インドネシア残留元日本兵

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


 

平成21年2月23日月曜日くもりのち小雨 ○

 「母と子でみる 戦争とインドネシア残留日本兵」(長洋弘 草の根出版会 1997年刊)を読む。

 著者である長洋弘氏の「帰らなかった日本兵」(朝日新聞社 1996年)は以前に私も読んだことがあり、このホームページに取り上げさせていただいた事があるが、その本には書かれていなかった事なども多くあり興味深く読ませていただいた。

 「帰らなかった日本兵」における長氏の歴史認識については、私も疑問に思うところがあり、その部分は以前に指摘させていただいた。

 しかし、十二年前に出版された当時でも、戦後五十年以上も過ぎていたのですでに多くの方々が鬼籍に入られていたが、長氏がジャカルタ日本人学校に勤務の一九八二年から八五年の時にはご存命で、お会いして話を伺った多くの元日本兵、そして遺族の証言と写真が掲載されている貴重な一冊には違いありません。

 インドネシア独立に際し、多くの日本兵、軍属などが残り、インドネシアの人びとと戦ったのは事実であり、インドネシア国籍を習得された元日本兵の皆さんのこの功績に対して、インドネシア政府は、月々二〇万ルピー(約一万円)の恩給、独立戦争の英雄として、ゲリラ勲章(ピンタン・ゲリリシャ)受章者には病気の場合には、陸軍病院に無料で入院でき亡くなれば国軍葬にて、各地にある英雄墓地に葬られる。

 四十五年組といわれる独立戦争に参加した者だけがかぶることのできるブルーに金色のかざりのついた側面に「45」という数字がある帽子である。

 写真は、「母と子でみる 戦争とインドネシア残留日本兵」に掲載されている長氏の写した一九八五年二月、激しいスコールの中、独立の英雄としてカリバタ英雄墓地にて執り行われた故出口良夫氏のインドネシア国軍葬。

 

 昭和五十七年(一九八二年)と八年に当時の厚生省が費用を負担して、インドネシア残留日本兵の里帰りが企画されたとき、応募したのは、最初は六人、二回目はわずか四人だった。これについて、自身も残留元日本兵である故乙戸昇氏は上坂冬子氏の著書で下記のように述べている。

<生き残った者としては、やっぱり名もなく死んでいった人にこだわっているのだと思います。平成三年(一九九一年)には日本政府から一時軍人恩給を受け取りました。我々としては金額など問題外で、日本の軍人恩給が支給されたことによって、脱走兵ではなく戦時中に日本が働きかけたインドネシア独立のための職務を果たしたのが認められたと判断して、大喜びでこれを受け取ったのです>

 「南の祖国に生きて」(上坂冬子 文藝春秋 一九九七年)p二九

 乙戸氏が語った、名もなく死んでいった人たちについて、手元にある「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 福祉友の会・200号『月報』抜粋集」(YWP福祉友の会 二〇〇五年刊)に掲載されている名簿にも、苗字しか判らなかったり、「日本名不詳 現地名ウマル」などと日本名が不詳とされる元日本兵も多く含まれている。インドネシア名を名乗りながら戦っていて戦死された方も多いためである。

 その名簿によると、独立戦争参加者は九百三名。

 その内訳は、

戦没者二百四十六名(二十七%)、不明二百八十八名(三十二%)、生存三百二十四名(三十六%)、帰国四十五名(五%)。

(P三百八十二)

  乙戸氏は、一九七九年(昭和五十四年)七月十四日にこの抜粋集を出した「福祉友の会」を発足させ、残留日本兵の相互互助の一環として、体の不自由な者、貧困者のための生活補助金の支給、その子弟への学費援助、残留元日本兵の里帰り、日系二世に対する日本語教育講座の開催、二世への奨学金支給、毎月発行してきた福祉友の会月報などの事業を行ってきた。それらの運営資金はすべて寄付であるため、資金確保のため、乙戸氏は何度も自費で来日し。日本国内も奔走した。

 「帰らなかった日本兵」には、一九九〇年九月に青山会館で開かれたインドネシア独立四十五周年記念祝賀会と日系二世訪日団一行の歓迎会において、率いてきた乙戸氏の事が書かれています。

 <その祝賀会場で「ムルデカ、ムルデカ、ムルデカ」の声が上がった。乙戸は独立戦争後、日本人を前にして初めて晴れがましい気分で「ムルデカ」の三唱を聞いた>p二六〇

<「我々の不安定な身分は、軍人恩給が出た時に初めて、逃亡兵としてでなく、やむなく離隊したのだと認めれると思います。免罪符をいただくような気がするのです。その時こそ、逃亡兵・非国民の汚名が晴れると思うのです。それまで私は死ねません。」>p二六一

 

 インドネシア残留元日本兵二十一名に対して平成三年に支給された一時軍人恩給は下記の通りである。

 元陸軍兵長・本坊高利、元陸軍上等兵・富永定仁、元陸軍一等兵・堀井豊、元陸軍兵長・大塚秀雄の三万五千三百五十円が最も低く、

 元陸軍準尉・故小沢久の八万七千六百円が最も高かった。

 受給は一回限りであり、一人当たりの平均は、わずか四万八千二百八十円である。

 ただ、そのわずかな金額の一時軍人恩給に対し、インドネシア残留元日本兵の皆様が、これで逃亡兵・非国民の汚名は晴れたと喜んだのである。

  我が国の厚生省はこれら残留日本兵の皆様に、もう少し早く報いる方があったと思う。

  今日は、燃えるゴミを出すために外に出たのみ。ず〜と部屋にいた。買ってきてあったインスタント食品もほぼ無くなった。

  やっぱ、デコポンはでかい方が旨い。一回り違うと値段が全然違うが、その値打ちはあるように思う。

 酒は飲まず。

インドネシア残留元日本兵の表彰

 2月25日水曜日くもり ×

 長氏の著書「母と子でみる 戦争とインドネシア残留日本兵」にも、上坂氏の著書「南の祖国に生きて」にも、一九九五年八月二十五日にインドネシア日本大使館において、健在だった残留日本兵の皆さん六十九名に対して、表彰状が手渡された事が書かれている。

 (当日参加された残留元日本兵の方は三十六名。)

 

 <あなたは五十年以上の年月にわたり、日本とインドネシアとの友好親善及び相互理解の促進に寄与されました。

 その功績は顕著なものであると認め、ここに深い敬意を表し表彰いたします。

 平成七年八月十七日  インドネシア駐箚 特命全権大使 渡辺泰三>

 これが表彰状の全文であり、どこにも残留日本兵、独立戦争などという言葉が書かれているわけでもない。

 しかし、八月二十五日に行われた表彰式の日付が八月十七日にされている。この日はインドネシア独立記念日である。この一行に今やインドネシア国籍となった残留日本兵のみなさんに対しての渡辺大使の気配りがみられる。

これについて、上坂氏の著書には残留日本兵のなかで最も成功したひとりといわれている石井正治氏の言葉として、これまでの人生で一番嬉しかったのは、この表彰式だったという事が書かれている。(P四十九)

 

同じく石井氏の言葉として、

 「あの日、何よりも嬉しかったのはインドネシア側の出席者のパパウマル(ウマル元副大統領)が乾杯の音頭をとったあと、わざわざマイクを持ち直して、残留日本兵がいかにインドネシアの独立に協力したかという功績を讃えてくださったことです。予期していなかっただけに我々としては感無量でした」P五十

 残念ながら、長氏、上坂氏のどちらの著書にもこのウマル元副大統領の残留日本兵に対する功績を讃えたスピーチが掲載されていないので具体的な内容は不明です。

 

 この表彰式の十年後、平成十七年九月十六日の産經新聞に、残留日本兵の記録をまとめた「インドネシア独立戦争に参加した『帰らなかった日本兵』、一千名の声 福祉友の会・200号『月報』抜粋集」の発刊にあたり、インドネシアから残留元日本兵の藤山秀雄氏(当時八十二歳)、宮原永治氏(八十三歳)が来日し、残留体験、独立戦争当時の事を涙ながらに語ったという記事が掲載されました。

 その記事には、

 <故スカルノ大統領は独立戦争に参加した残留元日本兵に、インドネシア国籍を与えるとともに「ゲリラ勲章」を贈り厚遇。死亡後も各地の英雄墓地に埋葬される。>という独立の英雄としてのインドネシア政府の扱いとともに、この当時で、九名しかご存命ではないと記事にあります。

 私はこの記事で、「抜粋集」のことを知り、すぐに連絡したが、すでに全国の図書館に配布する分を除き、残っていないとの事でしたが、後に連絡をいただきご好意により分けていただいた事を思い出します。

 朝、四谷税務署に電話して、去年、青色申告の計算が間違っていて、税金が返ってきた原因を聞くと、税率が変わった事を知らなかっただけだった。

 河岸が休みなので、午後からスポーツセンターに行く。近所の高校生連中も大勢来ていた。相変わらず、統率もとれていないアホクラブ。

 私が二頭筋三頭筋のスーパーセットでメニューを消化していた時に、平気でダンベルの可動範囲で自分たちのウエイトを取り替えていたアホ高校生がいたので、つい怒鳴りつけてしまった。いくらアホな頭でも鉄の塊が当たったら大けがするだろうに。

 Kさん、Wさん来店。一名様来店。二名様来店。マロさん来店。Oさん二名様で来店。

ドンチャン。それなりに洗い物が片付いていたし、飯も食っていたが全然、記憶なし。サル・・・・・・・・

 

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