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特攻隊についての新名丈夫氏の証言

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

特攻隊についての新名丈夫氏の証言

平成21年4月2日木曜日晴れ ×

 「敵が飛行機で攻めに来るのに竹槍(たけやり)をもつては戦ひ得ないのだ」

 これは今年の産經新聞新「次代への名言」として二月二十三日に紹介されたもので、当時毎日新聞海軍省担当記者であった新名丈夫氏が昭和十九年二月二十三日に毎日新聞の朝刊一面に書いた記事「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」という大見出しの記事の一説だそうだ。

 その産經新聞には

<無数の読者、軍関係者からも称賛の声が寄せられたが、独裁体制にあった首相、東條英機は激怒した。数日後、37歳の新名に召集令状が届く。

 東條は当初、「毎日を廃刊にせよ」とも命令したという。騒然とする編集局で一人腕組みする新名を救ったのは、ふだんは地味な仕事をしている「老社員」がかけた一言だった。「言論機関がその使命を果たせないなら、社はつぶれてもいいです。いざとなればどこでも行って働きます。どうか元気を出してください> とある。

現在のエロ日新聞からは想像もできないことです。

 同じく、毎日新聞の「一億人の昭和史」シリーズには新名丈夫氏の証言「若者たちの眼は澄んでいた」に下記のような記述があります。

(「一億人の昭和史」シリーズ三 太平洋戦争 毎日新聞社 昭和五十四年刊)P二百十四〜二百十九

以下一部引用

<生き残りの隊員は語る

略)

 特別攻撃に対しては、戦後外国では、日本の崇高な民族精神の発露であると、賞賛するものが多い。それに反して日本ではとかく批判がある。

 だが、私はそうは思わない。

たしかに戦争は、世界を敵にまわすような無謀な戦争であった。その結果、日本はまさに滅亡の危機にひんした。命をすてて、それを救おうとしたのが特別攻撃隊だったのである。戦争に対する批判は為政者や軍部に対してむけられるべきものなのである。

 

 戦後三十年、昭和五十年の九月二十一日、東京世田谷観音寺の特攻観音で秋の彼岸会が催された。陸海軍の遺族や生き残った特攻隊員など二百人が集まった。

 生き残ったといっても、搭乗員は特攻機を援護していった直掩機の操縦者である。私が出撃を見送った隊員、滑走路のかたわらで離陸する瞬間の写真を撮った飛行機・・・・・

 そういった搭乗員と私は三十年ぶりに再会して、感無量であった。

 その人たちがいったことはこうである。

「あのころ、私達は、自分たちが命を捧げることによって、国を救うのだということに誇りを持っていました。

 特攻隊員だったということに、いまも誇りを持っています。

 二度とあんなことがあってはいけないが、もしも日本の国が再び危急存亡の事態に陥るようなことがあったら、いまの若者もきっと同じことをやるでしょう。」

「いまどきの若者は、などと申すまじきこと」とは、山本五十六元帥が真珠湾の特別攻撃隊に対してのべた感慨であるが、同じことをこの人たちはいったのである。>

(P二百十四)

<愛息に志願をすすめる

 神風特別攻撃隊については、数限りない涙の思い出がある。何よりも胸打たれたのは、彼らがみな年若い青少年だったことである。

 ある朝のこと、クラーク基地の一航艦の宿舎から一隊の人々を、同じトラックに乗って見送った。

 隊長は時の海軍省事務局長多田武雄中将の愛息、圭太中尉。

 海軍兵学校を出てまもない戦闘機のパイロットだった。一行は十人余。

 トラックの上に立って田舎町を最後の見納めのように眺めていたが、朝早く出発したので、食事をしていない。

だれいうともなく「腹がへったな」といいだした。

 ふと私は前日、杉本少将からもらったビスケットの袋がカバンに入っていることに気がついた。

 それを多田中尉にさし出した。中尉は「ありがとうございます」と丁その寧に礼をいって、両手でそれをおしいただいた。

 

 そして袋をあけるかと思いきや、そのまま隣にいた士官に渡した。その士官も礼をいって両手で受け取ったが、そのまま次席の部下に渡した。

 自分は一個も口にせず、部下へ部下へと渡して行くのである。

 それを見ていた多田中尉が、「この中で一番若いものは誰か」と聞いた。かわいい十七歳の少年がいた。

「貴様がそれをいただけ」中尉はそう命じて、私の方を向き、にっこり笑っていったのである。

「なあに、死にに行くのですから、食べなくてもいいのですよ」

 

 その年の暮れもおしせまって、私は内地出張を命ぜられ、海軍省に多田中将を訪ねて、そのことを報告した。

 中将は丁寧に礼をのべて、こういった。

「実は特攻隊のようなものがつくられるときは、まっさきに志願するように言ってあったのです」

 と、私は倒れるような思いだった。

 その時、最後にビスケットの袋を渡された少年。それは予科練出身の直掩機の搭乗員だったが、戦後三十年の今夏、私の家を探して電話をかけてきた。

 あれから出撃十六回、武運あって生き残り、今、名古屋で町工場を経営しているという。

 鈴村善一さん。

 マバラカットにフィリピン人の人々が昭和四十九年三月、神風特攻隊の記念碑を立てた。

 戦後三十年、その祭典に来て下さいというのであった。フィリピンには行けなかったが、特攻観音の彼岸会に再会した>

(P二百十六〜二百十七)

 

 この時、出撃され散華された方は手元にある「写真集 特別攻撃隊」(図書刊行会 昭和五十五年刊)によれば、

 第三神風特攻(第一連合基地航空部隊で編成された戦闘機主体の特攻隊)

 第二次朱雀隊 

 昭和十九年十一月九日出撃

 場所 フィリピン ラモン湾

 

 多田圭太中尉

 

 伊藤忠夫二飛曹

 の二名の御名前が確認できました。

(搭乗機不明)

 

 特攻、それは悲惨な作戦であり、その作戦は批判されるべきだが、我が国を守る為に散華された先人の事は、我が国国民は忘れてはならないものであると思う。

 

 龍星さん、Hさんと来店。小胡子さん来店。ご近所のお住まいの女性の方来店。Tさん来店。

 営業終了後、高円寺のイタリアンにてマルガリータさんとドンチャン。

 その後、中野の「石松」さんにてドンチャン。


 

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