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幾星霜

日記の文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


幾星霜

平成22年5月29日土曜日くもり ×

 幾星霜という言葉がある。「いくせいそう」、改めてネットで調べると、

 

<「星霜」とは、「年月」「歳月」という意味。星は毎年一周し、霜も毎年降りることから、「一年」という意味になり、そこから転じて「としつき」といった意味になり、「幾」は「いくつかの」とか、「数量が多い」といった意味です。この二つを組み合わせ、「何年(何十年、何百年)もの年月」となりました。>

 

とあります。

 

 大学を卒業し、バイトしていた寿司屋さんで卒業後もそのまま働かせていただき、少し金をためて金沢から東京に出てきたのが、昭和五十二年九月。

 渋谷で置き引きにあい、荷物も金も盗られて、所持金三千円弱になり、どうしようかと思いとりあえず山手線に乗りグルグル回っていた。

 途中、少しでも持ち金を増やさなければと高田馬場で降り、電車から看板が見えていた「スズヤ」さんという質屋で、時計を質入れして五千円を借りた。

 以前にも書いたことがあるが、所詮春まで学生をやっていた者がしていた時計だから、たかが知れている。スズヤさんから最初言われた金額が千五百円とか二千円程度だったと思うが、「何かご事情がございますか」と言われて「置き引きにあいまして」と言うと「わかりました」と言って五千円にしてくれたのは本当にありがたかった。

 もちろん、働きだしてすぐに引き取らせていただいた。

 置引きにあった時も、東京に就職している大学の部の先輩に電話をかけて助けてもらうのも何となく嫌で、とりあえず、その日からの屋根と飯を確保しなければいけないので、何をしようかまた山手線に乗り、グルグル回りながら考え、屋根と飯が付いてるからと水商売に入った。

 

 其の後、しばらくしてから、部の先輩から「お前、置引きにあっただろう。アホが。どうしてすぐに連絡してこない」と電話があった。

 場所は忘れたが菓子折りを持って引き取りにいった。

 荷物だけが捨てられており、見つけてくれたおばちゃんが荷物の中にあったアドレス帳から東京近辺の住所を探してくれて、その先輩に連絡がいったようであった。

 

 

 少し金をためてその後、やっぱり外国に行ってみたいとなんの目的も無く昭和五十四年に片道切符で、ロスに渡った。

 一ドル二百五十円の時にコリアンエアラインで片道十万五千円だった。ドルは其の後一ヶ月で二百二十円になってしまったが、為替の変動など考えてもいなかった。

 パサディナではYMCAで偶然知り合ったリチャードソンファミリー(ドイツ系アメリカ人)に大変お世話になり、何日も居候させていただいた。

 其の後もカナダ、メキシコから米国に入国する度に訪ねて泊めていただいた。 

 メキシコのグアダラハラに一番長く滞在していたが、その時にお世話になった長島さん、江上さんとは今でもお世話になり、年に数回はお会いする。

 結局、結局二年弱メキシコ、アメリカ、カナダを放浪。

 途中、持ち金がなくなり、バンクーバーの日本料理店に片っ端から飛び込みで「働かせてください」とお願いし、半年ほどであるお店で働かせていただいた。

 観光ビザだから当然、不法就労である。店のオーナーが気に入ってくれて、観光ビザから就労ビザに切り替えようといろいろとやってくれたが、当時はすでにカナダ国内での就労ビザへの切り替えは出来なくなっていた。

 一度カナダの外に出て、呼び寄せという形でしようと言ってくださったが、当時は少しだけこちらでの滞在費を稼ぐつもりだったので半年だけ働くつもりであったし、そこまでしてバンクーバーで働きたいと思わなかったので、そのままになってしまった。

  其の後、その店でお世話になった板前さんの星さんが独立する時に、わざわざ呼びに来てくれたが、もう「酒いわしや」をやっていたので、お断りすることになった。

 写真はバンクーバーを出発する日に星さんの御自宅で写したもの。抱っこしている赤ん坊はお嬢さんのまどかちゃん。

 星さんと久しぶりに電話で話した時に聞いたら、今はカナダエアラインのCAだそう。

 今はバンクーバー市内では日本料理店の数二百軒以上といわれているが、半分以上がシナ人・朝鮮人の経営する店だそう。

 当時はたしかは十二件ほどしかなかった。すべて日本人の経営だった。

 帰国後、また、水商売に務めた後、紹介された金町にある魚屋さんで一年お世話になった。

 その後、しばらく何もせずにまたメキシコでも行こうかなと思いながらブラブラしていたある日、メキシコ時代にお世話になった長島さんのお宅に遊びに伺った。

 夕食の食材を長島さんと買いに行き柳町の交差点で信号待ちをしている時に、その交差点にある「東栄不動産」という不動産屋さんに貸し物件として出ているのを長島さんが見つけたのが早稲田弁天町の前の店。

 結局、相場からみて安い店舗ではなかったのだが、知らないからすぐに契約。当時、また、メキシコに行くつもりで残してあった金は二〇万ほどだったので、残りは富士銀行のカードローン。金利は十三・五%だったと思う。

 スナックだった五坪の店舗を自分で一ヶ月かけて改造し、なんとか早稲田で「酒いわしや」を開いたのが、昭和六十一年六月十九日。平成八年五月二十五日まで店をやり、お客様の猪野さんの紹介で神楽坂の今の場所に移ってきて「酒たまねぎや」を開いたのが平成八年五月三十日。

 

 早いものです。

 

 

 土曜日やし、ヒマだろうと思ったら、初めてのお客様二名様来店。

 Oさんで二名様来店。飯田橋で今日結婚式を挙げたというお二人来店。みなさんカップル。

 そして、Hさんという女性の方お二人様来店。

 Wさん御夫妻来店。

 ドンチャン。記憶なし。

 サル・・・・・



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