日本人の恥、人間の屑である本多立太郎

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


本多立太郎という詐欺師

平成21年4月15日水曜日晴れ ××××  平成22年9月14日一部訂正追加

 本多立太郎で検索すると五千二百七十件ものヒットがあります。

 本多氏のプロフィールを検索すると、下記のようになっています。

本多立太郎(ほんだ・りゅうたろう)

  一九一四年、北海道小樽生まれ  昭和十四年(一九三九年)応召、陸軍第一五師団五十一連隊・第二大隊六中隊に配属。同八月中国江蘇省金檀に派遣され、昭和十六年(一九四一年)五月帰国。昭和十八年(一九四三年)再応召、北方守備隊配属。終戦後シベリア抑留。昭和二十二年( 一九四七年)シベリアより帰国。

 金融機関勤務。

 六〇歳定年後、市民運動などに参加今日に至る。

 昭和六十一年(一九八六年)より戦争体験出前噺を始める。

 平成十六年(二〇〇四年)十一月二〇日、一〇〇〇回、全県達成。

 

 そして、毎日新聞には下記のような記事が掲載されました。

以下引用

元日本兵:和歌山の95歳、9条を世界へ

 「まだ90代」6月単身渡仏、平和の行脚  憲法9条の心を世界に広げようと、95歳の本多立太郎(りゅうたろう)さん=和歌山県みなべ町=が6月、パリへと飛び立つ。

日本兵時代の中国などでの体験を「戦争出前噺(でまえばなし)」として全国各地で語り続けてきた。

「9条を持つ国が普通の国」を共通認識にしたいと、世界各国の訪問を思い立った。「10年はかかるかもしれないが、まだ90代だ。手から手への運動で大衆を突き動かしたい」と言葉に力を込める。【牧野宏美】

 本多さんは1939年から中国などへ2度出征し、47年に抑留されたシベリアから帰国した。戦後は金融機関に勤め、定年退職後、「孫に自分の体験だけでも語り残しておかなければ」と、86年から「戦争出前噺」を始めた。大阪まで約3時間かかる紀伊半島南部に住むが、どこへでも出向き、出前は中国など海外も含めて約1300回を数える。

 上官の命令で中国人捕虜を刺殺した体験のほか、若い人が戦争を理解しやすいよう、恋心を抱いた女性との出征時の別れのつらさなどを語ってきた。

略)

 最初の訪問地に、昔からフランス映画であこがれがあったパリを選んだ。街頭で9条のフランス語訳のビラを手渡し、興味を持った人とはカフェで語り合いたいという。

略)

 現地ではフランス語の通訳についてもらい、シャンゼリゼ通りなどでビラを配る。 引用終わり

毎日新聞 2009年3月30日 大阪朝刊

 

 

 ところが、この本多氏の経歴及び証言には数々の疑問点が指摘されています。

 まず、ジャーナリストの水間政憲氏による「捕虜殺害から従軍慰安婦問題まで中国で土下座行脚する『戦争の語り部』の大嘘」と題した「SAPIO」平成十七年九月七日号p三十〜三十三の記事での指摘では主なところだけでも下記の様になります。

(写真は支那で土下座している本多氏)

 

支那人捕虜殺害

 本多立太郎氏は著書の中で自分がやったという捕虜刺殺について書きのように書いています。

<ある日、我々は六十名ほどの小隊で、十人ほどの捕虜を連れて歩いていました。すると待ち伏せをくって、突然四方から弾が飛んできた。とうてい捕虜をつれて歩くような状況ではありませんから、当然うちの隊長は「放せ」と言うと思っていました。しかし、彼はタダ一言、「処分せい」。つまり殺してしまえと言ったのです。

 銃剣で捕虜を一人ずつ岸辺の方に行く事を強制し、水車小屋を背にして立たせる。胴と足を柱にくくりつけ、こっちを向かせる。十メートルくらい離れた所で銃剣を構え、やーっと叫んで、ダーと走ってグサリと突く。抜く。傍らの兵が縄を切って川に蹴り落とす。捕虜は流れていく。>

「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊)p三十一

本多「昭和十四年十月、新兵として、私は訓練の中で、一名の中国人捕虜を自分の手で殺した。

 この悪夢は一生忘れません。」

 「私は、中国人捕虜を殺しました。捕虜が『あぁー』と長江の流れの中に沈み、血が長江の中からさかんにわき上がっていた。あっちこっちに死体があった。私は永遠にその時の『あぁー』の声を忘れない」>

(支那における講演にて)

引用先は「SAPIO」平成十七年九月七日号p三十一

 

 

 この「SAPIO」にある支那での発言のソースが不明でしたが、探していたらネットの新華網の記事にありました。

<「私は中国人の捕虜を1人殺した。彼は両手を縛られていて、こっちを向いて笑ったんだ。夕日が当たって金色の顔になってた・・・。」 日本軍の将校が軍刀を振り回し、「早く彼らを処理しろ!」と力の限り叫んでいた。私はぶるぶる震えながら、彼の胸に刀を入れた。彼は「ぎゃー」と叫び、長江の大波の中に消えて行った。その血が長江の中で逆巻いていたよ。四方に死体が転がっていた。それが我々が犯した罪だったのです。

 私は彼のその叫び声と金色の顔を永遠に忘れることはできないだろう。」>

二〇〇五年五月十九日新華網 

 片や作戦中、片や訓練と違っているが、捕虜を刺殺したと言っている。

 これに対して、本多氏が属していたと言っている五十一連隊第二大隊六中隊の伊藤良治氏(当時八七歳)の証言

「まったく、話にならない。そもそも、本多氏が六中隊に本当にいたとすれば、六中隊が駐屯していたのは、金檀から約二十キロ南西の下新河です。下新河から長江は六十キロぐらい北で、六中隊は行く事はほとんどない。当時、そんなことがあったら大事件で、我々六中隊のものが知らないはずがない。

どうしてこんなデタラメをいうのか」

(ちなみに、金檀から長江までも四十キロもあることになる。)

つまり、本多氏はひと突きで捕虜を長江まで四十〜六十キロもぶっ飛ばしたことになります。

 SAPIOに掲載されていた第五十一連隊の部隊配置図

 

  金檀   五十一連隊本部 

      第二大隊本部

 

 漂水   第一大隊四中隊

      第一機関銃中隊

 下新河  第二大隊六中隊

 黄塘鎮  第三大隊七中隊

 天王寺鎮 第三大隊九中隊

 句蓉   第三大隊本部 十中隊

 丹陽   第三大隊十二中隊

 

本多氏は「戦争出前噺」において下記のように断言しているような人物であるから、物事において矛盾というものを感じないのであろう。

常本:

略)

これは一部は伝聞も入って、ちょっと脚色をしているよというような意味なんでしょうか。

本多:それはないですね。

常本:100%ありませんか。

本多:絶対ありません。特に僕は語り部という言葉が大嫌いなんです。語り部の"部"はね、会社の営業部、総務部の部なんです。そうするとね、語る役目だから語るってことなんです。僕は役目だから語っているわけではないんです。自分が体験した事実だけを聞いてもらおうと。「そっと置く」という表現はつまり聞いていただくということですから。ですから私の言葉でいう、証言でないからって言って推論が混じっているということは全くありません。

略)

常本:まぁ、私の聞いた範囲ですけれど、ある人によったら、本多さんがなさっている一番刺激的な部分と言いますか、捕虜刺殺の部分、そこはちょっとディテールに欠ける部分もあって、まぁその人は戦争出前噺をよく聞いているんでしょうね、そこだけは伝聞じゃないかという声も聞いたんですが、それもないですね。

本多:ないです。

常本:100%ないですね。

本多:ないです。戦場を語っている限りはないです。>

「戦争出前噺」P四十六〜四十八

 因に、本多氏は水間政憲氏の「捕虜殺害から従軍慰安婦問題まで中国で土下座行脚する『戦争の語り部』の大嘘」と題するサピオの取材記事に関して下記のような事を述べている。

以下引用

<本多:実は小学館の発売している「サピオ」という雑誌に、あるジャーナリストと称する人が証言をして表題に"本多立太郎の大嘘つき"と。

 それを僕が知らないうちに人が調べてきてくれて、周囲の者はとんでもない名誉毀損で訴えたらと。私はね、その記事の冒頭に、本多立太郎を直撃したと書いてあるんだけど、ジャーナリストが直撃したということは直接取材したということですよね。

 ところが僕は全然見もしない、もちろん取材もされたことがない。

略)

本多立太郎の捕虜刺殺の事件を被害者の我々がそれを実証しようじゃないか。

 それでねぇ、南京の近くの金檀という街のハン・ガクキ先生という年配の立派な学者さん。その先生がチームのトップになってプロジェクトチームをつくって、女性から会社の社長だとかそういう土地の人たちが丹念にそれを掘り起こしてくれた。

 そうしたらね、なんと一九三九年、昭和十四年、私が八月に中国に渡った、その年の十二月に黄金山という陣地掃討作戦、私の歩兵第五十一連隊史にあるんですよ。あれは大激戦だったらしくて十七人の戦死者がでる、日本の。これは珍しいんですよね。

 そういう作戦のなかで、一九三九年の十二月八日にこの金檀の近くの村へ共産軍の兵隊が一艘の船に十体の死体を乗せてその村に運んできて葬ってくれと言って去った。ところが他人の死体を自分の墓に入れるわけにいかんからといって村の人が三、三、四と分けて、三艘の船で八百メートルぐらい離れたところへ運んでそこで埋めて塚を建てた。それを突き止めて、その時に運んだまだ青年だったおじいさん二人とその時子どもだった少年ひとり、この三人を見つけ出してきた。

 そうして私を呼んだんです。

で、今年の五月に僕は中国へ行って、それでそこまで連れていかれた。その人たちはねぇ、全く好意でやってくれているんだけれども、その結果がねぇ、自分の犯した犯罪を実証することになる。

 そうして村の人がわっと集まってきて、このなかにねぇ、自分の父が兄がと言って胸倉つかまれたら俺はどうするかっていう。同行したなかに片山通夫さんがいたんですが、私はもうまるで死人のような顔色であったと片山さんは言っていますけどね。その塚にはちゃんと一九三九年十二月八日と碑(日?)が入っているんですよ。五十一連隊史とつき合わせるとピタリとあう。ですからそのひとつを見ても私はウソを言ってない。

ですからこれはもう言いがかりであってね、言い訳をするつもりは全くありません。

常本:本多さんは反論をするつもりはないと。言いたい者には言わせておけと。そうすると意地の悪い勘ぐりようによっては反論できない、つまりウソだとなりますが、そうじゃないということですね。

本多:そう。だからいつでも来なさいと。その反論はちゃんと書いてメモにして持っています。

常本:なるほど。今日はそのジャーナリストを連れてきたほうがよかったですね。

本多:だからね、僕はむしろ一緒に、小学館へ行けばそれが誰だかわかるんだから、その当人と二人でね、現地へ行きたかったの。おそらく彼は行かんでしょうね。とても恐ろしくて行かんでしょう。>

「戦争出前噺」P五十〜五十二

 ところが、本多氏の小隊で連行していた捕虜の数は、

<あるとき、我々の小隊(六十名程)で十五名ほどの捕虜をつれて歩いていました。>

「ボレロが聴きたい」p三十一(一九八六年大阪経済大学 池野ゼミでの講演にて)

<僕のいた部隊が十人ぐらいの捕虜を連れて歩いていたんです。>

「中帰連二十八」p四十八(二〇〇四年三月刊)

<ある日、我々は六十名程の小隊で、十人程の捕虜をつれて歩いていました。>

「戦争出前噺」p三十一(二〇〇八年刊)

 これって、支那人の調査が全然あてにならない事になりませんか。

 

 ましてや、支那では農村部では農歴という旧暦を使っているそうなので、

<その塚にはちゃんと一九三九年十二月八日と日が入っているんですよ。>

という日付はどうなんでしょう。

 水間氏にはぜひ詳しい取材経路をお教えいただき、本多氏の嘘を暴いていただきたいものです。

 

   

本多立太郎

慰安婦についての追記

9月16日木曜日雨 △

金檀でいつも本を読んでいて、慰安所には一度も行った事がない。」という非常に真面目?な本多氏ですが、

<「その当時、金檀に日本軍が造った慰安所があった。十六名の慰安婦がいた。少数の日本人と朝鮮人以外、大部分は十六、十七歳の女性であった。

 彼女たちはほとんど無理やり強制的に性奴隷にされた」

(本多氏談>

「SAPIO」P三十一〜三十二

<「慰安所」には十人、いや十五人ぐらいの女性たちがいました。日本の人と朝鮮の人と中国の人と。

 兵隊の階級に合わせて、将校は日本の女性、下士官は朝鮮の女性、兵隊は中国の女性でした。

 略)

 日本からの女性というのは、当時は売春禁止法の施行以前だから、吉原などの遊郭から来た女性たちで、三十代から四十代の人だったんです。朝鮮半島の、いわゆる強制連行をされてきた女性たちは二十代半ばぐらい。戦場で捕まえられて連れてこられた中国の女性たちは十代です。>

「中帰連 二十八」p四十五

 と行った事もないはずの慰安所にみょうに詳しい・・・・

 これについて、伊藤氏はサピオにて「金檀に慰安所はあった。でも経営していたのは台湾人だ」 と証言しています。

 そして、我が国の女性慰安婦が三十〜四十代で、<兵隊の階級に合わせて、将校は日本の女性、下士官は朝鮮の女性、兵隊は中国の女性でした>と いかにも、日本女性>朝鮮人女性>中国人女性という書き方をしているが、日本女性でも若くとも慰安婦をしていた方もいたし、日本女性でも将校以外の相手をしていた方もいた。

 それは日本人女性の慰安婦の方の数少ない証言をされた山内馨子さんなどの証言でも明らかです。

 

 本多氏が「属していた」という十五師団の軍医部による衛生業務要報が手元にある「従軍慰安婦資料集 吉見義明 大月書店 平成四年刊」に掲載されていました。

 残念ながら本多氏が属していたという昭和十六年ではなく昭和十七年十二月から十八年二月まで三回分の検査資料です。

 

 特種慰安婦検診ノ状況

 昭和十七年十二月一日〜三十一日

地方別 検査回数 平均一日現在人員

検査延べ人数

内地人

検査延べ人数

半島人

検査延べ人数

中国人

検査延べ人数

南京 四百三十三 七百四十九 五十 六百十二 千四百十一
蕪湖 三〜四 七十六 百二 八十二 百五 二百八十九
金壇 四〜五 三十   二十七 九十 百十七
鎮江 二十九     百十四 百十四
  五百六十八 八百五十一 百五十九 九百二十一 千九百三十一

 昭和十八年一月一日〜三十一日

地方別 検査回数 平均一日現在人員

検査延べ人数

内地人

検査延べ人数

半島人

検査延べ人数

中国人

検査延べ人数

南京 四百十三 千七 百十三 五百十三 千六百三十三
蕪湖 二〜四 七十三 八十八 七十三 百二十九 二百九十
金壇 二〜四 二十三   十二 五十四 六十六
鎮江 三十一     百二十四 百二十四
  五百四十 千九十五 百九十八 八百二十 二千百十三

 

  昭和十八年二月一日〜二十八日

地方別 検査回数 平均一日現在人員

検査延べ人数

内地人

検査延べ人数

半島人

検査延べ人数

中国人

検査延べ人数

南京 四百三十七 九百四十八 五十一 五百五十七 千五百五十六
蕪湖 三〜四 九十七 百十四 九十三 百三十九 三百四十六
金壇 十一   十九 二十二 四十一
鎮江 三十九 十二   百四十三 百五十五
巣県 三十四   十一 九十一 百二
漂水     三十 三十
  六百二十八 千七十四 百七十四 九百八十二 二千二百三十

                       

「従軍慰安婦資料集 吉見義明 大月書店 平成四年刊」P二百七十三〜二百七十七

*金檀は吉見氏の資料集では金壇となっています。

 昭和十七年十二月から十八年二月までの三ヶ月間の資料しかございませんが、

少なくとも本多氏が証言されている金檀にあったという慰安所においては、

 朝鮮人(半島陣)十二〜二十七人、支那人(中国人)五十四〜九十人の検査をおこなっていますが、日本人(内地人)はゼロです。

 これは、

<十六名の慰安婦がいた。少数の日本人と朝鮮人以外、大部分は十六、十七歳の女性であった。

 彼女たちはほとんど無理やり強制的に性奴隷にされた>

<「慰安所」には十人、いや十五人ぐらいの女性たちがいました。日本の人と朝鮮の人と中国の人と。

 兵隊の階級に合わせて、将校は日本の女性、下士官は朝鮮の女性、兵隊は中国の女性でした。

 略)

 日本からの女性というのは、当時は売春禁止法の施行以前だから、吉原などの遊郭から来た女性たちで、三十代から四十代の人だったんです。朝鮮半島の、いわゆる強制連行をされてきた女性たちは二十代半ばぐらい。戦場で捕まえられて連れてこられた中国の女性たちは十代です。>

 という本多氏の証言は、この資料集で見る限り金檀の慰安所は朝鮮人と支那人のみで構成されているようであり、慰安婦の大部分が支那人であるというのは無理がある。

 ましてや、本多氏自身も書いているように、当時売春は合法であり、職業として存在していた。地元民の反抗をかってまで強制的に連行して慰安所を開く必要性がない。

  そのため、日本人の売春婦も多く海外に進出していた。

 それは、この資料がよく現しているように売春婦の最大数は日本人が占めている。

 慰安婦の民族構成については、秦郁彦氏の著書「慰安婦と戦場の性」(新潮選書 平成十一年)にもその事が掲載されているが、満州と支那に関しては外務省の領事館警察統計の中に接客女性の計数が記録されている。

 秦氏はこれより、支那における日本人、朝鮮人の比率を二対一、満州においては三対一としている。

そして、内地における公娼数は昭和十二年(一九三七年)の二一万三千人から昭和十五年には一七万五千人、昭和十七年には一四万六千人へとそれぞれ約四万人、六万人も減少している。

 他の業種への転業者もいただろうが、領事館警察統計の支那、満州を合わせた約三万人の日本人接客女性数にほぼ見合う数字である。大陸へ出動した内地人男子(一般人を含む)の需要に応じてのことだろう。

(「慰安婦と戦場の性」P四百八)

 そして、同書に書かれている 「経営者とか親方とか呼ばれていた業者(夫婦の例が多い)との関係をみると、内地人はどんな人種の女性もつかっていたが、朝鮮人の親方が内地人を雇う例はまずなく、ほとんどが朝鮮人女性だった。中国人業者と中国人女性の関係もそれに近いが、 オランダ政府の報告書によると、バダン(スマトラ)ではインド人業者の下で二十人の白人女性が働く慰安所があり、ペカロンガン(ジャワ)では中国人業者の下で二十三人の欧州人女性が働いていた。総数は明確を欠くが、旧蘭印における欧州人慰安婦を二百〜三百人と推定している」

(同書P四百九〜四百十)

 この第十五師団の慰安所においては、金壇が朝鮮人、支那人のみの構成となっていることは台湾人経営者という伊藤氏の証言を秦氏の文章が裏付けているものではないでしょうか。

 それと同時に、本多氏の証言の否定にも繋がるのではないでしょうか。

 今日はメチャヒマ。

 Iさん来店。Yさん来店。

 ということで、早い時間からドンチャン。

 でも記憶あり。

 サルよりマシ。


 

本多立太郎への素朴な疑問

支那人美少女との交流についての疑問追記

9月14日水曜日晴れのち雨 △

本多立太郎氏の支那人家族との「不思議な」交流。

 本多氏「私は、毎週日曜日、金檀公園に行き、本を読んでいた。ある日、美しい中国人少女を見ました。とても歌の上手な少女でした。

 ある時、一曲歌ってくれませんか、というとその少女はものすごく怒りました。

 『私が歌う唄は、国の為に戦死した勇者の為で、あなたたち日本人の為には歌いません』と言って桃林の方へ走り去った」

「SAPIO」平成十七年九月七日号P三十二より

 これと同じような、しかし、背景が全く違うエピソードが本多立太郎氏の著書「ボレロが聴きたい」にもあります。

以下引用

<我々の駐留した金壇の小公園で知り合った少年がおりまして、休日ごとに高い城壁の上に足をぶらんぶらんさせながら、日本や家族や未来の夢などを語りました。

 中学一年生くらいの彼は、戦争が終わったら日本に留学するんだと瞳を輝かせます。私自身そうすることで自分の望郷の念をいやしていたのです。それほど眼下に広がる白壁の農村風景は日本の田舎のそれとそっくりでした。こうしてその少年の家族、県公署に務める父親や母親とも親しくなりましたが、その中でただひとり、当時高校生だった姉だけは身をかくして私を避ける様子でした。しかし、そうであればあるほど、一人の若者として異国の少女への関心が深まっていったのも、これまた当然で、諸君にも大いに見に覚えがあるんじゃあないですかと思います。

略)

 それは、春の一日の出来事でした。城外の梅林に一家の花見の宴が開かれて、私も招かれました。硝煙の匂いに包まれる身としては夢のような幸せ、の一日でした。私はその幸運に少し酔いすぎたようです。宴の半ばに、父親は娘に向って得意の歌を所望しました。なかなか立ちませんでした。そのうちに、彼女はすっくと立ち上がると私を鋭く見据えて切り捨てるように叫びました。

 「私には、殉国の勇士に捧げる歌はあっても、祖国の仇敵に与える歌はありません」

 そのまま娘は青衣の裾をひるがえして梅林の奥へ走り去りました。私はその意味を覚りました。

 娘は林の奥の老樹の下に面を蔽って佇んでいました。その青衣の細い肩が赤い花片をのせて細かく揺れています。私はその限りなく可憐な姿の前に立ち、項垂れて咳くように、しかし心をこめてこう言いました。

 「いつの日か、貴方の幸福の歌を聞かせていただく日を私は待っています。その日こそ私達に日本人にとっても本当に幸せな日となるでしょう。心からそう祈っています。」

 そのまま私は

 やがて部隊に出動の命令が下り、我々は軍装して兵舎から城門に向いました。石畳の道に軍靴を鳴らして行進する私の胸の中に、一人の少女の顔が鮮やかに浮かんできます。しかし、彼女が私に対して持つものは激しい憎しみに外ならない。兵士の心は揺れました。突然、列中に少年の姿がひらめき、私の掌中に一枚の紙片を残し「姉が・・・・」と低くささやいて消えました。

胸を轟かせながら披いたその紙片には、墨痕も鮮やかにこう書いてありました。

 君 我同胞を傷つくる勿れ

 君 死に給う事勿れ

 私は思わず顔を上げ眼を辺りに泳がせました。そしてそこに見たのです。黙々と見送る市民たちの後ろに、頷いている小さな白い顔を。その時それは私の生命でした。いきなり私の身につけた総てを投げ打って、少女の前にかけよりその手を取って、殺すものか、死ぬものかと叫びたい衝動にかられました。

 しかしそのかわりに、私は彼女に向ってちょっと肯づき、微笑みました。少女もまたちょっと肯づき、微笑みましたが見る見る、その黒く大きな瞳に涙が溢れてきました。涙は細い頬を伝わって落ちました。涙は同じように溢れて止まりませんでしたが、私は前を向きました。ぐいと背のうを揺すり上げ、江南の長く白い道に向って胸を張りました。

 君 我同胞を傷つくる勿れ

 君 死に給う事勿れ

 私は心に誓いました。たとえ死なぬという約束は守れなくても、殺さぬ誓いは守り通そう、と固く心に決めました。それはまさに一人の兵士の新しい門出でした。>

「ボレロが聴きたい」P三十六〜三十八

 これについては水間氏のサピオの記事に下記のように掲載されています。

 

 五十一連隊第二大隊六中隊の伊藤良治氏(「SAPIO」平成十七年九月七日号掲載当時八七歳)は

「なに、アホなこと、言っている!前にも言ったが金檀―下新河間は二十km離れている。毎週金檀の公園に本を読みに行く事等ありえない。  また、六中隊に中国語を話せる兵士など誰もいない。台湾人の通訳がいたが」

 同じく第五十一連隊第一機関銃中隊・加藤又一氏(「SAPIO」平成十七年九月七日号掲載時九三歳)は

「初年兵は、休日には先輩の洗濯等の雑用がいっぱいあり、常に臨戦態勢。ゆっくり休む事などできない。

 しかも、金檀城内の中国人は日本人を怖がるようなことはなかった。昭和十五年には、日支合同運動会や金檀住民が日本軍のために慰問演芸会を開いてくれたこともある」 (歩兵第五十一聯隊史より)

 水間氏が再度、本多氏に中国語を勉強したのかと確認すると

「いやいやなにもしない。中国語はまったく。これから少し勉強しようかなと思っているけど。

 金檀の公園で本を読んでいたのは事実だ」

「SAPIO」P三十二

本多氏は自身の著書の中でも支那語については下記のように書いています。

 <そこに現れたのは捕虜にした若者の母親のようでした。何かを叫んでいる。

「私の息子をどうするのか。返してほしい」と叫んでいるのはわかりました。その必死の表情で分かります。すると母親は河に飛び込んだのです。舟の中の捕虜の若者が叫ぶ。言葉がわかりませんが、しかし・・・・>

 「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊) p三十九

<一九四一年の二月、揚州作戦が始まり、私達の部隊も参加しました。

略)

走り出てきたのは一人の老いた女性で、岸辺の柳にとりすがって、しきりに何かを叫んでいる。

 中国語は分からなくとも、私達へいたいにはすぐのその意味がわかりました。

「そこにいるのは私の息子です。兵隊なんかじゃありません。どうか返してください」

 そういっているに違いありません。>

「中帰連 二十六」P六十二〜六十三

 このように本多氏は水間氏とのインタビューだけでなく、自身の著書でも支那語は話せないことを明らかにしている。

 つまり、話す事もできない支那語なのに、支那人少年と夢や未来を語り、少女が言った言葉は理解し話をしたと言っているのです。

 あほらし。

 「一応」日本人とされる人間のゴミと屑との党首選が終わったそう。

 どうでもいいが、人民解放軍の野戦司令官が勝たなかっただけでもまし。

 

 今日は珍しく早い時間から大勢のお客様。

  

 Tさんスペインよりのお客様アグスティンさんと来店。

 アンナさんAさんと来店。

 Sさん二名様で来店。

 Wさん御夫妻来店。

 銭湯帰りのマロさんニダーと言いながら来店。

 マロさん、金ちゃんと同じ駅に引っ越されたそう。

 早い時間からドンチャン。

 記憶は途中まであり。

 サルよりマシ。


 敗戦の体験談として

 本多氏「一九四五年日本が敗れた時、六中隊の中隊長が兵舎から飛び出して『日本が負けた』と大声で泣き出した。その時私が『我々はやっと家に帰る事ができる』というと、中隊長と一緒に笑った」

 これに対して、第五十一連隊第一大隊四中隊 中隊長だった佐藤博志氏(取材時八十三歳)は

酒井重信第六中隊長は、インパールで戦死しています。なんて、でたらめな・・・・・・  第一中隊から第十二中隊までで、十名の中隊長がインパール戦で戦死しました。

 これほどまで英霊を冒涜する日本人がいることは堪え難いことです」

 佐藤氏も第四中隊長としてインパール戦に参戦し、今でも体に銃弾が残っている。

 

本多立太郎の軍歴についての疑問

9月10日金曜日晴れ △

 本多立太郎氏の軍歴についての追記です。

 本多氏は著書の中でご自分が入隊したのは

<一九三九年、昭和十四年五月に召集。

略)

 それで札幌の連隊に入り、それから中国へ、南京と上海のちょうどまん中へんに江蘇省金壇という所がありまして、そこに駐留する部隊に配属され、もう上陸して直ぐ弾丸の下という、殺さなければ殺されるという凄惨な日々を過ごす事になりました。

 そして次の年ですか、一九四一年の五月に召集解除になって一端家に帰りましたが一年十ヶ月ほどでまた召集。今度は北千島へ持っていかれました。北千島幌筵島、つぎに占守島という一番端の島まで行って、そこで一九四五年八月十五日を迎え、やれやれこれで帰れるかと思いましたら、その年の十二月にそっくりそのままシベリヤへ持っていかれました。>

「ポレロを聴きたい」p四

<召集先はどこですか。

本多 札幌歩兵第二十五連隊です。いよいよ戦地に送られる事になって、札幌から小樽に軍用列車で行くわけですが>

「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊)p三十七

p三十七の欄外に、注としてのちに第五十一連隊に転属となったとあります。)

<最初の召集は札幌です。札幌の月寒にあった歩兵第二十五連隊です。>

「中帰連二十七」p五十八 

<一九三九年が最初の出征ですが、送られたのはどこですか。

 本多 上海からトラックで一時間。着いた日から弾が飛んできた。ひどいもんだった。>

「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊)p三十八

<帰郷し入隊して三ヶ月の教育訓練を受けた後、中国へ送られることになりました。

 八月の暑い日でしたが、札幌駅前の広場に叉銃して休憩しておりますと、周りを取り巻いて>

「ポレロを聴きたい」p二十一

<その時、私と同じ中隊から中国に渡ったのは二十五人でした。二年半後、共に帰ったのは二人です。四、五人負傷して先に帰りました。同じくらいの数が志願して大陸に残りました。後はみんな死んでしまった。>

「ポレロを聴きたい」p二十四

<一九四一年、昭和十六年の二月十一日から、揚子江渡河に始まる「揚州作戦」が始められました。>

「ポレロを聴きたい」p二十六

一九三九年、昭和十四年、私が八月に中国に渡った、その年の十二月に黄金山という陣地掃討作戦、私の歩兵第五十一連隊史にあるんですよ。>

 「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊) p五十一

<昭和十八年三月に始まる二度目の応召は、最初から釦を一つずつ掛け違えたようなおかしさがあった。

 略)

 旭川歩兵二十六連隊の正門前に机を並べて受付が出来ていた>

「ポレロを聴きたい」p六十一〜六十三

<我々が北千島幌筵島柏原湾に上陸した昭和十八年五月>

「ポレロを聴きたい」p六十七

<一九四三年三月、再召集を受けました。今度は千島列島の北の端、北千島に連れて行かれました。>

「中帰連 二十八」p五十二

 これがこの本多氏の著書に掲載されている入隊した連隊を記した軍歴です。

 これより、本多氏は

 昭和十四年五月東京の朝日新聞社に勤めている時に、召集にて札幌の歩兵第二十五連隊に入隊。

        入隊して三ヶ月の教育訓練を受けた後に軍用列車で札幌より昭和十四年八月支那大陸へ。

        江蘇省金壇に駐留する歩兵第五十一連隊に配属される。

 昭和十六年二月十一日からの「揚州作戦」に参戦

 昭和十六年五月に召集解除

        二年半後、共に帰ったのは二人。

 昭和十八年三月に始まる二度目の応召

        旭川歩兵二十六連隊

 昭和十八年五月

        北千島幌筵島柏原湾に上陸

        その後、占守島に移る。

 昭和二十年八月十五日       

        占守島にて終戦

 昭和二十年十二月

        シベリヤへ送られる

 昭和二十二年八月

        舞鶴に帰る。

 以上のような軍歴になります。

 

 本多氏は昭和十四年五月に札幌で札幌歩兵二十五連隊に入隊後、軍用列車で札幌をたち、同じ中隊より二十五名がのちに少なくとも昭和十四年八月には支那にて歩兵第五十一連隊に転属した事になっています。

 二回目の召集は書いてあるように旭川歩兵二十六連隊です。

 最初に本多氏が属した札幌歩兵二十五連隊は支那大陸へは昭和十三年三月徐州会戦に参加し、翌昭和十四年五月、ノモンハン事件にも参加しています。

 しかしながら、昭和十五年十月に帰還しております。

 そして、昭和十五年十一月より樺太・敷香町に移駐し国境警備に当たります。

 昭和二十年四月同じく樺太・逢坂に移駐し、八月十五日の終戦後より二十三日まで、卑劣なソ連軍と戦闘します。

 終戦時所在地・樺太

 本多氏が二回めの召集にて属した旭川歩兵二十六連隊の場合はどうでしょう。

 終戦時所在地・帯広

  ちなみに、二冬を過ごし、終戦を迎えた「はず」の占守島では陸軍の主力は第九十一師団で、その創設は昭和二十年四月十二日。

 その最終所属部隊である歩兵七十三旅団、歩兵七十四旅団は旭川で編成されているが、両旅団とも昭和十九年四月十二日に編成されている。

 私が持っている本多氏の著作物において、占守島における具体的な所属を書いたものは無い。

唯一下記のような記述があるだけです。

<いよいよ北海守備隊第何部隊ということになって旭川出発の軍装検査でえらいことが発覚した。>

「ボレロが聴きたい」p六十五

<そういう土地で、僕は二冬を過ごしました>

「中帰連 二十八」p五十三

 本多氏はこのように旭川歩兵二十六連隊に入営後の軍歴があやふやです。特に二冬を過ごしたという占守島における具体的な記述は無い。

 もちろん、占守島における主力部隊第九十一師団への転属も書かれていなければ、最終所属部隊である歩兵七十三旅団、歩兵七十四旅団についての記述もない。本多氏が所属していたという歩兵第五十一連隊の金壇における各種記述とは大きな違いがある。

 

  本多氏は「SAPIO」に書かれていたジャーナリストの水間政憲氏による「捕虜殺害から従軍慰安婦問題まで中国で土下座行脚する『戦争の語り部』の大嘘」と題した「SAPIO」平成十七年九月七日号p三十〜三十三の記事について、著書「戦争出前噺 ――元日本兵は語る 」 (みずのわ出版 平成二十年五月刊)において、その水間氏の記事を否定しながらも自らは「歩兵第五十一連隊に入隊していた。自分が除隊したあとで歩兵第五十一連隊南方へ行きそしてビルマのその作戦に参加している。」と語っています。

 確かに、歩兵第五十一連隊だと、

 昭和十八年六月 ビルマ方面に移動

 昭和十九年インパール作戦参加

 そしてタイ・ワンボウにて終戦ですので、本多氏の第一回目の召集から召集解除まで支那にて移駐していました。

本多氏は第五十一連隊に転属したときの事を下記のように書いている。

<札幌を出発する時、中国へ行くということを知らされていたんですか。

 ええ、歩兵五十一連隊に転属するという命令でしたからね。三重県の津に原隊のある部隊です。>

「中帰連二十六」p六十一

 

 我が国の陸軍の構成は、大正十四年に第十三・十五・十七・十八師団が軍縮により廃止され十七師団になったのち、大東亜戦争開戦時には六十六個師団、終戦時には百九十二個師団となりました。

 第十五師団(通称祭 敦賀)はビルマ戦線において、第十五軍を三十一師団(通称・列 甲府)、三十三師団(通称・弓 宇都宮)そして、予備としての五十三師団(通称・安 京都)とともに構成し、 兵力二万五百八名のうち一万五千二百七十三名もの戦没者を出す。

 手元にある陸軍最終配置図によると、五十一連隊の属する第十五師団は第十八方面軍(中村明人中将)第十五軍の第十八方面軍直轄部隊として、タイ・カンチャナブリとなっています。(渡左近中将)

 「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 悲劇の戦場 ビルマ戦記」(潮書房 昭和六三年刊)P三九

「日本帝国の最後」(新人物往来社 平成十五年刊)P百九十八〜

 帝国陸軍の場合、連隊を編成している兵はその管轄地域の徴兵によって充足されるため、東京の近衛連隊以外はその連隊はそれぞれ出身地別に分かれる場合が多いはずです。

 牧野弘道氏の著書「戦跡に祈る」(産經新聞社)などでも五十一連隊と十五軍を形成していた三十三師団(弓兵団)・歩兵第二百十五連隊のビルマ・マンダレーにある慰霊碑の事が出てきます。

 高崎連隊である第二百十五連隊は群馬県、長野県の出身者で構成されていました。

 そして、歩兵第五十一連隊は三重、京都、奈良の出身者で構成されていました。

 三重県護国神社内にある「歩兵第51連隊慰霊碑」の碑文は下記のようです。

「聯隊は明治38年創建、樺太等に出兵、爾後神都守護の大任を以て、三重縣久居市に駐屯す。 然るに大正14年5月、軍縮により廢止せらる。 昭和13年7月、日華事變の擴大に伴ひ再建、三重、京都、奈良で編成を完結、第15師團の隷下に入り同年8月渡支、南京東南地區に分駐し、治安警備並に各作戦に参加、赫々たる武勲を収む。 大東亜戰急を告ぐるや、昭和18年8月ビルマに轉進、インパール作戦に加はり眞に特攻精神を發揮す。 昭和20年8月15日大命により終戦。 此の間軍旗の下盡忠報國祖国繁栄を祈念しつゝ國家の人柱となられた戦友は實に4千有餘柱に及ぶ。 茲に護國の神となられた英霊の名を誌し供華臺に納め鎮魂の碑となす。 昭和51年4月 歩兵第51聯隊 (祭第7370部隊)生存者一同」

 

 このように、歩兵第五十一連隊は三重、京都、奈良の出身者からなる連隊です。その連隊に北海道出身であり東京有楽町で働いていたはずの本多氏は、召集で一端札幌の歩兵二十五連隊入隊」し、その後、どのような経過で「三重、京都、奈良出身者」で編成されている歩兵第五十一連隊に入隊したのか。

 その経過がこの本多氏の著書「ポレロを聴きたい」「戦争出前噺」には書かれておりませんでしたが、「中帰連二十六」と「中帰連 二十八」には下記の様に書いています。

<この五十一連隊に入ってみて驚いたんだけれども、連隊のなかで一番古い兵隊は東京・神奈川あたりから来ている四年兵なんですが、これがなんと二・二六事件に参加した兵隊なんだ。あの時の反乱軍の将校は処罰されて、兵隊は関東軍に転属されて満州に行かされたんだけども、それが残っておったんだね。

略)

だから荒れて荒れて、そりゃもう怖いのなんの。将校が命令したって動かないしね。彼等古参の関東の兵隊の下に京都や三重いった関西出身の兵隊がいたのですが、さんざんいじめられましたよ。そこへ今度は僕たち関東や北海道の兵隊でしょう。そこへもって、ついに四年兵たちも召集解除になって帰っていってしまった。関西の兵隊たちが最古参となりやりたい放題です。もうさんざんやられましたね。

 この恨みは忘れませんよ。

 そしたら、また、私達の下に関西出身の兵隊が来た。今度は俺たちの番だって(笑い)。いや全く軍隊なんてこんなものだね。>

「中帰連二十六」p六十一

<我々はもともと中国戦線ではなく、本当は対ソ連戦、ノモンハン戦のために召集されたんです。僕らは一九三九年の五月に召集され、三ヶ月の教育を受けて、やっと兵隊として役に立つようになってみたらノモンハン戦はその月に日本が惨敗して終わってしまった。それで中国戦線へまわされたんだね。>

「中帰連 二十八」p四十一「証言 戦争を語り続けて」

 それに対して「誰も書かなかった日本陸軍」には、日本帝国陸軍の編成について下記の様な記述がある。

<陸軍の歩兵隊の兵員は、その歩兵隊のある師管の連隊区から徴集するのが原則である。

 したがって、歩兵連隊の場合は、同じ連隊区から徴集されているので、出身地が同じで、近隣の人達が多く、郷土部隊になる。それだけ団結心も助け合う心もあり、軍隊から帰ってからでも、家族ぐるみで付き合い、家族のような親密さが保たれる。>

「誰も書かなかった日本陸軍」p百一

 本多氏の記述とは大きな違いである。

 写真は築地本願寺にある蓮。

 花も散り、葉も少し茶色の部分が目立ち始めました。

 暑い日が続いていますが、少しずつ秋めいて来ているようです。

 

 

 今日は珍しく大忙し。

 初めてのおお客様Fさん三名様で来店。

 バンブーさん来店。

 Oさん、Iさん二名様で来店。

 Sさん二名様で来店。

 初めてのお客様Hさん来店。

 Wさん御夫妻来店。

 いよいよ麻布十番に移転されるそう。

 Sくん来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 Yさん二名様で来店。

 大阪からIさん来店。

 Tさん来店。

 ドンチャン。

 営業終了後、ホロン部員Yさんのお勧めという大塚のビールバーへ、Sくん、Iさんとともに伺う。

 今日はそれなりに記憶あったと思うが、タクシーを降りた後の記憶がない。

 でも、サルよりマシ。


 本多立太郎

 第五十一連隊における所属中隊についての疑問追記

9月12日日曜日晴れ ○

 <まず大阪の天保山桟橋から船で上海へ行き、さらに揚子江をさかのぼって南京の下関に上陸したんです。それが一九三九年の九月頃です。それから連隊本部のある江蘇省の金壇というところにトラックで運ばれました。私の所属したのは第六中隊ですが、金壇より南に行ったところに長蕩湖という湖があり、その湖畔の下新河という場所に中隊本部がありました。

略)

 下新河ではトーチカ勤務です。橋のたもとにあるトーチカにたてこもって警備するわけです。

略)

 中隊勤務の時は兵営で寝起きしますが、トーチカ勤務で交代となれば、二、三日はトーチカで眠ります。>

 「中帰連 二十六」P六十一〜六十二

 

<我々のいた金壇は警備地域で治安がいいほうなのですが、いくら治安がいいといっても襲撃されることもあります。

 金壇には連隊本部があったのですが、そこではこんなことがありました。ある将校が床屋さんで髭を剃らせていた。そうしたら突然、床屋に剃刀で首を切られて殺されたんです。

 略)

 ともかくそんな調子でしたからね、この二年間はほとんど気の休まる時なんてありませんでした。金壇には城壁があって、その城壁の上で足をぶらんぶらんさせて下を見下ろしたりなんて事はできませんでした。>

「中帰連 二十八」P四十三

同じ本に掲載されている証言で下記のように全く違う事が書かれている。

<トーチカ勤務から本部のある金壇に帰って集結している時は、日曜日ごとに外出があって、兵隊たちの行き先には「慰安所」もありました。

略)

幸いにして僕は「慰安所」を利用するようなことはなかったんだ。これは親父のおかげです。

略)

毎日のように本を小包で送ってきた。岩波文庫を。

略)

「戦地で忙しいだろうけど、これを読んで、その感想を送ってよこせ」と。怖い親父だったからね。感想を書き送りましたよ。

略)

 こんなふうにしてね、休日になると本を持って城壁に上がって、足をぶらんぶらんさせながら本を読んでいた。

「中帰連 二十八」P四十四〜四十六

他の著書にも、

<<我々の駐留した金壇の小公園で知り合った少年がおりまして、休日ごとに高い城壁の上に足をぶらんぶらんさせながら、日本や家族や未来の夢などを語りました。

「ボレロが聴きたい」P三十六

 この人は矛盾というものを知らないのであろうか。

 どうして片や現地の状況が悪く

<城壁の上で足をぶらんぶらんさせて下を見下ろしたりなんて事はできませんでした。>

と書いていながら、

<休日になると本を持って城壁に上がって、足をぶらんぶらんさせながら本を読んでいた。>

<高い城壁の上に足をぶらんぶらんさせながら、日本や家族や未来の夢などを語りました。>

と書いているのであろうか。

 もうアホかと。

 そして、どうして「第六中隊駐屯地の下新河のトーチカ勤務」であった本多氏が、第六中隊に属した人はほとんど行く機会も無いという二十キロも離れた第五十一連隊本部のあった金壇が「我々の駐留した金壇」になっていて、そちらのエピソードが多いのであろうか。

 店を片付けてから、高田馬場にあるスポーツセンターへ行く。

 今日は時間もあるので、それぞれのメニューを消化。

 それ以外も少し、違ったトレーニングメニューをここでよく会う方に教えていただく。

  

 芳林堂さんに寄り、雑誌などを購入後、店に寄って店頭の花壇に水をやってから帰宅。

 今日は酒は飲まず。


 

本多立太郎

軍において上官を殴る事とは

9月9日木曜日晴れ △

 本多氏は自分の著書に

<無抵抗の人間を殺すのは、まさに罪です。とても許されるものではない。だけどじゃあ、私が「それはできません」と言えば、陸軍刑法という法律で最も重い、敵前坑命罪に問われます。いきなり隊長が腰のピストルを抜き、ズドンと私を撃っても文句は言えない。>

「戦争出前噺」p三十一

このように軍規の厳しさを書いておきながら、

< ある休日の夜の事、将校と兵隊が取っ組み合いの喧嘩をしているわけですよ。

略)

 これは余程の事です。何があったかというと、これは口にするのも恥ずかしい事なんだけれども、日本からの女性というのは、当時は売春禁止法の施行以前だから、吉原などの遊郭から来た女性たちで、三十代から四十代の人だったんです。朝鮮半島の、いわゆる強制連行をされてきた女性たちは二十代半ばぐらい。戦場で捕まえられて連れてこられた中国の女性たちは十代です。将校にしてみると和解女性のほうがいい。それで兵隊用の「慰安所」へ将校が行くわけだ。兵隊は「俺の女を将校が取った」と言って、取っ組み合いの喧嘩をしているわけですよ。こういう問題では階級もなくなってしまうね。>

「中帰連二十八」P四十五

 と平気で書く。

 普通、軍隊において兵が将校を殴るなどという事があればどういうことになるか。

 あれば、その兵はまさに陸軍刑法によって罰せられ前科者となる。

 陸軍刑法第六十条

 上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シテ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別二従テ処断ス

 一、 敵前ナルトキハ一年以上ノ有期懲役又ハ禁錮二処ス

    其ノ他ノ場合ナルトキハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処スル

 下記は手元にある本の阿南惟幾陸軍大将の本にも軍規を乱した兵に対する軍法会議についてのエピソードがあります。

 もっとも、このエピソードは阿南陸軍大将の人なりを現したものですが、酒の上とはいえ上官を殴るということは軍法会議にかけられ、前科がつきます。

 

<阿南の鹿児島第四五連隊留守隊長時代の部下であった松本鹿太郎大尉が、当時の思い出を書き残している。

 中隊長であった松本はある日、彼の部下の吉田という志願兵が酒の席で助教の中原軍曹をなぐったという事実を知った。松本は酒の勢いをかりて教練の不平をぶちまけ、上官に暴行するなどとは許しがたい事だ。これは軍規の問題だから上官暴行事件として検察処分に付し、軍法会議に提訴すべきだと考えた。

 だが連隊本部の上官はみな「酒の上の事だ」と反対し、連隊長も「連隊の不名誉」という理由で不同意であった。

 このとき何も言わなかった阿南中佐が、後刻松本を呼んで、「連隊全員が反対でも、中隊長の決意は変わらないか」とたずねた。

 「連隊長が検察処分取止めの命令を出されない限り、やります」という松本の答えに、阿南は微笑を浮かべて、「中隊長の意見に同意だ。思いきってやれ」といった。

  松本が検察処分の書類を提出したことを知ると、阿南はまた彼を呼んで「捜査は一段落したようだが、現在の君の心境は?」と問いかけた。

 「酒癖が悪い吉田が哀れでなりません。私がそれをもっと早く知って教育すべきでしたが、知らなかったことを申訳なく思っています」

「そうか。では何か打つ手はないか。軍法会議では中隊長は司法警察官であるが、また特別弁護もできることになっているが…」と教えた。

 判例なども調べた松本が、ぜひ特別弁護をしようと決心し、それを阿南に申し出た。

 略)

 裁判は六ヶ月の禁錮刑が要求されたが、禁固三か月執行猶予一年半の判決となり、松本は吉田を連れかえることができた。

 吉田は始め松本を恨んでいたが、裁判後は深く感謝し、のち一般徴集で合格した時は、ぜひ松本の中隊に入れてもらいたいと願い出た。

「一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾」(角田房子 PHP文庫 平成十三年刊)P六十〜六十二

 このように上官、部下に対しての軍規が厳しくなければ軍隊は成り立たない。

 ましてや、将校と兵が女の取り合いでなど殴り合ったら只で済むはずがない。

 まさに「嘘つき本多立太郎」の面目躍如です。

 写真は今日の日刊ゲンダイ。

   

 流石は小沢後援会公認会誌だけあって笑わせてくれます。

 今日は昨日の台風の影響で河岸の魚の入荷が薄い。

 

 Yさん三名様で来店。

 初めてのお客様一名様来店。

 当店のURAホームページを見てくださり、御来店いただいたそう。

 感謝。

 初めてのお客様二名様来店。

 初めてのお客様一名様来店。

 Kさん来店。

 Hさん三名様で来店。

 Tさん来店。

 今日は早い時間から大忙し。

 ドンチャン。

 記憶あり。

 サルよりマシ。


 

本多立太郎という詐欺師 その二

4月16日木曜日晴れ  ○

 本多氏は水間氏とのやりとりで、「昭和九年(一九三四年)から応召の昭和十四年まで朝日新聞で記者の卵をやっていた」と答えています。

 新聞でも「二十歳で東京の朝日新聞記者となった」(北海道新聞一九九五年十一月二十五日付)

 と紹介されている。

 そして、現在でも朝日新聞には本多氏の講演の紹介記事、投稿記事が多く掲載され、朝日新聞による本多氏に対しての厚遇ぶりが際立っているそうです。

 朝日新聞の記事の中で、

「血や油が流れる川で米をといだ仲間」(二〇〇四年十一月二十日付)

「死体の浮く川で平然と米をとぐ日本兵を見た」(二〇〇二年十一月二十五日付)

という体験を語っている。

ネットで検索しても同じような本多氏の体験談がアップされています。

 「九条の会・わかやま」 四十五号(二〇〇七年九月五日付)として、

 

 <死ぬことより怖いこと

 戦場には死ぬことより怖いことがある。あるとき、飯を炊くために、ある兵士と水を汲みにいったら、その兵士は中国兵の8人の死体が浮き、血や脂の浮いた水を手で掻き分けて、水を汲んで飯を炊いた。これは普通の人間のすることではない。しかし、その兵士は特別異常な男という訳ではない。ごく普通の人間が、一旦戦場に行くと、とても考えられないようなことを平気でやってしまう。私はこれを「戦場の狂気」というが、死ぬことより怖いことではないかと思う。>

という文章がある。

 これについて、第五十一連隊第三大隊九中隊・赤堀光雄氏(取材時八十七歳)は

「極限のインパール戦と違い、中国でそんな話聞いた事もない。

 軍が強いのは、軍紀が厳しく組織がしっかりしているから。

その中に防疫給水班もある。疫病になったら軍組織が壊滅するからです。

 普段、給水班の仕事は浄水です。日本人は水を大事にする。常識で考えればわかるはずだ」

 赤堀氏は、昭和十三年(一九三八年)五十一連隊発足に伴い、池田連隊長に随行して、軍旗拝受の為に宮中に参内してから、連隊解散まで見届けた人物です。

 この給水について、手元にある「別冊一億人の昭和史 日本陸軍史」(毎日新聞社 昭和五十四年刊)に興味深い記事と写真があります。

「異風土の戦場で恐いのがコレラ赤痢の伝染病。そこで野戦鑿井機が活躍する。掘って汲み上げ 濾過して前線へ 第一次上海事変では 一人の患者も出さなかった」

 

 同じく「別冊一億人の昭和史 不許可写真史」(毎日新聞社 昭和五十二年刊)

 「戦場の飲料水

 戦場における濾過・給水・鑿井装置の写真はすべて禁止だった。

 伝染病発生と最近謀略を恐れる各国軍は、水に対し神経を払うのが常だが、日本陸軍も防疫給水部を設けていた。

 略)

 

 十三年五月二十六日 

 黄河畔で泥まじりの河水を汲み上げ、その場で清浄水にする急速濾過器を動かす防疫給水班。

 この急速濾過器は各戦線で活躍したが、軍機扱いで精密写真は不許可。

 十二年九月二十八日

 上海市街地の排・汚水が流れてくる黄浦江の濁水を汲み上げ、

 同じく清浄水にする防疫給水班。

 この急速濾過器の性能は当時すでに世界のトップ級のものであった。

 右の黄河畔で使用のものと同じ急速濾過器

 十二年九月二十日華北滄州攻略戦で撮影。

 世界のトップ級とされたその性能は、煮詰まった味噌汁のようにドロリとして泥水を右から左に清浄化できたという。

 後方の防疫給水班から最前線に水を運ぶ容器は、各部隊ごとに工夫したが、湯たんぽが最も好評だったという。

 写真は十二年九月三十日 上海戦線における加納部隊の水運び。

 不許可写真ではない。

 十七年四月六日

 ラングーン市内の英国建設の水道を検査するビルマ方面軍防疫給水隊。

 同市占領は三月八日。占領後、すべての戦場は上水道でも煮沸水以外は飲用禁止された。

 十五年五月五日

 華中漢水戦線 後方より清浄水の補給を受ける最前線の部隊。

 「弾薬は二日、水は三日」といわれた。

 三日間水の補給が途絶えると戦闘能力は低下し、戦線維持不能の意味。

 十三年八月

 揚子江ぞいの要地九江で、軍用井戸を掘る海軍陸戦隊の鑿井自動車。

 自動車のエンジンを使い、汲み上げた水をフィルターで濾過、清浄水にした。この自動車も軍事機密。

 「別冊一億人の昭和史 不許可写真史」p五十六〜五十九

 つまり、支那において、わざわざ血や油が浮いている川の水で米をとぐ必要等ないし、そもそも、禁止されていたわけです。

 このようなところにも本多氏の証言というものの信憑性のなさが現れています。

 

 本多立太郎氏は、吉田清治氏、東史郎氏等と同じく職業詐欺師と言われても仕方のない男と私は思います。

 しかし、現実にはこのような男の言う事を信じて喜んでいるアホウどもも多いのです。

 本多勝一氏の時もそうですが、この本多立太郎氏を善意の塊であるように崇め奉り、検証という作業を忘れている朝日新聞、毎日新聞などの腐れ新聞社。

 早く潰れてほしいものです。

 この詐欺師を講演会によび、悦に浸っているピースボートなどの自称平和主義者どもも自分たちがウソをバラまいていることを認識してほしいものです。

(せんだろうな。アホやから)

 水間氏はSAPIOの記事の最後に下記の様に書いています。

「今回、戦後六十年、インパールの激戦を経験した五十一連隊の生存者は、もはやどこにもいないのではと、雲をつかむような状況だった。

 しかし、靖國神社境内で英霊となった戦友のために「靖國神社代替施設」反対の奉仕活動をしている旧陸軍の方をたづねてみると、先述の四人に会う事が出来た。

 その奉仕活動の中心メンバーは、五十一連隊の生存者だったのだ。中には、インパール戦から六十年目の劇的な再会を果たされた方々もいる。

 これは、英霊が引き合わせてくれたとしか考えられない。

 略)

 そして、この靖國での不思議な出会いがなければ、この人物を告発することはできなかった。

 靖國の神々に感謝したい」

 

 今日はめずらしく多くのお客様が来店。小胡子さん来店。女性のお客様二名様来店。Mさん三名様で来店。マロさん来店。

Sくん四名様で来店。あとで、奥様合流。Nさん御夫妻来店。

 今日は飲まず。


本多立太郎への素朴な疑問

講師派遣というものについて

平成22年8月24日火曜日晴れ ○

 あのエロ日新聞(毎日新聞)の「第二の松井やより」「毎日の松井やより」いや、それよりもいっそ「第二の浅海一男大記者」を目指すのか。

何にしてもその才能はたっぷりとある久木田照子記者が、支那がネット上で特集ページまで作っている「土下座屋」本多立太郎氏が御亡くなりになった時に下記のような記事を書いている事はこの日記にも掲載させていただきましたが、もう一度一部引用させていただきます。

以下引用

悼む:旧陸軍兵士・戦争出前噺1300回、本多立太郎さん=5月27日死去・96歳

 ◇「最悪の事実」包み隠さず−−本多立太郎(ほんだ・りゅうたろう)さん=腎臓がんのため5月27日死去・96歳

 第二次大戦で中国などに出征し、その体験を全国で話し続けた。「平和を守ろう」とは言わなかった。「私の罪は消えない。語るなら最悪の事実を語るべきだ」と約25年間、つらい記憶を淡々と話し、「聞いた人が自分で考えてほしい」との姿勢を貫いた。

 略)

 金融機関を退職後の86年、「孫に軍服を着せたくない」と戦争出前噺(ばなし)を始めた。

 略)

 09年6月、京都市の龍谷大で出前噺に臨む本多さんを取材した。背筋を伸ばして語る姿は95歳には見えなかった。捕虜殺害後、何を背負ったか、戦後の日本をどう考えたか。学生の問いに答えるうちに5時間近くたっていた。

 1人の女子中学生のため、喫茶店で話したこともある。

略)

 各国の知人らと協力し、日本国憲法を十数カ国語に翻訳。若いころあこがれたパリを最初に訪問する予定だった。同世代の戦争体験者から孫のような学生まで本多さんの語りに突き動かされ、学生が同行を申し出ていた。

 昨年の予定だったパリ訪問は体調不良で今年6月に延び、果たせずに逝った。だが世界に平和を訴える夢は、事実を聞いた人たちに受け継がれるだろう。【久木田照子】

毎日新聞 2010年7月11日 東京朝刊

引用終わり

 この様に書かれている本多氏ですし、本多も著書で自分自身がなぜ戦争体験を話す事を「戦争出前噺」として、著書に下記のように書いています。

 <なぜ出前か、といいますと、どこへでも、いつでも、相手が一人でも、さながらラーメンを届けるように戦争噺を持って行く、つまりまあ出前だなあ、とこういうことです。

 実際に、可愛い女子高校生、大学生、若い会社員など一対一で語った事が五回ほどありますし、小学校五年生の男の子から電話で「おっちゃん、来てくれるう」「ああ行くよ」と、新世界付近のお宅で同級生五、六人とお母さんと妹と、炬燵囲んで語った事もあります。>

「ポレロを聴きたい」p

 このように書いていますが、ネットで「本多立太郎 講演」と入れると、

講演依頼

http://kouen-irai.com/blog/archives/1674

オフィイス愛という「講演企画、講師派遣専門会社」の派遣講師の御一人として名前が出て来ます。

その他の派遣可能な講師として、

アグネスチャン、有森裕子、阿木子、石原良純、

市田ひろみ、井筒和幸、大谷昭宏、大村崑、落合恵子、

金村義明、香山リカ、河内家菊水丸、古賀稔彦、三遊亭楽太郎、

椎名誠、島田洋七、正司歌江、辛淑玉、高野孟、谷川真理、

谷口浩美、田原総一郎、ダニエルカール、寺脇研、デープスペクター、

鳥越俊太郎、西川ヘレン、朴一、樋口恵子、辺真一、

堀江健一、舞の海、増田明美、松野明美、室井佑月、

森永卓郎、ピーターフランクル

などなど私のような人間でも知っている人の名前が続々と出てきます。

そして、この会社の平成二十年の講演実績として、

http://kouen-irai.com/results/h20.html

島田洋七氏、石原良純氏、香山リカ氏、辛淑玉氏などの名前と並んで、本多立太郎氏のお名前があります。

プロフィールとして、

 http://kouen-irai.com/blog/archives/1674

〜戦争出前噺〜

本多 立太郎(ほんだ りゅうたろう)

講演カテゴリ:人権 ・文化、生涯、国際、異文化交流 ・青少年、子育て、学校、PTA

本多立太郎プロフィール

1914年、北海道小樽市に生まれる。

第二次世界大戦の従軍とその後のシベリア抑留の体験から、戦争の非情さを痛感し、その苦い経験を後の世代が味わうことのないようにと、「戦争出前噺」と名づけて様々な場所で自らの体験談を語る。静かな語り口のなかに強い信念のこもった話は多くの人々の共感を呼び、現在も精力的に講演(「戦争出前噺」)活動を繰り広げている。

■著書 「ボレロが聴きたい」(耕文社)

「トンダ・モンタ総理っ!」

「父を語る」(ともに、すりふか文庫)

■主な受賞

・ジャーナリスト基金奨励賞 ・関西心の賞

主な講演テーマ

1.私の戦争体験〜今をどう生きる〜

2.孫に軍服は着せたくない

3.戦争体験者が見た今日

本多立太郎講演、講演会依頼、講師派遣、セミナーのご相談は「株式会社オフィス愛」 電話番号:06-6456-5666 FAX番号:06-6456-5667

このようになっています。少なくともこの 「株式会社オフィス愛」は事業として本多氏の講演を引き受けているのでしょう。

 これは、辛淑玉女史で検索して出てくる講師派遣会社のホームページに掲載されていますが、

http://www.be-power.jp/html/lecturer/shinsugo.html

 十〜二十万円のグループから百三十万円から百六十万円のグループがあるようです。

 たとえば、辛淑玉女史では五〇万円という金額がネットで提示されていた事があります。

 ますい志保女史は富山JA南砥の方のお話では講演料は六〇万円だったそうです。

 

 別に講演料を取ってたからどうというつもりはありませんが、この本多立太郎氏も、引退後の結構いい商売になるとこの腐れ嘘話をしゃべっていた可能性があるのではないでしょうか。

 まあ、自称平和主義者という反日主義者どもに崇め奉られている「崇高な志」で講演をされていた「はず」の本多氏に対しての一杯飲み屋の親父の小さなほんの小さな疑問ですけど。

 あほらし

 今日も暑い。河岸では烏賊が不漁のため活けダコを購入。

 パソコンの事で困ったときのへべれけ頼みということで、当店のパソコンの事でお世話になっている「へべれけさん」に電話でお願いすると、仕事の帰りに寄ってくださる事に。

 夕方いらしてくださり、いろいろとお世話になる。

 ちょうど、先日、画面が写真のようになっていて、立ち上がらなくって入院していたMacも退院して届けられる。

 

 サポートカルテには、「ロジックボード不良のため交換」と書かれている。

 へべれけさんに、「ロジックボードて何?」と尋ねると、マザーボードのことだそう。

 保険に入っておいてよかった。

 ヒマ。

 

 Sくん三名様で来店。

 ご近所にお住まいという初めてのお客様来店。

 今日は飲まず。

 サッサと寝る。

本多立太郎についての参考・引用文献

「SAPIO」平成十七年九月七日号p三十〜三十三 水間政憲「捕虜殺害から従軍慰安婦問題まで中国で土下座行脚する『戦争の語り部』の大嘘」

「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦 新潮選書 平成十一年刊)

「丸 別冊 太平洋戦争証言シリーズ 悲劇の戦場 ビルマ戦記」(潮書房 昭和六三年刊)

「日本帝国の最後」(新人物往来社 平成十五年刊)

「別冊一億人の昭和史 日本陸軍史」(毎日新聞社 昭和五十四年刊)

「別冊一億人の昭和史 不許可写真史」(毎日新聞社 昭和五十二年刊)

「戦跡に祈る」(牧野弘道 産經新聞社 平成十九年刊)

「従軍慰安婦資料集 吉見義明 大月書店 平成四年刊」 

「ボレロが聴きたい」(本多立太郎 耕文社 処判平成六年 手元にあるのは平成十五年版)

「戦争出前噺」(本多立太郎・堂本一 みずのわ出版 平成二十年刊) 

「中帰連 二十五・二十六・二十八号」(中帰連機関誌 平成十五年九月〜平成十六年三月)

「誰も書かなかった日本陸軍」(浦田耕作 PHP研究所 平成十五年)

「一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾」(角田房子 PHP文庫 平成十三年刊)

第五十一聯隊碑文については

「ぶらり重兵衛の歴史探訪2」(http://burari2161.fc2web.com/のhttp://burari2161.fc2web.com/hohei51rentai.htm

より引用させていただきました。

 

 


 

 


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