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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成22年10月分

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


誕生日

10月31日日曜日曇りのち雨 △

 朝風呂に入り、マンガの本を読みゴロゴロと何もする気になれずに、夕方まで。

 夕方に店に行くと、早く開けろと本日一番めのお客様がすでにお待ちいただいておりました。

 

 俺も飲みたいと店の中まで入って来たので、「申し訳ございませんが、今日は貸し切りです」とお断りさせていただき、丁重にお見送り。

 七時過ぎより、香港でお世話になった姫の誕生会ということでドンチャン。

   

  

 乾杯はアンドレクルエ1911

 その後は、

 松の司 大吟醸 35% classic 創業150周年記念ボトル 20BY

 醴泉正宗 19BY

 初亀 亀

 磯自慢 山田錦40% 古家 21BY

 磯自慢 山田錦40% 常田 21BY

 磯自慢 山田錦35%    20BY

 初亀 出品酒

 バースイヤーワインとして、

 フェブレ ニュイ・サン・ジョルジュ プルミエクリュ

 など

 ありがとうございました。

 

 今日はドンチャンで飲んだわりには珍しく記憶あり。

 サルよりマシ。


台風

10月30日土曜日台風 ○

 今日は明日ご予約いただいているドンチャンの仕入れに河岸に行ったが、台風接近で、河岸への入荷はメチャ薄い。

 鯖などは内湾のものは全然入荷がなく、活けの烏賊も全くない。

 活けの烏賊は、明日はないだろうから仕入れとけと昨日の時点で仲卸さんから言われていたし、ウニ、活けの白身(今日はアズキハタ)、ツブ貝などは仕入れる事ができた。

  マグロも同様。

 

 肝心の営業の方はさっぱりで、電話も香港から明日のドンチャンのことで、姫からの電話があったのみで、後はチリンとも鳴らず、今年初めて十一時過ぎに切り上げて帰ったら、十一時三十分頃に携帯に美丈夫の蔵元である濱ちゃんから「やっとらんの」と電話あり。

 

 やはり、商売で手抜きしたらいかんです。

 決めた営業時間は守らんと。

 と、いうわけで今年二回目のオチャピー。


 

マグロのウロコ

10月29日金曜日くもり

 写真は百円玉よりデカイ二百三十キロのジャンボ鮪の鱗。

   

 一緒に写っている人物は無視してください。

 ちなみに、河岸でジャンボ鮪というとでっかい鮪の事ではありません。

 ジャンボジェット、つまり海外から航空便で運ばれて来た鮪の事で、たとえ六十キロの鮪でも、三百キロの鮪でもジャンボと言います。

 ジャンボの場合は、エラ、ハラワタだけでなく、頭も落として運ばれてきますので、二百三十キロの場合、マルだと三百キロ近くになるのではないでしょうか。

 先週は三百四十キロのジャンボがあったそうですので、マルだと四百キロ以上?

 今日の築地本願寺の蓮 日刊ゲンダイ

  

 Sくん来店。

 室長さん来店。

 Tさん来店。

 大野さん、Yさん、Eさんと来店。

 営業終了後、大野さんがバッグを忘れてきたとかで、「アンブラ」さんに四人で伺う。

 ドンチャン。

 今日は記憶あり。


 

売国奴・岡崎トミ子

10月28日木曜日雨 ×

 ソウルにて、日の丸に×を書いた朝鮮人戦時売春婦とともに我が国の大使館に向って拳を振り上げてデモをした売国奴の岡崎トミ子が、元売春婦朝鮮人どもに銭を恵んでやる必要があるとほざいたそうです。

 

以下引用

岡崎国家公安委員長、元慰安婦への金銭補償「検討していかなければならない」

2010.10.28 18:34産経新聞

 岡崎トミ子国家公安委員長は28日の参院内閣委員会で、韓国人などの元外国人慰安婦について「名誉や尊厳を回復する措置をしっかりとしていきたい。(金銭支給も)含むものとして検討していかなければならないと思う」と述べ、新たな個人補償を検討したい考えを示した。

 政府はこれまで、先の大戦にかかわる賠償、財産、請求権の問題はサンフランシスコ平和条約と2国間条約で対応しており、新たに個人補償を行うことはできないという立場を堅持してきた。岡崎氏の発言はこれを大きく逸脱している。

 岡崎氏は平成15年2月、ソウルの駐韓日本大使館前で、韓国の慰安婦支援団体主催の反日デモに参加。民主党が野党時代には、元慰安婦に日本が国家として謝罪と金銭支給を行うための「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を繰り返し国会に提出していた。

 自民党の西田昌司氏への答弁。

引用終わり

 大東亜戦争中の我が軍の慰安婦については何度も書いていますが、一番多かったのは日本人です。

 なぜ、その人たちは朝鮮人慰安婦と同じような訴えをしないのか。

 当時、売春は我が国においては合法でした。

 そして、慰安婦の人たちは大金を稼いでいました。

 朝鮮人売春婦も同様に稼いでいました。

 それは今でも同じです。

 「韓国 デリヘル」とネットで検索してみてください。

 山ほど出てきます。

 

 今日も南朝鮮は世界十三位の経済大国ニダ。日本は二位から滑り落ちたニダ」と誇らしげな記事があったばかりです。

以下引用

<韓国、来年は世界13位の経済大国に...日本は「ビッグ2」から外れ

中央日報日本語版10月28日(木)11時30分配信

韓国が来年、世界13位の経済大国になる見込みだ。

米国と中国のグローバル経済「ビッグ2」構図は今年から定着し、韓国と日本の経済力格差は5年後に4.7倍に縮まると予想された。

28日の国際通貨基金(IMF)の中長期展望によると、韓国の今年の国内総生産(GDP)は9863億ドルで主要20カ国・地域(G20)のうち14位だが、来年は1兆563億ドルで13位に上がった後、2015年まで続くと分析された。

略)

一方、昨年までは米国と日本がグローバル経済のビッグ2として君臨したが、今年は中国がGDP5兆7451億ドルで初めて日本(5兆3909億ドル)を抜き、米国(14兆6242億ドル)とともに世界経済をけん引すると評価された。こうした傾向は2015年まで続くと予想され、今後、日本が世界2位の経済大国の地位を取り戻すのは事実上不可能とみられる。>

引用終わり

 このような(自称)経済大国の豊かな南朝鮮から「誇り高い」はずの朝鮮民族がどうして我が国に不法就労である売春を現在でもしにくるのか。

 稼げるからです。

 ましてや、残念な事に、戦前は我が国も身売りがありました。

 

 豊かになった今でも売春は稼げる一つの手だてには間違いありません。

 慰安婦の事で騒いでいるアホ日本人、アホ朝鮮人どもは上野、鴬谷などの朝鮮人売春婦どもをきれいに始末してから文句を言ってほしいものである。

 しかし、こんなアホを国家公安委員長にしたカラ管の責任は重い。

 

(上森清二氏撮影)

 アホ鳩も「国益の為に頑張る」とかほざいているそうだが、国益を考えるのであれば、カラ管、岡崎を道連れにサッサと死んでくれ。

 

(上森清二氏撮影)

あほらし

 小胡子さん来店。

 Tさん三名様で来店。

 Iさん来店。

 Kさん二名様で来店。

 Mさん来店。

 ドンチャン。

 記憶ありと思ったが、やっぱサルだったようで、カウンターで寝てました。


気違い宗教・池田創価学会が外国人地方参政権に一生懸命になる理由

10月27日水曜日くもり△

 憲法が政教分離を打ち出しているのは、特定の宗教が政治権力を利用し、布教を有利に進めたり、他宗教を害したりしない為であるが、創価学会は公明党を作り、長期間政権の一端を占めてきた。

「われらが政治に関心を持つゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち国立戒壇の建立だけが目的なのである」

戸田城聖(巻頭言集)

 「創価学会は宗教団体であり、公明党は政治団体である。ともに日蓮大聖哲の教えを奉じ、王仏冥合を目指す私どもの同体異名の団体であります」

(池田会長全集・一)

 

 創価学会の狙いは、このように政治と酒興を一致させる事にあり、その結果として国立戒壇をつくる事を目指したのです。

 

 その池田大作氏の出生は謎が多く、その真偽は不明であるが、先祖の墓の場所も不明で、大田区の海苔漁師の朝鮮人が両親ともいわれている。

 その出生伝説ゆえか、朝鮮に対しての思い入れは深く、池田氏は十三年前の平成九年に南朝鮮(韓国)にその想いを表す碑を建てています。

 写真はネットにあったものを拝借いたしました。

 これには、下記のように刻まれています。

 碑文

 安らけき朝の光に 貴国を想う

 古の書に「東表日出之国」と謳われ

 山高く 水麗しき 風雅の国

 東海の小島へ 重畳の波浪超え

 あまたの文化 文物をもたらし

 尊き仏法を伝え来りし 師恩の国

 隣邦を掠略せず 故郷の天地 守り抜く

 誉の獅子の勇たぎる 不撓の国

 然れども 世紀の災禍いくたびか

 小国の倨傲 大恩人の貴国を荒らし

 大国の横暴 平和の山河 蹂躙す

 アボジ(父)、オモニ(母)の叫喚は

 我が魂に響き その傷み須臾も消えず

 不思議なるかな今 悲劇の祖国に

 巍巍堂堂たる地湧の同胞 湧き出で

 韓日新時代へ 敢闘の前進を開始せり

 敬愛せる貴国の友人いわく

「心をとざして相対すれば戦いとなり

 胸襟を開き相語れば平和となる」と

 過去を忘却せず 現当へ誠信尽くし

 人道と正義の 大いなる旭日昇る

 韓日友好の「新しき千年」築かん

 無窮花の如き 馥郁たる幸と平和の楽園

 アジアと世界へ永遠に拓かん と誓いつつ

 一九九九年五月三日 池田大作

 朝鮮は「山高く水麗しき風雅の国」であり、

「あまたの文化文物をもたらし尊き仏法を伝え来た師恩の国」であり、

「隣邦を掠略せず天地を守り抜く誉の獅子の勇たぎる不撓の国」であるが、

我が国を「東海の小島」そして、「小国」と表現し、

その小国が倨傲し、大恩人の貴国(韓国)を荒らしと書く。

 流石は、すばらしき、池田氏の朝鮮に対しての想いです。

そして、池田大作氏は来日した韓国仏教会代表メンバーに対し、

「韓国は日本にとって『文化大恩』の「兄の国」である。『師匠の国』なのである。その大恩を踏みにじり、貴国を侵略したのが日本であった、故に私は永遠に罪滅ぼしをしていく決心である」と語ったという。

(平成十二年(二〇〇〇年)五月二十二日付聖教新聞より)

 その後、金大中政権当時の南朝鮮政府は、その暴力的派閥抗争により非合法化されていた創価学会の現地組織「韓国仏教会」に対して、財団法人設立の許可を出した。

 これにより、かって禁教とされていた創価学会が、南朝鮮により合法的な組織として認められる事になった。

 それは当時、南朝鮮大統領であった金大中にとっても都合の良いことであった。

 これは、池田氏と金大中氏との密約によるものであると言われています。

 朝鮮に対して熱き想いをお持ちの池田大作ダイセンセイに、これよりさかのぼる事三年前の平成九年(一九九七年)に大統領選挙出馬前の金大中氏が公明党幹部の藤井富雄氏に会い協力を求めている。

 それは、韓国創価学会の会員は、朝鮮の嶺南地方に数多く居住している。大統領選で、この地域から金大中氏が予想以上の票数を得た理由とされている。

 この密談は、古い友人である原田重雄氏が斡旋したとあり、『金大中総裁から「何とか頼んでくれ」という連絡があった。大統領選の約一年前、金総裁が訪日。韓国への帰国を控えた早朝8時に面会した。原田マンション(原田氏の所有)の事務所で面会した。公明党の首脳は、周囲の目に触れぬように、裏口から密かに入ってきた。私(原田)と金総裁夫妻が、公明党の首脳と会った』と原田氏の証言があります。

引用先

博士の独り言 朝鮮日報社の月刊誌「月刊朝鮮」(2002年5月号)記事

http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-1080.html

 結果、南朝鮮の創価学会員は当時有権者は六十〜八十万人といわれていたそうだが、金大中氏がハンナラ党の李会昌候補に約三十万票の僅差で勝った。

 創価学会票が金大中氏に大きくプラスになった事は間違いがないのだろう。

 この原田重雄氏は金大中氏の大統領就任式にも民間人それも日本人としては異例だと思うが、招待されていることが産経新聞の記事にあったことを私(木下)は記憶しています。

 原田氏は高田馬場において多くの不動産を所有し、金大中氏が我が国に潜伏していた時に援助していた方です。

 其の後、平成十四年の南朝鮮有力三代紙である『中央日報』『東亜日報』『朝鮮日報』の八月十五日版に朝鮮創価学会への「批判広告」が掲載され、その中には「政府に流された約二億円」の不正疑惑まで綴られていたという。

 そして、池田公明党は外国人参政権法案を独自提出まで韓国大使に表明しています。

<公明党の山口那津男代表は20日、都内で韓国の権哲賢駐日大使と会談し、26日召集の臨時国会に永住外国人地方参政権付与法案を党独自で 提出することを表明した。>

MSN産経ニュース平成二十一年十月二十日

 ちなみに、相互主義と叫んでいる連中の根拠となっている南朝鮮においての永住権を持つ日本人は五十九人(平成十六年)であるが、そのうち、外国人地法参政権対象の日本人はわずか十数人だそうです。

 

<韓国地方選挙:中国人も初投票、中華街に候補者 

韓国で5月31日に行われた統一地方選挙で、外国人に対して初めて選挙権が与えられた。華人6516人にも選挙権が付与され、多くの人が投票所に足を運んだ。 6月1日付で東方早報などが伝えた。 野党・ハンナラ党の圧勝で終わった今回の統一地方選挙では、韓国に居住する約20万人の外国人のうち、6726人に選挙権が与えられた。内訳は大陸系の 華人が5人、台湾系の華人が6511人、日本人が51人、米国人が8人などだった。 >

2006/06/01(木) サーチナ

 このように南朝鮮において外国人地方参政権はたった、六五一一人のみに与えられたものです。

 我が国において、一部の地方では在日朝鮮人のその地域に占める割合が異常に高い。

 例えば、住民に一番外国人が占める割合が多い大阪の生野区は、区の総人口一三三八三五人のうち、外国人登録者数は三二一三七人であり、約二十四%が外国人でありそのうち朝鮮人は二九八五八人を占め、約九十三%が朝鮮人です。

(生野区ホームページより平成十九年十二月末現在)

http://www.city.osaka.lg.jp/ikuno/page/0000000434.html

 その次は横浜の中区の十一%弱です。

 外国人参政権の認められていない現在でさへ、当店のある新宿区においても、議員三十七人のうち創価学会公明党は最大派閥の九名を占めます。(次は自民党の八人)

 新宿区の前回選挙において、最大得票当選者は三三万四千票以上の自民党候補者であり、二位も同じく自民党の29万強です。最小得票当選者は無所属候補の一四〇〇票弱です。

 組織の強い創価学会は一人の例外を除き、すべて二千票代で当選して、ただひとりの落選者もいません。

 

 これはどういうことか。

 創価学会は地方においてこそ、その組織力を発揮しやすくなり、今後、もし外国人地方参政権が認められれば、今以上に首長選挙、地方議会に与える影響は大きい。

 つまり、創価学会、公明党にとりこの上もなく有利になる。

 創価学会はその政治において影響力を増すという目的の為にもぜひとも外国人地方参政権には反対の立場はとらないのである。

 現在我が国において、国防のための首長の協力および判断を求める項目が多くあり、その地域において参政権を持った外国人が多く占める場合は、首長の判断に影響を与えるのは想像に難くない。

 

 西村眞悟氏はかって自民党よりもタカ派といわれた民社党出身であるが、

その時代に先輩議員より

「世の中で、正しいことをみつけるための手間のかからない便利な方法がある。それは、社会党を見ていることだ。社会党が反対していたら賛成するのが正しい。賛成していたら反対するのが正しい」

と言われたと書かれていたが、私は社会党、今の社民党とともに公明党もそうであると思う。

 公明党にとって守るべき第一は国民でなく、池田大作氏であるからである。

 そのような腐れ宗教政党は我が国にとって百害いや千害、万害あっても一利もない。

 あほらし

 

 写真は昨日、河岸の場外で写したもの。

  

 十月十六日・・・・・

 終わってるもんをいつまでも・・・・

 Oさん来店。

 Mさん二名様で来店。

 三人でいろいろと固有名詞が出てこないのを嘆く。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

朝鮮半島日本統治時代における在内地朝鮮人の各種議会立候補者数

10月26日火曜日くもり ○

「定住外国人の地方参政権」(徐龍達 編 日本評論社 平成四年刊)

 この本には相変わらずの朝鮮人による醜い嘘が平気で書かれているが、非常に興味深い記述もある。

 それは、下記に引用させていただいた十二ページに掲載された旧内務省警保局資料と記された在内地朝鮮人の各種議会立候補者数です。

種別
衆議院
県会議員
市議会議院
区会議員
町会議員
村会議員
その他
合計
1929年

立候補

落選

1931年

立候補

落選

1932年

立候補

当選

1933年

立候補

当選

落選

15(3)

11

27(3)

16

1934年

立候補

当選

落選

1935年
立候補

当選

落選

1936年
立候補

当選

落選

12(1)

10

10

29(1)

23

1937年
立候補

当選

落選

43(2)

37

6(1)

10

17

12

82(3)

25

54

1938年
立候補

当選

落選

13

11

1939年
立候補

当選

落選

21

16

1940年
立候補

当選

落選

28

23

44

44

74

68

1941年
立候補

当選

落選

1942年

立候補

当選

落選

66

13

50(3)

17

12

117

38

76(3)

注)表における( )内の数字は立候補したが、棄権した者

 旧内務省警保局よるこの資料は、我が国において国会議員として二回当選している朴春琴氏以外にも立候補した朝鮮人がいた事、地方議会にも朝鮮人が議員として進出していた事が判る貴重な資料だと思います。

 ましてや、以前にも書きましたが、朝鮮半島においては朝鮮半島においては、警察官は、警務官→警視→警部→巡査→巡査補となっていたが、併合間も無い一九一〇年末における日本人と朝鮮人との割合は下記の通りであった。

 朝鮮半島においては、警察官は、警務官→警視→警部→巡査→巡査補となっていたが、併合間も無い一九一〇年末における日本人と朝鮮人との割合は下記の通りであった。

?

警務部長

警務官

警視

警部

巡査

巡査補

合計

日本人

一三 

三〇

一六七

二〇五三

二二六五

朝鮮人

〇 

一四

一〇一

一八一

三一三一

三四二八

合計

一三

四四

二六八

二二三四

三一三一

五六九三

「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店(中川氏は「総監府時代の財政」友邦協会p一二二より引用)

 つまり、上級職である警務官と警視の三割は朝鮮人であった。これは先の官吏について同じ事であるが、日本の朝鮮統治が「日本の警察による支配」といく批判が的外れであることを意味する。このように、併合間も無い時期ですら警察幹部の三分の一が朝鮮人であり、その朝鮮人幹部の下に日本人警察官の警部、巡査がついていた事がわかる。また、警察の末端だけが朝鮮人であったということも間違いである事がわかる。

 武断政治といわれている我国の朝鮮統治がウソである事が良くわかる。

 朝鮮には一三の道(県)があり、知事ポストの約四割が朝鮮人でした。(終戦時には五)

 例えば、江原道の知事ポストは李圭完から終戦時の孫永穆まですべて朝鮮人でした。一三道の日本統治時代の全知事総数一二五名のうち日本人知事は七六名、朝鮮人知事は四九名と三九%が朝鮮人が占めていました。 ちなみに、知事に直結して朝鮮の民情をすくいあげ具申する任務の特殊副知事ともいうべき参与官は一三道すべてが朝鮮人でした。

 慶尚北道の一九三二年(昭和七年)一月現在の県知事は朝鮮人であり、四名の部長(内務部、産業部、財務部、警察部)のうち産業部長は朝鮮人。そして、四つの部にいた部長以外の日本人官吏は一九四名。つまり、三名の日本人部長もその他一九四名の日本人官吏も、朝鮮人知事に仕えていた。

 一九四〇年の朝鮮総督府における朝鮮人高級官吏の実態として  内務局には局長以下三一名の高級官吏のうち三名が朝鮮人。財務局は局長以下一三名のうち一名が朝鮮人。学務局は局長以下一九名のうち三名が朝鮮人であった。学務局の三名の朝鮮人高級官吏のうち一名は視学官という高官であった。

 その他の例として京城履審法院の一三名の判事のうち二名が朝鮮人、京城地方法院二八名の判事のうち三名が朝鮮人、京城地方法院検事局の検事一四名のうち一名が朝鮮人であった。

 学務局の最高ポストである学務局長として李軫鎬が一九二四年から二九年まで就いている。

 朝鮮半島における地方行政機構は、道知事の下に、日本の市にあたる府、日本の町と村にあたる邑と面、邑と面を統括する郡があった。一九一七年において、一四府、一二八郡、五一邑、二三七四面であった。済州島と鬱陵島のみ島庁をおき、島司を任命していた。この島司は郡守と同格であった。

 準・議会が道、府、邑にそれぞれあり、一九三一年(昭和六年)より府会、邑会、一九三三年(昭和八年)より道会といった。議長はそれぞれ道知事、府?(市長)、邑長が兼ねるために完全な三権分立的な議会でないが、議決機関であった。村にあたる面の面協議会は諮問機関であり、準々・議会といってもよいものであった。

 道会議員の三分の一の議員は官選、三分の二の議員は、府会、邑会、面協議会の議員が選挙した。道会議員の内訳は日本人が四分の一、朝鮮人が四分の三がおおむね基準であった。

 例えば、一九三二年における京幾道の道会議員三七名中、日本人は一〇名で朝鮮人が二七名であった。

 このように朝鮮半島における地方議員の多くは朝鮮人であり、朝鮮人対日本人というような多数決になれば日本人は敗れるしかなかった。

 郡守、邑長、面長は、ほぼすべて朝鮮人であった。(郡守、邑長にごくわずかの例外あり)

 朝鮮半島に移民してきた日本人は朝鮮人の郡守、邑長、面長の統治下にあったといってよい。

  このような状態で、強制連行が行う事ができたと思う方が狂っている。

 朝鮮半島における在日本人は特権というものが無かった。一九三七年より配給制と朝鮮半島もなってきたが、塩、砂糖などの配給で日本人と朝鮮人との差別はなかった。キムチのために朝鮮人に塩を多くし、日本人には砂糖を多くするなど公正な調整がされていた。

 配給の行列ですら日本人、朝鮮人の区別なく一緒に並んだ。

 

 国会議員、県会議員、などの特権を朝鮮人が有していたのである。

 そして、朝鮮半島においてはその地方自治体のトップである知事の四割が朝鮮人だった。

 当然、日本人はその下に使えていたのである。

 朝鮮人が一方的に差別されて来たというのは間違いである事がよくわかる。

 参考文献

「定住外国人の地方参政権」(徐龍達 編 日本評論社 平成四年刊)

「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店

「別冊一億人の昭和史 日本陸軍史」毎日新聞社昭和五四年刊

「月刊正論」平成一五年三月号 p五二〜五三

 

 写真は今日の築地本願寺の蓮と日刊ゲンダイ

  

 

 

 今日は木枯らし一番が東京でも吹いたそうで、遅い時間は冷え込んだ。

 一名様来店。

 Hさん二名様で来店。

 今日は飲む元気もなく、サッサと寝る。


野中広務と亀井静香

外国人地方参政権について

10月25日月曜日くもりのち雨 ×××

 野中広務氏について

<民族のアイデンティティーも民族の稔侍も日本的徳目も日本的価値観も、野中氏という人間の中には存在しない。>

と自身の著書で書いたのは尾山太郎氏であった。

「自民党・創価学会亡国論」(三笠書房 平成十三年刊)P六十

 尾山氏その著書に下記のようにも書く。

<野中氏は、中国・朝鮮半島に頭を地にすりつけるほど詫びても足りないという考えの持ち主で、この点は池田大作氏と寸分の狂いもない程の一致を見せる。>同書P六十七

 当然の如く、池田大作氏と同じように亡国法案である外国人地方参政権についても野中氏は自民党にあって熱心な推進派であった。

 

 そして、いまや国民新党にあって外国人地方参政権反対の急先鋒と言われている亀井静香氏なども外国人地方参政権推進派であった。

 亀井静香氏は公明党と連立を組んでいた当時の自民党にあっては少なくとも外国人の帰化手続き簡略化を言い出すまでは外国人参政権推進派であった。

 

 平成十二年六月の総選挙に先立ち、当時の自民党選挙制度調査会会長であった与謝野馨氏は在日外国人地方参政権制度につき下記のように見解をまとめている。

<一 憲法第十五条は、どのように解釈しても外国人に参政権を予定していない。

二 地方公共団体も国家の統治体制の一側面(したがって、地方だからよいという理屈にはならない)

三 被選挙権と選挙権は分割して付与出来ない(選挙権を与えれば必ず被選挙権を与える事になり、外国人の首長が誕生する可能性がある)

四 地方公務員の選挙権は日本国籍を持つ者に限られる。>

 同じく、平成十二年八月二十九日の自民党総務会において、当時の村上正邦参議院議員会長が、

「外国人参政権付与は憲法違反である」と強い反対意見を述べた。

 これに対して、亀井氏は、

「村上さんも戦時中、地元(福岡県)の炭坑で朝鮮の人達がどれだけひどいことをされたか知っているでしょう。だったら、償いの意味でやったらどうですか」

 (平成十二年九月三日付朝日新聞)

 

 野中氏は、

「反対論があるならば、最終的に党議拘束を外す事も考える」

と述べたのに対し、

 奥野誠亮氏、中島眞人氏が

「憲法には日本国民に選挙権を与えると書いてある。党議拘束を外す事は慎重であるべきだ」

 と反論した。

 これに対しても亀井氏は、

「反対する気持ちはわかるが、この法案の成立には与党の連立合意が盛り込まれている。党の対応は政調(政務調査会)で決まる。」

と説得した

(平成十二年八月二十九日付け共同通信配信)

 この野中氏と亀井氏の行動について、尾山氏は著書の中で下記のように述べています。

<国家の主権を揺るがす法案を、過去への償いや同情心、「連立時の合意」を錦の御旗に強引に通そうとする国籍不明の政治家が連立与党の中枢に巣くっている>

「自民党・創価学会亡国論」(尾山太郎 三笠書房 平成十三年刊)P九十六

 

 亀井氏は現在帰化条件をさげて帰化しやすくする事により、外国人地方参政権の問題をクリアしようとしているが、目先が変わるだけで本質的な問題は何も解決しない。

  KSD事件により実刑判決を受けた村上氏についてはいろいろな意見があるであろうが、私は阿比留瑠比氏のブログにある皇族より贈られた花が村上氏の人なりを現していると思います。

http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/537634/

 今日は店に寄り資源ゴミを出した後に、めぐ蔵さんと焼き鳥「文ちゃん」に伺う。

 其の後、「エムズバー」さん、「イデアル」さんとハシゴ。

 全く記憶無し。

 サル以下。

 


ガマ

10月24日日曜日曇りのち雨 ○

 今日は先週、Oさんのご好意で赤券にて入場出来た自衛隊の観閲式本番です。

 アホ管とバカ北の面など自衛隊の皆様は見たくもないでしょう。

 店を片付けてから、高田馬場に行く。

 芳林堂さんに寄り、雑誌数冊と店の中に入っている古本屋さんで「天皇の孤島 日本進駐記」(オーテス・ケーリ編訳 サイマル出版 平成九年刊)を購入。

 その後、スポーツセンターに行く。

 今日は時間もあるので、三時間めいっぱい滞在し、一応予定していたメニューとチューブを使用した新しいメニューを消化したが、有酸素運動をやる時間がなかった。

 店に寄ったところ、ガマが入り口の所にチョコンと居座っている。

 

 今年初めて見るガマでした。

 例年でしたら、雨のときは必ずといっていいほど、普段は何処にいるのだというほど目につくガマですが、今年は今日まで一回も見た事はなかったです。

 東京都のレッドデータブック

http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2010/06/DATA/60k6u300.pdf

に数が減少と掲載されたというニホンヤモリは、毎年花壇の水やりを夕方にやっている時に見かけたのですが、今年は一度も見た事ないです。

 

 写真は平成二十年に当店の店先で写したヤモリ。

 部屋に帰り、すぐに風呂に入った後はマンガの本を布団の中で読んでいたら、そのまま灯をつけっぱなしで寝ていました。

 酒は飲まず。


ワイン会

10月23日土曜日晴れ △

 今日は三時より予定していたワイン会が七時からということで、結局Yさん、御友人の方、Oさんの三名様+後半にHさんが御参加ということでドンチャン。

 空いたワインは予定より二本少なく、

 

 赤ワイン

NO.1グリーノック・クリーク ヴィンヤード&セラーズ

  アプリコット・ブロック・シラーズ2005

NO.2エルダートン シラーズ "コマンド" バロッサヴァレー 2004

NO.3トライーニ「アル・パッソ2006」

NO.4リュック・ティエンポン ゼド

NO.5メルヴィル シラー "ヴァーナス" サンタバーバラカウンティ 2008

白ワイン

NO.6メルヴィル シャルドネ "エステート"サンタリタヒルズ2008

 一番評判が良かったのは、

NO.2エルダートン シラーズ "コマンド" バロッサヴァレー 2004

 つぎに、

NO.1グリーノック・クリーク ヴィンヤード&セラーズ

アプリコット・ブロック・シラーズ2005

 の順番でした。

 

 平常営業ということで、

 大阪より神林さん、台湾より眞下さん来店。

 Wさん御夫妻と御友人の方Wさん来店。

 Sくん来店。

 二名様来店。

 大野さん来店。

 遅い時間にMさんKさんなど小学校時代の御友人の皆様と四名様で来店。

 土曜日なのに、ワイン会の皆様四名様+平常営業のお客様十三名様の合計十七名様ということで大忙し。

 多くのお客様のご来店でしたが、めぐ蔵さんがお手伝いにきてくださっており、洗い物、お客様のご注文など対応してくださり大助かり。

 そして、大勢の方が御来店いただき、ワイン会の写真はすっかり撮り忘れてました。

 ドンチャン。

 忙しかったので、飲む時間が小刻みになり結果として記憶は珍しくあり、サルよりマシ。


 

やはり腐れ売国奴の岡崎トミ子

10月22日金曜日晴れ ×

 腐れ売国奴の岡崎トミ子についての今日の産経新聞のネット配信記事です。

以下引用

岡崎公安委員長「反日デモは国益にかなう」 民主は質問取り下げ求める

2010.10.22 20:35産経新聞

 岡崎トミ子国家公安委員長は22日の衆院法務委員会で、自身が通常国会の会期中の平成15年2月、ソウルの在韓日本大使館前で韓国の慰安婦問題支援団体主催の反日デモに参加したことについて、「私は国益にかなうという思いを持っている」と強調した。菅直人首相はこれまで「本人は過去の言動に配慮に欠けた面があり、誤解を招いたことを深く反省している」(6日の衆院代表質問)と答弁しており、閣内不一致の様相を呈している。

 岡崎氏はデモで韓国人参加者と大使館に向かってこぶしを振り上げた。現場には日の丸に「×印」をつけた看板も並べられていた。

 岡崎氏は「私の活動が『反日』だといわれたことが誤解だ」と主張「×印」付きの日の丸については「後方にあったので気付かなかった。日本の国旗国歌を尊重することは大事だと考えている」と弁明。デモで訴えた内容については「人間の尊厳回復を訴えた」と述べた。

 質問した自民党の稲田朋美氏は「日本の国会議員として適切ではない。(岡崎氏が)日本の治安のトップにいることは不適切だ」と厳しく批判した。

 これに先立つ法務委理事会では、民主党側が稲田氏の岡崎氏への質問通告の内容が「法務委になじまない」として質問取り下げを求めた。自民党側は「国政にかかわる重要な話だ」と反論。稲田氏に質問させないなら委員会を流会にすべきだと主張し、最終的には民主党側が折れた。

引用終わり

 <岡崎氏は「私の活動が『反日』だといわれたことが誤解だ」と主張。「×印」付きの日の丸については「後方にあったので気付かなかった。日本の国旗国歌を尊重することは大事だと考えている」と弁明>

 このくそババア!

 めくらか!

  

 

 この×を書いた日の丸が見えないはずはありません。

 

 それだけでなく、我が国大使館に向って朝鮮人戦時売春婦の嘘つきババアどもと共にマイクを持ち抗議をしています。

 

 ×を書いた日の丸を背に我が国の大使館に向って拳を振り上げて抗議しています。

 

 

 反日そのもののこの行動のどこが国益にかなっているのでしょう。

 気違いとしか思えません。

 こんな売国奴が我が国の国家公安委員長なのです。

 

 まあ、法務大臣も最重要危険人物と公安がチェックしていた千葉景子氏だったし、危険人物となっていた福島瑞穂氏も大臣、同じく危険人物とされていた辻元清美氏も副大臣だったし、仙谷由人氏は全共闘の活動家だったし、民主党比例代表候補トップ当選した相原久美子氏は自治労北海道本部副執行委員長、自治労中央執行委員だった。

 金田誠一氏は元自治労函館書記長、峰崎直樹氏は元自治労北海道本部調査室長、高嶋良充氏は元自治労書記長、日教組では輿石東氏は元山梨県教組委員長、水岡俊一氏は元兵庫県教組書記次長、佐藤泰介氏は元愛知県教組委員長、那谷屋正義は元日教組教育政策委員長、神本美恵子氏は元日教組教育文化局長。

 真っ赤かの民主党です。

 こんなアホどもが我が国の与党なのです。

 こんな売国奴が国家公安委員長だったら、現場の人は大変だわ。

 お察しいたします。

 本来は監視されるべき人物が、トップになったのだから公安資料はダダ漏れだろうな。

 そりゃあ、支那、朝鮮総聯、民団は大喜びだわ。

 岡崎トミ子に天誅が下されん事を祈っています。

 売国奴は早く死んでくれ!

 

 バンブーさん来店。

 浜松からYさん二名様で来店。

 ドイツに明日から行かれるそうな。

 初めてのお客様来店。

 Oさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


飲んべえの会 (醴泉正宗の垂直)

10月21日木曜日晴れ △

飲んべえの会(醴泉正宗九年間の垂直)

11月20日土曜日

午後3時より6時まで

6時半より平常営業のつもり(成り行き)

会費15,000円

定員15名様

出品予定酒

NO.1 醴泉正宗 純米大吟醸 35%  20 BY
NO.2 醴泉正宗 純米大吟醸 35%  19 BY
NO.3 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    18BY
NO.4 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    17BY
NO.5 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    15BY
NO.6 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    14BY
NO.7 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    13BY
NO.8 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    12BY
NO.9 蘭闍待   大吟醸 35%   21BY

 

今回は醴泉正宗の12BY(ファーストヴィンテージ)よりの九年間(八本)の垂直の会となります。

なを、醴泉正宗の平成十七年(16BY)は製造されておりません。

12BY〜18BYの醴泉正宗は当店にて寝かせてあったものです。

19BYは現行の醴泉正宗になり、20BYの醴泉正宗はまだ発売されていないものですが、

今回の会のために出荷していただけることになりました。

醴泉の蔵元である山田社長と、どういうわけか、磯自慢蔵元の寺岡社長も参加くださる予定です。

軽いおつまみは用意させていただきます。

事故等により一部お酒が変更になる可能性がある事をご了承ください

その場合は、同等の違う年などのお酒を出品させていただきます。

ご出席いただける御客様は、メールまたはお電話にて店主まで御知らせください。

どうぞよろしく御願いいたします。

 メチャヒマ。

 Hさん来店。

 初めてのお客様二名様来店。

 テーブルに座られたこのカップルのお客様、すぐにお互い携帯を取り出し、ピコピコ始める。

 時々、しゃべる以外は店にいる間ず〜とやっていた。

 何が楽しゅうて、二人でいてピコピコ携帯をず〜といじってなければいけないのか。

 アホか。

 もう来ないだろうが。

 

 

 今日はあまり飲んでいないので、

 営業終了後、醴泉正宗の在庫チェック。

 以前に、まだ早稲田の酒いわしや時代に酔っぱらって在庫チェックをやっていて、義侠H2BYを五本割った事がありました。


現代画報

10月20日水曜日くもりのち一時小雨 ×

 夕方、「現代画報と申します。お店の経営者のかたいらっしゃいますでしょうか」という電話あり。

 どういったご用件でしょうか。

 「取材についてですが」

どういった取材でしょうか。

「独自の対談取材をする全国版の経営情報誌でして・・・・・」

どういうわけで、うちの店なのでしょうか。

「今度、東京ナウという企画でしてフカワトシカズさんがインタビューアーとして伺いまして・・・」

だれ、それ?

「フカワトシカズさんです。」

知らんな。でっ、どういうわけで、うちの店を取材されるのですか。

「ですから、弊社の企画・・・・」

それ、金とるんでしょ。

「はあ、料金はかかります」

あのさ、普通はそんなのは経営情報誌ではなくて、単なる広告雑誌、いや掲載費を集るだけの会社でしょ。

お断りいたします。

というような電話の応対でした。

以前にも書きましたが、国際通信社つうところがやっているカモから金を取ってインタビュー記事というマスタベーション文を掲載している雑誌です。

参照→ 国際ジャーナル・報道ニッポン・現代画報

あほらし

メキシコ・グアダラハラでお世話になった長島さん四名様で来店。

Sさん二名様で来店。

Yさん来店。

Wさん御夫妻来店。

ドンチャン。

記憶はあったと思ったが、鍵もかけずに、カウンターで寝てました。

サル。


 

四四二連隊

米議会勲章追記

10月19日火曜日晴れ △

 以前に書いた四四二部隊についての追記になり、重複箇所がある事をご了承下さい。

 第四四二連隊(第442連隊・442nd Regimental Combat Team)に対して、最高位の米議会勲章が授与というニュースが随分前にありました。

以下引用

<第2次大戦の日系2世部隊に最高位の米議会勲章

2010.10.07 Thu posted at: 13:50 JST

ワシントン(CNN

 オバマ米大統領は5日、第2次世界大戦で米国のために戦った日系2世部隊に議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した。同勲章は、米国で民間人に与えられる最高位の勲章。

式典にはハワイ出身のダニエル・イノウエ上院議員など、存命の元部隊兵が出席した。

法案は、日系2世部隊の第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績をたたえる内容。442連隊は、フランスのボージュ山地で包囲されていた大隊を救出した功績などが知られる。

米国に移住した日本人の子孫である2世は、当時反日感情が高まる中で差別を受け、米国に残してきた親族は強制収容所に収容されていた。兵士の多くは収容所で行われた募集に志願したという。

イノウエ議員は1945年に少尉として小隊を率い、イタリアで敵の軍と戦ったが、この時の負傷で右腕を失った。これまでに名誉勲章、青銅星章、パープルハート章などを受章している。

ハワイ出身のダニエル・アカカ上院議員は「日系米国人が民族性のみを理由に不当に抑留される中、この勇敢な男たちはわが国を守るために志願した。その勇気は戦争の勝利のみならず、より寛大で公正な国家への道を開く役割を果たした」との談話を発表した。>

 引用終わり

 日系二世部隊である四四二連隊及び第百大隊は、米陸軍史上最も重要だった「十大戦闘」の一つに数えて、ペンタゴンの壁に永久表彰画として掲げる第三六歩兵師団第一四一歩兵連隊(元テキサス第一連隊、アラモ連隊の異名をとる)第一大隊救出など多くの犠牲を出しながら、多大な戦果を挙げ、米国陸軍史上最強の部隊と讃えられています。

 

 名誉勲章(Congressional Medal Of Honor:メダル・オブ・オナー)

 一回の作戦につき師団の中から一人にのみ贈られる最高の勲章であり、名誉勲章受章者に対しては、相手の階級に関係なく自分から敬礼し答礼を受ける事が慣例となっています。

四四二連隊では唯一サダオ・ムネモリ上等兵に与えられたのみであった。

 (サダオ・ムネモリ上等兵=第百大隊A中隊、終戦まで後僅かの昭和二十年四月五日、投げ込まれた手榴弾に覆い被さり自らを犠牲とし二人の米軍兵の命を救った。二十二才)

 その後、二〇〇〇年六月二十一日、当時のビル・クリントン大統領は人種差別があったとの理由から第二次世界大戦の叙勲を見直しを断行し、

殊勲十字章受賞者十九名を格上げし名誉勲章枠に入れて表彰した。

 四四二連隊の勇士と遺族はホワイトハウスに招待されて、クリントン大統領より直々に名誉勲章を贈った。

(他に中国系一人、フリピン系一人)

ジョー・S・サカタ軍曹(第百大隊B中隊)を足して二十一名の受章者となっている。(米Wikipediaでは George T. Sakatoとなっている。)

 

Barney F.Hajiro

Mikio Hasemoto

Joe Hayashi

 

Shizuya Hayashi

Daniel K.Inouye

Yeiki Kobashigawa

 

Robert T.Kuroda

Kaoru Moto

Sadao Munemori

 

Kiyoshi.K.Muranaga

Masato Nakae

Shinyei Nakamine

 

William.K.Nakamura

Joe M. Nishimoto

Allan M. Ohata

 

James K. Okubo

Yukio Okutsu

Frank H. Ono

 

Kazuo Otani

George T. Sakato

Ted T. Tanouye

 

日系米軍部隊の戦功の見直しには五十五年もの歳月が必要だった訳です。

  第二次世界大戦中の日系二世部隊に対しての不当な扱いというものがよくわかる事例です。

一回の作戦において師団からたった一人にのみ贈られる最高の勲章が一つの連隊で二十一名もの兵士に贈られたのである。

 第二次世界大戦に限れば、四六四の名誉勲章のうち二十一名が第百大隊・四四二連隊であった。

 

 その名誉章授与式で、クリントン大統領は

「日系二世部隊の父母達は出征する息子達に、

 生きられるなら生きてくれ、

 死ななければならないのなら死んでくれ、

 だが、常に名誉を保って戦い、

 家族と国家に決して恥をもたらすな、

 と言った。

 国家が正しく扱わなかった人々に

 これ程まで仕えてもらった事はかってなかった」

 と述べた。

 

  

 

このクリントン大統領が述べた日系二世出征時の日系一世の言葉は「ハワイ日系米兵」にいくつか具体的に書かれています。

そのひとつ、

アーネスト・ウノの手記より

<クリスタル・シティで家族が合流した後、私は父からの英文で書かれた長い手紙を受け取った。

 それには、父の忠誠心は日本の天皇にあり、祖国へ帰る事が運命である、と父が心から信じている事が書かれてあった。

 しかし、私が米国国民として陸軍に入隊したからには、軍人として恥ずかしくないようベストを尽くし、戦場では死を賭けて懸命に務めるようにと忠告された。

 父にとっては、生き恥をさらして帰ってくるよりも、

死んで国に忠義を尽くすことこそが英雄であり、最大の誇りであったのだ。

 父は国のために死なないならば、それは家族の恥であると書いてきた。

 私は父の言うとおりにしようと思った。

 そして、私自身に「さようなら」をつげたのであった>

「ハワイ日系米兵」P一三二

 このアーネスト・ウノ氏(Emest UNO 宇野アーネスト)は、大正十四年(一九二五年)米国ユタ州、ソルトレーク・シティ生まれであり、アマチ収容所に強制収容されたが、昭和十八年(一九四三年)八月四日、四四二連隊に志願する。

 その訓練中に、母、二人の弟、妹たちが、アマチキャンプを出て、父親のいるクリスタル・シティのキャンプに合流する。

 このクリスタル・シティのキャンプは国外追放に値する敵性外国人の収容所であった。

 アーネスト・ウノ氏の父親は、家族を連れて日本に帰る事を嘆願していたのである。

 上記の手紙は、その父上からの収容所からの手紙である。

 ウノ氏はヨーロッパ戦線に従軍し、帰還した時点で長期休暇が与えられたが、ウノ氏の帰る家は無く、制服に受章した銀星章を胸につけて、ウノ氏が向った先はクリスタル・シティのキャンプであった。

 米国の為に戦ったウノ氏にとっての「帰郷 ホームカミング」とは、強制収容所に入れられたままの家族に対して、「ただいま」という無事を知らせる挨拶をすることであった。

 

 戦争が終了後に除隊したが、 戦争が終わった後も、家族はまだ強制収容所に入れられたままで、昭和二十二年九月にやっと解放されている。

 「家の恥になるな」と題されたサミュエル・ササイ氏の手記より

 <両親に相談せず、私は二世部隊に志願し、晴れて米国陸軍四四二連隊の兵士となった。

 一九四三年三月二十四日、私はサミュエル・ササイ二等兵となったのだ。

 私が出征する前日、家族と別れの食事をした。

 私は両親に「さよなら」と言い、母は硬い表情のまま「気をつけていってらっしゃい」と言ってくれた。

 母がどんなに怒っているかわかっていた。私はたった一人の息子でありながら、それを承知で、行かなくともいい戦争に志願したことを怒っていたと思う。

 でも、母は怒りを抑えて、私を送り出してくれた。

 訓練中、基地に母からの手紙が届いた。

 その手紙には、母の心情が日本語で書かれてあり、

最後に

「星の旗をよく守りなさい。

 笹井の家の恥になる事をしたら、聞きません」

 と結んであった。

 それ以後、母は決して私に手紙を書いてこなかったが、姉がいつも手紙をくれた>

 「ハワイ日系米兵」P二一二

  サミュエル・ササイ氏(Samuel Y .Sasai 笹井サミュエル豊)

 大正十三年(一九二四年)、 オアフ島ハレイワ生まれ、

 ハワイ大学、ペンシルバニア大学卒業。昭和十八年(一九四三年)三月二十四日入隊。四四二連隊第三大隊本部所属。

 上等兵、銀星章、紫心章受章。

 サミュエル・ササイ氏は、四四二部隊の兵士が必死で戦ったわけのひとつに「家の名に恥じない働きをしなさい」という両親による教育、忠誠心を叩き込んだ日本の修身のような教え、米国憲法に記載されている国民の義務(武器を持って国を守る)などとともに、「信頼」という言葉をあげながら、下記のように書いています。

<もっとも注目したいのは「信頼」である。

 それは我々二世が、アメリカ人でありアメリカの魂を持ったれっきとした市民だという事であり、それを証明するためなら死をも辞さないということだ。

 冒頭で、二世はこの国では将来が無い、と述べたが、

少なくとも我々が証明出来るのは、肌の色を問題にするのではなく、

いかにその国を心から思っているかということが大事だということだ>

「ハワイ日系米兵」p二一五

 そして下記のようにも書いています。

<二世兵士は米国の歴史の中で、批判された時期があった。

 しかし、今、私は自由のために戦うには、勇気ある行動と意志が必要であると信じている。

 恩や義理、忠誠といった考え方は、決して間違っていないと思う。

 これからも、この考え方が引き継がれていく事だろう。

 両親がいつも言い続けていたことは、「家の恥になるようなことはするな」ということだ。

 この考え方は、家族だけでなく友人やコミュニティー、そして国に対しても言える事である。

 よりよい世界や社会をつくるために努力するなら、決して恥などをもたらすことはないだろう。

 なぜ、あの戦いで強かったのかと尋ねられたら、私は答えるだろう。

 「二世がアメリカ国民であるからだ」と。

 戦友や私は、国の為にすべてを捧げることを最良と信じていた。>

「ハワイ日系米兵」p二一八

 

下記は、全米日系市民協会事務局長であったマイク正岡氏が、昭和十七年(一九四二年)一月にサンタアナで開かれた南加大会に参加し、語りかけた言葉です。

「私はアメリカを信じ、アメリカもまた私を信じるものと確信する。

 豊かな恩恵に浴するがゆえに私はどこでも米国の体面を保ち、憲法を守り、米国の良き市民となるべく誠心誠意その義務をまっとうすることを誓う」

 彼は二世の信条をその一年前に発表している。

 「自分は日系米国市民であることを誇りとする。

 日本人としての背景を持つ身であるが、一層米国の市民であることに誇りを感じている」 

 この書き出しで切々と訴えた信条は、日系人の魂を代弁したものと目された。

「棄民たちの戦場」p二二〜二三

 しかし、日系人は強制的に収容所に送られたのである。

 同じ枢軸国であったイタリア系、ドイツ系移民たちは何もお咎めなしであった。

 このような覚悟のもと、日系人の名誉のため日系二世の人々は戦った。

 そのため、米陸軍史上最強の部隊の一つに数えられるが、最大の死傷率を誇る。

 殊勲十字章五十二、

 殊勲章一、

 シルバー・スター章五百八十八、

 功労章二十二、

 銀星樫葉章十二、

 銅星樫葉章三十八、

 銅星章五千二百十、

 パープルハート(従軍負傷章)九千四百八十六、

 仏殊勲十字章十二、

 仏功労十字勲章二、

 伊戦争功勲章二、

 大統領部隊感状七、

 軍団感状三十六、

 師団表彰八十六、

 衛生部隊感状二、

 殊勲部隊感状五、

 戦闘従軍章(部隊)七、

 

 その他にも

 上級歩兵戦闘徽章と歩兵戦闘徽章、衛生徽章があり、多くの日系二世兵士が受章している。歩兵徽章をもらった兵士には、毎月十ドルが給与に加算される仕組みとなっている。

 

大統領部隊感状は、個人に与えられる名誉勲章に匹敵する最高位の部隊表彰で、連隊旗、大隊旗に吹き流しとして着用される。

 所属兵も、金色で囲んだ青色リボンを右胸ポケット上に飾るならわしがある。

 

 戦死傷者、将校二百六十五人、兵卒九千九百六十八人にのぼる。

 「個人勲章獲得総数・全米軍部隊中一位」

 「累積死傷率三百二十%・全米軍部隊中一位」

 「名誉負傷勲章獲得者・全米軍部隊中一位(一人あたり平均二個)」

という前代未聞の凄まじいものであった。

 

 栄光の部隊名は、米国陸軍予備役として現在残る唯一の陸上戦闘部隊である第四四二歩兵連隊第一〇〇大隊として継承され、ハワイ州兵の第二十九歩兵旅団戦闘群に所属している。

 もちろん、日系米国人兵士だけの部隊ではないがハワイという土地柄日系人が多いそうである。

 

 ダニエル・イノウエ大尉が立つ四四二部隊を讃える顕彰碑には日本語で「殉国碑」と刻まれている。

  

 今、我が国においても外国人永住者の処遇が問題となっている。国籍法改正により外国人との間にできた子供は認知により日本国籍を取得が可能となった。

 支那は現在、日本に行く支那人に対し、そのような子供を支那本国にて養育するように指導している。

 国籍が日本であっても中身が支那人の日本人が出来上がるのである。

 堂々と自衛隊、警察、役人になることができるのである。

 我が国が他国との戦争になった時に、その人たちはどのような行動に出るのであろうか。

 「友愛」だけで済まない問題がそこにある。

 今日はメチャヒマ。オチャピーかなと思っていたら、Yさん来店。 

 遅い時間にYさん四名様で来店。

 支那のアホどもについて、皆さん怒り心頭。

 ドンチャン。

 記憶あり。


気違いから

10月18日月曜日晴れ ○

 今日、パソコンに

差出人   qazxswrfvbgt123@あほ.co.jp

送信日時 2010年 10月 18日 月曜日 0:21 PM

宛先   butatunagari-daisakutokinn@tamanegiya.com

件名   謝罪

<こんにちは。
あなたのホームページに、
http://www.tamanegiya.com/ninngennnogomi22.7.9.html ←これらのメールを送ったのは私です。
これらのメールの内容は、まったくの嘘です。すいません。
木下さんに迷惑をかけるつもりは少しもありません。
ほんの冗談で書きました。許してください。>

というメールが届いていました。

 迷惑をかけるつもりはないと書きながら、脅しメールをレンタルサーバー先にまで送る。

 アホとしか言い様がない。

 そいうや、先日も創価学会の馬鹿信者から

<唐突に申し上げます。
私達は池田先生のことを神様だとは思っておりません。
 
師匠とさせて頂いております。 
あなた達のような方々がどんなに池田先生の事を批判なさっても、
先生は決して負けません。
私達も断じて負けません。
以上です。>

というメールがあったが、

普通の感覚だと、宗教人からもっとも遠い存在の権力欲、名誉欲など俗物の権化である池田大作氏を師匠と思える人間がいる事が異常な事だろう。

 

 先日(十月十五日)の気違い新聞で「私は何があっても信義を貫く」という池田大作氏の言葉が紹介されていたが、そんな池田ダイセンセイが永遠の友情を誓いあったのが、コロンビアの麻薬販売組織「メデジン・カルテル」に便宜を図っていたということで、アメリカ検察局から懲役一四五年の求刑がされたノリエガ将軍です。

 ノリエガ将軍を指導者として絶賛し、友情を大切にする池田ダイセンセイらしく、創価学会白糸研修道場にノリエガ庭園を造り、石碑には「パナマ共和国フラメンコ島に『池田展望台』が設置されたことに鑑み、日パ両国の友好親善の固き絆として、ここ多宝富士大日蓮華山を望む白糸研修道場の園を『ノリエガ庭園』と命名するものなり」と刻まれていました。

 その信義を重んじる池田大作ダイセンセイはそのノリエガ将軍が逮捕されたら、その永遠の友情の証を慌てて撤去しました。

 どうしてなのでしょう。

 池田大作ダイセンセイは

「私は何があっても信義を貫く」

 はずではなかったのでしょうか。

 あほらし

 店の資源ゴミを出してから帰宅。

 今日は何もせずに、マンガの本を読んでゴロゴロと一日を過ごす。

 酒は飲まず。


 

自衛隊観閲式

10月17日日曜日晴れ △

 朝起きて、金曜日にOさんから頂いたチケットを持って朝霞まで。

 自衛隊の観覧式の予行演習パレード。

   

   

 

 携帯のバッテリーが途中で切れたので、戦車などの写真は撮れませんでした。

 それにしても、いや〜、かっこよかった。

 それが正直な感想。

 Oさんに感謝。しかし、パンフレットに観閲官が管で、主催者が北澤になっていた。どうしようもないアホ二人。

 午後二時より東京フォーラムで開かれた長谷川酒店主催による酒セミナーにめぐ蔵さんと参加。

 今日は出羽桜の中野益美社長によるセミナー。

 

 今年は出羽桜「桜花」が一九八〇年に発売されて三十周年ということで、スペシャルバージョンを出すそうです。

 店に寄った後、高田馬場に移動し、焼き鳥屋さんで時間をつぶした後、久しぶりにカヴェルナさんに伺う。

   

 ドンチャン。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


十四代の会

10月16日土曜日晴れ ××××

 土曜日の午前中にスポーツセンターへ行く。

 今日もベンチプレス以外はそれなりのメニューを消化。

  

 台湾より雅ちゃんも参加してくださり、午後三時より十四代の会。

 

   

 そのまま営業突入。

 ホロン部員Yさん来店。

 Kさん二名様で来店。

 Hさん来店。

 営業終了後、ホロン部員Yさんともう一件ということで、イデアルさんに伺う。

 ドンチャン。

 記憶無し。

 サル以下。


10月15日金曜日晴れ △

 Oさん二名様で来店。

 Wさん御夫妻来店。

 Mさん二名様で来店。

 で、ドンチャン。

 記憶あり。

 今日はサルよりマシ。


「我が父チェ・ペダル」に見る空手修行の嘘

10月14日木曜日くもり ×××× 

大山倍達氏の南朝鮮の御子息が書いたとされる「我が父チェ・ペダル」には、大山氏はいわゆる「全国空手道選手権大会」にて優勝したのち、自分の道場の看板を掲げたが、数日もしないうちに周辺の空手道場から続々と挑戦状が舞い込んだ。それも、大山氏が朝鮮人だからとタカをくくっての事だと書いています。

(「我が父チェ・ペダル」P一〇六)

 あまりにもその挑戦者の数が多く面倒になって全国行脚し道場破りをした事になっている。

 最初の犠牲者として、京都の名門、「二条道場」というところがでてきます。この道場には「二条十傑」と呼ばれる辣腕の弟子が十人もおり、いずれも空手界では名の知られた強者だそうです。

 その強者十人を十分余で倒し、副館長もたった一発で病院行きにしたそうです。

 そして、その一件は、目撃者たちの口によって瞬く間に世間に知られるようになり、翌日の新聞各紙は、出航の錨を上げた大山氏の全国行脚を次のような見出しで伝えたそうです。

<「空手界の宮本武蔵!二条道場を焦土化する。」

 「悪夢の巡礼者、日本中の空手界に挑戦。」

 「実戦空手の野獣、大山倍達。誰が彼を阻むのか?」>

 残念ながら、これらの「全国紙」の見出しはネットでの検索では見付ける事はできませんでした。

 もちろん「大山倍達正伝」にも掲載されておりません。ハイ!

 その後、二本貫手で電話帳だけでなく防具まで突き抜くことができる達人などを撃破後、最後は横浜に住む「空手の神仙」と呼ばれ、日本中の空手家から尊敬されている七十歳の空手家に試合を挑みますが、何度申し込んでも受けてもらえず、全国行脚は終わるそうです。

 この間、不意の襲撃に備えて日に何度も宿替えをしてさへ、毎晩のように石が投げられるという四面楚歌の中、全国を回ったそうです。

(あまりにもアホらしいので「我が父チェ・ペダル」P百八〜百十三をハッショリました)

全国行脚を終えた後、牛との格闘をやり、「猛」牛を倒します。

これにより、大山氏は人気者になるそうです。

以下引用

<素手で牛を殺した男。その評は、一気に父を日本中の人気者とした。ある年には、日本の青少年たちが尊敬する人物十人に父の名が挙がるほどだったというし、若者たちの中には父のヘヤースタイルやラフな服装を真似る者が続出したと聞く。>

(「我が父チェ・ペダル」P百十六そのままです)

(別にお笑いの為に書いてるとは思わないのですが、朝鮮人はともかく、大山氏のあのヘヤースタイルをまねるアホな日本人はいないと思います。・・・・)

下記のように続きます。

<だが、こうして大山倍達のカリスマ化が進む中、慌てた日本の武道界から声明が発せられた。

 彼等は、極真空手をあくまで邪道として非難したのだ。

 剣道界と柔道協会は父の牛との苦闘を評価せず、彼を武道界の邪悪な者と酷評した。空手界は、父が朝鮮国籍の人間であると御丁寧にも触れ回り、その実戦空手はチンピラのケンカとかわらないとまで罵倒した。>

「我が父チェ・ペダル」P百十六

 なんで、剣道界と柔道界が非難声明を出す必要があるのでしょう。

 もうアホかと。

そして、柔道家を「実戦勝負」で半身不随に追い込んだ大山氏はついに、天覧試合にて六連覇を成し遂げた柔道家からの挑戦を受けます。

会場は東京の「国技館」です。

<柔道チャンピオンの日本人と空手チャンピヨンの朝鮮人の対決は、人々の大きな関心を呼んだ。この話題性は、会場が東京の国技館に決定すると、さらに大きなものとなった。

 当日、国技館いっぱいに柔道チャンピオンへの声援がこだまする中、父は冷静に戦況を予測していた。

「相手は、自分より四十キロは重い巨漢。そしてサンボと柔道を得意としている。その利を活かすため、俺を掴まえてから極め技を仕掛けてくるに違いない」

 略)

 相手の足の指に全体重をかけ、力一杯踏みつけたのだ。

「ぐきっ!」

 なにかの折れる音が、大観衆が詰め掛けた国技館にこだました。

 柔道の達人の足の親指が折れたのだ。実戦では、胴や頭部などの急所を狙う以外に、手や足の指を骨折させただけでも相手は抵抗出来なくなる。

 足の指をやられた相手は、もはや重心を保てなくなっている。父は続けて、肘の強烈な一撃を相手のあごに入れた。あごがくるりと回り、大の字になってた俺、男はもう起き上がらなかった>

「我が父チェ・ペダル」P百二十二〜百二十三

 残念ながら、「国技館」で行われたというこのものすごい試合の記録も私の拙い力では発見する事はできませんでした。

 ただ、柔道の天覧試合としては

 御大礼記念天覧柔道大会(昭和四年五月) 

 皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会(四回戦進出者のみ)を対象とした(昭和九年五月四日〜五日)。 

 皇紀二千六百年奉祝天覧武道大会(四回戦進出者のみ)を対象とした(昭和十五年六月十八日〜二十日)

 ぐらいしか見付ける事ができませんでした。

 天覧試合六連覇とはどこの柔道家のお話なのでしょう。

 柔道家はこの「我が父チェ・ペダル」にも登場する、大山氏も柔道界最強の柔道家と認めている木村政彦氏ではなかったのでしょう?

 もうアホかと。

 

 その後、柔道チャンピオンとの対決から間もおかず、またもや挑戦状が送られてきます。

 今度は剣道高段者だったそうですが、それを真剣白刃取りで受け止めた後、相手のあごに二段蹴りを炸裂させ、悲鳴と共に二.三メートル吹っ飛ばします。

 これも、もう引用もアホらしいのではっしょりました。「我が父チェ・ペダル」P百二十五あたり

 暴力団から送り込まれたナイフを持った男を渾身の一撃で、殺してしまいます。

 その他にも、今まで戦った柔道家、剣道家などは障害者として生きていくしかなかったそうです。

 「我が父チェ・ペダル」P百二十六〜百二十七あたり。

 私闘や正当防衛で相手を殺したり片輪者にしても、不思議とどういうわけか警察のお世話にもなっていません。

 三十対一 武蔵野大決戦

 え〜と、なんと、「三十人対一人」という日本の武道界が揺れた決戦だそうです。

 もうすでに、今まででも随分揺れていると思いますが、まだ、揺らしたらなかったようです。

 <そして、ある日、日本の武道界が揺れた。

 空手の加藤七段を代表とした武道界の連合勢力が、父を断罪するとの声明を発表したのだ。断罪の名目として挙げられていたのは、日本各地の道場破壊行為や先の男(木下注 殺してしまった暴力団から送り込まれた刺客)の遺族との不適切な関係などなど。彼等は男の遺族との噂を非難する声を追い風に、目の上の瘤である父を葬り去ろうと画策したのだろう。

 父は怒った。

略)

 父は箱根山から戻るとすぐに加藤七段の道場を訪ね、武道界との連合勢力との対決を宣言した。

 決戦の場として定められたのは、武蔵野の荒野。父に対して、日本の武道界から最先鋭クラスの者たちが三十人以上選ばれたという。「武蔵野大決戦」の始まりだ。

 対決に先立って、父は決闘場所となる武蔵野の荒野を下見した。地勢や障害物を調べ、戦いのイメージトレーニングをするためだ。

 そして数日後、決戦の場に立った父の前には、実戦派の沖縄空手の修練生十余人と、剣道のある一門の上位弟子八人、天覧試合で優勝した柔道家ら七人の顔があった。>

 「我が父チェ・ペダル」P百三十二〜百三十四あたり。

 アホらしいからめちゃはっしょりまして、大山氏はすべてノックアウトして勝ちます。

 まるで、宮本武蔵と吉岡一門です。数も同じぐらいだし。

もうどうでもええです。

 アホらしくなってきましたので、このアホ本からの引用は止めます。

 このアホな本は「我が父チェ・ペダル」という大山氏の子息たちのよって書かれたとして朝鮮で出版され、我が国でも翻訳出版され、大山氏の後継者と「された」松井章圭氏が推薦文を書いている。

<本書は、傑出した武道家であり、教育者である大山倍達と韓国の息子が紡ぐ、すべての親と子へ捧げる愛の記録である>

と、

 もうアホかと。

 Oさんお二人様で来店。

 Sくん来店。

 営業終了後、「アンブラ」さん、「エムズバー」さんとハシゴ。

 記憶なし。

 サル以下


 

大山倍達の嘘

全日本空手道選手権大会優勝という嘘

10月13日水曜日曇りのち一時雨

大山倍達氏が優勝したと「いわれている」戦後初の昭和二十二年に開催された「はず」の全日本空手道選手権大会については

<一九四七年、春。京都の丸山公会堂で、それまでにない規模の空手大会が催された。大会には、当時いくつにも分派していた空手流派のほとんどが参加し、自派の優位性を示そうとそれぞれが代表選手を送り込んでいたため、空手の大会としては珍しく、多くの人々の関心を集めていた。

 また、普段は無視されがちな空手大会に人々の耳目が集まった理由の一つには、一人のスター選手の存在も挙げられる。その選手とは、優勝候補筆頭であり「首切りの達人」との異名を持つ、南波だ。首切りとは、南波の得意技である回し首蹴りが、囚人の首切りを彷彿とさせるために着けられた呼称だという。

 前年、南波はこの首回し蹴りで中国から来た詠春拳(至近距離で敵の攻撃を処理しながら相手の急所を攻撃するのが特徴)の拳士を破り、半身不随に追い込む攻撃を見せた。敗戦により息消沈していた当時の日本人にとって、これは非常に痛快な出来事だった。そのためこの大会でも、多くの観衆が南波の勝利を見ようと丸山公会堂に押し寄せたのだ。

 では一方で、我々の父である大山倍達はどうであったか。実は父は、大会があると聞いても、自分が参加することなど考えもしなかったらしい。それでも父が会場に足を運んだのは、他の空手家たちがどうやって優勝者に選ばれるのかを単純にその目で確かめたかったからだという。

 

 大会では、相手に触れる直前で攻撃を止める寸止めルールによって勝敗が決められていた。結果、優勝者となったのは、やはり首回し蹴りの達人、南波。

略)

優勝者である南波の前に進み出て、大声で挑戦状を叩き付けたのだ。

略)

この時点で、観衆のほとんどは父をせせら笑っていたという。

略)

そして、父への反感は、彼が朝鮮出身者であることが伝えられると、さらにヒートアップした。

「朝鮮野郎が、優勝カップが欲しくて強がるんじゃあねえ。ここは町内道場じゃあねえんだぞ」

略)

 観衆には、父が今にも南波の攻撃を受けて倒れるとしか思えなかったし、誰もがそう願っているような会場の雰囲気だった。

 だがこの時、南波の蹴りをかわす父の目には、南波の弱点が映っていた。寸止め試合ばかりで勝負してきたためか、南波は顔のガードが甘かったのだ。父はローキックで南波の重心を崩して懐に入るや、素早く左のジャブから右のストレートへとつなげるワンツーを浴びせた。そして慌てた南波が繰り出す手刀をかわしてコンビネーションブローを華血、そのまま一気に攻め落としたのだ。

その光景は、会場に居合わせた全空手家にとって信じられないものだったはずだ。>

「我が父チェ・ペダル」P一〇二〜一〇八

 朝鮮人は息をするようにウソを言うというがまさにそのとおりです。

 そして、大山氏の著書だけでなく、現在も多くの極真会道場のホームページには此の事が記されています。

国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページには「極真の歴史」として。

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/about/history/1920-1989.html

<1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。>

極真会館大石道場オフィシャルホームページには下記のように書かれている。

http://www.kyokushin.ne.jp/index_sousai.html

<1947年全日本空手道選手権大会で優勝。>

極真館城南大井町支部のホームページには、創始者大山倍達の軌跡 として下記のように書かれている。

http://www.kyokushinkan-jyonan.com/sokuseki.htm

<47年、戦後初の全日本空手道選手権優勝。>

 これについてもすでに書きましたが、大山氏が優勝したという京都丸山公会堂で行われたという昭和二十二年全日本空手道選手権大会そのものがありません。

 

 <大山が戦ったという「全日本空手道選手権大会」は単に記録として残っていないだけでなく、時代的に考えても大きな矛盾を秘めている事がわかる。当時、試合ルールが存在しなかったことは明白なのだ。大山は「試合は寸止めだった」と公言してきたが、そもそもこの時代「寸止め制」は存在しなかった。更に言うならば、一九四六年にGHQが発令した「武道禁止令」により、武道は試合は勿論稽古そのものが禁じられていた。このような背景の中、一九四七年に空手の大会が開かれた事自体、極めて非現実的な話である>

「大山倍達正伝」P三百九十六

 <大山との関係が親密になった一九九〇年頃、私は機会を見計らって大山に大会の件を質した。

略)

 私(木下注 小島一志氏)の質問に大山はあっけらかんと答えた。

「全日本大会なんていうものはないんだよ」

 私は言葉に詰まった。大山は続けた。

「私の武勇伝は数知れずありますが、みんな真実なんてことはないんです。

略)

戦後初の全日本選手権優勝というのは間違いなんです。あれは梶原一騎のつくり話です」

 いまとなれば、「そういう伝説を本で書いたのは総裁自身ではないか」と憎まれ口のひとつでも返したくなるが、当時の私は大山の言葉を疑わなかった。

「あれは正式に言えば空手の選手権ではなくて、言わば武道大会のようなものだった。だから空手だけでなく柔道や剣道も参加していたかな。重量挙げもやっていた。戦後の復興期に国民に勇気づけようとして開かれた武道大会でした」>

「大山倍達正伝」p三百九十七

ではその大山氏が出場し優勝したという極真会館関係者に信じられている「いわゆる」全日本空手道選手権とはどういう大会だったのか。

 <大山倍達が語る通り、確かに大山が「武道大会」に出場したのは事実である。

 しかし、厳密に言うならば、それは「武道大会」と呼ぶには余りにも違和感を伴うイベントであった。

 一九四七年夏、日本中に大被害をもたらしたキャスリン台風が関東を襲った数日後であったという。

 <<九月二十六日、八日京都大阪で体育奨励会主催で体育大会(柔道、空手、重量挙げ、器械体操)があり、主催側も是非との要望がある故、三、四人出場させたい。私も行くから君も同伴されたい>>

「先輩からこんな手紙をもらったので、腕試し程度の気持ちで私も京都に行きました。会場は丸山公会堂だった」と大山は言った。手紙の送り主については大山は名言を避けたが、私ば寧柱であると確信している。

 では、大山が参加した「体育大会」とはいったいどのようなものだったのか?

 次に紹介する「京都新聞」の記事が唯一現存する記録である。長年、伝説となってきた大山が優勝したという「全日本大会」の真実を伝える証拠としてメディア初公開と言ってもいいだろう。

 これは、一九四七年九月二十八日付けの日曜日版、第二面(社会スポーツ欄)の左下に小さなベタ記事として掲載された。全文を引用する。

「京都座の体育大会圓心楽部並に京都文化協会共催京都府、市後援の体育大会は二十七日午後一時と6時の二回にわたり京都座で挙行。まず器械体操で元オリンピック選手が金棒、平行棒に神技に近い美しいフォームをみせる。重量挙げでは斯界の第一人者井口選手がオリンピック種目を紹介すれば古技空手道もまた真剣かつ壮絶な妙技を公開。続いてスポーツ柔道の新路打開に努力を続ける柔道界の人々が警棒の型、護身の方

型、極の型等を公開した後、呼物日本体育奨励会(関東)対京都軍の対抗戦に意義のある体育大会の幕を閉じた。

 柔道対抗戦=日本体育奨励会二対一京都軍 

 先鋒 徳永四 引分  溝水四

    坂本四 引分  渋谷四

    牧野四 引分  中井四

 中堅 三輪四 膝車  多田四 ×

    篠原五 内股  今井五 ×

 副将 山森五 引分  堀部五

 大将 野口五 大外返 広川五 ○

 審判 西六段

 (氏名下の数字は段位)」

 

 大山に送られた手紙の内容とほぼ同様の種目が行われたことが、この記事から理解出来る。

 さて、ここで第一に問題となるのが会場である。「京都新聞」の記事からもわかるように、この「体育大会」は「京都座」が会場として使われた。しかし、大山の著書をはじめとするあらゆる資料や大山の言葉は、一貫して「京都丸山公会堂」となっている。だが、私達が調べた限りでは、京都には現在も昔も「丸山公会堂」という名称の体育館も公会堂も、また劇場も存在しない。>

「大山倍達正伝」P三百九十八〜四百

つまり、大山倍達氏自身が数多くの著書に書いてきた、戦後初めておこなわれたという「全日本空手道選手権大会」だけでなく、その会場であったという「丸山公会堂」等と言うものは存在しないのである。

 では、大山氏が出場し「優勝」したという大会はなんであったのか。

 これについて小島氏は下記のように記しています。

<新京極の歴史に詳しい井上恭宏(株式会社左り馬代表取締役社長)は

「京都座は、戦後三軒あった劇場のうち二番目の規模でしたが、最も明治時代の建物らしく京都の人達に人気がありました。舞台の前は広い畳になっており、後方にせり上がる形で椅子席もありました、

 演目は芝居と映画の上映がほとんどでした。」

 大山が出場した「体育大会」について記憶がないのはもちろん、京都座でスポーツや武道の試合が開催された記録はない筈だと井上は言う。

「娯楽施設ですから、いろいろな見世物も行われていました。でも現在、公共の施設で開かれるようなスポーツの大会や試合が行われる事はないと思います。もし柔道や空手の試合が行われたとしても、それはあくまで見世物で、いわゆる慰安興行のようなものだったのではないでしょうか」

 大山が出場したという「全日本空手道選手権大会」もしくは「武道大会」の実体は、「体育大会」と銘打たれた見世物興行だったのである。午後一時の六時の二部制で行われていたという事実が、芝居等と同じショーであったことの傍証と言える。>

「大山倍達正伝」P四百〜四百一

そして、大山氏が出場したという「全日本空手道選手権大会」というこの見世物興行を主催した「圓心倶楽部」については小島氏は次のように書いています。

<この「体育大会」を主催した「圓心倶楽部」とはいかなる団体なのか?大山の言葉によれば「旧大日本武徳会のOBたちが作った団体」ということになる。

 格闘技研究家の宮田玲欧は「゙寧柱氏が関係した事から、旧義方会または東亜連盟関係の組織ではないか」という。残艶な事に、私達はあらゆる手段を使っても圓心楽部に関する資料を見付ける事はできなかった。

 ただ、゙が「私の知人が関わった組織」と雑誌の質問に答え、私にも「京都の私の仲間が作った」と語った事から考えて、゙が実質的な黒幕であり大山が幹部として活動していた在日朝鮮建国促進青年同盟(健青)が便宜的に名乗った団体名ではないかと私は推測する。

 第一部・第四章でも言及したように、戦後、健青は活動資金の調達を目的に多くの興行を行っている。ボクシング興行に始まり歌謡ショーやサーカス紛いの見世物まで、健青は積極的にスポーツ芸能の興行を行っていた。また当時、「対共産主義活動」を通して健青はGHQと友好関係にあった。興行と言う名目ならば、武道禁止令によって禁じられていた柔道の試合も許可された可能性は高い。

 ちなみに、GHQによる武道禁止令が正式に解除されたのは一九五〇年である。ただ、実質的には一九四八年頃から制限が緩やかになったと言われている。

 木村政彦が優勝した戦後初の全日本柔道選手権大会も一九四九年に行われた。だが、一九四七年に柔道や剣道、弓道の大会が開かれた公式記録はない。

 いずれにせよ。圓心倶楽部心という組織の名前が大山が出場した「体育大会」以外、一切記録として残されていないのは極めて不自然である。

 京都では名門中の名門と言われた京都座を会場として採用する為に健青が圓心楽部を名乗ったとするならば、総ての疑問は解決する。大山に送られだの手紙に書かれていたように、大山は健青幹部として空手の演武を披露する目的で、゙と京都に(同伴)した。そして大山の見事な演武を顕彰して記念のトロフィーが贈られた。

 これが、「大山倍達伝説」のなかで伝えられてきた京都丸山公会堂で開催された第一回全日本空手道選手権大会の真相である>

「大山倍達正伝」P四百二〜四百三

つまり、大山氏のいう「全日本空手道選手権大会」とは、身内の朝鮮人関係団体がやった銭集めの見せ物興行だったわけです。

あほらし

営業時間前に初めてのお客様がいらしてくださる。

其の後、これまた初めてのお客様二名様来店。

そして、ず〜とご来店はなし。

営業終了前にSさん来店。

ドンチャン。

記憶は少しはあったと思う。

猿よりマシ。


金日成、金正日、金正恩にみる北朝鮮偉大なる指導者サマ三代の超能力

10月12日火曜日雨のち晴れ ×

 偉大なる指導者金正日大元帥サマの後継者として金正恩大将サマだそうです。

 その金正恩大将サマの天才ぶりも父親なみだそうです。

 

東亜日報OCTOBER 13, 2010 08:04

 <対北朝鮮ラジオ放送「開かれた北朝鮮放送」は11日、北朝鮮の宣伝当局が、昨年後半に労働党幹部や党員に対して行った講演資料を公開した。「青年大将金正恩同志に対する偉大性資料」というタイトルの同宣伝物は、「青年大将同志は3才の時から銃を持ち、射撃で命中させた。今年は自動銃で1秒当たり3発射撃し、100メートル先の電灯やビンに命中させた」と主張した。また、ターゲットに20発撃ち、すべて10点内に命中させたという。これだけでなく、「10代で古今東西の名将をすべて把握し、陸海空の全分野に精通し、技術者もできない『祝砲発射自動プログラム』を数日で完成させた」と主張した。

この放送正論には、金正恩氏が政治、経済、文化、歴史、軍事に精通しているだけでなく、2年間の留学期間に、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語の4ヵ国語を完全に習得し、今後、これらを含めて7ヵ国語を征服するために勉強している、という内容も含まれているという。さらに、3才の時、難しい漢詩を筆で書き、周囲を感心させ、北朝鮮が核を開発したのも、金正恩氏が海外留学を通じて、「核を持った者とは核で対抗しなければならない」という決心を固めたためだと宣伝している。

農民を対象にした資料には、金正恩氏が08年、沙里院(サリウォン)米穀協同農場を訪れ、その場で酸性の土壌を改良する微生物肥料を考え出して研究家を驚かせ、この農場では翌年、1町歩(=約9917平方メートル=3000坪)当たり15トンの稲を生産したという内容も含まれているという。昨年、韓国の1町歩当たりの米の生産量は5.2トンだった。>

 

 北朝鮮の教科書に掲載されている内容から、おじいさまの金日成大将軍サマは豚ではなくて、猿だったという説があります。

 

<第29課「三千万は将軍様を崇め」 将軍様のずば抜けた戦術を伝える『縮地法(引用者注:地を縮め数歩歩くだけで瞬時に、数百数千里を移動することができる術法)』に関する話も、わが人民たちの中に広く伝わっています。

いつの日であったか将軍様は『縮地法』でもって、東西南北を縮めて行き来したといいます。

ある時数多くの敵どもが将軍様に立ち向かいました。 実に危険きわまりない瞬間でした。

この時、将軍様は付近にあった松の葉を取り、その葉を細かくちぎり冠っていた網笠の中に入れ、くるくる回した後、風にとばせました。 するとなんと、細かくちぎった松の葉がそれぞれ兵士に変わり、押し寄せた敵どもを全滅させました。

金(日成)大将は天下妖術を使い、東西南北を飛んで行き来する。 金日成将軍様を民族の太陽として、伝説的英雄として高く崇め奉り、将軍様の意を得て闘おうとするわが人民の気勢は、天をも衝く勢いです。>

つまり、金日成大将軍サマは豚の猪八戒ではなくて、サルで孫悟空だったのです。

 

お父上の「百戦百勝の鋼鉄の霊将」である金正日大ゲンスイサマも

 

<「金正日元帥様は、御幼少の時お母様と一緒にある小学校をお訪ねになられました」と始まるストーリーでは、金少年が小学校で日本と朝鮮半島が同じように赤く塗られた地球儀を発見。憤りを感じた金少年は日本の部分だけ黒く塗りつぶすと「この日、日本では驚くべきことが起きました」

 何が起きたか驚くなかれ、「突然、日本中が真っ暗になりました。そして稲光がし、雷が轟き、長いこと激しい夕立が降り注ぎました。この時から人々は偉大な領導者金正日元帥様は、空と土地も自由に動かされる才能をお持ちであると話しました>

 と驚くべき超能力があることが北朝鮮の教科書に掲載されています。

 当然、射撃の名手でもあります。

 それだけでなく、平成十八年十二月十日の夕刊フジには偉大なる金正日大ゲンスイサマが一ラウンドで十一回もホールインワンをやった事が掲載されています。

 

 決して豚つながりではないのでしょうが、同じ日の気違い新聞(聖教新聞ともいう)には、イダイナ池田大作ダイセンセイについて「中国の名門 大連理工大学 池田名誉会長に『名誉教授』称号」「前人未到の『世界二〇二』の英知の宝冠」という「記事」も第一面に掲載されています。

  

 領収書のかわりなのでしょうか???????

 

 ところで、金日成、金正日、金正恩と偉大なる指導者様が三代も続いているのに、なぜ、北朝鮮は乞食ばかりなのでしょう。

  

 朝鮮総連のゴミどもをさっさと回収してほしいものです。ブヒッ!

 あほらし

 今日の築地本願寺の蓮と日刊ゲンダイ

  

 Oさん、Uさんと来店。

 Nさん、Tさん来店。

 Kさん来店。

 Wさん御夫妻、息子さんと彼女の四名様で来店。

 早い時間から飲み始め、ドンチャンで記憶無し。

 今日こそ、月下美人の咲いたのを見ようと思っていたが、

 サルになってしまい、当然、願いは叶わず。

 

  

 洗い物はきれいに終わっていて、包丁まで研いであったが、洗った記憶も包丁も研いだ記憶がまったくない。


 

大山倍達空手修行の嘘

支那での修行

10月11日月曜日晴れ ○

 「空手バカ一代」に描かれた大山倍達氏がただの一度だけ敗北したという陳老人について、大山氏の南朝鮮の息子さんたちが筆者であるという「我が父チェ・ペダル」には下記のように書かれている。

<真相を語ろう

 父は中国での修行行脚の中で、太極拳の達人とされる陳老人の噂を耳にした。

 これを聞いた父は、すぐさま情報を求めて探しまわり、なんとかその老人に会う事ができた。しかし実際に会った陳老人は体も小さく、既に動くのもままならぬほど老いていた。父は失望を禁じえなかった。

 だが実際に対戦は叶わなくとも、二人でお茶を飲み互いの武術を論じ合う仮装対練はできる。父は陳老人にこれを申し入れ、二人で仮装対練を行ったという。すると父の目には、老人の小さな体が次第に大きく映り始め、その武術世界に頭を垂れざるを得なくなったというのだ。

 「陳老人の太極拳には、しなやかではあるがとてつもない破壊力が宿っていた。相手の攻撃を巧妙に利用してケガを負わせる武術こそ、まさに太極拳の極意だ。そこで私はハッとしたんだ。実戦空手家としての自分は、それまで強く、早く、直線的なものを至上としていた。ところがこの老人は柔らかで滑らかな動きによって、力を入れずとも相手を倒してします。これはかなわないと思ったよ」

 その後、父は陳老人と何週間かをともに過ごし、太極拳の柔軟性と強靱性との調和を学んだという。

 これを話作りの好きな人が「倍達の敗北」と表現したのだろう。>

「我が父チェ・ペダル」(ボム・ス・ファ 金至子訳 アドニス書房 平成十八年刊)P三十六

 

 親子というものはこういうものなのでしょうか。

 それとも、「息をするように嘘をつく」という朝鮮人の血なのでしょうか。

 戦前に大山氏は支那において空手修行業行脚をやってはいませんし、戦後まだ国交回復もしていない支那において、何週間も滞在し空手修行などできる筈がありません。

 だいたい、支那語がわからん大山倍達氏がどうやって「お茶を飲み互いの武術を論じ合う仮装対練」とやらをやったんだ!

 

 他にも

<日本に着いた父は、姓を「大山」と改めた。来日した頃、何かと世話を焼いてくれた同じ職場の女性の姓が大山だったというのが理由のようだ。また後に、名も変えた。遠く離れても祖国と倍達民族を忘れまいと「ヨンウィ」から「倍達」に改めたのだ。

 大山倍達の名を得た父は、一九四三年、日本航空隊に入隊。しかしそこでの生活は、父が当初思い描いていたような平穏なものではなかったようだ。理由は、彼が「朝鮮人である」というただ一点による。つまり差別だ。

 同期生をはじめとする日本人から何かと言いがかりをつけられる。またどこかで喧嘩が起れば、たとえ無関係であれ濡れ衣を着せられ罰せられる。だが、当時の日本では往々にして見られたこのような差別は、周囲の者が父の腕っぷしを知るにつけ、徐々に収まっていったという。当時のこうした状況を指して父は「日本人には、力のある者に対し畏れの念を抱くようなところがある。自分より強い者には意外と簡単に頭を垂れるのだ」と語っていた。>

「我が父チェ・ペダル」P九十〜九十一

 ここまで嘘を連ねると、もう呆れるより朝鮮人というものに対して哀れみさへ覚えます。

 名を奪われたをほざいているアホ朝鮮人の逆のパターンですが、戦前に日本に一人で渡ってきた大山「少年」が勝手に名前を変えられる筈もなく、通名として名乗っただけである。ましてや、ありもしない日本航空隊などというものに入隊できるはずもありません。

 何度も書いているように、大山氏は徴用工であり軍隊に入隊してません。

 それだけでなく、お約束の差別、差別と騒ぐアホ。 

 そして、「力のある者に対し畏れの念を抱くようなところがある。自分より強い者には意外と簡単に頭を垂れるのだ」とは、支那に対して奴隷国家として朝鮮民族がやってきたことです。

 <一九四一年に拓殖大学に入学した父は、それから二年間、船越義珍の私設道場に通い詰めた。船越義珍とは、近代空手の祖と呼ばれる、松濤館の創始者だ。ここで空手の奥深さを知り、ますます空手に没頭したという父はまた、同時期に宮城長順の弟子でもあった朝鮮人チョ・ヒョンジュンと出会い、剛柔流空手道にも接したという。>

「我が父チェ・ペダル」P九十一

 

すでに書いたように大山氏は、拓殖大学には入学していない。そして、これも書いたように、船越先生の松濤会には昭和十八年(一九四三年)六月入門一九四四年二月十八日に行われた第十六回昇段審査会で初段位を船越義珍氏より允許。松濤館の記録では「大山猛虎」と記されている。

 その後、大山は、同年九月、朝鮮人徴用令によって召集されるまで松濤館道場で稽古に励んだ。その間一年三ヶ月である。

「大山倍達正伝」P三百七十八

 ましてや、大山氏は「剛柔流空手道にも接したという。」のではなく、剛柔流空手をやっていたのであり、それは極真会館を名乗るまで続いた。

 昨日、スポーツセンターに行った時に、よく一緒になる方から教えていただいたチューブを使ったトレーニングメニューを新しく加えてやったせいもあり、いつもと違った箇所が筋肉痛。

 秋晴れの気持ちのいい一日であったが、午後より食事に出かけただけで、後は部屋でゴロゴロしていた。

 酒は飲まず。


正論だが・・・・・

10月10日日曜日雨のちくもり○

 下記の文章はある政治家が靖國神社参拝について雑誌「諸君」に発表した論文です。

<日本という国を守る防人になっていただいた、私どもの先祖である英霊が祀られている靖國神社に参拝する事が何を意味するのか?

 近親の者にも靖國に祀られている者がいますし、出身地が佐賀という、「薩長土肥」の一員であり、数多くの国士を生んだ地の出身だからこその思い入れもあるのかもしれませんが、前の大戦だけでなく、明治維新以降の先達すべてを含めて国難に殉じた方への追悼の念を持つのは古今東西変わらぬ人の感情ではないでしょうか。

  事の重要性は、今更強調するまでもありません。

 略)

 私自身は、宿舎が靖國神社の傍の富士見にあることもあり、毎朝、国会に登院する前に、お参りしていますし、この春の例大祭にも靖國に参拝してきました。

 何故、靖國神社に参拝する事が、戦争を賛美したり、歴史に目をそむけたりすることになるのでしょうか?そこに、ある種の短絡があり、政治的な意図があることを見過ごしてはならないと考えます。

 略)

 中国はじめ近隣諸国との関係を懸念して「何故、今の時期に靖国参拝か」との問いが私の元にも寄せられました。しかし、うわべをつくろっただけでの理解では、真の友好はないと私は考えます。

 その意味で、一部の勢力が靖國神社への参拝を執拗に愚弄するのには、憤慨を通り越して呆れるというほかありません。決して戦争を正当化したり、さらなる戦争を謀ったりというわけでもないのに、英霊にお参りするという、日本人なら誰でも持っている内心の問題に土足で踏み込まれるのは、決して愉快な事ではありません。

 略)

 営々として築かれてきた歴史や伝統・風土に対する深い理解と尊重がなければ、「顔のない」、「根こぎ」の信用出来ない国となってしまいます。>

 「諸君」(平成十七年八月号)p六十六〜六十八

 同じ論文で「自虐史観が無用の混乱を起こした」として下記のように書いています。

<一党独裁の社会主義国家で、反日デモが整然と行われるということは何を意味しているのか?当局による煽動はなかったのか?それを単純に民衆の怒りだと評価するのは空々しさの極みです。中国、韓国の今回の異常なまでの靖国批判は、それぞれの政権が内政を巡って非常に厳しい時だからこその、国内の不備の捌け口につかわれた「対日カード」ではないかという懸念さえ抱かせます。

 他国からの圧力によって、我が国の「和」の風土までをも否定してしまうことは、日本人にとっての自己同一性の危機すら引き起こしかねません。>

同p六十九

 

 そして、この憂国の政治家は下記の言葉でこの論文を結んでいます。

<真の対話は事なかれの姿勢からは生まれません。自らの文化や伝統を語る事なく、友好を築くことはできません。

 「宥和外交が対立を深めた」ことを反省し、「毅然とした外交展開」するために、外交の戦略基盤強化が求めれています。>

同p七十三

 堂々たる正論です。

 この論文は<民主党代議士の憂国宣言「岡田代表、私は参拝します」 小泉首相、靖國で会いましょう>と題された原口一博代議士のものです。

  

 ところが、原口代議士は総務大臣の時には、すっかりこんな事はきれいさっぱり忘れて靖國神社参拝はいたしませんでした。

 そして、今回、超党派の「国家主権と国益を守るために行動する議員連盟」つうのを作り、そのメンバー四人と尖閣諸島をチャーター機にて上空視察したそうです。

 私には何の為の行動かな〜んにも理解出来ません。

 単なるパフォーマンス親父なだけだろう。

 

 あほらし。

 店を片付けた後に高田馬場のスポーツセンターへ一週間ぶりに行く。

 今日は時間もあったので、それなりのメニューを三時間弱かけて消化。

 帰宅途中にOさんから電話あり。マルガリータさんがごねた為にセラーに保管してあったDRCエシェゾー一九五八を開けたそう。

 マルガリータさんが、「今から来ない」

 行けるか。もっと前に言ってほしいものである。

 帰宅後、長い風呂に入った後、ゴロゴロとマンガの本をみていたら、外が明るくなっていました。


 

まあ、なんでもええんやろうけど・・・・

10月9日土曜日雨△

 <青木愛氏「不倫お泊まり」秘書採用へ>というのはスポーツ報知の記事。

 

以下引用

青木愛氏「不倫お泊まり」秘書採用へ

2010年10月09日08時07分 /スポーツ報知

 民主党の“小沢ガールズ”筆頭格・青木愛衆院議員(45)が、週刊誌で「『不倫お泊り』デート」などと報じられた小沢一郎元幹事長(68)の政策秘書を、自らの政策秘書に起用することが8日、分かった。青木氏の地元会合で、9日にも公表される予定という。

 青木氏と男性秘書は「週刊新潮」9月16日号で、写真付きで報じられていた。民主党代表選に小沢氏が出馬表明した8月31日夜、水戸市での「焼き肉デート」や、一緒にホテルに入っていく様子などが描かれた。政策秘書には妻と3人の子どもがいるという。

 複数の小沢グループ関係者によると、20年来、小沢氏のもとで働いてきた政策秘書だが、今後は青木氏のもとで政策秘書を務めるという。これが青木氏サイドの希望なのか、小沢氏の意向かは不明。関係者の間では「青木氏が腹をくくった」「2人でよろしくやってくれ、という小沢氏サイドの当てつけ」などの推測が乱れ飛んだ。最近、議員会館の小沢事務所を2人で訪れる姿も目撃され、青木氏の事務所は複数人の秘書が辞めたという。

 青木氏の地元事務所では、スタッフが電話対応し「質問はファクスで送ってください」と語った。小沢事務所では事実確認を求める記者に対し、秘書が「〇〇(政策秘書)って誰ですか」と衝撃回答。青木氏の事務所への“異動”も「初めて聞きました」と語っていた。>

引用終わり

 この秘書さんとはフライデー九月二十四日号に掲載されていた小原貞裕氏のことです。

 そのフライデーには小原氏の写真も掲載されています。

 

  

 小原氏は小沢一郎氏の政治団体陸山会の会計責任者でもあり、小沢一郎政経研究会、小沢一郎東京後援会そして、誠山会という政治団体の代表者でもありました。

 所在地はいずれも小沢氏の所有する東京都港区赤坂2-17-12チュリス赤坂701となっています。

政治団体名
代表者
会計責任者
陸山会
小沢一郎
小原貞裕
小沢一郎政経研究会
小原貞裕
馬場慶次郎
小沢一郎東京後援会
小原貞裕
馬場慶次郎
誠山会
小原貞裕
馬場慶次郎

 あと、地元岩手にも多くの政治団体がありそのうちの一つ「小沢一郎くらしと政治研究所」の会計責任者は小原貞裕氏でした。

 

 私みたいなド素人には、こんなに多くの政治団体がどうして必要なのかわけが分かりませんが、小沢氏もある程度信用しまかせていたのでしょうね。

 まあ、政治家が別に恋愛してもいいわけですし、過去にも船田元氏と畑恵氏などそういった例はあります。

 いや〜しかし、親分の秘書と不倫し、そのクビになった秘書をてめえで雇う。

 う〜ん、腹がすわっているというか開き直りというか・・・・・

 家族愛などといいながら、不倫をやっているアホ朝鮮人教授よりよっぽどマシ

 

 早い時間にYさん来店。

 お近くに住んでいらっしゃるKさん来店。

 久々に偽赤塚センセイが彼女と来店。

 もう二十年以上のおつき合い。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

初鮟鱇

10月8日金曜日晴れ×

 河岸に行くと「今日、この秋初めて河岸に入った活け鮟鱇が入っているから」と言われたが一キロ程度のちっこいのが二匹。

 まず、肝はメチャ小さいし、期待出来ないが金額もキロ千八百円とメチャ安なので一匹購入。

 

 

 大屋さんところの月下美人が今日一部咲きそう。

 

 後の蕾はもう少しかかりそう。明後日ぐらい?

 

 

 バンブーさん来店。

 初めてのお客様Aさん二名様で来店。

 Iさん二名様で来店。

 Kさん、Eさん来店。

 トラさん、Tさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 記憶無し

 サル


 

飲んべえの会

10月7日木曜日晴れ △

十四代

10月16日土曜日 
午後3時より午後6時まで

6時半より平常営業
会費 10000円
定員 6名様

NO.1 平成22年 十四代 七重二十貫 愛山 720ml1本
NO.2 平成22年 十四代 中取り大吟醸 播州山田錦 40% 720ml1本
NO.3 平成22年 十四代 中取り純米大吟醸 播州山田錦 40% 720ml1本
NO.4 平成22年 十四代 純米大吟醸 龍の落とし子 40% 720ml1本
NO.5 平成22年 十四代 なか取り純米無濾過 55% 1800ml1本
NO.6 平成22年 十四代 本丸 五百万石55% 1800ml1本

 

 10月2日現在5名様

飲んべえの会ワイン編

10月23日土曜日

午後3時より6時まで

6時半より平常営業

会費12,000円

定員6名様

いずれも高評価、話題性のあるのワインです。

赤ワイン6種類

白ワイン1種類

スパークリングワイン1種類

 

赤ワイン6種類

グリーノック・クリーク ヴィンヤード&セラーズ(GREENOCK CREEK VINEYARD & CELLARS )

南オーストラリア

パーカー監修アドヴォケイト誌においてオーストラリアの生産者としては最多の8回100点満点を獲得している(オーストラリア全体で100点は19本)というオーストラリアのカルト中のカルトです。

そのワインメーカーの製品のうち今回は

アプリコット・ブロック・シラーズ(APRICOT BLOCK SHIRAZ)2005

パーカー監修アドヴォケイト誌95ポイント

エルダートン シラーズ "コマンド" バロッサヴァレー 2004

南オーストラリア

ワインスペクテイター誌99ポイント(1998年/ワイナリ歴代1位)

パーカー監修アドヴォケイト誌98ポイント(2004年/ワイナリ歴代1位)


ポッジョ・デ・コッリ(POGGIO DE’COLLI) 2007 

イタリア・トスカーナ

2007年のヴェロネッリに初掲載でいきなり全イタリア・ワイン中No.2の得点である97点更にはその年に20本前後しか選ばれない特別賞「イル・ソーレ」を獲得し一躍イタリアを代表するワインとなったピアッジャの特別なワイン。
(かつてシャトー・ラフィットから買い付けた苗木で現在樹齢が30年ほどになるカベルネ・フランの出来が素晴らしいことに気付き「ポッジョ・デコッリ」が産まれた。)

 

トライーニ「アル・パッソ2006」(Tolaini「Al PASSO」)

ジャパン・ワイン・チャレンジにて、アル・パッソ2006が金賞を獲得し、更に「ベスト・ディスカバリー・ワイン」「ベスト・イタリア・ワイン」の二冠に輝いたワイン。

イタリア

リュック・ティエンポン ゼド(LUC THIENPONT Z)

シャトー・ル・パンの共同支配人でもあるリュック・ティエンポンと
シャトー・マルゴー、ラトゥール、ラフィットなど名立たるトップシャトーのコンサルタントを一手に引き受ける醸造家ジャック・ボワスノの究極のコラボレーションが生み出したボルドーワイン。

フランス

メルヴィル シラー "ヴァーナス" サンタバーバラカウンティ 2008

米国・カリフォルニア

 

白ワイン

メルヴィル シャルドネ "エステート"サンタリタヒルズ2008

ワインエンシュージアスト誌95点

米国・カリフォルニア

スパークリングワイン

「アバテ・ネロ」

2007〜2010年版ガンベロ・ロッソで4年連続で最高評価トレ・ビッキエーリを獲得中。

イタリア

10月7日現在1名様

醴泉の会 (醴泉正宗の垂直)

11月20日土曜日

午後3時より6時まで

6時半より平常営業のつもり

会費15,000円

定員15名様

 

NO.1 醴泉正宗 純米大吟醸 35%  20 BY
NO.2 醴泉正宗 純米大吟醸 35%  19 BY
NO.3 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    18BY
NO.4 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    17BY
NO.5 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    15BY
NO.6 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    14BY
NO.7 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    13BY
NO.8 醴泉正宗 純米大吟醸 35%    12BY
NO.9 蘭闍待   大吟醸 35%   21BY

 

醴泉正宗の平成十七年(16BY)は製造されておりません。

醴泉の蔵元である山田社長と、どういうわけか、磯自慢蔵元の寺岡社長も参加くださる予定です。

10月7日午後4時現在6名様

磯自慢の会

12月12日日曜日

午後3時より6時まで

会費25,000円

定員15名様

 

 出品予定酒
NO.1 磯自慢 純米大吟醸 中汲み35%  古酒 アダージョ
NO.2 磯自慢 純米大吟醸 中汲み35% 平成22年(21BY)
NO.3 磯自慢 純米大吟醸 中汲み35% 平成21年(20BY)
NO.4 磯自慢 純米大吟醸 中汲み35% 平成20年(19BY)

 

NO.5 磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 古家 (21BY)
NO.6 磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 常田 (21BY)
NO.7 磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 西戸 (21BY)

 

NO.8 磯自慢 純米大吟醸 愛山40% グラッパボトル (21BY)
NO.9 磯自慢 大吟醸   山田錦45%       (21BY)

 

NO.10 磯自慢 純米吟醸 多田信男 山田錦50%  (21BY)
NO.11 磯自慢 純米吟醸 多田信男 山田錦50%  (14BY)
NO.12 ?磯自慢 大吟醸  愛山50% グラッパボトル (21BY)

 

NO.13 磯自慢 大吟醸 水響華 山田錦50% (21BY)
NO.14 磯自慢 純米吟醸 山田錦       (21BY)

磯自慢蔵元の寺岡社長と、どういうわけか、醴泉の蔵元である山田社長も参加くださる予定です。

10月7日午後4時現在11名様

写真は当店の大屋さんがお世話されているトランペットフラワー。

当店の横にあり、小さな鉢に植わっているが数多くの花を咲かせ夜になると香りが高い。

  

Sさん二名様で来店。

「石松」のマスター来店。

京都のNさん来店。

Yさん二名様で来店。

ドンチャン。

記憶あり。

サルよりマシ


在外公館のワイン

10月6日水曜日晴れ △

 ニュースで我が国の在外公館におけるワインの在庫の無駄が指摘されていました。

以下引用

<在外公館>ワイン保管量が多すぎる 会計検査院指摘

毎日新聞2010年10月6日(水)18時31分配信

 会計検査院が海外の日本大使館など51の在外公館にあるワインの本数を調べたところ、年間に会食で消費する量の約30倍も保管している公館があることが分かった。2、3万円以上の高級ワインも51公館で計4000本以上保管されており、保管量が多すぎるとの検査院の指摘を受け、外務省は「在庫のワインは保管量の少ない在外公館に移したり、民間業者に売却したい」と話している。

略)

 検査院によると、パリにある経済協力開発機構(OECD)の日本政府代表部では、09年度に会食で消費したワインは268本だったが、09年度末の保管量はこの約30倍の7896本。軍縮会議の政府代表部は年間消費量の約12倍、在ジュネーブ国際機関の代表部は約7倍も保管し、51公館平均では約1.7倍だった。

 ワインの銘柄から検査院が高級ワインの本数を調べたところ、仏産の高級品などが51公館で計4000本以上あった。ほとんどが04年以前に購入されたもので、外務省は「5年以上前の記録は廃棄するため、いつ、いくらで購入したか分からない」と説明している。

 また、在豪大使館や米ニューヨーク総領事館など4公館では、ワインや他の酒類の保管に失敗し、08、09年度の2年間で計1044本を廃棄していたことも分かった。

 このほか、在独大使館など8公館では、事務所や公邸の跡地など処分されていない土地が総額約66億円相当あることも判明し、検査院は外務省に対し早期に処分するよう求めた。【桐野耕一】

さすが在外公館は優雅? ワイン「30年分」1万6770本貯蔵 検査院が改善要求

産経新聞2010.10.6 22:03

  経済協力開発機構 (OECD)政府代表部 など3つの在外公館で、年間消費量の7〜29倍のワインなど1万6770本を保有していたことが6日、会計検査院の調査で分かった。別の4公館ではワインなどの酒1千本余を廃棄していたことも判明。検査院は保有量が過大だとして、購入を控えるなど適正な本数に改めるよう改善を求めた。
 検査院によると、年間消費量の2倍以上を保有していたのは14公館で、このうち、OECD代表部は平成21年度の消費ワインが268本だったのに対し、29倍強に当たる7896本を保有。高級ワインも1千本以上あった。
 一方、品質が劣化したとしてワインを捨てた公館もあった。ニューヨーク総領事館では計約200万円で購入したワイン198本を廃棄。オーストラリアやドイツ大使館など3公館でも酒類計846本が捨てられていた。検査院には「異常気象が続いた」「大規模な停電があった」などと説明したという。
 外務省は「値が上がる前のワインを買い置きすることは経費削減になり問題はないが、基準を年間消費量の3倍程度と定め、適正保有に努めたい」としている。 

 引用終わり

 このニュースで少しワインを自分で飲む人だったら、疑問に思ったところがいくつかあると思う。

<一方、品質が劣化したとしてワインを捨てた公館もあった。>

 ワインの管理に失敗と書いてあるが、本当に失敗したのか。

 

 ワインは大吟醸酒などに比べてタフであり、我が国の夏の温度でも室温がそれなりにならないと吹くような事はない。

 吹いても長期の保管はダメだが、それなりに飲める。

 大吟醸でも火入れをしてあれば、少しぐらい高温に置いても短時間だと平気ですけど。

 ワインの保管場所がどのようになっているか。ワインの醸造所などは地下がセラーになっているところが多い。地下が温度が安定しているからで、普通は空調もない。同様に大使館などの公邸もおそらくワインは地下室があるのであれば、地下に保存してあると思います。

 あるいはワインセラーが設置してそれに納めてある場合でも、少しの時間停電になっても急に庫内の温度が異常に上がるわけでもないしそれが壊れても庫内温度がワインにダメージを与える程の異常な温度まですぐに上がるような事はないし、対処の方法はいくらでもある。なによりも、先に書いたようにワインはそれなりにタフです。

 ましてや、ポート、シェリーなどの酒精強化ワインなら余計にタフです。変わるだけ変わっているマディラは問題外。

 昔、刑事コロンボにワインを題材にした「別れのワイン」とかいうのがあり、その時に「ヴィンテージ・ポート」が四十度以上の状態に一時的に置かれ高温劣化していたことが犯人逮捕の鍵となるというドラマだったが、酒精強化ワインのポートワインは普通のワインに比べてタフだから、題材としてはあまり良くなかったのではと思います。

 なによりも、ダメになっているのをどうやって確認したの????

 それを全部、開けて確認したのだろうか。

 吹いたのならわかるが、濁りもなく澱とかが正常であれば、普通は開けてみないとワインが劣化しているかどうかわからんでしょう。

 飲んじまったのでは、あるいは、ポケットに入れてちまったのではと思うのは下衆の勘ぐりなんでしょうね。きっと。

 <外務省は「在庫のワインは保管量の少ない在外公館に移したり、民間業者に売却したい」と話している。>

 民間に売却つうても捨て値でポイして帳尻合わせだったりして。

 まあ、高級取りの害務省の腐れ役人にとっては、自分の銭じゃないからどうでもいいつうことなんでしょうね。

 ちょっと話題は違いますが、よくワインが呼吸すると言っている人がいるが、それだったら、有名ないくつかのメーカーのワインが蝋封されているのはどうしてなんでしょう。

 わたしにワインの基本的な事を教えてくださったワイン講座の講師をしていた山田さんという方は、一ダースのワインを買って来て、半分はそのままに、半分にはナフタリンを入れた箱に入れて、半年間、毎月それぞれの箱から一本づつ開けて、ワイン関係の仕事をしている方達とブラインドで飲んだそうです。

 半年以上はワインの本数の関係でやっていないから判らないそうですが、少なくとも半年の間はナフタリンと一緒に箱に入れてあったワインとそうでないワインとの区別がついた人は、ワインを職業にしている人たちではいなかったそうです。

 先入観とは怖い

 今日もメチャヒマ。

 Hさん来店。

 Hさん三名様で来店。

 オチャピーでなくてよかった。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


四倉幹木という朝日新聞のアホ記者

10月5日火曜日晴れ×

週刊新潮に「金日成のコブ」と題した高山正之氏のコラムがあり、それにアーサー・マッカーサーの行なったレイテ島住民皆殺しに触れずに、息子ダグラス・マッカーサーが解放に戻って来たという記事を書いた四倉幹木記者のことを書いていた。

その中に四倉記者が「日本軍に殴られた為にできたコブ」という老人の事があった。

ネットで検索すると「日米決戦の島 忘れたい記憶 レイテ―老いゆく証言者たち」と題した九月十八日朝日新聞に掲載されたこのお笑い記事と写真がある。

http://www.asahi.com/international/weekly-asia/TKY201009110196.html

<亡くなったディアスさんの首には日本兵に殴られた時のこぶが残っていた

  島北部の町レイテで草ぶきの簡素な家に住むフランシスコ・ディアスさんは95歳。首の後ろにある小さな握り拳ほどの大きさのこぶをさすりながら記憶をたぐった。

 日本軍占領下の1943年。ディアスさんは日本兵に頼まれて仲間数人と川で水をくんでいた。そこに別の日本兵の一団が来た。兵士は銃でディアスさんの首を殴りつけた。こぶはその時にできた。抗日ゲリラと疑われたようだった。仲間は射殺された。

 ディアスさんは野営地へ帰る日本兵らに小舟で海へ連れ出されたが、浸水して舟が沈み始めたすきに海に飛び込み、泳いで逃れた。>

 この写真を当店のお客様である医者の方に見ていただいた。

「当たり前の事ですが、殴ったぐらいで、このようなコブはできません。

 ボクシングで殴り合ってもその傷はコブにならずに治ります。

 普通に考えればわかる事です。

 もし、このコブが本当に日本軍に殴られた事が原因であるというなら、逆に驚くべき例であり、医学的に調査に値するでしょうね。

 朝日新聞はこのような記事を検証もせずに載せるのですね。」

 との事であった。

 そりゃ、そうだろう。

 少し考えれば、このフィリピン人がアホな事を言っているとわかる。

 なぜ、仲間が射殺されたのに一人だけ首を殴られただけで助かったのか。

 川で水汲みをしていた地形なのに、野営地へ帰るのに日本兵らは小舟でわざわざ海へ出る必要があるのか。 

 なぜ、その舟が浸水して沈みはじめたのか。

 首をどのようなもので、どのような状態で殴られた結果このコブができたのか。

 それもせずに嘘つきが言ったままを記事にする四倉幹木というアホ記者。

 いわゆる「従軍」慰安婦問題も同様です。

 朝日新聞はこんなアホばかりか。

 まあ、朝日新聞にとっては我が国の事を悪く書く事ができればなんでもいいのだろう。

 

 

 今日の築地本願寺の蓮と日刊ゲンダイ

  

 Mさん二名様で来店。

 今日はお連れ様の誕生日ということで、アンドレクルエ1911を開けて御祝い。

 Nさん、Tさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 明日は河岸が休みという事もあり、洗い物もせずにドンチャン。

 灯もつけっぱなしで、カウンターで寝てました。

 記憶無し。

 サル以下。


 

日米軍事演習

10月4日月曜日くもり△

 昨日、「尖閣奪還を想定した日米軍事演習」という記事があったが、どういうわけか他のマスコミは報じていない。

以下引用

日米軍事演習で「尖閣奪還作戦」 中国の不法占拠想

産経新聞10月3日(日)7時56分配信

 【ワシントン=佐々木類】日米両防衛当局が、11月のオバマ米大統領の来日直後から、米海軍と海上自衛隊を中心に空母ジョージ・ワシントンも参加しての大規模な統合演習を実施することが明らかになった。作戦の柱は、沖縄・尖閣諸島近海での中国漁船衝突事件を受けた「尖閣奪還作戦」。大統領来日のタイミングに合わせ統合演習を実施することにより、強固な日米同盟を国際社会に印象付け、東シナ海での活動を活発化させる中国軍を牽制(けんせい)する狙いがある。

 日米統合演習は2004年11月に中国軍の潜水艦が沖縄県石垣島の領海を侵犯して以来、不定期に実施されている。複数の日米関係筋によると、今回は、中国軍が尖閣諸島を不法占拠する可能性をより明確化し同島の奪還に力点を置いた。

 演習の中核は、神奈川・横須賀を母港とする米第7艦隊所属の空母「ジョージ・ワシントン」を中心とする航空打撃部隊。イージス艦をはじめ、レーダーに捕捉されにくい最新鋭ステルス戦闘機F22、9月1日から米領グアムのアンダーセン基地に配備されたばかりの無人偵察機グローバルホークも参加する予定だ。

 第1段階では、あらゆる外交上の応酬を想定しながら、尖閣諸島が不法占拠された場合を想定。日米両軍で制空権、制海権を瞬時に確保後、尖閣諸島を包囲し中国軍の上陸部隊の補給路を断ち、兵糧攻めにする。

 第2段階は、圧倒的な航空戦力と海上戦力を背景に、日米両軍の援護射撃を受けながら、陸上自衛隊の空挺(くうてい)部隊が尖閣諸島に降下し、投降しない中国軍を殲滅(せんめつ)する。

 演習は大分・日出生台(ひじゅうだい)演習場を尖閣諸島に見立てて実施するが、豊後水道が手狭なため、対潜水艦、洋上作戦は東シナ海で行う。

 演習に備え、米海軍はすでにオハイオ級原子力潜水艦「ミシガン」(1万6764トン、乗組員170人)を横須賀基地に派遣。最新鋭のバージニア級攻撃型原潜とともに参加する。

 空母ジョージ・ワシントンは、作戦半径1千キロ以上の艦載機のFA18戦闘攻撃機や、数千の標的を捕捉できるE2C早期警戒機を使い、東シナ海洋上から中国沿岸部だけでなく内陸部の航空基地も偵察する。

引用終わり

 この日米軍事演習については、先日来店してくださったお客様も「尖閣諸島で日米の軍事演習しかない」とおっしゃっていた。

 どうせだったら尖閣諸島でやってほしいものである。

 そして、我が国政府が賃借契約により年間二四五〇万円もの税金を地主に支払っている魚釣島(魚釣島に対しては二一一二万円)に自衛隊の常駐だろう。

 まあ、与那国島が要望している自衛隊誘致に対してもなんだかんだと文句を言っている北沢がやるとも思えないが。

 午後からスポーツセンターに行く。今日は時間もあったので、それなりにメニューを消化。

 店に寄り資源ゴミを出した後に馬込の江上マッサージへめぐ蔵さんを案内。

 其の後、新橋の「うさぎ」さんに初めて伺う。

 その後、「イデアル」さんに伺う。

 今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


 

腐れマスゴミはやっぱり報道しなかった。

10月3日日曜日晴れのち曇り(一時小雨)△

 昨日のデモについてGoogleにてニュースを検索すると、下記の二つがひっかかる。

尖閣諸島問題めぐり東京などで反中デモ

2010.10.03 Sun posted at: 11:20 JST

(CNN)

 尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件をめぐり、日本では東京など7都市で2日、中国に対する抗議デモが行われた。 参加者らは日の丸を掲げ、「中国の領海侵犯を許さない」などと主張した。 デモを主催した田母神俊雄・元航空幕僚長は、尖閣諸島は日本固有の領土だとの立場から、日本が防衛しなければ中国はこれを取り上げる行動に出ると述べ、中国側を非難した。デモに参加したある男子学生は中国への強い怒りを示し、衝突で破損した日本の巡視船の修理費用は中国側が支払うべきだと語った。一方、55歳の女性参加者は、中国よりも日本政府の「弱腰」外交を批判したいと話し、「私たちは国としての誇りを取り戻すべきだ」と主張した。 事件では、日本が逮捕した中国人船長を釈放したが、中国側は日本に謝罪と補償を要求。日本側はこれを拒否している。日中関係の悪化は政府間外交や民間交流、観光の分野にも及んでいる。

【10月2日 AFP】

 東京・代々木公園で2日、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件に端を発した一連の政府の動きを「外交の敗北」などと批判する右派系団体が集会を開いた。主催者発表によると、約1500人が参加した。

 主催したのは08年10月、懸賞論文で政府見解と異なる歴史認識を展開して更迭された田母神俊雄元航空幕僚長が会長を務める右派系の全国ネットワーク。田母神氏は声明で、中国は尖閣諸島の領有権を主張しているだけではなく、沖縄本島を支配することまで視点に入れていると述べ、防衛を強化すべきときが来たと語った。  参加者の多くは「中国の圧力恫喝に屈した弱腰の菅政権を許すな」などと書かれたプラカードや日の丸を手にしていた。集会終了後、参加者たちは渋谷の繁華街をデモ行進した。(c)AFP

 そして、ガジェット通信のみ下記のように報道している。

「尖閣渋谷2600人デモ」海外メディアは大々的に報道するも日本のマスコミは華麗にスルー

2010年10月03日04時36分 / 提供ガジェット通信

現在問題となっている尖閣諸島問題に対して渋谷で2600人がデモ行進を行ったのはご存じだろうか。このことは日本よりも海外のメディアが大々的に報じておりなんと日本の地上波テレビニュースやそのほかメディアでは全く取り上げられていない。

CNNのサイトでは「China accused of invading disputed islands」という見出しで取り上げており、写真も掲載されている。日本では希にない大規模デモ。最近では外国人参政権反対デモなどが記憶に新しいだろうか。

実際にGoogleで検索してみても出てくるのはブログばかりでマスコミは一切出てこない。

デモ隊は「尖閣諸島は日本固有の領土です 中国の領海侵犯をゆるさない」や「中国の圧力恫喝に屈した弱腰の民主党政府を許さない!」などと書かれたプラカードを手に持ち行進している。中には英文に訳された物まである。

今回のデモ行進はマスコミだけでなく民主党側も華麗にスルーしそうだ。

http://news.livedoor.com/article/detail/5048647/

 

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 略)

 面白半分やいたずら、時間をドブに捨てる、もしくは喜捨をするつもりで読んでみるといいかもしれない。もしかすると、思わぬ楽しさや感動をそこから得られるかもしれない。>

 <面白半分やいたずら、時間をドブに捨てる、もしくは喜捨をするつもりで読んでみるといいかもしれない。>

 と書かれているところしか取り上げていないのである。

 NHKに対するデモの時も書いたが、デモについては報道はしている。

 今回も尖閣諸島での支那の侵略関係でも

<尖閣諸島漁船衝突事件 アメリカ・ニューヨークで中国人船長の解放を訴える大規模デモ
FNN - 2010年9月17日
アメリカ・ニューヨークで17日、尖閣諸島沖で逮捕された中国人船長の解放を訴える大規模なデモが行われた。 日本総領事館が入るビルの前には、およそ200人の中国人らが集まり、船長の即時解放と尖閣諸島の領有権を主張した。>

<香港で100人がデモ 賠償と謝罪を求める

2010年9月27日 12:08 日テレ

 沖縄・尖閣諸島沖の漁船衝突事件を受け、香港で26日、約100人が集まり、日本領事館前までデモ行進を行った。デモ隊は「日本の軍国主義を打倒しろ!」などと叫びながら、日本政府に対して中国への賠償と謝罪を求め、日本の自衛隊の艦船が掲げる旭日旗(きょくじつき)を燃やした。>

<中国の活動家ら 北京の日本大使館前で抗議デモ
テレビ朝日 - 2010年9月8日
尖閣諸島周辺の領海で中国の漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件で、中国人船長逮捕に反発する団体が北京の日本大使館前で抗議デモを行いました。 抗議デモを行ったのは、尖閣諸島の領有権を主張する中国の団体のメンバー30人あまりです。>

<中国漁船・尖閣領海内接触:香港でもデモ行進

【台北・大谷麻由美】尖閣諸島(中国名・釣魚島)付近で起きた漁船衝突事件で、中国の領有権を主張する香港の活動家グループ「保釣行動委員会」のメンバーら約200人が18日、香港の日本総領事館や中国政府の代表機関に向かって市内でデモ行進した。香港立法会(議会)で親中派の最大政党「民主建港協進連盟」のメンバーも、総領事館の入るビル前で抗議活動を行った。別の団体はショッピングモール前で日本製品を燃やし、日本製品の不買を訴えた。

毎日新聞 2010年9月19日 東京朝刊>

<香港で日本に謝罪、賠償求めデモ
2010.9.26 19:51産経新聞
 香港メディアによると、香港で26日、沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)付近での漁船衝突事件に関連し日本政府に謝罪と賠償を求めるデモ行進があり、約200人が参加した。
 デモ隊は「釣魚島の領有権の問題は終わっていない」などと訴えながら、日本総領事館に向かって練り歩いた。(共同)>

<中国各地で対日抗議デモ 尖閣沖衝突事件で

2010/9/18 13:30日本経済新聞

 【北京=佐藤賢】中国は18日、満州事変の発端となった柳条湖事件から79周年を迎えた。沖縄県の尖閣諸島(中国名・釣魚島)付近で海上保安庁の巡視船に中国漁船が衝突した事件を受け、中国各地で抗議デモが発生。北京の日本大使館前では数十人が集まり約30分間にわたって「釣魚島から出て行け」などと気勢を上げたほか、上海や遼寧省瀋陽の日本総領事館前でも数人が抗議した。>

 このように

フジテレビにとっての大規模デモである二百人

から

たった三十人でも報道するテレビ朝日

まで支那のデモは報道している。

 変態新聞である毎日新聞などは左巻きデモであれば、国内デモの予定まで報道している。

<在日米軍再編:普天間移設 反対訴える集会−−来月24日、行橋で /福岡

 県平和委員会や県原水協、県労連などは10月24日、行橋市で米軍・普天間飛行場の無条件撤去と、県内への米軍訓練移転阻止を訴える集会を開く。空自築城基地周辺での集会は4年ぶり。主催者は「日米合意の下、普天間飛行場の名護市辺野古地区への移設が進められ、陸自や空自などの装備や態勢が増強され、米軍訓練の移転などが進められようとしている」と指摘。「沖縄と連帯し、県内の米軍基地化を阻止する思いを示したい」としている。 集会は新田原グラウンド横広場で午後2〜3時、その後、築城基地までデモ行進する。県労連(092・551・5390)。

〔福岡都市圏版〕

毎日新聞 2010年9月25日 地方版>

フジテレビにとっては、二百人でも支那人のデモは大規模デモなのである。

しかし、我が国を憂う二千六百八十人のデモは一切のテレビ局、新聞社が報道しないのである。

我が国の放送局、新聞社は異常なマスメディアである事がよくわかる。

 今日は午後六時半より、都立家政にある「hajime」さんで酔狂師さんとドンチャン。

 其の後十時過ぎから神楽坂でもう一件ということになったが、結局当店で赤と白を一本づつ開ける。

 解散は夜中二時。

 珍しく記憶あり。

 サルよりマシ。


 

2,600人

10月2日土曜日晴れ ○

 今日は仕込みを終えてから午後三時前に原宿へ。

 「10・2 中国の尖閣諸島侵略糾弾!全国国民統一行動」

 

 

 

 

 

 三時半頃よりデモ行進 

 コースは「けやき並木〜渋谷駅前〜青山通り〜表参道〜原宿駅〜けやき並木」

 

 

 

 

 

 東京での今回の参加人数は二千六百人程度だったそうです。

 参加されていた方は、若い方からご年配まで女性も男性も参加されていました。

 沿道からも同胞はもちろん、外国人の御夫妻など多くの方が応援の拍手をしてくださった。

  

 以前にも一〇〇〇人以上が参加したNHKへの抗議デモは我が国の腐れマスコミはほとんど報道しなかった。

 全国でいっせいにやる今回はどうなんだろう。

 午後四時三十分までの予定が五時過ぎになり、大慌てで渋谷から帰る。

 バタバタだったが、なんとか定時の六時半より店を開くことができた。

 Oさん来店。

 HIROKOさんお子さんと来店。

 Y@横浜さん来店。

 Tさん三名様で来店。

 私は今日はあまり飲まず。

 当然、記憶あり。

 サルよりマシ。


ゴミ

10月1日金曜日晴れ ×

 

 写真は赤城神社の神輿を納める場所

    

 神社から見ると地下になる駐車場の隣に神輿が納まっている。

 参拝するときは神輿を踏みつけながらお参りするという普通の神社では考えられらん場所に神輿は納まっています。

 

 

 設計したのもアホならそうさせた宮司もアホ。

 精神は日本人じゃあない。

 こんなアホな腐れ宮司に仕えられる神様もお気の毒。

 早い時間は電話も鳴らず、どなたもいらっしゃるなかったので今日は金曜日でオチャピーかと思っていたら、遅い時間から大勢のお客様。

 Hさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 Nさん、Tさん来店。 

 わ。さん来店。

 酔狂師さん来店。

 Sさん来店

 Mさん、Kさん三名様で来店。

 Yさん来店。

 SEIKOさん二名様で来店。

 Hさん昨日で退職されたそうで、御祝いでドンチャン。

 うちの大学の後輩来店。

 ドンチャン。

 記憶無し。

 営業終了後、うちの大学の後輩と「エムズバー」さんに伺う。

 サル。



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