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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成23年1月分

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます



更ながらイージス艦事故について

1月31日月曜日晴れ ○

 今更ながらですが、

以下引用

<イージス艦衝突 2被告が検察側を批判 横浜地裁で結審

毎日新聞1月31日(月)21時14分配信

 海上自衛隊イージス艦「あたご」の衝突事故で、業務上過失致死罪などに問われ禁錮2年を求刑された自衛官2人(起訴休職中)の公判が31日、横浜地裁(秋山敬裁判長)で結審した。沈没した漁船「清徳丸」の航跡が最大の争点で、無罪主張の弁護側は公判で検察側に終始反論した。事故時に操艦していない被告の責任が問われた異例の裁判。5月11日の判決が注目される。

 最終意見陳述で、衝突時の当直士官・長岩友久被告(37)は「不正な捜査で作り上げた航跡で起訴された」と検察側を批判。直前の当直士官・後潟(うしろがた)桂太郎被告(38)も、検察側が論告で「両被告の過信が最大の原因」と指摘したのに対し「過信を改める(べきな)のは検察官」と声を強めた。

 ■漁船の航跡は?

 漁船のGPS(全地球測位システム)機器は水没してデータを復元できず、航跡を示す物的証拠はない。検察側は、後方の僚船から見て漁船が「左約7度、距離約3マイル(約5.5キロ)」にいた、などの僚船船長らの供述から航跡図を作成。漁船を右方向に見る位置関係だった、あたご側の回避義務を主張した。

 この航跡図の<7度、3マイル>を巡り、弁護側は「時刻によってはズレる」と追及。作成した海上保安官と検事は「誤差」と証言したが、論告は「平均値で問題ない」と軌道修正した。僚船船長らの描いた略図を海上保安官が廃棄したことも公判で発覚し、弁護側は反発。最終弁論では、元高等海難審判庁長官による航跡図を基に「あたご後方を通り過ぎる進路だった漁船が直近で右転・増速したのが原因」と主張した。

 ■引き継ぎミス? 

 後潟被告は事故時に操船しておらず、海難審判裁決(09年1月)も、後潟被告の行為と事故との因果関係を否定した。だが検察側は「接近中の漁船を見誤り、長岩被告が回避行動を取る時間は短くなった」と、引き継ぎミスの責任を強調した。

 88年の海自潜水艦「なだしお」事故の釣り船側補佐人で、公判を傍聴した田川俊一弁護士は、検察側航跡を合理的と認めつつも、後潟被告の過失に関しては「引き継ぎ時点では距離が離れていて漁船の状況を正確に把握するのは難しい」と否定的だ。

 ◇2被告が異例の「組織批判」

 両被告は閉廷後に地裁近くで初めて会見し、防衛省への不満をにじませた。休職中とはいえ現役自衛官の「組織批判」は異例だ。

 同省は事故後、検察側と同じく、あたご側の責任を認める内容の報告書をまとめ、両被告ら計38人を処分した。後潟被告は、当時の防衛相らが遺族に謝罪したことなどを巡り「口惜しかった。防衛省の混乱を見ていて、命を預け得る組織なのか今も多大な疑問がある」と指摘。ただ「許されるのなら判決後に(仏前で)手を合わせに行きたい」と話した。

 長岩被告は、捜査側に好都合な供述調書を取られた隊員もいたとして「取り調べの誘導に乗ってはいけないという教訓を伝えていく使命を感じている。復職できれば、真っ先に船(上の勤務)を希望する」と訴えた。【松倉佑輔】>

引用終わり

<漁船のGPS(全地球測位システム)機器は水没してデータを復元できず、航跡を示す物的証拠はない。>

 GPSなどを引き上げるのを拒んだのは遺族側です。

以下過去の当店の日記より

<「早く見つけて」という見出しで、事故海域で父子家族らが事故から四日過ぎて、行方不明の海域を訪れて、日本酒や花束を海に投げ込んでいます。(二月二四日産経新聞)

 その同じ日の紙面に海洋研究開発機構の調査船「かいよう」を投入した捜索が二三日午前に始まったが、波の状況が悪く、同日午前一〇時過ぎに捜索を中止しています。

 そして、三月四日に海洋研究開発機構が、調査船「なつしま」が、漁船の無線機、方位探知機、操舵室の一部などを発見したというニュースとともに、「海底の船には、二人の魂が宿っているから」と家族が船を引き上げないで海上保安庁に要望したというニュースが出ていました。(三月五日産経新聞)

 その記事には<同じ船乗り同士。海保幹部は感銘を受けた。しかし、清徳丸の船体は、イージス艦乗組員の刑事責任を追及するための重要な証拠品。「原因究明のために必要なものだけにしますから」。そう説明して了承をもらったが、今後の引揚げには困難も伴う。>と書いていましたが、この証拠とはイージス艦乗組員の刑事責任だけではなく、漁船側にとっても証拠となりうるわけではないでしょうか。

 どういうわけか、いっしょに出漁していた僚船の無線に応答しなかったと言われています。小型船が大型船より小回りがきき、操船が容易なのは常識です。今回の漁船のような小型船が網を投げ入れてるなどの操業中でもなければ、大型船を避けるのはたやすい。七七五〇トンのイージス艦と七トンの漁船。ましてや、灯火高速船でレーダーを装備した漁船がどうして回避できなかったのでしょう。

 つまり、回避優先順位によるイージス艦の回避行動だけでは無く、操船が容易な高速漁船がどうして回避できなかったかという理由も問われてしかるべきではないでしょうか。居眠りをしていた可能性もあるわけですから。何度も書きますが、自分だけではなく泳げない自分の息子にライフジャケットも着用させずに乗組員として使っていたような船長失格といわれても仕方ない人間が操船していた漁船です。>

平成二十年五月九日の飲んべえ日記より

 水没していてもデーター復元は可能です。現実に犯罪国家北朝鮮の工作船が引き揚げられた時に発見された携帯電話より通話記録などが復元されています。

 船長失格者が操船していた漁船の遺族が証拠になるものの引き上げを拒み、それを了承するという捜査方法に意図的なものを感じるのは私だけでしょうか。

  昨日というか今朝までゴロゴロと雑誌、漫画などを時間を気にせずに読んでいて、寝たのが朝方だったが、九時過ぎに目が覚める。

 お茶を飲んだ後、淡路島の実家の敷地内にある建物の一つの不動産取得税の支払い期日が今日までだったのを思い出し、銀行に行く。

 ど田舎の物件ですから、支払う金額はめちゃ安いが、自分が住んでいるわけでもないし、名義も替わっていないので自分のものでもないという何か釈然としないものがあるが、法的にそうなっているのでしょうがない。早く片付けないと。

 日本海側では昨日、今日と大雪で大変らしいが、59Les Paulさんからも下記のような写真が届きました。

 

 

 学生時代に金沢といっても野々市町に居た時もここまでの大雪は、四十八年、五十二年ぐらいでそんなに多くなかったと思います。

 今日は帰宅後も部屋で雑誌、漫画、単行本等を読んで過ごす。酒は飲まず。


1月30日日曜日晴れ △

 午後一時に浅草・木馬亭で開かれる浪曲の会へ。

 

 途中、浅草駅を降りてすぐにあったそば屋さんへ。

 まあ、そば屋さんでうどんを頼んだ私が悪いのだが、見事にこちらのうどん。

 浪曲の会は、昨年、西村眞悟氏に誘われ九段会館で行われた会に行って以来まだ二回め。

 会場は百人ちょっとぐらいの規模か。

 

 その時も松浦四郎若さんが出演されていたが、今回は三笠優子さん、富士琴美さんという方の三人。

 ただ、私は浪曲だけのつもりで来ていたので余計そう思ったのかもしれませんが、松浦四郎若さんと三笠優子さんのリレー浪曲とやらは、その後にやった松浦四郎若さんの「勧進帳」がよかっただけに、なんとも中途半端。

 三笠優子さんは浪曲を目指したが、現在は本業が演歌歌手だそうで、熱心なおばちゃんファンが多く来ていて、今日の浪曲も途中間違えただけでなく、本業の歌も新曲の歌詞を何回も忘れて二回も最初からやり直すのを、その熱心なおばちゃんファンが温かい声援で励ますという後味の悪い舞台。

 

 まあ、浪曲では富士琴美さんという人も、一回間違っていたが。

 写真は、寒い中がんばっていた芸人さん。

 帰りに寄った讃岐うどんの店は、普通のうどんを食べさせてくれました。

 

 店に寄り、片付けた後に江戸川橋に移転した「一笑」さんに酒を持って御祝いに。

 

 帰宅後は、時間を気にしなくていいので朝方近くまでいろいろな本、雑誌を読んで過ごす。


山崎裕晤先生

山崎裕晤先生

2月29日土曜日 晴れ ○

 今朝帰って来て、午後から久しぶりにスポーツセンターに行く。

 淡路島の洲実の同級生であるケケロこと竹口から電話あり。

 三年間担任としてお世話になった山崎裕晤先生の訃報。

 山崎先生は大学卒業のち、銀行に御勤めであったが、御結婚とともに二十五才で洲本実業高校の教師になられる。

 その最初の年、昭和四十五年に電気科B組の担任になり、三年間担任を務められたが、私はその三年間お世話になった。

 その間、我々は出来が悪く山崎先生に迷惑ばかりかけていたが、同窓会を開くと必ず出席し遅くまで酒におつき合いくださり、「君等は私の少し齢の離れた弟だ」と言ってくださっていた。

 ケケロの話だと、昨年十二月半ばにミャンマー旅行から御帰りになった後、家の近所を散歩中に気分が悪くなり、そのまま入院され、昨日御亡くなりになったそうである。 私達より十歳上だから六十六歳だったと思う。

 花はケケロ、玉井が出してくれるそう。

 玉置に連絡をする。

 次回の同窓会でもお会い出来、酒をおつき合いいただけると思っていたが、昨年一月の同窓会がお会いした最後になってしまった。

 

 (昨年の同窓会の帰りに、弁天様で開かれていた写真展にて先生の作品の前で)

 人はいつか死ぬ。少しでも悔いが少ないように生きたいものです。

 

 まあ、私何ぞは悔い多き人生を送ってますけど。

 Oさん二名様で来店。

 Oさん自身、来月手術の予定だそうです。悪性でない事を祈るのみ。     

 御連れさんのお祖母さんが手術中だったが、成功という連絡があり、御連れさんは義侠の妙をガンガン。

 Nさん二名様で来店。

 Oさん来店。

 Sくん来店。

 調子がイマイチらしい。

 遅い時間にWさん御夫妻来店。

 移転したお店は順調そう。

 今日は土曜日としては忙しい。

 酒はあまり飲まず。

 当然、サルではない。


2月28日金曜日晴れ寒い △

 今日も河岸では品物が薄い。

 

 Kさん二名様で来店。

 Kさん二名様で来店。

 Fさん、Sさん三名様で来店。

 大阪に転勤されているNさん、出張だそうで四名様で来店。

 Yさん来店。

 入籍は二月十一日の建国記念日だそうです

 営業終了後、新橋へ。

 其の後、カッシーさん、めぐ蔵さんらともう一件。

 帰りは電車・・・・・


お役所仕事

1月27日木曜日晴れ△

 一時、生産量の規制緩和かなにかで地ビールブームが起こり、地方自治体も第3セクターを作って、地ビール会社が各地にできました。

 お役所仕事として他人の銭、税金をジャブジャブつぎ込んだ地ビール会社でしたが、いまそのうちのいくつが残っているでしょう。

 今日もやっぱ、お役所仕事だな〜と思える記事がありました。

 

以下引用

<白井梨ブランデー 破産処理、5分の1の価格で販売 千葉

毎日新聞1月27日(木)7時10分配信

 千葉県白井市が9割を出資して破産し、清算手続き中の第三セクター「白井梨ブランデー」が抱える在庫のブランデーが、29日から5分の1の価格で販売される。破産処理の一環で、市の担当者は「完売してほしい」と期待している。

 木製の樽に入った50度の原酒を西印旛農協(印西市)が買い取り、農産物直売所「やおぱぁく」(白井市木)で販売する。720ミリリットル瓶が2500円。かつて「原酒しろい」の名で販売していた時は1万2600円だった。94〜05年に製造して熟成させたピュアブランデーだという。

 在庫は1万5000リットルあり、うち5000リットルを商品化した。残りは▽10リットル2万円▽200リットル(10リットル20個)に空の樽を付けて30万円▽樽のみ1万円−−で予約を受け付け、3月ごろ販売する。やおぱぁく(電話047・498・2007)。

 白井梨ブランデーは89年設立。販売低迷で93年以降赤字に陥り、市が増資して支えたが、09年10月に千葉地裁が破産手続き開始を決定した。負債総額は約9000万円だった。【早川健人】>

引用終わり

 「かつて「原酒しろい」の名で販売していた時は1万2600円だった。94〜05年に製造して熟成させたピュアブランデーだという。」

 一万二千六百円でこんな程度のものが売れるとでも本当に思っていたのでしょうか。

 今時、一万二千六百円もだせばどのようなものが買えるか。

マーテル コルドンブルー

10,920円税込

レミーマルタンXO プルミエクリュ

12,500円 (税込)

シャトー ボルドヌーブ1986

12,500円 (税込)

アルマニャック・ド・モンタル [1971]

12,474 円税込

へネシーXO

10,857税込

カミュ ボルドリー XO

11,000円 (税込)

ラーセン グラス シップ

11,340円税込

ポール・ジロー オリジナル

10,800円 (税込)  

 このように、ブランデーなどほとんど飲まない私のようのものでも知っている有名なブランデーが買える。

 

 これが、売ろうとしている二千五百円クラスの価格の国産ブランデーだと

ニッカ・ブランデー・アランビック

2,518円 (税込)

ニッカブランデー V.S.O.P. 40度 720ml

税込 2,121 円

ニッカ・ブランデー・V・S・O・P・デラックス

2,038円 (税込)

サントリー VSOP フロスティー 660ml

(税込 2,079 円)

サントリーブランデー VSOP

税込 2,150 円

メルシャン XO スリム 

2,636円 (税込)

五一ブランデー VSOP

2,177円 (税込)

キリン・V・S・O・P

2,218円 税込

そして,外国産ブランデーだと

ヘネシー VS 700ml

 正規品税込 2,100 円)

クルボアジェVSOP

2,490円 (税込)

オタール VSOP 

正規代理店輸入品

2,479円 (税込)

カミュVSOPエレガンス 

2,580円 (税込)

サンヴィヴァン VS

2,480円 (税込)

メタクサ 7スター

2,080円 (税込)

ドンピエールXO 

税込 2,185 円

ヴェッキアロマーニャ エチケッタ ブル 10年

2,269円 (税込)

 終売品で、ニッカの最高酒だったエキストラでも一万円、同じくサントリーの最高酒だったインペリアルは確か二万円だった記憶があります。

 最初の一万二千六百円という価格設定がいかにべらぼうか。

 また、二千五百円という価格もあまり魅力のない価格か。

 潰れるのは当たり前ではないでしょうか。

 まあ、樽のみ一万円つうのはインテリアとして使うのは面白かもしれませんが。

 初めてのお客様来店。 

 Aさん来店。

 ご近所にお住まいという初めてのお客様来店。

 大野さん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

パチンコ

1月26日水曜日晴れのち曇り△

 パチンコの売り上げが減っているというニュースと共に、パチンコ屋が倒産したというニュースがありました。

以下引用

<パチンコ1台あたりの売上高が16ヶ月連続減、11月は昨年比マイナス約10%の大幅減となった

経済産業省は、特定サービス産業動態統計調査の2010年11月分を

14日付で速報値として公表した。

「パチンコホール」の11月の売上高は664億9500万円となり、

昨年では初めて700億円台を割り込んだ。前年同月比では92.5%となり、

売上の減少は16カ月の連続となった。設置台数は同2.4%、事務所数は同0.3%の増加。

1事業所あたりの売上高は同7.8%の減少。設置台1台あたりの売上高では同9.6%の減少となり、約1割りと大きく目減りさせた。

 対個人サービス業の趣味・娯楽関連分野では、「遊園地・テーマパーク」が前年同月比で15.4%の増加と、大きく伸長した。入場者数の内訳では、「一般」が同20.8%、「団体」が同13.9%の増加となったが、入場者1人あたりの売上高では同3.9%の減少となった。>

http://www.vsearch.co.jp/entry/news07/post-5354.php

 倒産については下記のニュースです。

<都内のパチンコ店3社が破産 入店客減少、負債計114億円

2011.1.14 16:20産経新聞

 東京商工リサーチによると、東京都内でパチンコ店を経営する高木商事(荒川区)など3社が東京地裁から破産開始の決定を受けた。負債総額は、3社合計で114億円。他の2社は、総武興業(葛飾区)とノーベル会館(目黒区)。昨年12月24日に破産を申請し、5日付で開始決定を受けた。 

 3社ともパチンコホールを経営していたが、景気低迷と競争激化で入店客が減少し業績不振を抜け出せなかったことが原因とみられる。3社ともすでに解散している。>

 ところが、このニュースについて調べると、この経営者は会社によって高木裕司と李裕司という二つの名前を使い分けていた事がわかる。

<(株)高木商事、総武興業(有)、(有)ノーベル会館/自己破産(株)高木商事(東京都荒川区東日暮里5−51−7、清算人:高木裕司)、関連の総武興業(有)(東京都葛飾区新小岩1−44−4、清算人:李裕司)および(有)ノーベル会館(東京都目黒区下目黒1−1−13、代表:李裕司)は、1月5日破産開始決定を受けた。破産管財人には橋本勇弁護士(電話03−3595−4160)が選任されている。負債額は、(株)高木商事、総武興業(有)、(有)ノーベル会館の3社合計で約70億円。当該のグループ3社は、パチンコ店「日暮里ノーベル会館」、「新小岩ノーベル会館」を経営していたほかカプセルホテル「ファーストイン日暮里」も経営していた。本バブルの負債処理により、今回の措置を取ったもの。>

 自称「誇り高き」朝鮮人は名前を奪われたと言いながら、今でも平気で通名と言う偽名を使っているまさに厚顔無恥、鉄面皮な連中です。

 在差別、差別と叫ぶ日朝鮮人にとり、その差別と戦った英雄である金嬉老は七つもの名前を使い分けていた。

 朝鮮人の通名と言う偽名は何度も変えられるし、その偽名で貯金通帳も作れる。

 過去にはそれを悪用した犯罪も多発している。

 このような犯罪の温床になる偽名を総て禁止するようにすべきですが、不思議とその事はマスコミなどが話題にする事はない。

 

 近所のスーパーマーケット「よしや」さんにて、この冬初めて「デコポン」を見つけたので、即購入。

 柑橘類は何でも好きですが、とくにこのデコポンは大好きです。

 でも、450円とまだ少し高い・・・

 銭湯に行く前に、バリカンで頭を刈る時にアタッチメントの長さを間違い一ミリで刈ってしまい、マルコメ君になってしまう。

 ヒマ。

 Kさん来店。

 遅い時間に、Tさん来店。

 同じく、ホロン部員Yさん来店。

 今日は早い時間から飲む。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

自衛隊とは

1月25日火曜日晴れ △

 昨日、自衛隊の事故についての報道がありました。

<イージス艦衝突 自衛官2人に禁錮2年求刑 横浜地裁

毎日新聞 2011年1月24日(月)12時29分配信

 海上自衛隊イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故で漁船の2人を死亡させたとして、業務上過失致死罪などに問われた自衛官2人=起訴休職中=の横浜地裁(秋山敬裁判長)公判で、検察側は24日、衝突時の当直士官・長岩友久被告(37)と、直前の当直士官・後潟(うしろがた)桂太郎被告(38)に、いずれも禁錮2年を求刑した。

 検察側は論告で「長岩被告は左転などで衝突を回避をする注意義務を怠った。直進した責任は明確」と批判、後潟被告の過失については「誤った引き継ぎで長岩被告の回避措置を遅らせ、衝突の危険を生じさせた」と主張。「(両被告の)過信こそが最大の原因」と指摘した。

 一方、弁護側はこれまでの公判で「清徳丸の急な右転が事故原因。あたご側に過失はない」と反論し、無罪を主張。31日に弁護側の最終弁論で結審し、判決は3月の見通し。

 起訴状によると、後潟被告は08年2月19日午前2時〜同3時55分ごろ、交代した長岩被告は事故発生時の同4時7分ごろまで、当直士官として操艦。後潟被告は接近中の漁船に気付かず「停止操業中」と誤った引き継ぎをし、長岩被告は誤りに気付いた後も漫然と航行を続けた。両被告の過失が競合し、清徳丸に衝突して沈没させ、船長の吉清(きちせい)治夫さん(当時58歳)と長男哲大(てつひろ)さん(同23歳)を死亡させたとされる。【松倉佑輔、中島和哉】>

 これについては、もう何度かこの日記にも書いてきました。

 参照→イージス艦と漁船の海難事故について

 七七五〇トンの巨艦に七トン強のFRP漁船を避けろという方もアホだが、責められるべきは、漁船の接近を許しただけでなく、追突されるというへまをやらかした事である。

 つまり、漁船の接近を許すという事は、いつでも、偽装漁船によりこの巨艦を撃沈出来る事を示している。本来は軍艦に不用意に接近した船は撃沈されても仕方ないのである。

 それを許して来た我が国の戦後の歪さが責められるべきである。

 自衛隊は軍隊であり、軍人しか操船出来ない自衛艦、イージス艦は軍艦であるということです。我が国政府、国民すべてにそういう意識があれば、今回の事故も起こらずにすんだことでしょうし、漁船に乗っていらしたお二人も無事だったでしょう。

 そして、これも、何度も書いていますが、マスコミの報道で思う事は、この漁船が最低限、自分の身を護るために必要な事を怠っていたという事に、どこのマスコミ報道も触れていない。

 船長である父親自らがライフジャケットを着用もしないだけでなく、泳げない息子に着用させていなかった。自ら着用もせず、着用させられなかったような人間が操船していたのであるから、今回の事故がなくても、いずれ、不幸に巻き込まれる可能性は高かったでしょう。

 船長として、親として、事故の可能性を少しでも低くするための最低限しなければいけない事の一つを怠っていた可能性が高いのですから。

 

 早大棒術部のOB、二名様で来店。

 Sさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 明日、河岸が休みという事もあり、営業終了後、いつも遅くまでやっている近所のバーに伺うと、マスターが店じまいの準備。

 あれ〜早いなと思いながら「また、今度」と挨拶し、表通りにでてタクシーを拾って、久しぶりに中野の「石松」さんへ。

 「石松」さんにおじゃますると、だ〜れもいない。

 サッカーの影響でしょうが、移転して「石松」と店名を変えて五年だそうだが、こんな事、初めて。つうことで、記念に思わず一枚。

 

 後で、四名様が来店したが、いつもの「石松」さんに比べるとめちゃ少ない。何しろ、席がなくて、わたしなんぞ、カンターの中で何度も飲んでますから。というか、常連さんが誰も今日はいらしてなかった。

「石松」さんでは、今日はDVDで昭和五十八年制作の「居酒屋兆治」を流していた。

 主役の高倉健はともかくとして、伊丹十三、池部良、佐藤慶、大原麗子など懐かしい顔ぶれの話題で盛り上がる。

 今日も閉店時間まで御邪魔していた後、「石松」のマスターと帰ろうかと言う話になった時に、もう電車も動いていたが二人で電車に乗ると、また西船橋まで行っちまう可能性もあるからとタクシーで。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


自衛隊を私兵化する北沢俊美

1月24日月曜日晴れのち一時小雨 

 民主党という連中の真の姿がよくわかる事件が今日の産経新聞で報道されていました。

以下引用

<講演会で自衛隊員監視、防衛相直轄部隊が「不当調査」

産経新聞2011年1月24日(月)1時53分配信

 北沢俊美防衛相直轄の防諜部隊「自衛隊情報保全隊」が、陸上自衛隊OBの佐藤正久自民党参院議員や田母神俊雄元航空幕僚長の講演に潜入し、現職自衛官の参加状況を監視していることが23日、分かった。複数の防衛省・自衛隊幹部が明らかにした。本来任務とは乖離(かいり)した不当調査の疑いがあり、憲法で保障された思想・信条の自由を侵害する監視活動との指摘も出ている。

 自民党は24日召集の通常国会で、自衛隊行事での民間人による政権批判を封じる昨年11月の「事務次官通達」問題と合わせ、保全隊の監視活動についても政府を追及する方針。

 保全隊は佐藤、田母神両氏の講演のほか、田母神氏が会長を務める保守系民間団体「頑張れ日本! 全国行動委員会」の集会にも隊員を派遣。また、陸上自衛隊唯一の特殊部隊「特殊作戦群」の初代群長を務めた陸自OBの会合なども監視対象にしている。

 監視目的は現職自衛官の参加の有無を確認し、参加している場合は氏名も特定する。佐藤、田母神両氏の発言内容もチェックし、報告書の形でまとめ、提出させている。

 陸自朝霞駐屯地(東京都など)に本部を置く東部情報保全隊の隊員が投入されるケースが多いとされる。保全隊は陸海空3自衛隊の統合部隊で、監視実態が発覚しないよう、空自隊員の参加が想定される田母神氏の講演には隊員同士の面識がない陸自の保全隊員を派遣することもあるという。

 保全隊は外国情報機関によるスパイ活動などから自衛隊の保有情報を防護するのが主任務。自民党政権時代には「日本赤軍」や「オウム真理教」のほか、「暴力革命の方針」(警察庁公表文書)を掲げた共産党が自衛隊を侵食するのを防ぐため、それらの監視活動も行っていた。ただ、保守系の議員や自衛隊OBを監視対象にしたことはない。

 防衛相経験者の石破茂自民党政調会長は「保全隊は自衛隊の安全を守る組織で在任中は恣意(しい)的に運用しないよう徹底させていた。何を目的にした監視活動か追及する」と話している。

 監視対象とされていた佐藤氏は「自衛隊への破壊活動とそれを目的とした浸透活動をはかる団体の情報収集は必要だが、対象を際限なく拡大するのは問題だ。自衛隊員は国家に忠誠を尽くすことは求められるが、政党や政治家の私兵ではない」と指摘している。

 自衛隊情報保全隊 平成21年8月、陸海空3自衛隊の情報保全隊を統合し、大臣直轄部隊として新編。ネット上での情報流出やイージス艦情報漏洩事件を受け、機密保全強化と自衛隊へのスパイ活動に関する情報収集の効率化のための措置。実動部隊は中央情報保全隊と北部、東北、東部、中部、西部の地域ごとの保全隊で構成する。駐屯地や基地ごとに派遣隊も置き、隊員は約1千人。>

引用終わり

 

 監視対象にしているという陸上自衛隊唯一の特殊部隊「特殊作戦群」の初代群長を務めた陸自OBとは、元一等陸佐で、明治神宮武道場至誠館 第三代館長荒谷卓氏の事です。

 北沢防衛大臣は、鳩山内閣の時に初めて防衛大臣としての記者会見に臨んだ時に、国旗に対して礼もしなかった事を産経新聞において潮匡人氏に指摘された前科があります。

 そして、支那の軍事力増強に対し理解を示しただけでなく、脅威と感じた事がないと発言しただけでなく、自衛隊施設での民間人による政権批判の封じ込めを求める事務次官通達を出した御仁です。

 政権批判の封じ込めを求める事務次官通達に関しては、車逆走指示し断った自衛官に対し「おれをだれだと思っている」と恫喝したあのクソゴミ国会議員松崎哲久氏のトラブルも遠因になったと言われています。

 支那の軍隊が国軍ではなく、支那共産党の私兵であるのと同じように、国軍である自衛隊を党の私兵として使っているのです。

 こんな人間のクズどもはサッサと死んで欲しいものです。

  まあ、民主党政権になって、法務大臣に公安が最重要危険人物にリストアップしていた千葉景子を就け、同じく国家公安委員長にこれまた公安の監視対象である北朝鮮人が恋人とも言われている岡崎トミ子氏を就け、重要危険人物としての監視対象である福島みずほ氏、辻元清美氏も大臣、副大臣であった。

 今また、官房長官には革マルの支援を受けている枝野幸男氏が新しく就任している。

 一日も早くこんな民主党政権を潰さなければ、我が国が滅びます。

 今朝起きると、昨日あれほど飲んだのに、全然酒が残っておらず、楽。

 今日は、朝風呂に入ってから、部屋で本を読んだりして一日を過ごす。

 酒は飲まず。

酒たまねぎや飲んべえの会 (アメリカワイン)

平成23年1月23日日曜日

 午後三時より、「飲んべえの会」にてドンチャン。

本日の出品酒

NO.1 シネ クア ノン(シン クア ノン) "レーベルズ"  2007 

  シラー パーカーポイント98点

NO.2 シネ クア ノン(シン クア ノン) "ピクチャーズ"  2007

  グルナッシュ パーカーポイント97点


NO.3
 シネ クア ノン(シン クア ノン) "ザ・ペティション"  2005

   ヴィオニエ37%、ルーサンヌ33%、シャルドネ30%

   パーカーポイント95点

NO.4 ジャーヴィス プロプライエタリーレッド

  "レイク・ウィリアム"(カーヴ・ファーメンテッド)

  ナパヴァレー 1997

  

NO.5 ドリュー ピノ・ノワール "マクドゥーガル・ランチ" 

   ソノマコースト 2007

   2009全米ピノ・オブ・ザ・イヤー優勝/W&S96点]

NO.6 オーガスト ウェスト ピノ・ノワール

  "ロゼラズ・ヴィンヤード" サンタルチアハイランズ 2007

   パーカーポイント95点

NO.7 ハンゼル シャルドネ 2005 

   WE誌上:全米歴代シャルドネ史上最高スコア96ポイント


NO.8
 ソーター ブリュット ロゼ "エステート・グロウン" 

    オレゴン 2005

   全米歴代No.1スパークリングロゼ

 

 

 

 

 

 

 

 八本も呑めるか?

 結局、五人で八本+「酒が呑みた〜い」というご希望により、磯自慢四十%二十BYが。それも空に

 其の後、アダージョを呑んでいた人も・・・・・・・・・

 今日、開けたボトルはそれぞれいい状態でした。

 本日は、めぐ蔵さんがお手伝いに来てくださったので、片付けがメチャらく。

 さっさと終わって帰れました。でも、三時から結局はいい時間までドンチャン。

 今日は珍しく自宅まで記憶あり。

 サルよりマシ。

 


 

鈴木裕子その5

1月22日土曜日晴れ △ 

 中川八洋氏は著書で、「千田夏光のつくり話も、吉田清治のそれと似て、数字を酷使している。日本人は嘘数字に弱い」と書いていますが、あの算数も出来ない朝鮮人大学教授の朴一氏と同様に、鈴木女史も具体的な検証もしなければ算数もできない。数学ではない、算数である。

 <強大な権限を天皇から委任された総督寺内は、腕づく、力づくで朝鮮民衆の独立・抵抗の動きを封じ込めた。朝鮮全土に憲兵を放って監視の目をひからせ、寸分のスキもなかった。官吏はもとより、女学校の教師に至るまで着剣を命じ、民衆を威嚇した。

 一九一九年三月、朝鮮民衆の広汎な独立闘争である三一運動がおこるまで、いわゆる、この「武断政治」の時代が続いたのである。>

P七十四

  まず、三・一事件は、鈴木裕子女史が書くような「朝鮮民衆の広汎な独立闘争」ではない。

  

 *宇都宮太郎大将の日記にみる三・一運動と朝日新聞
 *講談社による三・一運動の描き方

 

 アカ思想を持っていた反日日本人どもは、戦後、同じく赤い連中が仕切っていたGHQにより、我が世の春を謳歌した。

 その連中は己らの事を取り締まった憲兵を忌み嫌い、悪鬼のごとく描いた。

 それが、戦後の憲兵の姿となった。

 憲兵について、「誰も書かなかった日本陸軍」(浦田耕作 PHP研究所 平成十五年刊)には下記のように書かれています。

<憲兵は、味方の非違・犯則はもとより、占領地住民に対しての行為にも、敵に対する行為についても、非違行為や犯則を防ぎ、取り締まりを行い、日本陸軍の良心でもあった。>

P二〇〇

 

 赤いゴミどもは憲兵のこのような姿は絶対に描くことがない。

 鈴木裕子女史が何も検証をせずにこの著書を書いているのは下記の数値だけでも充分である。まず、朝鮮半島には終戦まで第十九師団(羅南)、第二十師団の二個師団のみが置かれていた。たった二個師団である。

 ましてや、この二つの師団が朝鮮半島に編成完結されたのは、大正七年(一九一八年)である。

 一師団一万万名前後(他に非戦闘員五千名)として二万名である。

 鈴木女史が「朝鮮全土に憲兵を放って監視の目をひからせ、寸分のスキもなかった。」と宣う朝鮮半島における一九一一年末における憲兵・警官の数は下記の通りである。

憲兵

将校 下士官 上等兵 憲兵補助員
78名 693名 2525名 4453名 7749名

警察官

警務部長 警務官 警部  巡査 巡査補 合計
13 3(1) 268(101) 2261(182) 3417(3417)

6006

(カッコ内朝鮮人)

   備考 憲兵補助員と巡査補は全員朝鮮人

 「歴史を偽造する韓国」(中川八洋 徳間書店 平成十二年刊)P一〇四

 

朝鮮で一九一八年十一月まで警察業務を行った憲兵については、中川八洋氏は御自身の著書で下記のように書かれています。

以下引用

<韓国併合時の日本の憲兵の数は、すべてで、たった二〇一九名であった。しかもそのうち、憲兵補助員の一〇一二名は朝鮮人であった。すなわち、日本人の「憲兵警察」は一〇〇七名しかいなかった。

 これが、二二万kuの朝鮮全土に散らばって配置されたのである。文民警察官は、前述したように五六九三名いたが、その半分以上の三四二八名は朝鮮人であった。

略)

 たった二〇一九名(うち日本人一〇〇七名)の「憲兵警察」で「強圧的な武断政治」が果たして可能なのだろうか。「朝鮮民族の糾弾」など可能なのであろうか。日本の「憲兵警察」は、当時の朝鮮人全体に受容され強く支持されていた。そうでなければ、このような僅かな数の憲兵が全土二二万平方kuにミニ小部隊ごとにわかれて展開されて安全であったはずはない。分遣・派出箇所が五六三とすれば、一カ所につき日本人憲兵は二名未満であった。村の民衆がある程度の集団をもって襲撃すればこれらの憲兵を全員殺害することが可能であった。しかも、そのようなことはほとんどおきなかった。

 一九一九年の三・一事件の時、(二名の警官のほか)六名の憲兵が殺害されただけであった。圧倒的に多数の朝鮮民衆が綱紀の厳正な日本の「憲兵警察」の方を信頼し協力した。保護国時代の「義兵」を継承する、独立運動家の「反日」分子の方を拒絶した。

 この「憲兵警察」と前述の普通警察(「文民警察」)と合わせても、韓国併合年の、在鮮の日本の警察力の数は七七一二名(うち日本人は三二五九名)であった。この極端に僅かな数の「警察官」で二二万kuの全朝鮮を担当したのである。日本がいわゆる「独立を奪った」直後の一九一〇年における、この数字「七七一二名」は、当時の朝鮮人全体が、日本統治を、面従腹背であれ、重病人のごとき朝鮮政府よりはるかにましとして受容し支持していた歴史事実を、鮮明にしている。

 併合から一年余が経った一九一一年末には文民警察官は六〇〇六名、憲兵は七七四九名と増え、合計一三七五五名となった。

 それでも、現在の日本に於ける、二千kuの東京都(面積は朝鮮の百分の一、人口は当時の一九一〇年とほぼ同じ)を所管する警視庁の四万一七二一名の警察官(二〇〇〇年四月現在)の三分の一である。面積を考えれば、当時の朝鮮は現在の東京都の三百分の一という密度での警察官配備であった。なを、現在の日本には二五万名の警察官がいる。一九一一年末の朝鮮全土の文民・憲兵あわせた警察官は、この二十分の一である。>

引用終わり

「歴史を偽造する韓国」(中川八洋 徳間書店 平成十二年刊)p一〇三〜一〇五

 

 平成二十二年現在、東京都の治安を預かる警視庁の警官の人数は四万三千人強である。広大な二二万kuの朝鮮半島をその三分の一で治安維持に務めていたのであるから、鈴木女史が書くような

<腕づく、力づくで朝鮮民衆の独立・抵抗の動きを封じ込めた。朝鮮全土に憲兵を放って監視の目をひからせ、寸分のスキもなかった。>

というのであれば、現在の我が国こそ、鈴木女史は武断政治国家と責めねばならぬ事になる。

いまさらながらアホかと。

 

 検証をいうものを一切しない自称「歴史」の専門家である鈴木裕子東京経済大学講師の姿がここにある。

 

 あほらし

 

 今日は午後よりスポーツセンターへ。

 一応、一通りのメニューを消化。

 肝心の営業はメチャヒマ。

 Kさん来店のみ。

 ヒマだしとKさんと飲む。

 記憶はあり。

 サルよりマシ。


鈴木裕子その4

1月21日金曜日晴れ △

 鈴木裕子女史は軍隊についても

<職業軍人と違って、応召された兵士たちの大部分は、貧しい農村の出身者であった。対する「敵」の大部分も自分たちと同じ貧しい農民層が圧倒的であった。軍部権力は、彼等出征兵士が自分たちの出自、境遇に「めざめて」立ち上がることを極度に恐れていた、と思われる。

 そのために憲兵は、四六時中、兵隊の動静に目を光らし、常に監視下に置いていた。さらに絶対服従の兵隊教育が徹底的に叩き込まれた。「上官の命令は朕(天皇)の命令」とされ、絶対服従が暴力つきで教え込まれた。たとえばこうである。

略)

 (木下注 引用文は嘘つきの曽根一夫氏の著書「南京虐殺と戦争」P四十七より)

 みられるように天皇の軍隊、皇軍とは、なんとも不条理、不合理な社会であった。こうした弱い者いじめの一方で、懐柔策として、女たちの性を「あてがった」のである。兵士たちに対する、この懐柔策は見事に成功した。皇軍の兵士たちは、敗戦に至るまでついに一度たりとも軍や天皇制権力をおびやかすような蜂起をおこさなかったからである。彼等兵士は、女たちの性をテコに、自分たちの性をも管理され、支配下におかれていたことを見抜けなかったのである>

P六十八〜六十九

 どのような育ち方をすれば、これほどの醜い女に育つのであろうか。

 よほど、親がクソバカだったとしか思えない。

 アッツ島、ペリリュー島、硫黄島、沖縄など多くの将兵の奮戦、そして特攻も「慰安婦による懐柔策」によるものと言い張るのであろうか。

 下記の文は前衆議院議員・西村眞悟氏のメルマガ「西村眞悟の時事通信」よりの引用です。

 以下引用

<最後に、次の言葉が忘れ得ない。

 共に、硫黄島の戦いのなかで戦没した無名の兵士の言葉である。

留守晴夫著「常に諸子の先頭に在り」(慧文社)により教えられた。

 「軍医殿、泣いておられるのですか」

 これは、硫黄島の動けなくなった重傷者で充満した天然壕のなかで、安楽死の注射を打たれた兵士が最後に軍医に言った言葉である。

 彼は、極限とも言うべき自らの悲惨そして苦痛のなかにおいても、自分に安楽死の処置をしようとする軍医を気遣っているのである。

軍医の涙が、彼の顔に落ちたのだ。

 海軍司令部付士官松本巌は、伝令のため本部壕を目指した。その途次、動けなくなった重傷者が集められた陸軍の中隊壕に入った。多くの兵の手足は無くなり、顎がない兵士もいた。

 そのなかの一人の兵が松本に言った。

 「水があったら飲ましてくれ。もう四日も何も口に入れていない」

 松本が水筒を彼に渡して飲まそうとした。

 その時、壕の入り口付近にいた下士官が松本に言った。

「海軍さん、やめろ、あと二時間もすれば、俺たちは皆火炎放射器で焼き殺されてしまうんだ。

 死にかかった者に飲ます水があったら、

 その水をあんたが飲んで戦ってくれ。

 あんたは手も足もまだついている。やってくれ、我々の仇を取ってくれ。頼みます。」

 松本は中隊壕を出て半時間ほど歩き本部壕にたどり着いた。程なくして、中隊壕の百五十数名が火炎放射器で全滅させられたという報告が本部に届いた。

 

 硫黄島で、このような兵士が戦っていた。そして、続く沖縄でも。共に、アメリカ軍の本土への本格的侵攻をくい止めるためだ。

 それ以前の、サイパン、ペリリューまたアッツ島そして、インパールにおいてもこのような戦いが為されたのだった。

 では、これら勇戦奮闘した兵士とその心は、過ぎ去ったその時にしかないのか。

 そうではない。

「過去は過ぎ去った日付のところにあるのではなく、今に生きる我々のなかにある。我々は過去である。」

 従って、歴史を失うとは、過去を過ぎ去った日付のところに放置して忘れることである、つまり自らを忘れることである。多くの民族は、そのようにして滅んだ。

 だが、我々日本人は、断じてその轍を踏んではならない。

 我々自身が再生するために、民族のなかに受け継がれてきた「闇に輝く一条の光」を甦らせよう。

 我が国の無量の英霊よ、我らのなかに甦り我らに力を与えたまえ。>

引用終わり

「西村眞悟の時事通信 平成二十二年十二月三十日号」

 大東亜戦争で我が国を守る為に戦った先人は、男ばかりではない。

 私の伯母は従軍看護婦として戦場に行っている。

 沖縄戦では、有名なひめゆり部隊を始めとし、多くの女学校の学生が従軍看護婦として参加した。

 下記も、同じく西村眞悟氏のメルマガより

 

 ひめゆり部隊・・・沖縄師範学校女子部百五十七名及び

          沖縄県立第一高等女学校六十五名

 白梅部隊・・・沖縄県立第二高等女学校五十五名

 名護蘭学徒隊・・・沖縄県立第三高等女学校十名

 瑞泉学徒隊・・・沖縄県立首里高等女学校六十一名

 積徳学徒隊・・・私立積徳高等女学校六十五名

 悌梧学徒隊・・・私立昭和高等女学校十七名

 大東亜戦争ばかりではなく、我が国国民、先人は国家のために、愛するもののために戦って来た。

 それを、これほど、我が国の先人を醜い見方しかできない鈴木裕子のようなクソバカアホゴミ女も珍しい。

 こんなどうしようもないバカ女が講師として東京経済大学とやらで歴史を教えているのである。

 そういえば、東京大学でも、どうしようもないアホが多く教授やらやってますけどW

 今日は当店としては珍しく忙しい。

 バンブーさん来店。

 Nさん三名様で来店。

 Nさん三名様で来店。

 Tさん三名様で来店。

 初めてのお客様二名様で来店。

 同じく初めての方二名様来店。

 Tさん来店。

 今日は最初から頑張って、洗い物を終えてからドンチャン。

 営業終了後、Tさんと新橋のカッシーズバーへ。

 まあ、記憶は少しはあるから、サルよりマシ。

 

 ところで、いくら、女相手に格好を付けたいからといっても、アホな事を言ってアホをさらすより、飲み屋では酒を楽しんだほうがええと思うのだが。


 

鈴木裕子その3

1月20日木曜日晴れ △

 先に書いたように、鈴木女史は何も根拠もデーターも示さずに断定してこの本を書いている。

 <従軍慰安婦問題は、わたくしが考えるに三つの基本的側面を持っている。一つは慰安婦のおよそ八割が朝鮮女性であったことからして、これが朝鮮民族に対する植民地支配・戦争責任・戦後責任の問題であるということ。二つめは、女性の性的自由に対する抑圧、蹂躙の問題としてあるということ。三つめは、当時、天皇の軍隊、すなわち皇軍といわれた日本国家の犯した犯罪としてあったことである。>

p五十一

 慰安婦で一番多かったのは日本人です。

 秦氏は慰安婦の総数一万数千人、民族別の割合は日本人四割、現地人三割、朝鮮人二割、その他一割と推計しており、(秦氏の著書「慰安婦と戦場の性」より)一番多かったのは日本人であると書いています。

 ましてや、戦前、戦後多くの国の軍隊は軍人の性処理、慰安婦についてそれなりの監理をしていた。

 性病になっては軍隊としての能力が落ちる。それを防ぐ為である。

参照→各国における慰安婦(アメリカ軍慰安婦) 各国における慰安婦(ドイツ軍慰安婦)

 

 そして、支那の宣伝を鵜呑みに何の検証もなしにそのまま書くバカ女ぶり。

<対中国侵略戦争において、天皇の軍隊、皇軍がとった作戦は、「三光作戦」といわれた。すなわち殺光(殺し尽くす)、略光(奪い尽くす)、焼光(焼き尽くす)で、中国人を人間と思わぬ残忍な大殺戮作戦が皇軍の手によって行われたのであった。

 この殺戮作戦が大規模に展開された手始めが南京(当時の中国の首都)攻略戦(一九三七年十二月)で、此のとき何十万人という中国人(市民多数を含む)が皇軍によって虐殺された。いわゆる南京虐殺である。このおり女性は老人から少女に至るまで?辱、つまり強姦され、そのあげく証拠を消すため殺されたという。

 その凄惨なさまは、当時、南京に居住していた外国人によって「南京アトロシティーズ」(南京虐殺事件)として世界中に喧伝された。>

p五十三〜五十四

 光を殺すと習った日本人はいるのであろうか。支那では光は殺すと言う意味らしいが、日本語でない言葉をどうして、我が国の軍隊が作戦名としてわざわざ使用しなければならないのか。

 アホか!

 戦いなのだから殺しもしようが、当時、南京の人口は二〇万人といわれたが、我が国の軍隊が攻略した後もその人口が増えている。

 ましてや、鈴木女史が言うような

<その凄惨なさまは、当時、南京に居住していた外国人によって「南京アトロシティーズ」(南京虐殺事件)として世界中に喧伝された。>

などという事実はない。

 我が国の国会でもその事を戸井田とおる議員が指摘している。

今一般に言われているようなことなど、当時、第三国の新聞記事には載っていない。ニューヨーク・タイムズとかロンドン・タイムズだとか、そういう海外の特派員が当時、南京にいたわけですよね。しかし、本国に送った記事の中に、三十万の虐殺であるとか二万人のレイプだとか、そんなものは出ていないわけであります。>

平成十九年二月二十一日国会内閣委員会における戸井田とおる議員による答弁

 その他にも、経歴詐称だけでなく嘘を書きまくった事で有名な曽根一夫氏の手記「南京虐殺と戦争」からも何の検証もなしに引用しています。

P五十六〜五十七

 この曽根氏については板倉由明氏が鈴木女史がこの本(正確には元になった論文)を書く四年前に『諸君!』昭和六十三年(一九八八年)十二月号に「『南京虐殺』のザンゲ屋、『曽根一夫』の正体」としてその経歴詐称から虚偽の体験談を糾弾している。

 まるで、あの山田盟子女史なみのアホである。

 (まあ、秦郁彦氏も曽根氏の嘘証言を信用して御自身の著書に掲載していますが)

 

 鈴木女史が同様に検証もなしに書いているのは「関特演」による慰安婦集めである。

<なく子もだまると恐れられ、その精強ぶりをうたわれていた関東軍は、一九四一年、「打倒ソ連」をめざして、対ソ連への大々的な武力準備を行った。いわゆる「関東軍特別演習」、略称、関特演である。

略)

 兵力の大増強に伴い、関東軍司令部参謀第三課(兵站担当)の原善四郎中佐は「慰安婦調達」のため朝鮮半島に乗り込んだ。

略)

 作戦計画の段階より従軍慰安婦は既に組み込まれていたことがわかるのである。皇軍はもはや慰安婦無しには軍紀の保持はもとより、作戦計画にさえ支障をきたすようになっていた事が伺われるのである。>

P六十〜六十一

 この関特演に関する慰安婦調達の嘘については、すでに指摘してあります。

千田夏光の著書にみる慰安婦捏造の毒(関特演というウソ)の原点

続く

 今日は、明日ご予約いただいているアンコウ鍋用に三・六キロの活け鮟鱇。競り落としてくれた一吉の社長いわく「今日、一番だと思う」

 ありがたい。

 でっ、肝心の当店の方は、メチャヒマ。

 初めてのお客様二名様来店。

 いろいろと話をしながら、ヒマだし早い時間からドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

鈴木裕子その2

1月19日水曜日晴れ 寒い △

また、鈴木女史は満州侵略の悲劇として

<開拓団が入植した土地は、もともとは中国人農民が耕していたところが多く、なかでも肥沃な土地を無理矢理奪われた農民の恨みは強かった。いわば「怨嗟」の土地だったのである。>

p二十五

と書きながら、

<移民たちを襲ったのはゲリラばかりではなかった。「満州」に行けば、二十町歩の地主になれるといった甘言に誘われて、「渡満」した彼等に、冬場には零下四十度にもなるという寒気は想像を絶するものであった。

 まして人里離れた「北満」の奥地である。猛烈な無聊と、「屯懇病」といわれる一種のノイローゼ状態が襲った。移民たちの中からは内地に帰還することを希望するものが続出し>

p三十

 鈴木女史の頭の中には「矛盾」という単語がないのか。

 その他にも、

 「朝鮮民族抹殺の意図として」

 <朝鮮人慰安婦の場合は、性的搾取に加え、民族的搾取がこれに加わった。いや、搾取というより「民族抹殺」と呼ぶ方が相応しいかも知れない。

 略)

 「内鮮一体」とは、朝鮮人を皇民化、すなわち日本人化することによってその民族性を抹殺するものであった。「国語」(日本語をさす)強要、創氏改名、神社参拝などの強制が皇民化政策の一環としておこなわれ、精神的民族抹殺の一端をになっていったが、究極の民族抹殺こそ、若い未婚の女性を狙い撃ちした慰安婦狩りであったかもしれない。

 朝鮮半島から人狩り同然で、若い未婚の女性たちを連行し、慰安婦にさせたのは、日本の配食が濃くなった四十三〜四十五年がピークのようである。此の当時の慰安婦狩りの凄まじさは、一地方の朝鮮人強制連行の動員責任者(山口県労務報国会下関支部動員部長)であった吉田清治氏の著書「私の戦争犯罪」(三一書房 一九八三年)に赤裸々に記されている。そこには一読して目を覆わしめるような残忍卑劣なシーンをつつみ隠さず綴られている。まさに人間狩りであった。>

p四十七

 何処の国でも、併合した場合、言語を統一するのは当たり前のことであり、その事により、むしろ就く事の出来る職業など選択の幅が広がる。

 現実に、朝鮮人は官職を始めありとあらゆる職業につき、その朝鮮人上司に仕えていた日本人も多かった。

 ましてや、我が国の場合、日韓併合の一九一〇年から一九三七年(昭和十二年)頃まで、国語である日本語と共に朝鮮語も学校で必修科目として教えていました。それによってハングルは朝鮮に普及したのです。総督府に朝鮮の固有の文化を尊重しようという姿勢があったためです。  

 初めての本格的な朝鮮語辞典は総督府が明治四五年に編纂に着手し、大正九年に刊行、「朝鮮語奨励規定」を大正十年に設けて日本人官吏に朝鮮語の習得を奨励しています。帝国大学である京城大学に大正十三年に法文学部には朝鮮語・朝鮮文学と朝鮮史学の講座を開設したりまでしています。大東亜戦争中もこれらの講座には何も制限が加えられていません。

 鈴木女史は、これも何の検証もなく此の後に詐欺師吉田清治氏の著書より引用掲載している。

 吉田清治氏については、当時、その第一作めの著書である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 昭和五十二年刊)と第二作目のこの「私の戦争犯罪」に書かれている内容との矛盾が指摘されていただけでなく、すでに、書かれている事が嘘である事は、現地の新聞記者の取材により明らかにされていた。

 そして、このような奴隷狩りのような事がありえないことは多くの方々に証言、証明されていたにもかかわらず、平気で嘘を書く。

 それは、このどうしようもないアホ女鈴木女史が此の本を出した同じ年に吉田清治氏の偽証言を満載した著書を真実だとした、朝日新聞の論説委員である人間のクズ北畠清泰氏の平成四年一月二十三日付け朝日新聞夕刊のコラム「窓」による嘘宣伝と同じである。因に北畠氏はこの吉田清治の記事については誤りも訂正もせずに大学教授までなり死にました。流石は人間のクズだけのことはあります。

続く

 写真は今日の河岸での風景。

 河岸では、カラス、鳩の代わりにカモメが我が物顔。

 

 

 今日はメチャヒマ。

 浜松からYさん来店。

 今日は東京でのお仕事を済ませて、新幹線でお帰りになる前に少しということで寄ってくださる。

 Oさん来店。

 いろいろと、楽しいというか面白い情報山盛りでお話ししてくださる。

 中井洽氏が国家公安委員長であるときに、路上キス?を写真に撮られた銀座のホステスをやっていた朝鮮人女性と結婚したことを教えてくださったのもOさん。

 今日も、中々濃いお話。

 ヒマだし、早い時間からドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

鈴木裕子

1月18日火曜日晴れ寒い ×

 鈴木裕子 (女性史研究家)

<鈴木裕子(すずき ゆうこ、1949年 - )は女性史研究家。 日韓の女性と歴史を考える会代表。韓国強制併合100年共同行動共同代表。

東京下町生まれ。早稲田大学院文学研究科修士課程日本史学専攻修了。

専門は女性史および社会運動史。現在、東京経済大学講師として日本史を教えている。>

 つまり、典型的なアホ反日活動家です。

 鈴木裕子氏の著書「従軍慰安婦・内朝鮮結婚」(未来社 平成二年刊)についての私なりに検証したく思います。

まず、

 鈴木女史は、著書に「我が国の近代化のいけにえ」として紡績等に携わっていた女工とともに我が国のかっての公娼制度について下記のように書いています。

 <いいかえるなら公娼制度とは、国家公認の買春制度であって、国家は業者らに営業許可の鑑札を与えるかわりに彼等から税金をかすめとったのである。国家と業者は女性の性を収奪する上で、まさに共犯関係に立ったといえた。

 女性を抑圧するシステムにもう一つ、家長制度(家父長制)があった。

 略)

 この家制度(実父長制)と公娼制度は、いわゆるメダルの表と裏の関係にあって、ともに女性に対する抑圧・支配の要となった。この二つのシステムは相互に補完しながら女たちを男権支配・権力(天皇制権力)支配のもとに組敷いていく機能を大いに発揮した。なを、付言すれば、男権支配・権力(天皇制権力)支配の最頂点に立っていたのは、国家の「大家父長」とされた天皇であった。>

p十一

 天皇陛下とどうして慰安婦が関係あるのか。

 天皇陛下を頂いているのは、世界中で我が国だけだが、他国には慰安婦はなかったのか。

 家制度と公娼制度がどうしてメダルの表と裏の関係になるのか。

 朝鮮では我が国が統治するまで奴隷が四十%を占めていた。

 その奴隷たちは我が国が併合したことにより、奴隷から解放されたわけです。まあ、どうしようもないアホ大学教授・朴一氏、これまたどうしようもないボケ映画監督・井筒和幸氏などは朝鮮人には皆「族譜」があり、何世代も前のルーツがわかるような事を書いているが、奴隷にそのようなものがあるはずもないから、多くの朝鮮人は族譜などない。

 ほとんどは後に作られたものである。

 そして、これも書いた事であるが、まるで、我が国が公娼制度を持ち込んだもので、それまでは朝鮮には売春制度が無かったというような書き方です。

  じゃあ、朝鮮には売春婦はいなかったのか。とんでもない話で、いわゆる妓生(キーセン)とよばれる売春婦は新羅時代からあり、高麗時代の初期には「官婢」つまり国に所属していた奴隷の「売春婦」として制度化されていました。そして、全国から生娘をあつめて「貢女」として支配していた元に捧げられ、用済みになると返されたが、これを「帰順女」呼んで蔑んだ。

そして、奴婢については

『ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話』(林鍾国、平凡社 一九八七刊)

  <奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。 かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても 犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。 それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具 にしたものであった。奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、 ひどい場合は打ち殺されることもあった。 外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている 年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れをさしこ まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された 不幸な運命の主人公であった。>

  近代までこのような状態であったのです。

 そして、近代までアジア最大の管理売春国家であり、今でも売春婦輸出大国である。

 南朝鮮は一人当りGDPが一万六千ドルあり世界でもGDPランキング一一位の国でありながら、現在でもアメリカ、オーストラリア、香港、ヨーロッパだけでなく我国にも数千名以上の売春婦を供給している売春婦輸出大国です。

 ちなみに、我が国における朝鮮人売春婦の数千名以上という数字は少なく見積もったと思われる数字であって、 アメリカでは逮捕される九割が朝鮮人女性です。それでだけでなく、売春専業女性がおよそ二十六万人もいて、買春売春市場の規模が年間二十六兆ウォンにもなり南朝鮮のGDPの五%も占めるということは、我が国に当てはめると二六兆円もの規模になります。

 自分ところではさっさと禁止しておきながら、平気で我が国の政治家になんとかしろと騒ぎ立てている朝鮮人が経営者であるパチンコの経済規模とほぼ同じです。

(中央日報平成一五年二月六日より)

 そして、

「企業文化の中では深くお酒を飲む面があり、男性同士のつながりを強める方法として買春を受け入れる状況にあって、なくすのが難しい儀式」だそうで、男同士で飲んだ後に買春をしないと約束したら映画チケットをプレゼントするという政府キャンペーンまでやっていた国です。

  また、現在でも、儒教の影響で家長の権限が強いのは朝鮮であるし、その朝鮮に於いては家庭内に置ける女性の地位は低い。

 食事までも別にするところがあるぐらいです。

 この鈴木女史は他の事についてもそうであるが、朝鮮や他国との比較など絶対にしようとしない。

 そして、検証というものもしようとしない。これが自称歴史の専門なのである。

 ましてや、この鈴木女史の著書に下記のような記述がある。

<日本支配層は、この朝鮮にも公娼制をしき、朝鮮人民の「精神的愚民化」を図ろうとしたという>

p十八

 先に書いたように、我が国が公娼制度等持ち込まなくとも、朝鮮には、強姦、放火、嘘などとともに朝鮮民族の国技の一つである売春は存在し、その国技を活かして今でも朝鮮人女性が出稼ぎに我が国に大勢来ている。 

 これについては何度も書いているが、鈴木女史には鴬谷辺りの朝鮮人売春婦どもを、捕まえるなり殺すなり、なんでもどういう形でもいいからこういったゴミ朝鮮人をすべて始末してから寝言をほざいて欲しいものである。

続く

 今日もメチャ寒く、河岸に行く時に築地本願寺を通ったら、境内においてある大きな蓮の鉢に氷がはっていました。

「二階堂」ならぬ「三階堂」築地のマグロ屋の慎吾ちゃんとこにあったやつです。

すげ〜見た事ないバッタもんと思ったら、マジックで書いたものでした。

おそまつ。

 

 Oさん、Iさん来店。

 当店のお客様よりの御紹介ということで、香港からトミージョーダンさん、ルイズさん来店。

 

 Tさん四名様で来店。

 来週結婚されるカップルの御祝い。

 当店より、御祝いということで、スパークリングワインを開ける。

 ホロン部員Yさん来店。

 早い時間からドンチャン。

 気が付いたら、灯つけっぱなしで鍵もかけずにカウンターの中で寝てました。

 サル。


 

鶴丸復活

1月17日月曜日晴れ○

 日本航空の鶴丸が復活というニュースがありました。

<日航の鶴丸マーク復活へ 再生の象徴、4月から

2011.1.17 18:50産経新聞

 会社更生手続き中の日本航空は17日、平成20年に姿を消した旧ロゴマーク「鶴丸」を今年4月に復活させる方針を固めた。日航は主力取引銀行から新規融資を受けて3月末に更生手続きを終える計画で、鶴丸を「再生の象徴」としたい考えだ。

 鶴丸は赤いツルをデザインしたマークで、航空機の尾翼などに描かれていた。新しい鶴丸は赤い円形のデザインを踏襲しながらも「JAL」の文字の形などを変更する。航空機の塗り替えの際に順次導入する。14年の旧日本エアシステムとの経営統合に伴って新マークを策定したため、鶴丸は次第に姿を消した。>

 

 今の日本航空のマークは日の丸を切り刻んだようで、好きではありませんでした。

 そんなゴミデザインを選んだ航空会社が潰れるのは当然の結果だったのでしょう。

 

 立候補予定集会で国旗を切って、党旗を作ったドアホウどももいました。

 この時の立候補者である皆吉稲生氏の経歴を見ると、鹿児島自治労会長を務め、社民党に所属していて、民主党に鞍替えして立候補したという真っ赤な輩。

 そりゃ、我が国の国旗を切り刻むぐらいは何とも思っとらんでしょう。

 心の祖国は我が国じゃあない連中ですから。

 だいたい民主党のマークからして、おかしいだろうに。

 今日、朝起きるとあちこちが筋肉痛。

 夕方、店に寄る。どうしようか迷ったが、結局そのまま帰宅。

 飯を食った後は、眠たくなるまで部屋でゴロゴロして本やマンガを読んで終わる。

 今日は酒は飲まず。


 

1月16日日曜日晴れめちゃ寒い○

 今日は東京も寒い。

 昼頃より、新宿スポーツセンターへ。

 昨日出来なかった、肩、腕、下半身のメニューを消化し、最後に有酸素運動をやる。

 今日は背中の筋肉が張っている。

 帰りにビックボックスで開かれている古本市に行くが、今回は収穫無し。

 帰りに店に寄った後、今度江戸川橋に移転し、開店される「一笑」さんのお店に顔をださせていただく。

 まだ、来週の開店準備に大変そう。

 

 

 帰宅後、昨日古本市で購入したどうしようもないアホ女の鈴木裕子女史が書いたアホ本「従軍慰安婦・内鮮結婚」を読み終えた後、何もする気になれずに、これまた古本屋さんで買ってきた漫画「殷周伝説」(横山光輝 潮出版)全十巻を読む。

 潮出版というと、あの気違い宗教である創価学会系のアホ出版社。

 横山光輝氏の著作物がなんで、ここから出ているのか知りませんが・・・・・

 今日は、酒は飲まず。


1月15日土曜日晴れ ○

 今朝まで飲んでいた酒を抜きに?メチャメチャ久しぶりにというか今年初めてとなる新宿スポーツセンター。

 (前回行った時には、貸し切りでトレーニングルームが使用出来ず)

 今日は慣らし?のつもりで、胸部、背中のみのメニューと有酸素運動などで約二時間。

 

 帰りにビックボックスで開かれていた古本市に寄ると、あのどうしようもないアホで有名な鈴木裕子女史の著書「従軍慰安婦・内鮮結婚」(未来社 平成四年刊)があり、ネタとして購入。

 少し読んだだけでも突っ込みどころ満載のどうしようもないアホが書いたアホな本。

 Fさん御夫妻来店。

 スポーツセンターで知り合いになったSさん来店。

 Mさん二名様で来店。

 今日は飲まずにサッサと寝る。


シン・クア・ノン(シネ・クア・ノン)ザ・ペティション

1月14日金曜日晴れ ×

 一月二十三日日曜日の飲んべえの会・ワイン編にシン・クア・ノン(シネ・クア・ノン)が本日新たに入手できたので、追加で出品します

 「シン・クア・ノン(シネ・クア・ノン)ザ・ペティション2005」

 シン・クア・ノンの高評価の白ワインはほとんどが甘口ワイン。

 このザ・ペティションは数少ない高評価の辛口白。

 私もシン・クア・ノンの白を飲むのはこれを入れても二本目でしかない。

 今日は金曜日だと言うのにメチャヒマ。

 バンブーさん来店。

 Sくん来店。

 Eさん来店。

 Yさん来店。

 春から奥様と一緒にニューヨークに留学するそうです。

 営業終了後、新橋へ。

 カッシーズバーでドンチャン。

 其の後、もう一件移動し、朝までドンチャン。

 帰りは地下鉄が動いていました。

 お前にいわれる筋合いはない。こいつしばいたろうかと思ったのも久しぶり。


パラオ

1月13日木曜日晴れ ○

 河岸から帰って来て、仕込みをしている時に、加藤幸弘氏より電話あり。

 加藤氏は、最初の来店は、チャンネル桜に出演した長尾敬民主党議員(当時はまだ国会議員ではなかったです)とともにいらしてくださったのが最初。

 今度、「向陽社」の堀栄治氏とともに南洋パラオ共和国にいらっしゃるそう。

 堀氏はアホな街宣右翼どもが多い中で私の知っている中では数少ない普通のまともな、そして尊敬出来る活動家。

 堀氏は自費で毎年パラオに渡り、遺骨収集、戦没者慰霊巡拝をされている。向陽社は独自にパラオに慰霊塔も建てている。

 毎年、十二月二十三日の天長節には、東池袋の元巣鴨プリズン処刑台跡に建てられた慰霊碑(記念碑とされている)にて慰霊祭も行なっている。

 街宣右翼と言うと、どんなにアホ、ゴミ、カスどもが多いかは靖國神社に八月十五日に行ってみればよ〜くわかる事です。

 迷惑も顧みず、大音響で軍歌を流し走り回るのはアホウドモです。

 ましてや、八月十五日にそのような事を靖國神社およびその周辺で平気でやるのは、腐れどもです。

 英霊が眠る靖國神社に対し、このような行動をとる多くの「自称右翼」どもは腐れヤクザと大差ないです。

 そういえば、随分前に、うちのホームページの内容を掲載写真と共にそのままパクって、自分とこのホームページに使っていたのを、知らせてくれた方があり、それを直接抗議すると、「すみません。うち、総会屋なんです」。

 総会屋が政治団体を名乗り、「一人必殺だ」とホームページに書いてあったのです。

 

あほらし

 今日はメチャヒマ。

 初めてのお客様来店。

 遅い時間に、「まだ、いいかな〜」とOさん来店。

 結局、いつもどおり、ドンチャン。

 でも、記憶あり。

 猿よりマシ。

(てっ、先日書いていたのに、ホロン部員Yさんのお会計を間違っていて、四千円近くも余計にいただいていたことを伝票整理していて気が付き、ゴメンナサイメール。

 記憶が・・・トホホホ・・・・・・)

 

 其の後、深夜、めぐ蔵さんより、当店の飲んべえの会にも参加してくださった方が、会社で倒れた後入院先で御亡くなりになったというメールあり。

 <人はみな死ぬ、という意味では死神は平等主義だが、生活の中の死は総て不平等である。

 しかし、これが人生の実態である。>

と、御自身の著書に書いていたのは石堂淑朗氏であるが、昨年も私よりも随分若い江坂寛氏が急死された時に、この石堂氏の言葉がすぐ思い浮かんだ。

 ご冥福をお祈りいたします。


 

流石は真っ赤な仙石

1月12日水曜日晴れ △

 下記のニュースがあっという間に削除されたそうです。

 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4622752.html

<政府・民主党は、通常国会を今月24日に召集する方向で調整に入りました。鉢呂国対委員長は、野党の自民党と公明党に対し、召集日を10日前に伝達するという慣例を踏まえ、衆議院の議院運営委員会の理事会を14日に開くことを呼びかけました。

 「(14日は)通常国会の召集日について、内閣から説明をすると」(民主党・鉢呂吉雄国対委員長)

 「新しい官房長官がキチンとした形で政府を代表して議運に来られる。どうしても必要なことです、譲れない」(自民党・逢沢一郎国対委員長)

(Q.長官自身が議運理事会で日程を説明する予定?)

 「もちろん」(仙谷由人官房長官)

 その仙谷官房長官は、午前中、皇居にいました。天皇・皇后両陛下が年の始めにさまざまな分野の学者から講義を受けられる「講書始の儀」に出席、傍聴したのですが、手元の紙が落ちました。驚いた表情を見せる隣の衛藤衆院副議長。仙谷氏も気付いて拾いました。

 この仙谷氏の処遇が焦点となっている内閣改造について、菅総理は13日の党大会を経て早ければ14日にも行いたいという意向を周辺に伝えました。

 仙谷氏は交代させる方向で調整中で、党の要職で処遇することを検討しています。その場合、枝野幹事長代理を官房長官に起用し、仙谷氏を党の代表代行とする案が浮上していますが、仙谷氏の役割をより明確にするため、幹事長に起用して岡田幹事長を官房長官とする案も検討されています。

 菅総理は13日の党大会直後に行う記者会見で人事の方向性を明らかにする予定ですが、党内では閣僚の交代は小幅に留まるとの見通しが強まっています。(12日17:25)

TBSニュース>

 削除されたニュースには、

<その仙谷官房長官は、午前中、皇居にいました。天皇・皇后両陛下が年の始めにさまざまな分野の学者から講義を受けられる「講書始の儀」に出席、傍聴したのですが、手元の紙が落ちました。驚いた表情を見せる隣の衛藤衆院副議長。仙谷氏も気付いて拾いました。>

という部分として、下記の映像がありました。

 

 つまり、仙石氏は不敬にも陛下の御前にて居眠りをしていたのです。

 流石は赤い政党の中でも真っ赤かな人だけの事はあります。

  しかし、どうして、あっというまに削除されてしまったのでしょう。このニュースより古いニュースもいっぱい残されています。民主党からの圧力でしょうか。それとも、民主党支持である朝鮮人勢力が強いTBS内の内からの力によるものでしょうか。

 義侠の蔵元である山田社長に電話をし、来月の飲んべえの会は二月二十六日土曜日と決定。

 酒は当店に寝かせてある義侠の三十%が中心となる予定。

 

 今日はメチャヒマ。

 初めてのお客様三名様来店。

 どうして、当店を選んでくださったのかわからないが・・・・

 Sさん来店。

 今日は軽く飲んでサッサと寝る。


 

皇室軽視

1月11日火曜日晴れ寒い△

 以下引用

<教科書 陛下“呼び捨て” 小6社会3社、皇室軽視強まる

2011.1.11 01:04産経新聞

 天皇陛下に敬称を付けず“呼び捨て”の記述が文部科学省の教科書検定をパスし、今年4月から小学校6年生の教科書として供給・使用されることが10日わかった。巻末の用語の索引に「天皇」を盛り込まなかった教科書もあった。天皇、皇后両陛下はじめ「皇室軽視」の傾向はこれまでも教科書でみられたが、学習指導要領では「天皇への理解と敬愛の念を深める」よう求めている。専門家からは「指導要領の趣旨が教科書に十分浸透していない」との批判の声が上がる。

 敬称がない表記があったのは、小6社会の教科書。文科省の検定を通過した4出版社のうち教育出版と日本文教出版、光村図書の教科書が、陛下ご自身が写った写真を説明する際に「文化勲章を授与する天皇」「インドの首相をむかえた天皇」と表記していた。

 2つの教科書を出す日本文教出版は、別の教科書でも天皇、皇后両陛下の写真説明を「福祉施設を訪問される天皇と皇后」と表記。「される」と敬語はあるが敬称はなかった。

 「天皇」という地位自体の説明は、憲法や法律、指導要領でも敬称を付けずにただ「天皇」と記述し、新聞や出版物も同様。しかし、陛下ご自身の行動や表情などを伝える際には必ず敬称をつけるのが一般的。

 しかし、教科書は陛下に敬称がなく、一方で一般国民や外国人らの名前には「被爆体験を持つ○○さん」「緒方貞子さん」(元国連難民高等弁務官)などと敬称があった。

 東京書籍は“呼び捨て”はないが、教科書の重要語を並べた巻末索引に「天皇」はなし。一方で「内閣総理大臣」「ユニバーサルデザイン」などはあった。

 過去の小中高の教科書でも「仁徳天皇陵」の記載が括弧書きや「大仙陵古墳」「大山古墳」「仁徳陵」として検定をパス。「皇太子明仁」の記載が「明仁皇太子」となったり、皇后陛下を「正田美智子」とした記載がパスしたことがあった。

 皇室や教科書問題に詳しい高崎経済大学の八木秀次教授は「憲法上の『天皇の地位』は、重い。国民の敬愛を受ける存在で、教科書では敬称を付けるべきだ」と話すが、文科省は「教科書記述の内容に誤りがあるわけではない」とする。>

引用終わり

 大月短期大学教授の小山常実氏は「歴史教科書が隠してきたもの」(展転社 平成二十一年刊)において、隠されたものにこそ真の狙いがあるとして下記のように書いています。

<しかし、歴史教科書の真の狙いは、中韓への隷属と愛国心の破戒よりも、むしろ右(木下注 韓国・朝鮮と中国からの恩恵。韓国朝鮮と中国への犯罪、近代の韓国中国への犯罪、韓国朝鮮と中国への贖罪)物語に現れない部分に隠されているように思われる。

 教科書は第一に、これまで何度も指摘したように、権威としての天皇の動きを隠し、各時代における安全保障問題を隠して来た。教科書は、日本国家にとって天皇・皇室が重要な存在であること、安全保障問題が国家にとって重要な問題である事を気付かせないようにしてきたのである。

 第二に、日本が東アジア世界ではめずらしく華夷秩序体制から自立してきたこと、華夷秩序体制と関係を結んでも基本的には被冊封国にはならなかったことを隠して来た。つまり、東アジア史の中では珍しく、敗戦までの日本が一貫して真の独立国であり続けたことを隠してきたのである。これは、日本人が独立意識に目覚めないようにする為である。

 さらに、第三に、歴史教科書は、ソ連や中国、カンボジア、北朝鮮などの共産党の悪行を隠してきた。教科書は中国文化革命も、カンボジア大虐殺も、北朝鮮の虐政も、総て取り上げない。それどころか、いまだに、崩壊したソ連の政治体制をきちんと記さないし、スターリンの大虐殺にも正面から言及しないのである。これは、明らかに、共産主義に対する幻想を維持して共産主義思想を再生産していくための布石であろう。

 右の三点では、現実的にいって最大の狙いは第一の点である。

 すなわち、煎じ詰めれば、教科書は、日本人が天皇・皇室の重要さ、安全保障問題の重要さに気付かないようにするために、本書で見てきたような歴史記述を行っているといえよう>

「歴史教科書が隠してきたもの」(小山常実 展転社 平成二十一年刊)p二百二〜二百三

 我が国おける「反日日本人」の狙いは、日本人の背骨の溶解にあるが、この事によく現れていると思います。

 民主党の議員どもの天皇陛下および皇室に対する対応なども同様です。

 今日は予約もないし、ヒマだろうと思っていたら、Nさん、Tさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 いよいよ来週オープンだそうです。

 Mさん侑さん来店。

 アダージョ、初亀出品酒、妙など飲んだ後に、ラフィット78をご希望。

 コルクの状態が良くなかったので、結局、ご来店いただいていた皆さんで、ほぼ原価を割り勘。

 飲んでみると、悪くはなかったが、開くのに時間がかかった。

 大野さん来店。

 私がこの商売を初めてから一番古いお客様で、W大の学生であった大野さんとはもう二十五年の付き合いになるが、大野さんのネクタイ、スーツ姿なんぞ、冠婚葬祭以外に見た事なかった。

 今日は熱でもあったのだろうか。

 Tさん来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 

 ドンチャン。

 今日は記憶はあり。猿よりマシ。


 

小沢訪中団

1月10日月曜日晴れ 寒い ○

  今日、購入した「中国はなぜ尖閣を取りに来るのか」(藤岡信勝 加瀬英明 編集 自由社 平成二十二年刊)に掲載されていた、佐々淳行氏に「宗主国に恭順する近隣国の『朝貢の図』である」と非難され、小沢氏自らが「「人民解放軍の野戦司令官」に例え日本を解放中であると言った朝貢団のメンバーです。

小沢一郎 (衆院岩手4区) 名誉団長
輿石東 (参院 山梨) 名誉副団長
山岡賢次 (衆院栃木4区) 団長
細野豪志 (衆院 静岡7区) 団事務総長
高山智司 (衆院埼玉15区) 団事務局長
中谷智司 (参院 徳島) 団事務局長代理
阿知波吉信(衆院岐阜5区) 工藤堅太郎(参院比例) 中林美恵子(衆院神奈川1区)
相原史乃(衆院比例南関東) 熊田篤嗣(衆院大阪1区) 野田国義(衆院比例九州)
青木愛(衆院東京12区) 黒田雄(衆院千葉2区) 萩原仁(衆院大阪2区)
網屋信介(衆院比例九州) 行田邦子(参院埼玉) 橋本清仁(衆院宮城3区)
石井章(衆院比例北関東) 古賀敬章(衆院福岡4区) 畑浩治(衆院岩手2区)
石川知裕(衆院北海道11区) 小林興起(衆院比例東京) 浜本宏(衆院比例近畿)
石関貴史(衆院群馬2区) 小林正枝(衆院比例東海) 樋高剛(衆院神奈川18区)
石田三示(衆院比例南関東) 小宮山泰子(衆院埼玉7区) 姫井由美子(参院岡山)
石森久嗣(衆院栃木1区) 坂口岳洋(山梨2区) 平山幸司(参院青森)
石山敬貴(衆院宮城4区) 斉木武志(衆院比例東海) 福嶋健一郎(衆院熊本2区)
一川保夫(参院石川) 斉藤進(衆院静岡8区) 福田昭夫(衆院栃木2区)

市村浩一郎(衆院兵庫6区)

斎藤やすのり(衆院宮城2区) 藤田幸久(参院茨城)
岩本司(参院福岡) 坂口岳洋(衆院山梨2区) 藤谷光信(参院比例)
植松恵美子(参院香川) 阪口直人(衆院和歌山2区) 藤原良信(参院比例)
内山晃(衆院千葉7区) 佐藤公治(参院広島) 牧山ひろえ(参院神奈川)
打越あかし(衆院比例九州) 主濱了(参院岩手) 松岡広隆(衆院比例近畿)
江端貴子(衆院東京10区) 城島光力(衆院神奈川10区) 松木けんこう(衆院北海道12区)
大久保潔重(参院長崎) 神風英男(衆院埼玉4区) 松崎哲久(衆院埼玉10区)
太田和美(衆院福島2区) 瑞慶覧長敏(衆院沖縄4区) 三宅雪子(衆院比例北関東)
大谷啓(衆院大阪15区) 杉本かずみ(衆院愛知10区) 三輪信昭(衆院比例東海)
大西孝典(衆院比例近畿) 菅川洋(衆院比例中国) 水野智彦(衆院比例南関東)
大山昌宏(衆院比例東海) 鈴木陽悦(参院秋田) 皆吉稲生(衆院比例九州)
岡島一正(衆院千葉3区) 鈴木克昌(衆院愛知14区) 宮島大典(衆院長崎4区)
奥野総一郎(衆院千葉9区) 空本誠喜(衆院広島4区) 村上史好(衆院大阪6区)
奥村展三(衆院滋賀4区) 高野守(衆院比例北関東) 室井邦彦(参院比例)
小野塚勝俊(衆院埼玉8区) 高橋昭一(衆院兵庫4区) 室井秀子(衆院比例近畿)
小原舞(衆院比例近畿) 高橋英行(衆院比例四国) 本村賢太郎(衆院神奈川14区)
海江田万里(衆院東京1区)

高松和夫(衆院比例東北)

森本和義(衆院愛知15区)
笠原多見子(衆院比例東海) 瀧 実(衆院 奈良2区) 森本哲生(衆院三重4区)
風間直樹(参院比例) 高邑勉(衆院比例中国) 森山浩行(衆院大阪16区)
梶原康弘(衆院兵庫5区) 田中けいしゅう(衆院神奈川5区) 矢崎公二(衆院長野4区)
勝又恒一郎(衆院比例南関東) 田中美絵子(衆院比例北陸信越) 谷田川元(衆院千葉10区)
加藤学(衆院長野5区) 田名部匡代(衆院比例東北) 柳田和己(衆院比例北関東)
金子健一(衆院比例南関東) 玉置公良(衆院比例近畿) 山尾志桜里(衆院愛知7区)
金子洋一(参院神奈川) 玉城デニー(衆院沖縄3区) 山口和之(衆院比例東北)
河上みつえ(衆院比例近畿) 玉木雄一郎(衆院香川2区) 山口壯(衆院兵庫12区)
川上義博(参院鳥取) 中後淳(衆院比例南関東) 山崎誠(衆院比例南関東)
川越孝洋(衆院比例九州) 辻惠(衆院大阪17区) 山田良司(衆院比例東海)
川崎稔(参院佐賀) 道休誠一郎(衆院比例九州) 横粂勝仁(衆院比例南関東)
川島智太郎(衆院比例東京) 富岡由紀夫(参院群馬) 横峯良郎(参院比例)
川村秀三郎(衆院宮崎1区) 友近聡朗(参院愛媛) 吉川沙織(参院比例)
木内孝胤(衆院東京9区) 外山斎(参院宮崎) 米長晴信(参院山梨)
黄川田徹(衆院岩手3区) 長尾敬(衆院大阪14区) 若井康彦(衆院千葉13区)
菊池長右ェ門(衆院比例東北) 長島一由(衆院神奈川4区) 若泉征三(衆院比例北陸信越)
京野公子(衆院秋田3区) 中島正純(衆院大阪3区) 和嶋未希(衆院比例東北)
櫛渕万里(衆院東京23区) 中塚一宏(衆院神奈川12区) 渡辺浩一郎(衆院比例東京)
    渡辺義彦(衆院比例近畿)

「中国はなぜ尖閣を取りに来るのか」(藤岡信勝 加瀬英明 編集 自由社 平成二十二年刊)p六十三

 

 これによりこの議員の総てが判断出来るわけではないが、少なくともこの国会議員は列をなし、支那の胡錦濤と握手してわずか一秒たらずの写真に喜々としていたのは間違いのない事実です。

 その胡錦濤との写真を掲載している議員のホームページなどございましたら、御教えください。(写し間違えなどもよろしくお願いいたします)

 今日は久しぶりに新宿スポーツセンターに行ったら、昨日、今日と行事で貸し切りのため、トレーニング施設が使用出来ずに、本屋さんに寄ってから帰宅する。

 風呂に入ってサッサと寝る。

 酒は飲まず。


 

中川さん、エリーさん結婚披露パーティ

1月9日日曜日晴れ △

 虎の門で行なわれた中川さんと新橋「うさぎ」のエリーさんの結婚披露パーティに出席させていただく。

 

 

 

 二次会は新橋の「野崎酒店」地下でしたが、希望者が多く、我々は同じ新橋の中華屋さんでドンチャン。

 

 

 終電近くで帰る。

 店に寄った後、神楽坂で最近オープンしたバーに初めて伺う。

 店に入ると、なんと、知り合いの方が飲んでいる。

 そのまま、ず〜と五時頃までお邪魔する。

 今日は珍しく最後まで記憶あり。

 猿よりマシ。


1月8日土曜日晴れ △

 午後より、早稲田の古本街へ久しぶりに出かける

 古本屋さんを巡っているとあっという間に時間が過ぎる。

 「Book off」では絶対に置いていない本に出会える。

 「丸」の別冊などを数冊購入。

 

 夕方に開店準備をしていたら、五時過ぎに「お店やってますか」と妙齢の女性が御一人で。

 すみません、六時半からです。と言うと、「わかりました」とお帰りになり、店を開いてからしばらくして来店してくださる。

 刺身で日本酒を飲みたくなったそう。

 其の後、九時過ぎに近所に御住まいという友人の女性の方が来店。

 遅い時間にOさん御夫妻?初めての来店。

 今日は結局、お客様は初めての方ばかりでした。

 今日も酒はいつもどおり一通り飲んだが、昨日ほど飲まなかったので記憶あり。

 猿よりマシ。


我が国における捕虜の待遇

1月7日金曜日晴れ 寒い ××××××

品目
捕虜 g
兵士 g
重労働 g
軽労働 g
一般 g
主食
705 705 570 390 330
10
30 30 10 10 10
野菜
400 400 200 200 200
味噌
50 50 50 50 50
15 10
砂糖
牛骨
100
熱量(kcal)
3000 3000 2200 1800 1400

捕虜給与規則(昭和十七年二月二十日陸軍大臣通達第八号)

捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金まで規定。署名は陸軍大臣東條英機。

表は昭和二十年、大阪俘虜収容所における比較表。

「戦争プロパガンダの嘘を暴く」(三好誠 展伝社 平成十七年刊)p百十八〜百十九

 多くの国民が飢えている時に、主食その他で皇軍兵士と同量だったのです。

 米国、英国、オランダ、ロシア、支那、オーストラリアなどは、我が国の軍人捕虜をどのように扱ったか。自国の軍人と同じ量の食事を捕虜である我が国軍人に与えたのか。

 私もこの三好誠氏の著書により初めて知る事が出来ましたが、なぜ、このような事実が今まで報道されてこなかったのか。

 我が国の戦後に行なわれたウオーギルトインフォメーションプログラムによる傷は、まだまだ深いと思います。

 

 バンブーさん来店。

 Sさん二名様で来店。

 Nさん、真理子さんと来店。

 Kくん来店。

 ギリギリブラザース三名様で来店。

 今回が初めてギリギリブラザース勢揃い。

 Kさん、Sさんと来店。

 博子さん、幹子さん四名様で来店。

 アンコウ鍋。

 酔狂師さん来店。

 今日は早い時間から大忙し。

 来ていただいたみなさんにご迷惑をおかけする事になってしまった。

 料理、洗い物その他に追われ、飲めなかったが、遅い時間からドンチャン。

 結果、記憶なし。

 やっぱ、サル、猿、SARU、申・・・・・・


 

鷹沢のり子の著書の矛盾

1月6日木曜日晴れ 寒い △

 「バターン『死の行進』を歩く」(筑摩書房 平成七年刊)という著書がある鷹沢のり子氏。一応肩書きとしてはルポライターになっているようですが、どこにも自分で考察したところが感じられない醜い著書でした。

 休憩について

 <一九四二年四月の「死の行進」ではどれほどの休憩が与えられたのだろうか。元兵士たちの話では、休憩が十分の時もあったし、一時間から二時間の時もあったという。

 では、休憩は定期的にあったのだろうか。この質問についてはかなり違いがあった。ある者は休憩はなく歩き続けたと言い、ある人は「約4時間に一回だった」と答えた。手元の資料によれば、比較的まとまった休憩は、日本軍監視兵が交代する時に与えられている。十キロから十五キロごとだ。監視する兵たちは車で移動して替わっているので、新しい監視兵たちが遅れると捕虜たちの休憩時間は長くなった。十分間から二時間までの差はそんな理由による。

 マリベスから歩いて数日後、捕虜たちはバランガに着く。かかった日数はそれぞれに違うが、おおむね二日から三日である。>

p四十九

 

 マリベスからバランガは約三十キロ。その距離を二〜三日かけて歩く。

 一日十〜十五キロである。

 つまり、休憩などなくとも歩ける距離なのである。それを休憩は「十キロから十五キロごとだ。」と書いている。

 現実に、鷹沢氏自身も一日に二十三キロほど歩いているし、バスと徒歩だが、一日でバランガまで到達している。

 ましてや、監視する日本兵は車で移動して交代している事になっているが、日本兵は重さ二十キロの完全装備で隊伍を整えての行軍であった。

<捕虜は数人の日本兵に引率され、着の身着のままの軽装で、飯盒と炊事用具だけをぶら下げ、えんえんと続いていました。疲れれば道端に横たわり、争って木陰と水を求め、勝手に炊事を始める等、規律もなかったのですが、呑気と言えば呑気なものでした。

 我々は、背嚢を背に、小銃を肩にした二十キロの完全装備で、隊伍を整えての行軍でした。正直言って、捕虜の自由な行動がうらやましかったぐらいでしたね>

「戦争と人間の記録 バターン戦」(御田重宝 徳間書店 昭和五十三年刊)p二百六十二

 第六十五旅団第百四十一連隊長今井武夫大佐談

 そして、「パンティンガン川の悲劇」と題されたところでも、証言として

<日本兵たちは日本刀を持って列の後ろに立ち、右から順番に兵の首をはねていった。はねきれなかった兵もいる。何度も日本刀で刺されて、苦しそうにうめき声をあげた兵もいる。

 フェリックス大尉は、右につながれてた兵の首が二つ落ちたのを見た。

 次はフェリックス大尉の番だ。彼の場合は首をはねられずに、いきなり刺された。何人もの首をはねていたので、日本兵は疲れていたのかも知れない。右脇腹を続けて二回刺された。日本刀が身体を突き抜けた。刀が抜き取られると、フィリックス大尉は前屈みになった。今度は肩胛骨の下を二回刺された。

略)

大尉は死んだと思われたようだ。

略)

 フィリックス大尉はしばらく放心していた。何も考える事ができなかった。一息つくと、小便がしたくなった。持っていた空の水筒に小便を入れた。水分が欲しかったので小便でも飲もうと思ったのだ。

略)

 二人は、時には這いながら、また、手と尻を使って動いた。傷を押さえながら少しずつ動いた。

略)

 噛むようにしっかりと水を飲んだ。地で汚れた体も洗った。

略)

 水を飲むと食べ物が欲しくなった。

略)

 三人が出てきた。全員が負傷していた。一人は頭を割られて、中が見えていた。別の一人は右肩を深く斬られていた。もう一人は胸を三カ所刺されていた。彼等は大尉と同じ第九十一師団の兵士たちだ。

略)

 バルガス少佐がやってきた。刺されたのは一カ所だけだ。彼が右肩の背を刺された後、右隣の士官の体が頭に被さり・・・

 略)

 一行五人は遅々とした歩みを始めた。途中で一人が血を吐き出した。刺された三カ所のうち一カ所が肺に達していたようだ。少し休んでは歩いた。相変わらず動きは遅かったが、大尉は立って足が動かせるようになっていた。一歩足を動かしては呼吸し、数十歩進むと、座って休んだ。しかし座るのに五分ほどかかるし、立ち上がるのにも同じくらいかかった。

 四日目の事だ。仮説小屋が見えた。入って行くと、書類等から米比軍第四十一師団のキャンプだとわかった。

略)

 一行は小屋で休む事になった。モミ米を一粒ずつむいて食べ、バニラの缶も見つけた。とろりとしたバニラを飲むと、体中が温かくなった。

 次の日も小屋にいた。

略)

 四人は川の中を歩いた。かなり深いところもあり、時には足を取られてすべった。全身が濡れて寒い。時々上着を脱いで水気を絞ってから歩いた。

 次の日の朝、土手で目を覚ますと、三十メートル先は日本兵のキャンプではないか。日本兵たちはラジオ体操の最中だった。

略)

 更に森の中を進んだ。何と運のいいことだろうか。畑仕事をしているフィリッピン人家族たちの中に知り合いがいるではないか。

略) 

 炊いたばかりの白いご飯と焼いた干物も持って来てくれた。火の通ったものを食べるのは久しぶりだった。

 次の日もヴウティスタさんにもらった食事をしていると、一緒に座っていた三人が突然立ち上がって、走るようにいなくなった。

 日本兵が来たのだ。

 フィリックス大尉は座ったまま食べ続けた。もし立ち上がって逃げたりすると、兵士だと気付かれる。

 略)

 海岸では日本兵が泳いでいた。>

p六十三〜七十三

 マジでっか!

 普通、日本刀で脇腹を貫通するほど二回刺され、肩胛骨の下を二回も刺されたら死んでます。背中の血止めを自分でどうやったらできるのか。脇腹の血止めの記述とともに何処にもありません。それなのに、この証言者は血止めもせずに、最初は這いながら、また、手と尻を使って動いたほどの重傷で傷を押さえながら少しずつ動いたのが、翌日には川の中を歩き、全身ずぶ濡れになっても助かっています。

 それだけでなく、五日目には飯を食い、二週間目にはマニラの実家まで帰っています。

 おいおい、日本刀に四回も刺された傷はどうなった。

 他の日本兵に斬られたり刺されたりしたという負傷兵も驚異的な回復力です。

 仲間の一人等は肺まで損傷して血を吐きながら、逃げてきているのに自分で食事をし、日本兵を見て、走るようにいなくなるのです。

 こいつらはゾンビか!

 そして、まだ戦闘中(この時、バターン半島において戦闘は継続していた。なにしろ、コレヒドール要塞は健在であり、砲撃戦の真っ最中であった)なのにラジオ体操をやって、海水浴までやってんのかよ。どれだけ余裕があるんだ、当時の我が国の軍隊は。

 この鷹沢のり子という女性は、そのような証言を聞いて何も思わないのか。矛盾というものを感じないのか。

 いくら気違いばかりの左巻きでも余りにもアホ過ぎる。まるで本多勝一なみである。

 あほらし。

 続く

 明日、ご予約いただいているアンコウ鍋用に活けアンコウ購入。

 今日は二・五キロのもの。

 Sさん御夫妻来店。

 酔狂師さん来店。

 Sさん、Iさん来店。

 台湾からユーさん来店。

 

 今回は水沢温泉と草津温泉に行っていたそうで、お土産をいただく。ユーさんに、昨年に西村眞悟氏からいただいたTシャツを見せると大受け。

 遅い時間から飲むが今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


 

平成22年度「お前が言うな大賞」

1月5日水曜日晴れ寒い △

 本日は、当店の仕事始め。

 本日で閉め切った、平成22年度「お前が言うな大賞」の投票結果です。

4票

No.12 

2票

NO.2、NO.26、 No.38

1票

NO.1、NO.4、NO.5、 NO.7

No.8、NO.16、No.18、NO.20

NO.24、NO.26、NO.34、NO.38

結果、平成22年度「お前が言うな大賞」は、

愛国青年様の推薦してくださった、エントリーNo.12に決定いたしました。

「政治家がばか者の集団であれば(国は)もたない」

「トップの首相が大ばか者であれば、そんな国がもつわけがない」

 以上、日本国首相、鳩山由紀夫氏の発言だそうであります。

 分かりやすいと言えば、これほど分かりやすい発言もありませんが、ここまで行くと、怒りを通り越して「ギャグ」になりますな。

 しかし、一言。

「あんたが言うな!」

(管理人様、エントリーお願い致します。)>

このニュースの元記事は

<「トップがばかなら国持たぬ」 首相が新官僚に訓示

2010.4.8 00:49産経新聞

このニュースのトピックス:鳩山内閣

 鳩山由紀夫首相は7日、都内で開かれた国家公務員合同初任研修で訓示し、大蔵事務次官を務めた父、威一郎元外相(故人)との思い出を引き合いに出しながら、「キャリア」と呼ばれるI種採用の新人約700人を激励した。

 「最も尊敬しているおやじは、3期務めた参院議員よりも大蔵省の役人だったことに誇りを感じていた」

 首相はこう語りつつ、実弟の邦夫元総務相が政界に進出する際、威一郎氏が「政治家は物ごいする情けないばか者だ。なってはいけない」と反対したエピソードも紹介し、新官僚を持ち上げた。

 一方で、首相は「トップの首相が大ばか者であれば、そんな国が持つわけがない」などと強調。政治主導をうたう現政権の優秀さをさりげなくアピールしていたが、指導力不足を指摘される首相の言葉に、新官僚たちも複雑な表情をうかべていた。>

 愛国青年様には、大吟醸の四合瓶か鑑評会出品酒(500ml瓶)を御贈りさせていただきます。

 エントリーNo.12に投票いただきました方の中から、三名様には美丈夫のリキュールを御贈りさせていただきます。

 あみだの結果、

 まこちゃん様、みそ大福様、59Les Paul様おめでとうございます。

 中西様ごめんなさい。

 当選された皆様は、お届け先をメールにて御知らせ下さい。

 どうぞよろしくお願いいたします。

 今日の初競りで競り落とされた函館・戸井産の鮪は過去最高値の一本三二四九万円で競り落とされたそう。三百四十二キロのでっかい鮪だからキロあたり九万五千円。競り値で過去最高だったのは十年前の青森・大間産の本鮪のキロ十万円で、二千二十万円。

 当然、普通の飲食店はこの競りに参加する権利はないので、仲卸さんに頼んで競ってもらうのだが、昨年も初競りでキロ七万円。二三二キロで一六二八万円だったが、それを競ったのも、競り落としたのも今年と同じメンバー。

 なぜ、なのか。

 競り落とした鮪は、去年も今年も「銀座 久兵衛」と支那人がオーナーの「板前寿司すし」が共同購入したが、この二つの店というか会社にそこまで対抗して値付けをしたのは築地で二十四時間営業の多店舗を出している「すしざんまい」。

 初競りのみにどうしてこんなとんでもない高値がつくのか。

 この三つ会社は普段は店をやってないわけではない。当然、普段というか一年中鮪を扱っているのに、初競りだけが異常な高値になるのは、それが話題になり宣伝になるから。

 それでなければ、高級店のイメージにはほど遠い、普段は近海物どころか畜養の鮪を多く扱っている「すしざんまい」という店までが、なぜ二年も続けて参戦する必要がある。

 支那人がオーナーの店もそれで高級店というイメージを得る事が出来る。

 あと、どうして、「銀座 久兵衛」が二年続けて支那人と共同購入しているか。

 「銀座 久兵衛」の経営はどうなっているのだろう。

 あほらし

 今日は河岸からの帰りは日差しも暖かく、築地、茅場町の空調が送風になっていて、私もジャンバーを脱ぎ、Tシャツだったが、神楽坂につくと寒い風。

 今年一番めのお客様は目黒の清水さん。

 Wさん御夫妻来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 小胡子さん来店。

 ドンチャン。

 でも、サルよりマシ。

 エビでも無し。


ドンチャン

1月4日火曜日晴れ △

  片道切符でロスアンゼルスに渡ったのが三十二年程前。その時に、あっちこっちでプータローしている時にメキシコ・グアダラハラにて偶然知り合い、お世話になった江上さん、長島さん。

 其の後も懲りずにおつき合いいただいている。

 今日は江上邸に集まり、奥様の手料理をいただきながらドンチャン。

 ソルボンヌに留学後、今はベネズエラに住んでいる帰国中の弥生ちゃんを伴ってふくこさんも御参加。

 

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


80数キロ四泊五日の旅

1月3日日曜日晴れ ○

 私の故郷の淡路島は地図上で一番長いところは直線距離で約五十五キロあります。実際の道路は曲がりくねっていますから、まあ、それなりの距離になると思います。随分前に、この日記にも書きましたが、当時は健在だった父親と口論し、そのまま実家に泊まらずに夜から翌日まで歩けるところまでと思って歩き始め、結局、高速バスターミナルまで歩きました。おそらく、三〇キロ程度は歩いたと思います。

 二十代の頃はその日にタクシーに乗るお金もなく、しかたないのでそのまま夜中に千葉から津田沼まで歩いたこともあります。鉄道の距離では一二・五キロですが、千葉から東京方面に向かって、夜中三時頃からに歩いて、明るくなって駅が見えたら津田沼の駅だったのですが、鉄道沿いに歩いたわけではないので、どのくらいの距離を歩いたかわかりませんが、それでもたった数時間です。

 あの嘘くさい日テレのチャリティ番組で、芸能人が走るのも一〇〇キロだそうです。少し前には六六歳のタレント、どこが面白いのかわからない萩本欽一氏が走りました。

 軍人が四〜五日で八十数キロ、一日十五〜二十キロを歩かされたことを「死の行進」と言っている連中がいます。誇り高いはず?の米国軍人です。彼らは我が軍にろくな抵抗もせずに、司令官であるマッカーサーは逃亡し、七万人(フィリピン人四万一千人を含む)がさっさと降伏します。そして、捕虜の権利だけを主張し、黄色人種である日本人に負け、その日本人に車でなく徒歩で、一緒に移動させられたことを恨み、戦争が終わったあと、本間雅晴中将をはじめ多くの日本軍人を報復裁判にて死刑にします。

 この「バターン 死の行進」について、戦後、GHQは敗戦で食い物もない

我が国において、四〇〇万個のラジオを国民に支給することを日本政府に命じます。(昭和二一年十一月十三日)

 それは、我が国における洗脳教育の徹底のためでした。そのラジオにおいて流されたのは、有名な「眞相はこうだ」をはじめとした洗脳番組でした。

 それらは下記のように放送されました。

 「眞相はこうだ(「眞相はかうだ」)」(全10回)日曜日二〇時〜二〇時三〇分

         一九四五年一二月九日〜一九四六年二月一〇日

 「眞相はこうだ 質問箱」金曜日二〇時〜二〇時一五分

         一九四六年一月一八日第一回

         「眞相はこうだ」の第六回と第七回の間から開始。

 「眞相箱」日曜日二〇時〜二〇時三〇分

         一九四六年二月一七日第一回開始

         一九四六年六月二八日から金曜二〇日〜20時三〇分へ移設

         一九四六年一一月二九日金曜日最終回

 「眞相箱」水曜日二〇時〜二〇時三〇分

         一九四六年一二月一一日(水)第一回開始

         一九四八年一月四日最終回

 「インフォメーション・アワー」

         一九四八年一月以降、毎晩二〇時〜二〇時三〇分

       「『眞相箱』の呪縛を解く」櫻井よしこ著 小学館文庫刊 P五三より

       (桜井氏は「続・昭和文化 一九四五〜一九八九」南博著より引用)

 

 そのNHKラジオ番組「眞相はこうだ(「眞相はかうだ」)」とは、下記のような内容だったそうです。

 昭和二一年一月二〇日「バタアン死の行進」

 ベートーヴェンの交響曲第五番の第一楽章で始まる。

声「バタアン半島で本間将軍の軍門に下った米・比軍の捕虜たちは、バタアンからサンフェルナンドに至る八五マイルの死の行進をしいられた。捕虜たちは裸にされ、鞭打たれた」

 (人体を鞭で打つ音、日本人の残忍な歓声)

声「食物、水も与えられず、疲れて倒れるものは射殺された」(人の倒れる音、銃声、歓声)

声「日本軍のトラックにひき殺された」(トラックの轟音、歓声)

声「銃剣で刺され、土の中で焼き殺された」(土を掘る音、歓声)

アナウンサー「太郎君!今述べたのは、死の行進で日本人が行った残虐行為の、ほんの、ごく一部なんだよ」

太郎「とても信じられない。そんなことした日本兵は、もちろん軍紀で厳しく罰せられたんでしょうねえ」

アナウンサー「ところが、そうではない。こうした残虐行為こそが日本の軍紀で、これはしょっちゅう繰り返された事実なのだよ」

「筑紫哲也を斬る」水間政憲著 日新報道刊P三六〜三七

 この時は敗戦後一年もたっていませんでしたので、当然、日本軍人だった皆様もご存命でしたので、多くの日本人より非難の投書が殺到したことが同書に書かれています。

 その結果、GHQは「眞相はこうだ」だけを、「全学年並びに教師の時間」と特定し、録音再放送が木曜日午前一一時から、学校放送されました。明らかに嘘とわかる放送に対して、良識ある大人が批判し投書をいくら出しても、保護者から隔離された学校という空間で児童を洗脳教育するようにしたのです。

  三年前に笹幸恵 氏が風邪気味ながらその同じコースを歩いたそうですが、女性の足で、なおかつ風邪気味であるにもかかわらず、なんなく歩けたそうです。

 文藝春秋にその手記を掲載したところ、誇り高い?米国軍人たちは猛烈な抗議をしてきたそうです。この誇り高い?はずの米国軍人は、水筒一つで八十数キロを四〜五日で歩いたことを「バターン 死の行進」と騒いでいるのです。

 同じ行程を日本軍人は二十キロもある完全軍装にて一緒に歩きました。病人だったというかもしれませんが、マラリヤには日本軍人も多くがかかっていました。

 なんとも恥ずかしいアメリカ軍人たちです。

 

 櫻井よしこ氏は著書「『眞相箱』の呪縛を解く」の中で下記のように書いています。

<私達が私達を取り戻すためには、日本と日本人が全否定されたあの時代を知る事から始めなければならない。一体、戦争とはなんだったのか、あの時代の価値観は何だったのか、それを統括すると称された一方的で司法の名に値しない東京裁判と日本占領の実態はなんだったのか。

 私達は今こそ知るべきである。それをせずに、本当の意味で日本人としての自分を取り戻す事は不可能である。>

「『眞相箱』の呪縛を解く」(櫻井よしこ 小学館文庫 平成十四年刊)p六十三

 続く

 G23御夫妻とともにNさん、エリー家に泊めていただき(というか勝手に寝させていただき)今朝、帰宅。

 其の後はどこにも行かずに、一日中部屋にいました。

 「バターン『死の行進』を歩く」「戦争プロパガンダの嘘を暴く」「眞相箱の呪縛を解く」読了。

 酒は飲まず。

 でも、四日は江上家でメキシコでプータローをやっていた時にお世話になり、其の後もお世話になりっぱなしの長島夫妻と共に新年会でドンチャン。


初ドンチャン

1月2日日曜日晴れ△

 今日は午後二時半過ぎより、G23、かなえさん御夫妻、Nさん、エリーさん御夫妻ら大勢様と銀座ライオンにてあけおめビール。

  

 その後、ワインを購入後にG23、かなえさんご夫妻、かめちゃんと、Nさん、エリーさん宅におじゃましてドンチャン。

 Nさんがいろいろとお料理を作ってくださる。

 

 その後、夜中というか朝までと言うか延々とドンチャン。

 空いたワイン

 今日は、午後二時半からとりあえず延々と飲み続けたが、年末(年初?)と違って珍しく記憶あり。

 サルよりマシ。


新年早々「岡崎トミ子」と朝鮮人秘書

1月1日土曜日晴れ ○

 国賊である岡崎トミ子氏の仙台にある岡崎事務所の私設秘書が北朝鮮国籍(現在は帰化の可能性もあり)であることをジャーナリストの野村旗守氏が正論平成二十二年十一月号に「国家公安委員長 岡崎トミ子のすごい周辺」と題した論文を書いています。

 以下引用

<Sは東北大学出身のMPD活動家で、一時は斉藤に次ぐナンバー2と言われたこともあった。

略)

 しかも、このSは日本人ではない。現在は帰化している可能性がなきにしもあらずだが、少なくとも数年前までは「朝鮮」のパスポートを持つ非韓国系在日コリアンだった。これは彼のパスポートを直接見た人が証言しているので間違いない。 

略)

 その関係があったのか、地元の朝鮮総聯と岡崎の付き合いは非常に密だったようだ。

 民主党で復活した平成九年の補選当選直後も、仙台の繁華街である国分町で、Sが朝鮮総聯の関係者と連れ立って飲み歩いている姿が複数の関係者に見られているし、同じ店に岡崎が合流する姿も目撃されている。>

引用終わり

「正論平成二十二年十一月号」P二百三

以下引用

<S氏は在日朝鮮人で、彼を通じて岡崎氏も朝鮮総聯と付き合いがある。略)

 S氏は岡崎氏が政治家になったころからの秘書>

「宝島平成二十三年FEB NO七百三」P二十六

 S氏と書かれているのは、ネットで出ている名前からは、岡崎氏の秘書の一人である島本正文氏と思われますが確認できません。

 この私設秘書S氏がナンバー2として属していたという「MPD・平和と民主運動」とは、党首は党派の結成呼びかけ人の一人である田英夫氏の娘婿、斉藤まさし氏であり、元はブント系ノンセクトラジカルの「日本学生戦線(日学戦)」活動家で、後に毛沢東主義を標榜した「立志社」という極左団体の代表を務めた人物である。MPDは、市民運動や議会政治に浸透する過激組織として、公安の視察対象となってきた。

現在は「市民の党」と名を変えている。

 此の「市民の党」は平成十四年五月に下記のような事件を起こしている。

以下引用

国旗を引き下ろそうともみ合い、2市議を退場…横浜市

3月に初当選した中田宏市長の初の施政方針演説が予定されていた29日の横浜市議会6月定例会で、本会議場での国旗掲揚に反対する市議2人が、議場正面に立てられた国旗を引き下ろそうとし、制止する市職員ともみ合いになった。市議2人は議長命令で退場となった。中田市長の演説目当ての多くの傍聴人が見守るなか、議場の市議や、傍聴席の県議などからヤジが飛び交い、一時騒然となった。

 本会議場での国旗掲揚は、同市議会の議会運営委員会で今月22日、自民、公明、民主などの賛成多数で決まったが、共産などは反対。国旗を引き下ろそうとした市議2人は、同委員会で発言権を持たない少数会派「市民の党」に属していた。

(読売新聞平成14年5月29日11:54)>

 その翌月にはこの報復処置として議長席と事務局長席を不法占拠し、議会妨害を断行した。

 

 このような人間が国家公安委員長の岡崎トミ子氏の秘書を務めているのである。

 悪い冗談ですむ話ではないだろう。

 

 前法務大臣の千葉景子氏も公安の最重要危険人物としてチェック対象であったが、民主党というものがどういうものであるか、よくわかる例である。

 夜中と言うか朝と言うか近所の神社にお参りしてから帰宅。

 ただ、後で、めぐ蔵さんからのメールでわかったが、記憶が飛んでいるだけではなく、サルになって、あることないことしゃべっている事が判明。

 正月早々アホを晒してしまった。

 部屋でず〜と本やマンガを読んで寝正月。

 今日は酒は飲まず。


 

 



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