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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます



12月31日木曜日晴れ ×

 店を片付けて、残り物の刺身等を持ってSさん宅で開かれている忘年会に参加。

 Sさん宅に着いた時はすでにみなさんはドンチャンの最中で、その後も醴泉の純米吟醸一升瓶がガンガン空いていく。

 早く帰るつもりがいつも通りに新年の御祝いを言ってからの帰宅。

 マルガリータさんが下まで送ってくださり、止めてくださったタクシーに乗り帰宅。

 事件?はその後。

 そのまま自宅近くのコンビニの前で降ろしてもらい、コンビニで買い物をしてレジで精算・・・・・

 財布がない・・・・・・

 真っ青・・・・・・

 あわててマルガリータさんに電話して、タクシー会社を確認。

 自宅に帰ってパソコンでKMタクシーの電話番号を調べて連絡。

 すでにマルガリータさんが連絡してくださっていたようで、タクシー会社から何度も細かい経過報告をいただく。

 マルガリータさんも心配してくださり電話をいただく。

 一時間以上も過ぎ、諦めていたところに、「見つかりました」という連絡を頂く。

 もう一度運転手さんがコンビニの前まで来てくださる。

 運転手さんは私が落とした財布に気がつかなかったが、私の後に乗った女性の方が気が付いて運転手さんに渡してくださったそうな。

 新年早々いい運転手さん(鈴木さん)と女性のお客様に助けられました。

 財布には現金だけでなくキャッシュカードと一体型のクレジットカードも入っており、淡路島への帰省だけでなく、正月をどうやって過ごすかまで考えましたから。

 

 海外で同じ事があったらどうなのだろう・・・・・

 正月早々バカをしたのですが、運が良かったというか海外で同じ事があったらどうなのだろうと思うと、我が国で良かったというべきでしょうか。


本年最終営業

12月30日水曜日晴れ △

 今年の最終営業。

 朝、ゆっくりと河岸に行くと大勢の人。場内もいつもより多くの人だがが、一般の人がほとんど。

 仲卸さんも本来の仕事はとっくり終わり、残ったものをそれぞれ贈りあったりして、仕事納めムード。

 私も昨日お願いしてあった鰤の腹身と活け蛸を購入して河岸での仕事は終わり。後は、お世話になったお店に挨拶をして帰る。

 来年の資格試験が終わるまでしばらく禁酒というSさん来店。

 ホロン部員Yさんフィンランドの大学の同窓生お二人と来店。

 鯨料理を食べたいそうで、ネットで検索。

 ハナちゃんインドネシアから一時帰国ということで、お土産のコーヒーを持って来店。 

 Sくん来店。奥様が作った煮豆を持ってきてくださる。

 わ。さん御夫妻来店。

 早い時間からドンチャン。

 今日は珍しく記憶あり。


 

12月29日火曜日晴れ △

 Sさん、マルガリータさん来店。

 ヒマやな〜と言っていたら、Mさん二名様で来店。

 Kさん二名様で来店。Oさん来店。

 二名様来店。

 ドンチャン。

 でも今日は記憶あり。


12月28日月曜日晴れ ×××

 築地で仕入れを終わり、仕入れカゴを入り口のところに置いてコンビニにて買い物をしている間に、仕入れカゴに入れてあった山葵と大葉などを入れた袋を盗られる。

 まあ、油断と言えば油断だろうが、あんなもん盗るかな。

 今まで二十三年間店をやってきて初めてです。

 築地の駅で階段を降りていて、反対側から来た若い男性がよけようとしないので、「ここは右側通行だよ」というとすれ違い様に「うぜ、死ね」と言ったので、

「おい、今何言った」

「死ねよ」

「その言い方はなんだ。間違っていたのはお前だろう」

降りて来た階段をそいつの方に上りながら言ったら

「俺の身体に少しでもさわったら、警察呼ぶぞ」

「警察?アホかお前は」

「警察呼ぶぞ」

「アホ。」「間違ってるのはお前だろうが」

そいつの側に行こうとしたら、

ダッシュで逃げ出しすし。

なんなんだろう。

 二名様来店。Mさん二名様で来店。バンブーさん来店。Tさん来店。Tさん来店。Sくん来店。

一名様来店。一名様来店。Mさん二名様で来店。

 マロさん来店。Kさん三名様で来店。二名様来店。Yさん二名様で来店。

 ドンチャン。記憶全くなし。申猿申猿サル・・・・・


 

12月27日日曜日はれ ○

 店を片付けて、年賀状をプリント。

 いつもながら年末ギリギリ。

 午後に美丈夫の濱川社長より荷物が届き、明けてみると来年の干支である寅のボトル。

 ありがとうございます。

 今回は昨年のかわいい目をした牛から一転し精悍なトラ。

 


12月26日土曜日くもり △

 酒の飲み過ぎで具合の悪くなったノートパソコンを入院させる。

 

 Kくん四名様で来店。初めてのお客様四名様来店。わ。さん来店。初めてのお客様二名様来店。

 松岡さん来店。Kさん二名様で来店。Yさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。


12月25日金曜日晴れ △

 Oさん来店。これから帰宅後に町内会の人達と火の用心の夜回りだそう。

 Sさん四名様で来店。金ちゃん、マロさん来店。

 世間一般では給料日の金曜日はヒマな当店としてはまずまず。

 ドンチャン。記憶はあり。


12月24日木曜日晴れ △

 ケイザブロウさん来店。今年も来年の干支の博多人形を持ってきてくださる。

 Eさん来店。金ちゃん、リエちゃん来店。マロさん合流。

 ドンチャン。記憶あり。と思う・・・・


12月23日水曜日晴れ ×

 Cさん四名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。 

 Sさん来店二名様で来店。Hさん三名様で来店。二名様来店。

 ドンチャン。記憶なし。


12月22日火曜日晴れ ×

 Mさん来店。Aさん二名様で来店。ご近所の方一名様で来店。バンブーさん三名様で来店。Tさん御夫妻、Tさんら四名様来店。アンコウ鍋でドンチャン。Mさん二名様で来店。Tさん二名様で来店。

 ドンチャン。記憶なし。


朝鮮人が何をアホな事を

12月20日日曜日晴れ ○

下記は悪の巣窟である朝鮮総連系朝鮮学校に対しての抗議行動について、告訴するというニュースです。

以下引用

朝鮮学校で「スパイの子」 “抗議行動”を告訴へ

 京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)で今月4日、「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の旗を持った男性約10人が抗議行動と称して校門に押しかけ、拡声器を使って「スパイの子ども」などと騒いでいたことが18日、分かった。  校内には近隣の朝鮮学校も含めた児童約170人がいた。学校側は、偏見や差別感情が理由の「憎悪犯罪(ヘイトクライム)」だと反発。週明けにも威力業務妨害などの容疑で京都府警に告訴する。  集まったのは在特会関西支部メンバーら。校門前にある京都市管理の公園に学校がサッカーゴールや朝礼台などを置いていたため、在特会の桜井誠会長は「不法占拠したことへの抗議」と説明している。  学校が撮影した映像では、数人が朝礼台を正門まで運び「門を開けろ」と要求。学校関係者が「ここは学校です」と制止すると「こんなものは学校ではない」「朝鮮学校を日本からたたき出せ」などと拡声器で叫んだ。

2009/12/18 22:23   【共同通信】

引用終わり

 「スパイの子供」という表現に何か問題があるのだろうか。

 我が国において、数々の犯罪に手を染めてきたのが朝鮮総連である。

 

<さて、学習組には裏の特殊任務があると私は言った。 

 略)

 私にまず与えられた任務は、日本と北朝鮮のあいだを極秘に往復する北朝鮮工作船の、日本における着岸拠点をつくることであった。

 北朝鮮の港から出港した工作船の目的は、第一に、北朝鮮を出国した人間を極秘に日本に入国させることであり、極秘に日本を出国した人間を北朝鮮に運ぶ事である。>

「わが朝鮮総連の罪と罰」(韓光煕 文藝春秋 平成十四年刊)p八十八

 そして、此の本には韓光煕氏が作った「北朝鮮工作船着岸ポイント」がある。

  韓光煕氏はこのポイント以外にも一〇〇カ所以上と書いている。

 このような犯罪朝鮮人組織により、横田めぐみさんをはじめ何の罪もない多くの日本人同胞が拉致されたのである。

 北朝鮮の犯罪の拠点のひとつが朝鮮総連であることは明白である。

 それを「スパイの子供」と言ったと被害者面して騒ぐ・・・・・・

 流石は

 ありもしない「従軍慰安婦」(事実は慰安婦という戦時売春婦)

 ありもしない「強制連行」(事実は自由意志による渡航)

 

 などなど平気で嘘を言って被害者面してきただけのことはあります。

 そして、下記の数値がこの問題の本質を表している。

 日本人の五・六倍の生活保護受給率

 日本人の

  殺人二・八倍、強盗四・五倍、強姦三倍、

  暴行四・一倍、恐喝三・六倍

  詐欺二・四倍、

  覚醒剤取締法違反五倍

   という数値がなにを物語るのか。

  朝鮮人が我が物我をして公園を不法占拠していたのは事実であり、それを認め、謙虚に対処すべき問題であり、なおかつ、これらの数値を真摯に受け止め、朝鮮人自らが努力して解決していくべき問題である。

 そのような自らの努力を放棄し差別差別と叫んでいても永遠に解決しない。

 すべては朝鮮人自らが招いた問題なのである。

 

 朝鮮人は、世界に多くある国の中で朝鮮人という民族として「信用」「信頼」「まじめ」などの代名詞となっている国がひとつでもあるのかを自ら問うべきである。

 

 今日は店を片付けた後、午後から久しぶりにスポーツセンターに行く。

 帰りに本屋さんに寄り数冊購入。


12月19日土曜日晴れ 寒い ×

 Oさん来店。Bさん来店。田原さんが福岡に開いた酒の店「酒峰」のカードをお土産に持ってきてくださる。

 Mさん二名様で来店。Fさん来店。

 今日は理科大六十周年のパーティだったそうで、理科大ラグビー部OB九名様来店。

 前の店からもう二十年のおつき合い。

 その後、みなさんは歌舞伎町方面へ四次会か五次会か知りませんが向われたようだが、そこまでの元気なし。

 二名様来店。

 ドンチャン。記憶なし・・・・・・・


12月18日金曜日晴れ 寒い ×

 初めてのお客様Kさん二名様で来店。Nさん来店。ナベちゃん来店。

 ホロン部員Yさん来店。Oさん、Kさん来店。

 Mさん、Kくん六名様で来店。

 マルガリータさんばりのパワフルな方が・・・・・

 当店のパソコンドクター・へべれけさん来店。

 酒の飲み過ぎで?でダウンし入院予定のノートパソコンのデーターの事でお願い。

 

 ドンチャン。記憶なし。サル・・・・・・


12月17日木曜日晴れ △

 今日は御来店いただいたお客様が全員初めてのお客様。

 珍し〜

 Hさん来店。二名様来店。Tさん二名様で来店。

 途中からHさんとドンチャン。

 営業終了後、HさんTさんとで高田馬場にあるラーメン屋さんにて餃子にビールでドンチャン。

 記憶あり。


パソコンが酔っぱらう。

12月16日水曜日晴れ△

 ドンチャンやっていて、ついでにパソコンにも飲ませたようで、

いつも使っているノートパソコンが二日酔いで調子が悪く、部屋のノートパソコンを持ってくる。

 今日は大忙し。

 初めてのお客様Fさん五名様で来店。犯罪国家北朝鮮の話題で大盛り上がりというごくごく普通の皆さん。

 Cさん二名様で来店。Nさん、Hさん、Tさん四名様で来店。

 ワイン会の帰りというYさん、Kさん来店。MさんNさんと来店。

 営業終了後、Mさんとスポーツセンターでお世話になっている方が経営されているお店で、ラーメンとビール。

 店を閉めるという時に伺う・・・・・・

 今日は記憶あり。


三跪九叩頭の礼

12月15日火曜日晴れ ×

 今日、河岸に行って鮪屋の慎吾ちゃんなどと話していても、陛下と習近平を会談させた事でみな怒り心頭。

 ましてや、国家元首来日の時の儀礼であるはずの国会、霞ヶ関近辺の各所の街灯に支那国旗が掲揚されているという。

 支那の政治的序列でいけば、六位のはずの習近平に国家元首と同じ待遇をさせる小沢一郎、鳩山由紀夫という人間は何処の政治家か。

 まるで、李氏朝鮮が宗主国支那からの使者を三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)で迎えていた時の事の再現である。

 小沢一郎の腐れ売国奴ぶりがよく現れている。

 下記の写真は、今日、国会議事堂の近辺で写したものです。

 流石にメインポールには日の丸が掲揚されていたが、異様な風景には違いありません。

  小沢一郎だと喜んでメインポールに「五星紅旗」を掲揚することだろう。

 初めてのお客様二名様来店。

 少胡子さん来店。Sくん三名様で来店。Hさん四名様で来店。

 Iさん三名様で来店。二名様来店。

 ドンチャン。記憶あり。


12月14日月曜日晴れ ○

 今日はゴミ出し以外は外に出ず。


飲んべえの会「磯自慢」

12月13日日曜日晴れ△

 午後三時から磯自慢の飲んべえの会。

 今回もどういうわけか磯自慢の寺岡社長以外に、醴泉の山田社長、美丈夫の濱川社長が御参加いただけた。

 来年の八月の美丈夫の会にも御参加いただけるそうな。

 六時終了予定が、いつもどおり延々と続き、九時ごろにラーメンでもと蔵元さん三人、古川さん、ホロン部員Yさん、めぐ蔵さんと西早稲田へ。

 いつものラーメン屋さんが閉まっていたので、初めてのうどん屋さんに入ってビールを飲む。

 店に寄り、後片付けと生ゴミを出してから帰る。


磯自慢のスペシャルボトル「酒友 adagio」

12月12日土曜日晴れ×××

 今日、明日の飲んべえの会用に磯自慢のスペシャルボトル「酒友 adagio」(三〇〇〇ml)が届く。

 柾目の桐箱に収まったイタリア製の立派なボトルに入った中身は三十五%の三年古酒らしいが、詳しい事は不明。

 三リットルのボトルを三年間寝かせて造るこの製品のために特別に冷蔵倉庫を新設したそうです。

 

 限定五十一本

 価格は一〇万円

 

 美丈夫の濱川社長二名様で来店。二名様来店。二名様来店。 Oさん来店。

 ドンチャン。記憶なし。サル。


12月11日金曜日雨 ×

義侠 妙

磯自慢 中取り三十五%
松の司 純米大吟醸 斗瓶取り

 

 バンブーさん来店。松の司純米大吟醸斗瓶

 目黒の清水さん来店。磯自慢中取り三十五%の三年の垂直。今しばらくは可能です。ご希望の方はどうぞ。

 二名様来店。義侠 妙

 三名様来店。

 めぐ蔵さんがお手伝いに来てくれたので、ラクチン。

 ドンチャン。記憶あり・・・・・と思う。

 開けた「Petrussa ペトルッサ」というイタリアの白ワインはあまり好みではなかった。


 

12月10日木曜日晴れ ×××

 Hさん来店。Mさん三名様で来店。アンナさん、Mさんと来店。

 ホロン部員Yさん来店。マロさん来店。

 塩月さん、和美さん、博子さん、幹子さん来店。大野さん合流でドンチャン。

 Mさん合流。

 ドンチャン。記憶なし。サル・・・・・・・

 


12月9日水曜日晴れ△

 午後からスポーツセンターへ行く。

 時間がなかったので、軽めのメニューを消化。

 今日からベンチプレスはスロートレーニングより、百キロをできるだけ。九十五キロをできるだけと五キロずつ六十キロまでインターバル一分でウエイトを落としていくやり方にする。半年の予定。

 Iさん二名様で来店。小胡子さん、BOOちゃん来店。Sくん来店。一名様来店。

ドンチャン。記憶あり・・・・と思う。


「朝鮮人慰安婦」と心はひとつというアホ女子大生ども

12月8日火曜日晴れ△

 

「『慰安婦』と心はひとつ 女子大生はたたかう」(神戸女学院大学 石川康宏ゼミナール かもがわ出版平成二十年刊)という題名の本を先日、初めて入った古本屋でネタ用に購入いたしました。

内容のないたった百十一ページの薄っぺらい本ですが、定価だと千円です。アホらしい事です。

 李容洙(イ・ヨンス)という朝鮮人慰安婦とピースサインをしながら女子大生が写っている写真が表紙の本ですが、石川康宏ゼミのみなさんだそうです。

 内容は、女子大生が石川ゼミに入ってどのように変わっていったかが書かれています。

 石川氏にゼミがスタートする前の春休みに最初に読み、レポートを書くように言われるのが、「従軍慰安婦」(吉見義明)、「歴史教科書と日本の戦争」(不破哲三)の二冊だそうです。

 

「韓国でカラダで学んだことだから、自然と心とカラダが動いていったという感じです。

これまで勉強というのは本をひたすら読む事だけで、その時には、それで自分の中の何かがかわるという予感はなかった。

でも、今回は、頭で考えるのではなく、行動をつうじて学んだのです。ハルモニに会い、話を聞いたんです。そこでわかったことは、本当の学びとは頭で考えるのではなく、カラダで感じるものだと言う事です。」

(P12 田仲友美氏)

 私にはアホが単なる洗脳されたとしか思えません。

 少しは頭で考えろよ。

 では、

 上野紗矢佳

 小谷直子

 田仲友美

 田中丸佐代

 辻中佑花

 成瀬葵紀

 西田あゆみ

 原田佳苗

 渡辺綾子

 のみなさんだそうですが、

 

 朝鮮まで行って慰安婦のデモにまで参加した優秀な女子大生のみなさんへお尋ねしたい。

 慰安婦の事を勉強されているのであれば、

 下記の事についてお答えいただきたい。

※ 朝鮮日報築地支社である朝日新聞の『太平洋戦争犠牲者遺族会』常任理事・粱順任の娘と結婚している植村隆記者が最初に女史挺身隊を慰安婦とした捏造記事を書き、売国奴高木健一弁護士がわざわざ朝鮮まで行って呼びかけ戦時売春婦を探し出す平成三年までの戦後四十年以上の間どうして朝鮮国内において問題にならなかったのか。

 

 

※ 朝鮮人女性が訴え出たのは、金学順が最初であるが、金学順の証言に多くの矛盾点が指摘されているが信用出来る証言と思っているのか。証言から軍による強制連行は証明されたのか。

 

※ 同じく有名な朝鮮人慰安婦のひとり文玉珠は、当時の我が国の大将が六千五百円の年俸の時に、今の金額に換算すると数千万円にもなる二万六一四五円もの貯金を持っていたことが貯金通帳より判明している。それを我が国政府に返還を求めた。

  貯金という事は、それ以上稼いでいることになる。

  軍により強制連行され過酷な状況にあったいわゆる「性奴隷」とはこのような金持ちなのか。

 

※ 「帰国するまで台湾で特攻隊相手の慰安婦をしていた、私が慰安婦として強制連行された当事者であり、証人だ」(平成十九年三月四日(朝日新聞)と言い張り、一緒に写ってこの本の表紙にまでなっている李容洙の証言がコロコロ変わっているが、それについては当然調べたはずでしょうから、その結果、この慰安婦の証言は信ずるに足りると思ったか。

 

※姜日出(カン・イルチョル)という朝鮮人慰安婦の証言として下記のような事がこの本には書かれている。

<十五才のとき軍人と巡査に連れ去られ、セックスがどういう意味をもつものかわからないまま、毎日レイプを続けられました。

抵抗した際に、兵士に頭を壁に打ち付けられ、今も後遺症で鼻血が出るそうです。生理が安定したのは戦争が終わり「慰安所」が終わった後の事でした。これを話すのは「とても恥ずかしい」と言いながら語ってくれました。>

 p四十一

 この朝鮮人慰安婦の証言は、家が裕福だったといったり、家は貧しく父親は自分が食べるものがなくても食べさせてくれたと言ったりしています。

 働いていたという慰安所の場所も証言の度に違っています。

 慰安婦の訴え出た朝鮮人の中で、軍に強制連行されたという証言が立証されたのはただのひとりでもいるのか。

 まさか、「慰安婦の証言がすべてだ。それが真実だ。頭で考えていない」などと戯けた答えはいわないと思いますが。

 

※ 朝鮮軍が派遣されたベトナムにおいて、朝鮮軍専用慰安婦がいたことが証明されている。そして、多くの私生児が残された。此の事に対して、南朝鮮政府は謝罪も賠償もしていない。そのことについてはどう思うか。

 

※ 貞操を大切にするはずの朝鮮人女性が朝鮮に駐留している米軍に対して売春を行っているのは何故か。

 

そして、南朝鮮政府の法的な規制に対し、売春婦のデモまで行なわれたという事実がある。このような国の女性が六十年前は売春をしていなかったと思うのか。

 

※ 現在の南朝鮮は当時としては格段に裕福であるが、どうして世界中で朝鮮人売春婦が問題となっているのか。

 

※ 慰安婦の中で一番多かったのが日本人であるが、どうして日本人女性から過去にそういう訴えが一件もなかったのか。

 

 以上お答え願いたい。

※ 最後に「矛盾」つう単語知ってまっか????

 しかし、こんなアホなことようやるわ。

 もう少し大学時代にはやることもあるだろうに。

 あほらし。

 

 Sさん来店。Kくん二名様で来店。

 ご近所に引っ越していらした御夫妻来店。

 飲む。でも今日は記憶あり。


2冊の本

12月7日月曜日晴れ 風強し ○

 「職ニ斃(タオ)レシト雖(イエド)モ」(片山利子 展転社 平成二十一年刊)と「和解の海」(土屋康夫 ゆいぽおと平成二十一年刊)を読む。

 どちらも潜水艦に乗り海軍軍人としての職務を全うし、軍神と呼ばれた先人を題材に書いているが大きく読後の感じが違う。

 片山氏は艇長であった佐久間勉大尉と六号艇の乗組員、土屋氏はシドニー湾へ攻撃後戦死された松尾敬宇中尉など特殊潜航艇について書いている。

  

 「和解の海」にはこう書かれている。

<当時、オーストラリア国内での最大関心事は日本が豪州捕虜をどのように取扱うかであったという。一九四二年一月、ラバウル・トルで豪兵約七十人が日本兵に惨殺され、二月十七日にはシンガポールが日本軍によって陥落し、守備についていた多くの豪兵が日本軍の捕虜になり、泰緬鉄道建設現場の強制労働に送られた。

 オーストラリア国民の日本軍に対するイメージは、その残虐性だった。

P百十六

<しかし、オーストラリアでは戦時中の日本軍による捕虜虐待の傷は癒えていなかった。反日感情のくすぶるなか、まつ枝の振る舞いは好意的に報道された>

P百四十二

さらにエピローグとして

<まつ枝さんやホーク元首相がまいた平和の種は確実に芽生えている。

 それに反して戦時中、日本軍が犯したオーストラリア兵捕虜への虐待、豪による特殊潜航艇乗組員の遺骨送還、海底に眠る伴艇の保存などについて、日本政府はけじめをつけていない。遺憾である。>

p二百十八

 このように一方的に我が国を非難している。

 では、豪州が我が国の捕虜に対して何をやったか。

 もう何度か書いている事だが、リンドバーグ日記をはじめ、過去に多くの本に書かれている。

 

オーストラリア軍の不法行為について

 「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなった時の話を覚えているかね? あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ 捕虜を機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」(リンドバーグ日記八月六日)

 ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によって、日本軍捕虜に「死の行進」が課せられた。

 ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇名がトロキナの仮収容所に移送されることとなったが、栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、気温三五〜三八度の中を一〇マイル行進させられた。翌日、到着の一二五〇人も同様であった。豪州軍の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。

 体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、川の両側に並んだ豪州軍将校たちが水を飲ませまいと、足で水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。一〇月八日に着いたナウルからの七〇〇人とオーシャンからの五一三人も同じ扱いを受けた。

 くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、マラリヤに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。捕虜のほとんど全員が感染、約七〇〇名が死亡したとみられる。

以上「日本の反論」米田健三著 p一六五およびp一七一〜一七二よりの引用ですが、米田氏はリンドバーグ日記および「軍事史学 第三五巻第二号」喜多義人論文より引用されています)

会田雄次氏の著書「アーロン収容所」(中公文庫)の中にはオーストラリア兵の残虐さについての記述もあります。

以下引用

 <その中でも豪州兵は目立って程度が悪かった。その兵舎を膝をついて雑巾がけしていると、いきなり私の額でタバコの火を消されたことがあった。くそっと思ってにらみつけると平気な顔で新聞を読んでいる。激しい憎悪がその横顔に浮かんでいる。ドスンと目の前に腰をおろし、その拍子のようにして靴先でいやというほどあごを蹴り上げられたこともある。私をひざまずかせ、足かけ台の代わりにして足をのせ、一時間も辛棒(ママ)させられたこともあった。

 ある日K班長が、青ざめ、顔をひきつらせて豪州兵の兵舎作業から帰ってきた。聞くとかれは、豪州兵の便所で小便をしていると、入ってきた兵士にどなられ、ひざまずかせて口をあけさせられ、顔に小便をかけられたという。日本兵は便器でしかないという表示である。そのすこし前に配達された妻からの便りを手にしていなかったら、このおとなしい兵隊は、死刑覚悟でその豪州兵を殺していたかもしれないほどの形相であった。>P七〇〜七一

引用終わり

 

 私は第二の岡崎トミ子女史である藤田幸久民主党議員のところでも書きましたが、

http://www.tamanegiya.com/fujitayukihisa21.7.3.html

収容所においての食糧、衣服などの不備はあったであろうが、我が国国民も同じ状況下に置かれていた時代です。

  英国、豪州の捕虜収容所において、我が国の軍人がどのような醜い扱いを受けたか。

それは、先人の数多くの手記にも明らかです。

 また、戦場においてはどうだったか。

 あの雁屋哲氏が出典を自分の著書以外に明らかにしていない我が軍の豪州軍看護婦殺害事件を書いていたが、豪州軍ではないが米軍が赤十字のマークの入った病院船に対してどのような事をやったか。

<昭和十八年十一月二十七日、ニュー・アイルランド島カビエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵千百二十九名を乗せた病院船「ベノスアイレス号」(九六二五トン)は、米軍B24に爆撃され撃沈する。

 患者、看護婦、乗組員は十六隻の救命ボートと発動機艇二隻で漂流するが、十二月一日、同じくB24に発見された、

 この時、漂流中の乗員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む百五十八名が戦死している。

 昭和二十年四月七日、軽巡「矢矯」(六六五二トン)の測的長として戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦に参加した池田武邦大尉(海兵七二期)も、同様に米軍の不法行為をこう証言している。

「乗艦沈没後洋上を漂流したが、米軍艦載機の執拗な銃撃を受けた。敵パイロットのゴーグルがはっきり見えるぐらい肉迫攻撃を何度も受けた」>

以上二つの史実は「敵兵を救助せよ」(恵隆之介 草思社 平成十八年)P二四三 より

そして、英軍は

<「川沿いの道に移送を待っていた重傷者三十人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけていった。焼けつくような日差しだった。

 おそらく傷病兵のために冷たい水をかけてくれたのだろうと思った。

 次の瞬間、担架が燃え始めた。

 見る間に黒煙が上がり辺りは火の波となった。彼らがかけたのはガソリンだった」

 インパール戦においての昭和十九年六月二十二日第十五師団栃平主計曹長の証言 同じく六月二十二日、インパールのミッションヒルで島田上等兵は英軍戦車隊が日本軍野戦病院を砲撃後、英印軍兵士が這って逃げた傷病兵を道路に並べ、英軍士官が検分する。

 将官クラスは尋問するのかインド兵にトラックに運ばせた。選別が終わると「路上に残った傷病兵にガソリンがかけられ、燃やされた。その悲鳴が聞こえた」>

「WiLL 7月号別冊 歴史通」(ワック出版 平成二十一年七月)P二百一

 

 豪軍はそもそも捕虜はとったのか。我が軍は多くの捕虜に苦慮した。

 連合軍捕虜は、

 フィリピン方面、日本軍七万人に対して捕虜七万人

 マレー半島方面、日本軍一二万五千人に対して捕虜一三万人

 蘭領東インド方面、日本軍四万五千人に対して捕虜六万人

 

 私の手元にある「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード著 二〇〇五年原書房刊)という題名の本があります。

 オーストラリア人によって書かれたこの本はオーストラリア軍によって無実の罪を着せられて処刑された西村琢磨中将について書かれています。著者のイアン・ウォード氏はその著書で「はじめに」として次のように書いています。  

 <その名をよく知られた無実の日本の将軍を、オーストラリアが恥ずべきは不正な裁判の後、意図的に処刑したということは、オーストラリア国民が声高に掲げる太平洋戦争の正当性とうまく折り合いがつかない。

略)

 ここから得られる教訓があるとすれば、オーストラリアは、そして英国も、少なくとも誤った戦争犯罪裁判の記録を正す道義的責任があることだ。裁判の原則を支持しながら、同時に過ちがあっても責任を無視することは、原則をばかにすることになる。また日本に戦争中の行為を反省するよう繰り返し求めている政治家や社会の指導者たちの声も、もし自らの反省を拒否するなら、空しいものに聞こえる。>

 そして、この本の中には下記のような記述があります。

 以下引用

 <公刊戦史はムアル戦線でオーストアリア部隊と遭遇した日本軍負傷兵の運命について、はっきり書いていない。

略)

「守勢にあるので捕虜をとる状況に無く、今までの経験からして敵の負傷兵をそのままにはできない。死んでいると思われるか負傷している敵兵に近づくときは最大限の注意を払い、銃剣を使え。要するに命令は『捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな』というものであった」

略)

 もちろん大隊の戦場日誌にはアンダーソン(引用者注 直接指揮していた第一九大隊長チャールズ・G・W・アンダーソン中佐)が正式にそのような指示をしたとは書いていない。しかしムアル戦線で戦ったオーストラリア兵の間では、状況の緊急性から考えて「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」というのが少なくとも公式に認められた『指示』だったということは、広く受けいられてきた。指示がどこから出たかについて不安な人たちでさえ、これらが一月一九日から二二日までの絶望的な七二時間に採用された戦術であったことは認める。>

(P二〇七〜二〇八)

 <否定できない事実は、マレー作戦の中で最も激しかった四日間と半日の戦闘のあと、オーストラリア軍は一人も捕虜をとらなかったということだ。白兵戦により日本軍は二千人の死者を出し、ほとんどは近衛師団だった。もう一つの否定できない事実は、戦闘の状況からして、オーストラリア部隊は日本の負傷した兵士をその場で殺したことだ(みかたによっては処刑したことになる)。さらに、命令ではないにしても、捕虜をとらず負傷兵をそのままにしないというのは、少なくとも一般的な了解だった。>

(p二一八〜二一九)

引用終わり

 

 つまり、オーストラリア軍には、戦場においての非常事態であったとはいえ「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」という命令が発せられていたのです。

 日本軍も捕虜を殺害したこともあるでしょう。

 しかし、日本軍だけがそのようなことをしたわけではない。

 勝ち戦だからという人もいるだろうが、捕虜がゼロということはどういうことか。

 日本軍捕虜の反乱で有名なオーストラリアのカウラ収容所では千百人が収容されていた。これは日本軍捕虜が千百人しか収容されていないとも言える。

 歴史の一断面だけを捉え、片方の国を一方的に断罪出来るものではない。

 

 だいたい残虐性について、

先住民を狩りの獲物としてきたオーストラリア人、

お前らだけは言われたくはない。

 

 

 土屋氏は此の著書の巻末に掲載されているあまり多くない参考文献を拝見する限り、連合軍による日本軍人捕虜に関係するものが一切掲載されていない。

 これは読む必要がない、知る必要がないということであろうか。

「和解の海」に違和感を感じたのはそれだけではない。

<この碑は太平洋戦争が終わった翌一九四六年四月、地区で健立したという。

 一九一七(大正六)年十月十六日に生まれた。

 一九二四(大正十三)年、荒城尋常小学校に入学した。

 一九三〇年(昭和五)年小学校を卒業した。

 一九三五(昭和十)年十一月、三等水兵に昇進。

 一九三六(昭和十一)年十一月、二等水兵に昇進。

 一九三八(昭和十三)年五月、広島・呉の海軍潜水学校に入校した。

 二〇〇八年二月二十四日、呉海兵団で都竹の五年後輩にあたる・・・・>

 このように、年代表記は元号よりも先に西暦を表示している。そして、戦後は昭和、平成ともすべて西暦表示となっていて、昭和、平成という元号が書かれていない。

 戦後は戦前とは違うということであろうか。

 そして、辻元清美女史、本多勝一氏などもよく平気でウソを言うが、この著者である土屋氏も

<和子らが訪豪したころ、文部省が旧日本軍の「侵略」を「進出」と書き改めさせた、歴史教科書問題が再燃し、中国などから猛反発を受けていた。>

p百六十七〜百六十八

と、書くのは本当にそう思っているからだろうか?

 それとも、このような事実がないのにそれを事実としたいだけなのだろうか。

 今日は午後より銀行に寄ったあと古本屋に寄るがあまり収穫なし。

 風呂に入り、布団の中で本を読んでいたらそのまま灯をつけっぱなしで寝てしまった。

 酒は飲まず。


12月6日日曜日晴れ ○

メルマガにあったのですが、 

<鳩山由紀夫vs 鳩山由紀夫

自らの献金問題を厳しく追求!!>

http://www.youtube.com/watch?v=-BEKIrDKnfc

「もし、鳩山由紀夫の秘書が同じことを行っていたとすれば、

 私はすぐに国民の皆さんに謝罪を申し上げて、離党ではありません、

 国会議員のバッジを外します」

http://www.youtube.com/watch?v=Qo3Yb9ZoIy0

「秘書の逮捕は共同正犯だと申し上げてきたわけでありまして、

 そのときから、議員辞職をすぐにされるべきだと」

http://www.youtube.com/watch?v=elQhivjT2HU&feature=video_response

めちゃ受けます。

まあ、これ以外にもこの人は秘書の事でも同じ事言ってますし、

これほど、自分の言葉に責任を持たないアホ政治家も少ない。

 河野洋平並みです。

私のようなものでも、鳩山という男がどんな男かすぐに理解出来るエ〜時代になったもんです。

こんなアホをまだ支持している連中がおることが信じられません。

はよ、国会議員のバッジはずせ。このカス!

午後から高田馬場のスポーツセンターに行く。

 昨日出来なかったメニューを消化。最後のバイクまで入れて約二時間半。

 

 帰りに芳林堂さんに寄り、西村眞悟氏のメルマガに紹介されていた「シナ人とは何か 内田良平の『支那観』を読む」、「『太平洋戦争』は無謀な戦争だったのか」などを購入。

 今日も同じビルの地下にあるトンカツ屋さんで飯。

 店に寄り、欠けた皿にパテ付けをした後、生ゴミを出してから帰宅。

 電車を降りたらすぐに携帯を取り出し画面を見ながらチンタラと階段を上がっているアホウがよくいるが、今日も電車をおりたらやけに階段に人が溜っている。エスカレーターではない。階段である。右側を歩いていったら、左側の先頭にいい年こいた親父が携帯電話の画面を見ながらニタニタしながらチンタラやっていた。

 お約束で・・・・・

 帰宅後は、風呂に入った後、ゴロゴロと本を読んでから寝る。

 酒は飲まず。


12月5日土曜日曇りのち一時大雨 △

 午後からスポーツセンターへ。

 高田馬場の駅を出ると結構な雨。

 胸部のメニューのみ消化。

 初めてのお客様Aさん二名様で来店。

 遅い時間にYさん来店。

 ヒマ。

 一通り飲む。記憶あり。


12月4日金曜日晴れ ×

 初めてのお客様Nさん二名様で来店。バンブーさん来店。Oさん二名様で来店。

 Oさん御夫妻三名様で来店。マロさん来店。

 先日ご来店いただいたご近所に引っ越してらしたという御夫妻来店。

 ドンチャン。記憶なし。


12月3日木曜日晴れ ×

 写真は先日築地にて買って来た箸置き。

 酔っぱらって片付ける時に、三角コーナーにゴミと一緒に捨ててしまうようで、足りなくなってきたので補充・・・・・・・

 

 Yさん来店。Dさん二名様で来店。初めてのお客様Yさん、Kさん来店。

 ホロン部員Yさん来店。Hさん四名様で来店。

 ドンチャン。記憶なし。

 

 

 


弁護士・内田雅敏の書く嘘

特攻隊について一部追記

12月2日水曜日晴れ 

 十月二十日火曜日に書いた日記ですが、一部追記させていただきます。 

 内田雅敏氏という弁護士がいる。朝日新聞などが「表現の自由が心配だ」と書いた立川反戦ビラの弁護士人であるが、その内田氏は下記のような発言をしている。

 <「靖国神社の特異な歴史認識を支える基盤がこの国の社会の中にある。侵略戦争の愚行を強いた政府、軍の指導者たちに怒り、その責任を追及すべきなのに、そうはなっていない。『特攻たちの犠牲の上に、戦後の平和と繁栄が築かれた』などと無責任なことを言わせてはならない」と厳しく指弾する。

 安倍首相はじめ政治指導者たちは靖国問題に真摯に取り組む姿勢を見せず、「外国向けの建前と、国内向けの本音というダブルスタンダード」を使い分けていると指摘する。

 「同じ敗戦国のドイツは国防軍改革委員会報告書(01年)で、『ドイツは歴史上初めて隣国すべてが友人となった』と語っている。しかし、日本はいまだに過去も清算できず、謝罪も補償もしていない。そんな状況で隣国から信頼されるわけがない。近、現代史の履修漏れは一部高校生だけの問題ではない」。>

[朝鮮新報 2007.5.24]

 

 このように言う内田雅敏氏は、自分の著書にどのような事を書いているか。

 <本土防衛のための「温存」という名目で、海軍兵学校、陸軍士官学校出の職業軍人には特攻させず、学徒・少年兵らを出撃させた・・・・・・

 それも速成で伎倆も充分でなく、しかも満足に飛べないような整備不良の飛行機で出撃させ、敵艦に近づく前にほとんどが撃墜された・・・・

 者の責任こそ問われなければならない。>

「靖国には行かない。戦争にも行かない」(内田雅敏 梨の木舎 平成十八年刊)P十五

 これは、知覧にある特攻記念館に行った後に内田雅敏氏が著書に書いている事である。

 知覧は主に陸軍の特攻機基地として使われ、海軍は鹿屋が主に使われた事をわかっていて、知覧からの海軍兵学校出身者がいないと言っているのであろうか。

 そして、陸士出身者、幹部候補生は知覧から特攻には出撃しなかったのであろうか。

 では、下記の資料はどういうことであろうか。

昭和二十年

 四月一日

 二十三振武隊 一式戦 伍井芳夫 大尉 陸軍少尉候補者二十期

 四月六日

 四十三振武隊 一式戦 小原幸雄 少尉 陸士五十七期

 第一特別振武隊 四式戦 小林弘 少尉 陸士五十七期

 四月七日

 二十九振武隊 一式戦 中村実 少尉 陸士五十七期

 四月十二日

 六十九振武隊 九十七戦 池田淳 少尉 陸士五十七期

 四月十三日

 百七振武隊 九十七戦 大内清 中尉 陸士五十六期

 四月十四日

 百七振武隊 九十七戦 大内清 中尉 陸士五十六期

 四月二十八日

 六十七振武隊 九十七戦 金子正男 少尉 陸士五十七期

 七十六振武隊 九十七戦 岡村博二 中尉 陸士五十六期

 四月二十九日

 十八振武隊 一式戦 小西利雄 中尉 陸士五十六期

 十九振武隊 一式戦 四宮徹 中尉 陸士五十六期

 二十四振武隊 二式戦双襲 小沢大蔵 中尉 陸士五十六期

 五月六日

 四十九振武隊 一式戦 伊奈剛二郎 少尉 陸士五十七期

 五十六振武隊 三式戦 池田元威 少尉 陸士五十七期

 五月十一日

 五十一振武隊 一式戦 荒木春雄 少尉 陸士五十七期

 五十五振武隊 三式戦 黒木国雄 少尉 陸士五十七期

 六十五振武隊 九十七戦 桂正 少尉 陸士五十七期

 五月十八日

 五十三振武隊 一式戦 近藤満男 少尉 陸士五十七期

 五月二十日

 五十振武隊 一式戦 斉藤数夫 少尉 陸士五十七期

 五月二十五日

 五十二振武隊 一式戦 中原常信 少尉 陸士五十七期

 五十四振武隊 三式戦 葛西宏 少尉 陸士五十七期

 五月二十八日

 四十五振武隊 二式双襲 藤井一 中尉 陸軍少尉候補者二十一期

             中田茂 少尉 陸士五十七期

 六月三日

 四十八振武隊 一式戦 堀恒治 少尉 陸士五十七期

 六月六日

 百五十九振武隊 三式戦 高島俊三 少尉 陸士五十七期

 百六十振武隊 三式戦 豊島光顕 少尉 陸士五十七期

 五十六期(昭和十七年十二月卒業)と五十七期(昭和十八年四月卒業)が多いが、わかっているだけでも、知覧からだけでもこれだけの陸士出身者が特攻隊員として出撃している。

その他の基地からは沖縄方面だけに特定しても、

徳之島

 三月三十一日

 陸軍特攻誠第三十九飛行隊 一式戦 笹川勉 大尉 陸士五十五期 

 四月二日

 二十振武隊 一式戦 長谷川実 大尉 陸士五十五期

 陸軍特攻飛行第六十戦隊 九十九襲 高山昇 中尉 陸士五十六期

 四月七日

 四十四振武隊 一式戦 甲斐玉樹 少尉 陸士五十七期

 四月十一日

 二十二振武隊 一式戦 柴田秋蔵 少尉 陸士五十七期

喜界島

 四月九日 

 四十二振武隊 九十七戦 猫橋芳郎 少尉 陸士五十七期

 五月二十六日

 二十一振武隊 一式戦 水川貞輔 中尉 陸士五十六期 

万世

 四月七日

 七十四振武隊 九十九襲 伊藤実 大尉 陸士五十五期

 五月二十五日

 四十四振武隊 一式戦 甲斐玉樹 少尉 陸士五十七期

 六十六振武隊 九十七戦 後藤光春 少尉 陸士五十七期

 五月二十七日

 百三十一振武隊 九十七戦 佐藤睦夫 中尉 陸士五十六期 

 六月八日

 百四十一振武隊 一式戦 長井良夫 少尉 陸士五十七期

 百四十四振武隊 一式戦 中島秀彦 少尉 陸士五十七期

都城東

 四月二十八日

 六十一振武隊 四式戦 岡本勇 少尉 陸士五十七期 

 五月四日

 六十振武隊 四式戦 平柳芳郎 少尉 陸士五十七期

 五月二十五日

 五十六振武隊 四式戦 伊藤喜得 少尉 陸士五十七期

 五十八振武隊 四式戦 高柳隆 少尉 陸士五十七期

 六月八日

 五十九振武隊 四式戦 野口肇太郎 少尉 陸士五十七期

 六月二十一日

 二十六振武隊 四式戦 相楽釟郎 中尉 陸士五十七期

 六月二十二日

 二十七振武隊 四式戦 川村勝 中尉 陸士五十七期

 百七十九振武隊 四式戦 金丸淳 中尉 陸士五十七期

(別冊一億人の昭和史においては七十九振武隊になっているが、間違いと思われる)

鹿屋

 四月七日

 陸軍特攻司偵振武隊 百式司偵 竹中隆雄 少尉 陸士五十六期

 四月十二日

 陸軍特攻司偵振武隊 百式司偵 東田一男 少尉 陸士五十七期

 四月十七日

 陸軍特攻飛行第六十二戦隊 四式重爆 加藤幸二郎 中尉 陸士五十六期

 四月二十六日

 陸軍特攻飛行第百十戦隊 四式重爆 今津文広 大尉 陸士五十四期

(別冊一億人の昭和史においては出撃基地は空欄となっているが、重爆による特攻のため出撃基地は六十二戦隊と同じ鹿屋か大刀洗と思われる)

 五月二十四日

 陸軍特攻飛行第六十戦隊 四式重爆 杉森英雄 大尉 陸士五十五期

(別冊一億人の昭和史においては掲載されていないが、重爆による特攻のため出撃基地は六十二戦隊と同じ鹿屋か大刀洗と思われる)

大刀洗

 五月二十五日

 陸軍特攻飛行第六十二戦隊 四式重爆 溝田彦二 少尉 陸士五十七期

石垣島

 三月二十六日

 陸軍特攻誠第十七飛行隊 九十九襲 伊舎堂用久 大尉 陸士五十五期

 四月一日

 陸軍特攻飛行隊第百五戦隊 三式戦 内藤善次 中尉 陸士五十六期

 四月九日

 陸軍特攻飛行隊第十七戦隊 三式戦 渡辺国臣 少尉 陸士五十七期

 

八塊

 五月十三日

 陸軍特攻誠第三十一飛行隊 九十九襲 山本薫 中尉 陸士五十六期

沖縄・中

 三月二十七日

 陸軍特攻誠第三十二飛行隊 九十九襲 広森達郎 中尉 陸士五十六期

桃園

 四月二十七日

 陸軍特攻誠第三十三飛行隊 四式戦 福井五郎 少尉 陸士五十七期

花蓮港

 五月三日

 陸軍特攻飛行隊第十七戦隊 三式戦 渡辺国臣 少尉 陸士五十七期

宣蘭

 四月二十二日

 陸軍特攻誠第三十一飛行隊 九十九襲 山本薫 中尉 陸士五十六期

 四月二十八日

 陸軍特攻飛行隊第百五戦隊 三式戦 中村伊三雄 中尉 陸士五十六期

台中

 四月二十八日

 陸軍特攻誠第三十四飛行隊 四式戦 桑原孝夫 少尉 陸士五十七期

 五月三日 

 陸軍特攻誠第三十五飛行隊 四式戦 藤山秀山 少尉 陸士五十七期

(藤山は写真集特別攻撃隊に掲載されているもので、別冊一億人の昭和史においては遠山となっている。どちらが正しいのか不明)

 五月四日

 陸軍特攻誠第三十四飛行隊 四式戦 金澤宏 少尉 陸士五十七期

 五月九日

 陸軍特攻誠第三十三飛行隊 四式戦 坂口英作 少尉 陸士五十七期 

熊本健軍飛行場

 五月二十四日

 義烈空挺隊 九十七重二型

       奥山道郎 少佐 陸士五十三期 

       諏訪部忠 大尉 陸士五十四期

       小林真悟 少尉 陸士五十七期

他に

 偵察者として誘導として

五月九日

 陸軍特攻第十飛行隊 機種不明 野本幸平 少尉 陸士五十七期

 以上、南方方面を除いた沖縄方面のみに特攻出撃した日本帝国陸軍の陸士出身者を手元にある資料より抜き出してみた。

 内田雅敏氏という弁護士を生業としているこの人物が、己のイデオロギーに基づきいかにいい加減なことを書いているか。

 当然、沖縄方面以外の出撃を入れると、もっと多くの陸士出身者が特攻に出撃している。

 その他にも、「特攻」(別冊宝島 平成十九年刊)には、陸軍士官学校出身の深川巌氏(陸士五十七期 振武百九十七隊隊長)、吉武登志夫氏(陸士五十七期 九十九式群偵察機 第四航空軍司令部付「と号要員」八紘第六隊)のお二人の体験談も掲載されている。

 深川氏の同期で生涯忘れられない人物として、私の故郷、淡路島旧制洲本中学二年生から陸軍幼年学校に入校し、特攻隊としてフィリピンにおいて、昭和十九年十二月二十一日に散華した若杉是俊氏(少尉 陸士五十七期 一式戦 殉義隊)も登場する。

 若杉氏と同じ殉義隊では敦賀真二中尉(陸士五十六期)、日野二郎少尉(陸士五十七期)も散華されている。

 海軍においてはどうであったか。

 

 フィリピン方面

 第一神風特攻

 昭和十九年十月二十五日

 敷島隊  マバラガット

 関行男大尉(海兵七十期) 零戦

 第二神風特攻

 昭和十九年十月二十七日

 忠勇隊  第一ニコルス

 山田恭司大尉(海兵六十九期) 彗星

 昭和十九年十月二十八日

 純忠隊  セブ

 深堀直治大尉(海兵六十九期) 九十九艦爆

 昭和十九年十二月十五日

 攻撃第五〇一飛行隊   

 小尻義章大尉(海兵七十期)銀河

 第五神風特攻

 昭和十九年十二月十五日

 第九金剛隊  マバラカット

 青木進大尉(海兵七十一期)零戦または彗星

 昭和十九年十二月十六日

 第十一金剛隊  マバラカット

 辻誠夫大尉(海兵七十一期)零戦または彗星

 昭和二十年一月五日

 第十八金剛隊  マバラカット

 金谷真一大尉(海兵七十一期)零戦

 昭和二十年一月五日

 第十九金剛隊 マバラカット 

 青野豊尉(海兵七十期)零戦

 台湾方面

 昭和二十年一月二十一日

 第三新高隊 ツゲガラオ 

 川添実大尉(海兵六十七期)零戦

 第二次丹作戦

 昭和二十年三月十一日

 菊水部隊梓特攻隊 鹿屋

 福田幸悦大尉(海兵七〇期) 銀河

 大島高志大尉(海兵期) 銀河

昭和二十年三月十九日

菊水部隊 出水基地発 九州東方機動部隊攻撃

金指勲大尉  (海兵七十一期)銀河

 

 九州南東方面の機動部隊に対して

 昭和二十年三月十九日 

 菊水部隊彗星隊 第一・第二国部

 柏井宏大尉(海兵期)彗星

 

昭和二十年三月十九日 

菊水部隊銀河隊 鹿屋・筑紫

宇野篤大尉(海兵七十一期)銀河 

 

 昭和二十年二月二十日千葉県香取基地を発進した

 村川浩大尉(海兵七十期)率いる彗星十二機、天山八機は直掩機(零戦)十二機からなる第二御盾隊は八丈島、父島を経由して、二十一日十七時以降硫黄島沖の米機動部隊に突入。

 空母「サラトガ」二機命中大破。

 護衛空母「ビスマーク・シー」一機命中撃沈。

 護衛空母「ルンガ・ポイント」一機命中撃破。

 他五隻損傷。

 サラトガは終戦まで復帰出来なかった。

 菊水一号作戦

 昭和二十年四月六日

 第一七生隊 元山空

 宮武信夫大尉(海兵七一期)零戦二十一型 

第一八幡護皇隊艦爆隊 第二国分

昭和二十年四月六日 土屋大作中尉(没後:少佐)(海兵七十三期)九九艦爆

沖縄北・中飛行場沖にて散華

 菊水二号作戦

 昭和二十年四月十二日

 第二七生隊 元山空

 田中好中尉(海兵七二期)零戦二十一型 

 昭和二十年四月十四日

 第一昭和隊 谷田部空

 鈴木典伸中尉(海兵七二期)零戦二十一型

 第二神剣隊 大村空

 合原直中尉 (海兵七二期)零戦二十一型

 菊水二・三号作戦

 昭和二十年四月十六日

 第三筑波隊 筑波空

 中村秀正中尉(海兵七十三期)零戦二十一型

 

永吉晃中尉(海兵七十三期)   鹿児島大島中   九州方面(攻708特攻)

伊藤正一(海兵七十三期)   少佐   長岡中   九州南海面(攻708特攻)

 茨木松夫   少佐(海兵七十三期)出水中   本州東方海面(攻5特攻)

大藪晃   少佐(海兵七十三期)愛知明倫中   沖縄沖(宇佐空特攻)

(海兵七十三期)

 

 百%戦死が前提の体当たり専門で人間爆弾といわれた「桜花」の神雷部隊桜花搭乗員である桜花隊は第一分隊長平野晃大尉(海兵六十九期)、第二分隊長三橋謙太郎大尉(海兵七一期)第三分隊長湯野川守正大尉(海兵七一期)、第四分隊長林富士夫大尉(海兵七一期)と分隊長はすべて海軍兵学校出身者で占められていた。

 第二分隊長三橋謙太郎大尉は昭和二十年三月二十一日第一次桜花攻撃にて散華された。

 

 新庄浩中尉(海兵七二期)は第一次桜花攻撃陣を送り出した後の神ノ池基地の桜花隊分隊長となっている。

 刈谷勉大尉(海兵七十期)は桜花滑空訓練中に殉職している。

 このように、桜花隊には海軍兵学校出身者は六名いた。

 

 その桜花の母機としての一式陸攻を飛行隊長として率いたのは、二・二六事件の決起将校のなかでただ一人自決した野中四郎陸軍大尉の実弟であった野中五郎少佐は海軍兵学校六十一期である。

 桜花を抱いての飛行は運動性能の良くない一式陸攻にとり、非常に不利であり、桜花搭乗員だけでなく、母機の一式陸攻搭乗員も死を覚悟していた。現実に野中少佐が指揮を取った第一次攻撃隊十八機は全機撃墜された。

 

 同じく発進したら必死零生の特攻兵器である回天搭乗要員は昭和十九年夏から二十年八月十五日の終戦まで、海軍兵学校出身者八十九名、海軍機関学校出身者三十二名、学徒出陣百九十六名、一般兵科出身者九名、甲飛十三期予科練習生九百三十五名、第二十期乙種飛行予科練習生百名の合計千三百六十一名にのぼった。

 海軍兵学校七十一期 入校六百一名 卒業五百八十一名 戦没三百三十一名

 実に半分以上の方々が国難に殉じている。

 

 

 陸・海軍とも特攻隊員に対して、二階級特進にて報いた。

 他にも、沖縄ではないが、戦後、南朝鮮において韓国軍第三軍団長として朝鮮戦争で武勇を馳せた李亨根将軍は日本陸軍士官学校五十六期であり、昭和十四年十二月一日に入学した総人数約二千四百名のうち千名近い戦死者を出していることをみても、内田氏の書いている事はウソだとわかる。  

 その陸士五十六期には四名の朝鮮出身者が含まれていますが、その中のおひとりに崔貞根少佐がおられます。

崔貞根少佐(日本名 高山昇)は日本陸軍士官学校、航空士官学校と進み、卒業後、飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属、フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華しました。二階級特進にて少佐 崔貞根少佐は陸軍士官学校在校中に、同期生のひとりに、 「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」 と、その心情を吐露したといいます。

(同期生追悼録「礎」より)

 ちなみに、大韓民国の英雄で大統領であった朴正煕氏は満州国軍軍官予科を首席卒業し、陸士五十七期に編入し卒業しています。

 

 内田氏はこのような事実についてどう思っているのであろう。

 知覧の特攻記念館に行ってるのであれば、当然、知ろうと思えば、得られた知識であるはずなのに、自分で知ろうともしないで、思い込みで文章を書いているとしか思えない。

 内田氏はネット上で、田母神俊雄元空将に対し、

<氏には情報を吟味し、 取捨選択する姿勢は全くなく、ただ自分に都合のよい 「情報」 だけに依って発言しているのである。>と書いている。

http://www.news-pj.net/npj/uchida-masatoshi/20090924.html

天に唾するとはまさに内田氏の事であろう。

 内田氏のやっている事は、いわゆる「教科書問題」とされたなかったことをあったと言い張り続けている連中と同じ事です。

 内田氏は著書の中で他にも多くのでたらめを書いていますが、これについては、別項に書かせていただきます。

 

参考引用文献

「靖国には行かない。戦争にも行かない」(内田雅敏 梨の木舎 平成十八年刊)

「写真集特別攻撃隊」(国書刊行会 昭和五十五年刊)

「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」(毎日新聞社 昭和五十四年刊)

「別冊一億人の昭和史 陸士 陸幼」(毎日新聞社 昭和五十六年刊)

「別冊一億人の昭和史 日本陸軍史」(毎日新聞社 昭和五十四年刊)

「特攻」(森本忠夫 文藝春秋 平成四年刊)

「特攻」(別冊宝島 平成十九年刊)

「回天の群像」(宮本雅史 角川学芸出版 平成二十年刊) 

「私兵特攻」(松下竜一 新潮社 昭和六十年刊)

「神雷部隊始末記」(加藤浩 学研 平成二十一年刊)

 Mさん二名様で来店。二名様来店。

 小胡子さん来店。

 飲むが今日も記憶あり。 雨やな


「酒友 ADAGIO」

12月1日火曜日晴れ △

 夕方、磯自慢の寺岡社長より、電話をいただきました。

 磯自慢酒造が満を持して今年初めて出荷する酒についてです。

 銘柄は磯自慢「酒友 ADAGIO 中取り35% 極(きわみ)熟成」

 内容は中取り三十五%の三年古酒の三リットルボトル 

 限定五十一本

 とのことです。

 ボトルはおそらく35%、40%等と同じ磯自慢ブルーだろうと思います。

 ちなみに、写真は当店にある磯自慢35%17BYです。

 ネットで「ADAGIO」とひいてみると、

アダージョ (イタリア)adagio音楽で、速度標語のひとつ。緩やかに、の意。アダジオ。

 と出て来ました。

 まだ、出荷できないそうですが、十三日の飲んべえの会には直送してでも間に合わせると言っていただけました。

 楽しみです。

 東京出張というMさん来店。Sさん来店。Sくん来店。

 Nさん来店。マロさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。めずらしい〜

 

 バカ女が二組予約の電話をしておきながら来店せず。




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