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杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<酒たまねぎや 飲んべえ日記 平成26年10月分

 

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


Facebook(木下隆義)、Twitter(@saketamanegiya)を始めました。でも、いまいち使い方がよくわかりませんのでちびちびやって行きます。よろしければ、友人リクエストをお願いいたします。

Mixiでの当店のコミュニティは「神楽坂のお洒落でない一杯飲み屋」

管理人はめぐろのしみずさんです。

Mixiでの私自身のハンドルネームは一合です。

一合とっくりのつもりですが、酒はそれでは終わりませんのでいろいろと問題が・・・・・最近は時事的な事は書き易いので、ついついMixiの日記の方に書いております。よろしければ、ご覧下さい。もっと、よろしければ、当店のコミュニテイに参加してください。もっと、もっと、よろしければ、マイミクに。


反日民主党政権がやってきたこと

10月31日金曜日晴れ△

 私の部屋にはテレビがないので、最近の芸能人などまったく知りませんが、ローラとかいう芸人のクソ親父が逮捕されたというニュースが少し前にネットでありました。

以下引用

 <父再び逮捕「警察を怒らせたOKポーズ」「娘はまたテレビNG」

 バングラデシュでデング熱の診療を受けたと偽り、海外療養費をだまし取ったとして、詐欺の疑いでタレントのローラ(24)の父親でバングラデシュ国籍の職業不詳ジュリップ・エイエスエイ・アル容疑者(54)が23日、警視庁組織犯罪対策1課に逮捕された。今年7月の逮捕(処分保留で釈放)と同じ海外療養費をめぐる逮捕となった裏には、同容疑者にナメられた日本の警察のメンツをかけた執念があった。一方、娘ローラは再び“テレビNGタレント”になってしまった。  逮捕容疑は2007年、バングラデシュでデング熱にかかり、病院で約1か月診療を受けたとする虚偽の申請書を、当時住んでいた東京都多摩市に提出し、海外療養費約98万円を同市からだまし取った疑い。  組対1課によると、ジュリップ容疑者は「入院したのは間違いない」と容疑を否認している。一方、バングラデシュ警察は、警視庁の照会に「病院には来ていない」と回答。申請書の医師のサインやゴム印は偽造されたものだったという。同様の手法で、07年に民間保険会社2社から計約54万円、12年に別の1社から約49万円の保険金を詐取した疑いがあるとみられている。  ジュリップ容疑者は7月に同様の海外療養費を区からだまし取ったとされる詐欺容疑で逮捕されたが、東京地検が8月「現時点では起訴するに足る証拠がない」として処分保留で釈放していた。

略)>

引用終わり

 これは、あの反日民主党政権において外国人に対しても、子ども手当が垂れ流されて不正受給の温床になっていましたが、同様に、当時の厚生労働大臣・売国奴の小宮山洋子が議会の決議を経ずに、省令改正という形で外国人がたった三ヶ月の滞在でも国民健康保険に加入できるようにしたためです。

 そして、同時に売国奴朝鮮民主党政府は再入国の手続きをしていれば、外国人に国民健康保険などの福祉サービスを五年間出しっぱなしにしました。

 これにより、ほとんどの外国人が簡単に取れる三ヶ月のビザにより国民健康保険に加入したのち、本国に帰っても、五年間もの間、国民健康保険から外国人が本国で受けた医療行為も日本人の国民健康保険から払う事が出来る。

 その他に、子どもがいれば児童手当を、シングルマザーであれば児童扶養手当も出し続けることになっている。

 

 民主党とは、支那朝鮮のために我が国をいかに壊すかという事を目的とした政党です。

 

 それは、民主党政権時代この小宮山だけではなく、誰が政府の要職に就いていたかを見れば明かです。

 彼氏が朝鮮人ともいわれ、我が国国旗にバッテンをした前で、朝鮮人戦時売春婦と一緒に拳を振り上げた岡崎トミ子が国家公安委員長。

 火炎瓶投げの名手と噂され、公安が最重要監視対象としていたといわれている千葉景子が法務大臣。

 ご先祖様のことが出てこなくて、本人の名前をコロコロと変えて、ついに山岡荘八の息子を名乗る 山岡賢次 も国家公安委員長。

 大臣在任中に銀座の朝鮮人女と入籍した中井洽も国家公安委員長。

 カクマルと繋がりのある枝野幸男

その他、

鳩山由紀夫仙谷由人江田五月 、松岡徹 、菅直人

片山善博 原口一博 北沢俊美 福山哲郎 前原誠司

辻元清美 福島瑞穂 

 

 民主党政権でまともなやつを探す方が難しい。

 あほらし

 Tさんポルトガルのワイン関係者の方と三名様で来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 Mさん来店。

 青森よりKさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

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10月30日木曜日晴れ

 南朝鮮では今日が「マッコリの日」とやらで、マッコリ・ヌーボーとやらが、発売されたそうです。

以下引用

<2014/10/30 19:00

【ソウル聯合ニュース】韓国の濁り酒・マッコリを広報するために制定された「マッコリの日」の30日、韓国と中国、日本で新米マッコリ(マッコリ・ヌーボー)が同時に発売された。

 韓国政府と酒造業界はフランス産ワインの新酒「ボジョレ・ヌーボー」の解禁(11月の第3木曜日)にちなんで2011年から米の収穫や精米、醸造期間などを踏まえ10月の最後の木曜日を「マッコリの日」に指定し、新米マッコリを発売している。

 韓国農林畜産食品部は同日、ソウル市中心部の仁寺洞で、全国8道の酒蔵で造られた新米マッコリの試飲などを楽しめる「2014年マッコリ祭り」を開いた。

 祭りの開幕式場では、中国・上海と日本・東京、ソウル・江南でそれぞれ開かれる「マッコリの日」の行事現場をつなげて参加者同士による乾杯もした。外国人向けのマッコリ講義や外国人が造ったマッコリの品評会、試飲行事も行われた。

 同部の関係者は「祭りを通じてマッコリブームが広がることを期待する」とした上で「国内消費だけでなく、海外輸出も拡大するようマッコリの輸出マーケットを中国や東南アジアなどに多様化する計画」と話した。>

引用終わり。

 

ところが、最大の輸出先である我が国での需要が落ち込み、平成二十三年の三万八六五九トン(4841四八四一万九千ドル)二十四年二万五七四一トン(三一九九万ドル)二十五年一万三一〇九トン(一三六二万五千ドル)と見事に三分の一以下。

 まあ、当然の結果だと思います。

 でも、マッコリには米を使ったもの以外にも、小麦、サツマイモ、トウモロコシなどを主原料としたマッコリもあるのに、米だけのマッコリのヌーボーなんですね。

 あと、熟成に向かないだけでなく、ほとんどのマッコリが朝鮮産の米を使わずに米国産、支那産の米を使って製造しているらしい現状で、マッコリヌーボーとやらの意味はあるのであろうか。

 あほらし。

 相ちゃん五名様で来店。

 Sさん来店。

 一名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

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崔貞根中尉(日本名 高山昇)についての追記2 

10月29日水曜日晴れ△

 崔貞根中尉(日本名 高山昇)についての追記第二弾です。

 日本帝国陸軍軍人高山昇中尉の婚約者について書かれた文を私が最初に見たのは※淵弘(ぺ ヨンホン)氏の著書「朝鮮人特攻隊」(新潮社 平成十九年刊)でした。(※=私のパソコンでは表示できず。)

 以下引用

 <高山中尉の婚約者

 航空士官の卒業生は、各地にある飛行学校で実用機の操縦訓練を受けた後に、実戦部隊に配属される。戦闘機は明野、軽爆撃機は鉾田、重爆撃機は浜松、通信は水戸の飛行学校に分かれる。高山中尉は鉾田飛行学校付属の福島県原町飛行場で、固定脚と複座席が特徴の軽爆撃機、九九襲撃機の操縦を習った。

 原町飛行場で訓練を受けた航空士官の戦没者を追悼する「原町戦没 航空兵の記録」という追悼録を、上野氏が所蔵していた。高山中尉の記事をめくると、思いがけない文章が飛び込んで来た。

(木下注 上野氏=上野辰熊氏 支那において小片飛行兵学校第十五期に志願。卒業後は飛行第六十六戦隊にパイロットとして配属。)

 私の生涯忘れることのできないお方その方は崔 貞根(高山昇中尉 戦死されて少佐)

 私が十八歳になったら結婚しようと約束された人でした。

 昭和二十年四月二日、沖縄の空に二十四歳の若い命を散らされてしまいました。

 

 

 文章を書いた梅沢 ひでという女性は女子挺身隊員として勤務していたときに高山中尉と知り合い、慌しく婚約した。二人の付き合いは四ヶ月足らずしかなかったが、彼女は〇五年に天寿を全うするまで、生涯にわたり高山中尉を慕い続けたという。

 

 上野氏の証言通り、六十六戦隊はフィリピンのレイテ島で壊滅的な打撃を受けた後、千葉県の下志津で、沖縄戦に向けて部隊再編の準備をしていた。二人はそのとき出会い、叶う事のない結婚の約束をした事になる。

 

 梅沢ひでさんの妹で、千葉市に住む高橋せつ子さんに連絡がとれ、二人の婚約に至る経過を尋ねる事が出来た。

 「背が高くて男らしく、とても明るい方で、父と愉快にお酒を酌み交わしていたのを今でもはっきり覚えています。朝鮮出身の軍人さんであることは家族も知っていましたが、父はそんなことを気にもとめず母も御馳走を用意して大事にもてなしていました。だから高山さんも心を開いて私たち家族とお付き合いしてくれたのだと思います。

 六月一日になって、同じ部隊の田辺中尉という方から、戦死を知らせる手紙を頂いたのです。もしもの事があれば、姉の家族に知らせるように頼まれていたとのことでした。戦死の情況は軍の秘密でしたから、どこでどうやって亡くなったのかは分りませんでしたが、姉はその場で泣き崩れてしまい、本当に可哀想でした。父は戦死した高山さんのことを話すときは、必ず高山中尉殿と呼ぶようにと私たち姉妹に言い聞かせたものです」

 

 梅沢ひでさんは、高山中尉が教官となって部下の訓練をしていた、銚子の飛行場を訪ねたこともあった。そこで艦船めがけて急降下の訓練をしていたので、戦死の通知を受けた家族は、高山中尉が特攻で死んだのではないかと思うようになった。戦後になり、高橋せつ子さんは鹿児島県の知覧にある特攻平和会館を訪ねた。そこで目にしたのは高山昇中尉の名前だった。

 〇五年夏に末期癌で入院した梅沢ひでさんは、病室で目が覚めると高山中尉の話をしていたという。医師に「もうすぐですよ」と告げられた高山せつ子さんは、姉の顔を撫でながら、「もういいから高山中尉殿の所に行きなさい」と言ってあげた。梅沢ひでさんは同年十二月に息をひきとり、遺骨は彼女の遺言通り、高山中尉が戦死した四月に、沖縄の海に散骨された。戦争で引き離された二人の絆が、六十年の歳月を経てようやく結ばれた。

 フィリピンで五人、沖縄で十二人、B二九に突っ込んだ河田少尉を含めれば、十八人いた朝鮮出身の特攻隊員たち。彼らをめぐる話を取材して聞いたなかで、高山中尉と梅沢ひでさんの婚約ほど悲しい逸話はない。>

「朝鮮人特攻隊」 ※淵弘(ぺ ヨンホン)新潮社 平成十九年刊

p一四六〜一五一

(※=私のパソコンでは表示できず。)

 カミさんの朝ビール。

 

 Sさん来店。

 早期退職制度を利用し、退職されるそう。

 Sさん来店。

 Hさん来店。

 二名様来店。

 Oさん二名様来店。

 

 カミさんは、一人でワインを飲みに行き、我が国滞在二十年とかいう嫌な毛唐と会って、言葉の事とかうちの店の店名とかについていろいろと嫌みをいわれたらしく落ち込んでいた。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

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10月28日火曜日晴れ△

酒たまねぎや飲んべえの会 磯自慢 愛山の十年の垂直

 

日時 平成26年12月7日 日曜日 

午後4時より午後7時まで(ぐらい??)

会費25,000円

定員12名様

 

 出品予定酒 

NO.1  磯自慢 純米大吟醸古酒 中汲み35% アダージョ 平成26年

 

NO.2  磯自慢 純米大吟醸 中汲み35% 平成26年(25BY)

NO.3  磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (25BY)

NO.4  磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (24BY)

NO.5  磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (23BY)

NO.6  磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (22BY)

NO.7  磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (21BY)

NO.8  磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (20BY)

NO.9  磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (19BY)

NO.10   磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (18BY)

NO.11   磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (17BY) 

NO.12   磯自慢 純米大吟醸 愛山40%  (16BY)

 

NO.13  磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 古家 (25BY)

NO.14  磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 常田 (25BY)

NO.15  磯自慢 純米大吟醸 山田錦40% 西戸 (255Y) 

 

NO.16   磯自慢 大吟醸 愛山50% グラッパボトル (25BY)

NO.17   磯自慢 大吟醸   山田錦45%           (25BY)

NO.18   磯自慢 純米吟醸 多田信男 山田錦50%    (25BY)

 

 今回も、磯自慢の蔵元である寺岡社長、その秘書?として醴泉の蔵元である山田社長にご出席いただける予定です。

 パソコンの調子が悪いので、へべれけさん、ぐでんぐでんさんにお願いして、ついでにホームページについてもいろいろと相談にのっていただく。

 ぎりぎりブラザーズ来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 さっさと帰る。

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10月27日月曜日晴れ×

 

 うちのカミさんは一応、支那語、台湾語と本人はボロボロだと言ってますが、外交官養成のための外交学科だったので、英語。でっ、我が国に来てから日本語を本腰を入れて勉強し始めました。

(最近、日本語検定1級を受かりました)

 そして、最近フランス語の勉強を始めました。

 でっ、今朝の会話。

 「シャンパン開けよう」

 えっ?

 「フランス語の勉強はテキストを読みながらシャンパンを飲む『必要がある』んだ」

 えっ!

 「だから、フランス語を勉強するにはシャンパンを飲む必要があるんだ。早く開けろ」

 えっ?? 朝っぱらからシャンパン1本飲むんでっか?

 「ゆっくり飲むから大丈夫」

 えっ??????????????

 昨晩飲み足らなかっただけだろうに・・・・

 シャンパングラスなんてもん部屋にはないので、 ビールグラスでカミさんは朝ビールならぬ朝シャンパンをやっております。 フランス語の勉強の為にはテキストの横にシャンパンが必要なんだそうです。

  じゃあ、ドイツ語はビールか。 ロシア語はウオッカ飲みながらか。

 私は飲まずに店の片付け。

 ケッ!!!!!!!!!

 古本屋さんに寄った後は、維新政党・新風の街宣に応援させていただくために新橋に向かう。

 かなりの方が聞き入っていましたが、相変わらず、気違いどもがアホな妨害行為をやっていました。

 グルグル車に乗ってワケのわからない事を叫ぶだけ。

 

 今日、街宣にて訴えていたのは

在日韓国人は他の外国人と同等に扱おう!(逆差別の廃止)

 年間20万人の中絶を禁止すれば移民など全く不要だ!>

 これらのどこが「差別」なんだ?

 気違いどもの本心は「朝鮮人に文句を言うな。事実を言うな」だけなのだろう。

 アホかと

 Aさんとカミさんと神楽坂「加賀屋」さんでドンチャン。

 もう一件ハシゴしてから帰宅。

 サルでもエビでもない。

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10月26日日曜日晴れ○

 「台湾チャンネル第50回」によると、

http://youtu.be/85x3_uktVEc

 台湾で見つかった「台湾よ、永に幸なれ」(台灣?,要永遠幸福)と刻まれた石碑が、

http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/810117

 心ないものにセメントで塗りつぶされたそうです。

http://www.youtube.com/watch?v=1mp5JpBh8PQ

 醜いものです。

 カミさんは合気道の稽古に出かけた後、映画。ビール。

 私は店の後片付け。

 私は酒は飲まず。

 さっさと帰る。

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成り済まし追記

10月25日土曜日晴れ△

 先日、十月十四日の日記に書いた徐鐘権という朝鮮人が朝鮮人という事を完全に隠して、日本人に成り済ましたという事についての追記です。

 第三十二振武隊隊員について手元にある「写真集特別攻撃隊」(国書刊行会 昭和五十五年刊)の巻末に掲載されていた陸海軍特攻隊戦没者名簿よりの記述です。

 第三十二振武隊は三月二十七日、四月三日の二日出撃しています。

 その第三十二振武隊には同じ朝鮮人の結城尚弼(金尚弼)大尉もおられました。

 第三十二振武隊

 九九式襲撃機

 日時昭和二十年三月二十七日出撃 慶良間北東 九名

 広守達郎中尉(陸士五十六期)

 清宗孝己少尉(特別操縦見習士官一期)

 小林一満少尉(陸軍特別幹部候補生)

 今西修 軍曹(陸軍予下士官学校)

 今野勝郎軍曹(陸軍予下士官学校)

 島田貫三軍曹(陸軍予下士官学校)

 出戸栄吉軍曹(陸軍予下士官学校)

 伊福孝 軍曹(陸軍少年飛行兵十五期)

 大平定雄伍長(陸軍予下士官学校)

 

 四月三日出撃 沖縄西方洋上 六名

 小林勇少尉(陸軍特別幹部候補生)

 結城尚弼(金尚弼)少尉(特別操縦見習士官一期)

 時枝宏軍曹(陸軍予下士官学校)

 古屋五朗伍長(陸軍少年飛行兵十四期)

 佐藤正伍長 (陸軍少年飛行兵十五期)

 佐藤英実伍長(陸軍少年飛行兵十五期)

 

 泉下で同じ朝鮮人のこの振る舞いを結城尚弼(金尚弼)大尉はどう思っているであろう。

 二名様来店。

 二名様来店。

 一名様来店。

 Yさん来店。

 二名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

保坂正康ダイセンセイ

10月24日金曜日晴れ△

 あの保阪正康ダイセンセイは「特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点」だそうです。

 以下引用

<特攻70年:「特攻は日本の恥部、美化は怖い」 保阪正康さんインタビュー

2014年10月24日毎日新聞

特攻とは何か。特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点というノンフィクション作家、保阪正康さん(74)に聞いた。

【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

       ◇        ◇

 ある元海軍参謀にインタビューをした際、戦時中の個人日誌を読ませてもらったことがあります。 特攻隊についての記述があり、「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」と記してありました。 部外秘の文字も押されて。この元参謀によると、特攻機は離陸した後はずっと、無線機のスイッチをオンにしているそうなんですよ。だから、基地では特攻隊員の“最後の叫び”を聴くことができた。

「お母さーん」とか、女性の名前もあったそうです。「大日本帝国万歳」というのはほとんどなかった。ところが、そうした通信記録は残っていない。故意に燃やしてしまったに違いありません。“軍神”が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。

 高校時代に「きけわだつみのこえ」を読みました。それが特攻隊について、考えるようになった契機です。その後、生き残りの隊員や遺族らに取材を重ねてきました。学徒出陣した上原良司氏(陸軍大尉。 1945年5月、沖縄で戦死)の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していました。彼らは「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と言い合っていたそうです。取材後の彼女の何気ない言葉は重く、響いています。「指揮官たちは『後に続く』と言いながら、誰も飛び立たなかったそうです。その言葉を信じた兄たちが事実が分かったら、どんな気持ちになるでしょう」

 高級参謀をはじめ、日本の職業軍人とは何者だったのでしょうか。英国は階級社会ですが、国を守るという点では王族・貴族もありません。戦争で死ぬということについて、平等性がある。戦争に貴賤(きせん)なしです。日本でも高松宮さまなどは前線勤務を希望していたようです。

ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。

彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです。

 兵士への危険負担を限りなく、低くすることが本来の指揮官の役割です。国民的バックグラウンドの下で、西洋の民主主義国家にはそれがあった。彼我の戦力を客観的に分析する。物量主義も、兵士を死なせないためにあるんです。日本にあったのは生煮えの軍事学です。仏独に学んだ上っ面だけの西洋軍事学に“日本精神”である武士道を乗っけた。「武士道と云(い)ふは死ぬこととみつけたり」(「葉隠」)の文言だけを取り出し、都合良く利用した。

 特攻は日本の恥部です。命を慈しむ日本の文化や伝統に反することです。

命中率99%であったとしても、だめなんです。志願を建前としていましたが、実際には強制でした。本人が望んでいない死を要求し、死なせる。こんなものは軍事ではない。国家のため、大義のためという、自己陶酔でしかない。戦争とは人の生死をやり取りする闘争です。ロマンなどないんです。特攻は米軍に畏怖(いふ)心を与え、日本本土上陸をためらわせた−−との説がありますが、とんでもない。

米軍は暗号名「コロネット」「オリンピック」などの上陸作戦を着々と準備していました。

一方の日本軍は「義勇兵役法」で国民の根こそぎ動員を決め、1億総特攻に駆り出そうとしていた。国民一人一人が特攻要員だったんです。

 「特攻隊員は我々である」との視点が必要です。あの時代に生きていれば、あの時代が繰り返されれば、自分も特攻隊員になるかもしれない。特攻を考える時、必要なのは同情ではなく、連帯感です。隊員の苦衷、苦悶(くもん)が分かれば、美化することなどできないはずです。「特攻で死んだ人に失礼ではないか」「彼らのおかげで今の日本がある」などと言ってくる人がいます。 どうして、そんな軽々なことを言えるのか。特攻を命じた指揮官たちと変わりませんよ。

http://mainichi.jp/feature/news/20141024mog00m040003000c.html

引用終わり

 そりゃ、言論の自由だから、何を言ってもいいだろう。

 ただ、特攻機は出撃した後、目的地に着くまで発信はしないと書いてあったものもあるし、当時の無線機が本当にそれだけの「声」を基地まで届けられたのだろうか。

 三式空一号無線電話機では電信、電話とも使えたが、対地通信距離一八五kmらしいし、当然、電信の方が安定しているし遠くまで届くために電信を使っていたのではと思うが、どうなのでしょう。でも、残っては無いが燃やしてしまったに違いないって、まるで朝鮮人なみの結論の出し方はいかがなものか。

 あと、

 <ある陸軍大学校出身の元参謀には「息子を入学させるなら、陸大だよ」と言われました。

彼の同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。>

  「一高、三高、海兵、陸士」と並び称された当時の最難関のひとつである陸軍士官学校卒業生で、ましてや、五十人程度しか入学出来ない陸軍大って息子をそんなに簡単に入学させるつもりで入れるとこなんですか。

 それと、陸軍大学において、五十名程度の期というと

 四十期  四十七名中五名戦死(他自決一名 病死一名)

 四十一期 四十九名中七名戦死(うち戦病死一名、他法務死一名、病死一名)

 四十二期 五十一名中一三名戦死(うち戦病死一名、他法務死一名、病死三名)

 四十三期 五十一名中八名戦死(うち戦病死一名、他病死四名)

 四十四期 四十九名中五名戦死(うち戦病死一名、他殉職一名、病死一名)

 四十五期 四十九名中一六名戦死(うち戦病死二名、他病死一名)

 四十六期 五十一名中六名戦死(うち戦病死一名、他殉職一名、病死一名)

 四十七期 四十五名中 七名戦死(うち戦病死一名、他病死一名)

 四十八期 三十九名中 八名戦死(うち戦病死一名、他病死二名)

 四十九期 四十一名中 五名戦死(うち戦病死二名)

 五十期  四十一名中 二名戦死

 五十一期 五十一名中七名戦死(うち戦病死一含む)

 五十二期 五十二名中二名戦死(他一名病死)

 五十三期 四十九名中五名戦死(他暗殺一名、自決三名)

 四名の戦死者は戦病死を含まないとすると、四十四期 四十九名中五名戦死(うち戦病死一名)となるが、どうなんですかね?

 

 この「特攻隊員たちの遺書が自身の執筆活動の原点」という保坂氏は当然、特攻隊について詳しいはずなのに、結婚間もない妻を愛機に乗せてソ連の戦車部隊に特攻した谷藤徹夫少尉については何もご存じなかったようで、「妻と飛んだ特攻兵」(豊田正義著 角川書店 平成二十五年刊)の帯に下記のような推薦文を寄せています。

<こんな史実があったのか。これは「歴史」から甦った特攻隊だ。

 十一人の特攻隊員はなぜ配線から四日後に、ソ連軍への体当たり攻撃を考えたのか。妻を乗せて散華した隊員の心情に衝撃を受ける>

でっ、

<保坂正康氏も佐藤優氏も驚嘆>

 谷藤徹夫少尉については、同じ歴史家の秦郁彦氏などは約二十年も前の著書「八月十五日の空: 日本空軍の最後」に昭和四十二年に田谷山観音寺の「特攻観音」と同じ境内に建てられた神州不滅特別攻撃隊之碑の事を含め詳しく書かれている。

 それなのに、特攻に詳しいはずの保坂正康氏が谷藤少尉の事を知らなかった。特攻観音も行った事がないのであろうか。

 流石は殉死された黒木博司少佐、樋口孝少佐のお二人が十二時間生存していたことからわかる様に、十時間以上活動出来る酸素が艇内にあるという回天の構造も知らないくせに赤い渡辺恒雄とともに下記のような事をホザイタだけのことはあります。

<渡辺

 日本軍の残虐性を象徴的に示しているのは、特攻だと思います。みんな志願して特攻にのぞんだと言われていますが、上官に命令されたんですよ。上官は天皇の命令であり、志願しないとぶん殴られるから出撃する。だけど怖くて途中で帰ってきちゃう人もいた。三度帰ってきて、ひどい目にあったという特攻兵だっているんです。人間魚雷・回天にいたっては出撃すると外には出られませんでしたからね。

保坂

 回天という特攻兵器は、見ただけで涙がでますよね。本当にひどい。この特攻兵器の搭乗員として訓練中に亡くなった学徒兵(東大生)は、機器が故障し、海中で一時間程閉じ込められたままで亡くなっています。私は、この学徒兵がその間何を考えていたかと考えるのですが、自らの生まれた時代の残酷さに強い怒りを持ったと思うのです。

渡辺

 ねえ、あんな残酷なことを二十世紀に、天皇の名においてやったんですから、こういうことをはっきりさせなきゃいかんですよ。>

「論座」平成十八年十一月号 私は「靖国問題Q&A」(内田雅敏 スペース伽耶 平成二十年刊)より引用P二十四〜二十五

 大した歴史家もいたもんだ。

 あほらし

 金曜日だというのにヒマ。

 Tさん来店。

 のみ。

 流石は給料日。

 随分前も二十五日の金曜日でお二人つうこともありましたし。

 でっ、Tさんを交えてカミさんと三人で早い時間からドンチャン。

 一応カミさん共々記憶あり。

 サルよりマシ。


 

いつかわかってくれると「思いたい」日本人

10月23日木曜日晴れ△

 日本人は「いつかわかってくれる」「沈黙は金」などと言いながら、波風を立てるような事を避けて来た。

 日本人同士だとそれで良かったのだろう。

 しかし、相手が外国人だと話が違う。

 それは、今の朝鮮人、支那人どものやっている事を見てもわかる。

 支那人、朝鮮人どもは「嘘も百回言えば本当になる」と世界中に嘘を広めている。

 支那人の「南京大虐殺」「万人抗」などすべて嘘である。

 朝鮮人どものいう「強制連行によって日本に連れてこられた」「強制連行され慰安婦にされた」「名前を奪われた」「資源を奪われた」「言葉を奪われた」「文化を奪われた」も同様に嘘であるが声高々にその嘘を本当のことのようにほざく。

 それに対して、我が国は何も対処してこなかったから、支那人、朝鮮人の嘘が世界中に広まっている。

 日本人のこの気質をイギリスに移住した渡辺幸一氏は著書「イエロー」に屈辱された特攻隊と題して下記のように書いている。

<内向きであるために、肝心な時に、声をあげない日本人と日本のマスコミを、イギリスにいて痛感したことがある。その経過を詳しく書いておきたい。

 九八年十一月十日付けの、経済専門新聞「フィナンシャルタイムズ」を見て、私はあっと驚きの声をあげた。一面右下の二色刷り広告に、日本の「神風特攻隊」の写真が載っている。広告主は、イギリスの投資顧問会社P社である。それにしても、なぜ、特攻隊の写真が大きく出ているのか。十数行の宣伝コピーを読んでみて、初めてその理由が分った。

「あなたが短命で急降下の人生よりも、長期間のバラ色の人生を望むなら、あなたはどこへ行くべきか知っている」

 直訳すればこのような意味になる。最後の「どこに行くべきか知っている」は「どうぞ当社においで下さい」の意味だが、問題はその前の部分である。「短命で急降下の人生」は、英語で「short-lived nosedive」と表現されている。文字通りに訳せば、「短命で鼻から突っ込むような急降下」であり、これを強調するために「神風特攻隊」の写真を載せたのだ。英語の「nosedive」には「急降下」の意味があり、英和辞典にも載っている。

 写真には、旭日旗の鉢巻きの上に飛行帽をかぶった、日本人の兵士が写っている。左腕には日の丸の腕章を巻いている。写真は全体にセピア色を帯びていて、縁におれ目がついている。一見古いもののように見えるが、私は一目で偽物と分った。

 まず、体に着けている装備がちぐはぐで本物の飛行兵らしくない。また、左腕の日の丸の旗に小さく「英航」の漢字が見える。いろいろ考えたがこれは「英国航空」の略名のではないのか。

 一体なんのつもりでこのような漢字を使ったのだろうか。まだあった。右腕にも腕章が巻かれており、そこにも漢字が見える。ひと文字は「靴」、もうひと文字は判読出来ない。しかし、特攻隊が「靴」の文字を書いた腕章を巻くわけが無い。決定的なのは、写っている兵士の顔である。確かに日本人の若者であるが、これは間違いなく現代の若者の、締まりのない顔である。特攻隊の、あの真摯でりりしい表情ではない。

 私は写真もさることながら、「short-lived nosedive」つまり「短命で急降下の人生」の表現を際立たせるために、特攻隊をこのように揶揄することは、外国人といえども許されないと思った。戦争当時は敵味方であっても、国家の事情で若くして死んでいかねばならなかった人たちには、それなりの同情と哀悼の念を持つべきであろう。彼らを揶揄するような形で企業広告に利用することは、厳に自重すべきではないだろうか。ここに、イギリス人の日本を蔑視する態度が、はっきりと表れている。そして、彼らの意識に、第二次大戦の記憶が影を落としている事が分る。

 憤りを感じた私は、この広告を出した企業の広報担当者に電話をした。抗議をする為である。

略) >

P二三六〜二三八

 続いて、渡辺氏は「沈黙する日本人」として下記のように記している。

<私は、特攻隊を侮辱した広告のことを、日本の新聞が記事にするかどうか注目したが、二日経っても何の反応もなかった。業を煮やした私は、日本の新聞社と通信社のロンドン支局に電話をした。驚いた事に、彼らは「フィナンシャルタイムズ」の広告そのものを見ていなかった。毎日、イギリスのマスコミを注視しているはずの彼らが、この広告を見落としていたことが、私にはショックだった。

 それでも、ある通信社は、すぐに広告主のP社と、広告を載せた「ファイナンシャルタイムズ」紙の見解を糺し、それをニュースとして配信した。

 その通信社によれば、広告主P社は謝罪したが、同時に次のように語ったと言う。

 「特攻隊を使用したのは、ジョークのつもりだったのですよ。しかし、この広告に対する反応は、同じ日本人でも若い世代と中年以上の世代では異なっているようですね。現に、ある若い日本人にこの広告を見せたら彼は怒るどころか、面白がっていました」

 私が電話で聞いた話とは、ニュアンスがかなり違う。そして、私はこちらの方に彼らの本音がのぞいていると思う。私やほかの日本人から抗議の電話を受けても、彼らは何とも思っていないのだ。それは最初から、彼らには、日本人に対する反感と蔑視意識があるからだ。ユダヤ人アンに言葉では謝り、あとで舌を出していたハリーと何ら変わるところがない。

 「フィナンシャルタイムズ」紙からは、通信社にたった三行のコメントが寄せられた。そこには「今後この広告を掲載する事はない」と、木で鼻をくくったような文章が書かれていたが、遺憾とか謝罪の表明は一切なかったという。これらのことをまとめて、通信社は問題の広告の写真付きで、日本中の新聞社に配信したが、これを取り上げたのは産經新聞と東京新聞及び地方紙数社だけだった。三大新聞はこのニュースをまったく無視した。

 なぜ、日本の新聞がこの屈辱的な広告を記事にしなかったのか、私には不思議で仕方がない。ユダヤ人は、アンの事例でもあきらかなように、人種差別を受けた時はすぐに行動を起こす。日本人は、こういうとき、率先して釘の声をあげるべきマスコミが、見て見ぬ振りをする。

 マスコミばかりではない。今回、抗議の声をあげたのは、おもに私たち中年以上の日本人であった。同じ広告を見た若い世代の日本人たちの反応は鈍かった。広告主P社が「これはジョークだ。世代によっては面白がっている日本人もいる」と言って開き直るのも当然である。

 明らかな日本人蔑視であるのに、黙って見過ごす日本のマスコミと、蔑視されていることも気づかない(あるいは気づかない振りをする)日本人達。さらには、何の抗議活動も起こさない大使館や、日本人会などの組織。このような態度が、日本人に対する差別的行為を助長させているのだということを、彼らに是非理解して貰いたい。>

P二四一〜二四三

 渡辺氏の著書に記されている英国軍捕虜に対しての我が国の対応や慰安婦問題などの知識、認識には大いに疑問、異論があるが、この特攻隊に関する記述については異論一部以外はまったくない。

 異論がある一部とは、渡辺氏は特攻隊に対して持つべきものとして「国家の事情で若くして死んでいかねばならなかった人たちには、それなりの同情と哀悼の念を持つべきであろう。」と記しているが、後世の我々が特攻隊に対して持つべきものは「感謝と尊敬と哀悼の念」である。護国の英雄である英霊に感謝と尊敬なき哀悼の念などあり得ない。

 引用文献渡 辺幸一著「イエロー」栄光出版社 平成十一年刊

 九月二十九日下記のような記事をあの反日工作機関・朝日新聞の盟友であって、ノリミツ・オオニシ、ニコラス・クリストフ、田淵広子などの反日工作員が属し活動しているニューヨークタイムズが同じ反日工作員のハーバート・ビックスの記事を先帝陛下を切り刻んだ屈辱的な写真とともに「掲載した。

 我が国大使館、あるいは政府はこれに対して抗議したのであろうか。 http://nyti.ms/Z1A2iI

 沈黙は金では決して無い。

 カミさんの朝ビールの残骸。

 Tさんスペインからのお客様など三名様で来店。

 ドンチャン。

 営業終了後、カミさんと「オブデュモンド」さんへ。

 カミさんはアブサン、ジンなど。私は白ワイン。

 その後、もう一件。

 夫婦そろってサルよりマシ。

 


 

10月22日水曜日雨△

 昨日、カミさんが帰国便の中でワインを飲んでてもガマン。

  帰国後、カミさんが蕎麦と酒とさっさと飲みに行ってもガマン。

  帰国後は水も食い物もガマン。

 それも、これも、社会人初めての健康診断のため。

 今朝、尿まで送って来た器具に入れて、 会場に行ったら・・・・・・

 河岸が休みの日にあわしたつもりが、申し込んだ日にちが間違っていた・・・・

 一週間前に終わってました。

 

 ホンマ、わざとじゃないです。

 なんぼ、俺がアホウでも、ネタの為にここまではやらんです。

 トホホホホッ。

 カミさんの朝ビールの残骸。

 Sさん来店。

 二名様来店。

 ドンチャン。

 

 今日は時間どおりに営業が終わり、さっさと帰る。

 一応カミさん共々記憶あり。

 


10月21日火曜日シンガポール雨 ○

 シンガポールより午前中の便にて羽田へ。

 

 カミさんは酒を飲みながら蕎麦が食べたいとさっさと出かけるが、店に寄って、いろいろと雑用。

 私は今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。


10月20日月曜日晴れ××××

 朝っぱらから、カミさんが行きたいと言っていた宿泊先のホテルからすぐ近くにあるリトルインディアに行こうとして、 「あれっ?」と思いながら例によって「こっちだよ」というカミさんの言うとおりに行ったら、 めちゃ違うところへ。 えらく時間を無駄にして、リトルインディアに着いてブラブラした後は、 これまたカミさんのご希望により、シンガポール人オーナーの個人経営によるマイクロブリューワリー「RedDot」へ。 昼間っから、タワーで飲んでいるグループがいるのにはびっくり。

 

 

 

 

 一度ホテルに帰ってから、マイクロブリューワリー「Brewerkz」へ。

 十二種類+それぞれが好みだったビールを一杯。

 タイプの違うビールのそれぞれの質、ビールによって温度を微妙に変えてあるなどすばらしいレベル。カミさんは「またシンガポールに来ることがあったら、ぜひもう一度来たい」と言っていました。

 

 

 ホテルに帰ってカミさんがアブサンを飲みたいと言って「The Auld Alliance - Singapore」さんへ。

 

 

 ユーさん御夫妻がホテルに迎えに来てくださって、割烹「寄人」さんへ。

 

 

 

  ユーさんは「シンガポールに日本料理と日本酒の研修に来たのだから」とおっしゃってお店に持ち込んだ酒は、「磯自慢 中取り35 2012」「初亀 游月」「初亀 出品酒」の三本。

 凄すぎる。

 カミさん共々、気がついたらホテルのベットで寝てました。

 サル以下やな。


10月19日日曜日晴れ△

 ホテルまで迎えに来てくださって、ユーさん御夫妻が連れて行ってくださったのは、数多くある席が朝から満席ですが、観光客がほとんどいないインド料理のお店でした。

 

 

 昼食はユーさんが連れいいって下さったシンガポール料理のお店。

 

 

 夕食はユーさんがご自宅に招いてくださって、 ドンチャン。 用意してくださった酒は、「東洋美人 愛山 純米大吟醸23BY」、「義侠 慶 2005年」 我が国の飲み屋さんでも、この年のこのお酒を持っている店はそう多くはないと思います。

  

 

  でっかい二匹のワンちゃんがカワイイ。

 

 

  写真は写しませんでしたが、大きな地下室の洋酒、日本酒とも高級酒ずらりのお酒の在庫に唖然。 田宮の戦艦大和のプラモデルキットもありましたW

 

 呼んでくださったタクシーでホテルに帰る。

 一応、カミさん共々記憶あり。

 食べ物と酒ばかりの話題・・・・・・


10月18日土曜日晴れ シンガポールは雨 △

 午前中の便で羽田よりシンガポールへ。

 シンガポールに着いたら、ユーさん御夫妻が迎えに来てくださっていて、

ホテルにチェックイン後、井出さんと待ち合わせて、ユーさんの車で、

ご予約してくださっていたレストランへ。

 

 

 

 

 

 お店が入っている建物よりの風景。

 ユーさんのお店The Auld Alliance - Singapore

 

 すごいです。

 

 圧巻。圧倒。

 奥にある特別室というか、隠れ部屋というか、その部屋でウイスキー、ラム。

 

 でっかい音が聞こえたので、外を見たらバスと乗用車が接触事故。

 

 ホテルの部屋はそのThe Auld Alliance - Singaporeが入っているホテルなので、酔っ払ってもらくちんらくちん。

 ドンチャン。

 一応、カミさん共々記憶あり。

 猿よりマシ。


10月17日金曜日晴れ△

 バンブーさん来店。

 一名様来店。

 一名様来店。

 一名様来店。

 Iさん二名様で来店。

 二名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 猿よりマシ。

 


10月16日木曜日晴れ△

 一名様来店。

 一名様来店。

 一名様来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。


 

10月15日水曜日雨△

 あのどうしようもない人間のクズ・菅直人を持ち上げるアホウどうもがいます。

 呼びかけ人

 本宮ひろ志 吉岡毅 山口二郎 武村正義 

 講演 佐藤優

 

 二万円・・・・二円でもいやだ。

 そういや、講演をやるインテリジェンスの専門家とかいう佐藤優 氏はあの鳩山由紀夫を決断の専門家と言っていたのを思い出しました。

 

 

 カミさんが今日は飲んでいないと、昼間から店でビールを飲む。

 Aさん来店。

 四名様来店。

 三名様来店。

 陽子さん、塩月さん、大野さん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 猿よりマシ。


成り済まし

10月14日火曜日晴れ△

  「特攻に散った朝鮮人」桐原久著の中に下記のような記述があります。

 以下引用

<ここに紹介するのは、一つの典型的な、上手な生き残り人間の例でもある。

 略)

 徐鐘権さんは、在日朝鮮人二世として、大正十五年、男二人女一人の末っ子として、兵庫県尼崎市に生まれた。特攻出撃をしながら、無事に帰還できた人である。日本への帰化も、戦後の早い時期にしている。

 徐氏の交際範囲のなかでは、氏の出自・国籍問題など何一つ知らない者もたくさんいるのでこの槁では、徐氏の日本名、住所、職業はすべて伏せておくことにした。

 氏は最初は、「自分は今ではまったく日本人になりきってますねんから」といって、容易に取材をオーケーしてくれなかった。

「いまでは日本人やからね。お役に立つことは何もあらへんと思います。戸籍のどこをみても、朝鮮という文字は出てきいへんしな。うちの子供達も、親父がどういう出身やということは、まったく知らんでおるんです。そっとしておいてくれはらしまへんか」

 と断り続けるのだった。

 略)

 徐氏の場合は、十五機編隊で出撃したが、一機だけ、編隊から離れて、生き残った。僚機は全部特攻戦死した。

 徐氏の父親は、慶尚北道出身の人。どんな経緯で郷里を出て日本に来たのか、両親からは何一つ聞かされたことはなかった。

 略)

 小学校卒業の後、県立中学一年の冬、大東亜戦争勃発。

 略)

 親に内緒で印鑑を持ち出して、陸軍少年飛行兵に志願して合格した。

 略)

 徐氏は昭和十七年四月、第十五期陸軍少年飛行兵として、宇都宮陸軍飛行学校入学。

 略)

 隊長のK大尉は、訓練の仕上げをする錬成飛行時代の隊長だった。

 略)

 自分の出撃数日前に、別の特攻出撃を見送っている。

 略)

 徐軍曹は、第三十二振武隊十五機の一員の陸軍軍曹として出撃した。

 第三十二振武隊に下された命令は、午前八時三十分を期して、慶良間列島周辺の敵艦隊を攻撃することだったので、十五機は午前六時ごろ、知覧基地を飛び立った。

 徐氏の乗機は、前日、福岡県雁の巣飛行場から移駐してきた時から、油圧系統が不調だった。

 略)

 二百五十キロ爆弾を抱えた九十九式爆撃機は、エンジンをいっぱいふかしても、編隊に追いつけない。

 略)

 一瞬のうちに編隊の最後尾を見失った。

 略)

 さっきまで死ぬための目標をさがしていたが、今度は生きるための陸地探しに代わったわけである。

 略)

 エンジンは酷使に耐えて快調。燃料も後部座席にタンクを特設してあってまだ一時間分はある。

 略)

 喜界島へ機首を向けた。

 略)

 喜界島の砂浜に落下接地で着陸。

 略)

 仮設飛行場には、燃料が十分に貯蔵してあった。徐氏はまず爆弾を外し、燃料を積んで、自分と同じように不時着していた、海軍パイロット二人を同乗させ知覧に戻った。そこで知らされたことは、本隊は南下を続け、慶良間海域の敵艦船に特攻攻撃をかけ、全機が散った、ということだった。

 略)

 その後、徐氏は特攻命令は出されないまま終戦を迎えた。

 略)

 近所に市役所に務める人がいて、さいわい帰化できた。

 略)

 いま徐氏は、帰化もなしとげたし、物質的にも社会的にも成功者である。いつも配慮するのは、ただ一つ、自分のルーツ隠しである。

 「家内も同じ考えなんですが、子供達には、私のルーツを教えようとは思いません。何らかの機会にわかったら、それはそれで構わないと思います。もう成人しましたし、そう衝撃は受けないでしょう。桐原さんはどうお思いですか」

 私としては、次のように答えるしかなかった。

 「私もおたくの奥さんと同じ考えです。息子さんのお二人とも、県と市に勤務という、聡明なお子さん達ですから、あとで愚痴などおっしゃらないでしょう。お孫さんの時代になったら、また世の中変わってるでしょう」

 徐氏は「稚拙ですが」と言いながら、出撃のときの辞世の短歌を見せた。

 大空を茜に染めて明日は行く 銃後に残せし母をしのびつ

 この辞世の短歌を、氏はいままでに、どれだけたくさんの人々に見せて来たことだろう。そこにこそ、氏の必死の、特攻出撃・生還のルーツ隠しがあるように、私には思えた。

引用終わり

P百八十八〜二百

 「特攻に散った朝鮮人」桐原久著 講談社 昭和六十三年刊

 

 仮名としていない「徐鐘権」

 在日朝鮮人二世として、大正十五年、男二人女一人の末っ子として、兵庫県尼崎市生まれ

 第十五期陸軍少年飛行兵として、宇都宮陸軍飛行学校入学

 陸軍軍曹として出撃した第三十二振武隊のただひとりの生き残り

 喜界島に不時着

 近所に市役所に務める人がいて、さいわい帰化できた。

 戸籍のどこをみても、朝鮮という文字は出てこない。

 以上は戦後のどさくさにまぎれてのことだが、我が国にはどれだけの徐氏がいることだろう。

 Sさん来店。

 Tさん来店。

 今日は軽めにドンチャン。

 カミさん共々さっさと帰る。


崔貞根中尉(日本名 高山昇)についての追記 

10月13日月曜日夕方より雨

 崔貞根中尉(日本名 高山昇)についての追記です。

 崔貞根(日本名 高山昇)少佐

  三十二歳(特攻に散った朝鮮人より)

  二十四歳(朝鮮人特攻隊より)

  陸士五十六期ということから二十四歳と思われる。

 昭和十四年十二月一日に日本陸軍士官学校(五十六期)入学

 六つある中隊のうち第二中隊として学ぶ。陸軍士官学校予科から航空士官学校本科と進み、卒業後、陸軍第六航空軍・飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属。

 フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華。

 二階級特進にて少佐 。

 高山中尉は支那、ソ連と国境が交わる豆満江の河口近くにある朝鮮半島北端の感鏡北道慶興郡にて生まれた。

 父親は、満州から沿海州のウラジオストックに移り住み、物々交換で財を成した後、ソ連や満州国との三角貿易がしやすい慶興郡に移り住んだという。百戸足らずの小さな村の地主だった。地元では親日的な人物として知られ、高山中尉の兄も清津市で日本の警察官だった。

 京城帝国大学に合格していた秀才の高山中尉が、法曹の夢を断念して陸軍士官学校に進んだのは、父親の命令に従ったためだという。「父親が兄を殺したようなものだ」と、ぺヨンホン氏に崔昌根士語ったそうである。

 卒業間際、同期生である岡林竜之氏を消灯後呼び出し た時のことを、岡林氏は陸士五十六期生の戦没者を収録した追悼録「礎」に記している。

 

<高山兄から、相談を受けたのは、航空卒業も目前に迫ったころであった。消灯後、みな寝静まってから、ひそかに寝室を抜け出した私は、航空神社の境内で、高山兄と話し合ったのである。

 「俺は天皇陛下のために死ぬというようなことはできぬ」

 月明かりに浮かび上がっている、高山兄の苦渋に満ちた顔を疑視しながら、愕然とした私は、言葉を尽くして説得に努めた。

 しかし、朝鮮民族の血と歴史を踏まえた高山兄の苦悩に対して、私の言葉は、空しく空転するばかり、とうとう、高山兄を納得させることはできず、疑然として悩み抜く、真乎の人間を前にして私は、私自身の無力さを嘆じたものであった。

 いやむしろ、無理矢理に自らを納得させ、それで死ねるつもりでいた私自身の信念を護るのに精一杯であったのである。とてもとても、朝鮮民族の立場に立って、高山兄と、ともに悩み、ともに道を見いだそうとする余裕は、恥ずかしながら、私にはなかった。

 戦後、その高山兄が、米機に体当たり戦死、二階級特進と伝え聞いたときに、私は鉄槌のような衝撃を受けた。

 「天皇陛下の御為に」米機に体当たりしたのではない。それは、私には判っていた。それでは、なんのために、あたら、かけがえのない生命を、米機とひきかえに燃焼させたのであろうか。>

 (五十六期生追悼録「礎」より 私は「朝鮮人特攻隊」p百十三〜百十四)

 

 続いてぺヨンホン氏は著書で下記のように書いています。

 <この時まだ、特攻隊は立案されていなかったが、悪化する一途の戦況を前に、陸士を卒業すれば誰もが死を覚悟していた。死ぬことに疑問を持ち始めたら、帝国陸軍の要となるべき航空士官など勤まらない。岡林氏は同期生の高山を説得するより、自分の死を受け入れるのに精一杯だったようだ。だからこそ、高山中尉が特攻で戦死したことに、衝撃を隠せなかったようだ。>

p百十六

 

 同期生(「朝鮮人特攻隊」では岡林氏、「日韓共鳴二千年史」では齋藤五郎氏となっています)が陸士の同期会の懇親会にて、李亨根氏(陸士五十六期地上兵科、戦後韓国陸軍大将 英国大使など歴任)にただしたところ、

「その気持ちは貴様らには判らんだろうなあ。それが判るとき、両国の本当の友好が生まれるだろう」(「朝鮮人特攻隊」)

「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」( 「日韓共鳴二千年史」)

 と答えたそうです。

 

 岡林氏が「礎」に米軍機に特攻と書いた高山中尉の最後について、ぺヨンホン氏は

 <高山中尉四十五年四月二日に、沖縄の南方方面で戦死した。戦闘機乗りとして名を馳せた岡林氏は、自らの戦闘経験から、高山中尉が交戦中に「米機」に体当たりしたと考えたようだが、彼が体当たりしたのは米機ではないかった。

 高山中尉の戦死にいたる情況は、所属していた陸軍第六航空軍・飛行第六十六戦隊の「生死不明者死亡認定ニ関スル報告」に詳しく説明されている。

 高山中尉は三機編隊の小隊長として、一九四五(昭和二十)年四月二日午前六時前、沖縄北方の徳之島から出撃した。沖縄本島に上陸を開始したばかりの米艦艇に対する哨戒が任務だった。高山小隊は、沖縄を目指して北上中の敵艦船群を発見し、即座に攻撃態勢に入る。そして、爆撃を終えて急いで戦域から離脱しようとした部下機が、小隊長の高山機が敵艦船めがけて突っ込んでいくのを目撃した。それは特攻以外のなにものでもなかった。

 この犠牲心に満ちた行動が評価され、陸軍第六空軍から『感状』が出された。その証明書では「身ハ半島ニ生ルルモ 至誠忠常ニ国ヲ憂ヘ 率先陣頭ニ立チ 部下ノ信望殊ニ厚シ」と讃えられた。>

p百四十一〜百四十二

 

 引用頁に関しては「朝鮮人特攻隊」※淵弘(ぺ ヨンホン)著 新潮社 平成十九年刊より

 続く

 

 台風が近づく中、カミさんと引きこもり用の買い出し。

 

 部屋でカミさんが赤ワインを飲みたいとホザクので、ユーさんより頂戴した肉を調理して、それを食しながら飲む。

 二人ともサルでもエビでもない。


 

お前が言うな本多のアホ

10月12日日曜日晴れ○

 本多のアホについてです。

 <文春の本質を見誤ってはいけません

 文春の月刊誌『マルコポーロ』が、アウシュビッツで「ナチ『ガス室』はなかった」(一九九五年二月号)としたから廃刊までに至った事件については、すでに二月一〇日のこのコラム「『マルコポーロ』を廃刊にして『諸君』は廃刊せぬ文春を嗤う」で論じた。

 この事件については、その後もさまざまな場で取り上げられているようだが、ジャーナリズムの視点でみるとき、本質とはあまりにもかけはなれた取り上げられ方が多い。これについての論考や情報をあまねく見たわけではないものの、大マスコミの一例として『朝日新聞』の場合を考えてみよう。

 同紙のメディア頁は、二月二十三日と二十四日にかけて上・下二回、二人の記者による「マルコポーロ廃刊・・・・残されたもの」を掲載した。

 「上」(二月二十三日朝刊)の本多雅和記者によると、問題の筆者・西岡昌紀氏は、現地取材わずか「半日かけて」やっただけ、あとは他人の文献や説からの引用が中心だという。生存者へのインタビューなども一切してなかった。

 これは恐るべきことだ。基本的に、こういった歴史上の事件への検証自体は、大いに重要だと私は考える。どんなに大きなタブーであれ、検証をしてはならぬ理由はない。「アウシュビッツ」についても同様だ。不審なところはいくらでも検証すべきだ。

 だが、検証の対象が大きなものであればあるほど、取材は徹底的でなければならない。「アウシュビッツ」は、すでに現代史上の「大事件」として確定しているのだから、これをひっくりかえすためには、それ相応の「大取材」をしなければ説得力はあるまい。「取材」とは、自分の目と耳と足による現地調査や生き残り証人との対決が第一であって、他人の書いたものなどは「参考文献」でしかないだろう。それを、西岡氏は「半日」しかやらなかったというのだ。これでは「大取材」どころではない。

 やや我田引水になるが、足元の日本での似たような例は「南京大虐殺」であろう。この取材のために、私は南京を四回たずねている。うち二回は、日本軍の上海や杭州湾からの進撃コースも調べた。時間的には現地取材に計四、五ヶ月かけたほか、日本国内でも「虐殺をした側」たる将兵から数多く取材している。(こういうことを書くと、「新聞社の潤沢なカネと時間をかけてこそできたのだ」と言う人が必ずいるが、四回のうち第一回は編集局長の白い目をくぐっての強行、第二回からの三回は年休をフルに活用しての自費取材である。)

 本多記者の書くとおり、「ガス室はなかった」と西岡氏が主張するなら、ガス室からの生還者の前で「あなたが見たものは幻だった」と言い、彼らの反論に耐えられるだけの根拠と論理を示すべきなのだ。「取材」のきびしさを知らぬこの一点は、日本のマスメディアの水準の低さでもあるが、同時にそんな水準を許す「民度」の問題でもあるのだろう。

略)>

(『週刊金曜日』一九九五年三月一〇日・二十四日・四月七日・一九九六年五月三十一日各号)

私は「貧困なる精神L」本田勝一著 朝日新聞 一九九六年刊 P百四十二〜百四十四

 左巻きはブーメランが得意でないとダメらしいが、このアホもやはりブーメランが大得意のようである。

 前にも書いたことですが、このアホの著書「中国の日本軍」には<この取材は、一九七一年の六月から七月にかけて行われた。写真説明その他は文章は、すべて中国側の調査・証言にもとづく>と書かれている。

 しっかし、今更ながらこのアホはネタが豊富。

 困ったときのアホ頼み。

 これだけ

 今日は店を片づけた後は、酒を飲まないで帰宅。

 サルでもエビでもない。


「特攻に散った朝鮮人」桐原久著

10月11日土曜日晴れ△

 「特攻に散った朝鮮人」桐原 久著と「朝鮮人特攻隊」※淵弘(ぺ ヨンホン)著 を読む。

 結論から先に書きますと、在日朝鮮人二世である※淵弘氏が書いた「朝鮮人特攻隊」は名書だと思います。それに比べて陸軍航空士官学校五十八期、南日本放送社長であり鹿児島経済大学講師であった桐原久氏の著書「特攻に散った朝鮮人」は記録としての貴重な記述も多いが、著者の思い込みによる醜い箇所も多い著書でした。

(※ぺヨンホン氏のぺという文字は私のパソコンでは変換後表示できず)

 

 <日本人の圧政に苦しみ続けた朝鮮人は、敗戦の日、日本が全朝鮮半島に造っていた神社を焼き討ちにし、破壊した。日本の国旗を引きづり降ろした。強いられていた日本語、日本的慣習を一切地べたに叩き付け、踏みにじった。

 朝鮮人にとって大きな問題は、日本の神社や寺院に、まさに自分たちの同胞が祀られていることであった。朝鮮人ほど、先祖や死者を熱心に祀る民族はない。しかし、この霊達は、母国の人たちから、永らく放り捨てられたままになっていた。

 日本の社寺に祀ってある、というのも彼らとしては立腹のタネだが、もっと大きい理由は「朝鮮民族の魂を忘れて、日本のために利敵行為をした!」ということにある。

 文字通り「不倶戴天の敵」である日本人のために、兵隊になって、恩人のアメリカを攻撃したのが許せない、という理由からである。>

p十二〜十三

 

 マジかよ〜というしかない記述です。米国が南朝鮮の恩人であるなら、北朝鮮にとって米国はなんなんでしょう。ホンマ、矛盾つうものを感じないのでしょうか。

 金尚弼(結城尚弼)大尉の兄・金尚烈氏の言葉として

 <「韓国も日本統治時代は、木を切ったあと植林をしなかったので、赤茶けた肌が、剥き出しになって禿げ山ばかりでしたし、そのあとの朝鮮戦争でまた、山林は荒廃しましたが、今は綺麗に植林が行き届いて、岩山の一部を除いてほとんどが緑に覆われています。

略)」>

p九十八

桐原氏

<眼下に広がる朝鮮半島は、茫漠たる緑また緑の連続で、大自然が悠々と生き残っていた。かって日本領有時代は、ろくに植林もせず、禿げ山ばかりだった、ということを聞いていたが、この緑の氾濫は、心休まる頼もしさであった。>

p百十四

 我が国が統治する前の朝鮮人どもには山を守るという意識もなく、我が国が統治していた時代に一生懸命植林したものを、また無計画に伐採し禿げ山にしたのは朝鮮人どもです。

金氏

<「創氏改名のとき、戌子(いぬこ)と改名した、骨っぽい人がいたんです。『お前なぜ、そんな変な名前にしたか』と、総督府から聞かれて、『自分の祖先から伝わっている姓を変えるなんて、犬に等しい振る舞いじゃあないですか、だからこう変えるのになんの不思議がありますか』と返事したら、『この野郎、生意気な野郎だ』と刑務所に放り込まれ、殴られて殴られて、結局三年目に死にました。ほかに、そういう扱いを受けた者が、全土には、どれだけいたか、勘定できないですよ」>

p百二十三

 これについては、何度も書いております。

創氏改名の誤解

朴一の著書に見る創氏改名

金氏

<九月の繰り上げ卒業の日がやってきた。今夜は可愛い末っ子の尚弼の卒業祝いをしようと、母、姉、兄の三人は校門のところで、待っていた。他の卒業生たちは、三々五々、嬉しそうに出て来た。尚弼の姿だけが、なかなかあらわれない。と思ううちに、予期しなかったことが起こった。

「急にエンジンの音がしたと思ったら、憲兵下士官の運転するサイドカーに乗せられた尚弼が、真っ青な顔を引きつらせて、口を真一文字に結んだまま、横も後ろも振り向かず、私たち家族の横を通過してしまったのです。

 みな一瞬、立ちすくみましたが、すぐに姉と母がアイゴーアイゴーと泣き叫び始めました。年老いた母はとうとう失神して、そこへ倒れました。

 延禧では、ただ一人の合格者ですからね、もし卒業して家に帰したら、逃亡するかもしれない、と軍は考えたのでしょう。そして、まるで罪人を拉致するように連れ去ってしまったのです。私だけは、しっかりしなくては、と思って母と姉を姉の嫁ぎ先へ連れ帰ったのですが、母はそれからずっと床につき、二ヶ月も寝たままでした。

 その後、弟から何の連絡もないので、日本内地のどこへ行って訓練を受けているものやらまったくわかりませんでした。」

p百二十九〜百三十

 桐原氏

<急増した日本内地の朝鮮人

 略)

 今改めて、日本内地における朝鮮人の数を調べてみると、太平洋戦争の前夜から急激に増加している。朝鮮人は、日本の支配勢力にとって、戦争を遂行するためになくてはならぬ、人的資源であった。

 略)

 この激増は異常である。強制手段を用いなければ、これだけの人数は調達できるものではない。実際に連行にあたった日本人の証言を、私はテレビ番組のライブラリーでみることができた。

 実際の連行にあたった吉田清治(きよはる ママ)さんは、朝鮮人強制連行の記録(大阪朝日放送、昭和五十六年度放送のドキュメント番組「ある手紙の問いかけ」)の証言者としても登場している。いまの吉田さんは、羊のような柔和な顔をした、上品なお年寄りである。

 戦争の恐さとは、平時においては善良な市民が、いったん戦争に放り込まれると、強盗もやれば、強姦もやれば、戦場以外でも気紛れに人殺しもやる、悪魔に化けてしまうところにあるといわれる。この人は朝鮮人狩りの専門家として、昭和十八年に二回にわたり朝鮮に行き、三百人を超す朝鮮人を連行してきた人だ。淡々とした語り方をするのが、かえって話に迫真性がある。

「昭和十四年頃から、本人の意思や希望などは一切無視して、有無をいわせぬ連行が始まったんです。朝鮮人が底をつきましてね。それはそうですよ。一気に百五十万人も持って来たんですからね。

 もうふつうの方法では人が取れなくなった。それで朝鮮人狩りのエキスパートというものが出て来た。奴隷狩りのようなことをやったわけですね。私はそのエキスパートの一人だったんですよ。

 欲しい理想的なのは二十代の男子だが、もう底をついていたから、子供でも年寄りでもかまわず狩りました。年寄りといっても、当時の朝鮮人はもう四十過ぎると老人でダメでした。ろくに栄養もとってないですから。

 しかし、選り好みはしていられませんから、老人も狩って、三十八とか九とか書類に書いておくんです。子供は逆に水増しして書くんです。書類さえ通ればそれでいいわけです。

 日本からの徴用に集めにくると知ると、男達は山へ逃亡してしまうから、相手の虚をつく、一気の生捕り作戦をとりました。早朝から車を村の真ん中へ乗り入れて、朝飯を食っているところを一気に襲うんです。

 中には逃げる者たちもいますが、村の出口は、どこも木刀や仕込杖などで武装した男達を配備しておくので、そこで捕まえました。

 逃げようとしたり、反抗したりしたら、死ぬほど殴るんです。朝鮮人を人間と思ってなかったですね。もし人間と思ったら、あんな扱いはできません」

 狩られて連れてこられた人たちは、炭坑、土木工事、軍需工場、鉱山、港湾などの、労働時間が長く、重労働で、かつ危険な現場へ叩き込まれた。そういう現場では、日常茶飯事のように朝鮮人の死傷事故がおこった。>

p百三十八〜百四十二

 

 吉田清治のことを「キヨハル」と振仮名をわざわざふってあるものを初めて見たが、内容もそれに劣らず醜いものです。

 そのまま鵜呑みにせずに、矛盾点を少し調べればわかるものを。

 

 朴東薫(大河正明)少尉の実弟・朴尚薫氏

<挺身隊という美名の元に、日本人は韓国の女性になにをしたというんですか。一〇万人を超す婦人を強制連行して、戦場の慰安婦として、兵隊達の欲情のはけ口としたじゃあないですか>

P百六十九

 このように相手の言うがままのことを書いているが、これに対して著書では桐原氏は何の疑問も呈していないが、他の記述をみれば桐原氏の歴史認識の程度が理解できる。

 

 金(結城)兄弟の最後の面会に同行した佐藤曹長。

 <「大事なことになると、会話は朝鮮語になってしまうので、私にはわかりませんでした。当時は朝鮮語は禁止されていたのですが、二人は私のまえで堂々と朝鮮語で話をしていました。」>

P百四十八〜百四十九

 日常において朝鮮語は我が国統治時代に禁止されたことは一度も無い。

 ましてや、一九四二年でさへ、朝鮮人の全人口の二十%が日本語を解したに過ぎない。

 朝鮮統治時代の教育

 

つづく

 秋田よりOさんご夫妻

 一名様来店。

 でっ、カミさん共々Oさんご夫妻と延々とドンチャン。

 一応記憶あり。

 猿よりマシ。


10月10日金曜日△

 少し前の産經新聞の記事です。

 以下引用

<「GHQ作」 押し付けられた日本国憲法を明記

 昭和天皇実録には、日本国憲法が連合国軍総司令部 (GHQ) の “押し付け” だったことが、明確に記されている。

 昭和21年2月22日 《去る十三日に国務大臣松本烝治(じょうじ)は (中略) 聯合国最高司令部民政局長コートニー・ホイットニーほかと面会し、ホイットニーより、(中略) 最高司令部作成の憲法草案を示され、これに基づく憲法起草を要求される》

 ■GHQの違法行為  3月5日 《昨日午前、聯合国最高司令部に提出された日本国憲法草案は、同司令部において (中略) 夜を徹しての改正作業が進められ、この日午後四時頃、司令部での作業が終了する。

 一方、首相官邸においては、この日、朝より閣議が開かれ、(中略) 改正案を日本側の自主的な案として速やかに発表するよう同司令部から求められたことを踏まえ、(中略) 勅語(ちょくご)を仰いで同案を天皇の御意志による改正案とすることを決定する》  GHQの行為は、被占領地の法律尊重を定めたハーグ陸戦条約 (1907年改定) などに反する国際法違反だ。

 GHQが 「改正案を日本側の自主的な案として」 発表するよう求めたのも、違法性を認識していたからにほかならない。

 だが、当時の日本に、GHQの非を指摘できるはずもなかった。 問答無用で日本の根本規範まで崩そうとするGHQのやり方に、閣僚らは暗然としただろう。

 ■終戦1周年に座談会

 一方、昭和天皇はどんな気持ちだったか。 改正案が発表された翌6日、報告を受けた昭和天皇は木下道雄侍従次長に 《自らの御退位につき (中略) 御意志のない旨》 を伝えたと、実録は記述する。 この国難に背を向けず、国家再興の精神的支柱であり続けようとした覚悟がうかがえる。

 終戦1周年の前日、昭和天皇は閣僚らを集めて座談会を開いた。  同年8月14日 《天皇より日本の敗戦に関し、かつて白村江(はくすきのえ)の戦いでの敗戦を機に改革が行われ、日本文化発展の転機となった例を挙げ、今後の日本の進むべき道について述べられる》  昭和天皇の目には、奇跡の戦後復興が見えていたのかもしれない。

産経新聞 2014.9.24 08:15>

引用終わり

 今まで多くの証言があり、今更ながらという記事ですが、以前にも一度引用しましたが、あのNHKなどが重用している在日朝鮮人の姜尚中ダイセンセイと小森陽一ダイセンセイによると違うみたいです。

<姜

 GSにいたニューディーラーの若手の人たちの中には、日系ユダヤ人も含め、ユダヤ人が何人かいました。ナチスドイツのユダヤ人虐殺を知っている彼らは、東京の荒廃した場所や広島・長崎を見て、いかにむごいことを我々はやったのかと感じた。

 敗戦国の大地に立ったときに、憎い敵国であったにせよ我々勝者はこれほどまでにひどいことをした。我々はアメリカ人としてここに立つのではない。人間としてここに立つのだ。戦争というものがいかに悲惨なものであるかということを認識し、人間として出発しよう。そんな風に考えてあの憲法を作ったのではないか、と鶴見さんは指摘しました。慧眼です。

小森

 今だに「押しつけ憲法論」が存在する事自体がはずかしい。>

p九四

<姜

 アメリカの冷戦下における、パワー・ポリティクスに基づく対日占領政策が一方的にあると同時に、日本国憲法を発案した人たちの中に「人間としてこれを作った」という思いがある。

 日本が占領地においてそれをやっていたら、つまり朝鮮半島において一九一九年の弾圧の弾圧をやった後、「これはむごい事だと」と認識していたとしたら・・・・・・。日本は、立憲君主制の明治憲法下でも許されていた大衆の社会権や自由を、異民族を支配する以上はそこにも認めなければならないと、いうところまでいけなかったわけです。

 ケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」という映画に描かれていますが、アイルランド支配の中でイギリスはちゃんと自由化政策を行っています。そうした自由化政策すらも日本はしなかった。ということは、いかに過酷であったかということです。それを考えると、残念ながらアメリカのほうがはるかに日本より進んでいた。>

 p九十四〜九十五

「戦後日本は戦争をしてきた」 姜尚中・小森陽一著 角川書店平成十九年刊

 社民党などが後生大事にしているわが国の憲法がいかにして作られたか。その背景、そして過程をみれば、現在の日本国憲法に異常さがだれにも理解できるはずだからです。(除く売国奴ども)

  当時のマッカーサー連合国軍総司令官は終戦間もない昭和二〇年一〇月十一日、幣原喜重郎内閣に憲法改定を指示しましたが、この占領下における憲法改定という異常さについては、わが国とちがい「無条件降伏」をしたドイツに対してさえ憲法改正を連合国が求めてなかった事でもわかります。

 その日本国憲法は、憲法学者の松本丞治博士を委員長とする憲法問題調査委員会の提出した草案をGHQは拒否し、たった一週間という短時間で作られ、それはフィリピン植民地憲法を基にした、GHQの起草した占領政策に基づく英文の草案により、日本側翻訳によるものが現行憲法です。

 この憲法改正について、我が国の国民はなんらその内容を知らされる機会もありませんでした。それだけでなく、新憲法制定というわが国の根幹に関する事がGHQの手で進められていることが知らされることはありませんでした。それが可能だったのは、戦後、GHQによって実施されていた徹底した言論統制によります。

  それにより、わが国が独立後も普通の国でない、片輪の国のままになるようにこの憲法を作りました。

 私は、九条を守れとか憲法改正を許すなと言っている護憲派といわれる連中に聞いてみたい。本当に日本人自身の手で定めた憲法であると心の底から思っているのかと。制定過程、内容ともこんな異常な憲法をそう思っているというのであれば、そいつは心底アホウか、嘘つきである。

 まあ、あの土井たか子女史を「憲法学者」「憲法の専門家」といっているぐらいですから、護憲派といわれる連中はそういった連中なのでしょう。

 あほらし

 バンブーさん来店。

 小胡子さん来店。

 五名様来店。

 二名様来店。

 二名様来店。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 猿よりマシ。


10月9日木曜日晴れ△

 先日、葛飾区で相次いでいた釣り銭を狙った自動販売機への連続放火で、少年3人が警視庁に逮捕されたというニュースがありましたが、うちの店の側でもこんな醜い状態の自販機がありました。

 

 

 まあ、支那人が我が国に来た時に「道に金庫が置いてある」と自販機荒らしを繰り返したおかげで、自販機の防犯対策を高めなくてはいけなくなったという事実があります。

 今日は店頭のアイビーなどの整理。

 

 

 でっ、でかい。(面も態度も・・・・・つうのは置いといて)

 

六個で五キロ。

スポーツセンターに行き始めたころお世話になり、数年前に定年退職され、故郷の伊万里にお帰りになった伊藤さんより立派な梨をいただきました。

梨が好きなカミさんは狂喜乱舞。

 カミさんの朝ビールの残骸。

 

 二名様来店。

 一名様来店。

 Oさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 猿よりマシ。


台湾人、香港人の面汚し来店。

10月8日水曜日晴れ△

 まあ、我が国はもちろん、他のどこの国にもアホはいることぐらい私のような者でも理解しています。

 現実に、今日もアホ日本人女二人とアホ日本人男が一人来ました。

 でっ、アホ自称台湾人男二人、自称アホ香港人女一人の三人が連絡もなく当店にいきなり来ました。

 こいつらに対して、一応私としてはサービスでおつまみを出したりして、それなりに接したつもりですが、三人で会計二万三百五十円が気に入らなかったようで、

「領収書寄越せ」に続いて、

「高すぎる。酒の注文した明細を寄越せ」

と言ったので、

<美丈夫うす濁り四杯

瀧自慢純米大吟醸斗瓶取り二杯

磯自慢 純米大吟醸 山田錦 四十% 古家 一杯

磯自慢 純米大吟醸 山田錦 四十% 常田 一杯

磯自慢 純米大吟醸 山田錦 四十% 西都 一杯

酔鯨 純米大吟醸 斗瓶取り 八年古酒 二杯

十四代 純米大吟醸 龍の落とし子 二杯

飛露喜 純米吟醸 五十%      二杯

豆腐の味噌漬け 一つ

お通し 三人分>

飲んだ酒とおつまみ、お通しなどの明細をこのように書き写して渡したところ、

このヨッパライのアホウどもは

「間違っている。この十四代は一杯しか飲んでない」

とほざきよりました。

ホンマ、アホかと。

丁度、一番最初の客だったので、

洗ってまだ拭いてないその日使ったグラスを目の前に総て並べてやりました。

「ほら、お前らはこれだけ飲んでいるのだ。間違いないだろうが。このくそドアホウ」と。

でっ、カミさんが激怒して、英語、北京語、日本語でいろいろとそいつらに言いました。カミさんによると、最初は雰囲気が支那人かと思ったし、あんな下手な英語の香港人は初めてだとのことです。

下記はカミさんがフェイスブックに書いたことです。

<「我們有付錢?,?為什麼還要報警?」

昨天到店裡時,已經有氣場不尋常的兩男一女組合在?台。我打了招呼之後開始準備上工,此時聽到他們怪異的交談發音,「支那人?」,我想。

想不到他們其中一男竟然向我搭話「台灣人?」我正在思忖該如何回話,這人又説了一次「我們是台灣來的」,我雖然鬆了口氣但暗自吃驚,因為怎麼聽都不像,我最多只能想像他們是香港人。先生説「女性是香港人、男性是台灣人的樣子」。

不多久他們就示意結帳,聽起來女客人沒怎麼喝,因此兩位男性打算均攤酒錢,「等一下要不要跟老板照相?勾肩膀才像馬吉」,結果事情沒這麼簡單就結束。

結帳完,報公司帳的收據也要了,「能不能給我們明細?」。接過抄寫整齊的明細,這三位逐條檢討了數分鐘,這不是件値得介意的事,所以我別開注意力去做別的事。

接下來又把注意力轉回來,是在他們開始跟我先生詢問明細上「異常」的金額時。由於我比他們晩進店裡,他們喝了什麼我沒有目睹,所以原本不打算過問,不過交談開始膠著鬼打牆,我只好至少扮演翻譯的角色(向我搭話的男客會説很破爛的日語、破到有時候我聽不?;女性幾乎不説話、?一位説英語)幇忙一下我先生。

剛好,他們是昨晩第一組、也是獨占營業前半部的客人,因此光數空杯就非常清楚了,再對照消費明細,我完全能掌握状況。雙方認知差距漸漸拉近到只剩一杯之差(他們到底覺得我們是多K的店?,要坑殺他們幾杯??),一杯1,500円的十四代。

中間的爛爭論我就不贅述,只是不想花口舌在個一千五小錢上,所以叫我先生退一千五給他們我不想講了,我先生原本還很生氣覺得他又沒算錯為什麼要認錯,但?到後來他也抓狂,整晩酒錢都拿出來「錢我不要了?們快點走,晦氣!」

為什麼會?得無法收拾??因為首先女性明明沒喝酒、應該是最可能記得實情的人,但幾乎不説話、大概不想讓同伴漏氣?其他兩位有醉意又加上語言不通,光是客人方面的認知就一直無法同歩、爭論也不同調、最後發現是自己的錯的時候也是不知道在畏縮什麼不清楚表態道歉,完全浪費時間。

「所以是?們?錯?!」 我大概問了三次「?們真的是台灣人??」,然後我已經不想斟酌措辭了:「?們做的事跟支那人差不多耶。反正?們不會再來我們家了,但我真的勸?們在日本不要用這種態度去跟別的店家打交道、也不要説自己是台灣人,我這個台灣人看到?們感覺很可恥」

向我搭話的男人説「すみません」我吐槽「這不是すみません可以了事的???,這已經是申し訳ございません了」、他真的喝醉了,竟然還不倫不類地學我講了一次這句,我續吐「?不要講那種爛日語?臉,別人根本聽不?」,他還有話耶「?幇我翻譯我們不好意思是我們不對」,我再吐「我會講中日文不是用來幇?翻譯這種爛話的!」

「?們三個人來,花那麼久時間?這一杯一千五的東西。我們在這開店**年不是靠坑騙往來過客這種微不足道的小錢維生!1,500円是什麼?們曉得?去旁邊7-11打工一小時差不多1,000円?!證據也給?們看了而且不是也解釋到?們?了?,現在要怎樣?我再解釋10次好不好?」

想不出來要怎樣才能讓他們走,退錢也不收(醉男還繼續鬼打牆以為?上的錢是他們付的、還要我們找錢XDDDDDD),我打定主意不要再?了,就説「我報警可以??」。

於是醉男就説出了開頭那句「我們有付錢耶,為什麼?還要報警?」。

台灣人如果要用這種花錢就是大爺就可以為所欲為的態度當客人的話,拜託最好不要來日本?臉、待在台灣不要出國?>

 まあ、いろいろとあります。

 塩塩

 アホウ自称台湾人と香港人の写真撮っておけばよかった。

 これからは、鬱陶しいから外国の方はご紹介いただいた方だけにしよう。

 そのアホ自称台湾人、アホ自称香港人三人以外には

 二名様来店。

 ビールだけのお客様はお断りと書いてあるのに、

「ビールだけ」というアホ女二人とアホ男が三人で来店。

 塩塩。

 営業終了後、蔵元さんが送ってくださった新しい醸造年度の「三井の寿純米大吟醸Miyabi selection」をカミさんと利き酒という名目でドンチャン。

 

 猿でもエビでもない。        


テロリストから言われてもな

10月7日火曜日晴れ△

 昨日のチョンイル新聞の社説です。

以下引用

<テロリスト―生まない土壌つくろう

2014年10月6日(月)付朝日新聞社説

欧米各国や豪州、アジアの若者たちが続々と中東に渡り、イスラム過激派のために戦う。戦闘員として経験を積むと、今度は母国に戻って、市民社会を標的にテロを準備する――。

このような悪夢が、イラクとシリア国境地帯を本拠とする組織「イスラム国」の伸長で、現実のものとなりつつある。危機感を募らせた欧米などの主導で、国連安全保障理事会は、テロに対する措置を各国に求める決議を全会一致で採択した。

ただ、テロリストを摘発しようと治安対策ばかり強化しても、根源的な解決は導けない。なぜ若者が過激派に走るのか。

その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、「テロリストを生まない社会」を築く努力が必要である。

そのためには、心理学者や宗教者、教師、カウンセラーら、若者たちと接してきた専門家との協力も求められるだろう。

幅広い知恵を結集し、息の長い取り組みを続けてほしい。

「イスラム国」には、約80カ国から1万5千人以上が戦闘員として合流したとみられる。フランスや英国、ドイツなどからは数百人単位に達するという。

それぞれの国のイスラム系移民社会の出身者や、キリスト教からの改宗者が目立つ。多くは、貧困や失業に直面し、差別や偏見を受けて、母国で疎外感を抱いた若者たちだ。彼らに対して、過激派の巧妙な勧誘と宣伝が功を奏している。

安保理の決議は、このようなテロリストが国境を越えて移動するのを防ぐよう、各国に要請した。

確かに、テロを防ぐ司法・治安対策と、それに向けた各国の連携は必要だ。ただ、取り組みを進めるうえでは、細心の注意が求められる。目的を追求するあまり、それぞれの国が培ってきた市民の自由や人権が損なわれてはならないからだ。

テロ組織は暴力的で、動きも見えにくい。そのような相手に民主的な手法で対抗するのは、極めて難しい作業だ。

だとしても、欧米がテロ組織と同じレベルに立って力で応じれば、民主国家としての存在意義が問われるだろう。

ジレンマを抱えての、難しい戦いである。民主国家の耐久力が試される。

自由や人権の確保と、テロ対策とを、どう両立させるか。開かれた議論を重ねつつ、解決策を探る姿勢が欠かせない。

ボーダーレスのいま、日本人が攻撃に遭う可能性もある。テロと向き合う国際論議に私たちも積極的に参加すべきだ。 >

引用終わり

 散々我が国に対してテロ行為をしてきたチョンイル新聞が書く事でしょうか。

 チョンイル新聞は戦前は尾崎秀実などが、戦後は本多勝一本田雅和若宮啓文 加藤千洋植村隆など全社あげて我が国に対して言論テロとも言える反日活動を繰り返しています。

 こんな腐れマスゴミからテロについてもっともらしいことを言われたくはないものです。

 まさに「お前が言うな大賞」の有力候補のひとつです。

 そういや、人間のクズである本多勝一がアホな事を著書に書いていました。

 <文春系のゴロツキ雑誌が日本で存在出来る理由

  デマ(デマゴギー)という現象は、当初から悪意を持って謀略的に捏造されたか、または捏造の気はなくても悪意があるために結果として捏造になるいいかげんな流言でしょう。

 ところが、それが「ジャーナリスト」とか「記者」と名乗る範疇の人々によって書かれるとなると、これは「流言」だの「噂話」だのとは次元が異なってきます。そこには相応の責任が生じてくる。ただし、かなしいことに日本という民主主義(あるいは市民主義)の未成熟な後進国では、この「責任」に対する社会的対応が全然できていません。だから株式会社文藝春秋のゴロツキ雑誌がどんなにひどい捏造や改竄記事で名誉毀損や社会的害毒を流布しようと、実質的には責任などとらなくてよいし、とったためしもないのです。

 「たとえばアメリカ合衆国だったら莫大な損害賠償金を課せられる」(『噂の真相』1995年三月号での私のコラムから)ような酷い記事でも、日本では無罪になるか、せいぜいウン十万円程度のハシタ金で決着になります。日本の裁判がどれほど酷い事になっているか、実際に訴訟をおこした者以外には理解されにくいでしょう。行政権力に支配された癒着司法権力によって、市民の権利など事実上既に抹殺されているのが「日本の現在」といえましょう。

 となれば、ゴロツキ雑誌が無茶苦茶を書き散らすのも当たり前、無罪かウン十万円なら賠償金を払ってでも書きまくって、何百万円(時には何千万・何億円)儲ける方がトクをする点、これはだれだって理解できる当然の理屈です。したがって文春系のようなゴロツキ雑誌が“責任”をとって“謝罪”するときは、あくまで損得による計算と、市民弾圧の権力に加担する目的の二つを背景とする場合でしか無く、捏造や改竄を心から反省した結果の謝罪など、少なくともこの二、三十年の文春にあっためしなどほとんどないでしょう。これは法廷でも体験的に証言できます。

 今回の『マルコポーロ』謝罪廃刊事件が示したように、文春は経済的報復をしてくるような強い相手だけに“謝罪”するだけ、それだけのことです。

 JR東日本に対して『週刊文春』が降伏したのもまったく同じこと。本誌先月号(一九九五年四月号)で矢崎秦久氏(元『話の特集』編集長)G、日本ペンクラブによるJRへの抗議声明に疑問を呈しているのも、こうした背景を考えれば当然でしょう。日本ペンクラブは、文春系ゴロツキ雑誌による捏造.改竄記事で被害を受けた言論人のために、文春にたいしてこそ抗議声明を出すべきではありませんか。

 「日本の現在」がこんな情況なのですから、ゴロツキ雑誌の被害者に残された道は、もはや宅八郎氏式の「目には目を」しかなくなってきます。ソクラテスのように「悪法でも従う」ならば、ゴロツキ雑誌に無茶苦茶なことをされても、ひたすら「耐えるだけ」しかないのも「現在の日本」でしょう。

略)>

(『噂の真相』一九九五年五月号)

私は「貧困なる精神L」本田勝一著 朝日新聞 一九九六年刊 P百三十九〜百四十

 では、反日朝日新聞による捏造.改竄記事で被害を受けた我が国国民が、朝日新聞にたいしてこそ抗議声明だけでなく、損害賠償を求めるべきつうことですよね。

 「朝日新聞を糺す国民会議」

http://www.asahi-tadasukai.jp/

 さあ、朝日新聞の廃刊に追い込みましょう。

 しっかし、人間のクズ、ゴロツキの本多勝一からゴロツキ呼ばわりはされたくないものです。

 

 あほらし

 カミさんが今日は朝ビールやってないからと、店にきてすぐ飲み出したビール。

 三名様来店。

 二名様来店。

 一名様来店。

 Oさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 猿よりマシ。


ドアホウども

10月6日月曜日台風のち晴れ○

 なんでもパクる、なんでも起源を主張する朝鮮人が「憲法九条」だけはパクリもしなければ、起源も主張しません。

 それどころか、下記のような記事を掲載するほどです。

 以下引用

<日本国憲法9条、ノーベル平和賞有力候補に

記事入力 : 2014/10/06 11:11朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

「戦争する国を子どもたちに渡すことはできない」と主婦が署名運動、41万人が賛同 ローマ法王や国連事務総長を抑え有力候補に オスロ国際平和研「東アジアの平和維持に重要な役割」 「授賞した場合、安倍首相が授賞式に出席を」という声も

 日本の右傾化に対し国際社会の批判的な世論が広がる中、世界的な反戦・平和団体であるノルウェーの「オスロ国際平和研究所(PRIO)」が、今月10日のノーベル平和賞受賞者の発表を前に、最も有力な受賞候補に「日本国憲法第9条」を挙げた。

 PRIOのクリスティアン・ベルグ・ハープウィケン所長は今月3日(現地時間)に行った記者会見で「日本国憲法第9条は日本による朝鮮戦争への介入を防ぎ、東アジアの平和維持のため重要な役割を果たした。ノーベル平和賞を受賞すれば、日本と中国の領土紛争など、東アジアの安全保障に対する関心を高め、軍備増強を防ぐ上でプラスになるだろう」と述べた。1959年に設立されたPRIOは、十数カ国の研究員たちが活動する国際的な反戦・平和関連のシンクタンクだ。

 「平和憲法」とも呼ばれる日本国憲法の第9条は「国際紛争解決の手段としての武力行使を放棄し、国家の交戦権を認めない」という内容が盛り込まれている。このため、日本の歴代政権は、ほとんどの国家が権利として有する「集団的自衛権(同盟国に対する攻撃を自国への攻撃と見なす)」を、憲法9条に違反するとの理由で放棄してきた。ところが安倍政権は今年7月、閣議を通じて憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認した。日本が直接攻撃されることがなくても、戦争に参加する道を開いたというわけだ。

 憲法9条がノーベル平和賞候補に浮上したのは、神奈川県に住む主婦・鷹巣直美さん(37)の努力のおかげだ。鷹巣さんは2012年12月、憲法9条の改正を公約に掲げる安倍晋三首相が政権を取ったのを受け、「憲法9条にノーベル平和賞を」という運動に取り組んだ。憲法9条の改正を防ぐ最も効果的な方法だと判断したからだ。

 鷹巣さんは「オーストラリアに留学していた20代のころ、戦争から逃れて各国からやって来た難民たちと出会い、戦争の悲惨さを知った。戦争する国を子どもたちに渡すことはできない」と話した。市民団体もこの動きに加勢し、昨年8月に「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会が結成され、本格的な署名運動に取り組んだ。受賞者が個人や団体に限定されているノーベル平和賞の規定を考慮し「憲法9条を守っている日本国民」を受賞者として申請した。実行委員会は今年4月、ノーベル委員会から「278番目の平和賞授賞候補として受理した」との連絡を受けた。署名した人はこれまでに41万人を超えた。鷹巣さんは最近、日本メディアのインタビューに対し「もしノーベル平和賞の受賞が決まったら、安倍首相が日本国民を代表して授賞式に出席すればよい」と話した。安倍首相が現行憲法の改正を政治的な最終目標に掲げていることを皮肉ったというわけだ。

 今年のノーベル平和賞候補には、フランシスコ・ローマ法王や国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長、パキスタンの10代の女性人権運動家マララ・ユスフザイさん、ロシアの反政府派新聞「ノーバヤ・ガゼータ」など、過去最多の個人231人と47団体がノミネートされている。

東京=車学峰(チャ・ハクポン)特派員>

引用終わり

 ノーベル賞が欲しくてほしくてたまらないのに、銭で買った金大中の平和賞一個という朝鮮人がどうして九条をパクらないのでしょう。

 パクラないどころか、我が国に「九条を守れ」とアホな事をホザイているアホウ朝鮮人ども。

 

 

 何ともわかりやすいアホウ連中です。

 知れば知るほど嫌になる我が国の寄生虫・朝鮮人。

 さっさと断交するのが一番。

 朝鮮人、支那人どもが住みにくい国にする事が我が国国民のためになります。

 ホンマ、あほらし。

 カミさんの朝ビールの残骸。

 今日は午後より久々に古本屋さん巡り。

 カミさんは、買い物が終わった後、夜にひとりでご近所に飲みに行ったらアホカップル二組に挟まれて、アホな酒談義を聞いてあほらしくなり、聞きたくないのでイヤホンを取り出し音楽を聴いてたらついつい燗酒を飲み過ぎたようです。私が部屋に帰ってきたときは音楽をかけてご機嫌でしたがw

 私は今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。


相変わらず。

10月5日雨○

皇室典範 

第二十三条

天皇、皇后、太皇太后及び皇太后の敬称は、陛下とする。

前項の皇族以外の皇族の敬称は、殿下とする

http://www.houko.com/00/01/S22/003.HTM

NHK(日本放送協会)の放送文化研究所が、1954年(昭和29年)12月に刊行した『皇室関係放送用語集』

http://www.tanken.com/koshituyogo/index.html

http://www.tanken.com/koshituyogo/styled-2/index.html

 

<典子さまと千家さん 出雲大社で結婚式

10月5日 12時29分NHK

高円宮家の次女の典子さまと、島根県の出雲大社の神職、千家国麿さんの結婚式が5日、出雲大社で行われました。

5日は、結婚式を前に、午前7時半から千家さんの使いが典子さまを迎えにあがる「入第の儀」が行われました。 典子さまはこのあと車に乗り込んで、式場の出雲大社に向かわれました。 典子さまと千家さんの結婚式は、午前11時から始まりました。 日曜日ということもあり、大勢の市民や観光客らが見守るなか、典子さまは、袿(うちぎ)に切袴という平安朝ゆかりの装束に「おすべらかし」と呼ばれる髪型で、神職の正装をした千家さんと並んで境内をゆっくりと進まれました。 後ろには、典子さまの母親の久子さまと姉の承子さま、妹の絢子さま、それに千家さんの両親らが続き、式場となる拝殿に入っていきました。>

<高円宮家の典子さま、千家典子さんに 出雲大社で結婚式

島康彦、今林弘2014年10月5日21時29分朝日新聞

 高円宮家の次女典子さま(26)と、出雲大社権宮司の千家国麿(せんげくにまろ)さん(41)の結婚式が5日、島根県出雲市の出雲大社で行われた。女性皇族の結婚は、2005年の天皇、皇后両陛下の長女黒田清子さん以来。結婚式後、地元市役所に婚姻届が提出され、「千家典子さん」になった。

 結婚式後、典子さまと千家さんが報道陣の取材に応じた。千家さんは「これからは二人力を合わせて素晴らしき家庭を作っていきたいと思っております」と述べ、典子さまは「御儀式(おぎしき)が滞りなく済みまして、私もほっとしております」と笑顔を見せた。>

 かって、江藤淳は自身の著書「閉ざされた言語空間」にて

<現在、天皇と皇室に関して、宮内庁の指導下に放送・映画各社が行なっているという用語の自主規制は、もし事実とすれば、明らかに現行憲法のこの「検閲禁止」条項に接触するではないか。それどころか、このことはさらに進んで、現行憲法の施行後もなお、冥冥裡にCCDの検閲が続行していた占領下のそれと同質の言語空間が、少なくとも天皇と皇室に関する限り、依然として日本人の自由な自己表現を拘束しつづけていることを意味する。

P三五一

 と書いていたが、まさにそのとおりである。

歪んだマスコミの自主規制(皇室関係)

 台風が近づく中、下記のような天気図をみていると何か感じる日本人は多いのではないだろうか。

   

 店を片づけているとカミさんが来て、ベルギーのマイクロブリュワリーで仕入れてきたビールを飲みやがりました。

 私は今日は酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。


流石は第三書館

10月4日土曜日晴れ△

 古本屋さんで買ってきた本に挟まれていたチラシです。

 

 何度も週刊誌ネタになっていますが、この挟まれていた本が出た平成二年(一九九〇年)ごろは辻元清美氏の内縁の夫と言われていた元赤軍のコマンド北川明氏の会社である第三書館の役員でした。

 (登記簿上は、辻元氏は平成元年十二月三十一日に退任した形になってはいますが、その旨登記申請があったのは、九年後の平成十年十一月二十四日です。)

http://hp1.cyberstation.ne.jp/negi/DEMO/shaw/t006.htm

魚拓

http://megalodon.jp/2014-1005-2333-53/hp1.cyberstation.ne.jp/negi/DEMO/shaw/t006.htm

 流石と言わざるをえない。

 今日のカミさんの朝ビール。

 ベルギーで山ほど仕入れてきたうちの一本らしいです。

 

 三名様で予約があり、前日に五名に変更し、結局四名来店なのにお会計の時にこちらから言うまで何も言わなかった常識知らずの四名様来店。

 ユーさん来店。

 Kさん来店。

 ホロンさん来店。

 マヤ蔵さん七名様で来店。

 ドンチャン。

 

 記憶あり。

 猿よりマシ。


土井たか子

10月3日土曜日晴れ暑い○ (10月5日追記訂正)

 どうでもいい事ですが、売国奴・土井たか子が先日死んだそうな。

 かって、社会党は我が国の国防力をいかに削ぐかという事に腐心しました。社会主義国家樹立を夢みた土井たか子などはソビエトが攻めてきた時には「白旗」をあげ、その後は「赤旗」をあげるという「赤旗・白旗論」信奉者です。 

 ソビエトが攻めやすくするためには我が国の国力を削ぐ必要がある。そのためには何でもやった。つまり、我が国の為になる事は何もしなかった典型的腐れ売国奴、まさに人間のクズであった。

 

 その土井たか子について慰安婦についても下記のような報道がされている。

 <慰安婦問題では、当初は強制連行の有無が争点だったのに、強制連行の証拠が見つからないと、今度は軍関与自体が問題だとすり替えられた。「『従軍慰安婦』という言葉は戦後の造語であり、当時はなかった」と指摘した学者や議員は、「従軍慰安婦(の存在)を否定する人たち」(土井たか子元衆院議長)とレッテルを張られた。>2007.10.15 22:27産経新聞

 今発売中の週刊新潮でも下記のように掲載されている。

 以下引用

 従軍慰安婦問題といえば、土井氏を政治の世界での母親のような存在と慕う福島瑞穂・社会党前党首の十八番という印象が強い。

 だが、母も娘を援護射撃していた。

 一九九一年の統一地方選挙で敗北し、社会党委員長を辞任した翌九十二年二月、衆院外務委員会で質問に立った土井氏はこう述べている。

<今しきりに問題になっている、私自身も聞いて胸が詰まる思いがするのですが、従軍慰安婦の人たち従軍慰安婦の人たちの問題、どう抗弁いたしましても日本国民として恥ずかしいです。大変恥ずかしいと私は思っている>

 そして、

 <外務大臣はどう思いになりますか。恥ずかしいと思いになりませんか。いかがですか> と激しく詰め寄った。

 今となると、読んでいるこちらの方が恥ずかしくなるような剣幕で従軍慰安婦問題を煽っていたのである。

引用終わり

 週刊新潮平成二十六年十月九日号P三十四

 

 国会の検索システムでは、土井たか子が初当選の昭和四十四年から引退する平成十七年まで国会で「慰安婦」について国会で述べたのは下記の一回だけです。

  

<土井委員 最近非常にニュースでクローズアップをされております従軍慰安婦の問題も含めて強制連行をされた人たち、従軍した人もあれば、あるいは日本の国内で炭鉱やまた建設現場や軍需産業なんかで強制労働に従事した人もございますが、そういう人たちから補償の請求があるときに、もうこの問題は解決済みでございますという答弁を今までされてきた。解決済みとおっしゃる根拠はどこにあるのですか。

[001/001] 123 - 衆 - 外務委員会 - 2号

平成04年02月26日

 週刊新潮の内容とニアンスが違う。と書いたのですが、ご指摘があり、続いて

<土井委員 さあ、ここで外務大臣にお答えいただきたいと思うのですが、これは今しきりに問題になっている、私自身も聞いて胸が詰まる思いがするのですが、従軍慰安婦の人たちの問題、どう抗弁いたしましても日本国民として恥ずかしいです。大変恥ずかしいと私は思っている。外務大臣はどうお思いになりますか。恥ずかしいとお思いになりませんか。いかがですか。

[001/001] 123 - 衆 - 外務委員会 - 2号

平成04年02月26日

 という発言が確かにありました。

 申し訳ございません。訂正させていただきます。

 私が仕込みしている最中に、

カミさんがジョギング後に喉が渇いたと美容室へ行く途中に店に寄り、さっさとビールの栓を開けて飲みやがりました。

 バンブーさん来店。

 一名様来店。

 Sさん来店。

 金曜日だというのにえらくヒマ。

 今日は飲まず。

 カミさんだけ。

 当然、記憶あり。

 サルでもエビでもない。


豚つながり・親父と一緒

10月2日木曜日晴れ△

 あの北朝鮮の豚の記事です。

<金正恩氏、両足首にひびで今月中旬に手術

平壌市内の病院に入院中との情報

鮮日報/朝鮮日報日本語版記事入力 : 2014/09/30 09:11

 北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党第1書記が、両足首の骨にひびが入り、9月中旬に北朝鮮の特権階層向け病院「ポンファ診療所」で手術を受けて現在も入院中であることが29日までに分かった。

 最近北朝鮮を訪れた有力な北朝鮮消息筋は同日「金正恩氏は今年6月に現地指導に出向いた際、右足首にけがを負い、これを放置していたら両足首の骨にひびが入ったと聞いている。9月中旬にポンファ診療所で手術を受け、現在は特別室病棟でリハビリ治療を受けているようだ」と伝えた。

 この消息筋によると、金正恩氏が入院しているとされるポンファ診療所の特別室病棟周辺には護衛司令部の軍人たちが集中的に配置され、出入りする車両や人を厳重に規制しているという。また、特別室病棟を訪れる最高幹部クラスが目に見えて増えたとのことだ。韓国の情報当局の関係者は「最近、金正恩氏専用の『1号車両』が平壌地域から出ていないことが確認された。金正恩氏は平壌にとどまっている可能性が高い」と話した。

 この関係者は「金正恩氏は肥満のせいで過体重になっているにもかかわらず、背が高く見えるシークレットシューズを履いて軍部隊や産業の現場の視察を続けた結果、足首に無理な負荷がかかったようだ。正恩氏の体重は正確には分からないが、170センチの身長に対してあまりに重すぎる状態」と話した。金正恩氏は父から権力を継承して以降、体重が急増したという。

 金正恩氏が先天的な肥満と度重なる飲酒によって痛風の症状が急激に悪化したとの見方も一部にある。労働新聞は先日「空も地面も蒸されるような酷暑」「三伏(夏の最も暑い時期)の中でも一番暑い日に…」などの表現を用い、金正恩氏が猛暑の時期に強行スケジュールをこなしていたことを強調した。

 金正恩氏が25日に開催された最高人民会議(国会に相当)第13期の第2回会議に出席できなかったのも、手術を受けて正常な活動が困難だったためとの分析だ。

 韓国政府当局者は「若い金正恩氏が痛風のせいで最高人民会議にすら出席できなかったとは考え難い。しばらく動けないほど体の状態が悪化していた可能性が高い」との見方を示した。この当局者はさらに「足を引きずる状態よりさらに悪化し、松葉杖や車いすを使わなければ動けない状態になっていた可能性もある」とも話した。

 北朝鮮の朝鮮中央テレビは25日「不自由な体にもかかわらず人民のための指導者の道を炎のように進み続けておられる」と報じ、金正恩氏の健康に問題があることを公式に認めた。欧州の医療陣が最近になって北朝鮮入りした事実も韓国の情報機関が把握している。

 一部では金正恩氏が足首の手術などによって健康が悪化し、活動が制限されることで、体制の安定性にも問題が生じる可能性があるとの憶測も流れている。

キム・ミョンソン記者>

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/09/30/2014093000966.html

 先代のアホ豚についても下記のような記事があります。

 

<金正日委員長の靴は高さ12センチ…米メディア

2009年08月06日14時12分

[? 中央日報/中央日報日本語版]

  北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)国防委員長の厚底靴(platform shoes)が話題になっている。 金委員長の厚底靴には韓国よりも米国のネットユーザーが大きな関心を見せている。

  金委員長の厚底靴は、4日、ビル・クリントン元米大統領と会った場所で確認された。 朝鮮中央テレビがこの日報道した会談の写真では2人の靴が並んでいた。

  この写真の金委員長の靴を5倍に拡大すると、高さ12センチの厚底靴であることが分かった。 金委員長の靴は、かかとだけが高かった過去とは違い、靴底全体が高くなっている。

  ある米国メディアは「金正日は外貌をかなり気にしているようだ。 身長が低いため、厚底靴を履いて身長を高く見せようとしている」と論評した。

  マイクロソフト社が運営する検索エンジン「Bing」でも「Kim Jung Il’s platform shoes」という言葉が検索後順位で上位に入った。 これを受け、外貌に関心が持つ米国の若者の間で厚底靴が人気を呼ぶという主張が出てきている。

  金委員長の厚底靴は2年前にも世界的な関心を呼んだ。 金委員長の身長は165センチと伝えられているが、実際にはもう少し小さいと把握されている。 金委員長が小さな身長を補強するため厚底靴を愛用してきたことは以前から知られてきた。

  しかし健康が悪化してからはスニーカーを履いていた。 金委員長の厚底靴が消えたのだ。 健康異常説が出ていた金委員長が今回、クリントン元大統領との会談で厚底靴を履いたことが明らかになり、健在を国際社会に誇示した、という評価が出ている。>

http://japanese.joins.com/article/887/118887.html

 他にも身長一八〇センチの習近平、一七五センチの金大中と比べた時の画像。

  

 こんなつまらんところで見栄をはる人間のクズども。

 あほらし

 カミさんの朝ビールの残骸。

 二名様来店。

 二名様来店。

 相原さん来店。

 

 でっ、カミさんと三人で遅くまでドンチャン。


10月1日水曜日晴れ△

 私もこの写真を見た時に、あのアホ南朝鮮大統領だったらやるだろうと思ったのですが、

<カナダに招かれた日本と韓国の国旗が

カナダ国旗とともに掲げられた通路を

避ける朴槿恵大統領。>

http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plusd/1411883542/

http://blog.livedoor.jp/kiriritto/archives/1010138020.html

http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/41073400.html

http://bishojo.blog.jp/archives/1010141210.html

http://himanavi.xyz/kizi/84447/

 でも、「Canada   South Korean President」で検索しても下記のような写真しか出てきません。

 あと、朴大統領は今年の九月二十日〜二十二日までカナダを国賓訪問していましたが、我が国首相はカナダにはネットで調べた限りでは平成二十五年九月二十三〜二十四日ですので、カナダにおいて我が国国旗と南朝鮮国旗が一緒に並ぶ事は無いと思います。

 

 元のソースをご存知の方、お教えいただければ幸いです。

 築地本願寺にアホな停め方をしていた車。

 

  

 三名様来店。

 二名様来店。

 Mさん二名様で来店。

 Kさん三名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ


 

 


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