このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

 

酒たまねぎや飲んべえ日記

平成21年2月分

 


毎日新聞のウソ記事

2月28日土曜日晴れ

 今日の毎日新聞に「東京大空襲 韓国から2遺族来日 戦火に消えた足跡たどる」という記事の中に下記のような表現がありました。

<64年前とあって、黄さんは父の記憶がほとんどなく、1枚だけ残っていた写真も紛失してしまった。一方、金さんによると、鳳石さんは「すぐ帰ってくる。ランドセルを買ってきてあげる」と朝鮮半島南部の自宅を出て、そのまま日本に連れていかれ、帰ってこなかったという。>

2月28日11時28分配信 毎日新聞

 ありもしない百人切りをあったと偽る鉄面皮の毎日新聞らしく、さらりとウソを書いている。

 朝鮮半島においては、警察官は、警務官→警視→警部→巡査→巡査補となっていたが、併合間も無い一九一〇年末における日本人と朝鮮人との割合は下記の通りであった。

?

警務部長

警務官

警視

警部

巡査

巡査補

合計

日本人

一三 

三〇

一六七

二〇五三

二二六五

朝鮮人

〇 

一四

一〇一

一八一

三一三一

三四二八

合計

一三

四四

二六八

二二三四

三一三一

五六九三

「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店(中川氏は「総監府時代の財政」友邦協会p一二二より引用)

 つまり、上級職である警務官と警視の三割は朝鮮人であった。これは先の官吏について同じ事であるが、日本の朝鮮統治が「日本の警察による支配」といく批判が的外れであることを意味する。このように、併合間も無い時期ですら警察幹部の三分の一が朝鮮人であり、その朝鮮人幹部の下に日本人警察官の警部、巡査がついていた事がわかる。また、警察の末端だけが朝鮮人であったということも間違いである事がわかる。

 武断政治といわれている我国の朝鮮統治がウソである事が良くわかる。

 朝鮮には一三の道(県)があり、知事ポストの約四割が朝鮮人でした。(終戦時には五)

 例えば、江原道の知事ポストは李圭完から終戦時の孫永穆まですべて朝鮮人でした。一三道の日本統治時代の全知事総数一二五名のうち日本人知事は七六名、朝鮮人知事は四九名と三九%が朝鮮人が占めていました。 ちなみに、知事に直結して朝鮮の民情をすくいあげ具申する任務の特殊副知事ともいうべき参与官は一三道すべてが朝鮮人でした。

 慶尚北道の一九三二年(昭和七年)一月現在の県知事は朝鮮人であり、四名の部長(内務部、産業部、財務部、警察部)のうち産業部長は朝鮮人。そして、四つの部にいた部長以外の日本人官吏は一九四名。つまり、三名の日本人部長もその他一九四名の日本人官吏も、朝鮮人知事に仕えていた。

 一九四〇年の朝鮮総督府における朝鮮人高級官吏の実態として  内務局には局長以下三一名の高級官吏のうち三名が朝鮮人。財務局は局長以下一三名のうち一名が朝鮮人。学務局は局長以下一九名のうち三名が朝鮮人であった。学務局の三名の朝鮮人高級官吏のうち一名は視学官という高官であった。

 その他の例として京城履審法院の一三名の判事のうち二名が朝鮮人、京城地方法院二八名の判事のうち三名が朝鮮人、京城地方法院検事局の検事一四名のうち一名が朝鮮人であった。

 学務局の最高ポストである学務局長として李軫鎬が一九二四年から二九年まで就いている。

 朝鮮半島における地方行政機構は、道知事の下に、日本の市にあたる府、日本の町と村にあたる邑と面、邑と面を統括する郡があった。一九一七年において、一四府、一二八郡、五一邑、二三七四面であった。済州島と鬱陵島のみ島庁をおき、島司を任命していた。この島司は郡守と同格であった。

 準・議会が道、府、邑にそれぞれあり、一九三一年(昭和六年)より府会、邑会、一九三三年(昭和八年)より道会といった。議長はそれぞれ道知事、府?(市長)、邑長が兼ねるために完全な三権分立的な議会でないが、議決機関であった。村にあたる面の面協議会は諮問機関であり、準々・議会といってもよいものであった。

 道会議員の三分の一の議員は官選、三分の二の議員は、府会、邑会、面協議会の議員が選挙した。道会議員の内訳は日本人が四分の一、朝鮮人が四分の三がおおむね基準であった。

 例えば、一九三二年における京幾道の道会議員三七名中、日本人は一〇名で朝鮮人が二七名であった。

 このように朝鮮半島における地方議員の多くは朝鮮人であり、朝鮮人対日本人というような多数決になれば日本人は敗れるしかなかった。

 郡守、邑長、面長は、ほぼすべて朝鮮人であった。(郡守、邑長にごくわずかの例外あり)

 朝鮮半島に移民してきた日本人は朝鮮人の郡守、邑長、面長の統治下にあったといってよい。

  このような状態で、強制連行が行う事ができたと思う方が狂っている。

 朝鮮半島における在日本人は特権というものが無かった。一九三七年より配給制と朝鮮半島もなってきたが、塩、砂糖などの配給で日本人と朝鮮人との差別はなかった。キムチのために朝鮮人に塩を多くし、日本人には砂糖を多くするなど公正な調整がされていた。

 配給の行列ですら日本人、朝鮮人の区別なく一緒に並んだ。

 

参考文献

「歴史を偽造する韓国」中川八洋著徳間書店

「別冊一億人の昭和史 日本陸軍史」毎日新聞社昭和五四年刊

「月刊正論」平成一五年三月号 p五二〜五三

 このような朝鮮半島統治下において、毎日新聞のこの記事にあるような<「すぐ帰ってくる。ランドセルを買ってきてあげる」と朝鮮半島南部の自宅を出て、そのまま日本に連れていかれ、帰ってこなかった>などということは絶対にありえない。

 もし本当に、このような統治体制において、朝鮮人がいうような「強制連行」が日本人により行われ、それを朝鮮人の知事、議員、官吏が平気で座視していたのなら、朝鮮人は単なるアホ以外の何ものでもない。

 何度も書くが、このような統治下において毎日新聞の記事にあるような事などがおこなわれる可能性はゼロである。

 いかに、朝鮮人が平気でウソをつくことができるかよくわかる記事です。

 今朝までの酒が残り、結局、スポーツセンターに行かなかった。

 厨房の換気扇がいよいよダメになり、交換することに。池袋のビックカメラに行ってみると、年配の女性の店員さんが、フィルター付きでなくてもいいのだったらとすすめてくださったのは三千三百円の換気扇。即、購入。

 初めてのお客様Yさん二名様で来店。同じく、遅い時間にご夫妻のお客様来店。

 今日は飲むのが遅くなったがいつもどおり。記憶あり。


腰砕け

2月27日金曜日雪めちゃ寒い ×

 <「恩知らず」と「不透明」。おかしくなる議員は、みな同じだ。

 竹入、矢野しかり。竜、大橋、藤原しかり。みながみな、同じじゃないか

 略)

  「大恩を受けながら、裏切った者が、どんな一生を送るか、どんな末路をたどるか、見てやれ」>

(聖教新聞二〇〇八年五月十五日)

<学歴詐称の大ウソをついて「勲一等」をぶら下げ、有頂天になっていた男もいたな。>

(聖教新聞二〇〇八年七月三十一日)

 その竹入義勝元公明党委員長と公明党との間で争われていた裁判が、地裁では公明党が昨年三月に敗訴し、即日提訴。

ところが、

<竹入氏は公明党が訴訟を提起せざるを得なかったことに遺憾の意を表明する>

<党は提訴を取り下げる>

<双方は違法な誹謗中傷をしない>などとの和解が平成二〇年十二月四日に突然成立したという記事が部屋にあった古い週刊新潮にありましたが、どうなのでしょう。

これまで散々竹入氏にあびせてきた罵詈雑言はなんだったのでしょう。

 今日の天候はみぞれまじりの雪でめちゃ寒い

 バンブーさん来店。Hさん来店。Sさん来店。Fさん来店。まりこさん、Kさんと来店。Mさん来店。Nさん来店。

 ドンチャン。営業終了後、Mさん、まりこさんとエムズバーさんに伺う。

 記憶あり。めずらし〜


戦史の教訓

2月26日木曜日くもりのち雨

 先の大戦においてああして「たら」、こうして「れば」という話がいっぱいあります。もちろん、そういう事が可能であれば、負け戦などないわけです

しかし、なぜ、我が国は大東亜戦争に負けたか。その原因のひとつでも戦史に学び克服することが大切ではないでしょうか。

 小室直樹氏は次のように書いています。

<日本海軍の先生はイギリス海軍であるが、アメリカ海軍からもいろいろ学んだ。が、絶対に学ばなかったことは「歴史に学べ」ということである。

 略)

 無理を承知で、日本海軍が戦史研究を重んじたとすれば・・・。第一次世界大戦史に至って、戦慄していたことであろう。揺るぎなき制海権を独占する英国が、Uボートによって敗北寸前にまで追い込まれた!これこそ、島国帝国の宿命ではないのか。

 日本海軍は、米艦隊撃滅のため全力を挙げて研究してきた。しかし、米艦隊全滅後に何をするべきか、ほんの少しも研究しないのであった。あたかも東大一直線の受験生が、東大合格後のことについて少しも考えてみないように。

略)

 日米戦争に勝つためには、少なくとも負けないためには、対潜水艦対策こそ鍵である。ここに思い至った海軍軍人はいなかった。>

「大東亜戦争ここに甦る」(小室直樹 クレスト社 平成七年刊)p二五二

 つまり、島国である我が国にとってシーレーンこそ命綱である。このシーレーンを守るという考えがあれば、軍縮会議により戦艦、重巡などが制約されたが、制約外での軍備を充実させようとしなかった。護衛艦隊においては開戦後にやっと第一海上護衛艦隊(十七隻)、第二海上護衛艦隊(三隻)がつくられた。しかし、アメリカは戦前にすでに空母一隻を含む二八〇隻の護衛艦隊を持っていた。

(「大東亜戦争ここに甦る」p二五六)

 シーレーンが我が国の命綱というのは現在においても同じである。そのシーレーンを守るための戦略というものが我が国には欠落している。

 今現在に於いても、歴史に学んでいないのは同じです。

  三野正洋氏は著書「続 日本軍の小失敗の研究」(光人社 平成八年刊)において、現在の我が国の自衛隊のシーレーン防衛について下記のように書いています。

<(一)船団護衛の訓練を全く行なっていないこと。

 略) 単独航行の大型船が攻撃されやすい状況は、第一次世界大戦、第二次世界大戦ばかりでなく、千九百八十〜八十八年のイラン・イラク戦争のさいにも、嫌というほど確認されている。

 数隻、あるいは数十隻の船舶は、航空機、艦艇の護衛を受けながら、なるべく紛争地帯を避け、目的の港を目指す。憲法上の制約から、相手基地を攻撃できない海上自衛隊としては、あくまで降り注ぐ火の粉のみを払いのけ、船団を守らなくてはならない。

 さて、これからが問題である。

 海自の護衛艦隊は、一度でも、「複数の商船を使った本格的な船団護衛訓練」を実施した事があったろうか。

 略

 戦争が終わって五十年もたっている戦訓を例にあげるのは、あまりに古い、とする意見もあろう。

 しかし、太平洋戦争の敗因のひとつは、アジアから我が国へのシーレーンを、海軍が守りきれなかった点にあった。

 それでは先にも触れたイラン・イラク戦争の場合はどのような状況であったのだろうか。

 まず日本が、この戦域であったペルシャ湾から全消費量の四十一%にあたる原油、石油を購入している事実を最初に確認しておきたい。

 この海域において、戦争が続いた一九八〇年からの八年間に、当事国とは無関係の国々のタンカー五百四十六隻がなんらかの被害を受け、その乗組員三百三十三人が死傷、三百十七人が負傷している。

 このうち十九隻が我が国のタンカーであり、日本人二人が死亡、七名が傷を負った。加えてイラン・イラクに拿捕された民間船が七十三隻にのぼっている。

 そのほとんどは解放されず、それぞれの港において朽ち果てるまま留め置かれたのであった。

 略) > 

「続 日本軍の小失敗の研究」(三野正洋 光人社 平成八年刊)p二五七〜二六一

 最近でも、日本郵船の超大型タンカー「TAKASUZU」(高鈴、二十八万トン)が、二〇〇四年四月二十四日、中東からのシーレーンで、テロ攻撃を受けた。この時の自爆テロで、タンカーは船体を銃弾でえぐられ、鉄製ドアが吹き飛ばされただけで済んだ。しかし、この自爆テロで、多国籍軍のうち米海軍兵二人と沿岸警備隊員一人が死亡した。 これについての産經新聞からの一部引用です。

 <日本は法的な制約から、ペルシャ湾の「戦闘海域」に海上自衛隊の艦船を出せない。そこで海自はより安全な青色のインド洋上に補給艦などを派遣し、多国籍軍に給油活動している。海自艦が直接的に海上テロを排除できないためにタンカーを守るのは他国依存にならざるを得ない。  その根拠となるのがテロ対策特別措置法だ。それさえ野党は、「日本の安全に関係ない所への部隊派遣はできない」と延長に反対した。  そのために、一時、海自艦は撤退を余儀なくされた。  英国の作家、ジョージ・オーウェルはこうした安全保障の盲点を半世紀以上も前に述べている。「平和主義者。彼らが暴力を“放棄”できるのは、他の人間が彼らに代わって暴力を行使してくれるからだ」(『オーウェル評論集』岩波文庫)

 多国籍軍に陸上部隊や艦船を送っている各国には、日本のテロ特措法が政局の「人質」にとられたとしか映っていない。米誌ニューズウィーク最新号は「無責任政治に国外から大ブーイング」と皮肉っている。少なくとも米国には、「安全保障をめぐる党利党略は水際でとどめよ」という伝統がある。共和党も民主党も、一朝有事には自国を守ることを優先して決定的な対立を避けるのだ。  それが君子のならいというものである。まして「高鈴」事件のように、米国など多国籍軍の犠牲のうえに日本経済が支えられていることを忘れては信義にもとる。>

 平成十九年九月二十七日に産經新聞に掲載された湯浅博氏の記事の一部を引用させていただきました。

 現在も我が国は資源がなく、輸入に頼るしかない。しかるに、その生命線を守るための法整備さえも十分にできないでいる。ソマリア沖の海賊対策に派遣するための自衛隊についてもそうである。

ましてや、民主党は共闘を考えている社民党が自衛艦海外派遣を反対しているために、法整備に反対している。つまり、民主党は我が国の国益ではなく、政権、党利のための反対である。まさに、政治屋小沢一郎の面目躍如です。

 昨日夕方痛かった肩の痛みはあまり無くなったが、背中、肩の付け根などが痛い。

 メチャ暇で、今年初めてのオチャピーがと思ったら、一名様来店。でも、なんだか間違ってご来店いただいたようで、すぐにお帰りになる。

 その後、Sくん、送別会ということで十名様という大勢さまで来店。今日は、ガランチョだっただけに大助かり。

 今日は飲みそびれ、営業終了後も飲みに行く気になれずに、さっさと帰る。


 

インドネシア残留元日本兵の表彰

 2月25日水曜日くもり ×

 長氏の著書「母と子でみる 戦争とインドネシア残留日本兵」にも、上坂氏の著書「南の祖国に生きて」にも、一九九五年八月二十五日にインドネシア日本大使館において、健在だった残留日本兵の皆さん六十九名に対して、表彰状が手渡された事が書かれている。

 (当日参加された残留元日本兵の方は三十六名。)

 

 <あなたは五十年以上の年月にわたり、日本とインドネシアとの友好親善及び相互理解の促進に寄与されました。

 その功績は顕著なものであると認め、ここに深い敬意を表し表彰いたします。

 平成七年八月十七日  インドネシア駐箚 特命全権大使 渡辺泰三>

 これが表彰状の全文であり、どこにも残留日本兵、独立戦争などという言葉が書かれているわけでもない。

 しかし、八月二十五日に行われた表彰式の日付が八月十七日にされている。この日はインドネシア独立記念日である。この一行に今やインドネシア国籍となった残留日本兵のみなさんに対しての渡辺大使の気配りがみられる。

これについて、上坂氏の著書には残留日本兵のなかで最も成功したひとりといわれている石井正治氏の言葉として、これまでの人生で一番嬉しかったのは、この表彰式だったという事が書かれている。(P四十九)

 

同じく石井氏の言葉として、

 「あの日、何よりも嬉しかったのはインドネシア側の出席者のパパウマル(ウマル元副大統領)が乾杯の音頭をとったあと、わざわざマイクを持ち直して、残留日本兵がいかにインドネシアの独立に協力したかという功績を讃えてくださったことです。予期していなかっただけに我々としては感無量でした」P五十

 残念ながら、長氏、上坂氏のどちらの著書にもこのウマル元副大統領の残留日本兵に対する功績を讃えたスピーチが掲載されていないので具体的な内容は不明です。

 

 この表彰式の十年後、平成十七年九月十六日の産經新聞に、残留日本兵の記録をまとめた「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 福祉友の会・200号『月報』抜粋集」の発刊にあたり、インドネシアから残留元日本兵の藤山秀雄氏(当時八十二歳)、宮原永治氏(八十三歳)が来日し、残留体験、独立戦争当時の事を涙ながらに語ったという記事が掲載されました。

 その記事には、

 <故スカルノ大統領は独立戦争に参加した残留元日本兵に、インドネシア国籍を与えるとともに「ゲリラ勲章」を贈り厚遇。死亡後も各地の英雄墓地に埋葬される。>という独立の英雄としてのインドネシア政府の扱いとともに、この当時で、九名しかご存命ではないと記事にあります。

 私はこの記事で、「抜粋集」のことを知り、すぐに連絡したが、すでに全国の図書館に配布する分を除き、残っていないとの事でしたが、後に連絡をいただきご好意により分けていただいた事を思い出します。

 朝、四谷税務署に電話して、去年、青色申告の計算が間違っていて、税金が返ってきた原因を聞くと、税率が変わった事を知らなかっただけだった。

 河岸が休みなので、午後からスポーツセンターに行く。近所の高校生連中も大勢来ていた。相変わらず、統率もとれていないアホクラブ。

 私が二頭筋三頭筋のスーパーセットでメニューを消化していた時に、平気でダンベルの可動範囲で自分たちのウエイトを取り替えていたアホ高校生がいたので、つい怒鳴りつけてしまった。いくらアホな頭でも鉄の塊が当たったら大けがするだろうに。

 Kさん、Wさん来店。一名様来店。二名様来店。マロさん来店。Oさん二名様で来店。

ドンチャン。それなりに洗い物が片付いていたし、飯も食っていたが全然、記憶なし。サル・・・・・・・・

 


犯罪者を守る団体

2月24日火曜日くもり時々雨 △

 下記は「差別なき共生社会実現に逆行」と題した民団新聞の記事です。

 以下引用

 差別なき共生社会実現に逆行

 日本政府は現行の外国人登録に替わる新たな外国人在留管理制度法案を今国会に提出する準備を進めている。

 同法案には「適法に在留する外国人の利便性向上を図る」という「外国人台帳制度」も担保されているが、これは副次的なものでしかない。

 犯罪者対策や不法滞在者を取り締まることを目的に、外国人管理の精度をこれまで以上に高めており、「差別のない共生社会の実現」を訴えてきた在日同胞への配慮を欠くものとなっている。

 住民サービス除外の同胞も

 現行の外国人登録制度は非正規滞在者とその家族も対象としている。このため、外国人登録を住民行政の基礎としている市町村は、オーバーステイになってしまった人やその家族であっても、例外なく一定の範囲で住民サービスを行ってきた。新制度が導入されると、入管から在留カードを交付されないため、市区町村から「見えない存在」とされ、母子保育・教育などの行政サービスを打ち切られる公算が強い。

 在留資格のない子どもたちには就学通知も届かず、教育を受ける権利が阻害される。健康保険など医療問題も深刻だ。

 ■民団が是正申し入れ 公明党法務部会  民団中央本部は6日、呂健二副団長をはじめとする代表団が衆議院第一議員会館で公明党法務部会の主要メンバーを前に民団として主要な懸念事項を伝えた。権益擁護委員会から崔聖植行政書士、婦人会から余玉善中央会長、青年会から金宗洙中央会長が加わった。

 代表団は、日本で永住・定住している外国人に管理のための在留カードは不要と強調、「住民として住民基本台帳の対象とするべきだ」とこれまでの基本的な立場をあらためて表明した。  さらに、常時携帯義務に特別永住者を含めようとの動きにも、99年8月の国会付帯決議の精神を踏まえるよう求めた。

 さらに一般永住者の負担増、零細企業が外国人を雇わなくなる可能性、入管で在留カードをもらえない非正規滞在者が排除される問題なども指摘しながら「生活に直結する」「死活問題だ」と、危機感を示した。

 余婦人会長は「在日の4世、5世が誕生しているというのに、時代に逆行している」と不快感をあらわにした。崔行政書士は「現行制度で十分。在留カード導入でむしろ治安が悪化するのでは」と、専門家の立場から懸念を表明した。 略) (2009.2.18 民団新聞) http://www.mindan.org//shinbun/news_t_view.php?category=13&page=45

  私には、「入管で在留カードをもらえない非正規滞在者が排除される問題」というのが理解できません。

 つまり、オーバーステイという法を犯しながらも堂々と居座り、数々の行政サービスを受ける事が可能な現在のシステムをそのまま続けろということでしょうか。

 元々、我が国には朝鮮人をはじめ支那人、イラン人など多くの不法滞在者がいます。その数は二七万人以上といわれています。その存在を把握出来ないため、犯罪を冒してもその摘発などが難しくしている理由の一つです。

 昨年など、不法滞在を二十年以上続けてきた朝鮮人夫妻が図々しくも「焼き肉店を経営している」「いまさら『国に帰れ』は酷。日本での生活実績を評価してほしい」と強制処分の取り消しを求める訴訟を東京地裁に起こしています。(平成二十年四月七日産經新聞)

 同じく、不法在留のまま倉庫で働いていたとして、十三人もの支那人朝鮮人が警視庁に逮捕され、その中のひとりの朝鮮人は十九年以上も不法残留し、船で集団密入国した支那人や指名手配中の男も含まれていました。(平成二十年5月27日朝日新聞)

 不法滞在者を把握し、法に基づき処置するのは国家として当然であり、それを擁護するこの民団という団体は犯罪支援団体としか思えません。

 また、このような団体があてにする公明党とはいったいどこの政党でしょう。

 Hさん二名様で来店。小胡子さん来店。KくんYさんと来店。Hさん来店。

 飲む。ドンチャン。記憶あり。


インドネシア残留日本兵

2月23日月曜日くもりのち小雨 ○

 「母と子でみる 戦争とインドネシア残留日本兵」(長洋弘 草の根出版会 1997年刊)を読む。

 著者である長洋弘氏の「帰らなかった日本兵」(朝日新聞社 1996年)は以前に私も読んだことがあり、このホームページに取り上げさせていただいた事があるが、その本には書かれていなかった事なども多くあり興味深く読ませていただいた。

 「帰らなかった日本兵」における長氏の歴史認識については、私も疑問に思うところがあり、その部分は以前に指摘させていただいた。

 しかし、十二年前に出版された当時でも、戦後五十年以上も過ぎていたのですでに多くの方々が鬼籍に入られていたが、長氏がジャカルタ日本人学校に勤務の一九八二年から八五年の時にはご存命で、お会いして話を伺った多くの元日本兵、そして遺族の証言と写真が掲載されている貴重な一冊には違いありません。

 インドネシア独立に際し、多くの日本兵、軍属などが残り、インドネシアの人びとと戦ったのは事実であり、インドネシア国籍を習得された元日本兵の皆さんのこの功績に対して、インドネシア政府は、月々二〇万ルピー(約一万円)の恩給、独立戦争の英雄として、ゲリラ勲章(ピンタン・ゲリリシャ)受章者には病気の場合には、陸軍病院に無料で入院でき亡くなれば国軍葬にて、各地にある英雄墓地に葬られる。

 四十五年組といわれる独立戦争に参加した者だけがかぶることのできるブルーに金色のかざりのついた側面に「45」という数字がある帽子である。

 写真は、「母と子でみる 戦争とインドネシア残留日本兵」に掲載されている長氏の写した一九八五年二月、激しいスコールの中、独立の英雄としてカリバタ英雄墓地にて執り行われた故出口良夫氏のインドネシア国軍葬。

 

 昭和五十七年(一九八二年)と八年に当時の厚生省が費用を負担して、インドネシア残留日本兵の里帰りが企画されたとき、応募したのは、最初は六人、二回目はわずか四人だった。これについて、自身も残留元日本兵である故乙戸昇氏は上坂冬子氏の著書で下記のように述べている。

<生き残った者としては、やっぱり名もなく死んでいった人にこだわっているのだと思います。平成三年(一九九一年)には日本政府から一時軍人恩給を受け取りました。我々としては金額など問題外で、日本の軍人恩給が支給されたことによって、脱走兵ではなく戦時中に日本が働きかけたインドネシア独立のための職務を果たしたのが認められたと判断して、大喜びでこれを受け取ったのです>

 「南の祖国に生きて」(上坂冬子 文藝春秋 一九九七年)p二九

 乙戸氏が語った、名もなく死んでいった人たちについて、手元にある「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 福祉友の会・200号『月報』抜粋集」(YWP福祉友の会 二〇〇五年刊)に掲載されている名簿にも、苗字しか判らなかったり、「日本名不詳 現地名ウマル」などと日本名が不詳とされる元日本兵も多く含まれている。インドネシア名を名乗りながら戦っていて戦死された方も多いためである。

 その名簿によると、独立戦争参加者は九百三名。

 その内訳は、

戦没者二百四十六名(二十七%)、不明二百八十八名(三十二%)、生存三百二十四名(三十六%)、帰国四十五名(五%)。

(P三百八十二)

  乙戸氏は、一九七九年(昭和五十四年)七月十四日にこの抜粋集を出した「福祉友の会」を発足させ、残留日本兵の相互互助の一環として、体の不自由な者、貧困者のための生活補助金の支給、その子弟への学費援助、残留元日本兵の里帰り、日系二世に対する日本語教育講座の開催、二世への奨学金支給、毎月発行してきた福祉友の会月報などの事業を行ってきた。それらの運営資金はすべて寄付であるため、資金確保のため、乙戸氏は何度も自費で来日し。日本国内も奔走した。

 「帰らなかった日本兵」には、一九九〇年九月に青山会館で開かれたインドネシア独立四十五周年記念祝賀会と日系二世訪日団一行の歓迎会において、率いてきた乙戸氏の事が書かれています。

 <その祝賀会場で「ムルデカ、ムルデカ、ムルデカ」の声が上がった。乙戸は独立戦争後、日本人を前にして初めて晴れがましい気分で「ムルデカ」の三唱を聞いた>p二六〇

<「我々の不安定な身分は、軍人恩給が出た時に初めて、逃亡兵としてでなく、やむなく離隊したのだと認めれると思います。免罪符をいただくような気がするのです。その時こそ、逃亡兵・非国民の汚名が晴れると思うのです。それまで私は死ねません。」>p二六一

 

 インドネシア残留元日本兵二十一名に対して平成三年に支給された一時軍人恩給は下記の通りである。

 元陸軍兵長・本坊高利、元陸軍上等兵・富永定仁、元陸軍一等兵・堀井豊、元陸軍兵長・大塚秀雄の三万五千三百五十円が最も低く、

 元陸軍準尉・故小沢久の八万七千六百円が最も高かった。

 受給は一回限りであり、一人当たりの平均は、わずか四万八千二百八十円である。

 ただ、そのわずかな金額の一時軍人恩給に対し、インドネシア残留元日本兵の皆様が、これで逃亡兵・非国民の汚名は晴れたと喜んだのである。

  我が国の厚生省はこれら残留日本兵の皆様に、もう少し早く報いる方があったと思う。

  今日は、燃えるゴミを出すために外に出たのみ。ず〜と部屋にいた。買ってきてあったインスタント食品もほぼ無くなった。

  やっぱ、デコポンはでかい方が旨い。一回り違うと値段が全然違うが、その値打ちはあるように思う。

 酒は飲まず。

 


 

2月22日日曜日晴れのち曇り ○

 まだ、新しいホームページ管理ソフトの使い方がよくわからないので、トラブル多し。今日もURAホームページの表紙がだめになってしまい、あわてて再構築。

 夕方、スポーツセンターに行くと、更衣室のロッカーがいっぱいで空きがないとの事であきらめて帰る。こんなに混んでいたのは初めてかも。まあ、飲み屋をやっているのだから、昼間働いている人と違った時間にも来れるはずだから、少し通う日時を考えなければ。

 帰宅途中、高田馬場の芳林堂さんに寄り雑誌など二冊購入。

 店に寄った後、駅までの帰り道にあるまだ開店して新しいお店に飯を食いに入る。

 旦那さんがひとりでやっているきれいな内装の店。

 注文したのはオムライス・・・

 別に値段は普通だが、

 「うまくない」・・・・・・

 今日、初めて入ったが、夜七時代なのに、客は私一人。なんとなく理由がわかった気がする。

 スポーツセンターに行っていないので、少し早い帰宅になったが、今日は飲まず。

 買ってきた雑誌やマンガなどを読んでいたら、そのまま灯も、暖房もつけたまま寝てしまう。


国家勲章

2月21日土曜日はれ×××

 <世界から三四〇〇の顕彰 池田博士を何としても讃えねばならない>

<ブラジル。タイ、フランス、キューバ、イタリア、ロシアなどから贈られた「二七」の国家勲章>。

 聖教新聞に掲載された記事です。

 この二七もの国家勲章の中には、偉大な指導者だとほめ讃え、一九八七年二月一七日にあの永遠の友情を誓ったパナマの偉大な?指導者である(はずの)ノリエガ将軍から贈られたものもあります。

 ノリエガ将軍と会った時、ダイ詩人である池田ダイセンセイは詩人の最大の栄誉として「わが愛するパナマの若人に贈る」として「パナマの国の花」と題された下記のようなダサイ、いや、ダイサク、いやタイサク、そうです大作まで贈っているのですから。

「パナマ、ーおおパナマー、わが愛する天地よ。ラテンの民草の言い習わしに、アミーゴ(友人)は法律よりつよしと。明るく陽気なラテンの人々の、心と心を結びゆく知恵の光彩 私は、友情という言葉が好きだ」

 やっぱ、ダサイ・・・・・

 凡人の私にはアホとしか思えない詩です。

 昨年の十二月五日にも、国立パナマ大学に「池田大作公園」「香峯子庭園」ができたというニュースがキチガイ新聞いや、聖教新聞の一面にデカデカと掲載されたばかりです。池田ダイセンセイのためにその偉大な指導者であるノリエガ将軍と二人で海を見ながら「平和建設への指導者論」を語りあったという池田氏のために大平洋を一望できる景勝の地に設置した「ミラードールイケダ(池田展望台)」というのはまだあるのでしょうか。、

 その返礼として、同じ八七年八月、静岡県富士宮市郊外にある「白糸研修所」という創価学会施設にその偉大な指導者の名前をつけたノリエガ庭園を造成し、そこに二人の名前を刻んだ石碑を建て、お互いの永遠の友情を讃えあったそうですが、今はどうなっているのでしょう。

 三名様来店。初めてのお客様三名様来店。わ。さんご夫妻、妹さんと来店。Wさん三名様で来店。

今日は、いずれも三名様のグループという珍しい一日。

 ドンチャン。記憶ありと思ったら、やっぱ、記憶なし。ファンヒーターに足を上げた状態で、店の床で寝ていました。軽い低温火傷。鍵もかけてなかったので、朝、おまわりさんが「ごめんください。高野さん(大家さん)のお宅にはどこから上がるのでしょうか」と戸を開けた時に、床で人が寝ている(倒れている)ので、きっとびっくりしただろうな。サル・・・・・


姜尚中と小森陽一の詭弁

2月20日金曜日雨のちくもり ×

 「戦後日本は戦争をしてきた」という文庫本があります。対談形式になっていて、著者は姜尚中氏と小森陽一氏のお二人です。

 「日本は一度として『平和国家』だったことはない」と裏表紙に書かれたこの本によると、

 姜氏は鶴見俊輔氏の言葉を引いて、

「押し付け憲法というけれども、決してそうではない」と書いています。

<姜 GSにいたニューディーラーの若手の人たちの中には、日系ユダヤ人も含め、ユダヤ人が何人かいました。ナチスドイツのユダヤ人虐殺を知っている彼らは、東京の荒廃した場所や広島・長崎を見て、いかにむごいことを我々はやったのかと感じた。

 敗戦国の大地に立ったときに、憎い敵国であったにせよ我々勝者はこれほどまでにひどいことをした。我々はアメリカ人としてここに立つのではない。人間としてここに立つのだ。戦争というものがいかに悲惨なものであるかということを認識し、人間として出発しよう。そんな風に考えてあの憲法を作ったのではないか、と鶴見さんは指摘しました。慧眼です。

小森 今だに「押しつけ憲法論」が存在する事自体がはずかしい。>p九四

 と書いているが、押し付け憲法論がどうして恥ずかしいのか、この文章内容では私程度の頭には理解できない。つまり、押し付け憲法でないという否定材料がどこにも示されていないのではと思うのですが。まさか、両氏にとっては、鶴見俊輔氏の希望的観測による言葉がその裏付けなのだろうか?

 普通は、その成立するまでの歴史的な事実を背景にして、判断すべきだと思うのだが、このお二人は違うようです。

 ましてや、この文章だと、憲法を作ったのは進駐軍のユダヤ人であり、我が国ではないことになる。つまり、勝者であるアメリカ軍が押し付けたということに何も変わりがないと思うのだが、どこをどう読めば、「押しつけ憲法でない」と読めるのだろうか。

 姜尚中、小森陽一・・・大月隆寛氏に<実際、こいつら「東大」の肩書きがなくなっちまえば、ただのデンパ。肩書き頼りに仕事を発注している一部のメディア的にも使い道がなくなるはずだが、それでも当人達はそんな懸念などどこ吹く風。こやつら絶対に「東大」にしがみ続けるだろう。>

(「別冊宝島Real ニッポンの恥」宝島社 二〇〇七年刊)p一二九〜一三〇

と書かれるだけの事はあります。

 姜尚中氏などは、この著書にも書いている朝鮮人学校の予定されていた理事長職を、兼業を突っ込まれるとさっさと降りちまいました。

 東大教授にしがみ続けるという大月氏の言葉通りです。夏目漱石について、姜氏はアエラ(平成二十年九月二十二日号)で持論を書いていましたが、残念ながら、東大講師の座をさっさと捨てた夏目漱石とは違うようです。

 こんなアホをありがたがって使い続ける腐れマスコミども。

 Oさん三名様で来店。バンブーさん来店。博子さん四名様で来店。小胡子さん来店。Tさん二名様で来店。Hさん二名様で来店。

 営業終了後、「エムズバー」さんにてTさんYさんと伺う。その後、「石松」さんに酔っぱらって行く。帰りは石松のマスターと立ち食いうどんを食った後に一緒の電車で帰る。

 ドンチャン。記憶・・・・・


生きる

2月19日曜日木曜日晴れのち遅くなって雨  ×

 <拾った命でも、祖国へ生還したからには私は生活していかなければならない。

 お金の蓄えなどあるはずもなかった。

「国に保証を要求すべきだ」という人もいたが、それは筋違いというものだろう。日本が降伏した昭和二十年八月十五日以降は、「私個人が勝手にやった戦争」とされているわけだから、国家に補償の義務はない。

 それに私は、出征するとき死を決意した。いわば私の命は原価ゼロである。生還したことは、まったくの幸運といわねばならない。生き残ったものは、これから働けばいいのだ。それが国に対するつとめであり、死んだ戦友への申し訳だろう。>p二一六

 小野田寛郎元陸軍少尉が、著書「たった一人の三十年戦争」(東京新聞出版局 一九九五年)に書かれていることです。

 昭和五十年早春、陸軍中野学校同期の仲間の皆さんがブラジルに出発する小野田氏の壮行会を開いたそうで、その宴の最後はスクラムを組んでの

「丈なす墓も小鳥の棲み家 砕けし骨をモンスーンにのせて 散るや世界のすべてが墓だ」と歌う

「中野学校三三壮途の歌(さんさんわかれのうた)」だそうです。

 昭和四十九年三月十二日に帰国した小野田氏は、祖国日本にたった一年足らずいただけで、ブラジルに渡る。

 小野田氏五十三歳の時である。その後、入植地において、八年間も電気もないランプの生活をおくりながら、時には軽機関銃を構えて牛泥棒と対峙しながら成田空港ほどもある現在の千百二十八ヘクタールの牧場築き上げた。

 当時、報道された日本の通信社による「州知事、小野田氏に土地を贈る」というのは誤報であり、これらはすべての土地は、小野田氏が印税の他に数千万円の借金をして、一ヘクタールあたり三万六千円で国際協力事業団より購入したものである。

 牧場が軌道に乗るまで、多くの資金を必要とする。そのため、小野田氏が移住して一年後、「三十年間も一人戦争をしてきた彼に、その後の人生を『生きててよかった』と思ってもらいたい」と結婚を決意し、三十八歳で小野田氏の妻となった町枝さんは、持っていたマンションなど三件の家を手放した。

 帰還時の記者会見で、三十年間のジャングル生活で、人生を損したと思うかと聞かれた小野田氏はこう答えている。

 「若い、意気盛んな時期に、全身を打ち込んでやれたことは幸福だった」

 そして、。 「私はこの戦後二十年、必死で、人の二倍のスピードで生きてきた。」同書p一九

 この著書に書かれている小野田氏にとっての戦後とは、もちろん、昭和四十九年三月に帰国してからのことですが、この著書が出版された時に、小野田氏は七十三歳であった。

 八十六歳の現在、小野田氏は雑誌「WiLL」の対談で、

「私は毎年、お正月の書初めで『命は天にあり』と書きます。命はもう決まっているんですよね。好きなものだけ食べて体を壊したとしても、それは自分の責任。人は必ず死ぬんだから、びくびくして生きていても力は出ない。精一杯努力していれば、いつ死んでもいいと思っています」

「WiLL」平成二十一年二月号p二百七十八

 仕事も、何もかも「悪いことは他人のせい」という自分勝手な理屈が通る現在の我が国において、このように言い切れる人がどれだけいるであろうか。

 Mさん大勢様で来店。Oさん来店。Tさん松葉杖で来店。不自由な中のわざわざの来店に感謝。Mさん来店。恭子さん来店。今日で試験が無事終わったそうで、久しぶりの酒。

 ドンチャン。記憶はあり。後片付けもきっちりと。だから、雨なのか・・・・


派遣村について

2月18日水曜日晴れ今日も寒い △

 先日、朝日新聞に<派遣切り 手元に100円 雇用「失政」の犠牲者>と題した記事がありました。

 それによると、再就職口はなかなか見つからない中、自室で求人サイトを見る男性は、東京・日比谷公園の「年越し派遣村」の人たちは、湯気の立つ食事を見て、行きたいと思うが、手元には百円と少しだけしかなく、大分に「派遣村」がないか、ネットで探したが、見つからなかったという記事です。

記事は下記のように続きます。

以下引用

 1月9日。大分キヤノンのライン閉鎖で工場の請負元を解雇されて1カ月。食べ物は底をつき、寮の退去期限は10日後。男性(33)は何かないかとテレビやネットのニュースを追い、「就職安定資金融資」を知った。

 敷金・礼金や就職活動費用として最大186万円まで低利で借りられ、就職すれば返済が一部免除される。職と住まいを同時に失う人が続出したため、厚生労働省が昨年末に打ち出した対策だ。

 「事業主都合の離職に伴い住居喪失状態」「貯金・資産がない」など、4項目の貸し付け条件に当てはまっている。

 すがる思いで窓口のハローワーク大分に電話した。

「制度を利用したい」「審査に2週間はかかります」「食べ物がない。千円でも借りられる制度はないですか」「ありません」。だめだ。

 それから4日、ふらつきながら寮の階段を下りると、ポストに大分県労連のちらしが入っていた。助けを求め、大分市に生活保護を申請。当座の生活費として1万円がその日に貸与された。

略)

(野沢哲也) asahi.com2009年2月14日3時2分

引用終わり

  私は、今、話題の派遣村などの報道をみる度に違和感を覚えるのは、その中に多くの働き盛りの人たちがいるからです。国に対して、「仕事、住居、給料」などの責任を転嫁しているように思えてしかたがない。

 当然、私はこの大分の三十三歳の男性にもな〜んにも同情できない。

じゃあ、死ねって言うのかと言われれば、そうだ、「五体満足でありながら、働く気がないんだったら、生きる気がないんだったら、死んじまえ」と答える。

それと、 「何甘えてるんだ、このドアホが」とも。

「仕事がない」という人がいるが、仕事など、探せばいくらでもある。

 我が国に多くの国々から密入国までして働きにきているのはどうしてか。

我が国に仕事があるからです。仕事しなければ、銭がない。飯が食えない。死んじまうのです。

 解雇されてから、銭もないのに百円の所持金になるまで、一ヶ月も何をやっていたのか。

 「やりたい仕事が見つからない」じゃあ、飯が食えなくていいのか。やりたい仕事ってな〜に。やりたい仕事で飯を食っている人間が世の中に何人いるのだろう。

 だいたい、この朝日新聞の野沢哲也という人が書いたこの記事自体が胡散臭い。

 残り百円になった後に電話して <「制度を利用したい」「審査に2週間はかかります」「食べ物がない。千円でも借りられる制度はないですか」「ありません」。だめだ。>というほど困っているというが、本当に二週間生きられないのか。金策が出来ないのか。サラ金はダメなのか。

残り百円になったあと四日間もどうしていたのか。その後、どうするつもりだったのか。仕事を探す気持ちは本当にあるのか。仕事をする気はあるのか。仕事先の面接に百円でどうやって行くつもりだ。バスも乗れないのではないのか。それとも、生活保護が目的なのか。

 四日目にふらふらになりながら、めでたく生活保護を得て、当座の生活資金として一万円を借りられた事を取り上げているが、一万円で助かるのであれば、日雇いでも何でもある。持ち物で売るものもないのか。 少なくともパソコンはあるだろう。本もないのか。時計は、デジカメは。他の家電製品でも売れば少しは金になるだろう。(テレビはよっぽど新しくなければあかんかな?)パソコンで仕事を探しているのだから、売り先、処分先ぐらいは見つける事ができるだろう。

 生活保護を得る事を勧めている記事としかおもえない。

  私は、昭和五十二年九月に、金沢から東京に出てきて、渋谷駅で置き引きに遭い、荷物の方にほとんどの金をいれていたので、ズボンのポケットに入れていた三千円弱しかなくなった。その後、山手線をグルグル回って、どうするか考えた結果、途中、少しでも使える金を得るために、高田馬場にある「スズヤ」という質屋さんに時計を持っていき、免許証を見せて、五千円を借りた後、その日からの屋根と飯を確保しなければいけないので、渋谷の水商売をいろいろとやっている会社に入った。

 この時、私が持っているような安物の時計に五千円という金額は到底見合わなかったようですが、「ちょっと、困っていますので、」というと、店の方は少し考えてからこの金額を貸して下さった。ありがたかったです。

   下記はWiLLに掲載された小野田寛郎元陸軍少尉の対談として掲載された言葉です。

  <少なくとも税金の払える人間にならないといけない。人様にぶら下がって安穏としているような人には、少し遠慮してもらわないと。

 フリーターだって今頃さわいでいますが、あれで生活できていたことがおかしいので、今は一度転ぶと仕事がなくなるのも当然。可哀想だ、社会の犠牲者だと言うけれど、自業自得の部分もあるんじゃなかいと思う。

略)

 ブラジルで、あるドイツ系の男性がブルドーザーのオペレーターの仕事をしていたのですが、彼のいた南部はかなり開けてしまったので、仕事がなくなってしまった。それで私の知り合いの養鶏場に「仕事をくれないか」とやってきた。「簡単な仕事だから、最低給料しか払えない」というと、「それでもいい」と承諾して雇われたんです。

 給料は多いときでも最盛期の四分の一だったそうで「こんな仕事で食っていけるのか」と聞くと、「仕事をしなければ一銭にもならない。妻子もいるから、一銭でも稼がないと」と言う。さすがドイツ人はしっかりした考えを持っているなと思いました。

 彼は半年後に新しい仕事を得て去っていった。

「四分の一の給料なんて耐えられない」なんていっていたら、いつまでたっても一銭の稼ぎもありませんからね。レーガンが「失業者というのは自分で仕事を見つけられない人間だ」と言っていましたが、はっきり言えばそういうことだと思います。>

(WiLL  平成二十一年三月号p二百六十四〜二百六十五)

 「仕事をしなければ一銭にもならない」 当たり前のことですが、派遣村とかに集まっている連中はそれがわかっていないとしか思えない。普通は、金がなくなったら、身の回りの物を売ってでも金を作ろうとするだろう。そして、なんでもいいから仕事を見つけて働こうとするだろう。それをせずに、五体満足でいながら、生活保護に助けを求める。性根が腐っているとしか思えない。

 そんな阿呆どもを、ただかわいそう、気の毒、国が悪いという記事に取り上げ方をするマスコミも病んでいるとしか思えない。

 午後からスポーツセンターに行く。今日は時間がないので上半身のみ。フラットベンチプレスよりインクラインベンチプレスを先にやる。

 初めてのお客様来店。来店していただいた事はなかったようですが、早稲田でやっていた「酒いわしや」をご存知でした。Eさん来店。五月に香港に奥様といらっしゃるそうで、「ヨンキー」でも何度か食事をされたそうな。近くにお住まいという初めての女性のお客様来店。引っ越してこられて一年半だそう。Yさん来店。

 ドンチャン。記憶あり。


 

酒、そして、薬

2月17日火曜日晴れ めちゃ寒い

 中川財務大臣の酩酊記者会見の事が話題になっている。本人は酒は飲んでいない。薬を飲みすぎたと言っているようです。酒だ、薬だといろいろと裏があるかもしれないが、そんなのは関係ない事でしょう。

 とにかく、結果として、日本国の大臣が醜態を世界中にさらしたのだから、中川氏がすべて悪いのは間違いない。日本国の大臣として国を背負って、会議に出ているという自覚がなかったのだろう。国を背負っているというその自覚があれば、あのような醜態を見せないだろう。一般庶民が、酔っぱらって、そのあたりで醜態をみせるのとはわけが違う。まあ、どちらも飲まなければ済む事ですけど。

 それにしても、中川氏をぶん殴ってでも止めるスタッフはいなかったのだろうか。周りにイエスマンばかり周りに置いていたのだろう。その方が気持ちいいから、裸の王様状態だったのだろう。

 ぶん殴ってでも止めていれば、日本の恥を晒さなくてすんでいるわけです。イタリアでのサミットではあの国賊の村山富市氏が食い過ぎか、ワインの飲み過ぎかなにか知りませんが、体調を崩して会議を欠席して、あほやな〜ということがあったが、同じような程度の話題ですんでいたでしょう。

 まあ、私なんぞ、酒での失敗は山ほどやって、あちこちに迷惑をかけまくってますが、所詮は、単なる一杯飲み屋の親父ですから。(毎回、反省だけはする。反省するだけ・・・サル)

 あと、薬と言えば、ここしばらく、芸能人、元芸能人などが覚せい剤で逮捕、再逮捕されたというニュースがよくある。私は覚せい剤という話題が出るたびに思い出す人がいる。私も渋谷で仕事をやっている時に、覚せい剤をやっていた人間を知っていた。しばらくして、もう薬はやめたといっていたが・・・

 その人は、私が東京に出てきて水商売に入ってすぐに世話になった人だったが、大相撲を目指した時期もあるというがっしりした体格で、喧嘩も強い人だった。年賀状は出していたので、私が放浪から帰ってきてまた働き始めて二〜三年して私の働いているところに電話があった。

 渋谷駅の側の喫茶店で待ち合わせて会った時には、そのりっぱだった身体はふた周りも小さく感じた。本人は、覚せい剤を止めたと言っていたが、止めていなかった、あるいはまた手をだしてしまったのだろう。

 せっかく、独立して始めたそば屋も潰したようだが、おそらく薬のせいだろう。仕事を紹介してくれと、つち色した顔で言っていたが、もう、仕事などまともにできるとは思えなかった。

 「紹介などできない」と言って、断ったら「おれに死ねというのか」と。それに対して言いたい事もあったが、私は、その時は、持っていた財布からキャッシュカードだけ抜いて、(クレジットカードを作れたのは、私が自分で店を始めて一年後。年収は三分の一になったのに作れた)その人にその財布ごと渡して、「これで、奥さんのところに帰ってください」と言ってその喫茶店をでた。部屋と仕事場に嫌がらせとしか思えない電話が何度かあったのは、もう、正常では到底なかったからだろう。

 それから、一年ぐらいたって、その人が亡くなったという共通の知人から連絡があり、葬式を埼玉かどこかでやるということだったが、私は詳しい場所も聞かずに、葬式には行かないと電話を切った。

 「覚せい剤やめますか。それとも人間やめますか」というのは本当です。

  人間でなくなって、惨めな死に方をするだけです。

  今日、朝、駅まで行って、財布にクレジットカードが入っていないのに気がつく。

 昨日、買い物にいった二件の店のうちのどちらか。結局、河岸から帰ってきてから連絡することにする。

 河岸に行くと、マグロ屋の社長である慎吾ちゃんから「あっ、中川が来た」・・・・・・

 「中川(酒)か?」と。

 ちゃうねん。今日は、いつもと違って、酒は残っとらん。

 でも、私は飲んでなくとも、もう仕事が終わって、慎吾ちゃんところに遊びに来て、昼前から日本酒を飲んでいる人もいる・・・・

 昨日、買い物をした店の一件に電話したら、落ちていたクレジットカードがレジに届けられていたということで、一安心。

 めちゃ、寒い。でっ、めちゃヒマ。 Kさんがお父上と来店。 いや〜、今年、初めてのオチャピ〜をやるところでした。 今日は、店が終わってから、飲みに行くつもりが、遅い時間にTさん来店。

でっ、結局、いつものように店でドンチャン。記憶はあり。


マンガにあった言葉

2月16日月曜日晴れ ○

 今日は午後から飯を食いに出て、その後、古本屋さんなどに寄って帰る。

 後は、風呂に二回も入り、ず〜とマンガを読んだりして一日を過ごす。

 

 他人(ひと)を羨むな!!

 他人(ひと)を羨むってことは

 自分を否定するってことだ!!

 

 そんなんじゃー

 ミジメな人生を送ることになっちまうぞ!

  強くなりたいと願うことは構わない

 だがそれは他人(ひと)と比べるようなもんじゃないんだ!

 他人(ひと)は他人(ひと)

 自分は自分!

 人生すべての答えは

 己の中にあるんだ!

 (WORST ワースト 高橋ヒロシ 秋田書店)

 今日、部屋で読んでいた漫画の中にあった言葉ですが、感激しました。

 「世の中不公平だ」と嘆いている高校生に対して、下宿屋の大家さんがピンタを一発かまして、言う言葉です。(まあ、このマンガにあるようなどうみてもヤー公みたいな、こんな怖い大家さんも高校生が下宿するようなところにはいないでしょうが)

 やっぱり、体のあちこちが痛い。特に、両肩、背中・・・・・

 今日は酒を飲まず。


2月15日日曜日晴れ ○

 今日の産經新聞の第一面は、「米ミサイル監視機展開 テポドン二号牽制へ嘉手納配備」であった。

 米軍が保有している三機の弾道ミサイル監視機「RC135S」(コブラボール)のうち二機を嘉手納基地に展開し、北朝鮮に対してのデモストレーションを行うというものである。

 そして、二面には来日するクリントン国務長官との北朝鮮に拉致された家族との面会について。第六面には、同じくクリントン国務長官の「対アジア外交方針表明」の記事が掲載されていた。

 

 拉致家族の皆様は、アメリカへ行き政府要人、そしてブッシュ大統領にまで面会し、拉致の早期解決を訴えてきた。それは、家族が北朝鮮という犯罪国家に拉致されたことが判っているのにもかかわらず、一向に解決されないから、少しでも、ほんの少しでも解決にむけて前進したいからという悲痛な行動に他ならない。

その新聞を読み終えて、パソコンを開けてメールを受信したら、「笑うほどあきれる」と題された、国会議員の西村眞悟氏のメルマガ「西村眞悟の時事通信」がありました。

 失礼ながら、一部分省略させていただいて、クリントン氏と拉致問題についての箇所だけを引用させていただく。

 以下引用

 小泉元首相は、麻生総理の郵政民営化に関する発言の変遷を「笑うほどあきれる」と言ったそうだが、「笑うほどあきれる」のは、麻生総理ではなく、さらに自民党に止まらず、与野党を包み込んだ総体としての「政界」だ。

 麻生総理を笑う者もその笑われる中にいる。

 

 国家と民族が存亡の崖っぷちに近づいているなかで、肝心なことに関心を示さず、延々と「揚げ足とり」ばかり。

 一体何をやっとるのか、我が国の政界は。

 こういう揚げ足とりの盛んな政界だから、内閣がくるくる替わり前総理や元総理は与野党に複数いる。

 しかし、彼らに求められるのは、政争の為の発言ではなく、「元老」の気概をもった発言で、総理大臣の足を引っ張るのではなく、国家運営の指針を明示する発言でなければならない。

 その発言のタイミングは、政党という徒党を離れた「国家」という観点を常に意識していれば分かることだ。

略)

 さて、アメリカのヒラリー・クリントン国務長官が来日する。

 日本が新国務長官としての初の訪問地と喜んでいる人がおれば、お人好しで無邪気すぎる。

 彼女が、中国を初めに訪問すれば、あまりにも露骨で手品の種が開いてしまうから、その前に日本に立ち寄るだけだ。

 ただ、この訪日でアメリカは、しっかりと実利をとりに来るだろう。アメリカが失業問題を克服し不況から脱却するためには、中国ではなく、どうしても日本が必要だからである。

 そのなかの一つであるアメリカ国債購入の圧力に対しては、我が国はドル建てではなく円建てで購入することを明確にすべきである。

 

 では、そもそも我が国外務大臣は、何を以てこの国務長官を待ちかまえるべきなのか。

 それは、アメリカの核の傘が機能するかという問題である。

 

 日本のマスコミでは小さく報道された。しかし、英国の新聞では一面で報道された。それは、アメリカのオバマ大統領が、アメリカの戦略核弾頭の数を八〇パーセントも削減して一〇〇〇発にするという方針を表明したことである。

 我が国の外務大臣は、このアメリカの戦略核弾頭八〇パーセント削減は何を意味するかカウンターパートに質さねばならない。

 現在でも、我が国を取り巻く東アジアの核戦力バランスは、アメリカに不利になりつつある。中国は核戦力増強を急ぎ、現在保有する核弾頭は八〇〇発程度か。北朝鮮の日本向けノドンミサイルは二〇〇基で内一割程度が核弾頭で他は生物化学兵器などと言われる。

 このアメリカに不利になりつつある日本周辺諸国の核戦力増強の中で、さらにアメリカの戦略核が八〇パーセント削減されれば、日本に対するアメリカの核の傘は機能しない。

 これは、我が国が抑止手段なく裸の状態で、中国や北朝鮮の自由で恣意的な「核による恫喝」または「核攻撃」の下におかれるということである。

 従って、我が外務大臣は、アメリカの国務長官に、アメリカは日本が中国や北朝鮮の「核による恫喝」の下におかれることを容認するのか否かを最初に確認しなければならない。

 オバマ大統領による、アメリカの戦略核八〇パーセント削減方針に、厳しい核戦力環境にある東アジアに位置する我が国の政界が反応していない。当然、我が国にとって深刻な核の傘の機能消滅というその意味するところが分からない。

 これこそ、「笑うほど、あきれる」ことではないか。

 次に、昨日、首相官邸で拉致議連として官房長官に申し入れたことを述べておきたい。

 それは、北朝鮮に対する全面的制裁強化そして来日するクリントン国務長官と拉致被害者家族との会談をセットすることである。

 拉致被害者家族と国務長官との会見であるが、それはアメリカ国民と日本国民に再度我が国が抱える深刻な拉致被害者救出問題への関心を高めてもらう為に必要だと判断したからである。

 危惧すべきことは、この会見に於けるクリントン国務長官のリップサービスによって、我が国内にアメリカに対する依存心が高まってしまうことである。

 アメリカへの依存心によって、拉致された国民を救出することは我が国自身の課題であるという本質を見失ってはならないと思う。

 ところで、先日、アメリカのしかるべき地位の人が、平沼赳夫拉致議連会長を訪ねてこられたので私も同席した。

 彼は、日本国内では首相以下拉致被害者救出のブルーリボンバッジを付けているのに、アメリカにいる日本の大使や大使館員、そして、国連代表はブルーリボンバッジを付けていない。付けるべきだ。そして、そのバッジは何かとアメリカ人に尋ねられる度に日本の拉致問題を説明すべきだ。とアドバイスしてくれた。

 それで昨日、我が国の在外公館でもブルーリボンバッジを付けるべく指示をだすよう官房長官に要請した。

 最後に、再び「笑うほどあきれる」話を。

 拉致被害者は北朝鮮による拉致が判明するまでの長い年月の間、「失踪者」として扱われていた。そして、民法三〇条、三一条の規定によって失踪者として「死亡したるものとみなされた」方もいる。増元るみ子さんや市川修一さんがそうである。

 家族は、拉致が判明し両人が北朝鮮にいることが判明してから、当然に失踪宣告の取り消し、つまり「死亡したるものと見なす」取り消しを裁判所に求めた。

 しかし、現行法では民法三二条によって、「失踪者が生存すること、または、異なるときに死亡したこと」のいずれかを証明しなければ失踪宣告を取り消せない。

 ところが、増元さんや市川さんは、現在北朝鮮に抑留され会うことはおろか消息を知ることもできない。従って、「生存すること」を示す資料はことごとく北朝鮮に奪われて出せない。

 つまり、現行法に基づく裁判所の次元では、彼らは「死亡したるものとみなされた」ままなのである。

 そこで、内閣に対して、質問主意書を提出した。

 その概略は次の通り。

 政府は、増元さんや市川さんが生存しているものとして北朝鮮に対して解放を求めている。しかし、彼らは国内では、死亡したるものと見なされたままになっている。これは矛盾である。一刻も早く失踪宣告が取り消されねばならない。しかし、拉致被害者においては現行法で取り消すことは困難である。従って、政府は北朝鮮による拉致被害者に関しては、特例を設けて、宣告を取り消すべきではないか。

 これに対する政府の答えは次の通り。

「お尋ねの点については、現在裁判所に係属している具体的な事件にかかわることであり、お答えすることは差し控えたい」

 まさに「笑うほどあきれる」

 内閣総理大臣を本部長とし官房長官を担当大臣として拉致被害者救出を求める内閣は、被害者が国内で失踪宣告により「死んだことになっている」状態を放置して、生きていることを前提にした被害者救出を北朝鮮に迫まらざるを得ない。

 このジレンマ・矛盾は司法の領域では是正できない。従って、内閣は自ら特例措置をもって失踪宣告を取り消すべきだと提言したのである。

 それを、「お答えできない」とは何事か。

「裁判所に係属している」という一事に飛びついて得意げに門前払いの答弁書を起案し、手間が省けたと安堵するつまらん官僚のしたり顔が目に浮かぶ。

 人事院総裁の「もっともらしい秀才顔」といい、この答弁書を起案した姿を現さない官僚の「したり顔」といい、官僚とはやっかいで、やはり笑うほどあきれる。

(了)

引用終わり

(以上 西村眞悟の時事通信 NO.408)

 いかがであろう。政争に明け暮れ、国民を守るという第一義を今までの政治家、そして官僚がいかにおろそかにしてきたかを指摘し、政府が何をすべきかを指摘した文章だと思います。

 私は、街を歩いていて、あるは電車を利用していてブルーリボンバッチをつけた人にお会いすることはほとんどない。たしかに、拉致に対する抗議集会などで大勢がブルーリボンバッジをつけているように思えても、ごく一部の人しかいないのである。拉致に対しての抗議集会に行くと、いろいろな人とお話させていただくことがある。ずい分前になるが、日比谷公会堂でやった拉致集会に出させていただいた時、大勢の参加者で日比谷公会堂には入りきれない多くの人が外にいた。私もそのひとりであった。

その日、となりになった八王子からいらした年配のご婦人と話させていただいたが、その人は中に入れない大勢の人をみて、「いっぱいでよかった。参加している人が少ないと日本人として恥ずかしい。残された家族の方に、少しでも力になれたらと思って来た」とおっしゃっていた。

 この国のために、そして、拉致された同胞、残されたご家族のために自分たちにできることを少しでも。

 高校時代の恩師、美和先生よりメールあり。今年も青梅マラソンに出場されるために、東京にいらしているそう。お元気で何より。

 午後よりスポーツセンターに行く。日曜日の割には空いていたので、予定していたメニューを有酸素運動まで全て消化したので、三時間びっしり。(本当は、時間を過ぎてしまったが、トレーナーはまあ、まあという感じで)

 最近、フリーウエイトでの部分メニューをやった後にチューを併用するメニューにしたが、これの方が自分に合っているように思う。

 スルートレーニングでも、少しずつウエイトが上がるのは自分なりの励みになる。

 店に寄り、片付けをして生ゴミを出して帰る。

 布団に入ってから両肩が痛い。


韓国、最高紙幣に強盗殺人犯

2月14日土曜日晴れ あったかい ○

 南朝鮮が一〇万ウオン札の発行を中止したというニュースがずい分前にありましたが、手元にある「写真で知る韓国の独立運動 (上・下)」(国書刊行会 一九八八年)にはその金九の写真が掲載され、下記のような説明文があります。

 <白凡 金九(一八七六〜一九四九)は一八九三年東学に入信。一八九六年日本軍人を殺害し死刑の宣告を受けたが、高宗の特赦で出獄し、のちに「新民会」に参加した。三・一独立運動直後に上海に脱出、臨時政府の警務局長・内務総長・国務領を歴任し、一九三一年「韓国愛国団」を創設、李昌・尹奉吉義士を指揮した。一九三三年から蒋介石総統の積極的な支援を得て「光復軍司令部」を創設するなど、「民族自力光復」に努力した。>p一三四

 となっているが、金九が殺害した日本人は、長崎県出身の商人・土田譲亮であり、『土田譲亮撃殺の件 取調べ調書』によれば、食事を注文した時に女性の給仕が自分より先に食膳を与えるのを見て頭に来て、他の朝鮮人数人といっしょになり撲殺して金品を奪って逃走したのち、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けたのである。なんら、政治的な思想背景もない、ただのアホとしか言いようのない短絡的強盗殺人犯。

 そんな、腐れ強盗殺人犯を前酋長の盧武鉉は、尊敬する人物として金九をリンカーンとともに挙げていて、その前政権時代の〇六年十二月に決まったが、現政権が昨年末に「無期延期」の方針を決定したものだそうですが、結果として、強盗殺人犯を最高紙幣にしなくてよかったのではないでしょうか?

 しかし、朝鮮の人々はどうしてこうアホな強盗殺人犯やテロリストを偉人として奉るのでしょうか。普通に考えれば、朝鮮での偉人といえば、李朝末期の金玉均や朝鮮戦争の時の英雄善Y将軍であり、今の南朝鮮の基を作り上げた朴正煕元大統領でしょう。

 今日はめちゃあったかく、外を半袖で歩いている人もいた。

 二名様来店。博多からOさん来店。当店のURAホームページをご覧いただき、東京に来られた時に寄ってくださる。小胡子さん来店。チリビーンズをおみやげ。早速いただく。久しぶりに食べました。遅い時間に初めてのお客様二名様で来店。

 今日は、ビールと少し酒を飲んで、帰る。


春一番

2月13日晴れ ○

 今日は「春一番」だそうな。「春一番」のような強風の時は、どうしても学生時代の事を思い出す。私の学生時代は、能登半島の穴水が中心でした。体育会ヨット部として四年間は、穴水にあるハーバーの艇庫で部員みんなで自炊しながら、寝袋で一年間の半分は寝泊まりしていた。

 一回生、二回生まではスナイプ級があり、そのため、木製のスナイプのペイントをペーパーで落として、塗装し直すための冬の整備合宿が単調で一番辛く、一回生、二回生とも皆勤賞だったのは私を含めて数人しかいなかった。

 陸の上ではたいした事ない風も、遮るものがないもない海上では大変な脅威となる。

 海が荒れている時に出艇して沈をさせたことが何度もある。470級のように起こせば排水され、再帆走が可能な艇種は良かったが、二回生まで乗っていたスナイプ級は水船となり、救助艇に引っ張ってもらい、帰ってから一度、陸に上げなければならず大変であった。

 海はすぐに表情を変え、何度も醜い目にあった。そのために、命を守ってくれるライフジャケットの大切さは、部の全員がわかっていた。海で人の力などちっぽけなものです。寒い海に放り出されて、なんで、こんなことやってんだろうと思いながら、四年間過ごしたが、今は楽しい思い出となった。それも、部員が一人も欠ける事なく過ごすことができたからです。

 開店前に、お世話になっているインポーターの担当の方が来店。アンドレ・クルエなどでもお世話になっている。アン・ジュルード一九一一をお願いする。

 トシユキさん二名様で来店。金曜日なのにヒマ〜と思っていたら、初めてのお客様Sさん二名様で来店。Oさん二名様で来店。初めてのお客様二名様来店。初めてのお客様二名様来店。初めてのお客様Tさん来店。マロさん来店。Kくん来店。二名様来店。小胡子さん来店。

 めちゃ忙しく、飲む事が出来ませんでした。グラス、皿などを洗い終わったら、クタクタでさっさと寝る。


石坂啓と辺見庸と朝鮮人慰安婦

2月12日木曜日晴れ ×××

 辺見庸氏の作品に「もの食う人びと」(共同通信社 一九九四年)というものがあります。この中に収められているものの中の一つに「ある日あの記憶を殺しに」があります。

 その作品中には、金福善、李容洙、文玉珠という三人の慰安婦が掲載されている。

その三人が、一九九四年一月二五日午前十一時ごろにソウルにある我が国大使館前で隠し持っていた包丁で割腹をおこなおうとして、三人とも無事保護される場面から始まっています。

 その三人ともそれなりのいわく付きの慰安婦であり、狂言強盗より質が悪い嘘つき朝鮮人であることは有名な話ですが、辺見氏にとってはそうではないようです。 三人の元慰安婦が包丁で腹を切ろうとした行動に関して <万々一、狂言だとしてなに悪かろう。私にとがめる筋合いはない。>p三一四

 李容洙に関して、 <記憶というものを、私たちはなめてかかっていると思う。五十年前とは、かなり多くの人びとにとって、昨日なのだ>p三二〇

 そんな李容洙にとって「昨日の記憶」であるはずの「慰安婦の体験」証言が十四歳から十六歳と連行された年と年齢が一致せず、その時の状況もコロコロと変わることを辺見氏はどう思っているのであろう。

   文玉珠に関しても、 <一見陽気な文さんは、じつは生きた「悲しみ百科事典」みたいな人だった。私にはその一ページ分も書けない。  一九四二年から三年間もビルマ各地で慰安所生活を強いられる。 略)  忘れられない味もある。ラングーンの慰安所にいた時のことだ。師団司令部の倉庫係がサンマの缶詰を持ってきた。たった一缶のそれに野菜と塩を加えて女性たち十人で分けて食べた。>p三二四

 そんな生きた「悲しみ百科事典」みたいな人のはずの文玉珠は、一九四二年から一九四五年の間のわずか足掛け三年間のビルマでの慰安婦時に軍事郵便貯蓄にて二万六千百四十五円の貯蓄をし、一九九二年に日本の郵便局を相手にその貯金返還の訴訟を起こしています。また、それ以外にも、五千円もの大金を実家に送金しています。

(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」などより)

 現在の価値に直して、六〇〇〇万円もの大金を僅か三年で稼いだ事になります。

 何度も書くように、慰安婦問題を叫んでいる朝鮮人に、どうして、豊かなはずの現在も朝鮮人売春婦が我が国に不法入国までして、居座り、金を稼いでいるのか説明してほしいものです。

   何の検証もせずに書くアホ物書き。こんな作品にも一九九四年講談社ノンフィクション大賞が与えられています。  フィクション大賞・・・・

 そんな辺見氏の作品を基にして、石坂啓氏は手元にある「戦争論妄想論」(教育資料出版会 一九九九年)に漫画作品を掲載している。(これは「コミック版 もの食う人びと」(集英社 一九九七年)を再録したもの。初出は「週刊ヤングジャンプ」一九九八年四三号)

 辺見氏の作品に出てきた三人の戦時売春婦をひとりの人物として描いている。そして、石坂氏は漫画のあとに掲載されているインタビューで、下記のように述べています。

<今日にあってまだ戦争をめぐる問題が曖昧なまま残されている原因は、やはり昭和天皇が責任をとらなかったことにあると思います。極端なたとえをすれば、オウムでいえば麻原彰晃が無罪になるようなもの。実際手を下した人たちは裁判で刑を受けるなど、麻原自身は平和を願って手を汚していないから無罪だという論理です。天皇が無罪になって放免されたということは、アジアからみたら麻原無罪と同じではないか。反省しろとか謝れとか、何度謝ればいいのだという問題の元凶は、そもそも天皇制を残したことに尽きると思います。無理があるに決まっているのです。> p一八九

 オウムの麻原彰晃と先帝陛下と同じ・・・・  腐れアホ漫画家の石坂啓らしいご意見です。

 酔狂師さん来店。小胡子さん来店。初めてのお客様Tさん来手ン。ナベちゃん来店。

 ドンチャン。最後まで記憶ありと思ったら、まったく覚えていないことをいろいろとやっている。やっぱサル・・・・・


「の」意味

2月11日水曜日くもり一時小雨 △

 午後よりスポーツセンターに行く。平日と違い、多くの方がいらしていたが、それなりにメニューを消化する事が出来た。

 今日は建国記念日である。私は、今日まで「建国記念日」と思っていたのが、「建国記念の日」であること、その「の」の意味を渡部亮次郎氏のメルマガで知りました。

  メルマガには

<建国記念「の」日とすることで社会党内は纏まる、つまり建国記念日法案ではなくなるからだ。自民党は「の」はたんこぶみたいで厭だが拘らない。 建国「記念日」ではなく「記念の日」なのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えによるものである。これでは社会党も反対しにくいわけだ。>となっています。

 (わたなべりやうじらうのメイル・マガジン「頂門の一針」 1448号)

 妥協の産物。たかが一文字だけ「の」が付いただけで、このようになる・・・・

 そして、同じメールマガジンに、「建国記念の日―82歳の呟き」として、石澤武義氏の文章が掲載されていました。

石澤氏は <戦後の新しい国民意識のもとに、この記念日を祝ってきている筈であるが、この「2月11日」がどんな根拠に基づいて建国記念の日に定められたかという歴史的な説明を、政府も、学校も、マスコミも国民に対して具体的に行った記憶がないのは、私の不勉強のせいだろうか、そうであれば私の怠慢をお詫びするだけである。> と、この建国記念日に対する対応を批判し、続いて、昨年の全国紙の建国記念日に、産經新聞に小堀桂一郎氏(東大名誉教授)が“「目下の国難と明治の初心」――「建国記念の日」に考えるべき事”という題で論じておられたのみであると書いておられます。

 そういわれて、今年の建国記念日の記事を探しましたが、社説では産經新聞のみが、「建国記念の日 政府が率先し祝うべきだ」と題した社説を掲載したのみで、他の新聞は一切触れていません。

産經新聞の社説には下記のように書かれています。

以下引用

「建国記念の日」は戦前の「紀元節」を引き継いだものである。その「紀元節」は、明治維新のさい『日本書紀』で初代神武天皇が即位したとされる2月11日を選んで制定された。

 西欧列強に植民地化されるかもしれない危機の中、新しい国づくりに乗り出すに当たり、建国の歴史を学ぶことで、国民に一致団結を呼びかけたのだった。

 略)

 国際的にみても、国が制定した建国の記念日を政府自らが祝わないというのは、異例なことと言わざるをえない。

 略)

 こうした時代だからこそ政府も国民も結束を強め、不況克服ばかりでなく、将来の国のデザインを考えていかなければならない。

 そのためには、明治政府がそうしたように、まず建国の歴史をその中心に据えたい。今後、政府が率先してこの日を祝う方法を考えてほしい。単なる休日としてではなく、国の成り立ちに思いをはせる日としたい。

引用終わり

 先に文章を引用させていただいた石澤武義氏も下記のように結んでいます。

<どうしても「記紀」に拠り所を求めねばならないのだから。本年の「建国記念の日」には多少の批判はあっても、マスコミは古事記の解説を添えて日本独自の「紀元2609年」(西暦2009年を併記し)、日本人の自国の歴史に対する意識を高めたいものである。>

 欧米諸国は、植民地統治において、その植民地先住民族の神話・歴史を葬る事をしてきました。その民族の神話・歴史はその国の背骨であり、それが溶けてしまった民族は、自らの民族としての自覚を持たないものになり、統治し易くなります。

 我が国における戦後教育、マスコミによる情報操作により、我が国の歴史、神話などは葬られています。それにより日本民族の誇り、道徳心を奪い取っています。

 戦後GHQの政策による影響は、あの原爆よりも深い傷を我が日本国民に与えるかもしれないと危惧したのは、あの江藤淳氏でしたが、まさに、その深い傷はまだ治っていないのです。

 早く普通の国になってほしいものです。

 ちなみに、下記は「建国記念日」当日における朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日経新聞のすばらしい社説です。

朝日新聞

 自動車の苦境―首相が言うほど甘くない

 漢字検定協会―まさか「私益法人」では

読売新聞

 企業の資本増強 公的支援は「危機回避」に絞れ

 事故米業者逮捕 まかり通った偽装を解明せよ

毎日新聞

 イスラエル 中東和平を大事にする政権を

日経新聞

 米新政権の対話姿勢にイランも応えよ

 ゼネコン裏金の徹底解明を

 建国記念日のかけらもありません。

 今日は、マルガリータさん、Sさん、初めてのお客様Uさん来店。酒がしばらく飲めないSさんをおっぽっといて、アンコウ鍋でドンチャン。初めてのお客様、ご夫妻で来店。「醴泉正宗」が気に入られたよう。

 私の方は、今日も一通り飲む。記憶はあり・・・と思う。


異国で生きて行くということ

2月10日火曜日晴れ △

 私は、以前に書いたことがございますが、ブラジルにおいては、日本人なら信頼できるという意味で「ジャポネーズ・ガランティード(ガランチード)」という言葉を生んでいます。

参照→外国人がその地において、尊敬される条件

 これは、その異国における我が国の先人の努力によるものです。その地において、真面目に働き、地域に貢献し、その国の人びとから尊敬されるようになった日本人の先人が築き上げた信頼によるものです。

 少し違いますが、台湾において「あいつは日本精神がある」というと、約束を守る、信用できるなど良い意味を現します。

 では、我が国、他国において、「朝鮮人精神」「朝鮮人らしさ」とはどういうものでしょう。

ある意味、下記の記事が、それの答えではないでしょうか。

 「永遠に共和国旗とともに」

【平壌発=韓昌健記者】旧正月に際して行われる学生少年たちの迎春公演が1月26日、万景台学生少年宮殿で行われた。第23次在日朝鮮学生少年芸術団が出演した。日本当局の弾圧に屈せず、異国の地で朝鮮人として堂々と生活する生徒たちの姿は、祖国の人々を深く感動させた。

 祖国の舞台に立った在日朝鮮学生少年芸術団 [朝鮮中央通信=朝鮮通信]

 略)

演目の題名は「永遠に共和国旗とともに」。舞台は、昨年9月21日に行われた朝鮮創建60周年記念在日同胞大祝典だ。

 そのときに掲揚された共和国旗は色褪せた古いものだった。60年前、朝鮮学校に掲げられた大切な国旗だ。国旗が問いかける在日1世たちの想い。異国の地で民族の代を継ぎながら、いかにして国旗を守るためにたたかってきたのか。

 「在日社会の歴史は、朝鮮人としての誇りを胸に祖国と共に歩んできた歴史だ。これからも在日は共和国旗とともにあるということを祖国の人々に伝えたかった」と洪潤極さん(話術担当、東京中高・中2)は話す。

 在日朝鮮人が置かれた厳しい状況の中、海を隔てた異国の地から祖国を訪れた生徒たち。チマ・チョゴリに身を包みながら建国60周年を祝う生徒たち。共和国旗を手に手に楽しく踊り、カヤグムを奏でる生徒たち−。在日社会の未来を担う新世代が躍動するたくましい姿に、祖国の人びとは目に涙を浮かべ身を乗りだして見入っていた。

 最後に生徒たちが「共和国旗がなければ朝鮮学校も総聯もない、私たちはハラボジ、ハルモニのように永遠に共和国旗とともに愛族愛国運動のつぼみとして力強く生きていく」と決意を表明すると、会場からは割れんばかりの大きな拍手が起こり、しばらく鳴り止まなかった。

 舞踊手として参加した朴蘭希さん(東京中高・中2)は、「一度は必ずこの舞台に立ちたかった。公演も成功したと思う。訪れる前までは祖国についてわからないこともあったが、実際に来てみたら本当に素晴らしい場所。朝鮮学校の生徒として、迎春公演に出演した生徒として、これからもがんばっていきたい」と抱負を語った。

 略)

 公演を成功させるという一念のもとに励んだ。当日は、公演の伴奏を務める役目ながらも舞台の上で左右に陣取り、民族性を守ってきた在日社会の姿を美しい音色に乗せ、祖国の人びとに向けて奏で続けた。

 本番前日の夕方、生徒たちはめいめい公演に望む決意をしたためた。そこには一様に「自分たちの姿を通じて在日社会の力強い未来を伝えよう。これからも祖国とともに歩み、朝鮮人として堂々と生きていくということを示そう」とのメッセージが込められていた。公演終了後、平壌ホテルの食堂で公演の成功と新年を祝う宴会が催された。

 [朝鮮新報 2009.2.2]

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/04/0904j0202-00001.htm

 我が国の同胞をさらった犯罪国家北朝鮮。その解決をみないまま、その国に行き、「日本当局の弾圧に屈せず」などとほざいている連中。

では、「朝鮮人として堂々と生きて行く」とメッセージを書いた在日朝鮮学生の人たちに聞きたい。

 まず、あなたたちは、我が国において、朝鮮人という外国人であるという認識はあるか。

そして、その外国人であるあなたたちの中には、我が国において、通名という偽名を使っている人はいないのか。

 その外国人であるあなたたちの中で通名などという偽名を使い日本人のふりをしながら生活している人がいるとしたら、どうやって、朝鮮人として堂々と生きて行くということが可能なのか。ぜひ伺いたい。

 通名という偽名については、あの「有名な(アホ)」在日朝鮮人教授である朴一氏は下記のように書いている。
以下引用
 通名は「偽名」だと言っているが、この「通称名」は決して偽名ではなく、日本政府から公的に使用を認められた名前である。たとえば、印鑑登録や不動産登記、商業登記、運転免許証、あるいは学校の卒業証書にも通名は使用できるし、法的な証明書にすべて通用する、政府に正式に認知された名前で、決して偽名ではない。
 もし、このような日本政府が正式に認知した名前さえ使うなということであれば、もともとそういった名前を使わざるをえない状況に追い込んできた日本社会が、このような「偽名」を名乗らなくともよい、差別のない社会にしなければいけないということではないか。したがって、こういう人たちに対し、たとえ罪を犯したからといって、「出自暴き」をするということは、犯罪に犯罪を重ねているという気がするのである。
引用終わり
(「在日コリアンってなんでんねん」P三二〜三三)

 私には、矛盾という言葉を知らないとしか思えない。

 外国人は、どのような国においても、その国の国民とは同等の権利を有していない。同等の権利を有している国など世界中どこにもない。

 そのような他国において、異邦人というある意味のハンディを背負った人々が、生活しているその国の国民から尊敬されて生きていくということはどういうことか。そこの国民以上の努力が必要なのは言うまでもないことである。

 今、生きている国を愛することなく、差別を叫び、通名という偽名を使って生きていながら、「異国の地で朝鮮人として堂々と生活する」「朝鮮人としての誇り」などということはどうすれば可能なのか。

 

 在日朝鮮人の人々は、本当に朝鮮人という血に誇りを持って生きて行くつもりであるならば、すぐに通名などという偽名をやめて生きて行くべきであり、帰化も朝鮮名のままですべきである。

 そうして堂々と朝鮮名でりっぱに生きてこそ、我が国において、「朝鮮人らしい」ということが、信用の代名詞になる可能性もあるのである。

 通名などという偽名で生きているかぎりは、「朝鮮人らしさ」「朝鮮人精神」などというものが、ブラジルにおける「ジャポネーズ・ガランティード」と同じ意味になるような事は、我が国においては百年経とうが千年経とうが、絶対にないであろう。

 支那の国営中央テレビ(CCTV)の敷地内で昨日、火災が発生し、新社屋北側にある建設中の高層ビルが焼け落ちたというニュースがネット上であったが、その原因が、なんと、北京五輪で使われた式典用と同系列の大型花火を当局側の制止を無視してCCTVが打ち上げ続けたためだそうな。

それを、CCTV側は花火を打ち上げ続けた様子をカメラ四台で録画していたそうだから、なんともいやはやすごいものです。

 こんな、アホな事で火事になったのですから、今回、お亡くなりになった消防士の方もうかばれないでしょう。

 マルガリータさんから予約をいただき、久しぶりに活けアンコウを購入。 

 今日もご予約もないので、ヒマ〜だろうなと思っていたら、多くのお客様来店。Sくん二名様で来店。Mさん来店。何度かご来店いただいている女性のお客様二名様で来店。金ちゃん、マロさん来店。Yさん三名様で来店。

 ドンチャン。記憶あり。


アホ大学と毎日新聞のアホ記事、アホ記者

2月9日月曜日晴れ

 下記はエロ日新聞のアホ記者の記名入りのアホ記事です。

 以下引用

 従軍慰安婦問題:龍谷大瀬田学舎の学生、DVDでハルモニの現況 /滋賀

   高齢の女性暮らす韓国の施設訪問「自分の問題としてとらえて」

昨年8月、旧日本軍の従軍慰安婦とされる高齢女性らが暮らす韓国の施設を訪問した龍谷大瀬田学舎(大津市)の学生らが施設や女性たちを撮影した映像をDVDにまとめた。

 過去と向き合いながら生きる女性たちの現在の暮らしぶりが描かれ、希望があれば、貸し出す。学生たちは「慰安婦の問題を人ごとではなく自分の問題としてとらえてほしい」と話す。

 同大社会学部の西村敏雄教授(59)や、その勉強会に所属する学生ら5人は慰安婦だった 女性たちに話を聞いてみようと訪韓。元慰安婦とされるハルモニ(おばあさん)たちが暮らす 「ナヌムの家」(広州市)や「ウルチプ」(ソウル市)の2施設を回った。

 DVDは約25分間。ハルモニたちが日本政府に謝罪や真相究明などを求めるデモ行進や、畑仕事などをして生活する様子を映し、問題解決の難しさやハルモニたちの現況を伝えている。

 映像の中でハルモニは「(慰安婦問題は)まだ過去の問題ではない。夜はぐっすり眠れないし、起きている間はいろんなことを思い出す」と話している。

 DVDは、地域公民館で上映するなどの目的で依頼があれば、無料で貸し出す。

 勉強会のメンバーで、同大2年の永井裕子さん(20)は「慰安婦の問題が解決しないのは、政治に無関心な私たちにも責任がある。ハルモニたちのことを映像で残し、多くの人に伝えたい」と話す。問い合わせは同大の西村教授の研究室

 (077・543・5111、内線7227)。【南文枝】

 毎日新聞 2009年2月6日 地方版

 引用終わり

 

 この南文枝というエロ日新聞社の記者は、朝鮮人元戦時売春婦おばさんたちのことをわざわざ「ハルモニ」とどうして表現するのでしょう。

 この西村敏雄氏が教授をやっている龍谷大学の程度がよくわかる記事です。

ハルモニたちが日本政府に謝罪や真相究明などを求めるデモ行進や、畑仕事などをして生活する様子を映し、問題解決の難しさやハルモニたちの現況を伝えている。

って、普通は、現在、南朝鮮において、戦時売春婦養老院にいる連中の発言は、調べれば、その如何わしさがわかるだろうに。

 この西村教授の紹介での一言コメントがこれまた泣かせます。

<一言コメント   新聞記者としての約30年間の経験を生かした「倫理観を持つジャーナリズム教育」を手がけたい。社会に出る前に「ジャーナリスト的視点」を養ってほしい。>

 こんな程度の連中が、ジャーナリスト志望なのでしょうか???

 検証などという単語は知らんのだろうな〜

 今日も、午後から少し出かけたが、いつもの古本屋さんは閉まっていたので、収穫なし。ぶらぶらといつも通らない道を歩いて帰ってきたが、それなりに面白い。

 何年もいながら、知らなかった景色がある。

 去年の暮れからテレビの電源は一度も入れていない。テレビをつけてみても、吉本の芸人がどこのチャンネルも占拠しているだけで、面白くも何ともない。制作側が視聴者をなめているとしか思えない番組が多すぎる。なんで、好き好んで、芸人が飲んで騒いでいるだけの番組や、芸人が芸人をいじめているだけの番組を見ないかんのか。アホが移って、私のアホな頭が、よけいアホになる。

 今日は酒は飲まず。


飲んべえの会「義侠 慶を楽しむ会」

2月8日日曜日晴れ △

 午前中に、スポーツセンターに行き、軽めのメニューを消化。

 今日は、蔵元の山田社長もご出席くださり、午後三時より当店の飲んべえの会。

 

 出品酒

 NO.1 義侠 慶 平成6年発売 純米大吟醸 40%

 NO.2 義侠 慶 平成7年発売 純米大吟醸 40%

 NO.3 義侠 慶 平成8年発売 純米大吟醸 40%

 

 NO.4 義侠 慶 平成9年発売 純米大吟醸 40%

 NO.5 義侠 慶 平成10年発売 純米大吟醸 40%

 NO.6 義侠 慶 平成10年発売 純米大吟醸40%(開栓違い)

 NO.7 義侠 慶 平成20年発売 純米大吟醸 40%

 NO.8 義侠   平成20年発売 純米大吟醸 40%  

                                   

 五番と六番は開封の時間を違えて楽しんでいただきました。

 五番は本日、会の三十分ほど前、六番は三週間前に開封したもの。

 山田社長の楽しいお話など伺い、あっという間に三時間以上が経過し、一升瓶が八本+αがきれいに空きました。

 本日は、多くのお客様ご出席いただき、誠にありがとうございました。

 会が始まってすぐに、まな板に寸胴でわかせた熱湯をかけている時に、手が滑り、寸胴の熱湯が前掛けから足に浴びる。すぐに、スニーカーをぬぎ、水を足にかける。しばらく、店と厨房を行ったり来たりしながら、氷で冷やす。幸い、前掛けが分厚いものだったこともあり、それなり。

 今日は、飲んだ割には意識もあり、グラス、皿も洗い、包丁も研ぎ、後片付けも終えて十一時過ぎに店を出ることができました。


2月7日土曜日晴れ △

 Aさん二名様で来店。お父上がお亡くなりになったそうだが、大往生だったそうな。Yさん二名様で来店。Hさん来店。

 飲む。記憶はあり。

2月6日金曜日晴れ △

 バンブーさん来店。Iさん来店。初めてのお客様Yさんご夫妻来店。このあたりでお家を探していらっしゃるそうな。一応、この辺りは火事が恐いですよ。何しろ消防自動車が入って来れませんから、昼火事でも全焼ですというご近所であったことをお話させていただく。Tさん三名様で来店。Oさん来店。金ちゃん、リエちゃん来店。

 今日は一日酒を抜いているためか、調子良くガンガン。珍しく記憶あり。

 

2月5日木曜日晴れ ○

 昨日というか、今朝までのドンチャンが響き、体調最低。

 Oさん二名様で来店。Fさん来店。現在は山口県に単身赴任中。そういうこともあり、当店に置かせていただいている酒では東洋美人の一番纏がお気に入り。初めてのお客様Iさん二名様で来店。

当然、今日は酒を飲まず。

 

千田夏光の著書にみる慰安婦捏造の毒(関特演というウソ)の原点その2

2月4日水曜日晴れ ××××

 この千田氏の「関特演」による「従軍」慰安婦の「狩り出し」という捏造は、最初の著書が出版された僅か三年後の一九七六年には下記のような引用がされ、芽が出ます。

<朝鮮での女集めは、日本軍の動員と作戦のうねりに比例していた。朝鮮での女集めの大動員が始まったのは、ドイツ軍の大軍がソ連領への進攻を開始(独ソ開戦)した一九四一年七月ころからである。

 略)

 ところで、対ソ決戦の意を固めた関東軍では、関特演の名で増員された三十数万の兵隊に見合うだけの慰安婦も急遽に必要だったのだ。こうなっては従来のように個々の売春業者に任せておけないとみえて関東軍司令部の後方担当参謀・原善四郎が飛行機で京城に乗込み、朝鮮総督府総務部に娘二万名の急遽募集を依頼した。(千田夏光『従軍慰安婦』)

 当節は軍の要求するものなら、何でも通るものと相場が決まっていた。このたびの未婚女性二万名供出さわぎは、朝鮮全土を震わせた。

 朝鮮での女集めには、だましと、おどかしと、おだての三拍子がそろい、そのルートも決まっていた。関東軍から女の供出を依頼された朝鮮総督府は、例のように道知事へ命令し、道知事は各郡守へ伝達し、郡守は面(村)長宛に、廠廠警察署→巡査駐在所へと下達される。

 こうして末端の面長と巡査は、指令されたような真赤な嘘を掲げて生娘を集めるのだった。その文句も決まっていた。「お国のためになる仕事だ」と半ば強制した。もし娘たちが、それをのがれようと逃げ回るものなら、背負いきれない過酷な穀物供出の割当てを押し付けて報復する。

 そこで娘たちは、一抹の不安を抱きながらも、面長や巡査がいうことであるから間違いないだろうと、働く覚悟を決めて集まる。その仕事というのは、軍隊の被服廠か看護婦手伝いのようなものと思っていた。まさか軍隊の慰安婦にされるとは思っていないのだ。

 かくて一万人に近い朝鮮の娘が狩出されて臨時列車に乗せられて北上し、「ソ満国境」地帯の各部隊に配給された。この女性たちを依頼した前記の原善四郎が語るように「秦天(瀋陽)駅で出迎えたときは、華やかなものでした」というから、その大がかりさがうかがわれる。>

「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」(金一勉 三一書房 一九七六年)p五七〜五八

その後も下記のように捏造の花が開きます。

<当初は”クロウト”であったが、不足するようになると、朝鮮人の女性をだまして、あるいは強制的に徴用してこれに当てるようになった。一九四一年、例の対ソ戦準備の七十万人の大動員のあった「関特演」に際しても、二万人の慰安婦が準備された。近代国家の軍隊が、「制度」として慰安婦を戦場に連れて行ったなどとは、世界の戦史史上例のないことであろう。そして、その犠牲者は朝鮮人の女性であった。>「韓国・朝鮮と日本人」(若槻泰雄 原書房一九八九年刊)P二〜三

<兵用性業婦としての組織的な刈込みは、「関特演」の第一次動員がなされた昭和十六年七月十三日である。七〇万、三十四個師団の満州集結のおり、二万の慰安婦徴募を後方担当参謀原善四郎少佐が、朝鮮総督府にとんで用達をなした。統治密約による官斡旋で、指定郡庁から面事務所、区長、警察署を通、女子愛国奉仕隊員を刈り込んだ。

組織的な「関特演」用の女子強制供出につづき、その後に発布をみたのは、朝鮮女性への挺身勤労令であった。

 「われわれ朝鮮の人間が、よりいっそう国家のためお役に立つ方法がみつかった。喜んで協力をして欲しい。このたび朝鮮における十六歳以上の女子に対し、志願により国家に尽くす道が開けた。その名前は女子愛国奉仕隊といい、戦前の兵のために働くものである。忠義のヤマトナデシコになれる道が開けたのだ。これで女も内地の女なみに、肩身が広く生きられるという道なのだ」

 と、日本側は志願を強調した。「関特演」での一万人の女たちは、関東軍の下にプールされ、その中から兵たちも女たちも中国に太平洋に送り込まれた。>「慰安婦たちの太平洋戦争」(山田盟子 光人社 一九九一年)p一七〇〜一七一

 <マレー半島における慰安婦のことを、近衛歩兵第一連隊幸田部隊の足取りからみてみよう。

 部隊はソ連軍撃滅が目的で、大連を経て満州秦天(いまの瀋陽)に昭和十六年(一九四一年)七月に到着した。演習と称されたこの下命で、七〇万人の兵に対する二万人の慰安婦のうち、後方担当参謀原善四郎少佐によって、朝鮮総督総務局の協力でたちどころに一万人が集められ、臨時列車に乗せられて北上した。

 「秦天駅で女を出迎えたときは、華やかなものでした」と、原善四郎は語った。

 ところが第一次、第二次と集められた招集の兵は、独ソ戦の膠着と同時に、関特演がとりやめという命令もないまま、十月の中旬に出発命令がでて、幸田部隊は秦天から大連に向かった。八千トン級の大型貨物船に乗せられた。動員」を「続慰安婦達の太平洋戦争」(山田盟子 光人社 一九九二年)P六四

<朝鮮には(ママ)日本のアジア侵攻と同時に、女衒や一旗組も入り込んで、女たちは慰安婦としてさらわれてきたが、組織的な刈込みは、「関特演」の第一次動員がなされた昭和十六年(一九四一年)初夏からであろう。

 そのとき兵七〇万であり、慰安婦二万は朝鮮総督府にもちかけた。統治密約の官斡旋で、女子報国隊として、面事務所、区長、警察署長を通して、強制的に集められ、ひきつづいて朝鮮女子には、挺身勧告令がほどこされていった。

 その女たちは、ビルマをはじめ、豪州の近くのチモール島まで配布された。>

「従軍慰安婦」(山田盟子 光人社一九九三年)p一九〇

 千田氏は一九九五年になっても、この捏造に自信を持っていたようで、下記のような文章を書いています。

<まず従軍慰安婦とした女性の数は今もって不明である。ほぼ実数に近いと思われるのは関東軍司令部後方担当参謀をされていた原善四郎元中佐が二日かけ算出して下さった「約八万人」である。この中には韓国・朝鮮人以外の女性も入っているが、圧倒的に多いのは韓国・朝鮮人女性で推定でほぼ七万人近いのではとされており、彼女らは満州、中国本土から南方各戦場へ送られていった。>P五(一九九五年の恒友出版よりの復刊のさいに書かれた序文より)

「従軍慰安婦・慶子」(千田夏光 クラブハウス二〇〇五年 初刊は一九八一年光文社)

 第二の吉田清治と中川八洋氏に書かれ、その捏造を暴かれた千田氏の「関特演」による「慰安婦強制連行」ですが、私は、千田氏が嘘の始まりと思っていたら、最近、古本屋で購入した本の中で下記のような記述を見ました。

<総督府が集める人数を上から割り当てていったとしたら、事実上の強制(半強制)になる。このようなケースがあったかどうか、より正確に実証していかなければならないが、次のような例がある。

略)

 堅実な実証史家であった故島田俊彦氏は、一九四一年七月以降、関東特種演習という名目で対ソ侵攻作戦のため大動員がおこなわれたが、このとき関東軍は二万人の朝鮮人慰安婦を集めようと計画し、約一万人を集め、ソ「満」国境に配置したと記している。「関東軍」>

(私は「従軍慰安婦をめぐる三〇のウソと真実」(吉見義明・川田文子 大月書店 一九九七年)p二三より引用(吉見氏の引用先は島田俊彦著「関東軍」中公新書一九六五年)

 吉見氏の著書にある島田氏の著書「関東軍」は私は持っておりませんので、直接確認することができないのですが、一九六五年というと千田氏が最初の著書「従軍慰安婦 正編」を双葉社から出した一九七三年の八年前となります。

 千田氏が、著書「従軍慰安婦・慶子」において、前書きの部分に<ひょんなことから彼女らのことを足掛け七年かけ調べ、二十年前「従軍慰安婦(正続)」なる本とした>P一

と書いていますので、千田氏は、この時には出版されていた島田氏の著書「関東軍」より「関特演」の慰安婦強制連行の捏造を考えだした可能性もあります。もしそうだとしたら、捏造の種を蒔いたのは島田俊彦氏で、それを持って生まれた詐欺師の才能で大きく想像を膨らませ、現実味を持たせたのが千田夏光氏ということになります。

 まあ、いずれにしても売国ぶりは本多勝一氏なみの貢献度です。

 その「偉大」な「捏造」による功績は不滅で、後継者も多くいるようです。

 しかし、千田氏の著書「従軍慰安婦・慶子」の表紙コピーはなんざんしょ!

<名書復刊

これを読まずに女の戦場と日本の戦争は語れない」

教科書から消された『慰安婦』記述。時代は戦前モードに!?

脱「謝罪外交」の動きで対立が深まる中朝の反日と、

日本のプチ・ナショナリズム。

すべてはこのルポルタージュから始まった。>

 迷書だろうに!

 いや、螟書か?

 酩書か????

 あほらし。

 スポーツセンターに行く。今日は、スロートレーニングでの上半身だけ。

小胡子さん来店。金ちゃん、マロさん来店。Aさん三名様で来店。Mさん来店。

 今日、金ちゃんから教えてもらうまで、社会科の教師の資格に「公民」と「地歴科」と分かれているということを知らなかった。あと、金ちゃんのように英語がいくら得意でも、英語の教員資格を持っていないので、教師として教える事は出来ない・・・・まあ、普通に考えるとあたりまえなのでしょうが・・・知らなかった・・・・

 営業終了後、エムズバーさんに伺う。 その後、中野の「石松」さんに行ったようだが、記憶は「まったく」、「全然」、「完全」になし。

ドンチャン。気がついたら、店の床で寝ていました・・・・・・

サル、猿、申、さる、SARU・・・・・・・・・・・・

せめて、椅子で寝るようにしたいものだ・・・・・・

 

千田夏光の著書にみる慰安婦捏造の毒(関特演というウソ)の原点

2月3日火曜日晴れ ×  

 「関東軍特別(大)演習」、「関東軍特種演習」、「関特演」といわれるものが、いわゆる「従軍」慰安婦関係の著書には度々出てきます。

 (私の手元にあるもので、関東軍特種演習と書いてあるのは、吉見義明氏の著書)

 ウィキペディアには、下記のように掲載されています。 <関東軍特種演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。>

 そして、この関特演に多くの朝鮮人「従軍」慰安婦が動員されたとなっているのですが、これは大嘘というか、腐れ売国奴どものいつものやりかたです。

 私の手元にあるものとしては下記のようなものです。

 まず、イダイな歴史捏造家である千田夏光氏の著書より

<「”関特演”・・・・の動員の中に”慰安婦”の動員も含まれていた。関東軍の後方担当参謀の原善四郎少佐(のちの中佐)という人物がいたが、作戦部隊の兵隊の欲求度や所持金に女性の肉体的能力を計算したすえ、”必要慰安婦の数は二万人”とはじき出し、飛行機で朝鮮へ調達に出かけている」

「原善四郎氏は大阪市の南に隠栖されていた。・・・・・私はそこからお尋ねすることにした」

「朝鮮総督府総務局に行き依頼した」

「実際に集まったのは八千人ぐらいだった」

「(最初は断った師団長も)二ヶ月とたたぬうち、やはり”配属してくれ”と泣きついて来た」>

「従軍慰安婦」正編 続編(千田夏光 三一新書 初刊は双葉社一九七三年、七四年)

(私の引用は「歴史を偽造する韓国」(中川八洋 徳間書店 二〇〇二年刊)p二三八〜二三九より引用

 < 大動員の方、これは朝鮮半島に目が向けられていった。

略)

 代表的なものとして関特演の場合がある。

 関特演とは関東特別大演習の略称だが、これが昭和十六年八月十日を期し対ソ戦を開始し、一ヶ月で東部シベリアを占領する作戦の秘密名だったことはひろく知られている。計画によれば八月九日までに七〇万人の兵員をソ満国境に集結することになっていたが、この動員が発令されるや関東軍司令部第三課、つまり後方兵站担当のF中佐参謀が京城(現ソウル特別市)に飛んだ。そこにある朝鮮支配の日本政府機関・朝鮮総督府へ「従軍慰安婦二万人の徴募」を依頼の形で命じている。

 この七〇万人に対する二万人という数字は、兵隊の欲求度と所持金から算出されたものだったが、頭割りにすると兵隊三五人にたいし慰安婦一人ということになる。昭和十三年の第一号から三年半め、この時点ではそうした数字が作戦計画の中で参謀業務として算出されるようになっていたのである。

 もっとも関特演は作戦発動ギリギリで中止となり、二万人と予定された朝鮮人慰安婦も一万人で徴募中止となったが、大東亜戦争段階になると、これは徴用令という形になった。方の名によって集められたのである。形としては軍需工場に動員される者と同じであったが。娘をとられるのを悲しみ山奥へ逃亡させた両親を警官が捕え、留置場に放り込み、さらに罰金刑をかけた事例や、その前日に自殺した女性の例まで、今も朝鮮半島に語り継がれる悲話は多い。>

「一億人の昭和史 二 二・二六事件と日中戦争」(毎日新聞社刊 一九七五年七月 )に書かれた「従軍慰安婦という悲しい存在」 千田夏光 p一七七〜一七八 

<まず従軍慰安婦とした女性の数は今もって不明である。ほぼ実数に近いと思われるのは関東軍司令部後方担当参謀をされていた原善四郎元中佐が二日かけ算出して下さった「約八万人」である。この中には韓国・朝鮮人以外の女性も入っているが、圧倒的に多いのは韓国・朝鮮人女性で推定でほぼ七万人近いのではとされており、彼女らは満州、中国本土から南方各戦場へ送られていった。>

P五(一九九五年の恒友出版よりの復刊のさいに書かれた序文より)

<昭和十六年七月の対ソ開戦を前提とした関東軍特別大演習のとき二万人の朝鮮女性を連行しようとした関東軍後方担当参謀にも当時の話を聞く事ができた。>P十五

<昭和十六年八月の初旬、軍属通訳として配属されてきた、日本の長崎高等商業学校(現、長崎大学)をでた朝鮮人の男が「満州で関東軍の大動員がはじまり朝鮮から一万五千人の女が従軍慰安婦として強制連行されたそうだ」押し殺した怒り声で李英玉に話しているのをきいたが、>p二一九

「従軍慰安婦・慶子」(千田夏光 クラブハウス二〇〇五年 初刊は一九八一年光文社)

 既に書いた事ですが、この関特演のいわゆる従軍慰安婦問題の捏造に関しては、中川八洋氏が著書『歴史を偽造する韓国』(徳間書店 二〇〇二年)にて詳しく指摘しています。

参考→若槻泰雄の著書にみる千田夏光

  千田のウソについて中川氏はその著書で 「関特演」つまり「関東軍特別演習」は、七月二八日にはサイゴンに入城して「南進」に戦略が定まったため、八月二日頃には、シベリア侵攻断念(陸軍統帥部の正式断念は八月九日)が陸軍中枢の意志となっていた。これにより「関特演」はあっという間に”単なる演習”に格下げされた。

 「関特演」の動員命令は、第一次が七月九日、第二次は七月十六日であった。内地から動員された宇都宮の第五一師団と弘前の第五七師団は、この七月十六日での下令であった。ところが、八月九日には正式の中止決定である。つまり、実質的には(七月十六日〜八月二日の)二週間の「幻の動員」に過ぎなかった。この奇襲開戦の当初の予定日は八月十九日であったことを思えば出産予定の一ヶ月前に自ら掻爬してしまった「机上の大動員」であったといえる。要するに、「関特演」は、実際には、上記の二個師団を除き、満朝軍の平時編制を戦時編制に切り換えただけであった。ほぼすべての部隊は、満州と朝鮮の既存の部隊に限定された。

「国をあげての戦争準備」とは程遠く、そんなものは影も形もなかった。

 そうとはいえ、この「演習」はあくまで開戦準備であったから、パールハーバー奇襲と同じく、機密のなかの機密であった。当然”企図秘匿”は至上命令であった。だから、実際には「動員」の二文字すらなく、「臨時編制」の四文字に置きかえられていた。出征兵士の壮行会や歓送会は禁止された。

 以上の史実に基づき、中川氏は千田氏の捏造を指摘をされています。

以下引用

 その一  朝鮮からの慰安婦(売春婦)の朝鮮総督府への依頼、総督府による募集、「八千人」という慰安婦の集合、満州北部への輸送は、仮に七月七日に開始されたとしても、なんとたった一ヶ月未満の八月二日までに完了したというのである。軍隊の動員より早く、かつ動員された軍隊よりその輸送も迅速だったというのである。

 その二  朝鮮全土で公然と朝鮮人の面長(村長)と村の巡査を叱咤しての「八千人」という巨大募集は、完全に秘密裡に実行された。一個師団にほぼ近い、売春婦「八千人」と恐らくその置き屋関係者約千人以上が、朝鮮から満州北部に完全に秘密裡に輸送された。

 その三  新規動員(補充)された将兵兵舎や馬の厩舎すらなく、テントその他でその場をしのぎ、それらの建設を応急的にやっているときに、この「八千人」と置屋関係者の建物だけは絶対優先でただちにつくられ完備された。

 その四  従軍慰安婦「八千人」が仮に八月上旬に満州北部に到達したとすれば、その「二ヶ月後」は十月上旬である。「関特演」は八月九日に中止になっていた。それでも、ある師団長はシベリヤ用慰安婦が欲しいとこの十月ごろに関東軍参謀部の兵站部に泣きついた。

 その五  「従軍置屋」の担当は憲兵部隊であるのに、関東軍では実戦部隊の兵站部が所轄した。

 その六  千田は開始されてもいない対ソ戦に、「まぼろしの日本軍」を追っていき、その売春婦八千人が全員巻き込まれて亡くなり、朝鮮には帰ってこなかった。

 その七  関東軍の一参謀の依頼で、朝鮮総督府総務局の官僚たちがすぐに応じて引き受けてくれた。また、総務局は「従軍慰安婦」の「募集」を所轄する部局であった。

 その八  動員を開始した直後には、食料や弾薬の輸送を担当する兵站部門は眠る間もない超多忙と激務になる。が、その中心的なエリート参謀が、のこのこ朝鮮に売春婦募集にいく時間的余裕がたっぷりとある。

 その九  「父親(面長)がある日のこと頭をかかえていたのです。駐在所の警官がたずねて来た直後です。・・・・若い女性を集めろと言われたのですね」  すなわち、駐在所の警官が面長(村長)に対する命令権がある、巡査という末端の警官は村長の上司であると主張する。しかし、面長の上司は郡守である。郡守の上司は道長官(副知事)である。一方、村の巡査は警察署長の部下である。警察署長は県(道)の警務部長の部下ある。警務部長は、総督府の警務局長の命令に服する。

 以上の他に中川氏は千田に対して、

1)本当に原善四郎にインタビューしたのか。インタビューの録音テープの存在の有無。

2)「父親(面長)がある日のこと頭をかかえていたのです。駐在所の警官がたずねて来た直後です。・・・・若い女性を集めろと言われたのですね」と語った韓国人は本当に実在するのか。

3)これだけの虚偽者作は、個人で発案したのか、それとも背後の組織の命令によるのか。

と三つの事項を明らかにすべきだと言っています。

つづく

 Kさん来店。小胡子さん、BOOちゃん来店。三名様来店。うち、お一人様は独特の日本酒に対しての知識をお持ちの方。「マスターは以前、義侠は、ヤクザが買い占めるから、手に入り辛いって言ってましたよね」「この香りは、酒を造る米に香り米を使っているからですか」などなど。こうやって、都市伝説???はつくられていくのでしょうか???????

 

山田盟子の著書にみる捏造

2月2日月曜日晴れ ○

 山田盟子氏はその著書「慰安婦達の太平洋戦争」において、「従軍慰安婦と看護婦」(田和子著)を参考および引用を明示している記述があります。

<昭和十七年三月十七日に、すでに太平丸で九十九名がトラック島に進出したのだ。

略)

太平丸で上陸した特要員の菊丸は、本名を山田馨子といい、トラック島に来島したときは十八歳であった。

略)

 菊丸の乗った太平丸は横浜を出港すると、神戸で福原廓や大阪の たちで、三十三名となり、釜山にまわって六十六名の朝鮮ムスメを乗せた。

 チョゴリを着たムスメたちは、日本の前借抜きのくらがえ娼婦とちがって、騙されて刈り込まれた女たちであり、「アイゴーアイゴー」と泣く姿に、菊丸たちはもらい泣きしたという。南洋海軍区は横須賀鎮守府の所轄であったが、横鎮の性用兵站は陸軍と同じ朝鮮であった。

 略)

 将校用の菊丸をはじめとする三十三名は、

略)(『従軍慰安婦と看護婦』広田和子)>

「慰安婦達の太平洋戦争」光人社 一九九一年刊 p一六四

 では手元にある広田和子氏の著書『従軍慰安婦と看護婦』(新人物往来社 昭和五十年(一九七五年)刊)にてそれらしい記述箇所をさがしますと、

<芸者菊丸、本名山内馨子さん>とまず、菊丸さんの本名が「山内」と「山田」と違っています。これだけだと、単なる誤記かとも思うのですが、もうひとり同じページで、木元で芸者をしていて、菊丸さんと同じ船でいっしょにトラック島に渡った女性も広田氏の著書では「鈴本」文さん、山田氏の著書では「鈴木」文さんとなっています。

 そして、同じ著書に出てくる人なのに、

<おなじく太平丸で、木元(熊野市)で芸者をしていた十八歳の鈴木文が、トラック島にむかった。

「あのとき四十ちこうおったかな・・・・うチらは普通の兵隊さん相手だった」

略)

「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」>

「慰安婦達の太平洋戦争」p一六五

 引用先をとわざわざ「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」と書いています。

 この「鈴木」文という名前の引用は「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」において金一勉氏が使っています。金氏も巻末に掲載した参考文献の中に「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」と書いています。

 私は残念ながら、「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」に掲載された「ドキュメント太平洋戦争」の原文をもっておりませんから確認出来ませんので、「一九七三年『アサヒ芸能』八月二日号」においては、「鈴木」文さんになっているかもしれません。

 しかし、山田氏が引用しているこの広田氏の著書は「アサヒ芸能」に連載されていた「ドキュメント太平洋戦争」において広田氏が取材したものをまとめたものであり、当然、鈴本(鈴木?)文さんに関しても、ほぼ同じ内容の文章が掲載されている。その引用先をわざわざ分けて記述する必要がどこにあるのか。鈴本文さんと鈴木文さんを別人にしなければいけないのであろうかと私なりに考えてみました。

 山田氏は広田氏の著書よりの引用として「菊丸の乗った太平丸は横浜を出港すると神戸で福原廓や大阪の妓たちで、三十三名となり、釜山にまわって六十六名の朝鮮ムスメを乗せた。」と書く。つまり、日本人は横浜+大阪.神戸グループで合わせて三十三名しか乗船していない。残りの六十六名は朝鮮人慰安婦であるとしている。

 しかし、山田氏の引用元である広田氏の著書では

「その時上陸した慰安婦は約百名。そのうち少尉以上を相手にする士官用は三十三名、菊丸さんはその一人だった。」p二四

となっている。

 広田氏の著書には、朝鮮人慰安婦の人数的な記述は、私が読んだかぎりでは「釜山では朝鮮の女性がかなり乗船したわよ。」p一九

と書かれているだけであり、具体的な数値は書かれていない。つまり、どこにも「釜山にまわって六十六名の朝鮮ムスメを乗せた」という記述は無いだけでなく、広田氏の著書には鈴本文さんについて下記のように書かれている。

「鈴本文さん(仮名四十五歳)彼女は菊丸さんと違い、回しをとらなければならなかった一般兵隊用の慰安婦である」p三八

「鈴本さんがトラック島に渡ったのは昭和十七年三月、偶然にも菊丸さんと同じ船だった。帰国が十八年十二月末で、これも同じだったのだが、二人はまったく面識がない

 略)

 あのときは四十人ちこう行ったんかしら。大阪のグループと神戸の福原遊郭のグループの合併でね。」p四十二

 このように、山田氏の著書には鈴本(鈴木)文さんに関しては「おなじく太平丸で」と書かれているが、「偶然にも菊丸さんと同じ船」(同じ便)だったとは書かれていない。

 ここに、山田氏が引用先を別にしなければいけない理由がある。

 山田氏の著書にあるように、菊丸さんが、鈴本さんと別の便の太平丸に乗船しなければ「釜山にまわって六十六名の朝鮮ムスメを乗せた。」という朝鮮人慰安婦のウソの数があわなくなるからです。

 山田氏が引用している広田氏の著書には、昭和十七年三月十七日に横浜港を出航した太平丸においての慰安婦に関しての数字は、上陸したのは約百名の慰安婦であり、そのうち、三十三名の士官用慰安婦であったこと。そして、大阪、神戸のグループが四十名近い人数というだけである。

 九十九名という具体的な乗船していた慰安婦の総数も、釜山において乗船してきた六十六人という朝鮮人慰安婦の人数もどこにも書かれていない。

 この数値はどこから出てきたものであろうか。そして、朝鮮人慰安婦の数が日本人より倍も多くなければいけない理由でもあるのであろうか。

 最低限、日本人慰安婦の数は、横浜+大阪、神戸グループ(四十人)となるので四十人よりは確実に多くなる。横浜からの具体的な人数は書かれていないが、菊丸さんとその友人の二人は確実に乗船している。よって、朝鮮人慰安婦の数は約百人ー(四十+2+α)となり、五十八人よりは確実にちいさくなり、六十六人という山田氏の著書にある人数はありえなくなる。それどころか、三十三名の士官用慰安婦は横浜からと仮定し、大阪、神戸のグループの四十名近い人数の慰安婦はすべて一般兵士用慰安婦と仮定して足すと、日本人慰安婦は七十人以上になり、釜山から乗ったのは六十六人という数字にはほど遠い三十人未満となる。

 

 中川八洋氏は著書で、「千田夏光のつくり話も、吉田清治のそれと似て、数字を酷使している。日本人は嘘数字に弱い」と書いています。

 私も、この山田盟子氏が、朝鮮人慰安婦の数をごまかすというより、日本人の倍の人数の朝鮮人慰安婦の具体例をでっち上げるために、わざわざ、引用先をわけたとしか考えられない

 こんな女千田夏光、あるいは女吉田清治の書いた文章でも、これにより、具体的な朝鮮人慰安婦と日本慰安婦の割合を示す事例にもなり、また、日本人慰安婦は高級将校用、朝鮮人慰安婦は一般兵用というねつ造ができることになる。

 あと、山田氏の著書に引用されている「日本の前借抜きのくらがえ娼婦とちがって、騙されて刈り込まれた女たちであり、」という表現も広田氏の著書には書かれていない。

 我が国のためにならないことだったら何でもする腐れ売国奴ども!

 

 今日というか、今朝まで起きてず〜と部屋でゴロゴロと本を読んでいたので、寝たのが六時頃。起きたのが十一時前。それから、食事に出かけただけで、後は部屋にいた。やったことといえば、築地の鮪屋のシンゴちゃんから「もう捨てたら」と言われているジーパンの修理ぐらいで、あとはマンガの本を読んでゴロゴロしていた。マンガと言えば、さいとうたかお氏の「藤枝梅安」「鬼平犯科帳」に出てくる脇役、特に女を書いているスタッフがめちゃ下手なやつに変わっている。ひどいもんです。

 

ギャル米

2月1日日曜日晴れ

 「渋谷発農業革命」よいうニュースが産經新聞に掲載されていた。

以下引用

アムラー、ガングロの次はノーギョー!? 若者文化の発信地、東京・渋谷で、10代後半から20代のギャルが農業の担い手となり、食料自給率アップを目指すプロジェクトが始動した。今春からファッションモデルたちとともにコメ作りに挑戦し、秋には「ギャル米」の商品化を目指す。アパレルメーカーとともに農作業に向いたおしゃれな服作りや農業体験イベントも企画。渋谷ギャル発の“農業革命”を、と意気込んでいる。(村上智博)

 旗振り役は「ギャル文化を社会に理解してもらおう」と活動している藤田志穂さん(23)。4年前、ギャルの動向についてのマーケティング会社を設立した「ギャル社長」だ。エコ啓発やエイズ予防といった社会貢献活動にも力を入れてきた。

 「ギャルも気軽に参加できる、イケてる農業ができないか」

 そんな発想のきっかけになったのは、食の問題について考えるうち、農業を営んでいた祖父の田畑が、休耕地となり荒れ果てていったのを思いだしたことだ。渋谷の“ギャルママ”との会話で、彼女たちが美容やファッションと同様に「食の安全」に気を配っていることも知った。

 農業再生に取り組んでみたい。そんな藤田さんに共鳴した農家の人々の協力を得て、長野県内の田んぼで田植えや稲刈りを体験する企画を練った。畑を借りて野菜作りにも挑戦する。いま、同世代のモデルやタレントらにも参加を呼び掛けている。

 藤田さんは「収穫したコメは渋谷に持ち帰り『ギャル米』としてPRしたい」と語る。自分たちで育てたコメや野菜で作ったおにぎりや料理を商品化する計画だ。「農業とのかかわりを通じて『ジャンクフードばかり食べている』といったギャルのイメージも変わってくれれば」

 ギャル向けファッション情報の発信基地になっている「渋谷109」に出店しているアパレルメーカーなどと提携して、動きやすい農作業服の開発にも取り組む。ギャルママが子供と一緒に参加できる農業体験イベントなども企画している。

 「ギャルは流行に敏感。周りの女の子が楽しく農業をやっていれば、必ず参加の輪は広がる。意識の変化が農業従事者の増加にもつながる。ギャル文化で農業革命を起こしたい」と藤田さんは意欲満々だ。

引用終わり

 私は、この人が、農業再生として、農業にいろいろな人が興味を持ってくれるように、体験イベントをなどをやることはすばらしいことだと思う。しかし、何か違和感を感じます。

  <今春からファッションモデルたちとともにコメ作りに挑戦し、秋には「ギャル米」の商品化を目指す。>

<藤田さんは「収穫したコメは渋谷に持ち帰り『ギャル米』としてPRしたい」と語る。自分たちで育てたコメや野菜で作ったおにぎりや料理を商品化する計画だ。>

 

 「収穫したコメ」「自分たちで育てたコメ」っていっても、収穫するまで大変です。

 (米をなんで、わざわざカタカナにするのかわかりませんが)

 この方の言う「自分たちで育てる」とは、どういうことなのでしょう。

その土地に住んで、お百姓さんから、休耕田を借りて自分たちで作り、その田んぼを見守るわけでもなく、田植え、稲刈りの時期だけ「手伝い」に行って、「自己満足」して帰って来て、「自分たちで育てた」というつもりでしょうか。

 米を収穫するまでは、種もみを蒔いて、苗つくり。田つくり、田植え、そして稲刈り。

その間に、水田だったら、その地区の一員としての水の共同管理。肥料、農薬散布。草取りなど多くの仕事があります。

 結局は、その地のお百姓さんにおんぶに抱っこで、「自分たちで育てた」と自己満足し、それを他人に「ギャル米」と称して売るつもりでしょうか。

 米作りの大変さを知ることがなければ、共有するものを少なく、「お客様」として、その地域に接したままで、受け入れられること無く終わるのではないでしょうか。

 私は過去に、JAなんと(富山県南砺市)の片山国丸課長(当時)がやったことはまさに農業革命と思ったことがあります。

 農家、一軒一軒まわり、農家から田んぼを預かり、農協で管理する。農家は、年に何度も使わない高価な農業機械の維持だけでも大変です。それが、何もしなくてもお金が入り、田んぼにでると、日当まで払われる。田んぼを荒れさすことも無く、収入がある。高齢化した農家にはありがたい話です。

 当時、国丸さんは外国からの米が多く入ってきて、現在の米の値段が半分になっても、競争出来ると言っていました。

 これも、国丸さんという強烈な個性と指導力のある人がいて初めて実現したことで、普通は難しいことだと思います。

  

  私の淡路島の実家も小売り酒屋をやりながらの百姓でした。お袋が酒屋と田んぼのほとんどをやり、ばくち好きな親父は馬喰をやったり競馬馬を飼ったりして好きなことをやって生きていました。残してくれた山と田んぼが何枚かあり、従兄弟がその田んぼをやってくれています。 田んぼは生き物ですから、休耕田にすると荒れてしまい、大変です。

 「年とったら、淡路に帰ってこいよ、自分で食べる分ぐらいはその田んぼでできるだろうから」と、その従兄弟が言ってくれている。

 田んぼですから、家庭菜園よりは少しは多く野菜ぐらいはできるかも・・・・

 帰るかどうかわかりませんが。

 

 今日は、酒は飲まず。

 

 

過去の日記

平成21年平成20年

平成19年平成18年

平成17年平成16年

平成15年平成14年

平成13年平成12年


表紙にもどる