このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

杯飲み屋の親父の酒と酒の日々
<のんべえ日記>平成25年10月分

 

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


Facebook(木下隆義)、Twitter(@saketamanegiya)を始めました。でも、いまいち使い方がよくわかりませんのでちびちびやって行きます。よろしければ、友人リクエストをお願いいたします。

Mixiでの当店のコミュニティは「神楽坂のお洒落でない一杯飲み屋」

管理人はめぐろのしみずさんです。

Mixiでの私自身のハンドルネームは一合です。

一合とっくりのつもりですが、酒はそれでは終わりませんのでいろいろと問題が・・・・・最近は時事的な事は書き易いので、ついついMixiの日記の方に書いております。よろしければ、ご覧下さい。もっと、よろしければ、当店のコミュニテイに参加してください。もっと、もっと、よろしければ、マイミクに。


10月31日木曜日晴れ

 ある意味の資格商法?

「日本調理振興協会」というところから葉書が来ました。

調理師資格を得る為の講習会を受けろという葉書です。

調理師という資格は国家資格である事は事実ですが、それを習得するのに、四万八千円も払ってこのような講習を受ける必要も何も無いのに、いかにもという書き方。

 

調理し受験資格は、「基礎資格のいずれか一つを有し、以下に定める調理業務経験を有する者」として、

<基礎資格

中学校卒業者

小学校卒業者で5年以上の調理業務経験者(※下記2年を含め通算5年以上)

旧制国民学校高等科修了者、旧制中学校2年課程修了者

厚生労働大臣が認定した者

在日外国人学校のうち日本の中学校に相当する課程の修了者であって厚生労働大臣が認定した者

調理業務経験

学校、病院、寮などの給食施設(1日20食以上を継続し、又は50食以上調理することが1日でもある施設)、飲食店(旅館、簡易宿泊所を含む)、惣菜製造業、魚介類販売業で2年以上の調理業務経験者。>

 つまり、義務教育を終えてお店などで働いていれば「誰でも」受験ができる資格であり、試験自体も決して難しくありません。

 ましてや、店をやるのに調理師免許は必要ないです。

 必要なのは「食品衛生責任者」であり、これは講習で取る事が出来ます。

 この日本調理振興協会はホームページさへ無い団体です。

 あほらし。

 Yさん来店。

 Tさん来店。

 Tさん来店。

 Oさん来店。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。

 


10月30日水曜日晴れ △

 今日のカミさんの朝ビール。

 カミさんの好みではなかったようです。

 二名様来店。

 Oさん来店。

 ぎりぎりブラザース来店。

 マリちゃん来店。

 

 営業終了後、ワインということでアンブラさんへ。

 サルでもエビでもない。

 


10月29日火曜日雨のちくもり△

 ガマくん登場

 忘れ物をして、帰ったら

(十五分後)

 へんし〜んw

 マジにカミさんと大受けでした。

 

 Mさん来店。

 営業終了後、カミさんがウイスキーを飲みたいということで、エムズバーさんへ。

 私はビール二種類。カミさんはビールとウイスキー二種類。

 カミさんが飲んだウイスキーは大当たりだったそう。


10月28日月曜日晴れ △

 昨日の観閲式ではためいていた旭日旗。

 

 トンスル人どもはこれを見て火病をおこすのであろうか。

 

 カミさんの希望で、晩酌?はワインバーへ。

 飲んだグラスワインはいずれも「はずれ」。

 

 サルでもエビでもない。


 

10月27日日曜日晴れ △

 朝起きて、カミさんは合気道の練習へ。私はホロンさんと待ち合わせて朝霞で行われた自衛隊観閲式へ。

 

 

 店に直行し、三時からの「酒たまねぎや飲んべえの会 九平次 ファイナル」

 出品酒 

 NO.1 平成25年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%

 NO.2 平成24年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%

 NO.3 平成23年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%

 NO.4 平成22年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%

 NO.5 平成21年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%

 NO.6 平成20年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%

 NO.7 平成19年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%  

 NO.8 平成18年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%  

 NO.9 平成17年 九平次 別誂 純米大吟醸 山田錦 35%

 NO.10平成16年 九平次 別設 大吟釀    山田錦 40%

 

 

 きれいに空きました。

 これで、現在の在庫が終わればうちの店が九平次を新規に扱う事はもうありません。

 観閲式での獲物。

 二名様が当たりw

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


10月26日土曜日晴れ△

 Tさん息子さんと来店。

 オガピー来店。

 Tさん来店。

 エリーさん二名様で来店。

 Mさん来店。

 姫、昨日に続き四名様で来店。

 Sさん、白玉さんと来店。

 Sさん来店。米国への出張帰りだそう。

 Oさんご夫妻来店。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


10月25日金曜日雨 △

 しっかし、商売とはいえ、ようやるわ。

「幸福の科学」トンスル人からイチローまで、なんでもあり。

 

 産經新聞に掲載された「幸福の科学」の広告。

 

 二名様来店。

 二名様来店。

 Oさん来店。

 二名様来店。

 一名様来店。

 香港から姫、千鶴子さん三名様で来店。マルガリータさん合流でドンチャン。

 Oさん来店。

 Aさん来店。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


10月24日木曜日雨 ○

 ご近所のお猫様。

 トラくんはダメですが、ミルクティ?くんの方は、好奇心旺盛で、すぐに近寄ってきます。

 oresama777さん四名様で来店。

 Sさん、Mさん五名様で来店。

 

 今日も飲まずにさっさと帰る。

 サルでもエビでもない。


10月23日水曜日雨 ○

 メチャヒマ。

 二名様来店。

 飲まずにさっさと帰る。

 サルでもエビでもない。


10月22日火曜日晴れのち曇り ○

 帰国する今日、カミさんは早起きして、合気道の練習に行き、帰って来てシャワーを浴びたあと、朝ビール。

 ホテルを出て、松山空港に向かう途中に二・二八記念館にて、ボランティアをされている「台湾人生」にも登場されていた元帝国陸軍志願兵としてビルマ戦線に従軍されていた蕭錦文(しょう・きんぶん)先生と再会。この前にお世話になったお礼、日本茶、写真そして、靖國神社のお守りをお渡しする。 今回の旅行の目的のひとつでした。今回もいろいろとお話を伺う。八十八歳の蕭先生は今日も矍鑠とされておられました。

 台北・松山空港にてまもなく搭乗手続き中にどうしようもないケダモノのままのクソガキ二匹とそれを躾できないアホ親が同じ便のようでしたので、近くの席に来ない事を祈っておりました。

 

 

 おかげさまで、無事に帰国。

 その後、私は店に直行。

 なにしろ、明日は河岸が休市ですから、夕方、ご好意により河岸の仲卸さんに配達していただいた魚を捌き明日の仕込み。

 カミさんは「大丈夫よ。うちの店は『酒たまねぎや』であって、『魚たまねぎや』じゃあないから、『魚』なくっても」って言ってましたけど・・・・

 仕込みを終えて、店を出たら、小さなお客様がいらしてくださいました。

残念ながら今日は営業日でないので、お帰りいただきました。

まあ、営業日でも入店はアカンですけど。

 今日は飲まず。

 一足先に帰ったカミさんは部屋でワインで一杯やっていたようで、帰ったら疲れて寝てました。


 

10月21日月曜日くもりのち一時小雨 △

 カミさんはホテルの部屋でも今日も朝ビール。

 

 その後、午前中に台湾総督府へ。

 見学コースはホンマ面白くありませんし、展示物にちょっと突っ込みどころがありましたが、写真撮影禁止なので、ネタとしてはイマイチ。。建築物として興味があっても撮影禁止だけでなく、現在も使用中ですから、当然、見学コースとして定められたところのみですから物足りないと思います。

 昼食はカミさんの希望で「驥園川菜餐廳」(ジーユエンチョァンツァイ・ツァンティン)という鳥スープ鍋のお店で、そのスープは絶品でした。

 

 

 

 これまたカミさんの希望で「行天宮」へ。

 

 台湾の人々から絶大な信頼?があるそうで、今日も多くの方々が参拝に訪れていました。

 日本語のパンフレットも用意されていましたが、アホがその日本語のパンフレットのところに朝鮮語のパンフレットを前面に何十部も差し込んでいました。

 なんとなく、やったやつは想像がつきます。

 嫌われてるのに来なきゃいいだろう。

 同じ事で、ウンチ食わされる朝鮮に行くアホどもの気が知れません。

 この「行天宮」側のセブンイレブンでは供物が売られています。流石です。

 

 夜はこれまたカミさん希望で、初めてのビールバーへ。

 今日はカミさん共々サルでもエビでもない。


10月20日日曜日晴れのち曇り △

 朝起きて、カミさんは死んでましたが、いつものように朝ビールを飲んで「二口めから元気が出た」とニッコリ。

 

 去年、宜蘭でお世話になった林さんにお会いしたかったが、急病だそうで、残念ながらお会い出来ず。

 宜蘭駅だけでなく周辺に日本統治時代の建物が多く残っています。

 

 防空壕跡

 

 鉄道で台北まで。

 台北では二度目の「Dandy Hotel」に宿泊。

 スタッフの対応もよく、大満足。

 夜はカミさんのご両親、妹さんと婚約者の張さんと食事。

 その後、ロイさんご夫妻と一杯。

 

 一応、今日は記憶あり。

 二人ともサルよりマシ。

 

 夜市の側の公園にいた猫。

 

 人気者で、写真取られまくり。


10月19日土曜日くもり ×××

 朝起きて、大急ぎで靖國神社へ。

 写真は参道にて「河野談話撤廃署名」をされていた尾形さん。

 お疲れさまです。

 参拝をすませて、羽田空港へ。

 

 今回は初めて手ぶらサービスを利用したので、メチャ楽。

 

 空港にて、初めて荷物検査の結果、「日本人ですか。お酒の持ち込みは一リットルまでです」「でも、今回はそのままお通りください。今回だけですよ」と。

 

 迎えに来てくれたカミさんとタクシーで宜蘭まで。

 宜蘭にて、葉さん、マイクさん、ローチさんご夫妻とでドンチャン。

 カミさん共々完全に記憶無し。

 夫婦揃ってサル以下。


10月18日金曜日晴れ △

 バンブーさん来店。

 二名様来店。

 秋田からSさん来店。

 Kくん二名様で来店。

 Uさん三名様で来店。

 Mさん二名様で来店。

 Hさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシというより、営業終了後、明日から休むので、店の片付け。

 


10月17日木曜日晴れ △

 台河岸に行く時に築地本願寺の境内を通らせていただくが、今日は「東京医科歯科大学献体者追悼法要」が行われていました。

 支那、朝鮮だったら絶対にやりそうにない..

 Oさん来店。

 三名様来店。

 二名様来店。

 Nさん来店。

 ドンチャン。

 サルよりマシ。


10月16日水曜日台風 ×

 西村眞悟議員、荒木和浩教授七名様で来店。

 Aさん来店。

 二名様来店。

 Tさん、Fさん、Tさん三名様で来店。

 Gさん来店。

 ドンチャン。

 完全に記憶無し。

 サル以下。

 でも、エビではない。


10月15日火曜日くもりのち雨 △

 台風接近で曇り空の築地。

 

 

 でも、空は曇っているけど、支那みたいに空気がくすんでいない。

 

 シシャモの新物が入る。ヒネとの差。まだ、特大より中の方がいいと仲卸さんが勧めてくださる。

 

 台風接近の雨の中、Iさん来店。

 20日、27日の観閲式と予行のチケットを持って来てくださる。

 感謝。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


10月14日月曜日晴れ○

 江戸川橋にあるビルのテナント募集。

 借りたい人は、いったい、どの不動産屋さんに電話すればいいのだろう。

 

 酒は飲まず。

 サルでもエビでもない。


10月13日日曜日晴れ ○

 今日は店は定休日ですので、店を片づけ、仕込みなどで一日中店にいました。

 夜、仕込みをやっていると、いきなり、ガラッと戸を開けて、

「やってます?」

休みです。

 それにもかかわらず、「ああっ、よかった」

と言いながら女性が数人入って来ようとするから、

やすみです。

「えっ、お休みですか」

定休日です。

 ブツブツ言いながら帰っていったが、ブラインドを降ろし、外の灯りも消していて、中はこの状態。

 

 

 この外の状態と、椅子がカウンターに上がった店内のこの状態を見て、「ああっ、よかった」と言いながら入って来ようとする。

 もうアホかと。

 外の灯りはともかく、椅子がカウンターに上がったこんな状態で営業中の店が、この世の中にあるのかと。

 今日は飲まず。

 サルでもエビでもない。


10月12日土曜日晴れ △

 予約もないし、三連休中で心配していたが、多くのお客様ご来店。

 新潟・弥彦酒造の大井さん二名様で来店。

 

 二名様来店。

 府中よりKさん四名様で来店。

 Kさん二名様で来店。

 Hさん来店。

 ドンチャン。

 サルよりマシ。


10月11日金曜日晴れ △ 

 築地にて。

 北京には絶対に無い青空。

 

 バンブーさん来店。

 二名様来店。

 四名様来店。

 Aさん二名様で来店。

 Kさんお父上と来店

 三名様来店。

 Hさん二名様で来店。

 Sさん来店。

 わ。さん来店。

 東洋美人の澄川会長、かなえちゃん社長七名様で来店。

 メチャ忙しい。

 飲み始めが11時過ぎ。

 ドンチャン。

 サル。


10月10日木曜日晴れ △

 今日は東京オリンピックの開会式が行われ、「体育の日」のはずだが、別の日となっている。

 本来の祝日の意味も何もあったもんじゃあない。

 イオンの支那産米偽装問題で週刊文春を買いに近所のミニストップに行ったら無い。

 

 

 ?と思ったら、イオン銀行W

 二名様来店、

 一名様来店。

 Oさんご夫妻来店。

 Hさん来店。

 わ。さん五名様で来店。

 ドンチャン。

 一応、記憶が会ったと思うが、メチャいい加減。

 サル。


10月9日水曜日晴れ ○

 Tさん二名様で来店。

 Yさん四名様で来店。

 Yさん四名様で来店。

 今日は飲まず。

 サルでもエビでもない。


10月8日火曜日晴れ ×××

 Hさん来店。

 Oさん来店。

 

 営業終了後、Oさんと神楽坂のバー「オブデュモンド」さんへ。

 ドンチャン。

 一応、記憶あると思ったがメチャいい加減。

 サル


 

 トンスル人(朝鮮人ともいう)、そして、反トンスルランド(韓国ともいう)デモについての一考察3

10月7日月曜日晴れ

 私は、他の所でも書きましたが、私が北米を2年ほど放浪し、その時にメキシコのグアダラハラに一番長く滞在していました。

 そのメキシコ滞在中も多くの日系人の方にお世話になりましたが、

ある時

「木下さん、あなたは旅行者だから、何をやってもいいよ。いろんなものを見て、飲み、食べて、そして、恋をして、このメキシコを楽しんで、この国を、このメキシコを好きになって帰ってくれ。でも、何をやってもいいけど、日本人の恥になるような事はやめてくれ」

というような内容のことを日系人の方から言われました。    

 移民された方々の立場を言い表した重い言葉として、今でも覚えています。

 メキシコで、日系メキシコ人として築いて来た信用があります。それを私のような日本人の旅行者が壊さないようにしてくれという事なのです。

 旅の恥はかき捨てなどという事はないのです。

 外国人は、どのような国においてもそこの国民と同じという事はありえず、大なり小なり、必ず差別というものは存在します。日本人が海外で生活した場合でも同じです。

 メキシコだけでなく、他国でも日本人、日系人はその国の人々から信用され、尊敬されています。それは、外国人である、移民であるというハンディを背負ってその国の方々の何倍も、何十倍もの努力の結果です。

 短期間で築ける信用ではありません。

 長い間、日本人、日系人がその暮らしている国で築いて来たものです。多くの日本人、日系人は四四二部隊を例にとるまでもなく、移民しその暮らしている国に対して忠誠を誓い、その国を祖国として生きています。

 ブラジルでは、「ジャポネス・ガランチード」(日本人的保証)という表現があります。これは、ブラジルに移民された方々が貧乏と苦労の中、マイノリティの立場でありながら、ブラジルの人々からこのような表現があるほどの信用を得たのです。ブラジル空軍の最高司令官にまでなっています。

 世界中で、日本人あるいは日系人でないのに「俺は日本人だ」「日系人だ」と偽る連中がいても、日本人、日系人で日本人、日系人ということを隠して生きている人などいないでしょう。隠す必要もないからです。

 

 それに比べて、トンスル人(朝鮮人ともいう)はどうでしょう。

 我が国おいての「朝鮮人精神」「朝鮮人らしさ」とはどういうものでしょう。

 

 朝鮮人は朝鮮半島より逃げ出して、密入国までして我が国に来ておきながら、強制連行されて来た、だまされて連れて来られて来たなどと平気で嘘をつく。そして、帰ろうともせず、何十年も居着き、二世三世にもなりながら、我が国の国民になって国民としての義務を果たす事もなく、その二本の足で立っている我が国に対し忠誠も誓わず、我が国を愛するどころか嫌っていながら、我が国に集り、朝鮮人としての名誉も誇りも持たず、我が国国民の五・六倍の生活保護、殺人では日本人の二・八倍、強盗では四・五倍、強姦三倍、暴行四・五倍、恐喝三・六倍、詐欺二・四倍、覚醒剤取締法違反五倍という犯罪民族である事を自ら恥じることなく、己が悪いのは総て日本人のせいにして生きている。

 そして、普段は日本人のふりをして通名などという偽名で生活しながら、都合が悪くなるといきなり本名を使って朝鮮人ということを振りまわし、普段の自分達の生き方を棚にあげて、外国人として「人権」「差別」と叫び、被害者面をする恥というものを知らない朝鮮人。

 厚顔無恥、鉄面皮という言葉がこれほど似合う人種も珍しい。

 まさに、これが、「朝鮮人精神」「朝鮮人らしさ」です。

 ケネディは「国があなたのために何をしてくれるかではなく、国のために何ができるかが問われている」という内容の有名な演説をしましたが、今、生きている国に対して尽くそうともしないで、「差別、差別」と騒ぎながら、我が国国民と同等の権利を主張しているそんな生き方を改めない限り、あるいは、外国人が他国で生きていくということは、そこの国民の何倍も大変な事であるという自覚もなしに、努力もせずに、その住んでいる国の国民のせいにしてばかりいる限りは朝鮮人がその国の国民から寄生虫、ゴミ、クズと軽蔑される事はあっても、尊敬される事などは未来永劫絶対にありません。 

 

 どうして朝鮮人が嫌われるかは嫌う側に原因があるのではなく、嫌われる側に原因がある事を理解しようとせず、自分たちが過去にどのような醜い行い、卑怯な生き方をして来たかを問う事なく、差別差別と叫ぶ朝鮮人。

 朝鮮人はその前に、自分自身に問いてもらいたい。自分自身が、この国に対してどのような貢献をしているか。そして、尊敬される対象となっているかを。

 朝鮮人のその姿勢は国であるトンスルランド(南北朝鮮)も同様である。売春婦を我が国に五万人だけでなく、世界中に輸出しながら、その売春婦の事はなかったかのように、戦時売春婦の事を気違いのように叫ぶ。反日教育をし、悪口を言いながらも厚顔無恥にも我が国に平気で銭をせびり、技術を教えろと要求する。そして、更に銭を借りても、技術供与を受けても、我が国に対して、感謝することもせず、何か上手くいった事は総ておのれの手柄にする。悪いことは全て他国のせいにする。まさに朝鮮人の国です。

 

  もう一度書く。

 朝鮮人は我が国国民に朝鮮人を差別するなという前に、なぜ、朝鮮人が嫌われるかを自ら問わなければならない。

 それが出来ないならば、朝鮮人は永遠に嫌われるだけである。

 

 もう手遅れだろうけど・・・・・・・

 知れば知るほど嫌になる支那人と朝鮮人。

 かみさんがコンビニで見つけたハンドクリーム。

 「上善水如」

 

でっ、ネットには

「純米吟醸酒の良さだけにこだわって造った贅沢な化粧品です。」

と、書いてある。

私には理解出来ませんでした。

 ハンドクリームに純米吟醸も本醸造もましてや三増酒もあるってことか?

 

 今日は酒を飲まず。

 カミさんは台湾で台湾料理を食いまくって、「胃袋がひとつでは足りない」とホザイているようです。

 ケッ。


トンスル人(朝鮮人ともいう)、そして、反トンスルランド(韓国ともいう)デモについての一考察2

10月6日日曜日晴れ △

 イノウエ氏がいう日系二世出征時の日系一世の言葉は「ハワイ日系米兵」にいくつか具体的に書かれています。

アーネスト・ウノの手記より

<クリスタル・シティで家族が合流した後、私は父からの英文で書かれた長い手紙を受け取った。

 それには、父の忠誠心は日本の天皇にあり、祖国へ帰る事が運命である、と父が心から信じている事が書かれてあった。

 しかし、私が米国国民として陸軍に入隊したからには、軍人として恥ずかしくないようベストを尽くし、戦場では死を賭けて懸命に務めるようにと忠告された。

 父にとっては、生き恥をさらして帰ってくるよりも、

死んで国に忠義を尽くすことこそが英雄であり、最大の誇りであったのだ。

 父は国のために死なないならば、それは家族の恥であると書いてきた。

 私は父の言うとおりにしようと思った。

 そして、私自身に「さようなら」をつげたのであった>

「ハワイ日系米兵」P一三二

 このアーネスト・ウノ氏(Emest UNO 宇野アーネスト)は、大正十四年(一九二五年)米国ユタ州、ソルトレーク・シティ生まれであり、アマチ収容所に強制収容されたが、昭和十八年(一九四三年)八月四日、四四二連隊に志願する。

 その訓練中に、母、二人の弟、妹たちが、アマチキャンプを出て、父親のいるクリスタル・シティのキャンプに合流する。

 このクリスタル・シティのキャンプは国外追放に値する敵性外国人の収容所であった。

 アーネスト・ウノ氏の父親は、家族を連れて日本に帰る事を嘆願していたのである。

 上記の手紙は、その父上からの収容所からの手紙である。

 ウノ氏はヨーロッパ戦線に従軍し、帰還した時点で長期休暇が与えられたが、ウノ氏の帰る家は無く、制服に受章した銀星章を胸につけて、ウノ氏が向った先はクリスタル・シティのキャンプであった。

 米国の為に戦ったウノ氏にとっての「帰郷 ホームカミング」とは、強制収容所に入れられたままの家族に対して、「ただいま」という無事を知らせる挨拶をすることであった。

 戦争が終了後に除隊したが、 戦争が終わった後も、家族はまだ強制収容所に入れられたままで、昭和二十二年九月にやっと解放されている。

 「家の恥になるな」と題されたサミュエル・ササイ氏の手記より

 <両親に相談せず、私は二世部隊に志願し、晴れて米国陸軍四四二連隊の兵士となった。

 一九四三年三月二十四日、私はサミュエル・ササイ二等兵となったのだ。

 私が出征する前日、家族と別れの食事をした。

 私は両親に「さよなら」と言い、母は硬い表情のまま「気をつけていってらっしゃい」と言ってくれた。

 母がどんなに怒っているかわかっていた。私はたった一人の息子でありながら、それを承知で、行かなくともいい戦争に志願したことを怒っていたと思う。

 でも、母は怒りを抑えて、私を送り出してくれた。

 訓練中、基地に母からの手紙が届いた。

 その手紙には、母の心情が日本語で書かれてあり、

 最後に

 「星の旗をよく守りなさい。

 笹井の家の恥になる事をしたら、聞きません」

 と結んであった。

 それ以後、母は決して私に手紙を書いてこなかったが、姉がいつも手紙をくれた>

 「ハワイ日系米兵」P二一二

  サミュエル・ササイ氏(Samuel Y .Sasai 笹井サミュエル豊)

 大正十三年(一九二四年)、 オアフ島ハレイワ生まれ、

 ハワイ大学、ペンシルバニア大学卒業。昭和十八年(一九四三年)三月二十四日入隊。四四二連隊第三大隊本部所属

 上等兵、銀星章、紫心章受章。

 サミュエル・ササイ氏は、四四二部隊の兵士が必死で戦ったわけのひとつに「家の名に恥じない働きをしなさい」という両親による教育、忠誠心を叩き込んだ日本の修身のような教え、米国憲法に記載されている国民の義務(武器を持って国を守る)などとともに、「信頼」という言葉をあげながら、下記のように書いています。

<もっとも注目したいのは「信頼」である。

 それは我々二世が、アメリカ人でありアメリカの魂を持ったれっきとした市民だという事であり、それを証明するためなら死をも辞さないということだ。

 冒頭で、二世はこの国では将来が無い、と述べたが、

少なくとも我々が証明出来るのは、肌の色を問題にするのではなく、

いかにその国を心から思っているかということが大事だということだ>

「ハワイ日系米兵」p二一五

<二世兵士は米国の歴史の中で、批判された時期があった。

 しかし、今、私は自由のために戦うには、勇気ある行動と意志が必要であると信じている。

 恩や義理、忠誠といった考え方は、決して間違っていないと思う。

 これからも、この考え方が引き継がれていく事だろう。

 両親がいつも言い続けていたことは、「家の恥になるようなことはするな」ということだ。

 この考え方は、家族だけでなく友人やコミュニティー、そして国に対しても言える事である。

 よりよい世界や社会をつくるために努力するなら、決して恥などをもたらすことはないだろう。

 なぜ、あの戦いで強かったのかと尋ねられたら、私は答えるだろう。

 「二世がアメリカ国民であるからだ」と。

 戦友や私は、国の為にすべてを捧げることを最良と信じていた。>

「ハワイ日系米兵」p二一八

 下記は、全米日系市民協会事務局長であったマイク正岡氏が、昭和十七年(一九四二年)一月にサンタアナで開かれた南加大会に参加し、語りかけた言葉です。

「私はアメリカを信じ、アメリカもまた私を信じるものと確信する。

 豊かな恩恵に浴するがゆえに私はどこでも米国の体面を保ち、憲法を守り、米国の良き市民となるべく誠心誠意その義務をまっとうすることを誓う」

 彼は二世の信条をその一年前に発表している。

 「自分は日系米国市民であることを誇りとする。

 日本人としての背景を持つ身であるが、一層米国の市民であることに誇りを感じている」 

 この書き出しで切々と訴えた信条は、日系人の魂を代弁したものと目された。

「棄民たちの戦場」p二二〜二三

 戦後、我が国において、GHQ勤務中、警察予備隊を後藤田正晴と組み立ち上げたハリー福原元大佐の言葉

  <私どもは日本人の誇りを失っていません。

 世界で尊敬される日本が良い行いを重ね、高く評価されれば、同じように日系米国人も尊敬を集めるようになるのです。

 私達はしかし、米国人の魂をきちんと持っています。

 アメリカが我が国なのです。

 だから第二次大戦開始直後この社会から隔離されたとき、私達は場合によっては天皇陛下に弓する立場を固めたのです。

 アメリカに移民し、米国籍を持つアメリカ人だからです。

 祖先は同じでも、またいかに天皇を敬愛していても、

 私達の国は米国であり、遵守すべきは米国憲法なのです>

「棄民たちの戦場」P二十九より

 

コウイチ・クボ軍曹(早稲田大学卒)の経験より

<サイパンでアメリカ軍から離れて谷の中に入って行き、日本軍と遭遇し、日本軍将校より

「君は日本人でありながら、なぜアメリカ側について戦うのか」と聞かれて、

平重盛の

「孝ならんと欲せば、忠ならず。忠ならんと欲せば孝ならず」

という有名な言葉で返したところその日本軍将校は納得した。>

「ハワイ日系米兵」P三七

 

 そして、この本の同じページには下記のような記述もある。

<日系人はアメリカ市民であり、かつ日本人の血を受けている。

われわれの通った寺の先生も日本語学校の先生も、

「君たちはアメリカで生まれた二世だから、忠義というのはアメリカに捧げよ」と教えていた。

 だから、個人として、日本につくべきかアメリカにつくべきかという葛藤は、我々の時代には無かったと思う。日本でも戦国時代、兄弟でも親子でも戦っている歴史があるから、日本の文化の中でも、自分が育てられたところに忠誠を誓うのは当然だという気持ちだった>

ヒデト・コウノ

大正十一年(一九二二年)ハワイ島ヒロ生まれ

 昭和十八年(一九四三年)一月、四四二連隊入隊後、MIS所属。硫黄島従軍

 

 米国最高勲章である名誉章の受賞者が、五十五年を経て見直され、一名より二十名も追加され、二十一名の受賞者になった平成十二年(二〇〇〇年)六月二十一日に行われた名誉章授与式にてビル・クリントン大統領は

 

 

<「日系二世部隊の父母たちは、

 出征する息子達に、生きられるなら生きてくれ、死ななければならないのなら死んでくれ、

 だが常に名誉を保って戦い、家族と国家に決して恥をもたらすな、と言った。

 国家が正しく扱わなかった人々にこれ程まで仕えてもらったことはかってない」>

 

 このように受賞者を讃えた。

「軍事研究」(ジャパン・ミリタリー・レビユー 平成二十一年五月号 「日系二世部隊『第四四二連隊戦闘団』の足跡」 永井忠弘)

P一九一

 サダオ・ムネモリ上等兵(Sadao Munemori)が立つ四四二部隊を讃える顕彰碑には日本語で「殉国碑」と刻まれている。

 

 この碑に刻まれている殉じるべき国とは、当然、米国の事である。

引用文献

「ダニエル・イノウエ自伝」 彩流社 平成元年刊

「ハワイ日系米兵」(荒了寛 平凡社 平成七年刊)

「棄民たちの戦場」(橋本明 新潮社 平成二十一年刊)

「軍事研究」(ジャパン・ミリタリー・レビユー 平成二十一年五月号 「日系二世部隊『第四四二連隊戦闘団』の足跡」 永井忠弘)

 つづく

 夕方より大分の田染荘の津田社長と一緒に伊勢勇の星野社長のお店「hajime」にてドンチャン。

 

 

 記憶あり。

 サルよりマシ。


トンスル人(朝鮮人ともいう)、そして、反トンスルランド(韓国ともいう)デモについての一考察1

10月5日土曜日雨 △

 チョンイル新聞(朝日新聞とも言う)、変態新聞(毎日新聞ともいう)などの反日腐れマスゴミは、反トンスルランド(韓国ともいう)デモの事を、差別デモ、ヘイトスピーチデモなどとホザクが、とんでもないことです。

 私が過去に書いた内容と一部重複いたしますが、トンスル人(朝鮮人ともいう)はなぜ嫌われるか。それはトンスル人(朝鮮人ともいう)だから。これにつきます。

 例えば、あの算数も出来ないどうしようもないアホ大学教授である朴一(ボクハジメ)氏は、在日三世でありながら下記のように語っています。

「日本国籍を取る事に大きな抵抗感があります。」

 何十年も我が国に勝手に居着き、世話になっていながら、我が国の国籍を取る事に抵抗感があるとホザク。

 こんな民族が尊敬されるはずがない。

 何度も書いて来た事ですが、日系二世部隊を例に出すまでもなく、他国に移民した我が日本民族は、日本人、あるいは日本人の血としての誇りを持ちながらその国の国民として、その国の為に尽くしたからこそ尊敬されているのです。

 高名な米国の政治家であったダニエル・イノウエ氏(Daniel Ken "Dan" Inouye)は、他の日系米国人とともに義務と名誉のために日系部隊四四二連隊として出征し戦って片腕を失っています。

 その四四二連隊は米国史上最強部隊と言われていますが、それは日系人自らが日系人がどういう存在であるかを米国が認めるように血を流した結果です。

 イノウエ氏は「義務」と「名誉」を「日系人が親から子へと引き継いだ、重要な言葉です」と語っている。(平成二十三年七月十六日産經新聞「論説委員・鳥海美朗 イノウエ米上院議員の忠告」)

 イノウエ氏の著書「ダニエル・イノウエ自伝」には出征するイノウエ氏とご両親(兵太郎、かめ)の別れの場面には下記のように書かれています。

< (木下注 母親かめとの会話として) 

 「神のご加護がありますように」

 母は小声でつぶやいた。そして、私の体を離そうともせず、ほほを、こっちのほほにぐーっとくっつけてきた。

「ねー、入隊ならうれしいよ。ただ、立派に男らしくしてほしいだけ。家名をあげて、ね」

 略)

 「りっぱになっておくれ。やることを間違えちゃだめよ。それに、ね。昔からのしきたり、お父さんや私のしきたりなんか、お前にはそう大事じゃあないだろうけど、嫁さんをもらう時は・・・・・・・」

 「そんなことより、お母さん・・・・・」

 「まあ、聞いてちょうだい。結婚するときは、血の同じ仲間の一人、りっぱな日系人の娘と結婚してくれたら一番うれしいんだけど、でも・・・・・・こんなことは、おこらないかもしれないし、大体,若い人にはそう大事でもないわね。だから、えーっと、もう一度だけ、いーい。母さんが年端もいかなくて食うや食わずだった時はいつでも、ハワイの人たちは、とても思いやりがあって親切にしてくれたの。で、ね、日系人の良家の娘さんと一緒になる気にならなければ、その時には、ハワイの娘を選んでくれたって、母さんは少しも不満じゃあないよ。このことをいってきかせようと、ずうっと思ってきたんだけど、お前が実社会にでるところだから、もうこれ以上まてないの。ねー」

「お母さん、そのとおりだ。わかりました」

 それから、私はテーブルを回っていくと、しっかりと母を抱きしめた。

 (木下注 父・兵太郎との会話として)

 「日本語の恩って、どんなことか知っているだろう」

 「はい」

 日本語の恩は、日本文化のそれこそ核心にあるのだ。

 ある人が他人に助けられたら、決して帳消しにならない恩義、おりがあればいつでも、惜しみなく無条件に報いるべき恩義を受けたのだ、と心に銘記しなければならない。それが恩というものである。

 「井上のうちのものは、米国に随分と恩を受けている。おれたちには、結構な国だった。ところで、おれにはこんなふうになりたくても、なれるわけもなかったろうが、お前こそ、この国の親切に報いるようにしなくちゃいかん。お前は、俺の長男だし、お母さんにしても、お父さんにしても、目に入れても痛くない子だよ。でもな、義務はちゃんと果たせ。必要なら、進んで・・・・・進んで・・・・する気でなくっちゃ・・・・・・・」

 ぞっとするような恐ろしい例の言葉が、言葉にならず、声は次第に小さくなっていった。

 「お父さん、わかります。わかります」

 「家名を汚すなよ」

 しつこいくらい、ぼそぼそと諭した。

 第四四二部隊の兵隊が集合する山場の最後の数週間というものは、とても意味深長な同じ言葉が、ハワイ諸島の津々浦々で、際限なく人々の口をついで出たに違いない。>

「ダニエル・イノウエ自伝」 彩流社 平成元年刊 p一二七〜一二九

  つづく

 

 大阪のおサルさん二名様で来店。

 Tさんご夫妻来店。

 Y@横浜さん来店。

 K@府中さん来店。

 今日はビール小瓶だけ。

 サルでもエビでもない。


10月4日金曜日曇りのち雨△

 チョンイル新聞(朝日新聞ともいう)が安倍首相が伊勢神宮内宮の「遷御の儀」に参列した事に関しての記事が掲載されています。

以下引用

<「戦前回帰」「日本の文化」 に84年ぶり首相

(朝日新聞2013年10月3日5時44分

 安倍首相が2日夜、伊勢神宮内宮の「遷御(せんぎょ)の儀」に参列した。国家神道が隆盛だった1929(昭和4)年以来、戦後初の首相参列は何を意味するのか――。

 日本キリスト教協議会の靖国神社問題委員長、坂内宗男さん(79)は「憲法に定められた政教分離の原則に反する行為だ。非常に深刻に受け止めている」と強い調子で批判した。安倍首相が靖国神社の秋季例大祭に参拝することも想定し、7日に委員会を開く予定だったが、「この問題も協議し抗議文を出したい」。

 首相の正月参拝は定着しているが、戦後3回あった式年遷宮に首相が参列した例はなく、前回は官房長官らの参列にとどまっていた。坂内さんは「伊勢神宮の公的位置づけを強め、国民にそういう意識を広める狙いがあるのでは」と危機感を募らせる。  戦中の国民の暮らしや教育、報道を描き、靖国問題に関する著書もある児童文学作家の山中恒さん(82)は「かつて伊勢神宮は祭政一致、国体原理主義の総元締だった。安倍首相の行動は明らかに戦前回帰」と批判する。

 国学院大学の大原康男名誉教授(71)=宗教行政論=は「安倍首相だけが突出しているわけではない」と話す。戦後の式年遷宮があった年の首相3人のうち、吉田茂、田中角栄両氏は「遷御の儀」には参列していないが、機会をみて参拝をしてきたという。

 憲法が定める政教分離原則については、「津地鎮祭訴訟」最高裁判決(77年)で、目的として宗教的意義を持ち、宗教に対する援助や助長などの効果がある場合に違憲になるという考えを示した。大原氏はこの判決に触れ、「日本人の心のふるさとと言われているところでもあるし、日本の歴史や伝統、文化に鑑みて首相が参列するのであれば、特定の宗教を援助や助長、促進することにならないから憲法違反ではない」と説明した。

遷御の儀に参列した8閣僚  麻生太郎副総理兼財務相、下村博文文部科学相、田村憲久厚生労働相、林芳正農林水産相、石原伸晃環境相、古屋圭司国家公安委員長、山本一太沖縄・北方相、稲田朋美行革相>

引用終わり

 

  「靖国神社はなくならなければいけない侵略の象徴だ」(ソウル聯合ニュース2012年08月28日)とホザク日本キリスト教協議会は反日団体の集まりで有名な「新宿区西早稲田2-3-18 」に住所があります。

 

 もうネットでは有名ですが、下記は、「新宿区西早稲田2-3-18」という住所にある団体です。

日本基督教団 〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18

日本キリスト教協議会 新宿区西早稲田2-3-18

在日外国人の人権委員会 新宿区西早稲田2-3-18

在日韓国基督総会全国青年協議会(全協)新宿区西早稲田2-3-18

平和を実現するキリスト者ネット 新宿区西早稲田2-3-18

キリスト者女性のネットワーク 新宿区西早稲田2-3-18

女たちの戦争と平和資料館 新宿区西早稲田2-3-18

戦時性暴力問題連絡協議会 新宿区西早稲田2-3-18

キリスト教アジア資料センター 新宿区西早稲田2-3-18

難民・移住労働者問題キリスト教連絡会<難キ連> 新宿区西早稲田2-3-18

石原やめろネットワーク 新宿区西早稲田2-3-18

歴史歪曲を許さない!アジア連帯緊急集会事務局 新宿区西早稲田2-3-18

国際協力NGOセンター(JANIC) 新宿区西早稲田2-3-18

日本キリスト教海外医療協力会(JOCS) 新宿区西早稲田2-3-18

アジアキリスト教教育基金 新宿区西早稲田2-3-18

財団法人日本クリスチャンアカデミー 新宿区西早稲田2-3-18

在日韓国人問題研究所 新宿区西早稲田2-3-18

在日本大韓基督教会 新宿区西早稲田2-3-18

在日韓国基督総会全国青年協議会(全協)新宿区西早稲田2-3-18

外登法問題と取り組む全国キリスト教連 新宿区西早稲田2-3-18

外国人学校・民族学校の制度的保障を実現するネットワーク(代表:田中 宏) 新宿区西早稲田2-3-18

宗教法人日本バプテスト同盟       新宿区西早稲田2-3-18
株式会社アバコクリエイティブスタジオ 新宿区西早稲田2-3-18

移住労働者と連帯する全国ネットワーク 新宿区西早稲田2-3-18

 「女たちの戦争と平和資料館」とはあの戦時売春婦記念館のことです。

 流石はチョンイル新聞と納得。

 

 今日のカミさんの朝ビール。

 

 台湾へ里帰りするカミさんを途中までおくってから河岸へ。

 バンブーさん来店。

 二名様来店。

 Tさんご夫妻来店。

 Sさん来店。

 

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


10月3日木曜日晴れ ×

 Tさん4名様で来店。

 二名様来店。

 Tさん来店。

 ドンチャン。

 サル。


10月2日水曜日晴れ △

 

 

 朝っぱらから、原茂ワイナリーさんよりいただいたいっぱいの葡萄を、これまた山盛りにしていただきました。

 6種類の葡萄ですがそれぞれが特徴あって、美味しかったです。

 まだまだ、残ってますw

 

 二名様来店。

 二名様来店。

 Tさん三名様で来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


10月1日火曜日晴れ △

 「オーディヴァンデラ モンラッシェ 1899」

 ちょうど100年めということで、一九九九年十一月二十日にお客様とドンチャンやって、飲んじゃったボトルです。

 

 小胡子さん二名様で来店。

 Sさん五名様で来店。

 Iさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 


表紙にもどる

URAホームページ