このページは旧ホームページです。新しい「酒たまねぎやホームページ」へ

インドネシア独立宣言と日本人

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成17年2月18日金曜日曇りのちみぞれ 寒〜い
 今日、河岸の帰りに、地下鉄で神谷町駅にいく。神谷町駅より歩いてすぐのところにある青松寺は、文明8年(1476)に太田道灌が現在の平河町あたりの貝塚に雲岡という僧を迎えるため,増上寺の隣に建てたという曹洞宗の寺だそうで、江戸曹洞3ヶ寺の一つということです。
 愛宕グリーンヒルズフォレストタワーとかいうバカでかいビルが2つ建っています。その間に青松寺があり、森ビルによってのこの大きなビル開発で随分とお金が入ったのか、立派なそれでいて全然有り難みの感じられない山門が建っています、その山門をはいって、右の方に歩いていくと、気をつけていないと通り過ぎてしまうようなところにその碑は建てられています。

 その碑とは、昭和33年に建てられたという市来龍夫、吉住留五郎の両氏の名前の刻まれたスカルノインドネシア大統領の直筆の顕彰碑です。


 

 

 

スカルノ大統領の碑文の日本語訳として

市来龍夫君と
吉住留五郎君へ
独立は一民族 の
ものならず
全人類のものなり
1958年8月15日
東京にて スカルノ


 この碑は西嶋茂忠氏の奔走により実現したものです。
碑の裏面には作家の富沢有為男氏がお二人の事を記されています。
碑文(裏)

市来 龍夫君、熊本縣の人、明治三十九年生
吉住留五郎君、山形縣の人、明治四十四年生
両君は共に青春、恋を抱いてジャワに渡航力学 よくイ語の
慈蕾を極め、相次いでインドネシアで現地の新聞記者となる。
爾来インドネシア民族の独立達成を熱望して蘭印政府より投獄
追放の厄に会うも不撓不屈、第二次大戦に乗じて、再びインドネ
シアに渡り、終戦に際して同志を統合、イ軍に投ずるや共に軍参謀、
指揮官となり、激闘、転戦ののち、遂に市来君は一九四九年マラン
・ダンペッドの戦場に、吉住君はそれに先立つこと一年ケデリ州
セゴンの山中に、インドネシア永遠の礎石となって散ず。


 市来氏は1906年(明治39年)熊本県生まれ、1936年からジャカルタの日蘭商業新聞に勤務。

 吉住氏は1911年(明治44年)山形県井岡出身、昭和5年に旧鶴岡中学校を卒業後インドネシアに渡り、日蘭商業新聞で市来と知り合う。戦前より現地で新聞記者として活躍していたお二人を、蘭領東インド政府(オランダの植民地政府)は目障りなために、逮捕、投獄後に日本に追放されました。大東亜戦争が始まり市来氏は陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わった。 吉住氏は、1944年から海軍武官府で民族主義運動工作に従事。我が国の敗戦のちもインドネシアに留まり、独立軍の軍事参謀指揮官として活躍しました。

 吉住氏は一個師団の軍隊を率いてオランダ軍に対して結核で血を吐きながら山中を転戦して戦いましたが、昭和23年7月ゲデリ州セゴンの山中にて力つきて病没。
 市来氏は昭和24年1月マランのサトウキビ畑でオランダ軍と攻防をくり返した時に、頭部を打ち抜かれて戦死。
 インドネシアの独立を夢見て、独立軍にとして戦った我が国の将兵は約2000名といわれています。そのうちの数多くの方々は、インドネシアの独立を見る事なくオランダ軍との戦闘で戦死されました。

 市来、吉住のお二人の御霊も、多くの元日本軍将兵とともに、独立の英雄として、インドネシアの英雄墓地に眠っています。
 

インドネシア独立宣言
われわれインドネシア民族は、
ここにインドネシアの独立を宣言する。
権力の移行、
その他に関する事項は適当、
かつ迅速に処理される
 17・8・05


(有名な話ですが、05とは皇紀2605年のことです)

独立宣言に関わった四人の日本人
前田精海軍少将
吉住留五郎氏新聞記者
三好俊吉郎氏陸軍司令官通訳
西嶋茂忠氏 海軍嘱託

インドネシア側
スカルノ
ハッタス
スバルジョ
その他50人ほどの青年グループが周囲を取り囲む。


 西嶋氏は「独立宣言の中で一番問題になったのは、インドネシアが使った”権力の奪取”という言葉です。敗れたとはいえ日本にとっては聞き捨てならぬ表現ということになります」
といい、最後に”権力の移行”という表現で折り合いがついたときは、日本側もインドネシア側も疲れきっていたという。
日本人の参加が自他ともに明らかになったのは、戦後40年を記念して、BBCが記念番組を製作した時からである。西嶋氏が当時の事をつぶさに述べ、インドネシア側も活字にして報道した。
 多くのインドネシアの人々だけではなく、一部の日本人がどういうわけか隠そうとして、「その時は別室でいた」などといっていますが、日本人の参加という事実は、インドネシアより1948年に帰国していた西嶋氏にあてた初代インドネシア外相のスバルジョよりのつぎの手紙の内容によっても明らかです。
「インドネシア独立宣言の達成に際し、真摯かつ誠実にわれわれを援助してくれた日本の友人がいたことを、私は死ぬまで忘れるものではありません。
しかし、重要な事件の裏に、一般にはしられていない幾つかの事実がかくされているのは、世界史においてよくある話です。
アメリカ合衆国の独立宣言も、トーマス・ジェファーソンが書いたわけではなく『人間の権利』な哲学書をあらわしたトーマス・ペインが書いた事が最近明らかになっています。百五十年たって、事実が明らかになったわけです」

 インドネシアの独立宣言文に日本人が立ち会い、宣言の年号に神武天皇即位を起点とする皇紀が使われたことは間違い無く、インドネシア人民にとっても恥じでも汚点でもない、歴史の流れの中できわめて自然ななりゆきであったと思われる。


「南の祖国に生きて」上坂冬子著より一部引用および抜粋 


 

インドネシア独立記念日

平成20年8月18日月曜日晴れ
 昨日はインドネシア独立記念日でしたが、その独立記念日である八月一七日早朝には、独立運動を指導した、ペタ PETA(祖国防衛義勇軍)出身者の式典が行われる。「愛国の花」「愛国行進曲」「大平洋行進曲」等が、独立戦争の愛唱歌として歌い継がれてきているだけでなく、「ペタ・マーチ」の歌詞の中に下記のように日本という国名が入って入るそうです。
 「祖国防衛義勇軍(ペタ)マーチ」(斉藤守氏訳)
一、アジア すでに敵に向かい 蜂起せり
  己を捨てて 全力を尽くす
  連合国を粉砕せんと
  玉散ることもいとわず
  *進め 進め 義勇軍
   アジアとインドネシアの英雄
   清き東洋に幸あれ

二、古きアジア 不幸に苦しむ
  列(はげ)しき圧制に 幾世紀も忍
  大日本 雄々しく立てり
  アジアを救い 我らを守る
  *繰り返し

三、四番略

 先人の事を辱めることだけに一生懸命にならずに、こういった事も報道することが大切ではないでしょうか。マスコミの皆様が、インドネシアの事を報道する時には、是非とも
倉沢愛子女史、 セクハラで訴えられて、同志社大学と連帯して和解金を払うことになった浅野建一氏の売国奴ぶりについても報道してほしいものです。


 

 



裏表紙

酒たまねぎやホームページ
  
 

 裏表紙