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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成24年3月分

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


Facebook(木下隆義)、Twitter(@saketamanegiya)を始めました。でも、いまいち使い方がよくわかりませんのでちびちびやって行きます。よろしければ、友人リクエストをお願いいたします。

Mixiでの当店のコミュニティは「神楽坂のお洒落でない一杯飲み屋」

管理人はめぐろのしみずさんです。

Mixiでの私自身のハンドルネームは一合です。

一合とっくりのつもりですが、酒はそれでは終わりませんのでいろいろと問題が・・・・・最近は時事的な事は書き易いので、ついついMixiの日記の方に書いております。よろしければ、ご覧下さい。もっと、よろしければ、当店のコミュニテイに参加してください。もっと、もっと、よろしければ、マイミクに。


3月31日土曜日一時強風、大雨のちくもり ○

 今日は強風、そして、大雨というメチャメチャな天候。

 そんな中、地下鉄にいたどうしようもないアホガキ。

 初めてのお客様Kさんご家四名様で来店。

 初めてのお客様Iさんお二人様で来店。

 Mさんお二人様で来店。

 なんと、御祝いにパーカー百点ワインであるシャトームートン一九八六を持って来てくださる。

 ありがとうございます。

 一九八六、昭和六十一年は私が「酒いわしや」を早稲田に開いた年。

 ホロンさん来店。

 Oさん来店。

 

 今日は今朝までの酒のおかげで飲む気になれず。

 猿でもエビでもない。

 

 


 

3月30日金曜日くもり×

 初亀の出品酒が入荷したと長谷川酒店さんより連絡あり。

 今年はR瓶(五百ml)で三十六本だそう。

 バンブーさん来店。

 二名様来店。

 初めてのお客様Nさん二名様で来店。

 Hさん御夫妻来店。

 Kさん来店。

 営業終了後、新橋の「カッシーズバー」さんへお邪魔する。

 ドンチャン。記憶なし。

 猿以下

 でもエビではないと思う。


3月29日木曜日晴れ ×××

 初めてのお客様Oさん二名様で来店。

 Kさん、Nさんと来店。

 Mさん、侑さんと来店。

 アダージョ、妙、そして、オーストラリアのグリーノック・クリークの旗艦ローエンフェルト・ロード カベルネ2005

 

 営業終了後、「アリベ」さん「エムズバー」さんとハシゴ。

 

 全く記憶なし。

 猿以下。

 でもエビではない。


3月28日水曜日晴れ○

 台北でどうしても乗りたくて探したが見つからなかったタクシー。

「拒載韓国人(韓国人の乗車拒否)」

http://news.livedoor.com/article/detail/6364207/

 今度行った時にも頑張って探そう。

 

 Sくん二名様で来店。  初めてのお客様Kさん三名様で来店。

 今日は酒は飲まず。  猿でもエビでもない。

 サッサと寝る。


 

西郷菊次郎顕彰碑(西郷廳憲徳政碑)

3月27日火曜日晴れ △  

 今月十七日よりの今回の台湾旅行の目的のひとつである雅ちゃん、ミミちゃん姉妹と一緒に行き、お参りさせていただいた西郷菊次郎顕彰碑(西郷廳憲徳政碑)に刻まれた碑文についての日本語訳が手元にある『西郷菊次郎と台湾』(佐野幸夫 南日本新聞開発センター 平成十四年刊)に掲載されていますので、引用させていただきます。

 

西郷廳憲徳政碑 (日本語訳)

 昔から仁徳によって世を治めた人はいた。例えば漢民が良官黄覇の府門に登って引き留め、斉州では薛公を偲んで床を留め保存した。また繁地の楊君は天子の車で民に穀物を運ばせ、武陵では民衆の為に楽令の園を解放した。それらは盛徳が民衆の心に深く刻み込まれていたためであり、官職を去るとなったら、追慕する民心には切々たるものがある。いかなる場合でも誠を尽くし、民衆の心をつかみ、私利私欲のないことを示せば自然に民衆の心は安定するものである。我が前任の西郷菊次郎氏は仁徳によって民衆を教化させた。それはあたかも草の風に靡く、慈雨によって植物を潤した。君主の仁政によって人民が自然になびかれ教化されるよき例であるといえようか。

 西郷公は華族の出身であり、一地方長官として要職を歴任し、責任を全うした人物である。宜蘭に赴任した当時は、政情は不安定で、盗賊がはびこり、人心は乱れたままであった。もしこの場で強行策を取ったならば、民衆は傷つき、生活は破綻してしまう恐れがあった。しかし、強行手段を、用いなければ、民の生活を得ることができたであろうか。そこで、公は考慮の末、善政策を採った。即ち、仁徳をもって民にむくい、凶悪なる民を信じ、従わせた。と同時に法を制定して、これを守らせ、尊敬と信頼の関係を勝ち取った。

 赤子朱登の帰来を喜ぶの如く、慈愛にあふれた長官が宜蘭において善政をしくことは万民の喜びである。こうして今や宜蘭の地は平和に満ち、民衆の心は和らぎ、百年の計を定めた。即ち学問を興し、賢士を育て、田畑には均等に課税し、農民の労働意欲を促し、農業従事者を増やし、道路を整備して、交通の便をよくし、その上、堤防を築いて洪水を防いだ。以後、宜蘭は水害の知らない土地となったのである。

 凡ての弊害をのぞき、悪を正し、善政を興すのは他人のいやがる事に挑戦し、他人の為になることを率先して行なうことである。西郷公という方はその清廉潔白、性情温厚なことはちょうど孟子のいう無私無欲と同じであり、その穏やかさと優雅さは※子賤が琴を弾いて自然無為の治のようで、道理を究めることは張九齢が記せる金鑑録のようで、士を愛するは桓公、武公が職を尽くした功臣のようである。西郷公は旧来の政策で、民衆の馴染んでいることを考慮し、廣く昔からの良いと思われる法を集め、常に大衆の意に添う法を選択し従った。(※変換出来ず 宀に必)

 

 また公は徴税の際も強制的にせず、困窮する民を助け、厚く施したので、その徳行と勲功を成し得る結果となったのである。

 そういう公であれば民衆はその誠意を感じ取り、慈悲の心に打たれ、暴力からの被害はすっかり姿を消した。五年来民衆は安心して耕し、此の地はたいそうすばらしく豊かになっていた。もし此の地の民が穎川の百姓のように倣って寇恂を挽けば、大官も先を争って朝廷に上奏し、公の官位の引き留めが実現したであろう。知らなかったのであろうか、もし引き留め成功すれば、功徳が益々広まり、土地が肥えれば草木は繁茂し、益々盛んな土地になったであろうに。

 

 西郷公は退任し、帰郷する事を知るやいなや、民衆は途端に養う者が無くなったような孤独感を感じた。植樹した木が年を経て広い木陰を作るように、氏の善政は長く此の地に残り讃えられるであろう。後日石碑に刻む事によってこの美談を記すことは、民衆の真心から発した適正な判断である。民衆の感謝の気持ちは誠に深く、慰留の望みは強いが、もうどうしようもない。馮意に例えるなら、誰しも彼が五彩飾り立ての馬に乗る雄姿を待ち焦がれ、いつかまた子供達が竹馬に跨がりて郭仍の到来を迎えられるか。

 西郷公を偲ぶに糸を買って像を刺繍する事なかれ、家々に線香を立て供える事もしては行けない。最も相応しい事は晋人が羊祐を記念して彫った「落涙碑」のようにすることである。西郷公の栄光を永々に伝えるべく、ここに碑を健立し、公の徳を讃えるものである。

   

   明治三十八年 月 日 吉日  宜蘭廳全各界士人健立

 引用「西郷菊次郎と台湾」佐野幸夫著 南日本新聞開発センター 平成十四年刊 p百三十六〜百三十八

 

 同じく「西郷菊次郎と台湾」より堤防工事の概略

 宜蘭川堤防

 明治三十三年四月着工 三十四年九月竣工(第一期工事)

 長さ九三四間 工事費三万九千三百円

 大正十三年西郷堤防と命名

 工事そのものは、一機と二期に分けられ、西郷菊次郎在任中に第一期工事が完成し、第二期工事は西郷菊次郎退官後大正十五年まで掛かり完成している。

 

 

 

 宜蘭はではタクシー運転手の林文※(火に然)氏に大変お世話になった。

 

 

 林さんだけでなく、閉まっていた戦闘機格納庫をわざわざ開けてくださったボランティアの方など多くの台湾の方に日本人ということで、親切にしていただいた。

 それは台湾において先人がどのように生きてきたかの証です。

 すべて先人おおかげです。

 これは何度か書いていますが、私は昭和五十四年から二年間北米を放浪している時に、多くの皆様にお世話になりました。

 メキシコのグアダラハラにおいても、日系メキシコ人の方々から大変お世話になりました。

 そのグアダラハラにおいて、お世話になった日系メキシコ人の方から、「木下さん、あなたは旅行者だから、メキシコを楽しんで帰ってくれ。酒を飲んで、恋をして、何をやってもいいから、メキシコを好きになって帰ってくれ」

 と言われた後に、

「でも、何をやってもいいけど、日本人の恥になるようなことだけはやらないでくれ」

と言われました。

 メキシコだけでなく、ブラジルでは、「ジャポネス・ガランチード」(日本人的保証)という表現があるほど信用されています。ブラジルの人々からこのような表現があるほどの信用を得ているのです。

 現在、支那、朝鮮以外の世界のいろいろな国々を訪れた時に、日本人という事で不愉快な思いをする事はありません。

 今現在、多くの国において、日本人が尊敬され、信用されているのは、我々の先人がそれぞれの国に日系人、日本人として外国人としてのハンディを背負いながら、その足で立っているその国に一生懸命尽くしてきた結果に他なりません。

 けっして、今現在の日本人が尊敬されているからではありません。

 これからも先人のように尊敬される日本民族でいられるであろうか。

 それは、我々、今現在の日本人しだいです。

 自分の立っている国に尽くさず、「権利」ばかりを主張しているクズどもはその国の国民より一生尊敬される事はありません。

 

 それは、朝鮮人、支那人をみていれば明らかです。

 G23、かな江ちゃん御夫妻、さぶちゃん、Kさん五名様で来店。

 アンコウ鍋でドンチャン。

 初めてのお客様Fさん二名様で来店。

 Mさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 猿よりマシ。


 

西郷菊次郎顕彰碑(西郷廳憲徳政碑)

「日台を結ぶ武士(さむらい)の絆」

3月26日月曜日晴れ ○

 週刊新潮の櫻井よしこ氏のコラム「日本ルネッサンス」に「日台を結ぶ武士(さむらい)の絆」と題されたコラムが掲載されていました。

 以下引用

<日台関係の堅密さは人間同士の親和性から生まれている。そう実感させたのが一月十四日の台湾総統選挙の取材でお会いした白井真由美さんだった。台湾出身の彼女は数奇な人生を歩んで日本人となり、現在は日系米国人と結婚。カリフォルニアで小さなテレビ局を運営している。

 白井さん一家の物語は古き良き日本人と台湾人の物語だ。それは「立派な日本人として生きたい」と自身を鍛錬した父の物語から始まる。

 父の生年月日を尋ねると、「大正十年」と即答した白井さんは一九四七年生まれ、台湾名は林彗珍である。

 「父は日本統治下の台北州宜蘭郡生まれです。宜蘭庁長は西郷隆盛の子息、菊次郎さんでした。そのせいで、父は自分の事を『おいどん』と呼ぶ『九州男児』でした」

 聞く次郎は西郷が奄美大島に遠島にされた折、名門龍家の娘、愛加那との間に生まれた。西南戦争では一兵卒として戦い、右足を失った。

『西郷菊次郎と台湾』(南日本新聞開発センター)を著した佐野幸夫氏は、菊次郎の足跡を十三歳で留学した米国、西南戦争後に入省した外務省、台湾宜蘭庁長、京都市長と辿り、菊次郎が父の「敬天愛人」を実戦したことを丁寧に描写している。同書の序で、台北中日経済文化代表処元代表の羅福全氏が「宜蘭の近代化建設の基礎を確立した」菊次郎を台湾人が追慕して建てた記念碑「西郷庁憲徳政碑」を紹介している。

 菊次郎の宜蘭赴任は明治三十年(一八九七年)から明治三十五年(一九〇二)年末まで、白井さんの父林栄峰氏が生まれた大正十年(一九二一)年のかなり前だ。だが、林氏が自らうぇお「おいどん」と呼んで親愛の情を示す程、菊次郎に代表される日本の台湾統治は台湾人を大切にした。

 国民党軍の横行に愕然

 立派な日本人でありたいと欲した林氏の教育は厳しく、妻や娘の家事にも規律を求めたという。

 「たとえば洗濯物は男物と女物は一緒に干してはならない。男は寡黙で責任感が強くあれ、女は礼節を守り愛情深く他者への配慮を心がけよと言われてきました」と、白井さん。

 林氏は昭和十三年、十七才で日本軍に志願した。台湾語、日本語、中国語が達者なため、軍の通訳となり、貧しかった一家を支えた。入隊後すぐに、日本軍が占領した南京に派遣された。この時氏は頭部に傷を負い、治療のため大阪に送還された。その後台湾に戻った氏は高雄の台湾製糖に入社し、日本人技師、天野温四氏と運命的な出会いを果たす。

 天野氏は明治四十二年、兵庫高校を卒業後、台湾に渡った進取の気性に富んだ人だ。当時、台湾の産業は製糖と米作が主で、日本人がすでに幾つか小さな製糖所を作っていた。氏はそのひとつで技師として働き,やがて製糖の機械を作る台湾製鋼所の工場長、更に常務取締役となる。昭和十六年に日米開戦。日本はフィリピンに進出し,マッカーサー撤退後の各工場を管理運営するために天野氏は軍令で昭和十七年、マニラ入りした。 

 その工場で二十四歳の林氏と、後に林氏夫人となる李蘭玉さん二十歳が働き出したのが,昭和十九年四月だった。

 「でもその年の十二月二十七日には軍から非戦闘員に疎開命令が出て、台湾鉄鋼所の、今風に言えばOLだった私達女性五人が一足先に疎開したのです」と蘭玉さん。天野氏ら男性陣は米軍と戦う為に残ったが、彼らもひと月余り後に山中に逃げた。両者は合流し終戦後の九月まで,北部ルソン方面の山中を逃げ続けた。 

 昼間は身を隠し、移動は夜間、食糧は山芋とその葉っぱとトカゲだった。逃避行の間、林氏は五十歳を過ぎた天野氏に負担をかけないよう二人分の荷物を背負い天野氏を守り続けた。ある時、天野氏が言った。

「林君、君は戦死した僕の一人息子のようだ。生還出来るかわからないが、縁があったら親子になろう」

 九月、一行は投降した。DDTを振りかけられ、男女別別に収容所に入れられ、消息は互いに知る事もなかった。林氏と蘭玉さんは、台湾帰国のための船が博多から出るのを知って乗船した際に再会し、やがて結婚する。

 台湾に戻った林氏は、蒋介石の国民党軍の横行に愕然とした。

 故伊藤潔氏の「台湾四百年の歴史と展望」(中公新書)によると、一九四七年二月末までに国民党が接収した日本軍の資産は土地を除けば、公的機関五九三件、二九億三八五〇万円。民営企業一二九五件、七一億六三六〇万円。民間私有財産四万八九六八件、八億八八八〇万円。計五万八五六件、一〇九億九〇九〇万円に上る。実に膨大な資産である。

 『みな武士』

 国民党は台湾を占領し日本の資産を接収すると、台湾と日本の関係を断ち、台湾人を弾圧し搾取した。こうして四十七年二月二十七日、煙草売りの未亡人が銃で頭部を殴打され所持金を取り上げられた事件を切っ掛けに二・二八事件が起きた。国民党の発表でも二万八〇〇〇人が殺害された大殺戮だったが、国民党は此の時、台湾社会の知識人や指導者の名簿を作成し、皆殺しを図ったといわれる。

 リーダー層を消し去りその民衆の力を殺ぐのは、同じ漢民族の中華人民共和国がチベット、ウイグル、モンゴルの各民族に使った手法でもある。

 林氏は台南に移り、四人の子供を育てようとした。しかし、日本を愛する氏は国民党政権下で警察の監視対象となった。白井さんが語る。

「台湾ではもう暮らしていけないと考えた時、父は天野さんとの約束を思い出したのです。でっ、行方も知れない天野さんについて、婦人楽部の尋ね人欄に投稿しました。すると、判ったんです。居所が・・・」

 林氏は天野氏に一家で養子にして欲しいと便りを書いた。天野氏はすぐに応えた。「一晩で四人も孫ができてこんなにうれしい事はない」

 一家は取る物も取り敢えず、来日した。六五年(昭和四十年)のことだ。船で神戸に着くと、税関の担当者に言われた。

「養子で来たのに観光ビザでは入国で来ません」

「日本の法律に背いて入国するつもりはありません。このまま戻って出直して来ます」と林氏。

 しかし、戻れば、国民党政権が一家の脱出を容認するとは思えなかった。

 その時、税関の局長が、待っていなさいと言った。局長は即上京し、法務大臣石井光次郎に掛け合った。

一部始終を聞いた石井は即断した。

「特別許可でいいんじゃあないか」

 こうして林家の六人は一家挙げて天野家の養子となり、日本人となった。白井さんがしみじみと語る。

「天野のおじいちゃんも武士(さむらい)、

 税関の局長さんも石井法務大臣もみな武士。

 私の父も武士になろうとした」

 林家の人々は全員天野姓となり、雅智と改名した栄峰氏は九六年(平成八年)に亡くなり、養父の分骨と共に岡山県東山墓地に眠る。日本名静江となった夫人は今も岡山県に健在である。>

引用終わり。

櫻井よしこ「日本ルネッサンス 日台を結ぶ武士(さむらい)の絆」

 週刊新潮平成二十四年二月九日号P百三十四〜百三十五

 

 私は櫻井氏最後の方の文章である

<天野氏はすぐに応えた。「一晩で四人も孫ができてこんなにうれしい事はない」

 一家は取る物も取り敢えず、来日した。六五年(昭和四十年)のことだ。船で神戸に着くと、税関の担当者に言われた。

「養子で来たのに観光ビザでは入国で来ません」

「日本の法律に背いて入国するつもりはありません。このまま戻って出直して来ます」と林氏。

 しかし、戻れば、国民党政権が一家の脱出を容認するとは思えなかった。

 その時、税関の局長が、待っていなさいと言った。局長は即上京し、法務大臣石井光次郎に掛け合った。

一部始終を聞いた石井は即断した。

「特別許可でいいんじゃあないか」

 こうして林家の六人は一家挙げて天野家の養子となり、日本人となった。白井さんがしみじみと語る。

「天野のおじいちゃんも武士(さむらい)、

 税関の局長さんも石井法務大臣もみな武士。

 私の父も武士になろうとした」>

 この箇所で涙がとまりませんでした。

 私はこの桜井氏の文章を読んで、次回、台湾を訪ねた時に宜蘭にあるという「西郷廳憲徳政碑」をお参りしたいと思い、雅ちゃんにお願いしました。

 続く

 今日は何処にも出かけずに、一日中部屋にいました。

 酒は飲まず。

 猿でもエビでもない。


 

渡辺淳一の歴史感

3月25日日曜日晴れ○

 エロ作家渡辺淳一氏が週刊新潮に「あとの祭り」というコラムを連載しています。

 この問題あるコラムについては過去に何度か日記に取り上げた事があります。

 そのエロ作家が少し前の週刊新潮に書いていた事です。

 

以下引用

 <南京虐殺に思う

 このところ、河村たかし名古屋市長の発言が中国でとり上げられ、日中友好関係に大きな影を落としているようだが。

 

 数字はともかく

 ことのおこりは、河村市長が、南京大虐殺における死者が三十万人とされているが、それほどではなかった、これは中国人の過剰反応である、と述べたとか。

 

 これに対して、南京がある江蘇省では、省政府職員へ、名古屋への渡航禁止通達をだしたことから、問題が大きくなったようである。

 それにしても、河村市長がなぜ今頃、こんな発言をしたのか。

 その真意はよくわからないが、今この問題をとり上げても、被害者数が正確にわかるわけはない。

 それというのも、当時の生き残り者は今は皆無。改めて調べたくても調べようがない。いや、当時だって、はっきりわからなかったろう。

 だから、三十万人というのは、被害者の概算というわけ。

 これに対して、そんなに多くはないという加害者側、日本側の意見は以前からあった。

 いずれにせよ、日本人として、あまり気持ちのいいデータではないことはたしかだが。

 なにをやらかしたか

 それにしても、当時の南京市内の様子を想像すると、身の毛もよだつ。

 その時、勝ち誇った日本軍は南京市内に入城した。

 こう書くと、「粛々と隊伍を組んで」、と思いたいところだが、その実、将校も兵隊も食うや食わずで、ようやく南京に到着して、一気に解放されたのだろう。

 そこで、彼等がやらかしたことは、略奪と暴行。

 日本軍は、そんなに統率がとれていない野蛮な軍隊だったのか、と悲しくなるが、かつて、中国を転戦していた親戚の叔父さんにきいた話では、街に入ると、それに近いことはやっていた、とのこと。

 まして、南京のような大都市には、さまざまな食物があり、美しい女性も沢山いたに違いない。

 それらに殺到し、邪魔する者を片っ端から排除する。

 それは南京市民が憎いというより、長く抑制を強要されてきた兵隊たちが、獲物を目前にして舞い狂った瞬間、とでもいえばいいのかもしれない。

 とにかく、当たるを幸い薙ぎ倒し、さらに女性たちを襲う。

 南京市内では、そんな地獄絵がくりひろげられたのだろうか。

 そして、その犠牲となった市民が三十万人であったと。

 この数字が正しいか否か、わたしにはわからない。

 しかし、のちに南京市が被害者を数えあげたら、三十万人に達した、というわけだろう。

 当然このなかには、単純に殺された者以外に、暴行などを受けて半死半生のまま放置された婦女子も、さらにはそれらを目撃して、気の狂った人も含まれているかもしれない。いや、実際そこまで含めたら、三十万人はゆうに超えていたかもしれないが。

 いずれにせよ、集団虐殺の数字ほど、正しく計算するのが難しいものはないだろう。

 それはともかく、被害者側の南京市が、三十万人という数字を出しているのに対して、加害者側の日本人が、そこまではいっていない、というのはナンセンスな話。

 その数字が正しいか否かより、まず、そういうことは断じてするべきではない。してはいけないことと、肝に銘じるべきである。

教訓として

 それにしても、このような凄惨な事件を、かつての日本軍が、本当にしでかしたのだろうか。

今となっては、疑問に思う人も多いかもしれないが、わたしは、少なからずあったろうと思う。

おまえは、日本軍を犬畜生のごとき卑劣な軍隊と思うのか、と責められそうだが、正直いって否定はできない。

なぜなら、かつての軍隊や兵士の横暴さと身勝手さを見て、子供心に呆れていたからである。

 内地の日本でさえ、当時の日本人は中国人や韓国人にあれほど威張っていたのだから、敵地の都市で、抵抗できない中国人を見たら、なにをやらかしたかわからない。

幸か不幸か、その頃、わたしはまだ小学生だった。

だが、子供は子供なりに、さまざまなものを見て、感じていた。

たまたま、親戚がいた炭鉱町に行ったとき、そこの谷底にある外人労働者の飯場では、立ったまま食事をさせられ、殴られて「アイゴーアイゴー」と泣き崩れている労働者がいるから、行ってはいけない、といわれていた。

しかも、そこの残忍な棒頭をやっていた男が、私の祖母の家に間借りしてた、気のいいおじさんであったことに二度おどろいたけど。

こういうことは、わたしの近著「瓦礫の中の幸福論」で書いたが、日本人はこの時代の日本を、あまりに知らなすぎる。

いや、学校で意企的に教えなかったようだが。

それにしてもいま、穏やかで良識あふれるように見える日本人のなかにも、いつ、悪魔にならないともかぎらない血がひめられている。

一人のおじさんのなかに、天使のような優しさと、悪魔のような非情さと両方秘められていて、それが人間なのである。

 南京大虐殺の記念館は、そのための教訓だと思えば、とくに騒ぎ立てることもないと思うのだが。>

引用終わり

(「週刊新潮」平成二十四年三月十五日号p六十四〜六十五)

 いかがであろう。

 この渡辺淳一の文章は今まで何度か取り上げてきましたが、何も変わっていません。

 「加害者」である日本人は

<その数字が正しいか否かより、まず、そういうこと(は断じてするべきではない。してはいけないことと、肝に銘じるべきである。>

 と断じています。

 アホかと。

 このエロ作家は

<それにしても、当時の南京市内の様子を想像すると、身の毛もよだつ。

 その時、勝ち誇った日本軍は南京市内に入城した。

 こう書くと、「粛々と隊伍を組んで」、と思いたいところだが、その実、将校も兵隊も食うや食わずで、ようやく南京に到着して、一気に解放されたのだろう。

 そこで、彼等がやらかしたことは、略奪と暴行。

 日本軍は、そんなに統率がとれていない野蛮な軍隊だったのか、と悲しくなるが、かつて、中国を転戦していた親戚の叔父さんにきいた話では、街に入ると、それに近いことはやっていた、とのこと。

 まして、南京のような大都市には、さまざまな食物があり、美しい女性も沢山いたに違いない。

 それらに殺到し、邪魔する者を片っ端から排除する。

 それは南京市民が憎いというより、長く抑制を強要されてきた兵隊たちが、獲物を目前にして舞い狂った瞬間、とでもいえばいいのかもしれない。

 とにかく、当たるを幸い薙ぎ倒し、さらに女性たちを襲う。

 南京市内では、そんな地獄絵がくりひろげられたのだろうか。

 そして、その犠牲となった市民が三十万人であったと。

 この数字が正しいか否か、わたしにはわからない。

 しかし、のちに南京市が被害者を数えあげたら、三十万人に達した、というわけだろう。

 当然このなかには、単純に殺された者以外に、暴行などを受けて半死半生のまま放置された婦女子も、さらにはそれらを目撃して、気の狂った人も含まれているかもしれない。いや、実際そこまで含めたら、三十万人はゆうに超えていたかもしれないが>

 と書く、我が国軍隊の「虐殺」をやった根拠というのは、

<なぜなら、かつての軍隊や兵士の横暴さと身勝手さを見て、子供心に呆れていたからである。

 内地の日本でさえ、当時の日本人は中国人や韓国人にあれほど威張っていたのだから、敵地の都市で、抵抗できない中国人を見たら、なにをやらかしたかわからない。

幸か不幸か、その頃、わたしはまだ小学生だった。

だが、子供は子供なりに、さまざまなものを見て、感じていた。

たまたま、親戚がいた炭鉱町に行ったとき、そこの谷底にある外人労働者の飯場では、立ったまま食事をさせられ、殴られて「アイゴーアイゴー」と泣き崩れている労働者がいるから、行ってはいけない、といわれていた。

しかも、そこの残忍な棒頭をやっていた男が、私の祖母の家に間借りしてた、気のいいおじさんであったことに二度おどろいたけど。

こういうことは、わたしの近著「瓦礫の中の幸福論」で書いたが、日本人はこの時代の日本を、あまりに知らなすぎる。

いや、学校で意企的に教えなかったようだが。

それにしてもいま、穏やかで良識あふれるように見える日本人のなかにも、いつ、悪魔にならないともかぎらない血がひめられている。

としています。

 

<それというのも、当時の生き残り者は今は皆無。改めて調べたくても調べようがない。いや、当時だって、はっきりわからなかったろう。>

 と書いていますが、多くの兵士、報道人の証言があります。

 このエロ作家が購読しているであろう当時の朝日新聞記者の証言もあります。

 

<南京大虐殺の記念館は、そのための教訓だと思えば、とくに騒ぎ立てることもないと思うのだが。>

とまで書いています。

 支那の南京郊外の江東門近くにある「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」いわゆる「南京虐殺記念館」は、当時の日本社会党、今の社民党の田辺誠(田邊 誠)が、わざわざ二度も支那に頼みこんで総評の金で作ったものです。

 日本人が設計までして作った「大虐殺記念館」ですが、資金として提供した三〇〇〇万円も、実際には八〇〇万円しかかからず、残りは支那人が分けてしまった。

 展示してある資料も総評など日本側がそろえた物がほとんどであり、この建物に描かれた三十万人と言う被害者数も、支那側は、「政治的数字だ」と返答しています。

 つまり、「三十万人」と言う数字は「歴史的事実」では無く、「政治的数字」であると、支那が自ら認めている訳です。ここに展示されている「証拠写真」といわれているものもやらも、ほとんどがやらせ写真あるいは合成写真などです。

 このエロ男は何も自分で調べようともしないで自分で勝手に想像しているだけのアホウです。

 それは、この男の在日朝鮮人について書いてある事でもわかります。

 こんなアホウ男の文章を銭を払ってまで掲載している新潮社のレベルを疑います。

 「中国の戦争宣伝の内幕」(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著 田中秀雄訳 芙蓉書房出版 平成二十一年刊)

 に下記のように書かれています。

<満州の湊天で日本人は六百人の朝鮮人、満州人、中国人に対して医者にするための教育をしている。たぶんそれは世界でも最も大きく立派な学校である。怠情きわまる中国を救おうと、日本人の内科医や外科医を先陣にし、その後ろに医学生の軍団を準備して送り届けようとしているのである。

 私は以前、中国の疫病が流行している地域に入って行ったことがある。そこには西洋人がまるで弾丸で撃たれるかのように倒れて死んでいるところだった。そこで私はいつも日本人の病院と医者を見つける事が出来た。自国民だろうがそうでなかろうが関係なく、彼らは快くワクチンの接種をしてくれた。中国人も同じサービスを受けていた。

 日本人に対する盲目的な偏見を持っている西洋の人々や国々は、日本が文明のために極東で、本当はどんなことをしているのか苦心して知ろうとは少しもしない。一部の宣教師はさておいて、これらの国々は中国人や満州人がコレラやチフスその他の沢山の病気で死んでいこうがいくまいがちっとも気にかけない。東洋では何百年もこれが続いているが、彼らは貿易で金を持ち出しているだけなのである。しかしながら日本人は気にかけていたのだ。それだけでなく世界のどの国よりもこれらの疫病を制圧したし、あるいは医師や看護婦団、近代医学と衛生設備によるチェックと監視を続けるということをやっているのである。>

p一〇二〜一〇三

 この本の原本は一九三八年十一月にアメリカで刊行されています。

 我が国が現地においてどのような統治をしていたかを現す一つの例だと思います。

参照

こうやって歴史は歪められて行く

http://www.tamanegiya.com/asahitohonnda21.5.24.html

戸井田とおる議員の答弁より見える真実

http://www.tamanegiya.com/toidagiinnnotoubenn19.3.15.html

百人斬りのウソと本多勝一、朝日、毎日の厚顔さ

http://www.tamanegiya.com/hyakuninn.html

 今日は店を片付けた後、部屋に帰り一日中ゴロゴロと漫画や雑誌を読んで一日が終わりました。

 酒は飲まず。

 猿でもエビでもない。


 

東一の会

3月24日土曜日雨のち曇り △

 夕方より飲んべえの会。

 今日は東一。

 出品酒

NO.1 東一 大吟醸選抜酒         平成15年発売

NO.2 東一 純米大吟醸選抜酒       平成16年発売

NO.3 東一 大吟醸選抜酒         平成20年発売 

 

NO.4 東一 大吟醸選抜酒         平成22年発売

NO.5 東一 大吟醸選抜酒         平成23年発売

NO.6 東一 純米大吟醸          平成23年発売

NO.7 東一 大吟醸            平成23年発売

NO.8 東一 純米大吟醸 生        平成24年発売

NO.9 東一 大吟醸 生          平成24年発売

プラス東一 大吟醸 生 にごり      平成24年発売

 ドンチャン。

 

 

 

 めぐ蔵さん体調不良のため、お手伝いいただけなかったので、私が片付けなければならず、一生懸命洗い物をやり猿になり切れず、記憶あり。


3月23日金曜日雨 ○

 Nさん、Kさんと来店。

 バンブーさん来店。

 Sさん三名様で来店。

 初めてのお客様Mさん五名様で来店。

 初めてのお客様Nさん女性ばかりで三名様で来店。

 二度と来て欲しくないお客。

 思わず、塩蒔きました。

 一名様来店。

 Oさん、Nさん来店。

 一名様来店。

 メチャ忙しく、酒は飲まず。

 営業終了後も飲みにでる元気もなくサッサと寝る。

 猿でもエビでもない。


3月22日木曜日くもり△

 写真は近所のセブンイレブンにあった南朝鮮のキムチ。

 誰がこんな薄気味悪いもんを買うんだろう。

 Oさん来店。

 Mさん二名様で来店。

 Kさん二名様で来店。

 Mさん来店。

 ドンチャン。

 営業終了後、Kさん、Mさんたちと初めてのお店へ。

 記憶は一応あったように思う。

 猿よりマシ。

 エビではない。


 

台湾のワンちゃんとニャンコ

3月21日水曜日晴れ △

 写真は今回の台湾旅行で出会った犬と猫たち。

 ワンちゃんは一年中日曜日状態で、絶対に番犬失格です。

 

 

 

堂々とど真ん中で寝てます。

 

 野良ものんびりしてて、触っても平気です(金瓜石)。

 

 

 宜蘭で出会った野良は車が来ても平気。

 

 こんなので、野良が務まるのでしょうか。

 

 金瓜石派出所にいたワンちゃんも、メチャ愛想が良くて子供達の人気者でした。

 

 極め付きは金瓜石で「寝ていた」ニャンコ。

 

 死んでるのではありません。寝てるのですが、とにかく、起きません。

 

 

 

 人間など完全に無視です。

 

 オマケ。

 前回、台南の新幹線駅に寝ていた野良。

 

 

 犬も猫もここまでのんびりとできる台湾が益々好きになりました。

 

 初めてのお客様Kさん二名様で来店。

 Mさん来店。

 今日はメチャヒマ。

 久しぶりに、自分の店の酒をそれなりに飲む。

 でも、猿でない。

 もちろんエビでもない。

 サッサと寝る。


台北4日め(最終日)

3月20日火曜日くもり ○

 朝起きて、ホテルのレストランでコーヒーと果物。

 其の後、雅ちゃんに連れて行ってもらったのは、「好公道の店」(「の」という平仮名が使われている)

 昨年十月に店名が「金鶏園」から変わったそうですが、人気店で、日本人の観光客も多いようです。

 

「好公道の店」

台北市永康街28-1号

(02)2341-6980

 

 

 料理は今日、雅ちゃんがセレクトしてくれたメニュー(排骨麺、蟹黄湯包、紅豆鬆※、銀耳蓮子湯 ※は当てはまる字がありません)はすべて美味しかったです。

 特に排骨?は出汁が効いていてバランスもよく、三回の台湾訪問で一番美味しい麺だったです。クソマズいのに何で人気があるのかわからん築地のラーメン井上の百倍は旨いです。

 次回は夜に来ていろいろな料理を食べてみたいです。

 

 う〜ん、でも、ちょっとこの壁に掛かっていたパネルの日本語はいかがなものか・・・・・・

 其の後、朝ビールをしたいという雅ちゃんのご希望で、ベルギーのコーヒーチェーン「Panos」。

 アジア一号店だそう。

 

 

 

 

 

 生ビールが四種類楽しめます。

 注ぎ方も非常に拘って、きめ細かい泡です。

 生ビール2杯で一杯オマケしていただいたビールで「歩きビール」をしながらホテルへ。

 

 ホテルに帰って、昨日、宜蘭にて購入した柑橘類二種類(桶柑、茂谷柑) を食べる。

 

 雅ちゃんに松山空港まで送っていただき、午後一時四十五分の全日空で帰国。

 しかし、なんだろうね。

 この胸くそ悪い朝鮮語表記は。

 朝鮮にも日本語表記が親切にされているのであろうか。

 店に寄ってから帰宅。

 酒は飲まず。

 猿でもエビでもない。


台北3日め

3月19日月曜日曇りのち一時雨 △

 写真はズラリと並んだ台北の原チャリでの通勤風景。

 午前中に雅ちゃんの妹さんのミミちゃんと落ち合って三人で高速バスで宜蘭へ。

 

 

 宜蘭に着いてから、まず、食事。

 

材料を見て、客が選んだ材料を調理してくれるスタイルのレストラン。

 

 

 

 昼酒ならぬ昼ビールW

 

 

 このレストランでも、見ず知らずの年配の方が、「日本人ですか」といろいろと話をしてくださる。

 宜蘭には台湾の為に尽くした西郷菊次郎の顕彰碑がある。

 

 

 西郷菊次郎顕彰碑に行く途中に偶然見つけた酒蔵は、建物が古く、大きな工場で観光バスもう受け入れているまさに観光コースであるが、醸造工場などは見られない、レストラン、売店のみの全く行く価値のないところでした。

 

 其の後、我々が日本統治時代の旧跡を見に来た事を知った偶然お会いした運転手・林文※(火に然)氏が、まさに商売抜きで旧跡を案内してくださいました。

 宜蘭神社

 

 

灯籠に張られている当時の宜蘭神社。

 

 

 雅ちゃんは神馬に描かれていた「台湾総督府」のマークにすぐ気が付いたそうですが、私は雅ちゃんからいわれるまで、全く気付きませんでした。

 

 

 

 蒋介石と一緒に来た支那人どもに破壊されたもう一頭の神馬と狛犬などが、支那人どもの蛮行を現すために破壊された状態で置かれています。

 

 興建南機飛行場跡にある格納庫。

 

 

 同じく、田んぼの中にある格納庫。

 

 

 鍵が掛かっていたが、管理しているボランティアの方が日本人が見に来たという事で、わざわざ開けてくださった。

 

 

 

 タクシー運転手の林氏は途中からタクシーメーターを作動させてなかった。

 バスターミナルまで送ってくださった後に料金を伺うと「三百元」とおっしゃる。雅ちゃんもおどろくほど余りにも少なくて申し訳ないので少しだけ気持ちをお渡しする。

 

 雅ちゃん姉妹に大受けだったバスターミナルのあるビルの中にあった自動販売機。

 

 ホテルに一度寄ってから今日のドンチャン先である「寿司 MASA」さんへ。

 

 台北市松山區市民大道4段155號

 02-25702590

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オーナーの昌さんから「元気付け?に」といただいた薬酒。

 

 今日も部屋に帰り、バタンキュー

 猿よりマシ。

 エビではない。


台北2日め

3月18日日曜日晴れのち曇り一時雨 △

 朝起きて、ホテルの地下にあるレストランでバイキング形式の朝食。

 

 今回のホテルは雅ちゃんの友人の方のお勧めのホテル。

 

 バスで金瓜石へ。

 

 

 金瓜石は金山があったところ。

 

 

 

 

 そして、ここには黄金石神社があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この神社も、他の神社と同様に蒋介石と一緒に来た支那人どもによって日本語は醜く削られています。

 

 其の後、雅ちゃんがどうしても行きたいという「三重橋」へ。これがまたえらく遠くにあり、谷を降りて登ってと大変な場所。

 

 

 

 夜は、フライトの関係で丁度台北泊であった香港からの姫と合流し、初めておじゃまする「楽匠」という日本料理屋さん。

 

匠樂割烹壽司 

台北市大安區四維路52巷31號

02-7709-1188

 

 

 メンバーは姫、ロイさん、アンバーさん、マイクさん、葉さん。

 

 

 

 

 

 

 

 葉さんが持って来てくださった酒は、凡の平成五年の皇太子殿下ご成婚祝いの年という超レアな酒。マイクさんは上喜元の純米大吟醸、初亀の最高酒のひとつである中汲み大吟醸と豪勢な組み合わせ。

 今日も部屋に帰り、バタンキュー

 猿よりマシ。

 エビではない。


台湾へ

3月17日土曜日雨 △

 昼過ぎの全日空で台湾へ。

 羽田空港の国際線ターミナルで出国手続きを終えて、出発ゲートへ向う途中にアイちゃんから声をかけられてびっくり。

 ソウルに友人と遊びにいくそうな。

 松山空港に到着すると、雅ちゃんが待ってきてくれて、ホテルへ。

 今回は「Dandy Hotel」というホテル。

 六時過ぎに呂さんのお店「茗荷」へ。

 台北市忠孝東路四段553巷50號

 電話:02-2764-9626

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日はパリ在住の雅ちゃんの友人のグレースさん、そして、葉さんとの食事会。

 お酒は東一大吟醸選抜酒。東洋美人 愛山。写真は忘れました。

 部屋に帰り、バタンキュー。

 猿よりまし。

 エビではない。


 

3月16日金曜日晴れ ○

 バンブーさん来店。

 初めてのお客様Yさん二名様で来店。

 ホロンさん来店。

 青森からKさん来店。

 明日からの「酒の陣」にいらっしゃるそう。

 Tさん来店。

 Kさん来店。

 Oさん来店。

 今日も飲まず。

 猿でもエビでもない。


3月15日木曜日晴れ ○。

 Mさん二名様で来店。

 アンナさん四名様で来店。

 今日も飲まず。

 猿でもエビでもない。


南朝鮮が台湾、米国についで三番めの義援金の根拠

3月14日水曜日晴れ ○

 昨日、産経新聞に下記のような記事が掲載されていました。

以下引用

<日韓相互理解と大震災 ソウル駐在特別記者・黒田勝弘

2012.3.13 03:26産経新聞

 今から1年前、東日本大震災に際して韓国では日本に対する異例の“救援ブーム”が起きた。反日愛国キャンペーンではいつも先頭に立つマスコミが、今度は「日本がんばれ」と大々的な対日救援キャンペーンを展開した。

 さまざまな人や団体からたくさんの支援金が寄せられ、その額は台湾、米国に次いで3番目となった。この日本救援の盛り上がりに日本人はもちろん、韓国人自身が驚いた。日本はいまなお「嫌いな国」となっている韓国だから、これには双方で「革命的なできごと」「劇的な変化」といった声が上がった。

 ところがすぐ後に、日本の教科書検定で「竹島」をめぐる領土問題が再燃すると、とたんに救援ブームはしぼんだ。マスコミでも「あんなに日本を思ってやったのに…」「善意が裏切られた」などと、不満が堂々と語られた。

 これには日本人が驚いた。「日本ガンバレや救援運動は計算ずくだったのか」「それを言っちゃあ、おしまいよ」…と。

 結果は“元のもくあみ”で、日韓関係に革命的変化も劇的変化も起きなかった。世論調査では、日本では韓流ブームもあって韓国に対する親近感は50%を超えるほど劇的に変化しているが、韓国ではいまなお50%以上が「日本は嫌い」のままだ。

では、韓国での当初の日本支援の気持ちは嘘だったのかというと、それはそうではなかったと思う。当時、テレビ映像などで伝えられた津波のものすごさや、それがもたらした惨状は、間違いなく韓国人の気持ちを激しく動かした。テレビを見ながら涙を流す人もいた。

 そこに日韓関係など入り込む余地はない。ひたすら「大変だ」「かわいそう」だった。

 経験的にいって、悲劇には日本人より韓国人の方がはるかに感情的、感傷的、情緒的である。日常的にも不幸な人に出くわすとわれを忘れて助けたがるし、恵みたがる。黙ってみていられないのだ。

 だから救援ムードは純粋だったし政治的計算はなかったのだが、にもかかわらず領土問題が再燃して「裏切られた」となった背景は、これもやはり韓国らしいできごとではなかったかと思う。

 日本人の筆者は当時、韓国マスコミとのインタビューなどで「領土問題がらみで“譲れ”みたいなこと言えば救援の純粋性が疑われて損じゃないのか」と自制を勧めたのだが、韓国人には日本流の「それを言っちゃあ、おしまいよ」が通じない。

 日本人なら、それを言いたくても言わないようにする“遠慮”が働くが、韓国人は遠慮せず「言っちゃう」のだ。感情、気持ちを隠さないという意味で実に正直なのだ。

 感情に忠実あるいは正直というのは、日本のはやり言葉でいえば“ジコチュウ(自己中心)”になりやすい。韓国での日常風景でも、韓国人は聞き上手では全然なくて、圧倒的に話し上手なのだ。酒席ではみんなが「オレの話を聞け!」と言い合っている。

 そんな韓国が、日韓の歴史認識や教科書問題などで「自国中心主義」などと日本を非難するのにはいつも苦笑させられる。大震災で寄せられた韓国人の積極救援には感動を新たにしつつ、日韓相互理解の難しさも改めて感じている。>

 引用終わり。

 

 人間のクズ。ゴミ以下のバカ野田政権からの無礼極まりない対応にも、支那、朝鮮と違って、台湾は我が国に対して優しく接してくださっています。

 

 私は、この黒田記者の記事について産経新聞さんに「その額は台湾、米国に次いで三番目となった。この日本救援の盛り上がりに日本人はもちろん、韓国人自身が驚いた。」

といいう南朝鮮の義援金が三番めというソースは何処ですかと問い合わせてみました。

 午前中に問い合わせて、午後、わざわざ携帯に返事をいただきました。

 ありがたいことです。

 以下、そのやりとりの主な内容です。全く同じではありませんが、大きく違ってはいないはずです。

 それによると、世界中からの義援金額三番めというのは、パーティーかなにかでの、在韓日本大使館関係者からの情報だそうです。

 

 でっ、

「すみませんが、支援金額3番めという事は具体的にどれだけの金額が南朝鮮から支援されたのでしょうか」

「いや、具体的な金額は掴んでないようです」

「はっ?でも、三番めという事を書いてらっしゃいますよね」

「そうですね」

「じゃあ、具体的な金額もわからずに、三番めという事を書いたと言う事ですね。外務省のホームページでも金額は明らかにしていないはずですが」

「そうですね。こちらも確認しましたが、明らかにはしていませんね」

「でも、台湾、米国についで三番めという事を書かれる金額の根拠は在韓大使館でのパーティでの言葉のみということですね。では金額が明らかになってないのに三番めということはどうしてわかったのですか」

「そこまでは」

だっ、そうです。

 つまり、問い合わせてわかった事は、三番めという支援金額は、他国のように明らかには出来ないが、三番めであると大使館のパーティで仕入れたから三番めと断定して記事に書いているということらしいです。

 現実に、この記事を引用して「産経新聞社によると、南朝鮮は三番めに多く義援金を」という内容の記事がすでに書かれていました。

 私には金額も明らかでないのに、三番めの義援金額とは、あまりにも不思議過ぎて、意味が理解出来ませんでした。

 あほらし

 今日はメチャヒマ。

 初めてのお客様Nさん二名様で来店。

 今日は飲まず。

 猿でもエビでもない。


 

我が国はいつからこんな情けない国になったのでしょう。

3月13日火曜日晴れ ○

 昨日のの産経新聞には下記のようなコラムが掲載されています。

以下引用

<台湾有情

 秘すれば花?

2012.3.12 03:15

 「その分のお金は、ぜひ被災地に持っていってください」

 東日本大震災で、義援金約200億円を日本に寄せた台湾。日本人が「何か恩返しを」と思い立ち、謝礼の意を込めたイベントの開催や品物の贈呈を申し出ると、たいていはこんな言葉が返ってくるという。

 たとえお礼の品を受け取ってもらったとしても、結局は同額か、それ以上の義援金を逆に託されることも珍しくないそうだ。

 長年台湾で暮らす友人は、「見返りを求めない喜捨の文化が、伝統的に根付いている」と説明してくれたが、結果として「加油日本」(がんばれ日本)と「謝謝台湾」(ありがとう台湾)の共鳴はいまなお続いている。

 その台湾に対し、日本の民間交流窓口機関、交流協会台北事務所(大使館に相当)では、主要新聞に掲載した感謝広告に加え、被災者らが出演した感謝CMを制作し、11日から1週間、繁華街の屋外モニターなどで流している。ほかにも震災関連特別番組2本のスポンサーとなった。世界的にも突出した手厚さだが、当然だろう。

 「総事業費はいくらですか?」「さほど多額ではありませんが、金額はどうしても必要ですか?」

 ふと、冒頭のような事情を思い出し、協会担当者への質問は撤回した。(吉村剛史)>

引用終わり。

 そういった台湾の皆様への民主党政権のやり方は、バカ鳩、アホ菅、ボケ野田と何も変わってなかったことがよく判る出来事がありました。

 フェイスブックにもmixiにも書きましたが、私は世耕弘成氏のツイッターを見た時に、そのツイッターに返事を書きながら涙がとまらなかったです。

世良弘成氏のツイッターより

2012年3月12日

<昨日の東日本大震災一周年追悼式。台湾代表が出席していたのに、主催者である政府は、台湾代表を2階席に座らせ、外国代表の指名献花にも参加させなかったことが判明。あれだけ一生懸命支援してくれた台湾に対してあまりにも失礼で、怒りに体が震えます。>

同じく、

以下引用

<追悼式で台湾冷遇、指名献花から除外 首相が陳謝

2012.3.12 21:03 産経新聞

 政府が11日に主催した東日本大震災の一周年追悼式典で、台湾代表として出席した台北駐日経済文化代表処の羅坤燦(らこんさん)副代表が指名献花から外されるなど冷遇されたことが分かった。12日の参院予算委員会で世耕弘成氏(自民)が明らかにした。

 野田佳彦首相は「台湾の皆さまに温かい支援をいただいた。その気持ちを傷つけるようなことがあったら本当に申し訳ない。深く反省したい」と陳謝した。藤村修官房長官は「十分にマネジメントできていなかったことについてはおわびしたい」と述べた。

 世耕氏によると、政府は約160の国と国際機関の代表に会場1階に来賓席を用意したが、羅氏は「民間機関代表」と位置付け、2階の企業関係者などの一般席に案内。指名献花からも外し、羅氏は一般参加者と献花したという。

 世耕氏は「台湾の友情に応えるべきではないか。一人の日本人として台湾の皆さまにおわびしたい」と政府の対応を強く批判した。

 台湾は、大震災の際、世界最大規模の約200億円の義援金を寄せた。政府は昭和47年の日中国交正常化後、台湾を国として承認していないが、代表処は事実上の大使館にあたる。>

引用終わり

 

 私は今週末、台湾に行きます。

 日本人をいつも温かく迎えてくれる台湾の皆様に、友人の皆様に此の我が国政府の醜いとしか言い様のない仕打ちを、一日本人としてどう詫びればいいのか。

 どのように言えばいいのか。

 この度の震災でも多くの台湾の皆様が暖かい支援をくださいました。

 台湾の華視新聞とYAHOO奇摩が共同で行った調査にて、 二〇一一年の最高に幸福な出来事の第一位がなんと、

「東日本大震災に対する台湾からの義援金額が世界でもっとも多かったことだった」

 というアンケート結果を出してくれた国です。

 本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

「恩を仇で返す」とはまさにこういう事をいうのでしょう。

我が国はいつからこんな情けない国になったのでしょう。

 当然、追悼式では代表の指名献花をした支那、朝鮮。

 アホ菅直人民主党政権が、救助隊を国賓待遇で迎えた国は支那と朝鮮だけです。

 民主党政府は今までの慣例を破り、無礼にも世界各国からの義援金額を全て明らかにしていない。寄付金と記しているだけである。 (外務省ホームページより)

諸外国等からの物資支援・寄付金(実績一覧表)(平成2426日現在)(PDF

そして、同じページに

資金支援

 以下のとおり各国・地域から資金支援を頂いています。>

として、他の国々と並んで、台湾からは台湾からの義援金(財団法人交流協会のホームページ)

とありますが、支那、朝鮮からの義援金額は明らかにされていません。

 それは支那、朝鮮からの義援金があまりにも少ないから隠しているだけです。

 もし、それなりの金額を支那、朝鮮が出しているのであれば、

民主党政権は「ほ〜ら見てみろ。支那も朝鮮もこんなに義援金を出してくれたんだぞ」

と偉そうに胸を張って開示するであろう。

 平成二十三年三月十四日時点で他国の支援については公表されていました。

アメリカ 

 空母派遣 援助隊140人 救助犬10頭以上 救援用機材約150トン分

ニュージーランド 

 援助隊54人 救助犬

オーストラリア 

 救助隊72人 救助犬

ドイツ・スイス 

 援助隊70人 救助犬

イギリス 

 援助隊63人 救助犬2頭

フランス 

 援助隊30人

タイ   

 援助隊24人 救助犬6頭 義援金1400万円

トルコ  援助隊3チーム

シンガポール 

 援助隊5人 救助犬5頭 

ロシア  

 天然ガス15万トン 救援隊200人待機

アフガニスタン 

 義援金400万円 

そして、

 台湾

 義援金2億8千万円 

 何処よりも早く派遣表明してくれた救助隊は支那への配慮から二日待たされ到着

 

 では、副大臣が空港まで出迎えた六兆円以上も我が国からむしり取りながら、偉そうに謝罪謝罪とほざいている国賓待遇の支那が、この時点でどれだけのことをしてくれたか。

 支那

 援助隊10人 義援金1000万円

 

 同じく、国賓待遇で迎えた朝鮮から来たのは

援助隊5人 犬2匹 義援金0円

 この五人と二匹朝鮮の救助隊員がどれだけのことをやったか。

 犬は朝鮮人に鍋で食われると思ったか一匹は逃げたというのもネットにありましたが、人間様も自国民の安否確認のための、役人の日本視察。殆ど東京に滞在。

 そして、それをテレビでは「一番乗り」と大々的に報道し、今回もアホ民主党政権と害務省が朝鮮の新聞に「もっとも早く温かい手をさしのべてくれた韓国の皆さんを日本は忘れません」などと感謝の広告を掲載している。

 アホかと。

 バカかと。

 今日の産経新聞の黒田記者は「日韓相互理解と大震災」と題して下記のような事を書いていました。

<今から1年前、東日本大震災に際して韓国では日本に対する異例の“救援ブーム”が起きた。反日愛国キャンペーンではいつも先頭に立つマスコミが、今度は「日本がんばれ」と大々的な対日救援キャンペーンを展開した。

 さまざまな人や団体からたくさんの支援金が寄せられ、その額は台湾、米国に次いで3番目となった。>

2012.3.13 03:26産経新聞

 私は、この「台湾、米国についで三番めの支援金」を南朝鮮がだしたという根拠が知りたくて産経新聞に問い合わせたが、「書いた本人に聞いてみないとわからない」と言われて答えてはもらえませんでした。

 台湾からの義援金が二〇〇億円を超えたのに、我が国政府が世界各国からの東関東大震災に関しての義援金額を公表しない方針について、私は昨年七月二十日に「朝鮮と台湾の違い」という日記を書きました。

 その時に、支那からの援助金額が三億円と報道されていた時に台湾からはすでに一〇〇億円であったとも書きました。そして、民意という意味では、世界各国のセブンイレブンに置かれていた義援金箱の金額が公表されていたがhttp://www.pref.aomori.lg.jp/release/files/2011/35281.pdf

 それが一つの指針にはなるのではないだろうか。として下記の金額を書きました。

以下、飲んべえ日記より。

アメリカ・カナダ 約6,534万円

ハワイ 約418万円

マレーシア 約528万円

フィリピン 約30万円

香港 約1,188万円

メキシコ 約387万円

台湾 約3億368万円

タイ 約1,600万円

シンガポール 約1,127万円

インドネシア 約293万円

韓国 74万円

総額 約4億2,551万円

1店舗あたりの募金額。

アメリカ・カナダ 9,846円

ハワイ 77,407円

マレーシア 4,275円

フィリピン 520円

香港 12,518円

メキシコ 3,120円

台湾 63,892円

タイ 2,684円

シンガポール 20,491円

インドネシア 10,8519円

韓国 217円

国によって物価が違うことを考慮すれば、台湾、インドネシアが突出していると思う。

別の意味で突出しているのは南朝鮮である。

総額七四万円 一店舗あたり二百十七円である。

もちろん、感謝すべきことではある。しかし・・・・・

まあ、中央日報の記事を読めばそれが理解できる。

以下引用

<東日本大地震後の1カ月間、韓国では588億ウォン(約45億円)の寄付金が集まった。他国を支援するために集めた寄付では歴代最高額だ。元日本軍慰安婦女性までも募金に賛同した。独島(ドクト、日本名・竹島)を日本の領土と記述した日本の歴史教科書問題さえなければ、もっと多くの寄付金が集まっていた可能性が高い。韓国は台湾のように日本の世話になったこともない。人の痛みを自分の痛みと考える純粋な人道主義的な同情心以外には説明できない。

友情を金額で表すことはできない。重要なのは金額ではなく、その中に込められた気持ちだ。恩を返す気持ちが大切であるように、苦境に陥った人を助ける純粋な気持ちも大切だ。韓国と台湾が集めた寄付金それ自体は、実際には日本にとって重要なものではないかもしれない。なくても変わらないものかもしれない。日本が心より感謝するべきことは、かつて植民地だった両国の国民が見せた友情だ。今は日本が友情で応える番だ。>

中央日報平成二十三年四月二十日

http://japanese.joins.com/article/329/139329.html?sectcode=&servcode=100

 義援金をやるから、教科書問題、慰安婦問題でガタガタ言うなと言っているのです。

「韓国は台湾のように日本の世話になったこともない」

だそうです。

 ありがた過ぎて、涙が出てきます。

 

 義援金額、救助隊の活動だけでなく、我が国が震災にあった事に対し、どれ程、人としてやってはいけない事を朝鮮人どもはやったか。

 震災の翌日には、各紙一面で「日本最悪の日」「日本沈没」「日本は阿鼻叫喚」と大喜びし、

 大震災翌々日の3月13日には「日本沈没記念Tシャツ発売」

http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview2.htm?articleid=2011031316085378570

 

 

 こんな国を国賓待遇で迎えて、台湾を冷遇する。

 民主党とは政権にいてはいけない者どもの集まり、つまり売国奴どもとつくづく思う。

 我が国の問題は、国の中に売国奴という最大の敵がいる事である。

 縁あって、私の妻になる台湾の方は来月来日します。

 彼女は我が国の歴史文化が好きで、おばあちゃんと一緒に来日した最初以外は、ひとりで20回も来日し,出雲、東北、京都、淡路島などを各地を旅しています。

 

 私の愛するひとが、大好きな日本が大好きなままでいて欲しいと願っております。

 Nさん三名様で来店。

 酒いわしや時代のお客様十六年ぶりに来店してくださる。

 秋田の御実家に普段はいらっしゃるそう。

 初めてのお客様二名様来店。

 ワインの入ったロングフレッシュを見ながら、「一升瓶だったらもっと高いだろうが、あれだと三〇万円程度かな」

 置いてあるどのワインが三〇万円か知らないが、一升瓶って何の話だ?

 マグナムボトルの事か?????

 意味わからんわ。

 Mさん来店。

 調子悪いので酒は飲まず。

 猿でもエビでも無し。


 3月12日月曜日晴れ ○

 好きな蜜柑を山ほどと食事も買い込んで、今日は一日中、部屋に籠りっきりでほとんど寝てました。

 

 風邪の時は寝るのが一番。

 酒は飲まず。

 猿でもエビでもない。


3月11日日曜日曇り一時雨 ○

 午後の遅い時間から、昨日、調子が悪いので何もしないままそのままにして帰った店を片付ける。

 店をチンタラと片付けていると、夕方六時過ぎに「六時から予約してあった・・」といいながら二人の女性が戸を開けて、カウンターの椅子も上がっている店内に入って来る。

 外の灯も点けていないし,ブラインドも下ろしている。

 平日でも営業は六時半からなのに、「六時から予約を・・・」

 すみませんけど、うちは日曜日、月曜日は定休ですが。

 「・・・・・」

 

 ご予約いただけましたのでしょうか?

 

 「わかりました」

 

 いや、何がわかったのだろう。

 私は結局、何もわからないままだった。

 今日、近所のお世話になっているスーパーマーケットに伺うと、「日本人嫌い、朝鮮人大好き」の花王製品の大安売り。

 当然、ど〜れも買いませんでしたけど、さすがに「今月のイチオシ」にはひと月もセールやってんのかと笑えました。

 店を片付けて、帰宅。

 まだ、身体の調子はイマイチ。

 酒は飲まずにサッサと寝る。

 サルでもエビでもない。


3月10日土曜日雨、一時雪のち曇り ○

 今日は朝の早い時間に雨が雪に変わる。

 

 秋田よりOさん御夫妻来店。

 前の店に来てくださった事があるというSさん御夫妻来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 金ちゃん、リエちゃんと来店。

 新潟より三年ぶりというMさん御夫妻三名様で来店。

 Wさん御夫妻来店。

 浜松よりTさん来店。

 今日も体調が悪い。

 飲む元気もなく、後片付けもせずにサッサと寝る。

 猿でもエビでもない。


 

3月9日金曜日雨△

 バンブーさん来店。

 初めてのお客様Tさん二名様で来店。

 Tさん三名様で来店。

 大野さん来店。

 今日は軽く飲む。

 サッサと寝る。

 体調メチャ悪し。


3月8日木曜日晴れ○

 Yさん二名様で来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 初めてのお客様Oさん四名様来店。

 Oさん来店。

 調子がイマイチだったのに、昨日調子に乗ってドンチャンやったおかげで体調最低。

 サッサと寝る。

 酒は飲まず。 


3月7日水曜日晴れ△

 初めてのお客様Oさん、Iさん来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 Oさん来店。

 初めてのお客様Tさん六名様で来店。

 相ちゃん来店。

 Tさん来店。

 伊勢先輩が息子さん娘さんと来店。

 卒業して三十年以上経っても、先輩は先輩。後輩は後輩。

 ありがたいものです。

 

 ドンチャン。

 記憶なし。


3月6日火曜日晴れ○

 鯨の研究をされているYさん、Aさん来店。

 遅い時間にアキちゃん二名様で来店。

 調子がイマイチなのでサッサと寝る。


3月5日月曜日雨△

 ホテルでの朝食がまだ消化し切れていないので、昼飯軽めにということで、醴泉の山田社長が味噌煮込みうどんを食べに連れて行ってくださる。

 

 名古屋駅まで送っていただき、帰京。

 店に寄って資源ゴミを出した後、人気店、四谷荒木町「やまちゃん」で開催される岡部ちゃんの酒の会へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 店主のやまちゃんは、結婚されたばかりの奥様のご都合で、今年六月で店を閉めて、イタリアで二年間「専業主夫の予定」だそう。

 ちょっと体調がイマイチなので、早いめに引き揚げさせていただく。

 記憶あり。

 サルでもエビでもない。


「義侠」きき酒

3月4日日曜日雨 △

 東京駅十二時発の「のぞみ」で名古屋まで。名古屋で乗り換え岐阜羽島へ。

 岐阜羽島の駅まで「醴泉」の山田社長が迎えに来てくださっており,山田社長の車に同乗させていただき、「義侠」蔵元山忠本家さんへ。

 

 

 きき酒が終わった後は、名古屋駅近くで開かれた懇親会に参加させていただく。

 

 

 

 その後、みなさんでハシゴ。

 ところで、「一流職人」って看板に表示してある店ってどうなのよと話題に。

 

 東急ホテルの部屋で醴泉の山田社長と飲む。

 醴泉の酒の会は五月九日に決定だそう。

 今日は一応記憶あり。

 サルよりマシ。

 エビではない。


超ミニナイフ

3月3日土曜日晴れ ○

 超ミニナイフ。

 

 これが、出来はいいと思うが、研ぎがイマイチで切れないので、営業終了後に他の包丁と共に研ぐ。

 

 当たり前の事だがこんなちっこいの研いだのが初めてだったが、メチャ研ぎ上がりが早い。

 初めてのお客様来店。

 初めてのお客様二名様来店。 

 Oさん来店。

 酒は飲まず。

 当然、サルでもエビでもない。


 

3月2日金曜日雨△

 初めてのお客様Hさん、Sさん来店。

 初めてのお客様Mさん来店。

 バンブーさん来店。

 初めてのお客様Kさん五名様で来店。 

 今日は女子会のようです。

 わ。さん四名様で来店。

 クエ鍋でドンチャン。

 インドネシア出張から帰国した理科大ラグビー部OBのハナちゃん来店。

 奥様がおめでただそう。

 Hさん来店。

 今日は早い時間から満席で、メチャメチャ忙しく、飲む時間がなくビールだけ。

 それでも、後片付けに時間がかかり、終わってから飲みに出る元気もなくサッサと寝る。

 サルでもエビでもない。


3月1日木曜日晴れ ×××

 Yさん四名様で来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 「救う会」の西岡会長、島田副会長来店。

 ドンチャン。

 全く記憶無し。

 気がついたらカウンターで寝てました。

 サル以下。

 でも、エビではない


 


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