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飲んべえ日記平成18年5月

香港にみる白人による侵略史
5月31日水曜日晴れ ×

 香港は一九九七年にイギリスより支那に返還された。それは、ただ、一八九八年九龍租借条約によるものであり、その期限が切れたためであるだけのことで、イギリスの植民地主義の証しである。
 誰でも知っているように、イギリスは一八四〇年のアヘン戦争によりその講和条約である南京条約で香港島を獲得。一八五六〜六十年の第二次アロー戦争後の北京条約で九龍を獲得した。そして、一八九八年に九龍租借条約を結んだ。
 この条約こそ、「強国の力を背景とした不平等条約」の典型であり、「民族自決」などというものに程遠いものであった。戦前の国民党は香港を実力解放しようとしたことはあったが(一九二七年)、中華人民共和国政府はそれをせずに、この植民地主義を容認し一九九七年まで待った。どのような条件下でも国と国との条約だから仕方がないと言うのであれば、国際紛争など起こり様もないわけです。
 そのイギリスの侵略の証である麻薬商人が当時の「ジャーディン・マセソン」商会。今のマンダリンオリエンタルホテル、不動産、金融、証券など「ジャーディン・グループ」です。

 Tさん二名様で来店。二名様来店。Kさん二名様で来店。Tさん二名様で来店。ホロン部員Yさん来店。大台さん来店。初めて方二名様来店。
写真はホロン部員Yさんよりいただいたおみやげ。フィンランドの酒。コーラ???????
風邪で調子がイマイチだったのに飲み始めたらすっかり忘れて、今日もドンチャン。気がついたらカウンターの椅子を並べて寝ていました。床で寝なくてよかった・・・・・・サル

おかげさまで
5月30日火曜日晴れ △

 「桜井マッハ速人暴行受けてもプライド守る」という記事がありました。
以下引用
 17日に「PRIDE武士道11」会見に出席した桜井マッハ速人  人気格闘家の桜井マッハ速人(30)を殴り、骨折などの大けがを負わせたとして茨城県警土浦署は29日、傷害容疑で同県つくば市の土木作業員酒寄(さけより)健一容疑者(33)を逮捕した。4月、土浦市内の路上で、目と目が合ったことなどに腹を立て、桜井の顔を殴った疑い。桜井は左眼窩(か)壁骨折など全治1カ月の大けがを負ったが「格闘家は絶対素人を殴らない」として、手を出さなかったという。
略)
「自分は道場で子供たちにも教えている立場。格闘家が素人を殴るわけにはいかない。よけたりしても相手を逆上させるだけ。あえて殴られるしかなかった」と話した。
 引用終わり
(日刊スポーツ) - 5月30日9時46分更新

 道場開きのその日に酔っぱらって公道に大勢で繰り出し、通行の邪魔をしていながら、注意するクラクションを鳴らした通行中の車のボンネットの上に飛び乗るという暴挙。その車に乗っていた素人に殴り掛かっていった末にその素人?にボコボコにされた長南亮、杉内勇、古館由紀などというバカ格闘家どもとはエライ違いです。
http://barbosa-japan-tokyo.com/bjt_staff.html

 今日は昭和六十一年六月十九日に「酒いわしや」として早稲田に店を開かせていただき、十年後に神楽坂へ「酒たまねぎや」と店名を変えまして移転し、五月三十日でちょうど十年になりました。合計二十年が過ぎた事になります。
 私のようなチャランポランないい加減な人間が、二十年も店を潰さずにやってこれたのはお世話になりましたみなさまのおかげと感謝いたしております。
 今日、刺身といっしょに出させていただいたタマネギは、当店の店名の由来である私の故郷である淡路島の宮崎青果現社長の宮崎由貴さんが御送り下さったタマネギ。

 今日は例年と違って、イベントも何もしないので、お客様のどなたにもお知らせはするような事はなし。ただ、本日、御来店いただいたお客様には当店より心ばかりのお礼。

 カトちゃんはじめてのお客様TさんとMさんと来店。Fさん初めてのお客様Mさんと来店。二名様来店。大台さん来店。スプマンテごちそうさまでした。バンブーさん来店。Tさん来店。Kさん二名様で来店。
ドンチャン。



その血は脈々と
5月29日月曜日晴れのちくもり ○

 今日の若宮啓文朝日新聞論説主幹による「拝啓小泉首相殿 米国で靖国を語れますか」と題されたコラム「風考計」より
以下引用
略)
 さて、今度の訪米を前にハプニングがありましたね。首相が米議会で演説するのなら、8月15日に靖国神社を参拝しないと約束してほしい。下院のヘンリー・ハイド外交委員長が、そんな書簡を下院議長に送ったのです。なるほど議会演説とは名案ですが、これでは実現も無理でしょう。
略)
 ところが、です。首相は就任以来、頑固に靖国参拝も繰り返してきましたね。そのことが「民主主義の日本」のアピールではなく、「かつての軍国主義」を擁護する行為と映る。そこに首相の分かりにくさがあるのです。

 いや、そんな批判をするのは中国と韓国だけだと首相はおっしゃるが、それは政府の公式レベルのこと。アジアではシンガポールのゴー・チョクトン上級相が「日本の孤立」に警鐘を鳴らしていることで空気が分かります。ハイド議員の書簡は格別にせよ、米国でも眉をひそめる人が多いのをご存じありませんか。最近は知識人の発言も目につくではありませんか。
 靖国神社が首相の考える兵士の慰霊の場にとどまらず、過去のアジア侵略や太平洋戦争を正当化する思想的支柱となっているからにほかありません。参拝支持の人々からは東京裁判を否定する声もしきりに上がるだけに、外国が気にするのも当然でしょう。
略)
 アジアで日本と中国の力が拮抗(きっこう)する時代を迎えたのは、史上初めてだと語られます。4月に訪米した中国の胡錦涛(フー・チンタオ)主席に対し、ブッシュさんは中国を「ステークホルダー」(利益共有者)と呼びましたが、なお警戒すべき一党独裁国には違いない。日本には民主主義の国として、アジアで踏ん張ってほしいと願っているのでしょう。


 
そうそう、欧米のある駐日大使がこんな風に言っていました。
 「中国に問題があるのはもとより当然。日本は民主主義の仲間だからこそ気になるのです。日本を応援したいのに、靖国問題でどんどん応援しにくくなるのは困ったことだ」
 日米安保体制はいま民主主義という共通の価値観のもと、より濃密な軍事協力の段階に入るのだとか……これはこれで心配です。
 民主主義という大義の下で戦争に走りがちな米国と、いまだに過去をひきずりがちな日本と。それを許し合うのがブッシュ・コイズミの友情かと言われぬよう、最後の首脳会談でそれを語り合っていただければ幸いです。

引用終わり

 胡錦涛のことをわざわざ(フー・チンタオ)とカッコ付きで読み方を書くとこなんぞ、渋い、渋すぎます。流石は人民日報日本支社といわれる朝日新聞です。毛沢東も(マオ・ツォートン)と読み方を書くのでしょう。普通の日本人と違って赤い思想にどっぷりと浸かった若宮啓文朝日新聞論説主幹、過去に竹島を南朝鮮にやれと書いただけのことはあります。参考→
wakamiyanobaka-.html
 別に小泉首相が靖國神社参拝をしたからといって、大部分のアメリカ国民はどうも思わないでしょう。それを、ガチガチな反日主義者であるヘンリーハイドなどという議員の言う事をわざわざ全国紙のコラムに取り上げてアメリカの総意のように大騒ぎする。これは、たとえば土井たか子や辻元清美、河野洋平などというキチガイの言う事を外国紙のコラムが取り上げて、まるで日本の総意のように騒いでいるのと同じです。
 スパイの重大な役目のひとつである謀略戦を見事に展開されています。ゾルゲといっしょに大活躍した尾崎秀実 、田中慎次郎。彼らの血はニューヨーク特派員時代にアメリカと戦争になった事を喜び「日本の敗北だ」と乾杯した森恭三。その森を論説主幹にした広岡知男、そして、若宮啓文とりっぱに守られているようです。

たいしたもんだ

 午後よりスポーツセンターにいく。普段あまりできないメニューを消化。店に寄り不燃物、資源ゴミを出す。今日、晩飯を食いに入ったお店の醤油が劣化していた。


 

本間富士子
平成18年5月28日日曜日 晴れ
 去年の6月18日に日記に書いた本間富士子さんのことですが、少しでも充実したく一部追記させていただきました。比べていただけると有り難いです。
 十九四六年(昭和二十一年)二月七日、元フィリピン派遣軍総司令官・本間雅晴陸箏中将を戦犯として裁くマニラ軍事法廷の最終日の最後に本間中将夫人である本間富士子(当時、四十二歳)が弁護側証人として証人席に立った。マニラの気候に合わせ、夏向きの和服姿で、終始、理知的な表情を崩すことなく毅然として証言を続ける彼女に、法廷内の人々の視線が集中していた。証言も終わりに近づく頃、被告の人となりを問われた彼女は、しっかりと顔をあげて答えた。

 「私は束京からここへ参りました。私は今も本間雅晴の妻であることを誇りに思っております。私には娘がひとりおります。いつの日か、娘が私の夫、本間雅晴のような男性とめぐり会い、結婚することを、心から願っております。本間雅晴とはそのような人でございます。
 本間は、小さなことでも逃げ口上を言う男ではございません。彼は心の広い人で、細かいことにこだわりません。また彼は平和的な雰囲気を創り出し、その中で過ごすことを好みます。彼の行為はすべて、このような姿勢に基づいているのです。たとえば、外で嫌なことがあっても、彼はけして家に持ち込んだことはありません。常に微笑を浮かべて帰宅しました。本間はそのような性格の人です。
 彼の趣味の第一は、読書でございます。古今東西の書物を読みます。また詩作もいたします。
 スポーツの趣味については、青空の下でテニスに興ずることを好みます。毎週日曜日にはテニスをやっておりました。狩猟や魚釣りは好みません。それは本間家代々の伝統でございます。彼は、生きるためならいざ知らず、趣味として楽しく遊んでいる鳥を撃つことはできない、と考えておりました。それもまた、本間家代々の家風です。
 宗教でございますが、本間はすべての宗教について研究し、それらに関する多数の書物を持っております。キリスト教をはじめ、多くの宗教指導者について語っておりました。しかし、本間家は仏教徒でございます。本間も仏教を信奉しております」

 この言葉が通訳によって伝えられると、法廷のあちらこちらからすすり泣きの声があがり、米軍検察官の中にも感動のあまり涙をぬぐう者がいた。そして本問中将自身も、妻の自分に対する絶対的な尊敬と愛の言葉に接し、ハンカチを顔にあて嗚咽していた。当時の法廷の様子を描いた諸記録が伝えるところである。
 終戦直後のマニラは、日本人とみれば罵声が浴びせられ、石が飛んでくるほど、反日感情が充満していた。しかし、夫人の証言を聞いたフィリピン人たちまでもが、証言を終えた彼女に争って握手を求めた。翌日のマニラ・タイムスをはじめとする地元紙も、彼女に対する好意に満ちた記事をこぞって掲載した。

 マニラに向かう前の夫人の会見を伝えた新聞記事
「主人の命乞いに行くのだというような気持ちは、毛頭ございません。本間がどういう人間であるか、真実の本問を全世界の人々に一人でも多く知っていただきたいのです…裁判の結果などはいまから念頭にありません」
「私の責任の重大さは十分認識しています。衆人環視の法廷に立って少しでも気怯れがして言うべきことも言えなかったりしてはなりません。日本の家庭婦人としての面目を少しでも傷つけるようなことがあったら日本の皆様に本当に中し訳ないことだと思います。日本の女として初めて世界の視線に立つだけの覚悟は十分致して参るつもりでおります」                      (昭和二十一年一月十二日付朝日新聞)
夫の命乞いではなく、"日本の誇り〃を決然と示すため、彼女はマニラに向かったのである

 夫人は帰国する直前の二月九日夜、夫と最後の面会を行った。時間は三十分と制限されたが、監視役の米憲兵大尉はわざと酒に酔い、二時間後に帰ってきた。夫妻のために時間を作ったのである。
 本間を身近に接した米軍人は、いずれも彼に敬愛の念を持つようになっていた。
 今日出海も、帰国直前に本問と面会した際、本間が収容されていた房に、警備のMPが自分の小遣いで買って差し入れたチョコレートの缶の山を見ている。また、MPが「あんな立派な人に接して名誉だ」と語ったことも記している。

 
 旧紀元節の二月十一日、銃殺刑の判決が下された。山下泰文大将も真珠湾攻撃の前日にあたる十二月七日に絞首刑の判決(アメリカ時間では真珠湾攻撃の日)が下され、同じ二月十一日にマッカーサーから処刑執行命令が出されている。本間雅晴中将の処刑は一九四六年四月三日、享年五十ハ歳。処刑日の四月三日は旧神武天皇祭で、日本軍バターン総攻撃の日。山下大将は二月二十三日の初代アメリカ大統領ワシントンの誕生日であるワイントン・デーにマンゴーの木に作られた簡易処刑場で絞首刑にされます。この日にち合わせは、アメリカなかんずくマッカーサーの下司な復讐心を物語って余りある。かって史上最年少の米国陸軍参謀総長を務め、フィリピンを第二の故郷と呼ぶマッカーサーにとり、バターン半島で傷つけられた誇りへの復讐の念が深くこもっていた。のちに連合軍総司令官として厚木に乗り込んだマッカーサーの使用機は「バターン号」と名付けられていた。
 本間中将を裁く五人の裁判官は、いずれもバターン半島で日本軍に白旗を揚げた将校だったことでもこの裁判という名前のマッカーサーにとっての復讐劇ということがよくわかる。
 山下大将と本間中将は陸士第十八期の同期であり、フィリピン戦緒戦の攻略戦を本間中将が、最後の攻防戦を山下大将が指揮をとった。

 戦勝国と同様に恥ずべきは、勝者に迎合した少なからぬ日本国民かもしれない。本間の娘の助命嘆願運動には、勝者の宣伝を鵜呑みにした日本人から横槍がはいった。

 束京に進駐してきたマッカーサーは判決後の三月十一日に、弁護人ファーネスト大尉とともに尋ねてきた富士子と会い下記のような会話をしている。

「あなたが最後の判決をなさるそうですが、そのときは裁判記録をよくお読みになって、慎重にしていただきたい」
「私の任務について、あなたが御心配なさる必要はありません」
「夫の裁判に関する全記録をいただきたい」
「よろしい、コピーをとってあげましょう。生活に不自由なことがあれば、なんでも援助したい」
「お気持ちだけで結構です」
 (『悲劇の将軍・本間雅晴とともに』本間富士子 文芸春秋昭和三十九年十一月号)
 富士子夫人は夫である本間中将の助命を嘆願にいったのではない。裁判記録をきちんと読めば「りっぱな軍人である」死刑になる理由などないと確信していた。
後日、富士子夫人はこの日マッカーサーと会ったことについて、
「本間家の子孫に、本間雅晴はなぜ戦犯として軍事法廷に立ったかを正確に知らせるため、裁判記録がほしかったのです。あれを読めば雅晴に罪のないことがわかり、子孫は決して肩身の狭い思いなどしないはず、と思いましたので」
 (『いっさい夢にござ候』角田房子著 中央公論社)
と語っている。

 マッカーサーは富士子夫人のことについて、まるで本間中将の命乞いに訪れたかのように、次のように語っている。

 「本間夫人が直接寛大な措置を訴願する機会を得たいといってきたので、私は夫人に会う事を承諾した。夫人は本間裁判で弁護に当たった米軍将校たちに伴われてやってきたが、教養のある非常に魅力的な婦人で、この会見は私の生涯でいちばんつらい時の一つとなった」
 (『マッカーサー回想記』津島一夫訳 朝日新聞社刊)

 本間夫人が決して命乞いなどに訪れたのではない事はあきらかである。それは先の『悲劇の将軍・本間雅晴とともに』にも「私は決して命乞いのために元帥に会ったのではありません。そのことについてはひとこともふれませんでした。なぜなら、敵将の前でそんな態度をとることは、主人の最も嫌うことだと知っていたからです」(『悲劇の将軍・本間雅晴とともに』)

 富士子夫人にとって守るべきは本間中将の名誉であり、無実という確信であったのです。
同じ「マッカーサー回想記」に記されたマニラ裁判についてのつぎの言葉ほどこのマッカーサーという男を表しているものはない。

「これほど公正におこなわれた裁判はなく、これほど被告に完全な弁護の機会が与えられた例はこれまでになく、またこれほど偏見をともなわない審議が行われた例もない」

 連合軍司令官最高司令官として我が国に君臨し、離日の時には多くの日本人が泣いて見送ったというマッカーサーという男の姿です。
 
 参考及び引用文献
 「正論」平成17年7月号に掲載された米田健三帝京平成大学教授の「米軍検察官が泣いた 凛とした本間雅晴中将夫人の『戦犯』法廷証言」
 「南十字星に抱かれて」福富健一著 講談社
 「東京裁判」新人物往来社

 今日は昨日と言うか今朝までの飲んでいたので、体調最低。何しろ阿佐ヶ谷から帰りは電車で帰ってきたのですが、れいによって、変なところで電車を降りたりして、帰ってくるまでえらく時間がかかった。
 と、いうわけで店を片付けて生ゴミを出した後は、さっさと寝る。

軍隊と性 ドイツ軍における「慰安婦」その3
5月27日土曜日雨 ×

 一九四一年ドイツはロシアに侵入してから、兵士の性病が激増した。住民の栄養状態が悪く、売春が公認されていない共産主義の国では的確に検診できる有資格の医者もいない。成熟した公娼制度を持つ西欧諸国に比べ、かえって危険であった。南ウクライナでは軍が設営した売春宿が病気の発生源とみられた。何をどうすれば病気の蔓延に効果的に対応できるか、ドイツ国防軍で議論されたが、その議論の中には、非占領地の一般女性に対するドイツ兵の違法行為(強姦等)が少なくなるか、また少なくしようとする軍当局の意志は認められなかった。否、そういう議論があったとしてもたちまち消えてしまったとザイドラーの著書は書いています。
 それだけではなく、一九三五年の軍事刑罰法典では、前線の兵士といえども犯罪を犯せば被害者からの届け出のあるなしに関わりなく、犯罪それ自体として裁かれ罰せられた。それが、一九四〇年十月十日にその条項が抹消された事により、強姦罪は被害者の届け出に基づく親告罪となり、実際に取り上げられる件数は激減した。それにとどまらず、SS裁判所本部が、非占領地区において強姦を犯したドイツ軍人の処罰に当たっては寛大に取り扱うように要請した公文書をこのザイドラーの著書は掲載しているそうです。

 西欧でも東欧でも、占領地におけるドイツ国防軍の売春婦たちは、一度監禁されれば、衛生管理の見地からも自由行動を封じられた。
「すべての売春宿の少女たちは、駐屯地司令官の発行した身分証明書を所持していた。彼女らは売春宿のなかで暮していた。監視なしで宿の外へ出ることは禁じられていた。医療検診、美容院、そして週一度の散歩へ出かけるときにも、途中において『なんらかの信頼に足る同行者』を必要とした。」
 一方、ここを訪れるドイツ兵たちにもさしたる自由はなかったようにみえる。パートナーが決められているほかにも厳しい規制があった。コンドームを使用すること。性交後に病気の予防処置をしてもらうこと。各店には予防処置室があり、暗い中に赤十字のついた青い小さなランプが灯っていたそうだ。
 「第二次大戦の戦争状況の全体性は、国家が性愛の領域をさえもしっかり掴んだ点にあらわれていた。性の秩序というものの全体は個人のタブーに対しては制限を知らない。国防軍の売春宿においては性行為は一つの管理間題だった。売春宿の設立、備品目録、売春婦、お客の割り当て、性病予防処置、等々は書類番号で整理される事柄だった。兵士の一身上の内的領域が、お役所による管理ブログラムの一部であった。兵士が国防軍売春宿に一歩足を踏み入れた瞬間に、規定と態度指導の支配をたっぷり受け入れるほかなかった。性行為の中断も監視された。性的欲望の鎮静でさえもが命令から自由になった空間の中にはなかった。」
 
 いわゆる「強制連行」については、ザイドラーも先に証言していたが、最近出た訳書に次のような言句も存在する。
「連合軍が押収して一九四六年にニュルンベルク裁判に提出されたドイツの記録文書は、恐怖をあおるためにドイツ人征服者が組織的に強姦したことを立証している。ボーランド、ユダヤ、ロシアの女たちが強姦され、多くの場合、むごたらしく殺された。情容赦なく何百人もの少女や女性が迫害され、軍用娼家へ追い込まれ、そこで強制売春に使役された。いわゆる『慰安勤務』である。それが管理的に行われた大量殺人の前段階だったこともしばしばだった。」
(ヘルケ・ザンダー/バーバラ・ヨール『一九四五年ベルリン解放の真実』現代書館)

 何度か書きましたが、兵士は生身の人間です。そのために、兵士の性的欲求をどうするか、それぞれの国がそのためのシステムをとっています。それは現在でも同様です。
 我が国の大東亜戦争時における慰安婦というものとの違いはあれど、何処の国の軍隊にも、兵士の性的欲求に応えるためのそのそのような仕組みはあったのです。
 今回、書きました第二次世界大戦におけるドイツにおける慰安婦もその一例です。

 午後よりスポーツセンターにいく。夕方、美丈夫より十周年用にお願いしてあった酒が届く。
 T先生二名様で来店。一名様来店。バンブーさん二名様で来店。オガピー来店。Sさん二名様で来店。
 武田さんより阿佐ヶ谷で「ひげ」というお店を始めたという連絡があり、営業終了後、早速、義侠40%16BYを二本さげて伺う。結局、朝までドンチャン。体調最低・・・・・サル


なかなかいい話だけど
5月26日金曜日くもり ○

 今日のインターネットに流れたニュースです。
以下引用
 沖ノ鳥島への活動支援、元水産庁部長夫妻が都へ1億円
 日本最南端の沖ノ鳥島(東京都小笠原村)の周辺海域が日本の排他的経済水域(EEZ)であることを主張する東京都の活動を支援しようと、元水産庁漁港部長の坂井溢郎さん(81)、喜和子さん(80)夫妻(豊島区在住)が26日、1億円を寄付した。
 2人は「お世話になった水産への恩返しがしたい」と話している。
 坂井さんは1978年に水産庁を退職後、全日本漁港建設協会の名誉会長を務めるなど、長年水産の仕事に従事。「子孫に残す財産として、沖ノ鳥島を守って経済開発にも役立つようにしておくのが我々の責任」と感じ、寄付を決意した。1億円は「50年かけてこつこつためたお金」という。
(読売新聞) - 5月26日20時58分更新
引用終わり
 すごくいい話と思うのですが、こういった事って国がやるべきことをきっちりとやってこなかったから、この坂井さん御夫妻が「少しでもお役に・・・」というお気持ちになったのでしょう。南朝鮮が竹島を要塞化しだした時に、なんの措置もとらなかったその時の首相である腐れ売国奴の
橋本龍太郎などに坂井さんのお気持ちの万分の一でもあれば、朝鮮に対してあんな不様な外交はなかったでしょう。まあ、そうだったら橋本も売国奴ではないか・・・・

 いつものお客様一名様来店。「大英勇」さんの話題になる。教えていただくまで知らなかった(忘れていただけかも知らないが)のですが、酒いわしや時代に何度か飲んだ事もある「加賀の井」さんも造りを止めるそうな。
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/index.asp?id=2006051331743  
 Mさん(G23さんと書いた方がいいのかな?)四名様で来店。筑波からTさん来店。尼崎からMさん二名様で来店。Tさんもそうだが、Mさんも東京に用でいらした時にわざわざ寄ってくださる。ありがたい。
 今日は飲まず。



軍隊と性 ドイツ軍における「慰安婦」その2
5月25日木曜日晴れのち雷雨 △
 国防軍管理下の売春宿の経営を難しくしたのは人種間題であるといわれている。当然のことだが、ユダヤ人女性はここから排除された。土官や党幹部が禁を破ってユダヤ人女性と性交すれば、第三帝国の人穫法に基いて死刑であった。しかし相手がユダヤ人だとは分らなかったという言い遁れが可能だったので、一九三九年のワルシャワのホテルの手入れでは、四〇人のドイツ士官の個室から三四人のユダヤ娘が引き出された。ドイツ兵士が町でポーランド女性をはじめとするスラヴ系の人種と交際すると罰せられたが、売春宿で彼女らと性交することは許可されていた。一般に売春宿以外で被占領地の女性と交流を持つことは禁じられていたものの、例外はスカンディナビア諸国とオランダだった。ここでは市民階級の女性との交渉がむしろ推奨された。その結果ノルウエーとオランダではそれぞれ一万人の私生児が生まれた。あらゆる点で西欧と東欧では対応が違っていた。フランスなど西欧では公娼制度が熟成していたので、ドイツ国防軍は軍の専属施設としてこれを利用し、いわゆる女郎屋の女主人に司令官の命令による次のような細かい指示を与えることで運用した。女主人は三十歳以上でなければならない。女主人も従業員もそこで性行為をしてはいけない。来成年者を傭ってはいけない。売春婦として働く全女性の写真付のチェりク・ノートを作成し、入居順に応じた通し番号を記し、氏名、生年月日、現住所等を書いて、要請に応じ、軍医もしくは軍司令官に提示させるものとする。司令官の許可なくして新しい女を無断で傭ってはいけない。売春宿の客となるドイツ兵士は必要な証明書を見せなければ店に入れないこととする。証明書の裏には店の名とパートナーとなる女性の名が明記されていなくてはならない。開業時間は司令官の決定に従う。代償の取り分は女主人と各女性とで半分ずつとする。サドやマゾの目的に用いる器具の製作、所有、貸与は禁じられる。性交には必ず避妊具が使用され、訪間するすべてのドイツ兵にあらかじめ無償で手渡されなくてはならない、等々。
 売春宿の管理権を握っていたのは、ここからも分るように、司令長官か司令部付連絡将校で、まさに国防軍そのものてあった。店には司令長官のスタンプを捺した性病予防警告のポスターが貼り出されていた。そのなかには、使用すべき品として冷温水付ビデ、洗いたてのベッドカヴァー、清潔なタオルまでが指定されていた。
 しかし、他方、旧ソ連地域などの東欧方面には既成施設が利用はできないために「西欧では女郎屋の女主人が売春婦の確保につとめ、その代りに収入の半分を手にした。しかし東方では前線司令官たちが売春婦になる少女たちの獲得につとめなければならなかった。その際、強制処置がしばしば取られた。」
「若い娘で、労働力投入への呼びかけに応じてドイツに行くのはいやだといって拒んだ者は、二者択一として、国防軍売春宿でしばらく勤務する以外にに選択の余地はなかった。ユダヤ女性に対してさえもこの二者択一が提案された。『やるべきことをちゃんとやれば』釈放が保証されるといって強制収容所で募集された女たちが、東部占領地区の売春宿に連れて行かれたか、それとも、ラーヴェンスブリュック強制収容所で売春婦に仕立てられていった女性在監者と同じような運命を辿って、ドイツ国内で使役されるにいたったか、そこははっきりしていない。ただ彼女らが美人で使いものにさえなれば、アーリア人であろうとセム人であろうと、たいして間題ではなかったのだ。」
つづく

 朝日新聞の社説は相変わらず笑わせてくれる。今日も「首脳会談も外相会談もなかったこの1年でわかったのは、いつのまにか緊密にかかわり合うようになった両国関係の重要性である。だからこそ靖国問題で関係全体を壊してはならないという認識を互いに深めたのだろう。
略)
 靖国問題は、日中双方のナショナリズムの危うさを浮かび上がらせた。ともに世界の大国になった両国が競い合う時代に入ったことが背景にある。」
と、書くが、靖國神社を今のように支那、朝鮮が外交カードとして使いだしたのは、売国奴新聞の朝日のおかげです。自分で石を投げて波風をたたせて国を売る。流石はチョンイル新聞です。

 二五日、世間ではお給料日・・・
給料日はヒマ・・・やっぱりという感じでした。Hさん二名様で来店。Kさん来店。
 今日は飲まず。昨日というか今朝までのドンチャンがひびいて体調最低。さっさと寝る。




軍隊と性 ドイツ軍における「慰安婦」その1
5月24日水曜日晴れのち雷雨 △

 西尾幹二氏が<「慰安婦問題」ドイツの傲岸 日本の脳天気>と題した文を一九九七年一月号の「諸君」に、<「慰安婦問題」朝日論説の詐術を嗤う>と題した文を同じく「諸君」一九七七年四月号に掲載しています。
 その内容はフランツ・ザイドラー「売春・同性愛・自己毀損---ドイツ衛生指導の諸問題一九三九 --- 一九四五年」(一九七七刊)を主に元にしているものです。
 それによると、
 第一次大戦で二〇〇万人の兵士が性病に罹ったドイツは、第二次大戦ではこの経験を生かし、兵士の性をどう誘導し、指導するかという狙いに向けられていた。兵士達の禁欲など最初から不可能とみて、性欲の野放しによる非占領地の住民の婦人たちへの被害、そのための軍の威信に傷がつくなどというものに対しての配慮などは議論の対象にもならなかった。そのためには、町の自由な売春制度の危険をできるだけ少くし、占領地域のあらゆる駐屯地に、国防軍所属の売春宿(Bordell)を開設し、完全管理することとし、一九四二年、ドイツ国防軍は約五〇〇の売春宿を運営していた。これら売春宿の設立、監督、経営維持は、占領各地区の軍司令部の管轄事項であった。決定的に重要視されていたのは売春婦たちの定期検診であり、病気になった娘はすぐに選別され、排除された。取り締まりに当ったのは駐屯地の軍医である。彼らから委託されて、占領地域の医師が各女性を週二度検診したが、ドイツ軍から特別認定され、証明書を交付された医師に隈られていた。外国人医師は宣誓書にサインし、怠慢や違反行為があれば処罰された。
つづく

 河岸が休みだったので、午後よりスポーツセンターにいく。高田馬場の駅を出ると、いいお天気だった空が曇ってきて今にも降ってきそう。今日もメニューはスロートレーニングで消化。結局、帰りは雷さんも鳴ってけっこうな雨。
 その雨の中をどういうわけか今日は大勢のお客様がいらしてくださる。ITGさん六名様で来店。Sさんはじめてのお客様Fさんと来店。あとでマルガリータさん合流。Kさん二名様で来店。大阪からSさん来店。Yさん来店。Sさんはじめてのお客様Aさんと二名様で来店。Aさん三名様で来店。
 途中で洗い物をするのも止めて飲む。ドンンチャン。営業終了後、中野の「石松」さんに久しぶりに伺う。相変わらず満席で、カウンターの中までお客様。



軍隊と性
5月23日火曜日くもり △

 <従軍慰安婦という制度は、日本だけにあったものと言われる。少なくとも近代軍の中で、戦争の際に、女性たちを同行させ、自分たちの性の処理をさせた軍隊というものは、かってなかった>
「従軍慰安婦と戦後補償」p69
あの売国奴弁護士高木健一の言葉です。
そして、あの辛淑玉女史も
 <近代国家の軍隊が、組織的に大量の女性を性奴隷にして戦場を連れ歩き、強姦し続けたなどという例が日本以外のどこの国にあるのか、ご存知ならば教えてください>
『在日コリアンの胸のうち』より

 あまりにも無知、あまりにもアホ、あまりにもブス・・・・とにかく言っている事があまりにも酷すぎます。慰安婦と軍隊の事などいくらでも例があるはずです。戦時中だけでなく、戦後も我が国においてさへもアメリカ軍基地の周辺にはそれらの施設がありました。辛淑玉女史の母国(のひとつ)である南朝鮮においてももちろんそうですし、他国も同様です。
 辛淑玉女史の母国の南朝鮮軍はベトナム戦争時に醜い戦時犯罪を犯しました。そして自国女性を慰安婦として連れて戦場に行ったばかりでなく、ベトナム女性を犯し私生児を多く残してきました。
kannkokugunniannfu-.html

現在、私の手許にある本からだけでも以下のような例を引く事ができます。

 第一次世界大戦時の軍隊と性
 西部の戦争舞台では、アミアン、アベヴィーユ、アーヴル、ルーアンその他、前線の背後のすべてのフランス都市には連合国軍部隊のための特に設備がよくて繁昌した兵站娼家があった。将校用娼家の目印は青い軒燈で、兵隊用娼家のそれは赤い軒燈であった。娼婦はたいていフランス女で、前からその町に住んでいるものか、ドイツ軍に占領された地方から逃げてきたものであった。・・・・・このフランスの兵站娼家は、予防法のことをほとんど知らぬイギリスの兵隊たちにとっては特に、まさに性病の孵化場であった。
 ドイツの側にも、兵站地域の大きな町には必ず兵隊用娼家と将校用娼家とがあった。
略)
 兵隊用娼家はどこでも、門前に長蛇の列をつくっている兵隊たちによって、あまり見栄えのしない光景を呈していた。
 (ヒルシュフェルト「戦争と性」世界性学全集第五巻、河出書房刊 p125〜6)

 我が国においてのアメリカ軍に対しての慰安婦政策
 昭和二十年八月十八日、内務省は全国の警察管区に秘密無電を送り、占領軍専用の「慰安婦施設」を特設するよう指示した。
 (ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」岩波書店p150 引用元 神崎清「売春・決定版神崎レポート」現代史出版p127〜162)

 米軍の本隊がまもなく到着する。宿舎は内村旅館である。どのくらいの期間滞在するかわからないが、署長は米軍から知覧の町民を守るようにとの中央の命令を受けている。一番怖いのは婦女暴行であるが、これについては各方面の協力を得て、彼らに当てがう女たちを確保した。
 その女たちは、いわゆる慰安婦である。
 (赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」草思社p188)

 アメリカの朝鮮戦争時における慰安婦施設について
 朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人女性の売春婦(慰安婦)を集めた米軍管理の「センター」を設置した。朝鮮の戦場から一定期間毎に交代で米軍の兵隊が送られてきた。
 (中川八洋「歴史を偽造する朝鮮」徳間書店p225)

 アメリカのベトナム戦争時のベトナム女性慰安婦について
 一九六六年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿」が設置された。
 ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側に二棟の「リクリエーション・センター」があった。バーとバンド演奏所の他に六十室の個室があり、そこで六十人のベトナム女性が住み込みで働いていた。
 彼女たちは米兵の好みに合わせて、「プレイボーイ」のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく本番だけ」がモットーで、一日八人から十人をこなす。
 (秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p171)

 何度か書いていますが、各国とも軍隊における性処理にはそれなりの形式をとっています。土井たか子などが大好きなソ連の軍隊はそれがないために、満州、支那、朝鮮に残された日本人の方々、ドイツ国内において醜い行為が続出いたしました。

 朝、駅の構内に入ってしまってから、忘れ物を思い出し取りに帰ったので、いつもより遅い電車で河岸に行く。
 店に行くと、留守番電話には一件も着信なし。日曜、月曜の定休がお客様に知っていただく事ができたようです。ただ、「非通知」の表示での着信は相変わらず何件かあったようです。電話をかけて「非通知」で受信拒否に設定されていたら、普通は非通知を解除してもう一度かけると思うのですが、当店に用のある「非通知」の方はそれが少ない。どうして?W
やっぱ、「今、神楽坂駅にいるのですが、
この前の個室を八人で予約お願いします」というあの手のお客様?なのだろうか????
う〜ん、いろいろ楽しい。

 今日はメチャヒマ。バンブーさん来店。初めてのお客様二名様来店。
少し飲んだ後にさっさと寝る。



みなさんお若い
5月22日月曜日くもり ○

 部屋を片付けていたら、なつかしい物が出てきた。随分前にお客様よりいただいたものだが、平成六年五月十七日の日付けだから十二年前のもの。

←クリックしてみてください。

みなさん、お若い。

 そういえば、このときのリポーターの車だん吉さんとも長いおつき合い。

 今日はかったるいので出かけずに、先日、古本屋さんで買ってきた本などを読んで過ごす。




中帰連小島隆男と延安リポート
5月21日日曜日晴れ ○

 中帰連
(中国帰国者連盟)という売国奴の連中の団体がある。これは米戦時情報局(OWI)による「延安リポート」にも書かれている中国共産党(中共)による対日プロパガンダや日本捕虜に対する"洗脳的教化”により売国奴に成り下がった連中です。
延安リポート
以下引用
 第二次大戦末期に作成された。米戦時情報局(OWI)による「延安リポート」が初めて一つにまとめられ、邦訳が出版される。延安リポートは、中国共産党(中共)による対日プロパガンダや日本捕虜に対する"洗脳的教化”の実態を調査したものだが、戦後の米国の対日・対中政策にも影響を与えたとみられており、貴重な一次資料といえそうだ。
 一九三〇年代、中国紅軍(中共軍)と党中央は長征後、延安に移り、抗日・革命運動拠点とした。米国は、国民党政府の蒋介石の反対を押し切る格好で四四年七月から約十一カ月問、軍やOWIなどの情報将校を軍事視察団として派遣、中共の全面的な協力という異例の蜜月状態の下、「延安リーポート」を作成した。
 リポートの「捕虜の扱い方」では、中共は「一般的に日本人の自尊心は非常に強い」と洞察し、日本人捕虜を質間するさいには「優しく、穏やかに」と指導。また、負傷した捕虜には手当てを施し、戦場の日本兵の死体を「一時的な感情」から損傷することを戒め、逆に大事に葬り、墓標を立てるべきだ、と説く。
こうした指示は一見、人道的だが、その根底には一般の日本兵や日本人が戦争を遂行する指導部を憎悪し、「否定的な厭戦気分から積極的な反戦意識」を持つように教化するための中共の冷徹な計算があった。後に中共側の九十八人の日本兵捕虜に対し米側が行った「意識調査」では戦争や天皇制を否定する声が九割を超した。意識調査を担当した主要執筆者の一人、外交官ジョン・エマーソンは「平均的な日本人兵士の信念と態度がシステマチックな教化によって変えられることの一つの証明である」とコメントしている。
 エマーソンは後に連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官の政治顧問付補佐官を務めた。編訳者の山本武利・早大政経学部教授は「リポートは全体として、米国の戦後の対日・対中政策、さらにいえば、台湾を含む現在の東アジア情勢の原点を考える格好の資料となるのではないか」と話している。七十一回にのぼる延安リポートは米国立公文書館に分散して保存されており、山本教授が十年がかりでまとめ、神田外語大外国語学部の高杉忠明教授とともに全訳した。翻訳は二十四日、岩波書店から発売される。(関厚夫)
引用終わり
産経新聞平成十八年二月五日朝刊より

 このように洗脳された売国奴の集まりである中帰連連中のいい加減さについては「証言がコロコロ変わる」「非現実的」など数々の指摘があります。私の手許にある数冊の本に掲載された連中の発言などからもそれがわかります。

小島隆男氏の例からみてみます。
以下西野留美子著「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」明石書店刊1992年より
 <日本に帰ってきてから遅い結婚をし、自分の子どもを育てるなかで、自分たちが犯した罪の大きさを知ることがたびたびありました>
p154
 <彼が命令した衛河の堤防決壊事件の事である。山東省西北端の臨清に機関銃中隊長として駐屯していたときのことであった>
p156
 <わたしは一九三九年十二月に入隊し、下旬には、第三二師団歩兵第二一二連隊に配属になり、中国の北支山東省に行きました。四一年には少尉になり小隊長に、四三年には中尉になり中隊長として、二百人の兵隊の指揮にあたっていました>
p159
 対談の終わりにある参加者の紹介では
 一九三九年歩兵第五七連隊入隊(佐倉)、第三二師団歩兵二一二連隊(北支・山東省)
 一九四三年中尉
 一九四五年ソ連抑留
 一九五〇年中国撫順戦犯管理所に移される
 一九五六年帰国


 その同じ小島氏の証言が「天皇の軍隊」ではどのようになっているか。
以下 本多勝一・長沼節夫著「天皇の軍隊」朝日文庫一九九一刊(単行本の初版は一九七四年)
<「衣」第四四大隊機関銃中隊(隊長・久保川助作中尉)の小島隆男少尉らも、その日の午前中に非情呼集がかかったために、衛河のほとりにかけつけた>
P224
 <広瀬利善大隊長や久保川中隊長ら数人の将校たちは、満水の運河を眺めつつ、先ほどから堤防の上を行きつつ戻りつつしていた。
略)
 大隊長の命令は久保川中隊長が受けた。作業の実質的な指導は小島小隊長の任務だ>
P225
 <大隊長・中隊長や小島少尉(小隊長)らの将校は、そこに堤防決壊後二時間ほどいた>
P227
<一九四四(昭和十九年)年の秋、機関銃中隊(久保川助作中隊長=中尉)の小島隆男小隊長(少尉)以下三〇人は、河北省南端に近い武城県の部落に一時分屯していた>
p311
<「衣」第五三旅団第四四大隊の小島隆男中尉が一時帰国したのは、一九四四年(昭和十九年)の一一月である。
略)
彼は結婚式と新婚旅行を理由に上部に願い出てこの機会を得る事ができた>
p356

 注)本多氏の著書では「衣」師団とは、工作隊、通信隊、輜重隊、野戦病院と二個旅団(独立歩兵四一大隊、四二大隊、四三大隊、四四大隊によって構成された歩兵五三旅団と独立歩兵第一〇九大隊(甲府)・第一一〇大隊(麻布)・第一一一大隊(佐倉)・第四五大隊(現地編成)によって構成された五四旅団によって「北支那(華北)方面軍第一二軍第五九師団」として編成されたものとなっています。

?

「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」

「天皇の軍隊」

所属

第三二師団歩兵二一二連隊

第五九師団独立歩兵第四四大隊

一九四三年時の階級

中尉

少尉

結婚

一九五六年以降

一九四四年十一月

 西野女史の著書では小島氏は第三二師団歩兵二一二連隊中隊長であり、一九四三年の小島氏のいう堤防決壊の時には中尉として二百人もの部下を持っていた事になっています。それが、本多氏の著書では小島氏は第五九師団独立歩兵第四四大隊機関銃中隊小隊長(少尉)として一九四三年の堤防決壊の時には「大隊長の命令は久保川中隊長が受けた。作業の実質的な指導は小島小隊長の任務だ」とまで書いています。本多氏の著書「天皇の軍隊」でみると一九四四年秋の河北省の作戦時までは小島氏は少尉であり、一一月の一時帰国したときには中尉になっていたことになり、少なくとも中尉に昇進したのは一九四四年秋以降となっているばかりでなく、結婚も「日本に帰ってから」「一九四四年に結婚式と新婚旅行を兼ねた帰国」と結婚の時も違うし、もっとすごいのは、軍人としてのその所属師団、連隊まで違う事でしょうか。つまり、小島氏は同じ時代に二つの人生を歩んで証言している事になります。

 まるで、嘘つきばかりの朝鮮人慰安婦の証言なみです。

 こんなアホを同じアホの西野留美子氏や本多勝一氏がその著書で取りあげて大騒ぎしています。売国奴つながりというべきでしょうか。活字になるということはそれが残ることだということを考えなかったのでしょうか。西野留美子女史もそれらの発言の矛盾点を調べなかったのでしょうか。まあ、その程度の頭だからアホな事を平気でやっているのでしょう。
こういったアホは他にも多くいて、それを朝日新聞などは重用しています。さすがというべきでしょう。

 店でだしている醤油を作るというか、酒とだしを足すだけ。その後、店を片付けてからスポーツセンターにいく。今日もスロートレーニング。効果はあるのか、まだ不明。一応一通りのメニューを消化するが、左肩が少し痛みがあり、かったるい。
どこにもそこのルールを守らないバカはいるもので、ちょっと説教。
 店に帰って生ゴミを出してから、最近よくお世話になっている定食屋さんに寄ってから帰る。



地獄
5月20日日曜日晴れ一時豪雨 ×

地獄におちるわよ

 部屋にテレビがなく(マグロ屋の慎吾ちゃんが宅急便で送ってくれたのがあるのだが、アンテナに接続していない)普段見ていないので、あまり実感がないのですが、最近、オバサン占い師がすごいらしいそうな。
今、発売中の週刊文春にその人が、インチキ女性占い師を題材にしたドラマ内容に文句をつけた事が掲載されていました。別に怒るようなことじゃあないと思うのですが・・・・・所詮、占いですから。外れても責任とるわけじゃあないし、原価はゼロだし。元手もリスクも何もいらない口から出任せの気楽な商売。
 ←私の好きな秋月りすさんの「かしましハウス」に占いネタがあった時に、この細木女史の事を思わず思い出しちまいました。神楽坂通りと大久保通りとの交差点のところにこの人の事務所があるんですよね。

「他人の人生を独断と偏見であーだ、こーだと言う」

そんな細木女史にこそ言ってやりたい

「地獄におちるわよ」

 テレビといったら、銭湯に行った時にやっていた大相撲中継「千代大海・白鳳戦」は醜かった。映っているのは白鳳ばかりで千代大海などチョットだけ。優勝に絡んでいるせいかも知らないが、あまりにも醜い構成。

 今日はメチャ忙しい。Fさん二名様で来店。インチキラクターさん来店。デカナベさん五名様で来店。デカナベさんも独立されるそうな。いよいよ社長さん。Eさん来店。初めてのお客様Tさん来店。初亀の出品酒がお気に入り。Kさん来店。今日も途中から飲む。ドンチャン。
営業終了後、Kさんと久しぶりに高田馬場の「カヴェルナ」さんにお邪魔する。ポートワインとマディラワインの品揃えは相変わらず凄い。
李さんと「青葉」さんで飯。


大英勇
5月19日金曜日雨 ×

 朝食に起きてきたみなさん、目がウサギさんというより生きの悪いお魚さんの目。
 普段の行いのせいでバチが当たってお天気の悪い中「柴狩り」(一部ではゴルフともいう)をされる人たちを残して、ホテルのバスで岐阜羽島まで送っていただく。いっしょのバスに乗ってきた時任第一氏が、駅の側にあるホテルの自動販売機の方が駅で買うより新幹線のチケットが安く買えると教えてくださる。なんでこの人こんな事知っているのだろう。ちなみに、この人はあの時任三郎さんのお兄ちゃん。何やって飯くっているのかわからん不思議なひと。
 帰りも指定が取れずに自由席。
 
 昨日も話題に出ていたが、大英勇の蔵元さんが今月いっぱいで廃業する。
http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20060515c3b1503u15.html
お世話になった蔵元さんのひとつだけに寂しい。今現在一四〇〇〜五〇〇程度の蔵元さんが数年後には五〇〇ほどになる可能性があるそうです。
 各蔵元さんにはがんばってほしいものです。

 今日は築地にいけないので、朝、中卸し「一吉」の社長から電話をいただいた時に、マグロの中卸し「松長」にも寄ってマグロを一緒に配達してくれるようにお願いする。いつもこうだとラクチンなのだが・・・・

 十二時前に東京駅に到着。
 Hさん来店。I本さん御夫妻来店。Y岡さん来店。Mさん二名様で来店。Hさん五名様で来店。Nさん来店。
 営業始まるまで「今日はもう飲めない」と思っていたのですが、途中から、「今日も飲める」にスイッチが切り替わり、いつも通りに遅くまでドンチャン。サル・・・・・

二百周年
5月18日木曜日雨のちくもり ×

 玉線堂酒造の「醴泉酒の会」に参加のために、午前八時三十六分東京発の新幹線で岐阜羽島まで行く。駅より今回お世話になるホテルのバスで会場まで。蔵元さん、酒販店さんの皆様に御挨拶させていただく。義侠、磯自慢、初亀、美丈夫、明鏡止水、松の司、根知男山、雑賀、生駒などの蔵元さんがいらしている。蔵元の利き酒に蔵元が参加・・・わけわからん。
 デジカメを取り出して写そうと思ったら、CFカードが入っていない・・・・
結局は初めて携帯電話での撮影。

今日のスケジュールは
11時受け付け
   利き酒
12時15分 会食という名のドンチャン開会
   乾杯
   製造説明(後藤杜氏、製造スタッフ)
   来客紹介
14時15分 会食という名のドンチャン閉会
14時50分 宿泊施設へ移動
       部屋で休憩タイムという名のドンチャン
18時45分 懇親会という名のドンチャン開会
21時10分 懇親会という名のドンチャン閉会
その後は部屋でエンドレスでドンチャン開催

 今回も相部屋となったメンバーは醴泉山田社長、生駒駒井社長、イヌイ酒店乾社長、相定酒店相川社長、ヤスイ酒店の安井社長といういつものコユイメンバーでの隔離部屋。長谷川酒店長谷川社長などみなさんが参加されてのドンチャン。記憶超いい加減。

 醴泉二百周年だそうな。おめでとうございます。そういやあ、当店も「酒いわしや」時代の十年、「酒たまねぎや」としての十年ということで開店二十周年・・・・よく潰れなかったものだ。

姜尚中
5月17日水曜日 雨 ○

 姜尚中
 父親は一九一七年慶尚道昌原郡南山里生まれ
 一九三一年渡日
 東京の軍需工場で働き、巣鴨の社宅にいた
 母親は一九二四年許嫁として釜山の鎮海より一九四一年渡日
 本名禹順南 日本名春子
 本人は一九三〇年熊本県に生まれる 早稲田大学

 この方も多くの皆様から論文に書かれております。私も、手許にある姜氏の著書とその方々の記事などを参考にしたいと思います。
 ちなみに、どういうわけか姜氏の著書「在日」からは、軍人中学といわれたあの堀内豊秋大佐などを輩出した名門県立濟々黌高等学校を一九七〇年に卒業というのは省かれていて、いきなり早稲田大学に入った事になっている。
濟々黌高等学校の質実剛健の校風、黌歌「嗚呼藤肥州(加藤清正)の領せし地・・・」と若き姜氏が歌っていたのを知られたくはないからなのだろうか。

 姜氏による日本人象とは(著書「在日」より)
「ドブロクを摘発する税務署員」「保健所の犬殺し」「戦争中、中国で若い女をなぶり殺しにした飯島さん」「(父親がやっていた)廃品回収物の中にあった血のりで赤褐色にさびついた軍刀」「ハンセン病患者の金子さんの差し出す紙幣を箸でつまむ饅頭屋の女主人」
 対する在日朝鮮人とは
「税務署員のトラックに石を投げる気丈な母親」「動物の遺骸を慈悲深く葬る李相寿おじさん」「やさしい鍛冶屋のおじさんが作り出す農機具の鎌や鍬」「家族に対する深い愛情と故郷に対する思いをこめる母親や下関のシャーマンのおばさん」
なんとわかりやすい対比のしかたでしょう。

「反日かどうかを尺度とする自家中毒」と題する論文に
左翼言論の地盤沈下が決定的だったのは北朝鮮の拉致問題だとして
<論壇あるいはジャーナリリズムの進歩派に対する『粛清的』とでもいうべき批判が噴出するようになった。知識人やジャーナリストの一人ひとりを名指しして、過去の発言の行状を暴いていくスタイルが歓迎されるようになる」
 稲垣武の『「悪魔払い」の戦後史』を例に出して、
「進歩派に対する暴露型の攻撃が顕著になった」
                 「論座」平成十八年五月号

 つまり、姜氏は「言論に責任など持たなくてもいいのだ」「批判は名指しでするな」とある自分勝手な、実に都合のいい発言をしているわけです。
 現実には、いわゆる左翼言論人による言論、行動がいままで異論に対して姜氏のいう「粛清的」な性格を持っていたということについての賛同の方が多いでしょう。

 昭和天皇の御崩御の際の感想
「いまでも非常に印象に残っているのは、桂小金治という人が番組のなかで泣きながら、昭和天皇を悪くいう奴は日本から出ていってほしい、嗚咽しながら叫んでいる姿をみたときです。僕は唖然とした。それが起点になって、ぼくは日本のナショナリズムのメカニズムを考えるようになりました。ナショナリズムが情の世界を基盤としていること。つまり本人が非常にセンチメンタルな感情にすっぽり投入するようなかたちで、ナショナリズムが発動され、結果としてそれが外部に暴力的な装置として働いていることが本人には見えない。こんなに自分が泣き、苦しみ、哀悼の意を表している、そういう崇高な切なさにドロを塗るとは
何ごとか・・」
(著書「在日からの手紙」より)
 
 <金正日の口から出たことには驚いたが、拉致自体にはそれほど驚かなかった。かって韓国も、67年にベルリンから音楽家のユン・伊桑を拉致し、73年には金大中拉致事件を起こした>
二〇〇二年十一月二十二日朝日新聞

 南朝鮮が拉致したから、北朝鮮もそれに対して対抗しただけだ・・・・・と、いうつもりでしょうか。
日本人は何も関係ないのですが・・・

 <『ヨン様とジョンイル』
 ベトナム戦争以上のナパームが投下され、核戦争の瀬戸際までいった朝鮮戦争はその無差別の殺戮の記憶と核の脅威で北朝鮮を閉鎖的な軍事国家に変えた>2005年2月6日 朝日新聞「時流自論」
つまり、姜尚中は北朝鮮が核を持ったのもアメリカが朝鮮戦争で北朝鮮を攻撃したからだと言っているのです。では、その北朝鮮が不意打ちした朝鮮戦争でアメリカを仁川まっで追い詰めてもう少しで、勝ちそうだったのはどう説明するつもりでしょう。まあ、お得意のスルー戦術でしょうけど。

<「日本国民の在日化」とは、バブル崩壊後、日本人が「社会的なセーフティネット」をさほど当てにできなくなった状況が出現したことが「在日」と同様の状況であるというもののようだ」>
「在日」p177〜180より

 姜氏は我が国において外国人でありながら、在日朝鮮人がどんなに我が国から恩恵を受けて生活してきたか、御存じないのであろうか。恐らく御存じでもそれを言わずに差別、差別と叫んでいる方が楽なのだろう。
 しかし、我が国において外国人でありながら、ある意味日本国民より有利な多くの権利を得ているという恵まれた存在でいながらもあくまで被害者でああると声高らかに叫び、在日というものを商売にしている辛淑玉など他の多くの愚かな朝鮮人と同じスタンスであるかぎりは、姜尚中氏もウソと知りつつそのウソを重ねて、その悲しいというか滑稽なお笑いでしかない立場にすがりつくしかないのであろう。もし、自分達が被害者としか思えないでこれからこの日本で生きていくということは、それがどんなに醜い人生かを理解せずに死んでいくということだ。
これについて、浅川晃広氏は<一切の社会的責任から免除された領域における発言権の獲得、そして自らが属している社会から得られる権利・利権の確保に他ならない。すなわち、権利は享受するが、それにともなう「責任」を回避する「免罪符」として、姜における「在日」は機能している。>?p182〜183
といっています。
また、姜氏について中川八洋氏は「ディアスポラ知識人」としてその姜氏の著書「東北アジア共同の家」より
「北朝鮮という得意な国家を東北アジアのシステムの中に引き入れる以外に方法はない。・・・内側から解体していった場合・・・日本海を超えて日本に流入してきた場合のカオスというものは、・・・背筋が寒くなるような事態であります。北朝鮮の内部崩壊を望んでいる国は・・・一国たりともないと思います」を引用し、「現実には万が一にもありえない脅しで恐怖をあおり日本人から金をだまし取ろうとする、ならず者の手口である。」とし、
中川氏は姜氏のこの引用文について下記のようにウソをわかりやすく指摘しています。
<姜の嘘は二つある。第一の嘘は、世界中が「超ならず者国家」北朝鮮の内部崩壊と消滅を、かっての東ドイツの崩壊のように一日も早くと望んでいるのに、それを逆さに転倒している。第二の嘘は、北朝鮮には、日本に行き着くための船の重油や灯油が決定的に不足しているから、日本への流入はほぼゼロである。略)そもそも、国民の二割程度を餓死によって殺害している北朝鮮と「共同の家」を持ちたいと考える日本人は一人もいない。>
そして、ディアスポラは「異邦人」のような弱者の立場にはない。彼らは、故国が、外国に派遣したその外国を将来侵略したり搾取するための先遣部隊の立場にあるとして、
<現に「ディアスポラ知識人」姜尚中は、北朝鮮の対日要求を代弁し、日本の中に、日本人が持つことのできない、巨大なマスメディア権力を構築している。姜とTV朝日の田原総一郎、姜とTBSの筑紫哲也の絆は、「朝鮮人」ネットワークの「在日侵略者たちの聖域」で、まさしく”ディアスポラ空間”ではないか>
そして、中川氏は姜氏の著書「脱オリエンタリズムの思考」より
「知識人には、<特定の人種なり、民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難と経験と結びつけること>が、その決定的に重要な責務として課せられている」
という引用をし、姜氏の思想の異常さというか危険性を指摘しています。

 辛淑玉女史といい、この姜尚中氏といい鬱陶しい連中です。

 参考、引用
 ?「諸君」平成十六年十一月号 「在日」文化人がシャーマンになるとき 古田博司(筑波大学教授)
 ?「追跡平成日本タブー大全」 在日知識人「姜尚中」の妄言を笑う!中宮崇(プロ2ちゃんねらー)←わたしは個人的にはこの中宮氏の肩書きは大好きです!
 ?「諸君」平成十七年三月号 言論界の”善男善女” 姜尚中 「在日」を無制限に免罪符に使う「プロ市民」 浅川晃広(名古屋大学専任講師)
 ?「正論」平成十八年六月号 「ディアスポラ知識人」姜尚中の思想解剖 中川八洋(筑波大学教授)

 今日は午後より新宿スポーツセンターにいく。スロートレーニングを始めて一ヶ月半が経過。三ヶ月は続けるつもり。
 Kさん四名様で来店。一名様来店。Iさん来店。
 今日は飲まず。明日は岐阜できっとヘベレケだろうし。


横田滋さん
5月16日火曜日雨のちくもり ×

 横田めぐみさんのお父さんの滋さんら家族会のメンバーらが15日午後、ソウルで北朝鮮向けに行っている短波放送「自由北朝鮮放送」より「日本中の人が、めぐみちゃんが一日も早く帰ってくるのを待っています」と呼びかける放送内容の録音をしたとニュースにありました。
 本当は国が解決しなければいけない事なのに、お母さんの早紀江さんは先月アメリカまででかけました。そしてお父さんの滋さんも辛い体でソウルまでいってこのような事をしなければいけないとは。
 小泉首相は経済制裁についても何もしようとしません。芸能人やスポーツ選手には会う時間があるのに、拉致家族のみなさんにも会おうとはしません。これが小泉という男の本当の姿かもしれません。

 写真は店の前にあるスペースに植えてあるバラ。生ゴミで元気に育って綺麗な花を咲かせてくれました。
 開店前に行った銭湯で先月の二九日からのばしていたヒゲを剃る。もみあげ、あごヒゲ、口ヒゲの順番で一日ずつ剃っていってみようとも思ったのですが(デジカメで四枚連続にしたらネタになりそうだっだし・・・)
 今日は開店早々よりSさん二名様で来店。いつも通りに今日の新幹線で名古屋までお帰りになる。 G23さん来店。Yさん来店。Kさん初めてのお客様Kさんと来店。酔狂師さん来店。
 ドンチャン。記憶はあったと思ったら、厨房にてお湯を湧かしてお茶を飲もうとしていたようだが、そんなことは全然覚えていない。やっぱりサル・・・・


携帯電話
5月15日月曜日晴れ ○

 前よりインターフォンの調子が悪かったのだが、ついにぶっ壊れたようで、部屋から玄関が開けられなくなってしまった。午前中に届いた宅急便のことで、クロネコヤマトのお兄さんたちには玄関で何度も電話をかける手間をとらせていまい迷惑をかけてしまった。午後より高田馬場のHISに来月末の香港への旅行の事で伺う。結局、泊まりはカムさんのお店のすぐ側のホテルにする。ヨッパラッテ帰ってもラクチン。
 携帯電話も変えるためにauの販売所にいく。お客様のしみずさんのミクシイの日記にもあったが、海外で使えるタイプがサンヨーのA5514SAとかいうのしかなく、選択のしようがない。前の携帯電話をauのお姉さんに「古いタイプですね。カメラ付いてないですね」といわれる。四年前のだし、メールもやらないというか使い方知らないし、留守電の聞き方もわからないし、淡路島の実家はエッジじゃあ通じないし・・・・・ でも、ビールのジョッキの中に入れても大丈夫ということで、飲み屋のオネ−チャンには受けた機種だったです。別に飲み屋のオネ−チャンへの受け狙いで防水タイプを買ったわけではなく、その前の携帯電話を、仕込み途中の鍋の中に落としてしまってダメになったから防水タイプにしたんですけど。(今回も防水タイプに未練があった)
 あと、ジーパンが破れてきたので、そろそろ買わなければということで、同じく高田馬場のいつものお店に伺う。
 その後、今日もスポーツセンターに行く予定が、シューズを忘れてきた事に気がつき、取りに帰るのも鬱陶しいので、そのまま部屋に帰る。
 途中、明朝のぶんのパンと牛乳を買ってから部屋に帰り、本を持ち込んでの長い風呂。


吉田清治と北畠清泰
5月14日日曜日曇り一時雨 ○

 昨日の残りの刺身で飯を食った後、店を片付けてからスポーツセンターに行く。途中、高田馬場で開かれている古本市にてあの詐欺師の
吉田清治の著書「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」(三一書房)などをを購入。この詐欺師の「朝鮮人慰安婦と日本人」(新人物往来社)は以前にこの古本市で見つけて購入していたが、この詐欺師が済州島での慰安婦狩りをやったと書いてあるこの著書は手許になかったので、有難い。山田盟子など他のバカ日本人が書いた本には必ずといっていいほど、本多勝一とこの吉田の著書が参考文献として載っているのには、今さらながら笑える。
 過去には、あの朝日新聞がこの詐欺師の本を何の検証もせずにそのまま記事にして、嘘を広めています。以下はその朝日新聞の北畠清泰の書いた記事です。

 
吉田清治さんは、昭和十七年朝鮮人を徴用するために設けられた「山口県労務報告会下関支部」の動員部長になった。
略)
 記憶の中で最も心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だ。
 吉田さんと部下、十人か十五人が朝鮮半島に出張する。総督府の五十人あるいは百人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。
 一つの村から三人、十人と連行して警察の留置場に入れておき、予定の百人二百人になれば、下関に運ぶ。女性たちは陸軍の営庭で軍属の手にわたり、前線におくられていった。吉田さんらが連行した女性は、少なくみても九百五十人はいた。

朝日新聞一九九二年一月十三日付夕刊

 この北畠清泰という男も朝日新聞の目的である「我が国を貶める」という功績により、朝日新聞ではさぞかし出世したことでしょう。朝日新聞も北畠清泰も、すでに吉田清治という詐欺師の嘘が明らかになっているこの記事についての訂正もおわびもしていません。
 腐れ朝日新聞の姿勢と「朝日新聞にとっての」優秀な記者である北畠清泰という男がよく判る例です。

 朝日新聞の従軍慰安婦問題、毒ガス問題、靖國問題、そして、ついには天皇責任論にまで手を変え品を変えて我が国を貶めようとするそのやりくちは全然変わっていません。

 今日はスポーツセンターでは胸部と背中だけのメニューを消化。部屋に帰る途中に最近よく行っている定食屋に寄ってから帰る。ここは遅くまでやってくれているのと、全店完全禁煙なので、飯を食っているときに隣のテーブルで平気な顔をして煙草を吸うバカがいるが、ここではそういう事はないので変にストレスを感じることはない。
 当店のお客さまである清水さんが「ミクシイ」に当店のコミニティサイトを作ってくれていたそうで、そこに参加させていただいているが、まだ使い方がよくわからない。まあ、そのうち、慣れるでしょう。

 風呂に入ろうと思っているうちに、灯りもつけっぱなしで布団で本を読んでいてそのまま寝てしまう。

怠慢
5月13日土曜日雨 △

 下記のような記事がありました。
以下引用
27億円不正に値引き、長岡郵便局員30人以上処分へ
 郵便料金の「別納制度」を巡り、日本郵政公社の長岡郵便局(新潟県長岡市)が、過去最大の約27億円の損失を出したことが、11日明らかになった。
 同郵便局は少なくとも2003年12月までの1年7か月の間、東京都内のダイレクトメール発送代行会社から受け取った郵便物約1億2000万通について、本来の料金約53億円のうち、約26億円しか徴収していなかった。
略)

(読売新聞) - 5月12日9時43分更新
引用終わり

 二十七億円・・・・・・

 考えられないようなアホな事です。てめえの腹が痛まないからこういう事が平気なのでしょう。
 郵便局の定形小包郵便物にEXPACK(エクスパック)500というのがあります。これは500円の専用封筒で全国どこでも送ることができるというすぐれものです。その封筒には「国際郵便にはご利用できません」「損害賠償はございませんので、次のようなものの送付はご遠慮ください。ガラスや瀬戸物などのわれもの/精密機械などのこわれもの/なまもの・いきもの/芸術作品などの代替品の入手が困難なもの」「次のものを入れて送付することはできません。信書/現金・貴金属等の貴重品/爆発物・毒劇物などの危険物」などとともに、「重量制限は30kgまでです」
と書かれています。

「30キロ」

ちなみに、写真のダンベルは片方10キロです。
30キロものダンベル・・・・・
エクスパックにほんとに30キロが入るか試算してみると・・・・
金で19.3g/cm3ですが、貴金属ですからダメ。レアメタルのタングステンは金と同じ19.3g/cm3、そしてタングステンより安い鉛が11g/cm3です。
EXPACK500のサイズは24.8×34.0cmです。250枚のチラシが入るそうですので、よく100万円で1センチとかいいますから2・5センチとして
24.8×34.0×2.5=2108cm3
それに比重11g/cm3の鉛を全部つめたとして
2108×11.3=23,820g
タングステンで
2108×19.3=40,684.4g
つまり約24キロの鉛しか入りません。タングステンでやっと40キロ。
だれが鉛を24キロも送るかという突っ込みはおいときまして、普通、30キロを500円で送れる値段設定にしますかいな。
嫌がらせで24キロの鉛を詰めて10枚で240キロを5000円。100枚で2400キロ、2・4トンの鉛を5万円で日本全国に即日配達・・・・・・・

(どっかのお金持ちさんで、嫌がらせでやる人いませんか)

 私なんか、随分前に、ヨッパラッテこの10キロダンベルを早稲田のアパートから店まで持ってくるだけで、途中イヤになりました。

(なんで、店に10キロのダンベルがあるんだという突っ込みはなし・・・)

 今日は御予約いただいていたお客様のみの御来店。初めてのお客様Oさん二名様で来店。お強い! ホロン部員Yさんお兄さん御家族と四名様で来店。
 今日も飲むが、なんか、今日は酒のまわり方が早い・・・・


鏑木正隆少将
5月12日金曜日はれ ○

 SAPIO(平成十七年八月二十四日/九月七日)に掲載された米公文書館で発見されたという写真です。これ以外に九分間のフィルムがあったそうです。

鏑木正隆少将が、処刑直前に、地元支那人僧侶C・コンパに笑みさへ浮かべ礼を述べている写真

死刑執行準備室で米軍憲兵(MP)らに両手を縛られた増田耕一軍曹 支那人僧侶C・コンパに先導され、独房から出た白川興三郎伍長


これらは昭和二十一年四月二十二日に上海にていわゆるB・C級戦犯として絞首刑に処される前の場面です。
 鏑木正隆少将(広島県出身)第三十四軍参謀長 四十九歳
 増田耕一軍曹(香川県出身)漢口憲兵隊    二十七歳
 藤井力准尉(徳島県出身) 漢口憲兵分隊   四十一歳
 増井昌三曹長(静岡県出身)漢口憲兵分隊   二十九歳
 白川興三郎伍長(新潟県出身)漢口憲兵分隊  二十三歳
以上五名の方が絞首刑に処されました。

 昭和十九年十一月、支那大陸奥地の航空基地より毎日漢口市街を爆撃し市民に大きな被害を与えていた米空軍機を日本軍が撃墜し、その乗務員三名を捕虜としてとらえた。第三十四軍司令部は度重なる爆撃に対する見せしめをするために市中行進を計画。
昭和十九年十二月十八日午前十時頃、支那の青年模範団という青年団二百名の隊列の真ん中に三名の捕虜を置き、彼らの両側を漢口憲兵隊員五名が警護するという形態で行進が始まった。
 その間、爆撃に日々苦しんでいた支那民衆の米軍捕虜に対する怒りが爆発して、彼らは投石などの激しい暴行を受け、行進が終わるころにはほとんど半死状態になっていた。半死状態の捕虜を連れて帰ることはできないので、郊外の火葬場で首を絞めて殺し遺体は火葬した。
 (上海米軍事委員会に提出された報告書より)
 報告書は松浦覚中佐が陸軍省の命令で上海監獄に収監されていた事件関係者たちの証言をまとめたものとされている。

 この報告書により、刺殺命令者を特定しないまま、昭和二十一年二月二十八日、絞首刑五名、終身刑一名、有期刑十一名という判決を下している。

 鏑木少将は昭和二十年七月に病死した第三十四軍司令官の身替わりとして極刑を言い渡された。
鏑木少将は復員し、夫人、七人のお子さんとの再会を喜んでいた矢先に、連合軍に逮捕され上海監獄に移送。この事件の内容についてほとんど知らないまま処刑された。
 家族への手紙には
「事件の真相は詳記せざるも、予個人としては怖行天地に恥づる点なきを以って此点安心せられよ。何れ事件の詳細は他日之を詳知せる人より機会もあるべし略)
本事件により聖戦の真意義に汚点を印し
略)
特に上官の命令により行動せし下士官兵多数重き処刑を受けくるに至りしは、気の毒至極にて断腸の思いあり
略)
当時軍参謀長たり予としては、此の残虐行為を未然に予防し得ざりし不明に対し責任の重大なるを痛感しあり」

 無念の思いは計り知れないが、鏑木少将は部下をかばいきれなかった事を自らの責任として痛恨の思いを家族への手紙に記している。

 鏑木少将は支那人僧侶に対しての最後の挨拶の場面では笑みさえ浮かべている。
 このことについてSAPOの記事は、当日の処刑後、処刑場の後片付けをさせられた松井正治法務大尉(終戦時、台湾軍司令部。台湾軍律会議事件で四十年の判決)の証言を書いている。
「刑の執行が終わった後、私は米兵より清掃を命じられた。廊下上に散乱する数百の煙草の吸殻を掃きながらこのおびただしい観覧者の中に、立たされていった五名の事を考えるとき、いかに勝者とは言え、そのやり方の報復的なのに心から怒りを感じた」
 (『戦犯裁判の実相』巣鴨法務委員会編より)

 フイルムには写っていないが、鏑木少将ら五名の我が国軍人の処刑は衆人環視の中で執行されたのである。
捕虜虐待という「聖戦の真意義に汚点」を犯す行為はあったかもしれぬが、しかし、この鏑木正隆少将という日本軍人の死に様、その意志を我々は記憶すべきではないか。

 以上「SAPIO」小学館(平成十七年八月二十四日/九月七日)P27〜29
および、「東京裁判」人物往来社 P187

 これらはアメリカ軍による報復裁判の実態と、ある意味、アメリカという国をよく現している。

 金曜日というと普通は飲み屋は忙しいはず・・・普通は・・・
うちの場合は、店を開けてみないとわからない。今日も予約はゼロ。
 でも、開店してみると、大台さん二名様で来店。初めてのお客様Eさん女性お二人で来店。初めてのお客様Sさん三名様で来店。Nさん来店。Tさん来店。
営業終了後、Nさんと営業時間が過ぎている「イデアル」さんにお邪魔する。ホントにオジャマ・・・・ゴメンナサイ。その後、Nさんともう一件「エムズバー」さんにハシゴ。なんと、遅い時間にもかかわらずお客様がほぼ満席。
ビール、日本酒、シャンパン、白ワイン、赤ワイン、カクテル・・・今日もいい気持ちでバタンキュウ。


金兄貴に乾杯
平成18年5月11日木曜日雨のちくもり ○

 支那の女工作員を愛人にして急所を握られ、支那の都合のいい様にされていたあの売国奴の橋本龍太郎元総理大臣は支那だけではなく、過去には、あの酋長を首になった後、早稲田大学から飯を食わせてもらっていたくせに、ウソを言って帰国した南朝鮮のバカ元酋長の金泳三に対しても臣下の礼をとっています。
 当時、そのことを西村慎吾議員に衆議院予算委員会で総括質問により指摘されています。済州島での会談以来、橋本は金元酋長を「ヒョンニム」(朝鮮語で兄貴だそうです)と呼んでいたそうです。どうも「ロン」「ヤス」とちょっと違う感じがします。
公務で一国の代表として客として招かれた時も「臣下の礼」をとっていた当時の我が国のバカ首相。 売国奴橋本らしいといえばそれまでかもしれませんが、この腐れ売国奴の橋本龍太郎は支那様のためにまだまだ活躍中です。

 対馬は距離的に朝鮮から五十キロ、九州から百三十キロだそうで、マナーをいうものを知らないというか、マナーの「無い」朝鮮人というより万引き、密猟の犯罪集団に地元の人たちもあきれながらも、朝鮮人観光客に経済をゆだねている対馬のことを今週号の「週刊新潮」も「週刊文春」も記事として掲載している。
対馬市は南朝鮮資本のホテル用地を無償で貸与したそうですが、そんな対馬市としての見解。
http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/policy/policy05_04.html

 バンクーバーで働いているときに非常にお世話になった星さんに電話。九月に遊びに行くことにする。Fさん二名様で来店。一名様来店。しみずさん、Nさん来店。一名様来店。TさんSさん来店。Aさん来店。Hさん来店。副店長来店。
今日もドンチャン。営業終了後、「青葉」で李さんと飯。


オランダ愚民政策と現代日本との類似性
5月10日水曜日くもり △

 ?<人間にとって最も重要なるべき高貴なる精神の教育すなわち、
 (イ)教師や父母長上に対する尊敬、
 (ロ)貧しきものをいたわり助けること、
 (ハ)傲慢でないこと、
 (ニ)下層のものを軽蔑しないこと、
 (ホ)社会生活において人間は常に礼儀正しくなければならぬことなどの精神教育はなされなかった。

 ?<人間としての高貴な情操や意志を涵養するようなものはもとより、民族の神話、伝説、童話、英雄譚など一つだってありはしません。それどころか童謡童詩さえほとんど載せていないのですから、ひどい限りといわねばなりません。つまり、ここでは「教育とは読み書き算盤なり」を少しもでていなかったのです。>

 これらはどこのことか。まるで、現代の日本の国の教育ではないだろうかと思うほど類似性があります。ところが、これらの言葉はオランダのインドネシアのおける愚民政策について「日本占領下バリ島からの報告」という本に書かれていることです。?は日本による「教育状況報告書」に「人間から魂の覚醒を防圧するために、インドネシアから精神の教育をも奪いとってしまった」と書かれている、オランダのインドネシア統治時代の教育についてのこの本に引用されている文章です。
?の引用文の前には下記のような文章があります。
以下引用
 子供を導いてどこへつれていくのか、その方向というものがここの教育には全然たっていなかったのです。為政者のオランダにはもちろんはっきりとしていたにちがいない。人間としての自主性、民族としての自覚をもたぬものをつくりあげる、これがオランダが腹中ふかくかくしていた教育の意図であったにちがいありません。前述の説明を通しても、学兄にはそれが御理解になられたことと思われますが、こちらの教科書にはそれが実にはっきりと出ているのです。
引用終わり
 いかがでしょう。文中の「オランダ」を「アメリカ」もしくは「日教組」「左翼マスコミ」などに置き換えれば今の我が国の現状にそっくりだと思われませんか。オランダはインドネシアにおいて三百五十年間の統治の間、徹底的な愚民政策をとりました。そのオランダの愚民政策に基づくこのての本が後年になって書かれたものが多い中、この本は当時の日本が大東亜戦争時に統治していたインドネシアに昭和17年7月より昭和19年12月に至る二年半、民政部文教課長の職にあった鈴木政平氏が、内地の学兄宛の報告として書き綴ったものを、後年、そのままの形で本にしたものです。
 この本には、鈴木氏がいかに小さなことまで気を配りながら教育者としてインドネシアの人々と接したかが書かれていると同時に、インドネシアにおいて三百五十年間文盲政策をとったオランダによる愚民政策統治のひどさと巧妙さなどを確かなその目でみた経験と具体的な数字で書き表しています。

 精神、教育についてこのオランダとまったく同じ政策をとったのが戦後のGHQの政策でした。我が国を弱体化させるためにはどうすればよいかという政策でした。我が国国民が日本人としての誇りを持ち一丸となることを恐れたのです。それをさせないためには、その民族の正しい歴史、神話、英雄譚なども教えず、道徳教育もおろそかにし、国旗、国歌なども歌わさない、そして徹底的な情報操作でした。教育現場においては左翼陣営に乗っ取られた日教組、朝日新聞、TBS、NHKなどのマスコミによりその影響が終戦後六十年以上も続いています。
 それは「愛国心養う教育しない」という佐賀県教職員組合などの「教育の危機宣言」を発表(毎日新聞2006年4月29日)などでも明らかなように、我が国からナショナリティーというものを奪おうとしているのです。政治的意図、イデオロギーに左右された我が国の戦後教育の姿です。
 大東亜戦争によりオランダのインドネシアの愚民政策を止めさせた我が国が、その大東亜戦争に負けたことにより、もののみごとにアメリカと左翼陣営による愚民政策が続き、日本国民としての誇り、道徳心などを奪い取っているのです。その異常な教育政策に気がついてないのは日本国民だけなのです。

 この本には鈴木氏だけではなく、多くの日本人がいかに情熱を持って教育にあたっていたかが書かれている。
 <教育とは、知識を授けたり技術をみがいたりするだけのものじゃあない。読み書き算盤などは教育のほんの一部分でしかない。教育は人間をつくるものである(ここでは国民をつくるものだとはいえません)。人間生活が精神の統制かにあることは、つまり知識、行為、身体が精神の統制下に全一体として成り立っていることは、諸君にもわかるだろう。
 君たちのやってきたのは、この人間のほんの一部分の教育でしかなかった。極端にいえば人間的な不具者をつくる教育にすぎなかったものだ。>

 これは先にあげた引用文の?の後に書かれているインドネシア人の教員の人たちへの鈴木氏の言葉です。鈴木氏がどのような姿勢でインドネシアの人々に接していたかがよくわかる文章です。
今でも我が国の教育に携わっている多くの皆様に聞いていただきたい言葉でもあります。

 三百五十年間にわたってオランダがインドネシアにおいてとってきた愚民政策と全く同じことが現在の我が国においておこなわれているということです。

 我が国も少しでも早く普通の国になってほしいものです。

引用および参考書籍
「日本占領下 バリ島からの報告」鈴木政平著 草思社
「戦後教科書から消された人々」濤川栄太著 ごま書房
「抹殺された大東亜戦争」藤岡寛次 明成社

 今日は河岸が休みなので、午後より高田馬場で開かれている古本市に出かける。「在日朝鮮人の現状と未来」その他数冊を購入。「在日朝鮮人の現状と未来」というこの本に関しては、想像通りの酷い本ですが、ネタ本としては面白い。新宿スポーツセンターにいく。今日は時間も無いので全体的に軽めにメニューを消化したつもりなのに、銭湯に行った時に両肩が重い・・・・
 バンブーさん二名様で来店。初めてのお客様二名様で来店。Kさん来店。Tさん来店。今日も飲む。でもそれなり。


相変わらず
5月9日火曜日くもりのち小雨 ×

 支那の工作員による成果が着々とあがっているようです。
以下引用
 首相の靖国参拝に反対、経済同友会が提言
 経済同友会は9日、首相の靖国神社参拝取りやめと、戦争犠牲者を慰霊する国立追悼碑の建設を求める「今後の日中関係への提言」を発表した。
 主要経済団体が首相に靖国神社参拝の中止を求める提言を行うのは初めて。
 
北城恪太郎代表幹事は記者会見で「日本の実情や参拝の理由への十分な理解を得ていない段階で、参拝をするのは好ましくない。国民感情が対立する中で、安定的な発展はない」と強調した。
 提言は、首相の靖国参拝が日中首脳の交流の障害になっていると指摘、小泉首相が「不戦の誓い」を参拝の目的としていることについて、靖国神社がその場として適切かどうか、国民の合意が得られていないとし、「靖国参拝の再考が求められる」とした。また、「不戦の誓い」を行う場として、国が宗教性を排除した追悼碑を建立するよう要請した。
(読売新聞) - 5月9日22時45分更新
引用終わり
まあ、売国奴の北城恪太郎らしい発言です。
それに対して、小泉首相は
以下引用
 「商売と政治は別だ」と記者団に反論した。首相は「靖国は外交カードにはならない」と強調。「財界からも商売のことを考えて『行ってくれるな』という声もたくさんあったが、それと政治は別だとはっきりお断りした」と語った。
(毎日新聞) - 5月9日22時39分更新
引用終わり

 先日も、同じ売国奴の
橋本龍太郎二階俊博平山郁夫などがそろって支那詣でをしてきたばかりです。

下記はその支那詣で団体です。

名称

代表

設立

沿革、目的

日中友好協会 平山郁夫 昭和二十五年 日中間の文化交流、経済貿易の促進。全国に四百五十以上の組織。訪中団派遣や訪日団招請
日本国最貿易促進協会 橋本龍太郎 昭和二十九年 会員五百社 対中貿易促進、市場調査
日本中国文化交流協会 辻井喬 昭和三十一年 会員誌「日中文化交流」発行 文化交流促進
日本友好議員連盟 高村正彦 昭和二十四年 日中貿易促進議連として発足。会員三百五十人
日本経済協会 千速晃 昭和四十七年 日中覚書貿易協定で設置された貿易事務所の機能を引き継ぎ、経済交流を行う
日中協会 野田毅 昭和五十年 個人会員四百八十五人 平成十七年度事業計画で首相の靖國参拝中止を求めることを明記
日中友好会館 林義郎 昭和二十八年 満州国留学生輔導協会が前身。学生寮運営、中国語学習の専修学校事業

 安部晋三議員は「諸君」平成十七年三月号の中西輝政氏との対談にて下記のように発言しています。
 「隣国に位置するこの大国との友好関係が日本の国益に合致することは疑いようがありません。しかし、この論理が逆転して、友好関係を維持することが目的になってしまっていたのが、今までの日本外交の姿だったと思います。国益を損なってでも、友好状態を維持しなければならない、そのため、ひたすら譲歩を重ねていくことも辞さない。そんな気分が日本の側にあったのではないでしょうか。もとより友好とは手段にすぎません。我々の目的はあくまで日本の国益の実現でなければならないのです。」

 そして、同じ対談で、中西輝政京都大学教授は支那外交の戦略パターンとして「一点集中、全面突破」ということをおっしゃっています。これは、レーニン以来の支那共産党の伝統的外交手法だそうで、もし、「靖國」で日本が少しでも譲歩すれば、一気に領土、教科書、戦後賠償、台湾と戦線を拡げて日本を圧倒するでしょうと。その例として、中西氏は「瀋陽事件から了解侵犯への流れをみてもわかる通り、対支外交では、核心的な問題において国家としての原則を踏み外すと、際限のない譲歩の連鎖につながることに今こそ気づかなければなりません。」

 今、我が国の橋本、二階などの政治家と経済界の一部の輩がやろうとしていることは、まさに国を売る行為に他なりません。

  河岸にいくのも久しぶり。無精髭はやはり評判が悪い。仕込みを終えていった銭湯で剃ろうか迷ったが、もうちょっとだけこのままにしておくことにする。
 今日は、開店早々に車さん二名様で来店。早いもので「酒いわしや」の時からで、もう十数年のおつき合いという話になる。尼崎からIさん二名様で来店。いつも東京に出張の度に寄ってくださる。感謝。なんと、名古屋から日帰り?というSさん来店。尼崎のIさんともども今日の新幹線でお帰りなので、時間を気にしながら?飲んでくださる。大台さん来店。御予約いただいた初めての方?二名様来店せず。03-3531-91×7着信拒否リスト・・・・
 十日ぶりの酒は旨い。ドンチャン。早く眠くなる。十二時過ぎにさっさと店を閉めてバタンキュウ。

やっぱ、どうしょうもないアホ酋長
5月8日月曜日くもり ○

 あの南朝鮮のバカ酋長(一部では大統領ともいう)がまたアホな事をホザいています。
以下引用
「日本は昔から“兄貴面”」 韓国大統領また“歴史講義”
≪「中国のマネして皇帝つくった」≫
 【ソウル=黒田勝弘】「米国にはたしかにお世話になった。しかし韓国は大きくなったからもう米国には頼らない。独自の道を選択してもいいのではないか」「日本は昔から"兄貴面"をするので問題が起きる、中国や日本に強大な勢力が現れるといつも朝鮮半島に戦争が起きる」「しかし、心配はあるが韓国はすでに力をつけた。過去のような侵略や支配、抑圧の歴史は決して繰り返されないものと信じる」−。
 このところ、歴史づいている韓国の盧武鉉大統領が、また長々と"歴史講義"を展開し話題になっている。政府機関である「民主平和統一諮問委員会」の在米代表団を前に3日行ったもので、東アジア情勢から米韓、中韓、日韓関係などについて歴史を引用しながら1時間近く熱弁を振るった。
 米国については「過去、50年間、大いに世話になった。感謝している。永遠の友人だ。しかし友人を疑うわけではないが、国家の選択はその時々で変わるものだ。いつまでも頼ってはおられない」と述べ、かねてからの"対米自主"論を繰り返した。
 一方、対日関係では「歴史問題でケンカしている」とし、最近の日本の動きは、(1)古代・朝鮮半島に対する支配権の主張(「任那日本府」の話?)(2)豊臣秀吉による壬辰倭乱(文禄・慶長の役)(3)日韓併合による植民地時代−に続き、「日本が自慢、自信感から国家的栄光を求める4度目のもの」だという。
 さらに、日本は中国(唐)のマネをして「皇帝(天皇)」をつくったため、その下に「王」が必要になって琉球や韓国を「王」にし、自分は"兄貴風"を吹かしてきたが、中国を"兄貴"と思ってきたわれわれにはこれはとんでもないことだとし、こうした背景もあって盧大統領は「今日の日本に国粋主義傾向を感じる」という。
 また16世紀の「壬辰倭乱」についても「陶磁器技術など産業基盤が完全に崩壊され、知識人や農業技術者など10万人が日本に連れていかれ、農地は3分の1に減った。こうした被害がなければ韓国は近代化過程で産業的に相当発展していたかもしれない」などと"アマチュア歴史談義"を披露している。

 そして、「東アジアでは中国が強くなってもコトが起き、日本が強くなってもコトが起き、韓国は被害を受けてきた」としながら、韓国が力をつけ独自の"戦略"を選択することで「歴史の繰り返し」から逃れられるという。持論である日米中と等距離の"東アジアの均衡者"という理想論を、あらためて力説したかたちだ。

【2006/05/05 産経新聞東京朝刊から】
引用終わり

 これだけアホが一国の代表を務めている国は中々ないと思います。
この発言も永久保存判。こんなアホが酋長の南朝鮮の人もさぞかし恥ずかしい事でしょう。もし、そう思わないのだったら、それもアホのお仲間です。

 連休中はず〜と酒を飲んでいないのとヒゲをそっていない。今日も何処にも行かずに部屋にいて日本刀の手入れをした後は、本を読んだりして一日が終わる。


支那の空母
5月7日日曜日雨のちくもり ○

 先日(五月三日)の産経新聞に「中国、二年後空母配備か」という見出しで下記のような記事がありました。
以下引用
 大連のドックで改装作業が進む旧ソ連製の六万トン級空母ワリヤーグが一番艦として転用され、南シナ海の海南島三亜に配属されるとしている。
 略)艦載機としては、中国ですでにライセンス生産されている「スホイ27」と伝えており、同型機を艦載型に改造した機種を想定しているもようだ。
引用終わり

 私の部屋はインターネット接続環境にないので、手許にある本からワリヤーグ、支那の空母関係、スホイ27についての情報を引っぱりますと、
手許にある「中国が空母をもつ日」(江畑謙介著 徳間書店)には、支那ワリヤーグを購入する前の一九九四年の時点ながら、江畑氏は船体と機関を完成しているとしても、戦闘システムを他の国から入手しなければならないなど、最初から別の艦を設計した方が早いからウクライナから空母を買っても完成はできないと予想していました。
あと、コストが江畑氏は空母本体と電子、兵器関係で三十億ドル。搭載機三十億ドル。搭載機の陸上での整備、訓練、減耗予備、インフラ整備などで三十億ドルの計九十億ドルと運用経費が毎年四億ドル相当必要なので、この時点ではワリヤーグの購入はないだろうとしていました。
しかし、遠い将来、戦略情勢が大きく変化しないかぎり支那はいずれ空母を持つだろうとも書いています。

 少しだけ江畑氏の予測ははずれましたが、今年になってすでに香港紙が、支那の空母研究は最終段階に入っいると伝えています。さすがは資金的な問題は国民がパンツをはけなくとも原爆を作るといった殺人鬼毛沢東の国だけあって、関係ないようです。それでいて、アメリカで胡錦濤は「なお世界最大の発展途上国」「中華文明は人間の尊厳と価値を尊重してきた」とか言ってましたよね。資金はODAがなくなっても、アジア開発銀行からの迂回融資で日本に出させるから関係ないとでも思っているのでしょう。アジア開発銀行のアホなやり方に日本政府はどうしてだまっているのでしょう。

一応、支那の空母関係の歴史としては
 一九八〇年代にオーストラリアの退役空母「メルボルン」二万トン(旧英空母マジェスティツク)を名目上はスクラップとして購入。徹底的に構造、設備を調査後解体。

一九九〇年代にロシアからキエフ級一番艦キエフ(四万三千五百トン)を購入。徹底的に調査。
同じくキエフ級二番艦ミンクスもスクラップとして購入。徹底的に調査。

海外から完成した空母を購入する方法を検討。ロシア、フランスと交渉するも、支那が設計資料の提出、建造支援を要求したために商談不成立。

国産空母の設計に着手するが、
一九九八年ウクライナから改クズネツォフ級二番艦ワリヤーグ(五万八千九百トン)をスクラップ名目で購入。カジノへ改修する計画があった。
このワリヤーグはソ連の崩壊で分離独立したウクライナが、黒海のクリミヤ半島のニコラエフ造船所で建造中だった旧ソ連海軍初の本格的空母の二番艦であるワリヤーグを接収したもの。
一番艦のアドミラルクズネツォフはソ連の崩壊当時、一応完成していて搭載機の発着テストを行っていたので、一九九一年末のウクライナの独立宣言直前にボスポラス海峡を抜けて地中海に脱出、ロシア北方艦隊に編入されてしまった。怒ったウクライナ政府は進水して艤装中の二番艦ワリヤーグと進水前の三番艦ウリャノフスクを接収。進水前のウリャノフスクはウクライナの手ではどうしようもなので解体。ワリヤーグのみを支那に売却。設計図面なども入手済み。
ちなみに一番艦アドミラルクズネツォフはカタパルトの開発に成功していなで、搭載機は甲板を滑走して先端よりジャンプする形式、米海軍の空母より劣る。
推進機関 蒸気タービン四基 出力二十万馬力 全長三百二・三m 全幅三十五・四m 艦載機数 固定翼機二十機 ヘリコプター十五機 甲板にVLSが設けられるなどヘリ空母としての性格が強い。

スホイ27
多目的戦闘攻撃機、運動性能はずば抜けている。航空ショーでは機体を垂直に立ててそのまま水平移動する「コブラ」なる運動を披露。支那ではライセンス生産を行っている。マッハ2

 支那は着々と空母取得に向けて準備を進めて来たことがわかります。支那の脅威は現実のものとなっているのです。一部マスコミなどがそれを否定するのが如何に現実的でないかを教えてくれます。

 今日は昼ごろから出かけようと思っていたら、曇っていた空から雨が降り出す。仕方ないので、インスタントラーメンを作って食べる。少し小降りになってきたので、新宿スポーツセンターに行く。久しぶりに松山さん御夫妻とお会いする。店に寄りゴミを出してから帰る。今日は生ゴミというより店を片付けたときに出た焼却ゴミ。最近、寄るようになった部屋の側の定食屋さんは結構遅くまでやってくれているのでありがたい。


「yes,BUT」
5月6日土曜日晴れのちくもり ○
 
 5月4日の朝日新聞の九面には「歴史と向き合う」として「『靖国』米国はどうみますか」とケント・カルダーという米国人(と思う)を登場させていた。
この中で靖國参拝を「死者の追悼は国内問題」とことわりながら、「外交問題としての側面」と語っている。そして、「何人かの保守政治家が言うように、靖国参拝は政治問題化してはいけないと思う。中国がこの問題で日本に指図するのはおかしい」としながら「現実には首相が参拝し続けるかぎり、政治争点であり続けるのです」とする。聞き手である朝日新聞の論説委員・三浦俊章氏は「靖国参拝は、中国に屈するなという文脈で語られています」と質問を投げかけ、「靖国参拝が日本の中国に対する強い姿勢を象徴するようになったのは、非常に不幸なことだと思っています。略)
日本は中国から大きな挑戦を受けている。東アジアにおける領土や資源をめぐる地勢的な挑戦です。本来は歴史とは別の問題なのに、日本が靖国問題などで中国を刺激したので両者が結びついた側面があります」
 つまり、このカルダー氏は我が国が支那を歴史問題で刺激したからいけないのだと言っているのです。
このカルダー氏は「歴史問題は、第二次世界大戦における日本の立場を正当化し、美化しているものではないでしょうか」まで言っているのです。
 三浦氏は最後に「今後の歴史問題にはどのような取り組みが必要だと思いますか」と問いかけ、それに対してカルダー氏は「米国が公式に直接、この問題に介入すべきではありません」といいながら「多国間の枠組みでやるべきです。日米中の3カ国だけでなく、多くの国、たとえば、カナダ、スエーデン、ドイツなど善意の第三国、さらには歴史問題の直接かかわりのないアジアの他の国々などが加わることが望ましい」と言わせています。
つまり、我が国の歴史について「歴史問題は政治問題化してはいけない」しかし「多国間の枠組みでやるべき」と宣う。つまり政治問題化しろという。
 朝日新聞OBの稲垣武氏が書いていた朝日新聞の伝統芸ともいう「yes,BUT」手法でしょうか。まあ、稲垣氏は伝統芸と書かずに、「yes,BUT」論と書いていましたけど・・・つまりyesは小さく、BUTはでかい。思わず納得。
 まずこの問題はというより問題にしたのは、「(従軍)慰安婦」「毒ガス兵器破棄」「教科書」などと同じく反日主義者のマスコミ総本山である朝日新聞がマッチポンプをやりこのような形にしたという事を忘れてはなりません。そして、この正義面して語る米国人がいう「歴史問題は、第二次世界大戦における日本の立場を正当化し、美化しているものではないでしょうか」という言葉こそ、朝日新聞などと同じく、まさに天に唾するものです。先の大戦は我が国が「悪」で、それに対して米国が「正義の戦い」をしたものとでも思っているのでしょうか。歴史は多面的なものであり、そのような単純なものではありません。米国人はそうは思いたくはないし、忘れたいだろうが。

  このような企画を読んでつくづく思うのは、朝日新聞という新聞社は日本の新聞社ではなく、支那、朝鮮のためにある新聞社ということがよくわかります。

 今日は飯を食いに外に出ただけ。後は部屋で本を読んだりゴロゴロして終わる。酒は飲まず。


青葉園へ
5月5日金曜日晴れ ○

 今日は午後より青葉園に行く。大宮駅よりタクシーで千円ちょっと。青葉地蔵尊と山下大将の墓碑にお参りさせていただいてから、青葉園資料館へおじゃまする。日高さんという元帝国陸軍軍人の方が説明もしてくださる。館内の写真撮影は禁止だが、山下大将がこの霊園の創立者にあてた手紙など興味深い資料が多い。山下大将に終戦特使を命じられた根元勝憲兵中尉(福島県出身)の獄中での日記の原本などもある。
この日記には本間中将が銃殺刑に処されるために獄舎より出されて行くときに、残った日本軍人のみなさまが、ソーラン節で送ったことが書かれている。
あと何度か通って日高さんに詳しくお話を伺いたいものです。

 今回も戸田スポーツセンターにいく。今日は肩、腕、足などのメニューを消化。飯を食ったあとは部屋に帰ってすぐに風呂に入る。布団に入って本を読んでいたら、今日も灯りをつけっぱなしで寝てしまう。酒は飲まず。



普通は・・・・
5月4日木曜日晴れ いいお天気 ○

 まだ、一昨日トレーニングセンターでやった肩、腕、足に筋肉痛が残ったまま午後より戸田スポーツセンターにいく。ここは利用時間は二時間単位だが戸田市以外に在住の者は百九十円(他にロッカー使用料十円)で利用できる。戸田市市民は百二十円か百三十円だったと思います。まあ、どちらにしても低額で利用でき、空いているので自分のペースでメニューを消化できます。ただ、二時間なので、それなりに考えてメニューを組み立てる必要があります。今日は背中と胸のみのメニューを消化。

 資源ゴミ(紙)を出す為に店に寄る。新聞紙をまとめていると、外で「ガシャン」という音。そのままにしてあったのだが、少し経ってからもしやと思って慌てて外に出てみると、植木鉢が落とされて割れていました。そして、落とされた植物(みかんの木)だけが元の場所に戻されていました。店の前の道の左右を見ると三十メートルほどむこうを小さなお子さんを連れた男性が遠ざかっていきます。追っかけて「ちょっと、すみません」と声をかけると「いやあ、子供がさわって落っことしちゃんたんですよ」「はあ」「子供がやったもので」「はあ?」「掃除しますから」「はあ、あなた、それ以前に言うことないのですか」「いや、人の気配がしなかったもので」「じゃあ、そのままにしとけば問題ないということですか」「いや、掃除しますから」「あのね、普通は、まず謝るのが最初でしょ」「いや、子どもがやったもので」・・・・
「このくそドアホウが!」
まあ、子どもの前で怒鳴りたくはなかったが、思わず声が出ていました。
いや〜血圧上がっちまいました。このアホからは最後まで「すみませんでした」という謝罪はありませんでした。あったのは「なにぶん、子どもがやったもので」「掃除しますから」という言葉だけでした。
こんなアホな腐った親?に育てられる子どもも可哀想だ。


辛淑玉
5月3日水曜日晴れ ○
 話題がないときの朝日と辛淑玉頼み・・・かな
 あの朝日新聞がずいぶん前に辛淑玉女史の事を書いていました。そこから、女史のお言葉につきまして。
以下引用
http://www.be.asahi.com/20060128/W14/20060105TBEH0013A.html
■憲法は民の血の代償
 昨年暮れ、天皇誕生日の前日の札幌市内の講演会。
 「『愛子さまー』も『将軍さまー』も同じ。人の上に人をつくるのが天皇制。あらゆる差別構造の象徴です。天皇制が大義になって、殴られてもいい人間、殺されてもいい人間を生んだ」

 12月8日、横浜市内で開かれた憲法・教育基本法改悪反対の集会。
 「自衛官に金持ちの子なんていない。戦争は貧乏人が弾になる」
 「日本人外交官のために命を落としたイラク人ドライバーのために一滴の涙も流さない日本人がやるイラク人道復興支援って何なのか」

 「逆らったらどうなるか、見せしめにされたのが香田証生。誘拐事件は犯罪者の要求を聞いたふりをして、時間を延ばして交渉する。なのに彼は即座に死刑宣告された。宣告したのは自衛隊を撤退させないと言った小泉首相です」

 「戦後も日本は戦争をし続けた。朝鮮戦争、ベトナム戦争……。アメリカの公共事業である戦争に加担し、甘い汁をずっと吸ってきた。もっと甘い汁を吸うために憲法9条を改正する。憲法は2000万の民の血の代償として日本人の手に渡った。この憲法を破棄することはアジアへの宣戦布告だと思います」

 11月下旬、大阪府羽曳野市の人権を考える集い。

 「『あなたの息子が男性を好きだと告白したらどうしますか』と都議選の候補にアンケートしたことがあります。つらい思いをしてきた息子に『話してくれてありがとう』と言う人はたったひとり。『あ、そう、ふーん』がほとんどでした」
 略)
 父は弁護士を目指していたが、日本国籍を奪われて道を閉ざされ、職を転々としていた。
略)
 辛は5年前「日本の公民権運動」として、外国人登録証明書を返上する意思を公言した。まだ持っているが、運動の進展を見計らって、最も効果的な時期に政府に返すつもりでいる。

 外国人登録制度は00年に指紋押捺(おうなつ)が全廃されたものの、登録証の常時携帯義務が残されている。在日朝鮮人は日韓併合によって日本の臣民にされ、戦後、52年のサンフランシスコ条約発効とともに完全に日本国籍を奪われた。

 「私たちは勝手に日本人にされ、勝手に外人にされた。私は朝鮮人で幸せだったという社会をつくりたい」
略)

引用終わり

 相変わらず香ばしい発言の数々です。個々の発言につきましてはもう何とも・・・
まあ、とりあえずは
 <父は弁護士を目指していたが、日本国籍を奪われて道を閉ざされ、職を転々としていた。
略)
 辛は5年前「日本の公民権運動」として、外国人登録証明書を返上する意思を公言した。まだ持っているが、運動の進展を見計らって、最も効果的な時期に政府に返すつもりでいる。
 外国人登録制度は00年に指紋押捺(おうなつ)が全廃されたものの、登録証の常時携帯義務が残されている。在日朝鮮人は日韓併合によって日本の臣民にされ、戦後、52年のサンフランシスコ条約発効とともに完全に日本国籍を奪われた。
 「私たちは勝手に日本人にされ、勝手に外人にされた。私は朝鮮人で幸せだったという社会をつくりたい」 >

 これにつきましては、在日朝鮮人のよくつくウソの典型です。詳しくは浅川氏の論文を引用させていただき、すでにこのホームページにも書かせていただいておりますが、我が国は日本国籍を一方的に奪ってはいません。参考
在日朝鮮人のつく大嘘「日本国籍を強制的に収奪された」
ですから、辛淑玉女史が言っている「私たちは勝手に日本人にされ、勝手に外人にされた。私は朝鮮人で幸せだったという社会をつくりたい」などというのは在日朝鮮人によくある我田引水による大ウソです。
この辛淑玉女史のことは同じ在日朝鮮人として、元プロレスラーの前田日明氏が福田和也氏との対談で
「名前を出して悪いんだけど、辛淑玉さんなんか見てると、情けなくなってくる。差別されたとか、日本は加害者だとか言うだけで、それだけ叫び続けて一生を送るのかなと思うと、とてもおれは共感できない。力道山や大山倍達だって差別されたはずだけど、ちゃんと一個の人間として、大した生き方をしてみせたじゃないですか。有名無名に関係なく、俺の知っている限りそういう在日はたくさんいますよ」
(「別冊正論Extra.02」p255 平成18年 より)
まあ、ごもっともです。
ただ、前田氏の「出自が在日だからということで、韓国で就職差別を受けたり、北朝鮮に帰国すれば殺されたりひどい目に遭わされたりする。こういうことに黙っていながら、日本国内の差別反対とか、参政権よこせとか言う人間をおれは信用できない」
これは真っ当な御意見と思いますが、その後に続く
「この頃、もうこうなったら仕方がないから北も南も滅ぼして、李氏朝鮮を再興するしかないと思ったりもするんですよ(笑)」p257
 いや、いくらジョークでもこれだけは止められた方がよろしいと思います。世界最貧国の一つ、両班復活、四十%が奴隷・・・・

 今日も部屋でゴロゴロして過ごす。背中などが筋肉痛。酒は飲まず。

ごまかし
5月2日火曜日雨 ○

 今日の朝日新聞社らしい社説とアンケート結果です。おそらく、ネット上ではお祭りかも???
以下引用

開廷60年 東京裁判を知ってますか
 日本の戦争指導者を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷してから、3日でちょうど60年になる。
 
米国などの連合国が日本の侵略戦争を断罪し、政治家や軍部の責任を問うたこの裁判は、2年半に及んだ末、25人が有罪とされ、東条英機元首相ら7人が絞首刑になった。
 この7人に加え、判決前の病死や服役中の獄死を含め、14人がのちに戦死者とともに靖国神社に合祀(ごうし)された。小泉首相の靖国参拝で議論になるA級戦犯とは、この裁判で裁かれた指導者のことだ。

 ここ数年、首相の靖国参拝と絡めて裁判の正当性を問い直す声が出ている。
 東京裁判に批判があるのは事実だ。後からつくられた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で裁くのはおかしいという指摘がある。原爆投下など連合国側の行為は問われず、判事団は連合国側だけで構成された。被告の選定基準はあいまいで恣意(しい)的だった。


 一方、評価もある。日本軍による虐殺や関東軍の謀略などが裁判で初めて明るみに出た。ナチスを裁いたニュルンベルク裁判とともに、戦争というものを裁く国際法の流れの先駆けともなった。
 こうした否定、肯定の評価が入り交じった東京裁判をどう受け止めるべきなのか。戦後に生きるわれわれにとって難しい問題であるのは間違いない。

 はっきりしているのは、政治の場で裁判の正当性を問い、決着を蒸し返すことの現実感のなさである。
 あの裁判は、戦後日本にとって二つの意味で線を引く政治決着だった。

 国際的には、51年のサンフランシスコ平和条約で
日本は東京裁判を受諾し、国際社会に復帰を果たした。平和条約は締約国の対日賠償を基本的に放棄することもうたい、それとセットで日本は連合国側の戦後処理を受け入れたのだ。

 
国内的には、A級戦犯に戦争責任を負わせることで、他の人を免責した。その中には、昭和天皇も含まれていた。

 裁判は不当だという立場を貫くなら、あの戦後処理をやり直せと主張するに等しい。講和を再交渉し、米国をはじめ世界の国々との関係も土台から作り直す。そして戦争犯罪は自らの手で裁き直す。
 こんなことが果たして可能なのだろうか。裁判の限界を歴史の問題として論じることはいい。だが、言葉をもてあそび、現実の政治と混同するのは責任ある政治家の態度とは思えない。裁判を否定したところで、日本の過去が免責されるわけでもない。

 朝日新聞の最近の世論調査で、驚くような結果が出た。聞かれた人の7割、とくに20代の9割が東京裁判の内容を知らなかった。そして、
東京裁判や戦争についての知識の少ない人ほど、今の靖国神社のあり方を是認する傾向がある。
 歴史を知らずして、過去を判断はできない。まずは歴史と向き合うこと。東京裁判60年を機会に、改めてその重要性を考えたい。

引用終わり
 さすがは朝日新聞というべきでしょう。四月二十八日の日記に書きました「連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」という言葉をそのまま使っています。この間違い?(朝日新聞にとっては間違いであったら困るので、それを認めない?)についてはすでに多くの方の御指摘があります。この東京裁判については後に書きたく思います。(いつか・・・)
 朝日新聞らしいところは、そのアンケートでしょう。靖國参拝を反対していない多くの人間は東京裁判については知らないのだだから反対していない。知っていれば当然反対するはずという導き方です。
では、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と教えてきた戦後教育の中で東京裁判の正確な知識というものをどれだけの人間が知り得たかというものを問うてはいません。現実に自虐史教育を戦後六十年も経ってもやっている我が国において、まだ東京裁判が復讐裁判であったということをどれだけの国民が知っているのでしょう。「平和に対する罪」などという事後法によって裁かれた(いわゆる)A級戦犯と、(いわゆる)B・C級戦犯との違いの正確な意味をどれだけの人が知っているでしょう。
 朝日新聞のスタンスは、「戦争は指導者(軍国主義者?)にあり、一般国民(日本人民と言い方をする)には責任がない」とする戦後日本に刷り込まれた贖罪意識を利用する支那、南北朝鮮と同じです。
 ドイツのように「悪かったのはすべてヒトラーとその側近であり、ドイツ国民は悪くないなどという詭弁」により戦後を生きている国と同じように、「悪いのはA級戦犯であり、日本国民は悪くないのだ」などとほざくより、正々堂々と当時の自国の立場を述べるのが普通の国のあり方でしょう。
普通で考えて、我が国国民を分けて考えることのおかしさ。これは支那・朝鮮と朝日新聞などがよく使う「アジア各国」「アジアの人々」とかいうおかしさと同じレベルでしょう。
 (いわゆる)A級戦犯を問題にしている北東アジアの三国が次に問題にしてくるのは、(いわゆる)B・C級戦犯とされた先人のことでしょう。今の我が国があるのは先人のおかげです。その先人に感謝するのは当たり前のことです。普通の国として生きていくためにはごく普通のことをごく普通にしていけばいい事だと思います。

だいたい、大東亜戦争を侵略戦争などと容易く断定するな!

 今日も午後まで部屋で本を読む。時間を気にせずにブラブラできる至福の時なり。腹がへったので、スポーツセンターに行く途中に飯を食う。しゃれたうどんやさんだが、ワカメうどん六〇〇円はいかがなものか。
 今日は新宿スポーツセンターではなく、戸田スポーツセンターにいく。ここはケーブルを使った器具などもあり、ちがったメニューを消化することができる。
 帰りに、無印良品によりブックエンドを購入後、古本屋さんに立ち寄る。今日も酒は飲まず。


福田和也の記述について
5月1日日曜日はれ 暑いほどのいいお天気 ○

 このゴールデンウイークは十日間もあるので、朝から本を読んでゴロゴロしていることができる。あれもこれもと読んでいて、気になる箇所がいくつかあった。そのひとつが福田和也氏が山下大将のことを「諸君」平成十六年十一月号に書いているのですが、それによると、福田氏はこの中で山下大将の墓というものについて書いている箇所がある。
以下引用
 山下の墓−−遺骨は後に多摩墓地に移されたので、元墓だが、終焉の地であることは間違いがない
略)
 中村さんによれば、数年前までは、石造りの墓碑が立っていたというのだが、それはあとかたもない。
略)
 私は、ぼんやりと、山下の墓碑があったという辺りを眺めながら、パナマ帽で蚊を払っていた。
p217

 大東亜戦争において日本人戦犯とされた皆様の御遺骨がどのような状態であったか。その御遺体を戦勝国としたアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、支那などがどのようにしたか福田氏は本当に御存じないのであろうか。
 以前にも書きましたが、山下大将はアメリカ軍に武人としての扱いを受ける事なく、マッカーサーの復讐心を満たすための卑劣な手段により絞首刑にされました。
 山下大将の熱心な弁護人であるクラーク大佐、フェルドハウス中佐、ヘンドリック中佐、ガイ少佐、サンドバーグ大尉、リール大尉はアメリカ本国の連邦最高裁判所に人権保護令状の発給を求めて訴願したが却下される。我が国国内においても山下大将の死刑判決に対して、減刑か武人らしく自決の機会をと終戦まもない混乱時にもかかわらず八万六千人もの署名の嘆願書がマッカーサーの元に届けられます。自らの恥辱を晴らさんと復讐に燃えるマッカーサーはそれを無視するだけでなく、「軍職の一員であることを示す制服、勲章、附属物を剥奪した上、山下大将の刑を執行すべし」というマッカーサーの命令により、山下大将は軍人でありながら軍服を禁ぜられ、米軍のカーキ色のシャツ、ズボン姿、緑色の作業服、そして敵軍である米軍の作業帽をかぶせられ、欧米では一番恥ずべきものとされる絞首刑により処刑されました。そして、その御遺体の埋葬場所は秘密にされたままです。

 あと、福田氏の書いてあるところでの疑問は下記の箇所です。
以下引用
 山下は、両手を拳げ、太いベルトを胸と腹に巻きつけられた。
略)
 また、ジープに乗せられた。
足を縛られている山下のために、森田は手を貸さねばならなかった。
 マンゴの樹の下に、絞首台が設けられていた。
 煌々たるライトの下、山下は
十三階段を、昇っていった。

 福田氏は矛盾を感じないのだろうか。ジープに乗るのにさへ手を貸さなければならないように足を縛られている山下大将が、どうして十三階段を昇れるのだろう。
私にはわからない。

 今日は店に行き、生ゴミを出した後に新宿スポーツセンターにいく。帰りにもう一度店に寄り、店をすこし片付ける。資源ゴミと不燃物ゴミを出して帰る。

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