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番外(北朝鮮に対してのまともな発言)

鄭箕海・元在日朝鮮人亡命者
インタビュー
「地上の楽園」の移住者たちは、「朝鮮総連」をどう見ているのか? より
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「・・・・・
私がそれよりもっと許せないのは、日本の奴ら、マスコミです。特に朝日新聞。
帰国一世で朝日に悪い感情を持っていないものはいませんでした」
「マスコミもですか?」
「勿論そうです。読売や毎日はともかく、朝日新聞が私達の運命を狂わせたんです。
あの新聞は親北派なのだと思います」
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別冊宝島221「朝鮮総連の研究」宝島社、1995.4


訴状全文
http://plaza.across.or.jp/~fujimori/sozyo.html
総連を訴えた金幸一の訴状の全文が↑にあります。
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当時原告は民団にも出入りし、北朝鮮は「共産主義奴隷の国」という宣伝教育 を受けていた。61年2月頃朝鮮総聯岡崎支部の青年団幹部が原告に帰国の勧誘 に来たが、原告はこれを拒絶したため、「総聯岡崎支部委員倉田伸之介(原告の 父の日本名)の息子は反動的である」とレッテルを貼られることとなった。

これを知った原告の父は原告を諭し、家に戻った原告に、祖国に帰れば誰もが 皆一銭も金がなくても学校に通えるし、祖国のため、原告自身のために思う存分 勉強ができるから北朝鮮へ帰れと言った。
原告は教育方針に反発したため朝鮮学校を中退したが、正規の学校に行き勉強 したいとの思いを募らせていた。祖国に帰れば学校に行けるという父の言葉に、 原告は単身北朝鮮への帰国を決意した。

原告の父は被告岡崎支部の委員でありながら自分自身が帰国できないことから 被告の強い圧力を受け、被告の言を信じて原告を説得し帰国させたのであるが、 原告の父も被告に騙されて北朝鮮の真実の姿を知らないまま原告に帰国を促し ただけであり、実態は北朝鮮と被告の威信の為に全国展開された帰国者狩りとも 言うべき帰国推進事業であり、全て被告の主導によるものであった。

総連の弁明
帰国事業に関して総連を訴えた裁判の総連のアホ弁明
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「赤十字の事業」と反論

帰国事業は59年、朝鮮総連を中心に在日朝鮮人の帰国要求運動が高まる中、 日朝の赤十字間に「帰還協定」が結ばれ、実現した。
84年までに日本人配偶者を含め約9万3千人が帰国した。
「北朝鮮の実情を知らせ、帰国者の人権を守る義務があったのに、朝鮮総連がそれを 果たさなかったのは、契約に伴う債務の不履行にあたる」
と訴える原告側に対し、

朝鮮総連側は答弁書で「事業の主体は日本赤十字であって、(朝鮮総連は)帰国の早期実現等を求める運動を批進・展開したにすぎない」と反論。
金さんの北朝鮮への帰国から40年が過ぎていることから、「訴えそのものの時効が成立している」と主張している。
http://www.asahi-net.or.jp/~dt9k-iwmt/kobeya/kousatu/ko18.html
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朝鮮総連側は答弁書で「事業の主体は日本赤十字であって、(朝鮮総連は)帰国の早期実現等を求める運動を批進・展開したにすぎない」と反論。
金さんの北朝鮮への帰国から40年が過ぎていることから、「訴えそのものの時効が成立している」と主張している。
「AERA」2000年8月13日
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白善Y・韓国陸軍大将
(智異山ゲリラの討伐を省みて)

ゲリラには大別して二つのタイプがあった。
一つは純朴な農村、漁村の青年であり、純情な女学生である。最後まで抵抗し、 捕虜になってから死を願うのは彼らであった。純朴であるがゆえに、より強く 洗脳され、最後まで戦うのである。
・・・・・・・・
もう一つが、高学歴のインテリである。純朴な青年達を洗脳した憎むべき連中である。
始末の悪い事に、この連中は情勢不利と見るや進んで投降した。
彼らは弁舌爽やかに転向を誓い、「君達国軍は立派だ、国の宝だ」と追従まで 口にした。
(白善Y「若き将軍の朝鮮戦争」草思社 2000)
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『諸君!』1997年11月号
「北朝鮮『帰国』礼賛者たちの罪と罰」
http://www.fpcj.jp/j/fshiryou/vfj/97/2_11.html
宮塚 利雄(山梨学院大学助教授)
在日朝鮮人の夫または内縁関係にあった男性と北朝鮮に渡った「日本人妻」1831人の 一時帰国がようやく実現する。40年近く前、北朝鮮に帰還した在日朝鮮人及びその妻と子供たちは、 自らの意思で帰国を決めたというが、そう決意させたのは
@北朝鮮の甘言A朝鮮総連の宣伝B日本側の協力者による帰国事業支援、である。
協力者の中には新聞社や北朝鮮を礼讃した著書も含まれており、当時の新聞各紙はこぞって 「在日朝鮮人の帰国は人道的見地から当然」と支援する社説を掲げた。
その後の帰国者たちの悲惨な生活状況を聞くたびに、 かつて帰国事業を側面から積極的に先導した新聞など、マスコミの役割は看過できない。
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呉基完【元迎接委員】
これも後で分かったのだが、寺尾五郎という人が『三八度線の北』という本を日本で出版、 前に朝鮮を訪問した時、金日成にも会ったんですが、どういうわけか、その本を読む限り 「地上の楽園」かも知れないという考えを持つような内容で書いている。私もあの本を 後から読んだのですが、本当に80−90%が全部ウソ。それは仕方がないでしょう。訪問 者が来れば平壌では必ず良い待遇をする。帰る時は念を押す。「日本に帰ってから北朝鮮の 悪口を言ってはならない」と。そして北朝鮮の実情を知るような事は全然見せないで 「私たちが作った統計に従って書きなさい」という。北朝鮮が渡した統計資料に基づいて 書いたのが『三八度線の北』です。特に在日朝鮮青年たち、大学生たちは「金日成総合大学」に 入学できると、そしてソ連にも留学でき、思い切り学問もできて、社会主義逮設に 役立ちたいと。
・・・・
船の上でも下でも仰天して「これは何かの間違いだろう」と。タラップを降りて来た 若い人達は「参ったな−あ。こんなはずじやない」と日本語で話し合っていた。
私は日本語を話すのは難しいけれど、聞く事は出来た。そのような言葉を吐く者に 「おいお前、今なんと言つたか、まあ今日は初めてだから大目に見てやるが、 今後そのような話を口にした時は覚悟しておけ」と言った。
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関貴星
北朝鮮では水稲の作付けに先進的技術として冷床法を導入して多収穫を大いに 宣伝しているが、実際に農村を巡回して見ると、稗の多いのに吃驚する。
場所によっては稗と稲が二段になっており、生育の早い稗がひょろっと伸びて 屋根となり、その下に稲の段となっているといった具合だ。
・・・・・・・
同行したある農業団体代表の団員は、「関さん、私ならこの倍は獲って見せますね」と 述懐していた。
・・・
そういえば、いつかの朝鮮画報の表紙に、鈴なりのリンゴの大樹を誇らしげに載せているのを 見たことがある。あのとき、私は、一本の樹にあんなに沢山実を実らせてリンゴの樹が もつだろうかと、疑問に思ったものである。

関貴星「楽園の夢破れて」亜紀書房 1997-3-30 出版は1962年
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関貴星
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そうした使節団の皮相浅薄な見聞報告の中に
「朝鮮は風致と清潔を重んじる国柄だからアパートにも日本のアパートみたいに 洗濯物や布団をでたらめに干したりしない・・」というのがあった。
・・・
【 洗濯物が干してない事を不思議に思った団員が、団地内にある物干し場に 案内されたが、日本的感覚では数世帯分の広さしかなく、干し物もなかった為に、 団員が不審に思い、しつこく質問したことに対して、腹を立てた案内員の 口をついてでた朝鮮語が 】

「全くおかしな奴もいるもんだ。ここで干すんだと正直に教えてやっているのに、 どうしてあんなにしつこく干し場なんか聞くのだろう」であった。

この事実談を日本人は喜劇的にうけとられるかもしれないが、朝鮮人にとっては、 実は、とてつもない悲劇を意味している事を読者はすでにご諒解であろう。

・・いうならば、人間は物質面や環境があまりにも隔絶していると、話の意味が 全く通じなくなるという事である。

関貴星「楽園の夢破れて」全貌社、1962)   復刻版:亜紀書房1997
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【 】内は、引用者
著者は、1960年の訪朝団に参加後「「楽園の夢破れて」を出版し
北朝鮮・朝鮮総連を告発した。

田辺誠・社会党委員長
「もしこの真実に眼を蔽い、従来どおりの北朝鮮礼賛、帰国促進を続けていけば、 恐るべき人道上の誤りを犯す恐れがあること。私はそれを倦まず訴えつづけた。」
関貴星(呉貴星)『楽園の夢破れて』全貌社1962
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関貴星
「われわれ一行が清津にむかう車中のことであった。
一行のメンバーである寺尾五郎氏が、三人ばかりの青年につかまり、激しい口調で抗議されているのを
目撃した。青年達の言い分を要約すると
「僕達は貴方の著書を読み、信用してこの国にやってきたのだ。
北朝鮮の事情は、あなたが書いたのと全然反対ではないか。だまされて一生を某に振った僕達を
どうしてくれる・・・」というものであった。
関貴星『楽園の夢破れて』1962全貌社


関貴星
1960年に「日朝協会使節団」に参加して、北朝鮮の実態を報告して
「もしこの真実に眼を蔽い、従来どおりの北朝鮮礼賛、帰国促進を続けていけば、恐るべき人道上の誤りを犯す恐れがあること。
私はそれを倦まず訴えつづけた。」
関貴星(呉貴星)『楽園の夢破れて』全貌社1962


張明秀(元・総連幹部)
しかし、総連のこの運動が始まる3年も前から日赤が同胞の北への追放を企てていたことに気づかなかった金日成と総連は、うかうかと日赤(=日本政府)に荷担したことになる。
【帰国事業は「人道主義」という名の追放政策だった】
「朝鮮総連の研究」別冊宝島221 宝島社
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鄭箕海
・・・・・・・・
帰国する前、この類の新聞記事をかなり目にした。「北朝鮮訪問記」のような本にも目を通した。
その立場からして北朝鮮を誉めるだけの総連の人々と違って、日本人は第三者なのだから客観的な目で北朝鮮の実情を見聞し、 それを公正に伝えていると思った。事実、私のような北朝鮮に帰国したいと言う両親の意思と、帰りたくないと言う本音との間でゆれ続け、
帰国することを躊躇っていたものには、日本言論による北朝鮮報道が絶大な影響を与えた。
・・<中略>・・・
日本のジャーナリストの書いたものを鵜呑みにするほうが間違っている、と言われればそれまでだが、
それから長年北朝鮮で暮らしている間、私は進歩的言論人や知識人らの無責任さ、その罪深い所業を呪わずにいられなかった。

鄭箕海「帰国船」文芸春秋 1995
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政治犯拘留所で
ある日の夕方、戒護員・李慶哲特士の怒鳴り声と、耳慣れない女のうめき声が聞こえた。
・・・・・・・・・・
「ああ、私はどうして日本から北なんかに来たんだろう。なんでこんなことが見通せなかったんだろう。
夫にくっついて子供まで連れて・・・故郷だと思ってついてきたのに、私達がなんだってスパイにされなきゃならないんだ。
日本の親戚達は私達家族がどんな目にあってるかも知らず、良い暮らしをしてるとばかり思っているのに。
おい、犬畜生!うちの家族を日本にまた送り返せ!それが出来ないというなら全員殺すなりしろ!
もうこれ以上、こんな風に生きるのはいやだよおぉ・・・」
・・・・・
次の日から、二度とその女性の声を聞く事はなかった。

安 明哲 「北朝鮮絶望収容所」KKベストセラーズ 1997
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著者は、元収容所警備隊員 1994年9月韓国に亡命

萩原遼「北朝鮮に消えた友と私の物語」。著者は1972〜73年、 「赤旗」特派員としてピョンヤンに滞在。帰国した元在日朝鮮人と接触を持とう とした(実態は、旧友に会おうとした)のが咎となり、「好ましからざる取材 活動を行った」として国外追放処分を喰らった。当時書いた取材メモが文春文庫版 251ページに収録されている。

「恐ろしい国。むしろ刑務所といってもよい。しかし刑務所にはまだ思想の自由 がある。考える自由が。ここではその自由もない。朝から晩まで金日成一色。
ガンガン、ガンガン、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌。考えるすきもあたえない。
職場にいけばいったでまた。一大強制収容所!働かされ、休日もなく、ただ ひたすら金日成、金日成、金日成。

 恐ろしい。人間の心に与える声のない(いや、声のある)抑圧。その下で 黙々と羊のようにおとなしい人民。これにも無性に腹がたつ。全土がスパイ 網でおおわれている。」


宋允復
宋 朝鮮学校には小学校から中学一年まで通い、その後は日本の学校で学びました。
  父の妹が60年代に帰国し、乳癌で70年始め頃に亡くなったそうです。当時私は 幼かったので、母はあまり話しませんでしたが、「生活の苦しいときに仕送りの 負担も重なって大変だった」と母がぽろりとこぼしていたのを覚えています。
  他の近い親類は帰っていません。

  60年代に母の姉が帰国したいと盛んに言ったそうですけど、祖父が「朝鮮戦争が 終わって時間も経ていないのに地上の楽園であろうはずもない」と強硬に反対して 踏みとどまらせたそうです。
 
  朝鮮学校の同じクラスのなかには、親戚が帰国した人も何人かいて、向こうから来る 手紙は食品や生活必需品を送ってくれというもので、生活は大変らしいとか、自由に ものが言えなくて、ひどい目にあってる人が多いらしいということは、 小学校の高学年にもなれば常識でしたね。
http://homepage1.nifty.com/northkorea/KARUMEGI28.htm

藤森克美弁護士
また、総連は帰国運動に際し、大々的な帰国勧誘のキャンペーンを展開し、 それによって総連加入者以外の人たちも多数帰国した。1総連の構成員
であろうとなかろうと、帰国に際して重要事項の不告知、あるいは不実の
告知があった場合には、総連の責任は免れない。日常物資の不足や生活上
の困難が予想されるにもかかわらず、その事態について正確な説明をせず、 「地上の楽園」と思わせたことは責任を問われねばならない。

日赤の責任も追及できる。日赤が関わった事業で人道的被害が出ていることが 明らかであるから、安否調査や救護のための行動を取る責任がある。
 裁判の場で事実関係と責任の所在を究明することで、今進行中の深刻な人 権侵害の改善につなげたい。


【日本と同じくロシアにもあった帰国運動帰還者の悲劇】

ロシア人権活動家 金マリア
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金:戦争が終わってから、日本でも帰国運動があったように、ロシアから北朝鮮に帰国した人は多いんです。
朝鮮半島からサハリンなど極東地域に渡った朝鮮人は全体で約五万人としたら、五割の人は北朝鮮に帰りました。
その中には、ロシア人と結婚して子供を設けた人もいました。奥さんや子供を置いて帰った人もいました。

 しかし、北に帰った人は、日本の帰国者と同じで帰国したことを後悔しています。
ロシアにそのまま住んでいれば、金日成の残酷な政治にもあわずに済みましたから。若者も沢山帰った。
それも「金日成大学に入れてあげる」と言われて帰ったが嘘だった。北朝鮮は軍隊を組織したかったんです。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2001/ronbun/02-r3.html



平沢衆院議員「今まで日本は『北朝鮮のご機嫌を取っていれば、
いいシグナルがくる』ってやってきた。それは政官界に『コメ支援をしろ、 拉致のことは騒ぐな』とか、北朝鮮の国会議員のようなことを平気で言う人 がいたからです。私が警察にいた時も、北朝鮮関連団体の事件をやったら、 すぐ社民党の議員が抗議に来た。こんなばかな党はない。辻元さんも土井 さんも、北朝鮮とズブズブの関係ですよ」

http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/apr/o20020420_210.htm




宝島30
1995年8月号より

疑惑の北朝鮮「付属」大学
大阪経法大は朝鮮総聯のスパイ拠点か!?

文部省から学校法人の認可を受けた日本の大学を牛耳る人物は、朝鮮総聯の 幹部活動家であり、なおかつ韓国政府から、大型スパイ事件の首謀者として 指弾されていた!
http://www.google.co.jp/search?q=cache:HDiUCcSWHf8C:www.infovlad.net/underground/asia/nkorea/bbs/bbs.cgi%3Fpage%3D3%26ope%3Ddum+%8B%E0%93%FA%90%AC%8At%89%BA&hl=ja&ie=Shift_JIS
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今週号の『文春』で、もう一つ目をひいた記事があった。 『疑惑の副学長“追及記者”が怪死した!』
という記事である。これは、大阪経済法科大学をめぐる数々の疑惑、とりわけ朝鮮総聨との関係、 北朝鮮の 付属大学ではないか等々に対するキャンペーン記事である。しかし、これだけでは、べつに払の関心を惹くものではない。

この記事で「原因不明の死」と書かれている金武義(きむ・むい)という人の名が、 数年の年月を越えて登場したことに 目を見開かされたのである。

きむ・むい氏は、95年の夏に自宅アパートで亡くなった。この際、それ以前からの 薬物中毒が原因であったということは 聞いていたが、それでも、今回の『文春』の 記事に書かれているように、ノート類の一部が紛失していることも事実として 耳に入っていた。 その前に、北朝鮮や総聯関連の取材を重ねていたこととも関係があるのでは…。 といったことも、
陰ながらささやかれてはいたが、それも推測のレベルで終わっていた。 このように、あらためて具体的に追跡されていけば、 疑惑は深まるばかりである。
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http://homepage1.nifty.com/northkorea/KARUMEGI28.htm




超党派訪朝団
日本共産党参議院議員 緒方 靖夫
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それは、私たちが北朝鮮を訪問したときいちばん悩みだったのは“金日成参り”でした。
金日成の廟があります。それから銅像があります。お参りする所がいっぱいあるのです。
そこに代表団はみんな連れていかれるのです。私たちは金日成とは論争関係にあり、 攻撃されてきたという関係がありますから、頭はいっさい下げない。しかし代表団の流れを 乱すわけにはいかないということで、参加したけれども頭は下げませんでした。目立ちます。
みんなが深々と頭を下げているときに。きわめつけは金日成の廟です。

なにしろ500メートル歩かされて、また200メートル歩いて廟があって、そこに靴の泥をおとす マットが敷いてある。そこで泥を落として、そして飛行機に乗るときの探知機のようなものがあって、 そこを通ると空気のようなものがビューと出てきて服の泥をはらう。それを通っていくと彼の遺体が 寝ているわけです。まず足におじぎするわけです。その横でおじぎして、頭のところでおじぎして またおじぎしてと4回おじぎする。そして出てきたところには記帳するところがあり、みんな記帳する
わけです。

たとえば野中自民党幹事長、「偉大な金日成首相の教えに従って日朝関係を改善していきたい」と。
自主性がどこにあるかと思います。村山団長にいたっては、「金日成」とかくところを「金日生」と 書いてしまって真っ青になっていました。私は隣にいましたので、「生きてほしいと願いを書いたの だからいいじゃないですか」となぐさめましたが、あの方「おお、そうじゃのう」と言っていました。
http://www.ogata-jp.net/~jinken/Rombun/kenpo_asia.htm
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【当初からあった日本人妻問題】高柳俊男 運営委員・法政大学助教授
北朝鮮へ帰国した日本人妻の問題で早くから活動してきた団体は、よく知られ ているように「日本人妻自由往来実現運動本部」(のちの「〜実現運動の会」) である。池田文子(本名=江利川安栄)を代表とするこの団体は1974年4月に結 成され、日本人妻からの手紙を機関誌『望郷』のほか、『鳥でないのが残念です』
(1974年)や『日本人妻を返して!』(1979年)として出版し、また映画『鳥よ 翼をかして』(1985年)を製作するなど、この問題に対する世論形成に大きく関 わってきた。

 同時に、池田文子なりこの団体は勝共連合や統一教会と関係があるとされ、そ の活動に対してとくに左翼の側から厳しい批判の目が注がれてきたことも、また 周知の事実である。
 しかし、この池田の会にしても、1974年の結成ということは、早いといっても 帰国事業開始から15年も経っている。帰国事業が始まった1959年当時、日本人妻 の問題はどのように認識されていたのであろうか。
 というのは、在日朝鮮人の場合でも、祖国帰還とはいえ大多数は朝鮮半島の南 部、すなわち韓国をもともとの出身地とする人々であり、故郷とは違う社会主義 の北朝鮮への帰国を決意するにいたるまで、さまざまな苦悩や逡巡がみられたの が一般的であった。

 ましてや日本人妻(ないし夫)の場合、配偶者が選んだ国に一緒についていく といっても、自分にはまったくの未知の国であり、言葉や風俗習慣や生活レベル の問題など、愛情だけでは解決できない数多くの不安を抱えながらの出発であっ た。

「北朝鮮に帰る日本人妻をはげます会」のこと
 その映画『海を渡る友情』の事実調べをする過程で(詳細は在日朝鮮人運動史研究会 『在日朝鮮人史研究』29・30号掲載の拙稿をご覧ください)、
帰国事業が始まった当時にも日本人妻の問題を考える団体があったことを知った。
というのは、映画の最後、品川駅から新潟への帰還専用列車で一家が帰国していく様子を 描いた場面で、日本人の母親が「日本人妻を守る会」の女性たちから花束をもらっているのである。
結成の目的は、多かれ少なかれ帰国後の生活に不安を持つ日本人妻を激励することにあったという。
カルメギ 37号
http://homepage1.nifty.com/northkorea/karu37.htm


呉基完・元副首相補佐官
【北朝鮮「帰国事業」元責任者が証言】
一方、呉氏は帰国事業で得られる北朝鮮の「利益」について
(1)朝鮮戦争の影響で不足した労働力を補う。特に日本の先進技術を持った者や 文化人、学者を受け入れる
(2)日本から工場施設などの財産を移入する
(3)資本主義社会から社会主義社会への民族の大移動で、社会主義の勝利を世界に示す
−ことなどを想定していたと説明。
事業が有利に運ぶように日本のマスコミや知識人に工作を行ったと話し、
具体的な工作として「一部の記者に、北朝鮮に有利な統計数字などを書いた資料を 金塊とともに渡したケースもあった」といっている。
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9710/paper/1007/itimen/itimen03.htm


前田 日明
http://homepage1.nifty.com/northkorea/KARUMEGI29.htm
前田日明氏 ビデオ発言(要旨)
前田 日本の戦後教育はこと自由さを教えることについてはあきれるくらいだった。
そういうところで染まった人が北の主体思想をやっているところとは合わない。
あげくのはてに中朝国境地帯のような辺境の地に飛ばされる。
へたすると強制収容所、もっとひどいと、いろいろでっちあげられて処刑されたりする。
ちょっとそれは複雑な気持ちでね。
 私のおじいさんは李朝最末期の軍人で抗日ゲリラに参加して、捕まって逃げたりして、 日本に来たんですが、北朝鮮好きじやなかったみたいです。
韓国や北朝鮮だったら同じ血の流れた人間に対して、日本人が俺達にやっているより もっとひどいことをするだろうと言っていた。



呉寿龍
私が思うには金日成は在日同胞を味方にしないと朝鮮の発展はないと先を読んで、これを機会としたのです。 
神戸の大橋の川沿いに(朝鮮部落の)市場があって商売人だからお金は持っているが、バラック立てでした。
韓徳銖は悪いやつで、これを写真にとって、在日同胞はコジキのような生活をしていると金日成に報告したのです。
そして金日成は在日同胞はコジキのような生活をしているから、暖かく迎え入れましょうと北の住民に宣伝したのです。
妻は帰国したくなかったが、総連の幹部の兄の説得でその兄だけを残し、家族で帰国し、農村に配置され、 そして私と結婚したのでした。
帰国者は着物もいいし、家具や調度品も良いものだし現地の人も日本は発達していると理解したようです。
 帰国者には日本よりも強い差別があります。鴨緑江の近くへ移住しましたが、余りにも生活が苦しいので 息子が亡命を計画しました。失敗したら死のうと長いかみそりを持ち中国に波り、第三国を経由して95年3月に
韓国に着きました。総連に騙されて、青春も何もかも金日成に踏み潰されたのです


英雄の島・済州島
李 燦
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7903/stalin/bunsho/islandofhero.htm



「北朝鮮を知りすぎた医者」著作.ノルベルト・フォラツェンより

強制収容所から逃げてきた人達の特徴は、異常に痩せ衰えていることだ。私は収容所から逃げてきた人を5人診察したが、全員がひどい怪我をしていた。収容所の衛生状態が悪いため、どの人もひどい臭いがした。
もはや人間らしい臭いではない。頭には殴られた新旧の傷跡があった。歯があちこち欠けてる人が大半だ。
ある人は下顎が何ヶ所も折れていた。全員の首に鞭で打たれた深い傷跡がいくつもあった。また首の筋肉はびっくりするほど硬くなっていた。つねに重いものを背負わされ、うつむいて歩いていたからだ。中の3人は腕や足の骨が折れていた。
鉄棒で殴られたという。尖った刃物で刺された深い傷、あるいはタバコや赤く焼けた金属棒による火傷の痕は全員に見られた。タンパク質が不足しているために筋肉はおそろしく衰えている。髪の毛は色あせ、爪には血の気がなかった。
集団レイプ、それから電気ショックあるいはとがったもので性器に加えられた拷問のため、女の人たちはさまざまな傷を負っていた。ウ"ァギナがずたずたになった人、もはやその痕跡しかない人。
二人の女の人は、木の枝で胎児を掻き出され、まともな子宮の形をとどめていなかった。
しかもその後でさまざまな感染症にかかっておびただしい瘢痕があった。
強制所から逃げてきた人達の健康状態。健康状態?シラミや蚤がたかり、疥癬をはじめありとあらゆる皮膚病にかかっている。これは医師である私にもまったく想像のつかない病気だ。なぜならこういう患者をほとんど見ることがないのだから。
冒されているのは皮膚病だけではない。

開いたまま化膿した潰瘍。傷口が開いたままの腹。時には何年にの及ぶ拷問のため、内臓は非常に弱っていた。そして5人全員がストレスと粗食のために慢性胃炎を患っていた。
収容所には食べ物はなかったと、かれらは言う。だが故郷の家にもやはりなかった、と。
「人道援助?そんな話、聞いたことはありません。見たこともあるません」
かれらにとっての厳罰は餓えだった。どんな拷問よりも辛かったという。人間を服従させるいちばんの道は 食事を制限することだということを、北朝鮮の政府はソビエトの懲罰収容所の例から学んでいる。
なにもこれは懲罰収容所に限らない。
鳥はとっくの昔からいない。どうにか食べられるものなら、なんでも食べた。ネズミに始まり、蛇、カエル、
イモリ、幼虫、蟻、毛虫、蝶、木の根、雑草、草の実、草・・・・
それどころかこんな話まである。収容所のいくつかの家族が死んだばかりの孫たちの遺体をお互いに交換したというのだ。
そうすれば身内の肉を食べなくて済む。生き延びるため、彼らはこんな残酷な行為をせざるをえない。厳しく寒い冬を生き延びるためにはタンパク質もカロリーも必要なのだ。かれらは少しでも肉が食べられるならなんでもする。


呉基完・元「迎接委員」
http://www.mindan.org/shinbun/991013/topic/topic_b.htm
一九五九年十二月十六日の午後、「帰国」第一船が清津港に到着したその日は、 みぞれまじりの寒い日だった。呉さんは「帰国者」を歓迎するために動員された 二千人の住民とともに清津港にいた。「日本の一般生活水準は高いが、 在日朝鮮人はみすぼらしくかわいそうな生活をしている。
だから耐えきれなくて帰国を願っている。
社会主義建設で私たちと同じく幸せな生活をしよう」と迎える側は思っていた。

ところが、事態は思わぬ方向に向かう。船が港に近づくにつれて、
甲板の上には「金日成万歳」を叫ぶ者もいたが、 乞食のような集団がやって来ると思っていたのに、想像もつかないほど 立派な身なりをした人たちが視界に入ってきた。

「これは何かの間違いだ。なぜ幸せそうな彼らが朝鮮に帰ってきたのか」。
呉さんはとっさにそう思った。手に手に旗を振って歓迎ムード一色だった住民たちも 自分たちよりもはるかに生活水準の高い「帰国者」を前にして、何が起こったのかポカーンとしていた。
先に偉い人たちだけが帰って来たのだと思い込もうとしたという
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呉基完・元「迎接委員」
http://www.mindan.org/shinbun/991020/topic/topic_b.htm
「北送事業」が始まった1959年から60年初頭の北韓は、政治、経済など、
あらゆる面で一番危ない時期だった、と呉さんは振り返る。

6・25動乱が終わった後の「三カ年計画」は、ソ連や中国、東ヨーロッパの いろいろな国から無償援助を受けることができたが、その後の「第一次五カ年計画」は、 2年くらいでそれらの国からの無償援助が閉ざされ、金も何もない北韓は 2年半で計画を断ち切るしかなかった。
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裏表紙