軍隊と性 ドイツ軍における「慰安婦」

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


平成18年5月24日水曜日晴れのち雷雨 △
 西尾幹二氏が<「慰安婦問題」ドイツの傲岸 日本の脳天気>と題した文を一九九七年一月号の「諸君」に、<「慰安婦問題」朝日論説の詐術を嗤う>と題した文を同じく「諸君」一九九七年四月号に掲載しています。
 その内容はフランツ・ザイドラー「売春・同性愛・自己毀損---ドイツ衛生指導の諸問題一九三九 --- 一九四五年」(一九七七刊)を主に元にしているものです。
 それによると、
 第一次大戦で二〇〇万人の兵士が性病に罹ったドイツは、第二次大戦ではこの経験を生かし、兵士の性をどう誘導し、指導するかという狙いに向けられていた。兵士達の禁欲など最初から不可能とみて、性欲の野放しによる非占領地の住民の婦人たちへの被害、そのための軍の威信に傷がつくなどというものに対しての配慮などは議論の対象にもならなかった。そのためには、町の自由な売春制度の危険をできるだけ少くし、占領地域のあらゆる駐屯地に、国防軍所属の売春宿(Bordell)を開設し、完全管理することとし、一九四二年、ドイツ国防軍は約五〇〇の売春宿を運営していた。これら売春宿の設立、監督、経営維持は、占領各地区の軍司令部の管轄事項であった。決定的に重要視されていたのは売春婦たちの定期検診であり、病気になった娘はすぐに選別され、排除された。取り締まりに当ったのは駐屯地の軍医である。彼らから委託されて、占領地域の医師が各女性を週二度検診したが、ドイツ軍から特別認定され、証明書を交付された医師に隈られていた。外国人医師は宣誓書にサインし、怠慢や違反行為があれば処罰された。


 国防軍管理下の売春宿の経営を難しくしたのは人種間題であるといわれている。当然のことだが、ユダヤ人女性はここから排除された。土官や党幹部が禁を破ってユダヤ人女性と性交すれば、第三帝国の人穫法に基いて死刑であった。しかし相手がユダヤ人だとは分らなかったという言い遁れが可能だったので、一九三九年のワルシャワのホテルの手入れでは、四〇人のドイツ士官の個室から三四人のユダヤ娘が引き出された。ドイツ兵士が町でポーランド女性をはじめとするスラヴ系の人種と交際すると罰せられたが、売春宿で彼女らと性交することは許可されていた。一般に売春宿以外で被占領地の女性と交流を持つことは禁じられていたものの、例外はスカンディナビア諸国とオランダだった。ここでは市民階級の女性との交渉がむしろ推奨された。その結果ノルウエーとオランダではそれぞれ一万人の私生児が生まれた。あらゆる点で西欧と東欧では対応が違っていた。フランスなど西欧では公娼制度が熟成していたので、ドイツ国防軍は軍の専属施設としてこれを利用し、いわゆる女郎屋の女主人に司令官の命令による次のような細かい指示を与えることで運用した。女主人は三十歳以上でなければならない。女主人も従業員もそこで性行為をしてはいけない。来成年者を傭ってはいけない。売春婦として働く全女性の写真付のチェりク・ノートを作成し、入居順に応じた通し番号を記し、氏名、生年月日、現住所等を書いて、要請に応じ、軍医もしくは軍司令官に提示させるものとする。司令官の許可なくして新しい女を無断で傭ってはいけない。売春宿の客となるドイツ兵士は必要な証明書を見せなければ店に入れないこととする。証明書の裏には店の名とパートナーとなる女性の名が明記されていなくてはならない。開業時間は司令官の決定に従う。代償の取り分は女主人と各女性とで半分ずつとする。サドやマゾの目的に用いる器具の製作、所有、貸与は禁じられる。性交には必ず避妊具が使用され、訪間するすべてのドイツ兵にあらかじめ無償で手渡されなくてはならない、等々。
 売春宿の管理権を握っていたのは、ここからも分るように、司令長官か司令部付連絡将校で、まさに国防軍そのものてあった。店には司令長官のスタンプを捺した性病予防警告のポスターが貼り出されていた。そのなかには、使用すべき品として冷温水付ビデ、洗いたてのベッドカヴァー、清潔なタオルまでが指定されていた。
 しかし、他方、旧ソ連地域などの東欧方面には既成施設が利用はできないために「西欧では女郎屋の女主人が売春婦の確保につとめ、その代りに収入の半分を手にした。しかし東方では前線司令官たちが売春婦になる少女たちの獲得につとめなければならなかった。その際、強制処置がしばしば取られた。」
「若い娘で、労働力投入への呼びかけに応じてドイツに行くのはいやだといって拒んだ者は、二者択一として、国防軍売春宿でしばらく勤務する以外にに選択の余地はなかった。ユダヤ女性に対してさえもこの二者択一が提案された。『やるべきことをちゃんとやれば』釈放が保証されるといって強制収容所で募集された女たちが、東部占領地区の売春宿に連れて行かれたか、それとも、ラーヴェンスブリュック強制収容所で売春婦に仕立てられていった女性在監者と同じような運命を辿って、ドイツ国内で使役されるにいたったか、そこははっきりしていない。ただ彼女らが美人で使いものにさえなれば、アーリア人であろうとセム人であろうと、たいして間題ではなかったのだ。」


 一九四一年ドイツはロシアに侵入してから、兵士の性病が激増した。住民の栄養状態が悪く、売春が公認されていない共産主義の国では的確に検診できる有資格の医者もいない。成熟した公娼制度を持つ西欧諸国に比べ、かえって危険であった。南ウクライナでは軍が設営した売春宿が病気の発生源とみられた。何をどうすれば病気の蔓延に効果的に対応できるか、ドイツ国防軍で議論されたが、その議論の中には、非占領地の一般女性に対するドイツ兵の違法行為(強姦等)が少なくなるか、また少なくしようとする軍当局の意志は認められなかった。否、そういう議論があったとしてもたちまち消えてしまったとザイドラーの著書は書いています。
 それだけではなく、一九三五年の軍事刑罰法典では、前線の兵士といえども犯罪を犯せば被害者からの届け出のあるなしに関わりなく、犯罪それ自体として裁かれ罰せられた。それが、一九四〇年十月十日にその条項が抹消された事により、強姦罪は被害者の届け出に基づく親告罪となり、実際に取り上げられる件数は激減した。それにとどまらず、SS裁判所本部が、非占領地区において強姦を犯したドイツ軍人の処罰に当たっては寛大に取り扱うように要請した公文書をこのザイドラーの著書は掲載しているそうです。

 西欧でも東欧でも、占領地におけるドイツ国防軍の売春婦たちは、一度監禁されれば、衛生管理の見地からも自由行動を封じられた。
「すべての売春宿の少女たちは、駐屯地司令官の発行した身分証明書を所持していた。彼女らは売春宿のなかで暮していた。監視なしで宿の外へ出ることは禁じられていた。医療検診、美容院、そして週一度の散歩へ出かけるときにも、途中において『なんらかの信頼に足る同行者』を必要とした。」
 一方、ここを訪れるドイツ兵たちにもさしたる自由はなかったようにみえる。パートナーが決められているほかにも厳しい規制があった。コンドームを使用すること。性交後に病気の予防処置をしてもらうこと。各店には予防処置室があり、暗い中に赤十字のついた青い小さなランプが灯っていたそうだ。
 「第二次大戦の戦争状況の全体性は、国家が性愛の領域をさえもしっかり掴んだ点にあらわれていた。性の秩序というものの全体は個人のタブーに対しては制限を知らない。国防軍の売春宿においては性行為は一つの管理間題だった。売春宿の設立、備品目録、売春婦、お客の割り当て、性病予防処置、等々は書類番号で整理される事柄だった。兵士の一身上の内的領域が、お役所による管理ブログラムの一部であった。兵士が国防軍売春宿に一歩足を踏み入れた瞬間に、規定と態度指導の支配をたっぷり受け入れるほかなかった。性行為の中断も監視された。性的欲望の鎮静でさえもが命令から自由になった空間の中にはなかった。」
 
 いわゆる「強制連行」については、ザイドラーも先に証言していたが、最近出た訳書に次のような言句も存在する。
「連合軍が押収して一九四六年にニュルンベルク裁判に提出されたドイツの記録文書は、恐怖をあおるためにドイツ人征服者が組織的に強姦したことを立証している。ボーランド、ユダヤ、ロシアの女たちが強姦され、多くの場合、むごたらしく殺された。情容赦なく何百人もの少女や女性が迫害され、軍用娼家へ追い込まれ、そこで強制売春に使役された。いわゆる『慰安勤務』である。それが管理的に行われた大量殺人の前段階だったこともしばしばだった。」
(ヘルケ・ザンダー/バーバラ・ヨール『一九四五年ベルリン解放の真実』現代書館)

 何度か書きましたが、兵士は生身の人間です。そのために、兵士の性的欲求をどうするか、それぞれの国がそのためのシステムをとっています。それは現在でも同様です。
 我が国の大東亜戦争時における慰安婦というものとの違いはあれど、何処の国の軍隊にも、兵士の性的欲求に応えるためのそのそのような仕組みはあったのです。
 今回、書きました第二次世界大戦におけるドイツにおける慰安婦もその一例です。

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