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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成22年11月分

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます



片山善博

11月30日火曜日晴れ ×

 週刊新潮平成二十二年十一月二十五日号に掲載されていた<武闘派「片山善博総務相」が何故か気遣う「北朝鮮」との親密ショット>

平成十四年七月〜八月に北朝鮮訪問時のショット。

 この訪朝前に、片山総務相と朝鮮総聯幹部である許宗萬朝鮮総聯責任副議長、徐萬述議長と歓談している。

 このグラビアに書かれている<帰国後受けた総聯系新聞のインタビューでは「日本海」をわざわざ「朝鮮東海」と言い換えて答えていました>という内容については、下記のような記事がネットで検索出来ます。

 中央と地方の役割

 ―朝・日間では過去の清算問題がいまだに解決されていない。日本ではいわゆる「北朝鮮脅威論」が世論をミスリードし、有事立法の制定といった動きもあるが。

 朝鮮の人々がそれに対してどのような見解を抱いているかは正確には知らないが、日本の国会で有事立法のような問題が論議されるからといって、日本社会全体が軍国主義復活の道に進もうとしているわけではない。例えば、われわれのような地方の人との交流を行えば、それがはっきりと分かるだろう。

 地域間交流を進めるうえでは、過去の歴史問題をはじめ基本的な問題について認識を深めておくことが必要だ。両国間の懸案問題について言えば、日本では「拉致問題」と関連した世論が存在する。朝鮮ではそれを「行方不明者」として扱っている。いずれにせよ政府間交渉の障壁となっていることに間違はいない。

 だからといって、そうした問題の解決に地域があたることはない。基本的な問題は正確に認識する必要はあるが、そうした論議は政府に任せ、地域では独自のことを推し進めていくべきだ。そのような過程で、基本的な問題も自然に浮上していくのではないか。それがバイパスという意味だ。全員が中央政府のようなことを言っていては一歩も進まない。

引き続き交流の論議

 ―地域交流の展望は。

 朝・日友好親善協会の宋浩京会長と会談した際、地域交流をいかに進めていくかという論議を今後も引き続き深めていくことで一致した。これと関連した実務協議も行った。

 われわれは羅先市と境港市の間に定期航路を開設するという構想を持っている。まずは人の往来、交流を増やしていくことが必要だ。

 私も機会を見つけて再び朝鮮を訪れたい。次回は平壌だけではなく、地方都市にも行ってみたい。とくに日本海、いや朝鮮東海の沿岸地帯などを回ってみたい。 (金志永記者)

朝鮮新報 平成十四年八月八日 

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2002/8/0809/61.htm

 「朝鮮東海」という言い換えよりも、

<「拉致問題」と関連した世論が存在する。朝鮮ではそれを「行方不明者」として扱っている。いずれにせよ政府間交渉の障壁となっていることに間違はいない。だからといって、そうした問題の解決に地域があたることはない。>

という発言の方が知事として問題ではないだろうか。

  そして、翌平成十五年七月二日玄界灘で鳥取県境港市の共和水産(株)所有の巻き網漁船「第十八光洋丸」が、南朝鮮の興亜海運のコンテナ船「フンア・ジュピター」に衝突されて沈没し、乗組員一人が死亡、六人が行方不明になったという朝鮮人による玄界灘殺人事件、行方不明者を必死で捜索中に、片山善博が何をしていたかというと、伝統旅館の女将などと一緒に観光交流促進のために韓国を訪問していた。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/07/04/20030704000030.html

 <鳥取県PRのため本社を訪問した片山善博知事

2003年7月4日、朝鮮日報

(一部抜粋) 日本の片山善博鳥取県知事(51)が4日、伝統旅館の女将など、観光交流促進のための使節団と共に訪韓した。

 片山知事はこの日、朝鮮(チョソン)日報社を訪問して「イラク戦争、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核問題、重症急性呼吸器症候群(SARS)などの影響で、相互の往来が激減した」としながら、「来月には鳥取に美しい『日韓友好交流公園』も誕生するので、多くの人に訪れてほしい」と述べた。>

 

 つまり片山氏は北朝鮮だけでなく、南朝鮮にも「非常に」気を遣っているのです。

 片山氏の著書「地域交流が外交を変える」(剱持佳苗プロローグ、エピローグ 光文社新書 平成十五年)によると、朝鮮とのつながりは、片山氏が自治省の役人時代の昭和五十九年(一九八四年)に海外における土地対策の調査で南朝鮮に行った事がきっかけで、その後、独学で朝鮮語(片山氏は韓国語と書いています)を勉強して身につけ、その後何度か南朝鮮に行ったそうです。

(同書 p九十九〜百二より抜粋)

 そして、片山氏は同書に「鳥取県はいち早く外国人に対する偏見のなくなった地域ではないだろうか」として下記のように書いています。

<たとえば、県庁では在日韓国人の方が何人も働いている。そのうち公務員試験を受けて入ってきた一般職の職員も二人いる。日本国籍のない在日朝鮮人を一般職として受け入れているのは、今のところ四十七都道府県のなかで鳥取県だけだと思う。他県では、在日韓国人に対して試験の門戸を開いているところはあるが、受け入れるまでには至っていない。 

合格させないのか、優秀な人材が公務員試験を受けないのか、どちらかわからない。

 しかし、在日でも二世や三世ともなれば日本人同様言葉も意識も考え方も日本国民と同じで、かつ能力も備わった人材であるなら、たとえ日本国籍がなくても合格させるべきと私は思う。>

(同書p百二十五)

 つまり、片山氏にとり「外国人」とは在日朝鮮人であり、その在日朝鮮人の優秀な人間を公務員として鳥取県は初めて採用したと自画自賛しているわけです。

 しかし、その「日本人同様言葉も意識も考え方も日本国民と同じ」「二世・三世」の「外国人」という異常な存在をどのように考えているのでしょう。

 外国人と国民とが同じ権利を有している国はありません。

 その同じ権利を求めているのが、「在日朝鮮人」という異常な存在の外国人たちなのです。

「在日コリアンの権利が、日本国籍を持っている人と比べて一つでも欠けることがあってはいけない」

(平成二十一年十二月十二日 鳥取市尚徳町で行われた永住外国人に地方参政権を付与する法案の早期立法化を目指したシンポジウムにて李宇海弁護士)

 片山氏は同書で

<外国人に対する偏見がなくなるという事は、人権に対する感覚も鋭敏になるということだ。>

(同書p百二十五)

 と書いています。

 それを裏付けるように、片山氏は「人権擁護法案」の地方版とも言える条例の制定に心血を注ぎます。

 片山氏は知事在任中の平成十四年六月の県議会一般質問において「地方レベルの人権救済制度の必要性」を表明し、平成十六年十二月にいわゆる人権擁護法案の地方版ともいえる「鳥取県人権救済手続条例案」という我が国で初めての条例を提案し、県議会に提出し、修正後「鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例」が平成十七年九月十二日に県議会で可決成立し、翌平成十八年六月一日に施行することとされたが、結局、平成十九年四月、片山氏の退任に伴い新知事として平井伸治氏が就任し、平成二十一年三月二十五日、施行されないまま廃止されました。

 つまり、今の「朝鮮人・支那人」のための民主党政権だからこそ、必要とされ組閣の一員となるべくしてなった片山善博氏なのです。

 岡崎トミ子などと同じ穴のムジナのアホ

 

 やっぱ、人間のクズやな

 あほらし

 K@京城さん二名様で来店。

 だけ。つうか、K@京城さんたちが御来店いただけなければ、

今年三回目のオチャピーになるところでした。

 つうことで、早い時間からドンチャン。

 其の後、「アンブラ」さんに伺う。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ


 

今も変わらぬ現在進行形の米国兵の残虐さ

11月29日月曜日晴れ ○

 最近、民主党のアホ国会議員ども(藤田幸久など)のいらぬ努力により元米兵が我が国に来て謝罪を求める旅などという戯けたことをやったという報道がありました。

ではその米国兵が現在進行形でどのような事をやっているか。

 

以下引用

<アフガン 米軍兵士5人「気晴らし」に市民殺害し訴追

毎日新聞 2010年9月21日(火)19時15分配信

 【ニューデリー栗田慎一、北米総局】19日付の米紙ワシントン・ポストは、アフガニスタン駐留米軍の兵士5人が、「気晴らし」にアフガン市民を殺害した疑いで米軍から訴追されたと報じた。遺体の撮影や頭蓋骨(ずがいこつ)を収集した疑いも浮上している。同紙は01年のアフガン戦争開始後、「最も身の毛がよだつ事件」と批判している。

 同紙が入手した米陸軍の訴追資料によると、殺害事件は今年1〜5月、アフガン南部カンダハル州で3件発生。1月の事件では、兵士らが手投げ弾を爆発させて米軍が攻撃を受けたように装い、近くにいたアフガン男性1人を射殺した。また、遺体を切断して写真撮影することもあったという。

 動機については、兵士らが酒や麻薬を常習し、ふざけて罪のない市民を殺害した疑いがあるとしている。内部告発した別の兵士がリンチを受けた事件も起きたという。

 ◇検証◇

 一方、アフガン駐留米軍の「非道」ぶりについて、アフガン国内では、「何をいまさら」との受け止め方が強い。「気晴らし」感覚があるかどうかはともかく、アフガン市民は、米軍が極めて安易に市民を殺害していると考えているのだ。

 アフガン各地に展開する米軍や国際治安支援部隊(ISAF)の装甲車の車体の前後には、現地の言葉で「近づくな」と書かれたプレートが張りつけられている。不用意に近づけば銃撃するとの意思表示だ。

 内務省によると、低速で走る米軍車列を追い越そうとしたり、クラクションを鳴らした一般車両が銃撃され、乗っていた市民が死傷する事件が相次いだことを受けての措置で、数年前に始まった。

 米国の後ろ盾を受けるアフガン政府はこうした銃撃事件について、「テロリストと誤解された不幸な事件」と鎮静を図ったが、地元テレビのカンダーリ記者(45)は「過失とは思えない銃撃も数多い」と憤る。

 同記者は「検問所で英語が分からない老人や女性が制止を無視したとして銃殺されたり、家宅捜索として深夜に米兵に押し入られた民家の男たちが抵抗し、その場で殺されるなど、常軌を逸した事件があまりにも多い」と指摘する。

 米軍による市民殺害は、タリバンが勢力を回復し始めた07年ごろから急増していった。地上戦での消耗を避けるため、米軍が空爆を多用した結果、市民の犠牲は拡大して反米感情が高まり、タリバンを勢いづかせ、空爆や戦闘がさらに激化していったのだ。これが、市民や米兵の犠牲が毎月のように最悪を記録している背景となっている。

 一方、イラクでもアフガンと同様の状況があった可能性が高い。イラクに派兵されていた元米兵が帰国後に書いた著書で、イラク駐留米兵が殺害したイラク人の頭部でサッカーに興じていたと報告している。>

引用終わり

 これについて、ネットで調べると

<アフガン市民を気晴らしに殺害 米兵取り調べ映像を入手

2010.09.28 Tue posted at: 14:39 JSTアトランタ(CNN)

 アフガニスタンに駐留していた米兵らが今年1月から5月の間にアフガニスタン市民3人をふざけて殺害したとされる事件で、CNNは殺害にかかわったとされる兵士の取り調べ映像を入手した。残忍で冷酷な殺害の様子が語られている。

映像には、5月に軍の捜査官が22歳の兵士を取り調べた様子が映っている。この中で兵士は、上司である軍曹の命令に従い、無防備なアフガニスタン人男性を連れ出し、手投げ弾を使って殺害したと話している。 兵士は、この男性のほかに2人の一般男性を射殺した罪にも問われている。 起訴状などによると、兵士らは麻薬を吸い、遊び目的でアフガニスタン市民の殺害を企て、実行したという。

殺害を命令したとされる軍曹は被害者の指や脚の骨と歯を収集しており、別の兵士は被害者の頭蓋骨(ずがいこつ)を保管していたという。 また、兵士らが被害者を射殺した後で遺体の写真を撮影したり、互いの写真を撮り合ったりしていたとの情報や、麻薬を毎日のように使用していたとの兵士の証言もある。

映像に映っていた兵士の弁護士は、この兵士は以前受けた爆撃で脳を損傷し、処方薬を服用していたうえ、麻薬を吸い、軍曹の命令に逆らえない状況にあったと述べ、軍曹が事件の首謀者だと主張している。 殺害にかかわったとされる5人の兵士については、公判前の取り調べ尋問が今後数週間内に行われる予定。 国防総省はいずれの事件についてもコメントしていないが、CNNに宛てた声明で、取り調べ映像が流出したことは問題だとしている。>

US soldiers ‘killed Afghan civilians for sport and collected fingers as trophies’

http://tucsoncitizen.com/three-sonorans/2010/09/09/the-us-kill-team-in-afghanistan-that-hunts-down-people-for-sport/

 

<殺害を命令したとされる軍曹は被害者の指や脚の骨と歯を収集しており、別の兵士は被害者の頭蓋骨(ずがいこつ)を保管していたという。>

 大東亜戦争の時に我が軍兵士の遺体に対しての扱いと同じ事を現在もやっていたのです。

 米軍の変わらない本質です。

 昨日、スポーツセンターでよく一緒になる歳が半分ほどの人たちと年甲斐にもなく、腹筋ローラーを使ってトレーニングメニューのひとつを競い合ったので、今日は何かする度に「イテテテッ」・・・・

ちなみに、腹筋ローラーってのはこんなやつです。

 久しぶりに古本屋さんに行くが、収穫はなし。

 食事をして、帰宅。

 酒は飲まず。


 

北朝鮮の韓国砲撃に抗議し拉致被害者救出に万全の備えを求める緊急集会

11月28日日曜日晴れ △

 店を片付けて、スポーツセンターへ。

 今日は約三時間近くいたので、ほぼ予定通りのメニューを消化。

 其の後、店に寄り荷物を置いてから、文京区民センターで開かれた「北朝鮮の韓国砲撃に抗議し拉致被害者救出に万全の備えを求める緊急集会」に参加させていただく。

  

   

 

 国会議員の方は松原仁氏、長尾敬氏、小池百合子氏が壇上上がられそれぞれお話をされていたが、一番違和感があったのは政界渡り鳥の小池百合子氏でした。

 

 政界での争いごとをそのまま持ち込んでいて、非常に聞き苦しい。

 小池百合子という人間性がよく出ていて判りやすい。

 長尾敬氏は以前に別の集会にもいらしていた時に、心ない一部の人間から民主党ということだけで罵声を浴びていたことがあったが、真摯に対応されていた事を思い出しました。

 国会議員で長尾氏だけ壇上から降りた後も最後まで席にいらした。

 小池氏とは別の意味で長尾氏のその人間性がよく出ている。

 

 其の後、映像教育研究会代表の稲川和男氏と近くの店でドンチャン。

 稲川氏は西村眞悟氏と一緒に尖閣諸島に上陸された方です。

 

 その後は店に寄ってから帰宅。


 

11月27日土曜日晴れ △

 今日届いたもの。

 一つは磯自慢の寺岡社長より「磯自慢グッズ」がドッチャリ。

 前掛け、酒袋。日捲り、Tシャツ、トレーナー。

 もうひとつは、朝鮮学校の歴史教科書「現代朝鮮歴史 高級1」(高校1年用)、同「高級2」「高級3」の日本語版三冊。

 これは、ジャーナリストの萩原遼氏らが立ち上げた「朝鮮高校への税金投入に反対する専門家の会」が翻訳したもの。

 

日本語版発行元「星への歩み出版」(電)072−990−2887

 

 現在、朝鮮高校無償化問題で朝鮮学校の教育内容が問題となっているが、無償化賛成の民主党、公明党、社民党などのクソバカ国会議員どもは現実にはその教育内容を知りもしない、知ろうともしないで、「差別するな」と叫んでいる本当にどうしようもないアホウドモがほとんど。

 

 朝鮮高校の教科書は他の朝鮮学校と同じく反日犯罪組織である在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下にあり、教科書は総連中央常任委員会教科書編纂委員会が作成している。持ち出しも禁止され、その内容はオープンにされていない。

 このような翻訳作業は、荻原氏のような一般市民に負担かける事なく、本来は無償させよと言うのであれば、朝鮮総聯自身から教科書の内容を翻訳し、オープンにするのが当然であるが、それを拒んでいる。また民主党反日政府もそれをしようとはしない。

 アホカン、アカセン、バイトミの人間のクズ、ゴミだからしょうがないのか。

 売国奴ゴミ政権は早く潰れてほしい。

 Tさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 Kさん来店。

 Sくん来店。

 坪ちゃん一家来店。

 坪ちゃんは今年から山形の加茂川酒造の杜氏になったそう。

 当店のお客様で三人目の杜氏誕生。

 美丈夫蔵元の奥様であるMIYUKIさん大学時代のゼミの同窓会の流れで四名様で来店。

 でっ、奥様とは別行動で「うさぎ」のエリーさんの結婚式、披露宴、二次会(三次会?)の流れで、美丈夫蔵元の濱ちゃん、KANAEさん、めぐ蔵さん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

米国人の日本人の遺骨に対する扱い

11月26日金曜日曇り一時雨 △

 過去に書きましたが、他にも多くの日本兵の頭蓋骨トロフィーの事例が出てきます。

 このサピオの記事に書かれているようなことは私の手元の本に書かれています。

一部重複する事をご了承ください。

駆逐艦キッドの戦友会にて

 以下引用

「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」

「どういう意味ですか?」

「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。

この老人は私の顔を見ながら言った。

「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。

 この男は、当時機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港した一ヶ月後だった。体当たりを受けてから二ヶ月以上後のことであった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。

 戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。

その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。

略)

日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。

実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。

ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。

 この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大学に実際に問い合わせたことがあると言う。

大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。しかし、博物館はそれを拒んだ。>

引用終わり

「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) p二百五十一〜二百五十二

<キッド(駆逐艦)は日本機を一機撃墜した。パイロットは落下傘で機内から脱出したが、キッドがそのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時にはすでに死亡していた。血気にはやる数人の乗組員たちは日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首をはねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品をつくった者もいた。

 バーンハウスは艦長とともにこの非道な行為を止めた。後日、このパイロットの遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた>

「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) P六七

 連合国軍の捕虜虐殺については有名なリンドバーグの日記にも書かれています。下記の「 」内の引用文はリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、私の手元にある「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)よりの引用ですので文章は米田氏が要約・抜粋したものです。

 これについて米田氏は第二次大戦に対してアメリカ参戦を反対していたリンドバークは昭和一九年になって南太平洋の戦場視察と慰問を許される。そこで、「アメリカ人が文明人であることを主張せねばならぬ理由がなくなる」ような、米軍兵士の日本兵捕虜に対する数々の蛮行を見聞することとなったと書かれています。

 「日本兵士殺害に関する将軍の話−−−−実戦参加経験がないまま帰国する軍曹が、せめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。

 偵察隊に捕らえられた一人の日本兵捕虜が軍曹の前に引き立てられた。軍曹は言った。

 『俺にはこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』

 『ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』

 偵察隊の一人がそういうと、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めたとたんに、日本兵の頭部に腕が巻つき、喉元が一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた。

 このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた」

(リンドバーグ日記六月二一日)

「小屋の壁のひとつに、絹地の日本の国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品として一〇ポンド(三三ドル)の値打ちがあると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は二五〇ポンドなら譲ってもよいといった」

(リンドバーグ日記六月二一日)

 「将校の話によれば、穴の中の遺体をブルドーザーにかける前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、耳や鼻を切り落とされている日本兵の遺体を幾つも見たとも言った。『兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取りあげねばなりませんでした』。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ」

(同九月九日)

 先日、下記のような記事がありました。

<硫黄島で51人の遺骨収集=政府チーム―旧日本兵、集団埋葬の可能性

時事通信2010年10月22日(金)19時56分配信

 硫黄島で戦死した旧日本兵の遺骨収集を進める政府の特命チーム(リーダー・阿久津幸彦内閣府政務官)は22日、首相官邸で第3回会合を開き、51人分の遺骨を島内2カ所で発見したことを報告した。計2200人が集団で埋葬されている可能性があるという。

 同チームの調査団は7日から同島を訪れ、旧日本兵が集団で埋葬されているとみられる2カ所で遺骨の収集に当たった。>

 二千二百人が集団で埋葬とはどういうことか。

 これは、米軍が我が軍兵士の遺体をどのような扱いをしたかを考えれば、自ずと答えは導き出されます。

 リンドバーグは下記のように日記に残しています。

 「われわれがもし日本兵の歯をもぎとったり、ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、さらった土をかぶせてやったりする代わりに、人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。ブルドーザーで片付けたあとは墓標も樹てずに、こう言うのである。『これが黄色い奴らを始末するたった一つの手さ』と」(七月二一日)

 「山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の中には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾でできた穴に投げ込んだうえ、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる」(七月二四日)

 ブルドーザーで遺体を片付け、その上に残飯、廃物を放り込む。

 そのような箇所が何カ所もあったのです。

 決して、整然並べ、遺体を処理したわけではない。

 そして、捕虜に関して下記のような記述もある。

 「ニューギニアの密林を越えて、ホーランディア飛行場周辺に日本空軍の残骸が散乱していた。着陸後、将校連と会議。談たまたま日本兵捕虜の数が少ないという点に及ぶ。

 『捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることができる』

 と将校の一人が答えた。

 『ところがわが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ』

 『(原文伏字)では二〇〇〇人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった一〇〇人か二〇〇人だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』

 『あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね』

と、別の将校が調子を合わせる」

 ホーランディア攻略戦で敗れて捕虜となった日本軍人の大多数は、機関銃の乱射で殺されたのである。

 「我が軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが大平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」(七月一三日)

 「安全でかなり贅沢な将校クラブに座しながら、これらの日本軍を『黄色い奴ばら』と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、惨たらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えはまったく無い」(七月二一日)

 「私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼け爛れた地域の地表下に極限の苦悶隠されているのだ

  飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない。なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかだから」(七月二一日)

(以上は先に書きましたようにリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、「日本の反論」米田健三著 p百六十一〜百六十五よりの引用)

 そして、米田氏はこうも書かれています。

<第二次大戦におけるソ連軍の蛮行は周知の事実だが、米軍については極めて人道的であったがごときイメージが長い間流布されてきた。記録映画などに登場する日本占領前後の米軍将校のほとんどが、降伏した日本軍兵士や民間人に食糧を支給し、医療を施す善良な姿で映っている。だから、「鬼畜米英という教育はまちがいだった。玉砕は犬死にだった。文明国の軍隊はあんなにも寛大だったのだ」という論理がまかり通ってきた。しかし、前線の諸記録に垣間見られるのは、むしろ日本人が軍民を問わず玉砕を選ばざるをえなかった米軍の残虐さである>(同書p百六十一〜百六十二)

 「敗北を抱きしめて」などの著書で有名なジョン・ダワーもその著書「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」(平凡社ライブラリー)に書いています。

 「大平洋地域担当の従軍記者エドガー・ジョーンズが、四六年の『アトランティック・マンスリー』誌に書いている『われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機関銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ』。ジョーンズはさらに、標的の日本兵がすぐに死ぬことがないように、火炎放射機の炎を調整するというような行為にまで言及している」

「一九四二年の末に出版されベストセラーとなった『ガダルカナル日記』のなかで、ジャーナリストのリチャード・トレガスキスは、日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士たちの会話を挿入している。『ジャップは金歯をたくさん入れてるんだってな。それをいただいてネックレスでも作るかな』と一人がいう。『おれは奴らの耳を持って帰るよ』ともう一人が宣言する」

「リンドバーグがついに大平洋諸島を離れ、ハワイで税関検査を受けたときには、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。それは決まりきった質問だと言われたという」

 

 沖縄戦でも、南太平洋戦線と同様の米兵による悪行が繰り広げられた。アメリカの作家、ジョージ・ファイファーが、取材開始から出版まで八年の歳月を費やした労作、『天王山 沖縄戦と原子爆弾』(早川書房)で、「アメリカ軍の残虐行為」という項目を設けて明らかにしている。 

 「野蛮な人間もいた。日本人の歯で作った腕輪は、彼らの歯を抜き取らなくては作れない」

 「ある機関銃分隊は急造の小さなパイプを持って歩き回っていたが、それは日本兵の死体の口に彼らの尿を流し込むのに使われた」

以上

「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)(p一六六〜一六九)

「特攻パイロットを探せ」平義克己著 扶桑社 平成一六年刊)p二百五十一〜二百五十二 

 これが人道的とされてきたアメリカの姿です。アメリカ国内においては大東亜戦争中も人種差別が合法でした。公立の学校においてさえ、人種差別が憲法違反とされたのは一九五三年のことです。軍隊においては別々に従事させていました。

 バンブーさん来店。

 MIKAさん四名様で来店。

 初めてのお客様Tさん二名様で来店。

 Mさん、Kさん来店。

 ナベちゃん来店。

 福岡のTさんの御紹介ということで、二名様来店。

 Tさん来店。

 ドンチャン。

 珍しく記憶あり。

 でも、洗い物はする元気もなく、そのまま・・・・・


米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死 終章

11月25日木曜日くもりのち雨 △ 

 B−24の機長として最後まで残り、乗員が全員脱出してから脱出した機長トーマス・C・カートライト中尉と副機長ダーデン・ルーパー少尉の搭乗機ロンサムレディ号は、最初に脱出したロイ・M・ベーデンセン少尉(航法士)以外の八名が助かっているのです。 

  

 米軍ではベーデンセン少尉は機体と共に墜落したと発表していたが、機長であったトーマス・C・カートライト中尉は、全員脱出したのを確認してから最後に副機長と共に脱出しているので、最初に脱出したロイ・M・ベーデンセン少尉の消息を気にかけながらも確認出来ずに苦悩していた。

 そして、此の事が全世界で四千万部も発売されたゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウイッツの書いた『エノラ・ゲイ』にも取り上げられ、世間に事実として認知されて行った。

 米軍の発表に納得出来ないカートライト元中尉にそれを調べて知らせたのも森氏である。

 <ロイ・M・ベーデンセン少尉最初に脱出しながらも、残念ながらそのパラシュートが開かなく墜落死であった。

 これは、GHQ法務局文書八十五号として、当時の高森警察署又野止太署長が、連合軍最高司令部法務部調査課フィリップ・チェーレス氏宛に詳しく説明している

 そして、その文書には、昭和二十二年の秋、山口県の山中で遺体発見後、昭和二十二年(一九四七年)十月一日に福岡米軍歩兵連隊第二十四部隊・ロバート・L・スワンソン少尉外二名を現場に案内した事。遺品を引き取った事。 十月三日に岩国英連邦航空隊・スラン軍医外二名を現場に案内。その時、現場に残置してある「骸骨」の外総ての物品を引き取った事。

 参考事項として、警察署において検視よりスワンソン少尉の現場倒着まで、配慮し現場保存に務めた事。

 死体の検案書では死因として、墜落によって複雑骨折死である事等が記されている。>

P七十七〜八十六より抜粋

 同様に、森氏は米軍捕虜がどのように扱われたかも調べている。

 原爆死した二人の米兵捕虜にあった昭和二十年八月八日に撃墜され、八月十五日に我が国の漁船に救助されたB−29ニップクリッパー号の乗り組員だった十名は、中国憲兵隊司令部の福井信一少尉により、捕虜を処分しろという中国第二総軍大家角三中佐に対し、命がけで反対した。

 捕虜たちはこの恩を一生忘れずにいて、福井少尉が臨終の際には米国より病床に花束を贈り、彼等の感謝の意を伝えている。

 森氏はこのように丹念な調査を行い、事実を求めている。

 我が国の為にならないことであったら、嘘つき朝鮮人戦時売春婦の言うことをなんでもそのまま聞く仙谷由人氏の盟友である高木健一氏、そして、福島瑞穂氏、岡崎トミ子氏、西野留美子氏、支那の言う事は何でもそのまま聞く河野洋平氏、本多勝一氏などの人間のクズである左巻き連中とはエライ違いである。

以上

 「原爆で死んだ米兵秘話」(森重昭 光人社 平成二十年刊)より

 

 今日の日刊ゲンダイ。

「小沢待望論 広がる」

 

 支持率八・六%で小沢待望論は広がる?

 「相応しいのはだ〜れもおらん」つうのが三十三%でトップ。

 それと、六・六%のアホカンとの差もたった二%で「小沢待望論」もないだろうが。

 インチキラクターさん二名様で来店。

 KEIKOさん、MARIKOさん四名様で来店。

 二名様来店。

 今日飲んだのはちょびっとだけなので、記憶あり。

 


 

米国人の日本人の遺骨に対する扱い

11月24日水曜日晴れ △

 下記は一部今まで日記に書いた箇所と重複いたしますことをご了承下さい。

  映画「硫黄島からの手紙」の中に、昭和七年ロスアンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技にて金メダリスト(オリンピック史上、馬術で我が国唯一のメダリスト)であるバロン西こと西竹一中佐(戦死後大佐)が負傷したアメリカ兵の手当てを部下に命じる場面と、アメリカ兵による降伏した日本兵を銃殺する場面までこの映画の中にあります。昨年、日記にも少し書きましたがロシア軍はもちろん、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍、支那軍などの連合国は多くの捕虜虐殺をやっています。もちろん、日本軍も同様ですが、どういうわけか我が国の先人だけを責める日本人が多い。

 ちなみに、映画でも描かれていますが西中佐が肌身離さず持っていた愛馬ウラヌスの鬣は後に一九九〇年になってアメリカで発見され、返還されたそうです。

 何振りもの名刀が戦後のドサクサに米国軍人により接収という名の強奪、強盗に遭いました。アメリカ軍の戦利品あさりでありますが、このぐらいならまだかわいいもので、「SAPIO」の九月二十九日号にて「アメリカを彷徨う 旧日本兵の遺骨」と題された在米ジャーナリストである武末幸繁氏の記事がありました。

 アメリカにおいて大東亜戦争中の我が軍の兵士の遺骨がトロフィースカルとして扱われているという記事です。

 

<しかし、人の頭蓋骨や遺体の一部を持ち帰った米兵がいることは驚かざるを得ない>

P七十七

と、武末氏は書いているが、近代、白人がやってきた事を考えれば容易に想像がつく事です。

 この記事に掲載されている写真と記事はネットですぐに見つかります。

 

「Trophy skull Jap」と検索すると一番上に下記のページが出てくる。

http://www.bangordailynews.com/story/Greater-Bangor/Japanese-trophy-skull-finally-returning-home,152313

「Japanese trophy skull finally returning home 」となっている。

   

 そして記事には、words “1945 Jap Skull Okinawa”とその頭蓋骨に刻まれていた事が書かれている。

 メイン州ホールデンにて銃や軍用品を売買するラルフ・マクラウド(Ralph McLeod)氏は二〇〇五年6月に発見し、日本に返すべきだと同業者から五十ドルで購入して、日本大使館に連絡した。

(その後我が国に返還されたはずとサピオの記事は書いています。)

 同様にこのサピオの記事に掲載された

 カリフォルニア大学バークレー校に日本兵の頭蓋骨が同大学博物館に収蔵されたままということで、これは、国際法に反する、ということで、日本に返還すべきだ、という記事。

Japanese war dead skulls at UC museum

http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/08/15/MNPK195PD6.DTL

 

 また、サピオには日本兵の頭蓋骨で遊んでいるマクファーソン中尉

 アメリカ海軍魚雷艇三十四の甲板にて

 米兵が日本兵の頭部を煮ている写真

 その頭蓋骨は一体につき三十五ドルで販売されていた。(一九四四年)

 などが掲載されているが、これらの旧日本帝国軍人の御遺骨はどのようにアメリカ軍に扱われたか。

 有名なのは日本兵の頭蓋骨を送ってくれた米兵に礼状を書くガールフレンドの写真として、ライフの昭和十九年(一九四四年)五月二二日号に掲載された写真だと思います。

"This is a good Jap - a dead one picked up on the New Guinea beach." Natalie, surprised at the gift, named it Tojo.

 ナタリーというこの女性に対し、

<「これは状態の良いジャップです。ニューギニアビーチで死んだのを切り取ってきました」

 サプライズな贈り物にナタリーは、それを『東条』と命名しました。>

というような記事です。

 写真はそのバカ女と旧日本帝国軍人の頭蓋骨。

  

 その他にも、Wikipediaには「American mutilation of Japanese war dead」として

http://en.wikipedia.org/wiki/American_mutilation_of_Japanese_war_dead

 

 ここにはSAPIOに掲載されていた写真以外にもいろいろな写真が掲載されている。

記事にも多くのアメリカ軍の我が軍兵士に対しての醜い行為の証言が書かれている。

1945 image of a Japanese soldier's decapitated head hung on a tree branch, presumably by American soldiers

 

  

 

Front line warning sign using a Japanese soldier's skull on

 

 

 他にも、ネットでいろいろな写真を見つける事ができる。

  

  

現在でも、ネットにて「日本人兵士の下顎の骨」として売られているページを見つける事ができる。

Headhunting Trophy Head - WWII Japanese Jaw - Gong Handle

$380.00

http://www.collectorsdeck.com/index.php?main_page=product_info&cPath=92&products_id=99

続く

 今日の築地本願寺の蓮。 日刊ゲンダイ。今日ぐらい小沢関連ネタをやめればいいと思うが。

  

 今日は予約もないしヒマやろうなと思っていたら、

 Yさん、Hさん、Nさん来店。

 Nさん来店。

 二名様来店。

 小胡子さん来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。サルよりマシ。


 

日本人の愛する錦鯉を毒殺した中国とその支那を擁護する森民夫長岡市長

11月23日火曜日新嘗祭 雨のちくもり寒い 

 「日本人の愛する錦鯉を毒殺した中国」

 これは、週刊新潮の櫻井よしこ氏の連載コラム「日本ルネッサンス」第四三七回に掲載されたコラムの題名です。

 

以下引用

<略)

 中国の異質さを象徴するような事件が起きていた。十月十五日深夜、新潟県長岡市が持ち込んだ山古志村の錦鯉が毒殺処分されたのだ。

 潟県山古志村(現・長岡市)は錦鯉の産地として知られているが、その錦鯉が10月中?の数日間、上海万博に展示されたのだ。

 錦鯉を展示した高野国利氏が詳細を語った。 氏は四十二歳、山古志村で六十年の経験を持つ父に学び、約二十年間、錦鯉を養殖。現在、長岡市錦鯉養殖組合(以下組合)の青年部長だ。

 「上海万博では生き物は展示出来ないそうですが、例外的に認められ、錦鯉を展示することになりました。

 今年五月頃、長岡市から話があって、準備に入りました。

 鯉は日本に持ち帰れないという条件でしたが、展示終了時点で中国の公共の施設か業者に贈ろうと、皆で決めました。

 経済的には大出費ですが、山古志と日本を代表するのですから、立派な美しい鯉を五匹選びました。」

 略)

 その大切な鯉を中国に搬入したのが十月十二日だった。日本側代表団は、組合の五名と「月刊錦鯉」の記者一名の六名だった。

 リーダーは野上養鯉場の野上久人氏である。

 一行は十二日深夜に作業を開始、翌五時過ぎには日本館催事場に水槽を完成させ、鯉を放ち、午後三時の開会式典後、一般公開した。

 野上氏が語る。

 「中には食べられるかと尋ねる中国人もいましたが、美しい錦鯉に、皆、感嘆の声を上げていました。催事場はテニスコート一面分ほどしかなく、そこに十五日午後八時までの二日半足らずで二万六千人が来て、身動きで機な程でした。」

 押すな押すなの二日半が過ぎ、十五日の午後八時に展示が終った。深夜まで片付け、次に展示する京都の人々に明け渡さなければならない。

 そのとき、事件は起きた。

「中国人数人が突然入ってきて、我々以外を全員外に出し、バタバタッと水槽を取り囲みました。物々しい雰囲気の中で鯉を指差して『病気があるため殺す』と言ったのです。私は思わず言いました。『病気なんかない。入国の時にきちんと検疫を受け、中国側も認めたでしょう』と、しかし、いくら言っても、『病気だ』の一点張りです」と高野氏。

 押し問答するうち全員、感情が高ぶり、高野氏が声を荒げた。

「『ふざけるな、何年もかわいがって、作り上げてきた鯉を(ころすなんて)、人道的じゃあぇ』と言ってしまいました」と高野氏。

 激しく言い寄る氏を、仲間たちが止めた。「もう止せ」と言いながら、一人はポロポロと涙を流した。

  その時だ。

 中国側が突然、水槽にドボドボと液体を注ぎ込んだのは。

「途端に鯉が痙攣し始めました。もう助けようがありませんでした」と高野氏。

 悔しさと恋しさと屈辱で呆然とし、氏はその後、何をどうしたのかよく覚えていないと言う。

 錦鯉を上海万博で世界の人々に見て貰いたいと考え、生き物は搬入不可のルールに例外を設けるように尽力したのは長岡市長の森民夫氏だった。

 氏は、錦鯉は「長岡市、ひいては日本の宝」であり、「泳ぐ宝石」だと語る。中国人に素晴らしさを知ってもらい、鯉の販路拡大に弾みをつけたいと願っている。

 略)

 森氏は五匹の鯉はかわいそうだが、輸出の道筋をつける意味で、上海での展示には意味があったと語る。

 長岡市は、上海万博出展は鯉を最終的には処分するという前提で行われ、契約書にもそう書かれていると説明する。

 薬殺処分は受け入れざるを得ない条件だというのだ。

 だが、野上氏らは市の説明を否定する。

「殺すという前提はありませんでした。契約書も交わしていません。ただ、日本に持ち帰れない事はわかっていましたので、中国に残して、中国の人たちに可愛がってもらえればよいと考えていたのです。」

 略)

「実は一連の様子はヴィデオにも写真にも撮ってあります。我々で、動画を公開するのがよいか悪いのか、話し合いました。

 理事(野上氏)は公開しない方がよいという考えでした。

 小さな尖閣諸島問題みたいですね」と高野氏は苦笑する。

 野上氏も語った。

「薬を水槽に入れられた場面などを撮りました。けれども、もうそんなもの、見たくもない。思い出したくもない。

 大事な鯉を殺される映像を外に出して、摩擦をおこして中国とケンカしたくない。我々は中国と親交を深めて行きたいと願っているし、彼等もやがて、自分たちのやり方が相当おかしいと気付くでしょう」

 新潟の人々の此の優しさが中国人に通じる日は来るのか。

 略)

 中国人の変化を期待して、鯉を死なせた悲劇を忘れるより、逆に未来永劫記憶して、二度と同じ目に遭わないように自営することこそ、合理的な解決だと、私は思うのである。>

「日本ルネッサンス」第四三七回 櫻井よしこ 週刊新潮 二〇一〇年十一月二十五日号 p百四十四〜百四十五

 鯉が殺される事は了承していたと長岡市、そしてこの話を進めてきた長岡市長の森民夫氏は言うが、果たしてそうか。

 それまでのネット上ではあるが確認出来る記事を探すと、現在でも下記のような者が確認出来る。

 

山古志の錦鯉、上海万博で展示へ

中国当局が特例許可

 中国の上海万博・日本館で10月13〜15日に開かれる「新潟フェア」で、長岡市山古志地域の錦鯉の展示が特別に許可される見通しとなったことが15日、関係者の話で分かった。中国政府は検疫上の理由でコイ科の輸入を禁止しているが、特例として認め、今月中に万博日本館に通知する方針という。

 中国はコイヘルペスを防ぐため2003年から錦鯉の輸入を禁じているが、県や長岡市は中越地震の復興のアピールと「錦鯉発祥の地」のブランド力向上につながるとして、フェアの目玉の一つに錦鯉展示を計画。8月に検疫許可申請や衛生証明書を提出し、森民夫長岡市長が訪中して丹羽宇一郎中国大使に支援を求めるなどしてきた。

新潟日報2010年9月16日>

<山古志の「錦鯉」が上海万博へ!!

 長岡市山古志地区のニシキゴイが、上海万博の日本政府パビリオン「日本館」で展示される見通しになった。

「錦鯉」人気の高い中国でPRすることで、震災からの復興とブランド力をアピールし、販路開拓につなげたい思い。

本来は中国は検疫上の理由でコイの輸入を禁止しているが、8月に中国・上海の検疫当局へ展示元の日本館が申請、手続きが進んでおり、今回、特例として許可される見込み。

10月13日〜15日に万博の日本館で開かれる予定の「新潟フェア」で展示を計画。直径約2・5メートルの水槽に5匹ほどニシキゴイを展示する予定で、ニシキゴイは山古志地区の養鯉業者の組合が提供する。

 中国では08年に四川大地震が発生。市は被災地同士の交流を通じ、「復興の象徴」として同地区のニシキゴイをPR。輸出の可能性を模索していた。そうした中、県から昨年末、新潟フェアの共催を提案され、目玉としてのニシキゴイ展示を検討。森民夫市長が8月に中国を訪問し、丹羽宇一郎大使にも協力を要請していた。

 森市長は「今回の展示をニシキゴイの新たな販路開拓への起爆剤としたい」としている。 (2010年9月17日 読売新聞)>

<山古志錦鯉池揚げ、上海万博へ

 中国・上海万博へ出展する長岡市山古志地域の錦鯉が4日、同市六日市町の養鯉池から、いけすに移された。雨の中、池揚げされた紅白や山吹黄金などの錦鯉はどれも色鮮やか。ぎくしゃくする日中関係だが「泳ぐ宝石」の優美さで交流の懸け橋となるか期待される。

 出展用の錦鯉は生産者4人が出品し、6月から同所の養鯉業、野上久人さん(49)がまとめて飼育。池揚げされた7匹の中から、よりすぐりの5匹が万博で展示される。

新潟日報2010年10月4日>

<山古志の錦鯉、上海万博へ出発

13日からの「新潟フェア」で展示

 中国・上海万博に出展される長岡市山古志地域の錦鯉が11日夜、同市から搬出された。13〜15日に万博会場で展示され、「泳ぐ宝石」として県産錦鯉の美しさをアピールする。12日午後に成田空港をたち、同日夕に上海に到着する予定。

 11日夜は鯉の出品者ら5人が同市六日市町の養鯉場で梱包(こんぽう)作業をした。展示されるのは紅白や大正三色など5匹。いけすの水と一緒に1匹ずつビニール袋に入れ、段ボール箱に詰め出荷した。

新潟日報2010年10月12日>

 そして、長岡市のホームページでは下記のように紹介されている(写真はそのホームページより)。

長岡市市制ニュース22年11月

発祥の地山古志の錦鯉

上海万博で大人気

 先ごろ盛大のうちに幕を閉じた中国・上海万博。10月13日から3日間開かれた新潟フェア(県・新潟市・長岡市主催)の会場では、「紅白」や「大正三色」など代表的な錦鯉5匹が展示されました。錦鯉は「泳ぐ宝石」と呼ばれ中国で人気が高く、その鮮やかな色彩に「きれいで大きい」「こんなにすばらしい錦鯉は初めて見た」などの声が多く聞かれました。

 コイヘルペスの影響から、中国では錦鯉の輸入を禁止しているため展示が危ぶまれましたが、新潟フェアの目玉として特別に許可されました。

 万博という国境を越えた大きな交流の舞台で、そのブランド力を大きく発信した山古志産錦鯉。今回の出展が、錦鯉の輸入解禁に向けた大きなステップになることが期待されます。

 市は四川大地震以来、さまざまな復興支援を通して中国政府や四川省などと交流を深めてきました。今回の出展は、大地震の被災地という共通点を持つ長岡と中国の絆を深める象徴的なイベントとなりました。

 フェアでは、観光スポットのPRビデオの上映など長岡の魅力を発信。3日間で2万6千人を超える観客でにぎわいました。

【問】工業振興課 TEL39・2222


http://www.city.nagaoka.niigata.jp/shisei/tayori/h22/t2211/2211news.html

森民夫氏のホームページでも

森民夫の「ほっと一息」

上海万博新潟フェアで山古志の錦鯉が大人気

 (2010年10月27日 07:12)

 10月13日から15日まで開催された上海万博「新潟フェア」で、山古志の5匹の錦鯉が展示され、写真のように大人気を博しました。(3日間で約2万6千人)

 中国は、鯉ヘルペスを理由に、錦鯉の輸入を禁止しています。

 そこで、将来の輸入解禁の布石としての意味も込め、今回、特別許可を得て上海万博での展示にこぎつけました。

 本来、中国人は錦鯉のような色彩豊かな魚は大好きですので、写真のように錦鯉展示の生け簀の周りは大盛況となりました。

 正式に輸出できれば、中国の富裕層を中心に大ヒット商品になることは間違いありません。

 今回の特別許可を得るにあたって、8月上旬に北京に行き、着任したばかりの丹羽大使にご支援お願いする等、私も汗をかきましたので、展示の成功を心から喜んでいます。>

http://tamionet.com/blog/2010/10/2010-10-27-syanhai-nisikigoi.php#more

<外務省香川参事官に上海万博での錦鯉展示の陳情

 (2010年7月 1日 20:43) |

 6月30日、在中国日本国大使館の前公使の香川剛廣氏(現中東アフリカ局参事官)を訪問し、上海万博での錦鯉の展示の実現にお力添えをお願いしました。  長岡市は、10月13日から三日間、日本館で新潟デーが開催される際に震災復興の象徴として錦鯉を展示を企画し、新潟県の協力を得て中国政府に許可を求めてきました。しかし、鯉ヘルペスの問題等を理由に調整は現在なお難航しています。  新潟県大連事務所からの情報によれば、中国側は日本政府の全面的な支援があれば検討するとの態度だということが最近わかりました。  そこで、四川省の復興支援の関係でお世話になった香川剛廣前公使に、日本大使館から中国政府に働きかけていただきたいというお願いにあがったわけです。  長岡市が、これまで4回にわたり四川省からの復興視察団を受け入れてきたこと、また、被災地の学校図書館に児童書を寄贈したこと等を説明したところ、在中国日本大使館に連絡して中国側に働きかけていただくことを快諾いただきました。

 成功するか否かは、なお不透明ですが、一歩前進したのではないかと評価しています。>

http://tamionet.com/blog/2010/07/2010-07-01-kagawa-koshi.php

 いずれも生産者の方々が手塩にかけてきた錦鯉を、支那が毒殺したことを報じるところはありません。

 これらの報道、および「錦鯉は『長岡市、ひいては日本の宝』であり、『泳ぐ宝石』だとほざく 森民夫氏のブログによると、わざわざ上海まで苦労して運び、たった二日半の展示で業者の方が手塩にかけてきた鯉が毒殺される事がわかっていて、支那に一生懸命働きかけ、展示に漕ぎ着けた事を誇っていることになります。

 これは、森民夫長岡市長という政治家、市役所という役所、そして、マスコミと言う公器が、支那人とはどういうものかと、その支那人の本質を我々日本人に知らせないというある意味非常に醜い行為であり、許し難いものです。

 

 森氏は、このような支那人の実体を隠すことにより、長岡市市民だけでなく、我々日本人が受ける可能性のある被害についてはどのように思っているのでしょう。

 森民夫という政治家、長岡市という地方自治体、マスコミがいかに住民、国民の安全を軽視しているかよくわかる事例です。

 こんな腐れゴミ市長を選んだのもまあ住民自身ですけど。

 今の民主党売国ゴミ政権と同じやな。

 尖閣諸島における支那の偽装漁船の体当たりビデオを公開せず、反日デモに対しての我が国の国民、企業の損害も結果的には被害額さへ公開しない。

<反日デモの邦人、日系企業損害は「中国が救済すべき」 政府答弁書

2010.10.29 13:15産經新聞

 政府は29日の閣議で、中国各地で起きている反日抗議行動について「邦人、日系企業が被った損害の救済は中国側が中国国内法に従って行うべきものだ」とする答弁書を決定した。

 答弁書は9月18日〜10月26日にかけ、北京や上海市などで日本に対する抗議活動が行われ、日系スーパーマーケットのガラスが割られるなどの被害が生じたと指摘。「邦人、日系企業から要望がある場合には、政府としても適切に対応していく」とした。> 

<前原外相、反日デモ被害の日系企業「政府としても適切対応」 中国側に損賠求める意向

2010.10.27 11:18産經新聞

 前原誠司外相は27日の衆院外務委員会で、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件を契機に、中国各地で発生した反日デモで被害を受けた日系スーパーなどの損害賠償について「損害の救済は中国側が中国国内法に従って行うべきだが、被害に遭った日本国民から要望がある場合には政府としても適切に対応していきたい」と述べた。政府としても、損害賠償を行うよう中国側に求める考えがあることを示したとみられる。>

そして、結果として

<反日デモ被害額、「公表差し控える」政府が答弁書

2010.11.19 12:43産經新聞

 政府は19日の閣議で、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件を機に先月、中国四川省などで起きた反日デモの被害額について「邦人または日系企業との関係もあり、詳細について明らかにすることは差し控えたい」とする答弁書を決定した。>

 あほらし

 

 <中国人の変化を期待して、鯉を死なせた悲劇を忘れるより、逆に未来永劫記憶して、二度と同じ目に遭わないように自営することこそ、合理的な解決だと、私は思うのである。>

という櫻井よしこ氏の言葉の正しさがよくわかる事例です。 

山古志村の鯉業者の方には、ぜひ、ぜひとも支那が鯉を毒殺するビデオを公開してほしいものです。

 今日は、めぐ蔵さんの誕生日の御祝いつうことで、夕方より阿佐ヶ谷にあるお寿司屋さんにお酒四合瓶二本を持ち込みドンチャン。店に入ったら犯罪国家の北朝鮮が砲弾を南朝鮮に打ち込んだというニュース。

 

 

 写真は帰りに新宿駅の地下鉄の階段に座って話し込んでいた邪魔なアホ二人。注意したけどききもせず。

 

 今日は一応記憶あり。

 サルよりマシ。


米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死

11月22日月曜日曇りのち雨 ○

 米軍捕虜の被爆死を米軍は終戦後すぐに確認していながら公表せず、米軍捕虜の被爆死が無かったとしてきました。

 米軍が捕虜の被爆死を把握していたのは、下記のような事例からも確認出来ます。

以下引用

GHQが連合軍の遺骸に関して出した指令が外交資料館に残されている。一九四五年(昭和二十年)十一月十九日付、英文のものと仮訳のものだ。

 これによると、戦時中には多数の連合国人の死亡者が日本で荼毘にふされ、埋葬されている。そうした情報は、警察官や一般民間人が把握しているだろう。そこで、「日本帝国政府」は全国の死亡した連合国軍人の遺骸の所在について、完全な情報として司令部に知らせねばならないというのだ。

 「死亡者の氏名 階級」「死亡の日付 場所 原因」「遺骸の場所」「遺骸の所在地を知る人物の住所氏名」などである。

 こうした布告により、国内で死亡し、埋葬されていた連合国側の人間の情報がかき集められはじめたのだ。>

P二百八〜二百九

 その例として、平成十九年(二〇〇七年)七月に、我が国の国立国会図書館に保存されていたB−24爆撃機ロンサムレディー号乗員射撃手ラルフ・J・ニール軍曹、SBCヘルダイバー小型爆撃機射撃手ノーマン・ローランド・ブリセット三等兵曹の二名の死亡診断書が、京都の歴史研究家である福林徹氏により発見された。

 発病日時は広島に原爆が落とされた昭和二十年八月六日。

 病名

 ラルフ・J・ニール軍曹           頭部及び顔面爆傷

 ノーマン・ローランド・ブリセット三等兵曹  腹部爆傷及び両足蹠火傷

 死亡場所

 船舶練習部付属病院

 同英文診断書が付されていた。

P二百九〜二百十より抜粋

 この二名は「ウブキズ・リスト」に「怪我をして後に死亡した」とされた者たちであり、「ヒロシマの米人犠牲者」にも掲載されていた二名です。

 その二名に八月八日に八幡で撃墜され、七日間漂流して終戦日となる八月十五日に我が国の漁船に救助されたB−29ニップクリッパー号の乗り組員だった十名が、八月十七日に宇品の憲兵分隊にて、この二名に会っています。

 その時の二人の原爆による状況は生々しく昭和四十八年(一九七五年)十一月三日付けのボストングローブ紙に掲載されています。

 これは、ブリンストン大学マーチン・J・シャーウィン教授の著書「破滅への道程 原爆と第二次世界大戦」(加藤幹雄訳 TBSブリタニカ)の脚注として書かれていた部分が取り上げられたものです。

以下は森氏による要約です。

<二人は、ひどい吐き気と痛みに襲われていた。口の端から緑色の粘液のようなものが流れ出ていた。その粘液は耳からも流れ出た。夜になると、ますます状態は悪くなった。

 時々意識は戻るようだった。苦しさを訴えかける。そこで、乗組員たちは日本軍がくれて救急袋に入っていたモルヒネを打ってやった。

(木下注 これについては、当時の我が国の状況から考えて、連行された米兵が持っていた救急袋という説があると森氏は書いています)

 ニールとブリセットは、B−29の仲間に、もしアメリカに戻れたら、両親を訪ねて自分たちの事を伝えてほしいといった。

 彼等は必ず訪ねると約束した。

 日本人の医師に、乗組員の一人は「なんとかしてやれないのか」と言った。

 その医師は

「何とかしろだって?お前たちのせいなんだぞ。どうしたらいいのか、知るもんか」

 と答えた。

 他に米兵がいないかどうかも尋ねた。医師は、よくは知らないが、広島市内の捕虜収容所には何人かいたようだ。もう死んでいるかもしれないと答えた。

 ニールとブリセットは、原爆の閃光のあとの爆風で建物が壊れ、人々はみんな建物の外へと駆け出し、街の方へと逃げ出したと語った。ある者はひどい火傷を、ある者は水溜まりに身を投げ出していた。

 ちなみに、ニールとブリセットはは「汚水だめ」で見つかったとされているが、汚水だめというのは憲兵隊司令部にはないので、もしかすると広島城の堀なのかもしれない。

 夜中の二時頃、モルヒネの切れた二人は、あまりの苦しさに「撃ち殺して欲しい」と仲間のB−29の乗組員に嘆願した。もちろん、B―29全員のピストルは取り上げられており、撃つことはできない。

 夜明けの二時にニール、昼の二時にブリセットと、二人とも亡くなってしまった。数人の日本人が来て、死体を運び去った。何処へ持っていったのか、彼等にはわからなかった。

 二人が遺言として語った「両親に伝えて欲しい」については、B−29の副操縦士カールトン・M・ホールデン少尉によって、ブリセットの母親には伝えられた。ニールの方も同じように伝えられたはずだが、確認は取れていない>

P二百四〜二百五

 

 昭和二十年八月十九日に死亡したニールとブリセットのその遺骸は、宇品憲兵分隊隊長高橋太郎大尉の命令で荼毘に付されたのち埋葬された。

 写真にはその二人の墓が写っている。

 後に、遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。

 

 このように、アメリカ側は終戦後、米兵捕虜の被爆死についても、詳しく把握していたのに明らかにしてきませんでした。

 森氏も此の事について下記のように書いています。

<しかし、連合軍は捕虜の被爆死について調査を行ったにも関わらず、一切の資料を公表せず、戦後長い期間、事実は闇の中に眠ったままになっていた。

 米国人の遺族も、英国人の遺族も、オランダ人の遺族も、原爆で死亡したという情報を全く知らされずにいたのである。私が遺族を見つけ出して、連絡したことで、初めて知った人さえいたのだ。>

P二百三十九〜二百四十

 追悼式が終戦後四十年を経た昭和六十年(一九八五年)六月二十七日に行われたのは、米軍は戦後すぐに我が国において被爆死した米軍捕虜の事を把握していながら、それを公表せずに、国が米軍捕虜の被爆死が無かったとしてきたからです。

 広島での被爆死者数二〇万千九百九十人、長崎での被爆死者数九万三千九百六十六人。

 合計二九万五千九百五十六人とされている。

 一家全滅した家等も多く、正確な被爆死者数は不明である。

 しかし、アメリカが無差別爆撃により七〇万人、原爆により三十万人

もの無差別殺戮をやった事実には変わりはない。

 

 今日、柳田稔法相が事実上の更迭となった。

 柳田氏は法相だけでなく、拉致担当相でもあった。家族会が反対している朝鮮学校の無償化などについても事実上拉致家族の側には立とうとしなかった。

 前任者の中井洽氏も横田めぐみさんについて「めぐみさんは高校生の時、仕事帰りに拉致されたが…」と平気で言うような男であった。

 今後、柳田氏の後任はあのアホの仙石が兼任するらしい。

 日本人として最優先課題の一つであろう拉致問題を、官房長官、法相とともに兼任だそうで、この民主党というものの姿勢がよくわかる。

 朝起きると思ったほど腹筋が痛くない。

 両肩、背中などは筋肉痛。

 今日は食事に出かけた後は、足の踏み場もなくなっていた部屋の片付け。

 酒は飲まず。

 


11月21日日曜日曇りのち小雨 ○

 店を片付けた後、高田馬場に行き、芳林堂さんにて数冊の雑誌を購入。

 芳林堂さんの中にある古本横町にて、「二人だけの戦争」(牛島秀彦著 毎日新聞社 昭和五十五年刊)、「印度洋上の日本守備隊」(宮上利一著 旺史社 昭和六十年間)、「ビアク島玉砕」(田村洋三著 光人社 平成十二年刊)など購入。

 またもや、一週間ぶりとなるスポーツセンターへ。

 今回も時間があるので、ほぼ三時間いて、メニューを消化。

 店に寄った後、帰宅。

 

 写真は、毎日のように利用している地下鉄東西線神楽坂駅にて今日気がついたので、おそらく設置されたばかりだと思われる駅のホームの金属製ベンチ。

 どうなんでしょう。

 浮きまくりだと思うのは私だけでしょうか?

 


 

飲んべえの会「醴泉正宗の垂直」

11月20日土曜日晴れ△

 午後三時より飲んべえの会。

 今回は蔵元である山田敦社長にご出席いただき「醴泉正宗の垂直」。

 どういうわけか、磯自慢の寺岡社長も御参加してくださる

 

今回の出品酒

NO.1 醴泉正宗 純米大吟醸 35%  20 BY
NO.2 醴泉正宗 純米大吟醸 35%  19 BY
NO.3 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    18BY
NO.4 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    17BY
NO.5 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    15BY
NO.6 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    14BY
NO.7 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    13BY
NO.8 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    12BY
NO.9 蘭闍待   大吟醸 35%   21BY

16BYの醴泉正宗は製造していないため、今回の出奔酒がファーストヴィンテージよりすべての醴泉正宗になります。

  

 

 

 夕方六時半よりカウンターの一部は通常営業ということで、

 Sさん御夫妻と四歳のかわいいお嬢さんと来店。

 初めてのお客様Tさん二名様で来店。

 遅い時間の醴泉の会にMさん御参加。

 後で一名様合流。

 Tさん御参加。

 結局、三時から十二時近くまでドンチャン。

 腹がへったということで、いつものように山田社長、寺岡社長、MARIKOさん、ホロン部員Yさんと高田馬場のラーメン屋さんへ。

 珍しく今日は最後まで記憶あり

 サルよりマシ。

 

 


11月19日金曜日晴れ××

 インチキラクターさんが部屋でやるアンコウ鍋でのドンチャンのために、築地に一緒に仕入れにいく。

 今日は酉の市。写真は築地の波除神社。

  

 昨日死んでいた金魚がそのままになっていて、昨日生きていた最後の一匹が見えない。

 

 バンブーさん来店。

 Nさん三名様で来店。

 Kさん二名様で来店。

 Tさん来店。

 Kくん二名様で来店。

 Oさん五名様で来店。

 初めてのお客様Tさん御夫妻来店。

 今日は大忙し。

 営業終了間際から飲みだし、結局、ドンチャン。

 記憶無し。

 サル・・・・


11月18日木曜日晴れ△

 築地本願寺の蓮の金魚が二匹をのぞいて、すべていなくなっていたが、その残った二匹のうちの一匹も死んでいました。

  

 Sさん二名様で来店。

 一名様来店。

 三名様来店。

 へべれけさん、ぐでんぐでんさん来店。

 いつものとおり、当店のホームページのメンテナンスをお願いする。今回は表紙のニューリアル。

 ドンチャン。

 記憶あり。サルよりマシ。


米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死

11月17日水曜日雨 肌寒い △

  「原爆で死んだ米兵秘話」にて著者の森氏は、雑誌「ニューヨークタイムズ・マガジン」(十二月二日号)のジャーナリストのロバート・マノフ氏の「ヒロシマの米人犠牲者」に掲載された被爆死米兵十人のリスト以外に、米軍が墜落死と処理しているB―24機長であったジョセフ・ダビンスキー少尉が捕虜になり、取り調べを受けたことを突き止めている。

 被爆死したジョセフ・ダビンスキー少尉は搭乗機のB−24タロア号が墜落した時に、パイロットであるので、最後に飛び降りている。

 しかし、高度が低かったのかパラシュートが巧く開かず、地上に激突する寸前にパラシュートが松の木に引っかかって、宙づりになった。

 多数の目撃者には彼は死んでいるように映った。

 GHQの資料では、ダビンスキー少尉は墜落現場で死んだものとされている。

P九十一)

 

 ところが、目撃者の久保田晃氏の証言として、

「米兵が引きずり降ろされるのが見えた。やがて、地面に下ろされた米兵が両手を上げている姿も見えた」

P百八十)

 そして、森氏は取り調べをした軍人までも探し出している。

 捕虜を収容していた中国憲兵隊司令部は爆心からわずか四百メートルの距離にあったため、ほとんどの方が亡くなって、資料も消失している。

 しかし、勤務しながら被爆死を免れた憲兵が数人いた。

 東京に出張していた助かった方が三名。市内で被爆したが、司令部よりも爆心地から遠かったので助かった方が二人である。

 東京出張組は藤田明孝氏、松本進氏(外事防諜課主任将校 大尉)、氏名不詳。

 市内被爆組は大塚誠氏、森田隆氏。

 中国憲兵隊司令部が捕虜より広島とそれより西の都市が爆撃禁止都市になったことを聞き出して、それを報告しに八月五日に東京司令部に出向したため助かったが、中国憲兵隊司令部が事の重大性に気付きすぐに本部に電話報告をすれば、原爆の犠牲者が幾許かは少なくなったのではと書いています。

P百三十一〜百三十五)

 昭和二十年八月五日朝、中国憲兵隊司令部の依頼で、ジョセフ・ダビンスキー少尉を取り調べたのは、神戸商大(現神戸大学)から学徒動員され、第二総軍司令部参謀部へ見習士官として赴任した東田和四氏である。

 二人の米兵に会ったが、その日は少尉だけを取り調べた。

 雑談になった時に、米兵が「自分は学徒兵であり、学生時代は経済を勉強していた」と言ったので、やはり大学で経済を勉強していた東田氏は親しみを感じ、恋人のことなどを尋ねたら、胸のポケットから写真を出して白いワンピースを着た女性の写真を見せてくれた。

 困った事はないかと聞くと、夜、蚊に刺されて困るというので、司令部の憲兵に蚊取り線香を与えるように指示して別れている。

P百四十三〜百四十四)

 森氏は事実を確かめるため、一人ひとりの捕虜になった後の取り調べ場所、収容場所、あるいは埋葬場所など証言者、資料を調べ、そして、米国に残るご遺族までも探し出している。

 そして、現在は弁護士をしているダビンスキー少尉の異父弟であるブランコ・ストーバー氏と連絡を取り、恋人の存在を確認し、東田氏の証言が確かだった事を書いている。

 では、

 <昭和二十年七月二十九日午後山口吉敷郡東岐波村丸尾沖にて漂流中出漁中の宇部市漁民救助の上東岐波駐在所に届け出たるを同所に於いて山口県憲兵隊附陸軍憲兵少尉青山行雄が受けて連行していった。

連行された米兵の名は海軍少尉ジョセフ・ダビンスキー 航空母艦ランドルフに搭乗。>

昭和二十一年(一九四六年)一月二十八日中国復員監部作成の「米機搭乗員護送者等に関する調査報告の件」(中国復総第三十三号)

(中国軍管区司令部は昭和二十年十二月一日より名称変更)

P百八十二

 

 同様に

< ジョセフ・ダビンスキー 海軍少尉 二十七

 空母ランドルフに所属。 四十五年七月二十九日、山口吉敷郡東岐波村の沖合を漂流中、捕獲された。

 遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。>

中国軍管区司令部の参謀吉川正治少佐がGHQに提出した「第五中国地区軍管区目録」

P百七十

 

とされたダビンスキー海軍少尉とはだれか。

 森氏はこれは明らかな間違いであるが、広島に連行された後、間違われたと推理している。

 すでに、GHQも疑問に思い、憲兵隊の青山行雄少尉、田中大作軍曹ら関係者を問いつめ、出撃記録などより空母ランドルフ第十六戦闘隊に所属しFFグラマンヘルキャットに搭乗していたジョン・ジョセフ・ハンシェル少尉と判明している。

P百八十三〜百八十四

 これにより、森重昭氏は、広島で被爆死した連合軍捕虜として確認できたのは下記の十二名としている。 

 陸軍 B−24爆撃機 ロンサムレディー号 乗員九人中 一名戦死(墜落死) 六人被爆死 二名生還

 

副操縦士  ダーデン・ルーパー

爆撃手   ジェームズ・ライアン

通信士   ヒュー・アトキンソン

射撃手   ジョン・アラン・ロング

エンジニア バッフォード・エリソン

射撃手   ラルフ・J・ニール

 陸軍 B−24 タロア号 乗員十一名中 八名戦死 三名被爆死

操縦士   ジョセフ・ダビンスキー

射撃手   ジュリアス・モルナー

射撃手   チャールズ・ヴァムガートナー

 海軍 SBCヘルダイバー小型爆撃機 乗員二名 全員被爆死

操縦士   レイモンド・ポーター

射撃手   ノーマン・ローランド・ブリセット

 海軍 グラマンFF戦闘機 乗員一名 被爆死

操縦士   ジョン・ジョセフ・ハンシェル

 以上十二名

 しかし、レーガン大統領によって戦後四十年が過ぎた昭和六十年に行われた追悼式で読み上げられたのは九名です。

 

 陸軍 B−24 タロア号 乗員

操縦士   ジョセフ・ダビンスキー

射撃手   ジュリアス・モルナー 

 海軍 グラマンFF戦闘機 乗員

操縦士   ジョン・ジョセフ・ハンシェル

 以上三名の名前が読み上げられていない。

 このようなところに米国の被爆死した者に対する姿勢がよく現れているというと穿った見方なのだろうか。

続く

 今日は寒い一日。

 Tさん来店。

 Iさん二名様で来店。

 Oさん来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 ドンチャン。

 記憶ありと思う・・・・

 サルよりはちょっとはマシかも・・・・・


マンガ「音やん」箸の使い方

11月16日火曜日晴れのちくもり 寒い △

 近所のコンビニに酔っぱらって寄った時に食べ物などと一緒にマンガの本を購入。

 買ったのを覚えていなくて、アイスクリームを買って、そのままテーブルの上に置いたままになっており、河岸から帰ってきて初めて気がついたことなどもあります。

 当然

 今回買った「食の鉄人たち」(アクションコミック 双葉社)という中に、「音やん」(中村博文)という寿司職人を題材にしたマンガがあります。

 

 今回はそのいくつかの物語の中の一つに、アンコール傑作選として「嫌い箸」という題のマンガでした。

 

 箸の作法について書いているようです。

 

 

 しかし、他の作法には無頓着なようで、この箸の作法について娘さんには事あるごとに聞かせていたという

  

 

「日本人の一生は

 箸で始まり

 箸で終わる」

 

 

と立派な事を言わせている登場人物に平気で手皿をさせています。

 

 手元にある同じマンガシリーズでも同じような書き方をしていたから、作者の中村博文氏という漫画家さんは恐らく「手皿をすることが上品な食べ方」だと思っているのでしょうね。

   

    

 

 

 箸使いももちろん大切だが、少なくとも、このマンガを読んだ方が、手皿などというものを正式な、あるいは美しい作法と勘違いするような描き方だけは止めて欲しいものです。

 行く度に腹筋は三つのメニューで一応やっているつもりだったが、やっぱ、どこか手抜きになっていたようで、今日も笑ったりすると腹筋が痛い。

 

 一名様来店。

 フィリッポさん、Mさん三名様で来店。

 営業終了後、「アンブラ」さんに連絡すると、今日は一周年パーティで早く終わったそうで、四人で「イデアル」さんに伺って、ワインを一本。

 フィリッポさん家のイタリアのお家で飼っている猫の話題になり。

 その一匹のあまりの素行の悪さに奥様のジョバンナさんが激怒されたそうな。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


米国が隠そうとした米軍捕虜被爆死

11月15日月曜日曇りのち小雨 ○

 下記は広島に落とされた原爆により被爆死された米軍捕虜に対しての追悼式での大統領演説です。

 <追悼式(米国内)での大統領演説草稿

               一九八五年六月二十七日

 一九四五年八月六日、原爆の日、日本の広島で

 捕虜として命を落とした米空軍、米海軍の飛行士たちの名誉と冥福を祈って

 チャールズ・ヴァウムガートナー、

 ダーデン・ルーパー、

 ジェームズ・ライアン、

 ヒュー・ヘンリー・アトキンソン、

 ジョン・ロング、

 バッフォード・エリソン、

 ラルフ・ニール、

 レイモンド・ポーター、

 ノーマン・ローランド・ブリセット

 

 彼等の勇気、苦しみ、軍務に対する忠誠は

 すべての米国人の心に深く印象づける地位を獲得した。

 彼等の英雄的行動は後から来るものの道しるべに永久になるのである。

              大統領 ロナルド・レーガン>

(ミシガン州立大学 ポール・S・サトー博士訳)

 「原爆で死んだ米兵秘話」(森重昭 光人社 平成二十年刊)p九 より引用

 

 この追悼式が行われたのは、終戦後四十年を経た昭和六十年(一九八五年)六月二十七日です。

 追悼式がなぜ戦後四十年も経ってからなのか。

  米国は被爆死した米国軍人の事を把握していなかったのか。

 戦後四十年も過ぎて初めて判明したのか。

 米軍は戦後すぐに我が国において被爆死した米軍捕虜の事を把握していました。

 それを公表しなかっただけです。

 この森氏の著書「原爆で死んだ米兵秘話」にそれが詳しく書かれています。

 森氏は丹念な調査により、追悼式で読み上げられた九名ではなく十二名であった事を突き止めている。

 そして、米国が被爆死の米兵遺族にその事を戦後長期間隠匿していた事も書いている。

 以下は森氏の著書よりの抜粋です。

 <まず、原爆が投下されて二十六年が経った昭和四十六年(一九七一年)にアメリカ国立記録保存所にある記録文書に被爆米兵の記録が公表された。

 それは、アメリカ国防省が管理していたが、その後、国立記録保存所に写され、やっとコンフィデンシャル(秘密)扱いから外されたものである。

 それによると、原爆が投下された当時、広島には二十名の米軍捕虜が抑留されており、その殆どは米陸軍航空隊員だった。

 陸軍省は「そのうち十七人が直後に殺され、二人は八月十九日に負傷のため死んだと認定した」とのべ、さらに「十九日に死んだ二人のうち射撃手ラルフ・J・ニール軍曹、もう一人は別の機に搭乗していた、ノーマン・ローランド・ブリセット三等兵曹であるとしている。

また、文書はニール軍曹の乗っていたB−24ロンサムレディー号の他の乗組員八人の氏名、消息も明らかにしている。

 

  トーマス・C・カートライト中尉(操縦士) 助かって後に米艦リース号で貴国

  ダーデン・ルーパー少尉   (副操縦士) 死亡

  ロイ・M・ベーデンセン少尉 (航法士)  死亡

  ジェームズ・ライアン少尉  (爆撃手)  死亡

  ヒュー・H・アトキンソン軍曹 (通信士) 死亡

  ウイリアム・E・エイプル軍曹(射撃手) 九月一日生きて救出

  バッフォード・J・エリソン軍曹(エンジニア) 

  ジョン・アラン・ロング・ジュニア伍長(射撃手)恐らく死亡

 ロンサムレディ号の搭乗員九人のうち生存者は二人、ニールを除く六人が「死亡」または「恐らく死亡」となっている。

 つまり、六人はB−24が撃墜された際に死んだのか、捕虜になった後に被爆死したのか明らかにされていない。

 また、国立記録保存所は、この六人について「これらの乗組員の氏名が判明したあと、身内に通知する手はずは整った。しかし、陸軍当局は結局通知しなかったようだ。恐らくそれは不可能だったろう」と述べている。

 これは、米軍捕虜をアメリカが投下した原爆で殺したことを公表するのはとてもできなかったという意味にも受け取れる。

(中国新聞・昭和四十六年九月六日付け)

 ところが、実際には、遺族に宛てて米軍からの通知はなされていたのである。

 アトキンソン家にも、ライアン家にも通知はされていたのだ。

 それらには「日本上空で行方不明」という内容まで記され、その後、家族の問い合わせのつど、電報や手紙でのやりとりがなされていたりもしている。

 ただ、この段階でも、アメリカ政府の見解は「広島で被爆した米兵はいない」というものだったのだ。

 アメリカで、本格的に広島で被爆した米兵捕虜のことが脚光をあびるのは、記録文書の公表から六年を経た昭和五十二年(一九七七年)六月六日に我が国外務省の外交資料館にある手持ちの外交資料の一部を公開し、後に「ウブキズ・リスト」と呼ばれるその中に被爆死した「二十人」の米軍捕虜の名前が載っていたことを、当時広島大学原爆放射線医学研究所の宇吹暁助手(現広島大学院教授)が発見してからである。

 これは、中国軍管区司令部の参謀吉川正治少佐がGHQに提出した「第五中国地区軍管区目録」と題された被爆者名簿とされるものであった。

 この名簿に掲載されていた米国軍人捕虜は下記の通り二十名

 

 

  ジュリアス・モルナー軍曹 二十

  チャールズ・ヴァムガートナー軍曹 三十

 沖縄基地四九四爆撃部隊所属。 四十五年七月二十八日、搭乗していたB−24機体番号七一六が撃墜され、広島県佐伯郡で捕虜になった。

 遺骨は同年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。

 (木下注 陸軍 B−24 タロア号搭乗員)

  ヒュー・ヘンリー・アトキンソン軍曹 二十六

  ラルフ・J・ニール少尉(実際は軍曹なのだが、資料では少尉) 二十三

  バッフォード・エリソン 階級不詳 

  ジョン・アラン・ロング

  ダーデン・ウイリアム・ルーパー少尉 二二

  ジェームズ・M・ライアン 階級不詳 二十

  

  沖縄基地四九四爆撃部隊所属。 四十五年七月二十八日、搭乗していたB−24機体番号三五八〇(推定)が撃墜され、山口県玖珂郡で捕虜になった。

 遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。 

 ラルフは怪我をして後に死亡した。 

(木下注 B−24爆撃機 ロンサムレディー号)

 

  

  ノーマン・ローランド・ブリセット 海軍三等兵曹 通信兵兼射撃手 十九

  氏名不詳            二十三

 空母タイコンデロガ八十七爆撃部隊に所属。 四十五年七月二十八日、搭乗していたSB2Cが撃墜され、山口県の沖合で救助された。

 遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。

 ノーマンは怪我をして後に死亡した。

(木下注 海軍 SB2Cヘルダイバー小型爆撃機) 

 ジョセフ・ダビンスキー 海軍少尉 二十七

 空母ランドルフに所属。 四十五年七月二十九日、山口吉敷郡東岐波村の沖合を漂流中、捕獲された。

 遺骨は四十五年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡された。

 ウイリアム・フレデリックス 少尉

 デール・ブランベック 少尉

 T・ロロッカー 軍曹

 ジョン・C・コールハウア 伍長

 ロバート・B・ウィリアムズ 伍長

 レオン・E・ザーネツキー 伍長

 四十五年五月初旬、熊本県阿蘇郡小国村付近にパラシュートで降下し逮捕されたB−29の搭乗員の一部である。

 遺骨は四十五年十二月七日、米国の軍隊に引き渡された。

 ネルソン 陸軍大尉

 ヘイワード 陸軍少尉または伍長

 四十五年七月二十七日、福岡県八女郡横山村でB−29の搭乗員の一部として逮捕された。

 遺骨は四十五年十二月七日、米国の軍隊に引き渡された。

  この資料発見のニュースはUPI通信によってアメリカに伝えられ、「イブニング・トリビューン」紙に、掲載される。

 その記事を、B−24ロンサムレディー号の通信士であったヒュー・H・アトキンソン軍曹の父親、セオドア・アトキンソン氏が見つけ、国や軍に対し、何度も息子の被爆死について問い合わせるが、米軍はまったく認めようとしなかった。

 ついに、米軍が原爆によって被爆死した米兵について、歴史学者バートン・バーンスタイン博士の質問に対し「陸軍八人と海軍二人の捕虜が広島の原爆の犠牲になった」と公式発表を行ったのは昭和五十八年(一九八三年)になってからである。

 此の時点でも、具体的な名前等は一切明らかにされなかった。> 

P三十〜三十五より大意抜粋。

 「ウブキズ・リスト」の元になった吉川少佐の名簿については内容はP百六十八〜百七十一、その他は同書P百七十七より

 つまり、昭和四十六年にアメリカ国立記録保存所において公表された記録文書に掲載された被爆米兵の記録の原爆が投下された当時、広島には二十名の米軍捕虜とは、昭和五十二年に宇吹暁助手(現広島大学院教授)が発見した中国軍管区司令部の参謀吉川正治少佐がGHQに提出した「第五中国地区軍管区目録」と題された被爆者名簿とされるものであったことがわかる。

 

 終戦時にGHQは被爆死した米国軍人捕虜の存在を把握し、その遺骨まで持ち帰っていたのであるが、この時点で被爆死米兵の氏名が明らかになる事はなかった。

 同じく同書より

<被爆死した米兵の具体的な氏名が公になるのは、翌年昭和59年(一九八四年)、雑誌「ニューヨークタイムズ・マガジン」(十二月二日号)誌上において、ジャーナリストのロバート・マノフ氏の「ヒロシマの米人犠牲者」と題し、原爆投下時、広島の捕虜収容所には少なくとも撃墜された三機の米軍機の搭乗員十人が収容されていたと断定した記事においてである。

 記事に掲載された米軍捕虜は

 B−24爆撃機 ロンサムレディー号 

      ダーデン・ルーパー少尉

      ジェームズ・ライアン

      ヒュー・アトキンソン軍曹

      ジョン・アラン・ロング

      バッフォード・エリソン

      ラルフ・J・ニール

 陸軍 B−24 タロア号 

      ジュリアス・モルナー軍曹

      チャールズ・ヴァムガートナー軍曹

 海軍 SB2Cヘルダイバー小型爆撃機 乗員二名 全員被爆死

操縦士   レイモンド・ポーター

射撃手   ノーマン・ローランド・ブリセット

 以上十名

 「ウブキズ・リスト」二十名より十名減ったが、「ウブキズ・リスト」には九州帝国大学医学部における「捕虜生体解剖事件」における犠牲者が五名、および福岡県八女郡横山村と熊本県阿蘇郡小国村付近で逮捕され処刑されたものなど「氏名不詳者」四名が含まれているためである。

 「ウブキズ・リスト」より九名を除いた十一名について、ロバート氏の「ヒロシマの犠牲者」リストより照合すると、九名の名前が重複し、「ウブキズ・リスト」には「レイモンド・ポーター中尉」、「ヒロシマの犠牲者」にはジョセフ・ダビンスキー少尉の名前が無い。>

P百七十二〜百七十八 大意抜粋

続く

 昨日やったいつもと違う腹筋のメニューが利いたようで、今朝起きると、いつものように両肩、腕、背中、胸などの筋肉だけでなく、腹筋も痛い。

 同じメニューを消化していると、慣れて利かなくなるというのは判っていたのだが、ついつい流していたようで。

 食事に出かけた以外は部屋でゴロゴロして一日が終わる。

 酒は飲まず。


 

11.14 アジアに自由と平和を!中国(胡錦濤)のアジアと尖閣諸島侵略糾弾!街頭宣伝活動 in 横浜

11月14日曜日曇り

 横浜駅西口高島屋前で行なわれた「頑張れ日本!全国行動委員会」主催の街頭宣伝活動を拝聴させていただく。

 田母神俊雄閣下、西村眞悟氏、梅原克彦氏、小林正氏、小山和伸氏、富岡幸一郎氏、

 三輪和雄氏、永山英樹氏、水島総氏ほか地方議員の方も多くいらしていた。

 

 

 

 

   

   

   

 

  

 

 西村氏とは「また今度ドンチャンつうことで」・・・・・・

 

 

 多くの方がいらしていました。

 いつも思うのは多くの裏方の方がいらして、こういう活動が成り立つ。

 

 高田馬場で開かれている古本市に立ち寄るが、今回は何も購入せず。

 芳林堂さんに寄り、二冊購入。

 

 その後スポーツセンターへ行き、今日は時間もあるので三時間近く過ごす。

 珍しくベンチが空いていたので、自分のペースでメニューを消化出来ました。

 百キロから五キロ単位で落としていって六十キロまで。

 インターバルは一分。

 店に寄って、日記を一部アップしてから帰宅。

 風呂からあがり、布団の中でマンガを読んでいたら、そのまま寝ていました。酒は今日は飲まず。


 

「11.13 中国のアジア侵略・人権弾圧を阻止する抗議デモ in 横浜」

11月13日土曜日晴れ△

 店の片付けと仕込みを終えた後、横浜であった「11.13 中国のアジア侵略・人権弾圧を阻止する抗議デモ in 横浜」に参加。

 

 

 

 

 

 

 

 

 これについて、時事通信は下記のように報道している。

 以下引用

竹馬や仮装で「APEC反対」=4000人がデモ、集会―横浜

2010年11月13日18時29分 / 提供時事通信社

 アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開かれた横浜市では13日、9グループ計約4000人(神奈川県警発表)がAPEC開催反対を訴え、尖閣諸島問題で中国を批判する集会やデモ行進をした。

 デモの中には竹馬に乗ったり仮装したりする光景もあった。

 JR桜木町駅前広場から約5キロ離れた山下公園までデモ行進したグループは「APECもTPP(環太平洋連携協定)もいらない」と叫びながら行進。オバマ米大統領や菅直人首相のマスクをかぶり、ドラムの音に合わせてダンスを踊る参加者もいて、通行人は「(仮装パレードで知られる)横浜みなと祭みたいだ」と話した。

 京都市から参加した大学院生の古屋寛生さん(28)は「企業が利潤を追求するあまり、フィリピンで労働者の人権が侵害されたり、日本で貧困が拡大したりしている」と話した。

 父親がクルド難民という小学5年生のヤブト・クリサクリスチャンさん(10)は「経済よりも難民の保護に力を入れて」と訴えた。

 デモ行進は首脳会議の会場周辺には近づけず、警察車両が先導して、警察官が沿道を警戒。大きな混乱はなかった。 

引用終わり

 時事通信社は左巻きデモを取材していたようですが全体のデモの数は書いておりますが、この左巻きデモの参加者数はどういうわけか書いておりません。

 何しろこの時事通信社は、平成十九年には支那人三十人がやった十五分のデモを報道したというすばらしい実績をお持ちの会社です。

 以下引用  

盧溝橋で「反日行進」=事件から70年、30人参加?中国

平成19年7月7日13時0分配信_時事通信【北京7日時事】

 日中戦争の発端となった盧溝橋事件から70年を迎えた7日午前、北京市郊外の盧溝橋で約30人の反日・愛国活動家らがこれに合わせた行進を行った。

 行進に参加したのは「中国民間保釣(尖閣諸島防衛)連合会」「愛国者同盟網」の活動家ら。約30人は盧溝橋付近にある抗日戦争時の将軍の墓に集合し、黙とうをささげた後、旧日本軍による従軍慰安婦問題や遺棄化学兵器などについて記したポスターを手に持ち、約15分間にわたり行進を続けた。行進中にはラッパで中国国歌を演奏する場面もあった。

引用終わり

 

 私が参加させていただいたデモについて、主催者である「チャンネル桜」は、

 <集会にて 2,500名の人々が登壇者の訴えに耳を傾けたほか、

その後のデモ行進では、3,500名もの草莽有志が、悠然と、横浜駅周辺で歩を進めました。>

 と書いている。

 少なくとも左巻きの連中の集会と違い、三列で並んで、数を数えていたので、大きくは違っていないと思います。

 今回も普通の人たちが集まっていました。

    

   

 

 

 さて、左巻きデモには何人の人間が参加したのでしょう。

 時事通信社さんはぜひ報道してほしいものです。

 あほらし

 Mさん二名様で来店。

 Tさん来店。

 遅い時間にYさんたちが三名様で来店。

 私の方は今日は軽く飲んで終わりのつもりがドンチャン。

 記憶はあったからサルよりマシ。


 

とりあえず

11月12日金曜日晴れ △

 御来店いただきましたお客様。

 バンブーさん来店。

 Hさん来店。

 初めてのお客様Sさん来店。

 同じく初めてのお客様Yさん五名様で来店。

 二名様来店。

 Hさん二名様で来店。

 Kさん来店。

 明日は仙台でOB戦だそうで、朝七時に日本橋。

 でっ、ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

磯自慢 秋津(古家 常田 西戸)

11月11日木曜日晴れ △

 今年から磯自慢酒造のブルーボトル、純米大吟醸40%が古家(ふるけ 七月発売)、常田(つねた 九月発売)、西戸(さいと 十一月発売)と収穫される兵庫県東条地区秋津の中でも区画の違いにより別々に仕込んだ製品を発売。

  

 

 それぞれ、飲み比べると違いがあるが、好みは別れると思います。

 当店でももしばらくは三つの地区の違いを楽しんでいただけると思います。

 ちなみに、十月には同じ磯自慢40%で愛山が発売されています。

 めぐ蔵さん来店。

 体調がまだ本調子ではないので、サラリと飲んでオシマイ。

 Wさん御夫妻来店。

 移転先もそろそろ決まりそう。

 ドンチャン。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


 

米軍勇士之墓

11月10日水曜日晴れ △

 写真には六つ墓が写っている。

 その木で作られた十字架には「米軍勇士之墓」と書かれている。

 昭和二十年(一九四五年)七月二十八日に、呉沖に係留されていた日本帝国海軍戦艦「榛名」を攻撃した時に、対空砲火により撃ち落とされ、広島県佐伯郡八幡村に墜落したB−24爆撃機「タロア」号乗組員のものです。

 

掲載写真はいずれも森重昭氏の著書「原爆で死んだ米兵秘史」よりのものです。

 

 

 この時の搭乗員は全部で十一名。

 十一名のうち八名が墜落死、あるいは墜落直後に死亡している。

 機体と共に墜落したのは以下の六名

 ドナルド・F・マービン中尉(オブザーバー)

 カミラウス・カークパトリック軍曹(機首射撃手)

 チャールズ・A・アリソン軍曹(上部射撃手)

 デビット・A・パシフィックフィールド軍曹(ラジオオペレーター)

 ロバート・C・ジェンストン中尉(爆撃手)

 ローレンス・A・フォールス・ジュニア中尉(航法士)

 

 ウォルター・ピスコール軍曹(エンジニア)

 パラシュートで脱出し、観音、現西飛行場にあった三菱造機の工場の屋根に降りたが既に死亡していた。

遺体は三菱病院長の日下部旦三氏が検死の上、広島市尾長町(現山根町)の国前寺に葬られた後、戦後、昭和二十年十二月初旬、吉川正治参謀、通訳、アメリカ第八軍の将校二人立ち会いのもと、発掘され、第八軍に引き渡された。

 ルドルフ・C・フラナギン中尉(副操縦士)

 パラシュートで脱出。太田川の河口、草津辺りの海面に着水。

 立ち泳ぎしていたが、漁民が小舟を漕いで近寄り、棹でめった打ちにして引き上げ、岸に連れ帰った。連れて行かれた時、半死半生の状態であったが、絶命した。

 三菱病院から医師が駆けつけ、必死で人工呼吸し生き返らせようとしたが、無駄に終わった。

 両人の検死をした三菱病院長の検案書(GHQ資料)によると、二人とも搭乗機が高射砲の弾を浴びた際、かなりの重傷を負っており、暴行を受けなくとも死んだ可能性が高いと書かれている。 

遺体は同じく、広島市尾長町(現山根町)の国前寺に葬られた後、戦後、発掘され、第八軍に引き渡された。

 残りの三名のうち、

 ジュリアス・モルナー軍曹(尾部射撃手)

 パラシュートで脱出後中国憲兵隊に引き渡される。

 広島において被爆死

 遺骨は昭和二十年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡される。

 チャールズ・O・パウムガートナー軍曹(下部射撃手)は広島県佐伯郡八幡の山中にパラシュートで着地。

 中国憲兵隊に引き渡される。

 広島において被爆死

 遺骨は昭和二十年十二月六日、陸軍第十部隊に引き渡される。

 ジョセフ・E・ダビンスキー少尉(中尉という説もあり)(機長)

 最後に墜落機より飛び降り、地上に激突する寸前にパラシュートが松の木に引っかかって宙づりになったのち捕虜となる。

 広島において被爆死

 

 先人は爆撃により肉親を、友人を殺したであろう憎き敵を、墜落し亡くなったからと「米軍勇者之墓」と書いて手厚く埋葬したのです。

 

 それは原爆が落とされた後でも変わらなかった。

 被爆死した二人の米軍捕虜の墓

 

 そして、米国は被爆死した自国の軍人の事を隠し通そうとした。

 戦時中、呉海軍基地にあった英国軍兵士の墓。投石を防ぐために、有志が鳥かごのようなフェンスを作ってまで守った。

 

 参考引用文献

「原爆で死んだ米兵秘史」(森重昭 光人社 平成二十年刊)

 続く

 今日、支那人の尖閣諸島での暴挙を暴いた投稿者である海上保安官が名乗り出たそうですが、そもそも支那に媚びて全てを隠そうとしたアホ管、仙石が悪いのであって、この方には罪はない。

 

 それよりも、支那、支那人留学生に対して無駄な銭をやるのはサッサと止めてほしい。

 Kさん来店。

 インチキラクターさん来店。

 今月一杯で、故郷の岡山にお帰りになるそうで、わざわざ挨拶にいらしてくださった。

 松の司の松瀬社長、Iさん、Sさん、マルガリータさん来店。

 ドンチャン。

 今日は珍しく意識あり。

 サルよりマシ。

  


 

皿の修理

11月9日火曜日晴れ ○

 今日の築地本願寺の蓮 日刊ゲンダイ。流石は小沢一郎後援会紙

   

 Mさん来店。

 Oさん来店。

 メチャヒマなので、お二人がお帰りになった後に、修理途中だった皿の修理。

 一枚は六月に割れたものを継いだままになっていたもの

 前の店を借りた時にそこにあったもので、高い物ではないだろうが、私が昭和六十一年にこの商売を始めてからず〜と使って、今年で二十五年目ともなるとそれなりに愛着もあります。

   

   

 二枚は骨董市で購入した物で、これも高価ではないですが一応江戸時代だそうで手書きで一枚一枚少しずつ違います。

 欠けたままでは使えませんが、こうすれば、少しはマシ。

 今日は酒は飲まず。


 

原爆投下にみる白人の本質

11月8日月曜日晴れ ○

 今週号の週刊新潮(平成二十二年十一月十一日号)のカラーグラビアは「原爆投下もあったB−29 復活ショー」と題されたものです。

 

 

 以下引用

 <広島、長崎をはじめ、日本の各都市を焼き払ったB−29。半世紀も前に退役した銀色の機体が亡霊のように蘇った。

 米テキサス州の小都市ミッドランドの空港で、十月九日、十日の両日にわたって開催された「航空ショー」。

 主催は同地に拠点を構えるCAF(記念空軍)という民間団体だ。CAFは、第二次世界大戦で使われた軍用機を飛行可能な状態で後世に残す為、一九五一年に創立された。

 百四十機以上を保有する同団体の中で、ひときわ存在感を放ってきたのが、「FIFI」(フィフィ)という愛称が付けられたB−29である。

 老朽化のため、五年前の飛行を最後に引退したが、全米からの募金、ボランティアによる作業で再生され、テキサスの空に舞い戻った。

 略)

 突如、けたたましいサイレンが鳴り響き、日本海軍機(レプリカ)が侵入してきた。

 ショーの目玉が始まったのだ。

 「穏やかで平和なホノルルの朝に日本軍が突然、不意打ちを仕掛けてきた!

 トラ・トラ・トラ、タイガー・タイガー・タイガー!」

「リメンバー・パールハーバー」

 と進行役が絶叫。

 引き続き、東京初空襲、ドゥーリットル隊のB−25による爆撃、派手な火柱が上がる。

 次々と当時の米海軍機が登場し、各海戦で米軍が勝利していく様子を再現。

 これだけでも日本人の神経を逆撫でするには充分だったが、最後におよそ正視に耐えない場面が待っていた。

 B−29が上空に姿を現す。 

進行役が語り出したのは、原爆投下についてだった。

爆弾倉の扉を大きく開けた機体が頭上を横切る。息を呑む観衆。と同時に、地上で巨大な火柱が上がり、それがおどおどろしいキノコ雲の形に姿を変えていく。

 観客からは大きな拍手。

 最後に台詞が流れる。

「一九四五年、日本に原爆が落とされた。それは第二次大戦を終結に導き、日米両国の何万人もの命を救った」

 ここには、原爆によって、無抵抗な一般市民が二〇万人以上も殺された、という視点が全く欠落している。

それ以前にも米軍は無差別爆撃を繰り広げ、その主役はまさにB−29だった。そういった事実を知らせようともせず、また知ろうともしないアメリカ人たち。

 六歳と十二歳の子供をつれた母親は、二年前にショーに来た時、B−29のために二十ドルを寄付した。

「今回、飛ぶ姿を見せる事ができて、子供達が歴史を理解するにはすばらしい教材だと思ったわ」

 昨年、オバマ大統領は、

「核兵器なき世界の実現」

 を表明したが、それは、

「おそらく私が生きている間にはできないだろう」

 という留保つきで、今月来日の際にも、広島、長崎訪問の予定はない。

 背後には原爆投下を正義だと捉え、その歴史観を受け継ぐ米国民がいる。

 我が国政府は、日米同盟の深化を伝々する以前に、こういったショーを止めさせるべきではないか。>

引用終わり

週刊新潮(平成二十二年十一月十一日号)巻頭カラーグラビア記事より

 

  

 

 過去に<エノラ・ゲイ(原爆投下にみるアメリカ人の感覚)>として、平成十九年十一月十二日の日記に書いた事がありますが、米国は広島、長崎の原爆投下が第二、第三番目の「実験」として行われたという事実です。

 以下はその日の日記に書いた事と一部重複いたしますが、ご了承ください。

 アメリカではエノラ・ゲイ航空日誌が四一〇〇万円もの大金で落札されていますが、どうして、このようなものに四〇〇〇万円以上もの値段がつくのか。そのわけは、日本に落とした原爆をアメリカ人がどのように考えているか。それにより答は導かれます。

(時事通信社平成十九年十月三十日記事 ※1)

 

 広島に原爆を落としたボーイングBー29・エノラ・ゲイ号は、現在、スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。スミソニアン博物館の設立趣旨は「我国(アメリカ)の航空及び宇宙飛行の発展を永く記憶にとどめ、歴史的に興味深く意味のある航空及び宇宙飛行機器を展示し、その歴史を研究するための歴史的資料を提供する」となっている。(この博物館の設立を提唱したアリゾナ州選出上院議員バリー・ゴールドウォーターの議会公聴会での言葉)

 この趣旨に沿って、ライト兄弟の「ライト・フライヤー号」、リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」、アポロ十一号などが展示されている。

 つまり、エノラ・ゲイは歴史的に意味のある記念すべき飛行機であるとしているのです。

「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山政之著p百五十一〜百五十三

 同書によると、一九九九年の暮れに、同じアメリカのUSA・TODAY紙がバックアップするメディア博物館「Newseum(ニュージアム)」が「二〇世紀に起こった百大ニュース」という全米のジャーナリスト、シンクタンク研究者、大学の政治、近代史関係教授などの専門家を対象に行なわれたアンケート結果で、第一に「広島、長崎への原爆投下」となっています。それにより日本が降伏したからだそうですが、これがアメリカ人の考え方です。

 ちなみに第二位は「アームストロング人類初めて月面に立つ」、第三位「日本、パールハーバーを奇襲」です。

 「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」p 百四十八〜百五十

 高山氏がネバダ州にあるエネルギー省の核実験サイトを訪れた時、アメリカ政府核実験リストを見る機会があり、それには一九九四年現在までのアメリカが行なった七二四回に及ぶ核実験が、日付け順に記載されていたそうで、下記のようになっていたそうです。

 第一回、実験地 ニューメキシコ州アラモゴルド、核爆弾の種類 プルトニュウム型、実験タイプ 塔の上に固定。

 第二回、実験地 ヒロシマ、核爆弾の種類 ウラン型、実験タイプ 空中投下、規模一・五トン、状況 戦時下。

 第三回、実験地 ナガサキ、核爆弾の種類 プルトニュウム型、実験タイプ 空中投下。

「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」p百五十三〜百五十六

 アメリカにとっての広島、長崎への原爆投下は「人体実験」であり、無差別殺戮だったということをアメリカ政府が自ら認めているわけです。

 

 原爆投下についての森重昭氏の著書「原爆で死んだ米兵秘史」には下記のように書かれています。

以下抜粋

「マンハッタン計画」において、責任者グローブスを中心とした目標選定委員会は昭和二十年(一九四五年)五月十一日になって、京都、広島、横浜、小倉の四都市を選び出し、翌十二日、この四都市に対して通常の空襲を禁止する命令が出され、二十八日、前回決定した四都市から横浜と小倉を外し、替わって新潟を加えた。

 目標都市は京都、広島、新潟に絞られた。

 五月下旬、スティムソン陸軍長官は、原爆投下に関するトルーマン大統領の諮問機関として民間人からなる暫定委員会を作り、これにオッペンハイマーを含む科学者を加入させた。六月一日になって暫定委員会は次の三項目を大統領に答申した。

 

  一、爆弾はできる限り速やかに日本に対して使用すべき事。

 二、それは軍・民「二重の」目標に対して使用すべき事。

 三、攻撃は特別な警告無しに行うべき事。

 七月二十二日、京都の替わりに長崎を加えるようにと指示が出た。

 

 命令書に下記のように指示されている。

<合衆国戦略軍司令官 カール・スパーツ将軍へ

 一九四五年七月二十五日

一、第五〇九混成群団は一九四五年八月三日ごろから以降、目標広島、新潟、長崎のうちの一つに、最初の特殊爆弾を投下するものとする。陸軍省から派遣した軍と民間の科学者要員を輸送し、同爆弾の爆発効果の観測と記録を行わせるために、原爆投下機に別の機を随伴させることとする。この観測機は、爆弾の爆発地点から数マイルの距離にとどまることとする。

二、略)

三、略)>

 この七月二十五日という日付はボツダム宣言発表の前日である。

 そして、原爆の投下訓練として、七月二十日から八月十四日にかけて、我が国に対し原爆の模擬爆弾であるパンプキンと呼ばれる五トンもの巨大爆弾が目標都市周辺に四十九発も投下されることとなる。

 これにより、茨城県日立大津、東京駅八重洲口側、神戸市須磨区、新潟県柏崎市、山口県宇部市、京都府舞鶴などで千八百名以上の死者がでることとなった。

 <広島が無傷であることがそれを理想的な目標とした。この事は原子爆弾が与える被害を正確に評価するために必要であった。この都市の大きさも、一つの重要な選定要因であった。事前のデーターによれば、原子爆弾が及ぼす被害は半径七千五百フィート(約二・五キロ)と信じられた。市の中心に照準点を置く事により、予期される被害の円は南部のドック地域を除く広島の殆ど全域を覆った>

「米軍資料 原爆投下の経緯」奥住喜重・工藤洋三訳 東方出版

以上

「原爆で死んだ米兵秘史」p五十四〜六十二より抜粋

 手元の他の本には下記のような記述もあります。

 <標的選定委員会は最初の選択として、京都、広島、横浜の各都市および小倉市内の軍需工場一ケ所を核攻撃することを勧告した。アーノルド将軍は北九州北部に位置する小倉をとくに支持した。というのは、小倉と本州はトンネルで結ばれているので、トンネルが水没するのかどうか、どの程度激しく漏水するのか、および原爆のなんらかの効果が北側の入口に伝わるかどうかといったトンネルに対する原爆効果を、アーノルドは見たかったのである

「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」P二〇二

、<兵器技術に対する陸軍航空軍の血迷った関心は、炸裂効果を見極める関門トンネルに原爆の爆風を送り込みたいという期待によく表されているように、人道的犠牲は実験の持つ軍事的価値にまさるかどうか、あるいはそもそもそれと比較評価できるものかどうかといった核兵器が提起する道義的問題に無関心を示唆していた。

略)

 戦中戦後の陸軍航空軍の指導者たちの行為や声明を検討してみると、彼らは本当のところ、自分たちの行為の道義的次元を認識しており、日本国民に対しておこなったことについてさまざまな正当化を図っていたことがわかるのである。

「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」P二一一〜二一二

 

 こういう事実は、アメリカ人がよくいう「大東亜戦争を終わらせるために原爆を投下した」という言葉がいかに虚しい言葉であり、ウソであるかをよく現しています。

 エノラ・ゲイの爆撃手だった故トーマス・フィリピー氏の家には看板があり、そこには、

<一九四五年八月六日、日本の広島に原爆を落としたエノラ・ゲイの爆撃手トーマス・フィリピー大佐の家>と書いてあったそうである。

「原爆で死んだ米兵秘史」P百六十三

参考引用文献

「週刊新潮」(新潮社 平成二十二年十一月十一日号)

「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」(高山政之 廣済堂 平成十三年刊)

「アメリカの日本空襲にモラルはあったか」(ロナルド・シェイファー著 深田民生訳 草思社 一九九六年刊)

「原爆で死んだ米兵秘史」(森重昭 光人社 平成二十年刊)

※1 <エノラ・ゲイ航空日誌、4100万円で落札=原爆投下の時間記述?米 (時事通信)

【ニューヨーク29日時事】1945年8月に広島へ原爆を投下した米B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の航空日誌がこのほど、テキサス州ダラスの競売商ヘリテージ・オークション・ギャラリーズで競売に掛けられ、35万8500ドル(約4100万円)で落札された。同社が29日、明らかにした。

 この航空日誌は、エノラ・ゲイの搭乗員だったセオドア・バン・カーク氏が記述。一番左に通過地点が地名や経緯度で、次いで通過時間が同機の出撃したテニアン島の現地時間で記されている。

 「Bomb Away」(爆弾投下)の欄には、原爆投下の時間を示す「0915 15」(日本時間午前8時15分15秒)と鉛筆で書かれている。右の余白には10時52分(同9時52分)に「Cloud Gone」との記述もあり、帰還中の同機からは1時間半以上にわたって原爆のきのこ雲が見えていたことが分かる。 

[時事通信社]

[ハ2007年10月30日9時22分 ] >

 

 今日は朝起きて、ゆっくりと風呂に入った後、銀行に行っただけで、何処にも行かずに一日中部屋でゴロゴロ。

 写真は途中にあった気違いの巣。

 ぞぞ〜

 

 朝鮮人にだまされて、単なるアホじゃねえか!


長谷川酒店日本酒セミナー「九平次」

11月7日日曜日晴れ ○

 午後二時半より浜町で開かれた長谷川酒店による日本酒セミナーに参加させていただく。

 今回は「九平次」蔵元久野九平治氏によるセミナー。

 メインのテーマは酒米について。

 なぜ、山田錦が一番なのか、

 酒の醸造過程での必然性から、

 どうして、その後、山田錦を超える品種が開発されないのか(できないのか)まで、

 私のような者にも理解出来るようにわかりやすく説明してくださり、配られた資料も非常に整理されており、私にとって大変ありがたい有益な時間でした。

 まあ、来ている料飲店の中には寝ている者や、質問の内容が余りにも???というような人もいたが・・・・・

   

 その後、新宿の東急ハンズへ行き、金箔を購入後、またもや一週間ぶりに新宿スポーツセンターへ。

 今日は時間もあり、三時間めいっぱい滞在し、メニューを消化。

 店に寄った後、帰宅。

 何もする気にならず、風呂に入った後、マンガの本を布団で寝っころびながら眠たくなるまで読み、そのまま寝る。


11.6  「自由と人権 アジア連帯集会」 & デモ

11月6日土曜日晴れ △

 仕込みを終えてから、 日比谷野外音楽堂で開かれている<11.6  「自由と人権 アジア連帯集会」 デモ>に参加のため日比谷公園へ。

 着いた時には凄い人。

 

 

 

 其の後、午後三時四十五分よりデモ開始。

 その時に、当店のお客様であるわ。さんから携帯に着信。

 「今何処ですか?」

  今から第一悌団で出発です。

 「じゃあ、後で」

 私は今日の営業もあるので、第一悌団に入れていただく。

 その時に、西村眞悟氏に挨拶をさせていただいたが、握手してくださりながら、

「おおっ、今日は大阪に帰らなあかんね。ドンチャンでけへんね」

 流石・・・・

 次回にでもドンチャンを。

 今回は四千五百人ものデモ参加者だったそうですが、警察の指導により十二悌団に分けられていたので、参加者ほどの迫力はなかったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 普通の方が普通に参加されていて、支那人たちのアホなデモと違って規律と誇りあるデモだったと思います。

   

 外国のマスコミは来ていたようだが、支那、朝鮮の味方である我が国の腐れマスゴミは、この四千五百人が参加したデモを正確に報道するのだろうか。

 

 Oさん来店。

 わ。さん御夫妻来店。

 奥様に「今日は旦那さんに付合わされたのですか」と伺うと、今日のデモに参加しようと言い出したのはなんと奥様だったそうで。

 Sくん来店。

 Tさん御夫妻来店。

 Oさん二名様で来店。

 ドンチャン。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


 

流石はゴミども

11月5日金曜日晴れ ×

 福島瑞穂社民党党首

「車が道路でちょっとコツンとぶつかるような、あてて逃げるという映像だ。

(挑発行為は)離れてるし、分からなかった。反日デモがエスカレートしている状況だ。国民に公開することは慎重であるべきだ」

 小林興起衆院議員(民主党)

「向こうが逃げまどって、当たっちゃったということだ。

衝撃があるような当たり方じゃない。ぶつかる瞬間はカメラの位置からして見えない」

2010.11.1 21:52産経新聞

 流石は売国奴どもです。

 

「車が道路でちょっとコツンとぶつかるような、あてて逃げるという映像」

「向こうが逃げまどって、当たっちゃったということだ。 」

 

 下記のような映像を見てこのコメント。

http://www.youtube.com/watch?v=AZzR02rD7S0&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=P2qq-mDV1CY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=-5W5I0xkRsE&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=3k5IgLYp2YY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=hXI0DwLxOhA&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=uPMM6GHWRFw&feature=related

 どこが、コツンとぶつかるようなものか?

 どこが、向こうが逃げまどって、当たっちゃったということなのか。

 

 こいつらマジに死んでほしい。

 早速、その売国奴がコメント

 <【映像流出】福島党首「由々しき問題だ」(11/05 08:56)テレ朝ニュース

 尖閣諸島沖での漁船衝突事件で、海上保安庁が撮影したビデオとみられる映像がインターネット上に配信されていることについて、社民党の福島党首が「極めて本物に近い。由々しき問題だ」と話しました。

 社民党・福島みずほ党首:「予算委員会の理事会で見たものに極めて近い。国と国との間の未来を左右するかもしれないような重大なことが簡単に流出してしまうことが、日本の危機管理として極めて問題だと思っております」>

 こんなアホな奴らが国会議員じゃあ、命を懸けている海保の方たちはたまらんでしょう。

 まあ、福島氏といえば、朝鮮人戦時売春婦の擁護で同じ売国奴の土井たか子氏に目をかけられた御仁ですから。

 そういや、福島氏は御夫妻で三億円の貯金をお持ちだそうだし、同じように戦時売春婦を探し出して商売している高木健一氏も、売り上げがよくなったていい所に事務所を移したという話もあるし、仙石由人氏は日本で一番稼いでいたと自慢していたそうですから、人権派とかいわれている弁護士というのは儲かるんですね。

 ところで、支那人留学生が「窃盗で一本立ちしようと」というニュースがあったが、これも流石はゴキブリ以下のゴミ支那人だけのことはあります。

「空き巣で一本立ちしようと…」中国人留学生3人逮捕 防犯システム“研究”も

2010.11.4 12:16産経新聞

 民家に忍び込み現金を盗んだとして、警視庁捜査3課は窃盗などの疑いで、中国籍の私立大1年、施(シー)文(ウェン)波(ボー)容疑者(20)=東京都中野区中野=ら中国人留学生3人を逮捕した。同課によると、施容疑者は「4月まで指南役の中国人と空き巣をやっていたが、一本立ちしてやろうと思った」と容疑を認めている。

 同課によると、施容疑者は「仕送りだけでは生活が厳しかった」と供述。家電量販店でセキュリティーシステムの仕組みを“研究”するなどした上で仲間を募り、窃盗グループを立ち上げたという。

 施容疑者らは、住宅街で電灯が消えている留守の民家を物色。窓を破り侵入する際も、防犯システムの設置状況を入念に確認していたという。同課はJR中央線沿線で約20件、被害総額1500万円以上の窃盗を重ねたとみている。

 逮捕容疑は8月15日夜、杉並区の無職の女性(76)宅に侵入し、現金約51万円のほか、高級ブランドの財布や腕時計など計66万3千円相当を盗んだとしている。>

 普通、日本人の留学生が泥棒で学費を稼ごうと考える者は皆無だと思います。

 こんな人間のクズ、ゴミの支那人どもを、銭まで払ってまで増やそうとしている我が国はどこまでお人好しなのでしょう。

 

 ゴミはごみ箱へ。

 支那人は支那大陸へ

 朝鮮人は朝鮮半島へ

 随分前にネットにあった言葉ですが、

 正しさが実感出来ます。

 今日の築地本願寺の蓮

 

 写した後に、ひょっとしたらと思い、大きな瓶をのぞいてみると、

 

 

 やっぱりいました。

 

   

 

 今日の日刊ゲンダイ。

 

 流石に今日は小沢一郎氏の応援記事ではなかったです。

 バンブーさん来店。

 Tさん二名様で来店。

 Oさん来店。

 Kさん、Mさん来店。

 Iさん来店。

 ご近所の御夫妻来店。

 ドンチャン。

 記憶無し。


 

創価人民共和学会

11月4日木曜日晴れ ×

 河岸で気違い新聞と呼ばれている聖教新聞。

 それを、「今日は凄いわよ」と言いながらタダでおばちゃんが配っていったそうです。

 

 確かに凄いです。

    

   

 

 私には犯罪国家北朝鮮の気違いどもとオーバーラップして見えてしかたありませんでした。

   

 ところで、池田大作ダイセンセイは、

「見事でした。満点です」

というメッセージを寄せられたそうですが、何処でご覧になったのでしょう??????

 どういうわけか掲載されていた写真は十年も前の二〇〇〇年三月のものでした 。

 創価学会全体が痴呆症か??????

 

 せっかくの創立八十周年でしたのに・・・・・・・・

 横浜からNさん来店。

 Wさんご夫妻来店。

 ヒマだし早い時間からドンチャン。

 不燃物ゴミを出してあったが、記憶無し。

 サル。


元国会議員の記事盗用

11月3日水曜日晴れ △

 産経新聞の阿比留瑠比氏の記事をそのまま盗用した元国会議員の事が阿比留氏のブログに取り上げられていました。

雑誌論文にこっそり使われた尖閣関連記事について

 

 阿比留氏はブログにて実名をあげていませんが、この元国会議員というのは、WiLL緊急増刊 「守れ、尖閣諸島!」に掲載された<国難来る、西・北より来る>と題した塚本三郎氏の論文の事です。

 

 以下、阿比留氏のブログより引用比較させていただきます。

阿比留瑠比氏の記事 塚本三郎氏の論文
「白旗」を掲げて中国人船長を釈放した日本に、中国はどう応えたか。和解の握手を交わすどころか、くみしやすしとみて、図に乗ってきた 白旗を掲げて中国人船長を釈放した日本に対して、和解の握手を交わすどころか、くみしやすしとみて、図に乗ってきた
中国は弱い相手には、より強く出た 中国は、弱い相手には、より強く出る
「政治主導」を掲げる政権で、菅直人首相はじめ政権幹部には、決定的に発信力が欠けている 菅首相は「政治主導」を掲げながら、記者会見では、建前論を繰り返すのみで、決定的に発信力が欠けている
温家宝首相は23日の国連総会での一般演説で、国家主権や領土保全では「屈服も妥協もしない」と強調し、国際社会に明確なメッセージを発信した。国際社会では「沈黙は金」ではない。こんなありさまでは、尖閣諸島の歴史や事情を知らぬ諸外国に中国側が正義だという誤解を生みかねない 温家宝首相は、国連総会での一般演説で、国家主権や領土保全では「屈服も妥協もしない」と国際社会に明確なメッセージを発信した。国際社会では「沈黙は金」ではない。尖閣諸島の歴史や事情を知らない諸外国には、このままでは「中国側が正義だ」という誤解を生みかねない

阿比留氏も

<こっちとしては、記事の趣旨を広めてくれるのは歓迎だし、引用してもらうのは光栄でもあるわけだから、「産経も指摘している通り」だとか「産経も書いているが」だとか、一言添えてくれればなあというのが率直な感想です。>

と書かれているように、もう少し、普通にできないものか。

それとも朝鮮人がよく使う「ベンチマーク」とかいうわけのわからん言葉でごまかすのだろうか?

 今日は旗日だし、どうせ暇だろうと思っていたら、

 女性の方二名様にてご来店。

 Oさん二名様にて来店。

 Mさん四名様来店。

 それなりに一通り飲んだが、今日は珍しく記憶あり。

 サルよりはマシ。


 

思想によりアクセス禁止

11月2日火曜日曇り×

 以前にも書きましたが、エヌ・ティ・ティ・コミュニケーションズ株式会社66.6%、株式会社エヌ・ティ・ティ・ドコモ33.4%の株を持つエヌ・ティ・ティ レゾナント株式会社が運営する「キッズgoo」では、「酒たまねぎや」と検索すると(このページは、キッズgooではひょうじしていません。)となり、当店のホームページは表示されません。

 朝鮮総聯も表示されないが「朝鮮」と入力すると、朝鮮学校のホームページとともに「朝鮮民主主義共和国を正しく知るために」と書かれた日本キムイルソン主義研究会事務局のホームページが表示される。

 酒たまねぎや店主の思想はダメだけど、キムイルソン主義は思想的に許されるようです。

 その他、下記のようなものも全く表示されないか表示制限があるようです。

「支那人」

「せと弘幸」

「桜井誠」

「西村修平」

「在日特権」

「朝鮮人」

「電通 偏向」

「在特会」

「韓国人」

「韓国 犯罪」

「韓国 スリ」

「朝鮮 真実」

「中国人」

「反日マスコミ」

  ニュース以外は一部制限されているもの

「外国人犯罪」

そして、

「南京大虐殺」が表示されないが、「通州事件」「通州大虐殺」も表示されない。

「百人切り」も表示されない。

 しかし、「韓国人」「中国人」も制限するって凄い検索ページだと思って、「アメリカ人」「ドイツ人」でやっても同じでした。

「日本人」はいろいろ出てくるが、「日本人とは」は表示制限される。

 これも以前に書きましたが、Mixiにおいても言論封殺とも言える規制がされている。

 中宮崇氏が書かれているが、「日韓学生会議」なる団体がMixiにおいて、集会の呼びかけを行っていたが、現在もこの会議の顧問である伊藤亜人氏は村山富市氏(会長)、和田春樹氏(事務局長)、三木睦子氏(副会長)中江要介氏(顧問)といった売国奴とともに日本人拉致棚上げによる日朝国交正常化を訴えてきた「日朝国交促進国民協会」のメンバー(諮問委員)である事、その他、日本の学生に「歴史学集会」への参加を呼びかけていたのが朝鮮総連関係者だったりした事実を、中宮氏は自身のブログに書いた結果、なんとMixi事務局より「今後他ユーザー様や特定個人への攻撃及び中傷的な書き込みを行っていることが確認された場合はアカウント削除の処置をとらせていただくこともございます」と中宮氏の書き込みを中傷と決めつけた挙句に、事前事後の連絡もなく突然退会処分にされたそうです。

 中宮氏はMixiの言論統制についてはその他として、メンバー間のメールの検問や、メンバーが書いたブログの改竄などを指摘しています。 ブログの一部改竄は中宮氏も実際に被害をうけているそうです。

 「暗躍!平成日本タブー大全V」(宝島社)中宮崇氏「Google、Yahoo!、Mixiの報道されない検閲・規制」P202〜204

 

 そして、当店のお客様より伺った当ホームページへのアクセス禁止という会社。

 電通

 NEC

 三菱UFJ信託銀行

 電通の場合はアクセス禁止の原因も「思想」だそうです。

 ふ〜ん

 あほらし

今日の築地本願寺の蓮。 日刊ゲンダイ

  

Nさん、Tさん来店。

Sさん四名様で来店。

Sくん来店。 

Mさん二名様で来店。

ホロン部員Yさん来店。

Oさん二名様で来店。

ドンチャン。

記憶無し。

サル


寿司屋さん?

11月1日月曜日くもり△

 店を片付けて、八日ぶりに午後よりスポーツセンターへ。

 一応一通りのメニューを消化。

 

 トレーナーから注意されてもわからない朝鮮人のどうしようもないアホ二人組が来ていた。

 まともな朝鮮人留学生もいるのに・・・・・

 店に寄り、資源ゴミを出してから、大慌てで阿佐ヶ谷駅まで。

 七時四十分にSさん、マルガリータさん、愛ちゃん、姫、千鶴子さんと駅で待ち合わせだったが、ギリギリ。

 皆さんと久しぶりに阿佐ヶ谷のお寿司屋さんへ伺う。

 料理はおまかせ。

 刺身、鉄火巻き、干瓢巻きなど以外の珍味は石鰈の胆嚢の塩辛などちょっとお目にかかれないものばかり。

   

   

   

   

   

 

   

    

    

    

    

    

  

 今日は珍しく最後まで記憶あり。

 サルよりマシ。




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