このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

 

トルコ 日本人として忘れてはならない事

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成21年3月31日火曜日晴れ △

 イラン・イラク戦争とは昭和五十五年(一九八〇年)から昭和六十三年(一九八八年)にわたる戦争である。昭和六十年(一九八五年)三月一六日、イラン日本大使館は、イラン国内に滞在する日本国民に出国勧告を出した。

 二十日から現地の正月休みに入るため多くの日本人は出国する予定で航空機のチケットを買っていたが、イラクの爆撃でテヘラン発国際便の運行中止が相次ぎ、予定どおり出国できた日本人はごくわずかであった。

 そんな中、翌日三月十七日になって、イラクのフセイン大統領は、イラク軍は四十八時間後の十九日午後八時三十分(日本時間二十日午前二時)以降、イラク上空を航空禁止区域とし、上空を飛ぶすべての飛行機はたとえ民間機であっても無差別に攻撃すると宣言した。

 日本政府は、日本国民救出のための日本航空、自衛隊機などのテヘラン派遣を検討したが、結局救援機を派遣しなかった。

(日本航空は労働組合の反対、期日までの脱出が困難と判断。自衛隊は当時の社会党などの反対により、海外在住同胞のための法的不備などによる)

 どう言い訳しても、時の日本政府(中曽根康弘第二次内閣)は三百人以上の日本人同胞を見捨てたのである。

 

以下は手元にある「明治の快男児トルコへ跳ぶ 山田寅次郎伝」(山田邦紀 坂本俊夫 現代書館 平成二十一年刊)よりの引用です。

以下引用

 日本からの救援機がこない事を知ったイランの日本大使館員たちは、大使の野村豊を中心に、テヘランに航空機を乗り入れているすべての国の大使館や航空会社と連絡を取り始めた。すでに脱出し人を除き、この時点(三月十八日夜)でテヘランに取り残された在留邦人はまだ三三八人もいた。

 数十人はなんとか他国の航空機に乗せられるとしても、まだ二百席以上の座席が必要だった。大使館員たちは必死に掛け合ったが、どこも自国民の脱出で手一杯。逆に「どうして日本は救援機を出さないのか?」と質問される有様だった。

 もはや事態は絶望的だったが、そんなときに日本人のために救援機を出してくれたのがトルコ航空だった。親友である伊藤忠商事・森永堯(イスタンブール在住)のたっての依頼を受け、トルコのオザル首相(のちの大統領)が特別便を飛ばす事を決断したのだ。

 オザル首相の命を受け、トルコ航空ではすぐさま日本人救援機の整備が開始された。トルコ航空特別便に乗るパイロットを募ったところ、全員が手を挙げたという。トルコ航空では十九日に最終定期便を飛ばす事にしていたが、もう一機を臨時に飛ばして日本人を救うというのがトルコ航空の計画だった。

 イラク軍の設定した安全運行の最終日である三月十九日、テヘランのメヘラバード国際空港は各航空会社の最終便に乗ろうと一〇〇〇人以上が詰めかけ、空港ビルはごったがえした。ソ連のアエロフロート二機は自国民、東欧諸国の人たちを優先したため、せっかくアエロフロートのチケットを手に入れながら搭乗を断られる日本人も大勢いた。

 そうなると、エールフランス(パリ行き)の最終便、ルフトハンザ航空(フランクフルト行き)の特別便、オーストリア航空の定期便と特別便(ともにウィーン行き)、そしてトルコ航空の定期便と特別便(ともにイスタンブール行き)が搭乗の最後のチャンスとなる。

 オーストリア航空やエールフランス、ルフトハンザ機のチケットを持っていた日本人およそ五十人はこれらの航空機で出国していったが、あとの日本人はトルコの救援機を待っていた。

 野村以下、大使館員たちも空港にかけつけてトルコ機を待っていた。大使館員たちは全員イランに残る事を決め。日本人を脱出させるために全員徹夜で仕事をしていた。

 うち二人はトルコ航空機に乗れることを知らせるためにテヘラン中を駆け巡り、日本人を探し出してはそのことを知らせて回った。大使館員の中には死を覚悟し、両親に遺書を残した人もいた。

 ようやくトルコ航空の一番機がメヘラバード国際空港に到着したのは十九日午後三時。すぐさま給油作業が始まった。燃料補給が終わったのは午後四時三十分。残り時間は後四時間だ。一番機(日本人乗客は百九十八人)が飛び立ったのは五時十分。続いて二番機が着陸。給油を終えて飛び立ったのは一番機に遅れる事二時間二十分後の七時三十分(日本人乗客十七人)。撃墜予告まであと一時間しかないという際どさだった。

引用終わり

(「明治の快男児トルコへ跳ぶ 山田寅次郎伝」(山田邦紀 坂本俊夫 現代書館 平成二十一年刊)P二百九〜二百十一より

 その後、平成九年一月の産経新聞に掲載された記事で元駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏(ネジャッティ・ウトカン氏)は次のように語られた。

 

 <勤勉な国民、原爆被爆国。若いころ、私はこんなイメージを日本に対して持っていた。中でも一番先に思い浮かべるのは軍艦エルトゥルル号だ。

一八八七年に皇族がオスマン帝国(現トルコ)を訪問したのを受け一八九〇年六月、エルトゥルル号は初のトルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。三ヵ月後、両国の友好を深めたあと、エルトゥルル号は日本を離れたが、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。

 悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関係の始まりでもあった。この時、乗組員中六〇〇人近くが死亡した。

しかし、約七十人は地元民に救助された。手厚い看護を受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。

エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。>

 この記事の後、平成十一年(一九九九年)八月十七日、死者一万七千人以上を出したトルコ北西部大地震があった。

 それに対して、我が国から神戸の仮設住宅五百戸を載せた海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」が掃海母艦「ぶんご」、補給艦「はやせ」とともに九月二十三日、大震災に見舞われたトルコに向けて出港。その後、十月中旬に五百戸が民間商船によって運ばれた。

 その仮設住宅の建ち並ぶ西部サカリヤ県アドリエ村は別名「日本トルコ村」と呼ばれ、ピーク時に約五〇〇〇人の人びとが身を寄せていた。移設の際にはドアに日の丸が張られ、路地は「東京通り」「神戸通り」などと名付けられたという。

 巨額のODAに対しても支那からは感謝の言葉すらない。四川の地震の時の我が国からの救助隊に対して支那政府の対応も醜いものであった。

 我が国からの援助に対しては隣の南北朝鮮も同じである。

 北京空港、ソウルの地下鉄等の例をみるまでもなく、支那、南北朝鮮は国民にさへ我が国からの援助ということを知らせないようにしている。同じ援助にしてもこのように対応が違う。

 

 どうせだったら、普通の国に対して援助をしたいものである。

 先の日記にも書きましたが、トルコの人びとは百二十年も前の出来事を覚えていて恩を感じてくれているが、

我が国はたった二十四年前の恩すら忘れようとしている。

 このような国の人びとから忘恩の民と言われないようにしたいものです。

 別の意味で、支那人の長野での行動も子孫のためには忘れないようにしたいものです。

 

 小胡子さん来店。Iさん来店。Kさん来店。Mさん来店。

 飲む。ドンチャン。記憶あり。


 


酒たまねぎやホームページ

酒たまねぎやURAホームページ