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知覧特別攻撃隊の二つの遺書

相花信夫少尉

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成19年1月9日火曜日晴れ △
 昨日、高田馬場のビックボックスにて開かれていた古本市にて購入した「知覧特別攻撃隊」(松永薫編 ジャプラン一九八九年刊)には特攻にて散華された皆様の遺書が掲載されています。

下記は「知覧特別攻撃隊」に掲載されている相花信夫少尉の遺書です。 
(第七七振武隊昭和二〇年五月四日出撃戦死 宮城県 一八歳)

母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと

(ノート二頁に楷書ペン書き)同書 P四二〜四五


 下記も靖國神社社頭提示集「英霊の言乃葉 六」に収められた同じ相花信夫少尉の遺書です。

攻撃隊振武隊に加へられ、國恩に報ずることが出来ました。
父母上、信夫は勇躍征途につきました。
父母上、兄上の写真を飛行服に入れて。
父母上、信夫は子としてあるまじき無礼な言葉遣ひを遂に
最後まで矯正せず、唯々慚愧に堪へません。
母上、六歳の時より育て下されし、生母以上の母上に対し
「お母さん」と呼ばなかった信夫。
母上は如何程淋しかったでせう。
呼ぼふと幾度も思ひましたが、面と向かっては、恥ずかしいやうで言へませんでした。
今こそ大声で呼ばして頂きます「お母さん」と。
中支の兄の心境中支の兄の心境亦等しいでせう。母上、我等兄弟をお許し下さい。
今、特攻の征途につくに際し、心に掛かるは以上の二つのみです。あとは 思ひ残すことはありません。
人生五十年、自分は二十歳迄長生きしました。残りの三十年は父母上に、半分づつさしあげます。
同封の金は母上の好きな煙草代に使つてください 。
父母上、では征きます。信夫は莞爾として敵艦必殺へ征きます。


 同じ方の遺書としてどうなのでしょう。どちらがどうとは判りませんが、内容は同じようなものだからいいのだという事でしょうか。

 私には二つの遺書を比べた時に違和感があるのですが、相花信夫少尉はどう思っていらっしゃるでしょう。

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