このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

 

 

杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<酒たまねぎや 飲んべえ日記

 

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます

Facebook(木下隆義)、Twitter(@saketamanegiya)を始めました。でも、いまいち使い方がよくわかりませんのでちびちびやって行きます。よろしければ、友人リクエストをお願いいたします。

Mixiでの当店のコミュニティは「神楽坂のお洒落でない一杯飲み屋」

管理人はめぐろのしみずさんです。

Mixiでの私自身のハンドルネームは一合です。

一合とっくりのつもりですが、酒はそれでは終わりませんのでいろいろと問題が・・・・・最近は時事的な事は書き易いので、ついついフェイスブックの方に書いております。よろしければ、ご覧下さい。もっと、よろしければ、当店のコミュニテイに参加してください。もっと、もっと、よろしければ、マイミクに。

 


12月14日日曜日晴れ寒い○

 カミさんの朝ビールならぬ昼ビール。

 キリンのクラフトビール第四弾が届く。

 

 

 都内で雪が舞ったそう。

 臨時営業で店を開きながら、

 二名様来店。

 二名様来店。

 営業終了後、選挙の結果を見守りながら、

 「東一 選抜酒」の在庫整理。

 平成七年から今年度まで。

 今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。

 

_____________________________________

12月13日土曜日晴れ△

 カミさんの朝ビールの残骸。

 Oさん来店。

 Kさん来店。

 酔狂師さん来店。

 三名様来店。

 一名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

  __________________________________________________

12月12日金曜日晴れ△

 Tさん来店。

 二名様来店。

 Sさん来店。

 ドンチャン。

 サルよりマシ。

 ラストオーダーの時間も過ぎ、外の灯りも消して、 ブラインドも下してこの状態なのに、 「まだやってますか」と初めてのカップル。 ・・・・・・・ まあ、暖簾も出してない店ですけど、 この状態で営業やってたら恐いわw

 ________________________________________

12月11日木曜日晴れ×

 Iさん来店。

 四名様来店。

 二名様来店。

 三名様来店。

 カミさんはご近所にできたお店にさっさと飲みに出かける。

 私は営業終了後合流しドンチャン。

 カミさん共々記憶なし。

 夫婦揃ってサル以下。

___________________________________________________________________

12月10日水曜日晴れ△

 外国人であるお前からは言われたくはない。

 このくそドアホウ。

 小胡子さん二名様で来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 Aさん来店。

 サクさん二名様で来店。

 ドンチャン。

 サルよりマシ。

____________________________________

12月9日火曜日晴れ×

 期日前投票

 三名様来店。

 Yさん来店。

 Sさん三名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶なし。

 サル以下。

_________________________________________

バイブレーター辻元(または辻元清美)

12月8日月曜日晴れ△

 レンタルサーバーより今日来たメールです。

 <早速ですが、お客様が開設されておりますWEBサイトの内容につきまして、弊社に対して、以下の通り、当該情報の送信を防止する措置を講じる依頼がございました。

 現時点では、連絡元の情報については公開できませんのでご了承ください。

 ---------------------------------------------------------------

 あなたが発信した下記の情報の流通により権利が侵害されたとの侵害情報ならびに送信防止措置を講じるよう申し出を受けましたので、特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律(平成13年法律第137号)第3条第2項第2号に基づき、送信防止措置を講じることに同意されるかを照会します。

 本メールが到達した日より2日を経過してもあなたから送信防止措置を講じることに同意しない旨の申し出がない場合、当社はただちに送信防止措置として、下記情報を削除する場合があることを申し添えます。

 また、別途弊社契約約款に基づく措置をとらせていただく場合もございますのでご了承ください。

 なお、あなたが自主的に下記の情報を削除するなど送信防止措置を講じていただくことについては差し支えありません。

                                  

 掲載されている場所        : http://www.tamanegiya.com/tujimotokiyomi18.6.14.html

                              http://www.tamanegiya.com/tujimototobaibure-ta-.html

                              http://www.tamanegiya.com/tujimotokiyomibaikokudo.html

 掲載されている情報        : 辻元清美がバイブレーターと一緒に写って

                              いる写真

 侵害されたとする権利      : 名誉毀損および誹謗中傷による選挙妨害

 権利が侵害されたとする理由: 合成写真であり、いずれも事実と異なる

 以上>

 この辻元清美関係者が文句をつけてきた写真は売国奴である辻元清美が先日逮捕された北原みのり主催のイベントで自分で選んだバイブレーターにサインし、そのバイブレーターをオークションにかけたことは辻元清美自身も認めています。

バイブレーターに関するデマについて

http://www.kiyomi.gr.jp/info/17/

<作家の北原みのりさんが主宰する女性イベントで、オークション用として依頼されサインしたものです。>

 このイベントで、「国会議員でありながら国民の生命と財産を守るつもりはない」  「国家の枠を崩壊させる」 とほざいた辻元清美。

 こんな人間のクズが国会議員に立候補しているのです。

 こんな人間の屑を国会に送り込んだら我が国国民の恥です/でっ、その写真はあかんようなので、別の写真がネットにあったので、貼ります。

 あほらし

 店を片付け、夜はカミさんと「沙漠乃月」さんとビールバー。

 店に寄り資源ゴミを出して帰宅。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

___________________________________________

12月7日日曜日晴れ△

 「酒たまねぎや飲んべえの会 磯自慢 愛山十年の垂直」

出品酒 

NO.1  磯自慢 純米大吟醸古酒 中汲み35% アダージョ

NO.2  磯自慢 純米大吟醸 中汲み35% 平成26年(25BY)

NO.3  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (16BY)

NO.4  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (17BY)

NO.5  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (18BY)

NO.6  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (19BY)

NO.7  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (20BY)

NO.8  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (21BY)

NO.9  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (22BY)

NO.10  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (23BY)

NO.11  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (24BY)

NO.12  磯自慢 純米大吟醸 愛山40% (25BY)

NO.13  磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 古家 (25BY)

NO.14  磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 常田 (25BY)

NO.15  磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 西戸 (255Y)

NO.16   磯自慢 大吟醸   愛山50% (25BY)

NO.17   磯自慢 大吟醸   山田錦45%           (25BY)

NO.18   磯自慢 純米吟醸 多田信男 山田錦50%    (25BY)

NO.19   磯自慢 純米大吟醸 雄町 蔵元さんよりのご提供

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドンチャン後、神楽坂のお好み屋さんに移り二次会。

 解散後、カミさんともう一軒ハシゴ。

 

 

 店に帰り、後片付け後に帰宅。

 一応記憶あり。

 サルよりマシ。

___________________________________________________

12月6日土曜日晴れ△

 今朝、河岸の場内に入り込んで、「直ちに出て行きなさい」という放送を無視して居続けた腐れマイクロバス。

 

 仕入れを終わってもそのマイクロバスはそのままだったが、運転手は戻ってきていました。

 

 放送は聞いていただあろうが、無視し続けるくそドアホウ。

 三十年近く河岸に通っていて、こんなクソ会社初めてです。

 「Byung-Byung Tours」

http://www.byungx2.com/jp/

 ふ〜ん「ビュンビュンツアーズ」代表は朴 炳奎さんか。

 http://www.dj-tabi-club.jp/wp/author/256

 で、過去に営業停止もくらっているらしい。

https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/page3/kasikiri/date/23/2312/kasikiri2312_1206.pdf

 で同じ大田区の民団の幹部に同じ名前があります。

 <大田支部・第1回青年セミナー開催(2005.7.9)東京大田支部(朴憲哲支団長)は、7月9日午後6時より支部会館三階会議室において、民団大田支部青年会結成準備委員会(朴炳奎委員長)主催の青年を対象にした第一回青年会セミナー(従軍慰安婦問題ーその意味と現状ー)を開催した。>

http://www.mindan-tokyo.org/product/nihongo/active/2005/2005-7-9.htm

 あほらし

 

 今日のカミさんの朝ビール。

 

 四名様来店。

 二名様来店。

 一名様来店。

 Sさん来店。

 ドンチャン。

 営業終了後、明日の準備。

_______________________________________________________________________________

12月5日金曜日晴れ△

  磯自慢アダージョ、三十五の第一弾が到着。

 目黒の清水さん来店。

 ひとり磯自慢三十五の四年垂直。

 M先生が四名様で来店。

 バンブーさん来店。

 Aさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。 

 サルよりマシ。

_________________________________________________

12月4日木曜日晴れ△

 早稲田から神楽坂に移ってきた十九年前からお世話になっている宮内さんが、イタリアの醸造かの方お二人と来店。

 名古屋よりOさん来店。

 へべれけさん、ぐでんぐでんさんにパソコンとホームページのメンテナンスをしていただく。

 当店のホームページは近々移転いたします。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

_________________________________________________________________________________

12月3日水曜日晴れ△

 また、朝鮮人らしいニュースです。

 <韓国国会、本会議で「ヘイトスピーチ」根絶要求決議を採択

2014.12.3 00:48産經新聞

韓国国会は2日の本会議で、日本で在日コリアンらに対して行われる「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」や「嫌韓デモ」と呼ばれる人種差別的な街宣活動の根絶に向けた具体的措置を日本政府に求める決議を採択した。

 決議は街宣活動を行う「在日特権を許さない市民の会(在特会)」を名指しし、人種差別的な街宣活動は「表現の自由ではなく、在日同胞に苦痛と傷を残す暴力であり反人道的な行為」と指摘した。(共同)>

<「日本政府は嫌韓デモ根絶を」韓国国会委員会決議

 聯合ニュース 2014/12/01 13:33

 韓国国会の外交統一委員会は1日、最大野党、新政治民主連合の沈載権(シム・ジェグォン)議員が代表発議した「日本の嫌韓デモ根絶に向けた要求決議案」を可決した。

決議では「日本の『在日特権を許さない市民の会』(在特会)を中心に行われている嫌韓デモは、在日韓国人の安全と生計を脅かし、彼らに対する暴力であり殺人的犯罪行為である点を明らかにする。

日本政府には嫌韓デモを防ぐための具体的な措置を講じるよう求める」 としている。

「殺人的犯罪行為」という表現については外交問題、また品格の問題になりかねないとして修正が検討されている。また決議では、韓国政府に対しても日本政府がヘイトスピーチ(憎悪表現)への対策を講じるようより積極的な働きかけを行うことを求めている。  >

  アホか、バカか、気違いか、朝鮮人か!

 朝鮮人が日本人を嫌うのはいいが、日本人が朝鮮人を嫌うのは許せないというのです。

 反日を国是とした自分たちがいままでどういう行動をとってきたか。

 なぜ、朝鮮人が世界中で嫌われているか。その理由を理解し、自分達でその原因を改めない限り、朝鮮人が人間のクズ、ゴミと言われ嫌われる事があっても尊敬される事は永遠にありません。

 

 アホ朝鮮人の典型↓

 

 知れば知るほど嫌になる我が国の寄生虫・朝鮮人

 

 あほらし

 一名様来店。

 三名様来店。

 Sさん四名様で来店。

 Sさん来店。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

_________________________________________________

12月2日火曜日晴れ○

 台北の市場にて朝食。

 

 

  台湾は犬も放し飼い。

 ホテルで食べようと市場で買ってきた果物。

 右より(左よりは個人的に嫌)釈迦、レンブー、台湾オレンジ。

 ちょっと変わった喫茶店「秋恵文庫 台湾歴史文物館」へ

 

 

 

 

 

 オーナーの林さんのお父上は台中市出身で、松本高校から東京帝国大学医学部。母上は昭和女子大出身。兄さんは外科、お姉さんは美容外科、林さんご自身も長野県の松本歯科大学、東京医科歯科大学博士課程で学んだ後松本歯科大学助教授を務められたというお医者さん一家。

 興味深い面白いものが山ほど。

 カミさんがちょっとおかしいと指摘したポスター。

 日本時代のポスターのはずなのに、手に持っている本が「中華民国七年」となっている。

 

 空港にてチェックイン後、「鄭南榕紀念館」へ

 

 

 

 台湾独立運動家である鄭南榕氏については改めて書きたく思います。

 

 帰国後店に寄ってから帰宅。

 今日は酒は飲まず。

 届いていたカミさんのスマホケース。

_______________________________________________________________________________________

12月1日月曜日晴れのち小雨△

 台北でも同じくカミさんの朝ビール。

 ホテルのレストランでバイキング形式の朝食。

 昼間カミさんの実家に寄った後、夜二軒のドンチャン。

 一件目はいつものみなさんと。

 

 

 

 カミさんは胃薬持参。

 飲む為にはこんなでかいアイスベールの持ち込みもやります。

 

 なんでこんな古い酒を持っているのか。しかも、台湾ではほとんど見る事の無い一升瓶。

 

 いろんな酒が空きました。

 

 

 その後、ユーさんの台北オフィス。

 

 

 バーに移動して、ウン十万円の酒。

 

 

 一応、記憶あり。

 いい加減。

____________________________________________

11月30日日曜日晴れ△

 高雄のホテルでも同じです。

 わざわざ旅行先までこの為のビール用コップを持ってきてまでカミさんの朝ビール。

 

 ホテルの一階での朝食。

 

 

 フェリーにて対岸へ。

 二輪と人だけ乗っけるフェリーです。

 

 目的は「戦争と平和記念公園」

 許昭榮氏(大日本帝国海軍台湾特別志願兵第二期生)がその生涯をかけて建設し、そして焼身自決した場所です。

 

 

 

 許昭榮氏については改めて書きたく思っています。

 

  

 

  

 食事をした後、新幹線で台北へ

 お世話になっているお店「常夜灯」にてカミさんの家族との食事会。

 

 

 ドンチャン。

 一応記憶あり。

 台湾では足元はぞうりが一番。

 

________________________________________________________

台湾へ

11月29日土曜日雨△

 羽田に行くのに乗った京急の車両が支那や朝鮮の劣化文字が出てくる案内板が無い古い車両だったので気持ちがいい。

 あの劣化文字を表示する必要がどこにある。

 支那人朝鮮人どもが住みにくい国が我が国国民にとって住みやすい国です。

  昼の飛行機で台湾へ。

 台北の気温は三一度w

 空港まで迎えに来てくれたカミさんと合流し、新幹線で高雄へ。

 途中、新幹線車中で民進党の大勝利が次々と判明してカミさんは狂喜乱舞。

 夜はカミさんが初めてというビールのお店へ。

 

 でっ、そこでカミさんの知り合いのビールの醸造責任者とバッタリ。

 ビールは二人でそれなりに飲む。

 帰りは豆乳のお店で食事をしてからホテルへ。

 

 台湾が台湾人の元に返ってくることを祈るのみ。

_____________________________________________

アホか

11月28日金曜日晴れ×

 相変わらずアホな事を朝鮮人は書いています。

以下引用

 <【コラム】高倉健死去、哀悼示した中国と無反応の韓国

韓日は「友好的戦争」をすべき

記事入力 : 2014/11/26 11:11

 映画『鉄道員(ぽっぽや)』で知られる俳優・高倉健が他界したというニュースが伝えられた今月18日、中国政府は「われわれは彼の他界に哀悼を表する」という声明を発表した。これを見て「しまった!」と思った。韓国政府はこの日、何らの哀悼の意も表明しなかった。

 「独島(日本名:竹島)や慰安婦問題で韓日関係は最悪なのに、日本の俳優に哀悼だって?」と舌打ちするかもしれない。だが、そんな事情は中国も同じだ。尖閣諸島(中国名:釣魚島)をめぐる対立や南京大虐殺を否定する日本の歴史歪曲(わいきょく)問題では、中国も韓国に劣らず激怒している。先週、日本の安倍首相が「尖閣をめぐって両国間に領土問題はない」と発言したときも、中国は「代価を払うことになるだろう」とあからさまに脅迫した。それでも、高倉健が他界すると、すぐに声明を出したのだ。

「(故人は)中・日両国の文化交流を促進する上で重要かつ積極的な貢献を行った」とたたえた。中国のこうした対応は、国益をめぐって隣国と争いつつも、場をぶち壊しにはしない、という慎重さの表れと解釈すべきだろう。

米国のノンフィクション作家、マーク・カーランスキーが書いた『鱈(たら) 世界を変えた魚の歴史』という本には、英国とアイスランドが、タラの操業権をめぐり、戦争も辞さずと叫ぶ世論の強い声に押されながらも和解を成し遂げたプロセスが紹介されている。アイスランドは、乱獲で近海のタラ漁獲量が急減したことを受け、1958年から75年にかけて計3回にわたり、領海を4カイリから200カイリにまで拡張した。領海に入ってくる英国漁船をアイスランドが拿捕(だほ)すると、英国は軍艦を送り、自国の船団を保護した。両国は船同士をぶつけて激しく争った。しかし一人の死者も出さず、1隻の沈没船も出さなかった。アイスランドは、英国漁船がタラ漁に使う網を130枚も切断するという断固たる姿勢を示したが、最後の「一線」は越えなかった。英国も、桁違いに優れた海軍力を有してはいたが、「勇気を示すことはあっても、蛮勇を振るう必要はない」として実力行使は自制した。交渉のテーブルでは、冗談も飛び出した。英国代表が「木曜日は、われわれが最も好きなテレビ番組を見る日なので、この日だけは漁網を切らないでほしい」とジョークを飛ばすと、アイスランド側も「次の休みに、英国のコーンワルを旅行しようと思っているが、いい情報はないか」と答えた。英国政府は、タラをめぐる対立を「友好的戦争」と呼び、破局を防ぐため努力した。

 韓国と日本の間にも、これと似た経験がある。2011年3月11日の大地震で、韓国は恨みの感情をひとまず押しとどめ、国民の募金まで送って日本を支援した。同年4月、当時の菅直人首相は、「絆」に感謝する広告を本紙に載せた。

 来年は、韓日国交正常化50周年に当たる。両国間には、解決せねばならないわだかまりと同じくらい、交流と協力を通じて互いにプラスにできる分野が多い。幸いなことに、日本では、これまでの嫌韓を反省する動きが起こっている。こういう時に、両国が共に関係改善の道を模索すべきだ。その必要性をいち早く見抜いた中国は、高倉健への哀悼声明で先手を打った。

金泰勲(キム・テフン)ニューメディア室次長

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 >

 アホかと。

 何を恩着せがましくクソ朝鮮人がホザクか。

 南朝鮮が東日本大震災の時にやった事。

 支那と南朝鮮の救援隊だけを国賓待遇で反日民主党政権が迎えたが、その南朝鮮の救援隊は五人と犬二匹。

 そして、各国のセブンイレブンに設置された義援金箱では、台湾では総額三億三六八万円(一店舗あたり六万三千八百九十二円)の義援金に対して、総額で七四万円、一店舗あたり二一七円もの義援金をくださった。

 義援金については反日民主党政権の時であったから明らかにしていませんが、産經新聞の黒田記者は根拠も示さずに「南朝鮮は三番目の金額である」と書きました。

 追悼式も欠席しました。

 そして、我が国を辱めるデモや行い。

 

 「朝鮮人売春婦帰れ」のどこがヘイトなのか。

 知れば知るほど嫌になる我が国の寄生虫・朝鮮人

 あほらし

 さっさと断交が一番。

 バンブーさん来店。

 Sさん来店。

 Uさん六名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶なし。

 サル以下。

____________________________________________

11月27日木曜日雨○

 昨日の事です。

 午後三時頃店の近所の八百屋さんに買い物に行っての帰り、そんな時間にゴミを出しているアホ女二人。

 今頃何やってるんだ。ゴミを出していい日でも時間でもないだろうに。

「・・・・・・・・・」

 何よりもゴミの分別もしてないだろうに。

「置いておいたら部屋が汚くなる」

 そのなの知るか、アホ。お前ら何人だ。

「外国人です」

 アホか。外国人なんて人種あるか。どこから来たんだ。どこの国だ。

「・・・・・・・・」

 自分の国も言えないのか。支那か、朝鮮か。

「中国です」

 外国に来てこんな事やって恥ずかしくないのか。支那人としての誇りはないのか。ルール守れよ。 

「でも、その時間はゴミ出しできない」

 夜の遅い時間か朝早く起きて出せばいいだろうに。

「夜も朝も出来ない」

 なんでだ。

「仕事で」

 夜から朝までの仕事って何だ。お前ら学生と違うんか。

「・・・・・・違う」

 じゃあ、日本に滞在しているビザはなんなんだ。仕事できるんか。

 夜から朝までの仕事で支那人にビザが出るんか。

 仕事は何やってるんだ。

「・・・・・・・・・」

 答えずに、ゴミ袋二つを持って住んでいる建物に消えて行きました。

 こんな注意書き書くんだったら、支那語と朝鮮語の劣化文字で表示すべきです。

 

 あほらし

 二名様来店。

 二名様来店。

 今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。

______________________________________________

11月26日水曜日雨△ 11月27日追記

 以下特攻隊慰霊顕彰会会誌「特攻 第六号」(昭和二年三月二五日)より

<トルコでは遺族や親族は

 戦没者の愛国的行為を誇りとしている

 第三十八回特攻平和観音年次法要(平成元年九月二十三日)における駐日トルコ大使館付武官ジェンギズ・アルポズ海軍大佐のスピーチ(要旨)

 特攻という偉大な行為の為、祖国に身命を捧げられた英霊を供養する、このような意義深い行事に参列できますことは、外国人の私にとりまして身に余る光栄であります。

 特攻隊員は、再び生還する可能性のない任務を敢然として遂行し、祖国に殉じられたのであります。このりっぱな功績に対し、私は同じ軍人として、心からなる尊敬を捧げる者であります。

 私は回教徒であります。回教では、祖国に身命を捧げて散華した、いわゆる戦没者は、そのまま天国、すなわち神の国に行くと信じられております。

したがって、その遺族や親族は、その戦没者の愛国的行為を常に誇りにしております。私は、本日ここにお集りの御遺族ご友人の皆さんも、この点についてはご同様であろうと信じて疑いません。

 私どもの国トルコでは、日本人は、誇り高く献身的であり、勤勉で愛国的な国民であるということがよく知られております。そして、我々トルコ人もまた、このような特性を持った民族なのであります。この日本人とトルコ人との共通性が、これまで永く両国が親密な国際関係を続けていたゆえんであります。

 トルコでは、今でも統合提督と乃木将軍が有名であります。殊に乃木将軍は、明治三十七〜八年の日露戦争において、御令息二人を含む二万名を超す犠牲を冒して旅順を攻略されました。

その際の決死隊の敢闘精神は、先の大戦における特攻隊に引き継がれた者と信じ、トルコの人々は今でも、日本人に対する敬愛の念を失ってはおりません。

 かってオスマントルコ帝国の末期、我々の祖国は敵の手によって占領されましたが、現代でもアタチルク(国民の父)と崇められている、ケマルパシャという英雄に率いられた、無名の愛国者達の勇敢な戦いによって、全土から敵を追い払い、トルコ共和国を建設することができたのであります。この勝利の一因として、日露戦争における日本の決死隊の勇猛果敢な働きに、トルコ人が勇気付けられたことがあったものと私は信じております。

 したがって、私は祖国の為に身命を惜しまなかった人々に、最高最大の感謝と敬意を捧げなければならないと思う者であります。

 最後になりましたが、この行事にご招待いただき、ごあいさつの機会まで与えられました事に、深く感謝申し上げます。

 ここに、特攻によって祖国を救うために散華された英霊のご冥福を心からお祈り申し上げまして、私の拙いご挨拶を終る次第であります。

                      文責訳者・上坂康氏(海兵七十五期)>

 

 

 ジェンギズ・アルポズ海軍大佐のいう旅順における決死隊とは白襷隊のことである。

 白襷隊は、総勢三千百余名による第三回総攻撃における特別支隊であって、夜襲の際、味方を識別するために将士ともに白襷を掛けていたことに由来する。

 

 指揮歩兵第二旅団長中村覚少将 参謀 第七師団蟻川五郎作少佐

 第一師団特別連隊長大久保直道中佐(歩兵第十五連隊長)

  大隊長中原松之助少佐 山田記慣少佐

 第七師団砲兵第二十五聯隊 連隊長渡辺水哉大佐

  大隊長松本浩少佐 平賀正三郎少佐

 第九師団歩兵第三十五聯隊第三十五聯隊第二大隊 大隊長代理田中武雄大尉 工兵第九大隊一小隊 小隊長中山岩吉中尉

 第十一師団歩兵第十二聯隊 一大隊 大隊長児玉象一郎少佐

  

 

 写真は「日露戦争陸戦写真史」(人物往来社 平成九年刊)より

 

 ジェンギズ・アルポズ海軍大佐の言うとおり、この旅順における白襷隊の血は大東亜戦争にて連合軍を震え上がらせた特別攻撃隊へと受け継がれて行きます。

 以下、西村眞悟先生の平成二十年の「西村眞悟の時事通信」よりの引用です

<十一月二十六日の白襷隊三千名

平成20年11月26日(水)

 昨日十一月二十五日は、三島由紀夫と森田必勝自決の日である。昨日の東京の日差しは、三十八年前の十一月二十五日に京都の大文字山麓にある学生寮の玄関にさしていた日差しと同じであった。その時、私は寮に戻ろうとしていた。すると、玄関から寮生が飛び出してきて、私に「三島さんが、防衛庁に討ち入っている」と言った。彼を見つめながら、私はとっさに三島さんは死ぬ気だと思った。その時の彼の顔には、晩秋の陽がさし、木々の葉の影が浮かんでいた。その影の形を今も覚えている。

 

 そして、翌十一月二十六日の今日は、明治三十七年に三千名の白襷隊が旅順要塞に銃剣で突撃して消滅した日である。

 この白襷隊と呼ばれた特別部隊は、中村歩兵第二旅団長の意見具申により、夜間に刀と銃剣で旅順の敵陣に攻め込むために編成された。目印の為に全員白襷をかけていた。

 しかし、旅順要塞は鉄壁の堅城であった。

レーニンが、旅順はクリミア戦争の帰趨を制したセバストーポリ要塞を六つ集めたほどの堅固な要塞だと書いたとおりであった。

 果たして、この日の朝八時に始まった第一、第九及び第十一の各師団による旅順要塞への第三回総攻撃は、ことごとく失敗に終わった。そして、この報告を受けた乃木希典軍司令官は、遂に白襷隊に攻撃を命令する。国家存立のためには、如何なる犠牲を払おうとも、旅順を陥落せしめねば成らないと言う乃木軍司令官の決意が白襷隊への命令となった。

 集合した白襷隊の写真が残っている。死を数時間後に控えた彼らの姿を見るとき、私は言いようのない感動を受ける。こみ上げてくるような慟哭である。目頭が熱くなることもある。この写真は、私がもっとも衝撃を受ける写真である。

 そして、旅順要塞陥落に際して、白襷隊が如何なる役割を果たしたかを振り返るとき、日本人は、決して、この十一月二十六日を忘れてはならないと思うのである。

 確かに、司馬遼太郎氏は「坂の上の雲」を書いた。これは同氏の功績であることは認める。そして、この本はよく読まれた。しかし、よく読まれたが故に、日露戦争の実相を日本国民の目から隠すこととなった。

 何故なら、司馬遼太郎氏は、「坂の上の雲」で、第三軍司令官の乃木希典を無能の司令官とし、白襷隊の突撃を司令官の無能による兵の無益な消耗と書いたからである。

 従って、この「坂の上の雲」によって、日本人は、武士道に生きたもっとも崇高な武人への敬仰の念と身を棄てて国家を救った英雄を奪われたと言ってもよい。

 この民族の叙事詩を取り戻すためにも、白襷隊が旅順要塞に突撃した十一月二十六日を忘れてはならないと思う。

 白襷隊三千名は、十一月二十六日午後六時に行動を開始し、同九時頃より旅順要塞北側の松樹山方面の要塞に猛然と突入した。近代要塞に、刀と銃剣で突入したのである。そして、一挙に二千名の死傷者を出して隊として消滅した。

 司馬氏はこれを以て無謀と言い、司令官の無能、無能による無益な殺生と言うのであろう。

 しかし、日本国家存立にとって旅順陥落が如何なる意義をもっているのか、また、旅順陥落のために白襷隊が果たした役割を思えば、我が国家と民族は、司馬氏とは正逆の評価を、乃木と白襷隊に与えるべきである。

 白襷隊は確かに全滅した。しかし、甚大な衝撃をロシア軍に与えたのである。ロシア側記録には次のように書かれている。

「余ら、旅順籠城の守兵は、一兵一卒の末に至るまで、各一砦一穴は全露西亜国なりとの観念を深くの脳裏に刻して、血につぐに骨をもってし、骨につぐに直ちに魂をもって死守したるなり。

 しかも日本軍の驍勇堅忍なるや分を得れば寸、寸を得れば尺と・・・営々倦まざること即ちこれをや日本軍の精気なりと言わん。実に、この精気に強き日本軍が精気の弱き露西亜軍を屈服せしめたるなり。

 余は敢えて屈服という。されど一九〇五年一月一日の旅順開城をさすにあらざるなり。

 その前年の暮れ、即ち十一月二十六日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余らをして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。

 この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことはもはや従来の露西亜文学にはその適当なる修飾語を発見するを得ず。・・・数千の白襷隊は潮の如く驀進して要塞内に侵入せり。総員こぞって密集隊・・・白襷を血染めにして抜刀の姿、余らは顔色を変えざるをえざるなりき。余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く、屈服。」(岡田幹彦著、「乃木希典」より)

 これが、白襷隊の突撃に直面したロシア軍の記録である。そして、レーニンは、旅順の陥落を帝政ロシアに対する回復不能の打撃と評価し、次のように述べた。「ヨーロッパの軍事専門家は、旅順要塞はセバストーポリ要塞を六つ合わせた強さを持つという。イギリスとフランスの連合軍はセバストーポリ要塞を落とすのに一年を費やしたが、彼の東洋のちっぽけな日本軍はセバストーポリを六つ合わせた旅順を数ヶ月で陥落せしめたのである」

 レーニンは、旅順要塞陥落を世界史的事件と捉えている。確かに帝政ロシアの敗北を決定づけた陥落である。世界は、この要塞を陥落せしめた軍司令官を無能とはいわないし、陥落に直結する甚大な衝撃を与えた白襷隊の攻撃を無益な殺生ともいわない。

 これを、無能また無益な殺生というのは、「坂の上の雲」をよく読んだ日本人だけだ。

 決死の白襷隊の攻撃も広瀬中佐の決死の旅順港閉塞作戦も、参加者を募って行われた。軍は、そこに長男は参加させない方針であった。しかし、多くの長男が家が断絶するのを覚悟で参加してきた。そして、祖国のために散っていった。

 (本稿の終わりに、話が今に飛び、はなはだ次元が落ちて申し訳ないが)この歴史を振り返って考えてみてほしい。

 村山富市談話の歴史観で、これら日本を救った英雄が生まれるだろうか。国家の危機に際して、国家を救う任務を担う若者が生まれるだろうか。答えは、否である。つまり、現在は、国家の危機において、国家の為に働く若者を生み出せないことになる。ということは、即ち、亡国。

 よって、正に、村山談話とは、亡国の談話ではないか。

改めて、田母神前航空幕僚長の「司令官の戦い」に敬意を表する。>

 

 

 

 本日、西村眞悟先生は次世代の党より大阪十七区ではなく十六区より立候補される事を明らかにされた。

 その会見で、国防(安全保障)と北朝鮮による拉致されている我が国国民の奪還を述べておられる。そのために障害となるのは公明党であり、これと戦っていくと。

http://www.yamatopress.com/c/34/182/9791/

 

<元航空幕僚長の田母神俊雄氏とともに、石原慎太郎初代代表の意志を引き継いで私が代表を務めておりました「太陽の党」は、この度「次世代の党」(平沼赳夫党首)と合体致しました。

 私は、本日付で、次世代の党衆議院大阪第16区(堺市堺区、東区、北区)支部長に就任し、新たな活動を展開します。

 「戦後体制から脱却して、誇りある日本を取り戻す」という志実現のために、太陽が昇ってこそ次世代があるとの強い決心の下、全身全霊を込めて真の保守勢力確立のために新天地にて戦います。

 時節柄、主旨ご理解の上、皆様の変わらぬご指導ご支援の程、何卒宜しくお願い致します。

平成26年11月26日

  西村 眞悟>

 ぜひ、我が国の為に勝ち抜いていただきたい。

 

 五名様来店。

 一名様来店。

 二名様来店。

 今日は私は大して飲まず。

 サルでもエビでもない。

_______________________________________________________

11月25日火曜日雨○

 店の郵便受けに入っていたチラシ。

 

 よう作ってあると感心。

 二名様来店。

 理科大ラグビー部OBの並木さん四名様で来店。

 

 今日は飲まず。

 さっさと帰る。

 サルでもエビでもない。

__________________________________________________

在日朝鮮人が尊敬されない理由と多文化共生の嘘

11月24日月曜日くもり○

 何度も書いてきた事であるが、我が国に居る朝鮮人はどうして尊敬されないか。

 先日、産經新聞の「正論」に「米国の多様性理解し信頼構築を」慶応大学教授・阿川尚之氏が下記のように書いていた。

 <略)

 ≪日系人らしくない日系人≫

 今後、日米関係を担うのは、どんな人たちだろうか。最近、故イノウエ議員らが創設した日系人主体の民間団体「米日カウンシル」の年次総会にホノルルで出席し、いろいろ感じることがあった。

 その1つは、日系人らしくない日系人が増えたことである。たとえば総会でキーノートスピーチをした米海軍太平洋艦隊のハリス司令官は、横須賀生まれ。父親が米海軍の曹長、母親が日本人で、日本人の風貌は残るものの、少年時代を過ごした南部のなまりがあり、外見は日系人らしくない。

 日系人は教育程度、所得水準が高く、少数民族の中で他人種と結婚する率が最も高い。若い世代には白人にしか見えない者も多い。ワールドシリーズを制したサンフランシスコ・ジャイアンツのトラビス・イシカワ、スケート・ショートトラックの金メダリスト、アポロ・オーノは、新しい日系人の例である。

 新しい世代の進出は日系人に限らない。同じ総会でパネリストとして登場したハワイ州選出のタルシ・ガバード連邦下院議員は、サモア生まれでヒンズー教徒、イラク戦争に2度従軍した女性軍人として、それぞれ史上初の連邦議員だそうだ。まだ33歳の新人議員ながら下院軍事委員会、外交委員会のメンバーとして活躍している。

 略)

 バラバラなバックグラウンドをもちながら、彼らには1つ共通点がある。それは全員が誇り高いアメリカ市民であることだ。何系だから、同性愛者だからといった先入観をもって対すると、間違う。

略)

 アメリカ人は相手を個人として判断し、ユニークな経歴や個性に興味を示す。そこから多様性への積極的な評価が生まれる。日本のように勤続30年とか謹厳実直ばかりでは、相手にされない。日本にもさらに多様な個性がほしい。特に若い世代にそれを望みたい。

 もちろん歴史や文化の違う日本が、アメリカほど多様になるとは思えない。均質性にも利点はある。ただ少なくともアメリカ社会の多様さに関心を抱き、理解し、アジア系はじめユニークですぐれたアメリカ人を友人にもつ。そうした人々に何らかの形で日本へ関与してもらう。人種差別を超える複層的な人と人の絆をつくる。略)>

産經新聞 正論 2014.11.17 05:01

 このように阿川氏が指摘するように米国の多様性とは米国における「米国人」としての多様性であって、「外国人」としての多様性では決して無い。

 ところが、あの算数も出来ないアホの朴一は下記のような事を言っている。  

 このように我が国において朝鮮人どもは「外国人」のまま我が国国民と同様の権利を求めようとしているのである。 

 このようなアホな事が許されるはずは無い。

 当たり前の事であるが、朝鮮人に生まれたことは本人が望んだ事でもないし、関係がないが、その生き方は本人が選ぶ事が出来る。

 朝鮮人であっても我が国国民になる事も出来るのである。それをしないで、我が国において、通名などという偽名を使って日本人のふりをして朝鮮人としての誇りなど無いくせに、我が国国民としての責任と義務を果たさない外国人のままで、権利だけを主張している現在のような状態では、人間の屑、ゴミ、ヒトモドキと軽蔑される事はあっても我が国国民から尊敬されることなど未来永劫絶対に無い。

 

 店に行って、昨日のドンチャンの後片付け。

 その後は部屋にてゴロゴロと本を読んで一日が終わる。

 今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。

_____________________________________________________

11月23日日曜日晴れ×

 当店にて山田社長、磯自慢の寺岡社長もいらしてくださり醴泉の会。

 出品酒

NO.1 醴泉正宗 純米大吟醸 山田錦 35%       14BY 

NO.2 醴泉正宗 純米大吟醸 山田錦 35%       19BY

NO.3 醴泉正宗 純米大吟醸 山田錦 35%       25BY

NO.4 蘭奢待  大吟醸   山田錦 35%       25BY       

NO.5 醴泉   純米大吟醸 山田錦 43%       25BY

NO.6 醴泉   純米吟醸 山田錦  50%            25BY

NO.7 醴泉 純米 山田錦 麹米50% 掛米60%    25BY

山田社長提供品

No.8 醴泉   純米吟醸 雄山錦  55%       26BY

 

 

 

 

 秋田より参加してくださったOさんよりいただいたお土産。

 その後、みなさんと神楽坂の初めての店へ。

 ドンチャン。

___________________________ 

11月22日土曜日晴れ△

 大阪よりOさん二名様で来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

________________________________________

11月21日金曜日雨△

 四名様来店。

 一名様来店。

 二名様来店。

 Uさん来店。

 ハナちゃん来店。

 Mさん三名様で来店。

 Hさん来店。

 直ちゃん二名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

____________________________________________

池田大作ダイセンセイの有難いお言葉

11月20日木曜日晴れ○

<「嘘も百遍繰り返せば真実になる」

 と、私は池田の口から何度聞かされたかわからない。この男は本気でそう信じているから始末が悪い。>

 P四十二

「池田大作の素顔」藤原行正 講談社一九八九年刊 

 二名様来店。

 二名様来店。

 ヒマ。

 営業終了後、さっさと帰る。

 酒は飲まず。

  _________________________________________

11月19日水曜日晴れ△

 河岸が休みなので、台湾に帰るカミさんの荷物持ちとして日本橋まで。

 カミさんの朝ビールの残骸

 小胡子さん来店。

 三名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり

 サルよりマシ。

_____________________________________________

世界が尊敬した特攻隊

11月18日火曜日晴れ△

 「明治維新の戦争の中で、会津藩が敗れた時、少年のグループが最後迄戦った。一つの藩の最後でもこうだ。ここで青年がたたなければ日本は滅びるだろう。青年達が国難に殉じて、いかに戦ったかということを歴史が記憶している限り、日本と日本民族は滅びる事は無い」

 大西瀧治郎中将が新聞記者に語った特攻隊の意義。

 

 多くの外国人もこの大西中将と同様な事を述べている。

 

 マクスウェル・T・ケネディ(米国ブラウン大学・カーター・ブラウン図書館研究員)

 アメリカの若者は、戦争中のアメリカ軍人の犠牲は、アメリカの自由を守る為に必要だと教えられている。日本軍の上層部が敗北を充分に認識した上で大勢の若者を神風特攻隊に任命したのは、絶望的な大義のために命を捧げた若者達の倫理規範が、以後何千、何万年と、人々の自己犠牲精神をかき立て続けるであろうと考えての事だった。

 彼らの最後の望みは、未来の日本人が特攻隊の精神を受け継いで、強い心を持ち、苦難に耐えてくれることだった。

 現代を生きる私たちは、神風特攻隊という存在をただ理解できないと拒絶するのではなく、人の心を強く引きつけ、尊ばれるような側面もあったのだという事を、今こそ理解すべきではないだろうか。

 

 バー・モウ(初代ビルマ首相)

 「私は日比谷公会堂での大衆集会で演説した。・・・・・ここで、われわれの最終的勝利を確信している私の第三の理由を挙げよう。

 それは、全世界を驚かせたあるもの、われわれの東アジア革命の基本的精神と意義とを示しているあるもの、すなわちカミカゼの精神である。

 それは、新しい東アジアの真の基礎となりつつあり、いかなる敵も打ち破ることのできない甲冑で武装された自己犠牲の精神、生か死かの精神、勝利の為に死をいとわない精神である。

 私は台湾とフィリピンでの神風の偉業を読んだ時ほど、心を動かされた事はかってなかった。その時、私は神風の精神が滅びない限り、東アジアも決して滅びない、と自らに語った。」

 

 ゲレット・T・マルチンスブラジル海軍大佐(昭和五十四年に奥宮正武元空将(兵学校五十八期)に語った言葉)

 神風は軍隊における統率の極致である、と私は考えている。第二次世界大戦後、欧米の諸国では、いずれも、軍隊の指揮について問題を抱えている。そこで、私は神風について詳しく知りたい」

 

アンドレ・マルロー(フランスの作家、文化大臣)

 日本は太平洋戦争で敗れはしたが、そのかおり何ものにもかえ難いものを得た。それは、世界のどんな国にも真似のできない特別攻撃隊である。

スターリン主義者たちやナチス党員にせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特攻隊員たちはファナチックだったろうか。断じて違う。彼らに権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情かおるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さかあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならない。

 戦後に、フランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。

 フランスは、デカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人の中には、特別攻撃隊の出撃数と戦果を比較して、こんなにすくない撃破数なのになぜ貴いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに私はいつもいってやる。

 「母や姉や妻の命が危険にさらされているとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺られるのをだまって見すごせるものだろうか?」と。

 私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべて乗り越えて、いさぎよく敵艦に体当たりした特別攻撃隊員の精神と行為の中に、男の崇高な美学を見るのである。

 

ペルナール・ミロー(フランスのジャーナリスト)

 日本人の自殺攻撃法が、考え方の上では太平洋戦争中に突然生じたものでなく、この国の過去にさかのぼって、以前から存在していた考えをここで実行に移したものであることは、既述したところであるが、日本の歴史をひもとくならば、このような攻撃の発生したことも驚くには足りないことが分かる。

 実際、これは十分にあり得ると予測できたできごとである。英雄的行為の先例が、後世の日本人に与えた影響はきわめて大きいが、また日本人の気質としてそういったものに特に深く感動しやすかった。

 日本の軍隊の長い歴史には、そのような英雄的行動や、従容として自己犠牲の途を選んだ実例が、目白おしにひしめいているのである。戦時中の日本人はそれらの先例に考えを借り、論理的に、そして自然にその道へと歩んだのであった。

 今日の日本人の気質は非常に変わってしまい、かつて鼓吹されていた宗教的な、あるいは祖国愛的な感情といったものをすっかり忘れはてているかのように我々は思うけれども、なおかつての日本人のこの勇気と犠牲的精神は、尊敬をもってそれを是認しないわけにはいかないものがある。

 

リチヤード・オネール(英国のジャーナリスト)

 本書においては、主として第二次大戦における神風特攻機を始めとする

日本陸海軍の各種の特別攻撃作戦を中心に著述したが、これがどのような思想的背景を持ち、どのようにして生まれてきたかについても述べねばならない。

 最も簡明で、かつ一般化された背景は、日本文化の発達、特に武士道に見ることができる。武士道とは、侍の振舞を統制する武士団の行動様式として発達してきた武士の道徳である。

 しかし、武士道は封建時代には一部特権階級の道徳にすぎず、二十世紀に行われた日本の特攻攻撃との関係を考えるには、時代の相違だけでなく、古典的な武士道と二十世紀のそれとがどう変わっているかを考察する必要があるだろう。

 全ての日本人は、若い特から、「国体」を護持するために全力をつくすよう教えられて育った。「国体」とは国の政治体制のことで、天皇制やその他の日本を独特な国家たらしめている諸伝統が要素となっている。そして日本人が神風を始めとする特攻隊に参加したのは、国体を護持するために、一身を犠牲にしても良いとの考え方から発したものであり、彼等を勇気づけたものは、日本の武士道の伝統であった。

 全国民のすべての人に、一身を犠牲にする武士道の精神を持つよう呼び掛けることができたのは日本だけであったろう。

 このことは、第二次大戦の末期における、日本の特攻作戦による勇猛な反撃をうみ、また敗戦に際しては、民族的な誇りを失うことなく、また戦後の日本の偉大なる復興の原動力となった、と筆者は信じているのである。

 

A・J・バーカー陸軍大佐(英国の戦史家)

“バンザイ突撃”は、ムダな努力であったといわれているが、敗北に追いつめられた日本車にとっては、絶望の窮地から脱出する唯一の試みであったことは否定できない。

 また航空特攻も、日本軍の敗北がもたらした産物であった。連合軍では、このような攻撃を非人道的、狂信的としながらも、神風特別攻撃隊員たちにたいしては、尊敬をはらっているのである。それはおそらく、かれらが特攻攻撃で手いたい打撃をうけたためであろう。だが「回天特攻隊」のばあいには、連合軍にあたえた打撃の程度はわずかであったにもかかわらず、同様の尊敬をかちえているのである。

 

バリー・ピット(英国の戦史・軍事評論家)

 日本軍の神風特攻精神を狂信的だといって非難することは簡単だが、この考え方は、いささか独断的すぎるのではなかろうか。

 特攻機や「桜花」爆弾に搭乗して連合軍艦船の甲板めざしてとびこんでいった日本の”右鷲”たちは、その目的の正しさを信ずるがゆえにとびこんだのであり、その目的をすこしでも達成することをねがったがゆえにこそ、よろこんで生命をささけようとしたのである。

 軍人としての義務をまっとうするため、勇敢に、おのが生命を捨ててかえりみない、尽忠至誠の発露でなくて、なんであろう。

 

マルコム・マックガバン(米海軍大尉)

 我々の空母の飛行甲板を貫いたこの男は、私より立派だ。私には、とうていこのようなことはできない。

 

ジョン・トーランド(米国のノンフィクション作家)

 「われわれ西側の物の考え方とはこんなにも異質な光景には何か催眠術にでもかかったような恍惚感がありました」と、C・R・ブラウン海軍少将は述べている。

 …このほとんど病的な恍惚感から、いろいろな説やうわさが生まれた。「沖縄」のパイロットは、僧侶のような頭巾のついたころもを着て戦場にむかうのだとか、麻薬を使われているのだとか、操縦室に鎖でつながれているのだとか、年少のころから自殺のため訓練を受けたエリート・グループだとかいうものだった。

 だが、実際は、彼らはごく普通の日本の若者で、志願して特攻隊に入ったのだった。彼らの目的は、意義のある死に方をすることであった。

 特攻方式が、アメリカに比べて劣勢な日本の生産性を克服するための最善の道であると、彼らは確信していた。たった一人で、空母や戦艦を撃沈もしくは撃破することができ、千人の敵を道連れにすることができるのである。

 

ダニエル・H・ディソン(フィリピン神風戦没者協会設立者)

 私たちは、彼らの偉業を引き継いでいかなければならないと思います。戦争のためではなく、忠誠心、愛国心、祖国への愛のためです。東洋、いや全世界の人々が、この神風特攻隊の話から何か大きなことを学べると思います。

 神風特攻隊の隊員は、全世界そして次世代の全人類のために、彼らの人生を記録として残してくれたのです。彼らは自分の命を生きている偉業としてささけ、人間はどこまで自国を愛することができるか、ということを提示してくれました。

 

スイス紙『トリビューン・ジュネーブ』(昭和二十年七月九日付)

 戦争では殺されずに人を殺すといふことが常識だが、死を覚悟、死を喜ぶことが最大の効果を発揮することがある。

 破壊せんとする目標物に時速千キロの速度で突入する操縦士は危険この上もない、しかし尊敬すべき敵だ。>

 

「世界が語る神風特別攻撃隊」 吉本貞昭著 ハート出版 平成二十四年刊

 P二百二十五〜二百二十七

 

 Sくんご夫妻六名様で来店。

 二名様来店。

 Sさん来店。

 仙台のSさん二名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

______________________________________________________

11月17日月曜日晴れ△

 池袋にてカミさんと待ち合わせて、ビールバーへ。

 カミさんはビールの話題でスタッフの人と盛り上がっていたが、私はチンプンカンプン。 まあ、上手いビールが飲めればそれでいい。

 

 

 二軒目は「沙漠乃月」さんへ。

 相変わらず、店主のインインさんは狭い厨房で手際良く料理を作ってくれる。

 インインさんも我が国での支那人どもの行状に怒り心頭。

 

 

 

 

 店に寄り、資源ゴミを出した後帰る。

 一応私は記憶があったが、カミさんは記憶がなかったようです。

 サルよりマシ。

___________________________________________________

11月16日日曜日晴れ

 今月の二十三日に開く醴泉の会の出品予定酒

NO.1 醴泉正宗 純米大吟醸 山田錦 35%       14BY 

NO.2 醴泉正宗 純米大吟醸 山田錦 35%       19BY

NO.3 醴泉正宗 純米大吟醸 山田錦 35%       25BY

NO.4 蘭奢待  大吟醸   山田錦 35%       25BY       

NO.5 醴泉   純米大吟醸 山田錦 43%       25BY

NO.6 醴泉   純米吟醸 山田錦  50%            25BY

NO.7 醴泉 純米 山田錦 麹米50% 掛米60%    25BY

山田社長提供品

No.8 醴泉   純米吟醸 雄山錦  55%       26BY

 

 薫空挺隊について私なりにまとめてみました。

 よろしければ、ご覧下さい。

 薫空挺隊(台湾高砂族特攻隊)

 カミさんは早起きして合気道の稽古へ。

 私は店に行き、後片付けと仕込み。

 私は今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。

_______________________________________________________________

薫空挺隊

11月15日土曜日晴れ△

 薫空挺隊猛訓練

 

 

 薫空挺隊の兵士故郷台湾から運んできた豚や鶏を陣中で飼育。

 ルソン島ルバ飛行場の宿舎 出撃前のひととき 右が中重男隊長

 

 津村重行上等兵

 薫空挺隊最後の記念撮影

中重男中尉 加来少尉

 Kさん来店。

 二名様来店。

 Iさん二名様来店。

 Sさん今回は奥様が友人の方と来店。

 

 ドンチャン。

 

 記憶あり。

 サルよりマシ。

_________________________________

薫空挺隊

11月14日金曜日晴れ△

 <台湾高砂族義勇隊について 

 高砂族挺身報国隊

 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争が勃発すると、台湾軍はバシー海峡を越えて、ルソン島に進攻しました。この時高砂族に対し軍需品の輸送に従事する軍夫を募集した処、約五千人の応募者がありました。この中から五百名を選んで「高砂族挺身報国隊」を編成しました。昭和十七年三月二十二日この隊は高雄よりルソン島に向かいコレヒドール要塞戦、バターン半島作戦に従事しました。昭和十七年九月二十九日、比島派遣軍司令官田中静壱中将の賞状には高砂挺身報国隊と誌されています。しかしこの報国隊は最南部のパイワン族百名を残し、約四百名は台湾に凱旋しました。

 残った百名は、昭和十七年七月ミンダナオ島ダバオに移住したのち、独立工兵第十五聯隊に配属され、七月二十一日ニューギニア北岸のバサボアに上陸し、オーエンスタンレー山脈を越えて陸路ポートモレスビーに向かい、南海支隊の先鋒を務めました。

 昭和十八年五月十五日、ニューギニア方面陸軍最高司令官名(氏名なし)の賞詞には、宛名が第一次高砂義勇隊となっていて、昭和十七年二月、南海支隊に配属されて、ニューギニアに上陸以来、一時はポートモレスビーに迫ったが、後にニューギニア北岸で行われた戦闘に抜群の功績を挙げたと誌されています。

 高砂儀優待はその後第八回迄募集され、主としてニューギニアで善戦して終戦を迎えました。

 陸軍特別志願兵

 昭和十八年十月十五日高砂青年五百名を、始めから特別志願兵として徴募し、訓練を施しました。この中には第一回高砂挺身隊員も多数含まれていました。

 昭和十九年三月、高雄発マニラへ。後第二遊撃隊として、モロタイ島へ、他の一隊は第一遊撃隊として末期のレイテ戦線に薫空挺隊として投入され、全員散華して一人の生還者もいません。>

 あけぼの会(代表門脇朝秀氏)作成のパンフレットより 

 私は「特攻 四五号」田中賢一氏の文章より引用

 

 

 カミさんは昨日の酒がたたり、店には来ず。

 バンブーさん来店。 

 二名様来店。

 二名様来店。

 一名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

____________________________________________________

薫空挺隊

11月13日木曜日晴れ△

 決行

 <義号作戦は、二十六日に決行された。

 中重夫(重男?)中尉以下四十数名の薫空挺隊は、第二百八戦隊桐村浩三中尉以下八名の操縦する輸送機四機に搭乗、夜間リパを離陸、ブラウェンに向かった。

 月齢は十日である。零時頃ブラウェンに着陸する計画だったが、その後の行動は不明な点が多い。

 一機はバレンシャに不時着し、搭乗員は、第二十六師団と行動を共にしたことは確かだ。

 零時過ぎ頃、オルモックの軍司令部から東方の山系を望むと、盛んに火の手が上がるのが見えたというし、一時過ぎ、ブラウェン上空に我が偵察機が侵入したが、いつもの激しい対空砲火はなかったという。

 これだけの微行では、ブラウェン飛行場に着陸成功し、戦果を挙げたと断定する事は出来ない。

 米軍の記録によれば、ドラック海岸付近に二機着陸し、乗員が闇の中に消えて行ったという。多分これが、脊陵山脈を越えた三機のうちの二機であろう。

 その人々がどのような活躍をしたのか、残念ながら詳かではない。

 敵飛行場を襲撃した後、ダカミ付近に潜行し、第十六師団に合流するよう命ぜられていた。ジャングル内の行動に長じていた高砂族の兵だったから、何人かはダガミまで辿り着いたのかも知れない。第十六師団は、義号作戦から十日後にブラウェン北飛行場に突入した。そのとき高千穂部隊が飛行場に降下し、一〇〇人以上の者が第十六師団に合流しているが、この人々の最後も明らかではないほどだから、二、三十名の最後は知るすべも無い。

 それほど、レイテで戦った部隊の末路は悲惨だった。

 最後は全員戦死だとしても、どんな活躍をしたのか、_____当時のフィリピン駐在村田大使の日記が、「村田省蔵遺稿比島日記」と題し出版されている。これをみると、十一月十三日に寺内元帥を訪問した時、航空特攻や人間魚雷と並んで、この高砂兵の部隊の事が話題に出たように書いてある。

 必要があれば爆薬を背負い敵中に突入するのだと。

 これほどの意気込みを持った部隊だったから、唯では死ななかっただろうと思うだけである。>

 台湾より九名様来店。

 カミさんはビールの醸造責任者が来日しているという事で、ビールバーへ。

 営業終了後、オブデュモンドさんで待ち合わせ。

 ドンチャン。

 記憶なし。

 夫婦揃ってサル。

_______________________________________________________________________________________________________________

薫空挺隊

11月12日水曜日晴れ○

 薫空挺隊の訓練について同盟通信記者であった大森建道氏の著書「比島従軍記」よりの引用として(私は田中氏の「薫空挺隊始末記」より)

<薫空挺隊はリパ飛行場から奥に入った、ニッパヤシで葺いた粗末な二軒の小屋で全員ひっそりと合宿していた。

 早速隊長に会ったが、最初は「ここがよくわかりましたね」といって驚いていたが、当方の目的を知ると全将校を集めて詳しく話してくれた。

 略)

 訓練については到着以来毎晩休むことなくやっているという。各小隊の兵十二名、四小隊合わせて四十八名の兵は台湾高砂族の出身で、昨十八年来台湾の嘉義で特別志願の青年六十名ほどによる特殊訓練をほどこし、夜間でも目がよく見えるという。さらに普段からの山岳生活で敏捷な身体を特別に訓練した結果、五メートルぐらいまで飛び上がったり降りたりが自由にできるようになったので、そこから優秀な四十八名を選抜して連れてきたという。

 そして、「今夜その訓練をするから、ぜひ見学していって欲しい」ということであった。

 全員は夕刻、六時過ぎに食事をすませて休憩後、早速地図を広げて、隊長を中心に幹部が集合して作戦の検討を始めた。そして、あたりが真っ暗になった夜九時頃から厳しい訓練が始まった。箕浦君の撮影するカメラのフラッシュが時折光るぐらいで、あとは空一面の星空、わずかに三日月がジャングルに淡い光を投げかけているだけだ。

 訓練は敵飛行場に強行着陸した飛行機から、転げ落ちるように飛び出して敵機に爆雷を仕掛けることを主眼に、曲芸のようなこの転げ落ち方(跳降という)の練習をまずやる。

 ついで将校、下士官は日本刀、兵は蛮刀(義勇刀という)を振るっての突撃訓練。将兵がかぶっている鉄帽の星のマークのところに夜光塗料が塗ってあって、それを遠くから見ているとジャングルの中を無数の蛍が乱舞するようで、なんとも悲壮感の溢れる美しさ。

 軍服は全員草色で、隊長と三人の小隊長は白ダスキを十文字に、下士官は肩から斜めに同じく白ダスキをかけ、兵は腕章をし、義勇刀(蛮刀)を背負っていた。

 やがて訓練は夜十一時過ぎに終了した。全員ただちにニッパヤシの小屋に戻り、自分も箕浦君とともに隊長らと握り飯に味噌汁の夜食をすませ、そのあと恩賜の酒「菊正」で杯を交わし成功を祈る。ここで桐村中尉ら輸送隊の将兵たちが最後に低い声で合唱した「男なら」の次の一節が、粗末なベッドに身を横たえても中々耳を離れない。

 男なら 男なら 未練のこすな浮世のことに

 死ぬが男の意気地じゃないか

 抱いた爆弾体当たり 男ならやってみな

 略)

 薫部隊の壮途を見送る

 十一月二十六日

 略)

 自分らは午後から空襲の隙を見て「薫部隊」宿舎を訪れ、写真を撮ったり取材したりしたが、兵士らは予想される今夜の出撃に備えて横になっている人が多かった。自分は中重男隊長の部屋で作戦と全く関係のない話をした。隊長の机には「文藝春秋」が一冊置かれ、横光利一の「旅愁」のところにしおりがはさまれていた。少し前の号だから、中尉が内地から持って来たものだろう。「こういうものがお好きですか」と聞くと、中尉は「ええ、まだ未完のままなので、生きていたら最後まで読めるのに、それができず残念です」とつぶやくように言って、恥ずかしそうに微笑した。その顔を見て、本当によい顔だなァとしみじみ思った。

 そして、こんな立派な若者をむざむざ殺す戦争の冷酷さを思った。

 夕食後「薫部隊」は服装を改めた後、全員で壮途の成功を祈って乾杯した。

 船員が爆発缶一キロと破甲爆雷六七十グラムを携行、それに軽機関銃という身軽な服装である。携行食料は乾パン、コーヒー、ビスケット、バター、コンビーフなどの三日分である。>

薫空挺隊の訓練について同盟通信記者であった大森建道氏の著書「比島従軍記」よりの引用として(私は田中氏の「薫空挺隊始末記」より)

 今日はへべれけさん、ぐでんぐでんさんに来ていただき、パソコンのソフトとホームページについていろいろとお世話になる。

 現在のホームページのソフトが古過ぎて、いろいろと支障が出る可能性があるので、ホームページを変えることにする。

 

 カミさんは遅く店に来て「今日は赤ワインを飲みたい気分だ」と、カンターに座って頂き物の赤ワインを飲み始めて、営業終了までにひとりで一本空けやがりました。

  私は酒は飲まず。

 

____________________________________________________

薫空挺隊の編成

11月11日火曜日雨のち晴れ△  

 薫空挺隊の編成については、多くの方が不明と書いてあったが、薫空挺隊の編成を田中賢一氏は丹念に調べられてまとめてくださっています。

指揮官 中勇男中尉(陸士五十五期)

第一小隊

 小隊長  中勇男中尉(陸士五十五期)兼務

       甲斐将夫曹長

       清水敏次伍長

       石川正信上等兵

       岡野弘 上等兵

       山下登 上等兵

       藤野秀夫上等兵

       宮崎一郎上等兵

       西村秀夫上等兵

       西山義一上等兵

       河井東男上等兵

       徳永正利上等兵

       本多純一上等兵

       西村照秋上等兵

       上田初喜上等兵

第二小隊

 小隊長 須永富蔵少尉

      石田歳徳曹長

      八木橋俊曹長

      森田実 上等兵

      稲田茂 上等兵

      池田三郎上等兵

      井手敏 上等兵

      草田良夫上等兵

      有村※ 上等兵

      結城文男上等兵

      前田隆男上等兵

      栗原二男上等兵

      東山晴夫上等兵

      津村重行上等兵

      田村幸吉上等兵

第三小隊

 小隊長 川原英雄 少尉

       浜田新 軍曹

       金原庚鎮軍曹

       石川正義上等兵

       大橋要英上等兵

       高橋金三郎上等兵

       伊藤秀雄上等兵

       矢野秀雄上等兵

       菊田光治上等兵

       永野賢龍上等兵

       田中幸徳上等兵

       金川見洙上等兵

       瀬ノ口信男上等兵

       金重信男上等兵

       三浦豊之上等兵

第四小隊

 小隊長 加来隆少尉

      木下敏一軍曹

      中村寛 軍曹

      藤川光三上等兵

      甲斐亘 上等兵

      久川勝康上等兵

      石井誠 上等兵

      齋藤新三郎上等兵

      石建美水上等兵

      小野寺清一郎上等兵

      実田健吉上等兵

      林吉則 上等兵

      手島進 上等兵

      青木達一上等兵

      保浦久良上等兵

 

     飛行部隊

       編隊長 桐村弘三中尉(小候二十二期)

       一番機 桐村弘三中尉(小候二十二期)

             田中正澄軍曹(小飛十期)

       二番機 五藤武準尉 (昭九)

             北 史 軍曹(仙七)

       三番機 大沢正弘中尉(陸士五十六期)

             塚田弘治曹長(小飛五期)

       四番機 寺島近馬準尉(昭十)

             高木弘 軍曹(小飛七)

     以上、各上等兵は全員高砂族出身

 以上、「特攻 第四十五号」(平成十二年十一月)

 続く

 カミさんの朝ビールの残骸。

 一名様来店。

 台湾より一名様来店。

 一名様来店。

 Oさん来店。

 Oさん来店。

 Iさん三名様で来店。

 ドンチャン。

 一応記憶あり。

 サルよりマシ。

 

_________________________________________________________

薫空挺隊

11月10日月曜日晴れ ○

 朝鮮人の特攻隊について、自分なりに一応一区切りつきましたので、台湾人の特攻隊として薫空挺隊について調べようと、今日も手元にある資料を読んで一日が終わる。

 薫空挺隊は高砂族が大部分を占める特攻隊として有名ですが、以下の「薫空挺隊始末記」はあけぼの会(代表門脇朝秀氏)が高砂族日本兵及び御遺族十名を招待し、平地人でかって日本軍の一員だった方も加わり、一行二十一名が平成十二年四月三日より七日まで滞在した折に、五日に強い希望により靖國神社に参拝し、その後九段会館で懇親会があったが、田中賢一氏(陸士五十二期)が「薫空挺隊始末記」を書いて主催者の一人である植田弘氏(陸士五十七期)を介し台湾の皆さんに贈呈したものを会誌「特攻」に掲載したものです。

 以下、引用先に断りがない限り田中氏の「薫空挺隊始末記」よりの引用です。

 <薫空挺隊の特異性

  今次対戦中に存在した日本の空挺部隊は、陸海軍別個に持っていたが、何れも正規の編成部隊だった。海軍が持っていたのは落下傘部隊であり、進行作戦にあたり、十七年一月十一日にセレベス島のメナドに、ついで二月二十日にチモール島クーパンに、それぞれ落下傘降下作戦を行った。陸軍は初めは落下傘部隊だけで、十七年二月十四日にスマトラ島のバレンバンに降下作戦を行った。十八年の後半になると、編成部隊の比重は落下傘部隊よりもグライダー部隊の方へ移っていった。

 ところが薫空挺隊は編成部隊ではない。当時第十四方面軍に所属していた遊撃第一中隊の一部と、第四航空軍に属する飛行第二百八戦隊の一部を組み合わせて現地で編成した部隊であり、落下傘降下の能力は持っていなかった。

 もう一つの特色は、遊撃第一中隊の兵の大半は台湾の高砂族だったので、薫空挺隊も主体は高砂族の兵士だった。

 

 遊撃中隊の編成と出動

 十七年末から十八年にかけてガダルカナルで敗れ、ニューギニアで敗退を続けている時、南方のジャングル内で遊撃戦を行う専門部隊を正式に編成することになった。

 昭和十八年十二月二十四日、台湾軍は、遊撃第一中隊、同第二中隊の編成を命ぜられた。

 この第一中隊の一部が後に「薫空挺隊」となるのだが、両中隊とも総人員百九十二名、兵の人数は百五十二名だった。その百五十二名の兵のうち、通信、衛生の特技者を除き、台湾の高砂族をもって充てた。従って高砂族の兵は一個中隊に百四十人ほどいたと思われる。

 略)

 (高砂族は)台湾でも山の中で首領や原始的農業に従事しているので、ジャングル内の行動に長じていた。

 それに部族ごとの抗争を事とした先祖の血を受け、尚武の気性に富み、ジャングル内の遊撃戦兵士として、うってつけの素質を持っていた。

 そのようなことから、陸軍では高砂族を主体にしたジャングル内専門の遊撃部隊を作る事になった。先にも述べた通り、将校、下士官と通信手や衛生兵は内地人をもって充てた。しかも将校、下士官の大部は、陸軍中野学校で遊撃戦を専攻してきた者だった。

 台北の台湾歩兵大一聯隊の補充隊で、部隊を編制し、湖口の演習場で訓練に励んでいたが、十九年五月戦場に出る事になった。

 五月二十八日高雄出港、このとき第二方面軍の令下に入った。第二方面軍は西部ニューギニア以西、フィリッピンとインドネシアの間にある地域を作戦区域としていた。

 大本営では、初めニューギニアで両中隊を使う考だったが、この頃は既に、焦点はビアク島から更にモロタイ島、ハルマエラ島に移ろうとしていた。

 両中隊は六月二日にマニラに上陸したが、第二中隊は間もなくハルマエラ島に移り、大地中隊はルソン島に残った。第二中隊は九月から、モロタイ島で大活躍する。

 ルソン島にノッこった第一中隊は、リパで訓練していた。この頃初代隊長の神田少佐が病で倒れ、中隊付の尾山大尉(陸士五十二期)が隊長となった。

 略)

 第四空軍では遊撃第一中隊の一部を、飛行第二百八戦隊の零式輸送機(DC−三)に乗せ、ブラウェン(南北)両飛行場に対し教区着陸攻撃を実施させることにした。

 この命令が出されたのは、十一月二十二日で部隊名を「薫空挺隊」、作戦名を「義号作戦」と呼んだ。>

続く

 今日は飯を食いに行く以外は外に出ず。

 酒は飲まず。

_____________________________________________________________

11月9日日曜日晴れ○

 「いのち」(八牧美喜子著 白帝社 平成八年刊)読了。

 八牧美喜子氏は福島県の原町飛行場の側に居住されている少女時代に多くの特攻隊員と交遊があり、手紙のやり取りをされていた。

 私は特攻隊として散華された林長守伍長のエピソードなどが掲載されていないだろうかと読んでみましたが、彼が所属していた「勤皇隊」の隊長・山本卓美中尉の事は書かれていましたが、林伍長の事は残念ながらありませんでした。

 

 今日は店を片づけた後、私は一日中部屋にいて終わる。

 カミさんは、カピパラ好き繋がりの友人の写真展に出かける。

 私は酒は飲まず。

 カミさんはぐいぐいやってきたようだ。

__________________________________________________________________________________________________________

薫空挺隊の朝鮮人軍曹

11月8日土曜日晴れ△

 高砂族が大部分を占める特攻隊として有名な薫空挺隊に朝鮮人軍人がいる事を知ったのは「朝鮮人特攻隊」を読んだ時です。

 <今回の特攻空挺隊の初陣に当って特記すべきは、半島ならびに本島出身者の勇士がたくさん混じっていることである。大東亜戦争勃発以来、東亜諸民族の結束が愈々昂揚されてきているが、この皇民化されたる半島ならびに本島出身者勇士の参加によって決行された内鮮台一体の決死斬込隊こそ、大東亜諸民族の中核たる我ら一億同胞の鉄火の決意を最も端的に表すものである>

 昭和十九年十二月三日付朝日新聞(私は「朝鮮人特攻隊」p百一

 この記事に出てくる朝鮮人特攻隊の氏名は、

 金原庚鎮(かねはらこうちん)軍曹 軍歴不明 慶道北道尚州郡出身。

 貧しい小作農出身で、父親は訪ねてきた記者に対して、たどたどしい日本語で、

「あれがほんとうにそんな立派な働きをしてくれましたか。もしそうなら、これで本当に世間様へ顔向けができます」

と答えたそうである。

 (「京城日報」昭和十九年十二月五日付)(私は「朝鮮人特攻隊」p百四〜百五

 公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会会報「特攻 第四十五号」(平成十二年十一月)には金原庚鎮軍曹は第三小隊の下士官として十二名の高砂族上等兵とともに散華された事が記されています。

 第三小隊としてこの金原庚鎮軍曹とともに出撃した高砂族兵士の御一人はあの写真で有名な津村重行上等兵です。

 薫空挺隊の生存者はいません。全員突入し散華されました。

 

 

 オガピー来店。

 Mさんお二人様で来店。

 二名様来店。

 浜松よりTさん二名様で来店。

 Yさん来店。

 Yさん来店。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

______________________________________________________

朝鮮人特攻隊

11月7日金曜日晴れ×

 フィリピンで五名、沖縄で十二名。そして、B二十九相手に特攻した河田少尉を入れて、現在判明している朝鮮人特攻隊は十八名です。

 フィリピン方面

近藤行雄伍長(朝鮮名不明)

 航空機乗員養成所十期生

 昭和19年11月25日 万朶隊 

 離陸直後、空中爆発により事故死

 

 李充範 (平木義範)曹長 (少尉)

 米子乗員養成所五期 第八十振武隊(第一航空軍の基本飛行学校の教官、助教で編成されたと考えられる特攻隊) 

 大正十年十二月全羅南道生まれ

 昭和十二年頃に日本へ。昭和十四年十二月、米子航養所五期生として入所。当時の教官は馬詰太郎(陸委十八期)である。在学中に平木義範に改名。

 

  第八十振武隊寄せ書きより

 <大君の御楯となりちるさくら

  ただひたすらにくにのさかえを>

            

 第八十振武隊 九十九式高等練習機にて知覧出撃 

 昭和二十年四月二十二日

 杉戸勝平少尉 小候二十四

 川瀬明 少尉  特別操縦見習士官第一期

 高橋弘 準尉  昭十一

 上成義徳 曹長  昭十四

 難波隼人 曹長  陸軍少年飛行兵第六期

 平木義範 曹長

 岡山勝己 軍曹 昭十四

 白石哲夫 軍曹 昭十四

 四月二十六日

 橋本英亮 軍曹 陸軍少年飛行兵第十期

 

 

岩本光守軍曹(朝鮮名不詳)軍曹 少尉

 都城乗員養成所十二期 (特攻に散った朝鮮人)

 陸軍予下士官学校第九期(写真集 特別攻撃隊)

 独立飛行二十三中隊三式戦「飛燕」にて出撃 那覇西方洋上にて戦死

昭和二十年三月二六日

 阿部久作少尉 小候

 岩本光守軍曹 陸軍予下士官学校第九期

 須賀義栄軍曹 陸軍予下士官学校

 長野光宏軍曹 陸軍少年飛行兵第八期

 金井勇 軍曹  陸軍少年飛行兵第十一期

 広瀬秀夫軍曹 陸軍少年飛行兵第十二期

五月一日

 片山勝義少尉 特別操縦見習士官第一期

 有吉敏彦軍曹 陸軍予下士官学校

 

 

 

河東繁伍長(朝鮮名不詳)伍長 少尉

少年飛行兵十四期

(特攻に散った朝鮮人)

第二航空軍編成(隆魔隊)ー 四平街ー 奉天 ー 京城 ー 板付ー 菊池ー 知覧出撃 昭和二十年四月六日

(朝鮮人特攻隊)(写真集 特別攻撃隊)

第百六振武隊

九十七式戦闘機にて出撃昭和二十年四月十六日 沖縄周辺洋上

四月十六日

 石田耕治少尉 特別操縦見習士官第一期

 清原勉 少尉 特別操縦見習士官第一期

 丹下寿雄軍曹 陸軍少年飛行兵第八期

 河東繁 伍長  陸軍少年飛行兵十四期

 鈴木勇 伍長  陸軍少年飛行兵十四期

 二宮淳一伍長 陸軍少年飛行兵十四期

 松原徳雄伍長 陸軍少年飛行兵十四期

 宮之脇勇伍長 陸軍少年飛行兵十四期

四月二十八日

 榎本孝一伍長 陸軍少年飛行兵十四期

 藤原勇 伍長 陸軍少年飛行兵十四期

 尾鷲二郎伍長 陸軍少年飛行兵十四期

五月四日

 袴田治夫伍長 陸軍少年飛行兵十五期

 

 

木村正碵伍長 (朝鮮名不詳)

少年飛行兵十五期 第一航空軍編成(第七十七振武隊)ー 知覧ー 徳之島 九十七式戦闘機にて出撃 沖縄周辺洋上

昭和二十年三月二十九日(特攻に散った朝鮮人)

      四月二十八日(朝鮮人特攻隊)((写真集 特別攻撃隊)

四月二十八日

 須山佳市少尉 特別操縦見習士官第一期

 長谷川栄七伍長 陸軍少年飛行兵第十三期

 鈴木三男伍長  陸軍少年飛行兵第十四期

 本間忠男伍長  陸軍少年飛行兵第十四期

 三枝英明伍長  陸軍少年飛行兵第十四期

 木村正碵伍長   陸軍少年飛行兵第十五期

 寺尾正道伍長  陸軍少年飛行兵第十五期

 中秀夫 伍長   陸軍少年飛行兵第十五期

四月二十九日

 金子誓 伍長 陸軍少年飛行兵第十四期 (徳之島から)

五月四日

 相花信夫伍長 陸軍少年飛行兵第十四期

 

 

李賢載(広岡賢哉または広岡賢蔵「写真集 特別攻撃隊」)伍長 少尉

少年飛行兵十四期 第四三一振武隊

金光永(金田光永)伍長  少尉

少年飛行兵十四期 第四百三十一振武隊九十七式戦闘機にて出撃沖縄周辺洋上

昭和二十年五月二十七日(特攻に散った朝鮮人)

昭和二十年五月二十八日(朝鮮人特攻隊)(写真集 特別攻撃隊)

 五月二十七日

 紺野孝 伍長 陸軍少年飛行兵第十四期

 鮭川林三伍長 陸軍少年飛行兵第十四期

 橋ノ口勇伍長 陸軍少年飛行兵第十四期

 広岡賢蔵伍長 陸軍少年飛行兵第十四期

 渡辺綱三伍長 陸軍少年飛行兵第十四期

五月二十八日

 堀川義明少尉 陸軍特別幹部候補生

 金田光永伍長 陸軍少年飛行兵第十四期

六月三日

 岡沢実 伍長 陸軍予下士官学校

 

 

石橋志郎(朝鮮名不詳)少尉  大尉

 特別操縦一期生 大刀洗 ー 第四航空軍 ー カローカン基地(フィリピン)ー 第八飛行士団ー 宜蘭(台湾)出撃

 飛行第二十戦隊  一式戦「隼」

  昭和二十年五月二十九日

 

 石橋志郎少尉  特別操縦見習士官第一期

 大野好治少尉 特別操縦見習士官第一期

 竹本郁夫少尉 特別操縦見習士官第一期

 山田三郎伍長 陸軍少年飛行兵第十三期

 森弘   伍長 陸軍少年飛行兵第十五期

 

 

韓鼎実 (清原鼎実)伍長  少尉

少年飛行兵十五期

(特攻に散った朝鮮人)

鉾田(茨城県)編成 万朶隊ー 立川ー リバ基地(フィリピン)

(朝鮮人特攻隊)

第百十三振武隊

九十七式戦闘機にて出撃 昭和二十年六月六日沖縄周辺洋上

 高野正治少尉 陸軍特別幹部候補生

 生駒寛彦少尉 特別操縦見習士官一期

 泉田裕 伍長 陸軍予下士官学校

 菊池秀雄伍長 陸軍少年飛行兵

 北沢丈夫伍長  陸軍少年飛行兵第十五期

 清原鼎実伍長   陸軍少年飛行兵第十五期

 坂口良介伍長  陸軍少年飛行兵

 中島璋夫伍長  陸軍少年飛行兵第十五期

 羽立光行伍長  陸軍少年飛行兵

 村串六郎伍長  陸軍少年飛行兵

 

参考文献

 「特攻に散った朝鮮人」桐原 久著

 「朝鮮人特攻隊」※淵弘(ぺ ヨンホン)著

 「写真集 特別攻撃隊」図書刊行会 昭和五十五年刊

 「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」毎日新聞昭和五十四年刊

 

 前にも書きましたが、特攻というものの是非はともかく、散華されたこの朝鮮人の方々は間違いなく護国の英雄です。

 

 バンブーさん来店。

 Tさん来店。

 Sさん来店。

 Aさん来店。

 二名様来店。

 Tさん来店。

 Oさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 営業終了後、オブデュモンドさんへ。

 カミさん共々記憶なし。

 サル以下

__________________________________________________________________________________________________________________________________

朝鮮人特攻隊 金尚弼(結城尚弼)少尉

11月6日木曜日晴れ△

 金尚弼(結城尚弼)少尉 大尉

  大正九年平安南道鎮南浦市生まれ(現在は北朝鮮)

  昭和十八年七月私立延禧専門学校卒業(京城)

  九月大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校 特別操縦見習士官一期生として私立延禧専門学校初の合格者となる。

 特別操縦見習士官一期生には十人近くの朝鮮人がいたが、そのうち四名が特攻にて散華。

 二期生は朝鮮人がゼロ。

 三期生はぺヨンホン氏がインタビューした朴柄植氏を含め七名。

 名門私立延禧専門学校は現在の延世大学校であり、朝鮮人学生だけが通う民族系エリート校であった。

  操縦は同期でトップ、柔道三段、剣道は突きが得意 のちに満州・綏中第二十三教育飛行隊配属

  その後、満州敦化飛行隊配属、 昭和二十年二月十一日満州新京で編成された特攻隊に志願。

  昭和二十年四月三日 宮崎県新田原基地より誠第三十二飛行隊第五編隊長として沖縄西方洋上に出撃 戦死 二十四歳 二階級特進で大尉

  エピソード

 休暇で朝鮮に帰った折、母校の私立延禧専門学校を訪問。その時の校長であった辛島驍氏の勧めで学生の前に立った金について、辛島氏の手記より。

 <私は学生をグランドに整列させて、彼に言った。

 「何でも言いたい事を言いたまえ」

 だが彼は学生の前に立つと多くを語らず、

 「俺についてこい」

 と言うなり、上衣を脱いで走り出した。校庭は二十万坪の広さである。坂をのぼり、林を抜けて走り続けた。彼は黙々と、だが、在学生に何事かを訴えるかのように走り続けた。在校生ばかりでなく教職員も、彼の後に続いて走った。約一時間 落伍者はなかった。これが契機となって、校内にはやればできるのだという気概がみなぎり、志気は大いに上がった。

 学生達は、その夜のうちに配属将校を通じて、日本刀を一振り買い求めてきた。翌朝、学生達の発意によって、贈答式が行われた。結城君はこの日本刀をしっかりと握って、沖縄の空に散ったのである。>

 この母校での挨拶のあった日は、結城少尉は辛島氏の自宅に泊まった。

 その縁で、まだ小学生であった辛島氏の子息と文通を交わす仲となる。

 辛島氏の子息に来た結城少尉の葉書。

 

 <御父様ノ御恩ハ忘ラレマセン、何ト御礼ヲ申シ上ゲテヨイヤラ。兄サン益々(家ノ事ハ安心シテ)北ノ空ヲ守ロウト張切ッテイマス、新聞ヲ見テアンマリノ有難サニ兄サン思ワズ涙ヲ落シマシタヨ。

 中略

 共ニ勝ツ為メニシッカリト毎日戦ツテ行キマセウネ。「ドンナ事ガアツテモ勝タナケレバナラナイカラ。」トイフ事今一度共ニヨーク考ヘマセウネ。>

 

 

 満州綏中第二十三教育飛行隊配属に配属されている時の事です。

 隊内の演芸会で「私は朝鮮出身です。少しアクセントが違いますが、日本の歌を歌います」と言うと、隊員から「アリランを歌え」「そうだ、そうだ、アリランを聞かせてくれ」との声があがりました。金が「では母国の朝鮮語で歌います」と言って歌い、歌い終わると、拍手喝采の嵐が起こったといいます。

 その後、満州の敦化の飛行隊に移り、昭和二十年二月十一日、満州・新京の第二飛行軍で二つの飛行隊が編成された時特攻隊に志願し、誠第三二飛行隊に配属されました。恐らく家族とはこれが最後の別れになると思った金は、二月二十五日、平壌の三根旅館で日本軍将校になることを反対していた兄・金尚烈と会いました。

 兄から逃亡するよう懸命な説得を受けましたが、  「自分は朝鮮を代表している。逃げたりしたら、祖国が笑われる。多くの同胞が、一層の屈辱に耐えねばならなくなる」  「僕は日本人になりきって日本のために死のうとしているのではありません。そこをよく解って欲しいのです。お父さんとお兄さん、この二人の意志を継ぐために、日本を勝利に導いて、その暁に我々の武勲を認めさせて独立にもってゆくことなのです。大東亜共栄圏として、ビルマ、インドネシア、朝鮮、みな独立の道があるはずです。日本が強くなればなるほど、地下の独立運動は無力となりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る、その方が確かだと思うのです。

 日本人が憎くない、というとそれは嘘になりますが、僕は少年飛行兵出身の部下を連れてゆきますし、今日一緒に来てもらった佐藤曹長からは、親身の整備をしてもらいました。戦友や部下たちとは、一心同体であり、民族のしこりや壁はありません。・・・・・・  民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許して下さると思うのです」。

 それから一カ月余を経た四月三日、結城少尉は第五編隊長として小林勇第二編隊長と共に宮崎県の新田原基地より第五編隊長として沖縄西方洋上に出撃。圧倒的な数の米軍戦闘機と、艦隊からの対空砲火網の中沖縄西方洋上の艦船軍に突入。

第三十二振武隊

 九九式襲撃機

 日時昭和二十年三月二十七日出撃 慶良間北東 九名

 広守達郎中尉(陸士五十六期)

 清宗孝己少尉(特別操縦見習士官一期)

 小林一満少尉(陸軍特別幹部候補生)

 今西修 軍曹(陸軍予下士官学校)

 今野勝郎軍曹(陸軍予下士官学校)

 島田貫三軍曹(陸軍予下士官学校)

 出戸栄吉軍曹(陸軍予下士官学校)

 伊福孝 軍曹(陸軍少年飛行兵十五期)

 大平定雄伍長(陸軍予下士官学校)

 

 四月三日出撃 沖縄西方洋上 六名

 小林勇少尉(陸軍特別幹部候補生)

 結城尚弼(金尚弼)少尉(特別操縦見習士官一期)

 時枝宏軍曹(陸軍予下士官学校)

 古屋五朗伍長(陸軍少年飛行兵十四期)

  佐藤正伍長 (陸軍少年飛行兵十五期)

  佐藤英実伍長(陸軍少年飛行兵十五期)

 カミさんの朝ビール

 二名様来店。

 Oさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

__________________________________________________________________________________________________________

朝鮮人特攻隊 林長守伍長

11月5日水曜日晴れ

 林長守伍長

 少年航空兵出身 昭和十九年十二月七日

 勤皇隊 二式双襲(屠龍)にてフィリピン オルモック湾(レイテ島東海岸)出撃

 

 父親が平安北道龍川郡南市の市議長であった。

 高校を卒業すると少年飛行兵を志願し、水戸陸軍通信学校を経て、特攻隊に編入された。朝鮮の日本語紙「京城日報」は昭和十九年十二月十二日付けで林伍長を「第二の神鷲」と紹介し、ハングル紙の「毎日新報」も、親日派文豪の香山光郎が寄せた林伍長の追悼詩を掲載している。

 父親に宛てた手紙の内容には、「特別攻撃隊に入隊。南十字星を仰ぎ見ましたから安心してください。しっかりやります」と書かれてあった。かれの航空学校時代の日記に、「操縦は腕ではない。精神である。全く心気明瞭で落ち着いてやれば、高度計も速度計も我が心を反射してくれるだろう」と期されてあったことから、これぞ神鷲魂ともてはやされた。

 しかし、林伍長は操縦士でなく通信士であった。特攻機に同乗する任務もなかったのだ。

 (木下注 陸軍は複座であっても海軍と違い操縦士のみで出撃)

 彼が所属していた「勤皇隊」の隊長は陸士五十六期の山本卓美中尉で、参謀長に片道のガソリンだけを入れるように願い出るなど、死を願みない青年将校として強い印象を残している。

 山本中尉は通信員を内地に帰らせるつもりだったが、林伍長は自分から進んで山本隊長機に同乗を申し出たという。

 山本中尉の人柄に惹かれて、彼は隊長機の複座の戦闘機に乗り込んだ。

 勤皇隊が出撃して数時間後、山本隊長機から師団の無線室に、敵艦への突入を知らせる「ピーッ」という信号が入った。林伍長が発信した電波だった。

 「大東亜戦史・フィリピン篇」(富士書苑刊)によると

 <そういう未熟な人の多い中では、勤王隊の林長守軍曹は抜群の操縦技術を持っていた。少年飛行兵出身として最初の特攻隊員でもあった。

 人柄もよく、隊長の山本卓美中尉は彼を日本に帰して少年飛行兵の育成にあたらせようと、何度彼に説いても、彼は頑として聞かなかった。山本隊長の「これは命令だ」といっても、彼は「私のたった一度の反抗です。そういう命令はきくことができません」と承知しなかった。眼のくりくりしたいい青年だった>

 となっているが水戸陸軍通信学校を卒業しているのであるから通信士だったのであろう。

 その時の戦果は、駆逐艦マハン(一六三〇トン)輸送駆逐艦ワード(一六〇〇トン)の二隻を大破。両艦は使い物にならなくなり、最後は米軍によって沈められました。(米軍資料より)

 <勤皇隊は鉾田教導飛行師団で編成完結された。

 鉾田における二式複戦「屠龍」は、襲撃機に改修され二式双襲といった。複座戦闘機のもつ優速と運動性能は、襲撃機として十分な戦績を収めうるものと期待された。同時に編成された皇魂隊も同機を装備していた。体当たりに同乗者は不要ということで、操縦者単独で特攻に出撃して行ったのである。>

 十二機、十三名出撃し、下記のように散華されたのは十名となっています。

 残念ながら、林長守伍長と特定できる写真は見つける事が出来ませんでした。

八紘第八隊(勤皇隊) 二式双襲(屠龍) 

 昭和十九年十二月七日(写真集 特別攻撃隊より)

 山本卓美中尉 陸軍士官学校第五十六期

 二瓶秀典少尉 陸軍士官学校第五十七期

 東直次郎少尉 陸軍士官学校第五十七期

 林長守  伍長 陸軍少年飛行兵第十二期

 入江真澄伍長 陸軍少年飛行兵第十三期

 大村秀一伍長 陸軍少年飛行兵第十三期(勤皇隊最年少十九歳)

 片野茂 伍長 陸軍少年飛行兵第十三期

 白石二郎伍長 陸軍少年飛行兵第十三期

 増田良次伍長 陸軍少年飛行兵第十三期

 勝又満 伍長 陸軍予下士官学校第七期  

鉾田飛行場で菊花の下、別れの杯を交わす勤皇隊隊員

地元女子学生の見送り内、鉾田飛行場を出発する勤皇隊

 

 

 

フィリピンでの勤皇隊員

 

大村秀一伍長 陸軍少年飛行兵第十三期(勤皇隊最年少十九歳)

自ら考案したマーク入り尾翼の前に立つ山本卓美中尉

山本卓美中尉(二階級特進後少佐)遺書

 父上様 母上様 卓美ハオ先ニ失礼致シマス。 二十有余年ノ間、此ノ上ナク可愛ガッテ頂キマシタ。 山ヨリモ高ク、海ヨリモ深キ養育ノ御恩ニ何等報ユル所ナク、御心配ヲカケ通シテ参リマシタガ、今ヤ御恩ノ万一ニ報ユル時ガ参リマシタ。 光栄アル八紘隊長ニ選バレ、南海ニ水漬ク屍トナルハ男子ノ本懐、只々感謝感激ノ外アリマセン。 信ズルハ 皇国ノ必勝 祈ルハ  皇運ノ無窮 靖國神社神社デ、オ待チ致シテ居リマス。

御両親様、幸福ニ御暮シ下サイマス様、心ヨリ祈リ上ゲマス。

 昭和十九年十一月三十日 

 山本卓美

                                                  

参考文献

 「特攻に散った朝鮮人」桐原 久著

 「朝鮮人特攻隊」※淵弘(ぺ ヨンホン)著

 「写真集 特別攻撃隊」図書刊行会 昭和五十五年刊

 「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」毎日新聞昭和五十四年刊

 

 カミさんの朝ビール。

 一名様来店。

 Sさん来店。

 ギリギリブラザーズのSさん二名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

_____________________________________________________

11月4日火曜日晴れ△

 カミさんの朝ビールならぬ朝ワインの残骸。

 もうええかげんいせいよと小一時間

 加藤さん四名様で来店。

 ドンチャン。

 一応記憶あり。

 カミさんは店に来ずに一人で飲みに行って、ビールバーのママさんとハシゴ。

 大ヨッパライ。

 

_________________________________________________________________________________________________________________

特攻隊における朝鮮人 印在雄(松井秀雄)伍長

11月3日月曜日晴れ○

 自分なりに大東亜戦争における特攻隊と朝鮮人について、手元にある書籍より現在わかっているだけの事をまとめていくことにします。

 印在雄(松井秀雄)伍長

 本籍 朝鮮京畿道開城府黄金町一〇二一番地

 陸軍少年飛行兵第十三期

 八紘第三隊(靖国隊) 一式戦「隼」 昭和十九年十一月二十九日(「朝鮮人特攻隊」)

                                    十二月五日(「写真集 特別攻撃隊」)

 松井伍長の属した靖国隊は、第五十一教育飛行師団で編成された。内地から進出した特攻隊が、各教導飛行師団という将校の教育・研究機関であったのに比し、この部隊は内地・朝鮮にまたがって展開し、主に下士官の操縦訓練に任じていた。 その隊員は幹部候補生出身の少尉と、少年飛行第十三期生をもって構成されていた。

 この少年飛行兵達の年齢はまだ二十歳にも達していないが、敵撃滅の意気に燃えていた。

 このような関係で、編成完結は他隊に遅れたが、その後の行動は迅速であった。

 靖国隊はネグロス島北方のシライ飛行場を根拠地としてレイテ湾に対する特攻を諸隊に先駆けて敢行している。

 朝鮮人で最初に「散華」したとされた特攻隊員の松井秀雄伍長は、「半島の神鷲」として大々的に報じられていた。果樹園を営む松井家には、阿部信行総督はじめ朝鮮総督府幹部が続々と弔問に訪れ、新聞には家族写真まで掲載されていた。…熊谷陸軍飛行学校を卒業後に特別攻撃隊の「靖国隊」に参加した。少年飛行兵の第十三期卒業生だった。松井伍長を称賛する記事は連日のように続き、十二月九日付の『毎日新報』には、後に韓国文学界を代表する詩人となる除廷柱の追悼詩まで掲載された。

朝鮮総督府の朝鮮語機関紙『毎日新報』の四四年十二月二日付の記事、「松井伍長に続け」と題した一面の社説には、こう書かれてあった。

< 必死必中の特別攻撃を敢行して、レイテ湾内の敵艦隊を撃沈炎上させた我らの特別攻撃隊に、半島出身の荒鷲が参加していたことが明らかになった。彼こそ開城出身の松井秀雄伍長だ。(中略)松井伍長は実に半島二千六百万(註・当時の朝鮮半島の人口)肉弾総突撃の最先鋒になった。我々は襟を正し、頭を下げ、伍長の冥福を祈る。>

 ところが、「半島の神鷲」と讃えられた松井伍長は、体当たり攻撃に失敗し海に墜落したところを米軍に救助され捕虜となってハワイにある海軍病院で治療を受けた後、終戦の翌年帰国を果たしているが、その後の消息はまったくつかめていない。

 

  靖国隊の攻撃の様子を「朝鮮人特攻隊」 に※淵弘(ぺ ヨンホン)氏は「陸軍特別攻撃隊」(高木俊朗著)よりの引用として下記のように書いています。

 <大坪明少尉が指揮する六機の靖国隊と、二機の援護機がレイテ湾で攻撃を始めたのは午後四時三十五分。最初の一機が戦艦メリーランドの煙突に突入して爆発。

 その直後、米駆逐艦ソーフレイは、激戦の末爆撃機二機と戦闘機一機を撃墜して体当たり攻撃をかわした。撃墜された特攻機は、海面で爆発炎上して船の側面を焦がした。しかし、一時間後に戦闘機一機が右舷船首に激突。さらに午後六時五十分一機が船尾に爆弾二個を投下したが命中せず、海上の爆発で起きた大波によって左舷甲板にいた米兵数人が負傷した。この爆撃機は左舷五十メートルのところで撃墜された。

 同じ午後六時五十分、米駆逐艦オーリックに突撃した二機の特攻機のうち一機が、レーダーの空中線を切って右舷艦首から二十メートルの海中(海面?)に激突。他の一機は、士官室の上の甲板で爆発して船の上部構造を大破し、米兵三十二人が戦死、六十四人が負傷した。壮絶極まりない特攻隊の攻撃である。

 援護機も靖国隊と一緒に突撃を試みたようだが、この中で生存の確率が高いのは、駆逐艦オーリックへの体当たり攻撃が僅かに逸れ、海面に激突した機しかない。どうやらこの機に搭乗していたのが松井伍長だったようだ。しかも、百人近い死傷者を出したオーリックの水兵が、自分たちを攻撃した特攻隊員を救助した事になる。

 高木俊朗の「陸軍特別攻撃隊」は、陸軍で最初に出撃した「万朶隊(萬朶隊)」の唯一の生存者、佐々木友次伍長の証言を元に書かれている。>

 「朝鮮人特攻隊」p九十四〜九十五

 

 印在雄(松井秀雄)伍長はこのように勇敢に戦われた結果、捕虜となられたのであるから、なんら恥じる事のない護国の英雄である。

 

命名式

朝鮮軍司令部首脳との別れの杯

 

 

比島シライ基地で、武運を祈る守り札を受ける

 

 

出丸一男中尉

 

 

 松井伍長と一緒に出撃し散華された方々は「写真集 特別攻撃隊」の巻末にある戦没者名簿には下記のように記されています。

八紘第三隊(靖国隊) 一式戦「隼」

   出丸一男中尉  陸軍士官学校五十六期         

   大坪明 少尉 陸軍特別幹部候補生七期

   谷川昌弘少尉 陸軍特別幹部候補生八期 

   秦音次郎少尉 陸軍特別幹部候補生八期

   岡村義人軍曹 少年飛行兵第十期

   河島鉄蔵伍長 陸軍少年飛行兵第十三期

   寺島忠正伍長  陸軍少年飛行兵第十三期

   石井一十四伍長 陸軍少年飛行兵第十三期

   松井秀雄伍長  陸軍少年飛行兵第十三期(生還)   

   五十嵐四郎伍長  陸軍少年飛行兵第十三期 

 

参考文献

 「特攻に散った朝鮮人」桐原 久著

 「朝鮮人特攻隊」※淵弘(ぺ ヨンホン)著

 「写真集 特別攻撃隊」図書刊行会 昭和五十五年刊

   「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」毎日新聞昭和五十四年刊

 

 今日は私は古本屋さんに行った後は部屋から出ず。

 酒は飲まず。

______________________________________________________

11月2日日曜日晴れ○

 今日は店を片づけた後、店でカミさんと飯。カミさんは仕入れてきたビールで昼酒。

 

 神田古本祭にカミさんと共に出かける。

 ここに来ると時間があっという間に過ぎる。

 

 カミさんの朝ビールの残骸。

 ある意味ついに究極のバカ朝ビール。 ビールの「ため」だけにベルギーまでわざわざ行って、 いっぱい仕入れて来たビールのうちの一本。

 ラベルも何もないビール。

  ビールパブが自家醸造して、その店のみのビールだそうです。 アホやなw

 私は飲まず。

 写真は、昨日最後のお客様。

 早く帰って寝ろよ。

________________________________________

11月1日土曜日雨△

 ネットにあったものですが、受けました。

 私には、区別をつける事が出来ません。

 

 流石は、これだけあごの骨を削った骨でタワーを作れる民族だけの事はあります。

 

 

<韓国ソウルの病院が整形手術で切除した約1000人分の顎の骨を使った高さ60センチほどのオブジェを院内に展示>

 

 あほらし

 

 Eさん来店。

 Iさん来店。

 Sさん二名様で来店。

 今朝のカミさんの朝ビールの残骸。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

__________________________________________________________________________________________________________________

 


 

 


表紙にもどる

URAホームページ

 


過去の日記

平成26年

平成25年

平成24年

平成23年

平成22年
平成21年

平成20年
平成19年

平成18年
平成17年

平成16年
平成15年

平成14年
平成13年

平成12年

日記のめぼしい箇所(月日)