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人間のクズ・倉沢愛子の醜い反日活動

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成19年9月10日月曜日くもり時々雨
 手元に<「大東亜」戦争を知っていますか?>と題された本があります。
「大東亜」戦争としているのは、著者の倉沢愛子氏によれば、<戦後この名称を使うと、戦争肯定派だと思われる傾向があった。略)それと混同されるのは困るから、括弧をつけて「大東亜」戦争と呼ぶことにしている。>(p28)だそうです。
 倉沢氏は実の娘に語りかける形式でこの本を書いています。
 倉沢氏は別の著書「日本占領下のジャワ農村の変容」でも、日本軍による虐殺行為をでっち上げていると高山正之氏に指摘されたことがありますが、
この著書でも随分変な所があります。
在日朝鮮人と強制連行については
 <
これは単に、「日本に滞在している朝鮮人」というような単純な意味じゃあないんだよ。戦争当時は日本の一部であった朝鮮半島の住民は、有無をいわさず、日本や、当時は日本領であった樺太や千島の工場や、鉱山その他で働くために、故郷の家族から引き離されて連れてこられたの。当時(一九三九年以降)は徴用令という法律があって、日本人はもちろんのこと、朝鮮半島や台湾の住民、つまり日本帝国の「臣民」として見なされていた人たちも、「これこれの仕事のために来い」といって呼び出されれば、拒否することができなかったのよ。拒否すれば、「非国民」ということになってしまう。つまり「強制連行」ね。
 終戦になった時、その人たちは、その労働から解放されたのだけど、
帰国に関しては何の手だてもほしょうされなかった自力で帰国するしかなかったの。費用がなかったり、手続きがわからなかったりして、そのまま日本に残留せざるをえなかった人々も多く、そこから「在日朝鮮人」というカテゴリーの住民が誕生したわけ。つまり、強制連行されて帰国できなかった人たちとその子孫たちが、現在日本に住む朝鮮人の大多数を占めているの。
 略)
いずれにしても「在日」といわれる人たちはほとんどが、やむなくこの地に居を定めた人たちなの。このような朝鮮人の運命のことは知らない人もいるのよね。「なぜ、日本にこんなにたくさんの朝鮮人がいるんだろう」と疑問に感じても「きっと隣の国だから出稼ぎに来たのね」くらいに思っているんじゃない?
>p130〜131

 いまどき、ここまでアホな事を言っている人はあまりいません。徴用令が朝鮮半島で実施されたのはいつだと思っているのでしょう。ましてや、戦後は朝鮮人は進駐軍はすべて帰したがっていたので、帰国船も用意していました。希望者はすべてタダで朝鮮半島に帰る事ができました。このような程度の女性が東京大学を卒業し慶應大学で大学教授をやっているのです。

 まったく同じような内容は、『朝鮮人差別とことば』に掲載されていた梶原一騎・矢口高雄両氏と少年サンデー編集部への抗議文にもそれがみられます。この抗議文は「おとこ道」というマンガの中で朝鮮人が敗戦後の我国でやってきた非道を描いたものに対しての抗議文ですが、この抗議文が一部の歪んだ在日朝鮮人の人たちの精神性をよく表しています。
<敗戦当時、日本に居住していた在日朝鮮人・中国人は、植民地支配と侵略戦争によって強制ないしは、なかば強制的に日本に連行されて来た人たちとその子供たちで、日本帝国主義の犠牲者以外のなにものでもない。>
日本朝鮮研究所運営委員会
『朝鮮人差別とことば』内海愛子、梶村秀樹、鈴木啓介編 明石書店1994年刊 

 この内海愛子女史の名前もこの著書にはよく出て来ます。類友なのでしょね。
 この倉沢女史は序文で<たくさんの聞き書きの中から、大勢の人が一様に語ったことだけを「事実」として仮定して歴史を組み立ててみたの。「大勢の人が一様に語った」といっても、それがたとえば国家による思想教育などによってそのように語るように仕向けられていることだとしたら、これはデーターとして採用するわけにはいかないわよね。それが聞き書きによる歴史の怖いところなの。当時のインドネシアの国定教科書に書かれていることが必ずしも真実だというわけではないのよ。だからデーターの新偶成に関するスクリーニングは、お母さんが一番苦労したところです>p一五〜一六
って、自分のイデオロギーにそった発言だけしか認めないってことなのでしょうか。
 在日朝鮮人に関しての事だけでも、この倉沢女史の程度がわかりますが、そのような人からこの本の副題である「東南アジア研究にとりくむ著者が若い世代に語る日本の戦争の真実」って・・・・・・
倉沢女史のお話まだまだ続きます。


倉沢愛子 慰安婦と補償問題
10月4日木曜日晴れ ○

なぜ、戦時売春婦に対して我が国が補償をしなければいけないのか。倉沢女史はそれについて下記のように書いています。 
以下引用
 こういった訴えに対して、一九九四年に、女性のためのアジア平和国民基金(通称アジア女性基金)という民間団体が設立され、民間からの寄付金を集めて、元従軍慰安婦であったことが認定された女性に対して、償い金を支払うことになった。この組織の運営には、政府の補助金が拠出されているが、あくまで民間団体である。補償は民間の団体ではなく、日本政府が直接取り組むべきだという反対意見などもあるが、すでに、韓国やフィリピンの一部の被害者には、償い金が支払われている。しかし、インドネシア政府社会省は、一九九六年に、「アジア女性基金からのお金は個人的に受領する事は認めない。養老院などの社会福祉施設の充実の為に使う」という方針を発表した。そしてその目的のために、アジア女性基金は、三億八〇〇〇万円を一〇年間でインドネシア政府の社会省へ支払う事になった。しかし、恥を忍んで名乗り出た元従軍慰安婦の人たちは、当然それでは不服であり、前述のマルディエムさんもそれを怒っていた。年老いて、医療費も十分払えないような状況にいる老女たちにとって、ともかくいますぐ必要なのは現実的な解決方法ではないだろうか、と私は思う。なぜなら、マルディエムさんが言うように、もう時間がほとんど残されていないのだから。
引用終わり
P168〜169
<「大東亜」戦争を知っていますか。>倉沢愛子 講談社現代新書より引用

 これだけで、売春婦に対して我が国が補償しなければいけない理由を見い出す事ができる方はいらっしゃるでしょうか。売春という仕事をして稼いで、年をとったから日本政府が金を出せと言っているだけなのです。

<もう時間がほとんど残されていないのだから。>どうぞご勝手に!

 同じく我が国の戦後補償について倉沢女史は下記のように書いています。
以下引用
 ところで日本が独立を回復したのち、最初に片付けなければならなかった問題は、何だったと思う?そう、戦争の傷跡をなんとか癒して、各国との間にあるしこりを取り除いていくことよね。つまり、単に条約というような法的な解決だけじゃあなくて、本当の意味で「仲直り」しねくちゃならなかったの。そしてそのための第一歩としてまず問題になったのが、戦争賠償の支払いという問題だった。他人に何か迷惑をかけたとき、「損害賠償」を支払うでしょう?それを国と国との間でもやりましょうというわけ。
 それで、実際日本は、どんな形でいくらぐらい支払うべきかを、相手方との話し合いのなかで決めて行く事になり、それが戦後最初の本格的な日本の東南アジア外交の課題になったのよ。そして一九五〇年代を通じて支払い対象国との間に賠償交渉が行なわれ、それが妥結してからは、分割でその支払いが行なわれたの。
 略)
そんなふうに日本は一応きちんと賠償を払ったの。でもそれでも、実はいまだに、戦後処理が未解決だっていわれるのよね。P234
略)
 ところが、一九八〇年代になって、東南アジア諸国の開発政策も一定程度の成果を生み出して一段落してくると、日本に対する眼差しも多極化してくるようになった。そんな時、一九八二年に、文部省の検定で、日本の高等学校の歴史の教科書の記述をアジアへの「侵略」から「進出」という曖昧な用語に書き換えさせたという報道がなされ、これに対し、アジア諸国が激しく異義を唱えたのであった。これ以降、日本政府も歴史教科書検定基準として「近隣アジア諸国間の近代史の歴史的事実に対する取扱いに国際理解と国際協調の見地で配慮する」という、いわゆる「近隣条項」を導入せざるをえなかったほどである。このことは、アジアにおいて日本が残した戦争の傷痕は、決して経済協力によって免罪されてなどいないということをはっきり示していた。
 そのようななかで今度は、一九九〇年代初めに韓国において、元従軍慰安婦だったとして名乗りを上げる女性達がでてきて、日本への個人補償要求が持ち出された。これまで日本は個人補償はいっさい拒んできた。そしてそれまで支払われた賠償は、あくまで国家に対するものであり、個々人への補償ではなかったのである。
P239〜240

 これはつまり、正式に結ばれた国家間の条約だけではない。もっと金を出せといっている朝鮮人売春婦や支那の国がらみの集りと同じ事をこの倉沢女史はいっているのです。他の売国奴と同じくこの近隣条項が誤報が発端となり結ばれたという経過を書いていません。また、同じく「アジア各国」ではなく、支那、朝鮮だけがその時に馬鹿マスコミの御注進により騒いだという事も書いていません。
 我国の大東亜戦争による被害を騒ぐのであれば、どうしてこの倉沢女史は専門であるはずの三〇〇年以上にわたるオランダのインドネシア植民地統治を騒がないのでしょう。そして、そのインドネシアがオランダより独立する時に、オランダはインドネシアに対して残した資産の代金として莫大な金を要求し、インドネシアはオランダにその金を支払った事を書かないのでしょう。
 同じ事であれば、我国は支那、朝鮮、台湾に莫大な資産を残してきており、その国々が独立する時にそれぞれの国々に資産を買い取らせることができたはずなのに、逆に朝鮮には賠償金という名目ではないが金をやっています。
このような事を倉沢女史などはどうして指摘しないのでしょう。
胡散臭い女性です。

倉沢愛子 朝鮮語抹殺
10月5日金曜日晴れ一時小雨 ×

 この倉沢女史は大学教授と思えぬほどの無知ぶりを発揮しています。
以下引用
 朝鮮では一九三八年から学校教育において朝鮮語の学習が禁止され、翌一九三九年には朝鮮人も日本名に改名する事を命ずる法令が公布(P80)

 周知のように、朝鮮、台湾では日本語が「国語」として位置付けられ、教育の場から民族の言葉を抹殺する試みが行なわれた。朝鮮では、授業時間外に友人どうし会話する時にも「国語=日本語」の使用を義務付け、それをチェックするために、校内に「国語常用箱」を設置した。朝鮮語を使用した聖徒を見たら、その名を書いてこの箱に入れることになっており、投書された生徒は週末に処罰されるというほど徹底していた。(P199〜200)
<「大東亜」戦争を知っていますか。>倉沢愛子 講談社現代新書より引用終わり

 とても正気とは思えません。
 何度も書いていることですが、我国が統治している間に、朝鮮語が禁止された事は一度もなく、ハングル文字が普及したのは我国の朝鮮統治時代であるのは明らかです。
 日本が朝鮮半島の普通学校(小学校)で朝鮮語教育を止めたのは一九四一年(昭和一六年)であるが、授業が無くなっただけで、禁止したわけではない。一九三八年には選択制になったが、朝鮮人校長の学校ではすぐ朝鮮語教育を止めたのに対し、日本人校長の学校の方が続けたとの事です。
 いずれにせよ、我国の統治時代のそれまで三〇年近くは朝鮮語が必修科目であったばかりでなく、官庁では一九三九年まで朝鮮語の学習を奨励する朝鮮語奨励費が支出されている。約三〇年為政者は朝鮮語を学び、朝鮮人には日本語を学ばせ、意思の疎通を図るように努力したのです。

 明治四三年(一九一〇年)併合後の日本は朝鮮半島における学校教育で朝鮮語を必修科目とし、その後、朝鮮半島では昭和一二年(一九三七年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。
毎日申報は終戦までハングル文字の新聞を発行していたし、京城帝国大学では朝鮮語学科および朝鮮史も終戦まで続けられていた。
 倉沢女史はこのような事実も無視して、「教育の場から民族の言葉を抹殺する試みが行なわれた」と書くのです。

 この倉沢女史は他の本の巻末にも下記のような事を書いています。
以下引用
「占領地インドネシアにおける日本語教育で重要なことは、植民地であった朝鮮や台湾のように、被支配民族の言語を否定して、学校教育の場で日本語だけを使うよう強制するようなことはせず、あくまでインドネシア語の使用を第一とした点でである」
引用終わり
「日本占領下 バリ島からの報告」(鈴木政平著 草思社刊)の巻末解説p二九七より

 事実を事実とせずに、自分のイデオロギーに基づいた考え方によってしか、物事を見ていない典型的な例です。

 

平成19年11月20日曜日火曜日くもり △ 
 倉沢愛子女史は他のその手の人間と同じく、自分のイデオロギーのためだとウソをついて人を騙すのも何も思わない人間の屑です。
 それについては今までも指摘してきましたが、倉沢女史の著書には女史の反日活動について書かれています。(本人はそうは思っていないでしょうが)

 まず、倉沢女史は一九九一年五月から一九九三年までインドネシア大使館にて専門調査員として勤務している時に、天皇、皇后両陛下のインドネシア行幸があった。
 この時に倉沢女史は参考資料をまとめることについて下記のように書いています。
以下引用
 <私に課せられたのは、日本とインドネシアの関係を歴史的にまとめる仕事。実は、このなかには第二次大戦中の日本軍の占領という、実に扱いの難しい、評価の定まらない歴史の重大な一局面が含まれている。ちょうど、朝鮮半島と東南アジアの各地で、慰安婦問題などが浮上し、日本政府に戦後補償を要求する声が高まりつつあるときでもあった。
 天皇が訪問するとなると、どのアジアの国々でも必ずといっていいほど、戦争責任の問題が出てくる。昭和天皇自身ではないから多少反応は小さいとはいえ、アジアの人たちは明仁天皇も基本的には同じ目で見ている。
略)
 しかし、同時にこれは
私の腕のふるいどころでもあった。これまで二〇年間にわたって、日本軍のインドネシア占領の歴史一筋に取り組んできた私にとって、その成果を多少なりとも世間のお役にたてることができるということは、研究者冥利につきる。しかも、これまで、日本軍の占領の歴史は日本の社会に正しく伝わっていない、というのが私の持論であったから、これは真実を伝えるよいチャンスでもあった
「二十年目のインドネシア」(倉沢愛子 草思社一九九四年刊)P六〇〜六一

 つまり、御進講資料を倉沢女史は自身のイデオロギーに基づいて書いているのです。それは下記の文章でも明らかです。
 <「御進講」資料のなかで私は、インドネシアにおける占領政策は、たとえフィリピンやシンガポールなどにくらべれば、住民に与えた被害は相対的に小さなものだったかもしれないが、しかし絶対的にさまざまな被害を住民に与えていること、現在の日本との関係を考慮して、インドネシア人は露骨に批判することはないにしても、多くの人が過去においては何だかのわだかまりをもっていたことは事実であり、それが、
いままでも何かの拍子に顕在化してくる可能性を帯びていることを強調した。戦争の思い出は、ここではそう甘くないのである。>P六一

 <兵補の記者会見の様子は、翌日多くの新聞が取り上げ、略)私は、早朝の報道担当官室で、現地新聞の要約という任務を遂行していた。
 略)
 
私は天皇に兵補問題の存在を知らせるよい機会とばかり、興奮しながらできるだけ詳しく伝達した>P六八

<天皇が、スハルト大統領主催のレセプションで、いわゆる「おことば」を述べるとき、はたして戦争の問題にふれるだろうか、ということが大きな関心事になっていた。結局、インドネシアの前に訪問したタイやマレーシアでの表現とまったく同じで、「日本は先の誠に不幸な戦争の惨禍をふたたび繰り返す事のないよう平和国家として生きる事を決意・・・」と述べるにとどまった。
略)
 もし
自分ならこう答えるという、次のような想定回答を心のなかで考えていた。「不幸な戦争の惨禍があたかもどこから降ってわいたような言い方をしていますが、これはやはりアジア諸国の人々にとっては不満でしょう。それに対する責任は日本にあることを明言したほうがよかったと思います。結局こんなふうにいつまでも逃げているから、アジア諸国のほうでもいつまでも忘れてはくれないのです」>P七二

 倉沢女史の歪んだ精神というものが、この女史の著書によく現れています。

倉沢愛子と売国奴つながり

11月21日曜日水曜日 晴れ ×××
 倉沢女史は日本国インドネシア・ジャカルタ大使館に勤務しながら、いかに日本という国を貶めるかということに腐心していたわけです。

 ところが、インドネシアの人々は倉沢女史の思う通りに反日活動をしてくれないのを歯がゆく思っていたようです。
以下「二十年目のインドネシア」(倉沢愛子 草思社一九九四年刊)より引用
 <事前の広報活動のひとつとしてさらに日本政府はインドネシアのおもだったマスコミ関係者一五名を、二度に分けて日本へ招き、略)
 その席上、外務省から講師として呼ばれた国学院大学の日本近代思想史の大原康男教授が、日本のインドネシア占領は侵略ではなかったという趣旨の発言をし、これがただちに東京から打電され、翌日のジャカルタのいくつかの新聞に掲載されてセンセーションを巻き起こした。
 略)
 いちばん言ってはいけないタブーなのだ。インドネシア民族は独力で独立を勝ち取ったと信じているし、それは事実である。
 略)
 ジャカルタ在住の日本人の多くがこのような日本寄りの見解を信じて、インドネシア人は日本に感謝している、などと信じているのだ。つい先頃も、わが国の大臣が二人も続けて、日本のアジア侵略に肯定的な発言をし、アジア諸国の抗議をうけてポストを失ったが、こういう考えはけっこう多くの日本人の心のホンネの部分に巣くっているようだ。
 その教授の不用意な発言のおかげで、
せっかくスムーズに進んでいた事前の広報活動も無意味になってしまうかと危ぶまれたが、インドネシアのマスコミはさほどこの問題に執着せず、事なきを得た>P六六〜六七

 倉沢女史にとっての「せっかくスムーズに進んでいた広報活動」とはどういう広報活動か想像がつきます。

<天皇、皇后訪問の二週間ほど前に、三浦朱門氏が外務省の以来でインドネシアへやって来て、日本留学経験者の同窓会が運営するプルサダ大学で天皇制に関する講演がおこなわれた。
 略)
 このなかで三浦氏は、天皇には戦争責任がないことを、当時の制度や状況を説明しながら強調した。それに対してインドネシア側のパネリストからも、あるいは
会場からもほとんどたいした質問や反論は出なかった。ただ一人、会場で聴講していた共同通信の特派員が食下がった。>P六五〜六六

 この食下がったという共同通信の特派員とは、共産主義者であり、北朝鮮マンセー、殺人鬼小野悦男を冤罪と騒ぎたてて無罪にし、今はあの同志社大学の教授に成り上がって、少し前にセクハラで週刊誌ネタになったあの
浅野建一氏ではないでしょうか。
 手元にある「検証・拉致帰国者 マスコミ報道」(社会評論社刊)によると、
<私が共同通信ジャカルタ特派員だったときにも、日本軍に補助兵として雇用された兵補だったひとたちや遺族が未払い賃金と軍事郵便貯金の返還を求めていた。>P四二
ほぼ同時期にジャカルタにいたことが書かれていますし、倉沢女史のこの著書にも<共同通信の浅野記者といっしょに、ジャワの西の端にあるメラクの海岸までいってみることになった>P一六一と名前が出てきます。

 つまり、ここでも朝日新聞と同じく売国奴どうしということで、仲良く協力しているだけの話です。
 そして、倉沢女史がいう「何だかのわだかまり」が「何かの拍子に顕在化してくる可能性を帯びている」とは、倉沢女史らがマッチポンプになって活動していることです。
 一九九〇年(平成2年)代に入って、オランダ最大の強硬団体「対日道義的債務基金」が設立され、わが国に対して個人的補償を求め裁判を起こしました。平成六年からは毎月一回、日本大使館にデモをかけています。これと、ほぼ同じ頃(一九九一年)よりソウルで朝鮮人戦時売春婦が同じ事やっています。
同じように一九九〇年代からインドネシアでは兵補や慰安婦が補償を求めて運動が騒ぎ出しました。これらは偶然ではありません。
 インドネシアにおいては倉沢愛子女史は大活躍しています。

 <
私は事あるごとに新聞記者に話してきたが、長い間どこの記者も取りあげようとはしなかった。たまたま数年前に朝日新聞大阪本社の緒方謙記者が関心を示し、彼自身インドネシアへ渡って取材したのち、終戦記念日の特集記事で取り上げてくれた。
 これが、戦後補償のもろもろの問題と取り組んでいる市民グループの目にとまって、ちょうど天皇、皇后がインドネシアを訪問した年の夏、東京で開かれた「戦後補償を考えるフォーラム」に、各国の代表にまじってインドネシアから兵補の人たちを招きたいという申し出があったのだった。
この段階で兵補を支援する会が一部の日本人有志によってつくられた>P六九

 ここに書かれている「朝日新聞大阪本社の緒方謙記者が関心を示し、彼自身インドネシアへ渡って取材したのち、終戦記念日の特集記事で取り上げてくれた。」というのは、倉沢女史自身があっちこっちの新聞記者に話して火をつけたその成果だったわけです。
それが、同じ倉沢女史の調査による<インドネシアにおける慰安婦調査報告>
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/531.htmlでは、「慰安婦問題に関するマスコミ報道の始まり」として下記のように書かれています。
以下引用
その当時たまたまジャカルタに長期滞在していた筆者の記憶では、この問題が大きくインドネシアのマスコミを賑わせるようになったのは1992年7月以降のことだった。1992年7月6日付けの全国紙「コンパス」が、「読売新聞」の記事を紹介し「日本軍が第2次大戦中、アジア諸国の女性を慰安婦として募集するにあたって、軍が関与していたという事実を証明する文書127点が発見された」と伝えた。
略)
 さらに「コンパス」紙は、日本大使館情報文化担当畠書記官の談として、インドネシアの従軍慰安婦に関する4つの資料が発見されたと述べている。>

 つまり、この「インドネシアにおける慰安婦調査報告」では倉沢女史は日本インドネシア大使館に「特定の研究テーマ(日本占領期のインドネシア史を専門)」委嘱されて調査業務を担当していた専門調査員としての勤務と書かずに、「たまたまジャカルタに長期滞在していた」と書いているのです。そして、「日本大使館情報文化担当畠書記官の談として、インドネシアの従軍慰安婦に関する4つの資料が発見された」という書き方をしているのです。
 普通でしたら、その畠書記官への情報は専門調査員よりのものである可能性は非常に高くなるわけです。倉沢女史のこのような書き方に意図的なものを感じるのが普通だと思います。
 そして、朝日新聞とも連携をとっているのです。売国奴繋がりなのでしょう。

 <その行動には政治的背景は何もない>P六九と女史が書くインドネシアの兵補協会については、「インドネシアにおける慰安婦調査報告」で「同じく高木健一弁護士が、この協会の本部を訪れた時、「慰安婦の実態調査をしてみたらどうですか」と持ちかけたのがきっかけだという。そして、兵補協会の全国支部のネットワークを利用して1995年8月に登録受付が開始された。」となっています。
 ここでも同じ売国奴の
高木建一氏と繋がってきます。


倉沢愛子の醜い反日活動
11月22日木曜日晴れ ×

 反日活動家としての倉沢女史の面目躍如だったのは平成三年、オランダ植民地軍司令官がカリジャティで、今村均第一六軍司令官に降伏した日から五〇周年に当たる三月九日にジャカルタで開催された「日本軍制五〇周年を再考する」国際フォーラムでしょう。
 これについては倉沢女史がその著書で自慢話を書いています。
以下「二十年目のインドネシア」(倉沢愛子 草思社一九九四年刊)より引用
 <
研究者として私が前々から心に温めていたアイディアをひそかに、このシンポジウムの開催の陰の仕掛人となって実現させたのである。日イ双方とも、いつまでも避けあっていないで、ひとつの空間に集まって、この問題を正面から学問的に取り上げる必要があると前々から痛感していた私は、今回ジャカルタに来てからまずそのアイディアを、旧知の友であった科学院のタウフィック・アブドゥラ博士やラピアン博士に話し、賛同を得ていた。そして開くからには、単に日イの研究者だけでなく、第三国の研究者も招いた国際シンポジュウムにしようということになった。
 このような青写真のうえに立って、私は国際交流基金の日本文化センター所長の小宮山猛氏に、財政的に助成してもらえないかと頼んだのだった。
略)
 小宮山所長には、日本占領の問題を日本側がこれまでいかに避けてきたか、そしてそれをインドネシア側がいかに不満に思っているかという現状を話し、この際、この問題を一度フランクに、しかし学問という客観性のうえにたって日イ双方が徹底的に話し合う必要があると説得した。>
ただし、「日本占領期」という言葉を正面から出すと何かと問題が多いので、「国際的視点から見た現代セミナー」と銘打ったほうがいいと助言してくれた。
 略)
 結局、開会式を除いて、シンポジュウムは非公開でおこなわれること、微妙なテーマについてふれないようにするという条件付きで許可になったという。>P一六四〜一六五

 <
それをきっかけとしてまた、日本の残虐行為だとか労務徴発だとか慰安愚問代が、マスコミによって浮上してくることを大使館が恐れる気持ちは私にもよくわかる。しかし、一方で、日本があまりにもその問題から逃げ続けているので、インドネシア側がある種のわだかまりを感じている、というのも事実なのだ。>P一六六

その意味でシンポジュウムは大きな成果をもたらした。事前にインドネシア科学院の研究者たちとのあいだで何度も準備会を開いて討議し、日本、インドネシアのほかに、オーストラリア、アメリカ、ブルネイから研究者を招いて三日間にわたって開催されることになった。歴史研究者たちだけでなく、芸術家やジャーナリストにも参加してもらうほか、歴史の体験者を招いて彼らになまの証言をしてもらおうということになった。そしてこれがとてもよかった。>P一六七

<私自身はジャワのある村の人たちの目を通して見た日本占領期を、自分のインタビュー記録を再現して紹介した。日本が来た事によって、とてつもなく大きな変化の渦の中に投げ出された村びとたちの庶民史である>P一六八

これが、日本大使館の「配慮」のため、マスコミなどを通じて広くインドネシアに報道されなかったのは残念である。なぜなら、日本は戦争の歴史をおざなりにしているという批判の一端を切り崩す、よい機会になったに違いないからである。しかも、戦後補償の問題で、兵補だとか慰安婦だとかいう問題がクローズアップされている、そんなときであるからこそ、日本は歴史から逃げていないということを示すべきだったと思う。>P一六八〜一六九

 このような倉沢女史などの活動の結果、わが国は一九九七年三月二六日に、売国奴橋本龍太郎(首相)がインドネシア大統領にあてた謝罪の手紙が日本大使館を通じて届けられ、それを受けてアジア女性基金の山口達男と社会省のアスモロ次官の間でMOUが調印され、このMOUに基づいて、日本政府はアジア女性基金を通じて三億八千万円を一〇年間にわたり拠出することになった。
 なによりも大きいのはこのような売国奴の活動により、わが国の先人の名誉が奪われた事である。


倉沢愛子のウソ「日本軍による虐殺」


平成19年11月23日金曜日 新嘗祭 △
 倉沢女史は我が国を貶めるためだと、ウソなど何も思いません。そのウソすでに多くの方に否定されているが、倉沢女史はそれを訂正することもない。流石は厚顔無恥の売国奴らしい行動です。

以下、倉沢女史の著書よりの引用
<現実にインドネシアには、いまなお戦争の傷跡がいろいろなところに残っている。
略)
 そのひとつは、戦争中、スマトラ地区の司令部がおかれていた、西スマトラのプキティンギという高原の町を訪れたときのことである。
 このまちには、日本軍のつくった巨大な地下壕が残っている。プキティンギのグランドキャニオンといわれる大渓谷の斜面に掘られたこの地下壕は、連合軍が攻めてきた場合、スマトラの日本軍が最後にたてこもる場所として建設されたものである。ジャワ島その他から連れてきた大量のロームシャ(現地では労務者をそのままこのように呼んでいた)を使用して建設したが、
従事したロームシャたちは秘密保持のために、建設が終わると全員殺されたと言われている。そのため。この地下壕の存在は、地元の人々のあいだでも長い間全く知られていなかった。
 ところが、一九五六年に地元の人が山で薪を探していて、穴の入口を見つけた。ただしその段階では、日本軍が掘った地下壕だというだけで、建設の経過など詳しいことはわからず、長い間そのまま放置されていた。
 私は一九七四年にここを訪れたことがあるが、その時は、外から穴の入口を眺めることができただけである。
略)
一九七四年には中に入れなかったこの地下壕は、一九八六年に州政府によって歴史的遺跡として整備され、周囲も公園化されて、観光の名所となった。その間、
戦争中この地にいた日本の元軍人たちが団体で訪れ、地下壕建設の経過について語ってくれたため、詳細がわかるようになったのだという。
 「ジャパニーズ・トンネル」と書かれた壕の入口には、ロームシャが強制労働させられている様子が彫り込まれた大きな壁画がある。
略)
さらに、
ロームシャ用の台所や食堂のほか、ロームシャを閉じ込めた牢獄や、死体をほうりこんだと言われる穴なども残っている。
P一六九〜一七〇

 この穴については、すでに加藤裕・元産経新聞ジャカルタ支局長により完全に否定されています。
 以下「二十年目のインドネシア」(倉沢愛子 草思社一九九四年刊)より引用
「史実に反する。正しい歴史を」 戦友会有志、小冊子で訴える 
 太平洋戦争中にインドネシア・スマトラ島の防空壕(ごう)で、旧日本軍がインドネシア人労務者三千人を虐殺したとする誤った史実を現地人のガイドが観光客らに説明していることが分かった。戦友会や有志は「虐殺は史実に反する」と当時の事情を記した小冊子を編集、現地で無料配布する。

 防空壕は、ブキティンギ市内の断層のがけを利用して旧日本陸軍第二十五軍が築造。壕内奥から断崖(だんがい)に向けて複数の穴がある。これが「築造にかかわったインドネシア人労務者を殺害、放棄に使った穴」とされた。一九八七年にインドネシア政府、地元州政府が防空壕跡を整備して国立公園に指定した際、「銃剣を手にした日本兵に殴打されながら強制労働にかりだされた労務者」を描いた巨大なレリーフが壕入り口に設けられた。その後、日本で同壕跡が「虐殺が行われた日本の穴」として観光案内や研究者の論文で取り上げられ、「三千人虐殺」が事実として独り歩きを始めた。

 これに疑問を抱いたジャーナリスト、加藤裕氏や旧スマトラ新聞記者、菊地秀廣氏が防空壕築造担当の旧日本軍関係者などから「史実と異なる」との証言を得て、インドネシア政府に通告。インドネシア側も間違いを認め、
九七年にレリーフは撤去された。ところが、その後も現地では観光客に対し、観光ガイドが「虐殺の地」と説明していると指摘があった。

 このため、加藤氏や第二十五軍司令部戦友会有志が中心になって小冊子「スマトラ・ブキティンギ第二十五軍防空壕築造由来概略」を作成した。小冊子には防空壕の設計築造、監督に当たった元第二十五軍主計大尉、本庄弘直氏の「
築城では現地労働者には日当も支払い、虐殺はおろか負傷者も出ていない。複数の穴は通気口、緊急避難用で工事中は廃土、残土の捨て穴」との証言をインドネシア語、英語、日本語で紹介している。
 加藤氏らは「正しい歴史を伝え、日本とインドネシアの友好促進に役立てたい」として現地配布への協力を求めている。
 連絡先は「第二十五軍司令部戦友会・“日本の穴”の史実を正しく伝える会」事務局(〒152‐0022 東京都目黒区柿の木坂1ノ15ノ5ノ203、TEL03・3723・9903)の加藤裕氏まで。
引用終わり
平成一六年十一月十日(水) 産経新聞

 この記事に倉沢女史のウソに対しての反論が全て含まれます。
<従事したロームシャたちは秘密保持のために、建設が終わると全員殺されたと言われている。そのため。この地下壕の存在は、地元の人々のあいだでも長い間全く知られていなかった
略)
ロームシャ用の台所や食堂のほか、ロームシャを閉じ込めた牢獄や、死体をほうりこんだと言われる穴なども残っている。>

<「築城では現地労働者には日当も支払い、虐殺はおろか負傷者も出ていない。複数の穴は通気口、緊急避難用で工事中は廃土、残土の捨て穴」>

<戦争中この地にいた日本の元軍人たちが団体で訪れ、地下壕建設の経過について語ってくれたため、詳細がわかるようになったのだという。>

<防空壕築造担当の旧日本軍関係者などから「史実と異なる」との証言を得て>

 倉沢愛子という女性がいかに心が卑しく、醜い女ということがよくわかる事例です。
こんな醜い女性が慶應大学の教授をやっているのです。


倉沢愛子の醜いウソ(イギリスによる日本民間人強制収容所)


平成19年10月18日木曜日晴れ △
 倉沢愛子女史は他のその手の人間と同じく、自分のイデオロギーのためだとウソをついて人を騙すのも何も思わない人間です。
 それについては今までも指摘してきましたが、倉沢女史の著書にはまだまだ多くの歪んだ書き方がされている箇所があります。
 
 <終戦から何十年もたって、外交的には両国の関係は非常に良好になっているいまでも、オランダやイギリスの一部の人たちは日本に対して非常に悪い感情をいだいているのよね。それは単に、かって戦火を交えた相手国だからということではないようよ。ひとつには日本との戦争がきっかけとなって、広大な植民地を失った(とくにオランダの場合)という恨みもあるんだろうね。ただ、それ以上に強いのは、これらの国の少なからぬ人たちが、戦争中日本によって収容所に入れられ、言語に絶する悲惨な目にあったという。個人的体験からくる恨みだと思うの。骨身に染みるような恨みが、いまだにその人達の対日イメージを形作っているのね。>P一一八
 <日本がオランダ人やイギリス人の恨みをかったもうひとつの要因は……………実はこの方がより深刻な意味をもっていたようだが………、戦闘員だけでなく、占領地に居住していた民間人も含めて、すべての敵性国人を収容所に隔離したという事実である。これはそれまでの戦争ではあまり例をみないことであった>P一二一
「『大東亜』戦争を知っていますか」講談社現代新書

 収容所での醜い行いは他国でもあった事は今まで書いてきたが、それ以外にもいかにも我国だけが、占領地において民間人を収容所に入れたような書き方である。
インドネシアにおいてオランダ人などの非戦闘員に対する我国の扱いについては倉沢女史自身がその著書に書いているが、下記のようなものであった。
 <当時の今村均司令官が民間人は拘束しないという方針をとり、一九四二年四月一日付けで公布を出し外国人に登録をさせ、日本軍に忠誠を誓った者には自由を許した。>P一二二
略)
 <最終的にジャワ抑留所が開設されたのは、一九四四年三月になってからのことで、それまでは、さまざまな形で居住の制限がおこなわれていた>P一二三〜四

 これに比べて、東南アジアにいた民間人の日本人、そして当時日本であった台湾・朝鮮の人々が、男女そして子供までもが昭和一六年一二月八日以降どのような目にあったかを意図的か?倉沢女史は正確に書いていない。
 倉沢女史はその著書で「捕虜になった日本人」という箇所に、下記のように書いている。
<ビルマ、マラヤ、シンガポール、インド、セイロンなど、英領に住んでいた日本人の場合は、インドで抑留生活を送った。当初は、蘭領東インドの場合と同じように、それまでの移住地の地元の学校や刑務所に収容されていたが、日本軍の侵攻の前に徐々にインドのキララプラナに移送された。その数、約三〇〇〇人といわれる。その後デオラリー、そして最終的には亜ジュメールへ移され、ここで終戦までを過ごした>P一〇〇
と、これだけしか書かれていないが現実はどうであったか。 

 私の手元にある「インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった」(峰敏朗著 朝日ソノラマ 一九九五年刊)によると、シンガポール、マレー半島などの日本人は早朝に連行されたり、街を歩いていてそのまま連行されたり、婦女子も途中で荷物を取られたりして、着の身着のまま収容所に送られている。
(この同じ強制収容所に入れられた日本人インド在住者だけは、自分の手荷物をそれなりに所持して入所してきたようです。)

 著者の峰敏朗氏は昭和四八年四月から三年間、インドのニューデリー日本学校に教論として勤務し、その時の住まいの近くに古城「プラナキラ」があったが、そこに大東亜戦争中に東南アジアの各地、インド、イギリス、アフリカに居住していた日本の民間人を強制的に収容されていたことを知らなかったが、その後、滞在記を出版をした後に、その存在を知る事となる。
 当時の収容者のひとりである木村次郎氏の手紙によってである。
 木村氏は全国に散らばった非収容者を掘り起こし、親睦の連絡誌「インドワラ通信」を年に二回発行していた。
 小林博氏が作成した書類を元に名簿も作成していたので、それを元に取材を始める。
その中で、このインドの収容所にもブラジルと同じような「勝ち組」「負け組」による争い。暴動、そして、イギリス軍による銃による鎮圧。そして犠牲者があったことが書かれている。

 倉沢女史が書いているインド・プラナキラ(倉沢女史はキララプラナと表記)の収容人数約三〇〇〇人のうち一〇〇〇人は婦女子であったが、倉沢女史はそれを表記していない。決して、日本だけが、敵性国の一般人を強制収容したのではないのです。
 そして、「インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった」には下記のような記述がある。
<英国官憲は、シンガポールおよびマレー半島で一二月八日、一斉に日本男子を逮捕した。そして各地の警察署に留置した。女子供は各地で異なっているが、数日遅れて捕らえられている。>P四四
 明らかになっているだけでも、二九九四名の日本人の方々が抑留されそのプラナキラ抑留生活四百一〇数日間にでも、一一七名の方が亡くなっている。
それ以前、昭和一六年一二月八日の囚われの日から、プラナキラに到着するまでの死者も四名ある。
 それは英国軍の日本人の扱いを物語るものです。その状態は下記のようなものでした。
ポート・ステイハムでは
<監獄当局は、戦時中であること、材料の入手困難を理由に、十分な材料を支給しなかった。そのため、当収容所の食事は劣悪なものだった。以後続く一連の収容所生活を通じて、この食事が最悪であったと、三宅定次は記憶している>p五一
 ポート・ステイハムからシンガポールのチャンギー監獄までの移動の船中では、四〇時間も狭い船底に押し込まれ、食事はもちろん、ひとり一杯の水しか与えられなかったことが書かれている。

 チャンギー監獄では
<朝の粥にはお菜一つつけられてはいなかった。また箸もスプーンもくれない。そのためインタニー(intemee非収容者)は飯盒の縁に口を当てて、粥を流し込まねばならなかった。冷めて糊のようになった白粥は、思うように喉を通らない。
多くの人はやむを得ず、人さし指をスプーン代わりにして、喉に流し込んだ。
 食事の前に一応手を洗うのだが、指は垢と脂汗で固めたように真っ黒である。伸びた爪の裏には、帯のように汚れが固まっている。しかし、監獄では爪切りはもちろん、金具類は一切持たせない規則だった。だから爪は伸び放題である。
不潔このうえない人さし指がスプーン代わりとなった。>p六二

 婦女子ばかり集められてカルカッタへ向かう船中では
<マレー半島とシンガポールの婦女子九一六名は、一二月一二日エチオピア号でカルカッタへ向かった。略)
 エチオピア号の船中では、パルソバ号やラジエラ号の場合と違って、極めてひどい虐待が行なわれた。英国人は婦女子には人道的に接するだろう、という男達の期待は完全に裏切られた。
 乗組員は英国人の監視兵が主だった。その中でも、特に上級監督官ミセス・ハミルトンと、係長のミス・ジンゲーは彼女たちを残酷に扱った。それに英国かぶれの中国人とアングロインデアン(英国の男性とインドの婦人との間にできた混血児)の付添い婦とが、この虐待に加わっていた。
 乗船の日、所持品はすべて取りあげられた。喫煙者が見つかると、その者は数日間、船底に監禁された。
 朝の点呼は厳重を極めた。何人も点呼から逃れる事は許されなかった。病人も同様だった。起きる事のできない病人は、枕を蹴って引き起こされた。そしてブイをつけさせ、甲板に引きずり上げて点呼した。
 
重病人がいて、入院を希望していた。その答えは「敵国人は入院させない」といういものだった。入院できないまま死亡した人がいると、橋本敦子は船中で聞いた。
 
食事は非常に少量であるうえ、不規則にしか配給されなかった。とくに一二歳以下の子供は一人前と認められず、ごく少量の食糧しか与えられなかった。三、四人の子供を持つ母親は、自分に食べずに、子供達に食糧を与えなければならなかった。その母親たちはみるみるうちに痩せていった。けれども、他の人たちもすべて空腹に悩んでいた。彼女たちを助けようとする者はいなかった。
 
赤ん坊の食べ物は考慮されなかった。船中で橋本敦子も赤ん坊の食べ物に悩まされた。多少の用意のあるものはよかったが、何もない者は途方に暮れた。>P八〇〜八一

 そして、婦女子が冬のプラナキラに到着した様子を下記のように書いています。
一一、二歳の女の子が毛布一枚にくるまって、素足でバスから降りてくる姿があった。衆人の中で身内のこのような姿を見るのは堪え難いことであった。
略)
 オーバーを着ているものは少なかった。
この寒空で浴衣の人が何人もいた。タオル地の寝間着の婦人もいた。多くの人は捕らえられた時、二、三日で帰宅できるという甘言を信じていたのだ。着の身着のままでインタニーになったのである。
 婦女子のテントでは、あるだけの薪を積み上げて焚き火をした。その焚き火は深夜から朝まで怨念のように天に向かって燃え続けていた。>P九二

 戦争という平時と違う状態において、我国の国民もこのような異常な体験を強いられたのです。何度も書くように、倉沢女史のように日本だけをいかにも異常な行動、非人道的な事をしたと攻めたて、反省しろ、謝れと自虐を強いるだけでは物事の解決にはなりませんし、なによりも事実を語っていません。


 

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