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朴正煕     

「朴正煕 選集」−我々は今何をいかになすべきか−  

わが五千年の歴史は、一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の歴史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢で以って民族国家の威勢を誇示したことがあり 、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかったし、せいぜい同胞相争のため安らかな日がなかっただけで、姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図にすぎなかった。
第一にわれわれの歴史は始めから終わりまで他人に押され、それに寄りかかって生きてきた歴史である。大韓帝国が終幕を告げるまで、 この国の歴史は平安な日がなく外国勢力の弾圧と征服の反覆のもとに、 かろうじて生活とはいえない生存を延長してきた。

ところが、嘆かわしいことは、このながい受難の歴程のなかでただの一度も形勢を逆転させ、外へ進み出て国家の実力を示した事がないということである。
そして、このような侵略は半島の地域的な運命とか、われわれの力不足のため起こったのではなく、 ほとんどがわれわれが招き入れたようなものとなっている。
また、外圧に対してわれわれが一致して抵抗したことがなかったわけではないが、多くの場合、敵と内通したり浮動したりする連中が見受けられるのであった。

自らを弱者とみなし、他を強大視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自首や発展は期待することはできないであろう。
第二に、われわれの党争にかんすることである。
これは世界でもまれなほど小児病的で醜いものである。
第三に、われわれは自主、主体意識が不足していた。
われわれの波乱多き歴史の陰になって固定されることのなかった 文化、政治、社会はついに「我々のもの」を失い、代わりに「よそもの」を仰ぎ見るようになり、それに迎合する民族性に陥らせてしまった。
「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
第四に、経済の向上に少しも創意的な意欲がなかったということである。
われわれが眠っている間に世界各国はいち早く自国の経済向上のため 目覚しい活動を展開していた。しかし、われわれは海外進出は念頭におかず、 せいぜい座ってワラを編んでいただけではなかったか。
高麗磁器などがやっと民族文化として残っているのみである。
それもかろうじて貴族の趣味にとどまっているだけであった。
しかし、これも途中から命脈が切れてしまったのだから嘆かわしいことである。
以上のように、わが民族史を考察してみると情けないというほかない。もちろん ある一時代には世宗大王、李忠武公のような万古の聖君、聖雄もいたけれども、全体的に願みるとただあ然とするだけで真っ暗になるばかりである。われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあってもこの歴史を全体的に改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史はむしろ燃やしてしかるべきである。
                 

     「朴正煕 選集 2国家・民族・私」−我々は今何をいかになすべきか− より抜粋 


【中曽根康弘と福田和也との対談】
韓国の朴正煕大統領がこんな話をしてくれました。
彼の周囲にいるかつて軍人だったような威勢のいい連中は、 酒に酔ってくると「日本はけしからん」と言いだす。
それに対して朴大統領は「まあ、待て」となだめながら自らの歩みを語る。
朴大統領は貧農の出身で、教育を受けたいと思いながら、 とても無理だろうとあきらめていた。
ところが日本がその統治下で義務教育制を敷いたことで、 朴少年も学校に通うことができた。
また満州軍官学校を首席で卒業した彼は、その特典で日本の陸軍士官学校に留学し、卒業します。
日本は朴少年のような存在にそうした機会を与えた。

「日本人は名前を変えろとか生意気なこともやったけれど、 私はおおむね彼らは公平にやったと思う」
と朴大統領は述懐していたわけです。
(2000年1月4日付『産経』、「新春正論対談」)



【日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話】

親愛なる在日僑胞の皆さん!
 現在60万人以上と推算されている在日同胞のこれまでの苦労がどれくらいつらかったことかを,私は誰よりもよく知っています。
 在日僑胞のその苦労の原因をたどってみると,ひとえにそれは本国政府の責任となる他ありません。
 したがって,これまでに在日僑胞の一部が共産主義者の使嗾に駆り立てられその系列に加担するようになったのも,実は大部分本国政府が在日同胞をより暖く,より徹底して保護できなかった責任であるといえます。
 これより本国政府は皆さまの安全と自由について,より積極的に努力して可能な最大限に皆様の生活を保護するつもりであります。
 これとあわせて私は,一時的な過誤で朝鮮総連系に加担した同胞たちの一切の前過を不問に付して,本国政府の保護下に立ち戻ることを希望します。
 政府は最大限に彼らを暖く迎え,一つの血筋を引いた同胞として,韓国民として保護するでありましょう。
 そうして私は,日本の空の下で韓国同胞たちが再び分裂して相剋することなく,暖い同胞愛の紐帯の中で互いに和睦して親近となり,また幸福な生活を営なむことを希望してやみません。
 これとともに私は,これまで分別なく故国をすてて日本に密入国しようとして抑留され,祖国のあるべき国民になれなかった同胞に対しても,この機会に新しい韓国民として前非を問わないことをあわせて明らかにしておこうと思います。
 再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望しながら,今日からわれわれは新しい気持と新しい心構えで,栄えあるわが祖国を建設する働き手とならんことを,訴えてやみません。

朴 正煕

1917(大正6)年9月30日生1979(昭和54)年10月26日没
慶尚北道亀尾出身 韓国の軍人 政治家
1937(昭和12)年 大邱師範学校卒  小学校教師となる
1942(昭和17)年 満州・新京軍官学校首席卒業
「高木正雄」少尉として日本の陸軍士官学校に派遣留学
1944(昭和19)年 日本陸軍士官学校を卒業(卒業成績3番) 関東軍に編入
1945(昭和20)年8月 北京郊外の駐屯地で終戦を迎える 終戦時、満州軍歩兵第八団の団長副官 満州国陸軍中尉
1946(昭和21)年5月 韓国に帰還 1946(昭和21)年 韓国警備士官学校(2期)卒
韓国陸軍情報局第一課長 第五師団長
1953(昭和28)年 少将 1957(昭和32)年 韓国陸軍大学校卒
1961(昭和36)年5月16日 第2軍副司令官としてクーデタを指導
 国家再建最高会議副議長  7月 国家再建最高会議議長
 11月 大将に昇進
1962(昭和37)年3月22日 大統領辞任  大統領権限代行
1963(昭和38)年 予備役編入 1963(昭和38)年 民主共和党総裁
 12月17日〜1979(昭和54)年10月26日 大統領 セマウル運動を推進
1965(昭和40)年 日韓条約締結 1972(昭和47)年 南北共同声明
1972(昭和47)年10月17日 維新革命 1974(昭和49)年8月15日 文世光事件
 暗殺未遂  陸英修夫人を失う
1979(昭和54)年10月26日 10・26事件  ソウルのKCIA幹部食堂で金戴圭(金載圭)KCIA(韓国中央情報部)部長により射殺される


    朴正煕  韓国大統(元大日本帝国陸軍将校)

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