このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

創氏改名

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


創氏改名についての井筒和幸氏の無知ぶり

以下、特に表記のない場合は井筒和幸氏の著書「民族の壁どついたる!」(河出書房新社刊)より引用
<軍国化が進み、植民地支配が徹底されていく中で、朝鮮人たちを日本人化していこうとしました。さらに一九三九年に「創氏改名」という布告がだされて、朝鮮人は日本風の名前に改めるようにいわば義務づけられたんです。
 朝鮮人は昔から家族の系譜(族譜)を大切にする民族です。結婚しても姓名は変わりませんし、子供に名前をつけるときも、一〇〇年単位で家族の系譜をさかのぼり、親族のあいだで慎重に協議するわけです。
どんな人でも一〇〇〇年ぐらい昔の家系がわかっているらしいですよ。>p四七〜四八

<この流れで一九四〇年には「創氏改名」がはじまります。徴兵するためには、人間の管理をきちんとしなければならない。「朴」とか「李」とか「洪」という同じ朝鮮の姓名では管理しにくいから、名前を変えて日本人と同化させようとしたんです。
氏名を創るから「創氏」といった。これを義務化したんです。
強制的に姓名を変えさせられたんです。日本人化計画が始まるのです。
 ところが朝鮮には「族譜」というものがあって、父系を中心として血縁関係を図にした家系図を各個人が持っているような民族です。それくらいの
長い長い歴史を受け継いでいる、つまり名前というものを大切にしている。
 そういう人々に対して「管理上めんどくさいから名前を変えろ」と急に命じたわけです。日本人が朝鮮人を都合よく管理するためですよ。>
p一一八

 井筒氏のウソというか無知というかアホというか、頭の悪さからかメチャメチャを書いています。
 以前書いたことがあるように確かに創氏改名は、朝鮮民族に対しての天下の愚作ともいわれるべきものであると思う。しかし、それと日本名を強制したかというのは別のものです。(不思議と、今でも強制されなくても偽名であるはずの日本名を堂々と名乗っている在日朝鮮人が多い)
 朝鮮人の「姓」とはあくまで男系の血統をあらわすものであり、夫婦別姓です。「金」家に「李」家から嫁いだ場合、女性は「李」のままを名乗り、生まれた子供の姓は「金」となります。女性には家族の名前が無かった。そこで、家族単位の称号を「氏」として新たに創り、日本国の民法上の整合性を図ろうとした。そのため、創氏は強制であったが、朝鮮人の「姓」を奪うものでは無く、それとは別に、あらたに日本式の氏を持たせるものです。つまり、朝鮮人は男系のみをしるした族譜による「姓」と日本風の戸籍の「氏」の両方を持っていたのです。
 井筒氏が書くように<朝鮮人は日本風の名前に改めるようにいわば義務づけられた>ということは絶対に無かった。届けを出して「氏」を日本式にするか、そのままの「法定創氏」とするかは自由であった。二割がそのままの「金」「朴」といった姓を氏として使った。
 有名な洪思翊将軍などはそのよい例ですし、衆議院議員までなった朴春琴、貴族議員の尹徳栄も日本名では無い。終戦時には朝鮮半島の一三の道のうち五人が朝鮮人であったが、その五人の朝鮮人道知事のうち二人が朝鮮式の姓のままであった。
 その二人の国会議員も創氏改名には反対していない。
 本当に朝鮮人が創氏改名に反対であれば、朝鮮人の国会議員が二人もいるのであるからそれを阻止することは容易かったはずです。そもそも、警察も創氏改名には反対していたのです。
 朝鮮総督府道警察部長であった坪井幸生氏によると、創氏改名について下記のように述べています。
「警察は反対的でした。この制度が始まった時の警察局長は三橋孝一郎という人でした。その三橋さんが局長会議で創氏改名に反対したそうです。警察の立場からすれば、朝鮮人は朝鮮人の名前のままにしておいてもらったほうが都合がいいわけです。朝鮮人か日本人か分からなくなってしまっては、第一線の仕事がやりにくくなる面があります。そういった事情もあって、警察は創氏改名を推奨する立場をとらなかったのですが、当然のことです」
(「月刊正論」平成一五年八月号より)

 ましてや、<徴兵するためには、人間の管理をきちんとしなければならない。「朴」とか「李」とか「洪」という同じ朝鮮の姓名では管理しにくいから>ということも無かった。二割の朝鮮の人がそのままの名前であったのだから。
 因に北朝鮮では「族譜」の全面破棄を断行している。これは日本統治時代の間はその「族譜」が存続していた証明にもなる。

 後、<どんな人でも一〇〇〇年ぐらい昔の家系がわかっている>と書いているが、朝鮮人は古代は「阿直岐」「興首」「階伯」などという名前であったことが古事記、日本書紀などでわかる。それが、高麗朝(九三六〜一三九二)のころには支那から手柄のあったものが支那風の名前を賜った。それを後生大事に有り難がった。その後、モンゴル人の国である元が中華帝国の主となればモンゴル風の名前に国王みずから改名し、漢民族の明が中華帝国の主となれば支那風の名前にもどした。
 しかし、下層階級の人間には「姓」がなかった。我が国でも明治八年にやっとすべての国民が「氏」を持つ事が定められました。朝鮮は李朝末期でさえ約半分が奴隷という国です。奴隷に姓などあるはずがありません。我が国が統治するようになり、すべての朝鮮人が初めて姓を持つようになったのです。
 井筒氏が書いているように本当に朝鮮人の皆が皆一〇〇〇年前までの家系がわかるのであれば、朝鮮人とは当然そのように名前までも事大して生きてきた民族であり、朝鮮人達が言うように名前に思い入れが強い民族では無いことがわかるはずである。
なにしろ、コロコロ名前がかわっているのだから。

あほらし。


朴一の著書に見る創氏改名

 朴一氏のその著書「『在日コリアン』ってなんでんねん」(講談社α文庫)にて、朴氏は松坂慶子の父親の著書『娘 松坂慶子への「遺言」』(光文社)よりの引用として
 <
ワシ坂慶子の父、英明さんが生まれたのは朝鮮半島の大邱だった。
略)日本の植民地政策によって韓英明という姓名は日本風の岡本英明に改名され、日本語の教育を受けた。しかし、決して日本人とは認めてもらえなかった。学校では「朝鮮人は日本人より劣っていると教えられ、朝鮮人の誇りは踏みにじられた。「このままでは駄目だ」ということで日本行きを決意した。一九三八年、一五歳のときだった。
>(朴氏の著書「在日コリアンってなんでんねん」P45〜46)
 と引用している。

 また、「なぜ日本名を名乗るのか」として二〇〇二年の調査結果として、七〇代以上で二六・五%、六〇代で六四・八%が生まれた時から使っていると答えたことについて、
最初の世代である七〇代と六〇代が日本名を「生まれたときから使っている」のは、日本植民地時代の創氏改名政策の結果である。
略)
「生まれたときから使っている」のは、基本的に民族差別から回避するためだったと考えてもよい。とすると、七〇代、六〇代が日本名を名乗る理由は、ほとんど民族差別に起因しているといえる。
略)
「生まれたときから使っている」という回答は、在日コリアンに対する民族差別を否定するものではなく、むしろ民族差別を背景として語られたものと言えよう。
>(P一〇〇〜一〇一)
と書いています。

 一九四〇年、朝鮮総督府の塩原時三郎学務長と南次郎総監という二人の国賊によっておこなわれた「創氏改名」については、私も朝鮮の人々の歴史や伝統に対する侵害だとおもいます。
 朝鮮総督府は、朝鮮人が勝手に日本名を名乗らないように、朝鮮併合直後の一九一一年一一月に日本式の氏(姓)を禁ずる、朝鮮総督府令第一二四号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を定めている。
 名に関しては、
日本式の名を用いたいという朝鮮側の要望に屈して、新生児のみ例外的に認めたのは一九三七年である。
 つまり、朴氏が著書に引用している一九三八年に一五歳で日本に来たという松坂慶子の父親が「日本の植民地政策によって韓英明という姓名は日本風の岡本英明に改名され、日本語の教育を受けた」というのはウソであるし、在日朝鮮人の二〇〇二年の調査結果として、七〇代以上で二六・五%が生まれた時から使っていると答えた在日朝鮮人もウソをついているのである。六〇代で六四・八%が生まれた時から使っていると答えたうちの少なくともこの時点で六五歳以上の在日朝鮮人はウソをついている事になる。
そんなウソつき在日朝鮮人に対して、基礎知識もなく、
<親の最初の世代である七〇代と六〇代が日本名を「生まれたときから使っている」のは、日本植民地時代の創氏改名政策の結果である。>と書くアホ在日朝鮮人教授。

 


大山倍達正伝に見る創氏改名の真実

平成23年2月10日木曜日晴れ △

 売国新聞である変態新聞(毎日新聞ともいう)は、朝鮮人の肩を持ち、嘘を平気で書いている。

 昨年の記事だが下記のように書いていた。

 <日本語や神社参拝強要 ごう慢さを後悔−−杉山とみさん(89)

 日本の植民地時代の韓国・大邱(テグ)。1921年夏、帽子店を営む両親のもとに生まれた。現地の女子師範学校を卒業し、太平洋戦争が始まった41年、今の小学校にあたる達城国民学校で初めて教壇に立った。

 現地ではこのころ、朝鮮語教育が禁じられ、日本名に改名させられていた。杉山さんも子どもたちに軍歌を教え、神社に参拝させた。日本語が分からない子どもと朝鮮語が分からない教師。出席もとれず、悪戦苦闘した。>

平成22年8月12日毎日新聞 平和の糧に:背負ってきた65年/2 韓国の国民学校で教員、杉山とみさん 

 ハングル文字を普及させたのは、日本統治時代の政策であり、ましてや、朝鮮語の禁止と言うが、朝鮮語は一九三七年(昭和一二年)まで必修であり、非常時にさいしての「国語(日本語)」の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はない。

 京城帝国大学法文学部に、朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の二講座があった。大東亜戦争中にいわゆる皇民化教育がなされたときでも、この二講座には何らの制限も加えられなかった。

 

 それだけでなく、日本名を名乗っていたと言うが、それは法的にはほとんどが通名であった事実を隠している。

 日記に何度も書いているが、洪思翊中将、金貞烈大尉など日本軍の将校として朝鮮名のまま活躍した朝鮮人も多く存在する。

 

「創氏」が個人事に行われたものではなく、「家族」を代表する家長の名前で行われた事実である。

 つまり「設定創氏」であれ「法定創氏」であれ、家長が朝鮮名を「氏」とすれば、その家族は自動的に同じ朝鮮名のまま戸籍に登録された。

 また、「設定創氏」によって家長が日本式の「氏」を名乗れば、家族も皆同じ日本式の「氏」となった。結果的に「法定創氏」によって、それまで使っていた朝鮮式の「氏」を名乗り続ける朝鮮人も少なくなかった。

 一方、「改名令」は強制でなく、あくまでも「任意」だった。「改名」を行う場合、まず裁判所の許可を得る必要があった。

 その後に、役所に手数料を払い届け出をした。「改名」が強制でなかった事は事実だが、「改名」の際に日本式の名前が推薦された事も事実である。

 資料によれば、朝鮮在住の朝鮮人のうち、「改名」を行ったのは最終的に九・八%に過ぎず、在日朝鮮人で「設定創氏」の手続きをした人達も十四・二%でしかなかった。

 つまり八十五・八%の人達の名前は「創氏改名」の手続きを経たものではなく、いわゆる通名でしかなかった。

 ちなみに、創氏改名によって夫婦は同じ苗字を名乗る事が義務付けられた。>

「大山倍達正伝」P百十一

 <大山氏が山梨航空技術学校に提出した書類に記された「崔永宣」ではなく、その時代に名乗った「大山虎雄」は創氏改名でなくあくまで通名である。大山氏の実家は戦中・戦後を通じて「崔」を氏姓にしていたからである。

 大山氏が個人で「創氏」の手続きをするのは不可能だったのだ。>

p百十一〜百十二

 

 言葉を奪ったと言いながら、人口の二十%しか日本語がわからなかった。

 勝手に我が国に来ておきながら、「強制連行された」と嘘をいい、

 名前を奪われたと言いながら、今でも偽名を平気で名乗る朝鮮人。

 いくら偽証が国技だと言っても、いい加減にして欲しいものです。

 

 

 今日は遅い時間から忙しくなりました。

 Oさん来店。

 バンブーさん来店。

 小胡子さん来店。

 Sさん二名様で来店。

 Kさん来店。

 わ。さん来店。

 Sくん来店。

 Kさん二名様で来店。

 めぐ蔵さん来店。

 フィリッポさん、イタリアワイン醸造家のルカさん三名様で来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 

 

 営業終了後めぐ蔵さんと蔵元さんに伺う予習ということで、ドンチャン。

 いろいろと空きました。

 

 電車が動いていた・・・・・・・

 記憶はあり。

 サルよりマシ。


 

朝鮮人の族譜の嘘

平成22年12月11日土曜日晴れ ○

 朝鮮人は「息を吐くように嘘を吐く」あるいは「息をするように嘘を言う」などと言われています。

 嘘は、朝鮮人にとって、まさに売春、強姦、放火と並ぶ「国技」と言うべきものです。

 あのどうしようもないドアホウの井筒和幸氏は朝鮮の族譜について

<どんな人でも一〇〇〇年ぐらい昔の家系がわかっている>

「民族の壁どついたる!」p四十八

 そして、これまたどうしようもない大バカで算数もできないくせに、大阪市立大学教授である朴一氏は、「族譜」というものについて、

<韓国には、自分のルーツを明らかにするものがある。実は私の家にも族譜があり、毎年一一月になると故郷の慶尚南道で法事があり、そこに私も一族の長として参加する。わたしのところにはだいたい二〇〇坪ほどの墓に、先祖代々五〇の墓が集まっていて、そこに三〇代前まで遡って、密陽朴家の墓がずらりと並べてある。私も三五代目の朴家の長男であることが、族譜の中に書かれている。

略)

 そうすると、ごくあたりまえのことですが、自分の存在の上には、お父さん、お母さんがいて、その上にはおじいちゃん、おばあちゃんが四人いるわけである。さらに、そのおじいちゃんとおばあちゃんの上には八人いて、さらにその上には一六人いる。それを三三代まで、私は名前を書きながらずっとたどっていってみたことがある、記録していったものが族譜です。そうすると自分の上には何千人もの人々がそびえ立っていることがわかる。>

「『在日コリアン』ってなんでんねん」(P三三〜三四)

と自分の著書に書いている。

 どんな人でも千年ということになると、三十年平均で三十三代ということになる。

 そうすると、朴一氏のいうように三十五代目という人もいることになる。

 しかし、朝鮮の現在現存するもっとも古い族譜は成化十二年(一四七六年)に刊行された『安東権氏世譜』である。

 そして、我が国が併合するまで四十%が奴隷だった国である。

 生殺与奪を飼い主に握られている奴隷に名字などそあるはずがなく、奴隷が名字を持てるようになったのは我が国が朝鮮半島を併合してからである。

 現実に現存する族譜の編纂時期は我が国が併合した明治四十三年(一九一〇年)以降のものが約半分を占めている。

玄大松氏(財団法人アジア太平洋研究会)の論文によると

 <族譜を編纂時期別にみると、十五世紀に二十三点、十六世紀に四十三点、十七世紀に百四十八点、十八世紀に三百九十八点、十九世紀に五百八十点である。二十世紀には、一九四五年以前が四百十七点、一九四六年以後が六百八十四点である。(『姓氏の故郷』第3版、中央日報社、千九百九十年)編纂年度が不明な三百三点を含め、千九百九十年現在で把握されている二千五百九十六二点の族譜のなか、二十世紀以前のものが千百九十二点、二十世紀以後のものが千百一点である。現存する韓国の族譜の半分近くが二十世紀に入ってから編纂されたものであることが分かる。これは何を意味するのか。

略)

朝鮮中期まででも身分が低い人は名字がなく、出身地をあらわす本貫しかもっていなかった。韓国で誰もが名字を持つようになったのは身分制度が打破されてからであり、日本の植民地支配の過程で一九〇九年民籍法が施行されてからのことである。

 では、今まで名字がなかった人々はどのように名字を付けたのであろうか。四つの事例がある。第一に、戸籍書記と警察とが本人の希望通り、あるいは適当に作ってあげた。第二に、奴婢の場合、主人の名字を使うことが多かった。第三に、出身地で最も多い大姓を名乗った。第四に、戸籍書記が記録のとき、漢字を間違ったのがそのまま名字になった。

 改めて述べるまでもなく、十七世紀以降族譜の刊行が盛んであったため、族譜に名を連ねている祖先の多くの功績が文禄・慶長の役での活躍である。そして、彼らが公式的な文書、歴史物語のなかにも登場する。それと同時に、田舎には文禄・慶長の役で戦死した祖先を祀る霊廟が町内にあり、人々が参拝してはその祖先が成し遂げたことを回想する。祖先の物語が現在も生活の中に息づいているのである。

略)

しかし、前述したように韓国人のすべてが名字を持つようになったのは、二十世紀に入ってからである。

 十五世紀に二十三点、十六世紀に四十三点、十七世紀に百四十八点に過ぎなかった族譜の刊行が、十八世紀に三百九十八点へと飛躍的に増えたのは、単に印刷技術の発達によるだけではない。族譜があれば軍役が免除されるなど、族譜をもつこと自体が特権であったためでもある。それゆえ族譜の偽造が大量に行われた事実は『朝鮮王朝実録』の記事にも散見できる。十九世紀末の身分制度の崩壊と、植民地時代での身分の変動に伴い、一九二〇年代には毎年族譜がベストセラーになったくらい、族譜の編纂は盛んになった。その多くが「作られた伝説」であることは言うまでもない。すなわち、いま各家庭で神聖なものとして奉られているほとんどの族譜が実は「幻の族譜」なのである。

 十六−十七世紀には、姓氏さえも持っていなかった奴婢は全体人口の三十−四十%であり、人口の四十−五十%を占めていた百姓も族譜を持つことは不可能であった。にも拘わらず、現在韓国のほとんどの家庭が五−六世紀からの始祖から始まる族譜を持っている。族譜からみて、現在の韓国人は皆これまでこの国を作り、支配してきた王様か、両班貴族の末裔である。

「族譜・アイデンティティ・日韓関係」玄大松氏(財団法人アジア太平洋研究会)

 朝鮮人ではないがどうしようもないアホな井筒和幸氏、朝鮮人らしく嘘つきなだけでなく算数も出来ない朴一氏だけでなく、族譜については平気で嘘を言っている連中が多い。

 我が国が併合したおかげで、朝鮮人の半分近くが奴隷から解放され、名字を持つ事ができたのです。

 

 玄大松氏のこの言葉が朝鮮人というものをよく現している。

 <十六−十七世紀には、姓氏さえも持っていなかった奴婢は全体人口の三十−四十%であり、人口の四十−五十%を占めていた百姓も族譜を持つことは不可能であった。にも拘わらず、現在韓国のほとんどの家庭が五−六世紀からの始祖から始まる族譜を持っている。族譜からみて、現在の韓国人は皆これまでこの国を作り、支配してきた王様か、両班貴族の末裔である。>

 朝鮮人は本当の事を少しは言った方がいいと思う。

 いくら「嘘」が国技だからといっても・・・・・・・

 そういや、当店のお客様が昔お付合いしていた在日朝鮮人も「うちの家系は済州島の王族の家系だ」と言っていたそうです。

 今日はメチャヒマで、四回目のオチャピーかと思っていたら、久しぶりにご近所に住まわれている外国の方が二名様来店。

 一名様来店。

 いや〜オチャピーでなくて良かった。

 今日は飲まずに、明日の準備。


「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)のデタラメぶり

平成26年7月31日木曜日晴れ△

 「内なる祖国へ」(河田宏著 原書房 平成十七年刊)を読む。

 

 どういうわけか在日朝鮮人の恥である犯罪者の金嬉老と護国の英雄である大東亜戦争の元帝国陸軍軍人・河田清治陸軍少尉(二階級特進で大尉)を題材にしているこの河田浩という著者の考え方は本を読んですぐ理解出来ます。

 創氏改名について

 <なんと言う事をしたのか。権力が特定の地域の住民の名前を変えさせたことはあっても、二千五百万もの民衆全員の名前を変えさせるとは、世界史上かってなかったことだ。>

 P七十九

 <本貫とは姓の発祥した地をいうが、具体例を、朝鮮韓国関係書著訳者金容権氏にとって説明すると、彼の本貫は金海金。慶尚南道金海が発祥の金氏である。この金海金氏も非常に多いので、いくつかの派がある。彼はその三覧派。三覧派の六十九代目には名前、ファーストネームに「容」がつく。これは百年も前から決められている。つまり金容権は名前を見ただけで金海金氏三覧派六十九代目とわかる。朝鮮人の名前はこれほど同族意識の強いものなのである。これは今も変わらない。>

P八〇

 朝鮮人のいう族譜についての嘘についてはもう何度か指摘している。

 玄大松氏(財団法人アジア太平洋研究会)の論文によると

 <族譜を編纂時期別にみると、十五世紀に二十三点、十六世紀に四十三点、十七世紀に百四十八点、十八世紀に三百九十八点、十九世紀に五百八十点である。二十世紀には、一九四五年以前が四百十七点、一九四六年以後が六百八十四点である。(『姓氏の故郷』第3版、中央日報社、千九百九十年)編纂年度が不明な三百三点を含め、千九百九十年現在で把握されている二千五百九十六二点の族譜のなか、二十世紀以前のものが千百九十二点、二十世紀以後のものが千百一点である。現存する韓国の族譜の半分近くが二十世紀に入ってから編纂されたものであることが分かる。これは何を意味するのか。

略)

朝鮮中期まででも身分が低い人は名字がなく、出身地をあらわす本貫しかもっていなかった。韓国で誰もが名字を持つようになったのは身分制度が打破されてからであり、日本の植民地支配の過程で一九〇九年民籍法が施行されてからのことである。

 では、今まで名字がなかった人々はどのように名字を付けたのであろうか。四つの事例がある。第一に、戸籍書記と警察とが本人の希望通り、あるいは適当に作ってあげた。第二に、奴婢の場合、主人の名字を使うことが多かった。第三に、出身地で最も多い大姓を名乗った。第四に、戸籍書記が記録のとき、漢字を間違ったのがそのまま名字になった。

 改めて述べるまでもなく、十七世紀以降族譜の刊行が盛んであったため、族譜に名を連ねている祖先の多くの功績が文禄・慶長の役での活躍である。そして、彼らが公式的な文書、歴史物語のなかにも登場する。それと同時に、田舎には文禄・慶長の役で戦死した祖先を祀る霊廟が町内にあり、人々が参拝してはその祖先が成し遂げたことを回想する。祖先の物語が現在も生活の中に息づいているのである。

略)

しかし、前述したように韓国人のすべてが名字を持つようになったのは、二十世紀に入ってからである。

 十五世紀に二十三点、十六世紀に四十三点、十七世紀に百四十八点に過ぎなかった族譜の刊行が、十八世紀に三百九十八点へと飛躍的に増えたのは、単に印刷技術の発達によるだけではない。族譜があれば軍役が免除されるなど、族譜をもつこと自体が特権であったためでもある。それゆえ族譜の偽造が大量に行われた事実は『朝鮮王朝実録』の記事にも散見できる。十九世紀末の身分制度の崩壊と、植民地時代での身分の変動に伴い、一九二〇年代には毎年族譜がベストセラーになったくらい、族譜の編纂は盛んになった。その多くが「作られた伝説」であることは言うまでもない。すなわち、いま各家庭で神聖なものとして奉られているほとんどの族譜が実は「幻の族譜」なのである。

 十六−十七世紀には、姓氏さえも持っていなかった奴婢は全体人口の三十−四十%であり、人口の四十−五十%を占めていた百姓も族譜を持つことは不可能であった。にも拘わらず、現在韓国のほとんどの家庭が五−六世紀からの始祖から始まる族譜を持っている。族譜からみて、現在の韓国人は皆これまでこの国を作り、支配してきた王様か、両班貴族の末裔である。

「族譜・アイデンティティ・日韓関係」玄大松氏(財団法人アジア太平洋研究会)

朝鮮人の族譜というウソ 

 <朝鮮固有の文化を解体して、日本と一体化する内鮮一体、同化政策であり、近い将来に施行する徴兵制の準備だった。>

P八十一

 <三八年二月に徴兵制の施行であった陸軍特別志願兵制度は初年度四〇六名の募集に対し二九四六名が応募。四〇年度は三六〇〇名の募集に八万五千名近くが応募している。実態は各面への応募者の割当があったからであり、深刻な問題としては農村の窮乏化があった。農村振興政策で吸い上げられなかった貧農層は、立て続けに襲った水害と干害で食も職も無い状態に陥っていた。兵隊の僅かな給料でも欲しかったのだ。だから、志願者の九割は小作農出身者であった。軍隊では給与に日本人との差がない。それに除隊後に警察官、下級官吏登用の途もある。応募に当たっては熱烈な願書や血判志願もあった。

 略)

 各家庭から壮丁(徴兵年齢に達した青年)を徴募するためには、日本同様の家族制度が必要だった。>

 P八十一〜八十二

 創始改名は徴兵制の為に必要だったと言っているのです。

 アホかと。

 

 それ以外も

<朝鮮人にとって、創氏改名は自己のアイデンティティーを否定する事になる。伝統からの断絶を意味する。それだけでない。日本風の名字をつける事によって心が屈折し、かえって日本人との違和感はいっそう強くなった。結果として、総督府のいう内鮮一如から遠ざかる事になってしまった。>

P八十六

 創始改名については何度も指摘しております。

 創氏改名の誤解朴一の著書に見る創氏改名朝鮮と徴兵・徴用

 

 下記の記述についても、著書の河田氏は矛盾というものを感じなかったのであろうか。

<金嬉老にも創氏改名はある。「清水安広」。その他に、一九六八年二月のいわゆる金嬉老事件を起こすまで近藤、金岡などわかっているだけでも七つの名前を使っていた。日本風の名前なんかどうでもよかったのであろう。

 しかし、日本で生きていくには日本風の名前が必要不可欠であった。朝鮮人は日本内地ではマイノリティなのである。朝鮮人は朝鮮にいる限りは日本に抑圧されていてもマジョリティだ。朝鮮人という群の中で生きていける。ところが日本に上陸したその日から、彼らはマイノリティとして日本人にとして日本人と日本語に直接対応しなければならない。>

P八十七

 

 朝鮮人がそれほど自分の名前に拘りがあるのであれば、別に日本名など名乗らなくても我が国では生きていける。多くの外国人は自分の名前だけで生きている。差別だ、名前を奪われたなどとほざきながら、偽名で生きているのは朝鮮人ぐらいである。

 朝鮮人という人種の程度がよくわかる。

 あほらし

 私は店を片付けてから、横浜で友人と飲んできたカミさんと合流し、遅めの飯。

 店に帰って生ゴミを出してから帰宅。

 一応記憶あり。

 サルよりマシ。


 

「日韓関係の近現代史」  自由主義史観研究会会員  
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/index-jkorea.html

日本名強制に就いて:現代国学者日付:2001/01/12(Fri)

驚きである。未だに、この手の嘘を信じる者がいるとは……。
これは既に、20年も前から糾弾されてきた嘘である。朝鮮で日本名 を名乗る事が許されたのは79%、台湾で日本名を名乗る事が許され たのは2%である。では、なぜ、創始改名運動が生じた時、朝鮮では 80%、台湾では2%だったのか?
それは第一に、李朝では、人口の40%を占める賎民階級が、もともと ちゃんとした姓名を持っていなかった為である。第二に、アメリカ在住 の日本人の中に、アメリカ名を持っている者がいるのと同じ意味だった からだ。即ち、改名と言っても、朝鮮名を廃止すると言う意味ではなく、 戸籍や朝鮮人同士の間では朝鮮名を通す事ができたのである。
第三の理由は、面長や群守が点数稼ぎの為に、活発に奨励した為だ。
朴泰赫氏は、強制ではなかったが、強制的な雰囲気があったと言って おられる。


「姓氏」差別をした李氏朝鮮時代

「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮総督府は、「創氏改名」政策を行ない、いかにも朝鮮人が生命以上に大切にしている先祖代々の「姓氏」を奪ったと、朝鮮近現代史家は厳しく批判する。「創氏改名」には、絶対反対した人びとが存在したことも事実であろう。しかし、反対した人びとは、なぜ「姓氏」差別をした李朝史を直視しないのであろう。
朝鮮半島では有史以来、李朝末期に至るまで、最下級の「賎民」に姓氏をつけることさえ許さなかった。そのため白丁(被差別民)の子孫たちは、李朝末期、あるいは内憂外患の社会混乱期に乗じて適当な姓氏をつけ、あるいは祖先の墓に従一品等の碑を建てたり、詞堂、祭室までつくる者も出たりしたのだ。しかし、新しい姓氏をつける場合でも、馬脚が露われるのを恐れて、なるべく分家、分流の多い金海金氏とか、全州李氏などを利用したといわれる。姓氏を持たなかった者は、白丁奴(パクジョンノム)や火賊奴(ファジョクノム)と呼ぱれ、虐待、蔑視された。


「第12題 創氏改名とは何か」
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai
 創氏改名とは「日本が朝鮮植民地支配の際に、皇民化政策の一環として、朝鮮人 から固有の姓を奪い日本式の名前に強制的に変えさせた。これを拒否しようとしたもの は非国民とされ、様々な嫌がらせを受け、結局は日本名に変えた」というような説がまる で定説であるかのように流布されてきた。
 創氏改名が「朝鮮人の固有の姓を奪い、日本名を強制した」というのは、根拠のない 俗説であることは明らかである。

「歴史と国家」雑考
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/index.html

「創氏改名の研究」 (朝鮮近代史研究双書15) 金英達/著(未來社 )
http://homepage1.nifty.com/futoshi-ando/ando1/ando1-16.htm


創氏改名の初日の届出は、朝鮮全体でわずか48件に過ぎなかったが、その中の一人に、 今も「朝鮮近代文学の父」と言われる李光洙(イ・グヮンス)がいた。「香山」と創氏し、「光郎」と改名したことについての「創氏と私」と題するエッセイの中に、つぎのようなことが 書かれている。


「創氏とわたし」

 私はよくよく我が子孫と朝鮮民族の将来を考えたあげくに、こうするのが当然 だという堅い信念に到達したのである。日本人との差別がなくなること以外に 朝鮮人は何を望むだろうか。したがって差別の除去のために、あらゆる努力を 注ぐことが、最も重大にして緊急なこととなる。我々の在来の姓名は、支那を 崇拝していた祖先の遺物である。永郎、述郎、官昌郎、 初郎、所回(巌)、伊宗、居○夫、黒歯このようなものが、古代のわれわれ先祖の名前で あった。徐羅伐、達久火、斉次巴衣、ホルゴ、オンネこういったものが、昔の地名であった。そのような地名と人名を支那式に統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。すでに われわれは日本帝国の臣民である。支那人と 混同される姓名をもつよりも、日本人と混同される氏名をもつことが、最も 自然だと信ずる。


「内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。故に、内鮮一体運動を行わなければならないのは、 朝鮮人自身である。朝鮮人が内地人と差別がなくなる以外に、何を望むことがあろうか。
したがって差別を除去するためにあらゆる努力をすることの他に、何の重大でかつ緊急な ことがあるだろうか。姓名三字をなおすのも、その努力の中の一つならば、なんの未練も ない。喜ぶべきことではないか。私はこのような信念で、香山という氏を創設したのである。
これから徐々にわが朝鮮人の氏名が国語で呼ばれる機会が多くなって行くだろう。
そのような時に李光洙よりも香山光郎の方がはるかに便利だ。又満州や東京大阪等に 住んでいる同胞が、日本式の名をもつことは、実生活の上で、多くの便宜をもつだろう。」


「明治天皇様の日韓併合は、二つの国、二つの民族が合わさったものではなく、 もともとは一つで、途中で不幸にも二つになったものを、もとの一つにお戻しに過ぎないものであります。
        韓土の二千万の民草と君わが君と仰ぎまつらむ
 これは私の過ぐる年に詠んだ和歌の一つであります。
日本人と朝鮮人は、同一民族として同一国家を持たねばならぬのに、我々朝鮮人 はこの根本原理から離脱したために、絶えず西方の漢族、北方の満州、蒙古俗か ら脅かされ、半独立とも半隷属ともつかない歴史を経てきたのであります。誠に 情けない汚辱と苦難にまみれた歴史でありました。
 愛する後輩諸君よ、汚れた朝鮮民族という名にしがみついて、汚辱の生存を送る りも、栄光ある大日本皇民の名の下に死すべきであります。栄光の死の中にこそ 悠久の大義に生きる不滅の生があるのであります。」

http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/sousikaimei.htm


朝鮮半島出身者で陸軍中将まで累進した洪思翊将軍に創氏改名の形跡はない。
敗戦前数年の旧陸軍士官学校の半島出身卒業生の名簿には、なるほど日本名を 併記したものもあるが、半数近くは朝鮮名のままなのである。

産経新聞 主張(社説) 1996年6月25日




しかし、中国人からみれば依然として朝鮮半島は“まごうことなき藩属国”なのです。
朝鮮という呼称も侮蔑的なものです。中国皇帝に対して朝貢し、朝鮮国王を授かったとき、 「貢ぎ物少なし」とつけられた、「朝(みつぎもの)鮮(すくなし)」なのです。
これをいまも信じて変えないのも面白いことです。

「阿片としての中華意識」高木桂蔵 静岡県立大学教授(「諸君!」2002年4月号)

 

 

 

酒たまねぎやホームページ


裏表紙