を 出した.
その間 いくつか 団体で 伝統文化 保存 次元の 象徴的な 皇室嶺でも 主張が あって来たが, 皇室復元を しようという のぼったところ ‘複壁では’この 予想より 高く現われた のは 我が社会が 核家族化 なりながら 現われた 社会 倫理的 副作用に大韓 憂慮 だからだと 調査機関は 分析した.
引用終わり
http://i50523.naver.com/j2k_frame.php/japanese/news.naver.com/news/read.php?mode=LSS2D&office_id=119&article_id=0000011109§ion_id=103§ion_id2=245
そして、その後にホームランとして
以下引用
大韓帝国皇室を復活、皇族会が皇位継承式を開催
http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?News_id=382006092900500
【ソウル29日聯合】日本による植民地化のため没落した大韓帝国皇室の子孫が、大韓帝国皇室の復活を宣言した。「大韓帝国皇族会」が29日、ソウル市内のホテルで大韓帝国皇位継承式を行い、義親王・李ガン(1877〜1955)の二女、李海ウォン(イ・ヘウォン)さん(88歳)を30代皇位継承者に推挙するとともに戴冠式を行った。皇族会はまた「文化大韓帝国」の総理大臣として孝寧大君(1396〜1486)の子孫に当たるイ・ガンム聖民大学総長を、秘書室長に南延君・李球(イ・グ)の末縺(まつえい)となるイ・ソンジュ氏を任命した。皇族会は李玖(イ・グ)さん(29代皇位継承者)の他界などを契機に、大韓帝国の末縺ら10人余りを中心に結成されたもの。
 皇族会は「大韓帝国の皇室が日本により侵奪されて100年、祖国の解放から61年となるが、28代英親王・李垠(イ・ウン)の息子である李玖が昨年7月に東京で他界し、英親王家の血筋が途絶えたことから、李海ウォン氏を30代皇位継承者に推挙した」と説明した。李海ウォンさんは女性として大韓帝国皇室を継承し、皇室の代表全権、皇室の維持保存事業権、31代皇位継承者指名権などを持つことになる。
 イ・ソンジュ秘書室長は「今回の皇位継承は大韓民国にも皇室が存在していることを全世界に知らせるためのもの」と話している。皇族会によると、李海ウォンさんは生存している義親王の子女のうち最も序列が高いため皇位を継承することになったとし、女性が皇位を継ぐことも問題はないとしている。
 大韓帝国皇室の末縺が、没落した皇室の再建に向け具体的な行動を起こすのはこれが初めて。皇族会は今回の皇位継承の事実について、政府と海外の皇室関係者に正式に報告するとともに、海外の皇室との交流も進めていく計画だ。
(YONHAP NEWS) - 9月29日17時50分更新
引用終わり

 李朝五一八年の間には二七人の国王がいて、その多くは父子か兄弟が王位を継いだが、新王は旧王の政策を一八〇度変えて世襲せず引き継がないでいた。
 黄文雄氏の著書によると、あの朝鮮という国がどういう国かということを世界中に知らしめた二〇〇二年のサッカーワールドカップで、南朝鮮のサッカー協会会長鄭夢準氏の言葉として「
鄭夢準氏、日本に天皇があるように、南朝鮮政治の安定になんらかの好影響があるだろう、大統領だけなのは悔しいかぎりだ」だそうです。
 それほど国王を朝鮮の人々は慕って愛していたのであろうか。なぜ慕っていた国王を戦後すぐに迎えなかったのでしょう。いや、むしろ国王の帰国を阻んでいたと言う方が正解でしょう。李方子妃殿下のお母上である伊都子妃の自伝には<こちらの悲しみとは裏腹に、朝鮮の李太王には大変お喜びでありました。あちらの宮廷では貴族の中で血で血を洗うがごときすさまじい勢力争いが行われていたのです。選ばれて王妃になるとその一族が力を得て、天下の実権を握るという。李太王はその醜い闘争をよく存じておられ、その上に王世子は日本で大きくなり、勉強もしていることだから、日本皇族の女王殿下をいただければ、宮廷が穏やかに治まるだろうと、大喜びであったというのでした。>と書かれているようで、当時、一五年間李王職宮内官を務めていた権藤四郎介にもこれを裏付ける記述があるそうです。

 戦後、朝鮮王朝を継ぐべき李垠殿下に対して、南朝鮮の大統領におさまった李承晩は帰国を許しませんでした。
 故国に裏切られた李垠殿下は、我国の他の皇室の皆様方と同じようにGHQによる占領政策の臣籍降下により、日本の皇室としての地位も失ったまま、我国で生活を余儀なくされました。そして、戦後のめまぐるしい環境変化などにより昭和三四年に脳血栓でお倒れになる。南朝鮮の英雄である朴衰驩黜未茲蠅硫垢い手が差しのべられたのは昭和三六年でした。李家の生活費、垠殿下の療養費一切を南朝鮮政府が保証することになったのです。
 南朝鮮に帰国できたのは戦後十八年もたった昭和三八年でした。本当に王室が大切に思い、敬っているのであれば、なぜ今頃なのか。

参考、引用文献 
 「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助著 明成社
 「韓国は日本人がつくった」黄文雄著 徳間書店


 今日というか二日深夜にテレビを見ていたら、偶然ディープインパクトの凱旋門賞をやっていた。三着は残念だが、当店のお客様のマロさんがこの三着を以前にいらしてくださったときに予想していた。それも、「雨が降らなければ三着」・・・・

 今日はスポーツセンターに行く気にもならずに、店を片付けてからさっさと帰ってきた。


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