強制連行

以下、特に表記のない場合は井筒和幸氏の著書「民族の壁どついたる!」(河出書房新社刊)より引用
<在日コリアンは難民ではありません。日本が朝鮮を植民地支配して、たくさんの朝鮮人を日本に連れてきました。
略)
 朝鮮半島を植民地化するために軍隊と警察と役人を送り、それまで平和に暮らしていた朝鮮人たちを虐げ、やがて朝鮮人としての名前まで日本風のものに変えてしまう・・・。同じ民族であるにもかかわらず、やがて朝鮮半島は北と南に分断されてしまいます。>
p二六〜二七

<日本は一九一九〇年に朝鮮を植民地化しました。韓国併合という出来事です。植民地支配ですから、朝鮮にいた朝鮮人は、「あなたは今日から日本人ですよ」と宣告されました。支配というのは、そんなやさしいものではありません。朝鮮人としてのアイデンティティーを奪われたのです。
略)
 荒廃した朝鮮半島では食っていけない。そこで朝鮮を離れ、日本で生活の基盤をつくろうと、たくさんの朝鮮人が海を渡って日本に来ました。
略)
 その後、一九五二年に発効されたサンフランシスコ講和条約によって、在日コリアンは日本国籍を離れることが決まりました。ただ勝手に日本国籍にさせられた在日たちにとって、今度はまた勝手に日本国籍を奪われてしまう・・・つまり「外国人扱い」されてしまうことになったのです。>
p三〇〜三一

<日本が朝鮮半島を支配したとき、多くの朝鮮人が土地を奪われたり、労働力として日本に連れてこられたり、戦地に送りこまれたしました。支配される人にとっては情け容赦ないものです。>p六〇

<ただし自分の意志で日本に来たわけではありません。強制的に連れてこられた朝鮮人も数知れない。祖国・朝鮮から引きはがされるように日本に連れてこられ、再び家族の顔を見ることなく死んでいった朝鮮人がたくさんいるんです。
 この猛烈な人口増の裏には、とてもひと言では語りきれない事情が隠されています。でも現在の在日コリアンのことを知るためには、ぜひ学んでおかねばならない歴史があるんです。>
p九三

<突然トラックでさらわれて・・・・
 ある朝鮮人は、畑で仕事をしていたらトラックがやってきて、「おい、貴様、いいから乗れ」と命令されました。そのまま日本に連れてこられたりしたそうです。「いやだ」と反抗すれば、殴ってでも連れてきたんでしょう。「これは命令だ」と。それが強制連行のおそろしいところです。
 このようにして
日本に連れてこられた朝鮮人は、日本側の発表で約七〇万人とされていますが、朝鮮側の統計では一〇〇万人を軽く超えていると言われています。こんなに多くの人々が、朝鮮から日本に連れてこられたんです。>p六七

<一九四一年、大平洋戦争がはじまると、ますます日本本土で労働力が不足していきます。
略)
「官あっせん」というやり方でそうしました。
 このときも表向きは「募集」としていたのですが、じっさいは強制に近かった。その後、「徴用」と名目を変えてはいますが、じっさいは
暴力でねじふせて無理やり日本に連れてきた。これが「強制連行」です。>p一二一

<ある朝鮮人の青年は、田んぼで仕事をしていたら、日本の役人のトラックがやってきて、「おまえ、米なんか作っている場合じゃないぞ。いいから乗れ」って。徴用する名簿に名前が載っているんだとか言って、身支度もろくにさせず、家族や親に「行ってきます」も「さよなら」もいうひまも与えず連行されました。>p一二二

 いまどきこんな戯言というか在日朝鮮人がつくようなウソを信じる日本人がいるのでしょうか。井筒氏は参考文献にはあげていませんが、職業詐欺師の吉田清治の著書「朝鮮人私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」(三一書房 1983)に井筒氏の書くような場面が出てきます。
 
 井筒氏は、拉致されるようにして「嫌で嫌でしかたない日本」に連れてこられた朝鮮人が戦後帰国しないのはどうしてか不思議に思わないのでしょうか。
 犯罪国家である北朝鮮に拉致された我が国の同胞の皆様は二〇年たっても日本に帰国されました。朝鮮人はたった一年や二年、あるいは数年なのに生活基盤が本国(朝鮮半島)に無くなってしまったとでもいうのでしょうか。
 戦後もそして現代も続々と朝鮮人は日本に来ています。我が国で一番の不法滞在者は朝鮮人です。これも日本が悪いのでしょうか。
 井筒氏はこのような朝鮮人の行動についてどう思っているのでしょう。


 まず、井筒氏は「強制連行」というものについて<
日本に連れてこられた朝鮮人は、日本側の発表で約七〇万人とされていますが、朝鮮側の統計では一〇〇万人を軽く超えている>と数字を挙げながらその数字がどこよりの引用かも書いていない。日本側の発表として「七〇万人」などという数字がいかにも公的な数字のように書くが、そのような公的な数字は無い。<「官あっせん」・・・じっさいは強制に近かった。><「徴用」と名目を変えてはいますが、じっさいは暴力でねじふせて無理やり日本に連れてきた。これが「強制連行」です>と書き、<徴用する名簿に名前が載っているんだとか言って、身支度もろくにさせず、家族や親に「行ってきます」も「さよなら」もいうひまも与えず連行。>とまで書く。
 職業詐欺師である吉田清治については、中村粲氏、板倉由明氏、上杉千年氏らの検証によって、軍の命令系統から本人の経歴まで全てが嘘であることが判明している。参照→
吉田清治
 
 また、官斡旋と徴用を井筒氏は同様に書くが(同様の間違いというか意図的な混用?は「朝鮮人強制連行の記録」など他の著書でも多い。)官斡旋と徴用の違いを分かっているのであろうか。井筒氏は徴兵と徴用の違いも分かっていないように思えるが・・
 官斡旋と徴用の決定的な違いは罰則の有無です。官斡旋の場合は、予定企業に就職後、辞めて他の企業に務めても良い。前渡金、食費、未払い賃金など金銭的な精算さえすれば、何の犯罪にもならない。

 井筒氏の書くような事は法治国家であった日本ではあり得ないと元朝鮮総督府の幹部であった坪井幸生氏と大師堂経慰氏は以下のように述べています。
(大師堂氏)<徴用礼状には、何月何日にどこどこにへ集まり、徴用されていく先はどこで、こういう仕事だということが書かれている。これを受け取った人は指定の場所に集まり、引率されていくのが普通のやり方です。前述の教科書にある「土足で家に上がりこみ、手錠をかけて・・・」というやり方は、普通の例ではありません。何度も徴用を拒否して出てこない人の徴用令違反で逮捕された時の描写だと思います。逮捕されると、検事局に送られ、起訴されて裁判に掛けられます。徴用令違反は一年以下の懲役でした。
略)
 手錠をかけて連れていくというようなことが徴用の一般的な実態だったとしたら、労働行政は成り立ちません。終戦まで行政はしっかり機能していました。 >
 (月刊正論平成一五年三月号 p五二〜五三)


 そして、朝鮮半島からの渡航については、下記のように述べている。
(坪井氏)<保安課で外事警察をやりながら、内鮮係も兼務していた昭和一四年ごろ、内務省の警備局保安課との折衝で、こんな事を思い出しました。当時、朝鮮人が日本内地にどんどん来るので、内地としては、労働の需給関係や治安問題もあって、内務省は「渡航を制限したい」というのです。しかし、朝鮮人も日本人であり、総督府としては困るわけです。内地は気候がよく生活水準も高いし、いろんな面で魅力があるわけです。渡航してきた朝鮮人hば家族を呼び、係累を呼びます。当時は、朝鮮人の渡航を制限しようとする内務省と、制限するなという朝鮮総督府の方針が対立しました。
 やがて、日本で労働力を必要とするようになり、「朝鮮人労働者を入れてほしい」と変わってきた。企業が労働力を補充するため、朝鮮半島へ募集に行ったりした。最後は、徴用令を敷いて労働力を補充したというのが実態です。
略)
どこの国だって、徴兵もし、労働力を補充するための徴用もする。法治国であれば、法律の手続きの下で行われます。
(大師堂氏)それを「国家犯罪だ」というのは、戦争中の動員を国家犯罪だと言っていることと同じです>p五三〜五四

 井筒氏は朝鮮半島に駐留していた我国の軍隊をどのくらいと思っているのであろうか。また、日本人の警察官の占める割合はどのくらいと思っているのであろうか。
 行政官の占める日本人の割合をどのくらいと思っているのであろうか。
 朝鮮併合時の憲兵の数はたった二〇一九名であり、そのうち一〇一二名の憲兵補助員は朝鮮人であった。すなわち、悪名高い「憲兵警察」はたった一〇〇七名の日本人が朝鮮半島全土に散らばって配置されたのである。
 軍隊は朝鮮半島には二個師団しか駐留していなかった。
 併合して間も無い昭和七年でも常備団隊として配備されていたのは、第十九師団(羅南)、第二〇師団(龍山)のたった二個師団です。終戦時には関東軍の下にあり第一七方面軍朝鮮管区として上月良夫中将でした。(「別冊一億人の昭和史 日本陸軍史」毎日新聞社昭和五四年刊)
 この二個師団で朝鮮半島を納めていたのです。
 井筒氏は独立運動について
<一九一九年には二〇〇万人規模の独立運動も起きました>p一〇六
 と書きますが、その独立運動とやらの程度がこれで良くわかります。

 警察官においては、警務官→警視→警部→巡査→巡査補となっていたが、併合間も無い一九一〇年末における日本人と朝鮮人との割合は下記の通りであった。

警務部長

警務官

警視

警部

巡査

巡査補

合計

日本人

一三 

三〇

一六七

二〇五三

二二六五

朝鮮人

〇 

一四

一〇一

一八一

三一三一

三四二八

合計

一三

四四

二六八

二二三四

三一三一

五六九三


「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店(中川氏は「総監府時代の財政」友邦協会p一二二より引用)

 つまり、上級職である警務官と警視の三割は朝鮮人であった。これは先の官吏について同じ事であるが、日本の朝鮮統治が「日本の警察による支配」といく批判が的外れであることを意味する。併合間も無い時期ですら警察幹部の三分の一が朝鮮人であり、その朝鮮人幹部の下に日本人警察官が警部、巡査をがついていた事がわかる。また、警察の末端だけが朝鮮人であったということも間違いである事がわかる。
 武断政治といわれている我国の朝鮮統治がウソである事が良くわかる。

 朝鮮には一三の道(県)があり、知事ポストの約四割が朝鮮人でした。(終戦時には五)
 例えば、江原道の知事ポストは李圭完から終戦時の孫永穆まですべて朝鮮人でした。一三道の日本統治時代の全知事総数一二五名のうち日本人知事は七六名、朝鮮人知事は四九名と39%が朝鮮人が占めていました。
ちなみに、知事に直結して朝鮮の民情をすくいあげ具申する任務の特殊副知事ともいうべき参与官は一三道すべてが朝鮮人でした。
 慶尚北道の一九三二年(昭和七年)一月現在の県知事は朝鮮人であり、四名の部長(内務部、産業部、財務部、警察部)のうち産業部長は朝鮮人。そして、四つの部にいた部長以外の日本人官吏は一九四名。つまり、三名の日本人部長もその他一九四名の日本人官吏も、朝鮮人知事に仕えていた。
 一九四〇年の朝鮮総督府における朝鮮人高級官吏の実態として
 内務局には局長以下三一名の高級官吏のうち三名が朝鮮人。財務局は局長以下一三名のうち一名が朝鮮人。学務局は局長以下19名のうち三名が朝鮮人であった。学務局の三名の朝鮮人高級官吏のうち一名は視学官という高官であった。
 その他の例として京城履審法院の一三名の判事のうち二名が朝鮮人、京城地方法院二八名の判事のうち三名が朝鮮人、京城地方法院検事局の検事一四名のうち一名が朝鮮人であった。
 学務局の最高ポストである学務局長として李軫鎬が一九二四年から二九年まで就いている。

 朝鮮半島における地方行政機構は、道知事の下に、日本の市にあたる府、日本の町と村にあたる邑と面、邑と面を統括する郡があった。一九一七年において、一四府、一二八郡、五一邑、二三七四面であった。済州島と鬱陵島のみ島庁をおき、島司を任命していた。この島司は郡守と同格であった。
 準・議会が道、府、邑にそれぞれあり、一九三一年(昭和六年)より府会、邑会、一九三三年(昭和八年)より道会といった。議長はそれぞれ道知事、府?(市長)、邑長が兼ねるために完全な三権分立的な議会でないが、議決機関であった。村にあたる面の面協議会は諮問機関であり、準々・議会といってもよいものであった。
 道会議員の三分の一の議員は官選、三分の二の議員は、府会、邑会、面協議会の議員が選挙した。道会議員の内訳は日本人が四分の一、朝鮮人が四分の三がおおむね基準であった。
 例えば、一九三二年における京幾道の道会議員三七名中、日本人は一〇名で朝鮮人が二七名であった。
 このように朝鮮半島における地方議員の多くは朝鮮人であり、朝鮮人対日本人というような多数決になれば日本人は敗れるしかなかった。
 郡守、邑長、面長は、ほぼすべて朝鮮人であった。(郡守、邑長にごくわずかの例外あり)
 朝鮮半島に移民してきた日本人は朝鮮人の郡守、邑長、面長の統治下にあったといってよい。
  このような状態で、強制連行が行う事ができたと思う方が狂っている。

 朝鮮半島における在日本人は特権というものが無かった。一九三七年より配給制と朝鮮半島もなってきたが、塩、砂糖などの配給で日本人と朝鮮人との差別はなかった。キムチのために朝鮮人に塩を多くし、日本人には砂糖を多くするなど公正な調整がされていた。
 配給の行列ですら日本人、朝鮮人の区別なく一緒に並んだ。(参考文献「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店)
 
 井筒氏は参考文献には挙げていませんでしたが、在日朝鮮人のが強制連行について書いた著書の一つに「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植著 未来社 一九六五年第一刷)という本があります。
 当時、朝鮮学校教師であった著者により書かれていているウソ満載の本ですが、この本の与えた影響は小さくありません。 私の手元にあるのは未来社より一九七一年に発行されたものですが、六年間で一二刷となっています。
 この本には強制連行として一九三九年〜四五年と書かれています。一九三九年、昭和一四年はまだ大東亜戦争も始まっていません。



裏表紙