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杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
酒たまねぎや飲んべえ日記 平成26年9月

 

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


Facebook(木下隆義)、Twitter(@saketamanegiya)を始めました。でも、いまいち使い方がよくわかりませんのでちびちびやって行きます。よろしければ、友人リクエストをお願いいたします。

Mixiでの当店のコミュニティは「神楽坂のお洒落でない一杯飲み屋」

管理人はめぐろのしみずさんです。

Mixiでの私自身のハンドルネームは一合です。

一合とっくりのつもりですが、酒はそれでは終わりませんのでいろいろと問題が・・・・・最近は時事的な事は書き易いので、ついついMixiの日記の方に書いております。よろしければ、ご覧下さい。もっと、よろしければ、当店のコミュニテイに参加してください。もっと、もっと、よろしければ、マイミクに。


詐欺師集団を嬉々と出迎えるアホ

9月30日火曜日△

 あのしばき隊の一員である山口裕二郎氏のブログより

12月20日。

榎本くんが、羽田空港へ。

「台湾は現在日本領であり、日本の了解と連合国の承認を得て独立、建国」を目指す、台湾民政府の方々140名を歓迎した。

靖国参拝と天皇誕生日奉祝のため来日されたのだ。

「歓迎 台湾民政府訪日団御一行」

と言う横断幕を掲げ、日の丸と台湾民政府の旗を振りながら出迎えた。>

http://yamaguchiyujiro4.seesaa.net/article/241603679.html

魚拓

http://megalodon.jp/2014-0929-1833-53/yamaguchiyujiro4.seesaa.net/article/241603679.html

 詐欺師集団である台湾民政府を嬉々として迎えるアホウ。

 少し考えれみたら言っている事がメチャメチャなのはガキでもわかるだろうに。

台湾民政府の危険性

 ホンマあほらし

 四名様来店。

 Iさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 さっさと帰る。


9月29日月曜日晴れ○

 今日は西村眞悟先生の御好意によりカミさん共々「第百八十七回国会開会式」を参観させていただく。

 

 

 一般は携帯電話まで持ち込み禁止なので、写真はなし。

 愛国者と腐れ売国奴。

 

 ホンマ、クソ鬱陶しい連中。

 店に寄り、店の片付け。

 

 今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。


9月28日日曜日晴れ× 

 午後三時より「酒たまねぎや 飲んべえの会 東洋美人」

出品酒 

NO.1  東洋美人 純米大吟醸 斗瓶取り 愛山 精米歩合40%  21BY

NO.2  東洋美人 純米大吟醸  愛山 精米歩合40%          25BY

NO.3  東洋美人 壱番纏 純米大吟醸 山田錦 精米歩合40% 25BY        

NO.4  東洋美人 壱番纏 純米大吟醸 山田錦 精米歩合40% 23BY

NO.5  東洋美人 壱番纏 純米大吟醸 山田錦 精米歩合40% 21BY

NO.6  東洋美人 生き残ってくれた酒達 

NO.7  東洋美人 原点 精米歩合50%                 25BY

NO.8  東洋美人 原点 純米吟醸 おりがらみ 精米歩合50%  25BY

NO.9  東洋美人 原点 純米吟醸 出羽燦々 精米歩合50%   25BY

NO.10 東洋美人 原点 純米吟醸 酒未来 精米歩合50%    25BY

NO.11 東洋美人 原点 純米吟醸 山田錦 精米歩合50%    25BY

NO.12 東洋美人 原点 純米吟醸 愛山 精米歩合50%      25BY

NO.13 東洋美人 原点 純米吟醸 白鶴錦 精米歩合50%    25BY 

NO.14 東洋美人 原点 ひやおろし 精米歩合50%         25BY

NO.15 東洋美人 鑑評会出品酒                     25BY

NO.1本阿彌さんご提供

 

 

 

 その後二件ハシゴ。

 ドンチャン。

 記憶無し。

 夫婦揃ってサル以下。


今更ながらの本田勝一

9月27日土曜日晴れ△

 アホの著書には南京大虐殺として

 <結局、南京で殺された中国人は約三〇万人とみられているが、広島・長崎で米軍に虐殺された原爆被害者の正確な数がわからないのと同様に、正確な数は知るすべも無い。問題の本質はしかし、数字ではなく、無差別大虐殺や大暴行が行われたという事実である。

 こうしたとき、侵略者の側が必ず熱中する常套手段は、まず正確な「数字」や「目に見える証拠」を要求し、それと侵略された側の主張との不正確な食い違いをあげつらい、最後に「だから事実はなかった」「すべてマボロシだった」「したがって侵略軍は正しかった」とする詭弁術である。

 現在ベトナムに対して、アメリカ合衆国政府が常にこれをやっている。北ベトナムでの飛行機の撃墜機数の食い違いなどは毎日報道されている通りだが、病院や学校を爆撃しつくしておいて「北の発表はウソだ」と強弁していた米政府の論理が破綻してしまった現在、侵略側としての努力は、かくも空しいものとなっている。しかし、反動側としては、これ以外に頼りになる論理がないので、日本でも反動雑誌に出る文章などには、このタイプが多い。>

「中国の日本軍」(蒼樹社 一九七二年第一刷発行 一九九〇年第二十二刷発行)P九十四〜九十五

 

 続いて、手元にあるこのアホ著書よりもうひとつ。

 <『マルコポーロ』を廃刊にして 『諸君』は廃刊せぬ文春を嗤う

 株式会社文藝春秋が発行する月刊誌『マルコポーロ』二月号(一九九五年)が、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)は作り話だった、とする記事を掲載し、ユダヤ人団体などが抗議した。これに対して文春側は、刊行まもない段階の一月三十日に、記事に間違いがあったとしてこの月刊誌の廃刊を決定し、花田紀凱編集長を解任した。(ただし「廃刊」にすれば「解任」等しなくても居場所が無いのだから当然の事。「解雇」でない点に注目を)

 なるほど、まことにすばやい措置である。すばやすぎる。「作り話」や「間違い」について、詳細に検討した結果とは思われない。検討したのであれば公表すべきであろう。何のための記事だったのか。

 しかしながら、ともかくホロコーストやガス室を「作り話」とする記事が間違いだから・・・・・・・・・・・という理由で廃刊したのであれば、それ自体は歓迎すべきであろう。本当に「間違い」だとすれば、ナチ=ドイツがやった現代史上希有の残虐行為に対するあまりにも軽率な、まともなジャーナリズムといえぬ行為なのだから。

 だが、ここで文春の日頃の反平和・反反核・反市民運動を主軸とする反動タカ派の非論理・非倫理が一挙に露出し、誰にもわかりやすい形で矛盾が見えてくる。整理すればおよそ次のようになろう。

 A・第二次世界大戦中の日本の同盟国・ドイツがやった無数の暴虐事件の象徴として「アウシュビッツ」はあった。それを否定したのは文春の月刊誌『マルコポーロ』だった。文春は責任をとってこの雑誌を廃刊にし、編集長を解任した。

 B・第二次大戦中のドイツの同盟国・日本がやった無数の暴虐事件の象徴として「南京大虐殺」はあった。それを否定したのは文春の月刊誌『諸君!』だった。文春は責任を取ってこの雑誌を廃刊にし、編集長を解任しただろうか。

 右(原本は縦書きなので)のABを比べてみられよ。私は個人的にも公的にも怒りを禁じえない。責任の重大性は、日本自身の問題たるB(南京)の方が、当然ながらアウシュビッツよりはるかに高いはずだ。

 それが「廃刊」どころか、この問題を取材・発表してきた私個人に対して、実に二十余年間にわたる攻撃が続いたのだ。攻撃の発端は、一九七一年に『朝日新聞』に連載した私の記事『中国の旅』である。その中の「南京」の部分に対して、「イザヤ=ベンダサン」という偽名を使ったにせユダヤ人(これはユダヤ人を冒涜する行為でもある)こと山本七平が『諸君!』誌上で非難・攻撃してきた。略)

 以来、文春による私個人への攻撃は『諸君!』での連載や単行本・文庫本のほか『文藝春秋』本誌や「週刊文春」にもあわせると、実に七十回以上にも及ぶ。ひとつの有力出版社が、一人のライター個人をここまで執念深く攻撃し続けた例が世界にあるだろうか。しかも攻撃の主役だった堤堯という、言葉の正確な意味でのゴロツキ出版人が、「解任」どころか文春の役員に出世している。大江健三郎氏が協力し続けた出版社・文春の本質がよく理解されよう。

 「『南京』と文春」に関する核心部は、文春の南京虐殺否定路線が、結局はついに全面敗北したことである。歴史学者やジャーナリストなどからなる「南京事件調査研究会」(洞富雄代表)による現地調査や論文・ルポの反撃によって、文春が重用したベンダサンその他有象無象の否定派は総て沈没した。小野賢二氏などによって、虐殺をやった日本兵自身の第一次資料が次々と発掘されたのも、文春を舞台とする否定派にとっては痛かった。現在の彼らが最後にすがりつく藁は、虐殺の「数」である。「そんなに多くない」というつぶやきだが、それとても必死で過小評価すべく努力している。

 ともあれ、「南京」を否定した文春は完敗した。アウシュビッツを否定した文春の今回の態度が、もし本心からの反省であるなら『諸君!』こそ廃刊すべきであろう。このことは絶望的なこの出版社よりも、今回の件で文春に抗議した外国の諸団体に知らせて、文春の処置など表面的な繕いに過ぎぬ事を納得させよう。文春は、単に広告拒否という商売上の圧力に参っただけ、それだけなのだ、と。>

(『週刊金曜日』一九九五年二月一〇日号)

私は「貧困なる精神L」本田勝一著 朝日新聞 一九九六年刊 P百三十三〜百三十五

 

<文春の社内研修

略)

 基本的に、『マルコポーロ』のあの記事のどこが「間違い」だったかの具体的な検証もせずに、どうして反省ができるのですか。

 そして、この出版社の最も破廉恥な性格を示すのが、先週号(『週刊金曜日』一九九五年二月一〇日号)の「貧困なる精神」でふれた南京大虐殺との関係です。アウシュビッツのような他国の戦争責任よりはるかに重大な自国の暴虐事件。これを「なかった」ことにすべく全力を傾注した文春の月刊誌『諸君!』をめぐって、廃刊にした上で次のような社内研修でもやらぬ限り、アウシュビッツの研修などお笑い草(種?)でしょう。ね、文春にもいるであろう良識派の社員諸君!

 それにしても、『マルコポーロ』廃刊事件で文春の社長らが記者会見した時、三〇〇人とか集まったなかに「南京大虐殺」と『諸君!』を質した記者は一人もいなかったと聞きます。

 政治家も役人も出版社もジャーナリスト(というより「マスコミ人」か)も、結局はその国のレベルの反映なのでしょうね。>

(『週刊金曜日』一九九五年二月一七日号)

私は「貧困なる精神L」本田勝一著 朝日新聞 一九九六年刊 P百三十六〜百三十八

 大ブーメラン。

 アホ丸出しです。

 では、Cとしてこのアホに言いたい。

C・反日・朝日新聞がやった無数の捏造事件の象徴として「強制連行の捏造」はあった。それを否定したのは文春の月刊誌『諸君!』だった。朝日新聞は責任を取ってこの新聞を廃刊にし、社長が辞任しただろうか。

 

 ホンマあほらし。

 Hさん来店。

 一名様来店。

 二名様来店。

 ドンチャン。

 一応記憶あり。

 サルよりマシ。

 


青い柔道着

9月26日金曜日晴れ△

 南朝鮮でのアジア大会は期待どおり醜い大会のようです。

 

 でっ、南朝鮮でのアジア大会において、柔道決勝。

 試合中、青い柔道着だったのに、表彰式では普通の柔道着になっています。

 試合終了後はすぐに表彰式に臨まなければなりませんので、そのまま会場の隅で着替えています。

 

 http://blogs.yahoo.co.jp/blue_sky_para_dise/35087156.html

 その柔道着の色を決めるのは抽選らしいです。

 ネットで調べると、トーナメント前に抽選を行い、その時引いた番号が若い方が青、他方が白になります。 二回戦以降もトーナメント前に引いた番号が若いほうが青、他方が白です。

  ですから、一番を引いた人は決勝戦までずっと青で試合をするとなっていた。

 たとえば、高上選手、山岸選手は準決勝では白の柔道着ですが、決勝、三位決定戦では青の柔道着です。

 

 

 

 

 では、我が国の柔道選手の青い柔道着の割合をネット上の報道写真で見ると。

白 二名 熊代佑輔 3回戦 稲森奈見 決勝

 

青 十二名 

 

王子谷剛志 決勝 吉田優也 決勝

 

長島啓太3位 阿部香菜 3位

 

新井千鶴決勝 志々目徹3位

 

秋本啓之決勝 高上智史決勝

 

山岸絵美決勝  中村美里決勝

 

山本杏決勝 梅木真美3位

順不同

 熊代選手は一回戦敗退ですので、熊代選手を除く決勝、三位決定戦では十一人中十人が青の柔道着です。

 これって、偶然なんでしょうか??

 世界ランキングなど関係あるのでしょうか????

 あの国での大会だけに何でもない事でも何かあるのかと考えてしまいます。

 Hさん二名様で来店。

 二名様来店。

 岡部ちゃん来店。

 香港からミカちゃん、スミちゃん来店。

 マルガリータさん、Sさんと合流しドンチャン。


9月25日木曜日晴れ×

 <田母神氏、西村真氏が「太陽の党」結成を発表

2014.9.25 14:31 産經新聞

「太陽の党」結成記者会見を終え、記念撮影に臨む(左から)元航空幕僚長の田母神俊雄氏、西村真悟衆院議員、次世代の党の石原慎太郎最高顧問=25日午後、衆院第2議員会館(酒巻俊介撮影)

 元航空幕僚長の田母神俊雄氏と西村真悟衆院議員(無所属)は25日午後、国会内で記者会見を開き、新党「太陽の党」の結成を表明した。西村氏が代表、田母神氏は代表幹事兼国民運動本部長にそれぞれ就いた。当面、国会議員は西村氏1人だが、次期国政選で党勢拡大を狙う。会見には次世代の党の石原慎太郎最高顧問も同席した。

 新党は石原氏が代表を務めていた「太陽の党」を継承する形で運営する。主要政策としては、(1)憲法廃棄と自主憲法制定(2)国軍の創設、拉致被害者の救出(3)真の歴史観主張と日本の名誉回復(4)家族の復活、移民受け入れ反対、外国人参政権反対(5)原発再稼働、消費税10%凍結、相続税廃止−を掲げた。>

 Sさん二名様で来店。

 でっ、西村眞悟先生、田母神閣下が大勢様で来店。三宅博議員も合流。

 ドンチャン。

 

 

 

 一応記憶あり。

 サルよりマシ。


今更ながらの本田勝一2

9月24日水曜日△

 このアホの著書『中国の日本軍』には

「日本軍さって二十余年」として下記のような記述があります。

<中国で日本軍が何をしたのかを詳細に報道した私のルポルタージュ『中国の旅』に対して、一部の右翼「評論家」の中には、「中国だってやったんだ。たとえば通州の日本人虐殺。どうしてそれも報道しないのか」といった声を、ヒステリックにあげる者もいた。こういう人々、論理とかスジ道とかが一切わからない子供を、どうしたらよいのか、私には わからない。本当の子供なら 教育できる。しかし初老を迎えた子供の再教育は、私の手に余るようだ。その道の専門家に任せたい。しかしヒントだけはあげておく。

 その一。報道は、ここに掲載したように、当時既に洪水のごとく行われているのだ。国会図書館にでも行って、当時(通州事件であれば一九三七年七月二十九日発生)の新聞を見ていただきたい。反対に、通州事件(殺された日本人二百数十人)の何百倍、何千倍といった日本軍による大虐殺は、いっさい報道されなかった。

 略)

 この上、どうして私が、屋上屋を重ねて報道しなければならないのですか。

 略)

 さて、このように中国を侵略した日本軍も、やがて八路軍や新四軍の活躍とゲリラ活動によって次第に負けてゆき、太平洋戦争への突入によってその負けっぷりのスピードは加速され、一九四五年八月の終末に向かって行った。>

P二百三十八〜二百三十九

 単なる言い訳にしか聞こえません。

 だいたい、大東亜戦争が始まる前、いや、始まってから我が国の軍隊はそんなに支那の蒋介石軍はもちろん八路軍等に負けてたか?

 過去に書いた事がございますが、この本多氏の報道に対する姿勢は他の著書にも書かれております。

 以下引用

 よくいわれる通州での蒋介石軍による日本人虐殺事件。これは廬溝橋事件からまもない混乱の時点で、二百数十人の在留邦人が殺された事件ですが、もちろんこのことは非道であり、許されないことです。しかしより本質的な問題は、通州は日本の町ではないことにあります。戦乱のベトナムで、たとえばクアンチやファンランにいたアメリカ民間人が虐殺されたといって、現在の全ベトナムに対する凶暴な侵略が「従って正しい」といえるでしょうか。

 もっとも、解放戦線や八路軍は、蒋介石軍のような女子供の無差別虐殺はまずやりませんが、これについてはあとで触れます。 また「公平な報道」という要求に対しては、逆にこんな事実はどうでしょうか。事件当時の事件当時の日本の新聞をみて下さい。「比類なき鬼畜行動」「恨み深し!通州暴虐」といった記事が、各紙とも一面にデカデカと、連日報ぜられています。ところが反対に、いたるところで展開された日本軍による虐殺は、ついに全く報道されませんでした。どうか率直に考えてみて下さい。日清戦争以来何十年間も、常に、必ず、このように一方的だったのです。戦後二十数年して、ようやく中国側からの視点で報道をするとき、どうしてまたまた、中国のことを「比類なき鬼畜行動」と並列して書かなければ「公平な報道」にならないのでしょうか。

P四百二十七

 もうメチャメチャです。 どうして「支那での日本人虐殺事件」「ベトナムでアメリカ民間人が虐殺される事(例え話として)」と、「アメリカがベトナムに侵略したことが正しいといえるか」と結び付けるのでしょう。

  ましてや、「日本が当時公正な報道をしてこなかった」として、<戦後二十数年して、ようやく中国側からの視点で報道をするとき、どうしてまたまた、中国のことを「比類なき鬼畜行動」と並列して書かなければ「公平な報道」にならないのでしょうか。>と開き直れるのでしょうか。

 開き直りといえば、下記の文章もそうです。

 以下引用

< 中国側から取材した証言について、これを疑う類の拒否反応もあります。いうまでもなく、絶対的証拠のある例などはむしろ少ないのが当然ですから、死人に口なし、体験者の証言以外に頼れない場合が多いでしょう。これについては、広島・長崎の原爆による無差別大虐殺に関する日米の見方の違いを考えるのがよろしいかと存じます。広島の死者を、日本側のさまざまな資料は二十万以上と数えていますが、アメリカ側は七万余としか認めていません。今となっては、正確な数字をつかむことなど不可能ですが、仮りに(そんなことはありえないけれども)アメリカ側か正しかったとします。そうすれぱ、日本側がまちがっ.ており、従って原爆による無差別虐殺は、正しいのでしょうか。

  問題の本質は、数字や個々の事実の揚げ足とりではなく、日中戦争が日本の帝国主義による侵略だったという事実にあります。ところが侵略者の側がこういうとき熱中する常套手段は、まず「数字」や「目にみえる証拠」を求め、それと侵略された側の主張との食いちがいをあげへつらい、最後に「だから事実はなかった」「すべてマポロシだった」「結局は侵略軍も悪くはなかった」とする詭弁術です。反動側には頼りになる"論理"がこれ以外にないので、大衆をだますために右翼文化人たちがよく使っています。>

 引用終わりp四百二十八

   

 <絶対的証拠のある例などはむしろ少ないのが当然ですから、死人に口なし、体験者の証言以外に頼れない場合が多い>

 こんなこと言ってしまえばなんでもありになってしまいます。当たり前の事ですが、少しでも客観的な立場から状況証拠を集め、いろいろな角度から事実を追求していく努力をしていかなければならないわけです。それを、原爆といっしょにする・・・あまりにもアホすぎます。

 しかし、本多氏はこの後もエスカレートして、シンポジュウムなどで南京事件と原爆を一緒に論じています。

 以下引用

 <長崎に原爆が落ちたという話があります。でもあれは、丸ごとデマだそうです。町のどこに行っても今は長崎のどこにも痕跡は全くありません。それから証拠写真がありますがあれは広島からの合成写真だそうです。記録の本や雑誌もみんな捏造なのだそうです。作文なのだそうです。残された遺跡もありません。以前浦上天守堂というのがありましたけれども、あれはのちに製作された建造物だそうです。遺族たちの証言はたくさんありますが、あれは全部日本政府に強制されて口裏合わせた偽証なのです。というようなことを、アメリカの右翼か誰かが言ったら、皆さんどう思いますか? こういう話を先日長崎で講演したときに言ったら、会場は笑ったりあきれたりでした。  しかし、全く同じように、南京大虐殺はなかったといっている人がいるんですね。これは長崎の原爆が全部ウソというのと全く同じことだと思うのです。今はこういう無茶苦茶なことが通るようになっている。>

引用終わり

 「歴史と真実」(筑摩書房 一九九八年刊

 もとになったのは一九九八年五月二三日に千葉大学歴史系教員集団主催のシンポジュウム「いま日本の歴史を考える」)

本多勝一氏の「南京大虐殺」をめぐってP百五十一

 あきれるのは、あんたの頭の中・・・・この様な人が新聞記者をやっていたのです。 まあ、本多氏は下記のようにもいっていますので、元々客観的で公正な報道などするつもりはないのでしょう。

 以下引用

<いわゆる『公正な報道』とか、『かたよらない報道』とか、こういうものは絶対にーーぼくは絶対ということばはあまり使わないようにしているんだけどね、しかし、あえていうんだけれども、絶対にありえないということがよくわかったことですね。あるのは、もう、やる側とやられる側。それしかない。その中間てないんですよ。中間のやつはみんなやるほうに吸収されてしまう。(中略)公平なんてこといったら、あ、こいつは権力側の状況づくりだな、と断言していい>

引用終わり

(「悪魔払いの戦後史」稲垣武著 文藝春秋一九九四年刊 P二百六十九に収録された小田実との対談わがベトナム戦争の総決算「朝日ジャーナル」七三年二月九日号)  

 ちなみに小田実氏もそれに対して「おれもそう思うね。それは賛成だ」と同調しています。 さすがは売国奴同士でお話も合うみたいです。

 ホンマ、あほらし。

 二名様来店。

 Mさん二名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


今更ながらの本田勝一

9月23日火曜日晴れ○

 週刊新潮にて本多勝一が誤りを認めたというグラビアにございました。

 

「『中国の日本軍』の写真説明は、同書の凡例に明記してあるとおり、<すべて中国側の調査・証言にもとづく>ものです。

 ただ、中国側に問題点があることは、俺が司会を務めた南京事件の座談会(『週刊金曜日』九九年十一月五日号)で、吉田裕さんが次のように指摘している通りだと思います。<中国側の対応で問題があるのは写真の使い方ですね。いつ、だれが、どこで撮ったという根拠を確認しないままに、政治的なキャンペーンの中で勝手に写真を使っている。日本の市民運動側もそれを無批判に受け入れててしまうような一面があって、それを反動派につけ込まれている>。『中国の日本軍』の写真が『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに『御用』のようです。」

週刊新潮平成二十六年九月二十五日号グラビアより

 

 何を今更この腐れ売国奴がと思いますが。

 この売国奴は完全な確信犯です。

 このアサヒグラフに掲載されていた事などいままで多くの方が指摘してきておりますし、その写真を日本社会党、現社民党の田辺などが金を出して作らせた南京大虐殺記念館からさすがの嘘つき支那人も信憑性乏しい写真三枚を撤去というニュースが新聞にまで八年も前にありました。

以下引用

<南京のものとして展示されていた「上海南停車場」の写真

 中国・南京市にある南京大虐殺記念館が、信憑性が乏しいと指摘されていた写真三枚の展示を取りやめたことが一七日、政府関係者の話で明らかになった。「連行される慰安婦たち」「日本兵に惨殺された幼児たち」「置き去りにされ泣く赤ん坊」の三枚で、日本の研究者らは南京事件と無関係だと指摘していた。中国が同館の展示について“是正”に応じたのは初めて。ただ、三十万人という犠牲者数の掲示や“百人斬り”など事実関係の疑わしい展示多数はそのままになっている。

 撤去された三枚の一枚は、南京攻略戦の前に撮られ、「アサヒグラフ」(一九三七年十一月一〇日号)に掲載された写真で、農作業を終えたあと、兵士に守られて帰宅する女性や子供が写っている。これを中国側は旧日本軍が女性らを連行する場面と紹介し、「農村婦女は連れ去られ陵辱、輪姦、銃殺された」と説明していた。この写真は戦後、朝日新聞記者、本多勝一氏の著した『中国の日本軍』や中国系米国人作家のアイリス・チャン氏の著書『ザ・レイプ・オブ・南京』でも、残虐行為と関用されてきたことで知られる。

 また、幼児たちの写真は、朝鮮現代史の学術書に掲載されたもので、匪賊(ひぞく)(盗賊集団)に殺された朝鮮の子供たちの遺体。赤ん坊の写真は米誌「ライフ」に掲載された報道写真で、撮影地は上海。いずれも南京の旧日本軍とは関係ないが、愛国主義教育の“模範基地”と指定される同館は「悲惨な史実」と紹介してきた。

 日本側は、事実無根だったと判明している“百人斬り”関係の展示品のほか、誤用や合成と指摘されている写真について、さまざまなルートを通じて撤去を求めてきたが、これまで同館は応じていなかった。

 八十五年に開館してからの同館の参観者の累計は一八九七万人。日本の修学旅行生らも訪問している。

引用終わり>

産経新聞 2008.12.17 21:04

 

 手元に本多勝一氏の著書「中国の日本軍」(蒼樹社 一九七二年第一刷発行 一九九〇年第二十二刷発行)があります。

 

 本多氏は、撤去されたアサヒグラフに掲載されていた写真について、下記のように書いています。

「婦女子を刈り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を越えた老女にまで及んだ。」

同書p一一八の同じ写真のキャプションより。

 「これらの写真の多くは、捕虜になった日本兵から没収されたものだという。日本軍の侵入と同時に南京市内は火炎に包まれた」p一〇八

と本多氏は書いている。何の検証もせずに支那政府のスポークスマンにされていることを恥とも思わないご仁である事がよくわかる文章です。だから、平気でアサヒグラフ掲載の写真を、何の疑問も抱かず支那の説明通り使うのです。

 まあ、人民日報築地支社である朝日新聞はアサヒグラフの写真とわかっていても、ご主人様である支那政府に対して、抗議も何もしませんでした。そりゃあ、ご主人様には逆らえませんから。

 そして、同書には「自序 教育される側の論理」として、

<最近私は中国に行って、日本軍が何をしたかについて取材し、『朝日新聞』に連載した(のちに単行本『中国の旅』として朝日新聞社から刊行されている)。読者から強烈な反響があったが、その反響を年代別にわけてみると、ごくおおざっぱにいえば、年齢が若くなるほど、この報道に率直な驚きと反省をみせる例が多く、高年齢になるほど、「今さら・・・」といた拒否反応や非難をする例が多い。その境界線は、いうまでもなく、太平洋戦争中に青春をおくった世代あたりにある。

このことは、当初から予想されたことであった。むしろ予想をはずれたことで嬉しかったのは、中国に兵隊として行っていた人々の中からの支持と激励の便りが、意外と多かった点である。もちろん非難や脅迫も多いが、これは予想どおりだから意外ではない。

さて、かくも深く教育されてしまった私たち日本人の「ものの考え方」を、いくらかでもより率直な方向へ教育しなおすということは、ほとんど絶望的にむつかしいであろう。文部省教育によって小学生から偏向教育をさせられ、NHK教育によって毎晩「君が代」教育が実施されている現在、そんなことは原爆に竹ヤリで向かうようなものだ。たとえば、靖国神社復活をすすめようとしている自民党に対して、強烈な拒否反応が国民的規模で起きてこないのも、すこしも不思議でない。教育の成果を示すひとつの指標にすぎないのだ。

 略)

敗戦後になっても、基本的には知らされないで二十数年間も過ぎ去ったという事実であろう。このままでは、わが祖国は世界の嘲罵と憎悪のマトでしか無い最低民族になりかねない。なんとか最低民族になるようにと、私たちは文部省やNHKなどによって毎日教育されている。

この最低民族化教育を、なんとか拒否したい。そのためのひとつの方法は、反動政府が知らせたがらない事実を、私たちの手によって掘り起こし、知る事である。そのような事実を、広範な日本人の常識とすることができるようになれば、最低民族化教育にとっても大きなブレーキになるだろう。さきに刊行した『中国の旅』の姉妹編として、ここに写真を主とした本書を刊行する意図は、ほぼこのようなところにある。>

 p十〜十二

 つまり、本多氏が書くところの事実とはあくまで支那政府が言う事実であって、決して本当にあったことではないのです。

それは、本多氏が週刊新潮に答えたように、この文章の末尾には下記のように凡例としても書かれています。

<凡例

 この取材は、一九七一年の六月から七月にかけて行われた。写真説明のその他の文章は、すべて中国側の調査・証言による>

 ご主人様である支那政府を信じ切って、検証など一切していないことはこの文章からも伺えます。

「現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。今度取材した日本軍国主義のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの戦いになるものと信じます」

(p二九一〜二九二)

 これは、本多氏が支那において、取材相手に対して述べた言葉として同書に書かれています。本多氏は記事を事実ではなく、自分のイデオロギーに基づき書いているのです。

 自分のイデオロギーに基づき、支那政府の言うがままの記事を書きながら、「中国で日本軍が何をしたかを詳細に報道した私のルポタージュ『中国の旅』」p二三八と書ける神経もすごいです。本多氏は後に、当時、支那にいた日本人の人々から事実と違うという抗議を受けた時に「中国政府のいうままに書いただけだから、抗議は中国政府にしてくれ」と言い逃れしました。

 ところで、このアホは週刊新潮への返事には「俺」と使って、『中国の日本軍』では「私」と使ってます。

 手元にあるこのアホの著書「貧困なる精神L」には「俺は断固として『俺』を復活しよう」として下記のように書いています。

 <「信州の山猿」としての俺が、伊那谷から初めて“上京”したのは、新制高校三年も終わりに近い時だった。友人とともに飯田線の辰野駅駅まで出て、その駅前旅館で一泊してから中央線の汽車に乗った。

略)

 要するに二日がかりの“上京”だった。

(“上京”という言葉が嫌いなのでヒゲカッコつきにしている)

 あのころの俺にとって一番の屈辱は、それまでの人生で自分の事を「俺」としか表現してこなかったのに、まるで強制されるかのように「ボク」などとふざけた・ふやけた、幼児語のような第一人称を使わざるをえなかったことだ。考えてみると、「俺」と言ったとて罰せられるわけじゃあなし、断固としてオレで通すべきだったと、今にして反省しているけど、当時の俺は主体性も自信も弱かったんだなあ。

略)

 ヨシ。この子に学んで、俺も断固として「オレ」を復活しよう。「ボク」を使わなくなってからは、たぶんもう三十年ぐらいなるが、それでも「俺」は家族とか親しい友人とか以外には使わず、外交辞令には「私」(ワタシ)を使っていた。今後は外交辞令でも可能な限り「俺」にしていこう。

略)>

『話の特集』一九九四年十一月号

 私は「貧困なる精神L」本田勝一著 朝日新聞 一九九六年刊P二十六〜二十七

 こういったアホな宣言によって、アホは「俺」と使っているらしいです。

 まあ、ひと好き好きだから勝手だろうが、「罰せられるわけじゃあなし」ってアホ過ぎる。

 

 ホンマあほらし。

 古本屋さんをハシゴする以外は出かけず。

 でも、古本屋さんに行くと、やっぱり、いろいろと買ってしまう。

 酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。


 

ギャップ

9月22日月曜日晴れ○

 池田大作氏について段勲氏は下記のように書いています。

 <諸外国から授与されている様々な勲章や名誉博士号、名誉市民号類の顕彰を見ると、池田の民間外交ぶりも国際水準に迫るかのような印象を強く与えている。しかし、各国から抱え切れないほどの名誉勲章を受けていても、池田を率直に評価出来ないのは筆者だけの偏見であろうか。

 一例を示してみよう。池田の「平和活動」に対し、他国に先駆けて情報が一番豊富で、しかも正確に把握出来る国は日本である。そんな立場にある肝心の我が国が、池田の活動にはほとんど無関心であることは何を暗示しているのか。世界中の有識者と民間外交を行い、身内の機関誌が日常的に、対話した有識者の言葉として「池田先生は千年に一人の偉大な方」、「池田会長がいるかぎり人類に希望はある」等々、報じている。世界の有識者たちのこうした人物評価とは裏腹に、一転、国内になると、話題にされる事は皆無である。まして他国のように、顕彰授与類の話も出る事が無い。それでも時折、池田が一般のマスメディアで注目されることがある。だがたいがいは、毎選挙ごとに言及される政治と宗教に係わる諸問題か、あるいは週刊誌が報じる種々雑多な、低次元なスキャンダルの範囲を超えていない。「世界」と「日本」の評価がこれほどの隔たりを持つ人物もまた稀である。我が国の政府関係者や知識人の目は節穴なのか。それとも、海外の一部要人たちがそうなのか。>

「創価学会インタナショナルの実像」段勲著 リム出版 平成十五年刊

p二〜三

 そして、段氏は同じ著書で朝鮮の東亜日報の記事を引用し下記のように書いています。

<「日本創価学会会長(注意 名誉会長の誤りです)青瓦台会見不発

 盧泰愚大統領と、日本創価学会会長池田大作の会見がさる四月、青瓦台で行われるはずであったが、日本側の事情によって延期されたという事実が、最近、東京の外交筋、及び、在日大使館当局者によって確認された。

 これによると、池田会長は、創価学会の韓国内組織の日蓮正宗(ここでは、創価学会系の韓国仏教会のこと)の内部結束と、自分の指導的地位の強化のため、昨年より盧大統領及び、李御寧文化部長官との会見を希望していた。その池田会長に、昨年末にチャンスが訪れてきた。

 昨年末、海部俊樹日本首相も盧大統領に、池田会長との会見を依頼する親書を送っていた。海部首相は小沢一郎、当時、自民党幹事長の要請によってこのような親書を送った事を知らされている。

 海部首相、とくに小沢幹事長がこのような学会を配慮したのは、当時、主に湾岸戦争の多国籍軍に対する一〇億ドル追加支援を、衆議院に通過させるためだったという。つまり、そのためには公明党の協力を得なければならなかったからである。これとともに小沢幹事長は、創価学会から協力資金を受けたという、他の事情も漏れ伝わっている。」東亜日報一九九一年六月十八日

 まさに驚くべき暴露記事である。日本政府は当時、この記事に対し、反論も抗議もしていないことから、報道の中身はほぼ事実であろう。

 それでも日本の報道機関は、一部の週刊誌を除き一行も報じることはなかった。

 一新興宗教団体のトップが、教団の勝手な都合で政府間の外交問題をバーターにし、国の首相をも動かす。政教一致の典型的な例である

 さらに、「東亜日報」の記事はこう続いていた。

 「青瓦台は、海部首相の親書まで届いた以上、池田会長との会見を受け入れることにして、ただ、その時期は四月とした。しかし、四月になると日本側に問題が突発した。創価学会内部に金銭等による問題が発生、これが池田会長自身に関わる問題として週刊誌をはじめマスコミに特筆、大書きされた」

 ここに書かれている金銭問題とは、十五億円の使途不明金が出て、国税庁や東京地検が捜査に動いたルノアール絵画事件」や、東京国税局から、三〇億円に近い修正申告を余儀なくされた墓園造成問題を指している。

 東亜日報の記事はこう結んでいる。

 「大使館当局者は、もしこの会見が成立していた場合、廬大統領が受ける政治的ダメージを浮かべながら、延期だけでもできてよかったと言っている」

 韓国大統領と池田名誉会長との会見は、こうして幻に終わった。普段、会員に向けた池田のスピーチを読むと、「権威、権力」を蛇蝎のごとく嫌い、「権力には負けるな」と説いている。こう指導してやまない当人が、公明党を利用し、権力の最たる総理大臣までお願いして韓国大統領との会見を強く望んだのだ。九十七年四月、内乱罪と秘密政治資金の違反で懲役十七年の実刑判決を受け獄門に下った廬大統領と池田は、果たしてどんな世界平和論を語り合いたかったのだろうか。>

「創価学会インタナショナルの実像」p六十八〜七十より

 池田大作のひとなりが良くわかる文です。

 こんな池田大作を偉大な指導者ですと。

 おまえらアホか。

 

 ホンマ、あほらし

 今日は、飯を食いに外に出た以外は、一日中部屋にいて、本棚を片づけたりマンガを読んだりして過ごす。

 今日ゴロゴロと寝っころびながら読んでいたうちの一冊。

 池波正太郎原作・大島やすいち作画の「剣客商売」

 この人の絵の書き方はアシスタントがどうしようもなく下手なさいとうたかおの「剣客商売」よりよっぽど好きだが、ただ、この人も平気で手皿。

 

 今日は酒は飲まず。

 カミさんがいないと、部屋にビールも必要ない。

 サルでもエビでもない。


9月21日日曜日晴れ△

 店を片づけた後、夕方より大手町産経プラザにて開かれる李登輝元総統の講演会に出かける。

 着いてみると、入口の前で李登輝元総統の写真を掲げた連中が。

 

「どうぞ。」と女性がくれるので、あっ、どうも。

 「読んでください。熱いですよ。熱い。熱いです」と。

 李登輝元総統の著書かと思ったら「大川隆法 霊言・・・」

 店に帰ってきて、中身を見たら、えらい多くの目次の割には、でっかい文字で中身のな〜んにも無い事が。

 アホかと。

 

 

 

 李登輝元総統の講演はあっという間の一時間でした。

 

 その後、甥御さんの結婚式で東京に出てきた淡路島の三中同級生の前田と会って飲む。

 一応記憶あり。

 サルでもエビでもない。


TBSと柳舜夏というアホ朝鮮人

9月20日土曜日曇り△

 下記は西村幸祐氏の文章です。

 <TBS「NEWS23」の反日プロパガンダ

 西村幸祐(評論家・ジャーナリスト)

 戦後六十九年目を迎えた平成二十六年の夏も終わる。戦後、戦後と言っているうちに、「戦後百年」などと

言い出しかねないのが現今の日本人だろう。普通、どこの国でも戦争が終わって「戦後○年」という言い方をする場合、

せいぜい「戦後十年」だ。いつまでたっても戦後特集を組むメディアにその自覚がないのは奇妙である。

 私たちは、まるで終わらない戦後のなかに永久に置かれているかのようだ。それは何ひとつ、日本が〈戦後問題〉を解決していないからだ。

 略)

 日本人蔑視の差別語は放送する

略)

 八月十六日にはTBSの「情報7days」で、韓国人作家が日韓友好をテーマに話をした。ところが、彼の言葉のなかに「チョッパリ(豚の足)」という言葉が頻発する。韓国人にとって、日本人は足が豚の蹄のようになる下駄を履くということから生まれた日本人蔑視の差別語である。ところが、字幕は「日本人」になっている。日本人の外国人に対するヘイトスピーチという話題が頻繁に取り上げられるなかで、日本人へのヘイト(憎悪)の典型をTBSは隠したのである。 >

Yahoo!ニュース WiLL 9月4日(木)12時11分

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140904-00010000-will-pol

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140904-00010000-will-pol&p=2

 この西村氏が書いている日本人の別称である「チョッパリ」という言葉は下記の動画で確認出来ます。

https://www.youtube.com/watch?v=vj2NCATOkiU

 このように「チョッパリ」という単語をどこにも出さずに、「私たちは日本人を悪く言う資格はありません」としているのである。

 流石は今まで多くの前科がある腐れマスゴミTBSと言ってしまえばそれまでであるがこの柳舜夏という作家も日本人の事を「チョッパリ」と言っているのは事実である。

 この作家について今発売中のSAPIOに記事が出ていました。

 書いている内容は朝鮮人らしいアホも書いています。

<韓国から眺めていると、現在の日本は戦争に利用された軍国主義の「大和魂」が蘇ってきているように見える。

 略)

 もう少し、韓国社会の心情を汲み取るべきべきではなかろうか。

 日本の右翼化が韓国に無用な警戒心と不安を抱かせている事もまぎれも無い事実だ。

 そうした意味で、安倍首相が靖國参拝を見送った事は個人的に評価している。私は靖國神社が軍国主義の色彩を持つ大和魂が集結する場所と考えているからだ。その証拠に、靖國は海外で戦死した軍人を祀りながら空襲などで犠牲になった一般人は祀っていない。つまり靖國は、領土拡張のために外国を侵略する事を積極的に評価するシステムだと言わざるを得ないのだ。

 韓国に顕忠院という国立墓地があり、韓国を守るために命を捧げた人たちの功績を伝えているが、ここではベトナム戦争で命を落とした軍人を祀っていない。顕忠院では外国への攻撃に寄与した人物を祀る事はしていないのだ。これが靖國との決定的な違いである。韓国人が靖國になぜ嫌悪感を抱くのか、日本人は冷静に思慮を巡らせてほしい。>

SAPIO平成二六年十月号P十八〜十九

 

 流石は嘘が国技の一つである腐れ朝鮮人。平気で嘘をつく。

<国立顕忠院は大きく、一般墓域、国家有功者墓域、将兵墓域、愛国闘士墓域に分けられており、国家有功者墓域は第1墓域と第2墓域、そして第3墓域に分けられています。 一般墓域には韓国戦争(朝鮮戦争)、対スパイ作戦、ベトナム戦などで戦死、殉職した大領以下の国軍、予備軍、学徒義勇軍、軍務員、警察官など5万4千余の英霊が祭られています。国家有功者の墓域には国発展と民族の繁栄のために生涯を捧げた60余位が葬られています。>

 http://www.lifeinkorea.com/cgi-bin/travel2j.cfm?TravelID=335

<圧倒的多数を占める朝鮮戦争の戦死者達の中で、特殊な地位を占めるのが、1965年、韓国が参戦したベトナム戦争の死者達である。>

http://www.geocities.jp/korean_politics/hitorical_cemetery_one.html

<将兵墓域、愛国志士・大韓民国臨時政府要人の墓域>

朝鮮戦争やベトナム戦争、対スパイ作戦などで戦没した将兵、義勇軍、警察官、軍務員など約54,000人の遺骸が葬られている墓地。

 http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=3534

 

 しっかし、朝鮮人はなんでこんなバレやすい嘘を平気でつくのか。

 嘘が国技の一つという恥というものを知らない厚顔無恥なヒトモドキ朝鮮人だからと言ってしまえばそれまでだが。

 まあ、確かに、戦前はええ朝鮮人、勇敢な朝鮮人もいたが、総て靖國神社に神として祀られている。

 何にしても、朝鮮人どもから靖國神社についてガタガタ言われたくはないわ。

 ホンマ、知れば知るほど嫌になる我が国の寄生虫・朝鮮人。

 さっさと断交希望!

 あほらし。

 二名様来店。

 二名様来店。

 弘前よりKさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

9月19日金曜日晴れ×

 ラーメン屋さんでライス食べ放題って言われてもな。

 

 築地にて。

 バンブーさん来店。

 二名様来店。

 Kさん二名様で来店。

 三名様来店。

 喜正蔵元の野崎社長、Yさん三名様で来店。

 三名様来店。

 Aさん、Sさん来店。

 Y先生二名様で来店。

 ドンチャン。

 一応、記憶はあったように思うが今一自信無し。

 サル並。


 

天木直人というアホ

9月18日木曜日晴れ△

 今、我が国の「直人」でアホ代表といえば、空きカンこと菅直人。

 もう一人のアホ代表は天木直人氏だというのに異論がある方はご本人以外はいないでしょう。

<天木 直人 | 外交評論家

2014年6月11日

朝日「吉田調書スクープ」を捏造だと書いた門田隆将の功罪

門田隆将と名乗る一介のノンフィクション作家が、どういう動機かは知らないけれど、あの朝日新聞の近年まれにみる調査スクープ報道である「吉田調書」について、こともあろうに、何の関係もない慰安婦問題を持ち出して、あの時と同じように、この朝日のスクープは捏造だと書いた。

この門田隆将と、その記事を大きく掲載した週刊ポスト(小学館)、週刊フラッシュ(光文社)は自らの責任の重大さにどこまで気付いているのだろうか。

いずれにしても、門田と週刊ポスト、フラッシュが軽率にも提起した問題は、国民にとっては白黒つけさせて、どっちかウソをついたほうを、メディアから永久追放させなければいけない。

それほど重要な問題であるからだ。

周知のように朝日が、決して外部に漏れることのない故吉田昌郎元福島第一原発所長の手になる事故直後の調書をスクープ報道して世間を震撼させたのは5月20日の朝刊だった。

その調書のキモは「事故直後に第一原発事故現場にいた所員が吉田所長の命令に背いて、第二原発に撤退してしまった」という箇所だ。

これが本当なら、もはや東電はその無責任さを問われ、国民の怒りの中でたちどころに潰れる。

生き残りなどあり得ない。

安倍政権が強行しようとする原発再稼働も吹っ飛ぶ。

それほどの大スクープである。

だからこそ菅官房長官は激怒し、あの悪名高い特定秘密保護法案まで持ち出して、吉田調書を漏洩した犯人探しと厳罰を命じたのだ。

近年まれにみる朝日の調査大スクープである。

しかも朝日は門田の言うような大キャンペーンを繰り返しているのではない。

 朝日も、また今や御用メディアに成り下がっている。

だから、こんな安倍政権を直撃する大スクープを朝日としてキャンペーンする事にはためらいがある。

しかし、この大スクープをものにした記者のジャーナリズム魂と大スクープの価値の大きさに背中を押されて、一回限りの報道にするには惜しいと、遠慮がちに書いているのだ。

それを、門田という一介のノンフィクション作家が、どういう思惑からか知らないが、よりによって、原発とは無関係の従軍慰安婦問題を持ち出し、同じ朝日の捏造だ、と書いた。

その罪ははかりしれない大きさがある。

 なぜか。

福島原発事故の責任を国と東電に正しくとらせる、という問題は、これからますます大きくなる、この国の命運をかけた一大政治問題であるのに、それから目をそらす反国民的役目を果たすからである。

それを一介の作家と週刊誌があの程度の取材で、あの程度の論法で捏造だと断じたのだ。

もしそれが確証のないものなら、門田と週刊誌は、作家活動停止や廃刊だけでは済まない責任を国民から取らされることになる。

そうでなければいけない。

もし、朝日の大スクープが捏造されたものだとしたら、朝日の責任はさらに大きく、朝日は潰れる。

私は朝日なんか潰れたほうがいいと思っている読者の一人だから大歓迎だ。

というわけで、この門田が朝日に売った喧嘩は大歓迎だ。

どっちが勝っても負けても、国民にとってはプラスなのだ。

重要な事は白黒つけることだ。

間違っても、「死人に口なし」のせいにして、うやむやで終わらせないことだ。

そのためには、特定秘密保護法案の情報開示を菅官房長官に求めることだ。

そして、門田の取った勇敢な行為には大きな功績がある。

今こそ情報公開を拒否しようとする菅官房長官の暴挙を責め、この門田と朝日の生き残りをかけた審判を国民が公平に下せるように、吉田調書の全文の公開を大手を振って求めるのだ。

拒否できるはずはない。

これこそが門田の一大功績である。(了)>

 でっ、朝日新聞が誤報(捏造だろうと私は思いますが)と認めた後の天木氏は

<朝日が認めたからといって東電職員が逃げなかったということにはならない

天木 直人 | 外交評論家

2014年9月16日 8時29分

馬鹿な朝日新聞の木村社長があっさり吉田調書の誤報を認めたものだから政府や東電の回し者は喜んで朝日たたきを繰り返す。愚かだ。朝日は誤報だったかもしれないが、だからといって被ばくを恐れて逃げた東電職員が一人もいなかったという証明にはならない。

逃げようとした東電職員が間違いなくいたと思うし、そんな東電職員を誰も責めることはできない。

間職員にそこまで求めるのはかつての玉砕のような危うさがある。

だから安倍政権はこれ以上吉田証書の再検証は行わないだろう。

朝日たたきや管民主党政権たたきのの道具で終わらせてはいけない。

 このようにアホの天木と最近ネットで評判の御仁ですが、この方は同様に下記のような事もご自身のブログに書いています。

<河野洋平こそ日本の政治家の中の政治家だ

天木 直人2014年6月22日 3時18分

河野洋平元衆院議長は21日、山口市で講演し、従軍慰安婦問題に関する1993年の河野洋平官房長官談話の作成過程を検証した政府の報告書について「正しく全て書かれている。足すべきところも引くべきところもない」と述べた。同時に「日韓両国の指導者は大局的にものを考えてほしい」と語り、日韓両政府の関係改善努力に期待する考えを示した。

私はこのニュースを知って、慰安婦問題の真の勝者は河野洋平であると確信した。

安倍首相は河野談話の検証報告書を公表して、勝ったとほくそ笑んでいるに違いないが、この河野談話で見事に敗れた。河野談話を見直さないと繰り返している以上、安倍は首相は、あとは韓国政府と関係改善を務めるほかはない。

韓国政府は、もはや日本を非難するだけでなく、この河野洋平が求めたように、大局的観点に立って、日本との関係改善に努めるしかない。

そして、何よりも、この河野洋平の談話を一番歓迎するのは米国である。

河野洋平という政治家を私はあらためて見直した。彼こそが、今の日本がもっとも必要としている政治家だ。私がそう言っているから間違いはない。誰も言わないうちに私が真っ先にそう宣言しておく(了)>

 

 この天木という人は下記のような発言もしています。

 

<ソチ五輪開会式に見る習近平主席と安倍首相の胆力の違い

安倍首相のソチ五輪出席を報じるきょう2月9日の各紙の記事の中で私は朝日新聞の掲載されていた次のような記事に注目した。

すなわち朝日新聞は、開会式に見せた習近平主席と安倍首相の態度の違いを観察してこう書いている。「・・・二人は貴賓席中央のプーチン大統領を挟んで40席ほど離れた場所に座った。声を掛け合うような機会はなかった。二人は選手の入場行進でも対照的な姿を見せた。

習近平氏は中国と香港の選手団の入場の際には立ち上がって手を振って激励。台湾選手団の入場時には座ったまま拍手を送った。ところが日本の入場がアナウンスされると、硬い表情で両手を膝の上に重ねたまま、身動き一つしなかった。

一方、安倍首相は、中国選手団の入場の際も拍手を送っていた・・・」

この描写をどのように理解すればいいだろうか。一言でいえば歴史認識をめぐる日中両国の指導者の胆力の違いである。習近平主席は安倍首相がその誤った歴史認識を改めるまでは徹底的に安倍首相と対決していくと言っているのだ。たとえ日本国民を敵に回しても構わない。

もはや間違った歴史認識に固執安倍首相を許す日本国民もまた中国の敵だと言っているのである。これはかつて中国の指導者が、悪いのは対中戦争を始めた日本の軍国主義であって、日本国民もまた中国人民と同様に日本軍国主義の犠牲者だ、と言っていた頃の寛容な中国とは様変わりしたということだ。

このような習近平主席の胆力の前に、安倍首相もそれに負けない胆力が必要だということだ。しかし安倍首相にはそれが見えない。口では強がりを言っているが、何とかして中国との関係を改善したいという弱気が見える。胆力の違いだ。そんなことでは習平主席に勝てるはずはない。自らの歴史認識を貫き、それを批判する中国政府や中国国民を敵に回しても譲歩しないという胆力か、それとも歴史認識の誤りを認めて謝罪し、そこから正しい対中関係を構築して再出発するという胆力を、土力を持たなければいまの日中関係の打開は望めない。習近平主席に勝てる正しい胆力とはどちらか。ちろん後者である

 このようにアホの天木氏は書くが、支那、朝鮮と我が国がつき合って、何かいい事ありましたか?

 下記は以前に支那という強盗国家との付合い方と題して日記(平成21年9月15日)に書いた事です。

 以下再掲載

 支那系日本人である石平氏の著書に<「日中友好」は日本を滅ぼす>(講談社+α新書 平成十七年刊)というのがあります。

 この著書の最終章には「日本および日本人へ贈る、三つの提言」として下記の事が書かれています。

提言一、

 冷やすべし、一億総熱狂の中国進出ブーム

提言二、

 構築すべし、距離感を持ったクールな日中関係

提言三、

 警戒すべし、「東アジア共同体」構想の落とし穴

 特に、「提言二」に書かれていた、一九七二年の国交回復以来、高らかに叫ばれてきた「日中友好」という言葉が、いかに嘘であるかという指摘は重要であると思います。

 石平氏は今振り返ってみて、「日中友好」時代とは一体何だったのだろうとして、下記のように書いています。

<中国にとってのこの三十数年間は、「黄金の時代」とも称すべき輝ける時代であった。

 様々な紆余曲折を経験しながらも、経済は未曾有の発展を遂げ、国力は飛躍的に向上した。三十年前と比べれば、中国の存在感は世界で格段に向上している。

 この三十年間、特に改革・開放の初期段階は、海外からの資金と技術を導入すること、すなわち経済立て直しの決めてであったが、主な供給源はいうまでもなく隣の経済大国、技術大国・日本であった。

 一九七八年にト小平が初来日して「隣の貧しい友人をよろしく」と頼んだのに対し、翌年訪中した大平首相はさっそく、円借款を含めた大掛かりな対中援助経済協力を発表したのである。それ以来、日本は累計で三兆円以上の経済協力を実施して来た。

(木下注 アジア開発銀行などの間接的な援助を含めれば六兆円以上である)

 世界の対中国経済協力の六割以上を占める日本からの援助は、経済発展の基盤となるインフラ整備を急いでいた中国の大きな助けとなったことはいうまでもない。

 中国が日本から得たものはそれだけではない。一九八九年の天安門事件以後、西側先進国から経済制裁を受けて孤立している中国に、助けの手を差しのべたのは他ならぬ日本である。

 各国に先駆けて交流や経済の制裁を解除し、先進国首脳のトップを切って訪中したのも日本の首相である。日本との関係回復によって、中国は国際社会「復帰」の糸口をつかんだのである。

 いってみれば、国交回復以来の日中関係は、中国にとっては「良い事づくし」とまで言わないものの、実に益多きものであった。「日中友好」という念仏のように繰り返すだけで、これほどの「御利益」があるとは。中国も予想していなかったであろう。

 しかし、にっぽんにとってのこの三十数年間の「日中友好」には何の意味があったというのか。

 「友好」が数十年叫ばれた結果、日本は中国人から好かれるようになったか、理解されるようになったかと問えば、答えは勿論「NO」である。

 いや、むしろ逆であろう。日本に対する中国人の憎悪が日に増して増大しているのは明らかである。

 朝野を挙げて「日中友好」に尽力し、侵略戦争の過去を償ってきた結果、日本は「歴史問題」という負の遺産を清算出来たか。

 過去の呪縛から解放されたのか。答えはまたしても「NO」である。

 二十一世紀を迎えた現在も「歴史問題」は依然として、中国が日本を叩くための有効な材料となっている。>

(<「日中友好」は日本を滅ぼす>P二百三〜二百五)

 

 支那の指導者であった反日・江沢民は「歴史問題は永遠に日本に言い続けろ」と言い、支那全土に反日記念館を建てているから、歴史問題が解決しないのは当たり前の事である。解決しない方が支那に取って、善意を信じる日本人に対して有力な外交上の武器となるからである。

 自分たちがどのような歴史を持って生きてきたかを学習しない、知ろうともしない厚顔無恥な支那、朝鮮のアホ留学生どもが、我が国のテレビなどで「百年でも二百年でも言い続ける」とほざくのである。

 そして、石平氏は下記のように結論付けています。

<日本は「日中友好」から一体何を得られたというのか。確かに中国との経済交流が拡大したことは、日本にとっても大きなメリットであろう。二〇〇四年、中国は日本にとって最大の輸入国となった。

 しかし、それは「友好」云々とは関係ない。商売とは、双方に有利なものだから成り立つのであって、「友好」とは全く別の世界である。

 アメリカも欧州も、中国との間に「○中友好」を喧伝せずとも、日本と同様、中国ビジネスを展開し、中国で儲かったり、損したりしている。

 「日中友好」が結果的に、日本に何のメリットをもたらしたのか。

 何も無い、と私は思う。

 そして「日中友好」時代が始まって三十年後の現在、日本に対してむしろ「不友好」な姿勢を鮮明にしている中国が「大国」として台頭してきていることだけが、まぎれも無い事実である。

 一九八〇年代以後の中国の台頭とは対照的に、「日中友好」が高らかに叫ばれたこの二十数年間は、日本にとって悪夢の時代であった。

 略)

 少なくとも国交が回復し「日中友好」が叫ばれて以来、日中関係も、日本の国内事情も悪くなる一方だというのは、まぎれもない事実である。

 さらに、戦前の歴史を振り返ってみれば、日本を戦争の道へと導いた指導者たちの多くが、「支那との結合」や「東亜同盟」を声高らかに唱えた、ある意味では「日中友好論者」であったことも、忘れてはいけない。

 戦前の「大東亜共栄圏」と戦後の「日中友好」は、正反対に見えながら、実は一脈通じるものなのである。どう考えても、日本にとって「日中友好」は有害でこそあれ、無用の長物であった。

 日本が今後も中国との交流関係を保ち、さらに協力関係を強化していかなければならない分野もあるだろう。

 しかし、「日中友好」というお題目には終止符を撃つべき時が来ている。

 「友好」もなければ「非友好」もなきう、いわば普通の国同士、ただの「日中関係」でよいのではないだろうか。>

<「日中友好」は日本を滅ぼす>P二〇六〜二〇七

 産経新聞の古森義久氏も「日中関係は「友好ごっこ」である。」と著書「日中友好のまぼろし」(小学館 平成十四年刊)に書いていますが、まさにそれ以外の何ものでもなく、反論出来る政治家はいるだろうか。

 再掲載終わり

 西村眞悟先生を何度もおっしゃっているが、安部総理の外交における最大の成果は、画期的な外交戦略を実践しつつ、支那との首脳会談を実施していないことである。

 

 不良、チンピラ、泥棒、強盗とはつき合ってはいけないのである。

 どこの親もそう教えているはずである。

 不良、チンピラ、泥棒、強盗、人間のクズとつき合いなさいなどと教えている親御さんはいないであろう。

 だから、支那、朝鮮とはそこそこつき合えばいいだけであって、決して、仲良くなどしてはいけないのである。

 親の教えは正しいのである。

 知れば知るほど嫌になる支那と朝鮮。

 あほらし

 四名様来店。

 Bさん来店。

 ドンチャン。

 

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

総ては他人のせいというアホども

9月17日水曜日晴れ×

 横浜・寿町で、識字活動を続けられた大沢敏郎氏の本ですが、著者の浅い知識によるあまりにも醜い歴史観と登場人物の多くが「自分が字が書けないのは、読めないのは、総て他人が悪い。自分は悪くない」という逃れ方に読んだ後に感じるのは気分が悪くなります。

著者

大沢敏郎(おおさわとしろう)

一九四五年、岐阜県に生まれる。一九八〇年より、日本の三大簡易宿泊所(ドヤ)街のひとつといわれている横浜・寿町で、十分な学校教育をうけることのできなかった人たちとの識字実践活動をはじめる。文字の読み書きができるかできないかということにかかわらず、人間が生きることの深い学びとして、四半世紀にわたりつづけられた。二〇〇七年没。

挟まれていたパンフレットにあった推薦文

 <崔 洋一……映画監督

 識字で思いだすのはやはり父親のこと。

 十七歳で日本に渡ってきた父親にとっての日本語とはどういう存在だったのか。どこでどう知りあったのか日本人である母親と恋愛し、僕が生まれた。そういえば、父親が日常で使う話し言葉は上手く、朝鮮人であることを意識させられた記憶はあまりない。しかし、それは植民地政策の賜物であり、逆説としての自然人の喪失でもある。

 字を読めない、書けないこととは差別が生む犯罪によるものである。根源たる言葉を奪われた者にしかわからない痛みをわかちあい、その悪しき構造に言葉の礫を放つことの楽天を共有できるのか、はなはだ心もとない時代が現在だ。

 大沢さんの識字を媒介にした人間関係のやるせなさと正直な独白は、いつの日か人間解放の物語の序章として人びとは忘れていくだろう。だが、言葉を奪いかえした人間たちが残した「文字」は、永遠の記憶として屹立している。>

 この崔洋一というアホ朝鮮人が我が国が朝鮮の言葉を奪ったように被害者面してホザクが、そんな歴史など無い。

 流石は嘘が国技の一つである朝鮮人と納得。

 

著書より

<金孟任(きむめんにむ)さん

 一九一七年生まれ

 一九三〇年前後に日本に来て十四歳で子供を産んだという。

 略)

 日本の植民地支配下朝鮮で、父親は徴用で日本に渡り、四人の姉妹の長女として母親を助け、厳しい生活を支えた。日本に来て結婚してからも、病弱のお連れ合いの世話をしながら、女手一つで四人の子供を育てた。>

p一〇七

 <一九三五年ごろ、日本の植民地支配下朝鮮で、アボジは「徴用」で日本に働きに行き、オモニは、四人の子供を育てるのにわらを潰して貨物(ドンゴロス・袋)を編んで、それを市場に出して生計を立てていたのだ。金さんが十歳ぐらいの時の事だ。金属製の鍋、食器、箸、スプーンまで「供出」で取られてしまったとも話してくれた。>

p一〇九

 一九一七年生まれで一九三〇年前後に我が国に来て十四歳で結婚して子供を産んでいる。

 父親は一九三五年ごろに「徴用」で我が国に「働き」に来ている。

 その間、朝鮮で母親を助け厳しい生活を支えたはずなのに、父親より先に我が国に来ている。

 ましてや、父親が「徴用」で来たと言っている一九三五年の前年一九三四年一〇月三十日、岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化している。

 そんな時代に「徴用」か。

 アホかと。

 他にも、

<金斗伊さん

 「昭和天皇」の葬儀のテレビ映像を観て、そのことについて、自分の部屋で書いたものを持ってきてくれた。

 略)

 作家の小田実が『オモニ太平記』(朝日新聞社)で、在日一世のアボジやオモニたちがこの天皇の葬式をテレビで観ていたとしたら、きっと、自分の祖国の葬式と同じではないかと思っているに違いないと書いていた。その通りの文章を斗伊さんが書いてくれたわけだ。日本の天皇の「出自」が百済であることはあきらかになっているが、斗伊さんの文章を読みながらなるほどと思った。>

p一一六

 いつ、天皇家の出自が明らかになったのだ。

 アホかと。

<縁戚をたよりに「韓国」からやってくる人たち

 略)

 寿町に九三軒ほどあるドヤのオーナーは、ほとんどが在日朝鮮人である。オーナーは寿町に住んでいないが、ドヤを管理する帳場も多くが在日朝鮮人である。オーナーも帳場も在日二世世代に移行しつつある。そんなオーナーや帳場の縁戚をたよって、「韓国」から朝鮮人労働者が急増しているということだ。縁戚をたよっての渡日は寿町や寿町周辺にかぎらず、全国の在日朝鮮人の多住地域においても同じような現象が起きているのではないかと思う。労働・就労に関しては、もちろんほとんどが「資格外就労」(不法就労)である事は言うまでもない。

p一三一〜一三二

 裕福になった今でも朝鮮人どもは我が国に密航してまでも入ってくる。

 今現在、我が国において一番多い不法滞在は朝鮮人どもである。

 それが、貧しい戦前であればなおさらだという事を大沢敏郎このアホは理解しない。

 <徐 二順さん

  オモニは「日本語が上手になるまでは、子供は生ませない」と言っていた。

 そんな事もあってか、彼女は猛然と日本語の勉強をして、一年間ほどで日本語をマスターした

  彼女が初めて識字に出席したとき、僕が名前を聞いたら、彼女は本当にうれしそうに新しく付けてもらった名前だと言って、その「日本名」を教えてくれた。僕は、ずっと本名で呼んでいく事を告げたものの、彼女や周りの人たちを責めるつもりなどまったくないが、日本の社会は何も変わっていないのだと、現実に内心愕然とした。

 今、寿町に住んで仕事をしている「韓国」からの朝鮮人労働者のほとんどが「日本名」を持っている。識字に初めて出席する人にはいつも名前を聞くのであるが、朝鮮人労働者は必ずといっていいほど、どっちの名前ですかと問い返してくる。自分で名前を考えたり、友人に付けてもらったり、さらには仕事現場の親方に付けてもらったりしている。親方に付けてもらった場合などは、仕事の保障であったり、より深い人間関係のつながりになったりもする。

 徐二順さんについて、これは本人が一番しんどかった事だと思うが、僕自身取り返しのつかない苦い体験をした。彼女が妊娠して胎児は順調に育ち、産み月に陣痛がきて病院に入院した。しかし、産む事ができず死産してしまった。僕はお産に立ち会った事が無いからわからないが、死産をしたと聞いた時に思ったのは、お産の時の医者や看護師さんたちの日本語の励ましの言葉が、ひょっとしたら彼女にとっては、怒声に聞こえてしまったのではないかということであった。産み月になる前、オモニには、産室での看護師さん達の言葉について大丈夫であるかどうか話はしていたが、直接本人に確認しなかった事が、今も悔やまれてならない。

 略)

 外国人労働者を取り巻く状況は一様に深刻である。とくに朝鮮人労働者に対するそれは、労働現場において日本人の根強い偏見・蔑視に曝され、より一層厳しいものがある。>

p一三四〜一三六

 

 なんで、朝鮮人どもだけが通名などという偽名を使っているのか。

 そのアホな頭では思いつかないのだろうか。

 ましてや、朝鮮人女が死産したのは我が国の医者や看護婦さんたちの声のせいだとでも。

 この一年間ほどで日本語をマスターしたはずの朝鮮人女が医者や看護婦さんの励ましの言葉を怒声と思ってしまうのか。

 アホもここに極まれたり。

 ホンマ、あほらし。

 

 バンコクからYさんがMさんと来店。

 一名様来店。

 Mさん来店。

 営業終了後、エムズバーさんでドンチャン。

 記憶いい加減。

 サル並。


 

まだやっている。

9月16日火曜日晴れ

 以前に株式会社国際企画という会社の事を取り上げた事はあります。

 

 この会社が「WORLD GRAPH(ワールドグラフ)」という当時無かったか私が気がつかなかった名前の雑誌を出しているようです。

 ホームページには下記のように説明があります。

<「WORLD GRAPH(ワールドグラフ)」は独特の切り口で、その道のスペシャリストを紹介する月刊誌です。

社会・経済・流通・人の動き−あらゆる事が今までの常識では考えられないスピードで変化する中、経営者の方々は「いかに顧客を掴んでいくか」ということに頭を悩ませています。

「WORLD GRAPH」はこのような現状の中、地元地域に密着し、独自のアイデアと行動力のもと将来を見据え活躍する中小企業の情報、そして経営者の経営理念を、インタビューを通してご紹介し、無限に拡がるビジネスチャンスをお届けします。

他にはない、経営者達の熱いメッセージ、ビジョンがここにあります。>

http://worldgraph.jp/

 芸能人、元スポーツ選手などがインタビューし、それを銭を払って掲載してもらうというやり方は変わっていないようです。

http://www.worldgraph.jp/interviewer.php

 六万三千円請求されたというブログもありました。

http://d.hatena.ne.jp/easystar+tomyousansou/20130730/1375165984

 そして、うれしそうに「取材を受けました」「対談が掲載されました」と自分のブログに書いている人も多い。

 これって、どうなんでしょう。

 普通に考えたら、取材される方が銭払うっておかしい事がわかると思うのだが。

 不思議に思わないのだろうか。

 あほらし

 香港からお二人様が来店。

 Uさん御夫妻来店。

 Iさん二名様で来店。

 Oさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


おいおい

9月15日月曜日曇り○

 今日は飯を食いに外に出た以外は、一日中部屋にいて本を読んで過ごす。

 古本屋さんで買ったのがいいが、中身を読んでない本が積読になっているのが山ほどあるので、適当にバラバラと読む。

 まあ、醜いアホな本もいっぱい。

 その中の一冊。

<頭山は、戦争担当大臣からの密命に従い、日本軍侵入の口実を作るために、朝鮮で口火を切る事になった。一八九五年に殺人スパイとして忍術の訓練を受けた玄洋社の手先の一分隊が、朝鮮の宮廷に忍び込み、王妃を殺害した。この行為が、実は日本の朝鮮への侵略を引き起こしたともいえる。日本はその後五十年間、この地を離れようとしなかったのである。>

p四十六

<敗戦の時、三十四歳の海軍少将になっていた児玉(児玉誉士夫)は、総理大臣である東久邇宮の参与として日本に帰ってきたのだった。>

p九十一

<非行少年たちは、チンピラという言葉で呼ばれる場合が多いが、このチンピラという言葉は日本語のペニスを表す言葉から由来しているらしい。例えば、アメリカ人は「ペニス」という単語のPrickを嫌な奴という意味で使う場合があるが、チンピラもこれと同じように「ペニス」という本来の意味ではなく、「嫌な奴」という意味で使われているのである。>

p二〇〇

 一応、ネットでの語源としては

 <チンピラとは本来、小物のくせに大物らしく気取って振舞う者を嘲う言葉である。ここから不良少年や不良少女のことをチンピラと呼ぶようになる。昭和になるとヤクザかぶれした町の不良やヤクザの中でも下っ端の地位にある者をチンピラと呼ぶようになる。ただし、本来の意味が前提で使われており、下っ端ヤクザでも風格のある者に対してはあまり使われない。また、チンピラに「一般の人や自分より弱い者には態度が大きく、自分より上の位や強そうな者には媚びへつらう」といったイメージが伴うのも、本来のチンピラの意味をからきたものである。>

http://zokugo-dict.com/17ti/chinpira.htm

 <三十六年間の植民地統治期間中に、日本政府は朝鮮に対して冷酷な統治を行った。一九四五年までに、何十万という朝鮮人が、強制労働のため日本に送られたのだった。

 そして、戦後、日本に残った朝鮮人達の中には、闇市や組織犯罪に関心を向けるものも多くおり、日本の大きなシンジケートに吸収される暴力団を形成したのだった。不思議な事にヤクザは、日本で朝鮮人たちに門戸を開き続けてきた数少ない団体のうちのひとつなのだ。在日二世、三世の大半は朝鮮語より日本語の方がはるかに上手なのだが、彼らですら、就職、居住、教育において酷い差別を受けている。六七万六千人の在日朝鮮人の大多数が日本で生まれたにもかかわらず、彼らはなお「ガイジン」として法的に認知されているのである

 このような状況下で、日本に在住する多くの朝鮮人達が、ヤクザへと駆り立てられ、そしていくつかの驚くべき結果をもたらしているのである。>

P二百六十九〜二百七十

<こういう女性売買を日本政府は援助し、後には性の奴隷たちに日本帝国陸軍、海軍に寄る侵略の旅にアジア全域にわたってついて行くよう激励した。さらには前線の「皇軍」を「慰める」ため七万人もの朝鮮人女性を徴用したりいたのであった。>

P二百八十九

「ヤクザ―ニッポン的犯罪地下帝国と右翼 」(Yakuza:The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld)

ディビット E.カプラン David Kaplan (著), アレック・デュプロen:Alec Dubro (著), 松井 道男 (翻訳) 第三書館 平成三年刊

 <米国で「見えざる政府」として君臨し、海外へ膨張する世界最大の犯罪組織ヤクザと右翼暴力団の実態を描いた本書は、日本近現代史を鋭角にえぐる日本文化論でもある。世界七カ国語翻訳の国際的ベストセラーであるにもかかわらず、「日本でだけは出版できない」とされた幻の書。>

と、紹介されているがお粗末きわまりない。

 いくら毛唐でもここまでアホを書いているのは少ないと思います。

 流石は人間のクズ・売国奴 辻元清美 (別名バイブレーター清美)の内縁の夫といわれていた元日本赤軍メンバー北川明氏が社長の会社だけのことはあると納得。

 

ホンマあほらし。

 


9月14日日曜日晴れ○

 カミさんが、どっかから頂いてきた白い茄子です。

   初めて見ました。

 

 

 カミさんが、夜中の便でベルギーへ行くので、送って羽田空港まで。

 ベルギーへ行く目的は、もちろん、ビールです。

 でっ、むこうではカミさんはこの手提げで出かけるそうです。

 当然の事ですが、カミさんは、支那人や朝鮮人となどと間違われたくないそうなので、わかりやすく台湾ツキノワグマと旭日旗にしたそうです。台湾国旗といっているのもカミさんが嫌いな蒋介石の国民党の旗ですから、カミさんは絶対に付けません。

 ホエホエクマ〜 

 帰宅し、明日が休みなので、酒も飲まずに朝方まで本棚の整理片付け。

 サルでもエビでもない。


9月13日土曜日晴れ△

 日比谷公会堂にて開かれた「もう我慢できない 今年こそ結果を!国民大集会」に参加させていただく。

 

 

 二階席はガラガラ。

 

 拉致被害者ご家族の皆様の言葉が重いのに比べて、政治家連中の言葉の軽さ。

 

 アホを一匹

 午後二時開始

 まだ起きている。

 午後二時八分首相の挨拶中。

 もうやばい。

 午後二時十五分同じく首相の挨拶中

 いよいよやばい。

 午後二時五十二分 中山議員の挨拶中

 もう熟睡

 午後三時九分 議員紹介が終わったとたんにいなくなった。

 

 このアホは何しに来てたんだ。

 土屋正忠 おめえだよ。

 http://www.tsuchiya-masatada.com/

  来ていたという事実だけ作りたいクズ議員より、同じ寝てても、最後までいたこいつの方がまだマシだよ。

 

 二名様来店。

 一名様来店。

 三名様来店。

 ホロンさん来店。

 小胡子さん二名様で来店。

 営業終了後、一人ドンチャン。

 一応記憶あり 

 サルよりマシ


9月12日金曜日晴れ△

 河岸に行ったら、仲卸のマグロ屋さんのひろしちゃんが、

「朝日新聞の周りが面白い事になっている」と言っていたので、

帰りにわざわざ寄り道。

確かに玄関付近に、この新聞社には一番似合わないであろう日の丸が。

でっ、水島社長の抗議の声が聞こえてきました

 

 バンブーさん来店。

 Bさん来店。

 二名様来店。

 四名様来店。

 二名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

遺骨収集が国家の責務か

9月11日木曜日くもり一時雨○

 私の父は大東亜戦争末期に予科練に入隊いたしました。

 私のいなかの淡路島の鳴門海峡を望む小高い丘の上に鎧崎桜ヶ丘英霊墓地があります。

 

 これは、終戦を十日余に控えた昭和二十年八月二日宝塚海軍航空隊第十六期甲種飛行予科練習生百余名が、(鳴門要塞構築のため)杉本少佐指揮下鳴門市撫養港より機帆船住吉丸に乗船し、鳴門海峡を阿那賀港に向かって渡航中に鎧崎沖において米艦載機二機の銃撃を受け、その大半八十二名が戦死を遂げた皆様の墓地です。

 その墓に眠っている皆様は私の父が入隊した予科練の同期の皆様とその上官です。

 皆様の御遺体は土葬にされましたが、いなかにおいてこれほど多くの死者が一度に出る事など無いので、二体、三体と一緒に葬られました。

 その後、八十二基の墓碑を建立しましたが、そこには御遺骨はございません。

  それは、淡路島の墓に火葬された御遺骨が納められるようになったのはここ三十、四十年のことだからです。

 昭和三十九年に亡くなった私の祖母は土葬でしたが、祖母の墓はその土葬された場所にはございません。

 土葬の場所が部落により決まっていて「三味(さんま)」と呼ばれる場所に埋葬します。

 墓と土葬の場所が違いますので祖父、祖母までの墓には遺骨を納める場所はございません。

 うちの「木下家」としての遺骨が入る現在の墓においても、墓に入れられるのは半紙にくるんだ小さな遺骨だけで、骨壺が入るような空間は作られていません。

 

 今日の産經新聞に「『遺骨収集は国家の責務』試される決意」と題された登山家の野口健氏のコラムが掲載されていました。

 以下引用

< 【野口健の直球&曲球】

「遺骨収集は国家の責務」試される決意

2014.9.11 14:09

 戦没者の遺骨収集活動に携わって約10年。痛感させられたのは遺骨収集に対し国の姿勢が消極的であること。厚労省の遺骨収集は昭和48(1973)年頃に事実上の打ち切りとなった。海外戦没者の約半数である113万人のご遺骨がいまだ帰還していないにもかかわらず。それ以降は民間団体からの情報が入れば収集に行くという民間任せのスタンスが目立つ。

 では、アメリカはどうか。硫黄島で米軍側の戦死者は約7千人。その1人が行方不明のままであり、その1人を必ず見つけるとアメリカは多数の調査員を硫黄島に派遣し捜索活動を続けている。

 また、諸外国は遺骨の身元確認のために積極的にDNA鑑定を行ってきた。驚いたことに2007年、オーストラリア陸軍は第一次世界大戦中にベルギーで戦死した自国兵士の身元を割り出した。

 映画「硫黄島からの手紙」で監督のクリント・イーストウッド氏が驚いたのは日本人の出演者で硫黄島の戦いについて詳しく知っている者が一人もいなかったことだ。

 「2万人近い命を失っておきながらそのことに全く関心がない。アメリカでは考えられないことだ」と。無関心なのは国や役者だけではない。日本中がそうなのだ。

 麻生内閣の時、石破茂氏(現地方創生相)に「どうしてこの国は祖国のために戦い亡くなった方々に冷たいのですか」と嘆いたことがある。

 目をつぶり、じっと僕の話に耳を傾けていた石破氏は「遺骨収集が国家の責務になっていない。国家の責務としなければ予算も人員も増やせないし、国の責任で帰すのだという責任感も生まれてこない。まずは議員立法で何とかする」。その直後、自民党は下野。ガックリさせられた。あれから5年。今年に入り新聞に大きく「自民党、遺骨収集を『国の責務』と明記する議員立法を秋の臨時国会に提出する」と報じられたではないか。

 国のために命をなげうった人を国の責任で帰すのは当然であり国家としてのプライドの問題だ。そういう決意があるかどうか今まさに試されようとしている。>

引用終わり

 我が国国民はたとえば憎き敵兵であっても、撃墜し亡くなった場合は勇士として手厚く葬ってきた。

 下記の写真では木で作られた十字架には「米軍勇士之墓」と書かれている。

 昭和二十年(一九四五年)七月二十八日に、呉沖に係留されていた日本帝国海軍戦艦「榛名」を攻撃した時に、対空砲火により撃ち落とされ、広島県佐伯郡八幡村に墜落したB−24爆撃機「タロア」号乗組員のものです。

 下記は原爆で亡くなった米軍捕虜の墓。

 戦没者の遺骨収集に熱心な野口氏は

 <アメリカはどうか。硫黄島で米軍側の戦死者は約7千人。その1人が行方不明のままであり、その1人を必ず見つけるとアメリカは多数の調査員を硫黄島に派遣し捜索活動を続けている。>

 と、このように書くが、我が国兵士に対しての米国の対応はどうであったか。

 下記の写真は埼玉県にある山下奉文大将の墓であるが、山下大将の御遺体どころか処刑場所はさへ正確にはわからない。

 他の戦犯とされた皆様の多くは同様である。

 硫黄島において、我が国将兵の御遺体がなぜ滑走路の下になっているか。

 米軍が我が国将兵の御遺体をブルドーザーで運び砲撃、爆撃跡に放り込んで埋めて、その上に土をかぶせて滑走路にしたためである。

 他にも、我が国将兵の戦死者の頭蓋骨を恋人に贈っている。日本兵の頭部を煮て頭蓋骨は一体につき三十五ドルで販売されて土産物として持ち帰っている。今現在でもオークションに御遺骨が出品される。

  

 そんな醜い事をやった、やっている米国人から我が国将兵の御遺骨についていろいろとえらそうな事は言われたくはない。

 参照→米軍の醜い遺体処理

 野口氏は我が国将兵の御遺骨について我が国政府の対処を批判されているが、では、海で艦と一緒に沈んだ将兵の御遺骨はどうなのだ。

 海軍では艦が沈まなくとも昔から水葬にしてきた。

 私は陸で亡くなった将兵のみの御遺骨を収集するのが国家の責務とは思わない。

 御遺骨は無くとも靖國神社に英霊として祀られている。

 それで十分ではないか。

 国家の責務とは遺骨収集などではなく、国家として、国民として靖國神社を守る、英霊の名誉を守る事こそが国家の責務である。

 カミさんの朝ビール。

 二名様来店。

 

 今日は酒は飲まずにさっさと帰宅。

 サルでもエビでもない。


9月10日水曜日晴れ△

 うちの店の近所の赤城神社も神輿を踏みつけながら参拝させるというかなり醜い建て方だが、先日カミさんとブラブラした人形町のビルの中にあるとはこの「松嶋神社(大鳥神社)」もかなりのもの。

 神様を踏みつけながら仕事をしているのか。

 普通はビルを建てる時に一番上に移すか、別の写真のように神社を避けて建てると思うが。

 今日のカミさんのビールの残骸。

 Nさん、Fさん、Tさん来店。

 一名様来店

 二名様来店。

 ドンチャン。

 

 営業終了後、ご近所のお店へ。

 

 カミさん共々記憶あり。

 サルよりマシ。


大河正明少尉

9月9日火曜日晴れ△

 朴東薫 ぼくとうくん パク トンフン(大河正明) 伍長 

 二階級特進により少尉 

  大正十五年生まれ 

  十五歳で陸軍少年飛行兵第十五期生

  昭和二十年三月二十九日 誠四十一・扶揺隊

 知覧より九七式戦闘機にて沖縄方面出撃  十八歳 (十七歳ともあり)

 遺書には「靖國に召されし身 如何にせん ただ君がため」とあったそうですが、同期の同胞「金山」伍長には「内鮮一体というけど、ウソだ。日本はウソつきだ。俺は、朝鮮人の肝っ玉を見せてやる」と言い残したという。

「The Geacs Project Vol.5」大館史編による)

 

 

 録音版に残されていた大河少尉の遺言

<御民われ 生ける験あり 天地の

 栄ゆる時に あらく思へば

 ひとりこの静かにこの歌に包まれる時

 何とも言えない気持ちで胸いっぱいであります

 今ここに選ばれて、名誉ある特攻隊に召された時の気持ち

 またこれが 何とも言えない気持ちであります

 鬼畜米英の軍艦 あるいは B二九が

 次々と見えてきて じっとしておれません

 大きな戦果が新聞に載らずとも

 一機一艦 憎き船にぶつけて粉々にしてみせます

 歴史を守る同胞よ

 ひとりひとりが特攻隊となって

 この歴史を永遠に保ってくれ

 それが若きものの進むべき路である事を思ってくれ

 お父さん、お母さん

 ぜひ来てください

 いろいろとご心配をかけて誠にすみません

 不幸者ですみません

 正明にはこのことをお許しくださると思って

 元気で行きます

 弟よ 妹よ 

 兄が可愛がる事も また、兄として

 何も出来なかった 許してくれ

 強く 元気に

 そして立派になってくれ

 

 では最後に生まれて初めての句を心ばかりにつくってみました

 かしてください

 

 靖國に

 召される身体

 如何にせん

 さようなら>

  このようにNHKの制作した番組では、朴東薫(大河正明)少尉の御遺書とされた

< 靖國に

   召されし身体

   如何にせん 

   ただ君がため>

が、

<靖國に

 召される身体

 いかにせん>

 となっていました。

 俳句つうことなのでしょうか。

 カットせずに正確に放送していたのでしょうか?

 

  

 戦死した

 朝鮮半島の御遺族は、戦後、ソ連軍による財産没収や朝鮮動乱、そして、親日派としての経歴より多くの辛酸をなめ、迫害されて精神に異常をきたし、悶死したといわれる御父上は生前、「日本という国は決して悪い国ではない。特攻で死んだ者の家庭に対して責任を持つ国だ」とおっしゃっていたそうです。  重いお言葉です。

 

ラジオが伝えた太平洋戦争 E 朝鮮人特攻隊員

https://www.youtube.com/watch?v=0tCD2h4PgNw

ラジオが伝えた太平洋戦争 F 朝鮮人特攻隊員2 

https://www.youtube.com/watch?v=6KoK_PflfjM

 カミさんのビール繋がりで、台湾人で現在カナダ在住のビールメーカーの醸造責任者、ビール会社のアドバイザーなどをされている田さん来店。

 我が国の「たいやき」が大好きなんだそう。

 Sさん二名様で来店。

 

 ドンチャン。

 

 記憶あり。

 サルよりマシ。


9月8日月曜日くもり一時小雨△

 今日は店が休みつうことで、カミさんが行きたがっていた人形町の老舗「森乃園」さんの二階で抹茶ビールと焙じ茶ビール。

 今年で創業百年というこのお店では焙じ茶がここの売りのひとつらしく、

店内はその焙じ茶の香りに包まれていました。

 おつまみとして、漬け物と煎餅がついて大ジョッキ八五〇円です。

 

 神社の狛犬ならぬ狛猫?

いや、招き猫か?

 人形町・末廣神社にて、お参りしている人をず〜と眠たそうに座って見ていたニャンコ。

 

 夜はアンブラさんにてワイン。

 カミさん共々飲んだくれの一日。

 店に寄り、資源ゴミを出してから帰宅。

 サルでもエビでもない。


9月7日日曜日雨のち曇り△

 カミさん共々「静岡県地酒まつり IN TOKYO 2014」に伺わせていただきました。

 多くの蔵元さん、顔見知りの方々にお会い出来て楽しかったです。

 お付き合いくださった皆様ありがとうございました。

 

 

 

 でっ、今年も、日本人とは思えない所行のピラニアちゃん、ハイエナちゃん、ハゲタカさんが多く参戦。

 クロークに預ければいいですし、持って入るにしても、食べている時、飲んでいる時はテーブルに置かずに足下に置けばいい自分の荷物、私物でどっかに行く時もテーブルに荷物置いたっきりで数少ないテーブルに場所取り。

 

 

 蔵元さんが用意した仕込み水もその場所取りしたテーブルに勝手に持ってくる。

 「お互い様」「少しでも多くの方が利用出来るように」などという考えはこいつらの頭の中にはほんの少しもございません。

 総てのテーブルが今年もこのクズどもにこのように占領されておりました。

 でっ、食事が出ると、取れるだけ取ってくる。

 

 飯食っとらんのかと小一時間。

 その後、G23さんと弘前からいらした当店のお客様Kさんとカミさんの四人で、六本木、東京駅とハシゴしてドンチャン。

 最後は、カミさんと二人で江戸川橋でドンチャン。

 店に寄り、生ゴミを出してから帰宅。

 一応、記憶あり。

 サルよりマシ。


 

9月6日土曜日晴れのち一時大雨○

 木村伊量(きむら ただかず)

< 昭和二十八年十一月十六日香川県高松市生まれ
略歴
早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後朝日新聞社入社
東京本社政治部記者として、首相官邸、自民党、外務省などを担当

平成二十四年六月朝日新聞社代表取締役社長就任
政治部長の2002年に北朝鮮が拉致問題を認めた際、朝鮮半島の植民地支配を踏まえ拉致問題は棚上げし、日朝国交正常化を進めるよう政治部長名で提言した。
東京本社編集局長時代の2005年、朝日新聞の新党日本に関する捏造事件の責任を取り更迭。
船橋洋一が主導した朝日新聞第二高級紙創刊プロジェクトにおいて外岡秀俊とともに中心メンバーになる。しかし、船橋と外岡が対立し外岡が外され計画は頓挫。結局朝日新聞の中折りに週刊ではさむGLOBEとして創刊。木村は初代編集長に就任した。
2012年4月27日の取締役会で、秋山耿太郎社長の後任となることが決定した。平取締役就任から1年、常務取締役3人ら7人の上席取締役を飛び越しての社長就任で、旧帝国大学卒でない、早稲田大学出身の朝日新聞社社長は、村山事件後の美土路昌一以来45年ぶり。政治部出身の社長が2代続くのは朝日新聞社史上初。
国家安全保障会議の事務局である国家安全保障局の初代局長となる元外務次官・谷内正太郎との私的な交流から、公安当局がKCIAエージェントと看做す在日韓国人が事務局長を務める谷内氏主宰の政経勉強会「寛総会」に十五名のメンバーの一人として参加していたことが報じられた。

(週刊文春平成二十六年一月二日九日特大号)

 この在日韓国人は、旧住専から多額の融資を受けて焦げ付かせた不動産会社(実態は地上げ屋)の元社長で、元大蔵官僚の経済企画庁政務官(当時)である村田吉隆衆院議員が、役員として同社から多額の報酬を受け取っていたことを、かつて自社紙面(一九九六年一月九日)において厳しく追及している。>

 このアホ朝日新聞アホ社長の社外秘メールが曝されてました。

 週刊文春九月十一日号より

 この文章は朝日新聞社内専用ホームページ「風月動天」に、ひと月に一度アップされるもの。同ページは朝日新聞社外の人間には閲覧不可能。また他メディアに内容が漏れないよう、「閲覧する際には、個々人のパスワードを打ち込まなければならず、誰が印刷したかまで、会社側が把握できる」(現役社員)という。

 

長年にわたる朝日新聞ファンの読者や企業、官僚、メディア各社のトップ、ASA幹部の皆さんなど多くの方から「今回の記事は朝日新聞への信頼をさらに高めた」「理不尽な圧力に絶対に負けるな。とことん応援します」といった激励をいただいています>

<二年前に社長に就任した折から、若い世代の記者が臆する事無く慰安婦問題を報道し続け、読者や販売店ASAの皆さんの間にくすぶる漠然とした不安を取り除くためにも、本社の過去の慰安婦報道にひとつの「けじめ」をつけたうえで、反転攻勢に打って出る態勢を整えるべきだと思っていました。今回の紙面は、これからも揺るぎのない姿勢で慰安婦問題を問い続けるための、朝日新聞の決意表明だと考えています

<「慰安婦問題を世界に広げた諸悪の根源は朝日新聞」といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力に断じて屈するわけにはいきません>

<私の決意はみじんも揺らぎません。絶対にぶれません。偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらが国益にかなうアプローチなのか>

<本日二十八日付朝刊でも、慰安婦問題をめぐる議論のポイントの整理が掲載されましたが、これからも反論すべきは朝日新聞らしく節度と品位をもって反論しつつ、自信を持って、ジャーナリズムの使命を果たして行く事が大切です>

<週刊誌にはおどろおどろしい見出しの朝日攻撃の記事が溢れています>

以上平成二十六年八月二十八日付け木村伊量朝日新聞社社長メール

 吉田昌郎福島第一原発所長の「吉田調書」を「所長命令に違反、原発撤退」と捏造報道したことについて、

<地道な取材に裏付けられた、朝日新聞が書かなければ永久に世の中に知られることがなかったかもしれない衝撃の事実の連打で、これぞ価値ある第一級のスクープと言うべきでしょう。

 略)

 「朝日新聞のぶっちぎりの特ダネ」に終わらせる事無く、公共財として社会全体で証言を共有できないものか、さまざまな方策を検討してもらいます

<安部政権は故吉田氏の上申書をたてに調書内容の開示を拒み、他の新聞は手元に調書がないこともあってか、後追いもせずほぼ黙殺。一方で、海外の有力メディアは朝日新聞の報道を直ちに転電して世界の多くの人が事実を知る、という倒錯した状況も起きています>

昭和二十六年五月二十七日付け

<戦後の歴代総理が封印してきた集団的自衛権行使に、国民世論も顧みず、軽々しくバタバタと踏み出そうとする動きは、突き詰めると「戦後レジームからの脱却」とやらに取り付かれた安倍首相の独りよがりの情念(妄執)に帰着する>

平成二十六年六月

 以上引用週刊文春平成二十六年九月十一日号P二十二〜二十六

 

 そして、下記は今日の朝日新聞の社説です。

<法規制議論で「日本人の誇り」を主張する自民党、在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチ助長しかねない

2014/09/06(土)朝日新聞社説

特定の人種や民族への憎悪をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)について、

国連人種差別撤廃委員会は日本政府に対し、法律で規制するよう勧告する「最終見解」を公表した。

 「朝鮮人は出て行け」「殺すぞ」。在日韓国・朝鮮人を中傷するデモが活発になっていることを受け、

見解は「デモの際に公然と行われる人種差別などに対して、毅然(きぜん)と対処すること」を要求。

ヘイトスピーチをあおる官僚や政治家に適切な制裁を講じるよう促した。

 市民グループの調査によると、ヘイトスピーチをともなうデモや街宣は昨年1年間で360件以上行われているという。

なぜこれほどの拡大を許してしまったのか。勧告を機に、よくよく省みなければならない。

同時に、在日韓国・朝鮮人のひとたちが味わわされた屈辱と恐怖に改めて思いを致し、ヘイトスピーチを絶やすために何ができるか、この社会に共に生きる者として考えたい。

 たとえば大阪市は、ヘイトスピーチの被害者の訴訟費用を肩代わりできないか検討している。

 焦点の法規制については、自民党がプロジェクトチーム(PT)を設置し、検討を始めた。

民主党や公明党など超党派の議員連盟も、議員立法に向けて準備を進めている。

政府が差別的表現か否かを判断することの危うさなどを理由に、法規制には慎重な意見も根強くある。冷静な議論を望みたい。

 気がかりなのは、自民党の議論のあり方だ。PTの初会合では、国会前の脱原発デモなどの規制も併せて検討すべきだとの意見が出た。

前政調会長が後日、規制は考えていないというコメントを出したが、人種差別とデモを同列に扱い、デモ規制を政治家が公然と口にすること自体、極めて問題がある。

 「誇りある日本国民として恥ずかしい」「日本人としてやめなければならない」という物言いにも違和感を覚える。

差別を受け、恐怖を感じている被害者への視点が抜け落ちてはいないか。安倍首相は国会でヘイトスピーチについて「他国の人々を誹謗(ひぼう)中傷し、まるでわれわれが優れているという認識を持つのは全く間違い」と述べた。

「日本人の誇り」の強調は、そのような間違った認識を助長することにつながりかねない。

 それこそ人種も民族も関係ない。ヘイトスピーチは人間として恥ずべき行為だとの原点に立ち、議論を進めるべきである。>

 やっぱ、支那、朝鮮の手先とその機関誌である朝日新聞は潰さねばなりません。

 

 Sさん来店。

 二名様来店。

 今日は飲まずにさっさと帰る。

 サルでもエビでもない。


 

9月5日金曜日晴れ△

 南朝鮮大統領からの贈り物を「ワ〜イ、こんなの貰ったんだぞ」と嬉々としてツイートに掲載した朝日新聞ソウル支局の東岡徹氏は自分のツイートを削除したようです。

 

 

東岡 徹 @HigashiokaT

朴槿恵大統領から韓国の名節、「秋夕」を前に贈り物が届きました。

各界の関係者に贈るのが恒例らしく、中身は干し肉、松の実、ナツメでした。

http://pic.twitter.com/1I9EQqox9s

https://twitter.com/HigashiokaT/status/505541405352022016/photo/1 (削除済)

>各国の関係者に贈るのが恒例らしく。

そうですか、関係者にねえ。

さすが、朝日新聞。

どうどうと、韓国の「関係者」名乗ってます。

朝日新聞記者行動基準

取材先との付き合い

1.取材先からは、現金や金券等を受け取らない。品物についても取材資料や通常の記念品等以外は受け取らない。職務の尊厳を傷つけ、記事の公正さに疑念を招くことになる。

2.取材先から、中元・歳暮を含め贈答品を受け取らないことを原則とする。

 

 アホさをどなたかに指摘されたのであろうか。

 あほらし

 バンブーさん来店。

 Oさん来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 Yさん来店。

 Oさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

売国奴・小沢一郎

9月4日木曜日晴れ△

 小沢一郎と朝鮮についてはその母親の実家に朝銀の担保が付いていた事からも朝鮮との繋がりの深さが伺い知れます。

小沢一郎の闇 実家についた朝銀の担保と出生についての疑問

 そして、朝鮮の大学から名誉博士を貰い喜んでいるそうです。

<国民大、小沢一郎氏に名誉博士学位を授与

記事入力 : 2014/09/04 08:06

 かつて日本の民主党の代表・幹事長を務めた小沢一郎・生活の党代表が4日、韓国の国民大で政治学の名誉博士学位を授与される。

 国民大は小沢氏について「2009年に当時の政権与党だった民主党の幹事長として韓国を訪問した際、植民支配について深く反省するとともに、在日韓国人への参政権付与について積極的な姿勢を取るとの立場を示し、両国の親善に貢献した」と説明した。学位授与式に続き、国民大日本学研究所の教授陣と生活の党の元・現議員30人余りが出席する非公開の懇談会と夕食会が行われる予定だ。

 小沢代表は衆議院当選15回で、民主党代表だった09年、自民党の長期政権に終止符を打つことに成功し、民主党政権を誕生させた。09年に政治資金疑惑で秘書が逮捕されると、小沢氏は党代表を辞任。12年7月に民主党を離党し、その後新党を結成、現在は生活の党代表を務めている。

李竜洙(イ・ヨンス)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版>

  

 つまり、朝鮮の為に一生懸命やったという事をほめられて喜んでいるのです。

 小沢氏はこの時に下記のような事を言っている。

両国の関係の中でも、現代史の中で、不幸な時代がありました。

 このことにつきましては、日本国、また日本国民として、皆様に、謝罪をしなければならない、歴史的な事実であったと思います。

 しかしながら、そのことのみをずーっと思い続け、言い続けていたのでは、日韓両国の将来に、何のいい結果も、もたらすことはありません。

 そういう意味におきまして、特に、若い諸君におかれましては、もう、そういった過去のいろいろな問題を乗り越えての、両国の友好親善関係、そして、連帯が必要だと、いう意識を、皆さんそれぞれ、お持ちになっておられることと思います。

(中略)

 日本で、東京大学の教授でありまして、歴史の専門家でございますけれども、江上先生(江上波夫)という先生がおられました。

 この先生は、日本国家の成り立ちを、騎馬民族征服説というのを、強く唱えておった方であります。

 まぁその江上先生という先生の説が、今言ったように、朝鮮半島南部、いわば韓国に、現在ではあたりますけれども、この地域の権力者がたぶん海を渡って、九州にたどり着き、九州に拠点を構え、それから海岸沿いに、ずーっと紀伊半島、今、和歌山県とか、三重県とか呼ばれる所でありますが、三重県に、まで、九州からずーっと海伝いに行きまして、そして、三重県に上陸し、今の奈良県に入って、奈良盆地で政権を樹立したと。

 それが、日本の神話で語られております、神武天皇の東征という、初代の天皇がそうでありますけれども、江上先生はそういう説をずーっと唱えておられまして。

 そこでですね、日本の大阪に、神武てん…、いや、応神天皇、仁徳天皇という、古代の天皇の大きなお墓があります。

 ま、高さでは、ピラミッドに及びませんけれども、底辺の大きさではそれを凌ぐ、お墓でありますけれども、未だこれは、宮内庁の管轄のもとにあって、発掘することを許されておりません。

 江上先生は一生懸命、ま、当時の幹事長である私にですね(笑)、ぜひ、宮内庁に、かか、か、あの、話して、これを発掘させてほしいと、一生懸命言っておりましたけれども、そうすれば、全てが、歴史の謎が解明されると、ま、こんな話をいたしておりましたけれども。

 いずれにいたしましても、そういう、著名な、日本の歴史文化学者であります、江上先生という方が、それを唱えておるくらいでございまして、まあ、これは、あまり私が言いますと、国に帰れなくなりますので(笑。会場も笑)、強くは言いませんけれども、たぶん歴史的な事実であろうかと思っております。

(中略)

 これは日本の天皇陛下も、先般、あいさつで言ったことでありますけれども、京都、平城、平城京から、平城京っちゅうのは奈良ですけれども、平安京という今の京都ですね、これを作った桓武天皇、794年に、西暦794年に、平安京、京都の都ができたんですけれども、その桓武天皇の生母は、百済の王女様だったということを、天皇陛下自身も認めておられます。

(中略)

 そしてもちろん、今、私が政治上でも、国民に言っておりますのは、特に日本人はですね、この、島国で、長い歴史の中で、○○○な生活をしておりましたので、自立心に欠けるんですね。自分で勉強し、自分で判断し、自分で決断し、自分で責任を負う、こういう自立心が最も足りない、国民といえば、その通りなんで。>

 二〇〇九年十二月十二日南朝鮮の国民大学にての講演

 

 天皇陛下のお言葉とは
 「私自身としては、桓武天皇の生母が武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」

(平成十三年十二月十八日)

 どこにも「百済の王女さま」などというものは出てこないのである。

 陛下のお言葉を歪曲してまで、朝鮮に媚びているのである。

 この名誉学位とは、小沢氏がこのように醜い事を言っている事に対してのご褒美である。

  それをもらう為に三十人も子分を連れて南朝鮮に行ったのである。

 流石は、南朝鮮に「静養」だけで行くだけの事はある。

 <小沢氏、「静養」で訪韓

< 民主党の小沢一郎代表は一日、韓国に向けて出発した。四日に帰国する予定。

小沢氏周辺によると、静養が目的で、要人と会談する予定はない。二〇〇八年五月二日日経新聞>

 あほらし

 Mさん来店。

 香港よりのお客様二名様で来店。

 二名様来店。

 Oさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


9月3日水曜日晴れ△

 河岸場内にある、九十五年(一九一九年創業)の歴史ある老舗の洋食店「豐ちゃん」が閉店していました。

 先週の火曜日(八月二六日)に行った時にシャッターが降りていたので、その後先週何度かは河岸に行っても「社員旅行でも行ってるのかな?」ぐらいに思ってましたが、今週もシャッターが降りているので、河岸の人に聞いたら、二十五日月曜日で店を閉めたそうです。

でっ、近々「同じ店名」で別の方が再開するそうですが、その時には「豐ちゃん」という名前を使っていることをなんと客に言うのであろうか。

 まあ、昨年は同じ場内にあった「小田原屋」さんという業務用酒専門といっていた酒屋さんも閉店しました。ただ、私はこの小田原屋さんで買ったことは一度だけでした。プライベートブランドでしたが、あまりにも魅力がなさすぎました。時代の流れなのでしょうか。

  今日はカミさんと「セデック・バレの真実」を観に新宿へ行く。

 内容は「抗日英雄」という支那人である馬が総統の時に作られたドキュメンタリーらしい作り方。勇名を馳せた高砂族義勇隊も歪めて描いていた。

 

 一名様来店。

 へべれけさんに来ていただき、パソコンの修理とホームページのデーター保存。

 データー保存が思いのほか時間がかかり、へべれけさんには時間を取らせてしまい、非常に申し訳なく思う。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

 


親日派=売国奴

9月2日火曜日晴れ△

 下記は南朝鮮で公開されている「親日名簿事典」の軍人の部です。

軍将校(尉官級以上

将軍級(少将、中将、大将)

金應善 魚 潭 王瑜植 李熙斗

洪思翊

佐官級(原文では領官級。少佐、中佐、大佐)

姜錫佑 康弼祐 高弼 高永均 権承祿 金基元 金錫源 金亨燮 南宇鉉

朴斗榮 朴範集 朴勝 朴在興 白洪錫 申應均 申泰英 安秉範 元容コ 柳冀聖劉升烈 柳元孝 尹相弼 李大永 李秉規 李龍文 李應九 李應俊 李鍾贊 李學來 李炯錫 李浩鎭 林 業 林在コ 張然昌 全永憲 鄭觀秀

鄭斗源 鄭R 蔡秉コ

尉官級(少尉、中尉、太尉)

姜h泰 姜東烈 姜在浩 桂炳輅 高起範 高俊峰 高俊 具東旭 権

権泰翰 金東元 金東河 金明コ 金白一 金思錫 金錫 金錫範 金聲雲 金成勳

金純善 金信道 金躍先 金 瑛 金永叙・金永祿 金泳秀 金永新 金玉h

金龍紀 金龍虎 金潤根 金應祚 金仁旭 金一煥 金貞烈 金正晧 金貞熙 金鍾碩 金鍾植 金周贊 金剏ウ 金重圭 金振吉 金振武 金昌圭 金昌宇

金鐵男 金忠男 金忠助 金鎬薯・金洪俊 都一平 明勇銀 文禎 文容彩

閔コ鎬 朴東均 朴東俊 朴奉祚 朴元錫 朴林恒 朴正熙 朴昌夏 朴泰熙

方圓哲 方泰旭 白慶春 白善Y 白仁俊

徐英哲 徐日寶 徐廷弼 石主岩 石希峰 孫炳日 宋錫夏 申K 申鶴鎭 申鉉俊 安光銖 安永吉 安永恥 安益祚 安洪濤 楊國鎭 楊大鎭 楊振東

厳柱明 昌燮 呉俊杰 呉叙ル泳 禹鍾鉉 元容國 柳ェ熙 劉光

兪原植 劉載興 柳喜章 尹悳炳 尹士新 尹春根 李 叙・李絳宇 李圭一

李根默 李奇建 李コ振 李東岩 李東俊 李東 李丙胄 李逢春 李

李成林 李升 李英杰 李永山 李英春 李 龍 李龍星 李元衡 李宜豊

李濟禎 李鍾馨 李周一 李春城 李翰林 李亨根 李興権 李喜謙 林秉圭

張光 張箕春 張叙レ衡 張錫 張星熄 張星煥 張永錫 張裕根

全南奎 田源上 丁來赫 鄭祥秀 鄭雲鴻 鄭殷鎔 丁一権 鄭一平 鄭 勳

趙大鎬 趙秉権 趙性根 池泰 池章華 池振國 池治龍 車萬載

車 榮 車C一 崔慶萬 崔鳴夏 崔福洙 崔鵬俊 崔世昌 崔承業 崔貞根

崔周鍾 崔昌植 崔昌彦 崔學珍 韓肛 洪 濤 洪文杰

親日名簿事典に掲載された主な方々について。

安秉範大佐

 李氏朝鮮末期に日本の陸軍中央幼年学校に留学し、日本陸軍士官学校(二十六期)卒業、日本陸軍大佐として終戦を迎える。李朝最後の皇太子であり、日本陸軍中将・李垠殿下の御付武官であった。

 朝鮮戦争時には青年防衛隊首都防衛隊顧問として首都防衛を任されていた。しかし、北朝鮮軍によりソウルは陥落し、昭和二十五年(一九五〇年)六月二十九日に仁王山で安秉範大佐はその責任をとって日本軍時代からの愛用の日本刀で割腹自決を遂げた。

 朝鮮戦争では下の息子二人も戦死している

白善Y(はくぜんよう)

 元満州陸軍中尉その後、韓国軍第一師団長を経て参謀総長 韓国陸軍初の陸軍大将

 白将軍について、白氏の著書「若き将軍の朝鮮戦争」(草思社平成十二年刊)に三浦朱門氏は「軍人の理想 白善Y将軍」として下記のような文章を書いている。

以下引用

<略)

 韓国軍はいわば鉄火の中から産まれた。その韓国軍の精髄が白将軍である。

 略)

 もし将軍がいなかったら、円陣は崩れ朝鮮半島は社会主義国家になり、今の韓国民は物心両面において厳しい条件に置かれ、日本も対馬のすぐ近くに、傍若無人な「金王朝」の軍隊が存在して、何かと日本の内政も攪乱されたに相違ない。その意味で韓国民は勿論、日本人も・・・日本が社会主義国家になるべきだと考える人は別にして・・・将軍に恩義を感ずるべきである。

 将軍は三十二歳で韓国軍人として最高位の大将に任ぜられる。決して人材不足の間に合わせ人事でもなく、縁故によるものでもなかった。将軍は休戦条約に韓国軍を代表して、出席する大役を果たした。

 しかし一番素晴らしいのは、将軍が軍人としての名声を利用して、権力を握ろうとしなかった点である。国際的な知名度を国が利用して、台湾、カナダ、フランスなどの大使を勤め、韓国の国際的地位の向上に貢献し、経済再建のために、外貨と技術によるコンビナートの建設に尽くした。しかしクーデターを起こして権力を掌握しようとなどは考えなかった。軍人の理想そのものの人柄である。>

引用終わり

同書P一〜三

 

金貞烈将軍

日本陸軍士官学校(五十四期)、航空士官学校戦闘機科卒業、大東亜戦争はフィリピン作戦で武勲を上げ、三式戦「飛燕」の戦闘隊長として南方戦線で活躍した日本陸軍大尉。韓国空軍生みの親といわれる。

 

李亨根将軍

 日本陸軍士官学校(五十六期) 韓国軍第三軍団長として朝鮮戦争で武勇を馳せる。 新宿区市ヶ谷台の自衛隊駐屯地(現防衛省)に桂の木が植えられている。

その傍らに立つ標柱には下記の言葉が書かれている。

表面「桂恩師のために 第五十六期生 李亨根」

裏面「韓国陸軍大将」

側面「一九六八年 四月二十五日 韓国京城」

 そして、一九九三年(平成五年)十二月、同期生の蔵田十紀二氏に宛てた書簡として 「故桂区隊長殿の御逝去で悲痛窮りない気持ちです。特に御遺族様の御心境を思う時、胸の裂ける思いです。 貴兄のこともしばしばお話しておられました。お互い健康に留意し志気旺盛に務めましょう・・・・・・」

 李亨根将軍とともに陸士五十六期として昭和十四年十二月一日に入学した総人数約二千四百名のうち千名近い戦死者を出しています。

 同期入校者には四名の朝鮮出身者が含まれています。 その中のおひとりに崔貞根少佐がおられます。 崔貞根少佐(日本名 高山昇)は日本陸軍士官学校、航空士官学校と進み、卒業後、飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属、フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華しました。二階級特進にて少佐 崔貞根少佐は陸軍士官学校在校中に、同期生のひとりに、 「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」  と、その心情を吐露したといいます。(同期生追悼録「礎」より)

 同期の齋藤五郎氏は陸士の同期会で、李亨根氏にただしたところ、 「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」  と答えたそうです。

 

 金錫源将軍

  明治四十二年、大韓帝国武官学校生徒として日本に留学。陸軍幼年学校に編入、陸軍士官学校(二十七期)卒業。

 創始改名せずに、日本陸軍大佐まで栄進。支那事変において大隊長(陸軍少佐)として山西省で、連隊の右翼を担当し全滅覚悟の激戦を指揮し白兵戦で支那軍を殲滅せしめました。  この勇戦に対して金鵄勲章の功三級を授与されました。

 戦後は朝鮮に帰国し、韓国軍創設時に乞われて第一師団長に就任。親日狩りが横行し、准将にての就任。ときの李承晩大統領に対しても面前で直言してやまないために、予備役に廻されました。 予備役になった時に、北朝鮮の侵攻を予知して「目標三十八度線」を唱えて、大田で青年有志を集めて義勇軍を組織。 昭和二十五年六月二十五日北朝鮮軍の侵略により、首都ソウルを守る第一師団長として再び現役復帰させられる。その時の参謀長は元日本陸軍少尉(後の駐日大使)崔慶禄大佐です。

 勇将金錫源准将の元には元日本兵である韓国人が我先に全国から集結しました。そして、米軍軍事顧問団の制止も聞かず、日本刀を振りかざし最前線で陣頭指揮を取り続けたそうですが、一九五〇年八月十七日に、この時には第三師団の指揮を取っていた金将軍もついに浦項よりの撤退の事態に追い込まれました。

 米軍の艦砲射撃による援護の中、将兵が用意された四隻のLSTに乗り込んで次々と脱出していくが、一隻のLSTだけが離岸しようとしない。 最後の一兵を収容するまで動こうとしない金将軍の乗船を待っていたのです。 無事撤収を終え、その最後のLSTに乗り込んだ金将軍を驚かせたであろうのは、アメリカ海軍のLSTの乗組員は、かっての戦友である旧日本帝国海軍将兵であったことでしょう。朝鮮戦争に参戦したのは、掃海艇だけではなかったのです。

 金錫源将軍は上陸を前にこれまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を副官の南少尉に手渡したそうです。

(「最後の日本刀」『丸』五九六号潮書房)  

 同じく、親日派辞典に掲載されている金錫源将軍の三人の息子のなかのご長男である金泳秀日本陸軍大尉(陸士五七期)は、昭和二十年フィリピン戦線で壮烈な戦死を遂げて靖國神社に祀られている。

  昭和五十五年に旧日本陸軍将校の会である偕行社の総会に招かれた時に、金将軍は 「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」  と挨拶されたそうです。(古野直也氏の証言)

 予備役に編入した後は、かねてから教育に携わる事を希望していた事から、城南高等学校の理事長を務め、国会議員も一期(第五代)務めたが、城南高等学校の敷地内にある金の銅像を撤去しようとする活動が起こり、二〇〇三年に撤去された。

   以上引用、参考 「親日アジア街道を行く」井上和彦著

 扶桑社 「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助編著 明成社  

 そして、朴正熙。

 

 南朝鮮で英雄として讃えられているのは山賊とテロリストと戦時売春婦だけですが、南朝鮮の人々は売国奴とののしるこの多くの勇敢な軍人がいなくても現在の南朝鮮があったと思っているのでしょうか。今の南朝鮮の繁栄は多くの先人の流した血の上にあるはずです。 突然できたものではありません。テロリストを偉人として讃える前にすることはあるはずです。

 大阪よりHさん来店。

 Sさん三名様で来店。

 二名様来店。

 二名様来店

 ドンチャン。

 営業終了後、はしご酒。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


9月1日月曜日雨○

  左巻きのマスゴミが絶対に報道しない事。

 在日米海兵隊ホームページより

以下引用

オスプレイは島民の命のつなぐ救世主

小笠原村議会議員 一木重夫

(平成26年8月20日)

〜息子が急患搬送〜

2013年7月、6才の息子が全身の急性リンパ節炎の急病に倒れ、自衛隊で1000km離れた内地の病院に急患搬送されました。日没近くだったため救難飛行艇(US-2)は父島の海上に着陸できず、息子は父島から南に270km離れた硫黄島まで救難ヘリ(UH-60J)で運ばれ、硫黄島から北に1200kmの本土まで救難飛行艇で運ばれました。急患搬送に要した時間は約11時間。私はその時間、不安な気持ちで胸が切り裂かれる思いでした。

〜小笠原の急患搬送の現状〜

飛行場のない有人島(父島と母島)と内地を結ぶのは、1週間に1便、片道25時間半かかる定期船だけです。そのため、命に関わる急病患者が発生した場合、自衛隊機で内地まで運んでもらいます。急患搬送は年間に30-40件ほど発生し、搬送時間は平均で約10時間です。急患搬送の途中、間に合わずに亡くなる島民もいます。急患搬送の時間を少しでも短くしたいのは、島民の切なる願いです。

〜オスプレイは急患搬送に最適〜

「オスプレイは急患搬送に最適じゃないのか?」 以前から一部の島民の間で議論がありました。オスプレイはヘリコプターの代替機です。救難ヘリをオスプレイに代替すれば、急患搬送は大きく時間短縮できます。救難ヘリでは1000kmの海上飛行はできませんが、オスプレイならば可能です。また、救難飛行艇は夜間に離着陸できませんが、オスプレイならば可能です。オスプレイは飛行場のない離島にとって、島民の命をつなぐ救世主となります。しかし、オスプレイの安全性に関する一部マスコミの誤った偏向報道によって、国民全体にオスプレイの安全性に関して間違った認識が広がっていました。そのため、オスプレイの有用性を公言するのはとても困難な状況でした。

〜普天間基地でオスプレイを視察〜

そのよう状況の中、私の息子が急患搬送で運ばれました。私は急患搬送を体験した当事者として、「救える命を救いたい。患者と家族の不安を少しでも和らげたい。」との想いを強く持つようになり、困難な状況下でどんな批判を浴びようと、急患搬送の時間短縮に最善の努力をする覚悟を決めました。そこで、小笠原諸島の歴史研究者でもある米海兵隊のエルドリッヂ政務外交部次長に相談し、2013年12月、鯰江議員と共に普天間基地でオスプレイを視察しました。普天間基地のフェンスクリーンにも参加して、普天間基地周辺住民の皆様の生の声を聞くと共に、私達の活動を励まして頂きました。私達はオスプレイの安全性と有用性を自分達の目で確かめ、励ましの言葉を頂き、困難な状況下に立ち向かう自信を深めました。

〜全国初・オスプレイ賛同決議が可決〜

普天間基地の視察後、オスプレイの安全性と有用性を正しく認識し、防衛省に急患搬送と災害時支援でオスプレイを運用してもらいたいという小笠原島民の意志を「形」にするため、私と鯰江議員は小笠原村議会の意志表示となる決議を目指しました。ブログやフェイスブック、島民との直接対話を通じて、オスプレイの正しい情報を島民に普及啓発し、急患搬送の関係者にも説明をしました。2014年3月、地方議会で全国初となるオスプレイ賛同の決議は可決されました。

〜防衛大臣、小笠原の急患搬送でオスプレイ活用の意向〜

5月、村議全員が小野寺防衛大臣に決議文を手渡し、同時に小笠原諸島でオスプレイのテストフライトを要請しました。すると防衛大臣は7月、米海兵隊の多大な支援の中、在沖縄米軍司令官のウィスラー中将と共に、オスプレイで父島を訪問してくれました。大臣が搭乗したオスプレイのテストフライトは、オスプレイに関する間違った認識を大きく払拭したと思います。小笠原村長はテストフライトを視察後、「百聞は一見にしかず。飛行場もない地域では大変有効だ。」と歓迎しました。さらに、防衛大臣はオスプレイを自衛隊に導入した場合、小笠原諸島の急患搬送に活用する意向を示してくれました。

〜米海兵隊とフェンスクリーンメンバーに感謝〜

私の息子は急患搬送後、幸いにも速やかに治療を受けて元気になりました。息子の急患搬送を契機として活動をはじめた遠い島の切なる願いに、一国の大臣が実現に向けて具体的なビジョンを示してくれたのは、最初に米海兵隊とフェンスクリーンのメンバーが、私達島民の命を救う切なる願いに真剣に耳を傾け頂き、有益なアドバイスと励ましをして頂いたおかげです。この紙面をお借りしまして、お礼を申し上げ、心より感謝致します。>

引用終わり

http://www.kanji.okinawa.usmc.mil/News/140820-osprey.htm

 店に行く時に地蔵通り商店街に凄い行列。

 「東日本大震災復興協力プレミアムお買物券」とかいうのを発売していたようです。

>1セット 1万1,000円分(500円券22枚つづり) を1万円で販売(1人5セットまで)

http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_keizai_jigyoannai_syoutengai_okaimonoken.html

 店に寄り資源ゴミを出してからカミさんと合流し、飯。

 私は飲まず。

 サルでもエビでもない。



 

 


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