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野中広務氏の歴史観

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成20年7月31日木曜日晴れ × 
 石原慎太郎東京都知事が六月一二日に代官山のイタリアレストランで、野中広務氏が支那の駐日大使と仲介し、この日の宴席を主催したという記事が週刊文春七月二四日号に掲載されていました。
 野中氏は石原氏の「中国は好きだが、共産主義は嫌いだ」という言葉に「それなら自分で中国に行って確かめてくればいい。今の中国は、共産主義ではなくて修正資本主義だ!」と言い改革・開放から三〇年が経とうとする現代中国の実情をピタリと言い当てた言葉に、支那大使も苦笑するしかなかったとありましたが、この言葉が、今の支那を現しているとは到底思えません。
 支那は依然として共産党による独裁国家であり、国内の格差を無くする努力よりも、中華思想による覇権主義で軍事力を増強しています。その軍隊は国軍ではなく、共産党の軍隊です。
 野中氏をはじめ多くの日本人は、支那に対して持っている歴史観というものは、最初に戦争責任ありきではないでしょうか。
 
 下記は雑誌「世界」平成二〇年一月号に掲載された「政治家と歴史認識」と題した野中広務氏の発言ですが、野中氏の歴史観というものを知るには、非常にわかりやすいのではと思います。

 <安部さんは、歴史教科書問題をはじめとする歴史認識問題について、過去を美化する傾向を持ったグループと共に行動していましたので、私は心配していたのです。
 略)
 私の不安は残念ながら的中し、安部内閣は、まともな審議もないまま教育基本法を通し、強行採決を繰り返して多くの法案を通し、とうとう教科書検定や「慰安婦」問題まで発生しました。
 略)
 太平洋戦争の開戦時の内閣で商工大臣をつとめ、戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨に繋がれた岸信介が、釈放後に政界へ復帰し、やがて日本の総理になったことは、日本において戦争責任が果たされていない典型です。彼は「満州国」でも権勢をふるった人間です。>
(P238〜239)

 <「小泉チルドレン」と言われる自民党の国会議員がたくさん出てきました。この中に最近、教科書問題や日中関係、歴史認識にかかわって、日本の過去を美化するグループも出てきています。はなはだしくは「南京大虐殺はなかった」という議論まで行う。これは非常に危ない事です。国政に携わる政治家としての責任が、あまりにも自覚されていない。
 明治から大正、昭和の時代にこの国が経験した事は何であったか。他国に侵略していき、他国の多くの非戦闘員や、自国民にまで多大な犠牲を強いた事実は、どうしたって否定することはできないのです。そして、他国民に与えたその傷はいまだに癒えないまま存在しています。>
(P240)

<日本軍はアジア全域に出かけていき、非常に多くの非戦闘員を傷つけ、死なせてきたのです。
 六二年が経過した今も、戦争の傷は癒えていません。未処理の問題も数多くあります。北朝鮮との国交回復・賠償の問題なども残っていますが、中国に日本軍が遺棄してきた化学兵器の問題や中国残留孤児の問題などもあります。こうした多くの未解決の傷跡を見るとき、まだまだ日本は無謀な戦争の責任を取れていないと思います。>
(p243〜244)
<遺棄化学兵器問題は、その被害状況を知れば知るほど、本当に痛ましいことです。この前、被害を受けた方々が訊ねてこられました。日本軍が六〇年以上前に破棄してきた化学兵器によって、中学生になるかならないかの女の子が被害を受けているのです。その子は「自分の不注意でこうなったのだから誰かを恨もうとは思いません。だけど学校に行くと、私に近づいたら伝染するといって、みんなが私を差別するのです。それが耐えられません」と私に向かって泣いていました。いまだにこういう傷跡を残しているとは、本当に悲しいことです。私は言葉になりませんでした。
 内閣官房長官をつとめていた時に、外政審議室から「いま中国に約七〇万発の遺棄化学兵器があります」という報告を受けました。聞くと、日本の金で日本に持ち帰って処理する協定になっているといいます。協定を実施したのか確認したところ、一度もやっていないのです。私は「化学兵器が放棄されているのは鬱蒼とした森林や原野で、とても人間が入れるような場所ではない」という話を聞いていたので、日本に持ち帰って処理するのは非現実的で、協定は実行されない空証文のようなものだと思いました。


 <私は南京には、最初は一九七一年、次が一九八一年、次が一九九六年と三回行きました。
 最初に南京を訪れた時のことです。当時、京都府会議員をしていた私は、二〇〇人ほどの後援会員とともに上海・蘇州・南京への旅行を行いました。
略)
 ちょうど南京市に入り、南京城壁のところにさしかかったとき、そのうちの一人が突然うずくまって、体をガタガタと震わせはじめたのです。しまいには、土の上に倒れて体を震わせて動かないのです。私はびっくりして、看護婦に強心剤を打たせました。数十分が経過してから、ようやく落ち着きました。
 「どうしたんだ」と聞きました。すると彼は「私は戦争の時、京都の福知山二〇連隊の一員として南京攻略に参加し、まさにここにいたのです。いま南京に来て、当時を思い起こし、地の底に足を引きずり込まれるような状態蜷なり、体が震えてきたのです」と話し、当時の体験をはなしてくれました。
 その一つは、彼が南京に攻め込んだ時、倒れていた中国側兵士の命を助けた話でした。もう一つは痛ましい話でした。
「南京の城内に入った時、土嚢が積まれた家がありました。扉を開けて中を見ると、女性と子供がいるばかりだったので、私は上官に『ここは女、子どもばかりです』と言って扉を閉めようとしたのですが、上官が『何を言っているだ、その中に便衣兵がいるのだ、例外なしに殺せ、容赦するな』と言って命令を下し、私たちはみんな目をつぶって、火をつけてこの人たちを殺してしまった。戦争のなかで一番嫌な体験です。略)」
 略)
 そのようなことがありましたので、私は一九九八年に幹事長代理をつとめている時、略)
 廬溝橋の抗日戦争記念館にも参りました。そして、私は後援会員の話を現地で聞いていたので、南京虐殺記念館ができたと聞き、訪問することにしました。ただ、記念館の壁に「三〇万」という犠牲者数が掲げられているのを聞いておりましたので、大使館から電話をしてもらい、自分は自民党の幹事長代理として訪問するにあたり、三〇万という数字のもとでは献花できない、と言いました。南京で異常な出来事が起こされたことはわかっているけども、「三〇万」という被害者数は検証のしようがない。他に献花台を設けてほしいと頼んでから行きました。日本から随行してきた多くの新聞記者とともに記念館に入ったところ、日本軍将校による「百人斬り競争」を報じた当時の日本の新聞記事なども展示されており、自分の国の新聞がこんなことを書いていたのかと驚きました。
 私が訪れるまで、日本の政治家は誰一人として南京大虐殺記念館を訪れていませんでした。日本に帰国後、私が大虐殺記念館を訪問した事に対して街宣車が抗議に来たりもしましたが、評価してくださる方もいらっしゃいました。日中友好協会会長の平山郁夫先生が最初に電話してこられて「よく行ってくださった」と喜んでおられました。略)
その後、村山富市さんや土井たか子さんも記念館を訪れ、現在では多くの国会議員も行ってくれるようになりました。>
(p240〜241)
 
  南京大虐殺記念館はどのようにして建てられたかということを知っていれば、このような発言はできないはずだし、遺棄化学兵器についても、その経過を国会議員として知っていれば、同様の発言は日本人とし恥ずかしくてできないでしょう。
 野中氏の考え方だと、今、世界各地で問題になっている地雷なども製造国が処理すべき問題のはずです。最大の保有国家、製造国家ひとつである支那には輸出した地雷についてその処理をしてほしいものです。
 しかし、野中氏の周りには「ガタガタと震えて動けなくなる」人が多いみたいです。なんとか現象でしょうか。
 
 人権擁護法案の成立を目指しても、野中氏は積極的に働いています。
 (二〇〇二年二月に国会に上程)
 二〇〇三年九月二一日の野中氏が国会議員としての最後の自民党総務会での発言。 
「人権擁護法案は参議院で真剣に議論すれば一日で議決できます。速やかに決議をお願いします」
「野中広務 差別と権力」魚住昭 講談社)p353

 野中広務氏は酒もたばこもすっかり止めたそうで、その理由を著書「私は闘う」(文藝春秋 平成八年刊)に書いています。
 それによると、酒は昭和三三年、京都園部町町長になったときに、町の一八〇〇万円の赤字(その時の町の一般会計は三七〇〇万円だったそう)があり、役場などが利用してきていた料理屋の借金が三五〇万円あったそうで、それを二五〇万円に値切り、一括返済したが、その時に町長が酒を飲めば、役場の関係する宴会が多くなるので、酒を飲まないと宣言したそうな。
 タバコは、最初に町会議員になったときから応援してくれた樋口浩さんという友人が、昭和五五年に脳内出血で倒れた時に願掛けして、一日八〇本吸っていたタバコを止めたそうで、それ以来吸っていないそうです。
 私は、タバコは若い時にいたずら程度で吸っていたぐらいで、止めるというほどのものではなかったですが、酒は無理でしょう。
 野中氏のこの強い精神力には敬服いたします。
 その強い精神力で、支那や朝鮮に相対してくれるとよかったのですが、違ったようです。

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