二冊の本にみる特攻隊員

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成17年7月26日火曜日台風のはず・・・・
 わたしの手許に「いざさらば 我はみくにの 山桜」と題された本があります。この本は靖国神社で開かれた学徒出陣五十周年特別展の記録として出版されたものです。

 題名になったのは、関西大学在学中、学徒として出陣、海軍に人りさらに特攻を志願し昭和20年3月21日「第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊」隊員としてロケット特攻機「桜花」に搭乗して鹿屋基地を出撃、九州南方洋上にて戦死した緒方襄中尉(のちに二階級特進にて少佐22歳)が、今生の別れに任地に赴いた母三和代さんの鞄に忍ばせた辞世です。


 
いざさらば 我は御国の山桜 母の身元にかへり咲かなむ

それを帰宅後発見した三和代さんは

 散る花の いさぎよさをばめでつつも 母のこころはかなしかけり

 と詠じている。

 また、同じ本には小説家の山岡荘八氏の「最後の従軍」(昭和37年8月6日〜8月10日朝日新聞)が掲載されていて、昭和20年4月に海軍報道班員として海軍の鹿屋基地に配属された時に接した特攻隊員のようすが描かれている。
その中で山岡氏はまさに必死、必殺兵器である「桜花」の神雷部隊や爆装ゼロ戦などで出撃していく特攻隊員が底抜けの明るさであったことを記している。それらは、今も残る多くの写真の中の特攻隊員の笑顔がそれを裏付けている。
山岡氏はその底抜けの明るさを見せている隊員の心境をしりたくて、そして、できるだけ自然にその筆跡を残したいと思い、鹿屋の町の文房具店で、わとじの署名帳を購入し、出撃前の隊員に書いてもらっている。
それはすぐにいっぱいになってしまったそうで、後に二冊あればと氏は後悔している。
氏によると、署名とともに浮かんでくる特攻隊員の顔は、どの顔も笑っているそうである。

 山岡氏は
「この野里村の基地にも、むろん地上勤務の人はたくさんいた.しかし十日経たないうちに、私は、それらの人々と特攻隊員の、区別がハダでわかるようになった。一方は軍規の中に生きている人々であり、一方は死生の外に踏みだしてしまった人々なのだ。そこにある闊達さと自由さは時に傍若無人にさえ見えて、その実、按近するほど離れがたい別の美しさを秘めていた.私にとってなによりも悲しいことは、彼等に出会って親しくなると、それがそのまま別離なのだというきびしさだったが、それにしても、この底抜けの明るさは、どうして彼等の肉体を占領し得たのであろうか…その秘密だけは、とにかく私なりに解いておきたかった」
と書き、20年5月、古畳の上で胡座して、教え子に最後の返事を書いていた西田高光海軍中尉(のちに二階級特進で少佐、大分県師範学校22歳)に「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなど・・・・・」と質問している。
  西田中尉は、重い口調で、現在ここに来る人々は皆自分から進んで志願した者であることと、したがってもはや動揺期は克服していることを話した。そして西田中尉は最後にこう付け加えています。

  「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・・」

と言われたそうである。
  西田中尉が昭和20年5月11日に500キロ爆弾を抱いた零戦と共に大空へ飛び立っていったとき、山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたとある。

(注、私は零戦の場合は、爆弾については250キロではないかと思うのですが・・・)

 その西田中尉出撃の翌々日に、中尉の母と兄嫁が基地にたずねてきた。疲れきっった老母をみて 真実を告げられなかった山岡氏は、中尉は一昨日、前線の島に転勤したとウソをいい、飲み物の接待をしたあとで付近を案内し、休息所にしていた小学校に案内した時に立ちすくんだ。そこには「西田高光中尉の霊」を壁間に祀って香華がそなえてあったのだ。あわてて逃げ出そうとした山岡氏の耳元に兄嫁が「お母さんは字が読めません」とささやく。
 自分では巧みにその場を取りつくろったつもりで、二人を当直将校の控所に戻って、三人の前にお茶が出された時だった。「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」
と西田中尉の母上に丁寧にあいさつされた山岡氏は、いきなりこん棒でなぐられた気がしたと書き、続けて、母親のもつカンを文字が読めないからといって、どうして鈍らせ得たと思ったのだろうと自分を恥じています。西田中尉の母上は兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去ったそうです。

 特攻隊員は飛行場のある野里村からの外出を禁じられていたそうですが、鹿屋の町に時々そっと抜け出していっていたそうです。これは当然違法行為になります。それを、山岡氏はあれだけりっぱに死んでゆく特攻隊員に軍規を侵したという一点のかげりを心に止めさせてはならないと司令の岡村基春大佐に特攻隊員の禁止令を解くようにお願いし、司令はそれを聞き入れたそうです。

 山岡氏は こうも記しています。
まだまだ署名帳を見てゆくと、思い出は限りない。私にはこの野里村は自分の生涯で再び見ることのできない天国のような気がする。あらゆる欲望や執着から解放された人々が、いちばん美しい心を抱いて集っていた・・・・そう思えるのも、実は「諸君だけは殺さぬ」口ぐせのようにいっていた彼らの上官もまた、みなそれぞれきびしく責任を執っていったからでもあろう。とにかくこの特別攻撃を、やむなく考え出した後の軍令部次長大西滝治郎中将も、第五航艦の司令長官宇垣纏中将も、そして司令の岡村基春大佐もみなそれぞれ彼等との約束を厳しく守って自決していった。
 私の見聞の限りではみじんもウソのなかった世界・・・・それだけに私もまた生涯その影響の外で生きようとは思っていない。
(昭和37年8月10日) 

 「最後の従軍」その後として下記のようにも書いています。
 そういえぱ諸井少尉の顔もご両親の便りで、まざまざと思出した。出撃の前夜、私も加わって、実はみんなで大宴会(?)をやった。その時に、それぞれ最後のかくし芸を披露することになり、少尉はふしぎな流行歌を歌って、みんなをおどろかせた。
 唇を赤きルージュに染めて
 誰を待つのか巷の乙女・・・
みんなびっくりして「貴様そんな歌どこで覚えた」とひとしきり一座の人気をさらったことを覚ている。それが翌朝は死んでゆく人なのだ。彼は実に淡泊らいらくな、文字どおり空の若武考といった好青年だったと、書いて来るとまたまた思い出は眼りない。市島少尉、高野中尉、町田少尉などのことについてはそれぞれ私信でお答えすることにして、ただ最後に、実は私もこの人々の十三回忌に庭の片すみへ「空中観音」と名づけて草堂を建てて、お祈りしていることを記さしてもらってよいであろうか。こんどのことで頂いた手紙、写真、記念出版物などは一切この草堂にありがたく保存してゆくつもりである.なおその草堂に昨年の八月十五日、特攻攻撃をやむなく許した人、そして、終戦と同時に約束どおり自決された軍令部次長大西滝治郎中将の末亡人が中将の遺書を供えて「おわびに参りました」と、長い間心をこめてお詣り下されたこともご遺族の方にはお知らせしておきたいと思う。
と書かれています。

 こういった特攻隊員の姿も、ゆがめてみる輩にはそうはうつらないようで、元毎日新聞記者の古川利明氏はその著書「カルトとしての創価学会=池田大作」の中で下記のように書いています。
「日本の神風特攻隊員もそうだろうが、彼らは人義のために、自ら勇敢に、潔く散っていったように表面上は見える.しかし、死を目前にした恐怖など、そんなになまやさしいものではない。
 例えば、特攻隊員を実際に送り出していった整備兵はこう語っている、
「特攻隊員は基地に配属されると、だいたい一週間後に出撃命令が下りる。あまり長く置いておくと耐えきれず、脱走するから。この一週問は地獄だ。正気を保ったものは一人もいなかった。滑走路のわきで泣いていたり、一晩中何かに叫んだリ、泥酔するくらい飲んだり、飲めない者は飛行場の片隅で呆然としていた。.消灯吋問がすぎても帰らない者もいた。オレたちは激励も慰めも何もできない。声を掛けられる雰囲気ではなかったからね。一週問後に死ななきゃならないなんて、誰が納得できるもんか。心の整理もつかないまま、半狂乱で日が過ぎる。出撃前日になると、しぶしぶ身辺整理をしたり、遺書を書いていたりしていた。もう、誰も声を掛けられない異常な時代だった」

(p149)

 この古川氏の文章がどれほど説得力のない内容か、また先人を屈辱しているかは、先の山岡氏の文章や多くの遺書、写真によりわかります。
さすがは大朝日と並ぶ毎日新聞の元記者だけあって、性根が腐りきっています。

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