大東亜戦争当時のアメリカ人(白人)の対日本人感

文責はすべて、酒たまねぎや店主の木下隆義にございます


米国人の日本人の遺骨に対する扱い

平成22年11月24日水曜日晴れ△

 下記は一部今まで日記に書いた箇所と重複いたしますことをご了承下さい。

  映画「硫黄島からの手紙」の中に、昭和七年ロスアンゼルスオリンピック馬術大障害飛越競技にて金メダリスト(オリンピック史上、馬術で我が国唯一のメダリスト)であるバロン西こと西竹一中佐(戦死後大佐)が負傷したアメリカ兵の手当てを部下に命じる場面と、アメリカ兵による降伏した日本兵を銃殺する場面までこの映画の中にあります。昨年、日記にも少し書きましたがロシア軍はもちろん、アメリカ軍、オーストラリア軍、オランダ軍、支那軍などの連合国は多くの捕虜虐殺をやっています。もちろん、日本軍も同様ですが、どういうわけか我が国の先人だけを責める日本人が多い。

 ちなみに、映画でも描かれていますが西中佐が肌身離さず持っていた愛馬ウラヌスの鬣は後に一九九〇年になってアメリカで発見され、返還されたそうです。

 何振りもの名刀が戦後のドサクサに米国軍人により接収という名の強奪、強盗に遭いました。アメリカ軍の戦利品あさりでありますが、このぐらいならまだかわいいもので、「SAPIO」の九月二十九日号にて「アメリカを彷徨う 旧日本兵の遺骨」と題された在米ジャーナリストである武末幸繁氏の記事がありました。

 アメリカにおいて大東亜戦争中の我が軍の兵士の遺骨がトロフィースカルとして扱われているという記事です。

 

<しかし、人の頭蓋骨や遺体の一部を持ち帰った米兵がいることは驚かざるを得ない>

P七十七

と、武末氏は書いているが、近代、白人がやってきた事を考えれば容易に想像がつく事です。

 この記事に掲載されている写真と記事はネットですぐに見つかります。

 

「Trophy skull Jap」と検索すると一番上に下記のページが出てくる。

http://www.bangordailynews.com/story/Greater-Bangor/Japanese-trophy-skull-finally-returning-home,152313

「Japanese trophy skull finally returning home 」となっている。

   

 そして記事には、words “1945 Jap Skull Okinawa”とその頭蓋骨に刻まれていた事が書かれている。

 メイン州ホールデンにて銃や軍用品を売買するラルフ・マクラウド(Ralph McLeod)氏は二〇〇五年6月に発見し、日本に返すべきだと同業者から五十ドルで購入して、日本大使館に連絡した。

(その後我が国に返還されたはずとサピオの記事は書いています。)

 同様にこのサピオの記事に掲載された

 カリフォルニア大学バークレー校に日本兵の頭蓋骨が同大学博物館に収蔵されたままということで、これは、国際法に反する、ということで、日本に返還すべきだ、という記事。

Japanese war dead skulls at UC museum

http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2009/08/15/MNPK195PD6.DTL

 

 また、サピオには日本兵の頭蓋骨で遊んでいるマクファーソン中尉

 アメリカ海軍魚雷艇三十四の甲板にて

 米兵が日本兵の頭部を煮ている写真

 その頭蓋骨は一体につき三十五ドルで販売されていた。(一九四四年)

 などが掲載されているが、これらの旧日本帝国軍人の御遺骨はどのようにアメリカ軍に扱われたか。

 有名なのは日本兵の頭蓋骨を送ってくれた米兵に礼状を書くガールフレンドの写真として、ライフの昭和十九年(一九四四年)五月二二日号に掲載された写真だと思います。

"This is a good Jap - a dead one picked up on the New Guinea beach." Natalie, surprised at the gift, named it Tojo.

 ナタリーというこの女性に対し、

<「これは状態の良いジャップです。ニューギニアビーチで死んだのを切り取ってきました」

 サプライズな贈り物にナタリーは、それを『東条』と命名しました。>

というような記事です。

 写真はそのバカ女と旧日本帝国軍人の頭蓋骨。

  

 その他にも、Wikipediaには「American mutilation of Japanese war dead」として

http://en.wikipedia.org/wiki/American_mutilation_of_Japanese_war_dead

 

 ここにはSAPIOに掲載されていた写真以外にもいろいろな写真が掲載されている。

記事にも多くのアメリカ軍の我が軍兵士に対しての醜い行為の証言が書かれている。

1945 image of a Japanese soldier's decapitated head hung on a tree branch, presumably by American soldiers

 

  

 

Front line warning sign using a Japanese soldier's skull on

 

 

 他にも、ネットでいろいろな写真を見つける事ができる。

  

  

現在でも、ネットにて「日本人兵士の下顎の骨」として売られているページを見つける事ができる。

Headhunting Trophy Head - WWII Japanese Jaw - Gong Handle

$380.00

http://www.collectorsdeck.com/index.php?main_page=product_info&cPath=92&products_id=99

続く

 今日の築地本願寺の蓮。 日刊ゲンダイ。今日ぐらい小沢関連ネタをやめればいいと思うが。

  

 今日は予約もないしヒマやろうなと思っていたら、

 Yさん、Hさん、Nさん来店。

 Nさん来店。

 二名様来店。

 小胡子さん来店。

 ホロン部員Yさん来店。

 ドンチャン。

 記憶あり。サルよりマシ。

米国人の日本人の遺骨に対する扱い

11月26日金曜日曇り一時雨 △

 過去に書きましたが、他にも多くの日本兵の頭蓋骨トロフィーの事例が出てきます。

 このサピオの記事に書かれているようなことは私の手元の本に書かれています。

一部重複する事をご了承ください。

駆逐艦キッドの戦友会にて

 以下引用

「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」

「どういう意味ですか?」

「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。

この老人は私の顔を見ながら言った。

「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。

 この男は、当時機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港した一ヶ月後だった。体当たりを受けてから二ヶ月以上後のことであった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。

 戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。

その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。

略)

日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。

実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。

ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。

 この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大学に実際に問い合わせたことがあると言う。

大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。しかし、博物館はそれを拒んだ。>

引用終わり

「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) p二百五十一〜二百五十二

<キッド(駆逐艦)は日本機を一機撃墜した。パイロットは落下傘で機内から脱出したが、キッドがそのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時にはすでに死亡していた。血気にはやる数人の乗組員たちは日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首をはねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品をつくった者もいた。

 バーンハウスは艦長とともにこの非道な行為を止めた。後日、このパイロットの遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた>

「特攻パイロットを探せ」(平義克己著 扶桑社 平成十七年刊) P六七

 連合国軍の捕虜虐殺については有名なリンドバーグの日記にも書かれています。下記の「 」内の引用文はリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、私の手元にある「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)よりの引用ですので文章は米田氏が要約・抜粋したものです。

 これについて米田氏は第二次大戦に対してアメリカ参戦を反対していたリンドバークは昭和一九年になって南太平洋の戦場視察と慰問を許される。そこで、「アメリカ人が文明人であることを主張せねばならぬ理由がなくなる」ような、米軍兵士の日本兵捕虜に対する数々の蛮行を見聞することとなったと書かれています。

 「日本兵士殺害に関する将軍の話−−−−実戦参加経験がないまま帰国する軍曹が、せめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。

 偵察隊に捕らえられた一人の日本兵捕虜が軍曹の前に引き立てられた。軍曹は言った。

 『俺にはこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ』

 『ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ』

 偵察隊の一人がそういうと、日本兵に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めたとたんに、日本兵の頭部に腕が巻つき、喉元が一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた。

 このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた」

(リンドバーグ日記六月二一日)

「小屋の壁のひとつに、絹地の日本の国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品として一〇ポンド(三三ドル)の値打ちがあると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は二五〇ポンドなら譲ってもよいといった」

(リンドバーグ日記六月二一日)

 「将校の話によれば、穴の中の遺体をブルドーザーにかける前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、耳や鼻を切り落とされている日本兵の遺体を幾つも見たとも言った。『兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取りあげねばなりませんでした』。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ」

(同九月九日)

 先日、下記のような記事がありました。

<硫黄島で51人の遺骨収集=政府チーム―旧日本兵、集団埋葬の可能性

時事通信2010年10月22日(金)19時56分配信

 硫黄島で戦死した旧日本兵の遺骨収集を進める政府の特命チーム(リーダー・阿久津幸彦内閣府政務官)は22日、首相官邸で第3回会合を開き、51人分の遺骨を島内2カ所で発見したことを報告した。計2200人が集団で埋葬されている可能性があるという。

 同チームの調査団は7日から同島を訪れ、旧日本兵が集団で埋葬されているとみられる2カ所で遺骨の収集に当たった。>

 二千二百人が集団で埋葬とはどういうことか。

 これは、米軍が我が軍兵士の遺体をどのような扱いをしたかを考えれば、自ずと答えは導き出されます。

 リンドバーグは下記のように日記に残しています。

 「われわれがもし日本兵の歯をもぎとったり、ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、さらった土をかぶせてやったりする代わりに、人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。ブルドーザーで片付けたあとは墓標も樹てずに、こう言うのである。『これが黄色い奴らを始末するたった一つの手さ』と」(七月二一日)

 「山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の中には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾でできた穴に投げ込んだうえ、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる」(七月二四日)

 ブルドーザーで遺体を片付け、その上に残飯、廃物を放り込む。

 そのような箇所が何カ所もあったのです。

 決して、整然並べ、遺体を処理したわけではない。

 そして、捕虜に関して下記のような記述もある。

 「ニューギニアの密林を越えて、ホーランディア飛行場周辺に日本空軍の残骸が散乱していた。着陸後、将校連と会議。談たまたま日本兵捕虜の数が少ないという点に及ぶ。

 『捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることができる』

 と将校の一人が答えた。

 『ところがわが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ』

 『(原文伏字)では二〇〇〇人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった一〇〇人か二〇〇人だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう』

 『あるいは両手を挙げて出てきたのに撃ち殺されたのではね』

と、別の将校が調子を合わせる」

 ホーランディア攻略戦で敗れて捕虜となった日本軍人の大多数は、機関銃の乱射で殺されたのである。

 「我が軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが大平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」(七月一三日)

 「安全でかなり贅沢な将校クラブに座しながら、これらの日本軍を『黄色い奴ばら』と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けねばならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、惨たらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えはまったく無い」(七月二一日)

 「私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。あの焼け爛れた地域の地表下に極限の苦悶隠されているのだ

  飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとしない。なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、射殺するであろうことは火を見るよりも明らかだから」(七月二一日)

(以上は先に書きましたようにリンドバーグ日記よりの直接の引用では無く、「日本の反論」米田健三著 p百六十一〜百六十五よりの引用)

 そして、米田氏はこうも書かれています。

<第二次大戦におけるソ連軍の蛮行は周知の事実だが、米軍については極めて人道的であったがごときイメージが長い間流布されてきた。記録映画などに登場する日本占領前後の米軍将校のほとんどが、降伏した日本軍兵士や民間人に食糧を支給し、医療を施す善良な姿で映っている。だから、「鬼畜米英という教育はまちがいだった。玉砕は犬死にだった。文明国の軍隊はあんなにも寛大だったのだ」という論理がまかり通ってきた。しかし、前線の諸記録に垣間見られるのは、むしろ日本人が軍民を問わず玉砕を選ばざるをえなかった米軍の残虐さである>(同書p百六十一〜百六十二)

 「敗北を抱きしめて」などの著書で有名なジョン・ダワーもその著書「容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別」(平凡社ライブラリー)に書いています。

 「大平洋地域担当の従軍記者エドガー・ジョーンズが、四六年の『アトランティック・マンスリー』誌に書いている『われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機関銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ』。ジョーンズはさらに、標的の日本兵がすぐに死ぬことがないように、火炎放射機の炎を調整するというような行為にまで言及している」

「一九四二年の末に出版されベストセラーとなった『ガダルカナル日記』のなかで、ジャーナリストのリチャード・トレガスキスは、日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士たちの会話を挿入している。『ジャップは金歯をたくさん入れてるんだってな。それをいただいてネックレスでも作るかな』と一人がいう。『おれは奴らの耳を持って帰るよ』ともう一人が宣言する」

「リンドバーグがついに大平洋諸島を離れ、ハワイで税関検査を受けたときには、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。それは決まりきった質問だと言われたという」

 

 沖縄戦でも、南太平洋戦線と同様の米兵による悪行が繰り広げられた。アメリカの作家、ジョージ・ファイファーが、取材開始から出版まで八年の歳月を費やした労作、『天王山 沖縄戦と原子爆弾』(早川書房)で、「アメリカ軍の残虐行為」という項目を設けて明らかにしている。 

 「野蛮な人間もいた。日本人の歯で作った腕輪は、彼らの歯を抜き取らなくては作れない」

 「ある機関銃分隊は急造の小さなパイプを持って歩き回っていたが、それは日本兵の死体の口に彼らの尿を流し込むのに使われた」

以上

「日本の反論」(米田健三著 並木書房 平成十六年刊)(p一六六〜一六九)

「特攻パイロットを探せ」平義克己著 扶桑社 平成一六年刊)p二百五十一〜二百五十二 

 これが人道的とされてきたアメリカの姿です。アメリカ国内においては大東亜戦争中も人種差別が合法でした。公立の学校においてさえ、人種差別が憲法違反とされたのは一九五三年のことです。軍隊においては別々に従事させていました。

 バンブーさん来店。

 MIKAさん四名様で来店。

 初めてのお客様Tさん二名様で来店。

 Mさん、Kさん来店。

 ナベちゃん来店。

 福岡のTさんの御紹介ということで、二名様来店。

 Tさん来店。

 ドンチャン。

 珍しく記憶あり。

 でも、洗い物はする元気もなく、そのまま・・・・・

 


 

 

平成18年1月7日土曜日晴れ 寒い
 「特攻パイロットを探せ」(平義克己著扶桑社刊)には下記のような文章があります。
著者が米国国立公文書保管所で、大東亜戦争時の米軍書類より、資料を探していた時の事を書いています。
以下引用
 
当時、アメリカ軍は、日本とだけではなく、またナチスドイツとも交戦していた。ドイツ降伏一ヶ月前の事である。ドイツ海軍とは北大西洋で、特にドイツ潜水艦と熾烈な戦いを行った。書類の中にドイツ海軍の話も時折でてきた。ドイツ軍の呼称は、そのままGermansであるが、日本軍の総称はほとんどJapsであった。稀ではあるが、JapaneseとかJapanとか記述してあるものもあった。これは、その当時のアメリカの一般的な感情、意向、傾向を表していた。アメリカ政府、軍部は一貫したポリシーとして当時、日本、日本人を人間以下の動物として蔑視し、それを事実として国民に植え付けていった。反対に自分たちの多くがドイツから移民してきた仲間であることも手伝って、ドイツに対してのそのような政策はなかった。この違いが、報告書などの書き方にも現れている。単に敵に対する増悪だったと言えば、そうとも考えられないことはないが、戦争が終わって六十年近くにもなっいまだに、Japsという呼び方が正式なものだと信じている老人もいる。p192〜3
引用終わり

駆逐艦キッドの戦友会にて
 以下引用
「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」
「どういう意味ですか?」
「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。
この老人は私の顔を見ながら言った。
「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。
 この男は、当時機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港した一ヶ月後だった。体当たりを受けてから二ヶ月以上後のことであった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったという。
 戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に持ち帰った。しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれるよう依頼したそうである。
その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は、以前からあった。しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。
略)
日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。キッドでこのようなことが起きても不思議ではなかった。
実際、キッドが体当たりを受けた以前に、ある時死亡した日本兵を海から引きあげたことがあった。
ある水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったという話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。
 この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大学に実際に問い合わせたことがあると言う。
大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。しかし、博物館はそれを拒んだ。この一件はまだ未解決であり、将来的に答えがでるかどうかもわかっていない。私はできれば、この頭蓋骨を探しだしたいと思っている。

引用終わり p251〜2

 のちに、駆逐艦キッドへ体当たりした矢口重寿中尉(のちに少佐に特進)の追悼式をキッド戦友会の催しの一部としてできないかという話が、アメリカ人弁護士から持ち上がったときに、キッド戦友会だけでなく、キッド博物館理事会からも拒絶されたことについて、著者は
 以下引用
 
私見ではあるが、アメリカ人は普通自分たちが完全勝利した相手には寛大である。しかし、キッドへの体当たり攻撃に関していえば、最終的には戦争に勝利したが、この戦闘には負けたのである。だからいつまでも恨みを持ち続けるのではないだろうか。私の三十年以上のアメリカでの生活で得た印象によると、アメリカ人は勝てばGracious Winner(偉大な勝者)にはなれるが、負けた場合はSore Loser(不快な敗者)になりがちである。今回もその例のひとつではないだろうか。私の口の中にいやな後味を残した結果となった。
引用終わり p285

 私はこの著者の言葉に大東亜戦争当時のアメリカ人というか白人の日本人に対しての感情がよく表れていると思います。そして、それが戦中、戦後の捕虜の扱い、戦後の戦犯裁判という復讐の結果に潜んでいるものと思います。当時は合法として軍隊内においても歴然とした黒人に対しての差別はありました。海軍の写真に黒人が写っている事が少ないのはそうした理由に寄るものです。
ただ、同じキッドの乗組員にもビル・バーンハウス氏のように
「私は、このパイロットは英雄だと思う。自分の国のために、そして家族のために生命を投げ出したヒーローが、名前もわからず忘れられていくことは悲しいことだと思う」p74
という人もいます。

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