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飲んべえ日記 平成19年8月

アーロン収容所にみるオーストラリア兵
8月31日金曜日くもり一時小雨

 会田氏の著書の中にはオーストラリア兵の残虐さについての記述もあります。
以下引用
 <
その中でも豪州兵は目立って程度が悪かった。その兵舎を膝をついて雑巾がけしていると、いきなり私の額でタバコの火を消されたことがあった。くそっと思ってにらみつけると平気な顔で新聞を読んでいる。激しい憎悪がその横顔に浮かんでいる。ドスンと目の前に腰をおろし、その拍子のようにして靴先でいやというほどあごを蹴り上げられたこともある。私をひざまずかせ、足かけ台の代わりにして足をのせ、一時間も辛棒(ママ)させられたこともあった。
 ある日K班長が、青ざめ、顔をひきつらせて豪州兵の兵舎作業から帰ってきた。聞くとかれは、豪州兵の便所で小便をしていると、入ってきた兵士にどなられ、ひざまずかせて口をあけさせられ、顔に小便をかけられたという。日本兵は便器でしかないという表示である。そのすこし前に配達された妻からの便りを手にしていなかったら、このおとなしい兵隊は、死刑覚悟でその豪州兵を殺していたかもしれないほどの形相であった。
>P七〇〜七一
引用終わり

 また、同じ大東亜戦争で、シドニー湾を攻撃した特殊潜航艇三隻のうち、二隻を引き揚げ、戦時中にも拘らず、松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹の四勇士(のちに二階級特進)を、 オーストラリア海軍葬にて弔い、その御遺骨を戦時交換船「カンタベリー号」で東アフリカのロレンソマルケスにて「鎌倉丸」に移乗して我が国まで送り届けてくれました。
 この敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー地区海軍司令官ムアーヘッド・グールド少将は
「勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら日本海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せらるべきものである。これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を捧ぐる準備のある濠州人が幾人いるであろうか」
と全国にラジオ放送して反対の声を制し、海軍葬を執行したのです。
 このどちらも同じオーストラリア軍人です。

 これからわかるように、
雁屋哲氏のように <オーストラリアと日本は、アジアの他の地域でも戦って、大勢の兵士が捕虜になった。そのオーストラリア人捕虜を日本人は虐待したのよ><日本は人道に背くひどいことをした。
オーストラリア人の捕虜を虐待し、食事も与えず、大勢の捕虜を殺した。><真の友好関係を築くのを妨げているのは、戦争の後始末の悪さ故にオーストラリア人が抱いている反日感情です>と一方的に我が国が悪いと書く人間の異常さが際立ちます。

 バンブーさん来店。Sさん二名様で来店。Sさん来店。御湖鶴出品酒がお気に入りのよう。金ちゃん、マロさん来店。倉田さん二名様で来店。大台さん来店。
 今日、飲んだ美丈夫のゆずリキュールがめちゃ旨い。飲んでいただいたお客様にも大好評。早速、明日お願いしよう。

「アーロン収容所」に見るイギリス人の残忍さ
8月30日木曜日くもり一時小雨

 会田氏によると収容所の設置された場所は、これ以上の悪い設置条件がないというような場所だったようです。
以下同書よりの引用。
私たちの部隊は、最初はイラワジ河岸のアーロン収容所、あとはヴィクトリア湖という人造湖畔のコカイン収容所におかれたわけであるが、前者はラングーンの塵埃集積所と道一つへだてたところであり、すさまじい悪臭と蝿が私たちを苦しめつづけ、後者は家畜放牧場に接し、とくに集中的な放尿所であった。他に空地は無限なほど多かったのに、どうしてこういう場所を収容所として選んだのか。朝夕、太陽にまぶしくシェターゴン・パゴタが金色にきらめく。その下の菩提樹の繁った丘、芝生で被われた広い原、牛が木鈴を鳴らして遊んでいる。そのような背景の中では、奇蹟のような汚い場所、そこにわざわざ私たちはおかれたのである。やはりそこには英軍当局の明確な目的があったようだと思うしかない。>P七〇

 そのイギリス人の日本人捕虜の扱いについて下記のように書いている。
 <
これらの収容所の広さは七、八千坪、いやもっとあったかもしれない。いづれも土に柱をつきさし、屋根に葉っぱをのせ、周辺をアンペラでかこっただけの細長い小屋がその住居であった。
 床はもちろんなく、ドンゴロス(麻袋)などをひいてねた。中央に三尺ぐらいの通路があり、その両側一間半ぐらいの空間にめざしのように並んで寝るのである。英軍からの支給は、ボロボロの衣服と寝具…………蚊帳は一人づりの新品、雨合羽も割合よいもの、この二つの支給が例外である………と食糧以外はなんの支給もなく、食器、床材料、タバコその他はみな自給した。自給とは英軍の倉庫などから調達してくること、つまり泥棒のことである。
>P三九〜四〇

 <
日本軍捕虜に対する英軍の待遇のなかにも、私たちには、やはり、これはイギリス式の残虐行為ではないかと考えられるものがある。そして、英軍の処置の中には、復讐という意味が必ずふくまれていた。
 問題はその復讐の仕方である。日本人がよくやっていたような、なぐったりけったりの直接行動はほとんどない。しかし、一見いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような復讐がこめられていたように思う。
>P七〇

 <
昭和二一年の初秋ごろだったか、雨季あけの心地よい季節であるのに、私たちの隊はとくに憂鬱だった。じつに嫌な仕事が廻ってきたのである。当時の兵隊たちの言葉でいえば「隠亡」作業、つまり英軍墓地の整理である。
 略)
 私たちに与えられたのは、棺を掘り出し、別の場所へ移す仕事である。英軍の埋葬は屍体を布でつつみ、寝棺に入れ、その上に英国旗をかけて五尺ほどの深さの穴へ水平に下ろす。
略)
棺が腐ったものは、塚の土がゴソリとなかへくずれている。全部くずれかけているものも多い。そういうのを堀かえし、埋めかえるのだ。
 ほとんどの屍体は腐乱最中である。乾季中に腐ったものは、ミイラのようになっていてまだよいが、雨季か雨季直前に埋められたものはひどい。一種の蒸風呂のなかでの腐り方のようなものだからだ。戦時中の遺棄屍体の方が禿鷹や鳥が整理してくれていてずっと見やすかった。悪臭で目からボロボロこぼれる。ウジ虫のかたまりのようなのを素手ではこぼされるのである。この作業から帰った兵隊はコンビーフのまぜ飯を見てゲーッと言って当分それを食べられない。来んピー府は屍体の肉そっくり、飯はウジそっくりだからである。
>P七一〜七二

 先の会田氏が聞いた日本人捕虜の証言として出てきた、潮が満ちてくると水中に没する中州に日本人捕虜を閉じ込め、食糧も与えず、カニを生で食うようにしむけ、赤痢にやられ、死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していたという英国軍人と同じ姿がここにあります。
 会田氏は一九六二年にこの本を書くにあたって、当時トイレットペーパーに書き綴ったものを、取捨、配列、つぎあわせたものであり、できるだけ客観性をもたせるために、なるべく伝聞を避け、会田氏自身の体験を主にしたとその前文で書いている。
この項つづきます。

 河岸から帰ってきて、仕込みを終え、スポーツセンターに行こうかと思ったが、バタバタしているうちに三時になり断念。
 Fさん二回目の来店。Mさん二回目の来店。Yさん来店。
 飲む。

「アーロン収容所」にみるイギリス人にとってのアジア人とは
8月29日水曜日くもりのち一時小雨 

 会田氏の著書「アーロン収容所」には、ラング−ンにあった元競馬場を使った英国軍の食糧集積場において、ある時、ビルマ人の泥棒が死んでいた事に対しての英軍軍曹のとった態度として下記のような記述がある。
以下引用
若い軍曹が面倒くさそうについて来た。屍体がうつぶせなのを見て、靴の先で激しく蹴りあげるように額を持ち上げる。首の骨が折れる。私はハッとしたが、泥まみれの顔にはどこにも生気はなかった。
 「死んでいる」(フィニッシュ)気のなさそうに彼はつぶやいた。
略)
 私にはガクンと仰向けられた屍体の顔と、ちょっとそれを見ていて冷たく「フィニッシュ」と言った軍曹の声と、蹴られた屍体ががっくり頭を落とした状態が、いまも目に見える。
 明らかにここでは一匹のネズミが死んだのであって、人間が死んだのではなかった。ヨーロッパ人がヒューマニストであるならば、いったいこれはどういうことなのであろうか
>p六四〜六五

 続けて、これらのイギリス人と日本人との違いについて、会田氏は下記のように書いています。
 <
私たちは戦争における非戦闘員や捕虜に対する処置によって、戦争犯罪を追求された。そして日本人の残虐行為が世界中に喧伝された。全部がウソだとは言わない。しかし日本人の行為が残虐であって、この英軍軍曹の行為は残虐ではないといえるだろうか。いわゆる残虐性のなかには習慣の相違、それも何千年もの間のまったく違った歴史的環境から生まれた、ものの考え方の根本的な相違が誤解を生んだということが多々あるように思われる。
 私の言いたいことはこうである。日本人は何千年来、家畜を飼うという経験をしなかった。とくに食糧としての家畜を飼うことをまったく知らなかった。つまり日本人は一般的に家畜の屠畜というものに無神経な珍しい民族なのである。同じアジア人でも、中国人やビルマ人は屠畜になれている。それ以上にヨーロッパ人は慣れている。
 略)
 私たちは捕虜を捕まえると閉口してしまうのだ。とくに前線で自分達より数の多い兵隊をつかまえたりしたら、どうしてよいe┼然としてしまうのだ。
 しかし、ヨーロッパ人はちがう。かれらは多数の家畜の飼育に慣れてきた。植民地人の使用はその技術を洗練させた。何千という捕虜を十数人で護送していく彼等の姿には、まさに羊や牛の大軍をひきいて行く特殊な感覚と技術を身につけた牧羊者の動作が見られる。日本人にはそのようなことができるものはほとんどいないのだ。
 
残虐性の度合いや強弱などというものは、一般的な標尺のあるものではない。それは文化や社会構造の型の問題で、文化や道徳の高さなどという価値の問題ではない。ヨーロッパ人が自分達の尺度で他国を非難するのは勝手だが、私たちまでその尺度を学んだり、模倣したりする必要はないと思う。
>p六五〜六八

 そして、こういったヨーロッパ人の屠畜とキリスト教との関係については
しかし、生物を殺すのは、やはり気持のよいものではない。だからヨーロッパではそれを正当化する理念が要求された。キリスト教もそれをやっている。動物は人間に使われるために、利用されるために、食われるために、神に創造されたという教えである。人間と動物との間にキリスト教ほど激しい断絶を規定した宗教はないのではなかろうか。
 ところでこういう区別感が身についてしまうと、どういうことになるのだろう。私たちにとっては、動物と人間の区別の仕方が問題になるだろう。その境界線はがんらい微妙なところにあるのに、大きい差を設定するのだから、その基準はうっかりすると実に勝手なものになるからである。
信仰の相違や皮膚の色がその基準になった例は多い。いったん人間でないとされたら大変である。
 殺そうが傷つけようが、良心の痛みを感じないですむのだ。冷静に、逆上することなく、動物たる人間を殺すことができる。

 ビルマ人の泥棒の屍体を扱った軍曹の姿の中に、私がそういう「冷静」を見たと思ったのは誤りであろうか。
 ヨーロッパ人が、人間と動物との境界をずいぶん身勝手なところで設定するのではないかと私が考えたのは、勝手にそう思ったのではない。次のような体験があるからである。
 私たちの食事に供された米はビルマの下等米であった。砕米で、しかもひどく臭い米であった。飢えている間はそれでよかったが、ちょっと腹がふくれてくると、食べられたものではない。そのう上ある時期はやたら砂が多く、三割ぐらいは泥と砂のある場合もあった。私たちは歯はこわすし、下痢はするし散々な目に会い、とうとう日本軍司令部に英軍へ抗議してくれと申し込んだ。
 その結果を聞きに行った小隊長は、やがてカンカンになって帰ってきた。英軍の返答は、「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜用飼料として使用し、なんら害なきものである」であった。それもいやがらせの答えではない。英軍の担当者は真面目に不審そうに、そして真剣にこう答えたそうである。
>p六八〜六九

 現在、我が国においてキリスト教信者は一%以下といわれています。その一神教であるキリスト教における問題点を会田氏は指摘し、いったん人間でないとされたものに対する区別感によるその醜さも書いている。
 「日本軍に支給している米は、当ビルマにおいて、家畜用飼料として使用し、なんら害なきものである」という言葉の通り、イギリス人にとっては日本人、アジア人は家畜と同じように見ていたことがよくわかります。それは先に引用した英軍女性兵士の態度でもわかります。「人間でないとされたもの」「家畜のようなもの」に裸を見られても恥ずかしくはないのです。ですから、そのような「人間でないとされたもの」に負けたのが我慢ならないので、陰湿な復讐をするのです。
それについては、次回に書きます。

会田氏の書いている「残虐性の度合いや強弱などというものは、一般的な標尺のあるものではない。文化や社会構造の型の問題で、文化や道徳の高さなどという価値の問題ではない。ヨーロッパ人が自分達の尺度で他国を非難するのは勝手だが、私たちまでその尺度を学んだり、模倣したりする必要はないと思う。」というこの意味は重いと思います。

 仕込みを終えてからスポーツセンターに行く。今日は平日としては、いつもより時間があり、上半身のメニューを消化。下半身は消化できず。
 
 Hさん来店。初めてのお客様来店。Kさん三名様で来店。

捕鯨
8月28日火曜日晴れ ×

 先週、捕鯨に関して下記のような記事がありました。
以下引用
<クジラ>ウオッチングの観光客の目前で捕獲 知床沖
8月25日15時6分配信?毎日新聞
 知床沖の根室海峡で24日、和歌山県太地町と北海道網走市の捕鯨会社が共同操業する小型沿岸捕鯨船(32トン、7人乗り組み)が、クジラ・ウオッチング船の前でツチクジラを捕獲した。現場は禁漁区域でなく、捕鯨船はクジラを追っていて偶然、この海域に来たとみられる。世界自然遺産登録海域の近くで、結果的にクジラの生態を楽しむ観光客の前で捕鯨した事態になり、波紋が広がりそうだ。【本間浩昭】
 ウオッチング船「エバーグリーン」(19トン)に乗っていたウオッチングガイドの佐藤晴子さん(42)によると、現場は羅臼港(羅臼町)の東約14キロの沖合。午前10時44分ごろ、約3.5キロ先に捕鯨船とクジラの噴気を発見し、近付くと、クジラe褫(もり)を撃ち込まれていた。約20分後、クジラは船首に引き寄せられた。
 双方の距離は約100メートル。約20人の観光客は、クジラが捕鯨船に横付けされるまで「かわいそう」などと言いながら様子を見ていた。フランス人夫婦の妻は「ちょっと気分が悪くなった」と話していたという。近くには別の2隻のウオッチング船がいたが、このうち1隻は子供が泣き出したため途中で引き返した。
 ツチクジラは体長10メートル強、体重11〜13トン。国際捕鯨委員会(IWC)の管轄外のため、資源状況について国際的合意はない。捕鯨は日本独自の管理の下で行われ、全国で年間66頭の捕獲枠が定められている。網走を基地とする捕獲は年間4頭が割り当てられている。
 エバーグリーンの長谷川正人船長(46)は「私は見せるのが仕事。彼らは捕るのが仕事。でも、何とかならないものか」と話していた。一方、網走市の捕鯨会社は羅臼町に対し、「観光船が接近し、大変危険だった。危険運航に当たると思われるので、注意してほしい」との要請を出した。

引用終わり

 <世界自然遺産登録海域の近くで、結果的にクジラの生態を楽しむ観光客の前で捕鯨した事態になり、波紋が広がりそうだ。【本間浩昭】>と書いているが、捕鯨会社の「観光船が接近し、大変危険だった。危険運航に当たると思われるので、注意してほしい」というコメントをどうとらえるのであろう。
 悪いのは捕鯨の邪魔をしたこの観光船であるのに、いかにも捕鯨を見せたことが問題だ。ひっそりとやらなければいけないというような書き方です。

 もう言い尽くされていることであるが、現在、「捕鯨はすべて悪」という風潮である。では、豚だったらいいのか、牛だったらいいのか、羊だったらいいのか。豚でも、牛でも、羊でも目の前で殺されるのは嫌がる人が多くいるでしょう。たとえば闘牛は目の前で牛を殺りくするショーです。
 イヤだったら、見なければいいだけの話です。捕鯨があるから、と断わって出船すべきなのです。それを危険運行までしておいて、後で文句を言う。アホか。めったに見られない場面に遭遇したと思う人もいるだろう。
 私が小学生のころには、貴重な蛋白源である鯨を捕るためのキャッチボートなどと母船が一体となった捕鯨船団についてはキャッチボートの砲手の写真などとともに社会の教科書に掲載されていました。そして、工場になっている巨大な母船の内部図などが特集で週刊少年サンデーなどのマンガの特集などでもありました。
 現在、鯨は一部の種類の鯨だけが増えて、本来、絶滅の危機にある北極鯨などは増えていません。しかし、その北極鯨を年間五〇頭もエスキモーの人々が捕ることを伝統ということで問題としていないアメリカとマスコミ。
 日本の捕鯨だけを問題視するマスコミ。

 私は部屋では窓を開けっ放しで寝ているので、外の音がよく聞こえるが、住宅街なので、以外と静か。でも今日は、朝、六時過ぎの早い時間にガーン、ガーンと何かを蹴る大きな音がするので、目がさめる。何だろうと窓の外に出るが、どうやら私の部屋の建物ではないようで、隣の建物のよう。ドアの外に出ると、大声を出しながら、隣のマンションの一階のドアを蹴りまくっているおっさんが見える。そして、ガシャンと入り口のガラスを蹴破って出て行ってしまった。
 外に出るにもパンツとTシャツなので、部屋に帰り、ズボンをはいて、携帯とカギを持ってすぐに、外に出たら、その部屋から男の人と女の人が出てきていたので、「男がガラスを割って外にいきました」と声をかけて、降りて、いっしょに少し探したが、見つからず。
 そのドアを蹴られていた部屋の人はマンションの管理人さんを兼ねているのかわからないが、「ヨッパライですかね」「まあ、ガラスだけだからよかったか」と言っていたが、なぜすぐに出てこなかったのだろう。怖ければ、一一〇番をするなりの事は部屋からでもできただろうに。ガラス代は当然、住人が毎月積み立ててあるであろうお金から出すことができるからだろうか。


 二名様来店。Maxさん来店。Iさん来店。
 Iさんと遅くまでドンチャン。


アーロン収容所にみるイギリス人
8月27日月曜日晴れ ○

 会田雄次氏はその著書「アーロン収容所」の前文に、捕虜生活においてイギリス人については下記のように感じたと書いている。
以下引用
 <
この経験は異常なものであった。
略) 
 私たちも終戦になったとき、これからどういうことになるだろうかと、戦友たちと想像しあった。ところが実際に経験したその捕虜生活は、およそ想像とかかけちがったものだったのである。
 想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑的な仕返しをうけたというわけでもない。それでいて私たちは、私たちといっていけなければ、すくなくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反応と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。
 略)
 私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それはおそろしい怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきたのだ。
>p四〜五

 会田氏が
「全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人のすべての不幸の根源になってきた」と書くイギリス人の正体とはどういったものだったのでしょう。戦時中に捕虜となったもの、あるいは投降者した者を、会田氏のように非武装解除軍人と連合軍は区別していたが、その一人から会田氏が聞いた話として
「私はミッチーナで重傷を負い、倒れていて英軍に収容されました。意識を失っていて収容されたのです。でも、それはどうでもいいのです。私たちは帰れないかもしれません。ですから、この話だけはしておきたい。日本の人にしらせてください」
「英軍はひどいことをします。私たちは、イワラジ河のずっと河下の方に一時いました。その中州に戦犯部隊とかいう鉄道隊の人が、百何十人か入っていました。泰麺国境でイギリス人捕虜を虐待して多数を殺したという疑いです。その人たちが本当にやったのかどうか知りません。イギリス人はあの人たちは裁判を待っているのだと言っていました。狂暴で逃走や反乱の危険があるというので、そういうところへ収容したのだそうです。でもその必要はありませんでした。私たちは食糧がすくなく飢えに苦しみました。ああ、あなたたちもそうでしたか。あの人たちも苦しみました。あそこは毛ガニがたくさんいます。うまい奴です。それをとって食べたのです。あなたもあのカニがアミーバ赤痢の巣だということを知っていますね。あの中州は潮がさしてくると全部水に没し、一尺ぐらいの深さになります。みんな背嚢を頭にのせて潮がひくまで何時間もしゃがんでいるのです。そんなところですから、もちろん薪の材料はありません。みんな生のままたべました。英軍はカニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという命令を出していました。兵隊たちも食べては危険なことは知っていたでしょう。でも食べないではいられなかったのです。そしてみんな赤痢にやられ、血便を出し血へどをはいて死にました。水を呑みに行って力つき、水の中へうつぶして死ぬ。あの例の死に方です。看視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していました。全部死んだのを見とどけて、『日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを補食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である』と上司に報告したそうです。何もかも英軍の計算どおりにいったというわけですね」
 とにかく英軍は、なぐったり蹴ったりはあまりしないし、殺すにも滅多切りというような、いわゆる「残虐行為」はほとんどしなかったようだ。しかし、それではヒューマニズムと合理主義に貫かれた態度で私たちに臨んだであろうか。そうではない。そうではないどころか、小児病的な復讐欲でなされた行為さえ私たちに加えられた。
 しかし、そういう行為でも、つねに表面ははなはだ合理的であり、非難に対してはうまく言い抜けできるようになっていた。しかも、英軍はあくまで冷静で、「逆上」することなく冷酷に落ち着き払ってそれをおこなったのである。ある見方からすれば、かれらは、たしかに残虐ではない。しかし視点を変えれば、これこそ、人間が人間に対してなしうるもっとも残虐な行為ではなかろうか。
>P七三〜七五

 この項続きます。

 今日も一日中部屋に居た。部屋を片付けたり、洗濯したりで一日が終わる。

美丈夫の飲んべえの会 
8月26日日曜日晴れ ×
 
昼より高田馬場のスポーツセンターに行く。今日は久しぶりに三時間びっしりのフルメニューを消化。

 夕方より蔵元v?川社長も参加してくださり、「美丈夫の飲んべえの会」にてドンチャン。
 本日の出品酒
NO.1 平成19年 美丈夫 鑑評会出品酒
 NO.2 平成19年 美丈夫 舞 純米吟醸 うすにごり
NO.3 平成15年 美丈夫 夢許 純米大吟醸斗瓶取り 限定30本 4年古酒
 NO.4 平成16年 美丈夫 夢許 純米大吟醸斗瓶取り 限定30本 3年古酒 
 NO.5 平成17年 美丈夫 夢許 純米大吟醸斗瓶取り 限定30本 2年古酒
NO.6 平成18年 美丈夫 夢許 純米大吟醸   1年古酒  
 NO.7 平成19年 美丈夫 夢許 純米大吟醸  
 NO.8 平成19年 美丈夫 華 純米大吟醸40%精米
 NO.9 平成19年 美丈夫 薫 大吟醸40%精米

   
 濱川社長の御好意により提供していただいた、
 <「美丈夫しゅわっ!!」 発泡吟醸酒 精米55%>
 <「美丈夫レモン  」 リキュール >
の評判がすごくいい。

 おかげさまで多くのお客様に御参加頂き、無事終えることができました。ありがとうございました。







池田大作氏が語る創価学会の勝利とは
8月25日土曜日晴

 わたしは常々創価学会の気狂い新聞に「勝利」「常勝」「戦い」とかの文字が踊っているが、その意味がわからないままでした。
 今日、その疑問が氷解いたしました。
以下、本日(平成一九年八月二五日)の聖教新聞よりの引用です。
「大阪の戦い」にすべてが要約
略)
 一、翌年の四月、
再び大阪で補欠選挙があった。
 東京の幹部が、戸田先生に進言して、急に支援が決まった。
 私も、関西の同志も、疲れ切っていた。
 しかも、東京から応援に来た幹部の何人かは、遊び半分だった。そのために歩調があわなくなった。戸田先生は、無責任な幹部を厳しく叱られた。
 私が負けた戦いは、この、ただ一度である。

引用終わり
 つまり創価学会の池田大作ダイセンセイにとっての勝利とは選挙のことだったのですね。
 カルト創価学会とは選挙を目的とした政治団体だったわけで、決して宗教団体ではなかったわけです。

 な〜んだ。

 今日はヒマ。ホロン部員Yさん来店。月曜日に留学先のフィンランドに帰られるそうな。Yさん@横浜さん来店。三名様来店。
 早い時間から飲む。


8月24日金曜日晴れ×
 今日はどういうわけか大忙し。
 ケイザブローさん来店。初めてのお客様Hさん二名様で来店。Cさん二名様で来店。バンブーさん来店。Tさん二名様で来店。一名様来店。マロさん来店。Kさん@ソウルさん来店。Yさん来店。
 ドンチャン。

8月23日木曜日晴れ×
 Yさん来店。Y岡さん来店。ITGさん三名様で来店。

池田大作の回想
8月22日水曜日晴れ

 以下引用
 思えば、戦死した長兄は、一時除隊で中国大陸から戻った時、しみじみと語っていた。「日本軍はひどすぎる。あれでは中国の人たちが、あまりにも、かわいそうだ」
 二一歳で出征し、二九歳で戦死するまで、青春を滅茶苦茶にされた兄の遺言である。
 さらに、明治の末か大正の初めの二年間、韓国のソウル(当時、日本の支配下で京城と呼ばれていた)に滞在していた父もまた、激怒して言った。
「どうして日本人は、こんなに威張りくさって、傲慢なんだ。あんないい人たちを、苛めて、苛めて、苛め抜いて、日本はなんという国か!」と怒りを込めて語っていた。
 終戦直前の空襲が激しかったころ、疎開先の馬込の家の近くに、撃墜された飛行機から、若きアメリカ兵がパラシュートで降りてきた。
 アメリカ兵は、人々に棒で、さんざんに殴られ、蹴られた。
 挙げ句に、目隠しをされて憲兵に連れて行かれた。
 その光景を、母に伝えると、「かわいそうに!かわいそうに!!かわいそうに!その人のお母さんは、どんなに心配していることだろうね」と言っていた。
 あの母の声は、今も心に響いて離れない。
 こうした父と兄の憤怒、そして母の祈りを胸に、私は、中国にも、韓国にも、アメリカにも、そして全世界に、平和友好と相互信頼の「金の橋」を築き上げてきた。
引用終わり
 平成一九年八月二〇日気狂い新聞(通名聖教新聞)第三面

 これを読んで、違和感を感じない日本人はいるでしょうか。
 文面からは当時の日本人が海外で、また唯一、事例としてあげている無差別爆撃のアメリカ兵に対しての民衆の怒りは当然だとしても、国内でも醜いおこないしかしてこなかったといっているのです。その中にあって、この池田大作氏の家族だけは、まさに聖人のような家族だったのです。
 違和感ありあり

 ちなみに、今日の聖教新聞には池田氏の家の事が書かれています。
以下引用
「もともと東京の蒲田区(現・大田区)麹谷三丁目の二階建ての屋敷に住んでいた。
 広い敷地には鯉や鮒が泳ぐ大きな池があり、楓や桜、さらにイチジクやザクロも植えられていた。
 とんぼ捕りなど、幼き日の楽しい思い出が光るこの家も、昭和一三年(三八年)、兄たちの出征と相前後して人手に渡り、軍需工場へと変わった。
 略)
 麹谷二丁目に移り住んだ立派な家も、東京大空襲の後、空襲の類焼を防ぐために取り壊されることが決まり、強制疎開させられた。そこで、当時、田園が広がる大森区(現・大田区)馬込のおばの家に、一棟建て増しさせてもらい、移り住むことになった。
 五月二四日。新しい家ができあがり、荷物もリヤカーで運び終え、あすから皆で暮らせるというその夜のことだった。
 「落っこちた!落っこちた!」と、防空壕の皆が騒ぎ始めた。
 無情なる空襲によって焼夷弾が、我が家に命中した。完成したばかりの我が家は全焼してしまったのである。父と母は人生をかけて築き上げてきた大切な幸福の城を、戦争はことごとく破壊してしまった。
 なんとか運び出した長持ちに入っていたのは、たくさんの「ひな人形」だった。それでも、「このおひなさまがかざれるような家に、きっと住めるようになるよ」と皆をはげましてくれる母の明るさが、我が家の希望の光りとなった。」
引用終わり

 同じ紙面に「小学校五年生の私も、海苔製造業の家業を手伝い、六年生からは新聞配達も始めた」と書いています。二年間京城にいたお父上はやり手の海苔製造業者だったようです。ふ〜ん

 そして、世の指導者を峻別する、絶対に譲れない基準として
「軍部権力と戦ったか、どうか。この一点であった」
 と書いています。
 では池田氏は支那政府の事をどう思っているのでしょう。 池田ダイセンセイが永遠の友情を誓いあったパナマの指導者であるノリエガ将軍。ルーマニアのチャウシェスク大統領のことはどうおもっているのでしょう。
 そんな基準で選んだという「生を賭けても悔いのない師」(同日の聖教新聞より)である戸田氏に対して、死の直後に池田氏が戸田氏宅に乗り込み、遺品類、古美術、など四億円相当の遺産を強制的に差し押え、葬儀に寄せられた四千万円あまりの香典さえ、遺族に渡さず、創価学会が取ってしまい、未亡人らの抗議でやっと、ほんの一部が返されただけだそうです。そのあとも色紙、メダルにいたるまですべて回収して二代会長色を一掃したそうです。自宅は、池田氏会長就任後に池田氏自身の手により売り払われたそうです。
 死んでしまえば、自分の師だった方の御遺族に対してのこの醜い鬼畜のような仕打ち。
 書いてることと違和感ありあり。

  王太白さん来店。二名様来店。
 営業終了後、高円寺のお店に飲みに行く。


朝鮮人特攻兵の石碑と黒田福美
8月21日火曜日晴れ ○

 下記のような記事がチョンイル新聞(通名朝日新聞)にありました。
以下引用
 
朝鮮人特攻兵の石碑を故郷に 女優の黒田福美さんら計画
 略)
  黒田さんが
卓さんを知るきっかけは、16年前に宿泊先で見た「夢」だった。青年が現れ、「死んだことに悔いはないが、朝鮮人なのに日本人の名前で死んだことが残念だ」と告げる。意味が分からないが、頭から離れなかった。

やがて
「特攻兵では」と思い始める。ソウル五輪のころから韓国通で知られ、韓国ブームの中でテレビのコメンテーターとしても活躍していたが、特攻隊に朝鮮出身者がいたことは、それまで知らなかった。

95年に新聞のコラムに夢の話を書いたことで、靖国神社から連絡があり、卓さんの遺影を初めて見た。
知覧基地近くの食堂の娘だった赤羽礼子さんと知り合い、韓国の親族とも交流するうちに「
夢の青年」と信じるようになる

00年夏、沖縄県糸満市の「平和の礎(いしじ)」を訪ねた。沖縄戦の犠牲者らの名を刻む石碑に卓さんの名も刻まれていた。

 
沖縄で犠牲になった朝鮮人には強制連行された軍属が多いが、日本への協力を知られることをいやがる親族から刻銘の同意を得るのは簡単ではない。黒田さんは、犠牲者の調査を続ける韓国・明知大学教授の洪鍾●(●はにんべんに必、ホン・ジョンピル)さん(71)と出会う。

洪さんの兄は海軍兵だった。各地を歩いて遺族を探し、礎への刻銘の許諾を得るという地道な作業の中で、洪さんは卓さんの本家に当たる親族を探し当てていた。

昨年、二人で卓さんの故郷、韓国南部の西浦(ソッポ)を訪ねた。黒田さんによると、
卓さんの墓はないという。「石碑を故郷に建てたい」という黒田さんに村の人が問いかけた。「戦争で大勢が死んだのに、なぜその人だけ?」

洪さんによると、その町でも多くの人が戦争で犠牲になったとみられるという。「卓さんへの思いを通して、多くの人が巻き込まれた戦争の悲劇に思いをいたす」冪それが黒田さんがたどり着いた結論だった。

年内にも建立したいという碑の表には、卓さんへの追悼、裏面は戦争の犠牲者を悼む言葉を刻む。

黒田さんは「日本から訪ねてくれる人がいたらうれしい」。洪さんは「日韓の過去の歴史を学ぶ場になったらいい」と語る。

引用終わり
(asahi.com 2007年08月18日18時29分)
http://www.asahi.com/national/update/0818/TKY200708180216.html

  この黒田福美という女優の事は私は知りませんが、この記事を読んで思うのは、<黒田さんが卓さんを知るきっかけは、16年前に宿泊先で見た「夢」だった。青年が現れ、「死んだことに悔いはないが、朝鮮人なのに日本人の名前で死んだことが残念だ」と告げる。意味が分からないが、 頭から離れなかった。 >って、まるで、オカルトの世界です。そして、その夢に出てきた朝鮮人を「特攻兵」と決めつけ、そして、朝鮮人の特攻兵は多くいるのに、<赤羽礼子さんと知り合い、韓国の親族とも交流するうちに「夢の青年」と信じるようになる。>光山大尉と断定。そして、その光山大尉の像を建てる・・・・
 これはあの姜尚中氏もその著書でやっていることだが、反論も確認もできない死者の声を代弁し「死んだことに悔いはないが、朝鮮人なのに日本人の名前で死んだことが残念だ」と言っていることです。光山少尉がそのように思っていたかどうかも確認できません。
 妄想、思い込みで像を建てるという事がニュースになるとは流石は朝日新聞です。
 ましてや、このニュースには「沖縄で犠牲になった朝鮮人には強制連行された軍属が多い」と朝日新聞らしい捏造が書いてあります。
 軍属とは、軍人以外で軍隊に所属する者のことをいうのであって、強制連行などありえません。
 息をするようにウソをつく。流石は支那・朝鮮の新聞であるといわれているチョンイル新聞(朝日新聞)だけの事はあります。

 それは、他の個所でも同じです。
 <昨年、二人で卓さんの故郷、韓国南部の西浦(ソッポ)を訪ねた。黒田さんによると、卓さんの墓はないという。>と書いているが、この光山大尉の墓は、 「日韓共鳴二千年」(名越二荒之助著 明成社)によれば、南朝鮮の慶州に、御両親、妹さんとともにあるそうです。

 この黒田福美という女優はインターネットで検索するとそのいろいろアホな行動が書かれています。
「韓流は(日本に対する)原爆ドカーン」(「原爆」は韓国人が日本人へ嫌がらせをするときに良く使う言葉)(出典:日本テレビ「ザ!情報ツウ」二〇〇四年一二月二七日)なお、この発言の後に「原爆という言葉を使った不適切な表現がありました。訂正して、お詫び申し上げます。」とのアナウンサーがお詫びの言葉を発する事態になった。
「日本の運命はこの方(金正日)の決断にかかっている」(出典:テレビ朝日「ワイドスクランブル」二〇〇五年四月一二日)
竹島のことを、司会者の訂正を無視し「独島」と言い続ける。(出典:テレビ朝日「ワイドスクランブル」二〇〇五年四月一二日)
韓国でレイプ未遂にあい、そのことを話した後「その時、私思ったんですね。私達も慰安婦のおばあさんにこういう事をしてたんだなって……。」※なお、その"おばあさん"の証言で裏づけが取れたものは一つもなく、また今の価値観で推し量っているも問題である。(出典:テレビ朝日「徹子の部屋」二〇〇二年五月二八日)

 朝鮮でレイプ未遂にあったときに、「その時、私思ったんですね。私達も慰安婦のおばあさんにこういう事をしてたんだなって」と思えるのは凄いです。アホとしか言い様がありません。
 そして、下記のような発言もあります。
以下引用
黒田:
略)私個人は、名前の問題についても、在日の方が本名を使おうが、通名を使おうが本来は自由じゃないかと思っています。本名を使わなければいけない、とかいうこと自体、実は非常に日本的な考えだと思います。要はさまざまなあり方を受け入れる体制があればいいわけで、日本社会の問題なのだと思います。

引用終わり
http://www.seinenkai.org/annyong/kuroda.htm (アンニョン!インタビュー黒田福美17号掲載)

 <在日朝鮮人が日本名の通名という偽名を使っているのは自由であり・・・・本名を使わなければいけない、とかいうこと自体、実は非常に日本的な考えだと思います>って、<死んだことに悔いはないが、朝鮮人なのに日本人の名前で死んだことが残念だ>というのと矛盾していませんかね。
 まあ、矛盾と思わないから夢から死者の言葉を代弁するということを平気でやり石碑を建てようなどという事が思い付くのでしょう。
 売名行為だといわれてもしかたないでしょう。

 脳みその腐ったバカ女優です。そんなバカ女優の話を取り上げるアホ新聞。

 今日はヒマ
 御近所のTさん来店。二名様来店。
 さっさと寝る。

クーラー
8月20日月曜日晴れ

 昨日、江上さん宅でのドンチャンの時に、「この夏は部屋ではまだクーラー使った事ありません」と言ったら参加されていたみなさんに驚かれたが、本当にこの夏は部屋ではクーラーのスイッチを入れたことが無い。
 部屋の簾を下げた窓を開けて、換気扇をつけて、扇風機を回しているだけ。前の早稲田のアパートに居る時も、クーラーはなかった。窓際に扇風機を二つ置いてまわしていただけでした。
 でも、その部屋で真夏にテキーラパーティをやった時は、みなさんにタオルを一枚づつ渡してのドンチャンでした。写真はその時のもの。
 今の部屋は三階で、前には大きな建物が無く、風がけっこう通りますので、なんとか過ごせます。部屋ではタオルを首からさげて、Tシャツとタンパンで裸足という姿ですけど。
 今日も朝起きて、一日中部屋で本を読んだりしてゴロゴロして過ごす。


ドンチャン
8月19日日曜日晴れ ×

 店を片付けてから、江上さんの御自宅でのドンチャンに参加。
 遅れて行くと、すでに健さん御夫妻、中島さんがいらしている。
 その後、波里さんも合流され、江上さんの奥様のしほさんの御料理をいただきながら、ドンチャン。
 話はいつもの放浪時代から、現代までいろいろ。その話の中には達人といわれた江上さんのお父上の関係で、船越、植芝の両先生と井上先生はともかくとして頭山満 まで登場・・・・
 ちなみに江上さんのお父上の若い時の写真は弟子のお一人がブログに掲載しています。メチャカックイイ
http://blogs.yahoo.co.jp/tutom2000/1857538.html

 いつもどおり、ヨッパラッイ。それを待機していた中島さんのお弟子さんが車で送ってくださるが、その運転手をしてくださったのが、いつものSさんでなく部の監督のKさん・・・・すみませんね〜こんなヨッパライのために


いかにも朝日新聞らしい社説
8月18日土曜日晴れ
 今日の朝日新聞の社説はいかにも朝日新聞らしい社説でした。完全保存版として残すべきではないでしょうか。
以下引用
パル判事_心配な安倍首相の言動
 安倍首相は19日からの外遊でインドを訪問する際、東京裁判(極東国際軍事裁判)の判事を務めた故パル氏の遺族に会う予定だ。
 パル氏といえば、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判でただ1人、東条英機元首相ら被告25人全員について「無罪」の少数意見を書いたインド人判事である。
 敗戦国を裁く戦勝国の正当性を問いただしたパル氏は、敗北に打ちひしがれる日本人の間に共感を呼び起こした。一部では、侵略の過去を弁護する「日本無罪論」の象徴として偶像視されてきた。

 戦後しばしば日本に招かれ、最後の訪日の際には勲一等を受けた。そのときの招待に動いたのが、安倍首相の祖父である岸信介元首相だった。
 そのパル氏の遺族に会うことについて、首相は「日本とゆかりのある方。お父様のお話などをおうかがいできることを楽しみにしている」と語っているが、そんな単純な話ではない。

 旧日本軍の慰安婦問題や靖国参拝をめぐって国際社会の視線が厳しい中で、首相の行動は、東京裁判と日本の戦争責任を否定するかのようなメッセージを発することになりかねない。
 とりわけ安倍首相が不信感を持たれるのは、これまで東京裁判を否定する見方に共感を寄せてきたとみられているからだ。首相就任後の国会答弁では「国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはない」と語り、個人としての見解には含みを残した。

 確かに東京裁判は評価が割れている。事後につくられた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が戦争犯罪に加えられたり、原爆投下などの戦勝国側の問題が裁かれなかったりした。一方で、日本軍の虐殺や謀略が日本国民の前に初めて明らかにされた。戦争を裁く国際法を築く一里塚にもなった。
 裁判に功罪があるとはいえ、日本はそれを受け入れることで国際社会への復帰を果たしたのは間違いない。日本として、けじめをつけたのだ。そのことを政治指導者は忘れてはならない。

 見逃せないのは、日本ではパル氏の主張を都合よく解釈している面があることだ。一部の保守系の人たちは、「日本には戦争責任がない」と受け止めた。
 しかし、パル意見書の趣旨は、当時の国際法を厳密に解釈すれば、侵略戦争の指導責任を問うことはできないという法律論である。現に、パル氏は南京虐殺などで日本軍の行動を厳しく批判した。日本には法的責任はなくとも、道徳的責任があると認めている。

 生前のパル氏と面識のあるインドの代表的知識人、アシス・ナンディ氏は「パルを日本軍国主義の正当化に使うのは間違いだ」と言い切る。
 安倍首相はそうした
パル判事の全体像を理解しているのだろうかパル氏の主張をつまみ食いして遺族と語り合うようなことだけは、厳に慎んでほしい。
引用終わり
2007年08月18日(土曜日)付朝日新聞社説

 極東軍事裁判とはどのようなものであったかは多くの本が出版されています。
 戦後、アメリカ軍が我国の情報検問と洗脳をやっていた事、そしてそれをわからないようにやっていた事により、現在の「東京裁判史観」というものになっています。「東京裁判史観」というものについては、一九八六年に支那に媚を売るあの赤い後藤田正春が中曽根内閣の官房長官時代に「東京裁判については色々意見があるが、日本政府はサンフランシスコ平和条約で、東京裁判の結果を受諾している。政府が東京裁判史観に基づく歴史解釈をとらざるを得ないのは、条約によって法律的に拘束されているからだ」とウソを吐いた事があるが、「東京裁判と日本の戦争責任を否定するかのようなメッセージを発することになりかねない」と書く朝日新聞の社説はこれと同じウソをついている。

 「日本と安部首相」の事が大嫌いな朝日新聞の今日の社説は「パル氏の主張をつまみ食いして遺族と語り合うようなことだけは、厳に慎んでほしい。」と偉そうに書くが、つまみ食いというかウソを書いているのはどちらであろう。
 パール判事は、確かに日本人による残虐行為はあったが、ドイツと違って日本の場合は一般市民の虐待に関する「命令、授権または許可があたえられたという証拠は絶無」であり、捕虜虐待が政府の政策であったことを示す証拠もないとして、次のように判定している。
<本件の当面の部分に関するかぎり、訴因五四において訴追されているような命令、授権または許可があたえられたという証拠は絶無である。訴因五三にあげられ、訴因第五四に訴追されているような犯行を命じ、授権し、または許可したという主張を裏づける材料は、記録にはまったく載っていない。この点において、本裁判の対象である事件は、ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠により立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っているのである>(「共同研究 パル判決書 下」東京裁判研究会編 講談社学術文庫 昭和五九年刊)p五九〇
<本裁判所条例が犯罪としてあげるところは「戦争法規マタハ戦争慣例ノ違反」に止まる。条例は「戦争法規ノ導守ヲ確保シソノ違背ヲ防止スル適当ナル手段ヲ執ルベキ法律上ノ義務」の「無視」は犯罪としてあげていないのである。もし訴因五五をもって「故意ニマタ不注意ニ法律上ノ義務ヲ無視」することそれ自体が犯罪を構成することを意味するならば、その場合は、訴因五五で訴追されている犯罪は本裁判所条例の規定外の犯罪となり、したがって本裁判所管轄外となるであろう>(同じく「共同研究 パル判決書 下」東京裁判研究会編 講談社学術文庫 昭和五九年刊)p五四八


 東京裁判におけるこの訴因五三とは、戦争の法規・慣例の違反行為を頻繁にして常習的になすことを命令し授権し且つ許可することを共謀したというもの。訴因五四とはその違反行為を現実に命令し受験し且つ許可したかというもの。訴因五五とは戦争の法規・慣例の導守を確保しその違反を防止するに適当なる手段を執るべき法律上の義務を故意叉は不注意に無視したというもの。

 そして、同じく社説ではインドの「代表的知識人」とかいうアシス・ナンディ氏の言葉として「パルを日本軍国主義の正当化に使うのは間違いだ」と引用しているが、その逆の言葉も多くある。
 私の手元にある「自由と独立への道」(終戦五十周年国民委員会 平成七年刊)には下記のようなインドの識者の言葉が掲載されている。


 <日本は戦時賠償をしなければいけないとか、日本は戦争犯罪を犯したという告発に、パール博士は賛成しませんでした。博士は、インド政府の立場を充分に代弁したのです。我々は、全面的にパール博士を支持します。このことを、我々は現在にいたるまで誇りに思っています。過去と現在をとわず、インド政府はパール博士の判決を支持しており、それは我々すべてのインド人にも言える事です」(P・Nチョップラ博士 インド元教育省事務次官)同書P六一


 <極東国際軍事裁判は日本を侵略者として告発しました。しかし、この戦争を特別な角度から見たのはインドの判事だけであり、私はこれに同意するものです。この裁判は侵略者としてv?印を日本に押すための、イギリスとアメリカのプロバガンダでした。パール判事は極東軍事裁判の法廷は、日本を一方的な見地から煽った見方で裁判すべきでないと表明しました。
 何故、日本は戦争に突入したか、パール博士が八〇〇ページにわたる弁論を法廷に提出したのは、この問題に関してでありました。
 パール博士がこのような判定を下した基本的動機は何であったか。戦時の日本は侵略的であったとする国際的な見解を博士は覆そうとしたのです。日本が侵略者であるという見解をパール博士は信じませんでした。日本が望んだわけではないが、やむにやまれず戦争に踏み切ったことを知っていたのです。博士もカルカッタの人であり、ボースに多分に影響を受けていたのでしょう。何しろ、ボースは日本の協力を得たのですから。私が知る限りこれは最も公正な判断でした。
 実は、パール判事の判決はイギリスに大きなショックを与えました。極東軍事裁判でインドを代表するためにイギリスが指名した人物が『日本は無罪である』と主張したことは、全く予期しないことだったからです。>
(T・Rサレン博士 インド国立歴史調査評議会理事)同書P六一〜六二

 <かってオランダのローリング判事は次のように語りました『インドのパール博士は真のアジアの姿勢を代表する判事として法廷に登場した。フィリピンの判事はアメリカナイズされていて、その姿勢においてアジア的なものは何もなかった。それとは対照的にインドの判事は植民地関係に強い憤りを感じていた。ヨーロッパは二〇〇年以上にわたりアジアを握って離さず、アジアを支配する間、ヨーロッパが行なったことに対して、パール判事は強い敵意を抱いていた。これがパール判事の姿勢だった。従って、アジア人のためのアジアをスローガンとした日本の戦争は彼には心から同意できるものだった。』つまり、東京裁判では判決が二つでたのです。一つはヨーロッパとアメリカの判決で、もう一つはアジアの判決です。
 私は学者として、この二つの判決は同等と見なすべきであると思っています。それぞれが異なる文化から出た判決なのです。今こそ、この二つの判決を検討し、本当の判決を下そうではありませんか。我々には新しい判決が必要なのです。それはバランスがとれたものでなければなりません。従って、私は世界中の全ての学者に要求したい。公正な方法で、自由にして将来の展望に立ち、この東京裁判の問題を見直し、検討しようではないか、と。一方に偏った文化による、いわゆる多数決の判決、あるいは勝者の判決から抜け出し、世界平和の中に生きるために、この件を早急に取り上げる必要があります。東京裁判は正しい判決を下しませんでした。それ故に、パール判事の貢献は将来のために極めて大きいのです>
(M・L・ソンディ教授 ネール大学)同じく同書P六二〜六三

 ちなみに、朝日新聞は触れたくもないでしょうが、かって朝日新聞が掲載したパール博士来日の下記の記事があります。
 <パール博士は東京裁判の判決にあたって「この裁判の目的が正義の実現にあるのではなく、復讐心の満足と勝利者の権力の誇示にある」「原爆投下は最大の戦争犯罪である」と主張し、敗戦下の日本人に深い感銘を与えた人として忘れる事はできない>
 昭和四一年一〇月一一日朝日新聞夕刊
 そして、その記事には当時八〇才のパール博士より「日本の皆さんに」として下記のメッセージが掲載されている。
 <私がこの老齢、この健康で今度日本へまいりましたのは、日本の皆さんに対する私の敬愛の念を親しくお伝えするとともに、皆さんに東洋精神の尊厳さを再び確立していただくようにお願いしたいからでありました。東洋は今、大きな政治的ルネッサンスを迎えようとしており、東洋の諸国は日本に注目し、日本の奮起を期待しているのです。
後略)>

 今日の朝日新聞の社説がいかに日本人として歪んだ思想なのかがよくわかる。
 このような朝日新聞の歴史観ついて思うのは、故江藤淳氏がその著書「閉ざされた言語空間」に書いた「CI&E文書が自認する通り、占領初期の昭和二〇年から昭和二三年にいたる段階では、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムはかならずしもCI&Eの期待通りの成果を上げるにはいたっていなかった。しかし、その効果は、占領が終了して一世代以上を経過した近年になってから、次第に顕著なものとなりつつあるように思われる」(P二七二)という文章の確かさです。
 江藤氏はこの名書「閉ざされた言語空間」(単行本としては平成元年八月赴綺春秋刊 引用ページは私の手元にある平成六年第一刷として出された文春文庫版による)において、米軍が我国において占領政策として日本人の思想および文化を破壊するためにどのようなやりかたをしてきたかを、アメリカのウィルソン研究所に招かれて研究していた時に、アメリカ国立公文書館分室やメリーランド大学付属マッケルディン図書館のゴードン・W・プランゲ文庫などに保存されている一次史料により明らかにしています。
 
 今日は土曜日なのに多くのお客様が御来店。初めてのお客様二名様来店。大阪からKさん来店。ITGさん二名様で来店。お連れ様は香港でMIKAさんやTIDUKOさんの同僚なそうな。金ちゃんRIEさんと来店。
ドンチャン。

2005年 ボルドー
8月17日金曜日晴れ

 ワインの事で以前より大変お世話になっている埼玉の酒屋さん「中田屋」の小久保さんから二〇〇五年のボルドーについてのメールがありましたが、そのメールに「1級とそれに準ずるシャトーは凄い事になっています。」とあるようにたしかに凄い・・・・・・

五大シャトーは
Lafite Rothschild ?122,880
Latour ?142,080
Mouton Rothschild    ?92,160
Margaux ?135,680
Cheval Blanc ?115,200
と目が飛び出ました。

その他の有名シャトーも
Leoville Las Cases ?43,520
La Mission Haut Brion ?37,760
・・・・・・・

 まあ、五大シャトーや有名シャトーだけがワインでは無いしと思ってみても、なんだかな〜

 二〇〇五年のペトリュスやロマネコンティはいくらになるんだろう。(二〇〇三年は楽天ではペトリュスは四〇万以上、ロマネコンティは九八万から一四〇万だそうな。ヒエ〜)

 今さら虚しいとはわかっているが、九〇年の五大シャトーが九八〇〇円だった時代がなつかしい。たったというべきか、もうというべきか、十二、三年前ですけど。
あまりよくないできの年といわれている八四年とか九二年の五大シャトーは四〇〇〇円でした。ロマネコンティは七〇年が六八〇〇〇円。  

 こんなところまで支那による害が・・・・・・・

 ちなみに、中田屋さんではオールドヴィンテージワインがみごとに揃っています。生まれ年のワインをお探しでしたら、相談されてはいかがでしょう。
中田屋さんホームページ→
http://winenakadaya.com/

 今日もスポーツセンターにいく。昨日できなかった背中、肩、二頭筋、下半身などのメニューを消化。
 
 今日もヒマだろうと思っていたら、ケイザブロウさん来店。YURIEさん来店。Mさん来店。大台さん二名様で来店。フィッシャーさん、エイドリアンさん、Mさんの三名様来店。Kさん来店。わ。さん来店。
ドンチャン。


53歳
8月16日木曜日晴れ

 昨日、靖國神社に参拝した時に購入した二冊の本の一冊が小野田寛郎氏の著書「ルバング島 戦後三〇年の戦いと靖國神社への思い」(明成社)であった。
 薄いこの本を読んでみて、小野田氏の凄さが今さらながら感じる。
 小野田氏は大正一一年三月生まれ。昭和一九年一月に久留米第一予備士官学校入校、同年九月陸軍中野学校二保分校で訓練の後、一二月フィリピンへ。その後、昭和四九年三月の五二歳で我が国に帰国するまで、三〇年にわたり任務遂行。
ブラジルに渡るのがなんと五三歳の昭和五〇年です。そしてブラジルの地にて一〇年をかけて牧場を開拓、経営し軌道にのせる。
 別の著書で、奥様と共に銃を側においての開拓だったというようなことが書かれていた事を思い出す。
 
 五三歳・・・・・

 今日も河岸が休み。午後よりスポーツセンターに行く。今日は胸部、三頭筋などのメニューを消化。
 まだ、右肩の奥が少し痛いので、ベンチプレスは最後にチューブを使った軽めのメニュー。

 初めてのお客様三名様来店。Tさん来店。インチキラクターさん来店。遅い時間に四名様来店。磯自慢をそのうちのお一人様が所望。磯自慢四〇%を飲んでいただくと「甘いね」「ちょっとな」「どうもな」でっ、「もっと辛口をくれ」「だから、もっと辛いのをくれ」

 久しぶり・・・・・・・



靖國神社参拝
8月15日水曜日晴れ 今日も暑い

 今日から三日間は河岸が休み。
 何時まで飲んでいたのか思い出せない。カッタルイので、スポーツセンターはパス。
 午後四時頃に靖國神社に参拝。この時間になると参拝する人も少なくなって来ている。境内でタバコを吸っているバカオヤジがいた。

 今年は閣僚では高市さんだけが参拝したそうな。安部首相は国民が「安部首相」というものに何を望んでいるかという事を理解していない。70%以上の支持率とはどういうことか。今の支持率の低下はどういうことか。わかっていないように思う。

 店に帰ってきて、酒の保管してある冷蔵庫の一つの温度が一三度になっていて大慌て。電源を切り、冷蔵庫を引き出して、掃除機で動力部のホコリなどを掃除。祈るような気持ちで再起動。徐々に温度が下がり、営業終了間際には四度になり一安心。
 メールをいただいていたSさんが靖國神社参拝をされた後に初めて来店してくださる。大分の御出身だそうで、郷土料理の「鯖のりゅうきゅう」というのを教えていただいた。今度、自分なりに作ってみよう。Oさん来店。金ちゃん、マロさん来店。今日はマロさんの誕生日。ということでドンチャン。遅い時間にヨッパラッテKさんが秘書のMAYAKOさんと来店。KさんによるとMAYAKOさんは「ギャルソネ」ならぬ「ザルソネ」だそうで、一緒に飲み始めてもいつも潰されるのはKさんだそうな。


「アーロン収容所」にみるイギリス人
8月14日火曜日晴れ 暑い

 「アーロン収容所」(会田雄次著 中央文庫一九七三年初版)というこの本より一番多く引用されているだろうと思われる英軍女性兵士にとっての日本人およびアジア人。
以下引用
 
<英軍兵舎の清掃というのは、いちばんイヤな作業である。もっとも激しい屈辱感をあたえられるのは、こういう作業のときだからである。
 略)
 この雑用は、たとえば掃除にしてみても、便所掃除やゴミ捨場の片付けなど、いちばんひとのイヤがるところを、いちばん下等な監督者をつけてやらされるのがふつうだからである。便所につまった糞を手で掃除させるぐらい朝飯前であった。
 略)
 その日は英軍の女兵舎の掃除であった。看護婦だとかPX関係の女兵士のいるカマボコ兵舎は、別に垣をめぐらせた一棟をしめている。ひどく程度の悪い女たちが揃っているので、ここの仕事は鬼門中の鬼門なのだが、割当てだから何とも仕方がない。一カ月に一、二回はこの役目にあたるのである。
 彼女たちの使役はじつに不愉快である。
略)
 それはともかくとして、まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときは、たとえ便所であろうとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない格好をしているときなど身支度してから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。
 ドアをあけ、ていねいに一礼し、掃き、腹這いになって床をふく。こういうとき、男であろうと女であろうと絶対にイギリス人を注視してはいけない。とくに目をあわせるといけない。大層な剣幕でどなられる。略)反抗心のあらわれと解釈されるらしいのである。
 略)
 タバコをお礼にくれたりするものがあるので、かえってこの仕事を喜ぶ兵隊もいたが、私は大嫌いだった。なぜなら、タバコといっても一本か二本をくれるだけなのだ。しかも、そのときサンクスなどということばは絶対に口にしない。もっとも私は捕虜の全期を通じ、たしかに私用だと思われる仕事をしたことがあっても、イギリス人からサンキューということばは一度も耳にしなかった。おそらくこのことばを聞いた兵隊はいないであろう。
 しかも、タバコを手渡したりは絶対にしない。口も絶対にきかない。一本か二本を床の上に放って、あごで拾えとしゃくるだけである。もらわないと変にこじれて仕事が多くなると困る。仕方なしに拾うのだが、私の抵抗は、できるだけその女兵士の見ている前で、働きに来ているビルマ人かインド人の苦力たちにそれをやることである。「マスター、チェズテンマーレ(有難う)、マスター」とかれらは喜ぶ。マスターとよばれている私たちを見て、女どもは、不思議そうな不愉快そうな顔をする。せめてものうさばらしであった。
 この女たちの仕事s○にさわるもう一つのことがある。足で指図することだ。たとえばこの荷物を向こうへ持って行けというときは、足でその荷物をけり、あごでしゃくる。よかったらうなずく、それだけなのである。
 その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったように髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終えると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。
 入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし、日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視したのである。
 このような経験は私だけでなかった。
略)
 ところがある日、このN兵長がカンカンに怒って帰ってきた。洗濯をしていたら、女が自分のズロースをぬいで、これも洗えといってきたのだそうだ。
「ハダカできやがって、ポイとほって行きよるのや」
「ハダカって、まっぱだかか。うまいことやりよったな」
「タオルか何かまいてきよったがまる見えや。けど、そんなことはどうでもよい。犬にわたすみたいにムッとだまってほうりこみやがって、しかもズロースや」
「そいで洗うたのか」
「洗ったるもんか。はしでつまんで水につけて、そのままほしといたわ。阿呆があとでタバコくれよった」
 略)
 もちろん、相手がビルマ人やインド人であっても同じことだろう。そのくせイギリス兵には、はにかんだり、ニコニコしたりでむやみと愛嬌がよい。彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。どうしてもそうとしか思えない>P四五〜五〇

引用終わり

 <彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。> 多くの国を植民地にしていたイギリス人がどのような感情でその植民地の住人に接していたかがよくわかる事例です。
この項はまだまだ続きます。

 河岸に行くが、魚がめちゃ薄く、高い。
 
 淡路島の中学、高校の同級生であった豊田が来店。モデルをやっていたお嬢さんが結婚し、その初孫に夫婦で会いに来そうな。酒が飲めない豊田だが、淡路島では付き合いよく飲んべえの我々とも朝までウーロン茶で付き合ってくれていた。初めてのお客様Kさん二名様で来店。香港土産を持ってマルガリータさん来店。
 営業終了後、マルガリータさんと高円寺のお店を二件ハシゴ。ドンチャンで記憶がブッ飛び。やっぱ、蒸留酒はあまり合わない・・・・・


人民平和軍縮協会御一行サマ
8月13日月曜日晴れ 

 
<中国人民平和軍縮協会の一行が学会本部へ。牛秘書長は「名誉会長の平和提言を世界が受け入れれば、核根絶はもっと早くできます」と
 中国人民平和軍縮協会の牛強秘書長一行が九日午後、東京・信濃町の学会本部を訪問。戸田記念国際平和研究所の高村代表理事、上田常務理事、石渡理事ら代表が歓迎した。
 会見では、高村代表理事が「戸田第二代会長の『原水爆禁止宣言』から五〇周年の佳節を迎える今こそ、核の廃絶へ向け、両国の協力関係を強めていきたい」と念願した。
 牛秘書長は「人民こそ核兵器のない世界を創る原動力となる」との自らの信念を紹介し、「両国の人民が協力し、議論しあい、その声を世界に発信していくことは非常に重要です」と述べた。また「両国の友情を深めていくいく意味で、池田名誉会長の足跡を、私たちは忘れられません」と語った。
 同協会の文徳盛連絡員、また協会職員の林明星氏、沈芳氏が同席した>

聖教新聞平成一九年八月一〇日第一面

 はあっ?というような記事です。この気狂い新聞は全然書いていませんが、一九年連続で国防費ふた桁増加の軍事国家である支那。そして、とんでもない数の核弾頭搭載ミサイルが我国に目標を定めている事も書かれていない。
 ましてや、共産党一党独裁国家の支那において、その方針に逆らう組織の存在が許されるはずもない。よって、この中国人民平和軍縮協会という組織も政府の方針に沿っている。そのような国の「人民平和軍縮協会」
お笑いでしかありません。

流石は聖教新聞というべきでしょうか。

納涼船
8月12日日曜日晴れ
 
 五時四〇分に浜松町駅で待ち合わせて、理科大ラグビー部OBのみなさんとの納涼船によるドンチャンに参加させていただく。
 みなさん家族連れも多く楽しい一時。
 沖に出て、カモメが納涼船から投げられるお菓子などを狙って、ず〜と側にいる。
 私もエビのテンプラを食べた後の尾に練りワサビをたっぷりと山盛りにして投げると、空中で上手にキャッチ。でっ、そのカモメさんはその後「ペッ、ペッ」「なんじゃ、こりゃ」「バカヤロー」みたいな感じで、クチバシを半分ぐらい開けたまま飛んでいってしまいました。そのカモメさんが知らせたのか他にもたくさんいたのカモメがいっせいに飛び立ち、しばらく我々の納涼船にはカモメが寄り付きませんでした。

「人間を信じるとろくな事ない。ペッ、ペッ」・・・by東京湾のカモメ


 二次会はみなさんが大学時代からお世話になっているという飯田橋のお店にてドンチャン。
 店に一度寄り生ゴミを出してから帰宅。部屋に帰ってすぐに香港から帰ってきたマルガリータさんから、MIKAさんやみなさんからお土産を預かってきているという電話あり。

8月11日土曜日晴れ 今日もめちゃ暑い
 
河岸から帰り、仕込みを終えた後にスポーツセンターに行く。右肩の奥が少し痛いので、上半身はチューブを使って軽いメニューを消化。下半身のメニューを消化後に腹筋、背筋、有酸素運動。

 ヒマだろうと思っていたら、初めてのお客様Mさん二名様で来店。目黒のしみずさん来店。初めてのお客様Tさん二名様で来店。初めてのお客様Tさん二名様で来店。フィリッポさんがマウリッツオさんと来店。インチキラクターさん三名様で来店。
ドンチャン。



8月10日金曜日晴れ 今日も暑い
 
昨日の酒(きっと、最後のバーボン三種)が残ったまま、河岸へ。いつもどおり、あっちこっちで、「酒くせ〜」

 Hさん来店。バンブーさん来店。Kさん、御夫妻で来店。わ。さん来店。Yさん来店

懐が深い
8月9日木曜日晴れ 今日も暑い
 
政治家の秘書はどのような人がやろうがいいのでしょうが、朝鮮人が正規の秘書とは流石は民主党党首だけあって、懐が深い????
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2007/08/09/0200000000AJP20070809003300882.HTML
<金さんは「ボス」である小沢代表が、政権奪取の夢を実現するその日まで、秘書として補佐していく考えだ。>

 法則発動しないのでしょうか。なむ〜

 理科大ラグビー部OBのチヒロさん、ジャンボさん来店。マロさん来店。一名様来店。
ドンチャン。営業終了後、ジャンボさんの忘れ物を届けに行く。帰りに中野、そして、エムズバーにおじゃまする。久しぶりにバーボンを飲む。


恥性の栄誉
8月8日水曜日晴れ △

 以下引用
 
原田)アジアの国々からも、最大の信頼だ。「日本の政治家も文化人も、皆、学会の平和貢献に感謝し、模範とすべきではないか」と言った高名な評論家がいたな。
略)
 森山)世界の大学、学術機関から池田先生に贈られた名誉学術称号も、この上半期だけで「一六」。全部で「二一六」になりました(大拍手)。
 原田)嬉しい歴史だ。素晴らしい歴史だ。
日本の目覚めた学者も「池田博士を認識し、心から賞賛する、大きい日本にもらいたい」と言っていた。
 谷川)世界五大陸からのこれほど壮大な知性の栄誉は、日本はもちろんのこと、人類史上でも類例を見ないでしょう。まさに「世界一」の快挙です。圧巻です。(大拍手)
 竹内)「日本の政治家たちは、この偉大なる事実を知っているのか」(大笑い)と、
ブラジルの言論人が言っていた。
 館野)さらに、世界の都市から池田先生に贈られた名誉市民称号も、これまでに「五三七」にまでなりましたね。これも世界一ですね(大拍手)。
 奥様に贈られた名誉市民称号も「一七三」です(大拍手)。
 佐藤)
誰かが話し合っていた。「総理大尽は、名誉博士は、いくつ受けているのか」「いや、総理だったら、一つでも、もらえれば、大ニュースになることだよ」と(大笑い)
 谷川)
私が知っている学者も驚いていた。
「皆さんは、全世界が池田名誉会長を顕彰するのを聖教新聞で見ているから、見慣れているかもしれない」
「だが、その一つ一つが、誰とも到底、真似する事の出来ない偉大な業績です。学術称号を一つ受けるだけでも大変なことなのに、名誉会長は数百にも及んでいる。どれほどの大偉業か」と感嘆していた。
 原田)世界中の知性が、先生を心からの感謝を込めて讃嘆し、創価の連帯を賞賛してくださっている。まさしく御聖訓に「大梵天王・帝釈天も来下して」と仰せの通りの姿だ。
 すべて、池田先生が実現してくださったのです。先生の「死身弘法」「不借身命」の大闘争ありてこそ、日蓮大聖人の御聖訓も現実のものとなったのです。
 竹内)略)
 創価学会の初代会長、第二代会長、第三代会長はそれぞれ、大聖人の御遺命通りに難を受けられた。これが何よりも大事な如説修行の姿だ。
 佐藤)略)
 そもそも、これほどの発展をさせていただいたのも、全部、池田先生のお蔭ではないか!(大拍手)。
略)
 谷川)厳しいことを言うようだけれども、学会にあっても、四代、五代は何も悪口罵詈されていない。難も受けていない。全部、ただ池田先生お一人に受け切っていただいてきた。
 佐藤)その通りだ!誰もが、そう思っている。
 原田)四代も、五代も、六代も、全く難がない。何一つ批判されたこともない。もう一歩深く、師匠をお守りする責務を果たす戦いをすべきだった!本当に申し訳ない。
 谷川)四代は、あの極悪ペテン師・山崎正友u悦されてしまった。お金り輾し取られたり・・・とんでもなかった。これは、当時の執行部も同罪です。後輩として、将来のために明快に言っておきたい。
 原田)全くその通りだ。五代も本来、池田先生をお守りすべき立場であるにもかかわらず、すべて池田先生に護っていただいた二六年間であった。先生お一人で矢面に立ってくださった。
 谷川)本当に、そうですね。池田先生の計り知れない大恩を思えば、皆、これから一生涯、命を賭して師匠に御恩返しをしていくべきだ。そうでなければ、畜生と同じだ。卑怯者だ。
 竹内)そうしなければ、後輩から笑われ、後世に厳しい非難を受けていくだけだ。
 原田)そうだ、私自身、心して池田先生への報恩の道を貫き通していく決心である。これが、全会員に対する感謝であり、これが、広宣流布の原動力であるからだ。

 引用終わり
 平成一九年七月三一日聖教新聞第四面「青年座談会」より引用
 原田稔・・・・第七代創価学会会長
 谷川佳樹・・・・副会長
 竹内・・・・青年部長
 森山・・・・学生部長
 館野・・・・女子部長
 佐藤芳宣・・・・男子部長

 まあ、なんとも凄まじいというか、なんとも馬鹿らしいというか、なんともくだらない座談会の内容です。
 前半は池田ダイセンセイがいかに偉大か。いかに銭で名誉博士を買いまくったか。それを何処の誰かわからない人たち。
それはどこかの「高名な評論家」であったり、どこかの「日本の目覚めた学者」であったり、これまた名前のわからん「ブラジルの言論人」であったり、「私が知っている学者」であるわけで、その極め付けは「誰かが話し合っていた」。そのような人が賞賛していた。「誰かが話し合っていた」・・・・・マンガか?
 ましてや、池田ダイセンセイの受けた「大聖人の御遺命通りに難」とは単なる選挙違反による取り調べ・・・・
流石は創価学会の気狂い新聞だけのことはあります。


あほらし

 大台さん二名様で来店。Yさん来店。



斉藤貴男再び
8月7日火曜日晴れ

 三月に書いた事がありますが、「ジャーナリスト」の肩書きを持つ
斉藤貴男氏の座右の銘はその著書「非国民のすすめ」(筑摩書房 平成一六年)を読みなおしてみると、「いっぱしの文句は、まず、己が一人前になってからのこと」だそうで、これは漫画「夕やけ番長」(原作梶原一騎、画 荘司としお)の主人公の吐いていたセリフだそうです。
 そして、
「つまり私は、他人の批判を書く時には、そのための取材に最大限の努力を払い、誰からも後ろ指を指されることのない一人前のジャーナリストたらんと心がけてきたつもりです、といいたいのだ。」P三〇九
と宣わっています。
 その同じ著書には下記のような記述があります。
<拉致事件は確かに醜い。しかし、同じ事を、いや拉致してきた人数も強要した行為もそのはるか上をいくスケールで戦前戦中の日本が朝鮮の人々にしてきた歴史が無視されていく限り、今回の拉致した側はいくらでも自らを正当化することができてしまう」P一二一
 なかなかここまで歴史の無知と洗脳、そして、現実を直視も分析もできないアホウぶりは曝け出せません。しかし、「
取材に最大限の努力を払い、誰からも後ろ指を指されることのない一人前のジャーナリスト」って・・・・
 まるで、あのアホウぶりで有名な
井筒和幸氏なみの頭脳です。

斉藤貴男、お前がいうな!

 その他にも、この斉藤氏の著書には下記のようなアホウな記述が山盛りです。
 
<北朝鮮による日本人拉致事件について、過去の強制連行に言及することも事実上ゆるされない現状に照らせば、目下の新聞には体制批判的な姿勢が消え失せてしまっているからに他ならないのだ。>P一〇〇
 犯罪国家の北朝鮮の現在進行形の犯罪である拉致と実態のない過去の強制連行とを同じレベルにしています。
 また、下記のような記述もある。
<麻生太郎自民党政調会長が、「植民地時代の朝鮮半島で日本が行った創始改名は最初、朝鮮人自身が望んだことだった」などと発言したニュースが流れた。廬武芍韓国大統領の訪日を控えて、家柄だけで政治家になったような男(吉田茂・元首相の孫、麻生太賀吉・麻生セメント社長の息子)が、本来なら政治生命を奪われて当然の暴言を吐いて恥もしない。>P一四三
<二〇〇四年の新年早々、実にイヤなものを見せつけられた。小泉首相による、だまし討ち同然の靖国神社参拝のことである。「初詣でだ」「日本の伝統だ」との妄言も相変わらず。中国や韓国にケンカを売っているのに等しい愚行をここまで重ねるからには、東アジアの平和など、微塵も考えていないのだろう。いや、むしろ、破壊の対象なのかもしれない。
 今回の参拝はしかも、過去の侵略戦争の美化だけでに終わらない。近く戦場に送られ、確実に殺されていくのであろう。自衛隊たちを靖国u?るためのデモンストレーションとしての意味が、明らかに込められている。
略)
 中国や韓国の反発に「内政干渉だ」などと言っている場合ではないのである。>
P一〇二〜一〇三


 ウソの歴史でも支那、朝鮮の言いなりになっていればいいのであると言っているのです。
 早稲田の古本屋さんで七〇〇円で買ってきたこの斉藤貴男氏の著書「非国民のすすめ」はお値打ちでした。

 河岸から帰ってくるだけで、汗びっしょり。
 今日はヒマ。先週の金曜日に初めていらしてくださったMさんが今日も来店。Sさん先輩の方と来店。Sさん@名古屋さん来店。
 飲む。

 8月6日月曜日晴れ○
 週刊朝日の八月一〇日号の表紙はみにくいものであった。いくら憎くとも一国の総理に対してここまでやるとは・・・・
 社会党が崩壊した時に土井たか子に対して、拉致が明らかになった時に金正日に対して週刊朝日はこのような表紙を作ったことがあったのだろうか。

 朝起きて、従兄弟の車で法事のためにお寺さんへ。その後、酪農組合に行き脱退による出資金の返還手続き。市役所に寄った後に親父がお世話になった施設に挨拶に寄る。
 淡路の気温は東京と変わらないかも知れないが、山から水田の上を吹く風は心地よい。
 墓参りを済ませて、香典返しをお願いするために同じ部落内にあるお店へ。
 従兄弟に送ってもらって洲本高速バスセンターへ。高速バスにて新神戸。新幹線で東京に帰る。

ウリ坊
8月5日日曜日晴れ ×

 午前中に新幹線に乗り新神戸へ。新神戸から三ノ宮、そして高速バスにて淡路島へ。実家に行く前に三軒の従兄弟の家に寄る。
 その内の一軒の元克さんところに飼われていたウサギぐらいのかわいいウリ坊。まだ一〇センチぐらいの小さな時に山から連れてこられたそうで、ほ乳瓶の牛乳で育っているそうな。よくなついていて、人の気配がするとエサが欲しいので、クンクンと寄ってくる。
 実家に寄って、もう一軒の別の従兄弟の家に寄ってから中学の同級生である細川の幸きゃんところへ。同じく同級生の武田の和夫はんと三人で一緒に飲みに出る。店主のご好意によりお酒の持ち込みをさせていただきドンチャン。


8月4日土曜日晴れ ×
 築地は九州を抜けて日本海を北上していった台風様の影響で、めちゃ魚薄し。活けイカなぞありゃしない。あってもバカッ高い。
 でっ、活けイカを諦めて、活けタコ。
 やっぱり、昨日の反動で遅い時間までヒマ。
Hさん来店。マロさん来店。初めてのお客様二名様来店。
 なんだかんだで、遅い時間まで飲む。

8月3日金曜日晴れ ×
 なんとスポーツセンターでいつもお会いする方が二名様で来店。香港からHIME来店。マルガリータさん来店。Mさん来店。大阪からSさん来店。Oさん二名様で来店。Yさんとハワイのリチャードさん来店。塾長がベトナム在住の方と三名様で来店。ニューヨークの方が奥様と来店。
 どういうわけか、今日はメチャ忙しい。明日が心配・・・・
 ドンチャン

まだまだアホの井筒(閔妃)
8月2日木曜日晴れ ○

 想像で
<日本は朝鮮を何とかものにしたい。じっさい、どんな汚い手を使ってでも朝鮮を支配したいと考えていたでしょう。
略)
閔妃とは、李氏朝鮮第二六代にあたる王様のお后さまです。日本でいえば皇后陛下のような方ですよ。
略)
おそらく言うことを聞かない朝鮮の政権を倒し、日本が話を進めやすい政権を立てようという日本政府の謀略だったことは間違いないでしょう。
 朝鮮の人は怒りましたよ。だって国の母を殺されたんですから。日本に置かえて考えてみてください。どえらいことですよ。>

P九九〜一〇〇

 よりによってあんt諚妃と皇后陛下を一緒にするとは。ましてや、閔妃が国の母などと当時は言われてもいないし、慕われてもいない事は少し本を読めばわかることです。
 そして、歴史を少し知っていれば、井筒氏が書くような「日本は朝鮮を何とかものにしたい。じっさい、どんな汚い手を使ってでも朝鮮を支配したいと考えていたでしょう。」などというような状況で無かった事は明白です。
 当時の状況を考えれば、我が国は朝鮮を自立させたかったが、世界最貧国の朝鮮は事大するだけで、その知恵も力も無かった。
 関わりたくは無いでしょう。あんな国に。

 記憶は最後まであったつもりだが、生ゴミを出した記憶が無いのに、しっかりと出してあった。酒が目一杯残ったまま、前田のたっちゃんと一緒に河岸に行く。

 Sさん四名様で来店。Tさん二回目の来店。Yさん来店。マロさん来店。Kさん来店。大台さん二名様で来店。


まだまだ井筒(醜い事実隠匿)
8月1日水曜日晴れ ×××

 井筒氏は大東亜戦争後の北朝鮮への当時の朝鮮人、朝鮮人と結婚していた日本女性の引き揚げによる悲劇にはいっさいふれていない。
わずかに書いてあるのは
<祖国を失った在日朝鮮人にとって理想的だったのは北朝鮮のほうだったんです。こういう人たちは大韓民国でなく、北朝鮮を指示していたんですね。「北側に帰って理想国家づくりを助けよう」ということで、北側への帰還もはじまります。>P一四二
これだけです。
醜いものです。

 また、外国人である在日朝鮮人に対して
<日本の国が過去の歴史をきっちり精算し、けりをつけたのならいいんですよ。朝鮮に対する植民地支配、戦争、そして戦後の解放。そして日本に取り残されて生まれた「在日コリアン」といわれる人たちに対しても、ちゃんと日本国民の権利を取得させて、必要な人には補償もして、日本国民と平等に暮らしてもらってますよと。それが本当の謝罪というものであり、過去の問題への決着の付け方というものではないでしょうか。>P一五五〜一五六

 どうして、我が国が朝鮮にこれ以上過去の歴史の精算などをしなければならないのでしょう。ましてや、在日朝鮮人は取り残されたわけではありません。連中が勝手に居着いたのです。そんな外国人である在日朝鮮人に日本国民と同等の権利を取得させる必要等どこにもありません。
謝罪など要求される謂れもありません。泥棒に追い銭よりもっと悪いです。

 アホ過ぎる

 スポーツセンターに行く。あまり時間がなかったので、軽いメニューで一通り消化。

 Uさん二名様で来店。Hさん大勢様で来店。中学時代の同級生である前田のたっちゃん来店。二人で店でドンチャン。


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