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本多勝一とついでに長沼節夫

どちらもバカ

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます



「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その1 
2月14日火曜日 晴れ △
       URAに平成18年2月25日に掲載
 「天皇の軍隊」(本多勝一・長沼節夫著 朝日新聞社刊)
 この本の本文について書くより、まずそれぞれの著者の後書きを読んでいただくとこの二人の思想というか人なりがよく理解していただけるものと思います。
以下引用
 重要なのは「学ぶ」こと自体ではなく、「どちらの歴史を」学ぶかにある。皇国史観を「学ぶ」くらいなら何も知らぬ方がよろしい。人民の側の歴史をこそ、学ぶべきであろう。反動政権による文部省教育や、それに忠実なマスコミの氾濫の中にあって私たちにできることは、人民の側の歴史を掘りだし、それを敵に負けぬしつこさで、繰り返し繰り返し語りつづけることだと思う。そうすることによって、侵略戦争を阻止するための、人民の側の有力な武器のひとつにもなりうるであろう。p410

 本書には、中国帰還者連絡会(正統)の掘越氏そのほか多くの証言者が登場して、すすんでみずからの罪状を暴露してくれた。p410

 無力な私たちに終始協力し、むしろ力づけてくれたその希有な旧「皇軍」兵士たちに、まず深い感謝をささげたい。またそのように協力すべく彼らを目覚めさせた根源的な原動力が、新中国をもたらした革命勢力とその人民にあることはいうまでもない。(この点、蒋介石政権につかまったB・C級の日本人戦犯が、どのような扱いをされたかを比べてみると参考になろう。蒋介石が敗戦に寛大だった、などという正反対の妄言が一部に流布されている。)P411

 本書は日本敗戦の一九四五年八月一五日をもって一応終わっているが、「衣」師団はその後ソ連に抑留され、さらに革命後の中国に逆送されて、撫順に滞在することになる。五年間の中国での収容所生活で、「皇軍」兵士たちは次第に目覚めていき、この世の中で何が本当に不正であり、何が正しいかを、はっきりと悟る。そして侵略の阻止と日中人民の友好運動に、第二の人生をささげたいと決意するに至り、やがて日本に生還するまでの経過は、本書以上に重要な意味を持つので、いずれ時を改めて続編を報告したい。P412
引用終わり 引用ページは「天皇の軍隊」(本多勝一・長沼節夫著 朝日新聞社刊)の初版後書き 長沼節夫より

 長沼節夫
 一九四二年長野県飯田市生まれ。 ジャーナリスト。京都大学文学部卒 同大学院・予備校講師などを経て時事通信入社、アフリカ支局、社会部など。

 このアホな内容の引用文に出てくる「中国帰還者連絡会」については、今年二月五日付けの産経新聞に第二次大戦末期に作成された米戦時情報局(OWI)による「延安レポート」全訳出版へという非常に興味深いニュースが掲載されていました。
以下引用
 略)
 延安リポートは、中国共産党(中共)による対日プロパガンダや日本捕虜に対する"洗脳的教化”の実態を調査したものだが、戦後の米国の対日・対中政策にも影響を与えたとみられており、貴重な一次資料といえそうだ。
略)
 リポートの「捕虜の扱い方」では、中共は「一般的に日本人の自尊心は非常に強い」と洞察し、日本人捕虜を質間するさいには「優しく、穏やかに」と指導。また、負傷した捕虜には手当てを施し、戦場の日本兵の死体を「一時的な感情」から損傷することを戒め、逆に大事に葬り、墓標を立てるべきだ、と説く。
こうした指示は一見、人道的だが、その根底には一般の日本兵や日本人が戦争を遂行する指導部を憎悪し、「否定的な厭戦気分から積極的な反戦意識」を持つように教化するための中共の冷徹な計算があった。後に中共側の九十八人の日本兵捕虜に対し米側が行った「意識調査」では戦争や天皇制を否定する声が九割を超した。意識調査を担当した主要執筆者の一人、外交官ジョン・エマーソンは「平均的な日本人兵士の信念と態度がシステマチックな教化によって変えられることの一つの証明である」とコメントしている。
 略)
引用終わり 産経新聞平成一八年二月五日

支那の
<その根底には一般の日本兵や日本人が戦争を遂行する指導部を憎悪し、「否定的な厭戦気分から積極的な反戦意識」を持つように教化するための中共の冷徹な計算があった>
<「平均的な日本人兵士の信念と態度がシステマチックな教化によって変えられることの一つの証明である」>

という洗脳により

<協力すべく彼らを目覚めさせた根源的な原動力が、新中国をもたらした革命勢力とその人民にある>
<五年間の中国での収容所生活で、「皇軍」兵士たちは次第に目覚めていき、この世の中で何が本当に不正であり、何が正しいかを、はっきりと悟る。そして侵略の阻止と日中人民の友好運動に、第二の人生をささげたいと決意するに至り、やがて日本に生還するまでの経過は、本書以上に重要な意味を持つ>
とされてしまったわけです。
 「中国帰還者連絡会」という連中は支那により洗脳された売国奴の阿呆連中だということです。その連中の言う事を何の疑いもなく嬉しがって書くのもまた阿呆ということです。
だいたい、
<重要なのは「学ぶ」こと自体ではなく、「どちらの歴史を」学ぶかにある。皇国史観を「学ぶ」くらいなら何も知らぬ方がよろしい。人民の側の歴史をこそ、学ぶべきであろう。>
って、なんざんしょ。
普通は、結論を出すためにはいろいろ調べて当たり前なのに、知らない方がいい・・
これって、こういった連中がよく言う偏向した教育とかいうことにはならないのでしょうか。
まあ、それに続いて書いてある
<人民の側の歴史を掘りだし、それを敵に負けぬしつこさで、繰り返し繰り返し語りつづけることだと思う。>
というのがこの長沼氏という人間の生き方をよく表しているとおもいます。
この長沼氏の考え方は本多氏にも共通するものです。

 この本に掲載されている「中帰連」という売国奴の証言!と称する内容については後日、掲載させていただきます。


「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その2
2月15日水曜日はれのち雨 あったか △

 本多勝一
 一九三二年信州・伊那谷生まれ。朝日新聞記者としてある意味大活躍。
「週刊金曜日」主筆としてまだまだ現役売国奴として活躍中

 本多氏も長沼氏と同じく、公平な報道について本書に下記のように持論を書いています。
以下引用
 よくいわれる通州での蒋介石軍による日本人虐殺事件。これは廬溝橋事件からまもない混乱の時点で、二百数十人の在留邦人が殺された事件ですが、もちろんこのことは非道であり、許されないことです。しかしより本質的な問題は、通州は日本の町ではないことにあります。戦乱のベトナムで、たとえばクアンチやファンランにいたアメリカ民間人が虐殺されたといって、現在の全ベトナムに対する凶暴な侵略が「従って正しい」といえるでしょうか。
 
もっとも、解放戦線や八路軍は、蒋介石軍のような女子供の無差別虐殺はまずやりませんが、これについてはあとで触れます。
また「公平な報道」という要求に対しては、逆にこんな事実はどうでしょうか。事件当時の事件当時の日本の新聞をみて下さい。「比類なき鬼畜行動」「恨み深し!通州暴虐」といった記事が、各紙とも一面にデカデカと、連日報ぜられています。ところが反対に、いたるところで展開された日本軍による虐殺は、ついに全く報道されませんでした。どうか率直に考えてみて下さい。日清戦争以来何十年間も、常に、必ず、このように一方的だったのです。戦後二十数年して、ようやく中国側からの視点で報道をするとき、どうしてまたまた、中国のことを「比類なき鬼畜行動」と並列して書かなければ「公平な報道」にならないのでしょうか。p427

 もうメチャメチャです。
どうして「支那での日本人虐殺事件」「ベトナムでアメリカ民間人が虐殺される事(例え話として)」と、「アメリカがベトナムに侵略したことが正しいといえるか」と結び付けるのでしょう。
ましてや、「日本が当時公正な報道をしてこなかった」として、<戦後二十数年して、ようやく中国側からの視点で報道をするとき、どうしてまたまた、中国のことを「比類なき鬼畜行動」と並列して書かなければ「公平な報道」にならないのでしょうか。>と開き直れるのでしょうか。
開き直りといえば、下記の文章もそうです。
以下引用
 中国側から取材した証言について、これを疑う類の拒否反応もあります。いうまでもなく、絶対的証拠のある例などはむしろ少ないのが当然ですから、死人に口なし、体験者の証言以外に頼れない場合が多いでしょう。これについては、広島・長崎の原爆による無差別大虐殺に関する日米の見方の違いを考えるのがよろしいかと存じます。広島の死者を、日本側のさまざまな資料は二十万以上と数えていますが、アメリカ側は七万余としか認めていません。今となっては、正確な数字をつかむことなど不可能ですが、仮りに(そんなことはありえないけれども)アメリカ側か正しかったとします。そうすれぱ、日本側がまちがっ.ており、従って原爆による無差別虐殺は、正しいのでしょうか。
 問題の本質は、数字や個々の事実の揚げ足とりではなく、日中戦争が日本の帝国主義による侵略だったという事実にあります。ところが侵略者の側がこういうとき熱中する常套手段は、まず「数字」や「目にみえる証拠」を求め、それと侵略された側の主張との食いちがいをあげへつらい、最後に「だから事実はなかった」「すべてマポロシだった」「結局は侵略軍も悪くはなかった」とする詭弁術です。反動側には頼りになる"論理"がこれ以外にないので、大衆をだますために右翼文化人たちがよく使っています。p428
引用終わり

 
<絶対的証拠のある例などはむしろ少ないのが当然ですから、死人に口なし、体験者の証言以外に頼れない場合が多い>
 こんなこと言ってしまえばなんでもありになってしまいます。当たり前の事ですが、少しでも客観的な立場から状況証拠を集め、いろいろな角度から事実を追求していく努力をしていかなければならないわけです。それを、原爆といっしょにする・・・あまりにもアホすぎます。
 しかし、本多氏はこの後もエスカレートして、シンポジュウムなどで南京事件と原爆を一緒に論じています。
 以下引用
 <長崎に原爆が落ちたという話があります。でもあれは、丸ごとデマだそうです。町のどこに行っても今は長崎のどこにも痕跡は全くありません。それから証拠写真がありますがあれは広島からの合成写真だそうです。記録の本や雑誌もみんな捏造なのだそうです。作文なのだそうです。残された遺跡もありません。以前浦上天守堂というのがありましたけれども、あれはのちに製作された建造物だそうです。遺族たちの証言はたくさんありますが、あれは全部日本政府に強制されて口裏合わせた偽証なのです。というようなことを、アメリカの右翼か誰かが言ったら、皆さんどう思いますか? こういう話を先日長崎で講演したときに言ったら、会場は笑ったりあきれたりでした。
 しかし、全く同じように、南京大虐殺はなかったといっている人がいるんですね。これは長崎の原爆が全部ウソというのと全く同じことだと思うのです。今はこういう無茶苦茶なことが通るようになっている。>
引用終わり 「歴史と真実」(筑摩書房 一九九八年刊 もとになったのは一九九八年五月二三日に千葉大学歴史系教員集団主催のシンポジュウム「いま日本の歴史を考える」)本多勝一氏の「南京大虐殺」をめぐってp151


 あきれるのは、あんたの頭の中・・・・この様な人が新聞記者をやっていたのです。
まあ、本多氏は下記のようにもいっていますので、元々客観的で公正な報道などするつもりはないのでしょう。
以下引用
<いわゆる『公正な報道』とか、『かたよらない報道』とか、こういうものは絶対にーーぼくは絶対ということばはあまり使わないようにしているんだけどね、しかし、あえていうんだけれども、絶対にありえないということがよくわかったことですね。あるのは、もう、やる側とやられる側。それしかない。その中間てないんですよ。中間のやつはみんなやるほうに吸収されてしまう。(中略)公平なんてこといったら、あ、こいつは権力側の状況づくりだな、と断言していい>
引用終わり
(「悪魔払いの戦後史」稲垣武著 文藝春秋一九九四年刊 P269に収録された小田実との対談わがベトナム戦争の総決算「朝日ジャーナル」七三年二月九日号)

 ちなみに小田実氏もそれに対して「おれもそう思うね。それは賛成だ」と同調しています。
さすがは売国奴同士でお話も合うみたいです。


「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その3
2月16日木曜日曇り一時雨 ×

 この「天皇の軍隊」ででも「殺す側」と「殺される側」として下記のように持論を展開しています。
以下引用
 <果たして「中国人だってやった」のでしょうか。正確に見ると、「殺した側」と.「殺された側」は、決してそのまま「日本人」と「中国人」の対立の結果にはなっていません。たとえば南京虐殺で、流れ作業の集団銃殺をやった日本軍には、「治安維持会」という一部申国人の組織が協力しています。…、(拙書『中国の旅』参照)。南京事件に限らず、中国人を殺すのに中国人の一部が加わっている例はごくありふれたことでした。
その殺す側にまわった中国人が、地主だの高級官僚だのといった金持階級とその傭兵であリます。その頂点に蒋介石がおりました。反対に、いつも殺される側にいた厖大な貧乏中国人たちの頂点が、いうまでもなく毛沢東や周恩来を代表とする中国共産党であり、その軍隊がのちの人民解牧軍でした。
略)
、岸信介の本当の敵は毛沢東だったのです。毛沢東に代表される中国の無産階級、これこそが岸信介や蒋介石、さらにはトルーマンやアイゼンハワーたちの共通の敵でした。
 問題の本質は、決して「中国人対日本人」とか「アメリカ人対日本人」というようなものではないことが明らかになったと存じます。
略)
「それでも日本人か」といった発想の仕方、実はこれこそが、真に「殺す側」の連中によって好都合な利用されやすい反応なのてす。本当の敵が何なのかをごまかし、すべてを民族的対立や人種的対立であるかのようにさせ、国境を越えて理解しあうべき人々を分断していきます。
 引用終わり p430

 つまり、本多氏は長沼氏とおなじく、支那共産党は悪くなく、悪いのは自由主義陣営だ。わが国の天皇制と愛国心も靖國神社も支那共産党にとり
邪魔になるそれゆえにいけないものだとといっているのです。
これらは、この本が書かれた三〇年前よりいや、それ以上前から現在にいたるまで、支那政府がわが国に対して難くせをつけてきているものとぴったり一致します。彼らの主張は支那政府の主張そのものです。彼らにとっては支那政府が正義でありすべてなのです。


「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その4
2月17日金曜日 晴れ ×× 

 下記の文章にはこの本多勝一という男のへたれぶりがよく表れていて笑ってしまいます。
<私もそうですが、この記録の共著者たる長沼節夫氏も旧日本軍の体験はない世代ですから、あるいは誤りもあるかもしれません。事実の誤りはどんどんただすべきですが、その場合、批判や訂正は「揚げ足とり」による破壊行為的にではなく、建設的な態度で貫きたいものです。>p431

この意味わかりますか?
わたしには間違いを指摘された時の単なる予防線にしか思えません。
だいたい、
 <旧日本軍の体験はない世代ですから、あるいは誤りもあるかもしれません>
って、それじゃあ、その時の歴史についての検証とはなんなのでしょう。聞いたのをそのまま、なんの検証もなく、書いただけ・・・
そして、
<事実の誤りはどんどんただすべきですが>
といいながら、
<批判や訂正は「揚げ足とり」による破壊行為的ではなく>
<建設的な態度で貫きたいものです。>

 さすがは、中国の旅を書いて「私は聞いたそのままを書いただけだ。文句は中国側に言ってくれ」と突っ込まれ時に言っただけのことはあります。
この本でも<問題の本質は、数字や個々の事実の揚げ足とりではなく、日中戦争が日本の帝国主義による侵略だったという事実にあります>p428と書いています。
検証となどというものはこの人にとっては不要というか、そもそもするつもりも無いのでしょう。


「天皇の軍隊」にみる著者の姿勢その5
2月18日土曜日晴れ
 ○
 しかし、ここまでアホなこと書くかというぐらいなことを本多氏は書いています。
以下引用
 これはまた実に不覚なことですが、私は、「日中戦争」の日本軍は、蒋介石の中国と戦うのが主な仕事だと、子供のときから思いこまされたままでした。ところが事実はまるっきりそうではない。いや、ほとんど正反対とさえいえます。本書のいたるところに出てくるように、日本軍は蒋介石軍としばしば手を結びます。ときには同盟軍として、ときには傀儡軍として。蒋介石軍というもの本質が、あのころから明確に出ているわけです(岸信介氏らの自民党政権が台湾の蒋介石氏と今かなお「親交」保ちたがるのは、あまりにも当然といえましよう)。結局は八路軍(人民解放軍)こそ、終始正面の敵として現われます、これは当時の日本国民にほとんど知らされなかった恐るべきことといえましょう。
 巨視的な間題としては、こんなことも本書から理解されます。日本は合州国に負けたと思っている人が、今なお多い。これはドイツが米軍を中心とする英・仏など西欧軍に負けたと考えるのと同質の大きな過ちです。ドイツがソ連にこそ本質的に負けたことは、独ソ戦争を少しこまかく調べればわかります。米英軍などそれに便乗したていどで、とくに合州国ときたら自分ではほとんど損しないで、戦場で漁夫の利をしめ、戦後の世界支配への道を大きく開きました。 全く同様に同様に、日本軍は米軍など来なくても、
原爆や沖縄戦がなくても、単に中国とだけと戦争していても、必ず敗北していた。その具体的な状況は、本書にみられる通りです。日本は中国(とくに八路軍)にこそ敗北したのであって、米軍はドイツにおけると同様、漁夫の利をしめにやって来ただけだと極論しても、基本的には間違いないでしょう。敗戦直前に対日参戦したスターリンのソ連軍にいたっては、漁夫の利のところへ現われたスリみたいなものかもしれません。
 引用終わりp433〜p434

 さすがは支那共産党が大好きで
<もっとも、解放戦線や八路軍は、蒋介石軍のような女子供の無差別虐殺はまずやりませんが>p427
と書くだけの事はあります。

 でも、支那共産党が本多氏のいうとおり強いとしたら、それは支那共産党に人権というものがないからです。人の命がタダ、あるいは極めてタダにちかいとと考えているから、強いのです。

 本多勝一氏もそうであるが、この手の方々はわが国についてはこの様に多くの事をいうが、どうして、本多氏がいう「やる側、殺す側」と「やられる側、殺される側」が逆転することもある事をかんがえないのであろうか。現実には、支那政府は侵略、虐殺を繰り返して来ている。こういた支
那、ロシア、朝鮮などの多くの現在進行形の虐殺、人権蹂躙などについては、本多氏は口を開く事はない。ましてや、わが国に対して現在進行形の形で行なわれている支那政府による数々の事項にかんしてはなおさらである。
 また、以前に書いた事があるが、本多氏は辻元清美女史との対談でも、またシンポジュウムなどのにおいても「第二次教科書問題」などといって話題にしていますが、これは「進出」を「侵略」に間違えたというそういった事実はなく、マスコミによって捏造されたものであり、それについて謝罪文を掲載したのは産経新聞のみですが、その事をいわずに、「事件」として話題にしています。これなどはその方が支那政府を利するという典型的な例でしょう。


「天皇の軍隊」にみるお笑い
2月19日日曜日くもり ○

 「天皇の軍隊」第一〇章 一八魯西作戦=コレラ作戦
以下引用
 「それは非常に簡単で、五、六人がかりで、一〇分ほどで終わってしまいました」と小島氏は言う。
それは次のような方法だった。まず、土手の上に川と直角になるように一本の線を引く。次に土手の外側に向けて深さ三〇センチほどの溝を掘る。溝の幅はスコップの幅と同じでよい。つまり三〇センチほどだ。雨にうたれ続けた赤土だけに、掘り進むのにさほどの力はいらなかった。そして掘り進んで最後の数センチ幅の残った部分にちょっとだけスコップで傷を入れた。チョロチョロと最初の水が溝を伝い始めると、あとは何の手を下す必要がない。溝の幅は見る見るうちに五〇センチ、一メートル、二メートルと広がってゆく。大水がおどり狂ったように左岸の地面に下っていった。
略)
 平原のかなたに建てられている農家の塀が、一瞬土ぼこりを上げて舞い上がり、あるいは土塀や農家が砂糖菓子に水を注いだ時のように足元からひざを屈する形で倒れていくのが見えるのでー(後略)p236〜7
引用終わり(図はその堤防の構造図)

 小島氏はこの作業が小雨の降る中行われたことを記していますが、よく、建物の解体作業で、ホースで水を散布しながらやっているのは埃をたてないためですが、<「土ぼこり」が舞い上がり>・・・・どういうわけなのでしょう。
また、赤土でできた堤防をわずか一〇分で幅三〇センチ、深さ三〇センチの溝を八メートルの幅の堤防に掘るだけで、その堤防が決壊するのであれば、過去にもう何度も雨の度に決壊しているでしょう。
ところが、そうでないらしく、この本では小島氏は次のように述べたそうです。
 以下引用
 小島氏が再びこの堤防決壊の現場を見たのは、それから一二年後の一九五五(昭和三〇)年のことである。それは皇軍兵士としてではなく、戦犯としてであった。撫順の収容所で小島氏は、このときの様子を「自分の罪状」として中国側にスラスラと述べた。
略)
中国側の先生は『そうですか。小島さん、よく言ってくれました』と握手してくれるんです」
 しかし、小島氏はこのときまで、この事件が一二年後のいまもなおこれほど大きな傷あとを残しているとは考えたこともなかった。中国側は小島氏に、堤防が切られて大洪水がこちらへ向かって来る瞬間の写真を見せた。その場にいた解放軍側の記者が撮ったものだという。もう一枚の写真は、石ころや岩がいっぱいの河原の写真だった。いや、よく見ると、それこそ一二年後に自分たちの手で現出させた大洪水地域の、現在の姿だった。中国人民も石を整理し、少しずつ畑を復旧しているが、まだ作物がほとんど作れない、という説明だ。略)
被害地区は臨清北方九〇キロ余りの鉄道石徳線(石門ー徳県間)を含めて、山東省から河北省に至る部分まで広がっていたとのことである。
引用終わり p238〜9

 すごいです。どうみてもそのような堤防の構造からすると、毎年のように決壊していても不思議ではないのですが、一二年後までその影響が残っている。それも、九〇キロに及ぶ広範囲・・・ちなみに、九〇キロといえば、狭いわが国でも結構な距離です。幅四〇メートルの河川の堤防の決壊でそこまで影響させるとはさすがは日本軍です。すばらしい。ましてや、たった一〇分ほどの工作によってです。
あほらし・・・・

 ところで、私の手許にある「私の従軍中国戦線」という写真集があります。村瀬守保という本多氏、長沼氏が絶賛する<中国での収容所生活で、「皇軍」兵士たちは次第に目覚めていき、この世の中で何が本当に不正であり、何が正しいかを、はっきりと悟る。そして侵略の阻止と日中人民の友好運動に、第二の人生をささげたいと決意するに至った人たち>の集まりである中帰連のひとりであり、中帰連関係の本を多く刊行している日本機関紙出版センターより出された本ですが、この本の中におもしろい記述と写真があります。
 その写真のキャプションには「黄河の堤防を切ったために、一瞬のうちにに大洪水に見舞われた農民」
そして、「大洪水と農民たち」として
以下引用
 臨准関から二〇〇キロばかり西の、寿県付近にさしかかると、あたり一面の大洪水です。見渡すかぎり一面の湖の中に道路だけが続いていて、道端にはようやく非難した農民たちが、わずかばかりの家財をおいて、途方にくれていました。 
 蒋介石が、日本軍の侵攻を妨げるために、黄河の堤防を切ったのだという情報が流れてきましたが、何百万という農民を犠牲にしてそんなことがありうるだろうかと思いました。
引用終わり p77
その他にいろいろな写真が掲載されています。
そして、その後のページにはコレラ発生という写真も掲載されています。
「天皇の軍隊」では石井部隊が飛行機よりばらまいたコレラ菌入りの缶詰めが中国農民にどんな影響を及ぼすかを調べるのが目的として、「衣」師団はこの地方にいっています。ずいぶん、荒っぽいやり方で、なおかつ意味があるとは思えませんが・・・・
私等素人はコレラ菌などばらまかなくとも自然に発生するように思うのですが、どうなのでしょう。現実にソウルあたりでは今の時代でも発生しているし・・・
そんなコレラ菌をばらまいた地域に医者だけが防毒マスクに白衣という格好で、他の大勢の無防備の兵隊がいって何を調査するのでしょう。わけわからん。

 「天皇の軍隊」の時代背景は一九四二年から。「私の従軍中国戦線」は一九三七年から二年半ですので、オーバーラップはしていませんが、片や、十二年後までその被害の爪痕が残る川幅四十メートル位の黄河の支川の堤防決壊です。片や正確な年は書いてませんが黄河の堤防決壊による大洪水。きっと、醜い爪痕がの残っていそうですが、どうなんでしょう。でも、よく自分のやったことを人のせいにする人っているんですよね。

 まあ、本多氏は
<私もそうですが、この記録の共著者たる長沼節夫氏も旧日本軍の体験はない世代ですから、あるいは誤りもあるかもしれません。事実の誤りはどんどんただすべきですが、その場合、批判や訂正は「揚げ足とり」による破壊行為的にではなく、建設的な態度で貫きたいものです。>というスタンスのようですから、大した問題ではないのかもしれません。


北朝鮮はかってバカどもにどのように語られたか


北朝鮮といえば、去年の暮れに『週刊朝日』でマーク・ゲインがこの取材問題を露骨に書きましてね。
これは反共側の立場からのひどい書き方なんで、その後『未来』(未来社の月刊誌)の編集長の松本昌次さんが、 同じく北朝鮮を訪ねた者として反論しているし、松本さんの意見に私も全く賛成なんですが、にもかかわらず、 取材の不自由という事実は厳然として存在する。

本多勝一/小和田次郎対談「報道と取材の自由について」、
すずさわ書店『本多勝一著作集8 ジャーナリズム論』
1975年6月20日発行、1977年11月25日第2刷 

実は、後日談があります。
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北朝鮮といえば、去年(一九七二年)の暮れに『週刊朝日』でマーク・ゲインがこの取材問題を露骨に書きましてね。
これは反共側の立場からのひどい書き方なんで、その後『未来』(未来社の月刊誌)の編集長の松本昌次さんが、 同じく北朝鮮を訪ねた者として反論しているんですが、にもかかわらず、 取材の不自由という事実は厳然として存在する。

朝日文庫版『事実とは何か』
1986年11月25日第5刷収録(p.292)
本多勝一/小和田次郎対談「報道と取材の自由について」
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あれ?「松本さんの意見に私も全く賛成なんですが、」という文章がどこかに消えたように思うのですが・・・・・・


本多が憤るマーク・ゲインの「反共側の立場からのひどい書き方」 ↓。

「私はこの家に住んでいる家族は、まことに風変わりな一家に違いないと考えないではいられなかった。
家の中に衣類が全然見られなかったからである。農場とおなじように、この家もまた外国の旅行者が必ず立ち寄って見学する場所になっているようだった。」




朝鮮半島で行なわれた大戦争によって、米軍を主力とする侵略軍は、直接間接に500万人近い朝鮮人を殺す。
ここで米軍がどんなひどい住民虐殺をやったかは、たとえば北朝鮮に残されている記録映画が克明に伝えている

『殺される側の論理』朝日文庫1982年1月20日
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裏表紙