朝鮮人慰安婦 金学順の証言の矛盾

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

アホが「従軍」慰安婦を崇める

久保井規夫編

平成21年3月3日火曜日雨一時雪 △

 大東亜戦争における朝鮮人慰安婦といわれる人たちの証言の嘘の数々が明らかになっている今日においても、それを認めようとせず、ひたすら謝罪を我が国に求める売国日本人が多くいます。

 久保井則夫氏は、著書で

<挙証責任などと自ら言いながら、貧しかった朝鮮人女性は「『慰安婦』に自発的になった」とか、「高給を受け取って、三年間で警察官が一生買えない家が二十軒近くも買えた。「奴隷とは言えない」と挙証もなく決めつけるのである。

自発的に「慰安婦」になって、大金持ちになった朝鮮人女性の事例等未だに聞いた事もない。聞こえてくるのは、日本軍によって「性奴隷」そのものの過酷な使役を強制され、戦場を引き回された女性の悲劇しかない>

p一六四

と書くが、慰安婦という商売が、当時として短期間で大金を金稼ぐ事ができた事は事実であり、不幸な事に故郷への帰還が遅れ、すべてを無くした人もいるだろうが、それは他の事業をおこなっていた日本人も同じである。 挙証を放棄しているのは久保井氏自身である。

 まあ <右派・国家主義者・「つくる会」たちの主張が史実を歪曲し、論理を繕う詭弁に過ぎないことは、既に明白である。 略)  本書では、一連の出尽くしたと見られる彼らの主張を整理して、第五章、六、七章で完膚無きまで論破しておいた。現象論議はこれで止めとなすことができよう。これが、本書を著した第三の目的であり、内容の特徴である。>P一八〜一九

と書く割には、全然論破していないし、所詮、私のような者にまで突っ込まれるようなお笑い本でしかないのですが。

 そして、「元慰安婦の証言を歪曲してはならない」として同じ著書に下記のように書いています。

 <右派・「つくる会」に集う人たちは、日本軍「慰安婦」は「自発的になった女性だ」「娼婦で商行為だ」「強制でも、業者の所為で国家に責任はない」と決めつけて、大々的に主張してきた。ここまで屈辱されると、元「慰安婦」の当事者とその家族は、「娼婦」への差別と「慰安婦」への誤解に曝されるため、よほどの決意を持たねば自ら名乗り出て反論する事は困難である。しかし、遂に、五〇年余を経て、余命少なくなった彼女たちが、死ぬ前に自らに加えられた屈辱を晴らさずに置くものかと立ち上がったのである。この元「慰安婦」たちの抗議と反論の告発・証言に対して、右派・「つくる会」の人たちは、それを「虚言」扱いしたり「歪曲」して誤摩化そうとしている。

略)

 西岡氏(木下注 西岡力氏)が、元「慰安婦」の証言から、抜粋し利用している箇所は、いずれも、「騙されて慰安婦とされた」事を述べた件の一部分だけである。

略)

 我が日本人は自己を偽り屈辱するものばかりではなく、良心をもって誤りを自浄できる清廉な民族である事を示す為に、彼女たち日本軍元「慰安婦」の証言を正しく聞き取っているページを割かせてほしい。>

p一六七〜一六九

「教科書から消せない歴史」(久保井規夫 明石書店 一九九七年刊)

 続いて、久保井氏はあの有名な嘘つきバカ朝鮮人売春婦である金学順の証言を著書のp一七一〜一七四に掲載しています。

 久保井氏自身が正しく聞き取っていると書いている金学順の証言ですが、掲載されているその証言は他の人たちから証言の度にコロコロと変わったたと指摘されている矛盾点を示していない。

 ところが、久保井氏は著書で

<以上のような金学順さんの体験は、誰が聞いても、日本軍により強制的に慰安所に入れられて、「慰安婦」として地獄の苦しみを受けたという話である。ひどいのは、少女の時に妓生にされた事を以て、妓生は「慰安婦」にされようと構わないと当然視する差別である。「つくる会」の人たちは、まず、金学順さんが養父から無理に引き離された事を、「もともと妓生だった者が慰安婦に売られたのだ」と体験を作り替えている

略)

 金学順さんの証言では、どこにも人身売買の有無はないが、「つくる会」の人たちによって、人身売買の如く捏造された。金学順さんは、強制連行し性奴隷を強要したのは日本軍だと述べているではないか。そして、「つくる会」の人たちは、戦後、日本人が韓国に出かけて「妓生観光」なる買売春旅行なる恥ずべき行為をやらかした出来事を重ねたのであろうが、妓生を初めからすべて売春婦扱いして、日本軍「慰安婦」にして何が問題かと開き直るのである。もちろん、韓国の妓生は本来そのようなものではなく、音曲歌舞に秀でた芸術家である。そして、何度も言うが、如何なる立場の女性であろうとも(まして、親に売られた未成年の少女ならなおさら)、自己の意志に反して日本軍「慰安婦」という性奴隷の立場に追い込まれる筋合いはない。そのような日本軍「慰安婦」を制度として設けて、日々、その苦しみに女性を使役した国家組織の日本軍が間違っており、日本の国家責任の問題である。被害をうけた女性の所為にするとは言語道断である。>

P一七四〜一七五

 久保井氏も他の慰安婦被害者視している人たちと同じで、現実を直視できないようです。

 これについては、同じアホ系の西野留美子氏の著書よりこの朝鮮人戦時売春婦の発言を引用させていただき、問題点、矛盾点などを書かせていただきます。

続く

 夜に雨からみぞれ。  Kさん二名様で来店。小胡子さん来店。

 営業終了後に外に出ると、駐車場の車などが真っ白。ただ、天気予報ほど降らず。


アホが「従軍」慰安婦を崇める

戦時売春婦の証言比較

3月4日水曜日くもり一時雨 ×

 手元に西野留美子氏の著書「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」(明石書店 一九九二年刊)、「従軍慰安婦のはなし」(明石書店 一九九三年刊)の二冊の著書があります。

 この著書に掲載されている「従軍」慰安婦界のトップスターのひとり、金学順についての証言を久久保井規夫氏の著書の証言とともに引用して比較してみます。

以下引用

<私は、満州の吉林で生まれました。私が生まれて百日もたたないうちに、父は亡くなりました。その後、母の生まれた韓国に行き、母の親戚をまわりながら、苦しい生活を送りました。大きくなるにつれ、私は教会に行くようになりました。今思うと、貧乏だったけれど、母と一緒で幸せなときだったかもしれません。

 その頃、十七歳になると女の子は日本の軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました。

 ある日のことです。部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。

「お金がたくさん稼げるところがある」  説得され、とうとうトラックに乗りました。同じ部落の一歳年上の友だちといっしょでした。トラックから軍用列車に乗りかえ、三日ほどして着いた所は、中国でした。(「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」)。

 反抗すると殴られるし、「殺す」と言われ、とにかくわけも分からないまま中国の家に連れて行かれました。そこで、まっ暗な部屋のなかに二人は入れられました。 「お姉さん、どうしよう・・・・・・」  部落からいっしょにきた友だちは一歳年上なので、お姉さんと呼んでいました。どうする術もなくただ暗闇のなかでおどおどしていました。するととつぜん、戸口から明るい光が入ってきました。昼間、私たちをトラックに乗せてここまで連れてきた日本人の将校でした。明りは、ろうそくの火でした。怖くて部屋の隅にうずくまっていますと、その将校は私の腕を引っ張りました。いやがる私を蹴ったり、脅かしたりして、となりの部屋に連れて行きました。  部屋といっても、壁もない、ドアもない。ただ、カーテンがわりの布一枚で仕切ってあるだけでした。将校は、私に言いました。 「服を脱げ!」  恥ずかしいし、話すのは辛いけど、正しく伝えなければなりませんから・・・話します・・・  私は怖くて、服を脱ぎませんでした。すると将校は私の服を破りました。

略)

 部隊が移動する時には、私達もいっしょにトラックに乗せられ、行く先々に連れていかれました。 略)  そんなある日、部隊にきた朝鮮人男性に助けを求め、いっしょに逃げ出しました。 >

「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」(P一一三〜一一六)

<私が生まれてまもなく、アボジ(おとうさん)は無くなってね。オモニ(おかあさん)が家政婦などして私を育ててくれたんだよ。家は貧しくて。私は四年生まで通っていた普通学校をやめ、子守りや手伝いに行く事になったんだ。

 そのうち金泰元という人の養女になって、十四歳から三年間妓生学校(妓生=古くは歌や踊りなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)に通ったけど、十七歳の春だったかね。『お金がもうかる』といわれて、一歳年上の女性と一緒に養父に連れられて中国に行ったのさ。

 平壌から三日間軍用列車に乗り、それから何度も列車を乗り換えてね。中国北部の「鉄壁鎮」という小さな村に着いて、養父とはそこで別れたんだよ。それから日本軍の将校に連れられて、中国人の家に案内された。そして、部屋に入るなり、いきなり鍵を掛けられてしまったんだ。

 隣の部屋にはすでに、私と同じ三人の朝鮮人の女性がとじこめられていたよ。そのとき私は「しまった」と思ったけどもうおそく、逃げ出す事はできなかった。

 将校は私に、「はやく服を脱げ」と言うんだ。なにがなんだかわからず、私はこわくてブルブルふるえていると、将校は私の腕をつかんで、私が着ていた服をビリビリ裂いたのさ。

 略)

 部隊が移動する時は、いっしょに連れていかれ、戦地で性の相手をさせられたこともあったさ。

 ある日、兵隊が二人の中国人を連れてきたんだよ。その人たちは目隠しされ、後ろ手に縛られていた。軍人は、私達が見ている前で、その二人の首を軍刀で切り落としたんだよ。 『言う事をきかないと、お前たちもこうなるんだ』

 軍人は、そういって私達をおどしてね・・。私はあまりに残酷な光景に、心臓がとまりそうだった・・。>

「従軍慰安婦のはなし」(P三二〜三四)

< 私は小さい頃、親と一緒に暮らしていた頃から、そもそも日本人とは仲がよくないという状態にあったのです。三・一独立運動に私の父親が参加した事で、朝鮮には暮らせなくなったので、『満州』の方に行ったのです。私は、『満州』の吉林で生まれたのですが、私の人生の険しさがその時から始まったのか、私が生まれて一〇〇日もたたない間に、父は日本軍の銃で撃たれて死にました。

 その後、母親と二人では『満州』で生活していけないので、二歳の頃また帰国して朝鮮半島で暮らすようになりました。 わたしが十四歳の時でした。母親が再婚する事になったのです。その時から母親と一緒にいたいという気持ちが全然わいてこないし・・・・妓生を養成するような学校に入ったのです。・・・・教えてくれる所の両親、実の親じゃあなくて、その教えてくれる人を実の親の様に思いながら、歌や踊りを勉強して、・・・それで、十七歳で、・・・・・養父と、一緒に学んだもう一人の子と三人で『満州』に行きました。  ご飯を食べる為に、ある食堂に入った所、そこで三人は日本の軍人に見つかったのです。

 そこにいたもう一人の将校が、『こいつらはどう見ても朝鮮人だ。スパイじゃあないのか』というような事を言って養父を連れていってしまいました。『こいつら連れていけ』と言ったのです。そこで養父と別れ別れになって、永遠にもう会う事ができなかった。私達が引っ張られて行ってみると、軍隊のトラックがあって、トラックに荷物を積むような形で私達を乗せました。  どれだけ行ったか分かりませんが、とにかく北京からずっとトラックに乗っていって最前線までいったみたいだったのです。真っ暗な所を何時間も行って、止まったところが集落みたいな所でした。

 将校がガッと来まして、私の腕をいきなり掴んで『こっちについてこい』というように引っ張っていったのです。『こんな服は此処は着れる所ではないんだ』と言いながら全部破ってしまって、女として一生一番初めに体験することをそんな状況でやられて恥ずかしくて声が出ません。  略)  軍人たちが作戦で出かけてしまったある日の夕方、朝鮮人の男性が突然入ってきました。

 私は、「このまま、此処にいたら死んでしまいます。一緒に連れて行って下さい」と頼みました。そのようにして二人で逃げ出して、彼も日本から逃げ回っている人だったし・・・>

「教科書から消せない歴史」(P一七一〜一七二)

 これらの証言を比べてみると、

慰安婦になるまで

<母と一緒で幸せなときだったかもしれません。

 その頃、十七歳になると女の子は日本の軍隊に連れていかれるというので、どの家でも、娘が十七歳になる前に結婚させていました。それで、私は十七歳になると、母は心配しました。

<私は四年生まで通っていた普通学校をやめ、子守りや手伝いに行く事になったんだ。  そのうち金泰元という人の養女になって、十四歳から三年間妓生学校(妓生=古くは歌や踊りなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)に通った>

<わたしが十四歳の時でした。母親が再婚する事になったのです。その時から母親と一緒にいたいという気持ちが全然わいてこないし・・・・妓生を養成するような学校に入ったのです。>

 

慰安婦になった切っ掛け

<ある日のことです。部落の人が、日本の警察官と一緒にやってきました。 「お金がたくさん稼げるところがある」  説得され、とうとうトラックに乗りました。

 トラックから軍用列車に乗りかえ、三日ほどして着いた所は、中国でした。(「北支」「カッカ県」「鉄壁鎮」)。 >

<十七歳の春だったかね。『お金がもうかる』といわれて、一歳年上の女性と一緒に養父に連れられて中国に行ったのさ。

 平壌から三日間軍用列車に乗り、それから何度も列車を乗り換えてね。中国北部の「鉄壁鎮」という小さな村に着いて、養父とはそこで別れたんだよ。

<、十七歳で、・・・・・養父と、一緒に学んだもう一人の子と三人で『満州』に行きました。 ご飯を食べる為に、ある食堂に入った所、そこで三人は日本の軍人に見つかったのです。

 そこにいたもう一人の将校が、『こいつらはどう見ても朝鮮人だ。スパイじゃあないのか』というような事を言って養父を連れていってしまいました。

軍隊のトラックがあって、トラックに荷物を積むような形で私達を乗せました。

 どれだけ行ったか分かりませんが、とにかく北京からずっとトラックに乗っていって最前線までいったみたいだったのです。真っ暗な所を何時間も行って、止まったところが集落みたいな所でした>

 

 手元にあるたった三冊の慰安婦についての本に掲載されている同じ金学順という朝鮮人慰安婦の証言でさえ、こんなに相違点がある。

 特に、西野留美子氏の著書は一九九二年と一九九三年と一年しか違わない同じ著者のものである。

 最初から結果ありきで、慰安婦の発言内容になんら疑問も持たず、検証も行なわないというこの阿呆二人の姿勢が良くわかる。

 そして、証言が新しくなるほど、無理矢理連れて行かれたことになっていて、ましてや、実父の死亡原因が不明→三・一独立運動に参加した志士で日本軍の銃で撃たれて死、最初の話で出なかった養父も「鉄壁鎮」という小さな村に着いて、養父とはそこで別れた」→「将校が、『こいつらはどう見ても朝鮮人だ。スパイじゃあないのか』というような事を言って養父を連れていってしまいました。」と激しく?なっている。第一、当時は支那、満州には朝鮮人は多く移住しており、ただ朝鮮人ということでスパイなどと疑いいう事はあり得ない。そんな事をやっていたら、きりがない。

 西野氏の著書にある(妓生=古くは歌や踊りなどの音楽や芸能を身につけて宮廷に仕えた女性)という説明は意図があまりにもミエミエ。なんで、現在、あるいは当時でなく、「古くは」という説明なのでしょう。久保井氏も著書に「韓国の妓生は本来そのようなものではなく、音曲歌舞に秀でた芸術家である。」と書くが、実際は妓生とは芸事もするが身体も売るという娼婦の事で、初潮前の少女を妓生にする事を禁じたのは我が国が朝鮮を併合したのちの事です。

 戦後、南朝鮮は国策として国営の娼館制度つまり妓生による売春により外貨を稼いだのです。辛淑玉女史などが非難するキーセン観光は南朝鮮の国策だったのです。

 ちなみにこの金学順は、あの吉見義明氏からも、その著書「『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(吉見義明・川田文子編 大月書店 一九九七年)にて、

 「問題は慰安婦にされた事情だが、『証言』では、養父は北京で日本軍将校にスパイと疑われてつれて行かれ、彼女は別の軍人によって慰安所に連行されたと記されている。しかし、かせぐために中国につれて行かれたとすれば、養父に売られた可能性があるとみるのが自然だろう。」(P.七五)  とまで書かれている有名人です。

(この吉見氏の著書、一〇〇ページほどのうすっぺらな本ですが九〇〇円もするんです。バカらしくて古本屋以外では買えません。)

つづく

 初めてのお客様Kさん二名様で来店。Nさん三名様で来店。あとで、Kさん合流。

 ドンチャン。営業終了後、エムズバーさんに伺う。店では記憶があったのだが、どこでタクシーに乗ったか全然覚えていない。サル・・・・


謝罪屋というアホどもの精神分析

3月5日木曜日晴れ ×

 西野留美子氏の著書「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」には、林えいだい氏の著書「朝鮮海峡」の主人公として掲載されていたあの嘘つき在日朝鮮人鄭正模が登場している。西野氏が林氏の著書から鄭氏に繋がるらしい。

 

 この久保井規夫氏、西野留美子氏、吉見義明氏、林えいだい氏のようなアホな日本人がどうしたらできあがるのか。斉藤貴彦氏は著書「本当は恐ろしい『平和』と『人権』というファシズム」において下記のように書いています。

  <「原罪」がキリスト教を支えているように、「戦争犯罪」は日本の平和主義を根底から支えている。そして、「キリストの犠牲」がキリスト教を支えているように、「戦争の犠牲」は日本の平和主義を根底から支えているのである。

 戦後民主主義は「過去が悪かったこと」の「反省の上」から成り立っている。したがって、原理的に日本の過去は罪悪でならねばならないのであり、日本の過去が少しでも悪くなかったとすれば、戦後民主主義はその存在意義そのものが危うくなってしまうのである。自由主義史観やリビジョニズム(歴史修正主義)といったものが厳しく禁忌されるのも、そのためである。「事実」が社会のコンセンサスを形成するのではない。社会のコンセンサスを形成するために、一定の「事実」の共有が必要なのだ。それが「神話」と呼ばれるものである。日本が悪い事をして神に懲らしめられたのだ、という神話・・・・そういった意味で、戦後民主主義は一種の宗教であり、「犠牲者」への贖罪は一種の宗教儀式である。「犠牲者」の体験は絶対である。「日本は悪くなかった」などと主張するのは「犠牲者」への冒涜である。「犠牲者」への冒涜は神への冒涜に等しく、決して許されるものではない。

 日本において顕著にみられる「犠牲者への贖罪」という構図は、心理学的にも、社会・人類学的にもきわめて重要なキーポイントである。>

「本当は恐ろしい『平和』と『人権』というファシズム」(佐藤貴彦 夏目書房 一九九九年刊)p八四〜八五

<「犠牲者」への謝罪には際限がない 

 もしも自虐派の贖罪行動がナルシスト特有の内なる罪悪感に基づくものであるとするなら、その「謝罪したい」という欲求には際限がない。しかも彼らは(じつに卑劣な事に!)それを自身の罪としては引き受けず、母国日本の罪として謝罪したがる。つまり内なる贖罪衝動を満足させるために、なるべく沢山の「日本が悪いことをした事実」を発掘しようとするのである。

 それでは一方、朝鮮・中国など、かっての非侵略国といわれる国々の立場からすれば、どうだろうか。

 まず第一に、「犠牲者」であることは、相手国に「負い目を負わせる」という外交上の優位を与える貴重なカードであるから、彼らがこのカードを手放すことはない。少なくとも単純な補償問題には帰せられない。そしてさらには、彼らにとって「犠牲者である」ということは、そのこと自体に大きな意義があるのである。「犠牲者」であることは、それ自体が特別に尊い地位である。ゆえに「日本は悪くなかった」などという言説は、それが事実実証的に論ぜられる以前に、彼らの「犠牲者」としての名誉を痛く傷つけてしまう。彼らはこの名誉を決して手放さないのである。

 いかに謝罪しようとも、如何に補償しようとも、この問題が決着することは永久にあり得ない。>

「本当は恐ろしい『平和』と『人権』というファシズム」(佐藤貴彦 夏目書房 一九九九年刊)(p八八〜八九)

 わざわざ売春婦を見つけてきて、ウソの証言をさせて喜んでいるようなアホは死ななければ治らないようです。

 ジョバンナさん、フィリッポさんご夫妻、江上さん、中島さん来店。アンコウ鍋でドンチャン。今日も、帰りは監督自ら運転して迎えに来ていた。いくら武道系といえど、相変わらずすごい師弟関係。WBC観戦帰りということで、塩月さん二名様で来店。銭湯帰りでマロさん来店。

 ドンチャン。記憶あやふや。サル



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