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<戦時下における朝鮮独立運動の嘘>

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


戦時下の朝鮮独立運動とやらについて

平成23年4月1日金曜日晴れ ××× 14

 朝鮮人は我が国の統治が「かってない程の過酷な統治」であったかのように言い、それに対して朝鮮人がいかに戦ったかのように言う。

 たとえば、私の手元に古本屋さんで購入した「写真で知る 韓国の独立運動 上・下」(国書刊行会 昭和六十三年刊)という定価四千八百円もするりっぱな本があります。

 これには、ある意味有名な上海に在ったという大韓民国臨時政府から朝鮮人が日本の統治に対していかに激しく抵抗し勇敢に戦って来たかが、多くのわけのわからない写真とともに描かれています。

 たとえば、我が国の軍隊を散々打ち破ったという戦いでは

 大韓独立軍が一九二〇年六月四日に汪清県鳳梧洞の一個連隊を襲い死者百五十七人、重傷二百余人を与えて撃退。P四十四

 同じく「抗日の英雄金佐鎮将軍と青山里大捷」として大韓独立軍が一九二〇年十月二十一日、二十二日両日、和竜県三道溝(青山里)付近にて羅南駐屯地日本陸軍十九師団傘下の一個旅団と戦闘を交え、三千三百余名を死傷させるという大勝利を治めた。P四八

 そして、直接戦闘を指揮したのは二十一歳の李範?将軍と書いて写真が掲載されています。

 同じ本の五十頁目に掲載されている「青山里戦争で大勝した大韓独立軍は、戦勝祝賀記念写真を撮った」とされる写真と同じ頁に掲載された「青山里戦争で負傷兵を運ぶ日本軍」とされる写真があまりにも違和感があるのは私だけではないでしょう。

 

 

 つっより、これって、どうみても大東亜戦争当時の写真だろうに。だいたい同じ日本陸軍十九師団の写真として四十六頁に掲載している写真と比べても無理があるだろうに。

 

 そして、不思議なことに朝鮮半島内ではなく、支那大陸において「いわゆる」朝鮮独立勢力は大活躍いたしております。p六十二〜六十三

 

 では、同じ朝鮮人義勇軍の事について書かれている「抗日朝鮮義勇軍の真相」(高木桂蔵訳 新人物往来社 平成二年刊 原書「朝鮮族簡史」延辺人民出版社刊)によると、

<一九二〇年の大討伐は、第十九師団高嶋中将の指揮下に行われる事となった。同師団の第三七・三八旅団を主力として、シベリアより撤兵してきた第十四・十三・十一師団と東北駐屯の関東軍も参加した。

 略)

 十月二十一日早朝、反日部隊の第二連隊主力は日本軍騎兵部隊が青山里に向っている事を知った。このため直ちに青山里の北側の森林地帯に三個中隊で待ち伏せした。

 昼頃日本軍先頭中隊が進出して来たのでこれを攻撃、三十分間で全滅させた。

 略)

 十月二十二日、日本軍第三七旅団主力が反日部隊第一連隊に追いついた。

 略)

 ここで追撃する日本軍百人余を倒した。

 略)

 青山里の戦闘では、反日部隊は日本軍加納騎兵連隊長とその配下数百人を消滅させ、重機関銃二挺と小銃数百挺を奪った。>

 と、どちらも大戦果をあげたことになっているが、現実にはこの青山里の戦いは我が軍にとっては間島事件として出兵したもので、大規模な戦闘ではなく単なる馬賊掃討であり、戦死者十一名、負傷者二十四名であった。

そして、この英雄である「はず」の金佐鎭という「将軍」を「親日派の弁明」の著者キム・ワンソプ氏が「単なる山賊の親分」と本当の事を言って、訴えられています。

以下引用

金佐鎭将軍名誉傷付けた親日作家、キム・ワンソプ氏を起訴

  「独島(ドクト、日本名・竹島)を日本に返せ」というコロムをインターネットのサイトに掲載し物議をかもした親日作家キム・ワンソプ氏が、今回は金佐鎭(キム・ザジン)将軍の名誉を傷付けた疑いで法廷に立つようになった。

  ソウル中央地検・刑事第7部は1日、北路軍政署の総司令官として、日本軍との青山里(チョンサンリ)戦闘を勝利に導いた独立運動家、金佐鎭将軍を「山賊の親分」に描写した文を掲載した疑い(死者名誉棄損)で、キム・ワンソプ容疑者を在宅起訴した。

  検察によると、キム容疑者には、今年2月、ポータルサイト・ダウムのディベートルームに「金将軍は朝鮮(チョソン、1392〜1910)時代にすれば山賊の親分にあたるのに、いかにして独立軍に変身したのか、韓国史は真に奇妙な魔術をかけている」という内容の文を掲載した容疑がもたれている。

  検察は、金将軍の孫娘でタレントの金乙東(キム・ウルドン)氏が同氏の文に接した後「お墓の中の志士が起き上がりそう」としすぐに告訴したのを受け、捜査に乗り出した。

2006.06.01 16:34:43中央日報

 引用終わり

 アホとしか言いようのない朝鮮人女です。

この英雄である「はず」の金佐鎭は帰順するから金をくれと言って無視されたことが資料より判明しています。

 朝鮮の歴史上の英雄というとテロリストか山賊の親分だけしかいないことになります。

 いくら朝鮮の国技のひとつが「嘘・捏造」であるとはいってもいいかげんにしてほしいものである。

(ちなみに、すでに有名ではあるが、朝鮮の国技とは放火、売春、強姦、嘘・捏造、これが朝鮮の四大国技である。)

 これまで何度か引用させていただいた事があるが、昭和十一年、京城帝国大学を卒業後、高等文官試験(行政科)に合格し大東亜戦争終戦まで朝鮮総督府に警察官僚として務めた坪井幸生氏は著書「ある朝鮮総督府 警察官僚の回想」に「戦時下朝鮮に不穏分子の策動無し」と題し下記のように書いています。

 <保安課は一言で言えば、政治警察を主管する課であった。朝鮮に関する一般情報や政治情報を集め、総合的に判断して統治の資とする。

そして、治安維持法等の運用を主管し、その違反事件を検挙するための課である。

 そのための特別高等警察係(特高係)は、共産主義による独立運動などを中心として、監視、捜査を指導する。高等警察係(高等係)は、民族主義などによる独立運動などを中心として対処するという二つの大きな係が伝統的にあった。そこに新しく第三の柱として外事係(外事警察係)が加えられた。その他にも内鮮係、宗教係、水平運動係、右翼係など、取り締まり対象などによって諸係があった。

略)

 特高係も高等係も事件らしい特別の事件はなかった。一部反戦的言動を表するものはいたが、社会一般の銃後奉公の大勢に圧倒されて、問題にはならなかった。過去の事件関係者などにも目立った動きはなく、運動展開の企図を有する者はみな海外に脱出して、そこから遠隔操作で目的を達しようとしたが、まったく効果はなかった。

 海外では一部の者によって「光復軍」や「朝鮮義勇隊」の旗揚げもあった。しかし、前者は民族系で蒋介石の国民党軍に依存しようとしたものの問題とならず、後者は共産系で、毛沢東の共産軍の指導下に組織の拡大を図ったが、結果的にはあまり重要視されなかった。

(戦後、この「朝鮮義勇隊」の後身の一部は北朝鮮の建国に参加しようとしたが、金日成によって粛清・抹殺された)

 結局のところ、いずれも一部の気勢劇に終わり、朝鮮内にはほとんど影響する事はなかった。>

p一〇〇〜一〇二

 続いて、坪井氏は当時の朝鮮半島内の情勢につき具体的な数値をあげ下記のように記している。

 <朝鮮内は滔々として戦意高揚一色となり、兵役義務のない朝鮮青年の中にも軍人志向が高まり、日本軍人を志願するものが急増し、昭和十三(一九三八)年、朝鮮総督府陸軍志願者課が新設されたのである。

 志願者に対する採用者の比率を見ると、昭和十三年の二九四六人中、採用され、訓練後に正式に軍人として入営したのは一九二人であった。其の後の応募倍率は、昭和十四年が二〇・五四倍、同十五年が二八・二五倍、同十六年が四八・二五倍という数字を示している。

 ちなみに、それ以降は徴兵制施行方針が決定された。

 この雰囲気の中では共産主義者なども蠢動の余地はなく、のちに北朝鮮建国後に朝鮮共産党を代表するとして金日成の対抗勢力を標榜した朴憲永も、光州の煉瓦工場に工員となって逼塞し、全く活動していなかった。

 戦時下の朝鮮は、戦後にいわれる評価とは裏腹に、まったく間然するところなく戦意高揚、日本国力の重要構成部分として、それと一体に機能したのである。>

 p一〇二

 そして、これは呉善花氏なども指摘していることであるが、坪井氏は朝鮮内の日本人の人数などに触れて下記のように書いています。

<当時の朝鮮の全人口は三千万余、その中の日本人は七十万余に過ぎなかった。日本人がいかに指導的立場にあるとしても、その量的比重はあまりにも差がありすぎた。朝鮮はあくまでも朝鮮人の朝鮮として在ったことは間違いのない事実であった。

 朝鮮では京城をはじめ都市の占める地位は相当重要なウエイトを持っていた。しかし、人口比や地理的占有率からすれば農村の持つ社会的比重は比較にならないものがある。その農村の人口構成は、村人全員が朝鮮人であったと言えるのである。日本人は駐在所の巡査か小学校の校長がいるだけというところも少なくなかった。

 そして、その邑(町)や面(村)を支配する邑・面の事務所は、邑長、面長以下職員全員が朝鮮人であった。また、戦時下の召集によって日本人警察官多くが朝鮮から姿を消し、第一線の警察官の半数以上が朝鮮人であった。

 これは朝鮮は朝鮮人の朝鮮であるといいことであり、その朝鮮人による朝鮮が日本の一部として完全に一体化して世界戦争を戦ったのであった。>

p一〇三

 

そして、坪井氏はこの章を

 <今は当時の朝鮮をいろいろと誣い、非難する者が少なくない。だが、その中の何人がその実情を見聞、体験していたか。その主張は妥当性ある証拠資料に基づいた確固たる立論であるのか、多分に疑わしいものが少なくない。私は、あえて当時の保安課に在籍した者の一人として、実地の所見をそのまま明言しておきたいのである。>(p一〇三)

と結んでいるがまさにそのとおりである。

「写真で知る 韓国の独立運動 上・下」(国書刊行会 昭和六十三年刊)

「抗日朝鮮義勇軍の真相」(高木桂蔵訳 新人物往来社 平成二年刊 原書「朝鮮族簡史」延辺人民出版社刊)

「ある朝鮮総督府 警察官僚の回想」(坪井幸生著 荒木信子協力 草思社 平成十六年刊)

 

 今日はそれなりに忙しい。

 バンブーさん来店。

 Oさん二名様で来店。

 一名様来店。

 K@京城さん二名様で来店。

 Mさん来店。

 アキさん来店。

 一名様来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ドンチャン。記憶無し。

 床で倒れてました・・・・・サル以下。




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