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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます

10月2日に「飲んべえ日記9月分」、10月27日に「飲んべえ日記10月分」が消えてしまいました。少しずつでも、できるだけ復旧させたく思っております。


11月1日日曜日 晴れのち雨 ×××

 新宿の東急ハンズにて、エポキシパテ、接着剤、紙ヤスリ、トイレのフロートバルブなどを購入。

 久しぶりに来たが、いろいろと面白いものがあり飽きない。

 午後より久しぶりにスポーツセンターに行く。

 帰りに芳林堂さんに寄り雑誌を購入。

 

 夜は当店にて、千鶴子さん、姫、マルガリータさん、Sさんとドンチャン。

 記憶はなし。サル・・・・・・・・

 


10月31日土曜日晴れ △

 Mさん二名様で来店。山口よりFさん来店。

 遅い時間、本当に遅い時間に金ちゃん、リエちゃん、マロさん来店。

 シャトージレットを開ける。一九七〇年のジレットはそれなりに飲んだと思うが、このボトルはその中でも最高のバランスだったと思います。

 今日は記憶あり。


10月30日金曜日晴れ ××

 夕方より、へべれけさんが来てくださり昨日に続き、パソコンの復旧作業。

 

 バンブーさん来店。Iさん来店。Kさん二名様で来店。Mさん二名様で来店。香港から姫、千鶴子さん三名様で来店。マルガリータさん、Sさんと合流しドンチャン。Sくん二名様で来店。インチキラクターさん来店。

 インチキラクターさんの再就職祝いということで???でこれまたドンチャン。インチキラクターさんは結局失業手当を貰わずに就職ができた。派遣村とかでたむろして、「職を寄越せ」「住居を寄越せ」「給料を」と騒いでいたアホウどもとはえらい違い。

 営業終了後、インチキラクターさんと「エムズバー」さんにおじゃまする。

 記憶ありとおもったが、やっぱりなかった・・・・・・


10月29日木曜日晴れ ×

 今日、河岸から帰って来て、日記を更新しようとしたら、消えてしまう・・・・

 唖然・・・・・・

 それだけでなく、USBメモリーのホームページ関係のデーターも消えてしまう。

 大慌てで、へべれけさんに電話。

 困った時のへべれけ頼り。

 

 結局、夜中まで一生懸命復旧作業を続けてくださり、なんとかメドが立つ。

 Hさん二名様で来店。一名様来店。Kさん来店。Tさん来店。Mさん二名様で来店。一名様来店。二名様来店。二名様来店。Oさん御夫妻来店。

大忙し。ドンチャン。

 記憶はあったように思うけど・・・・・


靖國神社へ

10月28日水曜日晴れ×

 今日は河岸が休み。

 午後より、九段下にある東京法務局に行く。

 司法書士にお願いすれば済む事だが、ちょっといろいろと調べたり面白そうなので、自分でできるだけのことはやってみる事にする。

 その帰りに、久しぶりに靖國神社へ。

 

 カトリーヌさん二名様で来店。土曜日の離日まで、ホテルに滞在されるそう。

 Mさん四名様で来店。一名様来店。

 営業終了後、Mさんと高田馬場にて、ラーメンと餃子とビール。健康に悪そう・・・・・・

 今日は記憶はありました。


中日友好協会の実態と張香山

10月27日火曜日晴れ ×

 「民間団体」の中日友好協会の実態は、支那共産党の対外組織「中央連絡部(中連)」のダミーであることは、先の佐川急便の中古トラックの例をみても明らかである。

 冷戦当時、日本共産党、社会党左派と密接なつながりを持ち、対日工作を行っていたが、現在もその本質は変わっていない。

 当然、中日友好協会の幹部には、中央連絡部の幹部が少なからず配置されている。張香山もその一人である。

(「中国の黒いワナ」P50〜)

 日本のためにならない事に一生懸命の加藤紘一氏は、著書「テロルの真犯人」(講談社 平成十八年刊)の中で、

<中国外交部の顧問を長く務め、日中関係についての根本理論を作ったとされる張香山氏が、三十年前から「責任があるのは限られたA級戦犯だけでいい。BC級戦犯でさえ私達は被害者だと思っている」と言っています。それ以来、中国当局の姿勢は変わっていません。>

 同書P四十一

 (加藤氏は平成十八年七月発売の月刊「文藝春秋」の上坂冬子氏との対談よりの引用として「テロルの真犯人」に掲載しているが、私は「テロルの真犯人」より引用)

 と、張香山の名前を具体的に挙げている。

 

 張香山は、昭和二十五年一月七日、支那共産党の機関誌「人民日報」における「日本人民開放の道」と題した社説において、平和革命論を提唱した日本共産党最高指導者・野坂参三に対して、武力革命をうながす、支那共産党からの「指示」文書の執筆者が、毛沢東から指示されたこの張香山であることを書いている。(「中国の黒いワナ」青木直人 別冊宝島 平成十九年刊P五十一〜二)

 そして、昭和二十五年六月に朝鮮戦争が勃発後に、日本共産党は徳田球一書記長のもと、昭和二十六年一月「第四回全国協議会」において、

「在日少数民族との連携を強化する方針」を打ち出し、武力革命の準備と武装強化が決定される。

 

続いて、昭和二十六年十月「第五回全国協議会」において、

「日本の開放と民主的改革を平和的手段によって達成しうると考えるのは間違いである」として、武力革命をめざす「五十一年綱領」を打ち出す。

 共産党は戦後、我が国全土で戦勝民気取りで暴虐のかぎりを尽くしていた朝鮮人、そしてその団体である在日朝鮮人連盟(朝連)と結びつく。

 同じく、暴虐の限りを尽くしていた朝鮮人の中で、その後できた反共である在日朝鮮建国促進青年同盟(健青)ができ、翌年、新朝鮮建設同盟が結成されると、朝連との間で血で血を洗う抗争が繰り広げられる。

 朝鮮人同士の内ゲバは、昭和二十七だけでも死傷者七十五人を数えた。

 朝鮮戦争が勃発すると、在日朝鮮人の中で北朝鮮を支持する日本共産党員を中心に、「祖国防衛中央委員会」(祖防委)が結成され、その戦闘部隊として「祖国防衛隊」(祖防隊)が結成された。

 この「祖国防衛中央委員会」の中央委員を日本共産党中央委員会民族対策本部(民対)が兼任したことで、わかるように、朝鮮人の「祖国防衛中央委員会」の実権は、実質的には日本共産党が握っていた。

 祖国防衛委員会が結成されると同時に、「在日朝鮮民主党統一戦線」(民戦)が作られている。

 日本共産党の祖防隊が非合法組織として地下活動を行っている間、民戦は表立って活動していた。

 

 支那共産党の指示により、武装革命を目指した日本共産党は数々の暴動、事件を起こす。

 昭和二十七年五月一日、朝鮮戦争の後方撹乱工作として、皇居前広場に於いて「血のメーデー事件」(日本人百八十七名、朝鮮人百四十名逮捕。死者二名)

 昭和二十七年六月二十五日、日本共産党の指令により、竹槍、棍棒、火炎瓶などで武装した日本共産党中核自衛隊、在日の祖国防衛隊が中心となった日本人、朝鮮人千数百名が、朝鮮向け軍事輸送拠点のひとつである国鉄吹田駅操車場に乱入。

 その在日朝鮮人の共産党員は、北朝鮮本国よりの離脱命令により朝鮮総連・朝鮮労働党秘密党員(学習組)となり、朝鮮総連は北朝鮮の出先機関としてありとあらゆる非合法活動を忠実に遂行して行く。

(「嫌韓流の真実 在日特権」別冊宝島 平成十八年刊 P八十七〜九十)

 日本共産党の徳田球一ら最高指導者は、地下に潜行、日本海から「人民艦隊」と呼ばれた密航船にて支那に渡り、毛沢東らの庇護の基、支那で一生を終えている。

 

 張香山は、この徳田ら日本共産党幹部の亡命、その後の支那での生活にも直接関与している。

 それは、中央連絡部の幹部の一人としてである。

 張香山はこのように、支那共産党の我が国における地下活動を含む謀略的革命工作の責任者であった。

(「中国の黒いワナ」P五十二)

 張香山とはこのような立場にあった支那人なのです。

 この頁続く

 

 Nさん三名様で来店。一名様来店。お仕事で秋田からいらしてそう。Kくん、Kさんと来店。マロさん来店。

 営業中から飲み始め、営業終了後、Kくん、マロさんと開店したばかりの「ラ・シャンパーニュ」へ。

 今日は記憶ありとおもったが、やっぱ、飛んでる・・・・・サル・・・・


支那における知日派とは

10月26日月曜日雨 ○

 先日、下記のような記事が産經新聞に掲載されていた。

以下引用

蜜月築いた元外交官2人死去 中国、消える知日派 援助減り欧米派台頭

10月20日7時56分配信産經新聞

 【北京=矢板明夫】今月に入り、中国では知日派の2人の元外交官が相次いで死去した。80年代の「日中蜜月時代」を築いたこの2人の死は、欧米派が台頭し知日派が後退している中国政府の現状を象徴しているようだ。

 元外交官は、1972年の日中国交正常化に尽力した元共産党対外連絡部副部長の張香山氏(95)と、中日友好協会副会長の肖向前氏(91)。張氏は、鳩山由紀夫首相が就任後、初めて中国を訪問し胡錦濤国家主席と会談した10日に死去。その5日後に肖氏も他界した。

 2人は30年代に日本に留学し、東京高等師範学校(現筑波大学)で学んだ。帰国後、共産党に入党し、張氏は党、肖氏は外務省でそれぞれ対日工作を担当した。日本との国交正常化は新中国の外交の最も重要な課題の一つだった。このため、2人は周恩来首相と廖承志氏(後の党政治局員)から直接指導を受け、日中間の民間交流や貿易などを担当した。

 66年に始まった文化大革命で、肖氏は「日本のスパイ」との容疑をかけられ、強制労働に送られるなど迫害を受けた。中央に復帰したのは71年のことだ。

 翌年の田中角栄首相の訪中を実現させるため、2人は日中間を頻繁に往来し、連絡役と中国側の交渉窓口として動いた。その後約20年間、日中交流の第一線で大きな影響力を発揮し、84年に「日中友好時代」の象徴といわれる3000人の日本青年の中国訪問という大事業も手がけた。

 知日派の後輩育成にも力を注いだ。のちに外相、国務委員となった唐家●氏や、前駐日中国大使で現在は台湾弁公室主任(閣僚)の王毅氏、外務次官の武大偉氏らだ。彼らは張、肖両氏の“弟子”にあたる。

 「2人が最も活躍した70、80年代の日本と中国は特別な関係にあった」とある日中関係者は指摘する。日本は中国に歴史問題で謝罪し、資金、技術供与を繰り返す時代だった。教科書問題や台湾問題など一時、対立もあった。「対日交渉の際、肖氏は表で交渉し、張氏は裏で根回しをする。実に見事連係プレーだった」と別の関係者は振り返る。

 中国の改革・開放の成功は日本の助けによるところが大きい。日本の援助を多く引き出したことで、中国外務省における知日派の影響力は大きくなり、外相、次官を多く輩出した。しかし、2000年以後、日本の対中援助が減少するにつれ、中国外交は米国中心にシフトしはじめた。

 03年に知日派の唐家●外相が国務委員に転じたあと、外相は駐米大使経験者のポストとなった。現在の崔天凱駐日大使も楊燕怡アジア局長も欧米派だ。来年までに引退するといわれている武大偉次官を除いては、主要幹部の中に知日派はいない。

 こうした状況は今後、日中の外交関係に少なからず影響をおよぼすことになるとみられる。

引用終わり

そして、他社にも下記のような同様の記事がある。

知日派の死に広がる悲しみ=「日本組」幹部、最後の一人−中国

10月16日16時7分 時事通信

 【北京時事】中国共産党対外連絡部副部長を務めた張香山氏が10日死去したのに続いて、中日友好協会副会長の肖向前氏も15日に他界した。日中国交正常化に貢献した知日派の元外交官の相次ぐ死に、関係者の間では「中日関係を戦略的互恵関係に発展させる大事な時期に大切な先輩を失った」と悲しみが広がった。

 国交正常化前から周恩来首相(当時)は国務院外事弁公室の日本担当とは別に、廖承志氏(後の党政治局員)をトップに、各部署から日本研究の専門家ら20〜30人を集めて「日本組」を組織。張氏と肖氏は孫平化氏(元中日友好協会長)、王暁雲氏(元駐日公使)らと並ぶ幹部だった。廖氏と高碕達之助氏の名前を取った「LT貿易」から民間事務所の相互設置、上海舞劇団や卓球選手団を率いて訪日するなど、日本組の幹部たちが国交正常化への地ならしを進めた。 

最終更新:10月16日16時7分

肖向前氏死去=中日友好協会副会長

10月16日12時32分 時事通信

 【北京時事】中国の知日派外交官として、1972年の国交正常化時に日本に駐在、連絡役を務めた中日友好協会副会長の肖向前(しょう・こうぜん)氏が15日、肺炎のため北京市の病院で死去した。91歳だった。告別式の日取りは未定。

 奉天省(現遼寧省)生まれ。38年から日本に留学、東京高等師範学校(現筑波大学)などで学んだ。52年から対日外交を担当し、国交正常化直前に東京で田中角栄首相や大平正芳外相(いずれも当時)らと協議した。 

最終更新:10月16日12時40分

<訃報>張香山さん95歳=元中国国際交流協会副会長

10月13日10時32分 毎日新聞

 張香山さん95歳(ちょう・こうざん=元中国国際交流協会副会長)中国共産党対外連絡部によると、10日、心不全のため北京市内の病院で死去。葬儀は16日午前9時(日本時間同10時)、同市の八宝山革命公墓。

 中国の知日派外交官として日中国交正常化(72年)など日中友好に貢献し、92年に日本政府から勲一等瑞宝章が贈られた。【中国総局】

日中友好の功労者が死去、「日中関係に重要な人を失った」

10月19日14時16分配信サーチナ

 中国国際放送局によると、心不全のため北京で死去した張香山氏(元中日友好協会副会長、95歳)の葬儀がこのほど、北京の八宝山革命公墓で行われた。

 張氏は1914年、浙江省寧波生まれ。天津中日学院や東京高等師範学校(現筑波大学)で学び、新中国建国後は対日本関係の仕事を担当し、日中国交正常化交渉に外交部顧問として参加したほか、両国政府の『共同声明』の起草にも参画した。また、中国共産党対外連絡部副部長や中国国際交流協会副会長、中日友好協会副会長のほか、日中友好21世紀委員会の中国側座長などを歴任し、1992年には日本政府から勲一等瑞宝章を贈られた。

略)

 なお、共同通信、朝日新聞など日本の主要メディアはいずれも張氏の死を伝え、中でも、時事通信は河野洋平前衆院議長の話として、「日中関係で非常に重要な一人を失った」と報じた。

略)

(編集担当:村山健二)

引用終わり

 私には、この記事において言おうとしている意味が理解出来ない。

 我が国と支那中共はいびつな関係であったのは、産經新聞も書く通りである。そのいびつな関係を工作し、導いたのは支那に於けるいわゆる「知日派」と言われる連中である。

 そして、今、我が国からの援助が減った事により、米国にその矛先が向いているのは結構な事ではないか。

 それとも、我が国に核を向けられたまま、援助を継続しろとでも言うのであろうか。

 ましてや、支那にとって、あらゆる工作により、我が国の中にいわゆる「親中派」「媚中派」という人間を作り出し、組み易くするという我が国に対する基本的な姿勢に変わりはないであろう。

 

 

 そもそも、産經新聞を初めとし、他のマスコミも書いていないが、河野洋平氏がその死を悼んでいる張香山という人物はどういう人物であるか。肖向前という人物はどういう人物であるか。そして、その属していた組織中日友好協会とはどういう組織であるか。

 中日友好協会が誕生したのは、昭和三十八年(一九六三年)十月である。対日関係改善を目的として周恩来首相の指導の下に民間往来の発展と必要性から創設された」と同協会のホームページに記されている。

 その「民間団体」である中日友好協会は、佐川急便が支那全土に中古トラックを寄付するために、「財団法人・佐川国際経済協力会」(渡辺広康佐川元社長が理事に就任)を昭和六十一年に設立した。財団の基本財産一〇億円は全額、東京佐川が負担した。

 財団法人設立の申請がわずか二十一日間しかかかっていない。「特定公益増進法人」に認定され、寄付をする企業や個人は税法上優遇措置を受ける事が出来るなど、異例かつ迅速な対応で認可され優遇されている。

 以後、佐川急便は年間四百台にものぼる中古トラックを寄付し続けているが、この支那側受け入れ窓口は「中日友好協会」であるが、この時の経緯を週刊ポストが「トラック援助は中国側が竹下登元首相らに強く働きかけ、竹下氏などからの要請を受けて、渡辺元社長が実現した」と平成四年二月二十一日号に書いている。

 この中古トラックは、横流しされ、日本円換算で一五〇万円程度で支那国内に流通している。

 

 同じ頃、我が国の某総合商社に対しても、中日友好協会から中古自動車のカンパの依頼がされている。

 依頼主は人民解放軍のドンである王震であり、同時に「中日友好協会」の名誉会長と解放軍の総政治部に所属する「中国国際友好連絡会」の名誉会長を兼任する人物であった。

(「中国利権の真相」P百十一〜百十二)

 「民間団体」の「中日友好協会」とは、我が国と中共支那とが国交正常化当時から、対日外交を牛耳って来た「民間団体」であり、支那政府の正式な「外交機関」である。

 我が国側の受け入れ機関として「日中友好協会」がある。この日中友好協会の現会長は加藤紘一氏であり、村山富市氏が名誉顧問、元名誉顧問は野中広務氏であることを思えば、この会の性格がおのずと見えてくる。

 現実に、会長に就任する前から加藤紘一氏の支那側の最大コネクションであったのは、この中日友好協会の長老指導者たちであった。

 そのひとりが顧問である張香山である。

 

この頁続く

 今日は、別にすることも無く、雨だし外に出る気にもならず一日中部屋にいた。

 恵隆之介氏の「昭和天皇の艦長」(産經新聞出版)、「ソウルに刻まれた日本」(鄭雲鉉著 武井一訳 桐書房)を読む。それぞれ面白かった。ただ、その意味が全然違いますが。

 今日は酒を飲まず。


東京競馬場来賓室

10月25日日曜日雨のち曇り △

 朝起きて、スーツに着替えて京王線に乗り東京競馬場へ。

 スーツを着るのは冠婚葬祭以外だと靖國神社の昇殿参拝など数える程。

 十一時に府中競馬正門前駅で、Nさん、マロさんと待ち合わせて、当店のお客様であるSくんのご好意により、ビール片手に東京競馬場のVIPルームでの競馬観戦。

 少し遅れて、Iさん御参加。

 受付にて、申請してある氏名を確認後、八階へ。

 食事を終えた後、これまたSさんのご好意によりパドックに案内していただく。

 レースに関しては、みなさん、それなりに真剣、そして夢中。

 戦績は、Iさんが一番よかったようで、私はかすりもしなかったが、百円づつ賭けても何とも楽しい一日でした。

 Sくん、ありがとうございました。


10月24日土曜日くもりのち雨 ○

 午後からスポーツセンターに行く。今月初めてなので前回より二十四日あいていることになる。

 トレーナーの人や常連さんのみなさんから、「久しぶりですね」と声をかけられる。

 スポーツセンターに行かない間に体重が三キロ落ち、現在六十九キロ。

 おかげで、ベンチプレスの時にすべてのウエイトがいつもより重く感じた。

 三週間以上間隔があいたのと、三キロの体重減はやはり大きい。

 スポーツセンターがある公園の一部で、「新宿アジアの祭り」とかいうのをやっていたので、のぞいてみる。

 南インド地方の舞踊などが披露され、いくつかお店もでていましたが、お約束の旨そうでない朝鮮料理はともかくとして、メキシコがいつからアジアになったのだ?

 メキシコは、個人的には、いい思い出ばかりだし、大好きだが・・・・・・

 

 芳林堂さんにより数冊雑誌などを購入後に、地下にあるトンカツ屋さんにて飯を食う。

 今日も昨日に引き続き、ヒマ。

  Cさん二名様で来店。

 のみ。

 今日も飲まず。丁度三週間、21日め。明日から飲む!


 10月23日金曜日晴れ ○

 世間一般にはお給料日のところが多い日なので、水商売は忙しい日でしょうが、当店はヒマ。

 遅い時間に小胡子さん来店。

 のみ。

 あぶなかった。今年、三回めのオチャピーになるところでした。

 今日も飲まず。二十日め。


新天地

10月22日木曜日晴れ○

 今日、産經新聞の福島香織さんのブログを見ていたら、急に退社することが書かれている。

 http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/

 福島氏といえば、産經新聞支那・北京総局に勤務している時に「あぶない中国点撃(クリック)!福島香織の北京趣聞博客(ぺきんこねたぶろぐ)」を出版したり、北京オリンピックの前にはチベット問題など、支那政府の痛いところを容赦なく?暴露していたこともあり、平成十九年暮れには、その支那政府のいじわる?により、ビザ延長を止められ、

http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/433525/

 産經新聞の記事になるなどいろいろと私にとり、非常に好きな新聞記者さんでした。

 その福島氏が、ブログによると初めての失業経験ですと書いているような退社・・・・・・・

 福島氏の才能を十二分に活かせる新天地での活躍を祈ってやみません。

 遠くからいらしてくださっているお客様のおひとりであるKさん来店。通風が発症し、大変だったそう。

 Iさん四名様で来店。マロさん来店。Tさん来店。Oさん三名様で来店。

 遅い時間にカトリーヌさん三名様で来店。

 カトリーヌさんは、当店にとり、一番近い常連様であり、某国観光局長の地位にある。

 そして、日本大好きで、飛騨高山は「私の第二の故郷」といい、二十回以上尋ねているというカトリーヌさんが、急にインドに赴任が決まり、一週間後には日本を立つそうで、そのお忙しい中いらしてくださり感謝。

 今日も飲まず。十九日め。


 朝日新聞によりこうやって歴史は歪められて行く

「朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争」のウソ朝鮮統治

10月21日水曜日晴れ ○

 「朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争」には植民地下の朝鮮として支配の真実として下記のような事が写真とともに掲載されています。

創始改名

<「後悔スル」と圧迫

 朝鮮民族は結婚しても姓はそのままだ。先祖から受け継いだ姓を変えるのは「祖先の骨を売り渡す」(姜在彦・元花園大学教授)に等しい。

 日本は朝鮮の民衆にそれを迫り、民族名を奪った。

 民法にあたる朝鮮民事令が改正され、四十年二月から半年のうちに日本の家族制度に習った新たな「氏」を届けるように求めた。

 「即刻届出」を呼びかける当時の大邸地方院の文書に「強制」を示す明確な文言はないが、「内地式氏ヲ設定シナカツタコトヲ却テ後悔スルコトニナルダラウト思ハレマス」などと心理的な圧迫を加えた。

 在日朝鮮人の詩人金時鐘さん(七十八)は「慇懃なる脅迫」と表現する。

 当時は済州島の尋常小学生。日本人教師は創氏改名に応じない子どもに「家に帰って日本名を持って来い」としかり、授業を受けさせなかった。

「親たちはしぶしぶ応じざるをえなかった」

 期限までに八割が届け出た。届け出がなくても「戸主ノ姓ヲ以テ氏トス」(朝鮮民事令付則)とされた。

「創氏」は事実上、強制だった。>

p百五十二〜百五十三

これらについては当ホームページで散々書いてきましたのでそちらをご覧下さい。

 ただ、日本語を強要・・・アホか。日本と朝鮮は併合したのであり、それにより統治国の言葉を学ぶのは当たり前だろう。それよりも愚民政策をとらずに教育を受けることができたことを喜ぶべきであり、我が国の統治が無ければいまの朝鮮が無い事を肝に命じるべきである。 ハングル文字が普及したのは我が国の統治においてだし、朝鮮語辞書は我が国が作る迄なかったものです。

 日清戦争で我が国が破れていれば、我が国国民は支那語を、日露戦争で我が国が敗れていれば、ロシア語を我が国国民は学ばされていただろう。

 その支那あるいはロシアの支配下で今の朝鮮があったと思っているのであろうか。

 我が国に統治されて発展した台湾と同じ面積を持つ支那に統治され続けた地下資源の宝庫である海南島の発展の違いの差を少しは考えるべきだろう。

 創氏改名については私自身も朝鮮の人々への歴史、伝統への侵害だとは思います。しかし、創氏改名を騒いでいる朝鮮人はどうしてそんなに大切なはずの名前が「支那」風になったり「モンゴル」風になったり、そして今また「支那」風なんでしょう。

 我が国が統治する迄にも全ての朝鮮人の皆様にその大切な氏があったのでしょうか。

 「強制」したとして、したのは日本人がすべてでしょうか?

 その「強制」した役人、教師の何割が日本人でしたのでしょう。

 強制されたといっているが、日本名に改名しなくて何か罰則があったのですか?

 改名しなかった二十一%の朝鮮人の人たちの不利益について「具体的」に教えていただきたいものです。

 朝鮮総督府は、朝鮮人が勝手に日本名を名乗らないように、朝鮮併合直後の一九一一年一一月に日本式の氏(姓)を禁ずる、朝鮮総督府令第一二四号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を定めているのはどうしてでしょう。

 名に関しては、日本式の名を新生児のみ例外的に認めたのは一九三七年であるのはどうしてでしょう。

 あと、「戦後、我が国に勝手に来た」朝鮮人が日本名を「勝手」に名乗っているのも日本人に強制されたせいでしょうか。

 通名という偽名を名乗っている朝鮮人の人たちには、ぜひお答えいただきたいものです。

 

 あと、朝鮮併合は明治四十三年から昭和二十年までの三十五年弱であるが、「日本語教育優先」「創氏改名」「皇民化教育」等と言われるものは支那事変、大東亜戦争などのいわゆる国家としての非常時において採用されたものである。

 残り二十七年はそのような事がなかったのです。

 では、このような事は、その後、希望として朝鮮人から出て来る可能性はなかったのだろうか。

 

 下記のコラムは、この本の中に書かれている内容で私が唯一評価するものです。

そのため全文を掲載させていただきます。

以下引用

 コラム

<過去清算へ「親日派」追求

 「親日派」。日本植民地支配への協力者をさす。韓国では、民間の手で「親日派」の掘り起こしと責任追及が続いて来た。

 草分けが、一九九一年に出来た市民団体「民間民族研究所」だ。韓国内外に約五千人の会員がおり、研究スタッフが資料や関係者の証言を集めている。

「親日派人名事典」の作成にも取り組んでおり「庚戌國恥」(併合)から百年となる二千十年までに全十一巻を刊行する予定だ。

 それにしても、なぜいま「親日派」の掘り起こしが必要なのか。

 同研究所の趙世烈・事務局長は「日本人は疑問に思うでしょうが」と前置きし、こう説明した。

「韓国では解放後も植民地時代の支配構造を引きずった。過去を自由に見渡せる世代が社会の軸となり、ようやく過去の清算ができるようになったのです」

 米ソ冷戦下、「親日派」の調査と処罰は一部にとどまり、解放前の支配層が官僚機構や軍、警察に登用された。六十〜七十年代に軍事独裁政権を敷いた朴正煕元大統領は日本の陸軍士官学校を出た。

 韓国の民主化は八十七年。徴兵や動員の被害者、遺族による主な全国組織ができたのは九十年代に入ってからのことだ。

 盧武絃前大統領のもと、二千六年「親日反民族行為者財産調査委員会」が発足した。日本の支配に協力した対価として「親日派」が得たとされる財産を国に帰属させ、「原状回復させる」(李俊植常任委員)のが目的。

 対象期間は、日本の軍事占領が始まった日露戦争の開戦(千九百四年)から四十五年の解放までと幅広い。ただ、対価として得た財産の定義があいまいなことや、直接関係のない子孫の財産権を脅かすことへの批判も強い>

引用終わり

 私がこのコラムをこの「朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争」の中に書かれている内容の中で唯一評価するのは、このコラムにより朝鮮人の考え方がどういうものかよくわかるからです。

 

 朝鮮人の中では、ソウル大学は京城帝国大学がなしにいきなり出来たものであり、現在の南朝鮮は先人の力なしにいきなり出来たものなのです。

 南朝鮮の新聞に先日、「名誉元帥推戴? 本当に奇怪だ」と題された下記のような記事が掲載されたそうです。

 以下引用

名誉元帥推戴? 本当に奇怪だ

第2次世界大戦後、灰燼となったヨーロッパの復興計画「マーシャルプラン」を提案したジョージ・ マーシャル、朝鮮戦争で仁川上陸作戦を指揮したダグラス・マッカーサー、アメリカ第34代大統領のドワイト・アイゼンハウアー。彼らは5星将軍である陸軍元帥(General of the Army)出身という

共通点を持っている。アメリカでは第2次世界大戦依頼、彼らを含めて陸軍4人と海軍4人、空軍1人の計9人の元帥が輩出された。彼らが任命された時期は大部分が第2世界大戦末期の1944・1945年だ。

元帥は世界大戦のような特殊な状況下のみで、同盟国の戦力を統合した合同作戦を効率的に遂行するために制限的に付与した階級だ。平時や小規模戦争は4星将軍である大将が充分に指揮できるが、世界大戦のように多くの同盟国軍が集まった場合には各国の大将たちを指揮・統率するために大将より一階級高い元帥が必要になったのだ。

「元帥は戦時にだけ授与される階級」という原則はアメリカだけではなく他の国でも同じだ。イギリスは第2次大戦中に北アフリカ戦闘でドイツのロンメル機甲軍団を退けたバーナード・モントゴメリー陸軍元帥(Field Marshal)が代表的だ。旧ソ連も第2次大戦時にゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフを陸軍元帥に任命した。

西ヨーロッパ諸国で平時に元帥階級を置かないのは、軍に対する文民統制原則とも軌を一にしている。文民たる軍最高統帥権者の地位と権限を尊重する観点から、平時には元帥階級を置いていない。第2次大戦と朝鮮戦争以後、米軍には元帥がいない。

1948年の創軍以来、国軍には元帥がいなかった。現在、国軍の最高階級は大将だ。兵士らは兵長を5星将軍だと冗談を言うが、軍の人事法には本当の5星将軍である「元帥」階級がある。

軍の人事法を見ると、「元帥は国家に対する功績が著しい大将の中から任命」「元帥の任命は国防部長官の推薦により国務会議の審議を経て国会の同意を得て大統領が行う」となっている。

今になって元帥階級が話題になったのは、来年の朝鮮戦争60周年を迎えて国防部が白善Y(ペク・ソンヨプ)予備役陸軍大将を名誉元帥に推戴することを検討中だと先月明らかにしたからだ。

現役ではない予備役の大将を元帥に任命するには軍の人事法を変えねばならないうえ、初の元帥推戴であるだけに国民世論も見極めねばならない。保守勢力は白善Y予備役大将を朝鮮戦争の英雄だと仰ぐが、反対意見も根強いことから成功可否は不透明だ。

戦時でもないのに元帥階級を授与するのが妥当かと言う問題提起とともに、白善Y予備役大将の日帝強占期における満洲国軍服務経歴が争点だ。軍事評論家協会の朴キョンソク会長(予備役陸軍准将)は、「白将軍は国軍の長老将軍であり国家に寄与したところが大きいが、名誉元帥推戴は一顧の価値も無い」と語った。朴会長は、「日本の傀儡国家・満洲国の陸軍中尉出身である白将軍を名誉元帥に推戴することは国軍の建軍理念を毀損する。国軍の脈を満洲軍に置い

たら後日、抗日闘争勢力が主力であった北朝鮮人民軍が伝統性で優位を占めるかもしれない」と述べた。

朴会長はまた、「北朝鮮人民軍の南侵時、開城と38度線を警戒する第一師団長だった白善Y将軍は、春川戦線での第六師団の善戦にもかかわらずまともに応戦も出来ずにほとんど全ての装備を捨てて敗走し、ソウル早期陥落の原因を提供した」として、「朝鮮戦争の英雄」という評価にも意見を異にした。

政府が最近、上海臨時政府の継承を強調していることも、白善Y予備役大将の元帥任命に障害となる見込みだ。李明博大統領は今月13日、臨時政府樹立記念式に参加して、「(上海臨時政府は)実に我が大韓民国の根であり精神的土台」と述べている。

引用終わり

ハンギョレ新聞(韓国語)(2009-04-16 19:05)

 

http://www.hani.co.kr/arti/specialsection/newspickup_section/350134.html

 今更ながら南朝鮮は腐りきっているとしかいい様のない記事です。

 南朝鮮の白善Y将軍は間違いなく南朝鮮にとり英雄であり、その功績は他国の軍事関係者も認めている。

 このような朝鮮にとって偉大な先人がなければ、今の南朝鮮はあるはずもない。

 朝鮮人に「親日派」と呼ばれる人たちがどういった人たちであるか、そして、そういった偉大な先人を「親日派」と呼んで糾弾している朝鮮人が人間としてどれほど腐っているか非常に良くわかる事例です。

 まるで、我が国に勝手に巣くっていながら、嘘をつき被害者面している腐れ連中と同じです。

参考および引用

「朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争」(朝日新聞出版 平成二十一年四月三十日刊)

「朝日が明かす 中国の嘘」(田中正明 高木書房 平成十五年刊)

「日韓共鳴二千年史」(名越二荒之助 明成社 平成十四年刊)

 Sさん来店。Iさん二名様で来店。初めてのお客様来店。Kくん三名様で来店。

 今日も飲まず。十八日め。


弁護士・内田雅敏の書く嘘

特攻隊について

10月20日火曜日晴れ ○

 内田雅敏氏という弁護士がいる。朝日新聞などが「表現の自由が心配だ」と書いた立川反戦ビラの弁護人であるが、その内田氏は下記のような発言をしている。

 <「靖国神社の特異な歴史認識を支える基盤がこの国の社会の中にある。侵略戦争の愚行を強いた政府、軍の指導者たちに怒り、その責任を追及すべきなのに、そうはなっていない。『特攻たちの犠牲の上に、戦後の平和と繁栄が築かれた』などと無責任なことを言わせてはならない」と厳しく指弾する。

 安倍首相はじめ政治指導者たちは靖国問題に真摯に取り組む姿勢を見せず、「外国向けの建前と、国内向けの本音というダブルスタンダード」を使い分けていると指摘する。

 「同じ敗戦国のドイツは国防軍改革委員会報告書(01年)で、『ドイツは歴史上初めて隣国すべてが友人となった』と語っている。しかし、日本はいまだに過去も清算できず、謝罪も補償もしていない。そんな状況で隣国から信頼されるわけがない。近、現代史の履修漏れは一部高校生だけの問題ではない」。>

[朝鮮新報 2007.5.24]

 

 このように言う内田雅敏氏は、自分の著書にどのような事を書いているか。

 <本土防衛のための「温存」という名目で、海軍兵学校、陸軍士官学校出の職業軍人には特攻させず、学徒・少年兵らを出撃させた・・・・・・

 それも速成で伎倆も充分でなく、しかも満足に飛べないような整備不良の飛行機で出撃させ、敵艦に近づき前にほとんどが撃墜された・・・・

 者の責任こそ問われなければならない。>

「靖国には行かない。戦争にも行かない」(内田雅敏 梨の木舎 平成十八年刊)P十五

 これは、知覧にある特攻記念館に行った後に内田雅敏氏が著書に書いている事である。

 知覧は主に陸軍の特攻機基地として使われ、海軍は鹿屋が主に使われた事をわかっていて、海軍兵学校出身者がいないと言っているのであろうか。

 陸士出身者、幹部候補生は知覧から特攻には出撃しなかったのであろうか。

 では、下記の資料はどういうことであろうか。

昭和二十年

 四月一日

 二十三振武隊 一式戦 伍井芳夫 大尉 陸軍少尉候補者二十期

 四月六日

 四十三振武隊 一式戦 小原幸雄 少尉 陸士五十七期

 第一特別振武隊 四式戦 小林弘 少尉 陸士五十七期

 四月七日

 二十九振武隊 一式戦 中村実 少尉 陸士五十七期

 四月十二日

 六十九振武隊 九十七戦 池田淳 少尉 陸士五十七期

 四月十三日

 百七振武隊 九十七戦 大内清 中尉 陸士五十六期

 四月十四日

 百七振武隊 九十七戦 大内清 中尉 陸士五十六期

 四月二十八日

 六十七振武隊 九十七戦 金子正男 少尉 陸士五十七期

 七十六振武隊 九十七戦 岡村博二 中尉 陸士五十六期

 四月二十九日

 十八振武隊 一式戦 小西利雄 中尉 陸士五十六期

 十九振武隊 一式戦 四宮徹 中尉 陸士五十六期

 二十四振武隊 二式戦双襲 小沢大蔵 中尉 陸士五十六期

 五月六日

 四十九振武隊 一式戦 伊奈剛二郎 少尉 陸士五十七期

 五十六振武隊 三式戦 池田元威 少尉 陸士五十七期

 五月十一日

 五十一振武隊 一式戦 荒木春雄 少尉 陸士五十七期

 五十五振武隊 三式戦 黒木国雄 少尉 陸士五十七期

 六十五振武隊 九十七戦 桂正 少尉 陸士五十七期

 五月十八日

 五十三振武隊 一式戦 近藤満男 少尉 陸士五十七期

 五月二十日

 五十振武隊 一式戦 斉藤数夫 少尉 陸士五十七期

 五月二十五日

 五十二振武隊 一式戦 中原常信 少尉 陸士五十七期

 五十四振武隊 三式戦 葛西宏 少尉 陸士五十七期

 五月二十八日

 四十五振武隊 二式双襲 藤井一 中尉 陸軍少尉候補者二十一期

             中田茂 少尉 陸士五十七期

 六月三日

 四十八振武隊 一式戦 堀恒治 少尉 陸士五十七期

 六月六日

 百五十九振武隊 三式戦 高島俊三 少尉 陸士五十七期

 百六十振武隊 三式戦 豊島光顕 少尉 陸士五十七期

 五十六期(昭和十七年十二月卒業)と五十七期(昭和十九年四月卒業)が多いが、わかっているだけでも、知覧からだけでもこれだけの陸士出身者および陸軍少尉候補者が特攻隊員として出撃している。

その他の基地からは沖縄方面だけに特定しても、

徳之島

 三月三十一日

 陸軍特攻誠第三十九飛行隊 一式戦 笹川勉 大尉 陸士五十五期 

 四月二日

 二十振武隊 一式戦 長谷川実 大尉 陸士五十五期

 陸軍特攻飛行第六十戦隊 九十九襲 高山昇 中尉 陸士五十六期

 四月七日

 四十四振武隊 一式戦 甲斐玉樹 少尉 陸士五十七期

 四月十一日

 二十二振武隊 一式戦 柴田秋蔵 少尉 陸士五十七期

喜界島

 四月九日 

 四十二振武隊 九十七戦 猫橋芳郎 少尉 陸士五十七期

 五月二十六日

 二十一振武隊 一式戦 水川貞輔 中尉 陸士五十六期 

万世

 四月七日

 七十四振武隊 九十九襲 伊藤実 大尉 陸士五十五期

 五月二十五日

 四十四振武隊 一式戦 甲斐玉樹 少尉 陸士五十七期

 六十六振武隊 九十七戦 後藤光春 少尉 陸士五十七期

 五月二十七日

 百三十一振武隊 九十七戦 佐藤睦夫 中尉 陸士五十六期 

 六月八日

 百四十一振武隊 一式戦 長井良夫 少尉 陸士五十七期

 百四十四振武隊 一式戦 中島秀彦 少尉 陸士五十七期

都城東

 四月二十八日

 六十一振武隊 四式戦 岡本勇 少尉 陸士五十七期 

 五月四日

 六十振武隊 四式戦 平柳芳郎 少尉 陸士五十七期

 五月二十五日

 五十六振武隊 四式戦 伊藤喜得 少尉 陸士五十七期

 五十八振武隊 四式戦 高柳隆 少尉 陸士五十七期

 六月八日

 五十九振武隊 四式戦 野口肇太郎 少尉 陸士五十七期

 六月二十一日

 二十六振武隊 四式戦 相楽釟郎 中尉 陸士五十七期

 六月二十二日

 二十七振武隊 四式戦 川村勝 中尉 陸士五十七期

 百七十九振武隊 四式戦 金丸淳 中尉 陸士五十七期

(別冊一億人の昭和史においては七十九振武隊になっているが、間違いと思われる)

鹿屋

 四月七日

 陸軍特攻司偵振武隊 百式司偵 竹中隆雄 少尉 陸士五十六期

 四月十二日

 陸軍特攻司偵振武隊 百式司偵 東田一男 少尉 陸士五十七期

 四月十七日

 陸軍特攻飛行第六十二戦隊 四式重爆 加藤幸二郎 中尉 陸士五十六期

 四月二十六日

 陸軍特攻飛行第百十戦隊 四式重爆 今津文広 大尉 陸士五十四期

(別冊一億人の昭和史においては出撃基地は空欄となっているが、重爆による特攻のため出撃基地は六十二戦隊と同じ鹿屋か大刀洗と思われる)

 五月二十四日

 陸軍特攻飛行第六十戦隊 四式重爆 杉森英雄 大尉 陸士五十五期

(別冊一億人の昭和史においては掲載されていないが、重爆による特攻のため出撃基地は六十二戦隊と同じ鹿屋か大刀洗と思われる)

大刀洗

 五月二十五日

 陸軍特攻飛行第六十二戦隊 四式重爆 溝田彦二 少尉 陸士五十七期

石垣島

 三月二十六日

 陸軍特攻誠第十七飛行隊 九十九襲 伊舎堂用久 大尉 陸士五十五期

 四月一日

 陸軍特攻飛行隊第百五戦隊 三式戦 内藤善次 中尉 陸士五十六期

 四月九日

 陸軍特攻飛行隊第十七戦隊 三式戦 渡辺国臣 少尉 陸士五十七期

 

八塊

 五月十三日

 陸軍特攻誠第三十一飛行隊 九十九襲 山本薫 中尉 陸士五十六期

沖縄・中

 三月二十七日

 陸軍特攻誠第三十二飛行隊 九十九襲 広森達郎 中尉 陸士五十六期

桃園

 四月二十七日

 陸軍特攻誠第三十三飛行隊 四式戦 福井五郎 少尉 陸士五十七期

花蓮港

 五月三日

 陸軍特攻飛行隊第十七戦隊 三式戦 渡辺国臣 少尉 陸士五十七期

宣蘭

 四月二十二日

 陸軍特攻誠第三十一飛行隊 九十九襲 山本薫 中尉 陸士五十六期

 四月二十八日

 陸軍特攻飛行隊第百五戦隊 三式戦 中村伊三雄 中尉 陸士五十六期

台中

 四月二十八日

 陸軍特攻誠第三十四飛行隊 四式戦 桑原孝夫 少尉 陸士五十七期

 五月三日 

 陸軍特攻誠第三十五飛行隊 四式戦 藤山秀山 少尉 陸士五十七期

(藤山は写真集特別攻撃隊に掲載されているもので、別冊一億人の昭和史においては遠山となっている。どちらが正しいのか不明)

 五月四日

 陸軍特攻誠第三十四飛行隊 四式戦 金澤宏 少尉 陸士五十七期

 五月九日

 陸軍特攻誠第三十三飛行隊 四式戦 坂口英作 少尉 陸士五十七期 

熊本健軍飛行場

 五月二十四日

 義烈空挺隊 九十七重二型

       奥山道郎 少佐 陸士五十三期 

       諏訪部忠 大尉 陸士五十四期

       小林真悟 少尉 陸士五十七期

他に

 偵察者として誘導として

五月九日

 陸軍特攻第十飛行隊 機種不明 野本幸平 少尉 陸士五十七期

 以上、南方方面を除いた沖縄方面のみに特攻出撃した日本帝国陸軍の陸士出身者を手元にある資料より抜き出してみた。

 当然、沖縄方面以外の出撃を入れると、もっと多くの陸士出身者が特攻に出撃している。

 海軍においては

 回天だけについてみても、搭乗要員は昭和十九年夏から二十年八月十五日の終戦まで、海軍兵学校出身者八十九名、海軍機関学校出身者三十二名、学徒出陣百九十六名、一般兵科出身者九名、甲飛十三期予科練習生九百三十五名、第二十期乙種飛行予科練習生百名の合計千三百六十一名にのぼった。

 陸・海軍とも特攻隊員に対して、二階級特進にて報いた。

 内田氏はこのような事実についてどう思っているのであろう。

 知覧の特攻記念館に行ってるのであれば、当然、知ろうと思えば、得られた知識であるはずなのに、自分で知ろうともしないで、思い込みで文章を書いているとしか思えない。

 内田氏はネット上で、田母神俊雄元空将に対し、

<氏には情報を吟味し、 取捨選択する姿勢は全くなく、ただ自分に都合のよい 「情報」 だけに依って発言しているのである。>と書いている。

http://www.news-pj.net/npj/uchida-masatoshi/20090924.html

天に唾するとはまさに内田氏の事であろう。

 内田氏のやっている事は、いわゆる「教科書問題」とされた、なかったことをあったと言い張り続けている連中と同じ事です。

 内田氏は著書の中で他にも多くのでたらめを書いていますが、これについては、別項に書かせていただきます。

 ちなみに、大韓民国の英雄で大統領であった朴正煕氏は満州国軍軍官予科を首席卒業し陸士五十七期に編入し卒業しています。

 

参考引用文献

「靖国には行かない。戦争にも行かない」(内田雅敏 梨の木舎 平成十八年刊)

「写真集特別攻撃隊」(国書刊行会 昭和五十五年刊)

「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」(毎日新聞社 昭和五十四年刊)

「回天の群像」(宮本雅史 角川学芸出版 平成二十年刊) 

 

 Mさん珍しく早い時間に二名様で来店。小胡子さん来店。

 Kさん来店。

 今日も飲まず。十七日め。


ガリガリだった死に顔

10月19日月曜日晴れ ○

 「ガリガリ」と聞けば、どのような状態を思い浮かべるであろうか。

 <中川昭一「ガリガリの死に顔」>と表紙に書き、記事の題としても「ガリガリだった死に顔」と編集部・小北清人の記名入りで書いたのは朝日新聞が出しているAERA(平成二十一年十月十九日号)である。

 その記事の中には中川氏の死に顔について、<棺の中の中川氏は、整然とは別人のようにやつれていたという>(P二十四)と書き、それについて平沼赳夫氏の言葉として、下記のように書いている。

「昭ちゃん、顔が小さくなってたなあ・・・・・。ずいぶん、頬のあたりがげっそりした感じがしました。一回り小さくなって、ご遺体に対面した別の人間も同じ印象を口にしていた」(P二十四)

 これが、この記事に於ける中川昭一氏の死に顔についての記述の全てである。

 

 平沼氏の言葉にも他の文書のどこにも「ガリガリだった死に顔」という単語は出てこないし、これだけで、「ガリガリの死に顔」と想像する人は何人いるであろう。つまり、小北清人氏が表題のみに使った言葉なのである。

 表題とはインパクトのあるものを選ぶのだろが、このような記事のどこにも使われない言葉を表題として使っていいものかどうか。

 私はこの小北清人というAERA編集部の人間性を疑う。

 

 日本の為にならない事だったらなんでもやるのが伝統の朝日新聞の一員とすれば、当たり前の事なのでしょうが。

 今日は、午後からスポーツショップへ行き、トレーニングウエアとシューズを購入。布団の中でマンガの本を読む時に、最近、どうも文字が読みにくく感じるので、ビックカメラにて電気スタンドを購入。

 去年の運転免許の更新の時は裸眼で大丈夫だったのだが、次回はダメかも・・・・

 古本屋さんに寄りたかったが、荷物が多くなり断念。

 酒は飲まず。十六日め。


10月18日日曜日晴れ ○

 店を片付けて、スポーツセンターには行かずに、帰る。

 

 酒は飲まず。十五日め。


「日本解体阻止!! 守るぞ日本! 国民総決起集会&デモ」

10月17日土曜日晴れのちくもり一時小雨 ○

 今日は河岸から少しだけ早く店に帰ってきて、仕込みを済ませ、有楽町線で永田町へ。

 砂防会館別館「シェーンバッハサボー」(誰がつけたか知りませんが、このダサイ名称はなんとかならないのでしょうか)にて午後1時より開かれた「日本解体阻止!! 守るぞ日本! 国民総決起集会&デモ」に参加させていただく。

 十五分前についた時は、千四十席の椅子席はすでにほぼ満席。

 後からも続々と参加者が増え、最終的には千四百〜千五百人だったようです。

 

 最初に国歌斉唱の後、中川昭一氏への黙祷および海ゆかばを斉唱。

 平沼赳夫氏を初め、西村眞悟氏、中山成彬氏、田母神俊雄氏、土屋たかゆき氏など国を憂う皆さんが登壇。

 まあ、どうでもいい内容の人の人も登壇してましたが・・・

 しかも、最初の方に登壇したその人のそのくだらない話が長い。

 平沼氏と比べて、余りにも内容の無いその人の話の時、私は寝てました。

 

 会の終了後に、西村眞悟氏と稲川和男氏に挨拶をさせていただく。

 「相変わらずドンチャンやってますか?」

 いや〜・・・

 「今年中にはぜひ」

 はい、お待ちしてます。ぜひドンチャンを!

 

 その後に行なわれた抗議デモに参加。

 ただ、途中、五時半近くになり、流石に営業に被さる為、抗議デモは最後まで参加できず。

 千四百人以上参加したこの集会をNHKは放送したのだろうか。TBSは放送したのだろうか。

 支那、朝鮮の味方、五十人参加の年金引き上げデモを掲載する朝日新聞は明日の朝刊に掲載するのだろうか。四十人参加の自衛隊派遣抗議集会を掲載する毎日新聞は掲載するのであろうか?そして、読売は?

 本日の収穫。

 新しいバージョンのTシャツ。

私としては、これに、他の外国人の方々との差別である特別永住権廃止、そして、在日朝鮮人特権廃止もぜひ入れたTシャツを作って欲しい。

 

 小胡子さん二十歳になった大学生の息子さんと来店。

 KくんHさんと来店。

 昨日に続き、台湾の葉さん来店。

 日本酒が好きになったのはお父様が日本酒を好きだったからだそうで、

 最初に飲んだのが真澄の夢殿だったそうです。

 私なんぞ、最初に飲んだ酒の銘柄なんぞは覚えていません。きっと、二級酒でしょう。大吟醸を最初に飲んだのは、自分で店を始めてからです。

 それまで、大吟醸などという言葉も知りませんでしたし。

 ヒマな今日は葉さんといろいろとお話させていただきましたが、

 台湾に住んでいながら、めちゃ、日本酒に詳しいのに驚愕。日本酒関係のお仕事ではなく、台湾空軍の中尉さんだそうです。

 飲んべえの会について話していたら、「ぜひ」と言う。

 台湾から来るんかい!

 

 まあ、フィンランドから日本滞在四十八時間で、飲んべえの会に来た人もいらっしゃいますが・・・・・

 

 今日も飲まず。十四日め。

 

 


 

台湾から

10月16日金曜日晴れ ○

 一、九平次の「彼の岸」の出荷本数は何本?

 二、磯自慢35%を初めて出荷したのは何年?

 三、義侠の最高酒は?

 四、いそのさわの前の杜氏さんの名前は?

 五、長谷川坂店が出している初亀・亀のスペシャルバージョンは何年?

 六、十四代が今年、クラッシックボトルに入れスタイルを変えて、去年と違う名前で出した吉川産愛山のボトルはなんというネーミング?

 七、またその意味は?

 答えはそれぞれ

 一、百四十七本

 二、平成十年(一九九八年)

 三、妙

 四、待鳥好美氏

 五、五年

 六、十四代 純米大吟醸 七重二十貫

 七、十四代において、伝承されて来た大吟醸を絞る時の垂れ歩合と粕歩合を尺貫法にて表したもの。

 

 彼の岸の出荷本数なんて、私もすっかり忘れてました。七重二十貫も今年、出されたこのボトルの裏ラベルの説明を読んで知っていただけです。

 これを今日、ふらりと初めて来店いただいた台湾の青年が知っていたのです。

 トイレに置いてあった「彼の岸」の空瓶を持って来て、「百四十七本しか出なかった酒ですよね。写真を写していいですか?」と聞いてきた時にはもう、目が点でした。

 だいたい、座って最初の注文は義侠の妙でしたし・・・・・・

 磯自慢三十五%は「すばらしく美味しい」「私は二〇〇一年の三十五%を持っています」と言うし・・・・・

 十四代の「龍泉の二〇〇七年、二〇〇八年も持っています」と言うし・・・・・・

 今日、台湾から東京に着いて、二十日まで滞在するそうですが、ホテルにチェックインしてすぐに当店に来たそうです。

 「明日、また来ます」とお帰りになりました。

 

 Sくん、Tさんと来店。バンブーさん来店。台湾からYさん来店。Uさん二名様で来店。URAホームページの「インドネシア残留日本兵」の事についての記述をご覧頂いたそうで、Iさん来店。Oさん、Iさん、Sさん来店。カトリーヌさん二名様で来店。Kさん二名様で来店。

 Oさん御夫妻、後輩の方と三名様で来店。

 今日も酒は飲まず。十三日め


蔡焜燦氏の日本精神と「成長の家」三代め

10月15日木曜日晴れ ○

 <かっての祖国・日本の若者たちよ、あなた方の先人たちは実に立派であり、いまも台湾の地で「日本精神」が崇敬されている事実の語るところを君達の後世に伝えられよ。

 そして、自国の歴史を正当に評価し、自信と誇りを持って堂々と胸を張って未来に雄々しく羽ばたいてほしい。

 「日本人よ目覚めよ、そして自分の国を愛しなさい!」

 これは、元日本人からあなた方に送る激励のメッセージである>

 このようなあとがきが書かれているのは、何度か日記にも掲載させていただいた「台湾人と日本精神」(蔡焜燦 小学館文庫 平成十三年刊)です。

 著者の蔡焜燦氏は台湾に生まれ、昭和二十年に岐阜陸軍整備学校奈良教育隊に入校。終戦後、台湾にて実業界において成功された方です。

 

 この蔡氏の著書は、日本教文社より平成十二年七月に出版され、三万部の売り上げがあったのにもかかわらず、

日本統治時代を肯定的に描き、「日本人よ胸を張りなさい」と主張していることが、台湾での外省人と本省人の対立を激化させる恐れがあるという判断で、発売一年たらずの平成十三年三月に一方的に販売を停止し、回収する一方、著者の蔡氏との間の出版契約を解除します。

「(販売中止の)理由はこの書が台湾に於ける政治問題を扱っているため、当社並びに宗教法人「生長の家」の主張や見解が、本書の主張や見解と同じであるような印象を広く読者に与えたためです。当社と生長の家はいかなる政治運動を支援するものではありません」

(平成十三年三月十四日産經新聞に掲載された日本教文社による「謹告」)

「此の本は最近、台湾で政争の具となりつつある。(台湾親日派からの)反発など考えられるが、あらゆる人や民族の調和を目指す当社の理念にかんがみ、販売中止を決めた。外部から圧力があったわけではない」

(同じく平成十三年三月十五日産經新聞に掲載された日本教文社永井光延第二編集部長の談話)

 

 このように、日本人を良く書くのも、支那人を悪く書くのは許せないという「言い訳」により日本教文社は、蔡氏の著書を絶版にしたわけですが、その理由として、新田均氏は

「販売中止の直接の引き金は、平成十三年一月、香港で生長の家の伝道を担当している中国人講師から、蔡焜燦さんの本が「日本精神を讃えながら中国人の悪口を言い、中国の暗黒面を強調し、台湾独立を宣伝している」という抗議の電子メールが雅宣氏(木下注 谷口雅宣氏生長の家三代目)のもとに届いたことにあったようです。」

と「日本を貶める人々」(PHP研究所 平成十六年刊 p百七十八)に書いています。

 

 蔡焜燦氏は

「どうしても出版を続けたくないというのなら、告知などせず静かに絶版にしてほしかった。日本教文社にもそうお願いした。それをなぜわざわざ告知したのか理解出来ないが、善意で協力してくれた日本教文社の方々のことを思うと、今は何も言いたくない気持ちだ」

と、同じ日(平成十三年三月十五日)の産經新聞に掲載された談話です。

 なぜ告知したか。誰に対してか。先の新田氏の言葉を裏付けるものだと思います。

 

 中共支那に媚びる今の「生長の家」の姿を初代の谷口雅晴氏はどう思っているのでしょう。

 

下記は蔡焜燦氏の談話の結びです。

「谷口雅晴先生は天で泣いておられることと思う。私は十数年前、谷口先生の『国を愛し、先祖を敬い、全てに感謝せよ』という教えを知り、共感し、いらいその教えを守って来た。その生長の家の日本教文社からこのような扱いを受けた。とても悲しい」

 

 いくら初代が立派でも、それを引き継いだ人間が腐っていたら、どんな組織でも腐る。

 それは宗教でも同じです。

 

 KくんMさんと来店。七時半ごろの早い時間。でも今日は五時前から飲んでいるそうで、いつもと同じ。

 マロさん来店。御一人様来店。

 独りよがりのオノレの思想、政治などの話を初対面のマロさん相手に延々と繰り広げる。

私が「こちらのお客様は、酒を楽しんでいらっしゃるので」と何度か注意したにもかかわらずに、

それが判らず、同じ事を繰り返すドアホウだったので、

思わず、大きな声でそのドアホに向って「いい加減にしろ」と声を荒げる。

 鬱陶しいとしか言いようのない御仁でした。

 

 ブラインドを卸している遅い時間に、夜中のジョギング後のクールダウンということで、インチキラクターさん来店。

 (クールダウンになったか???)

 今日も飲まず。十二日め。


 

「日中戦争いまだ終わらず」によりわかる反日日本人の暗躍

林博史 「赤ん坊を投げ上げ銃剣で刺し貫いた」

10月14日水曜日くもり夕方より大雨 ○

  秦郁彦氏は著書「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫 平成十二年刊)において、マレーシア虐殺報道の奇々怪々の中に、英語教科書の赤ん坊刺殺記事でキローズアップされたマレーシア華僑粛清事件は、一連の流血史の中でどんな位置を占めるかとして、

一九八四年夏、現地華字紙の記事で知った朝日新聞の松井特派員が、スンガイルイを訪ねて三百六十八人の華人が虐殺された生々しいレポートを送ったのが最初だったとしている。(同書p四百二十七)

 

 その松井やより女史も著書に下記のように書いています。

<ティティ近郊ジュルブ村は、犠牲者千四百七十四人でマレー半島最大の日本軍による虐殺事件といわれる。

 当時八歳で、何回も刺されながら奇跡的に助かった蕭招?さんは五人の子の母親だが、「日本兵が赤ん坊を放り上げて銃剣で刺し殺したり、妊婦のお腹を裂くのを見た」という>

(3)p百六十四

<華人中心のマラヤ共産党がマラヤ人民抗日軍を組織してジャングルの根拠地から、果敢執拗な抗日ゲリラ活動を展開した。

 彼等を恐れた日本軍は抗日ゲリラをひそかに応援していると見なした華人の村を襲って、女性、子供、老人を含めて村民全員を無差別に皆殺しにした。まさに、殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす「三光作戦」を東アジアでも強行したのだった。>(p百六十三)

 

 先にこの日記に書いたように「日治時期森州華族蒙難史料」というのは、高嶋伸欣氏、林博史氏がその出版費用の大部分を負担した事により、やっと日の目を見た本ですが、その中に日本兵がん坊を投げ上げ銃剣で刺し貫いたという三人の目撃証言が掲載されているそうです。

 一九八八年十一月に林博史氏はわざわざマレーシアを訪ねて、そのうち二人の証言を得ています。(1)P三十七

 それについて、これまた、朝日新聞がすぐに取り上げています。

<今度の教科書差し替えで、「事実かどうかわからない」という議論がまかり通っているが、事実を事実として直視し、なぜ普通の青年があんな行為に走ったか、過去の過ちから学ぶべきではないか>

(朝日新聞一九八八年十二月八日)私は(1)p三十七より

 御丁寧に、事実かどうかわからない事を、開戦記念日に記事にする。流石はプラウダ、人民日報、朝鮮日報などの築地支社として生きてきた新聞社だけのことはあります。

 中島みち氏はこの「赤ん坊を投げ上げ銃剣で刺し貫いた」という華人の証言は歩兵第十一聯隊第七中隊掃討地において起きた事となっているので、第七中隊の元兵士の方々にも取材しています。

<十人が十人、急に真剣な顔付になり、「出来るんかいのお?」とごく自然に卓の前を離れ、ひとり銃剣を構える姿勢を取った。殆どが七十歳を超えた人々で、私に突然襲われ甚兵衛姿のままの人もいたが、右手を右腰骨に着け、左手を四十五センチ離して空を握り、右足の内側を壁に直角に、そして左足を右足から三十五センチ、八十度の角度で開いて、きもち戻した。踏みしめのよい角度として訓練されている。

 初めて質問した時、私はこの姿勢を見て、アッと思った。

 そうなのだ。四、五キログラム以上の重さを持つものが上から降ってくる時、これを刺し貫くには、構えた姿勢から、踏み出して刺さねば無理である。好い加減な構えでは、剣にあたってもそのまま落下するし、剣にかかっても、重みを受けた左手が下がり、深く刺さらずに前に落ちてしまう。

 真上から落ちて来てもその重みだけで刺し貫くことは難しく、がっちり構えて待ち受けて突き上げねばならない。

 自分自身で投げ上げて刺し貫く場合は、待ち受けるほど空中高く赤ん坊を片手で投げ上げるというのは、およそ不可能であると、私は元将兵の姿を見て、一瞬に理解することができた。

「では仮に、別の人が投げ上げて、それを受けるとしたらどうでしょうか」

 例の小冊子のケースである。

 今、もし夫人が茶を入れ替えにでも現れえたらさぞや驚かれるであろうと思う程に、元将兵は部屋の隅で宙を見据え、幾度か、降ってくる想像の中の四、五キログラムの重みを受けてみた挙げ句、少なくとも鴨居の高さより一メートルくらい上まで、つまり三メートルくらい投げ上げてもらわねば、それは不可能であるという結論に達した。それも、ボールのようなものが落ちてくるのと異なり、身体のどこがこちらを向いて落ちてくるのかもわからぬのに、わざわざそんなことが出来るものであろうかという疑問が、誰からも必ず出た。

 たまたま一人の人間が突発的に気がおかしくなり残虐な行為をしたというのならともかく、この場合には二人以上の人間が呼吸を合わせて行わねばならぬ。それは掃討隊の中に残忍な人間として自他とも許す、とてつもないはみ出しものが二人以上いなければならず、元日本兵としては、何処をどう考えても信じられぬ話であるようだった。

 それにしても、そもそもこんな馬鹿馬鹿しいことを、私に証明して見せねばならぬことからして、彼等をやり切れない思いにさせていることが私にはよくわかった。

 ましてや、例の挿絵のように、銃剣を持つ手を自分の肩より上に上げて、飛んでくる風船でも突くように、落ちてくる赤ん坊を刺し貫くなど出来得ないことであると納得し、この件は、まさに絵空ごとであったと、私は日本人というより、人間の一人として深く安堵したのであった。>

(1)

p四百十七〜四百十八

 

 ウソも百回言えば本当になる。

 朝鮮人強制連行、南京大虐殺、百人切り、従軍慰安婦・・・・・

 腐れ売国奴どもの常套手段です。

 外の敵よりも、内に潜む敵が問題です。

引用及び参考文献

1)「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(中島みち 文藝春秋 平成三年刊)

2)「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 戦勝の日々」(潮書房 昭和六十三年刊)

3)「魂にふれるアジア」(松井やより 朝日新聞社 昭和六十年刊)

4)「シンガポールの日本軍」(小林正弘 平和文化 昭和六十一年刊)

5)「昭和史の謎を追う」(秦郁彦 文春文庫 平成十一年刊)

 

 今日は夕方から大雨。

 まあ、そのせいでもあるまいが、メチャヒマ。

 遅い時間に、初めてのお客様二名様来店。

 

 今日も飲まず。十一日め。

 昼頃にお客様にお送りした来月の「飲んべえの会 醴泉」はおかげさまで、深夜にはほぼ定員になる。


「24時間テレビ愛は地球を救う」か?
10月13日火曜日 晴れ ○
 テレビを見ない生活なので、私は見ませんでしたが、今年も日本テレビで「24時間テレビ愛は地球を救う」という番組が放送されていいたそうで、視聴率としても良かった事がネットにあります。
 そして、今日、下記のようなニュースがネットにありました。
以下引用
24時間テレビ、募金総額9億5000万円
(日テレNEWS24 - 10月13日)
 今年8月29〜30日に放送された「24時間テレビ32 愛は地球を救う」で、チャリティー委員会に全国から寄せられた募金の総額は9億5108万1316円となった。
 これまでの32年間の募金総額は、281億9949万5487円となる。
 募金は、お年寄りや障害者への支援をはじめ、地球環境の保護などのために活用される。
引用終わり

なにしろ、日本テレビのホームページによると、「国民的チャリティ番組」なのだそうだ。

http://www.ntv.co.jp/24h/

 
 チャリティなのに、大勢の厚顔無恥芸能人が「仕事」で出演しているくせに、社会奉仕をしているという「ふり」をしている不思議な番組です。
 
 普通、チャリティ番組に出演するっつうのは、ボランティアであって、銭をもらわないものだろう。銭を貰ったらボランティアでなくて仕事だろうに。

 公式ホームページには自主募金について下記のように書かれている。

▼草の根チャリティーネットワークとは? 草の根チャリティーネットワークは、チャリティー・キャンペーンの趣旨と活動にご賛同いただき、募金にご協力をいただいている地元の商店街や自治体、ボランティアサークル、学校などの団体のネットワークです。ご参加に際しては、下記のチャリティー・キャンペーンの趣旨をご理解の上、ご協力いただきたくお願い申し上げます。
(1) お預かりした募金より経費を一切差し引かないようお願いいたします。 (2)「24時間テレビ」の趣旨・テーマを広く人々に伝えて下さい。 (3)宣伝等、一企業・個人の利益のために利用しないで下さい。 (4)責任者が必ず実施報告をして下さい。


そして、ボランティアとしては下記のように書かれている
▼● ボランティアとして参加するには 「24時間テレビ」では、募金活動のお手伝いをしてくださるボランティアの方を募集しています。詳しくは、お住まいのエリアの放送局のチャリティー委員までお問合せ下さい。

 募金については
<全国の善意ある視聴者の方々から寄せられた募金は経費を一切差し引くことなく、全額、支援活動に活用させていただきます。>
と書いてある。

 この番組にでている芸能人

メインパーソナリティーNEWS 
チャリティーパーソナリティー菅野 美穂
番組パーソナリティー:ネプチューン ベッキー
チャリティーマラソンランナーイモトアヤコ
総合司会:徳光和夫 西尾由佳理(日本テレビアナウンサー)


など四十人程の芸能人がでているそうであるが、
 社員はともかくとして、他の芸能人にギャラは払われているわけで、
つまり、この「24時間テレビ愛は地球を救う」という番組はあくまで、日本放送の収益事業のひとつであって、決して慈善事業ではないのです。

 そりゃあ、集まった金を寄付をしているだろうが、同額の寄付金を集めるだけであれば、無料の出演者、企業からの協賛金などもっと効率よくできるはずなのです。
 
 プロ野球などの選手が地方に行った時などその地方の身障施設、孤児の収容施設を訪れたりしていますが、ギャラが目的ではありません。自分なりに少しでも社会に奉仕するという気持ちでやっていることです。
 その気持ちも無く、出演料を出さなければ出ないなどというアホ芸能人は社会奉仕でもなんでもなく、ただの仕事なのです。

出演料などでません。チャリティですからとやったら、今まで出演していた芸能人の何人が出るのだろう。

 あほらし。

 今の時期、いろいろなキウイが売られている。
 今日、買って来たのが、一般的なキウイ?、ゴールデンキウイ、レインボーレッドキウイ、ベビーキウイ。
 レインボーレッドという品種は我が国で開発した品種のようで、まだ、あまり出回っていないようですし、出回る期間も今頃の短い期間だけだそうです。


 小胡子さん来店。マロさん来店。厄落とし?
 Mさん二名様で来店。
 今日も酒は飲まず。十日め。


自給率アップ?????

10月12日月曜日晴れ 

 <養殖マグロ、生産2倍に=「自給率」アップに期待>というニュースがありました。

以下引用

10月10日7時2分 時事通信

 養殖クロマグロの国内生産が急成長している。養殖施設の増設や新規参入が相次ぎ、生産規模はここ1〜2年で拡大。世界的な漁獲規制の強化もあって注目が集まっている。

 マグロ養殖の実態調査を行っている社団法人マリノフォーラム21(東京)によると、2009年8月時点で国内養殖場は約70カ所。2年前に比べ5割ほど増えている。施設の大型化もあって、全体の生産量は昨年の2倍近い約1万トンに達しているとみられる。

 養殖生産が増えたのは、マグロ輸入を手掛ける商社や水産会社の参入が増えたことや、魚価が低迷しているハマチ養殖などからの転換に加え、既存業者の規模拡大が要因。先行投資も進み、既に国内全体で「年間1万3000トン以上の生産能力がある」(マリノフォーラム21)という。

 最大手のマルハニチロは今年、和歌山県に施設を増設し、出荷量は前年比5割増の2400トンを見込む。勢い増すクロマグロ保護の「外圧」を想定し、来年は「約3000トンの出荷を計画している」(広報)という。 

引用終わり

 

 ここで国内生産量が二倍になったとされている「養殖」鮪は、天然鮪を捕まえて育てるあるいは太らせて出荷する(長く育てると経済効率が悪い)という畜養であり、完全養殖とは違うので、純粋な意味での養殖ではない。

 いわば、山からイノシシあるいはウリボウを捕らえて来て、餌をたっぷりやって太らせて、または少し大きくして出荷するようなものです。

 それを、「自給率」アップとしてよいものかどうか・・・・・

 そういえば、世界中でただ一カ所、鮪の完全養殖に成功している近畿大学の水産学部が、なんと南朝鮮に技術提供などというニュースが随分前にありました。

 きっと、南朝鮮が完全養殖が成功した後には、南朝鮮が「独自の」先進技術の成果ニダ!とやるのに五百ウオン一枚。

 

 今日は部屋から外に出ることもなく、一日ゴロゴロして過ごす。

 しかし、なんで今日が体育の日なのでしょう。十月十日だろうに。

 今日も酒は飲まず。

 九日め。


年に一回の

10月11日日曜日晴れ ○

 今日は年に一回の当店の外に、生ゴミで元気に生い茂っているツタを刈る日。

 今回も四十五リットルゴミ袋三つ分のツタが刈り取れた。

 一切の肥料もやらず、当店から出る生ゴミだけで元気に育っている。

 まあ、その分、今日もゴミ袋三つ分の生ゴミが新たに出たわけですけど・・・

 

 店を片付けて、さっさと帰る。

 酒は飲まず。八日め


「日刊ゲンダイ」

10月10日土曜日晴れ 体育の日のはず ○

 「日刊ゲンダイ」が、第一面に「中川昭一“自殺”の真相」という見出しでキヨスクに並んでいたので、火曜日(十月六日)の河岸の帰りに思わず買ってしまいました。

記事の見出しも

「中川昭一元財務相“自殺”の真相」

「これは事故死ではない」

「周囲に『死にたい…』」

となっています。

 

 記事は下記のようになっています。

以下引用

 4日、東京・世田谷区の自宅ベッドで死亡しているのが見つかった中川昭一元財務相(56)は、行政解剖の結果、循環器系の複数の部位に異常があることが分かった。体内からはアルコール成分も検出され、睡眠薬や酒による急性心筋梗塞の可能性が強まっている。しかし、これは事故や突然死か、というと、大いに疑問だ。落選後、中川氏は周囲に「死にたい……」と漏らしていたというのである。

 医療関係者は「循環器系の異常」といえば、心筋梗塞を連想する。まだ確定ではないが、その場合、原因は大きく3つだ。(1)心臓破裂(2)心臓機能の急低下(3)不整脈である。

「病理解剖をすれば、ハッキリしますが、おそらく、長年の飲酒などで不整脈があったのではないか。そこにもってきて酒と睡眠薬を飲んだことで、中枢神経が機能しなくなり、呼吸抑制が起きて、血管が狭くなり、心臓にダメージを与えたのでしょう」(医療関係者)

 一見、不注意による事故死に見えるが、中川はつい最近、周囲に「死にたい」と漏らしていた。睡眠薬を飲み出したのもかなり以前からで、量を誤るというのは考えにくい。そのうえ、新聞報道とは違って、かなりの量の薬や酒を飲んだフシがある。弔問に訪れ、『お別れ』をした関係者は、中川の顔のむくみに少なからず、驚いていたのである。

「自殺の可能性は低いとの第一報が流れたのは4日の午前中ですが、そんな早い段階で詳しいことは分からない。遺書や刃物などがなかったことから、いまのところ自殺を裏付ける証拠はない、という意味です。早とちりの報道もありますが、真相解明にはもっと時間がかかりますよ」(永田町関係者)

 三木内科クリニック・三木治院長は「あくまで一般論」と断ったうえでこう言う。

「今、主流のベンゾジアゼピン系の睡眠薬は大量に飲んだからといって簡単には死にません。しかし、三環系の抗うつ剤と睡眠薬、酒を大量に飲むと、危険です」

 中川の酒は「緩慢なる自殺だった」という人もいる。

「ローマのもうろう会見が話題になりましたが、あんなのはいい方です。ひどいときは5分おきにトイレに行き、くしゃみをし、何を言っているかわからない。そんなヘベレケ状態でテニスをしようとしたりする。死に急いでいるとしか思えなかった」(中川をよく知る官僚)

 それが落選後、エスカレートした。この辺が真相なのかもしれない。

引用終わり

(日刊ゲンダイ平成二十一年十月七日号)

 

 これが、記事の全てです。

 この記事内容で、中川氏の死の理由が「自殺」であると理解し、また、その「真相」というものについても理解出来た方はいらっしゃるでしょうか。

 第一面で大きく「中川昭一“自殺”の真相」と書き、記事の見出しも同じく「中川昭一元財務相“自殺”の真相」と書きながら、

記事の内容は、

<中川の酒は「緩慢なる自殺だった」という人もいる。

「死に急いでいるとしか思えなかった」

 それが落選後、エスカレートした。この辺が真相なのかもしれない。>

 

 アホか!

 

 どこにも、自殺を断定出来るものは無く、それなのに、見出しは

「自殺の真相」

 

 やっぱり、この日刊ゲンダイというのはどうしようもない腐れ新聞ということを証明しただけです。

 

  この日刊ゲンダイの親会社の講談社というと、これまた、アホ在日朝鮮人女性の柳在順女史を使って、ウソ記事を平気で掲載している「週刊現代」という週刊誌も出しているところです。

 柳在順女史という反日アホ朝鮮人女性と週刊現代との関係については下記をご覧下さい。

http://www.tamanegiya.com/riyuzaijyunn19.12.21.html

 この朝鮮人女性は、我が国に留学して来て、日本人のことを嫌だ、嫌だと言いながら、そのまま我が国に居座り続けて仕事をしているある意味典型的在日朝鮮人女性です。

 

 イヤだったら帰れよな。

 

 ご近所に御住まいという初めてのお客様チャリンコにて来店。

 これまた、初めてのお客様二名様来店。

 Kさん二名様で来店。

 酒は今日も飲まず。七日め


10月9日金曜日晴れ ○

 バンブーさん来店。Oさん二名様で来店。カトリーヌさん二名様で来店。裏ホームページの掲示板に時々投稿してくださっている「日の本」さん来店。

 KさんEさん来店。ホロン部員Yさん来店。月曜日に一旦フィンランドに帰られ、来月より東京だそう。Yさん三名様で来店。横浜からAさん来店。

 今日はご来店いただいたお客様全員より刺身を御注文いただき、大忙し。

 今日も酒は飲まず。六日め


10月8日木曜日台風のち晴れ ○

 女性のお客様二名様来店。Tさん三名様で来店。ご近所に御住まいというお客様来店。Oさん二名様で来店。マロさん来店。

 私は、今日は河岸に行かなかったが、午前中は台風の影響で、お務めの方は通勤が大変だったよう。

 今日も酒は飲まず。五日め


マレーにおけるゲリラ華人掃討

10月7日水曜日曇りのち大雨(台風)○

  中島みち氏はその著書「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」において、数カ所の「虐殺事件」があったという場所について調べ、その疑問点をわかり易く書かれている。

 華人の村をどうして掃討する必要があるか。それは、当然、華人ゲリラの支援村、基地になっている場所があるからだが、その時、実質的に、各村の敵性華人掃討に何人の日本兵が派遣されるか。というより、派遣出来るか。

 通常、中隊は百九十〜二百名で構成されている。十五名の分隊四個で一小隊。小隊三個で百八十名、その他二十名以内となりそのような人数となる。

 ただ、敵性華僑討伐において問題となっている歩兵第十一聯隊で、それに近い兵力が整っていたのは、昭和十六年(一九四一年)十一月にマレー半島に向けて上海の港を出た頃の事であり、マラヤ三月掃討のころには、「マレー作戦」による戦傷者の補充がつかず、第七中隊のように比較的人数が多い中隊でも八十〜九十名内外であった。

 林博史関東学院大学講師(現経済学部教授)が陣中日誌に華僑掃討の事が書かれている事を発見したと大騒ぎした(別に発見でもなんでもないのだが)第七中隊の場合、その陣中日誌により掃討に派遣された兵の数がわかる。

 中隊総人数八十〜九十名より警備隊周辺の第一から第四までの分哨に約二十人、指導班員、中隊本部残留員を加えて、三十名近くが掃討活動に加わらない。分哨だけで二十七人出している日もある。

 掃討地に着いた後も、村外への道路の見張り要員等も必要となる。

 よって、掃討に村に入れる兵は三十数名から多くても四十五名は超える事がない。

(中島みち氏の著書「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(文藝春秋 平成三年刊)p百十五

 中島みち氏の著書に引用されている陣中日誌が、その掃討活動における人数を裏付けています。

 

 スンガイルイ村掃討について

第七中隊陣中日誌より

 <中隊長以下二十九名とクアラピラ警察署長以下八名で、バハウから汽車を使い、討伐。

 不良分子八十名、大型拳銃一挺、同弾薬六発、焼却家屋十五件>

 そして、陣中日誌には手柄を書くものであるから、少なく書く事はあり得ず、実際に、元第七中隊の人々に取材をし、三十数名程度という証言を得ている。

 また、掃討後、住民が陸続と戻って来たと「日治時期森州華族蒙難史料」に書かれているそうである。

 埋葬されたのはどこか。共同墓地なのか別の場所なのか。「日治時期森州華族蒙難史料」には「公※」(土に文)と書かれているそうで、村の共同墓地に当たるそうです。

 戦後、それを掘り起こし、他の骨との区別はどのようにつけたのか。

 中島みち氏のこの疑問に華人ガイドは

「あなた何でも細かく考えすぎるよ。そんなこと中人(華人)細かく考えないよ。日本軍、たくさん殺したこと、同じだよ」

(同書p百二十三)

 いくら戦時中とは言え、村民四百人のうちの三百六十八人と皆殺しに近い掃討と、容疑者だけ三十人程度を掃討するのでは大きく違うと思うのだが、そうは思わないようである。

 ましてや、村が無くなったとか、村人の強制移住というと、残酷な事のように思えるが、日本軍だけでなく、英軍、そして、独立後のマレーシアにおいても、兵糧攻めとして共産党ゲリラ対策として取られていた方法である。

 これについては、別項にて書かせていただきます。

 

 一部に銃を使った掃討は上記のスンガイルイ村掃討だけであり、この人数の兵が刺殺により華人が言っている人数を掃討できるか考える必要があります。

 他にも、スンガイルイ村よりも掃討人数が多いとされるパリッティンギ村六百七十五人、イロンロン村千四百七十四人の場合は刺殺のみであり、三十から四十名の日本兵が七百から千五百名を刺殺したとされているわけです。

 これらの刺殺による掃討方法ついては、戦時裁判において華僑側も日本側からも異論は出ていません。

 日本兵一人が三十人から五十人の反日華僑を、短時間のうちに刺し殺した事になります。

流石に、南京では首の皮一枚残して、三十万人もの首を落とす事のできる日本兵の腕はたいしたものです。(棒読み・・・・)

 ちなみに、この南京虐殺?についてのお話は、当店の常連さんがお連れいただいた関西の人から伺いました。

 その人は、大学時代の恩師から聞いたのだから間違いないとおっしゃっていました。

 私は、この人の余りにもバカ過ぎる頭の構造にお口あんぐりでした。

 

 今日は、伊勢湾台風並みとか過去十年で最大級とかいわれている台風様が上陸されるということで、おかげさまで当店はメチャヒマ。

 遅い時間にSさん二名様で来店。その後、もっと、もっと遅い時間に(普通は閉まってるだろうに)ホロン部員Yさん来店。

 今日、今朝、成田にヘルシンキから到着したそうで、すぐに、今回の用を済ませ、時差ボケになるからそのまま起きていて、酒を飲んでバタンキュウという作戦だそう。お電話にて店場所を尋ねられた男性の方は、結局、現れず。途中で遭難しちゃったようです・・・・・

 私の方は、今日で四日飲まず。


マレー人と華人との対立について

秦郁彦氏の比較

10月6日火曜日雨 ○

 秦郁彦氏は著書「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫 平成十二年刊)において、松井やより氏の著書よりの引用として、

<「日本の政策は意図的でなかったにせよ、・・・・・人種対立を助長した」(松井やより)と見るか、「大きな責任は日本軍にある」(林博史)と見るか、評価は分かれるが・・>(p四百二十六)

と、いかにも松井やより氏と林博史氏の考え方に相違があるように書いていますが、私にはこの二人の考え方には大した差はないとしか思えません。

 松井やより氏は、秦氏も引用している著書「魂にふれるアジア」にて、マレーシアの歴史学者謝文慶の著書「マラヤの赤い星 日本占領期とその後(一九四一〜四六)」を引用して

<「戦前のマラヤでの人種関係は平和であった。日本の政策は意図的でなかったにせよ、マレー人と華人の人種対立を助長した」と書いている>(p百六十四)

と引用掲載している。

 つまり、秦氏の引用掲載している箇所は松井氏の考え方ではなく、謝文慶の著書よりの引用です。その引用箇所の前に松井氏は

<このような華人弾圧、マレー人利用という日本の人種差別政策がいかにこの複合社会に深い傷跡をのこしたか>(p百六十三)

と書いていますが、これこそ、松井氏の日本軍に対しての考え方であろうかと思います。

 

別の箇所にも

<日本占領が深刻な人種対立のきっかけを作り、戦争直後(ママ)、マレー人と華人(中華系住民)の血なまぐさい殺し合いとなったという虐殺後日談である。>(p百五十九)

(私はこの松井氏の文にある「戦争直後」は「戦後」の間違いと思うのですが、どうなのでしょう)

 

 このように、松井やより氏の考え方は林博史氏と大差のない単純な「日本軍責任論者」であり、秦郁彦氏の近代史における研究成果はすばらしいと思いますが、この秦氏の著書における、二人並べての対比は間違っているものと思わざるを得ません。

 

 マロさん来店。

 今日はかったるいし、早い目に帰ろうかなと思っていたら、メチャ遅い時間にKくん、Oさん来店。

 その後、さっさと帰る。

 酒は飲まず。


プロ???

10月5日月曜日雨 ○

 先日、ネットに掲載されていた記事です。

以下引用

 巡業けいこに「出勤簿」=相撲協会

10月1日19時28分配信 時事通信

  日本相撲協会は1日、巡業でけいこをしない力士が多いことから、取った番数や休んだ日数などをチェックする方針を示した。18日に始まる秋巡業から始め、問題のある力士は師匠に注意し、理事会で報告するなどの措置を取る。

  巡業は鍛錬の場で、以前はよくけいこした力士に賞を与えて督励したこともあったが、近年はなまける力士が増え、巡業部の親方らが注意しても改善の兆しがない。

  勧進元(主催者)から苦情も出ており、大島巡業部長(元大関旭国)は「このままでは巡業ができなくなる」と指摘。武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)も同日の師匠会に同席させた関取衆に「たとえけがをしていてもお客さんに顔を見せるように」などと自覚を促した。

引用終わり

 

 稽古に出勤簿って、いったいどういうことでしょうか。

 だいたい、プロと呼ばれてている競技にそのようなものが必要なのでしょうか。学校のクラブ活動でももう少しマシだろうと思うのですが、どうなのでしょう。

 

 今の相撲部屋からは竹刀も消えたそうです。

 今年の八月二十三日の産經新聞に「相撲部屋から消えた愛のムチ」として下記のような文書が掲載されていました。

<けいこ土俵で指導する際の愛のムチをも禁じられ、親方の間からは戸惑いの声が聞こえてくる。

 略)

 栄光の歴史を生んだ愛のムチもある。明治末年に「角聖」と損傷された横綱常陸山は引退後、出羽海親方として三横綱四大関など多くの名力士を育て、現在も繁栄を続ける名門を生んだ。力士育成の原動力として知られるものの一つに、「常陸山のステッキ」があった。横綱といえども気を抜いたけいこをしたら、細い竹を皮で覆ったステッキを容赦なくとばした。時には涙を浮かべながら叱責する師匠の指導に、弟子たちは感謝したという。

 かって角界は「軍隊より厳しい世界」といわれ、力士は厳しい修行に耐えて出世することを誇りとした。

 略)

 過酷な鍛錬の結果、「プロとアマの差が最も大きいのは相撲と将棋」「あらゆる格闘技選手の中で最強なのは力士」といわれるほど、大相撲は高い競技レベルを獲得した。だがそれも、今は昔・・・・だ。>

 

 今は昔。

 そうかもしれません。アホ親方が酒を飲みながら弟子を虐待死させ、マスコミに叩かれると、すぐに反応して、全ての部屋から竹刀が稽古場から無くし。今度は、「サボル」から巡業といえども稽古の出席簿をつける。

 もはやプロとして恥ずかしい凋落ぶりです。

 力士だけの問題だろうか。親方の頭の中身の方が問題だろうと思うのだが。

 その産経新聞の記事に相撲が国技と言われる元になった旧両国国技館が建設されたのが明治四十二年で、今年は国技百年だそうですが、両横綱、三役十一名中に外国人が五人。横綱、大関に限れば、七名中四名が外国人と外国人の方が多い。

 そんな「国技」は世界中にあるのだろうか。

この「国技」とも呼ばれるプロ格闘技の歪さが際立っています。

大相撲においての「国技」という言葉のその寿命が尽きかけているのかも知れません。

 これも、こんなすばらしい親方を育てた日教組の教育の成果か????

 

 今日は、昼頃に食事と銀行に行っただけで、昨日に続いてスポーツセンターに行く気にもなれずに、ほぼ一日中部屋でゴロゴロし、本を読んでいた。

 酒も飲まず。

 このまま、何年か前のように二十日の禁酒でもすればいいのだろうが、無理だろうな、やっぱり。

 


10月4日日曜日晴れ ○

 中川昭一氏がお亡くなりになったというニュースがネットにあり、驚く。

 確かに、会見での酒のうえの失敗とかあったが、国会議員としては国益に沿ったものであったと思う。

 中川氏が形骸産業相だった時と、その後を引き継いだ二階俊博氏の東シナ海におけるガス田問題の対応などと比べれば、どちらが日本人として普通か、よくわかる。

 ご冥福を祈ります。

 今日は昨日のドンチャンのせいもあり、スポーツセンターに行かず、生ゴミだけ出して帰る。

 さっさと寝る。

 当然、酒は飲まず。


飲んべえの会「九平次」

10月3日土曜日雨のち曇り ×××

 河岸に行き、今日の飲んべえの会に足らない物などを購入。

 夕方より、名古屋の蔵元さん「九平次」の飲んべえの会。

 忙しい中、久野九平治氏も参加してくださる。

 十月一日の「日本酒の日」アピールデモに参加されて、それからず〜と東京にて仕事が入っていたそうです。

本日の出品酒

NO.1    平成21年 九平次 別誂 純米大吟醸35%      1800ml

NO.2    平成20年 九平次 別誂 純米大吟醸35%      1800ml

NO.3    平成19年 九平次 別誂 純米大吟醸35%      1800ml

NO.4    平成19年 九平次 彼の地純米大吟醸40%      1800ml

NO.5    平成21年 九平次 佐藤彰洋 大吟醸40%      1800ml

NO.6    平成21年 九平次 山田錦  大吟醸40%      1800ml

NO.7    平成21年 九平次 雄町 純米吟醸50%       1800ml

NO.8    平成21年 九平次 <rue Gauche> 純米吟醸50%   1800ml

 

 

 

 

九平治氏にはいろいろと貴重なお話を伺う。

 Kくん奥様、友人の方と来店。インチキラクターさん乱入。

 ドンチャン。

記憶まったくなし。

申猿申猿サル・・・・・・・


第二の吉田清治 中島正人の影響

第二の松井やよりと小林正弘の接点

10月2日金曜日雨時々曇り △

 間違いの多い「新馬華人抗日史料」の編者のひとり蔡史君氏に関して、あの日本の為にならない事だったらなんでもやったという松井やより女史が著書「魂にふれるアジア」に下記のように書いています。

 以下引用

<今「日本軍政」についての博士論文に取り組んでいる蔡史君さんもシンガポール人には珍しく、出世志向とは縁のない地道な女性研究者である。夫は華字紙論説委員。気楽に付合えるカップルだ。夫婦とも、満州出身の一族で、満州料理を食べに行ったり、一緒に泳ぎに行ったり、中国旧正月を共に祝ったりした。

 蔡さんの専門は東南アジア史で、六十七年から東大大学院東洋史学科に留学、のちには英国リーズ大学にも学び、日本占領下のシンガポールの研究では第一人者である。

 八十二年秋まで文化省公文書口述史局の四プロジェクトのうち「日本占領期」を担当、体験者からの証言をテープにとる仕事をしていた。>

(「魂にふれるアジア」松井やより 朝日新聞社 昭和六十年刊 p百五十〜百五十一)

<蔡さんはしばらく休息した後、大きな仕事を引き受けた。シンガポールの華僑抗日義勇軍の生き残り隊員たちから抗日史編纂の仕上げを頼まれたのだ。元隊員たちが六十年代後半に集めた膨大な資料が出版されないまま十数年が過ぎていたが、蔡さんが一年以上かかって整理し、八十四年秋「新馬華人抗日史料」として中国語で刊行したのである。千百ページ、写真八百枚という分厚いこの資料には、華人虐殺を含む十四年間にわたる日本軍の侵略と抗日抗争の歴史が記録されている。これだけの歴史書が出版されたのはこのシンガポールでも初めての事だ。>

(同書p百五十三)

 

 そして、新潟市立藤見中学校教師小林正弘氏は著書「シンガポールの日本軍」(平和文化 昭和六十一年刊)において、昭和五十九年(一九八四年)当時、シンガポール日本人学校の教師として派遣されていた小林氏に、松井やより女史と思われる朝日新聞記者から取材をされていることを書き、松井女史のこの蔡史君の記事も引用掲載している。

「日本に留学した時、友達に虐殺の事を話しても信じてもらえなかった。日本人は過去の事をもっと知るべきだと思う」

(朝日新聞夕刊 一九八四年二月十四日)

 

 この松井やより女史の記事にある蔡史君の夫は卓南生という。一九四二年シンガポール生まれの華人である。

 早稲田大学卒、立教大学、朝日新聞社にも在籍していたことがあるそうで、この卓南生について、松井、小林の両氏はその考え方を絶賛している。

 小林氏は著書に教育者として、

自国に都合の悪い事であっても、事実は事実として学び、それを乗り越えてこそ真の意味での民族的自覚と誇りが育つ筈である

(「シンガポールの日本軍」小林正弘 平和文化 昭和六十一年刊)p百九十二

 このように書く小林氏の教育者としての姿勢が一番よく判るのは下記の文だろうと思います。

<最初にお断りしておきたい事がある。それは、私には虐殺人数について検討する能力も、その気持ちも無いという事である。私の目に触れた範囲では大西覚氏の千人以下という数字が最小で、最大は伊沢信夫氏の一五万人(「紀行・流動のアジアへ」毎日新聞社)である。大西氏のように被個人としての虐殺数ならいざ知らず、その主張には「戦犯」としての一片の反省すら無く、検討に値しない。もっとも、「加害の側」において人数にのみ目を奪われるのは事件そのものを矮小化してしまう危険があるように思われる。中島正人氏も一万五千人前後とされ、李金泉史の証言として一万九千人をあげられているが、卓南生氏に聞いたところでは、卓氏が李氏に確認すると「そういう数字をあげたことはない」という返事だったと言う。

 歴史教育者の立場でいえば、歴史教育は厳密な歴史学に立脚して行わなければならないことは言うまでもないが人数が確定出来ない以上、「被害の側」の主張を教える、少なくとも伝える事が正しい態度ではないかと思うのである。

 ましてや戦犯の証言に基づいた数字を教科書に載せる等、「加害国」のやるべきことではない。

(同書 p百五十六)

 

  戦犯とされた方々の名誉は我が国において、戦後、当時の多くの国民が署名運動をして、国会でも決議された事により回復している。

現在の我が国には戦犯となどとされる方々はひとりもいない。 (いわゆるA級戦犯とされ、七年の刑を受けた重光葵氏はその後外務大臣に復帰し、勳一等を授与されている。)

 あの軍事裁判がどのようなものであったかは少なくとも歴史を教えている立場のものであったら、理解している筈です。

 戦後、残念なことに我が国の国民は「戦犯」とされた方だけでなく、その残された御家族に対しても醜い扱いをいたしました。

 マレーにおいても、「復讐」のために「戦犯」とされ、いわれなき罪をきせられ、英国兵に殺された多くの軍人がおられます。

 終戦後も三年目に入った昭和二十三年一月二日、この日、クアラルンプール刑務所において、絞首刑台に登らされたのは歩兵第十一聯隊、第七中隊長岩田光儀大尉、同第二小隊長橋本忠中尉、同断3小隊長郷端逸人少尉の三人。

 同時刻、第十一聯隊長渡邉綱彦大佐は、刑務所の構外にある、クアラルンプール射撃場で、銃殺されている。

 

 そのうちのひとり、岩田光儀大尉の御家族は、米軍の無差別虐殺である広島への原爆により、次女は亡くなり、残った御家族も「戦犯の子」と追い回され、実際に飛礫まで投げられ、急遽、広島から宇部に引っ越している。

 

 「戦犯虐待の記録」には、下記のような資料が掲載されている。

 戦後七年も経過しているのに関わらず、戦犯とされた皆様七百三十一名を対象とした御家族の調査によると、

 

 調査年月日 昭和二十七年十月二十八日

 調査対象                 七百三十一名

 離婚者                    二十八名

 許婚解消                   四十一名

 戦犯家族の故に、就職を拒否された者      二十二名

 戦犯家族の故に、結婚を拒否された者       十二名

 戦犯家族の故に、「村八分」を受けた者      五十六名

 家族が自殺を試みた者              十二名

 家族が精神異常をきたした者           十六名

 計                     百八十七名

(P三百二十三〜三百二十四)

 

 退職した現在、自身のホームページでは、憲法九条至上主義を公言し平和主義者ぶっているこの元教師は、英霊の残された御家族に対し、掌を返した連中と同じ事をやっているという自覚が無いアホです。

 ましてや、自分から検証を放棄し、

<「被害の側」の主張を教える、少なくとも伝える事が正しい態度ではないかと思うのである。>とほざく。

 どんな嘘でも、支那が、朝鮮が、シンガポールが言っているのだから、そのまま教えろと言っているのです。

 

 この小林正弘という人間は、それだけでも今井城太郎氏の著書の題名ではないが「国破れて自虐あり」の典型的な人間で、このような人間が、我が国の未来を担う子供達を教え、教壇に立ってきたのです。

 

 流石は、先の中島正人氏の著書を「この本は恐らく、虐殺事件の実態を体系的に明らかにした唯一のものであろう」と書き(同書p百二十八)、その自身の著書において、中島正人氏の著書から発言者とされた劉果因氏自身から否定された山下奉文将軍についての発言を証拠とし(同書p百三十)、虐殺事件は一月から始まっていたと自説を書いているだけの事はあります。

 

 アホらし。

 

ナベちゃん来店。小胡子さん、BOOちゃん、来店。Mさん来店。お連れ様後で、合流。Kくん、Nさんと来店。二名様来店。Mさん二名様で来店。

 ドンチャン。

 珍しく記憶あり。

 


「日中戦争いまだ終わらず」によりわかる反日日本人の暗躍
華人掃討村の人口と掃討数
10月1日木曜日晴れ △
 イロンロン村
 このイロンロン村については、松井やより女史はティティ近郊ジュルブ村としているが、どちらの書き方が正しいかわかりませんが、「犠牲者千四百七十四人でマレー半島最大の日本軍による虐殺事件といわれる」となっているので、問題となっているのは、この村の事に間違いないと思います。
 中島みち氏の著書に拠ると、「日治時期森州華族蒙難史料」にはイロンロン(余明明)村として
「桃源郷のような村」、「犠牲者千四百七十四人」、「家は一件残らず完全に焼き払われ、無人の里となった」と書かれているそうです。昭和十一年に設立された南洋経済研究所が、昭和十七年、つまり、掃討の年に編纂した「大南洋地名辞典」には、「ジェルンドン村」として載っており、「荒蕪地なるも、付近は錫産地なり」となっているそうです。
 ところが、掃討直後から二キロ離れたティティの町に駐留していた将兵さへ知らないような小さな村であったそうだが、先に書きましたように、千四百七十四人という最大の犠牲者数????を出しています。
 ちなみに、戦犯裁判では「九百九十名の殺害」とされています。ほんの五百人ばかり、たった「五割」の増加です。支那人の感覚からしたら、そのぐらいはたいした事ありません。

 さて、このイロンロンの犠牲者数については、軍事裁判においては九百九十人、「日治時期森州華族蒙難史料」には千四百七十四人と掲載され、中島みち氏が平成十年(一九八八年)夏に、直接華人関係者から聞いた時には「千七百人超えたよォ」だったそうです。
(同書p一四一)

 実際に、現在でも、マレーで工事の度に出てくる人骨はすべて「日本軍による虐殺の犠牲者」となっているようで、どんどん増え続けている・・・・

 中島みち氏は、ではこのイロンロンには元々は何人の村人が住んでいたのか疑問に思い、調査しています。

 英国が十六年ぶりに行った一九四七年の国税調査では、人口二百五十人未満、あるいは戸数五十件未満の町や村については、特別の事情が無い限り個別表記を除外していると明記している。
一九三一年については、実際には二百六人の村さへ載っているので、除外された町や村は多くても二百人未満と考えられる。
 ちなみに、
 第七中隊クアラピア警備隊本部の駐留地クアラピア町の人口
華人二千五百九十九人、マレー人四百六十人、インド人六百九十九人、ユーラシアン十六人、その他二百十七人 総数三千九百九十九人
 第八中隊駐留地クアラクラワン町の人口 
華人六百六十九人、マレー人二百十二人、インド人百八十九人、その他五十六人 総数千百二十六人
 第十一聯隊本部のある州都セレンバン 
華人一万四千百七十八人 マレー人千七百二十五人 その他五千五百五十人 合計二万千四百五十三人

 中島みち氏が取材した第十一聯隊関係の元将兵では誰もイロンロン村(日治時期森州華族蒙難史料)、カンポン・ジュルドン(英国陸軍省一九五四年度版)、ジュエルドン村(大南洋地名辞典)のいずれの名称も知っている人はいなかったそうです。
 それは、作戦命令にも、その中の攻撃要領要図にもこの村の名前は掲載されていなくて「チ_付近」という表現のためである。
 中島みち氏は、命令書、攻撃要領要図にも村の名前、経度緯度も期されていないが、印されている山や川からの距離、標高数、里程標等から、英陸軍省マップのカンポン・ジュルドンに重なり、カンポン・ジュルドンが大南洋地名辞典のジュエルドン村に符合することを確認している。

  その結果、「豊かな桃源郷」「ティティの姉妹村というべき大きな村で家屋の数は二百軒」と華人が伝えるイロンロン村と、日本軍将兵の語る、もともと「アタップが二十戸あるかないかのティティの外れの高蕪地」があまりにもかけ離れているので、念には念を入れ調査したが、間違いなくイロンロン村はカンポン・ジュルドンであると結論を出している。
 その、カンポン・ジュルドンはティティの外れの村で、二百六人の村が記されている国税調査には記されていない規模の村である。

 

 イロンロン村(カンポン・ジュルドン)より遥かに大きな一九三一年のティティの人口は、華人千二百九十三人、マレー人二十六人、インド人二人の全部で千三百二十一人である。
 一九三一年の国税調査後、一九四二年の掃討までの人口増は錫鉱山が打ち捨てられている状態では大幅な人口増がある筈も無い。
 現実に、十六年後の一九四七年の国税調査では、ティティの総人口は千五百五十人(華人千五百二十人、戸数三百軒)であり、わずかな人口増しかない。
(「日中戦争いまだ終わらず マレー『虐殺』の謎」(中島みち 文藝春秋 平成三年刊)
p百四十二〜百五十五

イロンロン村(カンポン・ジュルドン)とは、人口二百六人以上の村ではありえない村であり、
 その、人口二百六人に満たないイロンロン村(カンポン・ジュルドン)において、我が軍は戦後すぐに九百九十人、その後は千四百七十四人、そして、いまや千七百人もの住民の虐殺をやったことになっているのです。

 流石は我が軍です。

 それを
<犠牲者千四百七十四人でマレー半島最大の日本軍による虐殺事件といわれる>
(「魂にふれるアジア」(松井やより朝日新聞社 昭和六十年刊p百六十四)
と、そのまま何の疑いもなしに伝えている反日キチガイ連中の多い事か。

 あほらし


 今日、神楽坂のスーパーマーケットに行くと、久しぶりにベビーキウイがあり購入。
 オレゴン産で、一パック三百五十円と河岸での購入価格とほぼ同じか、むしろ安い。
 
 初めてのお客様Wさん二名様で来店。中野の「石松」のマスター、Kさん達三名様と来店。マロさん来店。Eさん来店。
 ドンチャン。今日は記憶あり。







 



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