池田正枝という嘘つき女

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成19年1月25日木曜日 晴れ 珍しく飲まず。
 先日下記のような記事が南朝鮮の東亜日報に掲載されました。
以下引用
「『懺悔の年賀状』これからは天国から送ります」 池田政枝さんの一生
「泣き喚きながら娘を探していた親たち、私をじっと見つめていた幼い少女たち、彼らの姿は私の中で大きくなっていく一方です」
日本の富山県富山市在住の澤田純三(78)さんは、毎年、こんな内容が書かれた年賀状の束を受け取ってきた。差出人は日本の植民地時代に韓国で小学校教師として勤めた 池田政枝さんだった。
普通の年賀状と違う点は受取人が書かれていないことだ。名前の代わりに「知り合いに送ってください」という頼みが書かれた手紙が一緒に送られる。澤田さんが日本の強制動員で被害を被った韓国人への補償運動を展開していたため、同氏に発送を頼んだわけだ。
池田さんは毎年、このように知人らを通じて、1000通から1500通の年賀状を発送してきた。できるだけ多くの日本人が自分の告白と懺悔を読んで記憶させるためだった。
敗戦直前、日本の無軌道ぶりがピークに達していた1944年、ソウルの芳山(パンサン)小学校で日本語を教えていた池田さんは「女子生徒をできるだけ多く富山の軍需工場に送れ」という朝鮮総督府の指示を受けた。
日本の「皇国臣民論」に心酔していた池田さんは、他の日本人の教師とともに夜ごと生徒たちの家を訪問した。「日本に行けば、おなかいっぱいご飯も食べられるし、女学校にも通える」と、幼い弟子たちをたぶらかした。当時は、池田さんもそう信じていた。
彼の口車に乗せられた小学生6人は、翌年の3月、他の「勤労挺身隊」の少女100人あまりとともに、ソウル駅で「涙の列車」に乗った。
1945年8月、日本に敗戦した後、はじめて池田さんは自分がしでかしたことがどんな結果を招いたかを知った。彼は弟子らを探しに出た。
6人のうち5人が帰国していることは確認したが、弟子らは「日本であったことは考えたくもない」と言い、彼に会おうともしなかった。
1945年12月にようやく日本に帰った後、「韓国方面の空は見上げることさえできないほど」良心の呵責に苦しんでいた池田さんは、1991年4月になってやっと行方が分から なかった弟子1人の消息を風の便りで知った。彼は富山のあるテレビ局の企画取材班とともに3ヵ月間その弟子を探し歩き、韓国で弟子に会うことができた。心から謝罪する池田さんを弟子は恨まなかった。「先生は幸せですか?」と、静かに聞いただけだった。
真の謝罪の道を教えてくれたのは、数ヵ月後、弟子の娘から送られてきた手紙だった。
「百回謝罪するより、行動するのが重要だ」という内容だった。その時から彼は自分が無邪気な幼い弟子たちに対して犯した罪を広く知らせるのに全力を尽くした。
「挺身隊動員は民間業者がしたことだ」と白を切る日本政府に向かって、池田さんは「戦時に生徒を挺身隊に動員したのは、逆らえない『天皇陛下』の命令だった」と叫んだ。
「罪を犯したまま死ぬわけにはいかない」と決心した池田さんは、自分の半生をつづった
「二つの祖国」という本を出し、いろんな講演や集会で「日本人は植民地時代の朝鮮に有益なことをした」とする一部歴史学者の主張がいかにでたらめなものかを、肉声でまざ まざと証言した。

東亜日報
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2007011325038

 正月早々にこんなアホウな内容の年賀状をもらったらエライ迷惑でしょう。この池田正枝(政枝は間違い)という人はあの職業詐欺師の東史郎、吉田清治などの女性判です。私の手元に「二つのウリナラ」というこの嘘つき女の著書があります。
 明日から著書「二つのウリナラ」(東亜日報が書いている「二つの祖国」などというかっこういい題名ではありません)などからこの女性のウソ、アホウぶりについて書いていきたいと思います。

池田正枝2
1月26日金曜日 晴れ

 まず、この女性の記憶力のよさには驚愕いたします。天才でっせ。いや、まったく。まず、著書に書かれている著者の年齢とその記憶に基づく描写を見て行きたいと思います。
 一九二二年生まれの池田女史がわずか九カ月の時の記憶として
 <この本を出すためにいろいろ思うようになってからのことです。昼間、ぼんやりしていると、民族服を着た初老の男性が牛を引きながらポプラ並木を歩いてくる姿が突然に浮かんでくるようになりました。それも初老の男性の顔がはっきりと出てくるのです。
略)
 少女時代の事です、私があまりにも小さい時の事を覚えていたのを知った父がこう尋ねました。「それじゃ、おまえが九カ月ごろ、古阜の道端で子守りの背中からずり落ちて道端で泣きじゃくっていたことを覚えているかい」と。
 首を横にふると、そのまま会話が途切れてしまったのですが、実は民族服を着た男性とは、道端で泣叫ぶ私を助けてくれた朝鮮人のおじさんであり、ポプラ並木は古阜のものであったと、古阜訪問を終えたいま、その記憶が鮮明に甦ってきました>
p四〜五

 同じく一歳過ぎて間もなく
<昌城での鮮明な記憶にもやはり母が登場します。鴨緑江の河岸に母が立っていた記憶です。川面がキラキラ光っていました。古阜から引越してすぐのころでしたから、一九二三年秋、一歳の誕生日を過ぎて間もない頃だと思います。
 略)
 初めて覚えた言葉は何だったのでしょうか。「母ちゃんピストル上手ね」でした。一日に何回も繰り返していた言葉だったようです。
略)
 「ピストル上手」という言葉にびっくりされるかもしれませんが、私が生まれたのは三・一独立運動から三年後のことです。独立運動への弾圧をみても、本当にひどい圧政でした。
略)
 朝鮮独立を願い、または圧政を逃れた人々は河を渡り中国大陸へ逃れて行きました。しかし、冬は鴨緑江に厚い氷が張ります。そこを渡って、人々は朝鮮へ帰ってきたのです。
 これに対し朝鮮総督府は「川を渡ってくる者は容赦なく撃ち殺せ」と命令を出していたようです。留守を預かる女たちでも不審と見た朝鮮人を撃つために銃を握ったのでした。
 サラリーマンの妻の母もピストルの練習をさせられていました。その練習を見て、私は素晴らしいと思っていたから、そうした言葉が疑いもなく口から出たに違いありません。
 p一六〜二三

 三歳になっていたかどうかの時の記憶として
 ただそのころ心に残ることは、社会主義思想の洗礼を受けた青年の家の表札のことです。
 ある日遊んでいると、いとこの冨美子さんが二階から一つの家を指差しました。「あの家の青年は、苦しんでる人々のためにって、一生懸命なの。勤め先がない人だって」
「ふ〜ん」とうなずくと、私はわざわざその家の表札を眺めに出かけました。
p四一

 四歳の時の記憶
 伯母の知人の言葉として「軍隊が日本人を守ってくれるんだからね。私たちは何も怖いものなんかないさ。何をしてもいいんだよ」こうした言葉が繰り返され、店にいる私の胸に一言ひとこと焼きつけられていきました。
 「日本人の私たちは何をしてもいいんだ」
 「・・・・何をしてもいいんだ」
 この言葉ははっきりと覚えています。
p三九〜四〇

 五〜六歳の時の記憶として
 町に幟がはためいていました。普通選挙実施を知らせる幟でした。伯父は私と富美子さんを連れて南大門尋常小学校に設置された投票所にでかけました。投票所からでてきた伯父はにこやかで、今日の喜びを語ってくれました。
 私にはその意味はわからなかったのですが、伯父の喜びははっきりと伝わりました。
 当時、女性にはその権利がないことなどわかるはずもありませんでした。ただ、伯父の喜ぶ顔だけが焼き付いているのです。
p四一〜四二

 自分が初めて覚えた言葉を覚えている人がいるでしょうか。また、二歳にならない幼児が初めて覚えた言葉が「母ちゃんピストル上手ね」などという難しい言葉でしょうか。「ピストル」というものが幼児に理解できるでしょうか。また、「上手」という単語も理解できるでしょうか。
 三歳になっていたかどうかの幼児が、その時の記憶として社会主義思想の洗礼を受けたという青年という意味を理解し得るでしょうか。ましてや七歳年上の従姉、つまり一〇歳と三歳の会話でそのような話題が出るでしょうか。
 この本でに書かれている内容で何といっても笑えるのが、朝鮮半島で実施された普通選挙についての著者のすばらしい記憶でしょうか。
 著者である池田正枝女史は一九二二年生まれです。その女史が五〜六歳の時の記憶としての選挙の話題ですから、一九二五年の改正選挙法による一九二八年二月二〇日に実施された日本における国会議員の第一回普通選挙の事と思われます。
 たしかに我が国政府は衆議院議員選挙法の改正により朝鮮や台湾の地域住民にも日本本土と同じ参政権が与えられました。
 しかし、それは
一九四五年つまり昭和二〇年四月一日に公布されたものであり、同年の八月に日本は敗戦を迎えることによりこの改正選挙法による総選挙は実施されませんでした。
 池田女史が鮮明に覚えている「はず」の普通選挙は
日本本土だけで実施されたものであり、朝鮮半島その他の海外領土には適用されなかったのです。つまり、朝鮮半島や台湾などにいる日本人は選挙に参加することはできなかったのです。それなのに、池田女史は「町はためく普通選挙実施を知らせる幟」「伯父さんに連れていかれた南大門尋常小学校に設置された投票所」そして「投票所からでてきた伯父さんの喜びを語ってくれたこと、喜ぶ顔」までが焼き付いているという。
これはいったいどういうことでしょう。
 池田正枝女史は
実施されなかった朝鮮半島での選挙を覚えているというのです。なんと想像力豊かな女性なのでしょう。五〜六歳の記憶ですらそうなのです。ましてや二歳にならない時の著者の記憶ってどうなのでしょう。
まるで、膝までぐらいしかない大きさの郵便袋に支那人を詰めて手榴弾をつけて池に放り込んだという東史郎なみ気狂いぶりです。
あほらし。

池田正枝3
1月29日月曜日晴れ ○

 反日活動家であるこの女性は下記のような発言、投稿をしています。
 母ちゃんピストル上手               池田正枝
 秋の終わり、箱いっぱいの柿が届いた。私の生地、韓国全羅北道古阜からだった。生後一年だけ住んだ家は、今も昔のままで、そこに住む韓国の方が送ってくれたものだ。
 次に移り住んだ鴨緑江に近い国境の町では、日本人の入植で中国に追われた朝鮮の方々が祖国に帰ってこれないようにするため、日本人女性はピストルの練習をさせられていた。
私が二歳の時に病没した母への言葉で、唯一記憶に残っているのが、「母ちゃんピストル上手」だった。
 その後、私は朝鮮の子どもの学校の教師になった。日本人教師は六割の加俸付き。創氏改名を強いられた子らに、歴代天皇や教育勅語の暗誦をさせただけでなく、軍の命令で六人の教え子を挺身隊に送った。
 敗戦後、うち五人はすぐに帰ってきたが、最後の子どもの消息を知るまで、私は46年苦しんだ。日本の現状には心痛むことが多いが、光州事件二十周年で出会った女性は「市民同士が手をつないで政治を変えていくのよ」と語った。この、21世紀への希望の言葉を胸の中でくり返しながら、生地の柿を味わった。     (2000年12月31日毎日新聞)


「過去を隠さず文字に残そう」
無職 池田 正枝(奈良県 79歳)
 参院選の政見放送で朝鮮民主主義人民共和国の悪口をわめく候補者に驚きました。
「ミサイルを発射し、少女を拉致した。すぐ返せ」
 戦争中に日本が朝鮮にしたことをご存知ないのですね、と思いました。
 戦争中、私はケソンで朝鮮の子供たちの学校に勤めました。
 3・1独立運動では、たくさんの人々が日本人に殺されました。
 そんな体験を持つ保護者たちが何もわからない私を優しく守り育ててくれたのです。
 ソウルの学校に移ってからも子供たちは列車に乗って会いに来てくれました。
 鴨緑江のそばで暮らした私は2歳で母と死別しました。
「母ちゃん、ピストル上手」
 唯一覚えている母への言葉です。
 日本人が朝鮮に住むために、多くの朝鮮の人が中国へ追いやられました。
 鴨緑江が凍ると祖国へ帰ってくる、その人々を撃ち殺せ、と命令が出ていたとのことです。
「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちは 「中学生に慰安婦のことなど」と言いますが、 その年ごろの大勢の朝鮮の少女が連行され、性奴隷になるのを拒否したため虐殺された、 と元慰安婦の方から聞きました。
 過去を隠してきた私たちにも責任があります。
 自分たちの経験したひどいことを話し合い、文字にしていきましょう。
(2001年8月10日 朝日新聞大阪本社版)

55年前の忘れ物をとりにいく
−池田さんの場合−
略)
 奈良県は生駒山のふもとにお住まいの池田正枝さんから,こんな丁重なお便りをいただきました。こんなとき,私たちが投げかけた波紋は,決して消えることなく伝わっていくのだなと,本当に勇気付けられる思いがします。ところで,手紙はさらにこう続きます。「私はひどいことをしました。若い方はこうして,その反対のいいことをして下さってるのですね。」さきほどまでの華やいだ気持ちが,ちょっと申し訳なくなってきます。「ひどいことって,いったい…?」
略)
「生徒たちは,ほんとうによくなついてくれていたから,"挺身隊に行きたい子は?"というと,どの子もみんな行きたいという。家では反対されるんですが,親に反対されても先生の言うことは聞きたいというんです。だから,私は,家庭訪問して"挺身隊にいけば,女学校の勉強ができる"と,説得までしました。そして,あの6人の子達が・・・私は,何も知らなかったんですね。」
 朝鮮の地で生を受けた池田さんは,戦後,大阪で教職に奉じるうちに,その6人の子供たちが,もしかしたら性的奴隷になっていたのではないか,という疑念を抱くようになり,とくに,戦後すぐ朝鮮に戻った5人以外の一人の消息が,ずっと気になっていたといいます。「でも,そのことは,ずっと口には出せなかったんです。言えなかったし,今思うと自分も逃げていたんだと思います,あの時までは…」今から10年ほど前,池田さんは「嘘をついて死にたくはない」と意を決し,ついにある会合でこのことを発言したそうです。それがきっかけで,某テレビ局がその行方がわからなくなっていた教え子を探しだしてくれたのでした。「自分は悪い事をしたのにですよ,その子は反対する家族に黙って来てくれて,もう,"先生,幸せか,幸せか"といって,私の心配ばかりするんです。私は,"うん,だいじょうぶ,だいじょうぶよ"というのがやっとで,それでもう10分なんてあっというまでした…」 本当は話したかったそれこそたくさんの思いを,お互い"幸せか""だいじょうぶよ"の一言にこめて,50年ぶりの再会は終わりました。10分/50年,限りなく0に近いが決して0ではないその時間,お二人はどんな気持ちだったのでしょうか。「そして,娘さんからこんな手紙が来たんです。」池田さんが差し出す便箋の文字を追いながら,わたしはとても悲しくなりました。「あなたの謝罪は私たちにとっては何の意味もない。母も,つらいだけだから,以後連絡はしないでほしい」手紙の内容はこう結ばれていたのです。
 略)
「私以外にも,当時の教師はたくさんの生徒を送ったはずなのに,誰もそのことを言わない。まあ,ご家族や親戚もいて,いろいろ難しいんでしょう。だから私は,その人たちを責めるつもりはないんです。ただ,あの少女たちを"忘れられた少女"にはしたくない。このことだけは,言っておきたいんです。」当時,ソウルにいた日本人の仲間や親戚からは,よくせめられるとか。「彼らの差別意識は,今も変わらない」という池田さんは,私に「いったいどうしてなんでしょうね。」と問いかけながら,自らこうおっしゃいました。「彼らが,日本に帰ってからつらくあたられすごく苦労したことが,ひとつの原因かもしれません。どういうことかというと,植民地朝鮮の暮らしはとても優雅だった。教師の給料は朝鮮人の6割増,お手伝いさんはいるし,食糧の配給も十分。その生活が,引き上げとともに,どんぞこに落ちたんですから。」
略)
ウリ第22号
1999年5月2日発行

『日本人拉致疑惑を問題にするならその前に二度と帰って来なかった朝鮮の人びとの消息を調査、真相究明すべきだ』(池田正枝)
『北朝鮮人道支援の会』【ニューズレターNo.8】より
 ちなみに会長はあの吉田康彦氏(有名?になりはじめた当初はメールを出したたら丁寧な返事をいただいたものだが)



 全国在日外国人教育研究協議会(前在日朝鮮人教育研究全国協議会)への手紙ではその女子挺身隊における自分の教え子が慰安婦にされたということを否定しています。
略)
 私が
10代はじめに金剛山に行きました。なんと地下資源の豊かな地だと、びっくりしました。地球の上はよくできている。韓国は農業ができます。しかし北の方は山岳地、それに寒くて農業は駄目。そのかわりにこうして金属類が豊富で、家具や台所用品も金物がたっぷり使われておりました共和国では自炊したり、食事のお世話になったり、7軒の家で本当に親切にしていただきました。私も真鍮の食器で御馳走になりました。

 しかしすぐに戦争で、その真鍮の食器をはじめすべての金物は「供出」という名の下に、日本がとりあげてしまいました。
10代のはじめにみた豊富な地下資源ももうありません。全部、日本が戦争に使ってしまったのです。そうしてたくさんの人々を拉致しました

 私は、そのような時代の中で、
少女をだましたり、さらったりしたこと、性奴隷を拒否したことで虐殺したこと、そのような出来事を忘れることができません。私の教え子は小柄な子どもだったということでたまたま助かったのです。今も朝鮮には帰ってこない少女たちを案じつつ、他界していく親御さんがたくさんおられることでしょう。みんな日本人がしたことです。しかし、誰も語らない、ほったらかしですね。私もまだちゃんと語っていません。うっかりすれば殺されます。

 今、日本の政治を動かしているのは、ひどいことをした人の子どもや孫です。過去のことがはっきりするのを、最もおそれている人々でしょう。
私のような老人を殺すなんて簡単です。交通事故にみせかけたらいいわけです。来年の8月15日にはアジアの国々が日本へ謝罪要求をするでしょう。今度、共和国が柔軟になったのは、このことがあるのでしょう。私はこの日までどうしても生きたいのです。この時、私も謝りたいと思っています。私は勉強していません。しかし、体験をしております。
 同封のはがきは賀状ではなく、一年中いろんな方に読んでいただきたいと思っているものです。1才の時は今度の竜川近くの昌城ですごし、いろいろ記憶しています。2才からソウルに行きました。朝鮮人を追い出して、そこに日本の高級官僚の官舎をたくさんつくったのです。
このことを知った2才の時から、私は苦しんできました。朝鮮、そして「満州国」、何もかもいまのイラクとまったく同じです。

 世界は変わるのでしょうね。日本も変わる。老人はひどいことをしたまま死んでいきます。お許しくださいませ。こんなはがきですが、もらってくださる方があったら、さしあげてくださいませ。生徒さんでもいいです。日本が過去のことをちゃんと謝り、行方不明のままの朝鮮人のことを調べる熱意を示したら、拉致日本人もすぐ帰してもらえた筈です。朝鮮として自分の国の人々の悲しさを知ってもらいたかったのでしょう。
 私は幸せな人生でした。どんなこともすべてプラスになるのですね。少女時代、呉ですごしたことは、軍隊で商売をしている人々は戦争を望んでいると知ったことです。自衛隊も同じことですね。ここへ納めることで、物品をつくっている人々、それを売買する商売の人は、自衛隊の発展を願っているのでしょうね。そうして石油…。
略)
 朝4時半、NHKテレビから「君が代」全曲の放送が流れました。日本はとうとうここまで来たのですね。落ちていく姿がはっきりしています。そうしなければ日本は謝ることをしない国だと私は思っていますし、どの国も同じようにならなければ手はつなげないかもしれないと思ったりもします。略)
5月17日
池田正枝拝

 「
私もまだちゃんと語っていません。うっかりすれば殺されます。」「私のような老人を殺すなんて簡単です。交通事故にみせかけたらいいわけです。」って、被害妄想もここまでいくと凄いです。だれがこんな女性をわざわざ殺すのでしょう。このような女性の腐れ投稿を掲載するとは流石は朝日新聞、流石は毎日新聞という感じです。この池田正枝というこの女性の思い込みは各所に見られますが特に挺身隊が慰安婦であるという思い込みには醜いものがあります。戦争のために予定通りされた勉学は思うように進まなかったが、誇りを持っていらっしゃる台湾少年工の皆様の事もこの池田女史にしてみれば同様の事なのでしょう。池田女史が送りだしたという朝鮮人女子学生は全員無事に帰国しているのです。帰国が遅れた一人も病のために遅れただけなのです。
矛盾というものを感じないこの元女教師って・・・・

 しかし、「このことを知った2才の時から、私は苦しんできました。」ってすごいよな〜

私なんぞ、アホだからそんなこと想像もできません。

 ウソ、バカな事も何百回も繰り替えして言っていると、こんな気狂い女性から影響を受けるアホな記者まで現れます。

「歴史の経験者」
奈良県生駒市に住む元小学校教師、池田正枝さん(83)から先日お手紙をいただいた。
日本が植民地として支配していた朝鮮半島で、池田さんは1922年に生まれ、開城(北朝鮮)とソウル(韓国)で国民学校の教師を務めた。日本人になることが幸せなことだ、と創氏改名した子らに一生懸命に日本語を教えたこと、教え子を「女子勤労挺身隊」として朝鮮から日本に送り出したことなど、自らの経験を各地の集会で語っている。
初めてお目にかかったのも、そうした集会でだった。丁寧な言葉遣いながら、小柄な体から良く通る声で、厳しく自らの行為と日本の戦争責任を問うていた。取材を申し入れ、その後、お手紙を時々いただくようになった。
先日の手紙には、外出が無理になり、文章を書くことも難しくなったことを記しながら、
「朝鮮の少女達が日本に拉致されたことなど戦争中の隠された現実をたくさんの方に知ってもらうことに専念したい」と結ばれていた。重い歴史の経験者の重たい思いが伝わってきた。(湯谷茂樹)
平成一八年二月二五日毎日新聞夕刊「憂楽帳」

同じく
「タブー」
先月のこの欄で、日本の植民地だった朝鮮で教師をしていた池田正枝さん(83)について書いたところ、数人のご年配の読者から連絡を頂きました。
批判や激励など、内容はまちまちでしたが、「よくこんなことを書きましたね…」という意味の言葉が共通していました。「朝鮮の少女達が日本に拉致された」という池田さんの手紙にあった記述が、タブーと映ったようです。
北朝鮮による拉致の被害者の帰国は、私たちが解決すべき大きな課題です。しかし、そのことと、旧日本軍のかつての行為に目をつむることは別です。
今月中旬、韓国の留学生らによる池田さんへのインタビューに同席する機会がありました。「もう私も長くありません」と口を開いた話に、個人を踏みにじる国家の暴力の残虐さを痛感しました。「どうして日本では、池田さんのような話をする人が少ないのでしょうか」。留学生の感想です。
学校での日の丸強制、愛国心教育導入、改憲などの動きが始まっています。タブーなき議論が必要です。(湯谷茂樹)
平一八年三月三一日 毎日新聞 夕刊 「憂楽帳」より

 
 この湯谷茂樹というのも毎日新聞のどうしょうもないバカ記者です。
<「もう私も長くありません」と口を開いた話に、個人を踏みにじる国家の暴力の残虐さを痛感しました。>
この湯谷記者の文章が理解できる方はいらっしゃいますでしょうか。

裏表紙