講談社にみる三・一運動の描き方

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

2月3日金曜日晴れ ×
 先日の日記で(1月14日)
綿引弘というバカ歴史教師がひどい内容の本を出していると書きましたが、そういったことについては講談社も負けてはいません。
 手許に、「目録20世紀 1919」(平成10年刊)という写真集があります。この号は「三・一」「五・四」抗日の叫び!という題がついております。
以下に内容の一部を引用します。
以下引用
”李太王毒殺疑惑”に怒り爆発
「独立万歳」の声が京城に、そして北京でも・・・・
「三・一」「五・四」運動と”抗日”の叫び
一九一九年(大正八)、日本統治下の朝鮮と、日本の大陸政策に悩まされてきた中国で、抗日運動が起きた。「三・一運動」「五・四運動」という名もなき
民衆の闘いが、それから長く続くアジアの救国運動の第一歩となり、時の政府の外交政策を揺り動かしたのだ。

抗日独立運動の波が京城から朝鮮全土へ
略)

 起爆剤となったのは、李太王の毒殺疑惑だった。一九〇七年、ハーグでの万国平和会議に密使を送り、日本支配の不当性を訴えて退位させられた李太王の急死に関して「毒を盛られた」という噂が、乱れ飛んでいた。
日韓併合(一九一〇年)後、
立法や行政、農地とすべてを収奪されてきた民衆の鬱積した怒りが、この元国王の毒殺疑惑で爆発したのだ。
 朝鮮人の金山は「アリランの歌」の中で、当日の様子をこう語っている。
「私たちは彼(先生)に率いられて街に出、何千という他の学校の生徒や街の人人と隊伍を組み、歌いながらスローガンを叫びながら町を行進した。私はうれしさで心臓が破裂しそうだったし、誰もが歓びにあふれていた。(中略)一人の白髪の老人が段の上まで出てきてしゃがれ声で叫んだ『見ろ、わしが死ぬ前に朝鮮の独立にあえるのだぞ!』」
 ところが日本は、
「三・一運動」を鎮圧するため、軍隊を増派(六個大隊と憲兵四〇〇人)、徹底弾圧を試みる
中でも最も過酷な弾圧を受けたのは、天道教徒やプロテスタントだった。日本は朝鮮人の同化政策にキリスト教を利用していたが、こうした宗教が全国で抵抗活動を組織していた。四月十五日には、堤岩里という村で、キリスト教徒を教会に集め、封鎖したまま焼き殺すという「水源郡堤岩里事件」(二九人死亡)が起こる。

 
こうして迫害と抵抗運動が各地で繰り返された結果・・・朝鮮のジャンヌ・ダルクと呼ばれる柳寛順(十六歳で獄死)などの英雄が生まれた裏で・・・・一説によると七五〇九人が死亡し、一万五九六一人が負傷したのである。
略)
 一方、日本国内には、事件の真相が伝わることなく、第二時世界大戦の終結まで、ただの"暴動"ととらえられていた。
 結果的に、
朝鮮では、「三・一運動」後、独運動が恒常化。文化政治の名のもと、原敬内閑は、懐柔と威圧を使い分けた同化政策を進めることになる。
以上引用終わり 「目録20世紀 1919」(平成10年刊)p2〜5

 多くの嘘を列記した酷い内容です。まるで朝鮮の歴史教科書なみです。まず、
綿引弘と同じように三・一運動における死者を七五〇九人という数字を「一例として」という言葉を使っていますが、当時上海にいて、本人自ら「今回の独立運動は、日本の厳密な秘匿のため、運動の詳細、確実な実態調査を得ることは難しい。いわんや、海外にあって、ただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるものだけであってみれば、その実態調査の困難さは、おして知るべきであろう」とその著書に書いている、朝鮮人朴殷植が書いた「朝鮮独立運動の血史」に書かれている数値を無批判にそのまま使用しています。普通はこういった数値はせずに幾つかある中で少しでも確度の高い方を使用すべきでしょう。

参加者 

 死者 

負傷者

朝鮮独立運動の血史 二百三万名 七五〇九名 一五九六一名
朝鮮総督府発表
(六月二〇日)
一〇六万名

憲兵、警察官
五五三名

八名
一四〇九名

一五八名
 朝鮮軍司令部
(宇都宮太郎報告・九月二十九日)

(ただし、軍隊関係のみの調査で、
数は朝鮮総督府の調査の中に含まれる)



軍隊
四〇五名

二名
九〇三名

三十三名

 ましてや、この「目録20世紀 1919」では「処刑された人々。総督府は運動を徹底的に弾圧するため正規軍を投入、デモ隊に無差別発砲する事件が相次いだ」というキャプションで左記のような写真を掲載しているが、このキャプションからは朝鮮総督府が行った処刑のようにしかとれないが、果たしてそうなのか。そして、無差別に発砲したのか。また、どうして軍隊が出動することになったか。それは、これに書かれているような平和的な運動ではなく、暴動といえるものだったためです。
この項続く

講談社にみる三・一運動の描き方2
2月4日土曜日晴れ ×

この「三・一運動」について手許にある他の著書を見てみますと
 「騒動は次第に地方に広がり、三月下旬になると、全道に及んだ。人心険悪で、警備の欠乏に乗じ、棍棒、鎌、鍬、竹槍または稀に拳銃を使って軍隊、警察に抵抗した。さらに官公署や学校を襲い、放火、破壊を行ない、内地人の家産あるいは巡査補、憲兵補助員(朝鮮人が担当)の居宅を犯し、警察官を殺した例さえも起こった」
(陸軍省公表として日韓共鳴二千年史p348より)

 「同年三月一日、京城のパゴダ公園では独立宣言書が読み上げられた。その運動方針として、非暴力・無抵抗主義を標榜した。しかしながら商人・労働者が参加した独立運動の第二段階では、万歳を連呼しながらデモ行進すると共に、ストライキ・電車打ち壊し・鉱区破壊等の暴力的行為が出現した。この運動では、民衆が万歳を連呼しながら、デモ行進したので、「万歳事件」とも呼ばれる。
 同運動が第三段階に入り、主要都市から地方へ広がると共に、農民達は武装して面事務所(日本の村役場に相当)、憲兵事務所、親日派地主などを襲撃する迄に変質して行ったのである。かくして、当初の旗印は忘れ去られ、同運動は迷走して暴力化の道をたどる事になった。*1
 警察署や村役場の打ち壊しのみならず、学校への焼き討ちに加え、在鮮日本人に「日本に帰れ」と投石を以て脅迫行為を行なった事実は、テロそのものであり、朝鮮半島全域で反復されたのであるから、これを暴動と形容しても過言ではない」
(「植民地朝鮮の研究」杉本幹雄著 展転社刊 p61〜62より)*1は著者が引用した文献「李王垠伝記刊行会編『英親王李垠伝』共栄書房二〇〇一年)

 つまり、運動というより暴動だったわけです。
この事件の背景として、杉本氏はキリスト教宣教師が民衆の支持を得るためにアメリカのウィルソンの唱えた民族自決思想を教徒に煽ったことがあると書き、また、このウィルソンの唱えた民族自決思想とは所詮白人のためのものであり、他の有色人種は含まれていないのは、大東亜戦争後にアメリカ、イギリスが我国が既に独立を与えていたビルマ、フィリピンだけでなく、オランダ、フランスが旧植民地であるベトナム、インドネシアに舞い戻り、植民地統治を始めようとした事実をみれば納得するであろうと書いています。
 支那においてもキリスト教は独立運動、反日運動を煽りました。そして天道教教徒が大多数を占めていた一進会は日韓併合後に他の政治勢力とともに解散させられ、満州の間島に新天地を築く夢の画餅終わり、そのために、袂を分っていた第三代教主のもとに帰り、運動の主力となった。その他として、我国は土地調査により奪わなかったとはいえ、貧しかった多くの農民が参加しました。
ではこの暴動における裁判の結果はどうだったのでしょう。
首班とされた天道教第三代教祖孫秉煕など八人に僅か懲役三年、その他懲役二年六ヶ月が六人、有罪三七人に過ぎない。これは内乱罪の適用が高等法院で却下され、保安法及び出版法違反という微罪となったためである。
まあ、何と申しましょうか・・・・・
この項続く

講談社にみる三・一運動の描き方3
2月5日日曜日晴れ○

<「三・一運動」「五・四運動」という名もな民衆の闘いが、それから長く続くアジアの救国運動の第一歩となり、時の政府の外交政策を揺り動かしたのだ。>
 まあ、お笑いをとるために乗っけたのじゃあないでしょうけれども、まるで、南朝鮮の小学生向け歴史教科書に書かれている文章をまねたのじゃないかと思える文章です。到底、日本人が書くような文章には思えません。
その南朝鮮の歴史教科書からの引用
<他民族の支配に抵抗して独立しようとする運動は、われわれのような状況にあった、中国、インドなどのアジア諸民族にも大きな感銘と勇気を与えた。そして、世界諸国家がわが国の独立運動に関心を持つようになり、日本の侵略と非人間的な行為を批判しはじめたのである。>
(世界の教科書シリーズ「韓国のわかりやすい歴史」国定韓国小学校社会科教科書 明石書店 2005刊 p118)

 今でもこんなアホなニュースをやっています。
朝鮮日報 2006/02/0117:25
東南アジアで独立運動史跡地確認 新たな歴史の1ページに
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/02/01/20060201000061.html
 独立運動と関連した東南アジア地域の史跡地50か所余が初めて確認された。
 略)
 独立記念館の関係者は「今回の調査により、
韓国の独立運動は韓人が居住していた場所であればどこでも展開されていたという普遍的な事実を立証できた」とし、「今後もまだ調査が行われていないマレーシア、インドネシア、ボルネオ地域で調査を行い、韓国独立運動の世界性を究明することに努力する」と話した。

【独立運動】明かされる東南アジアの韓人抗日運動
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/02/04/20060204000021.html
▲シンガポールの洪命喜、台湾の申采浩
 碧初(ビョクチョ)洪命喜は
1916年4月、シンガポールを拠点に韓人同志3人とともにマレーシアのゴム農場を買い上げた。独立運動資金を調達するためだ。
 関連文献は、洪命喜が当時2200ウォンあまりの大金を支払ったと記している。しかし、事業がうまくいかなかったのか、
1917年10月には農場を売り払い、事業をたたんでいる。

 1928年4月、中国天津で「東方無政府主義者連盟」に加入した丹斎(タンジェ)申采浩は、独立運動資金を調達するため当時6万4000ウォンの
外貨を偽造した。
 一部を中国で現金に替えることに成功した申采浩は、残りを売りさばくため5月に台湾の基隆港に到着、現地警察に逮捕されている。
 1928年5月12日付の台湾日日新報は「数十個の仮名で活動してきたアナーキスト申采浩が激しく抵抗した」と事件の内容を詳しく報じた。

 独立記念館は今回の調査で1913年、香港で白巌朴殷植(ペクアム・パク・ウンシク)先生が中国革命政府の援助を受けて発刊した独立運動誌「香江」の創刊号を見つけ出し、1928年に台湾で日本天皇の義父、久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)を
暗殺した趙明河(チョ・ミョンハ)烈士の義挙場所を正確に確認する成果も上げた。
略)


 まあ、普通にみれば、当時の朝鮮人のくされヤクザ者があっちこっちで事業に失敗したり悪さしているだけの記事です。どこでどうなれば独立運動になるのでしょう。まあ、偽札造りは今でもやってますけど・・・・
 あと、下記の箇所については
<農地とすべてを収奪されてきた>
いままで、何度も否定してきておりますので、改めて書きません。

 なんにしても、朝鮮人の言っている嘘の歴史をそのまま書いた醜い編集の本です。

 

三・一独立運動に関連して
三・一独立宣言文
2月6日月曜日くもりのち小雨のち雪 ○

 <略)
 
有史以来幾千年、初めて異民族による抑圧の苦痛を嘗めて以来、ここ十年の歳月が過ぎた。わが生存権の略奪、思想の自由な発展に対する障碍、民族の尊厳と栄光を毀損したること、新鋭と独創とを以て世界文化の大潮流に寄与すべき機会を失ったことなど、およそ幾ばくか知れない。
 略)

 
 何を書いても勝手でしょうが、このような文章だけで独立できるものでしたら、独立なんて簡単でしょう。では、どうして初代総監であった伊藤博文公の度重なる言行に何もしなかったのでしょう。
あと、やっぱり受けるところは「有史以来初めて異民族による抑圧の苦痛」というところでしょうか。
朝鮮のみなさまには下関条約の第一条を思い出してほしいものです。
独立国だったら「清国からの朝鮮独立」が明記されていなければいけないのでしょう。朝鮮人の偉い人、ぜひ教えてほしいものです。
しかし、いくらなんでもわずか十年ほどまえのことをきれいさっぱりと都合よく忘れられるものです。感心します。
まあ、戦後もわが国で在日朝鮮人の人たちは同じ事をやってますけど・・・・少し前のことを、自分に都合の悪い事はきれいさっぱりと忘れて、謝罪しろだとか当然の権利だとかわけの解らん事を言いまくっています。

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