このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


犯罪組織朝鮮総連および関係者のやっている可能性のあるパチンコ屋

平成21年11月30日月曜日 くもり○ 

以前の日記に一部追記および訂正

 現在、在日朝鮮商工会パチンコ部会には会員3500店が加盟しているそうで、一部の日本人経営者の店以外は殆どが在日朝鮮人の経営と言われています。そして、平成十四年現在あの北朝鮮の手先である犯罪組織朝鮮総連系の店は直営店を含め約六十店鋪以上あるそうです。

 現在の朝鮮総連の運営費はほとんどパチンコと地上げにより稼いでいるそうです。(ただし、地上げはバブル崩壊後、縮小)

 つまり、我々日本人がパチンコなどというくだらないものをやらなければいいわけです。パチンコなどというものは在日朝鮮人にまかせておきましょう。そうすれば、在日朝鮮人が在日朝鮮人から巻き上げたお金が偉大な首領様(あの顔を思い出したら何度書いても笑えるフレーズ)のメロンやトロの金になるのですから本望でしょう。

 「わが朝鮮総連の罪と罰」(韓光熙 文藝春秋 平成十四年刊)という本がありますが、この本は取材構成は野村旗守氏ですが、著者の韓光熙氏は元朝鮮総連中央本部財政局副局長の職にあった方です。

 南朝鮮生まれの両親を持つ在日二世である韓光熙氏がどのような活動を北朝鮮本国から命令されておこなってきたかが記されています。

 韓光熙氏自身が我が国において行ったひとつとして、北朝鮮工作員が上陸する侵入ポイントの選定などがあります。百カ所以上ある工作員侵入ポイントのうち、三十八カ所が韓光熙氏がつくった場所で、この著書が出版された時点で、一カ所も発見されていないと書かれています。

(これについては後日書かせていただきます。)

 

 昭和六十一年(一九八六年)九月十五日、北朝鮮本国の金正日からのマルスムによる指示として、朝鮮総連は自立しなければならないとして、地上げなどと一緒におこなわれた経済活動が、「同胞の業者がいない場所を見つけて大型店をつくればいい」と朝鮮総連の幹部となった韓光熙氏が考えだして始めてたのが日本人が殆ど参入していないパチンコである。(同書p百八十五〜七)

 昭和六十二年から八王子にあった朝信協学院に一年の特別コースとして設けたのが、朝鮮総連主宰による「パチンコ店長養成講座」、「パチンコ経営セミナー」である。

 韓光熙氏はその年から朝鮮大学校に行って、優秀な最終年次生十五人程をスカウトしてくるようになったと書いている。

 出店地域の決定方法として、

 北朝鮮系の少ない地域として、東北地方。そして、その中から北朝鮮系パチンコ店が少ないのが山形県であったために、山形県に韓光熙氏が自ら現地に赴き候補地を定め、朝鮮総連第一号店として開いたのが新庄市「ジャンボセブン」であると書いている。

 朝鮮総連中央本部ばかりでなく、地方本部も直営パチンコ屋をやらせることにしたこと、金剛山歌劇団、朝鮮新報社、青年同盟、女性同盟などの組織にも、それぞれの団体が所有している土地を担保にいれさせて朝銀から融資を引き出し、パチンコ店をつくらせた。

 中央本部以外の地方本部と総連系団体が所有しているパチンコホールが、全部で四十店舗ほどある。中央直営二十店舗と併せて約六十ほどのパチンコ店が、現在では、朝鮮総連の活動資金の殆どを捻出しているといっても過言ではない。

 地方によっては、一件のパチンコ屋のアガリで、県本部、支部、学校の教職員ら、すべての専従活動家の給与を賄っているところもある。

 たとえば、総連千葉県本部がそうだ。千葉県では、八千代市にある「ジャンボ」というパチンコ店一軒の利益で組織の運営費を全て賄っている。

 資金が足りずにホールをつくれない小さな組織には焼き肉屋をやらせているところもある。中央直営も含めて、朝鮮総連経営の焼肉店は全国に数十店舗ある。

p一九六)

 「日本で吠えていても横田めぐみさんは帰ってこない」とほざいた腐れ売国奴野中広務氏がおこなった朝銀救済が、どれだけこの犯罪組織朝鮮総連、そして構成員である在日朝鮮人を助けてきたかよくわかります。

 それにより、日本国国民が拉致されたままになっているのです。

 日本人であるならば、絶対にパチンコはしない。焼き肉を食う時は少しは考えましょう。少なくとも朝鮮系とわかっている焼き肉屋はやめましょう。

  朝鮮総連系パチンコ屋に多い国際という名前は、管理していた総連のパチンコ店運営会社「インターナショナル企画」よりの命名。   

 其の後、インターナショナル企画は全体の統轄会社に格上げされ、その後、平成六年に総額四五億円もかけて中野新橋に「パーラーエクセル」を作った時に、株式会社エクセレ東京を設立し、直営パチンコ店の運営管理をさせることにした。

 

 設立にあたっては、群馬県富岡にあった東馬商事を名称変更させ、ここに「インターナショナル企画」の機能を移すという複雑な方式を取ることにより、外部の目をごまかした。

 平成二十一年現在、住所が朝鮮総連中央本部直営の中野新橋にある「パーラーエクセレ」と同じビルにある(株)エクセレがそれだとおもわれる。

(株)エクセレ

東京都 中野区 弥生町2−19−13エクセレビル4F Japan

「パーラーエクセレ」

 東京都中野区弥生2-19-13

 そして、(株)エクセレ東北は「パーラー国際新庄店」、「パーラー国際山形北」、「パーラー国際山形中央」などを経営している事が求人情報などより確認出来るので、「わが朝鮮総連の罪と罰」(韓光熙 文藝春秋 平成十四年刊)に掲載されていた朝鮮総連系の管理会社のいくつかは「株式会社エクセレ東北」となった可能性が大きい。

 

 そして、この(株)エクセレ東北の所在地は朝鮮総連直営店である「パーラーエクセレ」と同じ所在地である。

(株)エクセレ東北

東京都 中野区 弥生町2−19−13エクセレビル Japan

有限会社西原産業 (岩手県岩手郡雫石町黒沢川168-6 電話:019- 692-5580

朝鮮総連中央と地方本部が共同で経営しているパチンコ屋

「ジャンボセブン雫石店」 岩手県雫石町第16地割字黒沢川168-6

と住所が同じであることから、現在も同様と考えられる。

 その他、

有限会社北栄商事。

などが朝鮮総連系のパチンコ管理会社として掲載されている。

山形県村山市においてパチンコトーブジャンボを経営している株式会社パシュフィックも朝鮮総連系の可能性がある。

 

 

 

 下記はその著書「わが朝鮮総連の罪と罰」に記載されていたものと朝鮮総連系と思われるパチンコ店です。

「パーラーエクセレ」

 東京都中野区弥生2-19-13 (中野新橋駅) 電 話 03-5371-3377

  総額四五億円をかけ平成六年六月に完成した朝鮮総連中央本部直営店

「パーラー国際武蔵小山」

 東京都品川区小山3-20-7

「アミューズメントパーラー KOKUSAI」

 北区東十条4-4-1

「パーラー国際」

 青森県むつ市金谷2-106-1 0175-22-0600

「パーラー国際中央」

 秋田県秋田市卸町2-172 018-866-7755

「パーラー国際山形中央」

 山形県山形市南栄町1丁目1−15 023-624-7777

「パーラー国際山形北町」→「パーラー国際山形北」

 山形県山形市北町3丁目7−14  023-681-3456

「パーラー国際山形東」改名、閉店の可能性あり

 山形県山形市

「パーラー国際松山」改名、閉店の可能性あり 

 山形県山形市

「パーラー国際新庄店」

 山形県新庄市大字本合海字福田界1802-2  0233-26-2777

 朝鮮総連中央本部直営一号店である「パチンコジャンボセブン」より改名と思われる

「パーラー国際天童南」→「アミューズメントプラザスーパージャンボ」という名前に変更の可能性あり

 山形県天童市大字久野本1703番地10 023-654-8551

ネオコクサイ

山形県天童市東長岡4丁目2−23

「パーラージャンボ」

山形県村山市中央1丁目4−38

「パチンコトーブジャンボ」

山形県村山市楯岡新町1丁目2−15

「パーラーオーロラジャンボ」

山形県寒河江市新山2丁目93

スタージャンボ

山形県寒河江市大字寒河江字鶴田15−1

「パーラーユーアイジャンボ」

山形県米沢市中央3丁目10−14

「パーラースーパージャンボ 」

山形県鶴岡市大字文下字広野24-1  0235-25-7777

「パチンコジャンボ」

山形県鶴岡市伊勢原町4-44  0235-25-2222

「ジャンボ太陽 」

山形県鶴岡市藤浪2丁目30 0235-64-2900

売国奴加藤紘一の地元である鶴岡には、三軒も朝鮮総連直営店と思われる店舗がある。

「ジャンボセブン雫石店」

 岩手県雫石町第16地割字黒沢川168-6

 朝鮮総連中央と地方本部が共同で経営しているパチンコ屋。

 

 

「西千葉ジャンボ」

千葉県千葉市中央区春日2-25-4   

 一店で千葉朝鮮総連のほとんどすべての経費をねん出していた八千代にあった「ジャンボ」より移転改名の可能性あり

「幕張ジャンボ」

千葉県千葉市美浜区幕張西3-1-2

パーラージャンボ守山店

名古屋市守山区苗代1-14-8

パーラーコクサイ

北海道函館市北浜町4−13

パーラーコクサイ

東大阪市岩田町4丁目3−28

パーラーKOKUSAI泉佐野店

〒598-0021 大阪府泉佐野市日根野3951-1

パーラーKOKUSAI

兵庫県 神戸市垂水区 神田町3-18

パーラーKOKUSAI

兵庫県宍粟郡安富町長野字整理179-1

パーラーコクサイ

兵庫県姫路市神屋町2丁目21-1

パーラーコクサイ飾磨店

兵庫県姫路市飾磨区今在家1927-5

パーラーコクサイ

〒347-0015

埼玉県加須市大字南大桑958

参考文献

「わが朝鮮総連の罪と罰」(韓光熙 文藝春秋 平成十四年刊)

 何度も書くが、悪の巣窟朝鮮総連がやっている店だけでなく、パチンコなどというものはやめましょう。

 パチンコなどというものの存続を助ける国会議員は、間違いなく売国奴・国賊です。

 それは、「自分の金でやって何が悪い」とほざいてパチンコ店に行って、勝った、負けたと喜んでいるアホどもも同じです。

朝起きると、両肩、背中などが筋肉痛。

 

午後から出かける。古本屋に寄り、「誰も書かなかった日本陸軍」「朴正煕最後の一日」「龍星戦記」など数冊購入。


 

朝鮮総連のやっているパチンコ屋

平成21年11月29日日曜日 くもりのち雨 ○ 

 今日、午後から犯罪組織朝鮮総連の中央本部直営店である中野新橋駅近くの「パーラーエクセレ」を見に行く。

 まあ、立派なビルでした。

 平成六年に総額四五億円もかけて作られたものです。

 この側にも二件もりっぱなビルのパチンコ屋がありました。

  「わが朝鮮総連の罪と罰」(韓光熙 文藝春秋 平成十四年刊)によると、どちらかは福島県出身の朝鮮総連系朝鮮人がやっている店らしいです。どちらにしても朝鮮人です。

 その後、新宿駅周辺をぶらついてから、高田馬場にあるスポーツセンターに行く。

 

 

 

 新宿駅近くのイチョウの樹が黄色く色づいていましたが、ビル街の構造上からか、交わった道路の両端二本がまだ青い葉でした。

 店に寄り、生ゴミを出してから帰宅。



「日本解体阻止!国民大行動・第3弾」

11月28日土曜日晴れ ○

 今日は午後より渋谷駅ハチ公前広場にて行なわれた「日本解体阻止!国民大行動・第3弾」に参加。

 どうせ、千数百人が集まっていた今日の集会も支那、朝鮮の味方である腐れマスコミは報道しないのだろう。

 其の後、午後二時過ぎよりそれぞれに分かれて山手線の全ての駅にての凱旋行動に参加。

 私はある意味ディープな朝鮮人、支那人が集まる新大久保駅でのグループに混ぜていただく。

 主婦の方らしい皆様も数名参加されていた。

 この抗議行動に参加させていただきいつも思うのは、ご年配の方から若い方まで男女を問わずごく普通の方が参加されている事である。

 同じ新大久保駅グループに、武蔵村山市議会議員の天目石要一郎氏が参加されていた。

 私は初めてお話しさせていただいたが、天目石氏は非常に熱心にテロ国家北朝鮮による拉致被害者の救出活動に参加されている方です。

 今日、天目石氏に教えていただき初めて知ったのだが、三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さんを拉致実行犯の名前は李秋吉と言い、現在は日本国籍を取得して、大山秋吉と名前を変え、西東京市で建設会社の社長としてのうのうと暮らしているそうである。

 このような腐れ朝鮮人犯罪者が逮捕もされず、帰化し日本人としてのうのうと暮らしていけるとは驚きです。

 

 ぜひ、天目石氏のブログもご覧いただきたい。

 http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-610.html

 私は今日は店がヒマだった事もあり、ず〜と拝読させていただきました。

 天目石氏の北朝鮮旅行記はメチャ受けます。

 その時の将軍様の前で写した写真が名刺にあります。

 私は三人で、改札口を出たところで日章旗とデモ看板を持ちながらのビラ配り。

 何人もの方が「頑張ってください」と声をかけてくださった。「朝鮮人、支那人の多いこの街でやるから意味がある」と話されていかれた方も。

 私は四時半頃に、店の営業準備のために抜けさせていただきましたが、その時に拡声器でしゃべっていた若い人は、それまでの天目石氏、もう一人の方と違って、話す内容も聞き取り辛く、五月蝿いだけの典型的な自己陶酔型。

 通っている人たちも迷惑なだけだろう。

 「きぬたや」さんの御紹介というお客様来店。

 先日いらしてくださったご近所に御住まいの女性の方二名様で来店。今日は四件めのハシゴだそう。

 今日は飲まず。


千葉景子という腐れ売国奴

11月27日金曜日晴れ △

 売国奴の千葉景子女史が「慰安婦集会」に祝電を打ったという記事が昨日発売の週刊新潮に掲載されていた。

 この集会は十一月二十一日、川崎市内で開かれていた「川崎・富川市民集会」という集会だそうですが、出席者の声として

「富川市では、この九月に市議会で『日本軍慰安婦問題解決を促す決議』が採択された。その市議らを招待しての会なので、実態は、完全な反日集会。たった三十人弱の出席者の多くは活動家風だし、最後には『慰安婦への補償』と『永住外国人地方参政権付与』の立法化を日本政府に要請する文書を採択したくらい」

と書いている反日集会に千葉景子法相と川上義博民主党議員が、祝電を打ったのである。

 

 これについて、記事では主催者の声として、

「千葉先生は神奈川県選出ですし、会にさまざまな形で協力していただいてきた関係で、メッセージを頂戴したのです。

 川上先生は千葉先生の御紹介です」

 と記事には記している。

(週刊新潮平成二十一年十二月三日号)P三十八

 

この集会について民団新聞は下記のように記事を掲載している。

 【神奈川】川崎市の友好都市である韓国・富川市の市議や市民団体のメンバー計9人を迎えての市民連帯集会「第3回・過去を変えるな、未来を変えよう!」が21日、川崎市労連会館講堂で開かれた。

 川崎・富川市民交流会(共同代表=飯塚正良市議会議員、?重度社会福祉法人青丘社理事長)などが主催し100余人が参加した。青年会神奈川県本部の徐史晃会長は、連帯アピールで永住外国人への地方参政権付与を早期に実現してほしいと呼びかけた。

 参加者は日本政府に?日本軍「慰安婦」制度について、法的責任を認め、被害者に十分な補償を行うための立法措置をとること、また、被害者の名誉を二度と傷つけないように、教科書などで教育を行うこと?日本に定住する外国人に地方参政権を付与する立法措置をとることを要請する決議文を採択した。

(2009年11月25日民団新聞)

参加者三十人が百人に増えているのはまあ腐れどもがいつもやることですので、お笑い程度でしょう。

 この会の主催者である川崎富川市民交流会共同代表の飯塚正良川崎市議のホームページには当日の事が下記のように掲載されている。

http://www32.ocn.ne.jp/~iizukahotline/

< 集会のテーマはいよいよ来年の通常国会で審議が始まろうとしている「定住外国人の地方参政権問題」と9月8日に富川市議会が採択した『日本軍「慰安婦」問題解決を促す決議』をどううけ止めていくかの2点である。

 基調講演を行なった上村英明恵泉女子大教授は今、新しい歴史の流れが韓国・日本・アメリカで起りつつある。それは人権と歴史を正しく伝えようとする流れである。重いけれど慰安婦の問題をどう日本の世論として政府を動かしていくのか、定住外国人の地方参政権を確立していくのかこの川崎から発信していこうという力強い講演だった。

 このあと富川平和訪問団より崔在叔(チェジェスク)富川市民連合女性会元会長・辺彩玉富川市議会議員より生々しい慰安婦たちの現状が報告され平均年令80才をこした彼女たちを救済する立法的制度の確立を日本政府に求めた。

 最後に決議文を市民集会参加者一同で採択し3時間に及ぶ集会を終えた。>

 そして、主催者側が用意した募集パンフレットには下記のように記されている。

http://denizenship.pot.co.jp/index.php?plugin=attach&refer=FrontPage%2F2009-11-21&openfile=091121.pdf

<メッセージ披露

千葉景子衆議院議員(法務大臣)、川上義博参議院議員>

 

 つまり、最初からこの会が反日集会である事をわかっていながら、祝電を打っているのである。

千葉法相は産經新聞のインターネット記事には下記のように答えている。

千葉法相、「反日集会」に祝電 参院議員として送った

2009.11.27 11:48産経

 千葉景子法相は27日の閣議後会見で、慰安婦への補償や、永住外国人への地方参政権付与を求める市民集会に祝電を送ったことを明らかにした。その上で、法相として集会の内容に賛意を示したことにつながるとの指摘については「参院議員ということで対応した。そういうことは決してない」と述べた。

 また、千葉氏は祝電を送った理由を「まったくこれまでの議員としてのお付き合い。ご無礼がないように儀礼的にお出しをしたもので、それ以上のことはない」と説明した。

 集会は21日に川崎市内で開かれた「川崎・富川(ぷちよん)市民集会」。「過去を変えるな、未来を変えよう!」をテーマに韓国・富川市の市議を招き、民主党の川内義博参院議員も祝電を送った。開催趣意書によると、富川市議会は9月に「日本軍『慰安婦』問題解決を促す決議」を採択。決議には姉妹都市である川崎市への働きかけが盛り込まれている。

 総理大臣、閣僚の靖國神社参拝をあれだけ批判してきた腐れどもの一人である千葉景子女史が、いまさら、「衆議院議員」として送ったなどという言い訳が通用するはずも無い。

 元々、千葉女史は朝鮮人戦時売春婦を守り、我が国を貶める「戦時性 的被害者問題の解決の促進に関する法律案」を参議院に毎年提出している売国奴です。

http://www.keiko-chiba.com/reports/topics/20071121.html

 朝鮮人戦時売春婦、犯罪在日外国人にやさしいという自分のイデオロギーに基づいた政治活動を行いたいのであれば、日本国の法相をさっさと辞任すべきである。

 そして、このようなバカを法相にした鳩山総理大臣の任命責任も問われるべきである。

 

 「醴泉 酒の会」でお会いした「JAなんと」のKさん、Yさん来店。

 Kさん三名様で来店。マロさん来店。Iさん二名様で来店。ご近所に引っ越していらしたばかりという御夫妻来店。

 ドンチャン。記憶あり。


11月26日木曜日晴れ ×

 Sさん来店。Sさん来店。Yさん四名様で来店。小胡子さん来店。

 K@京城さん、Rさん、Nさんと来店。

 Rさんは大韓民国の方。

 ドンチャン。記憶はあったように思うけど・・・・・・


松方弘樹の特大鮪

11月25日水曜日晴れ ×

 俳優の松方弘樹氏が三百二十五キロの鮪を釣り上げ、今日、築地で四五十万円もの値がついたという報道があった。

 

<11月25日16時56分配信夕刊フジ

 山口県萩市の離島・見島で23日開かれた「萩クロマグロトーナメント」にゲスト参加した俳優、松方弘樹(67)が釣り上げた重さ325キロの特大マグロが25日早朝、東京・築地市場でセリ落とされ、450万円の値が付いた。松方と船主で折半する。>

 築地でお世話になっている鮪屋の慎吾ちゃんに聞いたところ、競り値一万五千五百円でハラワタ、エラ抜きで二百八十五キロの四百四十一万七千五百円だったそうな。

 釣り上げたマルのまま築地に入る事は無く、傷みの早いハラワタ、エラを抜いた状態で入る。

 今回もその処理でマルで三百二十五キロの鮪が二百八十五キロになったわけです。今回は十二・三%の四十キロがハラワタとエラです。

 ところで、松方氏は去年も三百五キロもの鮪を釣り上げ優勝しています。

http://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/detail.html?lif_id=26707

 この昨年の記事によると、二位の二百七十六キロの鮪は内蔵抜きとなっています。築地で計量時も二百七十三キロとあります。

 松方氏の鮪はマルのまま築地計量となっていて三百五キロです。

ハラワタ、エラは今回の松方氏の釣り上げた鮪の数値から三十七・五キロ程度となります。

 それを引くと、ハラワタ、エラ抜きでは二百六十七・五キロになり、二位の二百七十六キロ、築地計量でも二百七十三キロと優勝した松方氏の鮪より二位の鮪の方が重くなるのですが・・・・・

 

 どうなんでしょう??????????

 去年はたしか、松方氏の去年の鮪は釣り上げた後の処理が悪く焼けていたそうで、そのために競り値も安くなったようです。

 午後からスポーツセンターに行く。今日は時間もないので軽いメニューを消化。

 初めてのお客様来店。へべれけさん、グデングデンさん来店。今日も当店のパソコンがお世話になる。

 おかげさまで当店もやっと無線LAN。感謝。

 ご近所に御住まいという女性のお客様来店。マロさん来店。Yさん来店。

 ドンチャン。記憶なし。サル・・・・・・・


蔡焜燦氏と日本精神

11月24日火曜日晴れのち雨 △

 部屋にある切り抜きを整理していたら、「台湾少年飛行兵の靖国」と題した石井英夫氏のエッセー「蛙の遠めがね」の平成十七年八月二十二日産經新聞に掲載されていた切り抜きが出て来た。

 この台湾少年飛行兵とは老台北として司馬遼太郎氏の「台湾紀行」に登場する蔡焜燦氏のことである。

 此のエッセーが書かれた平成十七年八月に、靖國神社に昇殿参拝し、自分自身が会長を務めた台湾小飛会旗(台湾少年飛行兵会旗)を奉納している。

 仲間の高齢化も進み「台湾小飛会」も解散を余儀なくされ、そのため来日し、靖国に参集した。

 以下、その石井氏のエッセーよりの引用

 

<靖国を参拝した蔡さんたち台湾小飛会の人々は、祀られている台湾出身の元日本兵二万二千余人にも会の解散を報告、深い追悼をささげたというのだ。

 晩夏の靖国の境内に蝉しぐれが降りそそいでいた。濃い緑陰のせいか蔡さんは少し病みつかれのようなものがあり、ポケットから一枚のカードを取り出してみせた。

 靖國神社崇敬奉賛会と書かれた終身正会員証である。会員番号二四三〇一八九。

 「日本人はわれわれ台湾に多くの良い事を残してくれた。

なかでも教育勅語に象徴される日本精神は今も台湾人の誇りであり、心のよりどころなのです。」

 それは最後の台湾少年飛行兵が日本人に伝える遺言であるかもしれない。>

(石井英夫氏のエッセー「蛙の遠めがね」より「台湾少年飛行兵の靖国」平成十七年八月二十二日産經新聞)

 五年前の切り抜きだが、この蔡焜燦氏が語られている日本精神は今の日本人のどれだけの人が持っているのだろうか。

 蔡焜燦氏と同じ台湾の方で、NHKへの抗議行動のために来日された台湾パイワン族の代表である華阿財・元牡丹郷郷長と夫人の包聖嬌さん(国立嘉義大学助理講師)、李新輝・元春日郷郷長と夫人の洪金蓮さんたちは会見に先立ち、靖国神社で昇殿参拝を行ったことが、台湾研究フォーラムの永山英樹氏のブログに書かれている。

 <パイワン族がいかに誇りを大切にする民族であるかがよくわかった。

実は東京は初めてだと言う四人は会見に先立ち、靖国神社で昇殿参拝を行っていた。昭和十年、二十年代の生まれである彼らの親戚には、やはり高砂義勇隊に参加し、戦死した人たちがいるのだ。

女性たちは、そこに英霊が鎮まっていることを直感したようだった。参拝が始まるや、嗚咽していた。

また、先人たちが日本でこれほど大切に慰霊されているのに感動したそうなのだ。「日本人はパイワン族を大切にしていた」と言う親たちから聞いた話も思い出したりで、本当に嬉しかったそうだ。会見でも涙ぐみながら、そう語っていた。

http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-907.html

 これを読んで、靖国参拝に反対するアホウどもはどう思うのだろう。

 どうも思わんのだろうな。

  アホウだから。

 初めてのお客様Hさん二名様で来店。のみ・・・・・

 今日、御来店いただいたお客様は富山県魚津市に赴任されていて、当店のホームページをご覧頂き、東京出張(といっても、宿泊は横浜の関内だそう)ということで、御友人とご来店。

 ありがたいことです。

 

 営業終了後、忘れてあった携帯電話を取りついでに寿司屋さんでイッパイ。

 日曜日、月曜日、今日と三日間の間に着信は三件。

 日曜日、二件。今日一件。

 今日もまだ身体のあちこちが痛い。


11月23日月曜日晴れ ○

 あたりまえですが、今朝起きると体のあっちこっちが筋肉痛。

 

 どうもUSBメモリーの調子が悪いので、夕方、ビックカメラに行く。

 夜は、「神雷部隊始末記」を読む。

 飲みに行って携帯電話を忘れてきたので、三日間ほど携帯電話を使用していないが、携帯電話でのメール、ネット、もちろんゲームもやらない私の場合はあれば便利だが、無ければないでそれなりに済む。

 電車から降りてすぐに携帯電話を取り出し、メールをチェックしている人や、歩きながら携帯電話の画面を見ている人も多い。

 そんなに忙しいのだろうか。

 そんなに必要なモノだろうか?

 テレビもそうだが、携帯電話がこれだけ普及し便利になった反面、失ったものもいろいろとあると思う。

 酒は飲まず。


11月22日日曜日時々雨×

 スポーツセンターに行く。久しぶりに三時間近くかけてメニューを消化。

 夜はBさんご夫妻の結婚お披露目の会二次会。

 ドンチャン。

 


11月21日土曜日晴れ ×

 女性のお客様二名様で来店。フランス人のお客様一名様来店。女性のお客様二名様来店。

 本日のお客様は皆様初めてご来店いただいたお客様。

 途中から飲み始め、ドンチャン。

 営業終了後、久しぶり歌舞伎町の寿司屋さんに飲みに行って、携帯電話を忘れる。


アフガニスタンにて職業訓練

11月20日金曜日晴れ ×

 民主党のバカどもがアフガニスタンに四五〇〇億円もの血税をバラまくそうですが、この血税の使い道はタリバン元兵士の職業訓練や警察官の給与負担などが柱とされている。

 そんなアフガニスタンの汚職番付は世界百八十カ国中二位とトップクラス!

(十一月十八日時事通信)

 【ベルリン時事】世界各国の汚職の実態を監視する非政府組織(NGO)トランスペアレンシー・インターナショナルは17日、2009年の「汚職番付」を発表した。日本の「清潔度」は180カ国・地域中、17位で、昨年から一つ順位を上げた。  調査では、政治家や公務員の「清潔度」を10点満点で採点。日本は英国と同じ7.7点だった。1位はニュージーランドで9.4点、2位はデンマークで9.3点。

 このほか、米国は19位、中国は79位、ロシアは146位。179位はアフガニスタンで、最下位の180位は昨年と同じソマリアだった。

 銭をどぶに捨てるようなものだろう。

 もう少しまともな使い道が考えつかなかったのだろうか。

 

 初めてのお客様一名様来店。Sくん来店。ナベちゃん来店。Oさん二名様で来店。二名様来店。

 夕方、中橋と名乗る男性から三名の予約の電話あったが来店せず。

(0アホ0ー3492−3775)

 早速、着信拒否

 しばらくは金曜日だけ、めぐ蔵さんがお手伝いに来てくれる事になった。

 洗い物がラクチンと思うと、早い時間からドンチャン。


朝鮮のすぐれた先人たち

11月19日木曜日雨のちくもり △

 京城中学は当時、朝鮮だけでなく我が国でベスト五に入る名門校であった。その名門校にも朝鮮人は一学年二百名、四クラスのうち各クラス二〜三人ずつはいた。彼等は秀才中の秀才で、ほとんどが戦後、指導者的立場に就いている。

 これは、京城中学を卒業した「誇り高き京城中学の朝鮮人級友たち」と題した呉善花氏の著書にインタビュー文が掲載されている安倍元俊氏が述べている言葉であるが、続いて下記のように述べている。

 <同じクラスに二人の朝鮮人がいまして、私はどちらとも仲が良かったです。同期生の一人に金貞烈がいました。かれは戦後、朴政権の時に韓国の総理を務めた人物です。金貞烈は京城中学校を出た後、陸軍士官学校に入りました。

 略)

 三年先輩に李朝時代の政権に活躍した閔氏の子孫である閔復基がいました。彼は京城中学を出た後に予科に入り、京城帝国大学を卒業し、戦後の韓国で大法院長を務めました。大法院には京城中学の卒業生がたくさんいて、大法院の卒業生たちの間で「京城中学同窓会」を開いていましたね。

 金貞烈は韓国の首相だった時には毎年来日していました。その度に我々は歓迎会を開きましてね、同期生がみんな集まりました。全日空ホテルの貴賓室を使いまして、「金夫妻を囲む会」という名で集まったのです。

 もうその時はみんな嬉しくてね。中学生に戻った気持ちではしゃいだりして、一日中昔話に花が咲きました。

 略)

 最後の集まりはたしか平成元年十月十三日でした。

 同期生の武藤が、二十年程前に奥さんを連れて韓国に行った時、金は首相であるにもかかわらず、わざわざ時間を割いて自分の車で自ら直接案内をしてくれたんです。

 武藤は嬉しかったと言ってましたね。>

 「生活者の日本統治時代」(呉善花 三交社 平成十二年刊)

P三十六〜三十七

 金貞烈氏については私も朝鮮の「護国の英雄の末路」と題したものを書きましたが、陸軍士官学校(五十四期)、航空士官学校戦闘機科卒業、大東亜戦争はフィリピン作戦で武勲を上げ、三式戦「飛燕」の戦闘隊長として南方戦線で活躍した日本陸軍大尉であり、韓国空軍生みの親といわれる方です。

 その時に書いたように「親日派」追求に余念のない鄭雲鉉氏などに売国奴のごとく扱われています。

http://www.tamanegiya.com/tyousennniokerueiyuunomat.html

 

 

 京都帝国大学経済学部を卒業後、朝鮮総督府に入り、江原道地方課長、朝鮮総督府事務官(農商局)を務め「慰安婦強制連行はなかった」等の著書のある大師堂経慰氏は、「劉鴻洵江原道知事への敬愛」として下記のように答えている。

<個人的な体験で言いますと、私の総督府勤務では江原道の地方課長が一番長かったのですが、そのとき仕えた知事の劉鴻洵さんに教えていただいたことが一番印象に残っています。

 創氏されて中原鴻洵を名乗っておられましたが、実に立派な方で私は心から尊敬していました。中国の史記に登場する徳の高い名君のような印象を与える方でした。

 当時、知事さんが最も気を遣っておられたのは米の供出と労務者の徴用でした。農民の苦労と稲の出来を心配されている劉知事さんの姿は痛々しくさえ見えました。江原道は灌漑水利の施設が不十分なため、殆どの田が天水に依存していました。五月、六月に雨がないと、植え付けができません。日照りが続き、心配がつのっておられたある日の夕方、待望の雨が降り出しました。知事さんは無意識にだったと思いますが、外に飛び出され「ああ、いい雨だ」と天を仰ぎながら、いつまでも雨に打たれておられたお姿を、今もはっきり覚えています。

 農民の憂いをご自分の憂いとしておられたのがよくわかりました。もちろん、知事が雨に濡れたからといって、それが豊作に影響することなどないことはよくわかっていますが、為政者として一番大切なものを教えられたような気がしました。民衆と苦楽をともにするという、昔の聖者の面影を残す朝鮮伝統の人格者でした。

 他方、細かいことにもよく気のつかれる方で、知事さんの車に同乗していた時の事です。刈り取った稲束をチゲ(荷物を背負う道具)に山のように積んで道路を歩いている人に目をとめられた知事さんは、「あんなことをさせてはいかんなあ、この労働力の不足している時に。荷車を使えば十倍ははこべるじゃないか」といわれ、荷車の供与、共同利用を指示されました。

 また、予算の知事査定のとき、「君達は薬がなくて困ると言っているが、その前に漢方薬も考えたらどうだ。薬草の栽培に補助金を出しなさい。たいした額ではないだろう」といわれたことなど、あらためて思い出します。>

(「生活者の日本統治時代」(呉善花 三交社 平成十二年刊)

P百十七〜百十八

 ちなみに、朝鮮半島にあった一三道のうち、朝鮮人の知事は四割〜五割であった。江原道の知事ポストは李圭完から終戦時の孫永穆まですべて朝鮮人で、一三道の日本統治時代の全知事総数一二五名のうち日本人知事は七六名、朝鮮人知事は四九名と三九%が朝鮮人が占めていた。

 ちなみに、知事に直結して朝鮮の民情をすくいあげ具申する任務の特殊副知事ともいうべき参与官は一三道すべてが朝鮮人であった。

 多くの日本人は部下として朝鮮人に仕えていたのである。

 そのような状態で、慰安婦強制連行などが行なわれるはずがない。いや、できるはずがない。

 

 京城帝国大学だけでなく東京帝国大学など日本の大学、士官学校、専門学校に学んだ多くの誇り高くそして優秀な朝鮮人がいたのである。

 その優秀な朝鮮人の方々がいなければ、間違いなく現在の南朝鮮は無い。歴史は続いているのであって、このバカな朝鮮人には、同じ朝鮮人の優秀な先人の事が理解出来ないのであろうが、優秀であれば、我が国はそれなりに遇した。

 今の価値観で歴史を観るのが間違いである。

 今日は寒い。十一月半ば過ぎだから当たり前なのであろうが。

 ボジョレーヌーボーの解禁日ですから、ドンチャンやっているレストラン、バーも多いと思います。

 今年はペットボトルのボジョテレーヌーボーが出たそうで、今日、飲まれているボジョレーヌーボーは航空便でしょうから、輸送費が随分違ってくるのではと思いますが、去年も書きましたが、日本人にとってクリスマスのケーキみたいなものでしょうから、どうせだったら、普通のボトルで飲みたい人が多いのではないでしょうか。

 クリスマスケーキほどではありませんが、ボジョレーヌーボーも売れ残ったら悲惨です。

 ここ数年は毎年のようにボジョレーヌーボーの輸入量が落ちているそうです。

 お祭り騒ぎのボジョレーヌーボーではなく、普通にワインを楽しむ人が増えているという事でしょうか。

 まあ、どうでもいいことですけど。

 初めてのお客様Hさん二名様で来店。同じく初めてのお客様Mさん二名様で来店。しみずさん来店。

 Oさん来店。二名様来店。

 飲む。でも今日は記憶あり。


金継

11月18日水曜日晴れ △

 仕込みを終えてからスポーツセンターに行く。あまり時間もなかったので、軽いメニューを消化。

 Tさん来店。遅い時間にOさん来店。

 ヒマなので、先日よりパテのペーパー掛けのままになっていた欠けた皿の修理をする。

 本格的な金継ではなく、金箔を貼付けるなんちゃって金継です。

 まあ、初めてですからこんなものでしょう。

 

 今日は酒は軽く一通り飲んだだけなので、もちろんサルにはならずにすみました。



「ソウルに刻まれた日本」

京城帝大および高等文官試験

11月17日火曜日雨 ×××××

 「ソウルに刻まれた日本」で、著者の鄭雲鉉氏は京城帝大において、政治学科を無くしたのは、

「朝鮮人の政治に対する関心の高まりを憂慮したからである」

と書くが、

 京城帝国大学法文学部には憲法・行政法などとともに経済学、政治学・政治史が講座として設置されていた。

 それだけでなく、現在の朝鮮人に言わせると、民族抹殺政策のはずの我が国の統治において、朝鮮半島唯一の帝国大学では、終戦まで朝鮮史学、朝鮮語学・朝鮮文学などの各講座があったことをどうして書かないのであろうか。

 たしかに、入学試験に関しては、京城帝国大学を卒業後、朝鮮総督府の警察官僚であった坪井幸生氏も、著書「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」で

 <文科は、朝鮮古来の文人尊重の国民的風潮からも進学希望者が多く、その合格者の比率が問題視されることがあった。入学試験科目の国語では『源氏物語』『平家物語』『徒然草』などの日本の古典からの出題も多く、「暗記もの」といわれた科目には日本史や日本地理が選ばれた年は、朝鮮人受験者にはそうとうなハンディキャップとなったのではなかろうか。>

と書いている。(P四十五)

 私には併合したのであるから、日本の歴史などの出題がそれほど差別になるとは思えないのだが。

 

 京城帝国大学が開校される事により、多くの優秀な朝鮮人が合格し、朝鮮人の高等文官への道が大きく開かれたのも事実である。

 当時難関中の難関である高等文官試験に合格するということは、官庁に就職すれば、将来は上位の地位が保証され、エリートとして処遇されるということである。

 つまり、当時は朝鮮人であっても、我が国の高級官僚として処遇されることになるのである。

 坪井幸生氏の著書によると、坪井氏の同期四十六名中内地人(日本人)は二十五名、朝鮮人は二十一名であったという。

 そのうち、高等文官試験に二年、三年の間に合格したのは八名。内訳は内地人二名(行政科)、朝鮮人六名(行政科三名、司法科三名)であった。司法科合格の徐截元氏が弁護士を志したほかは、全員官途に就いて朝鮮総督府の役人となっている。

 坪井氏自身は病のため卒業後、一年経てから朝鮮総督府に勤務する時の同期生は、十三名。うち二名が朝鮮人。そして、京城帝国大学出身者は一年後輩の星出寿雄氏のみ。一人、二人を除いた他はすべて東京帝国大学出身者であった。

 

 坪井氏は高等文官試験合格者として朝鮮総督府に入り、首都京城の治安を任務とする京畿道警務部に警部として配置される。

 巡査から始めると二十年以上かかる職位である。

 これはどういう事をあらわすか。

 高等文官試験という難関を突破した高級官僚の下には、多くの役人が部下としてつく。それがたとえ朝鮮人であっても変わる事が無いのである。

 差別差別と騒ぐバカ朝鮮人たちの頭では、このように優秀な朝鮮人の下に、多くの日本人、朝鮮人、台湾人が部下としてつくということがどういうことか理解出来ないのであろうか。

 今日は朝から雨。

 Sさん来店。ヒマだし、Sさんと早い時間からドンチャンをやっていると、Yさん来店。Yさんは二度目の来店。

 営業終了後、Yさんと「ラ・シャンパーニュ」に伺う。

 シャンパンでドンチャン。

 今日も、帰りにコンビニに寄ったみたいだが、記憶はまったくない。

 申、猿、さる、サル、SARU・・・・・・・・


「ソウルに刻まれた日本」

日本統治下の朝鮮半島における教育

11月16日月曜日晴れのちくもり ○

 「ソウルに刻まれた日本」の著者であるこの鄭雲鉉というアホ朝鮮人は、その教育についても「差別だ」と騒いでいます。

 <解放後この学校は(木下注 一九一六年に設立された京城工高)、京城帝国大学理工学部、京城鉱山専門学校とともにソウル大学工学部になったが、開校から解放の時まで三十年間、我が国に長く功績のあった科学技術者を排出した母体であった。解放後の我が国の科学技術界を率いた多くの学者は、みな、この学校の出身である。

 略)

 結局、日本の当初の目標は、彼等の宣伝とは異なり、朝鮮人には高い科学技術教育を受けさせるより、自分たちの手足として使う事の出来る、低レベルの技術者だけを養成することだったのだ。こんな心づもりは一九二六年に京城帝大を創設した際に、法文学部と医学部だけおき、工学部をおかなかったことにもよく現れている。>

(同書p百三十六〜一三七)

 この朝鮮人は矛盾というものを知らんのだろうか。

 戦後、朝鮮を率いて多くの学者は我が国の朝鮮統治時代の教育を受けて来たといいながら、「朝鮮人には高い科学技術教育を受けさせるより、自分たちの手足として使う事の出来る、低レベルの技術者だけを養成することだった」とはどういうことなのだろうか。

 本当に差別するのであれば、高等教育など行わない。

 愚民主義をとったオランダのインドネシア統治をみればよく判る。

 我が国の統治と他国の統治を比べてみればよい。

 ソビエトは一九三九年から一九四〇年にかけて、占領したバルト三国の一つエストニアの支配を始めるに際し、学歴の高い方から全人口の五十%を殺害もしくはシベリアの強制収容所に送った。

 

 京城帝国大学については下記のような事も書いている。

<当時、日本の帝国大学は、どこも文学部、法学部、理学部、工学部をもっていたから、日本当局はここでも差別をしたのだ。

略)

 当初、法文学部に政治学科があったが、当局は学部開設二年目の二十七年にこれを廃科とした。朝鮮人の政治に対する関心の高まりを憂慮したからである。結局法文学部には、法学科、文学科、史学科、哲学科など四つの学科だけが残った。

 朝鮮人に対する差別待遇は、入学でもあった。

 一九二四年初めての新入生募集したとき、出願者は六百五十八名で、合格者百七十名のうち朝鮮人合格者は四十五名であった。

 文科の場合、志願者百五十二名中、六十一名、朝鮮人は百四十一名中、二十九名だけが合格した。また、理科の場合、日本人は二百五十四名が出願し、六十四名合格、朝鮮人は百名のうち名が合格した。合格率は日本人が三十・七%、朝鮮人は十八・六%であった。そのとき、朝鮮の民間紙は、この試験が朝鮮人に不利に出題されたと非難した。実際、日本の歴史、漢文の訓読などが出題されて、朝鮮人出願者に不利だったという。うわべは差別をしないようにしながらも、実際にはすべての面で朝鮮人に差別待遇をしていたのが、日本の教育政策であった。

 略)

 >

(同書P百三十九〜百四十)

 どうすれば、このようなひねくれた考え方が出来る腐れ人間が出来上がるのであろうかと不思議に思うが、あの嘘つき戦時朝鮮人売春婦どもの戦後の行動を見ていると、まあ、それなりに理解出来ますが、これらの捻くれた考え方は朝鮮人を含めた先人に対する屈辱である。

 

  京城帝大に関しては、既に知られているように、大阪、名古屋帝国大学より早く、東京、京都、九州、北海道に続く六番目の我が国の帝国大学として大正十三年(一九二四年)に開校した。その後は昭和三年(一九二八年)の台北帝国大学、大阪帝国大学(昭和六年)、そして名古屋帝国大学(昭和十四年)の九校のみである。

 旧制四高である現金沢大学も帝国大学にはなれなかったのである。

 当時の超エリートコースであったのである。

 

 そして、この腐れ朝鮮人が書く

 <当時、日本の帝国大学は、どこも文学部、法学部、理学部、工学部をもっていたから、日本当局はここでも差別をしたのだ>

とも言うのも嘘である。

 帝国大学の学部は下記のようになっていた。

 東京帝国大学  理学部・工学部(一・二)医学部・農学部・法学部・文学部・経済学部

 京都帝国大学  理学部・工学部・医学部・農学部・法学部・文学部・経済学部

 東北帝国大学  理学部・工学部・医学部・法文学部

 九州帝国大学  理学部・工学部・医学部・法文学部

 北海道帝国大学 理学部・工学部・医学部・農学部

 京城帝国大学  理工学部・医学部・法文学部

 台北帝国大学  理学部・工学部・医学部・農学部・文政学部

 大阪帝国大学  理学部・工学部・医学部

 名古屋帝国大学 理学部・工学部・医学部

 このように、すべての帝国大学にあったのは医学部であり、北海道帝国大学には、理学部・工学部・医学部・農学部。大阪帝国大学および名古屋帝国大学には、理学部・工学部・医学部のみで、京城帝大にはある法文学部あるいは台北帝大にはある文政学部がないのである。

 差別差別と叫ぶこの朝鮮人の感覚からすると、ひょっとして、他大学にあって、京城帝国大学にないものは差別ということになるのか。

 では、京城帝国大学には日本人も一緒に学んでいるのだが、そんな差別された大学に学ぶ日本人も差別されている事になるのか。

 そして、予科があったのは京城帝国大学以外では北海道帝国大学と台北帝国大学のみである。

 これも差別か??????

 我が国は欧米諸国が植民地に取っていた愚民政策を取らずに、

朝鮮人に対して、高等教育を行った。それは、欧米のように植民地と考えていなかったからである。

 あほらし

 今日は飯を食いに外に出たのみ。

 しかし、いいかげんに部屋の本を片付けないと・・・・

 酒は飲まず。


「ソウルに刻まれた日本」

歴史の連続性

11月15日日曜日晴れ ○ 

 「ソウルに刻まれた日本」には、テロリスト金九の銅像に朴正煕元大統領の揮毫がされているのについて、

<しかし、問題は、彼が文字を掲げてよい場所があり、掲げてはならない場所があるということである。ここの場所は掲げてはならない場所だ。なぜなら朴正煕は、日本の陸軍士官学校を出たうえに、「親日歴」があるからだ。朴正煕は金九と一緒に立てない立場にあるのだ。

 金九の銅像が不憫に見えるのは、たんに朴正煕の文字のせいだけではない。銅像それ自体もかって親日派だった彫刻家、金景承が造ったものである。

 あわせて金九の銅像には三人の親日前暦者の名前が彫られている。このような人によって造られたとすると、銅像がなぜ造られたのかわからなってしまう。>

(同書p九十一〜九十二)

  テロリスト金九の銅像の三人の後一人は、蒋介石元台湾総統です。

 何度も書きますが、親日派糾弾と騒いでいる連中は、今の南朝鮮が我が国の統治下において高等教育を受けた人々抜きにして、戦後の復興などがあり得たと思っているのであろうか。

 朝鮮の貧しい家庭に生まれた朴正煕元大統領は、我が国の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、南朝鮮の中興の祖となっている。

 他にも我が国統治時代に多くの優秀な朝鮮人が教育を受けている。

 歴史は継続しているものである。

 我が国の統治下において教育を受けた優秀な多くの朝鮮人がいたのは事実であり、その多くの先人のおかげで、いまの朝鮮があるのです。

 

 今日は午後からスポーツセンターに行く。

 帰りに芳林堂さんに寄るが、何も買わず。

 産經新聞記者である福島香織さん(もうすぐ元がつくが)のブログhttp://fukushimak.iza.ne.jp/blog/

にて紹介されていた「殺劫 チベットの文化大革命 」(ツェリン・オーセル著 ツェリン・ドルジェ 写真 集広舎)が届く。

 チベットにて、支那が戦後どのような醜い事をやったかが、数多くの写真とその写真に写り、現在も生存している人物を六年にわたり取材した貴重な一冊であり、共産主義国家の支那においては非常に危険を伴うものである。

 

 今日は飲まず。


11月14日土曜日雨のち晴れ △

 竹ちゃんお母さんと来店。自家製のお味噌を頂戴する。

 OさんSさんと来店。クマちゃん来店。塩月さん、陽子さんと来店。Tさん来店。

 ドンチャン。営業終了後、Tさんとクマちゃんと三人で、最近できたばかりという神楽坂のワイン屋さんに伺う。

 赤、白ともあまり好みの味のワインで無かった・・・・

 今日は最後まで記憶あり。

 珍しい。


11月13日金曜日雨 ×

 バンブーさん来店。Tさん三名様で来店。Yさん二名様で来店。Kくん二名様で来店。

 Oさん来店。Nさん四名様で来店。

 営業終了後、Nさんとエムズバーさんに伺う。

 コンビニに寄ってたようですが、そんなのはまったく記憶なし。

サル、猿、申、さる・・・・・・・


 

弁護士・内田雅敏の書く嘘

靖國神社にについて

11月12日木曜日晴れ

 靖国イデオロギーからの訣別こそ急務として、内田雅敏氏は著書「靖国には行かない。戦争にも行かない」(梨の木舎 平成十八年刊)に下記のように書く

<赤の広場で小泉首相が「無名戦士の墓」に献花したように、諸外国では外国から来た首脳らがその国にある過去の戦争の犠牲者を追悼する施設に献花・追悼する習わしがある。

略)

 日本本土にもこれまで多くの外国の指導者が訪れた。しかし、靖國神社を参拝した者はほとんどいない。> 

P四十

 いかにも、「その国のすべての戦争犠牲者」が祀られている追悼施設にのみ、他国の指導者が献花するように書いているが、これは大きな嘘である。

 そして、これまたいかにも内田氏が好きそうな赤の広場ではないが、米国の場合を例にとって見てみよう。

 米国のアーリントン国立墓地には、南北戦争以来の戦死者および国のために殉難した人、特に功労のあった人など「国家の英雄」とされた二三万人が埋葬されている。

 その入り口には「我が国で最も神聖な聖地」と書かれている。

 無名戦士の墓には米国陸軍第三歩兵隊が二十四時間衛兵に立つ。

 アーリントン国立墓地で厳粛に管理されている無名戦士の墓とは、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争における代表四名の遺体を埋葬した無名戦士の墓である。

 我が国の要人を含め外国の要人が献花している無名戦士の墓とは、米国という国家に対して貢献し、戦死した兵士のみが埋葬されている墓であって、民間の犠牲者は含まれていない墓なのである

 たとえば、第一次世界大戦で敵国となった同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマントルコ、ブルガリア)、第二次世界大戦の敵国(ドイツ、イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、クロアチア、スロバキア、タイ、イラン、ヴィシーフランス)そして我が国。朝鮮戦争では北朝鮮、支那、ソビエト、バトナム戦争ではベトナムはもちろん支那、ソビエトにとっては憎き敵である。

 それらの国の指導者すべてが、敵だったとして無名戦士の墓に献花を拒んでいるのか。

 国家に尽くした者に対する敬意をもって献花しているのである。

 これは靖國神社に参拝した多くの国々の方々も同じである。

http://www.tamanegiya.com/yasukunivip.html

 

下記にアーリントン墓地の埋葬条件を記しておく。

 この内田雅敏氏の言っている事がいかに嘘かがわかる。

 アーリントン国立墓地の埋葬条件

(木下注 引用文献の筆者のひとり古川勝久氏によると、米国では軍隊を除隊する時点で軍人は全員、身体障害チェックを受ける。あらゆる障害毎にその重度が一定のパーセンテージ数値でランクされる)

 (名誉勲章、空軍十字勲章、海軍十字勲章など)

 米国政府内の役職で選挙で選ばれる地位

 合衆国主席裁判官、または合衆国最高裁判所陪席裁判官

 五USC五一三二または五三一三に記載されている地位に就いた事のある者。

 (木下注 引用文献の筆者のひとり古川勝久氏によると、閣僚または次官の事。USCとはユナイテッド・ステーツ・コードの略で、米国議会が規定する米国政府役職分類コードを指す)

 二二USC八六六修成項に規定された、または一九八八年三月二十一日国務省メモランダムに記載された、一九四六年八月十三日法令第四一一項規定の第一級分類ミッションの主席スタッフを務めた事のある者。

(木下注 引用文献の筆者のひとり古川勝久氏によると、おそらく大使のことであろうとしている)

  兵役従軍中に海で死亡または埋葬された軍人、または行方不明者と公式に認定された軍人。

  アメリカ合衆国戦争記念碑委員会が運営管理する海外墓地に埋葬された軍人。

  アーリントン国立墓地に集団葬として埋葬された軍人

(木下注 引用文献の筆者のひとり古川勝久氏は資格基準を省略のうえ、火葬集団墓地は平成十二年現在四棟設置されており、計画では合計九棟が完成される予定としている)

「諸君」平成十二年九月号 「靖国とアーリントン、ここが違う」古川勝久

私は「検証・靖国問題とは何か」(PHP研究所編 平成十四年刊)P二百十四〜二百十五より引用

 そして、内田雅敏氏は私も日記に取り上げた事のある「焼き場に立つ少年」を例に挙げ

<靖國神社は、これら民間の戦争犠牲者を一願だにしていない。靖國神社が祀っているのは、天皇の軍隊・軍属だけである。>

P五十

 これも、大きなウソである。

 靖國神社には、基準が不透明なところはあるのは確かであるが、民間人も多く御霊として祀られている。

 米軍の潜水艦の魚雷攻撃により撃沈された沖縄よりの疎開船・対馬丸に乗船していた七七四名の学童、ソビエトとそれに迎合する反日日本人の圧力により独立系映画館でしか公開されなかった「氷雪の門」のモデルになった九人の真岡郵便局の電話交換手の方々の御霊も祀られているのである。

 このようにウソを書いても、な〜んにも思わんのだろうな。

 あの人らは。

 

 Oさん三名様で来店。Hさん来店。Sくん来店。ホロン部員Yさん来店。

 Mさん二名様にて来店。Kさん二名様にて来店。

 Kさんが連れいただいた方が即席診療してくださり、左足はやっぱり深部静脈血栓の疑いがあるので、お医者さんを紹介してくださるそう。

 飲む。ドンチャン。 記憶あり。珍しい・・・・・


小野田寛郎元少尉と日本刀

11月11日水曜日雨 △ 

 日本刀の武器としての実用性においては、構造上の問題、手入れなど多くの方が指摘されているような問題点があるが、武器を超える性格を持っている。

 小野田寛郎元少尉は、昭和四十九年二月九日午前十時に、上官であった比島派遣軍参謀部情報班別班長・谷口義美元少佐による「降伏命令」による任務解除を伝達されたことにより、三十年に渡る戦いを終えた。

 翌十日、小野田少尉はフィリピン空軍のレーダー基地での降伏式に臨んだ時に、フィリピン軍は捧げ銃で迎えた。

 フィリピン空軍のランクルード司令官に対しても、翌日のマルコス大統領に対しても降伏する軍人として、三十年間手離さなかった軍刀を捧げ持ち、礼を尽くした。

 ランクルード司令官もマルコス大統領も、受け取った軍刀をそのまま小野田少尉に返している。

 マルコス大統領は「もはやこれは兵器ではない。貴重な歴史遺産である。持ち帰って大切に保存するように」といったそうである。

  日露戦争のとき、乃木大将も敵将ステッセルに同じ武人として帯刀を許している。

  小野田少尉と一緒に戦っていた小塚金七一等兵(戦死後伍長)は、昭和四十七年十月十九日に、フィリピン軍の集中射撃により戦死しているが、それに対して、マルコス大統領は、戦死の報を聞くや否や、敵国軍人である小塚一等兵を「勇敢なる戦士として称えよ」と命じた。

 これを受けたフィリピン陸軍は、二十八日、マニラ郊外のロヨラ・メモリアル教会において、小塚一等兵の栄誉礼をもって弔った。

 そして、小塚一等兵の持っていた銃を貰い受けたい。それを千層記念館に安置し、青少年の愛国心養成の一助にしたいというフィリピン空軍の依頼に対し、同じ型の三八歩兵銃が贈られ、現在フィリピンの戦争記念館に展示されているそうである。 当時の田中内閣は、小塚一等兵の勇戦を称える言葉は一切発表していない。「昭和の戦争記念館 第五巻 全ての戦歿者に捧げる」(名越二荒之助編 展転社 平成十四年刊)p百十五〜百十七より抜粋

 ただ、フィリピン軍や住民がこの最後の帝国陸軍軍人に対しどのような感情を持っていたか。

 小野田元少尉の著書「たったひとりの三十年戦争」には下記のように書かれています。

 <(日本の捜索隊が残していった新聞記事より)記事はきれいごとが書かれているが、私はフィリピン軍や住民たちが日本兵にどんな感情を抱いているかがわかった。小塚の遺体には、弾が八発入っていたという。胸、首、右肩、鼻の根元、右耳、右手、背中などである。

 「われわれは倒れたコヅカに近寄った。彼は日本語でなにかブツブツつぶやいていた。突然、コヅカは蛮刀を抜いて立ち上がった」という比空軍曹長の談話が新聞に載っていた。これはウソである。私は小塚の死をはっきりと見届けている。彼は最初の一発で右肩から心臓にかけて打ち抜かれ、うつ伏せに倒れて即死した筈だ。それなにの、なぜ八発も体中に弾が撃ち込まれているのか。>

「たったひとりの三十年戦争」(小野田寛郎 東京新聞 平成七年刊)p百七十一〜百七十二

 マルコス大統領、ランクルード司令官の小野田氏の軍人としての姿勢に礼を尽くしたのも事実であるが、現地のフィリピンの軍隊、警察、住民が持っていた憎しみ、恐怖という感情も事実である。

 小野田氏、小塚氏は軍人として戦っていたのであるから。

 あと、少し気になったのは、名越氏の著書には「小野田・小塚両氏は、最後まで日本軍の三八式歩兵銃を持っていた」と書かれている(p百七十八)。

 確かに、小塚氏の愛用銃は三八式歩兵銃であったが、小野田氏は九十九式小銃であったことが、小野田氏の著書よりわかり、名越氏の著書は、その点は明らかな間違いである。

 参考文献「昭和の戦争記念館 第五巻 全ての戦歿者に捧げる」(名越二荒之助編 展転社 平成十四年刊)

「たったひとりの三十年戦争」(小野田寛郎 東京新聞 平成七年刊) 

  私も短刀を一振り持っているが、もちろん、武家でないうちの家に伝わっているはずもなく、刀剣市で気に入り自分で購入したものです。

 日本刀は造られた時代により、古刀、新刀、新新刀、現代刀と大きく四つに分けられるそうで、新刀といわれるものでも、慶長年間から江戸時代後期の安永年間末までに作られたものだそうだから、ついていた鑑定書では「新刀」となっているこの短刀は、最低二百年は経っていることになる。

 私の父親は大東亜戦争末期、宝塚航空隊にあった予科練に入隊した。たいしたものでなかったが、祖父が用意してくれた日本刀を持っていたそうだが、敗戦後、その日本刀を実家の牛小屋二階にある藁などの貯蔵庫の奥に隠したと言っていたが、探した事はないのでどうなっているかわからないし、あっても錆だらけだろうが、牛小屋を潰す時には見つかってほしいと思う。

 今日は河岸が休みで、午後から高田馬場にある新宿スポーツセンターに行く。

 時々お会いする外人さんに、日曜日に近所の公園でお会いした時に、家族連れでいらしていたその外人さんが挨拶してくれたが、すぐにわからなかったので、その時の非礼をわびる。

 月曜日から間が一日なので、背中などは筋肉痛が残っているので、肩、腕、下半身、腹筋などのメニューを消化。

 体重も七十一〜二キロにもどる。

 高田馬場から地下鉄東西線で神楽坂で降りる時に、扉が開いたのに、出口にいた早稲田から乗って来たアホ学生ぽい二人がそのまま携帯をいじくりながら、話をしていて、降りる人の邪魔になるのにそのままいた。

 この前も、山手線で同じようなのが三人いた。そいつらの一人は、上に手をかけて降りる人の波に頑張るようにしていた。

 どちらも注意したが、注意された意味が理解出来ないようなアホな奴らだった。

 どんな親から、あんなアホが育つのか。

 初めてのお客様Wさん二名様来店。Sさん二名様で来店。初めてのお客様二名様来店。 

 飲む。珍しく記憶あり。


君死にたまふことなかれ

11月10日曜日晴れ △

 <どんなものでも利用出来るものなら利用する左派の論客は、柄のないところへ柄をすげる。また教科書で教えられると、その言葉は覆せなくなる。こうして君死にたまふことなかれは、反戦詩に似たものになった。古人は今日の目をもって昨日を論ずるなかれと言っている>

 これは、山本夏彦氏が「正義と良心のかたまりは十目のみるところ、朝日新聞だから、私は『豆朝日新聞』の創刊を思い立った。」とあとがきにある「『豆朝日新聞』始末」(文藝春秋 平成四年刊)に書いている言葉である。

 

 同書に「君死にたまふことなかれ」について、山本氏は下記のように書いている。

<晶子のはいわゆる反戦詩を書いたのではない。という詩は、日清戦争まで戦争は「士族」のすることで、百姓町人の知った事ではないとまだ思っていた。当時は長男は徴兵されなかったから、しばらく男の子のいない家の養子になって難を避ける習慣があった。もし世間がそれをとがめること昭和戦前のようであったら、まずこの詩を雑誌「明星」は掲載出来なかっただろう。あくる明治三十八年まだ戦争中だというのにこれを単行本に収めることはできなかっただろう>

p三十四〜三十五

 山本氏は他にも

<新聞が呼号し売買する正義は常に読者の利益と一致する正義である。読者が欲する正義は損をしない正義で、それは多く正義ではない。

 平和もまたそうである。これは内村鑑三が「平和な時の平和論」という一言で言い尽くした。平和な時に平和論を喋々するものは戦争になると黙して、たちまち戦争支持に転じ、支持しないものがいると支持する仲間に引き入れようとする。それでも平和論を唄えてやまないと、見放して当局に密告するか、石を投げる。投げるのはほかならぬあの平和なときに平和論を唱えた者どもだと内村は言っていると私は理解して内村に代わって何度でも言う>

p百七

 山本氏は長い間週刊新潮にコラムを連載していた。

 私がメキシコを放浪していた時に、当時お世話になっていた長島氏の関係で、民芸品の仕入れに来ていた時にグアダラハラで知り合い、三十年後の今は当店のお客様にまでなってくれているナベちゃんは、「週刊新潮は山本夏彦のあのコラムを読むためだけに買っている」と言っていたことを思い出したが、「どんなものでも利用出来るものなら利用する左派の論客」「平和な時の平和論」とはまさに名言。

 ちなみに、与謝野晶子は夫鉄幹との間に五男六女があった。のちに、海軍士官として出撃する息子四郎に「水軍の大尉となりて我が四郎 御戦に征く 猛く戦え」と詠んだことを、あまり左の人は言う事がない。

 我が国において、真剣に国防を論じると「好戦主義者」と烙印を押したがるアホウどもが多い。国を守る事、国民を守る事が第一の国会議員でもそうである。

 ましてや、オークションにサイン入りバイブレータを出した辻元清美女史のように、「国会議員って言うのは、国民の生命と財産を守るといわれてるけど、私はそんなつもりでなってへん。 私は国家の枠をいかに崩壊させるかっていう役割の国会議員や」とほざいたアホもいる。

 先の選挙において、真剣に国防を訴えた候補者は、西村眞悟氏以外に何人いたのであろう。

 国が無くなれば、生活第一などとほざいてはいられないだろう。

 国会議員は国と国民を守るものであるし、その国民とは国を守るために国に命を捧げられる者をいう。

 Ask not what your country can do for you, but what you can do for your country.

「国家が諸君に何をしてくれるのかを問うなかれ、国家のために何ができるかを問いたまえ」

ジョン・F・ケネディが就任演説で言ったことが、今の我が国国民に問われている。

 自分にできる事を。

 今日はKくんが早い時間から、友人の方たち三名様と来店。初めてのお客様Kさん二名様で来店。

 遅い時間に少しだけ飲む。

 さっさと寝る。


11月9日月曜日晴れ ○

 午後より久しぶりにスポーツセンターに行く。今日も軽めのメニューを消化。

 帰りに高田馬場の芳林堂さんに寄り「甦る零戦」(春原剛 新潮社)、「天空からの拳」(ピーター・C・スミス PHP研究所)の二冊を購入。

 「甦る零戦」は以前に日本経済新聞社に春原氏の記名記事が連載されていたのを、O氏にその切り抜きをすべて頂いた事があり、興味深く面白かったので購入。

 ピーター・C・スミス氏については、名越二荒之助氏の著書「昭和の戦争記念館 第五巻 全ての戦歿者に捧げる」(展転社 平成十四年刊)に、この江草隆繁大佐のことがピーター・C・スミス氏の別の著書により紹介されていた事が記憶にあり、購入。

 芳林堂さんの地下にあるトンカツ屋さんで飯を食ってから、店に寄り資源ゴミを出してから帰宅。

 今日は、酒は飲まず。


酒たまねぎや飲んべえの会「醴泉」

11月8日日曜日晴れ△

 今日は醴泉の山田社長、磯自慢の寺岡社長も御参加くださり、飲んべえの会。

 午後三時から午後六時までという予定で始まったが、結局いつも通りダラダラのドンチャン。

 終了後、みなさんとビールを飲みながらラーメン。

 今日は珍しく記憶あり。

 

本日の出品酒

NO.1 醴泉正宗     20BY

NO.2 醴泉正宗     19BY

NO.3 醴泉正宗     18BY

NO.4 蘭闍待      20BY

NO.5 蘭闍待      19BY   

NO.6 醴泉純米大吟醸  20BY

NO.7 醴泉純吟 山田錦 20BY

NO.8 醴泉純米 山田錦 20BY


異常な判決

11月7日土曜日晴れ ×

 以下は産經新聞の配信記事です。

以下引用

東京駅ホーム突き落とし男に懲役12年を求刑

11月6日12時41分配信産經新聞

 JR東京駅で3月、女性が線路に突き落とされ軽傷を負った事件で、殺人未遂罪などに問われた無職、太田周作被告(25)の裁判員裁判第3回公判が6日、東京地裁(井口修裁判長)で開かれた。検察側は「無差別で被害者を狙った自己短絡的な犯行で悪質だ」として懲役12年を求刑、弁護側は「懲役4年以下が相当」として結審した。判決は週明けの9日。

 検察側は論告で、「就職活動がうまくいかない被告が自暴自棄になり、人を殺して死刑になろうとした」と指摘。捜査段階で軽度の広汎(こうはん)性発達障害と診断されたことについても、「犯行に与えた影響は軽微だった」と主張した。

 一方で弁護側は、「責任能力に問題はないが、障害の影響で自分自身をコントロールする能力が低下していた」と指摘。その上で「被告を20代のうちに社会に復帰させる機会を与えるべきだ」と訴えた。太田被告は最終意見陳述で「被害者やご家族らに多大な迷惑をおかけしたことを心からおわびします」などと反省の言葉を口にした。

 この日は論告に先立ち、被害女性の意見陳述が別室からの「ビデオリンク方式」を用いて行われた。これは、被告と直接顔をあわせたくないとする女性の心情に配慮したもの。女性は「事件後、精神のバランスを崩し、今も治療が続いている。被告には一生刑務所に入っていてほしい」などと被害感情を述べた。

 起訴状によると、太田被告は3月23日午後8時10分ごろ、東京駅の中央線ホームで、東京都小平市の60代の女性を後ろから突き飛ばして線路に転落させ、入ってきた電車に接触させて頭に軽傷を負わせたとされる。当時、カッターナイフ2本を所持していたとして、銃刀法違反罪でも起訴された。

引用終わり

 間違えば、大惨事になっていたのですから、軽傷ですから懲役十二年なのでしょう。

 では、以前、片足切断、頭部骨折、腰骨粉砕という大怪我をさせた凶悪支那人に対しては、どういう判決がくだったか。

 

 支那人が電車内で大きな声で喋っているので、それに対して注意した警視庁通信指令本部の岡野たかお警部補を電車から引きずり降ろして、入ってきた電車の前に突き飛ばし片足切断、頭部骨折、腰骨粉砕という大怪我をさせた凶悪支那人李志に対しては、たった五年の求刑、そして判決は三年です。 

 

この判決がいかに異常であったかというものを示すものです。

http://www.tamanegiya.com/asahisinahoudou20.1.2.html

 そんな凶悪支那人に対して、殺人未遂でなく傷害事件としてたった五年という求刑をしたのは渡邉卓児という検察官、裁判を担当したのが山口雅高裁判長です。

 支那共産党の幹部の息子だからか日本のマスコミはこの凶悪支那人李志についてほとんど報道しませんでした。

 

 日本のためにならない事だったらなんでもやる腐れ売国奴ども。

 渡邉卓児、藤本建子、綿引万里子、山口雅高、鬼束忠則

 

 Bさん御夫妻友人の方と来店。副店長来店。Tさん二名様で来店。

 ドンチャン。記憶なし。


中日友好教会と肖向前、創価学会

11月6日土曜日晴れ ×

 10月16日16時7分の時事通信のニュースにある

< 国交正常化前から周恩来首相(当時)は国務院外事弁公室の日本担当とは別に、廖承志氏(後の党政治局員)をトップに、各部署から日本研究の専門家ら20〜30人を集めて「日本組」を組織。張氏と肖氏は孫平化氏(元中日友好協会長)、王暁雲氏(元駐日公使)らと並ぶ幹部だった。>

とはどういうことか。

 もうひとりの肖向前も中日友好協会副会長であったのであるから、当然、支那共産党の対日謀略工作を担っていたひとりである。

 肖向前については、下記のような記述がある。

 周恩来は、共産主義と宗教という違いはあっても、最高指導者が絶対的な力を持っていることや、上下関係が厳しい組織など共通点も多いほか、一〇〇〇万近い会員数を抱える創価学会は極めて利用価値が高い団体として、

「創価学会という団体を重視しなければならない。会員の数からいえば、十人の日本人のうち一人が学会員であり、これは非常な力である。中日友好を進めるには、無視するわけにはいかない。なんとか創価学会との間にパイプを作らなければならない。友人をつくらなければならない」

 創価学会を最大限利用して、日中国交正常化を進めるため、「対日工作四人組」を組織した。

 日中国交正常化とは、裏を返せば、日本と台湾を断行させることに他ならない。いわば、周恩来の対日国交正常化の真の狙いは、台湾を国際的に孤立させる事にあったのは、その後、中華民国政府が国連から脱退し、中華人民共和国政府が取って代わるなど歴史の証明するところだ。

 この国家的なプロジェクト遂行のため、中日友好協会初代会長の寥承志の下に置かれた四人組には選りすぐりの対日工作経験者が選ばれた。孫平化(寥承志の後、中日友好協会二代目会長に就任)のほか肖向前、趙安博、王暁雲だ。

 肖向前は国交正常化まで日本に置かれた日中覚書貿易東京事務所主席代表として日中国交正常化の中国側の連絡役を務めたほか、中国外務省アジア局長や中日友好協会副会長などを歴任。

 この四人に寥承志を加えた五人に共通するのは、日本の大学に留学したり、旧満州国で生活し、中国共産党や軍の下で、対日特務工作などを行った過去がある点だ。

 周恩来も党中央社会部長という特務機関の最高責任者として、情報工作にどっぷり浸かった時期がある。つまり、この四人組は周恩来が組織した「対日特務機関」という性格が色濃いのである。

 四人組の工作は巧みだった。親中的な作家の有吉佐和子や村松健三らを通じて執拗に行われた。

「蠢く!中国対日特務工作」P七十三〜七十五

 

 「蠢く!中国対日特務工作」には創価学会と支那との繋がりについて、「留学生」「創価大学」「大使館」という三題話として、下記のような記述があります。

 <中国側の日本に於ける拠点が駐日中国大使館であり、その尖兵が、池田が創設した創価大学に留学した経験のある中国人外交官だ。当時、大使館には王毅・大使の側近中の側近として知られた程水華・公使のほか、李冬萍と?安軍の両参事官らが勤務していた。三人とも中国が創価大学に派遣した「留学一期生」のエリートだ。

 彼等は池田が中国要人と会見する際、必ずといっていい程同席し、池田との関係の緊密さを誇示していた。それだけに、創価学会や公明党の幹部を通して、彼等の対日関係の分析や中国側の要請などは池田の耳に届く仕組みになっていた。

 また、場合によっては、彼等が学会側に働きかけて、池田と王毅との会見をセッティングし、中国側の意見が直接、池田に伝えられるようにも工作した。

 その結果、中国との関係を重視する池田は、先の神崎との会見のように、公明党などを通じて、中国側の意見や要請が首相に伝えられるように、あの手この手の策を弄したのである。>

 「蠢く!中国対日特務工作」 P八十一〜二

 この支那大使館の参事官については、以前、大使館絡みの工作員として当店のホームページに掲載した事があります。

http://www.tamanegiya.com/ikedabutatosina18.8.11.html

 支那にしてみれば、創価学会の池田大作氏に名誉博士を乱発する事により、その程度で名誉欲の塊である池田氏が喜び、創価学会が意のままになるのであれば、ウハウハでしょう。

 別に、産經新聞が心配?しなくとも、形こそ変わるかわかりませんが、支那の我が国に対する工作は活溌化することはあっても沈静化することはないでしょう。

 

参考引用文献

「中国の黒いワナ」青木直人 別冊宝島 平成十九年刊

「嫌韓流の真実 在日特権」別冊宝島 平成十八年刊

「中国利権の真相」別冊宝島 平成十六年刊

「テロルの真犯人」加藤紘一 講談社 平成十八年刊

「蠢く!中国対日特務工作」 小学館 平成十九年刊

 仕込みを終えてから九段の法務局へ。

 ホロン部員Yさん来店。バンブーさん来店。Iさん二名様で来店。Oさん二名様で来店。二名様来店。Kさん二名様で来店。Yさん来店。

 ドンチャン。記憶なし。サル


 

「ソウルに刻まれた日本」関連

「朝鮮人強制連行の記録」にみる「関東大震災朝鮮人虐殺公権力陰謀説」

11月5日木曜日晴れ △ 

 昨日の日記に書いた熊谷正秀氏の著書「日本から観た朝鮮の歴史」(展転社 平成十六年刊)の中に出てくる三冊の朝鮮人が書いた著書のうち、あの悪名高い「朝鮮人強制連行の記録」だけが手元にありますが、それに関東大震災についてどのように書かれているか。

以下、

 弟、義兄、そしてその従兄弟など同僚十五人で、日本に「観光旅行」で来ていた時に、関東大震災に遭遇したという慎昌範氏(千葉県在住)の証言として、

九月一日、上野の「昭和旅館」にて昼食をとっている時に地震に遭う。

 二日、兵隊の配っていた握り飯で飢えを凌ぐ。

 三日の夜、「津波が来る」という怒鳴り声で、京成電車の鉄橋の上に避難する。

 四日、朝二時頃に「朝鮮人をつまみだせ」「朝鮮人を殺せ」という自警団の声が聞こえ、武装した自警団に近くにいた林善一という「荒川の堤防工事」で働いていた朝鮮人が日本刀によって斬り殺される。

 鉄橋から飛び降りて逃げる。

 五日、朝、自警団が三人乗った伝馬船をひっくり返して戦うが、もう一隻に乗った自警団に捕まる。

 日本刀にあっちこっち切られたり、竹槍で突かれ、気を失い、死体と思われて、足首を鳶口で引っ掛けられて、寺島警察署まで引きずられたのち死体置き場に放置される。

 弟は頭に八の字型の傷を受け、義兄は無傷で寺島警察署に収容される。

 巡査は、治療はおろか、水も飲ませるのを邪魔をした。

 弟の四、五日間にわたる水を飲ませてくれた事により、一週間後には目が見え始める。

 警察署は一切治療をしなかった。

 九月末になって、自分で歩ける者は千葉の習志野収容所に移されたが、重傷者だった慎昌範氏は警察に残される。

 寺島警察署には十月末までいる。

 その後、日赤病院に入れられるが、監視され患者同士の話を禁じられた。

 手当は、初めの二ヶ月は赤チンを日に一度ぬってくれるだけであった。

 左肩は骨が砕けているので、病院側は、腕の付け根から切り落とせば治りが早いとしつこく何度も言ったが、

私はもし切り落とすような事をしたら国にも帰れないし、自殺すると言い張りやっと免れた。

 「麻酔薬もなく」「手術が大変」で自殺したいような気持ちであった。

 顔や頭の傷は早く治った。

 竹槍で刺された右脇腹の傷口は、息をすればそこから空気がもれるような状態で、治療が長引いた。

 左手の小指は荒川堤防で日本刀でスッパリと、切り落とされたせいか、傷口はきれいになっていたが、日が経つにつれて痛みが増して来たが、医者や看護婦に訴えても相手にしてくれず、偉い医者が見回りに来た時に、痛くて、我慢できないから、何とかしてくれるように頼むと、その場で包帯を切る鋏で、乱暴に痛む所をブスッと切り裂いてしまった。裂いた傷口から大きなウジ虫が何匹か出て来ました。

 日赤病院といっても、このように被人道的扱いをされていたので、同じ病室で十六名中生き残ったのは九名だけでした。

 日赤病院から一年六ヶ月ぶりに退院し、朝鮮に「帰ってみる」と、故郷の居昌郡だけでも震災時に十二名も虐殺された事が判り、そのうち私の親類だけでも三名も殺されました。

 私の身体を一生涯不具にさせ、多くの同胞の生命を奪った日本帝国主義に対する憎しみは、一生忘れる事はないでしょう。

以上

「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植 未来社 昭和四十年刊)P二百二十九〜二百三十四

 時系列にこの慎昌範氏(千葉県在住)という朝鮮人の証言をハッショリながら書きましたが、このアホ朝鮮人は矛盾というものを知らないのだろうか。

 明治四十三年(千九百十年)の併合からたった十二年しか経っていない「大正」十二年に、十五人もの兄弟、義兄などで「観光旅行」に来て泊まっていたという裕福な朝鮮人である慎昌範氏は泊まっていたという「昭和旅館」で地震に遭遇したそうだが、「大正」十二年当時、「昭和」と名付けられた旅館は存在しうるのだろうか。

 明治時代に「大正○○」、大正時代に「昭和○○」、昭和時代に「平成○○」などと名付けられたものが存在するのであろうか。

 あと、九月五日に自警団に襲われ、日本刀と竹槍により、顔、頭、日本刀で切られたのに、その切り傷ではなく、骨が砕けて切断する手術を提示される程の左肩、息をすれば空気が漏れるほどの右脇腹など無数の傷をおい、気を失い死体と間違われる程の重傷であったのに、警察署においては何の手当もされずに十月末に日赤病院に移るまでの約二ヶ月間も放置され、その後の日赤病院においても赤チンを一日一度だけぬるだけで、治ってしまったというのも凄い。

 初期治療が大切というのは私のようなド素人でも知っています。

 それが、警察に二ヶ月治療もされずにいて、日赤病院に一年半も入院していたのですから、自警団に襲われてから、一年八ヶ月ぶりに外に出るような傷が、憎き日帝により赤チンをぬるだけで治ってしまったのですから、不死身ですね。

 まさに、ゴキブリ、ネズミ以上の生命力でしょうか。

 流石に、たった三十五年の日帝の醜い統治でも人口が倍以上に増える民族だけの事はあります。

 ところで、なんで、「観光旅行」に来て、「朝鮮に帰れなくなるから」と病院で言って手術を拒み、一旦は故郷の朝鮮半島に帰りながら、また殺されかけた日本の「千葉市在住」なんでっか? 

 強制連行でもされたんでっか?

 いくら鬼の日帝でも身体の不自由なものをわざわざ朝鮮から連れてこんでもよさそうなものですが。

 あほらし。

 

 慎昌範というアホ朝鮮人の証言?は、最近でもあの犯罪組織朝鮮総連系の「統一評論」平成二十年九号[第五百十五号]にて、「荒川土手で虐殺された多くの同胞」として掲載され、ウソを広めるのに活用されています。

 

 Sさん御友人夫妻と来店。小胡子さん来店。

 営業終了後、小胡子さんと高円寺のイタリアンへ。

 


「ソウルに刻まれた日本」

「関東大震災朝鮮人虐殺公権力陰謀説」と中塚明、青木裕司

11月4日水曜日晴れ 

 この「ソウルに刻まれた日本」には、関東大震災の時のいわゆる「朝鮮人虐殺」について下記のように書かれている。

<「朝鮮人が井戸の中に毒薬を入れた」、「朝鮮人が集結して火をつけて回った」などといって、罪のない数万名の朝鮮人を虐殺した。ところで、このような「朝鮮人暴動説」を流布させた張本人は、他でもない、当時内務大臣であった水野錬太郎であった。

 水野錬太郎は政務総監として、斉藤総督と一緒に京城に赴任し、南大門駅で姜義士の爆弾の洗礼を受けた。斉藤と共に無事であったが、彼はそのとき受けた衝撃と恨みがとても深く、朝鮮人に対する恨みを晴らす機会を狙っていた。

 そんな中、彼は内務大臣となり、関東大震災が起ると、その機会を利用して「朝鮮人暴動説」というとんでもないものをでっち上げたのである。

 これをそのまま信じた日本人は手当り次第に朝鮮人を殺傷した。虐殺は九月三日深夜から七日まで続いたのだが、当時これを目撃したある朝鮮人の証言によれば、殺傷はだいたい次のように行われた。

「初めから住所、氏名も聞かないまま、事の正否も聞かず、順々に引きずられて殺されていった。初めは銃で殺したが、銃声が付近一帯の民家に聞こえるのを恐れ、後には銃剣で刺し殺した。真っ暗な庭の中に、裸にして立てては、銃剣を両手で掴んで、兵丁fが、横ではもう一つのやや低めの声の号令によって何度も刺して・・・・・。このようにして、一つ一つの黒い影は、言葉なく倒れていった。」

 このようにして、虐殺された朝鮮人の数は一万名を超えるともいわれるが、いまだに正確な事はわかっていない。日本人ひとりの恨みが、数多い善良な朝鮮人の命を奪ったわけである。>

(同書p八十五〜八十六)

 

 

 手元に「台湾少年工と第二の故郷」(野口毅 展転社 平成十一年刊)という本がある。

 大東亜戦争末期に、志願により試験を受け台湾で選抜された八千四百名もの優秀な十五歳前後の少年たちが、高座海軍工廠において極地戦闘機「雷電」の製造に関わっていたが米軍の攻撃により五十二名の方々が犠牲になられた。

 この方々は靖國神社に英霊として祀られているが、靖國神社に確認をお願いした時に、二五〇万柱もの英霊の名簿の中より四十名が祀られていることが報告された野口氏は散華された台湾少年工が英霊として、靖國神社に祀られている事に涙を流されている。

 そして、散華されたすべての台湾少年工を靖國神社に英霊として合祀していただくために、氏名を確認する過程において、野口氏は著書に我が国の役人の優秀さと戦時中というにもかかわらずその記録の保存の確かさについて書いている。

 

 鄭雲鉉氏は、水野錬太郎内務大臣が「朝鮮人暴動説をでっちあげた」と書いているが、そうであれば、当然、何かその証拠なり、記録が残っているということになるが、この鄭という朝鮮人はそれを確認したのであろうか。

 何も確認せずにこのような事を書くのであれば、アホウとしか言いようがない。

 まあ、これと同じような記述が「これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史」(中塚明 高文研 平成十四年 )などにも見られます。

<日本の支配者は、日本人の労働者と朝鮮人の労働者が、どんな形にせよ、手を取り合い腕を組むことを非常に恐れました。

 あらゆる機会をとらえて、日本人には朝鮮人を軽蔑し、差別する思想を植え付け、日本人と朝鮮人を敵対させようと計ったのです。

 一九二二年(大正十三年)九月、関東大震災が起りました。地震と火災で数百万人が路頭に放り出され、死者・負傷者が続出しました。

 そのとき朝鮮人が暴動を起こしたとか、井戸に毒を投げ入れて日本人を殺そうとしているなどのうわさがひろまりました。根拠のないデマ・流言でした。日本政府は軍隊を出して警戒を厳しくすると同時に、「朝鮮人暴動」のうわさが事実無根であることを知りながら、それをはっきりと打ち消しませんでした。そればかりか、かえってそのデマを助長し、軍隊・警察が一体となって、多数の朝鮮人を逮捕し殺害したのです。それにあおられた一般の日本人も、各地で自警団をつくり、見境もなく朝鮮人を虐殺したのです>

(私は「日本から観た朝鮮の歴史」(熊谷正秀 展転社 平成十六年刊)P二百十四より引用

 この中塚明氏も同じく、日本人と朝鮮人が対立する事による施政の利点というものはなんであるかという事が書かれていないし、具体的なその証拠も何も提示されていない。

 このような中塚明氏の文書に対し、熊谷正秀氏は、

<「関東大震災」(姜徳相 中央公論社 昭和五十年刊)、「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」(姜徳相・琴 みすず書房 昭和三十八年刊)、「朝鮮人強制連行の記録」(朴慶植 未来社 昭和四十年刊)には「震災の混乱の中で自然発生的にデマがながれたのではなく、日本政府関係者があえてデマを流し、朝鮮人を殺害した」と記述されている。

 これらの書物は、関東大震災時の朝鮮人虐殺について様々な論文・テキストで引用されている。しかし、野牧雅子氏は、「関東大震災朝鮮人虐殺説への重大な疑問」(「現代コリア第四百十九号」平成十四年P六十七〜六十八)で、「関東大震災」及び「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」は、筆者が引用文を部分的に削除して自分の解釈に合わせて本来の意味を歪曲しているといくつかの例をあげて批判している。

 また、デマを故意に流したかについて、姜徳相氏が「権力が戒厳施行の名文として朝鮮人蜂起を利用し、流布し、国民の不満を凶悪な排外心にすりかえるため」としているのに対し、野牧氏は、そのような証拠が全くない上、震災時に発動された戒厳令は「軍事戒厳」ではなく、「行政戒厳」であることを指摘し、戒厳令発動決定の条件にデマは不要であったと反論している。

 さらに、当時、一般の日本人や官側が朝鮮人をかばった話だけでなく、警察によって朝鮮人保護活動が組織的に行われていた事、関東戒厳司令部がまとめた調査票からも兵隊や巡査が朝鮮人を殺害した例はあるものの、それらは秩序を守るために行った単発の行為であること、刑務所に収監されていた囚人(朝鮮人を含む)が震災直後に解放されるや否や略奪をはたらいたこと、など具体的な例をいくつかあげている。>

(「日本から観た朝鮮の歴史」P二百十五〜二百十七)

 随分前にその内容のアホさを指摘しました「知識ゼロからの日本・中国・朝鮮近代史」(青木裕司 玄冬舎 平成十六年刊)には「関東大震災と朝鮮人虐殺」のところにしっかりと、「公権力があおったパニック、その悲惨な結末」として「現代史資料六 関東大震災と朝鮮人」(姜徳相他編 みすず書房P百四十五)よりの引用と明示しています。

 青木氏も、その背景として中塚氏と同じく水平社などと結びつく可能性などをあげています。

 中塚氏、青木氏両名とも、当時の新聞などからでも得られる程度の情報である関東大震災時の大混乱の中、朝鮮人の集団が日本兵、日本人を多数殺害した事実には一切ふれない。

 アホかと言いたい。

 ロス暴動の時にどうして朝鮮人が狙われたか。朝鮮人に問題があったからだ。

 背景を隠し、自分たちは何も悪くないといかにも被害者面をする。今の多くの朝鮮人と同じだ。

 ところで、関東大震災のあった年に我が国にいた朝鮮人は八万六百十七人という当時の内務省警保局の統計がある。日本全国で八万人の朝鮮人のうち数万人も殺す・・・・・

 南京の三〇万人虐殺と同じですな。流石は小中華を自認する民族です。

あほらし。

 ちなみに、この中塚明という人は、平成一三年七月七日に開かれた<「国民連合」主催の「7.7集会」−一日も早く日朝国交正常化を!>という集会において、「南北共同声明一周年と日朝関係の正しい歴史認識を」という題で講義し、その講義後、の北朝鮮による「拉致」被害者家族連絡会の増元照明氏の「拉致問題に関し如何お考えでしょう?」の質問に対し、「拉致そのものの証拠、根拠は?」と宣い、「シン.ガンス事案」と「李恩恵事案」をあげて説明した増元氏に対し、中塚氏は「もしそれが軍事政権下の裁判であったなら信頼性にかけますね」とほざいています。

続く

 仕込みを終えてから、月曜日にパテで補修してあった皿のペーパーがけ。

 Nさん四名様で来店。Nさん二名様で来店。Oさん来店。

 一通り飲むが、今日はしっかと記憶あり。珍しい・・・・・


「ソウルに刻まれた日本」

11月3日火曜日晴れ ○

 「ソウルに刻まれた日本」(鄭雲鉉著 武井一訳 桐書房)という平成十一年に出されたこの本を読んだときに、まず最初に驚いたのは、創始改名について、やっと、十年前に鄭氏が翻訳した本が南朝鮮で「初めて」出版された事を知ったことでした。それも、我が国で出版された本の翻訳という形で。

 この鄭氏が「創始改名」という我が国の本を翻訳するまで、朝鮮人が騒いでいる創始改名について、朝鮮では単一の主題として扱ったものは、「日帝下の創始改名」(「月刊中央」七十六年六月号 金東鎬)のみで、他には学術論文、研究論文を問わず、ただの一編もなかったことが書かれている。(同書p二十四)

 それまで、朝鮮では創始改名についての書物が出されていなかったばかりでなく、研究さへされてなかったのである。

 朝鮮人連中が気違いのように騒いでいる事項にしても、所詮此の程度なのである。

 感情論でものをいい、考えようともしない、知ろうともしない。

 我が国の教科書問題についても、読みもしないくせに、「読まなくともわかる」と宣うアホウどもと同じである。

 この本の著者である鄭雲鉉氏も、そのような、どうしようもないアホウ朝鮮人の一人である。

 この本は、我が国の朝鮮半島統治もおける建築物から言葉まで、現在も朝鮮に残る日本統治の影響とされるものについて背景などいろいろ書いていますが、それについての解釈が、人間どうすればここまで歪んでみることができるのだろうと思われる書き方ばかりです。

 一九五九年生まれの戦後世代である鄭氏は、いわゆる「親日派」追求に余念のない方で著書には「親日派罪状記」などもあります。

 鄭氏はたとえば、鉄道にしても「韓国人とともにあったソウル駅」として

<植民地時代は物資収奪と大陸侵略の前哨基地として、戦後の激動期には民族受難の場として、そして産業化が始まる頃には庶民の哀感が交差した生の現場として、つねにわれわれと一緒であった>P六七〜六八

と書き、我が国の鉄道建設について

<きっぱり言って断じて違う。彼らはもっぱら自分達の野望を(効果的にも能率的にも)実現するために無理をしながら、この地に橋を架け、鉄道を造った>

 そこまで我が国の朝鮮半島においての施政が気に入らないのであれば、鉄道も橋も道路も旧帝大であるソウル大学もなにもかもすべてぶっ壊し、ハングルを捨て、漢字中心に戻し、四割が奴隷の世界最貧国であった李朝時代よりやり直せばいいのに、そうはしないのです。

 

 「大学まで十二年間歴史を学び、個人的にすでに何年も近・現代史の勉強をしている私にしても、この文書は大変な衝撃であった」

 これは、中野茂樹氏が南朝鮮に残っている我が国の統治時代の建物の写真展をソウルでやった時にパンフレットに書かれていた、

「歴史は本の中にだけあるのではない」という言葉に対しての此の本の著者鄭雲鉉氏の言葉である。

 十二年歴史をたって、小中高で十二年ですがな。それだけでなく、朝鮮神宮の存在さへ知らなかったと書いている。近代史、現代史を「勉強している」のに・・・・・

続く

 今日も筋肉痛。

 部屋からはゴミ出し以外に出なかったので、部屋にある食い物が何も無くなる。

 酒は飲まず。


皿の修理

11月2日月曜日晴れのち雨 ○

 店を片付けてから、昨日買って来たパテなどで、欠けた皿の修理をやってみることにする。

 こういうのはやっぱり面白い。

 

 パテは二十四時間ほど時間が経った方が良いそうなので、そのままにして帰宅。

 今日はやっぱり筋肉痛。

 朝までゴロゴロと本を読んでから寝る。

 酒は飲まず。


11月1日日曜日 晴れのち雨 ×××

 新宿の東急ハンズにて、エポキシパテ、接着剤、紙ヤスリ、トイレのフロートバルブなどを購入。

 久しぶりに来たが、いろいろと面白いものがあり飽きない。

 午後より久しぶりにスポーツセンターに行く。

 帰りに芳林堂さんに寄り雑誌を購入。

 

 夜は当店にて、千鶴子さん、姫、マルガリータさん、Sさんとドンチャン。

 記憶はなし。サル・・・・・・・・

 



表紙にもどる