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佐久間勉大尉

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


<恵氏の指摘「現在の自衛隊教育に対しての懸念」>
 恵氏は著書で、指揮官の判断の対照として、工藤俊作海軍中佐の行動と平成七年一月一七日の阪神・淡路大震災の時に、現地の惨状の把握しようともせずに、あろうことか東京で財界関係者と朝食をとっていた陸上自衛隊最高指揮官である歴代最低のボケ首相の村山冨市とともに、自衛隊法を墨守し部隊行動を即座に起こさず、多くの住民の方々が犠牲になったとして陸上自衛隊中部方面総監松島悠佐陸将(防大五期)をあげています。
 そして、恵氏は現在の自衛隊幹部教育が術科教育(実務教育)偏重に陥っている事をも指摘し、有事に際し工藤艦長のようなリーダーシップが的確に発揮されるかどうか疑問視されていると書いています。
 その象徴的な出来事として、海上自衛隊幹部候補生学校で、校長が帝国海軍出身者から防衛大学出身者に引き継がれて以来の出来事として、各自習室に掲示されていた三人の写真の撤去をあげています。その三人とは東郷平八郎元帥、広瀬武夫中佐、佐久間勉大尉であり、いずれも帝国海軍の象徴的人物であるだけでなく、我国だけでなく列強海軍軍人より今でも敬意を払われている人物なのです。

 佐久間勉大尉(三十一歳、海兵二十九期)は、明治四三年四月十五日、広島湾で潜水訓練中の第六号潜水艇(五七トン)が事故で沈没した時の艇長であった。
 酸素が消耗していく艇内で遺書をしたため、天皇に対し、潜水艇を沈めた責任を詫びた後、「部下の遺族をして窮するものなからしめ給わらんことを」と結び、さらに事故の原因、改良すべき点について呼吸が停止するまで記録していたのである。これを読んだ明治天皇は、感泣されたという。
 当初海軍は、事故後、艇を引き揚げハッチをあける際、凄惨な状況が呈されているものと恐れていた。ところが、艇内には、艇長以下十四名全員が各配置についたまま従容と最後を遂げていたのである。
 英国海軍でも同様な事故が起きていたが、水明かりの洩れる窓の下に士官兵が折り重なって死んでいた。
 佐久間艇の船体は、海軍潜水学校に運ばれたが、関係者は、御神体に触れるかのように船体を神妙に扱った。
 この模様は全国に伝えられ、公開された佐久間艇長の遺書は我国国民の胸をうった。また、日本帝国海軍は、海軍礼装を着用した佐久間大尉生前の写真を公表した。
 このことは昭和二年以降終戦直後まで、「尋常小学校終身教科書六」の「第八科・沈勇」に掲載されていた。
 ところが、日本が再起できないように、日本人の精神面よりの破壊をするために、戦後進駐軍により削除され、潜水学校に展示保存されていた佐久間艇は解体された。

 昭和三十一年、「ニューヨーク・タイムズ」記者で、ピュリッツアー賞受賞作家、米国海軍兵学校出身の軍事評論家ハリソン・ボールド・ウィン氏による、その著書「海戦と海難」の中に「日本六号潜水艇の沈没」として章を設けて佐久間艇長の遺書を紹介し、「佐久間の死は、旧い日本の厳粛なる道徳、サムライの道、または武士道を代表したもの」と強調したのである。
 このことによって、カリフォルニアの高校教科書「リーダーシップ」の項にこの佐久間艇長の行為が引用された。

下記はその佐久間艇長の遺言です。
『佐久間艇長遺言』
 小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す,誠に申し訳なし。されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着にことを処せり。我等は国家のため職に斃れしと雖も唯々遺憾とする所は天下の士はこれを誤り以って将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるやを憂ふるにあり。希くば諸君ますます勉励以ってこの誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされんことを。さすれば我れ等一も遺憾とするところなし。

   沈没の原因
 瓦素林潜航の際過度深入せしため「スルイスバルブ」をしめんとせしも途中「チェン」きれ依って手にて之れをしめたるも後れ後部に満水せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり。
   沈据後の状況
 一,傾斜約仰角十三度位
 一,配電盤つかりたるため電灯消え,電纜燃え悪瓦斯を発生呼吸に困難を感ぜり。十五日午前十時沈没す。この悪瓦斯の下に手動ポンプにて排水に力む。
 一,沈下と共に「メンタンク」を排水せり,灯消えゲージ見えざれども「メンタンク」は排水し終われるものと認む。電流は全く使用する能わず,電液は溢るも少々,海水は入らず「クロリン」ガス発生せず唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。
  (后十一時四十五分司令塔の明りにて記す)
 溢入の水に浸され乗員大部謂?[ふ。寒冷を感ず。
 余は常に潜水艇員は沈置細心の注意を要すると共に大胆に行動せざればその発展を望む可からず,細心の余り萎縮せざらんことを戒めたり。世の人はこの失敗を以って或いは嘲笑するものあらん。されど我れは前言の誤りなきを確信す。
 一,司令塔の深度計は五十二を示し排水に勉めども十二時迄は底止して動かず,この辺深度は十尋位なれば正しきものならん。
 一,潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す,かかるときに困る故。幸ひに本艇員は皆よく其職を尽せり,満足に思ふ。
 我れは常に家を出づれば死を期す。されば遺言状は既に「カラサキ」引出の中にあり(之れ但私事に関すること,いふ必要なし,田口,浅見兄よ之れを愚父に致されよ)
   公遺言
 謹んで
 陛下に白す 我部下の遺族をして窮するものなからしめ給はらんことを,我が念頭に懸るもの之あるのみ。
左の諸君に宜敷(順序不順)
斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将
(気圧高まり鼓膜を破らるる如き感あり)
小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜) 松村少佐(菊)
                           (小生の兄なり)
 船越大佐
 成田鋼太郎先生 生田小金次先生
 十二時三十分呼吸非常にクルシイ
 瓦素林ヲブローアウトセシシ積モリナレドモ,ガソリンニヨウタ
 中野大佐
 十二時四十分なり

 英国海軍はこの佐久間大尉の遺書を英訳し、現在も潜水艦乗組員の精神教育のテキストとして使用している。
 恵氏自身も、一米海軍大佐より「私は幼少の頃から、軍人だった父親から、日本海軍について敬意をもって教わった。ところが、海上自衛隊士官に戦史を尋ねてみると、まったく知らない、いったいどういう将校教育をしているのだ」と質問された事があったそうです。

<工藤俊作の生い立ち>
 工藤俊作は、明治三十四年一月七日、山形県東置賜郡屋台村竹森、現在の高畠町大字竹森で父七次三十三歳(大正十一年、七郎兵衛襲名)、母きん二十九歳の次男として生まれた。
(七歳年上の兄新一、十歳年上の姉きんがいた)

 工藤の幼年期に最も影響を与えたのは、祖父七郎兵衛であった。
 祖父は寺子屋で教育を受けており、士族に負けないほどの博学であった。算術と漢学が得意で、とくに漢学は武田竜湖の薫陶を受けていた。
 この祖父は、明治十九年八月、長崎に入港した清国海軍水兵が市民に暴行をはたらいた事件と、五年後、清国海軍の軍艦六隻が神戸と横浜に入港したことを知った時「日本は、本格的海軍を持たないと、隣邦にさえバカにされる」と発言していたという。
 その後、日清、日露の両戦争で、海軍が勝利の決定的要因を占めたことを知って、自分の考えに間違いなかったことを確認した。そして、孫の俊作を何としても海軍に進めたいと思うようになった。
 祖父が幼少の頃、アジアは列強の侵略を受け、蚕食され尽くしていた。わが国も列強から不平等条約を押し付けられて、辛うじて独立を維持する状態にあった。
 祖父九歳の時、幕府は、ペリー提督率いる米国艦隊の威嚇に屈して日米和親条約に調印、その結果権威を失墜した。
 祖父二十二歳の時大政奉還、これに続いて発足した明治新政府と、東北諸藩が対立して戊辰戦争が勃発する。まさに動乱の時代を祖父は生きてきた。
 一方、ロシアは満州を占領し朝鮮半島に迫ったため、明治三十七年二月十日、日本はロシアに宣戦を布告、翌年五月二十七日、東郷平八郎大将(英国ウ−スター商船学校卒)が指揮する日本帝国連合艦隊は日本海においてバルチック艦隊を破り、一躍世界五強国の一つになった。

  工藤俊作は明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学。明治四十三年四月十五日に先に書いた佐久間艇長乗り組む第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、佐藤貫一校長が、佐久間艇長の話を朝礼で全校生徒に伝え、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。
 佐久間艇長の遺書を読む佐藤校長の声は涙で途切れ、校内は厳粛な雰囲気に包まれたという。
 工藤はこの朝礼の直後、担任の淀野儀平先生に「平民でも海軍仕官になれますか」と尋ねている。淀野先生は「なれる」と言い、米沢興譲館中学への進学を勧めた。
 この時代、小学校の身上書には「士族」か「平民」かを記載する欄が設けられていた。
 工藤は、三学年後半から、猛然と勉強するようになり、屋代尋常小学校創立以来の高得点を維持し続け「神童」と称されるほどになっていた。
 大正四年三月、屋代尋常小学校高等科卒業時には、同期三十六名代表として答辞を読んでいる。

 工藤は米沢興譲館中学に大正四年四月七日に合格順位三位で入学した。(正式名称は山形県立米沢中学校)米沢興譲館中学はその元を旧米沢藩の名君第九代藩主鷹山(上杉治憲)により明和八年(一七七一)に藩校として設立されたもので、「興譲館」と正式に命名されたのは、創立から五年後の安永五年(一七七六)九月一九日である。
 明治に入り山形県立米沢中学校となり、米沢士族の学校としてステイタス・シンボル的な学校で、海軍大将三名、中将一六名、少将一二名を輩出している。この数は旧制中学では群を抜いている。軍人のみならず戦前財界のトップリーダーであった池田成彬、民法学者の我妻栄、国際ジャーナリストのカール・カワカミなどである。
 工藤は五年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約三キロの道のりを徒歩で通学した。
 工藤は兵学校進学希望者の進路指導担当であった英語教師の我妻又次郎(我妻栄の父)の熱心な教えもあり、難関中の難関である海軍兵学校には興譲館の入学成績が一位、二位の級友の小林英二、近藤道雄とともに進んでいる。

 当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。

 日本の兵学校の凄さは、欧州のそれが貴族の子弟しか入校できなかったのに比べて、学力と体力さへあれば、誰でも入校できたことである。しかも、入学資格は、中学四年終了程度とされていたが、戦前義務教育課程であった高等小学校しか出ていなくとも(現在の中学校卒業相当)、専検に合格さえすれば受験できた。
 高木惣吉少将(海兵四三期)は専検合格の学歴で入学した。
 その所在地より英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていた。


<工藤俊作の生い立ち 海軍兵学校の教育>
 工藤俊作は海軍兵学校五一期として大正九年に入校する。この時代は八八艦隊構想により、入学人員の大幅な増員により二九三名だった。
 海軍は徴兵制の戦前においても、一水兵に至まで志願制で、海軍独特のリベラリズムの気風があった。とくに海軍兵学校は「士官たる前に紳士たれ」とされ昭和二十年十月に閉校するまで継承されたライフスタイルは、長髪をゆるされ、英国流で洗練されていた。
 この「敵兵を救助せよ」の著者である恵隆之介氏が引用されている写真集に書かれている言葉がある。幸いなことに私もこの写真集を持っているので、恵氏の引用文より少し長くなるが引用させていただく。「海軍兵学校」(真継不二夫 国書刊行会 昭和五三年 初版は大東亜戦争中に出版されたものであり、これは回天の考案者のひとりである仁科関夫中尉の遺筆となった書き込みをそのまま復刻させたもの)には、海軍兵学校生徒の印象について真継氏は次のように書いている。
「兵学校に来て、私が強く印象づけられたのは、生徒の顔の端正なことである。これほど揃って、整った容貌を持つ聖徒が、他の学校にいるであろうか。眉目清秀の謂いではない。精神的なものの現れた、きびしい美しさである。鍛えたものの美しさだといってもよい。無垢で、清純で、玲瓏である。そして、ここには一号、三号、四号の段階を、明瞭に現している。清純なうちに可憐さを残す四号生徒に比して、一号生徒には鍛えたものの美しさが一層強く現れている。環境は人をつくるというが、私は兵学校へ来て、男の男らしい美しさを見た」
(「写真集 海軍兵学校」あとがき 海軍兵学校を撮る p一二八)
 
 鈴木貫太郎中将(海兵一四期)が校長として赴任し、約半年の十一月末までであるが工藤たち五一期はその影響を強く受けていくこととなる。
海軍兵学校校長に着任した鈴木は、大正八年十二月二日、兵学校の従来の教育方針を大改新を敢行する。
・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

 日露戦争以降、兵学校の校風は、スパルタ式訓練が定着し、上級生による鉄拳制裁が恒常化していた。
 ロシア革命の原因を引用し、「ロシア軍将校による兵への慣習化した殴打が主因であった」と強調して、将来、部下指導の際の戒めとした。
そして、こう力説した。
「日本の下士官兵は諸外国に比べて品行方正、優秀である。また、日本古来の武士道には鉄拳制裁はない。これらの観点から、部下指導には公務のための威厳を主とする時は別として慈愛をもって臨め、鉄拳制裁は一種の暴行である」(要約)
 工藤ら五一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。

鈴木中将は、大正八、九年の両年にわたって、明治神宮鎮座祭当日に「明治天皇の御遺徳を偲び奉る事に就いての訓話」を行っている。この祭、
明治天皇御製、
「 四方の海皆はらからと思ふよに
                など波風に立ちさわぐらん」
を披露し、明治天皇の「四海同胞」の精神を称えている。
 鈴木中将はこの時、明治天皇が、水師営の会見の際、「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語っている。
 大正六年三月八日、ロシア黒海艦隊で水兵の反乱が起きた。その際に水兵が、司令官アレクサンドル・コルチャコフの指揮刀を取りあげようとしたところ、「旅順で自分を捕らえた日本軍でさえ、この刀を取り上げはしなかった」と発言、直後に自らそれを海に投げ捨てている。

 昭和一九年夏、海軍兵学校を訪ねた鈴木は、時の井上成美校長に「井上君、兵学校教育の本当の効果があらわれるのは、君、二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」と繰り返し言っている。
 井上も敗色濃厚な時代ではあったが、兵学校のカリキュラムを普通学に重点を置いたエリート教育を行った。恵氏は、工藤俊作の兵学校在学中に最も影響を与えた人物は、この鈴木貫太郎中将をあげ、その発言したとおりに、二十年後、大東亜戦争中に開花し、それを最も具体的な形で示したのが工藤俊作であると書かれています。(p九一)

 ちなみに、いわゆる「五省」
 一ツ 至誠に悖るなかりしか
 一ツ 言行に恥ずるなかりしか
 一ツ 気力に欠くるなかりしか
 一ツ 努力に憾みなかりしか
 一ツ 不精に恒るなかりしか
 満州事変勃発から七カ月後の昭和七年四月二十四日、軍人勅諭下賜五十周年を記念して、生徒自習室に東郷平八郎元帥謹書の勅諭を掲げた。これと同時にこの五省が始められたので、工藤俊作の在校時にはなかった。

裏表紙