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酒たまねぎや飲んべえ日記

この日記の文責は、すべて酒たまねぎや店主である木下隆義にございます。



被害者面する朝鮮人の面の皮の厚さ

7月31日金曜日晴れ ×

 朝鮮人と日本人による<『死体溶かし処分』 会社社長強盗致死 容疑者が供述 山林で入れ歯発見>という記事がありました。

 朝鮮人、支那人の中にはわざわざ犯罪をする為だけ我が国に入国してきている輩が多く存在します。

 そして、在日朝鮮人の犯罪率も日本人の三倍です

以下はその現実を無視して、東京新聞に七月三日に掲載されたアホ記事です。

以下引用

 裁かれることはあっても、裁く側には立てない−。これが日本で暮らす外国人と裁判員制度の関係だ。その構図は、約十年前に国会で論議された「永住外国人の地方参政権問題」とよく似ている。とりわけ、永住者の多数を占める在日コリアンの間では同制度の掲げる「市民感覚」と、根強い差別・偏見を別物に考える人は少ない。多民族化が進む日本社会の流れに、この制度は逆行しているようにもみえる。

 「凶暴な在日朝鮮人」「日本国内でやりたい放題」という文字がでかでかと踊る。インターネット上のあるブログの画面だ。「朝鮮人」「在日」という部分は赤字。別のサイトには「在日を一掃しないと日本に平和はこないな」「公開処刑のレベルだろ」とあった。

 これらの書き込みは、大阪府東大阪市で昨年12月、タクシー運転手が殺害されて現金が奪われた事件で、強盗殺人容疑で逮捕された韓国籍の在日コリアン、安承哲(アンスンチョル)被告(37)=別の強盗事件で公判中=に対してだ。

 この事件も裁判員精度の対象になる。在日コリアン弁護士協会(LAZAK)の金喜朝(きんよしとも)会長(大阪弁護士会)は「凶悪な事件として注目され、さらに『在日』ということで、裁判員によっては不利な取り扱いを受ける恐れも否定できない」と表情を曇らす。

 逆に在日コリアンが被害者の事件で、裁判員制度の対象になるケースもある。東京都足立区で今年5月に起きた殺人事件では、被害者が韓国籍の女性(66)。被害者の近所に住んでいた藤井勝吉被告(72)は「日頃から被害者ともめていた」と主張している。

遺族は「殺害の動機に『在日』への偏見が含まれていたか否か、(被害者の)名誉回復のためにも確かめたい」と被害者参加制度を活用する意向だという。

 事件と国籍の絡みに裁判の当事者らがこだわることには理由がある。

 弁護士らでつくる研究会が1980年代に東京地裁で裁かれた約700件の窃盗事件を分析、日本人と外国人の量刑を調べた報告がある。

浮き彫りになったのは、外国人の方が実刑になる確率が高いという結論だった。

 例えば、85年1月〜88年3月までの統計では、「万引」の執行猶予率は日本人が62.5%なのに対し、外国人はわずか23.6%。85年4月〜88年3月までの前科・前歴のないケースで比べると、「万引」での日本人の執行猶予率は100%なのに対し、外国人はわずか2割だった。

 この調査に携わった大貫憲介弁護士(第二東京弁護士会)は、「当時は東京地裁に外国人専門部があり、外国人と犯罪をつなげてみる傾向が強いと言われていた。現在はこれほどの差はないと思うが、本質的にアジア系外国人を差別視する構造は変わっていない」と話す。

 「司法修習生時代、法廷から戻ってきた裁判長が、法廷で証言した在日コリアンの証人を指して『外国人はうそつきだからね』と言い放ったのを聞いて驚いた。法曹界は偏見に満ちている。一般市民が入った方が改善されるかもしれない」

 大貫弁護士は「市民感覚」に差別、偏見を乗り超える期待を膨らませるが、逆に不安を抱く人もいる。在日コリアンで大妻女子大の鄭暎恵(チョンヨンヘ)教授(社会学)は裁判傍聴に訪れた際、法廷の外に掲示されている外国人の被告名に傍聴人らが「ああ、やっぱり」とつぶやく光景を何度も見てきた。

引用終わり

 よく知られているように、戦後、朝鮮人は我が国において非道の限りを尽くしました。

 しかし、今、問題なのは現在、我が国においての朝鮮人なのです。

 元公安調査庁・調査第二部長だった菅沼光弘氏は、平成十八年十月十九日に外国人特派員協会における講演で、

現在の日本のヤクザにおける構成員あるいは純構成員といわれる人たちの割合を

六十%が同和関係者

三十%が在日朝鮮人

と述べています。

 

 現在、我が国の人口一億二千万人のうち在日朝鮮人は五%程度の五二万人

 平成十九年末の警視庁発表の我が国の暴力団構成員及び純構成員は約八万四千二百人となっているので、

 その三十%が在日朝鮮人だとすると、

 八万四千二百×三十%=二万五千二百六十人となる。

 在日朝鮮人の成人男子は約二二〜三万人として、十一%弱がヤクザということになる。

 成人男子のうち約九〜十人に一人が腐れヤクザをやっている民族ということになります。

 現実に在日朝鮮人による犯罪は、

 殺人では日本人の二・八倍、強盗では四・五倍、強姦三倍

 暴行四・五倍、恐喝三・六倍、詐欺二・四倍、覚醒剤取締法違反五倍という統計もあります。

http://web2.nazca.co.jp/midorinosono/#431

 

 これだけでも充分「ああ、やっぱり」と言われる確立は高くなると思うのですがいかがでしょう。

 通名などという偽名を使いながら「民族の誇り」などとクソ戯けた事を言い、

「差別だ」「差別だ」と叫びながらも生活保護、犯罪率の高いままの在日朝鮮人は、

もっと、自分たちの現実を見つめ直した方がよい。

 何度も書いてきましたが、他国において外国人として生きていくためには、あるいは帰化後も何らかのハンディを負って生きていかねばなりません。

 「差別するな」「差別するな」と叫ぶだけでなく、

そのハンディを乗り越え、その住んでいる国に奉仕し、その民族が尊敬されるようになるためには、そこの国民以上の努力が必要です。 

米国における日系二世部隊の苦闘をみるまでもなく、解決するのは、他人ではなく自分たちの努力しか無い事を肝に銘じるべきです。

 何の努力もせずに「差別だ」と叫ぶだけでは百年経っても

「あ〜やっぱり」

と言われ続ける事でしょう。

 Tさん来店。Oさん二名様で来店。Oさん二名様で来店。

 中島さん五名様で来店。

 酒井さんが御結婚されるそうで、その御祝いも兼ねてドンチャン。

 灯をつけっぱなしで、鍵も閉めずに店で寝てました。

 まあ、床じゃあなかったけど・・・・・・


四四二部隊の英雄が受けた醜い洗礼

7月30日木曜日晴れ ×

 「ハワイ日系米兵」には「帰還兵を待っていたもの」としてツカノ・ジョン・トシオ(John T. Tsukano 塚野ジョン敏夫)氏の手記があります。

 ジョン・ツカノ氏はドイツ国境に近いフランスのヴォージュ山中の戦いにおいて、「塹壕足」に罹って、一歩も歩けなくなり、後方の病院に送られ、昭和二十年十二月に一足先にハワイに帰る事を許される。

 途中、船を待つ為にロスアンゼルス郊外のキャンプ・ベーレに入った。

 そのついでに、戦地に向う前に友人に預けておいた日誌や記録などを受け取るため、サンディエゴの友人宅を訪ねる。

 キャンプ・ベーレからバスでロスアンゼルスに行き、またバスに乗り換えてサンディエゴに行った。ロスアンゼルスのグレイハウンドバスの駅において、いわれなき理由により逮捕され刑務所に入れられた体験談として掲載されているものがあります。

 入隊以来イタリア、フランス戦線に従軍し、紫心章、軍団勲章、戦闘歩兵章などを受章した四四二部隊の英雄が、ハワイの除隊式に参加するために帰る途中に米国本土においてどのように扱われたかが書かれているものです。

<「おいそこの兵隊、パスを見せろ」彼らは私の外出許可証を長い時間をかけて調べながら、私を見たり、互いに小さな声でヒソヒソと話をしていた。二人は納得したように頷き、一人が「一緒に来い。お前を逮捕する」といきなり言った。

 一瞬、何を言われたのかわからず、彼が冗談でも言っているのかと思った。「この外出許可証は、キャンプ・ベーレに到着するまでに有効期限が切れるはずだ」「はいそうです」と私は答えた。

 「でも、この外出許可証は、それでも有効です。サンディエゴからのバスが遅れたので、キャンプ・ベーレ行きに乗り遅れたのです。

 私に力を貸してください。ハワイでの名誉ある除隊式に参加するために帰る途中なんです。

 ハワイ行きの船に乗り遅れてしまいます。

 どうか、キャンプ・ベーレ行きの次のバスに乗らせてください。

 両親にはクリスマス頃に帰ると伝えています。

 父は病気ですし、クリスマスまでに帰らなければ、どんなにがっかりするでしょう。

 どうかお願いいたします。」

 略)

 二人のMPは猫が鼠を追い詰めるように、私をじわじわといじめてきた。「われわれはお前のような奴を取り締まる命令を受けている。お前を連行する。一緒に来い」

 その時の私の怒りは、言葉では言い表せないほどだ。

 略)

(木下注 取り調べもされずに) 

 翌日、私は他の刑務所に移送された。その刑務所は鉄道の駅の近くにあった。鉄条網でグルリと囲まれ、見張台が設置されている大掛かりなものだった。解放されるなどというのは、もはや奇跡に近いことだと感じた。正直なところ、私が犯した罪(?)を考えさせるため、一晩だけ足止めされたとばかり思っていた。しかし、現実はそうではなかったのだ。

略)

 検査が終わり(木下注 検査であって取り調べではない)囚人房に連れて行かれた。そして背後で、鉄の扉が閉まる鋭く思い音が聞こえた。

 鉄格子の窓の下に座り、私を逮捕したあの二人のMPが私にした事を思い出していた。緩慢な態度、私をごまかしたあの微笑み、気持ちを弄んだ態度、そして、戦いを終えてヨーロッパ戦線から帰還したばかりの兵士を、見事に無視した行為。それらが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

 略)

 しかし、避けられない事態がある日起った。何事が起ろうとも覚悟はしていたが、しかし、ある事が起った。

 略)

私はキャンプ内の食堂に連れて行かれ、そこで掃除をし、ごみ箱を磨き、皿や鍋を洗う仕事をさせられた。

 囚人服を着たままキャンプで働かされたため、キャンプ中の兵士や民間人が私を好奇の目で見ていることがわかった。

 あんな屈辱は無かった。

 最初の刑務所から、セントラル駅近くの刑務所に運ばれるまで、その間、数日が過ぎていた。私は電話をする事も、手紙を書く事も許されなかった。

 略)

 どうしてこんなことが起るのだろうか。ここは自由の国アメリカであり、戦争も終わった一九四五年十二月だというのに。

略)

 これがヨーロッパ戦線で戦った兵士に対する国家の扱いなのか、と思わず怒りが込み上げてきた。こんなことは、自由の国アメリカで二度と起ってはならない、と思った。

 私が理解している事は、私が三年間ヨーロッパで誇りを持って従軍した陸軍が、ひと言の弁解も裁判も無く、私を刑務所に入れたという事だ。

 肘まで水に浸けて皿を洗っている間、私は決心した。こんな状態をいつまでも続けていくことはできない。ここを脱出しようと思った。これ以上、囚人房に居続けることはできない。囚人房をメチャクチャにしてやろうと思った。

 公聴会のチャンスをつくってくれる人の手助けが必要だった。

 私は自分がターゲットにされたと思うようになった。ヨーロッパでの敵よりも、もっと手強い敵に攻撃されていると思った。

 ヨーロッパでは、敵が攻撃してくれば、われわれはあらゆる武器を持って対抗することができた。しかし、ここでの私は、堪え難い環境の中で攻撃されている。しかも、私と同じアメリカの軍人たちからだ。

 私の名前、誇り、尊厳のすべてが傷つけられ、その攻撃に対して刃向かう自由さへもない。私の手はだんだんしびれてきた。法律さえも彼らの味方なのだ。彼らは攻撃を免れている。

 こんな汚い話があっていいのだろうか!

 血の通ったアメリカ人など、もはやいないと思った。>

「ハワイ日系米兵」P二三八〜二四三

 

 だが、ジョン・ツカノ氏はこの計画を実行に移す前に、ある大尉がジョン・ツカノ氏の事を日系部隊ではないかと気がつき、話かけて事情を聞き、上官の少佐に伝えて、その翌日すぐにこの刑務所を出ることができた。

 この大尉と少佐は軍人らしく日系二世部隊である四四二部隊も第百連隊にも敬意を表している。

 しかし、ジョン・ツカノ氏が書いている

 

<私が三年間ヨーロッパで誇りを持って従軍した陸軍が、ひと言の弁解も裁判も無く、私を刑務所に入れたという事だ。>

<もっと手強い敵に攻撃されていると思った。

 ヨーロッパでは、敵が攻撃してくれば、われわれはあらゆる武器を持って対抗することができた。しかし、ここでの私は、堪え難い環境の中で攻撃されている。しかも、私と同じアメリカの軍人たちからだ。

 私の名前、誇り、尊厳のすべてが傷つけられ、その攻撃に対して刃向かう自由さへもない。私の手はだんだんしびれてきた。法律さえも彼らの味方なのだ。彼らは攻撃を免れている。>

ということに対する事実の裏付けは、ジョン・ツカノ氏が出所するために翌日行った所長室での所長の言動によく現れている。

<彼はまず「ジャップ」という言葉を私に浴びせた。

「そうか、お前が私をトラブルに巻き込んだジャップか。俺のやり方だったら、お前は永遠にここにいる事になっただろう。」

 略)

 刑務所長の十分間に及ぶ敵意に満ちた言葉からすると、どうも、スーツケースは彼の基に少なくとも数日間は保管されていたようだった。彼は私の日記を読み、スクラップブックに目を通していたはずだからだ。

なぜなら、日記やその他の私の所持品チェックしなければわからない事柄を、彼は知っていたからだ。

略)

「もし、私がお前ならば、カリフォルニアには二度と足を踏み入れないだろう。カリフォルニアにはジャップは必要ない!」

略)

 その所長は、私を言葉で痛めつけることを楽しんでいるようだった。士官として敵性でない言葉を平気で使い、罵詈雑言を吐いた。

 怒りが込み上げてきた。特にある一点だけは我慢ならないことがあり、もう少しで机の上に乗り出して殴りつけてやるところだった。

略)

ついに彼は

「これがお前の所持品だ。これを持ってさっさとここから出て行け!お前の顔など二度と見たくない!」

と怒鳴った。

 私は何も答えず、彼の顔も見ず、スーツケースを持ってグレイハウンドの駅に向うため、その地獄から抜け出した>

「ハワイ日系米兵」P二四六〜二四七

 つまり、ジョン・ツカノ氏が米国のために命を懸けて戦ってきた兵士だという事をわかっていて、このような扱いをしていたのです。

 日系人に対する当時の状況がよく判る例だと思います。

 これについては、橋本明氏も著書「棄民たちの戦場」に下記のように書いています。

<加州を黄禍論の視点で見ると、白いカリフォルニアを標榜する白豪主義に近い感情が対日系人運動であったと分かる。

土地所有と借地禁止を柱にした土地法は制定当初から日本国籍を有した移民を農業から排除する事を目的としていた。

 十カ所の収容所は戦時転住局が管理したが、マザンナー収容所初代所長ロイ・ナッシュはインデアン保護居住区で勤務した対少数民族管理の行政官だった。

日系人には初めて出会った男で、威張り屋の「イヤな人物」だったようだ。>

同書p三四

 当時のアメリカにおける日系人がどのように扱われていたかよく判る事例です。

  小胡子さん来店。Mさん二名様で来店。能登から後輩の横川が来た。マロさん来店。

ドンチャン。記憶はあったと思っているが・・・・・・


日系二部隊と人種差別との戦い

トルーマン・アメリカ合衆国大統領の言葉より

7月29日水曜日くもり ○

 小雨が降りしきる米国ワシントンDC、コンスティチューション・アヴェニュー昭和二十一年(一九四六年)七月十五日、午後二時四十五分、沿道に六千人を超える市民の人垣に迎えられる中を米陸軍第四四二歩兵連隊が隊伍を組んで市中を行進した。

 本来、四千人規模の兵力を擁する連隊のはずだが、数百人を数えるだけである。

 閲兵式では道路脇のビルの窓から紙吹雪が舞うが、この凱旋軍にはそれはなかった。

 終戦から約一年も経ってから帰還兵に対しての凱旋パレードが行われたという異常さが際立っていた。

 整列を終えた第四四二歩兵連隊に対してトルーマン大統領は下記のように挨拶した。

「国家の自由の為に、諸君は我々と共に戦った。

 諸君が成し遂げた偉業にアメリカ国民がどれほど感謝しているか、私は言葉では表現出来ない。

 諸君は戦地で敵と戦ったばかりでなく米国内の偏見とも戦った。

 そして、勝ったのである。

 諸君は、今、それぞれの故郷に帰るところである。

 偏見との戦いは今後とも続けて行かなければならない」

「棄民たちの戦場」P八〜九

 同じトルーマンの言葉が別の著書には下記のように記されています。

「君たちは、自由諸国のために我々と共に戦った。

 私はその事について先ず、おめでとうと言おう。

 そして、私は、合衆国が、君たちの成し遂げた事に対して、どれほど思っているかということを伝える栄誉を、口で言い表すことができないほど感謝している。

 君たちは家に帰って行く。

 君たちは敵ばかりでなく、偏見とも戦い、そして勝ったのだ。

 その戦いを続けたまえ。

 そうして、この偉大な共和国を、憲法がうたっているところの

『全市民のための福祉を約束する国』にするための戦いに勝ち続けるのだ」

 「ハワイ日系米兵」P三四五

 どちらが、原文近いかは私にはわかりませんが、このトルーマン大統領の言葉に日系二世部隊が何と戦ったかが言い表されていると思います。

 この凱旋パレードのあった翌日にニューヨーク・ヘラルド・トリピューン紙朝刊の論説は、戦時中の日系人に対する扱いについて米国の誤りを指摘したものであった。

 <第四四二連隊は日系兵で編成された戦闘部隊であり、彼らの両親は日本移民である。彼らはイタリー、フランスの各戦線で勇猛果敢に奮闘し、パープルハート(従軍負傷章)受賞部隊として表彰され、いままた大統領特功章を授与された。

 省みれば一九四二年初頭、日系米人は戦時緊急措置として西部海岸から立ち退かされ、強制収容所に収容された。

 これら十一万余人のうち三分の二以上はアメリカ市民であった。立ち退きはただ単に真珠湾奇襲という一事から、日系人に対する憎悪と恐怖心を煽られた結果強制されたものであるが、これは採択去るべき性質のものではなかった。

 この悪感情は、戦時転住局が行った慰撫工作、覚醒運動、日系兵自らがあげた勲功によって、また社会の常識がまさって薄れて行った。

 しかし、この過程を経なかったならば、四四二部隊のもつ意義も、人種差別なき民主主義の高揚を叫ぶいわれも存在しえなかったのである。

 我々は四四二部隊に敬意を表する>

 「棄民たちの戦場」P九〜一〇

 しかし、先にあるように四四二連隊の凱旋パレードは終戦から一年も経ってからである。

 これについて、「棄民たちの戦場」に「ジョーU」という暗号名で敵情収集活動に従事し数々の受勲に輝くマックス・アンリ・ムランを父にもち、自身も「USサムライ」という著書もある歴史家ピエール・ムラン氏の四四二連隊第五二二大隊に対する言葉として下記のようにある。

「米軍は、交戦国大日本帝国と同じ血族で構成された日系米陸軍部隊が続々と記録する優秀な戦果を公表したくなかったのですよ。

 彼らは欧州に長い事取り残され、帰米したのは一九四六年正月一日から数日後だった。

 人種差別ですよ。

 あからさまな。

 米軍の完全勝利に最も貢献した砲兵部隊なのに、彼らが参戦した当時とほとんど変わらない偏見が米国に漂っていた。

 そういうことなんです。」

 なぜ、終戦後一年以上も経っての凱旋パレードなのか、

 それについては、このムラン氏の言葉がすべてを現しているように思う。

 

 今日はマロさん「だけ」来店。

 ということで、マロさんのおかげで、今年三回目のオチャッピーはどうやら免れる。

 私は酒は飲まず。

 さっさと寝る。


日系二部隊と人種差別との戦い

クリントン・アメリカ合衆国大統領の言葉より2

7月28日火曜日くもり一事小雨 ×××

 「家の恥になるな」と題されたサミュエル・ササイ氏の手記より

 <両親に相談せず、私は二世部隊に志願し、晴れて米国陸軍四四二連隊の兵士となった。

 一九四三年三月二十四日、私はサミュエル・ササイ二等兵となったのだ。

 私が出征する前日、家族と別れの食事をした。

 私は両親に「さよなら」と言い、母は硬い表情のまま「気をつけていってらっしゃい」と言ってくれた。

 母がどんなに怒っているかわかっていた。私はたった一人の息子でありながら、それを承知で、行かなくともいい戦争に志願したことを怒っていたと思う。

 でも、母は怒りを抑えて、私を送り出してくれた。

 訓練中、基地に母からの手紙が届いた。

 その手紙には、母の心情が日本語で書かれてあり、

最後に

「星の旗をよく守りなさい。

 笹井の家の恥になる事をしたら、聞きません」

 と結んであった。

 それ以後、母は決して私に手紙を書いてこなかったが、姉がいつも手紙をくれた>

 「ハワイ日系米兵」P二一二

  サミュエル・ササイ氏(Samuel Y .Sasai 笹井サミュエル豊)

 大正十三年(一九二四年)、 オアフ島ハレイワ生まれ、

 ハワイ大学、ペンシルバニア大学卒業。昭和十八年(一九四三年)三月二十四日入隊。四四二連隊第三大隊本部所属。

 上等兵、銀星章、紫心章受章。

 サミュエル・ササイ氏は、四四二部隊の兵士が必死で戦ったわけのひとつに「家の名に恥じない働きをしなさい」という両親による教育、忠誠心を叩き込んだ日本の修身のような教え、米国憲法に記載されている国民の義務(武器を持って国を守る)などとともに、「信頼」という言葉をあげながら、下記のように書いています。

<もっとも注目したいのは「信頼」である。

 それは我々二世が、アメリカ人でありアメリカの魂を持ったれっきとした市民だという事であり、それを証明するためなら死をも辞さないということだ。

 冒頭で、二世はこの国では将来が無い、と述べたが、

少なくとも我々が証明出来るのは、肌の色を問題にするのではなく、

いかにその国を心から思っているかということが大事だということだ>

「ハワイ日系米兵」p二一五

 そして下記のようにも書いています。

<二世兵士は米国の歴史の中で、批判された時期があった。

 しかし、今、私は自由のために戦うには、勇気ある行動と意志が必要であると信じている。

 恩や義理、忠誠といった考え方は、決して間違っていないと思う。

 これからも、この考え方が引き継がれていく事だろう。

 両親がいつも言い続けていたことは、「家の恥になるようなことはするな」ということだ。

 この考え方は、家族だけでなく友人やコミュニティー、そして国に対しても言える事である。

 よりよい世界や社会をつくるために努力するなら、決して恥などをもたらすことはないだろう。

 なぜ、あの戦いで強かったのかと尋ねられたら、私は答えるだろう。

 「二世がアメリカ国民であるからだ」と。

 戦友や私は、国の為にすべてを捧げることを最良と信じていた。>

「ハワイ日系米兵」p二一八

 

下記は、全米日系市民協会事務局長であったマイク正岡氏が、昭和十七年(一九四二年)一月にサンタアナで開かれた南加大会に参加し、語りかけた言葉です。

「私はアメリカを信じ、アメリカもまた私を信じるものと確信する。

 豊かな恩恵に浴するがゆえに私はどこでも米国の体面を保ち、憲法を守り、米国の良き市民となるべく誠心誠意その義務をまっとうすることを誓う」

 彼は二世の信条をその一年前に発表している。

 「自分は日系米国市民であることを誇りとする。

 日本人としての背景を持つ身であるが、一層米国の市民であることに誇りを感じている」 

 この書き出しで切々と訴えた信条は、日系人の魂を代弁したものと目された。

「棄民たちの戦場」p二二〜二三

 しかし、日系人は強制的に収容所に送られたのである。

 同じ枢軸国であったイタリア系、ドイツ系移民たちは何もお咎めなしであった。

 このような覚悟のもと、日系人の名誉のため日系二世の人々は戦った。

 そのため、米陸軍史上最強の部隊の一つに数えられるが、最大の死傷率を誇る。

 

 副店長さんSさんと来店。KくんKさんと来店。

 早い時間から飲み、営業終了後にTさんと「エムズバー」さんに伺い、中野の「石松」さんでドンチャン。

 記憶はまったく無い。

 サル・・・・・・・・・・


日系二部隊と人種差別との戦い

クリントン・アメリカ合衆国大統領の言葉より

7月27日月曜日くもりのち雨 ○

 平成七年(一九九五年)、九月二日の午後、ワイキキのメインストリート、カラカウア通りにて米国四軍の家族を先頭に、米国各地から集まってきた退役軍人たち数千人のパレードが行われた。

 その隊列の中で、元第百大隊、そして、四四二連隊の日系二世兵たち約三百人ほどが行進しているのがひときわ目をひいた。

 行進はフォート・デラッシーの軍用敷地前を通り、ワイキキへと向うのであるが、その敷地内に設けられた特別観覧席には、クリントン大統領はじめ各軍の将軍、政府高官が並んで座っていた。

 その前を、現役の歩兵や砲兵隊の行進に続いて、退役軍人らの長い隊列が続いた。

 大統領は、側近と話を交わしながら観覧席の上からこの行進を見ていたが、第百大隊、四四二連隊の老兵たちが胸を張って行進してきた時に、普通は大統領は立たないという慣例を破り立ち上がって挙手の敬礼をし、そして手を振って、この老兵たちに感謝のエールを贈った。

 その五年後の平成十二年(二〇〇〇年)六月二十一日、名誉章授与式で、

クリントン大統領は

「日系二世部隊の父母達は出征する息子達に、

 生きられるなら生きてくれ、

 死ななければならないのなら死んでくれ、

 だが、常に名誉を保って戦い、

 家族と国家に決して恥をもたらすな、

 と言った。

 国家が正しく扱わなかった人々に

 これ程まで仕えてもらった事はかってなかった」

 と述べ、

 五十五年経過し、投げ込まれた手榴弾に覆い被さり自らを犠牲とし戦友を守ったという第百大隊A中隊のサダオ・ムネモリ上等兵に与えられただけの最高勲章である名誉章の受賞者をダニエル・イノウエ大尉など二十名が追加し、受章した。

 このクリントン大統領が述べた日系二世出征時の日系一世の言葉は「ハワイ日系米兵」にいくつか具体的に書かれています。

そのひとつ、

アーネスト・ウノの手記より

<クリスタル・シティで家族が合流した後、私は父からの英文で書かれた長い手紙を受け取った。

 それには、父の忠誠心は日本の天皇にあり、祖国へ帰る事が運命である、と父が心から信じている事が書かれてあった。

 しかし、私が米国国民として陸軍に入隊したからには、軍人として恥ずかしくないようベストを尽くし、戦場では死を賭けて懸命に務めるようにと忠告された。

 父にとっては、生き恥をさらして帰ってくるよりも、

死んで国に忠義を尽くすことこそが英雄であり、最大の誇りであったのだ。

 父は国のために死なないならば、それは家族の恥であると書いてきた。

 私は父の言うとおりにしようと思った。

 そして、私自身に「さようなら」をつげたのであった>

「ハワイ日系米兵」P一三二

 このアーネスト・ウノ氏(Emest UNO 宇野アーネスト)は、大正十四年(一九二五年)米国ユタ州、ソルトレーク・シティ生まれであり、アマチ収容所に強制収容されたが、昭和十八年(一九四三年)八月四日、四四二連隊に志願する。

 その訓練中に、母、二人の弟、妹たちが、アマチキャンプを出て、父親のいるクリスタル・シティのキャンプに合流する。

 このクリスタル・シティのキャンプは国外追放に値する敵性外国人の収容所であった。

 アーネスト・ウノ氏の父親は、家族を連れて日本に帰る事を嘆願していたのである。

 上記の手紙は、その父上からの収容所からの手紙である。

 ウノ氏はヨーロッパ戦線に従軍し、帰還した時点で長期休暇が与えられたが、ウノ氏の帰る家は無く、制服に受章した銀星章を胸につけて、ウノ氏が向った先はクリスタル・シティのキャンプであった。

 米国の為に戦ったウノ氏にとっての「帰郷 ホームカミング」とは、強制収容所に入れられたままの家族に対して、「ただいま」という無事を知らせる挨拶をすることであった。

 

 戦争が終了後に除隊したが、 戦争が終わった後も、家族はまだ強制収容所に入れられたままで、昭和二十二年九月にやっと解放されている。

 

続く

 

 今朝、明るくなるまで部屋でゴロゴロしながらマンガや本を読んでいた。

 起きると、やっぱり、筋肉痛。

 昨日買ってきた「二世部隊」のDVDをパソコンで観る。

 テキサス大隊救出も軽く描いてあり、 四四二連隊の構成部隊のひとつである第五二二野戦砲大隊 によるユダヤ人強制収容所開放も描かれていない。

 まあ、白人の視点から作っているので、こんなもんだろうと思う。

 DVDを観ながらボロボロになったジーパンの修理。

 学生時代も合宿所で同じような事をやっていたような・・・・・・

 今日は一歩も外に出ずに過ごす。

 酒は飲まず。


7月26日日曜日晴れ ○

 雲一つない晴天。

 午後よりスポーツセンターに行く。昨日出来なかった肩、腕、下半身、有酸素運動のメニューを消化。

 帰りに久しぶりに高田馬場にある「とん喜」(字があっているか今イチ自信がない)にて食事。

 

 帰宅後、すぐ風呂に入り汗を流す。ただ、本を持ち込んでいたので、ぬるいお湯で長風呂。

 

 今日は酒は飲まず。

 写真はマラミエーロのスプマンテ

 

 楽天などでも、スプマンテとしてはちょっと高めの値段設定と思いますが、

インポーターさんがお勧めというので、購入。

(楽天などで購入するより安いし)

マラミエーロはこのスプマンテは八千本程造っているそうです。

 

次回のシャンパンの会の時にも一緒に出させていただきます。

 

 


日系二世部隊Go for Brokeと万歳突撃

7月25日土曜日晴れ ×

 Go for Broke

 この意味はサイコロ賭博等で大勝負に出る「一か八か当たってくだけろ」という意味になるそうで、これは、第二次世界大戦中に米国日系人志願者で組織された第四四二連隊戦闘団(442nd  Regimental Combat Team’)のモットーだそうです。

 第四四二連隊戦闘団は指揮官などの一部白人以外はすべて日系米国人による志願兵で構成されていました。

(ただ一人の朝鮮系米国人士官としてキム・ヨンウク氏がいました。キム氏は日系人兵士からも信頼されていたそうです。)

 当初、米国本土から三千人、ハワイでは千五百人の割当になっていたが、ハワイでは一万人が志願し、二千六百人が採用されました。

 日系人が収容所に入れられていた米国本土では千二百五十六人が志願し八百人が採用されただけだった。

 四四二連隊に先立ち設立された第一〇〇大隊は千三百人が選ばれて、日系人の名誉回復のために戦っています。

 昭和十八年(一九四三年)九月二日、第三十四師団の第一三三歩兵連隊に配属され、九月十九日にイタリア半島ナポリ南東に上陸。

 九月二十九日に第一〇〇大隊のシゲオ・タナカ軍曹は待ち伏せていたドイツ軍の敵機関銃の位置を知るため、わざと見えるように前進し撃たれる。死ぬ前に敵機関銃の位置を示した。この決死の行動により小隊は敵陣地を潰す事ができた。

 タナカ軍曹は死後、米軍第二位の勲章である殊勲十字章(DSC)を受けました。

 十一月三日、第一〇〇大隊は三度目のヴォルトゥルノ渡河を行った。翌日、キム少尉が銃弾に倒れたと見えたとき、ロバート・オザキ曹長は小隊に「着けっ!剣」を命じ、全員が「万歳」を叫びながら突撃し、仰天したドイツ軍を蹴散らし、これはイタリア戦線において米軍最初の銃剣突撃となりました。

 十一月十一日に別の部隊と交代するまでに十九個の銀星章を得たが、士官三名、下士官七十五名が戦死し、士官十八名、下士官二百三十九名が負傷しました。

 その後イタリア戦線で最も悲惨で悲劇的だと言われるカシーノの戦いへと突入。

 ドイツ軍は聖ベネディクト修道院の建つ高さ約五百メートルのモンテ・カシーノ頂上から前面の谷全体を見下ろし、戦車砲、野砲、多連装ロケット、そして機関銃の十字砲火で、山下の隠れる場所の無い連合軍兵士に狙いを定めていた。

 防御線グスタフ・ラインの主抵抗線はラビド川であった。

 この川は深さ約四メートル、川幅八〜二十メートル。切り立った両岸は高さ一〜二メートルだった。

 第三十六師団の攻撃失敗後、その北翼で三十四師団が攻撃を開始する。

 昭和一九年」(一九四四年)一月二十四日夜、第三十四師団百三十三歩兵連隊に配属されていた第一〇〇大隊のA中隊とC中隊がドイツ軍の砲火と機関銃弾の中を前進し、夜明け頃に川の土手まで取り付いた。

 B中隊は昼間にドイツ軍の銃砲火の前に倒され、百八十七名中たどり着いたのはわずかに十四名だけであった。

 多くの兵を失った第一〇〇大隊は、そのため、後退を命じられ予備となった。

 二月八日、第一〇〇大隊はモンテ・カシーノ中腹で攻撃をかけ、修道院に近い重要な高地を確保したが、第三十四師団の両翼部隊が第一〇〇大隊の前進速度についていけずに、四日間守ったが後退を命じられ、再び予備部隊となった。

 二月十八日、三度目の攻撃をかけたとき、既に第一〇〇大隊の兵力は大幅に減っていた。大隊は修道院に上る途中の拠点を取り返したが、さらに二百名を失った。四十名いた小隊は戦闘が終わったときは五名となっていた。

 頂上に届かなかったとはいえ、交代した英連邦軍兵士や新聞記者達は第一〇〇大隊を絶賛した。

 三月、二百名の補充兵を受けた第一〇〇大隊はイタリア半島アンツィオ海岸に上陸。

 ここで、第一〇〇大隊の唯一の朝鮮系米国人士官であるキム・ヨンウク中尉とアーヴァン・アカホシ上等兵は敵軍に関する情報を得るため、白昼、敵陣に忍び込み、捕虜を得てくる事に成功し、必要な情報が得られた。

 この事により、第五軍司令官クラーク中将は二人に直接、殊勲十字章を授与した。キム中尉はその場で大尉に昇進した。

 キム・ヨンウク(英語読みでヤング・オゥク・キム)大尉は日系兵士からも信頼され、朝鮮戦争でも米陸軍歩兵大隊長として戦い、後に大佐で退役しています。

 第一〇〇大隊は連合軍の尖兵として進撃していながら、ローマ手前十キロの道路脇で停止を命じられ、後から来た部隊が横を通過し、ローマ入城を向っていくのを見守るしか無かった。

 その次の夜、トラックでローマ北西に向い、米本土から到着したばかりの第四四二連隊の指揮下に入り、実質的には第一大隊となったが、それまでの目覚ましい戦闘実績により第一〇〇大隊という部隊名がそのまま使われる事になったそうです。

続く

 午後よりスポーツセンターに行くが、今日は時間がなかったので、背中と胸部のみのメニューを消化。

 Sくん二名様で来店。初めてのお客様来店。この御客様はクライン孝子氏のホームページ(http://www.takakoklein.de/

に掲載されていたという私が七月一日にクライン氏に出させていただいたメールを見てご来店いただいたそうです。

 私はクライン氏のメールマガジンは拝見していたが、ホームページはそんなにチェックしていなかったので、私のメールが掲載され、それによって、西村眞悟議員の選挙区が訂正されていたことも知りませんでした。

 同じく初めてのお客様Tさん来店。Iさん、Hさんと来店。

 Oさん二名様で来店。マロさん来店。花火見物帰りという浴衣姿のWさん二名様で来店。

 土曜日だというのにどういうわけか大忙し。

 遅い時間から飲み始め、Wさんなどとドンチャン。

 店で飲んでいたら、大家さんが月下美人が咲いているよと知らせてくださる。

 ちょっと、満開より時間が過ぎていたように思うが、きれいな花を咲かせていた。

 記憶はめずらしくあったように思ったが、そのまま後片付けもしないで、灯もつけっぱなし、入り口の鍵もかけずにカウンターの椅子をならべて寝てしまう。


戦後の米軍による日本占領政策

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによる言論統制

7月24日金曜日くもり ×

 いまさらですが、占領下における憲法制定がどうして可能であったか。それは、占領軍による徹底した言論統制によるものです。

 民主党の戦時売春婦擁護法案、外国人地方参政権などという我が国解体のためのアホな政策を持ち上げる腐れマスゴミ、反日新聞の朝日新聞の醜い社説などを読んで思うのは、故江藤淳氏がその著書「閉ざされた言語空間」に書いた「CI&E文書が自認する通り、占領初期の昭和二〇年から昭和二三年にいたる段階では、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムはかならずしもCI&Eの期待通りの成果を上げるにはいたっていなかった。しかし、その効果は、占領が終了して一世代以上を経過した近年になってから、次第に顕著なものとなりつつあるように思われる」(P二七二)という文章の確かさです。

 江藤氏は自身の著書である「閉ざされた言語空間」(単行本としては平成元年八月文藝春秋刊 引用ページは私の手元にある平成六年第一刷として出された文春文庫版による)において、米軍が我国において占領政策として日本人の思想および文化を破壊するためにどのようなやりかたをしてきたかを、アメリカのウィルソン研究所に招かれて研究していた時に、アメリカ国立公文書館分室やメリーランド大学付属マッケルディン図書館のゴードン・W・プランゲ文庫などに保存されている一次史料により明らかにしています。

 後に、同じメリーランド大学付属マッケルディン図書館のゴードン・W・プランゲ文庫の調査・研究によるものをまとめた著書であり、当然、江藤氏のこの著書「閉ざされた言語空間」による多大な影響を受たであろう「抹殺された大東亜戦争」(明成社刊 平成一七年)に、<実はこの『大平洋戦争史』なるものは、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information  Program)といふ、占領軍の情報宣伝機関たるCIE(民間情報教育局)による仕組まれた宣伝活動の一貫だったのであり、その目的とするところは、東京裁判を『倫理的に正当』化するために、『侵略戦争』を遂行した『戦争犯罪人』だけでなく、『日本国民の責任を明確にする』ことにあった(昭和二〇年一二月二一日付、CIE局長ダルクによる覚書)>とまで書いている著者の藤岡寛次氏が、江藤氏の著書に一切触れていないのは残念に思う。坂口安吾の削除された「特攻隊に捧ぐ」が掲載されている事など藤岡氏のこの著書は貴重な著書であるのは間違いなく、そして、藤岡氏のこの著書にある小堀桂一郎氏の推薦文には江藤氏のことを冒頭から書いているだけに余計にその思いは強くなる。

 こういった藤岡氏の姿勢は、正論二〇〇五年九月号の「知られざるGHQの焚書指令と現代の焚書」と題した同様の論文で「戦後ある批評家が語った『閉ざされた言語空間』という言葉があります。

 GHQによって大東亜戦争が大平洋戦争と言い換えさせられるなど日本人の「物語」が消され、アメリカが発明した、アメリカに都合のいい歴史や文化に取って替えられた今日の言語空間を『閉ざされた』と呼んだのである」(同書P五八)とあえて「ある批評家」というような書き方をした西尾幹二氏と通じるものがあると思います。

 同じ占領軍の占領政策について書いている櫻井よし子氏などはその著書「真相箱」の呪縛を解く」(小学館文庫 平成一四年刊)において江藤氏の著書も含めて引用先など細かく触れているのと対照的です。

 些細な事かも知れませんが・・・・・・・・

 バンブーさん来店。二名様来店。小胡子さん来店。

 カトリーヌさん、ロンドンから今日来日の御友人と来店。

 Tさん二名様で来店。

 ドンチャン。記憶あり。


静岡へ

7月23日木曜日くもり時々雨 △

 この仕事をしてからは、ほとんど冠婚葬祭の時にしか着ないスーツにて、午前十一時三分東京発「ひかり四六九号」にて静岡へ。

 午後一時より藤枝にて行われる初亀醸造会長である橋本守氏の告別式に参列。

 終了後、岐阜の酒屋さんである舘社長に藤枝駅まで送っていただく。

 美丈夫の濱川社長、磯自慢の寺岡社長に飲んべえの会の事をお願いする。

 午後三時三十六分静岡発の「ひかり四七四号」で東京へ。

 東京駅について、久しぶりにグランスタにある長谷川酒店さんにお邪魔すると、

ちょうど長谷川社長がブラブラと店内を見ていた。

 一歩社長の車で帰ってくると思って現地で別れたが、

 「タバコ臭いのでやだ」という事で、同じ新幹線で帰ってきたよう。

 「いっぱい種類があるけど、今、売れているリキュールは?」

 「聞かないで、知らんから」

 聞いた俺がアホやった・・・・・

 五時過ぎに店に入り、銭湯に行った後、営業準備。

 

 小胡子さん来店。Kくん三名様で来店。一名様来店。

 ドンチャン。記憶あり。

 


バカピースボートの反核運動

7月22日水曜日くもり △

 ピースボートは反核クルーズとかいうのを昭和六十一年(一九八六年)にやっている。

 ところが、その九年後の平成七年(一九九五年)五月十五日、続いて八月十七日に中共がCTBT(包括的核実験禁止条約)採択直前の核実験を強行し、国際的非難を浴びた時も、何の非難行動もしなかった。

 その平成七年には、南太平洋の船旅としてラバウル、ガダルカナル、沖縄などの戦跡を巡る旅行、夏休み地球一周の船旅と銘打った六月二十七日から十月十三日の中南米旅行を行っている。

 これについて、「一九九九・一・二三 ピースボートにて 尾形憲」と著者のサインがある古本屋で購入した「わが『平和の船旅』」(第三書館 平成九年刊)にはその時の様子として、尾形氏は下記のように書いている。

<韓国からは元慰安婦だった人を含む五人の参加があった。

 水先案内人は矢花公平、臼井敬子、石川文洋、宇井純、西野留美子、橋本勝、河内家菊水丸、内田雅敏、灰谷健次郎、山上徹二郎等のメンバーである。

 略)

 パラオはピースボートで二度目の訪問である。ここは一九八一年自治政府の発足とともに非核憲法が施行されたところで、八六年のピースボート(ボースボートとなっている)は反核のクルーズの一環としてここを訪れている。

 略)

もう一人の女性は(木下注 朝鮮人)わずか十三才で強制連行、船が途中で撃沈されて半日も漂流したりしながら一ヶ月もかかってたどり着いたのがパラオである。そこの病院で昼間は見習い看護婦、夜はすぐ側にあった慰安所で慰安婦をさせられた。相手はだいたい将校だが、月のものもまだない彼女に「いくらなんでも若すぎる」と言ったという。

 略)

 なにかと親切にしてくれた将校もいた。だから、日本人がみんな悪いとは思わない、と彼女は言う。だが、その将校は敗戦の直後自決してしまった。彼をそこまで追い込んだのは天皇だ。「ヒロヒトがにくい!」と彼女は絶叫する。

略)

 彼女たちを含め、船中では日本の戦後補償の問題が何回か討論された。 

 弁護士でわだつみ会の理事である内田雅敏さん、日本の戦争責任をハッキリさせる会の代表臼井敬子さん、ルポライターの西野留美子さんなども参加して熱っぽい討論となった。

慰安婦問題も民間での募金でなどとごまかしをしてはならない、国家としてのきちんとした謝罪と補償をというのが私達の結論だ。

P一三五〜一三七

そして、「アメリカの巨大な影を背に負う中南米」としては

キューバで

チェルノブイリの子供達を療養させているキャンプへ。ここは九十年から受け入れを始めており・・・>

P一四六

コスタリカでは

<ここの平和憲法はお題目ではない。積極的な平和外交の展開に結びついたものである。

 略)

  一昨年来日したアリアスさん(木下注 コスタリカ大統領)は日本の軍備強化を嘆き、その経済力を第三世界の貧困、環境、医療、教育の四つの分野で使うべきではないかと説いている>

P一五八

 <船上の講座でアジア太平洋資料センター代表の井上礼子さんの話も聴いた。この九月はじめ北京で開かれた国際女性会議の模様の報告である。>

P一五九

 などと書いているが、この年に二度も行われた中共支那政府の核実験には一切触れていない。

 

<「ヒロヒトがにくい!」と彼女は絶叫する。

私にはキチガイとしか思えません。

 自分たちの行動の異常さも指摘されているが、理解出来ないらしい。

<帰国してから日本のいろんな風景の入ったカレンダーをスリフト君(木下注 カナダ人)に送り、日本のPKO反対、過去の戦争の反省の上に立った平和憲法のことを書いてやったら、返事の手紙の中で「カレンダーの絵は富士山が最高」、だが、「自分だったら喜んでPKOに参加する」と言っていた。

やはり、平和憲法というのは、ピースボートを受け入れをしてくれる学生たちでも、理解しかねるものらしい。

P一六四

 

 それは今回の北朝鮮による核実験に対しても同じである。

 ピースボートは北朝鮮の核実験に対して下記のように抗議声明を出して入るが、内容は噴飯ものである。

以下引用

 私たちは、東北アジアに暮らす市民として、広島、長崎での悲劇の記憶を共有するものとして、また、1日も早い核兵器廃絶を願うものとして、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)による核実験に対して強く抗議すると共に、この実験が、北朝鮮の市民を含め全ての東北アジアの市民の平和と安全を脅かすものであることを訴えます。そしてこの事態を受け、六者協議当事国に対し以下のことを強く求めます。

私たちはロシアおよび中国に対し、核保有国として核軍縮をすすめるとともに、東北アジア非核兵器地帯の設立に全面協力するよう求めます。

http://www.peaceboat.org/info/news/2009/090526.html

 北朝鮮が核を持つのは、そのように追い込んだことが悪いということのようです。

 だいたい「東北アジアに暮らす市民として」とはなんでしょう。

 どうして、日本人と言えないのでしょう。

 また、「広島、長崎での悲劇の記憶を共有するものとして」とはどういうことでしょう。外国人のうちのどれほどの人々が広島、長崎の記憶を共有しているのでしょう。

「植民地支配に関わる過去の清算」というのであれば、北朝鮮は我が国に対してインフラその他の清算金を支払わなければならないであろう。

何よりも、朝鮮人を全部引き取ってほしいものです。

 北朝鮮と国交を持つ国は160カ国であるが、北朝鮮による国交を持つ国々からの拉致は解決されていない。

 国交正常化が北朝鮮による我が国同胞の拉致解決になる事は無い。

 ピースボートなどというアホ組織が我が国にとり、害になる事はあっても益になる事は絶対にない。

 Kさんお父上と来店。二名様来店。Nさん三名様で来店。Iさん来店。

 今日は明日の静岡行きのこともあり、さっさと帰る。


在日朝鮮人という異常な存在

7月21日火曜日くもり一時雨 ×

 昨日の休みは、米国陸軍史に燦然と輝く日系二世部隊のことについて書かれていた三冊の本を読んでいました。

 その三冊の本に書かれていた日系二世元兵士のみなさん、そしてクリントン元大統領の言葉です。

 <私どもは日本人の誇りを失っていません。

 世界で尊敬される日本が良い行いを重ね、高く評価されれば、同じように日系米国人も尊敬を集めるようになるのです。

 私達はしかし、米国人の魂をきちんと持っています。

 アメリカが我が国なのです。

 だから第二次大戦開始直後この社会から隔離されたとき、私達は場合によっては天皇陛下に弓する立場を固めたのです。

 アメリカに移民し、米国籍を持つアメリカ人だからです。

 祖先は同じでも、またいかに天皇を敬愛していても、

 私達の国は米国であり、遵守すべきは米国憲法なのです>

「棄民たちの戦場」(橋本明 新潮社 平成二十一年刊)P二十九より

 戦後、我が国において、GHQ勤務中、警察予備隊を後藤田正晴と組み立ち上げたハリー福原元大佐の言葉

 

<サイパンでアメリカ軍から離れて谷の中に入って行き、

日本軍と遭遇し、日本軍将校より

「君は日本人でありながら、なぜアメリカ側について戦うのか」と聞かれて、

平重盛の

「孝ならんと欲せば、忠ならず。忠ならんと欲せば孝ならず」という有名な言葉で返したところその日本軍将校は納得した。>

「ハワイ日系米兵」(荒了寛 平凡社 平成七年刊)P三七

コウイチ・クボ軍曹(早稲田大学卒)の経験より

 

 そして、この本の同じページには下記のような記述もある。

<日系人はアメリカ市民であり、かつ日本人の血を受けている。

われわれの通った寺の先生も日本語学校の先生も、

「君たちはアメリカで生まれた二世だから、忠義というのはアメリカに捧げよ」と教えていた。

 だから、個人として、日本につくべきかアメリカにつくべきかという葛藤は、我々の時代には無かったと思う。日本でも戦国時代、兄弟でも親子でも戦っている歴史があるから、日本の文化の中でも、自分が育てられたところに忠誠を誓うのは当然だという気持ちだった>

ヒデト・コウノ

大正十一年(一九二二年)ハワイ島ヒロ生まれ

 昭和十八年(一九四三年)一月、四四二連隊入隊後、MIS所属。硫黄島従軍

 

<「日系二世部隊の父母たちは、

 出征する息子達に、生きられるなら生きてくれ、死ななければならないのなら死んでくれ、

 だが常に名誉を保って戦い、家族と国家に決して恥をもたらすな、と言った。

 国家が正しく扱わなかった人々にこれ程まで仕えてもらったことはかってない」>

 米国最高勲章である名誉章の受賞者が、五十五年を経て見直され、一名より二十名も追加され、二十一名の受賞者になった平成十二年(二〇〇〇年)六月二十一日に行われた名誉章授与式にてビル・クリントン大統領の言葉。

「軍事研究」(ジャパン・ミリタリー・レビユー 平成二十一年五月号 「日系二世部隊『第四四二連隊戦闘団』の足跡」 永井忠弘)

P一九一

 

 我が国においても、大東亜戦争では多くの朝鮮人、台湾人の先人が日本国民として勇敢に戦い、そして、散華された。

 

 我が国に長く生まれ住みながら、外国人として生き、

 腐れヤクザの三割を占め、我が国国民の五・六倍もの割合で生活保護を得て、

それでいて、日本人と同等の権利を求める図々しい現在の朝鮮人の連中となんと大きな違いであろう。

 

 民団はホームページには

 

「在日韓国国民として

 大韓民国の憲法と

 法律を遵守します」

 

 と掲げている。

 

 我が国に生まれ住みながら、その国の為に生きようとせず、

南北朝鮮に忠誠を誓う在日朝鮮人というものがどれほど異常な存在であるかよくわかる実例です。

 

 「花と兵隊」というドキュメンタリー映画が上映される。

http://www.hanatoheitai.jp/ 

監督は松林要樹氏。

私がお世話になっている築地の鮪仲卸「松長」の鵜野省吾氏の友人ということで、この映画の存在を知りました。

 三年もの歳月をかけて撮られたこれらの映像、証言は貴重な我が国の歴史の一ページであると思います。

 よろしければ、足をお運びください。

 

 Hさん来店。二名様来店。Sくん来店。Sさん来店。横浜からAさん来店。

 小胡子さん来店。Iさん来店。Kさん三名様で来店。

 ドンチャン。記憶あり。

 

 


ピースボートのアホウども

7月20日月曜日晴れのちくもり ○

 今、発売されている「正論」八月号、宮嶋茂樹氏の「不肖・宮嶋の現場」というところにピースボートが取り上げている。

 「どの面下げて・・・・恥知らずピースボートに『平和』を語る資格なし」と題された今回の「不肖・宮嶋の現場」Specialでは、

「ピースボート御一行様の厚顔無恥」と題し下記のような指摘をしている。

<ピースボートが自称「うどん屋の娘」の辻元清美センセイが早大時代に立ち上げたのは「正論」読者の皆様ならご承知であろう。そもそも、ここからおかしかないか?辻元センセイは昭和三十五年の生まれで現在四十九才。

略)

 ところが、この「うどん屋の娘」は、プロレタリアートのくせに、客船借り上げ、世界一周クルーズの興行をうったのである。おかしないかあ?

 実家はよっぽど繁盛しとった讃岐うどんのチェーン店か?全国ナンバーワンの製粉業、日清さんか?

 旅行業の許認可、国交省からどうやってとった?

海外航路のルート開拓どうやった?

少なくとも億単位のカネがいるんとちゃうんか?

銀行から借りた?

誰が担保した?

誰が援助した?

それ以後の辻元代表の言動見たら大体想像がつく。>

 

 チャーター料に関しては、「わが『平和の船旅』」(尾形憲 第三書館 平成九年刊)に下記のような記述があります。

 

 <九十四年は第二回目の世界一周である。

略)

 日本発着の世界一周クルーズというのは実に二十年ぶり、しかも、市民レベルで二隻船使用というのは世界客船史上でも初めての事という。部分参加も含め、乗船者は一三九八人、このうち地球一周全行程参加者は六一三人である。

略)

 過去十年の実績があって、ピースボートといえば国内の船会社ではよく知られているが、海外の船会社にしてみれば、法人でも会社でもない得体の知れないしろもの、何億円というチャーター料をちゃんとはらってくれるかどうか信用がおけないだろう。

略)

 このチャーター料がそれぞれ三億五千万円、合計七億円にほかの諸費用を入れると一〇億円をこえるという大仕事である。>

(P九十七〜一〇〇)

 

 一〇億円の仕事を辻元氏は大学時代からやりながら、さっさと放り投げたわけですが、それが引き継がれて、会社でもない、法人でもない組織によってりっぱに運営されているわけです。

流石です。

 ちなみに、この著書が出された「第三書館」という会社は辻元氏の内縁の夫といわれる元連合赤軍北川明氏の会社です。

 

 同じく、宮嶋氏は「自衛隊に礼を述べよ」と題して下記のように書いている。

<自衛隊員たちの給料の何ヶ月ものカネをポンと払って反日航海にでたブルジュアやそれを搾取する労働貴族どもは、自衛隊をさんざん罵倒しておきながら、今になって「助けてください」やと。

 派遣されている自衛隊員は上は四十代の一佐から下は二十才未満の二等海士のニイちゃんや。

 ピースボートの船中と年齢構成は同じや。心中察したれよ。彼らは「おまえら国賊は勝手に死ね」とか思うとっても言わんかったやろ。

 「同じ日本人同士、どうぞ護衛船団にお加わり下さい」と海の男っぷりをみせてくれたやろ。

 彼らがその任務につくにあたり、どれほどの訓練を積み、そして今も過酷で危険な環境におかれとるか、カンボジアの虫さんの環境よりアフリカの民の自然環境より、まず日本人の彼らの環境に思いを馳せよ。そしてこの海域の安全を図るため彼らの基地となる同じアフリカのジブチで百五十人の自衛隊員が、同じ日本人がどれだけ汗をかき続けとるか、その目で見に来ればいい。

 そしてピースボートの代表の甘言につられたことがどれほど浅はかやったか自覚を促したい。

 国際貢献したかったら、外国で貧しい、困った人の役に立ちたかったら、何も大金はたいてピースボートに乗らんでも、海上自衛隊に入れ。なあにまだ間に合う。

 今回の事を深く反省したら、今回守ってくれたように、彼らは受け入れてくれるど。そしたらタダで、いやっというほど船にのれるど。

 それには、今回の礼をちゃあんと防衛省と彼らの母港の呉に行って述べるんや。皆も両親から教わったやろ。人にお世話になったら「ありがとう」って言いなさいと。

 辻元代表の家のうどん屋でもそうなんや。勘定受け取ったら「ありがとうございます」と言うとるハズや。

 そして、悪い事したり、自分が間違っていたら、率直に「ごめんなさい」と謝りなさいと教わったやろ。

 「私達が間違っていました。二度と人殺しだの税金泥棒だの言いません。今度から税金泥棒は辻元の方だと言います」とそこでちゃんと謝るんやで。

 何や大学生にひらがな教えるみたいやが、こんな不肖・宮嶋の助言に目覚めてくれる率直な奴らやったピースボートなんか乗らんわな。まあ、また騙されるんやな。

略)

 ピースボートは世界中で平和の歌を歌い踊りながら、結局、各地でトラブルを巻き起こし、そのケツも自分で拭けなかったのである。

 小さな世界のごく少数の同志たちの間でしか通用しないオノレらの偏った理論に酔いしれ、自己満足しただけなのである。>

 

 しごく、ごもっとも。

 そして、やっぱり反日思想に凝り固まったアホはアホやからピースボートの連中はな〜んにも思わんのやろうな。

 

 もう一回、あの名場面を貼付けときます。

 運動会や、ばか騒ぎやっている間も護ってくれた

 海上自衛隊に礼のひとつもいってもバチはあたらんやろうに。

 やっぱ、脳みそくさっとるな

 しかし、え〜写真やな〜

 

 今日は午後から渋谷でのNHKに対しての抗議デモに参加させてもらうつもりが、

その元気も無く、ゴミを出した以外は一歩も外に出ること無く一日中部屋にいました。

 部屋で買い込んであった食糧をひたすら消費するだけの一日でした。

 米があってよかった・・・・・・・・

 酒は飲まず。


輿兵衛寿司

7月19日日曜日晴れ ××××××・・・・・・・

 午前中にスポーツセンターに行く。今日は昨日出来なかった肩、腕、下半身と有酸素運動。

 店に寄ってから帰宅。

 夕方より西大島にある「輿兵衛寿司」さんに、Mさんと久しぶりに伺う。 

http://r.tabelog.com/tokyo/A1312/A131202/13003079/

その後、神楽坂に帰り、「イデアル」さんに伺い、ドンチャン。

店に寄って生ゴミを出しているのだが、記憶がない。

店の鍵をつけっぱなしにしてあったようで、部屋でダウンしていたら、大家さんから電話をいただく。


 

VanaHについての疑問

7月18日土曜日くもり △

 先月末に「VanaH」という会社についての疑問点を書きました。

まず、飲料水を販売しようとしているのに、直接販売でも販売店に卸すのでもなく、販売の「権利」を一三〇万円で売り、

その「代理店」による販売という形式をとっている。

 そして、「全国のエージェント(代理店)・販売店にてご購入頂けます。 VanaHののぼり・看板が設置されている全国のVanaH Shop <バナHショップ>でもご購入できます。

また、下記のVanaH Shop <バナHショップ> ではファックスによるご注文も承っております。」とホームページに掲載されている店は、FAX番号しか書かれていない。

住所、電話番号も明記されていない。

これでは、店の所在確認もできない。

本当にあるのだろうかと思い、確認してみました。

 

 直接購入出来る店としてホームページにて東京では、VanaH Shopと書かれているのは下記の六店舗です。

http://www.vanah.co.jp/product/shoplist.html#tokyo

 

千歳烏山駅前店 03-3307-4114世田谷区

太子堂店03-3414-8788

桜台店 03-6914-9206練馬区

三鷹駅北口店 0422-59-1487武蔵野市中町(都築ビル3階)

池上店03-5748-3567大田区
緑町店050-3550-2715武蔵野市

 

いずれも、FAX番号だけしか記されていない。

それぞれをGoogleで検索する。

「VanaH Shop 千歳烏山駅前店」の場合

〒157-0062東京都世田谷区南烏山5丁目12-5

電話番号 03-3307-3154

と出てくる。 

 でっ、それを同じくGoogleマップで見てみると、

飲料水販売店舗らしくものはない。

 

同じく太子堂店

東京都世田谷区太子堂4丁目9-5

03-3414-8788

Googleマップで見てみると、どうみてもアパートなど住宅しか無く、店舗など見つからない。

 

「VanaH Shop 桜台店」にいたっては住所すら検索されない。

 

「VanaH Shop 三鷹駅北口店」の場合

も同じく住所すら検索されない。

では、書かれている「武蔵野市中町 都築ビル」で検索すると

東京都武蔵野市中町12110都築ビルと出てくる。

このビルは一階に歯医者さん、その上に着付け教室が入っているが、

VanaH Shopの販売拠点としての表示は検索出来ない。

 

「VanaH Shop 池上店」の場合も住所すら検索出来ない。

 

「VanaH Shop 緑町店」の場合も同じく住所すら検索出来ない。

電話番号も050で始まるIP電話のため住所の地域特定はできない。

 

 「下記のVanaH Shop <バナHショップ> ではファックスによるご注文も承っております。」とうたっているが、少なくとも、その表示されたバナHショップなるものは東京においては、非常にわかりにくく、東京の六店舗として表示されている「VanaH Shop」の販売店に直接買おうと購買者が出向いて購入する事が想定されていないことがわかります。

  FAXのみ表示されているのは、その送られてきた注文用紙を「VanaH」にそのまま送るか、あるいは自動転送になっている、FAXのみを受付て可能性があります。

「ファックスによるご注文も承っております。」ではなく、「ファックスによるご注文『のみ』承っております。」と表示すべきなのである。

 

 普通、特定客だけでなく、不特定多数の客に対しても販売する物品の小売り販売の場合、このような販売方法はとらないでしょう。

 

 

 上場を目指す会社が指定しているホームページに掲載されている店がどういうわけかFAX番号しか書かれていない理由がここにあるように思います。

 

 いまや、銭さえ出せばコマーシャルはできます。コマーシャルをやっているから信用出来る会社イコールではないのです。

 こんな会社の権利に一三〇万??????

 

 あほらし

 

 午後よりスポーツセンターに行く。時間がなかったので背中、胸部のみのメニューを消化。

 醴泉の蔵元の山田社長に電話をする。

 醴泉の飲んべえの会は十一月八日日曜日にほぼ決定。

 

 三名様来店。横浜からYさん来店。

 早い時間からドンチャン。

 めずらしく記憶あり。


部落解放同盟と北朝鮮とのつながり

7月17日金曜日晴れ △

 民主党松岡徹議員はあの犯罪国家である北朝鮮の首領様金日成を讃える生誕九十五周年記念、金正日生誕六十五周年記念として平成十九年四月七日大阪で開かれた「自主と平和のための全国フォーラム」、同じく平成二十一年六月七日に大阪で開かれた「自主と平和のための全国フォーラム」に参加し、挨拶をおこなっている。

 北朝鮮に拉致された我が国同胞の問題が解決されていないのに、国民を守るべき国会議員がこのような行動をとるとは考えられない事ですが、北朝鮮と部落解放同盟の関係を考えた時には、ある意味納得出来る事です。

 以下は「同和利権の真相三」(宝島社 平成十五年)の寺園敦史氏の「部落解放同盟の人権不感症体質を検証する」よりの引用です。

以下引用

< 部落解放同盟は昭和六十年(一九八五年)以来より北朝鮮と密接な関係を維持している。昭和五七年(一九八二年)に上杉佐一郎氏が中央本部委員長に就任後、解放同盟は反差別運動を掲げ国際活動を重視し始める。北朝鮮との交流もその一環であった。

 その交流内容からも解放同盟の人権感覚の鈍さが浮き上がってくる。

 昭和六〇年五月下旬、上杉氏ら本部役員七人が初めて北朝鮮を訪問している。訪朝団は約一週間かけて金日成生誕地や、チェチュ思想塔、板門店、博物館や美術館などをめぐり、観劇、映画『金正日書記』鑑賞など、もっぱら観光旅行をしていたが、金日成と会談したり、チュチェ思想学習会にも参加したりしている。

 解放同盟中央本部編『上杉佐一郎伝』(解放出版社)によると、上杉氏の訪朝の動機は、「あの戦争による日本人の行動に対する深い悔恨の思いがあった」からだという。

略)

 訪問最終日に催された解放同盟主催の「答礼宴」での上杉氏の挨拶は驚くべきものだった。

「(前略)

 なによりも偉大な指導者、金日成主席閣下とお会い出来た事は、私達にとって生涯忘れる事のできない光栄な出来事でありました。

(中略)

 この偉大な事業が、チュチェ思想に導かれたものであることを学び、今後私達の部落解放運動も、いっそうチュチェ思想の学習を深めて行かなければならないと決意しています。

(中略)

 ここで偉大なる指導者、金日成主席閣下の万年長寿と、共和国の人民が敬愛してやまない金正日書記の万年長寿のために

(中略)

乾杯を提唱したいと思います」

(解放新聞 八五年九月九日)>

引用終わり

(p二十九〜三十)

 その後も部落解放同盟の北朝鮮に対しての賛美はやみません。

同じく同書より

<平成十四年(二〇〇二年)六月の組坂繁之委員長を団長とする訪朝団において、

朝鮮対外文化連絡協議会(対文教)を表敬訪問した組坂氏は

<アリラン祭には大いに感動した、と語りながら、日本の軍国主義復活を阻止し、アジアの平和、朝鮮の自主的平和統一にともにがんばりたい、今後とも連帯の絆を強くしていきたい、と語ったという>

(「解放新聞」〇二年七月十五日より)

 同じく同行した笠松「解放新聞」編集長の訪問記

<拉致疑惑、不審船問題、テポドン問題などを含め、何かあると『北が犯人、何をしでかすかわからない』という形で共和国が犯人視されて当然、という空気が作り出されている。>

<学校、学生少年宮殿を訪れ、多くの子供達に接した。その限りでは、子供達の栄養状態は改善されている、と見えた。子供達の目は輝き、自分自身が向上することが、社会全体の向上につながる、という確信に満ちた表情にあふれていた。そこは、受験戦争などとは無縁な、公教育を大切にしながら、社会変革の主体としての人間を育てよう、という政策が見えた>

<たしかに、今は、世界的に孤立を強いられていることからも、いわゆる国力は強いとは言えない。しかし、緑と水にあふれ、ゆっくりと時間が流れるピョンヤンの方が、人間的だと思える。医療費、教育費は無料、というのもすばらしい、と感じられる>

(「解放新聞」〇二年七月二十二日) 

 「不審船」と言われた北朝鮮工作船が東シナ海において、我が国の海上保安庁により銃撃戦ののち沈没したのは平成十三年十二月二十二日の事です。

 よど号ハイジャック犯の柴田泰弘の妻である八尾恵が、すでにこの平成十四年(二〇〇二年)三月十二日に同じくよど号ハイジャック犯の妻である赤城恵美子の第三回公判において証言し、その日にマスコミ各社に当てて、自分の犯行についてFAXを流している。

 この部落解放同盟の連中が北朝鮮に行っているのはそれから四〜六ヶ月以上も経ってからです。

 そして、部落解放同盟大阪府連の委員長役員でもあった民主党の松岡徹議員は、北朝鮮による工作船が引き上げられ、そして小泉首相の訪朝により拉致が明らかになったのちも、朝鮮総連の集会において、我が国の国会議員として挨拶しています。

 北朝鮮と、部落解放同盟のつながりの深さと我が国同胞に対しての意識がよくわかる事例です。

 こんな人間が民主党の「次の内閣」ネクスト副法務大臣だそうです。

ブラックジョーク以外の何ものでもありません。

 同和問題についてはこの後も続く予定です。

 今日、「九平次」蔵元の萬乗醸造さんに電話すると、丁度九平治さんが電話に出てくださり、飲んべえの会の打ち合わせ。

結局、10月3日土曜日に決定。今回の目玉は別誂の一升瓶三年間の垂直。

 

 京都からKさん来店。Oさんのネットゲーム仲間だそうで、そのOさんのご紹介。

 Tさん来店。Kくん四名様で来店。Mさん二名様で来店。Mさん二名様で来店。

 今日は飲み始めが遅く、一応一通り飲んでオシマイ。

 記憶はあり。


民主党 松岡徹

7月16日木曜日晴れ △

 農水省の出先機関で勤務中の違法活動というニュースがすこし前にありました。

 以下引用

 勤務中1400回の組合集会、農水出先機関で違法活動広がる

 略)

 国家公務員法は勤務中の集会参加などを禁じており、同省は職務専念義務違反の疑いがあることを認め、改めて調査を始めた。現在、省内で進められているヤミ専従の調査対象者142人以外の職員も参加していたことが確認されており、違法な組合活動が職場全体に広がっていたことが浮き彫りになった。

 同省が地方分権改革推進委員会に提出した「労働情勢報告」で明らかになった。全農林労働組合の各地での活動状況を本省に報告するため、全国の出先機関が毎月作成しているもので、活動内容や時間、参加者などが記されている。実態を把握しながら放置していた同省の責任も問われそうだ。

 報告書によると、勤務時間内に行われた職場集会、定期大会、組織強化のための「オルグ」は06年度が少なくとも約700回、07年度が約580回、08年度は約130回にのぼった。

 国家公務員法では、労使で行う交渉・協議は勤務時間内でも認められているが、組合の開くオルグや職場集会は休暇を取らなければ参加することはできない。現在、同省が休暇取得状況を順次調べているが、関東農政局(さいたま市)の場合、219人が参加して勤務時間中にオルグが開かれた07年10月25日に、休暇を取得していたのは同局の組合員約480人中、33人だけだった。

略)

引用終わり

(2009年6月17日03時07分  読売新聞)

 そして、その後も

職員の違法な組合活動(ヤミ専従)問題を調査していた第三者委員会の秋山昭八委員長(左)から報告書を受け取る石破茂農水相。就業時間中の無断職場離脱を年間30日以上、行っていた者は198人に上った(15日) 2009年7月14日【時事通信社】

 このように大騒ぎになっていますが、では、民主党の松岡徹氏の場合はどうでしょう。

<2009年1月14日 (水)

部落解放同盟大阪府連の新年出発のつどいで挨拶

1月8日、昨年まで執行委員長を務めていた部落解放同盟大阪府連合会の「2009年出発の集い」に招かれ、挨拶しました。>

と、ご自分のホームページに書いています。

http://www.matsuoka-toru.jp/2009/01/post-2917.html

 ここに書かれているように、松岡氏は部落解放同盟大阪府連の委員長役員でもありました。

そして、部落解放同盟中央本部の書記長で、

公式ホームページのプロフィール では

「1951年11月26日、大阪市西成区生まれ。 1970年、初芝高校卒業。 1972年から89年まで大阪市職員。 1991年、大阪市会議員に当選、3期 12年、人権課題の集中した西成で住民とともに「福祉と人権のまちづくり」に取り組む。」

 http://www.matsuoka-toru.jp/profile.html

と、一九七二年から八十九年まで十七年間大阪市職員となっていますが、下記のようなページが存在します。

<1975年 解放同盟府連市内ブロックオルグに

24歳のとき、府連のオルグになりました。当時は行政闘争が盛んで、大阪市内の要求がどんどん高まり、支部ごとに徹夜の行政交渉が連日続きました。身体はきつかったが各支部の実情や部落解放運動のあり方など全体像が理解できるようになってきました。市内ブロックの運動が府内の各支部の運動に大きな影響を与えていましたので、市内ブロックでの論議はシビアでしたね。良い勉強になりました。こうした組織の裏方として20年あまりやってきたわけです。>

(松岡とおるサイト/松岡とおる物語)

http://web.archive.org/web/20040125213940/www.matsuoka-toru.jp/history.html

 

つまり、大阪市地方公務員であった一九七五年より部落解放同盟大阪府連のオルグ(専従職員)となっている。

専従職員でありながら地方公務員でもあったわけである。

もし、大阪市から市職員としての給料が出ながら部落解放同盟のため専従職員として働いているのであれば、今、騒がれている闇専従になるのではないか。

 「組合の開くオルグや職場集会は休暇を取らなければ参加することはできない。」と先の読売新聞の記事にもあるように、休職扱いであれば、奈良市職員でありながら部落解放同盟県連の奈良市支部協議会副議長であった中川昌史(朝鮮人と同じように南畑安太郎という偽名まで使っていました)のように長期休職扱いであったのであろうか。

 一九七五年から退職する一九八九年まで十四年も休職扱いであったのであろうか。

地方公務員の場合、病気でもなくそのような事が可能なのであろうか。

 現在は、国会議員という公職にある身分としては、当然、このような疑問にお答えいただけるものと存じますがいかがだろう。

ということで、松岡議員に七月十一日にメールにてこのことについて、問い合わせをさせていただきました。

 もちろん、当方の住所、氏名、電話番号も明記させていただきました。

 返事は今日現在いただいておりません。

 Yさん来店。Jさん二名様で来店。Sさん三名様で来店。

 小胡子さん来店。Sくん祝勝会を終えて(抜け出して?)ヘロヘロになりながら来店。

 ドンチャン。記憶は珍しくあり。


靖国参拝はヒトラーの墓参り

7月15日水曜日晴れ 暑い ×

 民主党と社民党との合併話が出ておりますが、その社民党の辻元清美氏の著書より

 

 <国内問題として、靖国神社は多くの人たちを死に至らしめた軍国主義の精神的支柱となった国家神道の中心的存在であった。その反省から戦後、憲法二十条で政教分離が定められたが、首相が宗教法人である靖国神社に参拝することは、憲法違反にあたる。

略)

 日本は「A級戦犯」が、侵略戦争の責任者であり、平和に対する犯罪人であるという東京裁判の判決をサンフランシスコ平和条約で受諾し、国際社会に復帰した。

 この「A級戦犯」が合祀されている靖国神社に首相が頭を下げに行くという意味は国際的に見たら、ドイツのヒットラー(墓はない)の墓参りに匹敵する行為であり、現在の国際秩序破壊のメッセージとなる。

だから、韓国や中国だけでなくアメリカやヨーロッパ諸国からも懸念の声が上がり始めている。

略)

 姑息な手段は使わず、正々堂々と取りやめる事が、首相の未来にむけての責任だと「ある筋」を通じて、私は粘り強く小泉首相にはたらきかけている。

日刊スポーツ連載 辻元清美の「熱血サイト」(2001・8・9)より

 私は、古本屋で購入した「なんでやねん」(辻元清美 第三書館 平成十四年刊)P一五一〜一五二より引用

 

 辻元女史のアホさがよくわかる例のひとつと思います。

 ところで、当時の小泉首相にはたらきかけているという「ある筋」とはどこでしょう。

 社民党の辻元女史だと「心の祖国」北朝鮮の出先機関である犯罪組織朝鮮総連でしょうかW

 南北朝鮮、中共以外に騒いでいるのは、米国などの支那、朝鮮人の反日団体であるが、それを「アメリカやヨーロッパ諸国からも懸念の声が上がり始めていると書くのは、流石に我が国のためにならない事だったら何でもやる辻元清美女史らしいといえばらしい。

 

 スポーツセンターに行く。今日は試験が終わって高校生が来ていて、平日としては利用者が多い。

 一応、一通りメニューを消化。

 夕方、靖国参拝に行く前にと広子さんが店に寄ってくださる。

 御子さんの湧太郎くんとは初対面。元気そうな御子さん。

 尼崎のMさん来店。明日からオスロだそう。Kさん二名様で来店。

 Kくん五名様で来店。Iさん二名様で来店。塩月さん二名様で来店。

 マロさん来店。

 今日はどういうわけか大忙し。

 ドンチャン。記憶なし。


詐欺師?

7月14日火曜日晴れ ○

 今日、関東地方も梅雨明けだそうです。

 今日は(も)ヒマ。

 Tさん二名様で来店。Mさん二名様で来店。

 

 ヒマやな〜と思っていたら、

 午後十時四十三分頃、(〇八〇 −二〇七〇 −七一四アホ)という番号から電話あり。

 

 出ますと、いきなりオバハンの声で、

「でたよ・・・・・」(と、向こうで誰かに向かって話す声)

でっ、

 「たまねぎやホームページ?」

(営業中やし、店におったら出るのが当たり前だろうにと思いながら)

「いや、酒たまねぎやですが」


「あんた、詐欺師みたいなホームページ作ってるでしょう」

「どこが詐欺ですか」

「詐欺師でしょうに」

「ですから、どこがですか」

「今、コピーして配って、訴える準備しているから」

「あなたは、どなたですか」

「覚悟しとき」

 

と、最後に凄みをきかせて電話は一方的に切られました。

 私は、そのあまりにも不気味な電話の内容に、

 恐怖におののき、

 小便をちびりそうになりながらも勇気を振り絞り、

すぐに、その着信歴の(〇八〇 −二〇七〇 −七一四ブタ)に

 かけ直したのですが、オバハンは出ませんでした。

 

 普通は、電話してくる時には、自分の名前ぐらい言うもんですが、

 このオバハンは、そんな最低限の事もできない頭脳のお人のようです。

 ドアホやな。

 

 ところで、ネットで「詐欺師」とひくと、

<詐欺を常習とする者。かたり。いかさまし。>

とでてきます。

 

そして、「詐欺」とひくと

<一、 他人をだまして、金品を奪ったり損害を与えたりすること。「―にあう」「寸借―」

法律で、他人を欺いて錯誤に陥れる行為。>

とあります。

 普通、ホームページに書かれている内容を訴えるのであれば、

名誉既存などが一般的やと思うのですが、なんやろうか。

 どんだけ考えても、残念ながら、人様から「詐欺師」呼ばわりされるほど、そんな高尚なテクニックの使い方知りまへんがな。

 ひょっとして、このオバハン「詐欺師」の意味知らんかったりしてW

 また、店の前にウンチでも置くつもりか?


カラス

7月13日月曜日はれのちくもり○

 去年、一昨年と一回も夏にクーラーを使いませんでした。

 最近は暑いので、扇風機を窓を開けっ放しの窓際に置いて寝ています。

 住宅街の裏通りですので、普段は静かなんですが、夜中に寝たと思ったら、でっかい声で「カア〜、カア〜」と窓の外からカラスの鳴き声。

 え〜、もう朝かと思って時計を見たら三時四十分・・・・

 当然、まだ、真っ暗。

 ベランダに出てみると、道の反対側にある街灯のところにそんな時間になんでかわかりませんが、

カラスが一羽とまって鳴いている。

 私の部屋は三階なので、ちょうど、その窓のすぐ側・・・・・・・

 そのすぐ下では狙ってか?三毛デブ猫がそのカラスを見上げてるし。

 夜中に騒がずに早く帰って寝ろよなとおもったら、しばらくしていなくなりました。

 まあ、それなりに道路を照らす街灯で、明るいから夜更かしするカラスが増えたんでしょうか・・・・・・

 どちらにしても、寝そびれた・・・・・

 仕方ないので、灯をつけてゴロゴロしながら眠くなるまで漫画を読む。

 昼前に起きる。

 昨日、スポーツセンターに行っていますので、当たり前ですが、肩などあっちこっちが筋肉痛。

 午後からえらく久しぶりに「BOOK OFF」に行ってみると、従業員の制服が変わっている。

 いつからなんだろう。

 店の中に流れていた清水国明の声の買い取りアナウンスが無くなって、女性になっている。

 

 今日は酒は飲まず。


支那におけるウイグル人虐殺 抗議デモ

7月12日日曜日晴れ ○

 投票に行った後に、渋谷で行われる「ウイグル人虐殺 抗議デモ」に参加

午後四時過ぎに始まったデモ行進は、ウイグル協会の人たちの仕切りで、いまいちぎこちなかったが、それなりの形で終える事ができた。

コースは 宮下公園 → 電力館 → 渋谷区役所 → 神南 → 「渋谷」駅前 → 宮益坂下 → 宮下公園

 高田馬場に戻り、食事をした後、芳林堂さんに寄り、数冊の雑誌、本などを購入。

 スポーツセンターに行く。

 今日は時間があったので、一通りのメニューを消化。

 店に寄り、生ゴミを出した後に帰宅。


じいちゃんの遺言

7月11日土曜日くもり ○

 午後に店で仕込みをしていたら、電話あり。

 電話番号を見ると「066」・・・

なんか、や〜な気持ちで受話器をとると、昨日に引き続き創価学会のアホ。

いや、もとい、創価学会の熱心な信者さんから。

 

「木下くんですか?」

「はい」

「私、洲本実業の同窓のものですが」

「はい」

「今度の、選挙・・」

「いや、その前に、お名前をおっしゃっていてだけませんでしょうか」

「あっ、○○です。」

「あの〜、存じ上げないのですが」

「いや、ですから、洲実の卒業生のものです」

「洲実と言われても、うちの科は電気ですから、女性はいませんが」

「ですから、同窓生です。今度の都議選のお願いを」

「都議選に大阪からですか」

「公明党にぜひ」

「私を可愛がってくれたじいさんの遺言で、創価学会とだけは絶対に付合うな。

あいつらと付合うと不幸になるといわれましたので、お断りさせていただきます。

じいさんの遺言ですから」

「・・・・・・・」

 

 これから、これでいこう。

 じいちゃん、死んだのいつだったかな・・・・・・・・

 

 昨日の反動で、めちゃヒマ。

 

 二名様来店。Mさん二名様で来店。

 営業終了前に飲みだしたが、そななりだったので、記憶はしっかりとあり。

 店を片付けて帰る。


7月10日金曜日くもり×

 掲示板で中西さんよりお知らせいただいた松尾光太郎さんのブログ

http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba

よりピースボートのバカどもの船を護衛する我が国の自衛艦の写真を拝借する。

松尾さんは随分前に当店でドンチャンやってくださったことがある。

ええ写真やな〜

しかし、ピースボートのカスどものホームページにはナ〜ンにも載ってはいない。

 アホはアホ。

「反対、でも護って」

アホピースボートの事をよく現している。

 今日、営業中に淡路島からという創価学会信者のバカから電話あり。

「木下クンですか?」

「どちらさまでしょうか」

「私、淡路島の洲本実業の同窓生ですが」

「どういったご用件でしょうか」

「今度の都議選には公明党を」

「あっ、私は創価学会は大嫌いですから」

(ガシャッ)

・・・・・・・・・

 初めてのお客様来店。清水さん来店。バンブーさん来店。タケちゃん四名様で来店。小胡子さん、BOOちゃん来店。

初めてのお客様四名様来店。二名様来店。Nさん来店。二名様来店。

Yさん来店。金ちゃんリエちゃんと来店。

合計二十一名様・・・・・

遅い時間から飲み始める。

 ドンチャン。珍しく記憶あり。


7月9日木曜日晴れ ×

 Tさん、Kさん来店。Kくん二名様で来店。Yさん二名様で来店。Tさん島根から来店。Hさん来店。

 ドンチャン。記憶あり。


支那人という厄災

7月8日水曜日晴れ ×

 支那人が東トルキスタンの人々を襲って暴虐の限りを尽くしている。

 支那人がどのような行動をとるかは、我が国においても、昨年の長野においての行動で証明されている。

 このような支那人が現在、我が国の在日留学生数一位を占めている。

<中国教育国際交流協会は20日、記者会見を行い、在日留学生数が2006年5月までで、約11万8千人に達し、うち中国人留学生が7万4千人で1位、留学生の8人に1人が中国人で、 6割余りを占めることを明らかにした。>

「人民網日本語版」2007年8月21日

 

 そして、このような支那人を一人でも多く我が国に入れようと一生懸命なのは、民主党、公明党はもちろん、自民党でも木村義雄議員、中川秀直議員などです。

<移民1000万人を首相に提言 

 自民党国家戦略本部の「日本型移民国家への道プロジェクトチーム」(座長・木村義雄衆院議員)は20日午前、日本の総人口の1割に当たる1000万人程度の移民受け入れを目指す政策提言を福田康夫首相に提出した。首相は「大・人口減少社会に入っていく中で、広く人材を活用しかなければならない。提言を生かせるよう真剣に受け止めたい」と述べ、前向きに検討する考えを示した。

 木村氏やPT顧問の中川秀直元幹事長らが20日午前、首相官邸を訪れ、首相に報告書を手渡した。

 提言では、移民の積極的な受け入れで活性化を図る「移民立国」への政策転換が必要性を強調。外国人政策を一元的に担う「移民庁」設置や移民受け入れの指針となる「移民基本法」制定、留学生の100万人受け入れ−などの政策が盛り込まれている。>

産経2008.6.20 11:19

 

 支那人の強制送還が朝鮮人を抜きワースト一位になったのはすでに五年前です。

 <昨年一年間に不法滞在などで強制送還の手続きを受けた中国人の数が韓国人を抜いて初めてワースト一位になる見通しとなったことが十四日、法務省入国管理局の調べで分かった。

略)

 調べでは、昨年一年間に入管難民法違反で強制送還するか否かを決める「退去強制手続き」を受けた外国人は計約四万六千人。国籍別では中国人が約一万二千人と、前年の九千二百八十七人を大幅に上回って過去最多を記録し、初めてワーストワンになった。一方、十四年まで一位を維持していた韓国人は前年の九千六百五十六人から約千八百人減の約七千八百人となった。

 昨年一年間の中国人の入国者数は約五十四万人と、この五年間で約六割も増加。中国人による犯罪の摘発件数の増加を受け、入管当局などが不法滞在者の取り締まり強化に乗り出していた。

略)

 警察庁によると、昨年の来日外国人の犯罪摘発者は過去最多の約二万人に達し、国籍別では中国人が最多の約九千人で全体の約四割を占めている。 004/05/15 (産経新聞朝刊)

 そんな、支那人が東京には百人に一人いる。

 東トルキスタンの悲劇は、将来我が国でも起こりうる事を示している。

 小胡子さん来店。Mさん二名様で来店。マロさん来店。Sさん、マルガリータさん来店。

 ドンチャン。記憶あり。


山口裕二

7月7日火曜日晴れ △

 あのNHK(日本反日協会)は競馬中継において、国旗掲揚、国歌斉唱の場面でず〜と馬のケツを写し続けた事があります。

 「正論」に中村粲氏が「NHKウオッチング」という連載をされているが、今月発売の八月号にて、今年もNHKは日本ダービー開会式にて国歌と同時に馬の尻を写し冒涜した事が書かれています。

 野球の場合、現在、パリーグでは試合前に必ず国旗掲揚、国歌斉唱が行われているが、セリーグでは国歌斉唱は行われていない。

 (独立リーグでも行われているらしい)

 大リーグには世界各国の選手が集まりプレーしているが、当然、米国の国歌斉唱が行われている。その場合、観衆、選手とも国歌に対し、起立し敬意を表する。どこの国のものであれ、国旗、国歌に敬意を表するのは当然です。

 

 ビッグコミックオリジナル七月二十日号(七月五日発売)に連載されている水島新司氏の「あぶさん」という漫画に、そのパリーグにおける国旗掲揚、国歌斉唱について下記のような場面が掲載されている。

<忙し

 忙し。

 

ただいまより

国歌斉唱、国旗の

掲揚を行います。

 

 国歌だ

 

 君〜が〜代〜は〜

 千〜代〜に〜

 八〜千〜代〜に〜

 さ〜ざ〜れ〜

 い〜し〜の〜>

 

 一番下のコマでは、その場にて立ち止まり国歌、国旗に敬意を表している男性の横を笑いながら話をして通り過ぎる無神経な二人のアホ男が描かれている。

 恥ずかしいが、国旗、国歌にに対しての国民としての姿勢というものを教える事を、腐れ日教組の圧力により長年にわたり教育で怠って来た我が国のこれが結果なのだろう。

 

 水島氏がその場にて立ち止まり国歌、国旗に敬意を表している男性として描いている人物は山口裕二氏

 佐賀県佐賀龍谷高校より

 昭和五十九年(一九八四年)ドラフト二位で南海ホークス入団。

 平成十年(一九九八年)引退。

 フロント職員、今年よりチーフマネージャー。

 

 おそらく、水島氏が山口氏のこのような場面を目にして、このコマを書いたものと思われます。

 私は偶然、コンビニでこの漫画のこの場面を目にして購入いたしました。

 

 セリーグではどうして試合前の国歌斉唱がないのでしょうか。

 あの赤いナベツネ氏がオーナーを務める球団があるからでしょうか?

 

 今日は59Les Paulさん、息子さんと来店。Iさん大学時代の同期の方お二人様と来店。

 ドンチャン。記憶あり。

 


NHKと李鳳宇と井筒和幸

7月6日月曜日雨のちくもり ○

 私はテレビを見ないので知らないのですが、NHKが「韓流シネマ 抵抗の軌跡」、その第一回「それはアリランから始まった」(四月二十八日放送)というのがあったそうです。

 この番組について「激論ムック NHKの正体」(オークラ出版 平成二一年)に但馬オサム氏が「『韓流シネマ 抵抗の軌跡』に一言」(神話化される元祖・韓流映画)として文章をP一一〇〜一一一に掲載しています。

我が国統治下の大正十五年の朝鮮半島において作られた毎日新聞の記事にあったこの伝説の「アリラン」という映画についてです。

 解説を務めたのが李鳳宇氏シネカノン代表だそうです。

 そして、李氏は

<「アリラン」を植民地支配下の韓国人映画人の抵抗と苦悩の象徴であるとし、同作品を韓国人意識を持った韓国人監督の手による元祖韓流映画であると位置づけた。>

としているそうです。

 この李鳳宇氏とは、あのどうしようもないバカ監督の井筒和幸氏の親分であり、井筒氏にあの反日ウソ映画「パッチギ!」「パッチギ!LOVE&PEACE」を作らせた男です。

 この李氏および「パッチギ!」について、自らも朝鮮系日本人である浅川晃広氏は著書「『在日』論の嘘」(PHP 平成十八年刊)において下記のように書いています。

<まず映画の起源は、李が井筒に松山猛『少年Mのイムジン河』を薦めたことである。

略)

この松山の逸話をもとに映画化する運びとなり、井筒が羽原大介と脚本の作成に入ったが、井筒によると、「そういえば彼(=羽原、引用者注)、『在日』の歴史から生活感まで、李プロデューサーからそうとうみっちりとレクチャー受けた言うとったよ」(「パンフ」)とのことである。

 さらに、井筒は「李さんに朝高時代の体験談をぜんぶ棚卸ししてもらって、どんどん脚本にブチ込んだ。だからアンソン、モトキ、チェドキの人物像には、李さんや同級生、先輩・後輩たちの経験がいろいろ入っているんだよね。映画の冒頭にでてくる『銀閣寺バス転覆事件』のエピソードも教えてもらったし」(「パンフ」)とも述べており、李が在日、朝鮮学校関係の原案設定を事実上行ったといえるだろう。>

(「『在日』論の嘘」  P一〇八〜一〇九)

続いて、「井筒は北朝鮮の共犯者か」として

<このように、映画で描かれているものには、ある特定の在日朝鮮人の個人体験や、その意志、意図、思考様式が色濃く反映されているのである。

 李は「一九六八年という時代に朝鮮高校に通っていた男の子の日常といえば、これはもう間違いなくケンカでしょう」(「パンフ」)と述べており、

略)

 こうした製作経緯からも明らかなように、そもそも映画は、李のような朝鮮高校出身者の過去における暴力行為(たとえば、冒頭の「銀閣寺バス転覆事件」はもとより、アンソン等による、赤電話十数個を破壊し、内部の硬貨を略取した上で、空地においてガソリンを振りかけて焼却する行為など)の回願・美化という視点が根底にあり、総連・北朝鮮に対する批判的な視点など、当初からありえないことは明白だ。

 それゆえに、当時の関係者が北朝鮮の問題点を現在の視点から噛み締め、自己の行為を反省し、贖罪するなどというものではとうていない。依然として、帰国運動等の北朝鮮による恐るべき犯罪行為と、自らの暴力行為を半ば肯定し、そして自己満足・正当化するという大きな制作意図があるのだろう。

 略)

 その意図は、「帰国事業」や「拉致」を始め数え切れない人々の命を奪い、塗炭の苦しみを与えている北朝鮮体制の本質の隠匿であり、そこに関与した人々の免責であり、また、井筒のような「社会派」を自称する人間が「日本人に虐げられてきた在日」を描き出す映画を作る事で事実上の北寄り発言権を獲得する目的もあるのかもしれない>

(P一〇九〜P一一一)

 井筒氏は自らの著書「民族の壁どついたる!」(河出出版 平成十九年刊)において朝鮮人の暴力性について下記のように擁護しています。

<植民地政策によって祖国を奪われた移民たちが、宗主国に住みつ、子供が生まれ、孫が生まれ・・・・と世代を重ねていくうちに、「俺たちの祖国はどこなんだ!」、「自分らの民族性を隠して暮らすのはもういやだ!」という反抗がもとで、テロや暴力、武力闘争に発展していくんです。>

(p一一〇)

 まあ、ここまでアホも少ないと思いますが、我が国に住み着いている朝鮮人は自らの意志できたのであり、それは戦後も一番の不法滞在外国人が朝鮮人である事からも明らかです。

 今現在、他国における移民としての日本人と朝鮮人の一般的評価の違い等を井筒氏は考えようとしないし、理解しようともしない。

 そんな考え方を持った李氏が解説を務める番組ですから、但馬氏が

 <番組は当然の事ながら、羅雲奎監督の強い民族意識に対する賞賛と抵抗史観にもとづいて話が進められており、おそらくこれを見た日本人は韓国に対する新たな贖罪意識を植え付けられたことだろう。>

と書くような番組だったようです。

 ただ、但馬氏も指摘されていますが、

<韓国人が好んでいうところの「人類史上類例のない過酷な植民地統治」下でどうしてこのような反日映画の製作・公開が許されたのだろうかということだ。

 それに関して、番組では時代背景を含めた一切の説明がなされてないのである。

 考えてみてほしい、チベット人が中国共産党の圧政を告発する映画を作り、中国国内で上映することが可能だろうか。

 はたして、北朝鮮で体制批判の映画が生まれるだろうか。

 GHQは日本占領時、表現活動のことごとくを検閲しチャンバラ映画でさえこれを禁止したではないか。それに比べ、この時代の朝鮮総督府の検閲がいかに寛容だったかわかろう。>

 この但馬氏の言葉がすべてを語っていると思います。

 NHKや朝鮮人がウソをついて、我が国においての戦前、戦後の悪行を隠匿し、被害者面していかに歴史を歪めてきたか。またそれを続けようとしているかのよい例だと思います。

 

 この映画に対して李鳳宇氏が使った「元祖韓流映画の原点」というのは、どこかで読んだ事がある思って、探したら、この「アリラン」について報道された時に毎日新聞が使用しています。

下記はその数年前の毎日新聞の記事です。

 以下引用

(韓流の原点)傑作映画「アリラン」は? 伝説の収集家死去

 映画人の間で「伝説のコレクター」と呼ばれていた東大阪市の映像収集家、安部善重(よししげ)さんが9日、亡くなった。その中に植民地時代の朝鮮でつくられた傑作映画「アリラン」が眠っている可能性があり、南北朝鮮の映画関係者が争奪戦を繰り広げてきた。収集家に身寄りはなく、文化庁が調査に乗り出すことになった。韓流映画の原点は見つかるか?

略)

 「アリラン」は、夭逝(ようせつ)の天才映画人といわれる羅雲奎(ラウンギュ)が監督、主演した無声映画。1926年に製作された。日本の植民地支配に抗議する三・一独立運動の際に拷問にあった大学生が故郷に戻り、家族を苦しめている地主をかまで殺害、警察に捕まるという筋書き。連行されていくラストシーンで、観衆は日本人にもなじみのある主題歌「アリラン」を涙ながらに歌ったといわれている。

 略)

  映画評論家でもある文化庁文化部長の寺脇研さんは「日本で見つかったとしても、それはアジアの宝、世界の宝。必要なら韓国の専門家にも協力を仰いで調査したい。韓流映画のルーツですからね、発見できればうれしいですが……」と話す。

 略)

(毎日新聞) -平成17年 2月11日3時2分更新

 まあ、植民地と書いてあるのは毎日新聞だからしかたがないかなと思いますが、このニュースで我が国の併合時代に朝鮮人映画監督、主演により反日映画が作られて上映されていたという事実について毎日新聞も何も書いていません。

 それが許されていた日本統治時代だったということです。過酷な統治とはどういうことなのでしょう。

「家族を苦しめていて殺害される地主」というのは朝鮮人という事も書いていません。実際、朝鮮半島において当時の地主のほとんどは朝鮮人でした。

 朝鮮人にとっての「過酷な統治」とは、餓死者が激減し、人口が倍に増え、帝国大学も作り、識字率もアップし、奴隷がいなくなったという不思議な統治。

あほらし

 今日は昨日の酒のせいもあり、どこにも行く気もなく、部屋でゴロゴロして一日が終わる。

 酒は飲まず。


飲んべえの会シャンパン

7月5日日曜日晴れ ×××

 今日は飲んべえの会として、初めての「シャンパン」

 アンドレ・クルエ
 UJ1911NV (アンドレ・クルエの最高峰 限定1911本です)       
 ミレジム 2002
 ミレジム 1995
       
アルフレッド・グラシアン 
 ブリュット・クラシック
 ブリュット・クラシック ロゼ
 キュヴェ・パラディ ロゼ 
 キュヴェ・パラディ     (アルフレッド・グラシアンの最高峰)
 

 長野から御参加のYさんを初め七名様が参加してくださいました。

 チョンイル新聞のデスクであるOさんが、グリーンピースの砕氷船に三週間以上にわたり同乗して取材をしていた時に、河岸で買って持っていった鯨の缶詰を連中に日本の「スペシャルミート」と言って食わして、翌日の船内会議で問題になったという話は大受け。

ちなみに、連中は旨い旨いと言って食ったそうな。

公表、口外しないということで、船から降ろされ得ずに済んだそうだが、降ろされて記事にしていた方が良かったと思うけど・・・・・

 写真は飲み始めてしまい、気がついたときはお帰りになられた方もいた後。ということで、なし。

 三時から六時までの予定が、延びにのびて、十一時頃・・・・・

 シャンパンがキュヴェ・パラディのマグナムを入れて八本、赤ワイン二本、日本酒・・・・・空瓶ゴロゴロ。

 サル、猿、申、さる、沙流・・・・・・・・


7月4日土曜日曇り ×

 Tさん三名様で来店。Aさん来店。Mさん二名様で来店。

 マロさん来店。初めてのお客様Oさん来店。

なんと、Oさんは私が以前に住んでいた早稲田南町の同じアパートにお住まいだそう。

それも、部屋が私が住んでいた部屋の隣。

 奇遇。

 ドンチャン。営業終了後エムズバーさんに伺うがへべれけ状態。

 記憶なし。

 写真は、今日、店を片付けていて、触れて落ちて来た入り口の照明。


朝鮮統治時代の日本の教育

平成21年7月3日金曜日くもりのち雨

朝鮮における日本語普及率
 「一九四二年には全人口の二〇%に当たる五〇〇万人強の朝鮮人が日本語を解したのである」

中川八洋『歴史を偽造する韓国』のP五八(中川氏は森田芳夫『韓国における国語・国史教育』からの引用)

 我が国が朝鮮人に対して「言葉を奪って」、日本語の強制をした結果がこの程度です。

 一九一〇年(明治四三年)併合後の日本は学校教育で朝鮮語を必修課目とした。この教科書の作成を通じ、綴字法の統一、標準語の制定、普及が進んだのである。
勿論韓国教科書で主張する朝鮮語研究会、朝鮮語学会が大きく貢献した事は言うまでもない。
 朝鮮語は一九三七年(昭和一二年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。併合時書道を含め、十%程度だった就学率は一九三七年には三六%に達している。これと共にハングルは普及したのである。ハングルの普及に最も貢献したのは、朝鮮人自身としても、日本の貢献も合わせて評価すべきである。
(中略)
 なお毎日申報は終戦までハングル文字の新聞を発行していた。
『「植民地朝鮮」の研究』(杉本幹夫 展転社、二〇〇二年、p.七九)

 日本では、「日帝三十六年」の「七奪」の一つとして、朝鮮人の言葉を奪ったという批判がずっとまかり通っている。じつは南総督時代以後、非常時にさいしての「国語(日本語」)の奨励策はあったが、朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はなく、この見方は真っ赤な嘘である。

 日本帝国主義による対朝鮮教育侵略の特徴は、韓国民衆を徹底的に日本化、つまり「愚民化政策」に重点をおいて展開したとか、「日帝三十六年」の教育政策によって、戦後の韓国人は、どうしようもない状態に陥ったなどという見方も歴史歪曲である。

 朝鮮人から言語を奪った張本人であると批判されている南次郎総督でさえ、朝鮮人から朝鮮語廃止の建策に反対したのが、歴史的事実である。
 たとえば、「日本人以上の日本人」といわれた玄永燮や、「三・一独立運動」で三十三人の民族代表の一人であった朴煕道は「朝鮮語使用の全廃」を主張していたとき、南総督は、むしろ極力反対してこう語っている。
 「朝鮮語を廃止するのはよくない。可及的に国語を普及するのはいいのだが、この普及運動も、朝鮮語廃止運動と誤解されることがしばしばあるくらいであるから、それはできない相談である」(林鐘国著『親日派』御茶の水書房)
黄文雄『歪められた朝鮮総督府』(光文社 一九九八年刊)P一六五〜一六六より

 

初めて民衆に八ングルを普及させたのは、日本だった

 ハングルは李朝が滅びるまで、オンムンと呼ばれて、女や子供のための文字として蔑まれていた。エリートである両班たちは慕華思想に凝り固まっていたので、漢文しか使わなかった。

 首都の漢城と呼ばれたソウルには、中国の属国あることを示す迎恩門と、慕華館があった。李朝の歴代の国王は中国から勅使が来ると、迎恩門まで出迎えて、臣下としての礼をとらなければならなかった。慕華館は使節の宿舎であった。

 ハングルは一四四三年に、李朝四代目の世宗王のときに考案された独自の文字であったにもかかわらず、その後、李朝を通じて、国字としての正統な地位が与えられることがなかった。

 これは日本がカナを公文書にも用いたのと、対照的であった。もしハングルが日本のカナと同じように使用されたとしたら、民族として自立的な意識を強めて、中国という妖怪を崇める慕華思想の呪縛から脱することができただろうが、そうならなかったのは残念なことである。日本の独特なカナは、日本の文化的独立を強める役割を果たした。

 ハングルは、音を表す要素を組み合わせてつくられる音節文字だが、韓国語も漢字と、日本語のカナに相当するハングルを混ぜて書かなければ、自由に表現することができない。朴正煕政権のもとで民族主義を発露するために、一時期、漢字の使用をいっさい排したことがあったが、これはカナだけを使って日本語を表記するのと同じで、不便きわまりなかった。

 ハングルが全国民に教えられるようになったのは、日帝時代になってからのことである。韓日併合の翌年千九百十一(明治四十四)年から、総督府によって朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、ハングルを必修科目とすることに決められた。

 もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、朝鮮語がよくできる日本教師は、月二円の加俸があった。当時の一円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。

 もっとも、昭和十年代に入ってから「皇民化教育」が強められると、日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。だがハングルをはじめて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。

崔基鎬『韓国堕落の2000年史』(詳伝社 二〇〇一年刊)P一一六〜一一八

 総督府は明治44年(1911年)7月に、「諺文綴字法研究会」を作り、現代ソウル語を標準語として「普通学校用諺文綴法」を決定し、教科書として採用した。そのとき、諺文は国字・国文としての言語体系としては未熟であり、そもそも婦女子用のものだから、教材として使えるものはきわめて少なく、当時の教育関係者には、苦労談が多かった。
黄文雄『歪められた朝鮮総督府』p百六十八


(一九〇六〜一九一〇年)
学年
国語(朝鮮語) 24
漢文 16
日語(日本語) 24

 

 

併合時代の小学校国語(日本語)教育
?

学年

?

1911年10月 普通学校規則 国語(日本語)

10

10

10

10

40

朝鮮語・漢文

22

1920年11月普通学校規則改正 国語(日本語)

10

10

10

10

58

? 朝鮮語・漢文

30

1922年02月普通学校規程 国語(日本語)

10

12

12

12

64

? 朝鮮語

20

1929年06月普通学校規程改正 国語(日本語)

10

12

12

12

64

? 朝鮮語

20

1938年03月小学校規程 国語(日本語)

10

12

12

12

64

? 朝鮮語(随意科目)

16

1941年03月国民学校規程 国語(日本語)

11

12

54

? 朝鮮語

表は中川八洋『歴史を偽造する韓国』徳間書店 p五五、p五六より(中川氏は森田芳夫『韓国における国語・国史教育』原書房より作成)

 台湾でもそうですが、我が国は欧米諸国とは違う統治の仕方をしています。

 欧米諸国は自分たちのやって来た事を基準に考え、それを基に「そうにちがいない」「きっとそうだ」ということで話します。

 まあ、支那、朝鮮もそうですけど・・・・・・・

だいたい、英国が国立大学をインドに作ったか!

     オランダがインドネシアに国立大学を作ったか!

     フランスがベトナムに国立大学を作ったか!

 朝鮮人に言わしたら、ソウル大学は大東亜戦争終了後の昭和二十一年に「突然」京城にできたものらしいですけど!

(一応、多くの大学を統合して作ったから、京城帝大との関連はないとか米軍により京城帝大は閉鎖されていたとか言っとるらしいです。 大学にとっての財産である蔵書はどうなっとるのでしょう?)

 カスやな!

 あほらし

 ヒマ。金曜日なのに下手するとオチャピー・・・・と思っていたら、二名様来店。Sさん、Iさん来店。

 今日は流石に記憶あり。 


カキの殻むきが銃刀法違反北海道警が注意

7月2日木曜日雨のちくもり △

 今日の読売新聞の記事で、「カキの殻むきが銃刀法違反北海道警が注意」という小さな記事があった。

早速、築地に持っていって見てもらったら大受け。

以下引用

 北海道警釧路方面本部は1日、カキの殻むきナイフの一部が、改正銃刀法で所持を禁じた規制対象の剣にあたる恐れがあると発表した。

 4日の回収期限終了後、刃渡り5・5センチ以上、左右対称で著しく鋭い剣を所持すると、3年以下の懲役または50万円以下の罰金が科せられる。

 このため、道警では「一度確認を」と呼びかけているが、カキの産地・厚岸町では困惑が広がっている。

 道警によると、先月下旬、持ち込まれたカキ用ナイフを警察庁に照会したところ、規制対象となることが判明した。

鋭利だったり、厚みがあったりする一部のカキ用ナイフは所持を禁じられるが、ただ明確な基準はない。

 厚岸町のカキ料理店の店主(59)は「初めて聞いた。急で驚いている」と話す。

 別の料理店ではすでに道警に照会を済ませ、該当するナイフがないため、胸をなで下ろしているが、担当者は「まさかカキ用ナイフが」と話している。

引用終わり

カキ用のナイフというか普通は「殻むき」とか呼んでいると思いますが、

うちの店にもあります。

そんなものより、柳刃、出刃、洋包丁などの方がよっぽど危険だと思いますけど・・・・

使い方によれば凶器になるものはいくらでもあるでしょう。

小学校では彫刻刀も持って帰らさない学校があるそうです。

子供の時に工作、遊びで刃物を使った時に手等を切って、いろいろ失敗して覚える事もあるし、

なんでも規制すればいいというもんでもないと思います。

ちなみに、写真は築地のマグロ仲卸「松長」の包丁類。

斧、日本刀の代わりになりそうなものまであります。

奥にある手斧型ので、やられたら頭等ザックリと一撃で割れるでしょうし、

一番左のなんぞは、斬馬刀並みだと思います。

Oさん来店。KくんSさんと来店。 マロさん来店。Yさん来店。

ドンチャン。記憶あり。

 

 

 


アホに集る

7月1日水曜日くもり △

 「日本文化振興会」が徹底的にアホに集っていることを書きましたが、 そのアホに別の角度から集っている連中がいます。

 国際グラフ

  http://www.kokusaikikaku.jp/kokusaigraph/

 スクエア21

  http://www.jfeo.net/square21/index.html

 月刊ガイア

  会社のホームページが・・・・・・・

 この三つの雑誌を知っている人はいったいどれほどいるのであろうか。

 これらの雑誌は一般書店に置かれているわけではないそうであるので、一般人が目にする事はほとんど無い。

 そして、何部発行されているかも不明であり、その実態が一般に知られる事の無い活字媒体です。

 普通、マスコミから取材を受けた場合、取材を受ける側が銭を払う事は絶対にありません。

 ところが、「国際グラフ」「スクウェア21」「月刊ガイア」という三つの雑誌は、「取材」と称してその対称から「協力金」と称する銭を巻き上げているのです。

 ネットで調べると、一応芸能人、元金メダリスト、元プロ野球選手などが、「仕事」として、対談相手というより一緒に写真に写るために来るようです。

たとえば、月刊ガイアで検索すると 「月刊ガイア」に紹介されましたというのがいっぱい出てきます。

風見慎吾、輪島功一、釜本邦茂、川野太郎、荻原次晴、ケントキルバート、原くみこ、

杉本彩、 力也、与田剛、水沢アキ、薬師寺保栄、古賀稔彦、大沢逸美、宮内洋、阿藤海、

細川ふみえ、竹原慎二、新田恵理、岡本夏生、酒井ゆきえなどの名前が確認出来ます。

 そして、この雑誌が巻き上げる銭ですが、四分の一ページ!六〜一〇万円から二ページで五〇万円近く。

 芸能人との写真を増やせば、肖像権として割り増し料金だそうです。

  一般の人の目にほとんど触れる事のない、そして発行部数も不明なこの雑誌にわざわざ高い銭を払ってまで掲載する意味があるとは思えないが、

その気にさせているのが、インタビュアーとしての芸能人、元スポーツ選手なのでの存在ではないでしょうか。

 それらは、日本文化振興会がやっている商売と同じ路線で、銭を巻き上げているということなのでしょうか。

あほらし

 ここまで書いてなんですが、私が二十年以上前(昭和の終わり)に振られた女性のお父上もこの手の雑誌に騙されていたことを思い出しました。

 その人は当時、不動産で成功し、所沢にあった彼女のお父さんの家に行った時に、アストンマーチン、ジャガー、ポルシェ、モーガンなどが車庫に入っていました。

 その時、見せられた雑誌のインタビュアーは里見浩太朗だったと記憶しています。

 まったく知らない雑誌名で、掲載意図もわたしにはよくわからなかったのでよけいに覚えています。

 午後からスポーツセンターに行く。

 Wさん来店。Sさん来店。

 飲む。でも、今日は記憶あり。




 

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