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一杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成22年8月分

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


堺屋太一

我が国は「技術大国でない」「物造り」をやめろ、支那には水問題が無いという堺屋太一

8月31日火曜日晴れ △

 上海万朴(万博ともいう)日本産業館の館長を務めている堺屋太一氏は、随分前の週刊現代に「中国は覇権国家でない」「近代工業社会のステップを凄い勢いで駆け上がっている中国は、自信に溢れています。」という記事を書いていたが、少し前の週刊現代にも「中国から見たニッポン」と題した記事を掲載し、その中に「日本は本当の中国を知らない」として下記のような事を書いています。

<日本は依然として「モノづくり」の道を突き進もうとしている。つまりいちばん衰退するところへ向おうとしているわけです。

 これから日本がモノづくりで生きていこうとするなら、中国やベトナムの工場と競争する覚悟がいります。

 労働者の賃金だけでなく、高速道路や水道もものすごく安く、公害問題にもさほどお金をかける必要も無い国と本気で競争して勝つだけの覚悟がいる。>

「週刊現代」(講談社 平成二十二年八月十四日号)p五十二

  

 堺屋氏は我が国に「物造り」をやめろ、技術大国は諦めろと言っているのです。

 支那に水問題、公害問題は存在しないとでも言うのであろうか。

<環境衛生調査の結果、 44.3%の農村で飲用水が衛生基準に達していない>

サーチナ中国情報局 2008/02/29(金)

<山東省を流れる小清河は、汚染が深刻だ。省政府が川の浄化に取り組んで20年が経過したが、一行に効果がない。

略)

 小清河の水の供給源は黄河から地中を通って浸出してくる水とその他の湧き水だが、1970年ごろから都市部で地下水の汲み出しが盛んになり、湧き水は減少の一途だ。

略)

 また、小清河に流れ込む大小150の支流には100以上のダムが築かれ、容量の合計は5億立方メートル以上に達した。支流からも水供給も以前に比べれば激減している。

 一方、流域の工場は汚水を小清河に流し続けている。その中で、特に問題が大きいとされているのが、製紙企業と化学工業企業だ。この2業種からの廃水によるCOD(化学的酸素要求量)は、小清河の水のCODの67%を占めると考えられている。また、排水中のアンモニア態窒素にいたっては88.7%を占めている。

  省政府は、07年末までに新たに11カ所の汚水処理場を完成させる予定だ。すでに7カ所が完成しているが、現在のところ生活排水の浄化率は63.6%。40%近くの生活排水はいまだに、何の処理も行われないまま小清河に垂れ流されている。>

(サーチナ・中国情報局) - 2006年10月6日19時8分更新

北京の大型容器飲料水市場では、少なくとも半数が偽物で、たとえ生産販売業者でも偽物を避けることができないほどだという。>

大紀元日本平成十九年七月十二日

 そして、支那の治水問題について宮崎正弘氏は自らのメルマガにおいて、<北京へ水を引くために北の湖にダムをつくって水路を構築する由ですが、なんと琵琶湖から東京へ水を引く距離ですよ。>と書かれています。

 支那が我が国の水を狙っている事は既に報道されています。

 支那の公害の酷さは既に多く報道されています。

 その為に我が国の技術を支那は欲しています。

 堺屋氏は年甲斐もなく腐れ支那政府のハニートラップにでも引っかかったのか。それとも老人ボケしているのか?

 Sくん来店。

 Tさん来店。

 Bさん来店。

 奥様が名古屋の松坂屋で個展を開くそう。

 Tさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


マッサージ江上院

8月30日月曜日晴れ○

 午後二時過ぎに「一笑」さんのママさんと江戸川橋駅改札口で待ち合わせて、馬込にある江上マッサージへ案内。

 江上さんとは約三十年前にメキシコのグアダラハラでプータロウをやっている時に知り合い、それからおつき合いしていただいている。

 当時、江上さんは武道の普及でメキシコに滞在していた。

 私は単なるプータロウ。

 ママさんは、背中の張りがあるそうで約二時間のマッサージ。

 江上さんのマッサージは一時間半から二時間ぐらい入念にやり、これで五千円だけとは余りにもと思うが、江上さんは自分でマッサージ院を開いて二十年以上ず〜と変えていない。

 

 帰宅後、シャワーを浴び、その後はマンガなどを読みながらゴロゴロとして一日が終わる。

 酒は飲まず。


飲んべえの会「美丈夫」

8月29日日曜日晴れ △

 今日は「一笑」さんにて「美丈夫」の蔵元・濱川社長もいらしてくださり飲んべえの会。

 午後三時から始まった飲んべえの会は六時過ぎまで一笑さんにてお世話になる。

 「一笑」さんは移転のため、現在の場所での飲んべえの会は今回が最後となります。

 出品酒

NO.1 平成22年 美丈夫 鑑評会出品酒
NO.2 平成22年 夢許     純米大吟醸 30%
NO.3 平成21年 夢許     純米大吟醸 30%
NO.4 平成20年 夢許     純米大吟醸 30%
NO.5 平成13年 夢許 斗瓶取り純米大吟醸 30%
NO.6 平成22年 美丈夫 純米大吟醸    40%
NO.7 平成22年 美丈夫 純米大吟醸    45%
NO.8 平成22年 美丈夫 純米吟醸     50% 山田錦
NO.9 平成22年 美丈夫 純米吟醸     50% 雄町
NO.10 平成21年 美丈夫 純米吟醸     50% うすにごり
NO.11 平成20年 美丈夫 純米吟醸     50% うすにごり
NO.12 平成19年 美丈夫 純米吟醸     50% うすにごり

  

 

   

 

   

 

   

   

   

   

 

   

   

 

 その後、当店にて二次会。

 単なるドンチャンですけど。

   

   

 

 洗い物もドンチャン終了と同時に終わっており、めぐ蔵さんがいてくれて助かりました。

 今日は珍しく記憶あり。

 サルよりマシ。


 

8月28日土曜日晴れ △

 今日は土曜日なのに珍しく忙しい。

 Hさん友人の方と来店。 

 KさんHさんと来店。

 Wさん御夫妻来店。

 Sさん、Tさん来店。マルガリータさん合流。

 Sさんの退院祝いという事でドンチャン。

 Tさん来店。

 Hさん来店。

 ドンチャン。

 珍しく記憶あり。

 サルよりマシ。


美丈夫

8月27日金曜日晴れ△

 美丈夫の蔵元さんから、二十九日日曜日に使う酒が届く。

 当店で寝かせてあった夢許などを加えて、十二種類の出品酒となります。

 

 

 出品予定酒

NO.1 平成22年 美丈夫 鑑評会出品酒
NO.2 平成22年 夢許     純米大吟醸 30%
NO.3 平成21年 夢許     純米第吟醸 30%
NO.4 平成20年 夢許     純米第吟醸 30%
NO.5 平成13年 夢許 斗瓶取り純米大吟醸 30%
NO.6 平成22年 美丈夫 純米大吟醸    40%
NO.7 平成22年 美丈夫 純米大吟醸    45%
NO.8 平成22年 美丈夫 純米吟醸     50% 山田錦
NO.9 平成22年 美丈夫 純米吟醸     50% 雄町
NO.10 平成21年 美丈夫 純米吟醸     50% うすにごり
NO.11 平成20年 美丈夫 純米吟醸     50% うすにごり
NO.12 平成19年 美丈夫 純米吟醸     50% うすにごり

  

 今回は美丈夫の最高酒である夢許の四年の垂直、そして、今年の30〜50%の水平です。

 13年(12BY)は当店にも後一本となります。

 うすにごりは当店が現在出させていただいております21年(20BY)が一番新しくなります。

 今日は早い時間からめちゃ忙しい。

 Oさん来店。

 バンブーさん来店。

 小胡子さん、BOOちゃん来店。

 Fさん来店。

 今年は八月十四日に靖國神社に参拝されたそうですが、その時でも大勢の方が参拝されていたそうです。

 Oさん二名さまで来店。

 Oさん、Sさんのギリギリブラザーズ来店。

 Tさん来店。

 タイに赴任しているチヒロさん来店。

 途中から洗い物もせずにドンチャン。

 

 洗い物を片付け、カウンターでボケーとしていたら、そのまま寝てしまい、Sさんからのお誘いの電話で起きる。「エムズバー」さんに伺い、ビール。

 今日は最後まで珍しく記憶あり。

 サルよりマシ。


 

本多立太郎への素朴な疑問

支那人美少女との交流

8月26日木曜日晴れ △

 軍隊生活について、

 本多氏は<私は、毎週日曜日、金檀公園に行き、本を読んでいた。ある日、美しい中国人少女を見ました。とても歌の上手な少女でした。

 ある時、一曲歌ってくれませんか、というとその少女はものすごく怒りました。

 『私が歌う唄は、国の為に戦死した勇者の為で、あなたたち日本人の為には歌いません』と言って桃林の方へ走り去った>

「SAPIO」平成十七年九月七日号より

 これと同じような、しかし、背景が全く違うエピソードが本多立太郎氏の著書「ボレロが聴きたい」にもあります。

以下引用

<我々の駐留した金壇の小公園で知り合った少年がおりまして、休日ごとに高い城壁の上に足をぶらんぶらんさせながら、日本や家族や未来の夢などを語りました。

 中学一年生くらいの彼は、戦争が終わったら日本に留学するんだと瞳を輝かせます。私自身そうすることで自分の望郷の念をいやしていたのです。それほど眼下に広がる白壁の農村風景は日本の田舎のそれとそっくりでした。こうしてその少年の家族、県公署に務める父親や母親とも親しくなりましたが、その中でただひとり、当時高校生だった姉だけは身をかくして私を避ける様子でした。しかし、そうであればあるほど、一人の若者として異国の少女への関心が深まっていったのも、これまた当然で、諸君にも大いに見に覚えがあるんじゃあないですかと思います。

略)

 それは、春の一日の出来事でした。城外の梅林に一家の花見の宴が開かれて、私も招かれました。硝煙の匂いに包まれる身としては夢のような幸せ、の一日でした。私はその幸運に少し酔いすぎたようです。宴の半ばに、父親は娘に向って得意の歌を所望しました。なかなか立ちませんでした。そのうちに、彼女はすっくと立ち上がると私を鋭く見据えて切り捨てるように叫びました。

 「私には、殉国の勇士に捧げる歌はあっても、祖国の仇敵に与える歌はありません」

 そのまま娘は青衣の裾をひるがえして梅林の奥へ走り去りました。私はその意味を覚りました。

 娘は林の奥の老樹の下に面を蔽って佇んでいました。その青衣の細い肩が赤い花片をのせて細かく揺れています。私はその限りなく可憐な姿の前に立ち、項垂れて咳くように、しかし心をこめてこう言いました。

 「いつの日か、貴方の幸福の歌を聞かせていただく日を私は待っています。その日こそ私達に日本人にとっても本当に幸せな日となるでしょう。心からそう祈っています。」

 そのまま私は

 やがて部隊に出動の命令が下り、我々は軍装して兵舎から城門に向いました。石畳の道に軍靴を鳴らして行進する私の胸の中に、一人の少女の顔が鮮やかに浮かんできます。しかし、彼女が私に対して持つものは激しい憎しみに外ならない。兵士の心は揺れました。突然、列中に少年の姿がひらめき、私の掌中に一枚の紙片を残し「姉が・・・・」と低くささやいて消えました。

胸を轟かせながら披いたその紙片には、墨痕も鮮やかにこう書いてありました。

 君 我同胞を傷つくる勿れ

 君 死に給う事勿れ

 私は思わず顔を上げ眼を辺りに泳がせました。そしてそこに見たのです。黙々と見送る市民たちの後ろに、頷いている小さな白い顔を。その時それは私の生命でした。いきなり私の身につけた総てを投げ打って、少女の前にかけよりその手を取って、殺すものか、死ぬものかと叫びたい衝動にかられました。

 しかしそのかわりに、私は彼女に向ってちょっと肯づき、微笑みました。少女もまたちょっと肯づき、微笑みましたが見る見る、その黒く大きな瞳に涙が溢れてきました。涙は細い頬を伝わって落ちました。涙は同じように溢れて止まりませんでしたが、私は前を向きました。ぐいと背のうを揺すり上げ、江南の長く白い道に向って胸を張りました。

 君 我同胞を傷つくる勿れ

 君 死に給う事勿れ

 私は心に誓いました。たとえ死なぬという約束は守れなくても、殺さぬ誓いは守り通そう、と固く心に決めました。それはまさに一人の兵士の新しい門出でした。>

「ボレロが聴きたい」P三十六〜三十八

 えらくカッコいいのですが、マジかいな。

 

<私はずっとオクテでしてね。あんまりあの若い時に仲良くなった女性がおらんのですが>

「ボレロが聴きたい」P三十六と書きながら、同書には日本でも何人もの女性とのエピソードが出てきます。 

 支那でも同様だったようですが、これについて、五十一連隊第二大隊六中隊の伊藤良治氏(当時八七歳)は

「なに、アホなこと、言っている!前にも言ったが金檀―下新河間は二十km離れている。毎週金檀の公園に本を読みに行く事等ありえない。  また、六中隊に中国語を話せる兵士など誰もいない。台湾人の通訳がいたが」

 同じく第五十一連隊第一機関銃中隊・加藤又一氏(取材時九三歳)は

「初年兵は、休日には先輩の洗濯等の雑用がいっぱいあり、常に臨戦態勢。ゆっくり休む事などできない。

 しかも、金檀城内の中国人は日本人を怖がるようなことはなかった。昭和十五年には、日支合同運動会や金檀住民が日本軍のために慰問演芸会を開いてくれたこともある」 (歩兵第五十一聯隊史より)

 水間氏が再度、本多氏に中国語を勉強したのかと確認すると

「いやいやなにもしない。中国語はまったく。これから少し勉強しようかなと思っているけど。

 金檀の公園で本を読んでいたのは事実だ」

 つまり、話す事もできない中国語なのに、支那人少年と夢や未来を語り、少女が言った言葉は理解し話をしたと言っているのです。

あほらし。

 初めてのお客様二名さま来店。

 めぐ蔵さん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 初めてのお客さま三名様来店。

 ドンチャン。今日は記憶あり。サルよりマシ。


 

本多立太郎への素朴な疑問

軍歴について

8月25日水曜日晴れ ×

 本多氏は著書の中でご自分が入隊した部隊について

<一九三九年、昭和十四年五月に召集。

略)

 それで札幌の連隊に入り、それから中国へ、南京と上海のちょうどまん中へんに江蘇省金壇という所がありまして、そこに駐留する部隊に配属され、もう上陸して直ぐ弾丸の下という、殺さなければ殺されるという凄惨な日々を過ごす事になりました。

 そして次の年ですか、一九四一年の五月に召集解除になって一端家に帰りましたが一年十ヶ月ほどでまた召集。今度は北千島へ持っていかれました。北千島幌筵島、つぎに占守島という一番端の島まで行って、そこで一九四五年八月十五日を迎え、やれやれこれで帰れるかと思いましたら、その年の十二月にそっくりそのままシベリヤへ持っていかれました。>

「ポレロを聴きたい」p四

<帰郷し入隊して三ヶ月の教育訓練を受けた後、中国へ送られることになりました。

 八月の暑い日でしたが、札幌駅前の広場に叉銃して休憩しておりますと、周りを取り巻いて>

「ポレロを聴きたい」p二十一

<その時、私と同じ中隊から中国に渡ったのは二十五人でした。二年半後、共に帰ったのは二人です。四、五人負傷して先に帰りました。同じくらいの数が志願して大陸に残りました。後はみんな死んでしまった。>

「ポレロを聴きたい」p24

<一九四一年、昭和十六年の二月十一日から、揚子江渡河に始まる「揚州作戦」が始められました。>

「ポレロを聴きたい」p26

<昭和十八年三月に始まる二度目の応召は、最初から釦を一つずつ掛け違えたようなおかしさがあった。

 略)

 旭川歩兵二十六連隊の正門前に机を並べて受付が出来ていた>

「ポレロを聴きたい」p六十一〜六十三

<我々が北千島幌筵島柏原湾に上陸した昭和十八年五月>

「ポレロを聴きたい」p六十七

 これがこの本多氏の著書に掲載されている入隊した連隊を記した軍歴です。

 これより、本多氏は

 昭和十四年五月東京の新聞社に勤めている時に、召集にて札幌の連隊に入隊。

        入隊して三ヶ月の教育訓練を受けた後

 昭和十四年八月支那大陸へ。

        江蘇省金壇に駐留する部隊に配属

 昭和十六年二月十一日からの「揚州作戦」に参戦

 昭和十六年五月に召集解除

        二年半後、共に帰ったのは二人。

 昭和十八年三月に始まる二度目の応召

        旭川歩兵二十六連隊

 昭和十八年五月

        北千島幌筵島柏原湾に上陸

        その後、占守島に移る。

 昭和二十年八月十五日       

        占守島にて終戦

 昭和二十年十二月

        シベリヤへ送られる

 昭和二十二年八月

        舞鶴に帰る。

 以上のような軍歴になります。

 

 連隊名こそ書いていませんが、昭和十四年五月に札幌で入隊するということは札幌歩兵二十五連隊であろうと思われますが、本人は他の著書でも歩兵第五十一連隊に入隊していたと言い張っています。

 二回目の召集は書いてあるように旭川歩兵二十六連隊です。

 札幌歩兵二十五連隊は支那大陸へは昭和十三年三月徐州会戦に参加し、翌昭和十四年五月、ノモンハン事件にも参加しています。

 しかしながら、昭和十五年十月に帰還しております。

 そして、昭和十五年十一月より樺太・敷香町に移駐し国境警備に当たります。

 昭和二十年四月同じく樺太・逢坂に移駐し、八月十五日の終戦後より二十三日まで、卑劣なソ連軍と戦闘します。

 終戦時所在地・樺太

 旭川歩兵二十六連隊の場合はどうでしょう。

 終戦時所在地・帯広

  旭川歩兵二十七連隊

       八月二十七日 - 天寧高地にて軍旗奉焼

  終戦時所在地・釧路

  ちなみに、本多氏の終戦を迎えた「はず」の占守島では陸軍の主力は第九十一師団で、その創設は昭和二十年四月十二日。

 その最終所属部隊である歩兵七十三旅団、歩兵七十四旅団は旭川で編成されているが、両旅団とも昭和十九年四月十二日に編成されている。

 

  本多氏は「サピオ」に書かれていたジャーナリストの水間政憲氏による「捕虜殺害から従軍慰安婦問題まで中国で土下座行脚する『戦争の語り部』の大嘘」と題した「SAPIO」平成十七年九月七日号p三十〜三十三の記事について、著書「戦争出前噺 ――元日本兵は語る 」 (みずのわ出版 平成二十年五月刊)において、その水間氏の記事を否定しながらも自らは「歩兵第五十一連隊に入隊していた。自分が除隊したあとで歩兵第五十一連隊南方へ行きそしてビルマのその作戦に参加している。」と語っています。

 確かに、歩兵第五十一連隊だと、

 昭和十八年六月 ビルマ方面に移動

 昭和十九年インパール作戦参加

 そしてタイ・ワンボウにて終戦ですので、本多氏の第一回目の召集から召集解除まで支那にて移駐していました。

 帝国陸軍の場合、連隊を編成している兵はその管轄地域の徴兵によって充足されるため、東京の近衛連隊以外はその連隊はそれぞれ出身地別に分かれる場合が多いはずです。

 牧野弘道氏の著書「戦跡に祈る」(産經新聞社)などでも五十一連隊と十五軍を形成していた三十三師団(弓兵団)・歩兵第二百十五連隊のビルマ・マンダレーにある慰霊碑の事が出てきます。

 高崎連隊である第二百十五連隊は群馬県、長野県の出身者で構成されていました。

 そして、歩兵第五十一連隊は三重、京都、奈良の出身者で構成されていました。

 三重県護国神社内にある「歩兵第51連隊慰霊碑」の碑文は下記のようです。

「聯隊は明治38年創建、樺太等に出兵、爾後神都守護の大任を以て、三重縣久居市に駐屯す。 然るに大正14年5月、軍縮により廢止せらる。 昭和13年7月、日華事變の擴大に伴ひ再建、三重、京都、奈良で編成を完結、第15師團の隷下に入り同年8月渡支、南京東南地區に分駐し、治安警備並に各作戦に参加、赫々たる武勲を収む。 大東亜戰急を告ぐるや、昭和18年8月ビルマに轉進、インパール作戦に加はり眞に特攻精神を發揮す。 昭和20年8月15日大命により終戦。 此の間軍旗の下盡忠報國祖国繁栄を祈念しつゝ國家の人柱となられた戦友は實に4千有餘柱に及ぶ。 茲に護國の神となられた英霊の名を誌し供華臺に納め鎮魂の碑となす。 昭和51年4月 歩兵第51聯隊 (祭第7370部隊)生存者一同」

 

 このように、歩兵第五十一連隊は三重、京都、奈良の出身者からなる連隊です。その連隊に北海道出身であり東京有楽町で働いていたはずの本多氏は、召集で「東京から北海道札幌まで行って入隊」したのに、その後、どのような経過で「三重、京都、奈良出身者」で編成されている歩兵第五十一連隊に入隊したのでしょう。

 その経過がこの本多氏の著書「ポレロを聴きたい」には書かれておりません。

 このように、本多氏の軍歴だと、札幌歩兵二十五連隊、旭川歩兵二十六連隊、旭川歩兵二十七連隊、もちろん歩兵五十一聯隊のいずれにおいてもそれぞれの連隊の沿革と本多氏の軍歴とが合わず、その入隊が証明できません。軍人が自分の属した部隊名を間違う事などありません。

 私は本田氏とは自分の経歴、軍歴について平気で嘘を言い続けた大山倍達氏と同様の人間としか思えません。

 あほらし

 河岸が休みなので、午後から銀行に行って人が多く並んでいたのでッ初めて気がつきましたが、今日二十五日は世間一般ではお給料日ということになっています。

 結局、並ぶのもアホらしいのでそのまま帰る。

 店の早い時間は初めてのお客様Kさん二名さまで来店。

 Kさんがお帰りになった後、そのままず〜とヒマでこのまま営業終了かなと思っているとWさん御夫妻来店。

 初めてのお客さまHさん、Sさん二名さま来店。

 同じく初めてのお客さまHさん二名さま来店。

 Hさんは大阪よりの出張でいらして、地元の皆さんから「どんな店か行ってこい」ということで来店されたそうで、明日は靖國神社に参拝されてから帰られるそうです。

 ドンチャン。

 記憶無し。サル・・・・・・


 

本多立太郎への素朴な疑問

講師派遣というものについて

8月24日火曜日晴れ ○

 あのエロ日新聞(毎日新聞)の「第二の松井やより」「毎日の松井やより」いや、それよりもいっそ「第二の浅海一男大記者」を目指すのか。

何にしてもその才能はたっぷりとある久木田照子記者が、支那がネット上で特集ページまで作っている「土下座屋」本多立太郎氏が御亡くなりになった時に下記のような記事を書いている事はこの日記にも掲載させていただきましたが、もう一度一部引用させていただきます。

以下引用

悼む:旧陸軍兵士・戦争出前噺1300回、本多立太郎さん=5月27日死去・96歳

 ◇「最悪の事実」包み隠さず−−本多立太郎(ほんだ・りゅうたろう)さん=腎臓がんのため5月27日死去・96歳

 第二次大戦で中国などに出征し、その体験を全国で話し続けた。「平和を守ろう」とは言わなかった。「私の罪は消えない。語るなら最悪の事実を語るべきだ」と約25年間、つらい記憶を淡々と話し、「聞いた人が自分で考えてほしい」との姿勢を貫いた。

 略)

 金融機関を退職後の86年、「孫に軍服を着せたくない」と戦争出前噺(ばなし)を始めた。

 略)

 09年6月、京都市の龍谷大で出前噺に臨む本多さんを取材した。背筋を伸ばして語る姿は95歳には見えなかった。捕虜殺害後、何を背負ったか、戦後の日本をどう考えたか。学生の問いに答えるうちに5時間近くたっていた。

 1人の女子中学生のため、喫茶店で話したこともある。

略)

 各国の知人らと協力し、日本国憲法を十数カ国語に翻訳。若いころあこがれたパリを最初に訪問する予定だった。同世代の戦争体験者から孫のような学生まで本多さんの語りに突き動かされ、学生が同行を申し出ていた。

 昨年の予定だったパリ訪問は体調不良で今年6月に延び、果たせずに逝った。だが世界に平和を訴える夢は、事実を聞いた人たちに受け継がれるだろう。【久木田照子】

毎日新聞 2010年7月11日 東京朝刊

引用終わり

 この様に書かれている本多氏ですし、本多も著書で自分自身がなぜ戦争体験を話す事を「戦争出前噺」として、著書に下記のように書いています。

 <なぜ出前か、といいますと、どこへでも、いつでも、相手が一人でも、さながらラーメンを届けるように戦争噺を持って行く、つまりまあ出前だなあ、とこういうことです。

 実際に、可愛い女子高校生、大学生、若い会社員など一対一で語った事が五回ほどありますし、小学校五年生の男の子から電話で「おっちゃん、来てくれるう」「ああ行くよ」と、新世界付近のお宅で同級生五、六人とお母さんと妹と、炬燵囲んで語った事もあります。>

「ポレロを聴きたい」p

 このように書いていますが、ネットで「本多立太郎 講演」と入れると、

講演依頼

http://kouen-irai.com/blog/archives/1674

オフィイス愛という「講演企画、講師派遣専門会社」の派遣講師の御一人として名前が出て来ます。

その他の派遣可能な講師として、

アグネスチャン、有森裕子、阿木Y子、石原良純、

市田ひろみ、井筒和幸、大谷昭宏、大村崑、落合恵子、

金村義明、香山リカ、河内家菊水丸、古賀稔彦、三遊亭楽太郎、

椎名誠、島田洋七、正司歌江、辛淑玉、高野孟、谷川真理、

谷口浩美、田原総一郎、ダニエルカール、寺脇研、デープスペクター、

鳥越俊太郎、西川ヘレン、朴一、樋口恵子、辺真一、

堀江健一、舞の海、増田明美、松野明美、室井佑月、

森永卓郎、ピーターフランクル

などなど私のような人間でも知っている人の名前が続々と出てきます。

そして、この会社の平成二十年の講演実績として、

http://kouen-irai.com/results/h20.html

島田洋七氏、石原良純氏、香山リカ氏、辛淑玉氏などの名前と並んで、本多立太郎氏のお名前があります。

プロフィールとして、

 http://kouen-irai.com/blog/archives/1674

〜戦争出前噺〜

本多 立太郎(ほんだ りゅうたろう)

講演カテゴリ:人権 ・文化、生涯、国際、異文化交流 ・青少年、子育て、学校、PTA

本多立太郎プロフィール

1914年、北海道小樽市に生まれる。

第二次世界大戦の従軍とその後のシベリア抑留の体験から、戦争の非情さを痛感し、その苦い経験を後の世代が味わうことのないようにと、「戦争出前噺」と名づけて様々な場所で自らの体験談を語る。静かな語り口のなかに強い信念のこもった話は多くの人々の共感を呼び、現在も精力的に講演(「戦争出前噺」)活動を繰り広げている。

■著書 「ボレロが聴きたい」(耕文社)

「トンダ・モンタ総理っ!」

「父を語る」(ともに、すりふか文庫)

■主な受賞

・ジャーナリスト基金奨励賞 ・関西心の賞

主な講演テーマ

1.私の戦争体験〜今をどう生きる〜

2.孫に軍服は着せたくない

3.戦争体験者が見た今日

本多立太郎講演、講演会依頼、講師派遣、セミナーのご相談は「株式会社オフィス愛」 電話番号:06-6456-5666 FAX番号:06-6456-5667

このようになっています。少なくともこの 「株式会社オフィス愛」は事業として本多氏の講演を引き受けているのでしょう。

 これは、辛淑玉女史で検索して出てくる講師派遣会社のホームページに掲載されていますが、

http://www.be-power.jp/html/lecturer/shinsugo.html

 十〜二十万円のグループから百三十万円から百六十万円のグループがあるようです。

 たとえば、辛淑玉女史では五〇万円という金額がネットで提示されていた事があります。

 ますい志保女史は富山JA南砥の方のお話では講演料は六〇万円だったそうです。

 

 別に講演料を取ってたからどうというつもりはありませんが、この本多立太郎氏も、引退後の結構いい商売になるとこの腐れ嘘話をしゃべっていた可能性があるのではないでしょうか。

 まあ、自称平和主義者という反日主義者どもに崇め奉られている「崇高な志」で講演をされていた「はず」の本多氏に対しての一杯飲み屋の親父の小さなほんの小さな疑問ですけど。

 あほらし

 今日も暑い。河岸では烏賊が不漁のため活けダコを購入。

 パソコンの事で困ったときのへべれけ頼みということで、当店のパソコンの事でお世話になっている「へべれけさん」に電話でお願いすると、仕事の帰りに寄ってくださる事に。

 夕方いらしてくださり、いろいろとお世話になる。

 ちょうど、先日、画面が写真のようになっていて、立ち上がらなくって入院していたMacも退院して届けられる。

 

 サポートカルテには、「ロジックボード不良のため交換」と書かれている。

 へべれけさんに、「ロジックボードて何?」と尋ねると、マザーボードのことだそう。

 保険に入っておいてよかった。

 ヒマ。

 

 Sくん三名様で来店。

 ご近所にお住まいという初めてのお客様来店。

 今日は飲まず。

 サッサと寝る。

 


 

「コント山口君と竹田君」のライブ

8月22日月曜日晴れ ○

 今朝の六時近くまでまでマンガの本を読んでいたのに、やっぱ十時頃には目が覚める。

 昨日、少し違う肩の運動メニューをやったので、いつもと違う箇所が筋肉痛。

 

 先日、「コント山口君と竹田君」の竹田君というか竹田高利氏からデビュー25+2周年ライブ開催のお知らせを頂き、今日、部屋の近くにある「チケットぴあ」にてチケットを購入する。

 芸能界という世界はまったく知らないが、竹田さんとは当店のお客様からご紹介いただきもう十五年以上のもなる。

 

 九月十九日(日)十五時開演 

@北沢タウンホール

 です。お時間がございます方はぜひ。

 今日は酒を飲まず。


氷雪の門

8月22日日曜日晴れ○

 店を片付けて、午後より渋谷「シアターN」にて上映中の「氷雪の門」を観に行く。

 つまらん映画を海外で上映するのであれば、政府が金を出し、この映画をロシア語、支那語、朝鮮語、そして英語などに吹き替えて世界各国で上映すれば良いと思う。

 今後、日本各地で上映される予定ですし、DVDも発売されていますので、機会があれば一人でも多くの日本人に観ていただきたい映画でした。

 

 夕方よりスポーツセンターに行く。

 それなりにメニューを消化するが、ここしばらく回数が減って期間が空いているので、上がるウエイトは最低。

 今日は知り合いも多く来ていて、楽しい時間でした。

 部屋に帰り、少し前に古本屋で買って来たあの朝日・毎日の両腐れ新聞社御用達詐欺師・本多立太郎氏の著書「ボレロが聴きたい」(耕文社 処判平成六年 手元にあるのは平成十五年版)を読み、口直しにマンガ「柔道部物語」(小林まこと 講談社)を読み終えたら、外が明るくなっていました

  


8月21日土曜日晴れ △

 今日は予約時間の直前に、四名様のキャンセルの電話を頂いたが、お電話いただけるだけありがたい。

 電話もなしでそのまま来なかったなどというのも多い。

 わざわざ会社名を出しておきながら来なかったのは大○製薬。

 予約時間を三十分も過ぎてから、「主賓が急に出張が入り出れなくなったので」と八名もの予約のキャンセルがあったのは三○商事。 

 まあ、いろいろあります。

 Tさん二名さまで来店。 

 Yさん二名さまで来店。

 Oさん来店。

 後で、彼女が合流。

 飲むが今日は記憶あり。

 サルよりマシ。


8月20日金曜日晴れ △

 今日は卑劣なソビエトが終戦後の昭和二十年八月二十日に樺太の真岡を侵略し、多くの方が犠牲になった日です。

 今、東京では渋谷のシアターNにおいて、そのソビエトの圧力により昭和四十九年完成しながらも日の目をみなかった「氷雪の門」が上映されています。

 今日は大勢のお客様が来店。

 清水さん来店。いつもどおり、カウンターの一番奥の席。

 Sさん二名さまで来店。

 Kさん二名さまで来店。

 Mさん来店。

 うーちゃん、塩月さん、大野さん来店。

 うーちゃんのロンドン支店よりニューヨーク支店へ転勤の御祝い?慰労?ということでドンチャン。

 みなさん、早稲田にあった「酒いわしや」に大学生時代からいらしてくださっていた当店の一番古いお客樣方。

 もう二十四年ものおつき合い。

 

 

 どういうわけか、築地の新聞社に生息しているサルが一匹写ってますけど・・・・

 Sくん来店。

 台湾よりチャンさん御夫妻来店。

 

 Tさん二名さまで来店。

 Oさん来店。

 ドンチャン。

 今日は飲み始めがおそかったので、珍しく記憶あり。

 サルよりマシ。


 

菅直人は朝鮮人である。

8月19日木曜日晴れ △

 菅直人は朝鮮人である。

 こういうと、証拠はあるのかというアホな人もいるであろう。

 私も菅直人氏の血筋は知らない。

 しかし、八月十日に発表したあのアホとしか言いようのない内閣総理大臣談話をよく読んでいただきたい。

 <本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。

 私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。

 このような認識の下、これからの百年を見据え、未来志向の日韓関係を構築していきます。また、これまで行ってきたいわゆる在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還支援といった人道的な協力を今後とも誠実に実施していきます。さらに、日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされ、日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待に応えて近くこれらをお渡ししたいと思います。

 日本と韓国は、二千年来の活発な文化の交流や人の往来を通じ、世界に誇る素晴らしい文化と伝統を深く共有しています。さらに、今日の両国の交流は極めて重層的かつ広範多岐にわたり、両国の国民が互いに抱く親近感と友情はかつてないほど強くなっております。また、両国の経済関係や人的交流の規模は国交正常化以来飛躍的に拡大し、互いに切磋琢磨しながら、その結び付きは極めて強固なものとなっています。

 日韓両国は、今この二十一世紀において、民主主義や自由、市場経済といった価値を共有する最も重要で緊密な隣国同士となっています。それは、二国間関係にとどまらず、将来の東アジア共同体の構築をも念頭に置いたこの地域の平和と安定、世界経済の成長と発展、そして、核軍縮や気候変動、貧困や平和構築といった地球規模の課題まで、幅広く地域と世界の平和と繁栄のために協力してリーダーシップを発揮するパートナーの関係です。

 私は、この大きな歴史の節目に、日韓両国の絆がより深く、より固いものとなることを強く希求するとともに、両国間の未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意を表明いたします。>

 これを読んで、日本人が起草した文章だと思う日本人がいたら、そいつは異常である。

<百年前の八月、日韓併合条約が締結され、以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。>

 日韓併合は明治四十三年(一九一〇年)八月二十二日より昭和二十年八月十五日までの三十五年に満たない期間である。

 九月二日の降伏文書調印までだという人もいるが、それでも三十六年にはほど遠い。

 日本人で三十六年など使うアホウはいない。

 三十六年などとアホを言うのは、嘘が強姦、放火、売春などと国技のひとつである朝鮮人だけです。

 <三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。>

 文化など奪ってはいない。世界最貧国で支那の属国であった朝鮮を独立させたが、アホな朝鮮人はその独立を維持出来なかった。

 我が国は朝鮮のインフラを整え、奴隷を解放し、人口を倍にし、二十四才だった平均寿命を二十才以上延ばした。文盲だった民衆にハングル文字を普及させた。

 恩知らずは朝鮮人である。

 管直人氏は小沢一郎氏と同じく精神は朝鮮人に間違いありません。

 我が国の不幸は、精神が朝鮮人の小沢一郎氏、菅直人氏のような人間が政治家をそれも与党の中心人物であることです。

 朝鮮と関わって良い事などなにもありません。

 

 よく知られているように、戦後、朝鮮人は我が国において非道、暴虐の限りを尽くしました。

 しかし、今、問題なのは現在、我が国においての朝鮮人なのです。

 元公安調査庁・調査第二部長だった菅沼光弘氏は、平成十八年十月十九日に外国人特派員協会における講演で、

現在の日本のヤクザにおける構成員あるいは純構成員といわれる人たちの割合を

六十%が同和関係者、三十%が在日朝鮮人

と述べています。

 

 現在、我が国の人口一億二千万人のうち在日朝鮮人は〇・五%程度の五二万人

 平成十九年末の警視庁発表の我が国の暴力団構成員及び純構成員は約八万四千二百人となっているので、

 その三十%が在日朝鮮人だとすると、

 八万四千二百×三十%=二万五千二百六十人となる。

 在日朝鮮人の成人男子は約二二〜三万人として、十一%弱がヤクザということになる。

 朝鮮人とは成人男子のうち約九〜十人に一人が腐れヤクザをやっている民族ということになります。

 現実に日本人の五・六倍もの生活保護受給率である在日朝鮮人による犯罪は、

 殺人では日本人の二・八倍、強盗では四・五倍、強姦三倍

 暴行四・五倍、恐喝三・六倍、詐欺二・四倍、覚醒剤取締法違反五倍という統計もあります。

http://web2.nazca.co.jp/midorinosono/#431

 

 これだけでも充分「ああ、やっぱり」と言われる確立は高くなると思うのですがいかがでしょう。

 通名などという偽名を使いながら「民族の誇り」などとクソ戯けた事を言い、

「差別だ」「差別だ」と叫びながらも生活保護、犯罪率の高いままの在日朝鮮人は、

もっと、自分たちの現実を見つめ直した方がよい。

 何度も書いてきましたが、他国において外国人として生きていくためには、あるいは帰化後も何らかのハンディを負って生きていかねばなりません。

 「差別するな」「差別するな」と叫ぶだけでなく、

そのハンディを乗り越え、その住んでいる国に奉仕し、その民族が尊敬されるようになるためには、そこの国民以上の努力が必要です。 

米国における日系二世部隊の苦闘をみるまでもなく、解決するのは、他人ではなく自分たちの努力しか無い事を肝に銘じるべきです。

 

 精神が朝鮮人であるアホ管、我が国の為に早く死んでくれるか、心の祖国である朝鮮に帰ってくれ。

 ちなみに、同じく売国奴で精神が朝鮮人だった土井たか子女史は昭和六十二年に北朝鮮にて金日成から

「スケジュールはきつくありませんか。」とねぎらわれて、「いいえ、自分の家に帰ったようです。」とほざいたそうです。

 初めてのお客様三名様来店。同じく初めてのお客様三名様来店。どうやら当店にお酒を楽しみにいらしたのではなく、待ち合わせにお使いだったようです。初めてのお客様一名様来店。

 Kくん三名様で来店。ホロン部員Yさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

エロ日新聞(毎日)の亡国企画

8月18日水曜日晴れ 暑い ×××××××

 エロ日新聞(通名毎日新聞)の「我が国が悪い」特集というか姿勢は「平和の糧に:背負ってきた65年」と名付けられた今回の戦争特集にも良く現れています。

以下、それぞれ一部引用

8月11日 平和の糧に:背負ってきた65年/1 旧満州日本兵・坂本信一さん /石川

 <北陸2010>

 <蛮行への悔恨が…「まだ戦争、終わってない」−−坂本信一さん(88)

 自分が手にかけた中国人青年の遺族が「お前が殺したのか」と訪ねてくる−−。日本支配下の旧満州(現中国東北部)で日本兵だった坂本信一さん(88)=石川県かほく市=は、戦後65年たった今もそれが「ありうること」だと思っている。それほどまでの「蛮行」への悔恨が「伝えなければ」との思いを生んでいる。

略)

 三十数戸が点在する明け方の集落。捜しても八路軍の姿は見えない。1人の中国人青年を捕らえた。「他の兵はどこに行ったんだ」。詰問に無言を貫いた青年は上官に「スパイ」と認定された。処刑と即決した。

 「坂本、お前が一番に突け」。普段前線に出ない坂本さんがあえて指名された。

 青年は後ろ手に木に縛り付けられていた。「前へ、前へ、突け、前へ、前へ、突け……」。上官が繰り返す。もう正気でなかった。心臓目がけ、銃剣を刺した。そのうなり声だけが今も耳に残る。「『やらされた』とは言わない。やったのは私。私が人を殺したんです」。自らに言い聞かせるように語調を強めた。

 終戦後、かほく市に戻ったが、「あのこと」は沈黙を貫いていた。03年、戦時中の中国人の強制連行を巡る裁判を支援している金沢市議から、旧満州での経験を話してほしいと頼まれた。誰かに話したいとの気持ちはずっとあった。これをきっかけにしようと思った。数十人を前に、初めて告白した。「涙、鼻水は出るわ、大変だったけど、包み隠さず話せた」。少し、安らぐ思いがした。

 「一つのしょく罪のつもりで」始めた裁判支援は7年がたつ。過去に犯した罪で「中国の官憲に引っ張られるのでは」との考えが今でもふと頭をよぎる。「自分の中ではまだ戦争は終わっていない。体が許す限りこれからも体験を伝えていきたい」【松井豊】>

8月12日平和の糧に:背負ってきた65年/2 韓国の国民学校で教員、杉山とみさん /石川

 <日本語や神社参拝強要 ごう慢さを後悔−−杉山とみさん(89)

 日本の植民地時代の韓国・大邱(テグ)。1921年夏、帽子店を営む両親のもとに生まれた。現地の女子師範学校を卒業し、太平洋戦争が始まった41年、今の小学校にあたる達城国民学校で初めて教壇に立った。

 現地ではこのころ、朝鮮語教育が禁じられ、日本名に改名させられていた。杉山さんも子どもたちに軍歌を教え、神社に参拝させた。日本語が分からない子どもと朝鮮語が分からない教師。出席もとれず、悪戦苦闘した。

 やがて終戦。兄は戦死し、杉山さんと両親、兄嫁と2人の子の家族6人は「異国」にとり残された。家族がいる疎開先に帰ろうとしても、日本人を乗せてくれるバスはない。そんな時、教え子の金正燮(キムジョンソプ)さんが手を差し伸べてくれた。「先生は僕が守ります」。自転車で疎開先まで送ってくれ、食べ物や牛車も手配。日本に出発するまで面倒を見てくれた。

 金さんは後に韓国の領事となり、72年に札幌に赴任。妻も杉山さんの教え子で、3人で再会を果たした。「純真な韓国の子どもたちに日本語を強要した」。戦時中とはいえ自分たちのごう慢さを後悔した。

 戦後、ずっと心残りだったことがある。杉山さんが3カ月の内地留学で学校を離れていた間、教え子の1人が女子挺身隊として富山市の工場「不二越」に行ってしまった。「仕事をしながら勉強も習い事もできる」との甘言につられてのことだった。「小学校を出たばかりの子を見知らぬ土地で働かせるなんて」。ショックは大きかったが、どうすることもできなかった。

 その教え子が93年、日本政府に強制労働などへの謝罪と賠償を求めた「関釜訴訟」の原告として来日した。杉山さんはそれを知り、彼女と再会。聞けば工場が空襲に遭い、韓国に送り返されたのだという。日本では空腹のまま長時間働かされ、郷里では「逃げ帰った非国民」と陰口を言われた。戦後は女子挺身隊への偏見のため、正式な結婚もできなかった。杉山さんは原告側証人として出廷し、彼女を支援した。

 韓国に「ゆく言葉が美しくてこそ、帰ってくる言葉も美しい」ということわざがある。杉山さんはこの言葉を胸にたびたび訪韓し、他の教え子とも交流を続けてきた。6月、富山市の市民グループが開いた韓国併合100年を考える勉強会で、杉山さんはこう訴えた。「統治される側の苦しみ、屈辱がどんなにひどいものか、忘れてはいけない」【青山郁子】

 ■ことば

 ◇韓国併合

 日露戦争以降、韓国政治への介入を強めていた日本は、1910年に韓国併合を強行。第二次大戦終結まで植民地として統治した。現地では日本語の強要をはじめとする「皇民化教育」が進められた。>

8月13日 平和の糧に:背負ってきた65年/3 福井空襲の語り部、宮下一志さん /石川

◇「弱者が犠牲」訴え 不戦考える出発点に−−宮下一志さん(74)

 「私たちは、戦争体験を語ることができる最後の年代だと思う」

< 元福井市職員、宮下一志さん(74)は、小学3年生で福井空襲を体験した。97年に「市歴史ボランティアグループ『語り部』」を作り、代表として戦争を含めた地域の歴史を語り継いでいる。

福井空襲を語り始めたのは、つい数年前からだ。グループの仲間で空襲を語っていた人が県外へ転居することになり、後を託された。離れた所から空襲を見ていた自分で良いのかと、戸惑いもある。だが「グループの中で他に体験者がいない」と説得された。

略)

「子どもたちは『戦争は嫌だ』と思っている。体験を聞いて『どうしたら戦争をしないか』を考える出発点にしてほしい」>

2010年8月14日

平和の糧に:背負ってきた65年/4 日中戦争の加害を語り継ぐ、森原一さん /石川

残虐な罪、悔恨の日々

 旧日本軍が中国を侵略した日中戦争。終戦後に続いた中国内戦では残留日本兵も参戦した。二つの戦いでの残虐な罪を人前で語ることで、反戦平和、日中友好の時代を若い世代に託したいと考える元兵士たちがいる。

 金沢市在住の元陸軍少尉、森原一(はじめ)さん(87)が「最大の罪」と認めるのは、内戦で捕まえた若い中国人3兄弟を拷問し、銃殺を命じたことだ。「農民なので何も知らない」との兄弟の言い分に構わず「処置しろ」と、あごでしゃくった。「当時の激しい抵抗の目つきが頭から離れません」>

<罪を認めると、処遇が変わった。屋外でのスポーツやダンスに参加するのを認められ、長距離の鉄道旅行に連れて行ってくれた。>

「中国帰還者連絡会」(現在は解散して「撫順(ブジュン)の奇蹟(きせき)を受け継ぐ会」が活動を継承)の会員

<罪を許された人は中国の「寛容政策」に感化され、帰国後「中国帰還者連絡会」を組織して証言と反戦の活動を続けた。>

引用終わり

 以上であるが、何ともわかりやすいバカどもの発言ばかりです。

 一番は、謝罪屋としてアホウ支那人の裁判を支えている。

 二番は、朝鮮人いい人ばかりで日本人「だけ」が悪かったというあの元教師の嘘つきババアである故池田正枝氏そのままです。

 まあ、一九四一年に初めて教壇にたったつうのもミソですね。それまでは、普通に朝鮮語が教えられていましたから。三十五年間の統治で最後の四年間だけを取り上げる・・・・

 三番は、ただただ子供達に恐怖を植え付け「戦争は嫌だ」と思わせているだけです。

 では、同時に、どうして無差別攻撃をやった米軍の非道を説かないのでしょうか。

 四番は、中帰連の洗脳されたアホ元兵士の典型的なパターンです。

 

 いずれも、これから我が国を背負ってゆく者に対して、いかに先人は無駄な戦争をしたか。いかに愛国心が無意味か。いかに国を愛さない個人主義が良い事かを説くだけです。

 どうして、我が国を護る為に戦った先人の雄々しき戦いを伝えないのでしょか。

 どうして、他国の暴虐を伝えないのでしょうか。

 当時のソビエト、支那、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスの暴虐を書かないのでしょうか。

 南京攻略戦のことよりも通州虐殺、捕虜に対する醜い仕打ち。突如参戦して来たソビエトの満州、北方領土における暴虐。アメリカ軍の戦場における戦い方。無差別攻撃。死者に対しての扱い。

戦後の多くの収容施設における仕打ちの数々。

 先人が受けて来た、耐えて来たそれらの「歴史の事実」を経て、今の我が国がある。

 国家とは先人が流して来た血をぬきには語れない。

 ただただ、我が国「だけ」が悪いと教える戦後教育とマスコミ。

 ただただ、平和を言っておれば平和なのだと思わせるマスコミ。

 「無防備マンが行く!」というアホマンガを書いた秋元裕美子女史を喜々として取り上げたエロ日新聞の久木田照子記者の姿勢がよくそれを現しています。

 

 他国の国歌のうちただただ平和だけを歌い上げているだけの国歌があるとでもいうのだろうか。

 植民地主義の時代、欧米諸国は統治する植民地の歴史、神話を教えなかった。

 それは、そこの民族の背骨を無くす為です。

 同様に、大東亜戦争後、占領軍は我が国に対しては、先人が悪かった。    

 日本人「だけ」が悪かったと間違った嘘の歴史を教えて来た。

 それにより、我が日本民族の誇りを奪っていった。

 エロ日新聞(毎日新聞)を始めとする腐れマスゴミは第二、第三の吉田清治、池田正枝を一生懸命作り続けています。

 

 先人に感謝をしない民族は滅びる。

 メチャヒマ。

 初めてのお客様二名さま来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ドンチャン。

 イデアルさん、エムズバーさんに伺う。

 記憶全くなし。

 サル以下


 

崔洋一というアホ在日朝鮮人

8月17日火曜日晴れ 暑い ○

 崔洋一氏が「右か左かと言って否定するのはナンセンス」と「ザ・コーブ」の上映を推進しているhttp://www.youtube.com/watch?v=kv8oN4dEtKs

くせに、十四日のNHKの番組で「当時の日本人は韓国人が憎くて併合したわけではない。当時、世界は帝国主義列強の時代であり、植民地支配はあたり前だった。日本が韓国を併合したことはやむを得なかった。」との趣旨の発言を行った日本人ウェブデザイナーの古屋氏に対して、

「当時の日本のイデオロギーは、そういう方向に流れていた。国そのものがそうなっていた。だけど、36年間にわたる植民地支配がそれによって肯定されるという考え方(を持つ人)は、基本的に歴史を語る資格がない」と宣い、アホさをテレビで晒したそうな。

 

<同胞としてA君のことを心配し「おでこに『恨』の字を張り付けて、日本の映画界で商売できるか。考え方を改めろ」>

「日本人の敵は『日本人』だ」(石堂淑朗 講談社 平成七年刊)P百三十五

 これは、石堂淑朗氏が校長をしている日本映画学校に在学し、酒を飲む度に「日本人誤れ」と怒鳴り散らしていた南朝鮮より留学してきていた学生を崔洋一氏が諌めた言葉だそうです。

 石堂淑朗氏はA君の例をあげ「贖罪意識に付け入ることの恥を知れ」として下記のように書いています。

 <国と国、民族と民族の軋轢にかかわる感情が拭い難いことはわかる。そして、肥大化した怨恨を「国の正義・民族の正義」を盾にして相手の贖罪意識に訴え続けることが、A君の存在の自己証明になっているのだろうが、しかし、そんな排他的な自己証明のあり方はいかにも貧しい、と私は思う。

 略)

 謝罪を求め続け、誠意を示せと迫り、永遠に金を取ろうとする。「それじゃあ恥を知らない事になるぞ」と私は敢えて言うのである。>

同書P百三十六〜百三十七

 まあ、石堂氏のこの言葉はAくんだけでなく、その十数年後にA君を諌めた崔洋一氏にも当てはまる言葉だったわけです。

 テロ国家北朝鮮の金豚マンセーの犯罪組織・朝鮮総聯の一〇〇%支配下にある朝鮮学校を卒業しているようなクソ連中は所詮この程度です。

 この崔洋一氏だけでなく、朝鮮学校卒ではないかもしれないが、人間の程度が同程度の辛淑玉女史、朴一氏、姜尚中氏などの在日朝鮮人を使い続ける腐れマスゴミどもにはカエルの面に小便でしょうけど。

 もっと普通な考えを持った在日朝鮮人の人もいるだろうに。

 

 今日は酒は飲まず。


 

毎日新聞・久木田照子氏は第2の松井やより?

7月16日月曜日晴れ 暑い ○

 毎年この時期になると、先の大戦は「悲惨だった」「我が軍は悪い事をした」「我が国は他国を侵略した」というような新聞記事、テレビ番組ばかりが掲載され、放送されます。

 今年もアホ首相によるアホ談話、アホ国営放送によるアホ番組、そしてアホ新聞社によるアホ記事。

 

 一番のアホ記事は昨日、エロ日新聞(通名毎日新聞)に掲載された下記の記事でしょうか。

以下引用

<元日本兵>捕虜刺殺私が命じた 話すことが責任…体験語る

2010年8月15日22時16分 毎日新聞

 終戦から65年を迎えた15日、和歌山県の元日本兵(90)が、中国人捕虜を刺殺するよう部下に命じた経験を初めて語った。兵隊の訓練のためにやむを得ないと自分を納得させてきたが、「むごいことをした」との思いが消えなかった。90歳の今、「人に伝えておかないと、世の中が再び戦争に向かう恐れを感じる」と、取材に対し口を開いた。【久木田照子】

 20歳だった1941年3月、中国南東部の江西省に出征した。進軍する中で、現地住民らにニワトリや卵の提供を強いたこともあった。「中国の人を救うための聖なる戦争と教えられてきたが、本当にこれでよいのだろうか」。疑問を感じながら、銃撃戦をしたり、上官に素手や革ベルトで殴られる日々を過ごした。

 伍長だった43年春、新たに兵役に就いた5人ほどの部下に25歳ぐらいの捕虜の男性を銃剣で刺すよう命じた。戦闘で度胸をつけるために必要だと考えた。捕虜の処遇を定めた国際法の規定も教えられていなかった。

 捕虜は後ろ手に縛られて引き出された。部下は1人ずつ約10メートル走って胸を突き刺した。殺されると察知した捕虜の男性は「あー」と大声で叫び続け、刺されて息絶えた。

 帰国後、このことは家族にも話せなかった。「(国際法に対する)自分の無知があの命令を下させたと思う。殺し、殺されるかもしれない戦争で理性が失われていた」と振り返る。08年と今年、市民団体の催しで出征体験を話した。ただ、捕虜を殺させたことについては語らなかった。

 国のため、家の名誉のため、赴いた戦争。「批判する力を持たず戦争に加担した一人として、多くの人とともに反省し、他国との友好関係を築く責任がある」と語る。成人した4人の孫らにも、体験を語るつもりでいる。

最終更新:8月15日22時16分

引用終わり。

 匿名で書かれたこの記事の信憑性はどうなのでしょう。

 裏付けは採られたのでしょうか。

 匿名で書かれた本で話題になったのはあの大阪のアホ教師・松岡環女史の「南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて」(社会評論社 平成十四年刊)でしょうか。百二名もの証言を収録しているというのに、総て匿名であり、不思議とその当時の同じ聯隊の方でも実名で証言されている方の所には尋ねておりません。そして、同じ南京戦の証言集「南京事件日本人48人の証言」の著者阿羅健一氏より二百以上の嘘があると指摘されています。

 ちなみに、阿羅健一氏の「南京事件日本人48人の証言」は総て実名です。

 

 下記の記事も久木田照子記者によるものだが、記事は検証が全くされていない。いや、嘘つきの嘘を平気でそのまま書くと言った方が良いだろう。

 

 

以下引用

悼む:旧陸軍兵士・戦争出前噺1300回、本多立太郎さん=5月27日死去・96歳

 ◇「最悪の事実」包み隠さず−−本多立太郎(ほんだ・りゅうたろう)さん=腎臓がんのため5月27日死去・96歳

 第二次大戦で中国などに出征し、その体験を全国で話し続けた。「平和を守ろう」とは言わなかった。「私の罪は消えない。語るなら最悪の事実を語るべきだ」と約25年間、つらい記憶を淡々と話し、「聞いた人が自分で考えてほしい」との姿勢を貫いた。

 北海道出身で、25歳で旧陸軍に入隊。シベリア抑留後、47年に帰国した。金融機関を退職後の86年、「孫に軍服を着せたくない」と戦争出前噺(ばなし)を始めた。それでも「最悪の事実」を語れたのは100回を数えたころ。隊長の命令で後ろ手に縛った中国人捕虜を川岸に立たせ、銃剣で突き殺した。捕虜は真っ青な顔で笑ったように見えたという。

 09年6月、京都市の龍谷大で出前噺に臨む本多さんを取材した。背筋を伸ばして語る姿は95歳には見えなかった。捕虜殺害後、何を背負ったか、戦後の日本をどう考えたか。学生の問いに答えるうちに5時間近くたっていた。

 1人の女子中学生のため、喫茶店で話したこともある。本多さんの決意を知った大阪府枚方市の元兵士(故人)は06年、戦時中のフィリピンで捕虜を生体解剖した自らの体験を初めて証言した。

 晩年は、車を運転して出前噺に同行した、牧師の佐伯晴郎さん(83)=同府富田林市=と戦時下の経験を語り合い、憲法9条を海外で伝える誓いもした。各国の知人らと協力し、日本国憲法を十数カ国語に翻訳。若いころあこがれたパリを最初に訪問する予定だった。同世代の戦争体験者から孫のような学生まで本多さんの語りに突き動かされ、学生が同行を申し出ていた。

 昨年の予定だったパリ訪問は体調不良で今年6月に延び、果たせずに逝った。だが世界に平和を訴える夢は、事実を聞いた人たちに受け継がれるだろう。【久木田照子】

毎日新聞 2010年7月11日 東京朝刊

引用終わり

 

 

 この本多立太郎氏は言っている事がデタラメなのは、多くの証言より明らかです。

 それについてはこの日記に書いたことがございます。

 これををご覧下さい。本多立太郎

 

 そして、

<本多さんの決意を知った大阪府枚方市の元兵士(故人)は06年、戦時中のフィリピンで捕虜を生体解剖した自らの体験を初めて証言した。>

と書いている元兵士とは、これも久木田照子女史自身が平成十六年(二〇〇六年)に記事にしている牧野明氏の事です。

以下引用

<生体解剖・フィリピンでも大戦末期元衛生兵が証言>

第二次大戦末期、フィリピン・ミンダナオ島で、負傷兵の治療などに当たっていた元上等衛生兵曹の牧野明さん(84)=大阪府枚方市=が、仕えていた軍医とともに現地住民を生きたまま解剖したことがあると証言、その体験を基に、近く語り部活動を始める。解剖は軍医が衛生兵の医療実習として個人裁量で行ったとみられる。戦時中の生体解剖は旧満州(現中国東北部)の生物戦部隊「関東軍731部隊」が中国人に行った例が知られているが、専門家によるとフィリピンに関する証言は初めてという。【久木田照子】

 牧野さんは海軍第33警備隊の医務隊に所属。1944年8月から同島西部のサンボアンガ航空基地で負傷兵の治療などに当たった。医務隊は30代の軍医(大尉)を筆頭に、補佐役の牧野さんら三十数人がいた。牧野さんによると、解剖は同年12月から、米軍のスパイと疑われた住民(捕虜)に対し、基地内の病院で行われた。軍医の指示を受けながら2人で執刀。麻酔をかけた上で、10分〜3時間かけて、手足の切断や血管縫合、開腹手術などをした。解剖中は部下が助手や見張りをした。米軍上陸直前の45年2月まで3日〜2週間ごとに行われ、犠牲者は30〜50人に上るという。遺体は部下が医務隊以外に知られないように運び出して埋めた。牧野さんの部下だった80代の男性は「かわいそうで解剖には立ち会わなかったが、(何が行われていたかは)仲間に聞いて知っていた。遺体も見た」と話している。解剖が始まる2カ月前には、レイテ沖海戦で日本海軍が壊滅的な打撃を受け、サンボアンガも空襲されるなど戦局は厳しさを増していた。軍医は牧野さんに「おれが死んだら、おまえが治療を担当しなければならないから」と解剖の理由を説明したという。45年3月に米軍が同島西部に上陸後、日本兵はジャングルを敗走。病気や飢えなどで医務隊も大半が死亡し、軍医は自決したという。牧野さんは「命令に逆らえず、むごいことをした。戦争体験者が減りつつある今、自分には戦争の真実を伝える責任がある」と話している。(毎日新聞)2006年10月19日

引用終わり

 しかし、牧野明氏は初めて証言したと書いた久木田照子女史の記事の十年以上前より枚方日教組としてこの様な証言を繰り返していました。

<一九九四年七月二十六日から二十七日

枚方日教組主催

戦争体験を聞く 牧野明 ミンダナオ戦線生き残り兵士>

 

 このように久木田照子女史の姿勢は他の記事でも同じです。

 

この和歌山の九十歳になるという元兵士の証言

< 伍長だった43年春、新たに兵役に就いた5人ほどの部下に25歳ぐらいの捕虜の男性を銃剣で刺すよう命じた。戦闘で度胸をつけるために必要だと考えた。捕虜の処遇を定めた国際法の規定も教えられていなかった。

 捕虜は後ろ手に縛られて引き出された。部下は1人ずつ約10メートル走って胸を突き刺した。殺されると察知した捕虜の男性は「あー」と大声で叫び続け、刺されて息絶えた。>

と、本多氏の

 <「昭和十四年十月、新兵として、私は訓練の中で、一名の中国人捕虜を自分の手で殺した。

 この悪夢は一生忘れません。」

 「私は、中国人捕虜を殺しました。捕虜が『あぁー』と長江の流れの中に沈み、血が長江の中からさかんにわき上がっていた。あっちこっちに死体があった。私は永遠にその時の『あぁー』の声を忘れない」>

(支那における講演にて)

<一人ずつ傍の水車小屋を背にして立たせる。十メートルくらい離れた所で銃剣を構える。だーと走ってグサリと突く。引く。そのまま横倒しに倒れて流れに落ち込み、流れていく。>
「ポレロが聴きたい」p三十

なんとなく似てるんですよね。

まあ、気のせいでしょうけど。

 ところで、今までの久木田照子女史の記事は証言者が実名であったが、この度の記事だけ匿名であるばかりか、所属部隊名も書かれていない。

どうしてであろうか。

不思議ですね?

 資源ゴミを出してから帰宅。

 今日は酒を飲まず。

 サッサと寝る。


 

靖國神社へ

8月15日日曜日晴れ △

 午後一時過ぎに一応スーツネクタイで九段にある靖國神社へ向う。

 

 九段下駅から出ると大勢の人。神社に向うまでに外国人地方参政権反対などの署名集めの方が多くいらっしゃる。

 当然、署名。

 

 大村益次郎像の前で「西村塾」の皆さんが集まって、午後三時より西村眞悟氏とともに昇殿参拝をする。

   

 ただ、気になるバカがひとり。

 参集殿の中でも帽子を取らないバカ。

 周りが注意しないのだろうか。

 よっぽどそいつのところに行って、注意しようと思ったが、そこまでえらく遠い。

 

 

 毎年、靖國神社に来て思う事は、軍人である自衛官の方々がその制服で参拝するのは当たり前の事であるし、ぜひ制服で参拝していただきたい。

 そして、自衛官の皆さんには制服で街中に出ていただきたいと思うが、軍人でない人間が軍服を着て靖國神社内で大きな声でパフォーマンスをやっているのはどうも好きになれない。

 

 参拝後はそのまま九段下の交差点で、「反天連」と呼ばれる腐れアホウどものデモに対して抗議に集まった一〇〇〇名以上もの皆さんと合流。

 しかし、機動隊の異常警備のため、腐れどもに何もできず。

 そこまで腐れどもを護る必要は何処にあるのだろう。

 腐れどもはたった二百人弱だったそうです。着物姿の女性の方も「反日朝鮮人は帰れ」とやってました。

 

 ええ時代になりました。

 

「チャンネル桜」が主催する抗議デモの方も気違い反日デモの連中を護った機動隊の妨害にあい身動きとれなかったようです。

 解散時に、

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ (長閑(のど)には死なじ)

 と「海ゆかば」、そして国歌を斉唱し、最後に天皇陛下萬歳を三唱。

 

 

  

 帰宅途中にマルガリータさんから電話あり。地下鉄に乗っていたので神楽坂に着いてからかけ直すと、Sさんのお見舞いにTさん、Sさんとともに入院先の東大病院へ向っているということなので、東大病院で合流。

 

  

 

  当店で飲もうということになり、飲んでいると、西村眞悟氏の秘書の相沢さんから電話があり、西村氏が御子息、Mさんなど大勢様が来店してくださる。

 今日の九時過ぎの新幹線で大阪にお帰りになられるということだったが、お忙しい中わざわざいらして下さり感謝。

 ドンチャン。

 おまけ

 

マグロ、それともトド????

Tさん、Sさん帰りは大変で御愁傷様です。


 

NHKの犯罪

8月14日土曜日晴れ △

 当店のURAホームページに設けている掲示板のミリばんさんの投稿によって知ったのですが、あの朝鮮人に牛耳られていると言われているTBSとともに、支那に魂を売っている売国放送局であるNHKが昨日、八月十三日午後七時三十分から八時四十五分にかけて< 色つきの悪夢「カラーでよみがえる第二次世界大戦」>というとんでもない放送を流したそうです。

 私はこの番組を見ていませんし、そもそもテレビもありませんので、個々の発言などについて検証出来ません。

 ただ、ミリばんさんよりお知らせいただいた枢軸国を示した映像だけでもこの番組の悪質さがよく判ります。

 当時、併合していた朝鮮を満州、モンゴルと同じく中立国を現す白っぽい色にし、同じく我が国領土であった台湾を支那と同じ連合国側と同じ色にしている。だいたい、満州、モンゴルも中立国ではなく枢軸国支配下だっただろうに。

 朝鮮は先の戦争では無関係あるいは被害者、あるいは戦勝国で、台湾は支那であるというNHKの意思の現れであろうか。

 ネットにある枢軸国と連合国との世界地図を見ると、NHKという放送局の悪質さがよく理解出来る。

  

 いずれにしても、我が国の国営放送としては許されない事である。

 まあ、今時のNHKが我が国の為になる事をやっていると思っている国民がいたらお目出度いということかもしれないが。

  当時、朝鮮、台湾はは間違いなく我が国であった。

 台湾は今でも支那ではない。

 まさに「色つきの悪夢」としか言いようのない番組である。

 潰れろ腐れNHK

 詳しくは下記のホームページに批判されている方がいらっしゃいますので、ご覧下さい。

http://omoixtukiritekitou.blog79.fc2.com/blog-entry-619.html

 今日は夕方になってやっと昨日の酒が抜けました。

 小胡子さん来店。

 Nさん三名様で来店。

 Kさん来店。

 今日はこのままでオシマイかなとKさんと話し、Kさんがお帰りになった遅い時間にIさん来店。

 結局今日もドンチャン。

 でも記憶あり。

 サルよりマシ。


 

平和宣言

8月13日金曜日晴れ××××

 今日、午後に新宿区スポーツセンターに行くと、一階ロビーで新宿区の催し物として「戦争を記録する」パネル展が開かれていました。

 新宿区の「平和啓発の取り組み」の一つらしいが、一緒に置かれていたパンフレットによると、毎年広島や長崎の式典に親と子を派遣しているらしい。

 新宿区のホームページには「祈念式典への参列・施設見学・交流等を通し、戦争の悲惨さを知り平和の尊さへの認識を深めます。」と書かれている。

 原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれている碑文同様違和感がある。

  既に良く知られている事だが、広島の原爆資料館を運営する広島平和文化センター理事長はアメリカ人のスティーブン・リーパー氏であるが、これも違和感を感じない日本人はどれだけいるのであろう。

 今行われている平和式典は我が国に広島、長崎と「アメリカの核実験」のために多くの方が犠牲になったという考えがない。

 支那、北朝鮮の核を無視し、ただ、ただ平和、そして核廃絶を叫んでいれば良いと思っている。

 

 

 ホロン部員Yさん二名さまで来店。

 フィリッポさん来店。

 バンブーさん来店。

 明日イタリアにお帰りになるそう。

 一名様来店。

 Wさん御夫妻来店。

 Sくん来店。

 ドンチャン。

 営業終了後、イデアルさん、エムズバーさんに伺う。

 記憶無し。サル以下


 

大山倍達という人間の精神構造

8月12日木曜日雨のち晴れ○

 既に書いたように、大山倍達氏は昭和四十三年(一九六八年)に我が国に帰化して朝鮮系日本人となったが、それには、その前年の昭和四十二年に二十八年ぶりになる南朝鮮への帰国が大きな切っ掛けになっている。

 その帰国により、大山氏は自分の南朝鮮での戸籍が健在であり、帰化してもそのまま朝鮮人としても生きられる事を知ったのである。

 南朝鮮における大山氏は本名・崔永宣として一九二二年六月四日に生まれたものとして戸籍が存在し、そのために重婚が可能で、日本で知り合った二十七歳(一応)年下の朝鮮人女性と昭和四十九年(一九七四年)結婚し、南朝鮮に家庭を持ち三人の子供を作った。

 この大山氏の姿勢は、南朝鮮における彼自身の著書「世界ケンカ旅行」の翻訳版であり、空手がすべてテコンドーとされている「風のファイター」への巻頭へ掲載された

<今回私の祖国でこの本を発行し、たくさんの人に読んでいただけると聞いてこれ程嬉しいことはない。私の人生の中でも忘れられない栄光だ。

 略)

 特にテコンドー人たちに希望と意欲を抱いてもらえるならば、これ以上望むことはない。

 1973年 崔永宣>

「大山倍達正伝」p二百七十三

 という大山氏の言葉がよく物語っている。

 それは、「KPI通信」(一九八三年三月一日付け)においても同様です。

 日本国籍を取得したことについて

<私は日本国籍を方法論的に取得しただけである。

 中略)

 日本で事業をやる以上、日本の国籍を持たなければ困る>

<全ての点でよかったと思います>

 と言いながらも

<しかし、三十何年間日本に住んでいても日本人に馴染めないということです。ボクシングでは日本人が負けると良く寝られる。日本の飯を食い、水を飲み、日本の空気の中で生活しているというのに、日本人の味方になれないんです。その底辺に何かがあるんですね。私はそれは解らない。日本人が勝つとクソーと思う。死ぬまで直らないでしょう。>

「大山倍達正伝」p二百五十一およびp二百八十四

<大山自身、伝統流派を学び、その第一人者として一九五〇年代に名声を得た。現在のように「全空連」と「極真会館」、「伝統派空手」と「実戦空手」、さらに「寸止め制」と「直接打撃制」といった対照的な図式が成立するのは一九六〇年代以降のことである。

 一九七〇年代に入ると、梶原一騎原作による「空手バカ一代」を中心に、大山倍達の空手はその修業時代から伝統流派の異端児として「邪道空手」「ケンカ空手」と呼ばれていたという「大山倍達伝説」が喧伝されることになる。

 大山自身もこれを好んで吹聴した。

 だが、それは大山による潤色に過ぎない。一九四〇年代から一九五〇年代後半までの間、大山は常に伝統流派の中心にいた。剛柔流、松濤館のみならず、沖縄空手の研究にも勤しんだ。

 更に大山は空手以外の格闘技の修練にも精力的に臨んだ。柔道、古流柔術、合気道、中国武術>

「大山倍達正伝」p三百五十六

 

 空手の世界に生きながら、自分自身がやっていたのはテコンドーとして描かれた「風のファイター」という朝鮮で出版された著書ではそれを否定する事も無く、巻頭での文章を掲載している。

 大山氏の醜い人間性、それは、寸止め空手と他流派の空手を軽蔑しながらも、その伝統派空手の世界に自分を置き、自分が一番お世話になった剛柔流重鎮であっだ寧柱氏の存在を隠し、松濤会の船越義珍先生に師事した事だけを大きく押し出している姿勢にも良く現れている。

 めちゃヒマというより、今年初めてのオチャピー。

 飲みに行く気にもなれずにサッサと寝る。


 

靖国参拝

8月11日水曜日晴れ ×××

 靖國神社には管内閣の閣僚は誰も参拝しないと発表があった。

 いいんじゃあないでしょうか。

 売国奴どもに参拝されたら、英霊も迷惑です。

 西村眞悟氏は御自身のメルマガで下記のように書かれています。

 <靖国神社とは、日本の誇りであり凛とした厳しさを湛えた社である。祖国のために、東亜のために、命を捧げた英霊のまつられる社である。

  英霊は、祖国の歴史を辱め断罪して謝罪せしめることを決して許されない。よって、菅総理と閣僚が靖国神社に参拝しない、いや参拝できないので安堵した。

  貴公ら貴様ら、靖国神社どころか、伊勢神宮にも明治神宮にも参拝してはならない。穢れる。>

 

 以前に日記に書いた事がございますが、あの小野田寛郎元陸軍少尉は

「わたしたちが、死んだら神様になって会おうと約束した場所は靖國神社以外のどこでもありません。靖國神社に異論があってお参りしたくない人は、来ていただかなくて結構だと私は思います」

「とにかく、私たちが『死んだら神さまになって会おう』と約束した場所が靖國神社であり、その靖國神社を国家が護持しないということは、借金をしておいてそれを支払わないようなものです。それはまだ我慢するとしても、靖國神社とは別の追悼施設をつくるなどというのは、死んだ人間に対する反逆、裏切りであります」

 そして、こうも書いていらっしゃいます。

「残された奥さんや子どもさんは大変お気の毒だったとおもいますが、亡くなった本人はお詣りしてくれる人がいるのだなあとつくづく思います。お子さん、お孫さんと代々家でお祀りしてくれる人がいる。しかし、独身で亡くなった私たちの仲間は、親兄弟が亡くなった後は誰がお祀りしてくれるのだろう。最近はついついそういう事を考えてしまいます。そうしますと、簡単に『死んだら神様だ』と言いながら散華していった人たち祀ってあげるのはやはり靖國神社しかないのです」

「靖國の英霊に対して『心ならずも戦死された』などという人がいますが、これほど英霊を侮辱した言葉はありません。」

(祖國と青年二〇〇五年七月号)

と書いていらっしゃいます。

 我が国を護る為に散華された英霊に対し、感謝の気持ちもない売国奴どもに参拝されても、英霊が迷惑だろう。

 支那の似非施設に行って土下座でも何でもしていろ。

 アホウどもめ。

 Nさん来店。URAホームページをご覧頂きいらしてくださったそうです。

 普段は浜松に勤務されているそうで、夏休みで帰省された忙しい時間にわざわざのご来店。

 初めてのお客様Mさん二名様で来店。

 一名様来店。

 マルガリータさん来店。

 ひとりシャンパン。アンドレクルエ一九一一

 Sさん来店。

 Sさん二名さまで来店。

 ドンチャン。

 営業終了後、「イデアル」さん、「エムズバー」さんに伺う。

 記憶無し。

 サル以下


 

大山倍達の嘘 追記

空手、人生の師である゙寧柱

8月10日火曜日晴れ一時大雨のち晴れ △

 極真会館大石道場オフィシャルホームページには創始者である大山倍達氏について下記のように書かれている。

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大山 倍達(おおやま ますたつ)

 1923年6月4日生まれ。

 幼少の頃より拳法を学び、13歳のとき山梨少年航空学校に入学。  1938年3月、松濤館空手の創始者・船越義珍に初めて空手を学ぶ。

   拓殖大学、早稲田大学に学び、1947年全日本空手道選手権大会で優勝。

 

 同様に、極真館城南大井町支部のホームページには下記のように書かれている。

創始者大山倍達の軌跡

http://www.kyokushinkan-jyonan.com/sokuseki.htm

このページは極真空手の創始者であられる故・大山倍達が命がけで、実戦空手を世界に普及させてきた歴史である。

鍛え抜かれた鋼の肉体を持ち、己の身一つで世界を渡り歩き、極真の名を世界中に広めた偉大な足跡が書かれている。

その神秘的と言える神技でゴットハンドと唱われ世界中に1200万人を越える弟子を育てた業績は計り知れない。

現在、空前の格闘技ブームと言われているが、その基となったのが、故・大山倍達であることは誰もが認める事実であ

り、故・大山倍達なくして現在の格闘技ブームを語ることができないのである。

1923年7月27日、東京出身。9歳の頃から拳法を学び、38年3月、松濤館空手の創始者・船越義珍に初めて空手を学ぶ。

47年、戦後初の全日本空手道選手権優勝。以後、プロレスラー、ボクサー空手家を

相手に無敵を誇り遂には猛牛をも倒した。54年5月、大山道場設立。国際空手道連

盟極真会館総裁。十段。 1994年4月26日永眠

1923.07 大山倍達  大正12年7月27日東京市に生まれる

1925.03 満州へ渡り、姉の家へあずけられる。

1939.03山梨少年航空学校入学。

1939.09日本に始めて空手を紹介した船越義珍先生の門をたたく。

1941.04拓殖大学に入学し、在学中に空手2段を取得。太平洋戦争。

1945.09終戦により復員。東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創立し空手の研究に従事。

1946.04早稲田大学体育科入学

1946.09吉川英治著の「宮本武蔵」に感銘を受け、吉川英治と知遇を得る。

1946.10身延山に入山し空手の修行に精進する。

1947.09京都円山公会堂で開催された、戦後初めての全日本空手道選手権大会に出場し優勝。

1948.04生涯を空手道に捧げる事を決意し、千葉県清澄山に入山し18ヶ月間の修行を行う。

 

 このように、一九三八年三月、一九三九年九月と日付は違うが、いずれも、日本に始めて空手を紹介した船越義珍先生の門をたたく。

となっている。

 また、

 <一九三八年九月、松濤館、船越義珍の門下生となる>

 <一九四〇年四月、拓殖大学司政科に入学>

 極真会館による大山倍達死亡時発表の公式履歴

「大山倍達正伝」p三百七十二

 と、公式略歴もなっている。

 大山氏が密航し日本本土に渡って来たのは昭和十四年(一九三九年冬)である。

 すぐに、船越先生に師事出来る筈もないのは明らかである。ましてや、一九三八年だとまだ朝鮮にいるときである。

 大山氏が船越先生とのかかわりはごく僅かである。

 現実には、先に書いたように大山氏は一九三九年冬に釜山より下関まで密航し我が国に渡ってきたのである。

 そして、大山氏は船越先生の松濤会には

 昭和十八年(一九四三年)六月入門

 一九四四年二月十八日に行われた第十六回昇段審査会で初段位を船越義珍氏より允許。

 松濤館の記録では「大山猛虎」と記されている。

 その後、大山は、同年九月、朝鮮人徴用令によって召集されるまで松濤館道場で稽古に励んだ。

 その間一年三ヶ月である。

「大山倍達正伝」P三百七十八

 これが大山氏と船越先生との関わりの総てである。

 船越先生よりも大山氏は恩に感じ、その名前を明らかにしておくべき方がいる。

 その方の名前ば寧柱(そうねいちゅう)氏である。

 大山氏は朝鮮半島より密航し昭和十四年(一九三九年冬)に来日してから昭和十五年三月までその時は三ヶ月であったが、空手を一番最初に習い、その後も昭和三十年代極真会館を設立まで師弟関係が続いていだ寧柱氏との関わりを一切隠している。

 ゙寧柱氏は千九百八年(戸籍上は一九一一年)朝鮮慶尚北道に生まれ、一九三二年京都帝国大学法学部に入学する。

 日本共産党の外郭団体「日本赤色救援会」に加入し、街頭運動の実戦部隊として活動する。

 一九三三年秋に自主退学し、一九三四年立命館大学予科に再入学する。その後、立命館大学法経学部に移る。 

 その頃、゙寧柱氏は共産主義運動の限界に直面する。

 空手は「義勇会」空手部として立命館大学入学後に始める。

「義方会」は大日本武徳会傘下の武道専門学校および「満州建国大学」で柔道の師範を務めていた福島清三郎氏が創立したもので、福島氏が立命館でも柔道を教えていた縁で、空手部主将の山口剛玄氏と知遇を得て、義勇会に空手部門が創設される。

 義方会は創立者の福島氏が東亜連盟協会(石原莞爾が主宰者)の幹部であった関係より、東亜連盟京都支部の役割も担っていた。

 これを切っ掛けに、゙氏は熱烈な石原信奉者、そして東亜連盟運動家へと変貌していく。

 「大山倍達正伝」P八十三〜四

 大山氏が゙寧柱氏に初めてあったのは、釜山で行われた東亜連盟の講習会においてであり、その時゙氏は「民族協和」について熱く語っていたそうである。

 この時、゙氏は義方会の空手の師範代でもあった。

 一九三九年冬に大山氏は釜山より下関まで蜜航し我が国に渡る。

 大山氏は我が国に密航後、すぐに世話になったのが゙氏である。

 義方会に併設されていた協和塾という東亜運動を行う外国人留学生寮より義方会に通い剛柔流空手を学ぶことになる。

 

 当時、大山氏の兄・永範氏は「朝鮮人留学生御三家大学」のひとつである日本大学で学んでいた。

 ちなみに、後の二つは明治大学、中央大学である。

「大山倍達正伝」P九十一

 

 昭和十五年四月(一九四〇年)に゙氏は大山氏が「山梨航空技術専門学校」に入るときも身元保証人となっている。

 大山氏は拓殖大学には入学していないのも先に書いた通りである。

<1945.09終戦により復員。東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創立し空手の研究に従事。>

 これも嘘である。復員という意味を調べればわかることだが、復員とは戦時編制の軍隊を平時体制に戻し、兵員の召集を解除すること。また、兵役を解かれて帰省することであり、軍隊に入隊していないのに復員もクソも無い。

 それより

 永和空手道研究所は「在日朝鮮建国促進青年同盟」(建青)中央本部が置かれていた杉並区天沼にある建物は、戦後、朝鮮人が元移民訓練所(海外同胞訓練所とも呼ばれた)を不法占拠し、そこにあった武道場を「永和空手道研究所」としたものである。

 杉並区天沼町に永和空手道研究所を取り仕切っていたのば寧柱氏であり、決して、大山氏が創立したものではない。

 このように、大山氏の姿勢は、恩人である゙寧柱氏の存在を隠すことにより、戦後の健青の幹部としての活動を隠している。

 それは、同じ東亜連盟を通じて石原莞爾陸軍中将を終生師と仰ぎ、元民団中央本部長でありながら後に石原莞爾平和思想研究会の顧問となっだ寧柱氏の姿勢とは大きく異なるものである。

 大山氏の経歴にはその他にも多くの嘘がある。

 今日、アホの管総理がアホ談話を発表したそうです。

 我が国を何処まで貶めれば気が済むのであろうか。

 

 

 河岸にて大雨に遭遇。

 Yさん二名様で来店。

 二名さま来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 Mさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。サルよりマシ。


 

パソコン入院そして、店の玄関の鍵の交換

8月9日月曜日晴れ一時小雨 ○

 午前中にパソコンを起動させるが、いくらやっても下記の画面のようになって再起動出来ない。

 さっさと、新宿の病院に入院させる。

 今回はMacには絶対に酒は飲ましていない・・・・と思う。

 

 

 店にはあと古いMacが一台。

 でも、これではホームページの更新はできないので、

 部屋にあるのを持ってきて、持って帰ってというのを繰り返す事になりそう。

 

 夕方に斉藤さんがサッシ屋さんを連れて、店の鍵の修理に来てくださる。

 鍵を交換するだけだし、私もアパートの鍵を換えた事があるが、うちの店の鍵のタイプは、サッシの框を外さなければいけないタイプなので、やっぱ素人には無理。

 流石に手際よく終える。

 

 結局、六日からのこの三日間は店の鍵が壊れたままなので、鍵をしめる事もできずにそのまま飲みに行ったり、出かけてたりした事になります。

 ウチのようなちんけな店でも、それなりに盗られたら困るものがあるので、結果として三日間何も無くてよかった。

 いや、まったく・・・・・

 これで、今日は帰って部屋で安心して寝る事ができます。

 鍵は前のものなので、合鍵は無いから大家さん、酒屋さん、予備など合鍵を鍵屋さんで作ってもらい、さっさと帰る。

 部屋ではマンガの本を遅くまで読んで一日が終える。

 酒は飲まず。


江坂寛氏の通夜へ

8月8日日曜日晴れのち一時雨 △

 店を片付けた後、桜新町にて行われた江坂寛氏の通夜に参列させていただく。

 まだ四十四歳だったそうです。

 ビートルズの曲が流れる中、本当に大勢の方がいらしていて、故人のお人柄を偲ばせていました。

 通夜を終えて、少し飲もうということになり、テリーさんの愛車に同乗させていただき、都立家政駅にある「hajime」さんに伺う。

 江坂さんの分の席も用意してもらい、みなさんでいろいろと話をする。

 帰りは、雨が降る。涙雨か。

 当然、今日は記憶あり。



 

アホに気付く

8月7日土曜日晴れ △

 随分前に「派遣村に同情する価値なし」と題したメルマガがありました。

「 国際派日本人養成講座 」Japan On the Globe(654)

以下引用

 空手7段の瀬戸健介氏(昭和21年生まれ)は、毎月、論語勉強会を開催している。4歳の子供から幼稚園児、小学生も参加しているが、みな長時間、お行儀良く真剣に話を聞き、『論語』を学ぶことを楽しんでいる。ある時、瀬戸氏はこんな話をした。[1,p154]

__________

 君たち、派遣村って知っているかな? 一時ニュースですごく話題になっていたでしょう。日本が不況になって、クビになった派遣社員が行く所がなくなってしまった。それで日比谷公園に派遣村をつくり、炊き出しをしてもらって年末年始をしのいでいました。

 彼らにインタビューして、「今、手持ちのお金がいくらですか?」と聞くと、千円とか二千円という人がたくさんいました。

 みんな、気の毒だ、かわいそうだっていっていたけれど、先生は、そういう人たちに同情する価値はないと思います。ある程度年を取ってクビになった人は気の毒だと思うけど、若い人たちは、それまでにどういう生活をしていたかが問題だと思うんです。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■2.「だって、普通は親兄弟や友達が助けてくれるでしょう?」

 なかには月々30万円から50万円も貰っていた人もいる。それなのにクビになって1ヶ月もたたないうちに数千円しか持っていないということは、結局、自分の未来の展望も考えずに、稼いだお金を使い切ってしまっていたのだろう。

「その結果、お金に困るというのは、本人たちの責任だと思います。君たちは絶対にそういう考えを持ってはいけません」と瀬戸氏は子供たちに諭す。

__________

 派遣村のニュースを見ていて、もう一つ不思議に思ったことがあります。寮を追い出されて住む所がないからといって、「これからはテント暮らしです」というのはどういう人なのだろうと思ったのです。

 だって、普通は親兄弟や友達が助けてくれるでしょう? 泊まる場所がないという人は、信頼できる友達もいなければ、親兄弟や親戚からも相手にされていないってことなのでしょうか。

引用終わり

 

 私はこの年になってやっと気が付いた事があります。

 アホと言われれば、そのとおりです。

 

 最近、大学時代から付合ってきた先輩との連絡を絶ちました。

 若いときに自分に無いものが眩しく見えたところもあり、卒業してもそのまま付き合いをさせていただいた。

 ある時、その人の人間の程度というものに疑問を抱き、その人との付き合い、その人が大学時代にやった事などを改めて振り返った時にひとつひとつがなんとつまらない、下らないものであったかとやっと気が付きました。

 学費から生活費まで親からもらい、車も買い与えられ、なおかつ、もらった生活費が酒代に消えてしまい部屋代さへ払えず、その滞納した部屋代を母親に払ってもらったりしながら八年も大学に通っていたその人間は、大学時代から何も変わらない、親に甘えていただけの単なる考え方が甘い大酒飲みの人間のカスのままの人間だったのです。

 まあ、私がドアホウやから、その人間がどの程度のものか気が付くのが遅く、私がすべて悪いのですが、私は気が付くという事に遅過ぎるという事は無いと思っています。

 今後、その人間に私が連絡を取る事は二度とないでしょうし、その人間からの連絡に私が答える事もないでしょう。

 二十代だったら許されることもあるだろうが、六十近くになっても同じ事をやっとって、てめえでケツを拭けらんかったら、単なるカスや。

 私もアホな生き方をしているとは思うが、どうなっても全て自分が悪いと思っている。

 Tさん二名様で来店。

 オチャピーでなくてよかった。

 営業終了後、Tさんと「アンブラ」さんに伺いドンチャン。

 一応、記憶はあったと思う。サルよりはマシ。


 

訃報 江坂寛氏

8月6日金曜日晴れ 暑い  ○

 今日、河岸から帰って来て、店の扉を開けたとたんに鍵が折れた・・・・・

 急な事で、ネットですぐに来てくれるという業者さんを探し、電話をかけて来てもらうが、来てくださった上場しているという業者さんの見積もりは二万五千五百円。

 十年以上前に鍵を落としたことがありその時に、念のために鍵を取り替えてもらった。

 その時に交換した元の鍵があるので総取っ替えしてくれるだけで良いとお願いしたらこの値段。

 つまり解錠するとかでなく、鍵を取り替える手間賃だけで二万五千五百円。

 

 結局、お帰りいただいた。

 店の開店時に内装でお世話になった斉藤さんに電話し、明日でもいつでも時間がある時にでもお願いしますという事に落ち着く。

 今日はイヤでも、フラフラと飲みに行かずに中から鍵をかけて店で寝る事に決定。

 まあ、いつもと同じようなものです。

 夕方、江上さんから文藝春秋の江坂寛氏が急死されたという電話あり。

 酒を飲んで寝て、そのままだったそうで、まさに急死。

 まだ、四十代前半ぐらいと思う。お若いのに、驚くしかない。

 八月八日日曜日通夜。

 九日月曜日午前中告別式。

 バンブーさん来店。

 今日創立記念日とかで三時からパーティで、当店の開店時間まで時間をつぶすのが大変だったそうです。

 Tさん来店。

 酔狂師さん来店。

 Hさん来店。

 ヒマ。あまり飲まず。


8月5日木曜日晴れ ×

 Yさん来店。

 オチャピーでなくてよかった。

 でっ、営業終了後、サッサと店を閉めて、「アンブラ」さんに伺いドンチャン。

 記憶アヤフヤ。サル並み・・・・ 


 

人権屋宝塚市議・北野聡子と大島淡紅子の背景 部落解放同盟、北朝鮮

8月4日水曜日晴れ ×××

 七月十五日木曜日の産経新聞の記事です。

 以下引用

「慰安婦」政府への意見書、可決広がる 地方議会「後世に汚点」批判も

22年7月15日 産経新聞

 第二次世界大戦中の旧日本軍の慰安婦問題をめぐり、全国の地方議会で、公的謝罪や国家賠償などにつながる「誠実な対応」を政府に求める意見書が相次いで可決されている。昨年9月の民主党政権誕生以降、市民団体による働きかけが活発化。民主や共産などのほか公明会派も賛成するケースが目立ち、今年1〜6月だけで10件に達する。だが、意見書は根拠があいまいな慰安婦の“強制連行”を前提にしており、保守系議員らは「後世に汚点を残す」と批判している。

 慰安婦をめぐる意見書の可決は、平成20年3月の兵庫県宝塚市議会をはじめ、全国の地方議会で相次ぎ、今年6月末現在で25件。特に、民主党政権発足後の可決は16件と急増している。

 6月28日に第1会派である公明や共産の議員らの賛成多数で可決された大阪府高槻市議会の意見書では、米下院議会が2007年7月に「旧日本軍が女性を強制的に性奴隷としたことを公式に認め、謝罪するよう日本政府に求める決議」を採択したと指摘。オランダやカナダ、EU議会などで続いた同種決議や、恒久的な解決に向けた努力を日本政府に求めた国連女性差別撤廃委員会の勧告を踏まえ、真相解明や被害者の尊厳回復など「誠実な対応」を求めている。

 高槻市関係者によると、可決を働きかけたのは共産に近い市民団体。このほか複数の市民団体が、近年急速に各地の地元議員への要望を強めている。

 これらの団体は「『戦時性的強制被害者問題解決促進法』の立法を求める連絡会議」を組織。今年の終戦記念日に向け120万人の署名を集める運動も展開しているという。大阪市議会での可決を目指す市民団体メンバーの女性は「被害者がどんどん亡くなり、残された時間はない」と話す。

 一方、民主は元慰安婦と名乗り出た外国人に対し、国家が謝罪と金銭支給を行うとする法案をこれまで複数回、国会に提出。昨年の政策集にも慰安婦問題への取り組みを盛り込んだ同党が政権を獲得したことも、活動活発化の背景にあるとみられる。

 25件の意見書の文面はいずれも似ており、前提にしているのが平成5年のいわゆる「河野談話」だ。当時の河野洋平官房長官は、慰安婦の強制連行などの政府・軍の直接関与を示す資料が存在しないのに、元慰安婦の証言と韓国政府の強い要請をもとに「(慰安所設置に)旧日本軍が直接あるいは間接に関与した」と認め、談話でおわびと反省を表明した。

 可決された議会の会派構成をみると、民主、公明、共産系の議員が多数を占めるところが多い。また、意見書では「誠実な対応」というあいまいな文言を使っていることから、文面を精査することなく賛成に傾く議員も少なくないという。

 今年3月に意見書が可決された堺市議会で反対した保守系の水ノ上成彰市議は「国内では官憲による強制は捏造(ねつぞう)だと証明されている。すべて虚偽であり、祖先や英霊の名誉を守るためにも可決してはならなかった。地方議会で可決が広がれば、政府の公式謝罪や補償、子供への歴史教育など取り返しの付かない汚点を残すことにつながりかねない」と話す。

略)

引用終わり

 この記事にある平成二十年に宝塚市にての「慰安婦をめぐる意見書の可決」とは、議長を除いて二五名の議員中、一名だけが起立せず(多田浩一郎議員)二十四名が起立して賛成し成立したものです。

 これについて、宝塚市の議事録より北野聡子議員が請願した者である事がわかります。

 (平成20年第 1回定例会−03月03日-03号)

兵庫県教職員組合で御活躍された北野聡子議員よりの請願第十九号であり、それは宝塚市御殿山1−83−1、日本軍「慰安婦」問題に対して、政府の誠実な対応を求める請願を実現する会、木下達雄氏が誓願者である。

 実際に木下氏に代わって、議会にて陳述したのは田中ひろみ氏である。

平成20年 3月 4日総務常任委員会−03月04日-01号)

 田中ひろみ氏は南朝鮮のソウルで戦時売春婦ババアの水曜デモにおいて、平成二十年七月二十三日に「劇団水曜日」というアホどもを引き連れてアホな劇をやった御仁という事が平成二十年七月二十四日の中央日報の記事にて紹介されている。

 「日本人俳優たちは部落解放人権研究所反差別部会など日本の大阪地域で活動する市民団体会員」と報道された聯合ニュース平成二十年八月二十二日よりこの「劇団水曜日」は部落解放人権研究所反差別部会であり、団長は「トクダユキヒロ」氏(徳田幸博)だそうです。

 徳田幸博氏は尼崎市職労顧問、ひまわり医療生活協同組合、元自治労尼崎市職員労組委員長、そして、社団法人部落解放・人権研究所のホームページにても講演等が確認出来ます。

    

 そして、北野聡子議員に請願の紹介議員にとお願いしたのは同じ宝塚市会議員社民党の大島淡紅子氏であることが、ピープルズニュース2008/05/12(月)

http://www.jimmin.com/doc/0891.htm

より確認出来きます。

 そして、この後、すぐに北野聡子氏、大島淡紅子氏そして、宝塚市議会議長小山哲史氏ともども朝鮮人売春婦ババアの御機嫌をとりにソウルまで行っています。

 

 「戦時性的強制被害者問題解決促進法」の立法を求める連絡会議」で検索すると、

朝鮮新報平成十九年三月二日の記事より

民主党

郡和子、岡崎トミ子、円より子、千葉景子、江田五月、那谷屋正義、

社会民主党

福島みずほ、

日本共産党

吉川春子、

そして、

土屋公献

などの名前が出てきます。

 

同じく「賛同人」としては

李政美(歌手)

伊藤成彦(中央大名誉教授)

落合恵子(作家)

かにた婦人の村

金時鐘(詩人)

金石範(作家)

金城実(彫刻家)

権海孝(俳優)

清水澄子(I女性会議常任顧問)

東海林路得子(女たちの戦争と平和資料館長)

辛淑玉(人材育成コンサルト)

新屋英子(俳優)

高里鈴代(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)

高橋哲哉(東京大学大学院教授)

中山千夏(作家)

西野瑠美子(VAWW-NETジャパン)・

朴慶南(作家)・ヴァージニア・ヴィリアルマ/レチルダ・エクストレマデュラ(リラ・ピリピーナ)

村山一兵(韓国「ナヌムの家/日本軍『慰安婦』歴史館」研究員)

本岡昭次(元参議院副議長)・

山下明子(アムネスティ・インターナショナル日本

「慰安婦」問題チーム)

梁石日(作家)

梁澄子(在日の慰安婦裁判を支える会)・

尹美香(韓国挺身隊問題対策協議会常任代表)

吉川春子(前参議院議員)

吉見義明(中央大学教授)・

廖英智(台灣婦女救援社會福利事業基金會董事長)

など反日日本人をはじめとする人権屋気違いどもが山ほど出てきます。

 この請願書の背景には部落開放同盟、日教組、社民党、共産党そして、南朝鮮だけでなく、その南朝鮮の慰安婦ババアにより甘い汁を吸っている腐れ連中、そして朝鮮聰連が絡んでいます。

 部落解放同盟は北朝鮮と密接な関係を持っていることは指摘されてきました。それは、幹部である今回落選した民主党の松岡徹氏などの言動より明らかです。

 こういった連中が北朝鮮に拉致された我が国同胞に対しての奪還の声を上げる事はありません。

 こういった連中の異常さを表す何よりの証拠です。

 

 二名様来店。

 初めてのお客様Oさん三名様で来店。

 金ちゃん、マロさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 Sくん来店。

 副店長さんMさんと来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 Iさん来店。

 ドンチャン。

 営業終了後、ホロン部員Yさんと「イデアル」さんに伺う。

 其の後「エムズバー」さんに伺う。

 記憶無し。サル以下・・・・


 

大山倍達「極真の歴史」にみる捏造

8月3日火曜日晴れ ○ 8月4日一部追記

 国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページには「極真の歴史」として下記のように書かれている。

 

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/about/history/1920-1989.html

 

1923年7月大山倍達誕生

 1943年日本航空隊に入隊

 1946年4月 早稲田大学体育学科入学。

      10月 同校を中退して身延山に入山、武道精進に励む。

 1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。

 1948年4月 生涯を空手にかける決意をし、清澄山入山。18ヶ月の修行を行う。>

 

 同じくホームページには用語集「大山倍達」として下記のように書かれている。

 

http://www.kyokushinkaikan.org/ja/glossary/a/post-43.html

 

 <国際空手道連盟極真会館創始者。

  1923年6月4日生まれ。

 幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。

その後、拓殖大学、早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。

1948年4月より清澄山にて1年8ヵ月の山籠り修行を敢行し>

 

 これらにはすでに書いた生まれた年をはじめ多くの嘘が書かれている。

 しかし、同じ国際空手道連盟極真会館のホームページで<1923年7月大山倍達誕生><1923年6月4日生まれ。>と違っているのも珍しい。

 新暦、旧暦としても、ちょっと問題なんじゃない?

 

 昭和十八年(一九四三年)日本航空隊入隊というのは大嘘である。

 日本人だったら自分の軍歴について「日本航空隊入隊」などと書く者はいない。

 そもそも「日本航空隊」などというものは無いからである。

 あるのは海軍および陸軍であり、それぞれに航空隊があるだけである。普通だったら海軍航空隊、陸軍航空隊と書くと思う。

 当然、海軍、陸軍とも航空兵の養成過程は異なる。

 

 大山氏の著書には

<山梨少年航空学校>

<山梨の少年航空学校>

(「ダイナミック空手」「一〇〇万人の空手」「闘魂」など)

 <山梨少年航空技術学校>

(「極真カラテ 二十一世紀への道」)

<そうした戦況下で、学徒出陣が決まり、私も短い間であったが、あこがれの山梨少年航空隊に入隊した>

(「わが空手修行」)

 入学時期

<中学二年の時>

「ダイナミック空手」

その他の著書

<一九三八年もしくは一九三九年>

私は「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十六〜九十七より引用

 「バラ雲会」(山梨航空技術学校・卒業生の会)による平成十四年に出された「学校法人日本航空学園健学七十周年記念誌」には

<昭和十七年九月 山梨航空機関学校 二期生 繰り上げ卒業>

<昭和十七年当時 左から宮井、松岡格、大山倍達>

というキャプションの写真が二枚あるそうです。

 平成十四年に出されたものであるから、「大山倍達」という名前になっているそうです。

 「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十八

 つまり、大山氏は昭和十五年四月に「山梨航空技術学校」に入学し、昭和十七年九月に繰り上げ卒業している。

 そして、大山氏(当時は崔永宣)は卒業後の昭和十八年度の追加募集として陸軍士官学校を昭和十八年春に受験するが合格出来なかった。

 これについて、「大山倍達正伝」の小島一志氏との共同執筆者である塚本佳子氏は

 <確かに永宣は小学校時代から勉強嫌いで成績も悪かった。山梨航空技術学校では、小・中学校時代よりは真面目に授業を受けたとはいえ、学んだのはあくまでも飛行機の整備技術が中心だった。

 陸軍士官学校の試験は一般科目である国語、数学、理科、歴史、地理、外国語の六科目にわたって行われた。

 永宣の堅強な体格と人並みはずれた運動能力から考えて、彼が身体検査で落とされたとは考えにくい。

 ならば試験の得点が合格基準に届かなかったと理解するのが妥当だろう。>

p百四

と書きながら、

<ただ、私達は永宣が不合格になった理由として、もうひとつの可能性を推測している。

 略)

 仮に永宣が東亜連盟運動に深く関与していなかったとしても、以上の事実だけで彼が「危険思想の持ち主」として特高にマークされても何ら不思議ではなかった。>

p一〇五

と、思想的な理由により陸士を受からなかった可能性を書いているが、勉強嫌いで成績が悪かった者が、当時、「一高、海兵、陸士」といわれ、ましてや最難関の一高よりある意味入学するのが難しいといわれた海軍兵学校と並び称せられた陸軍士官学校が受かる筈がありません。

 ましてや

 <陸軍士官学校に対して海軍には海軍兵学校があった。ともに士官を養成するための高等教育機関である。だが、予科練は下士官養成所でありながらも飛行兵の育成を目的としていたため、軍人を目指す若者たちに絶大な人気があった。入学試験のレベルも陸軍士官学校や海軍兵学校以上の難関だった。>

p百四

 とは、ワザとボケているのかわかりませんが、多くの著書を参考文献として引用しこの本を書いている塚本氏らしくない余りにも醜い間違いです。

 下士官の方が難関で、士官が簡単であれば誰でも士官の養成学校を目指すでしょう。そうなると、下士官より士官が多い頭でっかちな軍隊ができてしまいます。

 

 蛇足ながら、私の父は「予科練」ならぬ乗る飛行機もない土方仕事ばかりで「ドカレン」と言われた終戦末期の甲種飛行予科練習生十六期だったが、「兄弟で飛び抜けて頭が良かったのは、江田島(海軍兵学校)に行くことができた一番上の兄貴だった」とよく言っていました。

 ちなみに私の父が属していた宝塚海軍航空隊は、予科練の教育訓練隊であり、航空機がなく、昭和二十年六月末に解隊後に淡路島・阿那賀に練習艦となっていた戦艦「春日」の二十センチ砲を流用した要塞構築のために従事していた隊員は、昭和二十年八月二日、鳴門海峡において飛来した艦載機(グラマンといわれているが不明)による攻撃により機帆船に乗船していた百名の隊員のうち八十二名が戦死されている。

 父はその機帆船には乗船していなかったが、父のお世話なった上官の御一人が乗船して戦死されたと生前に聞いた事があります。

 戦死された隊員八十二名の墓は、鳴門海峡を望む淡路島の鎧崎の桜ヶ丘英霊墓地にあります。

 この英霊墓地は淡路島出身の三洋電機創立者である井植歳男氏など多くの方々のお力により健立されたものです。

 昭和四十年の開眼供養には父も参列させていただいたそうです。

 

 今日の毎日新聞で昨日、菩提所である淡路島の春日寺において法要が営まれた事を報道していました。

 

 いわゆる「大山倍達伝説」では軍隊に入隊し、特攻隊に志願した事になっている。

 「大山倍達正伝」でも、小島一志氏に語った大山氏のエピソードとして下記のような事が書かれている。

<「グライダーの操縦は戦闘機乗りの基本なんです。

 私は飛行機の整備も技術も一番だったが、グライダーの操縦も誰にも負けないくらいうまかった。

 終戦間際、「桜花」という名の戦闘機があってね。グライダーのように飛ぶという新型戦闘機でした。沖縄では、この「桜花」に乗って特攻隊として敵艦にぶつかっていく計画があったんです。

 上官に申し出て「桜花」の特攻隊入りが決まりかけたところで終戦になってしまったのよ」> 

「大山倍達正伝」(小島一志・塚本佳子 新潮社平成十六年刊)P九十七

 一式陸攻に抱かれていき、敵上空にて放たれロケット推進で飛ぶという純粋な特攻兵器として開発された桜花が、敵機を撃墜することを主任務とする戦闘機というジャンルに入るかなどという議論以前に、嘘を平気でつける人間としての醜さをさらけ出しているように思えてならない。

<学徒出陣が決まり、私があれほど苦労した航空兵に、こんどは航空隊のほうからお出迎えがくるくらいに、難なく入隊する事が決まった。千葉県の陸軍航空隊である。>

<山梨少年航空学校の前歴を買われて、またここでも整備兵に回されてしまった>

<館山の航空隊からは、飛行機の都合がつきしだい、連日のように、敵艦と刺しちがえに行く神風特別攻撃隊が出陣していた>

<私が、特別攻撃隊員に編成されたのは、七月に入ってからであったが、八月十五日ごろが、私の出番であったと思うのだ>

「闘魂」より

 私は「大山倍達正伝」p百二十三よりの引用。

 国際空手道連盟極真会館(松井派)のホームページの「極真の歴史」には書かれておりませんが、用語集に書かれている拓殖大学についても、

<私は木村政彦に憧れて拓殖大学に入った>

<木村との出会いは拓殖大学の空手部道場だった>

<山梨航空技術学校(卒業時点では「山梨航空機関学校」と改称)を卒業した翌年、拓殖大学に入学し、そこで木村と出会った>

と多くの大山氏の著書に書かれている木村政彦氏との出会いの場として必ず出てくる「拓殖大学入学」も嘘であると「大山倍達正伝」は断定しています。

 ましてや、仮に大山氏が拓殖大学に入学したとしても、木村氏と出会う事は不可能であったのです。

 なぜなら、昭和十六年に拓殖大学を卒業した木村政彦氏は大山氏と「違って」昭和十七年に召集され終戦まで兵役についていたからです。

 それだけでなく、

<拓殖大学側が下した最終的な回答は次のようなものだった。

「卒業名簿には大山倍達の名前はありません。崔永宣、崔猛虎、大山猛虎、大山虎男などの登録もありません。

 生徒名簿には本科、予科(旧制大学制度における本科に入る為の予備課程)、留学生を含め、入学した生徒はすべて記録されています。それは中途退学した生徒も同様です。

 名簿に記載されていない以上、大山氏が拓殖大学に在籍していた事実はないと答えざるを得ません」>

「大山倍達正伝」p百十六

 拓殖大学に入学していない以上、学徒出陣はあり得ず、まして、海軍基地である館山より陸軍による特攻等あり得ないだけでなく、神風特攻隊は海軍であり陸軍で用いる事は無い。

「大山倍達正伝」に平成十六年八月二十六日号の「週刊新潮」掲載の「戦後六十年『特攻体験』を騙った男たち」の中で大山倍達氏も掲載されていた事をあげ、この日高恒太郎氏の記事の最後に海軍兵学校最後の卒業生(七十四期)で「神風特別攻撃隊古鷹隊」三十六名の一人として特攻指名された元日航機長、信太正道氏(当時七十七歳)の言葉を掲載している。

<「特攻体験は利用価値大なんです。右翼の会に行くと上座に座らされる。特攻は時代の流れの中で利用されて来たと思います。

 彼等は本当の戦争を知らない。現実に特攻体験を持つ者は特攻を勇ましく語ったりしないものです」と断じる。死の淵を覗いたトラウマはそれほど深いのだ。>

「大山倍達正伝」p百二十七

 平気で「特攻隊の生き残り」と吹聴し、自分の経歴を嘘で塗り固める事ができる人間性が問題だろう。

 普通は軍歴とはだれでもスラスラと言えるものであり、大山氏のようにコロコロ変わるものではない。

 大山氏は特攻隊の生き残りなどでないどころか、軍隊経験も無い「徴用工」として千葉県館山に配属されていたのであることを「大山倍達正伝」p百二十一に書いている。

「1947年9月 京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。」

 一九四七年とは戦後まだ二年しか経過していない時であり、GHQが発令した「武道禁止令」により禁止されておった時代です。

 試合空手が試合化されたのが、一九五〇年代半ばであり、公開された試合として最も古いのが、昭和二十九年(一九五四年)十一月、当時「全日本空手道連盟」を名乗っていた練武会が行ったもので、全空連が認める史上初の大会は、昭和三十二年一〇月に東京体育館で開催された日本空手協会主催の全国空手道選手権大会である。

 そして、大山氏自身が小島氏に語ったエピソードとして

「戦後初の全日本選手権優勝とうのは間違いなんです。あれは梶原一騎のつくり話です」

 と書いている。

「大山倍達正伝」p三百九十七

 

1948年4月 生涯を空手にかける決意をし、清澄山入山。18ヶ月の修行を行う。」

 

 大山氏自身が生前「清澄山の山籠りによって空手に開眼した」と語っていたらしいが、これも嘘であることが「大山倍達正伝」に書かれている。

 <大山がは千葉健青の大幹部であり、自ら直系の部下である建設隊を率いる立場にあった。そんな大山が一年半もの間、建青の活動を離れることが不可能なのは言うまでもない。

 略)

 ここでなによりも重要なことは、「大山倍達伝説」で一年半におよぶ山籠りを行ったという逸話は、大山が民族運動に関わった「過去」を隠滅するための方便であったという点である。>

「大山倍達正伝」p百二十一

 許永中のボディガードをしていたという話もある文章圭氏(通名松井章圭氏)が代表を務めるところだけの事はあって、この程度の嘘は嘘のうちに入らないと平気なのだろうか。

 それとも、「大山倍達正伝」に小島氏に語った大山氏の言葉として書かれている

「伝説というのはね、いかに大きな嘘をついたかに価値があるんだよ」

「大山倍達正伝」p三百四十五

とでもいうことなのだろうか。

 ちなみに、文氏は極真の空手の大会で、日本人として日本代表選手団の主将を務めていた。

 この国際空手道連盟極真会館ホームページにおける大山氏の経歴で一番大きな嘘は大山倍達氏が生まれたところを隠していることである。

つまり、大山氏が昭和四十三年に帰化するまで朝鮮人だった事を隠している事である。

 あと、武道家として大山氏という人間というものがよく現されているのは、武道家が自分の師を隠している事である。大山氏が空手を最初に学んだのも、一番お世話になったのも船越義珍先生ではない。

 大山氏そしてその弟子の人たちは日本に最初に空手を紹介したという船越先生の御高名を利用しているだけである。

 

 今日、朝鮮学校無償化の方向というニュースがあったが、とんでもないことである。

 北朝鮮の在日犯罪組織である朝鮮総聯の支配下にありその指示に従っている。

(衆議院北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会 平成二十二年三月十五日)

 今回も朝鮮総連が指示を出し、金正日が支那に言った時の映像を流し、個人崇拝を強めるようにしている。

(平成二十二年六月六日産経新聞)

 

 そのような学校の無償化をするなど、お笑いである。

 まあ、我が国はわざわざ銭を払ってまで支那の脅威を高めているのだが・・・・

 メチャヒマ。

 初めてのお客様二名様来店。

 Iさん来店。

 酒はちょっとだけ飲んでサッサと寝る。


大山倍達・力道山にみる朝鮮人による戸籍捏造

8月2日月曜日晴れ 暑い ○

 故大山倍達氏の戸籍偽造については既に書いたが、同様なことが元プロレスラー力道山にもある。

 

 <本籍・長崎県大村市から東京都中央区日本橋浜町に転籍。

 父・百田巳之助

 母・たつ

 の長男として出生>

 これが大相撲を廃業した関脇力道山・故百田光浩氏が廃業した昭和二十五年十一月二十一日に就籍届けとして提出した時のものである。

 養子でもなく、実子として届けられている。

どこにも

<本籍:咸鏡南道浜京郡龍源面新豊里三七番地 

父亡金錫泰

母巳

三男 金村光浩>

という朝鮮がわかる文字が無い。

何処にも記されていないのである。

養子でなく、実子として昭和二十五年に届けられているのであるから当然と言えば当然であるが、その偽造戸籍が受理されているのである。

 どのような経過を経てこんな偽造戸籍が認められたのかは不明であるが、同様の朝鮮人がいないとも限らない。

 いや、戦後の混乱期を経て、他にはいないと考える方がおかしいだろう。

 我が国には、そんな朝鮮人がい〜〜〜〜〜っぱいいそうである。

 

 今日は何もせず、何もする気になれず、ゴロゴロと部屋で過ごす。

 朝起きてすぐにシャワーを浴びて、夕方も風呂に入り、寝る前にもシャワーを浴びる。

 今年もまだ一度もエアコンの電源を入れていない。

 今日は酒は飲まず。


「週刊20世紀」

8月1日日曜日暑い △

 店を片付けてから一週間ぶりにスポーツセンターへ行く。

 今日は二時間だけそれなりにメニューを消化。

 

 

 ビックボックスで開かれている古本市にて朝日新聞が発行していた「週刊20世紀」の数冊を購入。

 ぱらぱらとめくって読むが、流石は朝日新聞。

 「一九二三」「関東大震災」

 内容は「植民地支配の矛盾が生んだ朝鮮人虐殺」とあくまで朝鮮人は一方的被害者の立場。

 書いたのは姜徳相氏・・・・・

 「一九三七年」では「これが皇軍か!南京の暴状」

 「南京大虐殺! 中国軍民一〇数万人が犠牲に」

 内容は

 聖戦の名のもとに残虐非道

 人々はウサギのように殺された

 百人斬り競争

 書いたのはやはり笠原十九司氏

 ありもしない百人斬り競争を書きながら、史実である通州事件はどうして書かないのでしょう。

 支那様への心づかいでしょうか?

 「一九四六二「悲劇のミッドウェー海戦 暗転する戦局」

 きっちりと

 「隷属を強いられる植民地の暮らし」

  強制連行・・・・

  書くのは「第二の吉田清治」と高名な千田夏光氏

 流石です。

 資料としてなん冊か購入したが、これはこれで面白い。

 帰宅後、銭湯へ行き汗を流した後、めぐ蔵さんと合流し、「一笑」さんへ。

 今日は「一笑」さんのお客様である古田氏が主催するお別れの会。

 いろいろとお酒もいただき、お料理も板長の渡辺さんが腕によりをかけ作ってくださり、大満足。

 二枚程写真を撮ったところで丁度デジカメの電池が切れてしまう。

 

 

 

 店に寄った後に帰宅。

 さっさとシャワーを浴びて寝る。

 今日は記憶あり。



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