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日本人の心

 我々日本人の先人の生きざまを、少しでも多くの方々に知っていただきたく、このコーナーを設けました。下記の文章はいろいろな処より引用させていただいておりますが、引用先が不明の箇所も多々ございます。御存じの方、また引用に不快な場合は、木下までお知らせください。おわびのうえただちに削除、訂正、加筆などご意向に沿うような処置をとらせていただきます。


向井敏明少尉 辞世
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。
南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。
死は天命と思い日本男児として立派に中国の土になります。
然れ共魂は大八州島に帰ります。
わが死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸いです。
中国のご奮闘を祈る。
日本敢闘を祈る。
中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、死して護国の鬼となります。

向井敏明少尉
山口県出身 昭和23年1月28日 支那 雨花台にて法務死

 

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何卒犬死たらしめない様に

此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事は厚く御礼申し上げます。
 只俘虜非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。
 死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なり諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、而目を以て感惰的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても、貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。
何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。
 中 国 万 歳 
 日 本 万 歳
 天皇陛下万歳

                        陸軍少尉野田毅

 野田少尉
 昭和二十三年一月二十八日、南京で法務死。鹿児島県肝属郡旧代村出身、三十九歳。

 野田少尉、向井少尉のお二人の遺言を読んだ後では、日本人だったらあの売国奴の本多勝一みたいなでららめなものは書けないであろう。


大石清伍長「妹への手紙」

 静(せい)ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送り したお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに 供へなくてもよいから、必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。兄ちやん の給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、これ からも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。では元気で、 をぢさん、をばさんによろしく。

兄ちやんより

 なつかしい静(しい)ちゃん!
 おわかれの時がきました。兄ちゃんはいよ/\出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なは(縄)の海に散ってゐます。
 思ひがけない父、母の死で、幼ない静ちゃんを一人のこして いくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。
 兄ちゃんのかたみとして静ちゃんの名であづけてゐたいうびん (郵便)通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上るときにつ かつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のをぢさんに たのんで、売ってお金にかへなさい。兄ちゃんのかたみなどより、 これからの静ちゃんの人生のはうが大じなのです。
 もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。ではお兄 ちゃんは征きます。泣くなよ静ちゃん。がんばれ!

 神坂次郎「今日われ生きてあり」より
以下補足。

 特攻隊員大石清は昭和20年3月13日の大阪空襲で父を失い、続いて重病の母の死を知った。小学生の妹(静恵)ひとりが 残されて、伯父の許に引き取られていた。先の文章(733)は 彼が妹に宛てて書いた遺書である。5月20日に鹿児島?の万世 (ばんせ)基地に到着、その後数日を置かずして突入、散華。
 妹の作った特攻人形を「突入の際怖がると可哀相だから」と 言って、あたかもおんぶするが如く背中に吊っていたという。

 
上の遺書を託された兵からの手紙

大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)

 大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと 思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どの は今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙を わたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

 伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へん だいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の 背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や 落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、 伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶ でもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて 行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

 伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。
同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐて はげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

 伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。

さやうなら


「特攻出撃に際して」

福島県出身 予科練乙飛第18期生
神風特別攻撃隊第5神剣隊
昭和20年5月4日沖縄周辺にて特攻戦死 19歳

僕はもうお母さんの顔を見られなくなるかもしれない。
お母さん、よく顔を見せてください。
しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕の別れのあいさつです。



『佐久間艇長遺言』(昨日海軍省より発表)

 小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す,誠に申し訳なし。されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着にことを処せり。我等は国家のため職に斃れしs罩も唯々遺憾とする所は天下の士はこれを誤り以って将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるやを憂ふるにあり。希くば諸君ますます勉励以ってこの誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされんことを。さすれば我れ等一も遺憾とするところなし。
   沈没の原因
 瓦素林潜航の際過度深入せしため「スルイスバルブ」をしめんとせしも途中「チェン」きれ依って手にて之れをしめたるも後れ後部に満水せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり。
   沈据後の状況
 一,傾斜約仰角十三度位
 一,配電盤つかりたるため電灯消え,電纜燃え悪瓦斯を発生呼吸に困難を感ぜり。十五日午前十時沈没す。この悪瓦斯の下に手動ポンプにて排水に力む。
 一,沈下と共に「メンタンク」を排水せり,灯消えゲージ見えざれども「メンタンク」は排水し終われるものと認む。電流は全く使用する能わず,電液は溢るも少々,海水は入らず「クロリン」ガス発生せず唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。
  (后十一時四十五分司令塔の明りにて記す)
 溢入の水に浸され乗員大部謂?[ふ。寒冷を感ず。
 余は常に潜水艇員は沈置細心の注意を要すると共に大胆に行動せざればその発展を望む可からず,細心の余り萎縮せざらんことを戒めたり。世の人はこの失敗を以って或いは嘲笑するものあらん。されど我れは前言の誤りなきを確信す。
 一,司令塔の深度計は五十二を示し排水に勉めども十二時迄は底止して動かず,この辺深度は十尋位なれば正しきものならん。
 一,潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す,かかるときに困る故。幸ひに本艇員は皆よく其職を尽せり,満足に思ふ。
 我れは常に家を出づれば死を期す。されば遺言状は既に「カラサキ」引出の中にあり(之れ但私事に関すること,いふ必要なし,田口,浅見兄よ之れを愚父に致されよ)
   公遺言
 謹んで
 陛下に白す 我部下の遺族をして窮するものなからしめ給はらんことを,我が念頭に懸るもの之あるのみ。
左の諸君に宜敷(順序不順)
斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将
(気圧高まり鼓膜を破らるる如き感あり)
小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜) 松村少佐(菊)
                           (小生の兄なり)
 船越大佐
 成田鋼太郎先生 生田小金次先生
 十二時三十分呼吸非常にクルシイ
 瓦素林ヲブローアウトセシシ積モリナレドモ,ガソリンニヨウタ
 中野大佐
 十二時四十分なり


佐久間艇の引き上げ後、乗員が全員持ち場を離れずそのまま死んでいたのは 世界中が驚愕したとか。
ちなみにほぼ同時期にイタリアが沈没したときは乗組員は、ハッチ周辺で折り重なる ように死亡していたそうです。




左ノ電文ヲ次官二御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)

 沖縄県民ノ実情二関シテハ県知事ヨリ報告セラルヘキモ 県ニハ既二通信力ナク 32軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県
知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)サレトモ 現状ヲ看過(かんか)スルニ忍ヒス 之二代ツチ緊急御通知申シ上クーー

 ーー若キ婦人ハ率先軍二身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモトヨリ砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮(しょせん)  敵来リナハ老人子
供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方二運ヒ去ラレテ毒牙二供セラルヘシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門二捨ツル親アリ 看護婦二至リテハ軍移
動二際シ 衛生兵既二出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテーー

ーー沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲー―



硫黄島守備隊の玉砕に際しての電文

「チチジマノミナサン、サヨウナラ」



佐藤章
菊水隊 イ36潜、イ37潜、イ47潜
昭和19年11月8日出撃

妻への手紙

まりゑ殿

かねて覚悟し念願していた「海い征かば」の名誉の出発の日が来た。日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが然しこれで「俺も日本男子」だぞと、自覚の念を強うして非常にうれしい。

短い間ではあったが、心からのお世話になった。俺にとっては日本一の妻であった。

小生は何処に居らうとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。

子供も、唯堂々と育て上げてくれ。所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ、小生も立派に死んでくる。

充分体に気をつけて栄へ行く日本の姿を小生の姿と思いつつ強く正しく生き抜いてくれ。

大東亜戦争に出陣するに際して

昭和十八年九月二十一日



まりゑ殿



中部太平洋方面艦隊司令長官 南雲忠一中将 サイパン島よりの決別文

「今や止まるも死、進むも死、生死須くその時を得て帝国男児の真骨頂
あり、今米軍に一撃を加へ太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めん
とす…笄に将兵と共に聖寿の無窮、皇国のいやさか弥栄を祈念すへく敵を
もと索めて発進す 続け」



終戦後。ビキニ環礁での核実験。「長門、沈まず」の報を聞き元艦長の未亡人曰く
「幾万もの英霊たちが水底をささえているのですよ」

核の直撃を受け傾斜したものの未だ浮いている長門に驚嘆した米海軍の被害調査隊の一人は
艦橋にこう書き残したという。
"Old Navy Never Die!(海の古強者は死なず!)"



遺書

○陸軍歩兵伍長としてはこれ男子の本懐、申し置く事ナシ。

○日本映画監督協会の一員として一言。
「人情紙風船」が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。
負け惜しみに非ず。

○保険の金はそっくり井上金太郎氏にお渡しする事。

○井上さんにはとことん迄御世話をかけて済まんと思います。
僕のもろもろの借金を(P・C・Lからなるせ[#「なるせ」に傍点]からの払ッて下さい。)
多分足りません。そこ、うまく胡麻化しといて戴きます。

○万一余りましたら、協会と前進座で分けて下さい。

○最後に、先輩友人諸氏に一言
よい映画をこさえて下さい。     以上。

 昭和十三年四月十八日
                       山 中 貞 雄



著書「知覧特別攻撃隊」より。
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遺書

政憲、紀代子へ

 父ハスガタコソミエザルモイツデモオマエタチヲ見テイル。
ヨクオカアサンノイイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイ
ヲカケナイヨウニシナサイ。ソシテオオキクナッタレバ、
ヂブンノスキナミチニスヽミ、リッパナニッポンジンニナルコト
デス。ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。「マサ
ノリ」「キヨコ」ノオトウサンハカミサマニナッテ、フタリヲジ
ット見テイマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ、オカアサ
ンノシゴトヲテツダイナサイ。オトウサンハ「マサノリ」「キヨ
コ」ノオウマサンニハナレマセンケレドモ、フタリナカヨクシナサイヨ。
オトウサンハオオキナジュウバクニノッテ、テキヲゼンブ
ヤッツケタゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニ
ナッテ、オトウサンノカタキヲウッテクダサイ。

マサノリ キヨコ フタリヘ
                   父より。

久野正信 中佐 第三独立飛行隊
昭和二十年五月二十四日出撃戦死 二十九歳

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陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命 二十六歳
マリアナ島にて戦死
季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。
短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。
私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。
さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。
何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。
どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。

昭和十九年五月三日 伊藤 甲子美
季代子様



海軍中尉 富田 修命 二十三歳
台湾高雄西海上にて戦死
九月二十五日一時半、我一生ここに定まる。
お父さんへ、いうことなし。お母さんへ、ご教訓身にしみます。
お母さんご安心下さい。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。−−−−それだけで僕は幸福なのです。
日本万歳、万歳、こう叫びつつ死んで征つた幾多の先輩達のことを考へます。
お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!!
こう叫びたい気持ちで一杯です。何かいつて下さい。一言で充分です。
いかに冷静になつても考へても、何時も何時も浮かんで来るのはご両親様の顔です。
父ちやん!母ちやん!僕はこう何度もよびます。
「お母さん、決して泣かないで下さい」
修が日本の飛行軍人であつたことに就いて大きな誇りを持つて下さい。勇ましい爆音をたてて先輩がとんで行きます。ではまた。

著書「知覧特別攻撃隊」より。

遺書
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母を慕いて

母上お元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有り難い母 尊い母

俺は幸福だった
遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと

                 相花信夫 少尉 第七十七振武隊
                 昭和二十年五月四日出撃戦死 十八歳




昭和十九年、十一月二十二日、午前七時四十分、ぺリリュー島からパラオ島へ打電。

「通信途絶ノ顧慮大トナルヲ以ッテ最後ノ電報ハ左の如ク致シ度承知相成度。

一、軍旗ヲ完全ニ処置シ奉レリ。

二、機密書類ハ異状ナク処理セリ。

右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度(原文のまま)」

十一月二十四日、午後四時打電。

「サクラ サクラ」




大尉 第六十六振武隊
五月二五日出撃戦死 三重県22歳 後藤光春
遺書
戦局の重大性は日一日と増す
国家総力戦の最高度化を必要とせらる、こと甚大なり
御精励の程御願い致します

幼き頃の御指導を謝します。
神明の加護の許に神通体当りに参ります。
           五月初 振武隊長

初陣が最後

完全なる飛行機にて出撃致し度い
     
五月一日 後藤光春



五六振武隊 陸軍少尉 上原良司
大正十一年九月廿七日生
本 籍 長野県東筑摩郡和田村一七三
現住所 長野県南安曇郡有明村一八六
出身校 慶應義塾大学経済学部

所感
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ
身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたしております。
思えば長き学生時代を通じて得た
信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合
これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが
自由の勝利は明白な事だと思います。
人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく
たとえそれが抑えられているごとく見えても
底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は
かのイタリアのクローチェもいっているごとく真理であると思います。

権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも
必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまたすでに敗れ、
今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく
次から次へと滅亡しつつあります。

真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく
未来永久に自由の偉大さを証明していくと思われます。
自己の信念の正しかった事この事あるいは祖国にとって
恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。
現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。
すでに思想によってその闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。

愛する祖国日本をしてかつての大英帝国のごとき
大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら
日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。
世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人
これが私の夢見た理想でした。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。
操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、
ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。
理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で
しいて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。
一器械である吾人は何もいう権利はありませんが
ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を
国民の方々にお願いするのみです。

こんな精神状態で征ったならもちろん死んでも何にもならないかも知れません
ゆえに最初に述べたごとく特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一旦下りればやはり人間ですから、
そこには感情もあり熱情も動きます。
愛する恋人に死なれたとき自分も一緒に精神的には死んでおりました。
天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと
死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。

明日は出撃です。

過激にわたりもちろん発表すべき事ではありませんでしたが、
偽らぬ心境は以上述べたごとくです。
何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。
明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。
彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。

いいたい事を言いたいだけいいました無礼をお許し下さい。
ではこの辺で

出撃の前夜記す

昭和20年5月11日出撃
戦死


この人の愛読書(哲学者クローチェを論じたもの)には、
本文のところどころに赤い印がしてあった。
その、印をしてあった文字をたどってつなげたのが、
次の文章。

京子ちゃん、さやうなら。
私は君が好きだつた。
しかしその時既に君は婚約の人であつた。
私は苦しんだ。そして君の幸福を考へた時、
愛の言葉をささやくことを断念した。
しかし私はいつも君を愛してゐる



南方総軍からの死守命令(玉砕命令)を受けた
ミイトキーナ守備隊指揮官、水上源蔵少将の
最後の作戦命令文

「ミイトキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ」

部下将兵を助けるため、あえて抗命をした水上少将は、
部隊がイラワジ川を渡河し、撤退を見届けた後、自決。

明治二十一年山梨県出身
陸士二十三期



蒋介石の逆感状
ミートキナは残った日本兵が圧倒的なはずの中国軍に
しこたま損害を与えた後全滅。
後々、蒋介石は、部下に対し「ミートキナの日本兵を見習え!」って檄を飛ばす。

蒋介石総統 逆感状
光人社刊 相良俊輔著 初版 昭和47年5月20日 当時820円
「菊と龍」より
「全軍将兵に与う。戦局の動きは我に有利に展開しつつあり。
勝利の栄光は前途に輝いているものの、その道に到達するまでは、まだなお遠しといえる。各方面の戦績をみるに、予の期待にそむくもの多し。

諸兵、ビルマの日本軍を範とせよ。
拉猛において、騰越において、またミートキーナにおいて、日本軍が発揮した勇戦健闘ぶりを見よ。それに比し、わが軍 の戦績の、いかに見劣りすることか。予は遺憾にたえざるものなり・・将兵一同、一層士気を昂揚し、訓練に励み、戦法 を考案し、困難辛苦に耐え、強敵打倒の大目的を達成せんことを望むものである。」
 





『ガダルカナル学ばざる軍隊』NHK取材班
陸軍軍医吉野平一中尉の日記より

昭和十六日十二月十六日 懐かしの仙台をあとにして征途にのぼりしよりの記、
  我亡きあとに此の記を妻房子に送る(ママ)

昭和十七年九月五日 午前二時頃、敵飛行機上空に飛来するも無事。上陸最初 の朝食を採りて壕を掘りつつある時、敵戦闘機一二機編隊にて飛来す。夜は雨 に悩む

九月六日 午前三時起床、四時半出発。前夜の雨に悪路となった路とは名ばか りの小路を前進、橋なき河を腰までぬらして行く、背嚢は十日分の糧食で肩に 食い入り苦しい。

九月九日 午前二時三十分出発、約九千キロと予定せられるジャングル地帯の 前進開始せらる。

九月十日 今日もまた密林内の前進か、食事は出来ず乾パンをかじる、水も少 ない。我々は道なきジャングル草原を進む、米を食わないので身体の力がぬけ るようだ、しかし進まねばならない。夜に入りジャングルに入り非常な苦労を し、遂に前進不能となり密林中に寝る。

九月十一日 午前三時半起床、四時出発。再び密林内を進む、南西に向い前進 だ。朝食は米なく乾パンを歩きながら食す、身体の力が抜けて来る、苦しい、
水もなくなる。密林中、水たまりにあらそいあつまりすする、きたないが仕方 なし。今日の密林はすごい。昼間も乾パンだ、重い思いをして持ってきたミル クをあけて飲む、ああこの甘味さ、水が欲しい水が欲しい、何故ないのだろう か。密林中をさまよい歩く、足もおぼつかない。夜は腰から下ビショぬれの為 安眠出来ず。

九月十二日 最后の日となる、いよいよ夜襲決行の日だ。これより行軍との事 で早朝四時出発、ジャングル内を前進す、午后四時になるも目的地に達する事 出来ず、八時攻撃開始に間に合う如く全力をつくし暗夜のジャングル地帯をは う如く前進、いばらにさされ木の根に転倒し名伏し難き苦痛をし、遂に部隊と の連絡なくなる。

九月十三日 敵飛行場付近に砲火しきりにあがり物すごし。午前二時、本部に 追及すべく星明かりをたよりに前進、川口支隊渡辺部隊の重火器隊に会し前進 せんとせしが、昨夜の夜襲不成功との事で第一線后退し前進不能となり后退。
上空に常に敵飛行機あり、身辺には敵小銃弾飛来す。

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日記はここまで。後は空白……。





宅島徳光(恋人・八重子あて、1944年3月頃)
「私自身の未来を私は予知することができない。
 そして私は私であっても、私の私ではない。
 このことは賢明な君は良く理解してくれていると信ずる。
 もはや私は君一人を愛すること以上に、日本を、そして君を含めた日本の人々を愛している。
 [略]君に会える日はもう充分ないだろう。あるいは永久にないかもしれない。」
宅島(日記、1944.6.11)
「その時(戦死の時)のあるを覚悟して俺はすべて身の回りを整えておきたい。
 このような俺の信念は、どうしても君を不幸にさせたくないということの考えに通じている。
 妻のただ一人の、最も信頼すべき味方は常に夫である。
 若くして夫を失った妻の将来はひじょうに不幸である。
 そのようなことが君の身に起こるということは、俺にとっても寂しい。」
宅島(日記、44.6.13)
「はっきりいう。俺は君を愛した。そして、今も愛している。
 しかし俺の頭の中には、今では君よりも大切なものを蔵するに至った。
 それは、君のように優しい乙女の住む国のことである。
 俺は静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから、
 俺たちに頭を下げてくれる子供たちのいじらしさに強く胸を打たれたのである。
 もしそれが、君に対する愛よりも遥かに強いものというなら、君は怒るだろうか。
 否々、決して君は怒らないだろう。そして、俺と共uC俺の心を理解してくれるだろう。
 ほんとうにあのような可愛い子らのためなら、生命も決して惜しくはない。」
宅島(日記、44.6.30)
 「俺の言葉に泣いた奴が一人 俺を恨んでいる奴が一人
  それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
  俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
  みんな併(あわ)せてたった一人……」




林市造(カミカゼ特攻隊員・1945.3.31・最後の手紙)
「お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。[略]
 晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けて来ます。
 母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、 klnbn安心させることもできずに死んでゆくのがつらいです。[略]
 母チャン、母チャンが私にこうせよと言われたことに反対して、とうとうここまで来てしまいました。
 私として希望通りで嬉しいと思いたいのですが、
 母チャンのいわれるようにした方がよかったかなあと思います。
 でも私は技倆抜群として選ばれたのですから喜んでください。
 私ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんかはほんとうは出来ないのです。[略]
 ともすれば[略]お母さんの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけれど、 これはいけない事なのです。
 洗礼を受けた時[略]アメリカの弾にあたって死ぬより前に 汝を救うものの御手によりて殺すのだと言われましたが、これを私は思い出しております。
 すべてが神様の御手にあるのです。
 神様の下にある私たちにはこの世の生死は問題になりませんね。
 [略]私はこの頃毎日聖書をよんでいます[略]
 お母さんの近くにいる気持ちがするからです。
 私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます[略]
 お母さんに祈ってつっこみます。 [略]出撃前日」




米国議会図書館に保存されていた、氏名不詳の陸軍兵士日記。
児島ノボル著『天皇と戦争責任』(文春文庫)収蔵『ある日本兵士の日誌』より。
※(カッコ内は筆者の換字、又は註記)

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(昭和)十七年十二月二十八日
朝○時三十分きしょ(起床)福山二時二十分出発。
糸崎にてめんかいしました。三時二分に糸崎出発。
広島(二字不明)めんかいじょう(面会場)に六時三十分につきました。
皇(行)軍で(来)ました久市兄上にがいせんも(凱旋門)であいました。
宇品にて十四時二十分に次太郎兄上にヨシエさんめんかいしました。
宇品十五時四十分にて出発、十六時二十分に舟にのりました。
舟十八時三十分に宇品出発、宮島神社に(以下数字が消去)

(十二月)三十一日
朝佐木わん(佐伯湾か?)を七時三十分出発、十四時より衛兵にでました。
十七時ごろ九州島がみえなくなりました。

昭和十八年一月一日
衛兵りかばん(原文まま)をしてをりました。
一時四十分てきせんすいかん(敵潜水艦)みえました。みな(皆)でました。
なみ(波)わ(は)あまりなく衛兵より十四時にかい(帰)りました。

(一月)十二日
朝○時四十分にラバウルわんにつきました。
朝七時にを(起)きました。舟五十セキを(居)りました。

十五日
朝四時より皇(行)軍しました。七時よりだいきゅうし(大休止)をしました。
十五時よりやまのなかを皇(行)軍しました。
二十二時三十分に西ぼうえき(西貿易店?)につきました。
第六十三部隊しょねんへい(初年兵)の家にとまりました。

十九日
朝五時にを(起)きまして中隊本部しえき(使役)をしました。十四時より雨がふりました。
二十日朝四時ごろ、ラバウルに敵機ばくげき(爆撃)にきました。

二十一日
(朝)五時に(起)きまして七時三十分(以下三文字不明)部隊本部にゆき、けいき(軽機)をもってかい(帰)りました。
十三時より山にたきぎをとりにゆきました。二十二時より敵ひこうき(飛行機)がラバウルにきました。

三十一日
朝五時にを(起)きまして山にいも(芋)をとりにゆきました。中隊十三時よりえんしゅ(演習)をしました。

二月十四日
朝二時より敵き(機)ばくげきにきました。ちじょうさげき(地上射撃)ばく五き(爆撃機五機か?)を(墜)としました。
(一字不明)軍らんやくこう(弾薬壕)第二号をか(丘)に(爆弾が)を(落)ちました。戦死十七にん(人)をりました。
七時に第二号(に)ゆきましてみました。

(三月)十日
(朝)六時より第五号行(き)ましてたま(弾丸)をあ(揚)げました。黒ひめ(姫)丸。

十一日
(朝)六時より第八号ゆきまして、ニュギニヤに行く舟奉公丸にたま(弾丸)、
をりたたみ(折畳み)舟を(お)よび米、ビイル、さいだ(サイダー)をつみました。

(四月)二十六日
マナ(ラ)リヤのけつえき(血液)のけんさのためにやすみました。

(四月)二十八日
さぎょう(作業)わ(は)やすみました。はたけをこさえました。九時ごろ雨が降りました。ばらばらと降りました。

五月一日
四時三十分を(起)きましてさぎょう(作業)わ(は)やすみました。ねつ(熱)がでて衛兵わ(は)大出君かわりに出ました。
九時二十分ごろ雨あがりました。十四時にねつ(熱)がでました。二十時ごろ雨降りました。

(五月)七日
(朝)四時三十を(起)きました。七時中隊長(二字不明)しました。やすみました。
ゆめに西父上母上、兄久市ゆめみましたよ。

(五月)八日
やすみました。マナ(ラ)リヤがよくなりましたが、またまたテ(デ)ングねつ(熱)になり、ねつ四十一ド(度)でました。

(五月)十一日
今日朝ねつがでて、くるしくありました。

(五月)十六日
今日きぶん(気分)がよくなりて、朝せんたく(洗濯)に行き、畑にも行きました。
十五時雨降りました。夕雨あがりました。

七月二十日
今日作業休(み)でした。せん(先)発わ(は)でました。中隊(三時不明)八郎ほか六人亡(くなり)ました。


********************* ここで日記は終了 **



松原成信 氏
昭和19年6月同志社大学経済学部在学中入隊
昭和20年8月1日北京にて戦病死
23歳 陸軍兵長

(友人宛て書簡から)
頭の透明な時間は、ほとんどありませんが、
それでもまばゆいくらいな一条の白いたていとがあるようです。

生あらばいつの日か、
長い長い夜であった、星の見にくい夜ばかりであった、と
言い交わしうる日もあろうか・・・・・



 大 井 栄 光
  昭和20年東大理学部数学科卒業。13年9月入営。翌年4月出征。16年6月華北柿樹園にて戦死。26歳。
 母上様
 いよいよ別離の日が参りました。
 けれども私は元気にいって参りますから,くれぐれもお体を大切になさって苦心して生還した時には一層元気な御姿に接し得ることを祈っております。
 何の屈托もなく何の感情の高揚沈低もなきかのごとく装うておりましても,私はやはり多くの未完成を抱いたまま戦地に参ります。そこには寂莫の感もありますし愛惜の情もあります。けれども見えざる神の意志の支配に全幅の信頼を置いて,危難地に赴く構えはいささかながら既に会得していると自負しております。この上はママも義光も三重子も皆が私の心情をくみとってせめて笑顔をもって私を送っていただきたかったのでしたが,やはり親と子の情はもっと深刻切実なものであるようです。
私はママの涙はいといませぬ。
しかしこの後はなるべく朗らかに日々を過ごされて私の出しますたよりを御まち下さることを願い上げます。はじめから「悲しみの涙」で戦地に赴くのではなくて死ににゆくような気がかえっておこりますから,どうぞ釣道具やスケッチブックをもって出かけた心持ちになっていただきたいと切望いたします。どうかもう決して涙は流すまいと決心して約束していただきたいものです。
 桜の花の美しき風情,春日ののどかな気分に落ち着きまして自分の心をふりかえりますと色々と新しい感情が湧くのでした。今までは人世だとか,悩みだとか楽しみだとか,その他のむずかしいことをお互いにわかったような気になって話しあったり独り合点したりしていましたが,結局はほとんど全部は過ぎゆくものにすぎませんでした。そしてただ基督による救いという事が動かぬ世界への唯一の希望のかけはしとして残されているような気がします。
その信仰も決して非常に強固であるとはあえて申せませんが,他のもの−世の中のすべてにくらべればはるかに切実なもののように思えるというわけです。
 あれほど戦争を嫌って恐れていたかつての私が,今や一切の雑念をさらりとすてて,ひたすら戦いにのぞむ者としていろいろ修行をつづけることは,全く驚異すべき事柄のようであろうと思います。けれどもそれは家の人からみれば驚異的現象であっても当事者になって見れば,かなり当然すぎるものとしか考えられません。
「それほど軍人になりきったか」といわれればそれまでですが私はむしろそう考えるよりは「軍人という境遇におかれて特殊な鍛錬をされつつある」という方が正当であろうと思います。私は「それほど軍人になりきってはおりませぬ」。
 軍隊生活において私が苦痛としましたことの内で,私の感情−繊細な鋭敏な−が段々とすりへらされて,何物をも恐れないかわりに何物にも反応しないような状態に堕ちて行くのでないかという疑念ほど,私を憂鬱にしたものはありません。私はそうやって段々動物になり下ってしまうよりは,いつまでも鋭敏な感情に生きつつ,しかも果敢な戦闘を遂行したい衝動にかられています。
しかし私は無理はしません。一瞬は驚き,たじろいでも次の瞬間には最善の方法を落ち着いて実施して行くというように,自分の性格を生かして最後の勝利に向かっr蟆進したいと思います。私にとっていわゆる最後の勝利が生還によってはじめて成就されるものか,あるいは戦死してのみ与えられるものかは今のところ全然わかりません。
がそれだけに,いとも朗らかに出発して行けますから,どうか留守の皆も楽しい日々を送って,私の必生(必死!)の修養を見守っていていただきたい。死すればそれはまた主の御旨ですから,めめしく涙など流さぬこと,生還したとしてもそれで最後の勝利が与えられたわけではないのですから軽々に笑わぬ事を願います。




昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電信局(旧樺太)
に勤務する九人の乙女は青酸加里を渡され最後の交換台に向った。

ソ連軍上陸と同時に青酸加里をのみ、最後の力をふりしぼってキー
をたたき

・・・・皆さんさようなら、さようなら、これが最後です・・・・

の言葉を残し、夢多き若い命を自ら絶った。
殉職した九人の乙女
 高石ミキ(24)
 可香谷シゲ(23)
 吉田八重子(21)
 志賀晴代(22)
 渡辺照(17)
 高城淑子(19)
 松崎みどり(17)
 伊藤千枝(22)
 沢田キミ(18)

http://m-take-web.hp.infoseek.co.jp/fujinomiya6.html




野中五郎大佐の子供への手紙
ぼー まいにち おとなちく ちてるか おばあちゃまや おじちゃまが いらっちゃるから

うれちいだろう

おたんじょうび みんなに かわいがられて よかったね おめでとう おめでとう

おとうちゃまは まいにち あぶーにのって はたらいている

ぼーが おとなちくして みんなに かわいがられているときいて うれちい

もうちょろちょろ あるかなければいけない はやくあるきなちゃい

おかうちゃまの いうことをよくきいて うんと えいようをとって ぢょうぶな よいこどもに

ならなくてはいけない

ちゅき きらいのないように なんでも おいちいおいちいってたべなちゃい

でわ さようなら おとうちゃまより ぼーへ




グアム島で厚生省調査団により発見された遺書
海軍軍属 石田政夫 37歳 昭和19年8月8日、グアム島にて戦死

昨夜子供の夢を見ていた。父として匠に何をしてきたか。
このまま内地の土をふまぬ日が来ても、何もかも宿命だとあきらめてよいだらうか。
おろかな父にも悲しい宿命があり、お前にも悲しい運命があつたのだ。
強く生きてほしい。そして、私の正反対な性格の人間になつて呉れる様に切に祈る。

三月○日
内地の様子が知りたい。聞きたい。
毎日、情勢の急迫を申し渡されるばかり。自分達はすでに死を覚悟してきている。
万策つきれば、いさぎよく死なう。

本月の○日頃が、また危険との事である。
若し玉砕してその事よつて祖国の人達が少しでも生を楽しむことが出来れば、 母国の国威が少しでも強く輝く事が出来ればと切に祈るのみ。

遠い祖国の若き男よ、強く逞しく朗らかであれ。
なつかしい遠い母国の若き女達よ、清く美しく健康であれ。





国仙照雄氏 北海道出身、軍属。
昭和19年10月8日、フィリピン・ルソン島マニラ港で戦死。16歳。
継母・エツ宛
*以下、誤字など原文ママ

母上、もう自分は死をけつしんしております。
あの海原で働く自分にとつてはまことに美しく悲しい者です。
父上にはもうあゐません。このまゝあはないで死ぐとおもつてください。
自分たちは死ぐのをなんともおもつて、あの原であの野で見た美しい花とも、
あの美しい元山、かもめじまをあとに見て、自分は一生故郷に帰れないと
おもつております。もう自分のけつしんはきまつたぞ。さらば故郷よ。

元山のふもとにたたす我が町は
  きよきながれの川の下
    あゝなちかしきわが故郷

これは自分がつくつたのです。
母上様、くるによかつたら、きてください。
もう自分は故郷にかゐりません。では母上様、最後のため、きてください。
五月二十一日海軍大将山本五十六が戦死をしたのだ。
大将がせんし□□□□□の、自分が死ぐのはあたりまいだ。
ではあの海原に出て、りっぱなに死ぐきだ。
今あゐなかつたら靖国神社であをとお思つぞ。
戦にかちために皆で元気でやれ。

親をもふ心にまさる親心
  今日のおとじれなんときくらん

母上様、自分は今日まで、いろいろとせはになつた。
その恩は一生はしれなぞ。
母上、では元気でくらしてくれ。
自分はまことに親ふこうでございます。どうぞゆるしてください。
母上様、最後にどうぞきてください。
手紙のつきしだい、たのみます。
今あはなければ自分は一生あひません。

一日としては思はじ母の顔
  今日のくらすはどうぞしておる

では、さらば
  一同によろしく。?



進歩のない者は決して勝たない
負けて目覚めることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじすぎた
私的な潔癖や徳義にこだわって
真の進歩を忘れていた

敗れて目覚める
それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずしていつ救われるか
俺たちはその先導になるのだ
日本の新生にさきがけて散る
まさに本望じゃないか
 

「戦艦大和ノ最期」(吉田満著)より
敗色濃厚な戦況の中の出陣に対して、兵学校出身者は「国のため、君のための死」がすべてと主張、学徒出身者は自分の死を「普遍的な価値に結び付けたい」と反発し乱闘となるが、そんな争いを収めた哨戒長、臼淵大尉の言葉。



日本海海戦で負傷したロシアバルチック艦隊司令長官=ロジェストウィンスキー を見舞う。

東郷元帥
「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず 御奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。今日ここでお会い申すことについて 心からご同情つかまつります。われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、 私怨などあるべきはずがありません。ねがわくば十二分にご療養下され、一日もはやく
ご全癒くださることをお祈りします。(略)」

ロジェストウィンスキー(涙をにじませながら)
「私は閣下のような人に敗れたことで、わずかに自らを慰めます」




中部太平洋方面艦隊司令長官 南雲忠一中将 サイパン島よりの決別文

「今や止まるも死、進むも死、生死須くその時を得て帝国男児の真骨頂あり、 今米軍に一撃を加へ太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす…笄に 将兵と共に聖寿の無窮、皇国のいやさか弥栄を祈念すへく敵をもと索めて発進す 続け」



日本海軍沖縄方面根拠地隊司令官太田実少將(当時)が玉砕近い昭和20年6月6日夜、

沖縄県民の献身的作戦協力について、海軍次官にあてた電報。

(第062016番電)

 左ノ電ヲ次官ニ御通報方取計ヲ得度

 沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク

第三十二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ

非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ッテ緊急御通知申上グ

 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド

顧ミルニ暇ナカリキ 然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ

防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ 家屋ト財産ノ全部ヲ焼却

セラレ 僅ニ身ヲ以ッテ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃下

???風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ

身ヲ捧ゲ 看護炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 

所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セ

ラレルベシトテ 親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ

際シ衛生兵既ニ出発シ 身寄無キ重傷者ヲ助ケテ??真面目ニシテ一時ノ感情ニ

馳セラレタルモノトハ思ハレズ 更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ自給自足夜ノ中ニ

遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スル

アリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕 物資節約ヲ強要

セラレテ 御奉公ノ??ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ(数文字不明)コトナクシテ本戦闘ノ

末期ト沖縄島実情形(数文字不明)一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミ

ナリト謂フ

 
沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


太田小将が最後に陸軍司令牛島中将に打った決別の電報は次の通り
「敵戦車群は司令部洞窟を攻撃中なり、海軍部隊は今11日2330玉砕す。
 従前のご厚誼を謝し、陸軍の奮闘を祈る。
   
  大君の御旗の下に死してこそ
      人と生まれし甲斐ぞありける   」



…こうして最後さいごのときが来た。はじめは「23楠鑼明を期して、全員、 摩文仁方面に突撃し、この間に軍司令官、参謀長は山頂において自決する」
と予定されていたが、摩文仁の山頂奪取は不可能と判断され、司令部洞窟の 入口で、古武士の型をふんで切腹することになった。
「閣下、私が先に行って、ご案内いたしましょう」と、一足先に坑外に出た 長参謀長が、振り返りながらいった。
「いや、私が先に行かしてもらうよ」
牛島はおだやかな微笑を浮かべていう。
「あ、なるほど、私では案内になりませんな。閣下は極楽行き、私は地獄行き。 こう行き先が違っていては…」
長は軽く声をあげて笑った…

秋待たで 枯れゆく島の青草は
      皇国の春に甦らなむ


  矢丸尽き 天地染めて散るとても
     魂かえりして 御邦守らむ  

 軍司令官 中将 牛島 満




 君のため 散れと育てた 花なれど

  嵐の跡の 庭の寂しき

靖国神社の遊就館

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