イギリス人にとっての有色人種とは

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

マオリ戦士の首
平成19年10月30日火曜日晴れ ○

 先日下記のようなニュースがありました。
以下引用
<マオリ戦士の首>故郷NZへの返還に仏政府が「待った」
10月27日18時40分配信毎日新聞
 【パリ福井聡】フランス北部ルーアン市が、自然史博物館所蔵の「マオリ(ニュージーランドの先住民族)戦士の首」をニュージーランドに返還しようとしたところ、「事前に相談がなかった。勝手に返還するのはまかりならん」と仏政府が「待った」をかけた。
 同博物館は24日、返還協定を在仏ニュージーランド大使館と結んだ。しかし、アルバネル仏文化相が返還停止を求める行政訴訟を起こし、裁判所は協定締結前日の23日、返還停止を命じた。このため、返還協定締結にもかかわらず、首は当面、フランスにとどまることになった。

 返還が停止されたのは、顔の表面に入れ墨が施されたマオリ戦士ミイラの首。1875年に同博物館に寄贈され、96年まで一般展示されていた。同博物館は10年間の改築を経て今年再オープン。これを機にルーアン市側は「異文化と人間の尊厳への敬意を示すべきだ」(アルベルティーニ市長)、「忌むべき前世紀の密売史を閉じるべきだ」(同博物館館長)と返還を決めた。
 同博物館によると、
西欧では19世紀、入れ墨入りの首が装飾品として人気を呼び、中には「輸出するため、頭部に入れ墨を彫られ、殺害された例もある」という。ニュージーランド側は「遺体の尊厳を守りたい」と92年に返還を呼びかけ、これまでに数カ国が応じてきた。
 仏文化省の顧問弁護士は「今回はマオリの首一つだが、今後、ルーブル美術館のミイラなどにも(返還の動きが)波及しかねない」と警戒、マオリの首数点を所蔵するパリのケ・ブランリー博物館も返還には慎重な姿勢を示している。
最終更新:10月27日18時40分
引用終わり

 「今回はマオリの首一つだが、今後、ルーブル美術館のミイラなどにも(返還の動きが)波及しかねない」

なんという醜い言い種でしょう。

<西欧では19世紀、入れ墨入りの首が装飾品として人気を呼び、中には「輸出するため、頭部に入れ墨を彫られ、殺害された例もある」という。>
 白人というものが、どのような人種であったかということがよく現されているニュースです。

 ニュージーランドのことではありませんが、オーストラリアにおけるアボリジニの運命も同じです。
 一七一七年から一七七六年の間、約四万人の囚人がイギリスからアメリカの植民地に送り込まれている。囚人はイギリスの監獄から船主たちに売り渡され、新大陸に到着すると今度はプランターへと転売された。それが、アメリカの独立戦争により崩壊した。アメリカがイギリスの囚人を受け入れなくなったのです。
 そのため、イギリスは行き場のなくなった流刑判決の囚人たちをテムズ川や軍港の牢獄船に収容し、公共事業などにその労働力を利用しようとしたが、年々増える流刑囚により収容しきれなくなり、オーストラリアに囚人を送り込む事となった。一七八八年一月二五日にシドニー湾に到着した一一隻の船団にて送り込まれた囚人の数は史料により男性五六三〜五六八人、女性一八九〜一九二人、合計七五二〜七五九人と異なるそうです。囚人の男と女の比率が四対一という事はどういう結果を招くか。囚人の男達は原住民であるアボリジニの女性を性欲のために強姦した。
 オーストラリアは流刑植民地であったために、流刑者だけでなく、一八〇〇年代になっての一般植民者も多く入植してくるようになる。オーストラリア人にそのルーツを尋ねると、ほとんどは一八〇〇年代にオーストラリアに来たと答えるそうであるが、つまり、わが家の祖先は囚人ではないと言っていることなのです。ところが、この一八〇〇年代の入植者とは本国にいる事の出来ない落ちこぼれ、ならず者、無法者が多かった。
 
 これらの白人が、オーストラリアの原住民であるアボリジニの人々に対してどのような感覚を持って接してきたかが手元にある「オーストラリアの歴史」(藤川隆男著 朝日新聞社刊 朝日選書四〇七 一九九五年)に書かれています。それによると、
 <イギリス政府は、アボリジニを文明人とは見なさなかった。イギリス法上では、タスマニアは征服されたのではなく、発見と植民により獲得された領土であり、そこに住むアボリジニは、市民権のないイギリス臣民として取り扱われた。タスマニア全島はいまやイギリス国王の所有地であり、征服された国民としての権利さえ失ったアボリジニの土地を守る戦いは、単なる犯罪行為に過ぎなかった。
 「アボリジニはイギリス法の保護の下にある」との宣言が副総督によってしばしばなされたが、実際に保護の手が彼らに差しのべられたことはなかった。イギリス法はアボリジニを殺す権利があるということの偽善的な言い方に過ぎなかったのである>p二九〜三〇
<「アボリジニを民族として把え、その一般的な進歩やそれが習得した事物を比較考量してみると、たとえ野蛮人の間においてさえも、彼らは確実に極めて低い地位にいる。彼らはおそらく、ホッテントットや寒風吹きすさぶマゼラン海峡に住む部族と順位争いをするのがせいぜいで、繊細なアフリカ人や忍耐強く用心深いアメリカ人や、優美で臆病な南海の島の住民と較べれば非常に見劣りがする。・・・・これほど文明から懸け離れた状態はほとんどないと主張できるだろう」
「自然状態は、崇高な研究や無限の推論をすることができる存在の幸福を増進するには、最も適さないものである。荒野の中の獲物を求めてさまよい歩く野蛮人は、我々の本性を堕落させ、苦しめるすべての感情によって醜悪な姿となった生き物である」>(シドニーの最初の四年間)士官ワトキン・テンチ)p四七〜四八

 これらはどういう事か。アボリジニを人間として見ていなかったのです。その結果、下記のような悲劇が起こされる事になる。
以下引用
 <一八二六年一一月、副総督アーサーは、入植者たちの強い要求に押されてアボリジニを武力で追い払う権利を彼らに与え、必要ならば軍隊による支援を行なうと宣言した。『コロニアル・タイムズ』紙によれば、これはアボリジニに対する公式の宣戦布告にほかならなかった。
 略)
 一八二九年一一月一日、副総督アーサーは定住地にいるアボリジニに対して戒厳令を布告した。これによって、理由のいかんを問わず、ヨーロッパ人がアボリジニを射殺しても起訴されない法的根拠が与えられたのである。ここににアボリジニに対する絶滅戦争は最終局面を迎える。戒厳令とともに、定住地に残るアボリジニを掃討するための小規模な遠征隊が組織され、内陸部へ分け入ってアボリジニを捕獲あるいは射殺する任についた。一八二八年から三〇年にかけて、遠征隊によって殺されたアボリジニの数は約六〇、捕えられた者は約二〇人と報告されている。
 略)
 彼の部隊(ジョン・バットマン率いる遠征隊)はペントモンド山の東側の斜面でアボリジニのキャンプ地を発見した。バットマンは奇襲攻撃かけようとしたが、銃が暴発したのでこれに失敗し、逃げるアボリジニに銃を乱射して、逃げ遅れた子供と女一人を捕らえただけでに終わった。しかし、農場への帰途で「幸運にも」彼は二人の傷ついたアボリジニを発見する。この二人の男は歩けなかったので殺さざるをえなかった、とバットマンは述べた。バットマンは遠征の功績を認められ、二〇〇〇エーカーの土地を副総督アーサーから与えられた。彼は後にこれを売って七五〇ポンドの利益を得た。人間狩りには十分すぎるほどの報酬であろう。>p五三〜五四

 <ヴァン・ディーメンズ・ランド会社に雇われた牧羊夫たちは、アボリジニの女性を誘拐した。これを取り戻そうとしたアボリジニは、牧羊夫に攻撃をしかけ一人の男に重傷を負わせたが、逆にこの攻撃のリーダーだった人物も殺される。アボリジニは、再度報復の為に二〇〇フィートの岸から三〇頭の羊を追い落とした。これに対し四人の牧羊夫は、アボリジニの部族に奇襲攻撃をかけて三〇人を虐殺して、同じ崖から突き落としたのである。この崖はこの時の戦功を記念して「勝利の丘」と呼ばれるようになった>p五四〜五五

 <一八二九年の冬に、アーサーは定住地域に残るアボリジニの数を約二〇〇〇人と見積もっていたが、実際には一〇〇人にも満たなかった。それにもかかわらず、アボリジニの抵抗は弱まらなかった。
略)
 一八三〇年、アーサーは定住地に残るアボリジニを完全に相当する作戦を決定した。この作戦は地図のラインから出発して、アボリジニを捕らえるか殺しながら徐々に南に追い詰め、最終的にタスマン半島に追い込むことを目的としていた。
 一〇月七日、約二〇〇〇人の兵士、囚人、自由人が長大な人間の鎖を造って、アボリジニを南へ追い立てる作戦が始まった。カンガルー猟を思い越させる人間の鎖は「ブラックライン」として語り継がれていく。彼らは一〇〇〇丁の銃と三万発の弾丸、三〇〇の手錠を用意して、七週間にわたって作戦を継続した。しかし、この作戦で捕えられたアボリジニは二人しかおらず、ほかに二人を射殺しただけに終わった。当時の人々は、この作戦を大失敗であると批判したが、実はほぼ完全な成功を収めていたのである。アボリジニが二人しか捕獲できなかったのは、入植者の予想に反してアボリジニがもはやほとんど生存していなかったからであった。>p五六
 
 これは、今回のマオリ戦士の首の話と共通するもので白人というものをよく現す例です。
 オーストラリアでは二〇世紀になっても獲物としてのアボリジニ二狩りは行なわれていました。
<ニューサウスウエールズ州の国会図書館所蔵の日記には『一九二八年、今日の収穫、ウサギとアボリジニ二七人・・・・」という記述があった>(「残酷な楽園」隆籏学著より)私の引用は「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂)p一七三より

 当然のことながら有色人種差別を制度化して白豪主義をとり続けていたオーストラリアでは、辛うじて生き残ったアボリジニの人々は、一九六〇年代までオーストラリア国民としてさえ認められていなかったのです。

タスマニア・アボリジニの悲劇


 タスマニア・アボリジニはオーストラリア大陸のアボリジニと人種的に別だったといわれていますが、すでにタスマニア・アボリジニが虐殺により全滅してしまった現在ではわかりません。
 
 アボリジニは、肌が黒いという以外は近隣のメラネシア人やアフリカの黒人とはまったく似ていない人種です。アボリジニの多くは金髪であり、特に子供においてはその特徴は顕著です。 

 アボリジニに対してのイギリス人はどのように接したか。「オーストラリア歴史の旅」(藤川隆男著)に下記のように書かれている。

 アボリジニは食糧のかわりに女性を提供したが、深刻な労働力不足に悩んでいた入植者は、女性よりも子供に魅力を感じた。
略)
 入植者はすぐにもっと手っ取り早い方法、誘拐で労働力の確保を目指すようになった。
略)
 アボリジニは、ヨーロッパ人との間にギヴ・アンド・テイクの原則に基づく友好的な関係を築き、侵略者と共存する用意はあったが、従来の生活様式その他すべての文化を棄て、ヨーロッパ人の社会に吸収されるつもりはなかった。他方入植者の側には、アボリジニを先駆者あるいは正当な土地の所有者として受け入れるつもりは全くなく、土地を奪い取った代価を払う必要があるなどとは考えてもみなかった。
 p五一

 白人侵略者の徹底した掃討作戦によってアボリジニが絶滅の危機に瀕していた時、一人の救世主が現れた。その名をジョージ・オーガスタス・ロビンソンという。彼は副総督アーサーの要請に基づいて、非定住地域に残るアボリジニを集め、白人の殺戮の手が届かない場所へ移住させる計画に着手した。
略)
 アーサーは、一八二六年の時点ではタスマニア北東部に原住民保護区を作る考えであり、ブラック・ラインのときには、タスマン半島をその安住の地とするつもりであった。しかし、そのいずれもが失敗した現在、アーサーはロビンソンの提案に同意し、バス海峡(タスマニアとオーストラリアを隔てる海峡)に浮かぶ小島に、残ったアボリジニを収容する施設を作ることに決定する。
 ロビンソンは、アボリジニの救世主ではあったが、白人の神に仕えていた。彼は、先祖伝来の土地から引き離すことによってのみ、
アボリジニをキリスト教化し、優れた文明の本質を教え込むことができると信じた。彼は、アボリジニの文化をすべて奪い取ることが、アボリジニの救済の前提条件だと信じていたのである。このような考え方を当時の裁判所長官ベダーは、次のように批判している。
 「もし、アボリジニを離島へ送れば、彼らがこれまで亭受してきた移動の自由や狩猟の自由はなくなり、希望のない監獄に閉じ込められた生活の中で、彼らはすぐに衰減するであろう」
 しかし、ペダーに対し、アーサーは次のように反論した。
 
「たとえアボリジニが離島の中で、我々のあらゆる善意に囲まれて滅亡したとしても、それは白人との戦いの中でアボリジニが英雄のごとく滅亡していくよりもはるかに望ましい」
 ロビンソンは、彼が集めたアボリジニがペダーの予言どおりに
、白人の監視下で次から次へと死ぬのを横目で見ながら、彼らを絶滅から救うために、生き残ったアボリジニのすべてをタスマニア全島から集めることに全力を傾けた。いまやロビンソンは手段を選ばなかった。実現するはずのない約束や銃の力を用いてもアボリジニの捕獲を続けた。バス海峡にあるフリンダース島の収容施設には、一八三三年に四三人のアボリジニが、翌年には四二人が送り込まれた。しかし、この二年間で五一人のアボリジニが死亡している。

 フリンダース島では、アボリジニたちはヨーロッパ文明の「恩恵」を拒絶し、農業に従事することを拒んだ。監督官たちは、これを口実として肉や新鮮な野菜をアボリジニに与えなかった。アボリジニ一人が一日につき配給された食料は、塩づけ肉四五〇グラム、小麦粉四五〇グラム、ビスケット二二五グラム、砂糖七グラム及び塩である。アボリジニは塩づけ肉を食べられなかったので、栄養不足を補うには狩猟をせざるをえなかった。しかし、多くの者は病気で狩猟ができないか、狩りを禁じられているか、あるいは何も狩るものがないかのいずれかであった。
p五八

 タスマニア・アボリジニが紳士と言われるイギリス人により亡ぼされた様子がよくわかります。そして、白人は他の地域でも同じ事を繰り返したのです。

最後のアボリジニ

 タスマニア島では三万七〇〇〇人(*1)いたとされるタスマニア・アボリジニですが、一八四七年、フリーダース島の収容所で生き残ったたった四七人のタスマニア島に送り返された。
 その時の状況について「オーストラリア歴史の旅」に下記のように書かれている。
以下引用
 この移動の主な理由は、フリンダース島の施設は経費がかかりすぎるという点にあった。彼らの行き先は、健康上有害という理由で放棄された衆人収容所であった。
 ここでは、アボリジニはより大きな自由と少しは栄養のある食事を一時的に与えられたが、マラリアなどの伝染病によって一八五四年までに彼らの数は一七人となる。一八五五年に自治政府がタスマニアに成立した後は、食事が減らされ、収容所は廃虚のような有り様を呈する。慈悲深い人道主義者たちの来訪も途絶えがちとなり、タスマニア政府は、彼らの滅亡を願って、最小限の支出さえも惜しむようになった。こうして、一八六八年にはついに三人のアボリジニが残るのみとなった。
「オーストラリア歴史の旅」藤川隆男著 朝日新聞社 p六〇

 そして、一八六七年五月八日に最後の純血タスマニア・アボリジニであったトルゥガニニが死に、その血は絶えた。
 一八一二年に生まれたトルゥガニニの母はアザラシ捕りの一団に刺し殺され、妹は同じくアザラシ捕りに誘拐され、のちに射殺されている。また彼女の婚約者は、彼女が木こりたちに誘拐されるのを防ごうとして溺れ死んだ。
 彼女は亡くなる時にその故郷に埋葬される事を望んだが、彼女の遺体はホーバート病院に移され、植民地首相の命令で、五月一一日に葬儀が行なわれて遺体は教会の前に手厚く葬られたが、イギリス人がその墓をあばき、三つのグループにより盗み出される事になる。最初のグループが頭部を盗み出し、次のグループがばらばらに切断された四肢と胴体を盗み出した。 最後のグループはわずかな肉片しか残ってなかった。彼女の遺骨は考古学上の珍品として高い値がついたそうであるが、一八七八年、タスマニア王立協会の博物館がその遺骨を入手し、一九〇四年から一九四七年までその博物館で一般に公開された。タスマニアン王立協会のストックウェル博士にいたってはトルゥガニニの皮膚で煙草入れを作成し愛用していたという。
 やっとタスマニアのアボリジニの要求で政府が彼女の遺骨を火葬にすることを同意したのは一九七四年になってからです。

 このタスマニア・アボリジニに対してのイギリス人の接し方は、大東亜戦争における我国の捕虜収容所における収容者に対しての扱いと共通するところが多々あります。
 そして、アボリジニの人権が認められたのは大東亜戦争後、一九六〇年代になってからです。

*1
 タスマニア・アボリジニの人口については私の手元にある本でも下記のように分かれます。
 「一八一八年までに、アボリジニの人口は推定四〇〇〇人から約二〇〇〇人に半減し」・・・・「オーストラリア歴史の旅」藤川隆男著 朝日新聞社 p五一
 三七〇〇〇人・・・・「侵略の世界史」清水馨八郎著祥伝社p一四四
 十数万・・・・・・・「情報鎖国・日本 新聞の犯罪」高山正之著 廣済堂)p一七三より

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