このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

回天 

和田稔中尉

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


渡辺恒雄、歴史家保阪正康、佐高信の嘘

平成22年2月2日火曜日雪のち晴れ △

 内田雅敏という弁護士を職業としている御仁がいる。

 渡辺恒雄という大新聞社主筆という御仁がいる。

 保坂正康という歴史家を名乗る御仁がいる。

 佐高信という経済評論家を名乗る御仁がいる。

 <どんなものでも利用出来るものなら利用する左派の論客は、柄のないところへ柄をすげる>と山本夏彦氏が「『豆朝日新聞』始末」(文藝春秋 平成四年刊)に書いている言葉であるが、この四人のみなさんもご多分に漏れず、自分のイデオロギーのためには平気で嘘を連ねる。

 著書に「海軍兵学校、陸軍士官学校出の職業軍人には特攻をさせず、もっぱら学徒・少年兵らを次々と特攻出撃させました」(「靖国問題Q&A」内田雅敏 スペース伽耶 平成二十年刊 P十二)と嘘を書く内田氏がその自分の著書に引用しているのは、同じ色のその渡辺氏と保坂氏の言葉です。

<渡辺

 日本軍の残虐性を象徴的に示しているのは、特攻だと思います。みんな志願して特攻にのぞんだと言われていますが、上官に命令されたんですよ。上官は天皇の命令であり、志願しないとぶん殴られるから出撃する。だけど怖くて途中で帰ってきちゃう人もいた。三度帰ってきて、ひどい目にあったという特攻兵だっているんです。人間魚雷・回天にいたっては出撃すると外には出られませんでしたからね。

保坂

 回天という特攻兵器は、見ただけで涙がでますよね。本当にひどい。この特攻兵器の搭乗員として訓練中に亡くなった学徒兵(東大生)は、機器が故障し、海中で一時間程閉じ込められたままで亡くなっています。私は、この学徒兵がその間何を考えていたかと考えるのですが、自らの生まれた時代の残酷さに強い怒りを持ったと思うのです。

渡辺

 ねえ、あんな残酷なことを二十世紀に、天皇の名においてやったんですから、こういうことをはっきりさせなきゃいかんですよ。>

「論座」平成十八年十一月号 私は「靖国問題Q&A」(内田雅敏 スペース伽耶 平成二十年刊)より引用P二十四〜二十五

 

そして、もうひとり佐高信氏は「遺言と弔辞」として

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/satakamakoto.html

< 遺書と言えば、『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)に象徴される戦没学徒兵の手紙が真っ先に挙げられるが、検閲制度の下で、彼らの声がそのまま伝えられたわけではない。>

そして、佐高氏は検問制度の下での「重く悲痛な自己欺瞞」として

 <東大法学部在学中に学徒出陣で召集され、人間魚雷「回天」に乗って事故死したと公報が届いた和田は当時二十三歳。妹に次のような遺書をのこしている。

 

〈若菜、私は今、私の青春の真昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に開くことがなかった。とはいえ、私は、私の根底からの叫喚によって、きっと一つのより透明な、より美しい大華を、大空に咲きこぼれさすことが出来るだろう。

 私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。〉

 

 まさに、安田の言う如く、「重く悲痛な自己偽瞞」の遺書である。しかし、それを誰が強いたのか。>

このように書く。

 いずれのカスどもも嘘を平気で書いている。

 今日はメチャヒマ。二月早々にオチャピーかと思った。

 インドに赴任しているカトリーヌさんが、休暇ということで顔を見せてくださった。

 Wさんお二人で来店。

 飲む。でも今日は記憶あり。


渡辺恒雄、保阪正康、佐高信の嘘その2

2月9日火曜日晴れ △

 自分が腐れだから、他人も腐れに違いないと思っているアホ。

 自分がヘタレだから、他人もヘタレに違いないと思っているバカ。

 渡邉恒男氏などその典型です。

<みんな志願して特攻にのぞんだと言われていますが、上官に命令されたんですよ。上官は天皇の命令であり、志願しないとぶん殴られるから出撃する。>

と自分の尺度で他人を見る。

 ぶん殴られ怖いから志願したというアホな考え方しかできないアホです。

 回天搭乗員の場合

< 回天搭乗員の場合、予備学生と予科練は志願制とし、兵学校と機関学校出身者は潜水学校普通科学生の教程を終えたものなどのなかから任命された。

 予備学生は兵科四期採用の場合、海兵団で基礎訓練をうけたあと、横須賀の対潜学校、航海学校、長崎県川棚の水雷学校臨時魚雷艇訓練所の三校にふりわけられていた。その各校から回天要員が募集された。

 予備学生(兵科四期)の募集要領は、防衛庁戦史部の書庫内に保管されてある軍事養成関係綴りの人事局第三課調製のなかに綴じられている。

 元大佐末国正雄がみつけた。

 選抜要領として、「志願者から選抜する」「気力攻撃精神に旺盛なる者」「理解力判断力及び決断力に秀でたる者」「後願の憂いなき者」と、明記されている。

別紙の説明には、「右特殊兵器は挺身肉薄一撃必殺を期するものにして、その性能上特に危険を伴う」とある。

 この募集要綱が発布されたのは八月三十一日付(注 昭和十九年)で、海軍大臣(米内光政大将)次官(井上成美中将)軍令部総長(及川古志郎大将)らの捺印がある。

 四期予備学生で航海学校在学中に志願した藤沢善郎は、同期で病気のため少尉任官が遅れた山崎喜暉に平成五年(一九九三年)、当時を回願して、「非常に大事な事は、志願はあくまで自主的に行われたことです」と、書き送り、志願の名を借りた暗黙の強制であったとする一部の批判をしりぞけている。>

「『回天』その青春群像」P百八十五〜百八十六

<「軍部に強制されて」「人間魚雷の操縦席に、無理やり押し込まれる」、ひどいのになると「殴りつけて特攻をやらせた」と書く者がいるが、そのような性格の兵器では毛頭ない。

 そんなことで操縦できる回天ではないし、まして命中できる筈がないではないか。回天は搭乗員が「自分自身」で乗込み、自分の意志で突撃するものである>

「回天の群像」p百七

 と小灘利春氏も言っているが無理矢理乗せて操縦出来るものではない。

 和田稔中尉の昭和十九年十二月十八日日記にも途中、搭乗員不適格として帰される隊員の事が

<四期が三名くびになった。>

「わだつみのこえ消える事なく」p二百三十五

と書かれている。

 「「回天とほかの特攻隊は、基本的に性格が違う。航空特攻は、飛行機乗りとして訓練を受けていた者が特攻隊員になったが、回天の搭乗員は死ぬために一から訓練を受けた。

 与えられた出撃のチャンスを十分に生かすには、回天を自分の手足のように操れるようにならなければいけなかった。だから、死に物狂いで訓練した」

(全国回天会会長 河崎春美 甲種飛行予科練習生(甲飛)十三期)

「あの時代、我々が命を捧げなければ、日本の国民も国土も守れないと思っていました。

このままいけばこの国は滅亡せざるを得ない。 それを防ぐために自分の命が少しでも役に立つならば、喜んでいぬべきであるという意識になっていました。

 そういう切迫した時に絶対に命を捨てる以外にない回天搭乗員を命じられたことは、むしろ喜びだった」

「『軍部に強制されて』「人間魚雷の操縦席に、無理やり押し込まれる」、ひどいのになると『殴りつけて特攻をやらせた』と書く者がいるが、そのような性格の兵器では毛頭ない。

 そんなことで操縦できる回天ではないし、まして命中できる筈がないではないか。回天は搭乗員が『自分自身』で乗込み、自分の意志で突撃するものである」

(元八丈島第二回天隊隊長 小灘利春 海軍兵学校七十二期)

「あちこち空襲を受け、子供たちまで焼き殺されている。出撃した仲間はみんな戦死している。そうした時に逃げていられますか。絶対に食い止めなければいけない。そのためには絶対に敵艦に命中させなければいけないと、そればかりを考えて訓練していた。死ぬのが当たり前のことだと思っていたから、死に対する恐怖はなかった。

 ただ、同じ死ぬのだから、絶対に敵艦に命中させないといけないと、一艦沈めれば、敵三千人が宙に舞うと、ただ、それだけをいつも考えていた」

( 吉留文夫 甲種飛行予科練習生十三期 昭和二十年五月五日、七月二十日出撃 回天不都合により帰還)

「当時、馬島小学校には百八十人ほどの生徒がいましたが、出撃の時はみんなで校庭からこっそり見送りました。彼らは生神様と呼ばれていたんです。

 現代の感覚で、彼らをかわいそうという人がいるけど。隊員の気持ちを理解するには、当時の時代背景や価値観、当時の目線で見ないと分からないと思います。十八歳や十九歳の若者でも、わずかな犠牲で多くの日本人を救うという自負があった。だから、小学生の私でも彼らをうらやましいと思う気持ちを強く持っていました。」

(周南市回天記念館勤務 安達辰幸)

「回天の群像」(宮本雅史 角川学芸出版 平成二十年刊)P二八、P一〇六〜一〇八

以前に書いた事があるが、福島みずほ女史のホームページで下記のような事が書かれていた。 http://www.geocities.jp/gender_law/eiga/eiga111606.html

 <そのとき渡辺さんは、戦争の悲惨さを存分に語り、「回天(人間魚雷のこと)には内側から鍵はかけられず、外側からしか鍵はかけられなかった。内側からはあけることもできなかったのだ」と怒っていらした。そのことが頭にこびりついている。内側からはもはやあけることはできないのだ。

 弾のなかに人間がはいり、大きな弾丸となって飛んでいく。戦争で人が死ぬことはありうることだけれど、人間魚雷や特攻隊では必ずその人間は死ぬのである。

 この人間魚雷やそして特攻隊を発明した人間は、わたしの記憶では裁かれていない。>

 先祖帰りで真っ赤になった渡辺恒雄氏と元々真っ赤な福島みずほ女史らしい文章である。

 この文章が如何にデタラメか。上の四人の言葉がよく現している。

 また、回天の上下二カ所のハッチのハンドルは、内側にだけついており、外側にはない。だから、回天の訓練中の事故で、ハッチから乗組員が脱出した例もある。

 (外部から開けるにはレンチなど工具が必要)

 ましてや、 <この人間魚雷やそして特攻隊を発明した人間は、わたしの記憶では裁かれていない。> と、平気でこのような事を書けるこの福島という人間の程度がよく分かる。

 黒木、仁科の両氏の生涯をこの人はどう思っているのであろう。

 佐久間勉大尉にも劣らない黒木博司少佐の殉職の姿をどう思っているのであろう。

 自ら最初の回天特攻隊である菊水隊の一員として、黒木少佐の遺骨を抱いて出撃しウルシーで散華された仁科関夫少佐の姿をどう思っているのであろう。

 <回天とは真っ暗な道をヘッドライトを点けずに車を運転するようなもので、電動操舵機の起動スイッチを入れ発進準備が整うまで、十九もの動作があり、この動作を正確に、順序通りに行なわないと、発進しないばかりか、途中で酸素爆発をおこすなど、訓練そのものが常に事故と隣り合わせであった。

 潜航中は、陸上で覚えた航行海域の状況を思い出しながら、ストップウォッチだけを頼りに、速度と航行時間から自分のいる場所を特定し、地図に記入しながら進む。

 潜航中に空気を消費すればその分、艇は軽くなり浮力を増す。そのため、常に艇の平衡を保たねばならない。前頭部が下がりすぎると船尾があがり、スクリューで水をかき上げてしまい、大きな泡があがるため、敵艦に見つかり易くなる。搭乗員は、勘だけを頼りに前部と後部のタンクに海水を入れるように調整した。

 回天搭乗員は、一人で航海長や機関長、信号員の役目をこなす、とにかく経験を積むほかはなかった。

「訓練で死ぬ事があるので、訓練に出るたびに戦友らに挨拶してまわった」

石黒壮三元海軍一等飛行兵曹(甲飛十三期)

 このように未完成の兵器による厳しい訓練のために、昭和十九年九月から昭和二十年八月までに、考案者の黒木博司大佐q(殉職後少佐)をはじめ十五名もの殉職者を出している。

 「回天の群像」p百四〜百六を抜粋

 このように強固な意志と兼ね備えた素質を持つ者が訓練を重ねて回天搭乗員となるのであって、無理矢理乗せる事などできないのである。その事を理解出来ないし、理解しようともしないアホウども。

 

 

 今日、築地で仕入れた山葵。

 デカイ。

 でも、グラムあたりにすると割安。

 長谷川酒店さんに注文の電話。

 

 ホロン部員Yさん来店。二名様来店。

 早い時間からドンチャン。

 今日は記憶あり。


和田稔中尉と回天

保阪正康の嘘

2月25日木曜日晴れ △

東大卒の回天乗組員でお亡くなりになられたのは、

 宇都宮秀一大尉(石川県出身 予備学生三期 大津島より菊水隊にて昭和十九年十一月八日出撃 昭和十九年十一月二十日パラオ コッツルにて戦死)

 亥角泰彦大尉(京都府出身 予備学生四期 昭和二十年四月三日出撃 昭和二十年四月十四日戦死)

 和田稔中尉(静岡県 予備学生四期 昭和二十年七月二十五日光基地にて訓練中殉死)の三名。

 保坂氏が書く訓練中の殉死は和田稔中尉である。

 保坂氏は歴史家を名乗り、「回天」について述べながら回天というものがどういう構造で、どのような性能を持ったものかということさへ調べていない。というか、知らない。知ろうとしない。

 だから、「この特攻兵器の搭乗員として訓練中に亡くなった学徒兵(東大生)は、機器が故障し、海中で一時間程閉じ込められたままで亡くなっています。私は、この学徒兵がその間何を考えていたかと考えるのですが、自らの生まれた時代の残酷さに強い怒りを持ったと思うのです。」などという戯けた事を平気で言うことができる。

 回天とはどのような性能を有した兵器であったか。

実戦に使用された一型は我が国が誇る九三式酸素魚雷を基にして製造されたもので、

長さ十四・七五メートル、直径一メートル、総重量八・三トン、頭部炸薬量一・五五トン。

 航続距離

 三十ノットで二十三キロ、

 十二ノットで七十八キロ(十二ノットで約二時間十五分)

という性能を持つ。

 

 終戦後、マッカーサー司令部のサザーランド参謀長は、日本軍の軍使に対し、「回天を積んだ潜水艦は太平洋に後何隻残っているか」と真っ先に尋ね、「十隻程いる」と聞き、「それは大変だ。一刻も早く戦闘を停止してもらわなければ」と顔色を変えたという。

 別の米軍士官は、「日本軍で怖いのは回天だけだった」と語った程、いつ攻撃してくるかわからない、近くにいるのかいないのかわからない「海中の見えない脅威、回天」が恐れられていたのは、発射されてから二時間も目標を探し、八十キロ近くもの航続距離をもち、そして、炸薬量が一トン半もあるので一発で巨艦も撃沈できる兵器だからである。

 「予定通り回天が千機あったら、」と生き残られた搭乗員の方々の言葉の意味がここにある。

 

 殉死された黒木博司少佐、樋口孝少佐のお二人が十二時間生存していたことからわかる様に、十時間以上活動出来る酸素が艇内にある。

 保坂氏が回天という兵器についての性能も作戦も知らないだけでなく、和田中尉の遺稿すらよく読んでいなかったのではないか。

 和田稔中尉は光基地より回天戦に出撃した伊三六三潜の中で日記に下記の様に書いている。

<五月二十九日

 回天は、人一人が動かすものにあらず。神国三千年来の精気ここにこもれる楠氏、湊川神社の新符が、七生報国の頭上にありて、人を操り給うものなり。

最悪の事態を予想するも、仮初にも軽率の行動を慎むべきなり。

 残気三十に至らバ、三十三Kによる突撃不可能なり。思い切りよく浮上停止すべし。隠忍、呼吸続かんかぎり敵を待ち、敵三百米に近づくに及びて再発動、冷走にてそれに迫れ。敵回避して、追躡不可能と見れば、直ちに自爆す。現在の炸薬量なれば、百米付近にて自爆せば、敵に相当の被害を与えん事必定なるべし。

 このためにも、応急食糧は少なくとも二コ。更に潜水艦よりサイダー等の飲料水数本を搭載しおくこと必要なり。

 なお、かかる際にも絶対に、潜水艦よりの救助のごときは念ずべからざる事、言うまでもなし。>

「わだつみのこえ消えることなく」P二百六十九

 特攻隊員として回天搭乗員に応募する前の航海学校時代に書いた昭和十九年七月二十二日の日記には回天について下記のように書き残している。

 「人間魚雷の考え方について

 現在ではこのような兵器によるほかは、打開の途はあり得ないのではないか、航空機の消耗率は敵に与える損害に比しあまりにも大であるし、艦艇の接敵は、敵の電探下、ほとんど隠密行動不可能であり、魚雷艇また劣速、惰弱に過ぎるであろう。

 私はこうして、もし人間魚雷というものが日本にも現れ、また現に採用されつつあるとすれば、それに搭乗するのは、私たちをおいてほかにないであろうということを、不思議にてきぱきと、そして落ち着き払って考えてみるのである。」

「わだつみのこえ消えることなく」P百九十二

昭和十九年十月十八日に特攻隊を志願した日の事も残されている。

<十月十八日

 余死し、旦(木下注 弟)死したる後は、もし豊子に二子あらば、家を続けさせられきこと、美保子、若菜(ともに妹)にても可。

 本日昼休み、道場に窓ガラスを全部閉めきって総員集合あり。隊長の訓辞。

 午後の砲術学校での機銃繰法は、すっかりぼんやりと過ごしてしまう。

 しかしまた何と落ち着いてしまったことか。

 分隊長は「思い残す事は無いか」と言われた。「一時の感情や興奮ではないか」と言われ、そして「静かに死ねるか」と問われた。そして「よし許可する」と言われた。たしかに、今さっきまで、どきついていた心の群が落ちこんでしまっているのを感じている。 

 お母さん、お許しください。私は、家の人々のなげきを考える。けれども、これほど私は重大に思えるくせに、何でもないことはないのだ。

 お母さんの子が、一度戦争に出て、そしてそこに、敵撃滅の大きな鍵を、私の小さな命であがなえると知った時、やっおありその時は、私だってお母さんの子としてよりも、祖国の子としての自分を願みるようになるのです。

 でも、私は、きっと私がお父さんの子であり、お母さんの子供だったことを叫んで死んでゆけることと思います。(この日特攻隊を志願する)。

 私は武田を思う。あいつは私の表情を夕食の時から見やぶっていた。何のてらいもない武田の顔が私にはまぶしい。>

 

 

<十月十九日

 田辺も今朝志願したことを知る。

 だから、私はまじめなことを日記みたいなものに書くのは嫌だと言うのだ。

 私はとうとう選にもれてしまった。理由は、家に男子が少ないし、長男だからというのらしい。

 私の班の呉石も前田もみんなたくさんの男の子供の次男坊、三男坊である。だから武田も入ってしまっていた。まだ、第一次の選であるにしても、彼が行ってしまうだろうことは、たまらなく寂しい。>

<十月二十日

 朝、二度願い出て、ついに許された。夜、区隊長、分隊長訓辞あり。

 分隊長が声を出して泣かれる。>

「わだつみのこえ消えることなく」P二百十六〜二百十八

 

和田中尉は昭和二十年五月二十八日、伊三百六十三潜にて出撃も、回天戦の機会なく六月二十日帰投命令。

 昭和二十年七月三十一日に再び出撃が決まり、七月二十五日水中からの潜水艦よりの発射訓練中に殉職された。

 訓練中の殉職であり無念であったであろうが、その時の国を思う気持ちに対し、後世の人間がとやかくいうべきことではない。

 

 

 

 今日は二十五日で世間ではお給料日のところが多いと思うが・・・・

当店はヒマ。

 マロさん来店。「義侠 妙」ガンガン。

 Mさん来店。

 飲むが、今日は記憶あり。


和田稔中尉についての佐高信の嘘

2月26日金曜日雨 × ×

 佐高信氏は「遺言と弔辞」http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/satakamakoto.html

にて、

検問制度の下での「重く悲痛な自己欺瞞」として

 <東大法学部在学中に学徒出陣で召集され、人間魚雷「回天」に乗って事故死したと公報が届いた和田は当時二十三歳。妹に次のような遺書をのこしている。

 

〈若菜、私は今、私の青春の真昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に開くことがなかった。とはいえ、私は、私の根底からの叫喚によって、きっと一つのより透明な、より美しい大華を、大空に咲きこぼれさすことが出来るだろう。

 私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。〉

 

 まさに、安田の言う如く、「重く悲痛な自己偽瞞」の遺書である。しかし、それを誰が強いたのか。>

 このように書くが、和田中尉の日記が書かれたノートは検問を一切受けていない。

 和田稔中尉が残した「戦いの草稿」と題された四冊のノートのうち殉職後艇内より発見された最後のノート以外は油紙に包んで弁当箱に入れて面会の時に家族に渡していたものであるから検閲の受けようがない。

 ましてや、佐高氏が遺書として引用している和田中尉の文書は、「慰留のノート 弟妹のために」と題されたもの中に書かれていたもので、昭和十八年十二月十日の大竹海兵団入隊前、昭和十八年九月三十日より十二月六日に書かれたもの一部である。つまり書かれたのは入隊前であり、検問など受けようが無い文書であって、誰にも強いられないものである。

 それを佐高氏は

<「重く悲痛な自己偽瞞」の遺書である。しかし、それを誰が強いたのか。>

と嘘を平気で書く。

 和田中尉が弟妹のためにと書かれた遺留のノートには佐高氏も引用している「私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。」という有名な一文がある。

 しかし、どういうわけかこの文章の後に書かれている「祖国は私達にとって最後のよりどころである」という言葉があまり引用される事はない。

 それは、この手の方達は自分の都合の良い部分だけを引用し、都合のよい様に解釈するためである。

 この日の日記には下記のように書かれている。

以下引用

< 十月三日(木下注 昭和十八年)

 昨日、兵役の細目が発表された。

 若菜、私は今、私の青春の真昼前を私の国に捧げる。私の望んだ花は、ついに地上に開くことがなかった。とはいえ、私は、私の根底からの叫喚によって、きっと一つのより透明な、より美しい大華を、大空に咲きこぼれさすことが出来るだろう。

 私の柩の前に唱えられるものは、私の青春の挽歌ではなく、私の青春への頌歌であってほしい。

 私は今、おちついている。予想していた時よりもはるかに楽な、空白な気分でいる。虫の音と風の音とが、交替に聞こえる。全く新しい精神の設計が、私を一時混乱せしめていた。御手本はたくさんあり、私の手習草紙は設計図で一杯に塗りつぶされていた。

 しかし、私は静かに座っている。

 外から叩いても叩いても起こし切れなかった根深い覚悟が、いつのまにか私の胸に、ゆったりと腰かかけているのを感ずる。虚栄的な感激もなくはない。しかし私は、何とおろかなことかとそれを嘲笑することが出来るのだ。

 祖国は私達にとって最後のよりどころである。火星とでも戦いが起らない限り、世界は観念の中にだけしか生存し得ない。今まで私は、戦いを通してその祖国の外側を廻っていた。私はこれから戦いを通じて、私の祖国に手をふれることが出来る。私は戦いによって、私の考え得る最高絶対のものの内奥をまさぐることが出来る。>

 私は引用される事のない和田稔中尉の残された

 <祖国は私達にとって最後のよりどころである。火星とでも戦いが起らない限り、世界は観念の中にだけしか生存し得ない。今まで私は、戦いを通してその祖国の外側を廻っていた。私はこれから戦いを通じて、私の祖国に手をふれることが出来る。私は戦いによって、私の考え得る最高絶対のものの内奥をまさぐることが出来る。>

 この言葉こそ今の我が国にとって必要なものではないかと思います。

 

 

 Sさん二名様で来店。Tさん監督をしている空手部の四回生の卒業祝いということで、八名様で来店。

 初めてのお客Kさん二名様で来店。

 Nさん二名様で来店。Tさん来店。Kくん三名様で来店。

 Oさん二名様で来店。

 今日は忙しく、ドンチャンが遅くなった。

 でも、やっぱりドンチャン。さるサルSARU申猿


「回天」三冊の本

1月16日火曜日曇りのち一時雪 寒い

 ここしばらく、回天関係の本を読んでいる。

 今回は「特攻最後の証言」に掲載されていた前・全国回天会会長であった小灘利春氏の文書にでてきた「『回天』その青春群像」、「回天特攻学徒隊員の記録」「人間魚雷 特攻兵器『回天』と若人たち」の三冊。

 この三冊について、それぞれ小灘氏は、「『回天』その青春群像」は上原光晴氏の著書で比較的まともと書かれていた本。

 「回天特攻学徒隊員の記録」は前大洋ホエールズ社長であった武田五郎氏の著書で、小灘氏には「恨み言は覚えていても他の記憶は一切無いようです。この本のどの部分が嘘であるかリストもあります」と書かれている本です。

 「人間魚雷 特攻兵器『回天』と若人たち」は第六艦隊潜水部隊で回天作戦を担当した水雷参謀であった鳥巣建之助氏の著書ですが、

小灘氏は著書の中では実名こそ挙げてはいないが、鳥巣氏について、

<兵器を知らず、戦略眼もない>

<自分の責任や失敗には一切触れていない>

<無責任で態度も傲慢な男です>

<かっての部下の前でも「どんな兵器か見た事もない」と言ったもので、その場にいた者が怒りまして、靖國神社にある回天にこの参謀を押し込んで上からハッチをバタンと閉めたそうです。ハッチをロックできるわけではないですが、しばらくそのままにしておいたと言ってました>とボロクソに書いている。

 この鳥巣氏については武田氏も著書で、当時の防衛庁技術研究所にある鳥巣参謀が提出した回天搭乗員についての書類でイ五三潜で出撃した久家稔少尉、イ四八潜の塚本太郎少尉の階級が、「予備学生」のままになっている事を指摘し、単なる不注意やミスで済ます事が出来ないとして、<回天で戦死した仲間については、戦争中は二階級特進であるとか、聯合艦隊布告でその殊勲を讃えたりしていたのだ。いくら戦後に提出したものとはいえ、死者の階級を間違えるとは。>

と書き、また、イ三七〇潜の出撃日についても間違っているとして、

<第六艦隊の回天作戦担当参謀、鳥巣建之助中佐はその立場上からも、回天搭載の潜水艦の出撃にはすべて立ち会っている。その彼が書いた本には「伊三六八、伊三七〇潜はその日(二月二十日)午前と午後、それぞれ大津島と光から出撃していった」とある。

 また鳥巣中佐が編集代表者として、主導権をとって作成した回天刊行会編の「回天」という本の中でも、イ三七〇潜の出撃は二月二十日となっている。私達搭乗員出身者としては、他の本よりもこの本の方が信憑性が高いと思っていたのであるが。

 略)

 神津が鳥巣元参謀に「貴方の本の中に書かれている関の戦死した日付はおかしいのではないか」と問い合わせたら「まだ潜水艦に関する真相は明確ではない者が多分にあります。更にご研究のほど願います」という返事がきたそうである。

 少なくとも間違いを指摘されたら、みずから調べてみるのが元参謀としての義務ではないか。それが亡くなられた方への弔いであろうに。彼には当時の乗組員(彼が参謀であった第六艦隊の直接の部下である)に訪ねてみようという意志すらなかったようだ。>p百十〜百十二

と書いています。

 小灘利春氏から、回天の特性を理解せず出撃時間をまだ暗い時間にし、命中率を下げた事、出撃時の記念写真のみで後は大津島では見た事も名前も聞いた事が無いといわれ、本人も「どんな兵器か見た事もない」と戦後に元回天搭乗員に向って言いはなち、回天の中に閉じこめられるという醜態を見せた鳥巣氏ですが、ご自身の著書では大活躍しています。

 鳥巣氏の著書「人間魚雷 特攻兵器回天と若人たち」には下記のような記述がある。

<もし、このような作戦が、半年早く、せめて四ヶ月早く、伊三十六潜、伊四四潜、伊四十七潜、伊四八潜、伊五三潜、伊五十八潜などの精鋭潜水艦で一挙に実施されていたならばと痛切に思われるのであるが、もちろん、死児の齢を数えるようなものである>

あとがきとして

<ところで、私の前著「人間魚雷 回天と若人たち」が新潮社から発刊されたのは昭和三十五年五月であったが、その後も私は潜水艦戦や回天の事を研究し続け、回天関係の集大成「回天」や「日本海軍潜水艦史」などを編纂、刊行を手がけて来た。この間、本文に引用したようなアメリカ側の資料を含め、多くの新史実を知る事が出来た。そこで旧著に数々の追加補正を行い、大幅に改稿して成ったのが本書である。

 本書が完成するまでには、約三十年の歳月を要したわけであるが>

と書いている。

 いずれも厚顔無恥な御仁だけに書ける言葉であろう。

 このような人間が、主導権を握っていた回天刊行会という組織が出した回天関係の集大成という「回天」とはどういったものか。

 昨日の酒が残ったまま河岸に。

 「あれ〜、たまねぎやさんによく似た人が」とか「弟さんですか」とか言われながら仕入れを終える。

 Sくん三名様で来店。転勤される方の送別会ということでドンチャン。

 Kさん来店。

 今日は飲む元気もなく、さっさと寝る。


回天搭乗員の笑顔その2

2月21日日曜日晴れ○ 2月23日一部追記

 店を片付けて、高田馬場で食事をした後に芳林堂さんに寄る。「国家売春命令」「歴史教科書が隠してきたもの」、雑誌などを購入。

 夕方からスポーツセンターに行く。

 スポーツセンターを終えて帰宅前に芳林堂さんと同じビルに新しく出来た瀬戸内料理?の店で食事。

 

 帰宅した後は風呂に入ったあと、眠くなるまで買ってきた本等を読む。

 下記の写真は「人間魚雷 回天」(ザメディアジョン 平成十七年刊)などに掲載されていたものですが、人物名など詳しい事は不明のものもありますが、そのまま掲載させていただきます。

 

伊四十七潜「多々良隊」昭和二十年三月二十九日

柿崎稔中尉、前田肇中尉、古川七郎上飛曹、山口重雄一飛曹は発進の機会が無く、

昭和二十年四月十七日に同じ伊四十七潜にて再び出撃する。

 

伊三十六潜「轟隊」昭和二十年六月十七日

左より横田寛一一飛曹、野村英造一飛曹、柳谷秀正一飛曹、久家稔少尉、園田一郎少尉、池淵信夫中尉

遺骨は訓練中に殉職した入江雷太一飛曹、坂本豊治一飛曹

 

伊四十七潜に搭載した回天の上に太刀、見送りに答える搭乗員 昭和二十年四月十七日

柿崎稔中尉、前田肇中尉、古川七郎上飛曹、山口重雄一飛曹、新海菊雄二飛曹、横田寛二二飛曹

 

伊四十四潜「多々良隊」昭和二十年四月三日

左より亥角泰彦少尉、館脇孝治少尉、菅原彦五二飛曹、西山兵曹(整備員)

土井秀夫中尉

 

昭和二十年五月二十八日 伊三百六十三潜 轟隊

久保吉輝一飛曹 石橋輝好一飛曹 上山春平中尉 

和田稔少尉 西沢(小林)重幸一飛曹

 

 


 

回天搭乗員と笑顔

2月10日水曜日曇りのち小雨 ×××××

 回天の大津島基地に、どこからともなく子犬がやってきて、「回天」と名付けられ搭乗員からかわいがられた。

 大津島基地の指揮官であった板倉光馬少佐もこの回天を胸に抱き、よく歩き回っていた。

 光基地にも子犬がおり、やはり「回天」と呼ばれ、皆に大事にされていた

 ウサギも飼われていて、搭乗員にかわいがられていた。

 

 特攻隊員として苦悩したであろうが、先人のこの笑顔もまた事実である。

 最前列左から河合不死男(第一回天隊 沖縄)、近江(山地)誠(先任将校 二十三突)、 帖佐裕(第三回天隊)、吉健太郎(菊水隊 伊三十六潜、金剛隊 伊四十八潜)、 小灘利春(第二回天隊)

 第二列左より 橋口寛(神州隊伊三十六潜出撃直前終戦、自決)、川久保輝夫(金剛隊 伊四十七潜)、 久住宏(金剛隊 伊五十三潜)、 加賀谷武(金剛隊 伊三十六潜)、石川誠三(金剛隊 伊五十八潜)、 都所静世(金剛隊伊三十六潜)、 豊住和寿(菊水隊 伊三十六潜、金剛隊 伊四十八潜) 、本井文哉(金剛隊 伊三十六潜)

 第三列左より 森稔(金剛隊 伊五十八潜)、三枝直(金剛隊 伊五十八潜)、村松実(金剛隊 伊四十七潜)、佐藤勝美(金剛隊 伊四十七潜)、有森文吉(金剛隊 伊五三潜)、伊東修(金剛隊 伊五三潜)、原敦郎(金剛隊 伊四十七潜)、不明

 最後列左より 山口重雄(天武隊 伊四十七潜)、井芹勝見(金剛隊 伊四八潜)、古川七郎(金剛隊 天武隊 伊四十七潜)、不明、不明、園田一郎(神武隊 伊五十八潜)

 

 Cさん二名様で来店。Tさん三名様で来店。アンコウ鍋でドンチャン。一名様来店。日本語が堪能な外国の方。Mさん二名様で来店。

 Wさん二名様で来店。

 営業終了後、Tさんたちと「アンブラ」さんにて合流。

 ドンチャン。

 記憶まったくなし。さるサル猿申SARU

 テーブルの上にいろいろと買って来たものが置いてあるので、コンビニに寄ったらしいのだが、記憶なし。


 


表紙にもどる

URAホームページ